2022年3月31日木曜日
エイプリルフール
うちらの親世代は、ちゃんとした会社の勤め人で、まじめに働いていれば、部長、最低でも課長ぐらいになれた、という感覚だったと思うんですが、それって、実は会社自体が成長して大きくなってたから、そのぶんポストの数自体が多かったから、とも言えませんか?いま、正規非正規の格差が開いて、大企業の正規社員でも人並みの暮らしをするのに汲々としている、というイメージがありますが、それって、単純にこの30年日本経済が成長してなくて、ふつーにやってれば昇進できるっていう時代じゃなくなった、てこともありそうですよね。それを抜きにして、オトウサン世代から、近頃のワカモノは、とばかり言われるのは、ちょっと違うのかな、とも思います。しかも、そういうオトウサン世代、そしてそれを支えてきたオカアサン世代の社会保障費のために、我々やその子孫の世代が、莫大な借金を負わされている、という構図、おおまかに考えても、ちょっと無理ゲーな感じがしますよね。現に、医療・福祉の分野に人が集まるのも、そこにあり余る需要があるからで、単純に食いっぱぐれないからですよね?特に、医者は、ガチガチの規制で守られているから、ほとんど特権階級のようですが、福祉は、それこそ足元見られて、悲惨な待遇を受けている、というのは偏見かも知れませんが、そういう話はよく聞きますよね?しかも、この高齢者優遇システムが、選挙という仕組みでは、改善されるどころか、むしろ強化されている。なぜなら、単純に高齢者のほうが数が多いし、投票率も若年者よりも高いから。そうなれば、政治だって高齢者にキビシクはなれない。政治家は当選してナンボですから。
外は雨
ピガオニカ スプキガマナジョッコドゥン。雨が降ると、湿気が多くなりますね。季節の移ろいを感じます。ふと気づいたけど、湿気が増えたせいか、目が少し楽です。ドライアイなので。放送大学の中国史の教科書に書いてありましたが、寒冷化は、乾燥を意味する、とのこと。地球温暖化の弊害ばかりが言われていて、気温が下がることがいいこと、みたいに思いがちですが、確かに、冬は空気が乾燥しますね。何でもかんでも気温が下がればいいってもんじゃないらしい。それはそうと、冬の間は、ちょっと食べ過ぎても、どうせコート羽織るからってことで、つい食べ過ぎてしまって、体重も増えてしまいますが、春になって薄着になると、ボディーラインがわかる服装になると、焦りますね。冬の間に増えた体重減らさないと。(^^; それとも、冬の間はなるべく食べて寝るっていう動物的本能もあるんですかね?そんな気もします。
2022年3月28日月曜日
ファミリーヒストリー
前川清の先祖が、長崎の隠れキリシタンで、前川清自身、ホーリーネームを持ってるそうなんだが、前川清の母親が、晩年、大阪に住んでいて、息子に、何かというとカネをくれ、と言っていたそうだ。理由は、貧しい家庭に惜しげもなく施しをしてしまうからだそうで、母親の葬儀には、大勢の人が集まったとか。で、ふと思ったんだけど、基本的に近代以前の宗教ってのは、カネがあれば施してやれ、というのがスタンダード。仏教もそうだし、イスラム教もそう。ところが、蓄財を正当化したのがプロテスタントってのは有名だし、所有権をたぶん最初に正当化したのは、ジョン・ロック。で、所有権を否定したのが、ルソー。所有権を強制的に否定すると、共産主義国になっちゃうんだけど、現代の民主主義国家ならば、当然に法律上の権利として認められている私有財産権も、実は人類の歴史の上では、つい最近認められたものと言えるかも知れない。
2022年3月25日金曜日
球春到来
やっぱ野球だよなあー
ヤクルト大逆転勝利。
阪神ごめん。
藤浪が復調したのは一野球ファンとして嬉しいけど。
なんかヤクルトは、去年の熾烈を極めたオリックスとの頂上決戦を経て、チームそのものの勝ちクセがついた感じがするね。
高津マジック!
やっぱ日本の最高のエンタメは、野球だよ。
2022年3月24日木曜日
ISバランスと経常収支
経済全体としてのISバランスとは、国民経済計算の蓄積勘定に記録される国内資本形成(投資)と貯蓄との差額のこと。それは(-1)×経常収支に等しく、したがって外貨準備増減を含めた資本収支に等しい。他方、部門別に見たISバランスとは、ある部門の資本形成(投資)とその部門の貯蓄との差額である。資本形成が貯蓄を超過する部門は、貯蓄不足部門あるいは投資超過部門と呼ばれ、資本形成を行うために不足する資金を調達しなければならない部門である。逆に、貯蓄が資本形成を超過する部門は、貯蓄過剰部門あるいは投資不足部門と呼ばれ、蓄積資金の供給部門である。 有斐閣経済辞典第5版
質問: 今般の衆議院選挙の結果を受けて、安倍政権の経済政策が信任され、結果、日銀が緩和を継続すれば、世界経済への流動性供給の源であり続けることになり、特に、金利上昇の影響を受けやすいアジアの新興市場に日本発の流動性が流れ込むだろうという指摘もあります。 ここで、松原隆一郎先生は、「経常収支と金融収支は一致する」と書いておられるわけですが、実際に物(ブツ)が輸出入される、という実物経済と、例えば日銀が金融緩和で世界にマネーを垂れ流して世界の利上げ傾向に逆行する、という国際金融の話を、同じ土俵で括るのが適切なのか、という疑問が生じました。 回答:経常収支は一国で実物取引が完結せず輸出入に差があることを表現する項目です。日本のようにそれが黒字である(輸出が輸入よりも大きい)のは商品が外国に売れて、外国に競り勝って良いことのように見えるかもしれませんが、別の見方をすれば国内で買われず売れ残ったものを外国に引き取ってもらったとも言えます。国内では生産しカネが所得として分配されていて購買力となっているのに全額使われなかったのですから、その分は貯蓄となっています。つまり実物を純輸出しているとは、同時に国内で使われなかった貯蓄も海外で使わねばならないことを意味しているのです。こちらが金融収支なので、「経常収支と金融収支が一致する」のは同じことの裏表に過ぎません。 そこでご質問は、「日銀が国債を直接引き受けたりして金融緩和し続けている。このことは経常収支・金融収支とどう関係があるのか?」ということになろうかと思われます。けれども日銀はバランスシートというストックのやりとりをしており経常収支・金融収支はフローのやりとりなので、概念としては次元が異なります(「スピード」と「距離」に相当)。すなわち、金融収支はフローであり、日銀の金融緩和はストックなので、同じ水準では扱えないのです(スピードに距離を足すことはできない)。 しかしストックとフローにも影響関係はあるのではないかという考え方も確かにあり、そもそも一国内に限ってそれを金融資産の需給(ストック)と財の需給(フロー)が金利で結ばれるという考え方を示したのがケインズの『雇用・利子・貨幣の一般理論』でした。とすればその国際経済版が成り立つのかは重要な問題ではあります。この論点は多くの研究者が気になるようで、奥田宏司「経常収支,財政収支の基本的な把握」www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/Vol.26-2/09_Okuda.pdf が論じています。参考にしてください。
2022年3月21日月曜日
円安⇒経常収支赤字⇒円安のスパイラル
ちょっともう日本経済はヤバいかも。今朝の日経新聞1面に載ってたけど、ウクライナ侵攻のような事態でも、有事の円買いが起こらない。円安が経常収支赤字を招き、それが更なる円安を招来する。超金融緩和は財政規律を緩ませ、利払い費がかさむために、泥沼の金融緩和から脱出することもできない。財政赤字と経常収支赤字が定着すれば、国債を発行するのに、海外からの資金を必要とする。そうなれば、当然今までのような低金利は続けられない。利口なやつは、もう日本を見捨てて、海外へ逃避しているだろう。https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX
文系軽視の弊害
三橋みたいな詐欺師のいうことを信じる人がこれだけいるってのは、経済学の知識の問題っていうより、政府とはそもそも何なのか?ということを、大学レベルでも、法学部政治学科でもない限りちゃんと教えないのが原因なんじゃないかな?かくいう自分も放送大学で山岡龍一先生に社会契約論を叩き込まれる前までは全然知らなかったけど、日本の教育における文系軽視の潮流が強すぎて、政治哲学の基礎的なことがほとんど教えられてない弊害が、三橋みたいな詐欺師を生み出していると思われる。三橋を信じてる人は、そもそも政府とは国民とは完全に別個に存在していて、政府が滅びようが知ったこっちゃないし、うちらには所詮なんの関係もないことだし、政府が紙幣さえ発行できればそれでどうにかなる、とでも思っているんだろう。その無責任な発想は、経済学の知識の問題ではなく、政治学の知識の貧困に由来すると思われる。
2022年3月20日日曜日
零度の社会ー詐欺と贈与の社会学 世界思想社
現代社会批判を贈与論で展開するには、既に荻野昌弘先生の「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」(世界思想社)が秀逸に論じているところと思われます。
それをうまく組み込めれば、現代社会批判としてスッキリとしたものに出来ると思われます。と、申しますのは、もし現実社会が完全にアドルノの主張通りならば、社会はとうの昔に崩壊していると思われるからです。
そうならないのは、ある種の詐欺が常に起こっているからではないか?
詐欺という言葉でなくとも、これは去年だったか一昨年だったか、茨城大学で行われた「ビジネスと経済学」(田中泉先生)の授業で伺った話ですが、例えば、マクドナルドで、本当はドリンクだけ飲みたいのに、ついついセットを頼んでしまうように、価格設定がされてたり、あういは別の例では、あるオイスター料理店で、売り上げを増やすために、敢えて通常メニューよりも高価格な商品を並べることで、通常メニューを心理的に安いと感じさせる手口など、消費者の心理を利用した「詐欺」が、日常的に行われているからこそ、経済社会が成り立つ、とも考えられるのです。
2022年3月18日金曜日
ロイター素晴らしい
対外純資産残高とは:対外資産負債残高が資産>負債の場合の差引資産残高。債権国=先進国のパターン。開発途上国の経済成長が進み,経常収支黒字が定着すると資産・負債が均衡し,債務国を脱出して先進国入りすることになる。純資産が多額の場合が債権大国である。(有斐閣経済辞典第4版)
https://jp.reuters.com/article/japan-china-export-idJPKBN2KK072
2022年3月16日水曜日
添削10
第4章 物象化を超えて――3つの試み
⑴ デリダの贈与論――「遅延」による「交換」の不成立
小林君はデリダの贈与論を「イサク奉献」へ焦点化して使っていましたが、メールの「付記」にもあったように、「神」という「超越者-絶対的他者」の問題を持ち出すと複雑化を免れない――「イサク奉献」そのものはもとより、デリダの解釈をめぐっても論議は尽きないようです。逆に、「イサク奉献」においてこそ、「予見不可能」な「出来事」をめぐる「他なる者」に対する「開け」を正面から論じることができる、ということになるのでしょうが、「死」の「贈与」は、「贈与と交換」の主題としては少し特殊であるように思えてなりません。(イサクを捧げたアブラハム自身の苦悩が「自己供犠」を意味しているのでは。アブラハムの「犠牲」は神からの「報い」を得て「エコノミー」に回収されるように見えるが、しかし、アブラハムに神が理解できず価値の共有がなされない以上、等価交換は神の側にしか成り立たない――この「犠牲のエコノミー」には「非エコノミー」が抱え込まれている。etc.)
そこで、資本主義経済の原理とも言える「等価交換」に対して、モースの贈与論に始まる「贈与」の論の系譜を辿り直して厳密化し、「資本主義」の「交換経済」を超えようとしたデリダの「贈与論」一般を以て、資本主義――物象化の呪縛からの解放の道筋を辿ってみるのはどうか、と思うのですが。
・厳密な意味での「贈与」の追究――徹底した「交換」の否定
「贈与」は「互酬」的な「贈与交換」はもとより、たとえ一方的な「贈与」であっても
「 そう認識されただけで破棄されている(←「現前」の形而上学を解体しようとするデリダ)
➡「贈与」は贈る側にも贈られる側にも「現れないもの」としての在るべき「絶対的な忘却」
・「差延=空間的な「差」と時間的な「遅延」」から生み出される<終わりなき遅延>の可能性の追究
「贈与」と「返礼」の間に横たわる「時間」――これを限りなく遅延させることで「返礼」は生じない
つまり「現れない(返礼までの)時間」が「現れない贈与」を支えている
➡未開人の贈与交換(互酬)にせよ、レヴィ・ストロースの発見した「女の交換」にせよ、絶え間ない交換が循環することで成り立っている「交換のシステム」に対して、「遅延」はこの循環の「環」を切り裂くもの。
8ページ後半では、貨幣経済がもたらした「労働―対価としての賃金」という「等価交換」の法則が、それまで「贈与」という行為が人に「負い目」の感情を抱かせる、といった人間らしい人間の在り方を喪わせてしまった、と嘆くアーレントの論が紹介されています。「人間の条件」が満たされないところに「公共」の概念は成立すべくもない、というのがアーレントの主張かと思われます。
逆に、そのような近代社会は、21ページで論じられているように、「負債」の観念を抱かせることで、安定的な維持を可能ならしめようとする、ということにもなると思うのですが。
ここでは、このような資本主義のシステムを乗り越えるために、資本主義を支える「等価交換」に可能な限りのズレを読み込もうとするデリダの贈与論を引いてみました。
なお、なかなか難解なデリダの贈与論については、初出は月刊誌『ふらんす』の連載モノで叙述が平明でわかりやすい岩野卓司氏の『贈与論』(青土社)がたいへん参考になりました。副題を「資本主義を突き抜けるための哲学」と銘打ってあります。
⑵ 「決定論」からの逃走――「テクスト」・その無限の可能性
小林君が紹介してくれた内田隆三氏の『ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?―言語と運命の社会学』は、まさに<テクスト=無数の織糸から成る織物>が秘める無限の可能性を読むことの快楽に満ちた書物ですね。
1人の真犯人=絶対的な1つの結論を到達点として組み立てられることで、最もリギッドな構造を持つ、つまりは閉ざされたテクストをイメージさせる探偵小説。
これを素材に、テクストが、実は張り巡らされた網の目のフレクシブルな組み替え――つまりは織糸の解きほぐし方ひとつで、確定的に見える結論に「余白」が残され、ひいてはテクストそのものが絶対的な1通りの結論を定めがたい「双数」的配置に伴われていることを明晰に説き明かしています。
手法としては、テクストをリギッドで体系的な1つの構造として見ようとする構造主義に対して、テクストをリゾーム的な可変性と揺らぎに満ちた錯綜体として読もうとするポスト構造主義の見事な範を示すものと言えると思います。
内田氏のあらゆる読みの可能性へ開かれた冒険は、まさに、「決定論」――<因-果>の論理からただ一つの正しい解を確定しようとする閉ざされた思考に対する果敢な挑戦であるのはもちろん、「テクストの同一性」を脅かす試みとして、仲正氏が論じていた貨幣経済が強いる「同一性の論理」に対する痛烈な批評性をさえ有していると言えるのではないでしょうか。
アレゴリカルな処置となりますが、省くのは惜しまれるので、ここでは、近代の閉域に対する批評的思考として項目⑵を立てて収めてみました。
とりわけ「決定論」的思考に対峙するものとして、以下の2つの発想法を挙げてみたいと思いました。
◆すべてのテクストには――1つの主題・1つの読みに確定してしまっているかのごとくに見なされているテクストにも、必ず「余白」が残されている。そこには無限の可能性が広がっている。
◆「決定論」に抗する「双数」的配置――「双数の戯れ」とも呼び得る随所に姿を現す「双数」の組み合わせは、「1つの絶対的読み」への収斂、つまりは「テクストの同一性」に対して「意味の不確定性」を主張することで徹底的に抵抗している。
特に、[語り手/聴き手-シェパード医師――聴き手/語り手-探偵ポワロ]の「双数」性は、
シェパードの語る「物語世界」(=手記)に於いては、その登場人物の一人であるポワロが、
犯人告発という物語世界の意味を確定する際には、あたかもテクストがその内部に抜け穴を持っているかの如くに、言わば物語世界から抜け出し、超越的地点に立つ――この物語世界の境界に対する「踏み超え」の指摘は、まさに読まれるべき「テクスト」とはリギッドな構造体などではなく、読み手との相互応答(対話)によってフレクシブルに如何様にも姿を変えるリゾーム的な生き物であることを
生々しく教えてくれます。
これと相俟って示される、テクスト内に入れ子状に折り畳まれている幾つもの「物語水準」の重層もあわせ、まさにテクストはけっして1つの絶対的確定的な意味へと収斂されることはない。
同様に、「テクスト」を「現実世界」に、読み手を私たち自身に置き換えれば、内田氏のテクスト論は、そのまま私たちにとっての現実世界がけっして確定的なものではない――出来事の読み方についても、生き方そのものについても――ことを示唆してくれます。
◆以上の内田氏のテクスト論は、一ノ瀬氏の「確定」されているかに見える事象が、実は偶然性によって浸潤された不確実なものであり得る、という主張と呼応し合うものである。
⑶ アドルノにおける「主体化した人間」への信頼――「理性の暴力」を超えて
アドルノ論は小林君の独擅場なので、私からできるアドバイスは、もう少し簡略化しながら叙述の順序を整理すれば、くらいです。
とりあえず、ここまでの様式に従って記述しますが、ほんの骨子のみ。詳述は不要と思うので。
一番の要点は、タイトル例として記してみたように、痛苦に満ちながらも自立を獲得した<近代的主体>に対する「信頼」、としてみましたが、これを「手放さないこと」、ですね?
◆「理性の主体」としての「啓蒙」が内包する「根源的自己矛盾」
主客のまどろみから目覚め、主体化した近代的個人とは、
疎外された人間、物象化を免れない人間でもある(疎外・物象化と呼ばれる現象は、資本主義という
社会体制以前に「主体性の原史」に「既に刻印された」もの)
∴近代的主体は
計算的合理性の下に社会を組織し、自然を支配し、つまりはみずからの「自然(な欲求)」を抑圧する(→疎外・物象化)
と同時に、身体的欲望のレベルでは自然に引き付けられ、再び自然と統合された状態を求める
また近代的主体は
「理性」ゆえに反省能力を有し、進歩を目指すが、
同時に「理性」は「暴力」を内包したものでもある。
そして、アドルノは、「理性」がたとえ「暴力」を孕むものであっても、「理性の主体」としての主体性を放棄することがあってはならない、と警告する
◆アドルノにおける「理性」の重要性――カント、ハイデガーとの差異を通して
・カントは、理性を論じながら超越的神の存在を否定しない。
・ハイデガーは、共同現存在のまどろみからの覚醒から、ドイツ民族としての使命への目覚めへと至る。それは理性から逃れるための集団への埋没と暴走ではなかったか。
[補論]漱石『それから』―資本主義社会における疎外と快復への試みとして
恋愛からも社会的競争からも身を引いたところに成立する代助の「自家特有の世界」は、まさに資本主義社会における「疎外」の典型。それは理性が身体および身体的欲望を抑圧した姿でもある。
不幸になった人妻としての三千代と再会した代助がラストで見出す「白百合」との一体感とは、三千代との愛の成就を隠喩するものに他ならず、ここに抑圧されていた身体的欲望の解放を見ることもできるだろう。
但し、それに続く場面では、代助は一人、庭に出て、自分の周りに百合の花弁をまき散らし、それが木下闇に白く仄めく様を黙然と眺めている。いったん果たされた主客合一の融合感は、再び理性からの検証を受けていると言えるだろう。
作中、代助の辿る道筋は、まさに「理性」に内包された根源的矛盾の露呈に始まって、疎外からの身体および身体的欲望の快復、つまりは「自然」との合一感の希求、そして覚めた理性に辿り着くものであり、「自然」に強く魅かれながらも理性としての主体を放棄しようとはしない誠実な近代人の姿を示している、と言えるのではないだろうか。
添削9
第3章 貨幣経済の暴力性――物象化の下に
第1節 「同一化」の論理――外部の消失、排除される他者
「貨幣は、本来異質であるものを、自身を媒介としてあたかも同質であるかのように比
較衡量の対象とする」――11ページ冒頭の1文が、この節の主題を明確に呈示しているので、
ここを核に、「本来異質であるものをあたかも同質であるかのように」見せる、そのカラクリを、仲正論
から適宜引用しながら、簡潔にまとめると良い。
◆仲正昌樹氏に学ぶ「同一化」の論理
といった体で進めると、現在の小林論を崩さずに展開できる
・「共同主観性」の下で働く「同一化」の論理
以下の仲正論からの引用部分が簡にして要を尽くしていると思われる。
共同主観をめぐる論議は広松渉が詳しいですね。
私の前に共同主観的な世界が現れてくるとき、その「世界」にはすでに、その世界に固有の共同主観性に根差した「同一化」の論理が働くようになります。a1、a2、a3・・・・は、みなAという同じ対象だと、「みんな」が認識するわけです。「みんな」と「私」の認識が一致していることによって、「私」にとっての諸物の同一性は確認・強化されます。それは裏を返して言えば、そうした間主観的に通用している形式と異なる形では、個々の“物”の個性、多様性を認識できなくなる、ということです。それが、物象化です。共同主観性の下での物象化=同一化に囚われていないのは、物心のついていない子供や、狂気の人です。」(「現代ドイツ思想講義」作品社より)
・「同一化の論理」においては、当然のことながら、「差異」「他者」は排除される
◆貨幣(という同一の基準)は、ふたつの異なる世界(共同体の外部)に同一性を築く
12頁に引用されている荻野論から適宜、引用しつつ自分の言葉で解説してしまう
◆[補論] もう1つの日本特殊論(2011・大河ドラマより)
本国イギリスに敗れた植民地インドの「綿花」 との対比で
貨幣経済に組み込まれながら、西欧列強との競争を生き抜いた戦前の蚕糸業
第2節 精神の物象化が産み出す病理――その様々な様態 or 抵抗と敗北
あえて13ページの「キャラ」論からラストの幻想としての「本来性」まで――現代の病理現象ともいうべき諸々の例を、このカテゴリー内に配列してみました。
その上で、次章で「解毒」の処方箋を3つ――デリダの贈与論、内田が範を示す「決定論」の呪縛からの逃走経路の引き方、そしてアドルノを「希望の光-曙光」として提示してみる、という試みです。
⑴ 「ほんとうの私探し」と「キャラ化する私」――他者の喪失・浮遊する「私」
近代において、いわゆる「自我」は「関係の束」として捉えられてきた。社会関係――様々な他者との関係において定まってくる「役割」を束ねたところに成立するのが「自我」だと考えられてきた。
まさに、「疎外」状況を生きざるをえない現代人は、関係を喪失し、あてどなく浮遊する「私」でしかない。その時々の場において求められるイメージを自分像として程よく演じるのが「キャラ」。連続性を欠いたその時々の被っては脱ぎ捨てられる「キャラ」から「自己」を形成することはできない。
その裏側で「ほんとうの自分」を求めて止まない「私探し」が渇望されるのは当然の成り行きで、両者は表裏一体。本来、他者との関係性=相互応答性の上にしか成立すべくもない「自分」を、関係性から切断された点の如くに求める、純粋な=架空の私探し、もまた、疎外された現代人の悲しい姿である。
「キャラ化」と鷲田氏の「顔」論および「根源的交叉」との根本的違いについては、2月15日のメール参照。
⑵ アドルノの指摘する観念化された精神世界、あるいは全体性への希求
17ページ3行目~ + 20ページ後半 に見られるアドルノの論
社会全体が体系化され、諸個人がその関数としてしか把握できなくなった時(=歯車の1つ・均質化された個人)、人は観念的な精神世界のヒエラルヒーに組み込まれ、その階層を登っていくことに救いを求めるようになる――新興宗教への近接
⑶ 超越的存在の設定――「負債」の仮構
絶え間ない等価交換によって利潤追求を目的に展開し続ける社会システムにあっては、社会の安定的維持には、「負債―負い目」の観念を個人の記憶に刻印することで、人を大地に縛り続ける必要がある、ということですね。
21ページ以降、ラストまでの超越性に関わる諸事例を、ここのカテゴリーに配置してみました。
◆「報われぬ戦死者たち」という「無言の超越者」
――敗戦後の「天皇」は、それを「慰霊する」「祭司」として
ゆるやかな超越性を帯びた存在へと変容する
こうして、戦前の「現人神」としての「天皇」を初め、日本の社会は常に「超越的なるもの」の存在
を設定し続けてきた。
内田隆三氏の論旨は明快なので、むしろ引用抜きに「~によると」として、自分の言葉で簡潔に説明した方が効果的。
◆漱石テクストにおける「原罪」の仮構
・『こころ』の「先生」:
幻想にしかすぎなかった「純粋な異性愛」に「漸近」すべく、その代償として「非自発的」に
死へ追いやることになった「K」への負い目を過剰に重い「原罪」として仮構し続ける(そうすることで空虚な自己の生を支え続ける)。それが潰えぬ前に、「原罪」は「明治の精神」への「忠誠としての殉死」へスリカエられてしまう。
・『夢十夜』の第三夜の「子殺し」:
論理では全く説明できない「夢」の中に設定された「原罪」。これをあたかも原風景のごとくに描き出す漱石。
◆三島由紀夫における<外部>の希求とその敗北
内田氏は、戦後の三島の誇大妄想的とも言い得る日本文化をめぐる主張を左翼と右翼、体制派と
反体制派が共犯的に受け入れる「戦後的な生の哲学」に対して、<外部>を追究したもの、またその
生き方を、まさに<死>という外部へ突き抜けることで最期を締め括った闘い、として読んでいると
思われる。
「戦後的な生の哲学」とは、「空虚な戦後」と表裏するもの、と読み下せばわかりやすいか。
◆「愛」による超越への希求――日本文化に<愛>の<超越性>はあるか?
・近世『曾根崎心中』:<穢れ>としての「金銭」と切断することによって、いわば「金銭」という
「原罪」を担保にして<愛>の彼岸性を獲得、成就する物語として読むことができる
・尾崎豊「僕が僕であるために」:<愛>の不可能性
近代社会は、もはや「金銭」に「原罪」を仮構することを赦さない。
貨幣経済の閉ざされた循環の中に投げ込まれた「僕」が「僕であるため」には、そこで勝ち続ける
しかない。それは非自発的であるにはせよ、女に対して別れを告げなければならないことと表裏する。
[補論] 資本主義社会における<家族>と<愛>
『アンチ・オイディプス』に倣えば、資本主義社会にあっては「家族」は資本主義化された社会の部分集合として、その一部を代理して子供を躾け、飼い馴らす。
異性愛は、家族を再生産するための装置ともいうべき<愛・性・生殖>の三位一体的なトライアングルに封じ込められ、もはや超越性を喪失している。
⑷ 「本来性」への幻想――原理主義の台頭
貨幣経済は疎外と物象化を生みだしたが、現代のグローバリゼーション=全球化は、人をますます「一般化」の波間に曝し、自己の存在感を希薄に危うくしてゆく。
そのような個人が陥るのが「本来性」への――ありえもしない起源への遡行と探求である。それは集団の単位では強烈なナショナリズム、民族原理主義となって現われる。
村上春樹の『1Q84』;
閉塞した現代社会への壮大な挑戦の物語が、常に並行的にヒロイン「青豆」の「異性愛」を、新興宗教「証人会」への依存と重層させながら語っているのは、個のレベルにおける「愛」が「原理主義」の1つの形となり得ることを極めて示唆的に暗示したものではないだろうか。
添削8
第3節 ヘーゲル的国家論を批判する
⑴ 国家の倫理的絶対化――デューイによる批判
◆ヘーゲルにおける「国家」の「倫理」化 を「第1節」の復習も兼ねて概観
近代および近代的個人が内包する一種の二律背反
――伝統的共同体から解放された自由な社会が利潤獲得に狂奔する市場経済を要請し、無限の欲望
に突き動かされる個人を生み出す(=小林論の主題ともいうべき「貨幣経済」の「暴力」)
➡ヘーゲルは、このバラバラな個人を統合する手段として、
「社会契約論」(=市民社会論)は採らず、
「政治」に「倫理」を冠した「国家」(=国家論)を主張
◆デューイのヘーゲル批判
しかしながら、「国家」あるいは「政治」は、あくまで社会が機能を果たすための「手段」――つまり相対的なものにすぎず、それ自体が究極的な「価値」や「目的」を体現することはありえない。
この観点からするなら、ヘーゲルにおける「国家」の「倫理的絶対化」は許されるべきでない。
⑵ 身体としての国家観
近代国家の真に畏怖すべき性格は、フーコーが言うところの「統治性」にある。
それは社会制度上の「権力」そのものの行使、ではなく、「統治」のための諸「制度」が個々人の「身体」を通して「内面化」され、人々の「振る舞い方」までを形成するに至る。
15ページで言及されているフーコーの「生政治」論は、ここへ挿入するのが良いのではと思われます。フーコーの指摘する「権力」とは、まさに個々の身体を通じての規範の内面化、つまるところは「生き方の管理」を行うものであり、同じフーコーの「統治」を説明、敷衍するのに持ってこい、であるばかりでなく、具体例として挙げることになる次の丸山の「國体」論とピタリと繋がります。
幸い、丸山真男の論じる「國体」論は、これまで言い尽くされてきた「國体」の「教化・浸透」が実は「内面化」(精神の制度化)に他ならないことを論じているので、上記フーコーの「統治」論の恰好の具体例、といった文脈で要約的に述べると効果も大。
いうまでもなく、ヘーゲル的な有機体としての国家論と結びつく話。
現代の先進国においては、ほとんどすべての人が、休みなく消費者として生活している。
そして、消費者として生活するうえでは、ほとんどの場合、金銭のやり取りを伴う。金銭のやりとりを主とする市民社会の誕生は、イギリスの重商主義政策による産業革命の結果生まれた。アダム=スミスの「神の見えざる手」という格言が象徴するように、自由主義市場は、あたかも規制を加えずに放置しておけば、自然と社会が健全に繁栄するという考え方が、支配的になった。しかし、ゲーテが早くも「ファウスト」や「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」、「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」で示唆していたように、貨幣の暴力が人間の無限の欲望を解放し、徒弟制度を中心とした当時の社会秩序を不安定にする側面があったことが表現されている。ヘーゲルは、アダム=スミスや、ジョン・ロック、ホッブズの系譜に属する社会契約論に異議を唱え、倫理的な社会の構築を目指した。それは社会主義経済の遠因となったが、結局は全体の名の下に個人を抑圧する思想に口実を与えることともなった。
ニーチェの「神は死んだ」という宣言の後に、どのような「公共」がありうるか、という問いが提起されている。
国家ないし政治の世界は、それが社会にとっていかに重要で不可欠の機能を果たすにしても、本来道具的ないし手段的な性格をもつにすぎず、したがってそれ自体で究極的な価値や目的を体現することはありえないのだということである。したがって、デューイは政治的なるものが孕む価値的な限界性への自覚を持っていたということである。国家ないし政治の担う価値はどこまで行っても第二次的で、手段的なものでしかなく、だから、他のあらゆる社会的諸価値を吸収したり、またその源泉となるような究極的な価値を体現することは決してありえない。つまり、政治の追求する価値は相対的なものでしかなく、その倫理的絶対化は許されない。 「ジョン・デューイの政治思想」(北樹出版)p.111、112より
丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。
しかしながら天皇制が近代日本の思想的「機軸」として負った役割は単にいわゆる國體観念の教化と浸透という面に尽くされるのではない。それは政治構造としても、また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。(・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、それが制度自体と制度にたいする人々の考え方をどのように規定しているか、という、いわば日本国家の認識論的構造にある。
さて、ここから、問題の「イサク奉献」と「決定論」の節が始まるわけですが、デリダの「贈与」論、これとの連動で小林君が辿り着いた内田隆三氏の決定論を回避すべく見出した「余白」と「双数」的世界の可能性、は、「貨幣経済(の暴力性)」との関係で言えば、エコノミーの支配する貨幣経済の「物象化」に対抗して、これを超えるポジションにある言説ではないのか、と思えるのですが。
このように考えた場合、論の展開としては、「貨幣経済の暴力性」について、「個性の喪失」「国家」の権力性、と述べ進んできたところで、まずはそのまま、そのクライマックスとも言える仲正昌樹氏による「同一化の論理=外部・他者・差異の排除」を持ってきて、物象化をめぐる批判的考察を展開し切ってしまう方が明快なような気がします。
その後、「貨幣の暴力」の弊害的な諸現象を順次、解説し切り(キャラ化する私・超越論への逃避・「本来性」という名の原理主義etc.)、それを終えた後、いちばんラストに「物象化を超えて」「物象化からの逃走」風の「未来への展望」的な章を設けて、そこで、小林君のいちばんの専門分野でもあるアドルノを中心としながら、他の具体的思考法、の体で、デリダの贈与論と内田氏の決定論からの逃走的戦略を紹介的に提示する、といった展開が良くはないか、と思うのですが。
この場合、本来、小林論では「原理主義」の諸傾向を「現代」――グローバル資本主義の「現在」として見定め、そうすることで獲得されていた論文冒頭(序)との呼応性が喪われてしまうのですが、やはり何といっても小林君のアドルノ論は質量ともに豊かで論理性も確保されており、説得力、の点からいっても「本来性の幻想・希求➡原理主義」と比べて、どちらが「論の〆」としてふさわしいか、と問われれば、「アドルノ」――「貨幣経済とその暴力性」の呪縛を解くための苦渋に満ちながらも思考を止めることをしない誠実な試みに、一縷の望みを託しながら論を閉じる方向性を、選択したくなります。
以下は、たいへん勝手ながら、上記のような思いと判断から、小林論の順序を少し組み替えながら展開の筋道を考えてみたものです。
元のご論からの順序の入れ替えが大小あわせ、甚だしいものですから、以降については、これもまた、たいへん失礼ながら、いったん元の文章を消して、ともかく論(旨)展開について、お伝えしようとするところがわかりやすいように、優先的に記し、必要に応じて元の小林君の文章を引用、言及する、といった手法で進めてみたいと思います。
添削7
第2節 日本に「市民社会」は成立したか?
⑴ ヨーロッパの場合-典型として
言わば<発祥の地>としてカノンに従った典型的な成立の様態を示していることを簡略に説明。
「前近代の地域共同体」は、「市場経済」と「資本主義の発展」によって「徐々に解体」されてゆく
➡ ∴元の「地域共同体」が「自治体や国家の地域組織」へ転換してゆく中で、
「もろもろの地域集団」は「任意加入」の「任意団体」として「市民社会を構成」することになる。
⑵ 植民地の場合-イロニカルな成立
「ヨーロッパ列強」の「植民地支配」の下、「植民地政府」が「伝統的な地域集団」とは別個に組織されるため、逆説的に、これら伝統的地域集団は「完全な民間組織」として生き延びることが出来た。
⑶ そして日本-国家との癒着
⑴⑵において「国家」と「市民社会」が「相互に独立」しながら共存しているのに対して。
「日本」の特殊事情を、以下をポイントにして、小西氏の論を適宜、「引用」しながら簡略に説明すれば良い。
◆日本の特殊事情:遅れた近代化は、拙速な国家建設を必要とした。
そのために、「村落共同体」は「市民社会」へと生まれ変わることなく、言わば、そのまま「国家の行政上の末端組織」として(再)利用される-「自治」の「換骨奪胎」(「協力」という美名の下の隷属)
◆明治政府に始まり、「国家」は「地域」の自立性を阻むために様々な手立てを駆使する
―・松方デフレ政策=自由党員と結びつきがちな「豪農」層を弾圧
・「地方経営」に資する、地方の「中間支配者」の「官僚化」を促進
――選挙権を持つことのできない「非選挙民」との差異化
日本社会における地域集団の特質を考える上で前提になるのは、日本における近代国家の成立事情である。近代以前の社会においては、どこの国でも地域共同体がすべての基盤になっていて、地域集団はその下に存在していた。そのような前近代の地域共同体が市場経済と資本主義の発展によって徐々に解体し、近代の国家と市民社会が成立するわけだが、その過程については地域によってさまざまな事情が存在した。ヨーロッパの場合、資本主義はゆっくりと時間をかけて発展したので、地域共同体は解体され、自治体や国家の地域組織へと転換していった。他方、もろもろの地域集団はゆるやかな領域性を残しつつも、基本的には任意加入の組織として市民社会を構成することとなる。他方、ヨーロッパ列強によって植民地支配を受けることになる途上国では、地域共同体を構成する伝統的な地域集団とは別個に植民地政府が行政組織を整備するので、長い間伝統的な地域集団は植民地政府とは無関係な民間組織として存続することになる。
これに対して日本のように植民地化を逃れて自前の新政府が急いで近代国家を建設した国においては、まだ解体しきっていなかった地域共同体と地域集団が、国家の地方自治組織と独特の関係を取り結ぶことになる。すなわちヨーロッパのように市民社会を構成する任意団体でも、途上国のような完全な民間組織とも異なる独特の位置づけをもつようになる。先進国と途上国では、その歴史的経緯は異なるとはいえ、いずれも国家や地方自治体と地域集団は全く別物として相互に独立に存在しているが、日本のような後発国では近代国家の制度を早急に作り上げるために、伝統的な地域集団の協力が求められたり、それを国家が巧みに活用したりということがあって両者が不可分な関係にある。 「都市社会構造論」 p.144~145 放送大学大学院教材
1910年代までには、日本の村落共同体は、明治政府により、国家の行政上の末端組織としてその自治を換骨奪胎された。それは、日清・日露戦争を戦うなかで、国家が総力戦体制を整える上で、意図的になされたものである。明治初期の自由民権運動が過激化するなか、自由党員と豪農との結びつきに脅威を感じた、山県有朋はじめ元老は、特に松方正義のデフレ政策による米価の下落を通じた豪農への攻撃を執拗に行う一方、日露戦争後の、日比谷焼き討ち事件、戦争にともなう徴税額の増加による、選挙民の増加等、国政に、一定の納税を納める余力のあるものの参加が徐々にではあるが、増加していった。
地方の在村有力者は、自発的に運動する非選挙民をも組織して、政治的発言力を増した。都市部における政治の組織化は、農村に比べると遅れたが、それは元老らの社会主義への警戒感が特に強かったためと思われる。
都市部では、山の手の、官吏や、アッパークラスの市民が居住する一方、下町では、個人商店を営む零細企業が、財閥系がカバーしきれない需要を満たし、生活していた。むしろ、財閥系の下方の労働者は、自営の個人商店主になることに対して、憧れを抱いていた、と言われる。
いずれにせよ、松方デフレ以降、寄生地主が誕生し、中には都市で生活をするものが現れる一方、小作農は非選挙民に止まったまま、政治的発言力を持たないままだったと考えられる。むしろ、そのような小作農は、地方名望家の運動員として政治運動に参加することで、豪農の政治的補完的役割を果たしていたと考えられる。
このようにして、村は、しばしばノスタルジーをもって語られがちな独立自営的様相を喪っていった。
「近代」化によって、地方とは統治し経営する対象ではあっても、自治を体現するための場ではなくなった。「地方経営」のため中間支配者を官僚化するには、地域の自立性が障害となる。それゆえ、地方経営は「いかに地方を自立させないようにするか」を制度化するものになる。村と国の関係としては、村が府県や国を支えているのではなく、村や府県が国にぶら下がっている(依存している)状態をイメージすればわかりやすい。そして、現場から事実を積み上げていくのではなく、結論から逆算して物事が決まるということが一般化する時代になった。村々は、形の上では「自治権」を与えられ、自治体と位置づけられたが、自治の余地はほとんどなくなった。 「村の日本近代史」ちくま新書 より
添削6
第2章 近代における「国家」の要請-―ヘーゲルの国家論
or 「必要悪としての国家(論)」「装置としての近代国家」etc.
国家の倫理的絶対視、精神の極度の観念化、その必然的展開としての全体主義的傾向などから大変評判の悪いヘーゲルであるが、まさに装置(カラクリ)として、「近代」の出現と相俟って「国家」が要請されてくるのが論理的展開なので、いったん「第1節」ではヘーゲル的国家を概説し、「第3節」でデューイを核に批判―相対化する、という手順が妥当と思われる。
第1節 最高次の「倫理的共同体」としての「国家」
――<独立>という名の「市民社会」の<分離>
アーレントの論がおのずから示しているように、近代的個人とは独立した一個人であると同時に、社会を構成する一員でもある。
ヘーゲルの「国家」論は、国家を「倫理的共同体」と見なす――「法や制度に従うことは自己の欲望の否定ではなく、自己の理性的な本性の肯定である」――ことによって、国家の側に都合の良い論理を組み立てている。
換言するなら、国家を「高度に分節化」され「組織化」された「有機体」と見なす。それは伝統的共同体の崩壊によってバラバラになった個人を包摂することを可能にすると同時に、小林君も後に触れているように、容易に全体主義への道を用意する。
小林論における、ヘーゲル的国家観の最大の問題は、「市民社会」を言わば個人の「私的利害」に対応するだけの概念とみなして、「国家」から「分離」してしまうこと。ただ、「分離」されることで「市民社会」が国家から「独立」した「独自の原則にしたがって存在、機能する」組織として成立し得ることも事実。
「国家」と「市民社会」の相補的関係。
――ほぼ以上のような展開を行って、次の節で、「それでは、日本の場合、市民社会は健全に機能し得たか?」と問う、というのが、わかりやすい筋道では?
ヘーゲルが、国家と(市民)社会とを区別して捉えたことが、国家論の歴史において画期的な意味を持つことであるということはすでに指摘した通りである。その国家と社会の分離の理由として、ヘーゲルは、市民社会には、国家のはたすような真の普遍を支える能力がないからということをあげる。そこで、市民社会の私的利害に対応するだけのものである「契約」という概念によって、国家の成立原理を説明する「社会契約説」に厳しい批判を浴びせることともなった。しかし、それだけではないはずである。というのも、国家と市民社会の分離の把握ということは、市民社会が、相対的にではあっても国家から独立した存在であることの指摘でもあるはずだからである。近代国家においては、プラトンが掲げた理想国家におけるのとは異なって、国家が個人の職業選択に干渉したりはしないし、その他の個人の私生活に干渉したりはしない。同様に、国家が市場原理を廃絶あるいは抑圧するようなこともない。そのように、市民社会が自分独自の原則にしたがって存在し、機能していることが尊重されているということが、近代における個人の解放という観点から見て、重要なことであるはずなのである。それは、ヘーゲル流の表現にしたがうならば、一方では、近代国家なり、近代社会なりが「客観的必然性」によって構成された体制であったとしても、他方では、個人の恣意や偶然を媒介として成り立つにいたった体制だからだということになる。(p.103)
(中略)
近代国家の原理は、主観性の原理がみずからを人格的特殊性の自立的極にまで完成することを許すと同時に、この主観性の原理を実体的統一につれ戻し、こうして主観性の原理そのもののうちにこの統一を保持するという驚嘆すべき強さと深さをもつのである。【260節】
(中略)
国家が、有機体として高度に分節化されるとともに、組織化されているがゆえに、個人の選択意志による決定と行為が保障される。個人は、基本的には自分勝手に自分の人生の方向を決め、自分の利害関心にしたがって活動することが許されている。にもかかわらず、このシステムのなかで「実体的統一」へと連れ戻される。それは強制によるものとは異なったものであり、あくまで個人は自己決定の自由を認められて、恣意にしたがっているにもかかわらず、知らず知らずのうちに組織の原理にしたがってしまうという形を取るのである。また、個人の自律的活動あればこそ、社会組織の方も活性化され、システムとして満足に機能しうる。こうして、有機的組織化と個人の自由意志とは相反するものであるどころか、相互に補い合うものとされている。それが、近代国家というものだというのである。(p.104) 「教養のヘーゲル」佐藤康邦 三元社
添削5
第3節 充足される「公的領域」、私化される「個性」――平等という名の均質化された個
ハンナ・アーレントによれば…のような展開の仕方で、
近代経済(学)が統計学(的発想)に支えられて「画一化」を推し進めたこと、伴って、「均質化」された個人から成る「公的領域」が近代社会を蔽い、「差異」としての「個性」は「私的」問題へと駆逐され封じ込められてしまったことを、①②の手順で論じる。
①「統計学」の発達に支えられた「画一化」の進行=許容されぬ「逸脱」 をポイントに
以下の文章を整理・要約
近代の経済学の根本にあるのはこれと同一の画一主義である。つまり、近代の経済学は、人間は行動するのであって、お互い同士活動するのではないと仮定している。実際、近代の経済学は社会の勃興と時を同じくして誕生し、その主要な技術的道具である統計学とともに、すぐれて社会の科学となった。経済学は、近代に至るまで、倫理学と政治学のあまり重要でない一部分であって、人間は他の分野と同様に、経済行動の分野においても活動するという仮定にもとづいていた。この経済学が科学的性格を帯びるようになったのは、ようやく人間が社会的存在となり、一致して一定の行動パターンに従い、そのため、規則を守らない人たちが非社会的あるいは異常とみなされるようになってからである。(65~66ページ)
(中略)
しかし、多数を扱う場合に統計学の法則が完全に有効である以上、人口が増大するごとにその有効性が増し、それだけ「逸脱」が激減するのは明らかである。政治の次元でいうと、このことは、一定の政治体で人口が殖えれば殖えるほど、公的領域を構成するものが、政治的なるものよりは、むしろ社会的なるものに次第に変わってゆくということである。(66ページ)
(中略)
行動主義とその「法則」は、不幸にも、有効であり、真実を含んでいる。人びとが多くなればなるほど、彼らはいっそう行動するように思われ、いっそう非行動に耐えられなくなるように思われるからである。統計学の面でみれば、このことは偏差がなくなり、標準化が進むことを意味する。現実においては、偉業は、行動の波を防ぎとめるチャンスをますます失い、出来事は、その重要性、つまり歴史的時間を明らかにする能力を失うだろう。統計学的な画一性はけっして無害の科学的理想などではない。社会は型にはまった日常生活の中にどっぷり浸って、社会の存在そのものに固有の科学的外見と仲よく共存しているが、むしろ、統計学的な画一性とは、このような社会の隠れもない政治的理想なのである。(67ページ)
(中略)
② ポイントは、「平等」という美名の下に、単に「均質化」された「均一」な個が社会の「公的領域」を構成し、「差異としての個性」は「私的問題」として周縁へ駆逐され、封じ込められてしまう、という大いに歪んだ近代社会の構造。これがこの一節の結論になるように、適宜、アーレントを引用しながら文章を構成すると良い。
大衆社会の出現とともに、社会的なるものの領域は、数世紀の発展の後に、大いに拡大された。そして、今や、社会的領域は、一定の共同体の成員をすべて、平等に、かつ平等の力で、抱擁し、統制するに至っている。しかも、社会はどんな環境のもとでも均一化する。だから、現代世界で平等が勝利したというのは、社会が公的領域を征服し、その結果、区別と差異が個人の私的問題になったという事実を政治的、法的に承認したということにすぎない。(64ページ) 「人間の条件」ハンナ・アーレント ちくま学芸文庫
「私の目に浮かぶのは、数え切れないほど多くの似通って平等な人々が矮小で俗っぽい快楽を胸いっぱいに思い描き、これを得ようと休みなく動きまわる光景である。誰もが自分にひきこもり、他のすべての人々の運命にほとんど関わりをもたない。彼にとっては子供たちと特別の友人だけが人類のすべてである。残りの同胞市民はというと、彼はたしかにその側にいるが、彼らを見ることはない。人々と接触しても、その存在を感じない。自分自身の中だけ、自分のためにのみ存在し、家族はまだあるとしても、祖国はもはやないといってよい。」(アメリカのデモクラシー アレクシス・ド・トクヴィル 第二巻下2596ページ)
問われるべき問題はいかにしたら、このようにして発達した、所有権のような個人の権利の意識が、社会全体への奉仕と一体になることで、より理性的で自由な意識へと陶冶されるかだ、とヘーゲルは考えた。そして、権利と義務が衝突せず、私的な利益と公的な利益が一致するような人間共同体が形成されるならば、その共同体のメンバーの幸福をみずからの幸福と感じ、法や制度に従うことは自己の欲望の否定ではなく、自己の理性的な本性の肯定であると考えるような市民が生まれると主張したのである。国家こそ、このような倫理的共同体における最高次のものだとヘーゲルは考えた。(放送大学「政治学へのいざない」211頁より)
添削4
第2節 「個性」の危機と画一化――伝統的生活様式の喪失、物質主義と量化の時代の到来
小西氏によれば、貨幣文化の出現は伝統的な個人主義が人々の行動のエトスとして機能しえなくなっていることを意味した。以下、文章の順番入れ替え
「個性の安定と統合」は、明確な社会的諸関係や公然と是認された機能遂行によって作り出されるものである。しかし、貨幣文化は個性の本来的なあり方に含まれるこのような他者との交流や連帯、あるいは社会との繋がりの側面を希薄させる。というのは人々が金儲けのため他人との競争に駆り立てられるからである。つまり、「かつて諸個人をとらえ、彼らに人生観の支え、方向、そして統一を与えた忠誠心」がまったく消失し、その結果、諸個人は混乱し、当惑する。
デューイはこのように個人が「かつて是認されていた社会的諸価値から切り離されることによって、自己を喪失している」状態を「個性の喪失」と呼び、そこに貨幣文化の深刻な問題を見出した。個性は金儲けの競争において勝ち抜く能力に引きつけられて考えられるようになり、「物質主義、そして拝金主義や享楽主義」の価値体系と行動様式が瀰漫してきた。その結果、個性の本来的なあり方が歪められるようになったのである。
それは内面的にはバラバラの孤立感、そして焦燥感や空虚感に陥る傾向を生じさせる。だが一方、外面的には、その心理的な不安感の代償を求めるかのように生活様式における画一化、量化、機械化の傾向が顕著になる。利潤獲得をめざす大企業体制による大量生産と大量流通がこれらを刺激し、支えるという客観的条件も存在する。
個性の喪失とはこのような二つの側面を併せ持っており、そこには人々の多様な生活がそれぞれに固有の意味や質を持っているとする考え方が後退してゆく傾向が見いだされるのである。かくしてデューイは、「信念の確固たる対象がなく、行動の是認された目標が見失われている時代は歴史上これまでなかったと言えるであろう」と述べて、貨幣文化における意味喪失状況の深刻さを指摘している。
添削3
第1節 人間の価値をめぐる変貌――「人格」から合理化された「信用」へ
金融というものは常にそうあり続けてきたが、とりわけ現代の市場型間接金融においては、情報に基づいた「信用」こそが、ある意味ではその人の評価を決する価値そのものである、というのは、まさに金融というものの本質を語って余りあると思われる。情報に基づいて、個人をランク付けし、世界中の貸し手と借り手を結びつけるという、金融が実現するはずだったユートピアは、崩壊する時には一気に崩壊するシステミック・リスクも抱えている。
この「情報に基づいた信用」というものが、いかに「信用」という語が孕む本来的なイメージとは異質な非人間的なものであるかについては、以下の井上俊の論考が明晰に説き明かしている。
私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。
(略)
しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。
(略)
信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へ
と重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。
(略)
しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。 (井上俊『遊びの社会学』p.90~93)(注3)
出版社・発行年などは注記に回せばよい
井上氏からの引用については少し削ったが、可能ならばより減じた方が好ましい。
なお、結論ともいうべき当初の引用・最後尾部分については、あえて井上氏自身の文章は削って
引用者本人の言葉でまとめ直して記載した方が、効果大なので、その一例を示してみた。
以上の引用から明らかなように、高度な資本主義社会における「信用」とは、もはやその人固有の「人格」とは無縁な、一般化された社会的基準によって量的に算出された非人格的なしろものにすぎない。ここには<個人>を生みだしたはずの<近代>が他ならぬ<個人>を否定する、という一種の逆説さえ見て取ることができるだろう。
以下、このような皮肉な逆説が生じる具体的経緯について論じたデューイの説を、小西中和氏の敷衍に添って概観してみたい(注4)。
書名・出版社・発行年、該当ページ数は(注)で明記する
添削2
第1章 「貨幣経済」の成立――その暴力性と「個人」をめぐる逆説
貨幣というのは、確かにバランスシートに刻印されるものであるけれども、本質的に信用によって無性生殖的に増幅されるものであり、その意味で、起源を持たないものなのかもしれない。いや、そうではない。人気を博した漫画『ナニワ金融道』(注1)で灰原が枷木に、お前が生命保険かけて明石海峡大橋から飛び降りれば、カネができる、と言ったように、貨幣にも暴力的な起源はある。むしろ、貨幣の増幅の仕方が信用によって支えられて
貨幣には暴力的な起源がある ?
いるのであって、貨幣の起源自体は明白に暴力的なもので、おおっぴらなものだ。
寓話性に富んだ民話「六部殺し」の伝承(注2)にもあるように、金銭というのは何かしらの罪意識と繋がりがあるのかもしれない。シェークスピアの「ヴェニスの商人」に登場するユダヤ人金貸しのシャイロックも、裁判官から不当な扱いを受けているし、そもそもカネに利子をつけて貸すこと自体が禁じられていたキリスト教社会において、金融業がユダヤ人に半ば押し付けられていた、という事実も(また)、金銭が何かしら罪深いものだ、という意識を示しているのかもしれない。
添削1
序論 グローバル資本主義の到来とその問題性
現代のグローバル資本主義の構造的問題は、世界的なカネ余り状態である。
まず、1960年代に、企業の海外進出に伴い、銀行が国際展開を急激に拡大したことにより、どこからも規制を受けない「ユーロ市場」が登場した。
次に、1970年代に、オイル・ショックによるオイルマネーの流入と金融技術革新により、米国の銀行による「ユーロ・バンキング」が活発化する。 変動相場制への移行により、銀行はアセット・ライアビリティ・マネジメント(ALM)を導入。これは、ドル建ての資産とドル建ての負債を同額保有することにより為替リスクを相殺する方法である。たとえば、ドル建て資産を1万ドル保有していた場合、円高ドル安になれば資産は減価し、円安ドル高になれば資産は増価する。逆に、ドル建て負債を1万ドル保有していた場合、円高ドル安になれば負債は減価し、円安ドル高になれば負債は増価する。こうして為替リスクを相殺する。
1970年代のオイルマネーの増大と、インフラ投資額の高騰により、特定の一つだけの銀行だけでは融資の実行が困難になり、シンジケート・ローンが発展した。シンジケート・ローンとは、幹事引受銀行がローンを組成し、参加銀行に分売することで、複数の銀行による信用リスクの分散化を図るものである。しかし、シンジケート・ローンにより、信用リスクは分散したが、信用リスクそのものが低下したわけではない。この後の資産の証券化の流れのなかで、ALMの発展によりリスク管理手段が多様化し、デリバティブが登場し、急速に拡大した。
セキュリタイゼーション(証券化)により、土地、不動産も含めて、証券化できるものは何でも債券として世界中を飛び回るわけだが、それは、バランスシートにアーカイブとして刻印される。あたかも、大地機械から脱コード化された欲望機械がコンステレーション(星座)を象徴するかのように。星々がカナリアの歌声をやめてから久しいが、星座はいつか崩壊するのだろうか?その時、アーカイブを刻印されたバランスシートが、反逆の雄叫びをあげるということになるのだろうか?
2022年3月15日火曜日
素晴らしい!
TEX加藤氏の新著「TOEIC L&R TEST 出る問特急 金の文法」(朝日新聞出版)、素晴らしい出来だ!TOEICパート5から、こんなに英文法に気づかされることがあるとは!!!自分がいかにテキトーに英文法を理解していたか、思い知らされる。パート5って、受験を経験した人なら、一番わかったつもりだし、実際、だいたい当たるからこんなもんでいいや、と思うと思うんだけど、こうやってちゃんと急所を突かれると、ああ、まだまだ知らないというか、無視してた部分があったんだな、と痛感させられる。これで890円(税抜き)は破格の安さだ!
2022年3月14日月曜日
知る権利
知る権利ってんは、単に芸能人や政治家のゴシップを週刊誌が垂れ流すのを正当化する理屈だと思っていたが、そんなレベルのもんじゃないね。今回のロシアによるウクライナ侵攻も、ロシア国内では、厳しく言論統制が敷かれて、市民は正確な情報にアクセスできないと言われている。正しい情報がなければ、発信のしようがない。つまり、知る権利が保障されていなければ、人権のなかでも代表格の、表現の自由が、著しく制限されているのと同じだ。しかし、これはロシアや中国に限った話ではない。日本のテレビ業界は、ロシア悪者一辺倒で、ひたすら対露強硬論を演出しているが、極東のサハリン経由のロシア産天然ガスの権益も、日本にとっては貴重なエネルギー源だということは、忘れがちだ。欧米の資本が対露制裁でサハリンの天然ガス権益から撤退するなか、日本は難しい対応を迫られている。一方では、サハリン経由の天然ガスは貴重な権益であるが、対露制裁の国際協調からの逸脱として欧米から非難を浴びる虞も否定できない。こういうジレンマこそ、真に現実的な政治的問題だと言える。単純に白黒で割り切れるケースばかりとは限らない。そういう情報を確実に受け取れてこそ、我々は政治の問題を判断できる。
2022年3月13日日曜日
もし物価が2%上昇したらどうなるか
もし、日銀が目的としている2%の物価上昇が実現した場合、国債の発行金利が2%以上になるか、利回りが最低でも2%以上になるまで市場価格が下がります。なぜなら、実質金利(名目利子率-期待インフレ率)がマイナスの(つまり保有していると損をする)金融商品を買う投資家はいないからです。国債(10年物)の利回りは0.1%程度(2018年11月現在)ですが、それが2.1%に上昇した場合、何が起こるでしょうか。政府の国債発行コストが跳ね上がるのはもちろんですが、より重要なことは、国債価格が暴落し、国債を大量に保有している銀行に莫大な評価損が出ることです。 経済の論点 旬報社 72ページより
ドーマー条件
プライマリーバランス(基礎的財政収支)が均衡している下では、名目金利よりも名目GDP成長率が高ければ公債残高の対GDP比が少しずつ低下するため財政破綻は起こらないという定理のこと。 「ドーマーの条件」は財政破綻が起こらないための十分条件の1つであり、同じようなものに「ボーンの条件」が挙げられる。
実質金利とは何か
Q:名目金利が年8%でインフレ率(CPI)が年5%のとき、実質金利は3%か? ex. 100円の債券投資→1年後:108円 100円の消費財の組み合わせ→1年後:105円 のとき 1年後の108円の購買力=108/105=1.02857 (この投資の収益率:2.857%) ☆実質金利と名目金利、インフレ率(CPI)の関係 1+実質金利=(1+名目金利)/(1+インフレ率) ex.参照せよ 式変形して、すなわち ★実質金利=(名目金利-インフレ率)/(1+インフレ率) つまり、デフレはマイナスのインフレ率なので、実質金利を上げてしまう。
フィッシャー効果とは
物価上昇の予想が金利を上昇させるという効果で、フィッシャーが最初にそれを指摘したところからフィッシャー効果と呼ばれる。ある率で物価の上昇が予想されるようになると、貸手が貸金に生じる購買力目減りの補償を求める結果として、資金貸借で成立する名目金利は物価上昇の予想がなかったときの金利(=実質金利)より、その予想物価上昇率分だけ高まる。(以下略) 有斐閣経済辞典第5版 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html
円の購買力の低下と財政
円の購買力の低下、原油を始めとした資源の高騰により、経常収支の赤字が慢性化する虞が指摘されている。経常収支の赤字が慢性化すれば、さらに円安が加速するという、負のスパイラルが懸念される。基調的な財政赤字の状況で、経常収支の赤字が定着することは、極めて危険である。なぜなら、政府部門が赤字であり、さらに経常収支も基調的に赤字であるとき、国債を発行するのに、外国からの資本を必要とするからである。外国かの資本を誘導するには、今よりも遥かに高い(国債の)金利が要求される。政府部門の債務がこれだけ膨らんだ状況で、国債の金利が上昇することは、政府にとって利払い費が増大するのみならず、日本国債の価格下落により、日本国債をため込んだ日銀の財務状態が、極度に悪化することが予想される。また、円の購買力の低下によるインフレは、フィッシャー効果により、金利に対して上昇圧力を加える。
内閣府のペーパー
そういえば、内閣府のペーパーかなんかに、フローとして見れば、経常収支が赤字になれば、国債を発行するのに、外国から借金しなければならなくなる、って書いてあったね。 現状では、民間の黒字が政府部門の赤字を上回っていて、その結果が経常収支の黒字として現れているわけだけど、その額も縮小して、1兆円を割ったし、政府部門はまずプライマリーバランスを達成しないことには話なならないんだから、経常収支が赤字になれば、フローとして見れば、国債を発行するのに外国から借金しなければならなくなる、というのが道理。
経常収支と財政
俺:お聞きしたいのは、日本の財政に関することなのですが、日本の経常収支が持続的な赤字に陥ることは、日本の財政にとって深刻な問題なのでしょうか? ネットでいろいろ調べたものの、やはり経済の専門家に伺うにしくはない、と思い、メール差し上げました。 先生:GDP=消費+投資+政府支出+輸出ー輸入 GDP=消費+貯蓄+税 ですから、 (投資ー貯蓄)+(政府支出ー税)+(輸出―輸入)=0 したがって、 経常収支のマイナスと政府赤字が連動する可能性があります。 また、経常収支がマイナスだと海外から資本が流入し日本の国債が買いたたかれる可能性もあります。
極めて危険な理屈
ちょっと議論が錯綜しているが、プライマリーバランスを棚上げにして、名目成長率が名目金利を上回ってさえいれば、対GDP比政府債務残高は発散しないかのようなことが書かれているが、下の投稿でプライマリーバランスの意味を確認すれば、まずプライマリーバランス均衡を実現したうえで、名目成長率と、名目金利がそれ以下であれば、対GDP比政府債務残高は発散しない、という考えとの認識の差が存在する。 リンクの記事は、今は日銀が、政府が国債を発行したそばから買い取ってくれるから、名目金利は必ず名目成長率を下回るから、財政出動をすべきだ、と言っているが、もう一度その前提を確認すべきなのではないか。 リンク記事の著者の言うことが正しければ、どんなに国の借金が膨大でも、中央銀行が政府の赤字国債を全部買えば、名目金利は必然的にゼロになり、したがって財政出動を続ける限り、名目成長率が名目金利を上回るために、どんな状況でも国は破産しない、という極論を、一般論として展開しているに等しい。 極めて危険な理屈だ。 https://diamond.jp/articles/-/297170 https://diamond.jp/articles/-/297169
プライマリーバランスを無視しえない理由
プライマリーバランスは、国の借金の、利払い費を除いた元金の部分を指しているので、プライマリーバランス均衡を無視して、利払い費の話だけを論じるのはおかしい。 借金の元金が増え続けるのに、利払い費だけを問題にするのは、常識的に考えて、多重債務者の発想だ。
プライマリーバランスとは
財政状況を示す指標の1つで,プライマリー・バランス均衡とは,利払費・債務償還費を除いた歳出が公債金収入以外の歳入で賄われている状態を指す。この場合,現世代の受益と負担が均衡していることになる。プライマリー・バランス均衡の状態で,金利と名目GDP成長率が等しければ,債務残高の対GDP比は一定に保たれる。 有斐閣経済辞典第4版
増税が必要な理由
質問:中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、とありますが、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか?あるいは、新古典派経済学では「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか? 回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。すなわち、「政策割当の原理」です。したがって、「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要となります。 本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。本来の金融政策の目標(物価の安定)と異なるため黒田日銀総裁は「異次元の金融政策」という言葉を使ったのです。このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。このシナリオどおりに進めば、もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。ただ、経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります。したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため「財政再建」が先送りになってしまいます。それゆえに、「財政再建」の政策目標の一環として消費税の引上げが考えられています。このように、「政策割当の原理」は成立しています。https://news.infoseek.co.jp/article/joseijishin_2068465/
日経新聞
ロシアのウクライナ侵攻が予想以上だったからか、新聞の論考が追い付いてない状況だったけど、ようやく昨日あたりから、読み応えのある記事が載るようになったね。ほんと、情報は自分にとっては酸素なみに大事だから、ちゃんと情報が入ってこないと、余計な事を考え出したりして、苦しいんだけど、ちゃんと情報が入るようになれば、気持ちが全然違うね。ちゃんと毎日、新聞を読むこと、海外ニュースも視聴すること、これを続けることが、力になる。、
2022年3月10日木曜日
怖い
テレビ東京のカンブリア宮殿?で、スシロー特集やってるんだけど、舞台裏を覗くと、ちょっと恐怖感を覚えるね。北欧で、養殖サーモントラウトを感電させてから一瞬で三枚におろす作業が、ひたすら機械的に行われてるのも怖いんだけど、スシローはまた別の怖さがある。徹底した合理主義と先進技術の導入で、他の追随を許さない経営をしてるのはわかるんだけど、人間が魚の命を奪っている、という意識が、限りなく漂白されている感じがする。これが、殺す側、殺される側が逆転したら、何が起こるだろう?と考えると、これはもう一種のディストピアなんじゃないか、とすら思えてくる。藤子不二雄の「カンビュセスのくじ」っていう短編集を子供の頃に読んだんだけど、ある青年が、惑星に不時着して、そこでは、牛(ウス)と人間の立場が逆転している、つまり、牛(ウス)が殺す側で、人間が殺される側。こういうことは現実には起こりえない、とはいえ、人間どうしだって、殺す側/殺される側、が、明確に線引きされた時、命の価値が全くなくなってしまう、ということは、歴史上何度も起こってきたことだ。スローフード文化というのも言われるけど、「待つ」ということ、仮に報われなくても、「待つ」というところに、人間の人間たる尊厳があるのではないか?アリストテレスの倫理学で、欲望は抑えるべきかどうか、という議論があって、アリストテレスは、いくらミルクが沢山あっても、それを入れる甕が割れていれば、いくらミルクがあっても足りない、と答えたが、人間そんなにガツガツ食べなくても死にはしないんだから、摂生の効用というのも、見直すべきだろう。
危機の二十年
EHカーが執筆した「危機の二十年」は、1920年代のいわゆる戦間期を扱ったものだが、金本位制を背景とした戦間期の理想主義、国際協調主義が、世界恐慌によって崩れ、第二次世界大戦に突入したように、今回のロシアによるウクライナ侵攻は、市場型間接金融を背景としたグローバリゼーションからの脱却、そして新たな国家主義世界への嚆矢となる可能性もあるだろう。ジャック・アタリ氏が指摘したとされるが、ロシアは人口のイスラム化、および極東における中国化が進んでおり、ロシア「民族」としての一体性に訴求する動機が、NATOに対する脅威と同等かそれ以上にあるようだ。第一次大戦の火種となったバルカン半島は、相変わらず民族と宗教の坩堝であり、西欧の強国でも、極右政党の台頭など、民族主義・国家主義の機運が高まっている。グローバリゼーションによって、すべての人が平等に市場にアクセスし、富の分配に与れるはずだったが、実際には経済的格差が拡大した。経済的格差の歪みは、むしろ民族的ナショナリズムや、国家主義を招来する。世界が再び大戦争の惨禍に陥らないためには、謙虚に歴史に学ぶ姿勢が必要とされるだろう。
2022/3/9 日経新聞
原油を始めとした資源価格の高騰は、それだけ実質的な円安を招く虞がある。実質的な円の購買力が低下すれば、賃金の上昇も難しい。東日本大震災以降、エネルギー源を化石燃料にシフトした日本にとっては、それだけ円の購買力の低下は負担増であり、それを背景とした貿易赤字の拡大による経常収支の赤字は、財政の健全化にも脅威となる。台湾企業の半導体工場を熊本に誘致したように、工場を日本国内に回帰させる動きも見られるが、日本自身が半導体製造においていまだ部分的に重要な役割を担っているように、サプライチェーンはグローバルに多様性が存在したほうが、好ましい。無理に工場を国内に誘致しても、ハイテク企業は、お互いを切磋琢磨できる知的環境に集積する。日本企業も海外直接投資によって海外の子会社からの利子・配当を始めとした第一次所得収支が経常収支の黒字を支えてきたが、ロシアのウクライナ侵攻によってヨーロッパの経済が打撃をこうむれば、その影響は免れない。
2022年3月9日水曜日
ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」軽くまとめ
仏教、キリスト教、あるいはイスラムが、数十ものさまざまの社会構成体において数千年にわたって生き続けてきたこと、このことは、これらの宗教が、病い、不具、悲しみ、老い、死といった人間の苦しみの圧倒的重荷に対し、想像力に満ちた応答を行ってきたことを証明している。(p.33)
マルクス主義をふくめおよそすべての進化論/進歩主義的思考様式の大きな弱点は、そういった問いに対し苛立たしい沈黙でしか答えないことにある。同時に、宗教思想は、さまざまのやり方で、一般的には運命性を連続性(業、原罪など)へと転化することで、不死をもあいまいに暗示する。こうして宗教思想は、死者とこれから生まれてくる者との連鎖、すなわち再生の神秘に関係する。(p.33)
なによりもまず西欧において、一八世紀がナショナリズムの夜明けであるばかりか、宗教的思考様式の黄昏でもあったからである。この啓蒙主義の時代、合理主義的世俗主義の世紀は、それとともに、独自の近代の暗黒をももたらした。宗教信仰は退潮しても、その信仰がそれまで幾分なりとも鎮めてきた苦しみは消えはしなかった。(p34)
そこで要請されたのは、運命性を連続性へ、偶然を有意味なものへと、世俗的に変換することであった。(p.34)
国民の観念ほどこの目的に適したものはなかったし、いまもない。(p.34)
2022年3月8日火曜日
経常収支赤字
https://jp.reuters.com/article/current-account-balance-idJPKBN2L42N0
コロナ、円安、資源高で、貿易赤字が嵩みすぎて、いよいよ経常収支が赤字か。年度単位じゃないとはいえ。
でも、第一次所得収支が国内に還流されなくても、対外純資産にバケるんだね。気づかなかった。
メタさんより
近況報告が遅くなり、すみません。
赴任から約3ヶ月経ち、やっと生活も落ち着いてきました。とりあえず、添付のようなところで暮らしています。上のバツが家、下が職場で、自動車通勤です。
仕事はキツイし英語もまだ得意でないので生活も何かと苦労するけど、海が近いという環境は新鮮で最高です
空港が近いので、通勤中に滑走路からの離陸が見えたりしてはしご車さんにはたまらないかもしれないです。
hatoさんより
連絡をありがとうございます。すごい、会社のある、Rocky point という場所を調べたら、海沿いのリゾートじゃないですか。森戸海岸のデニーズか、逗子のデニーズで仕事をしている感じだね。最高じゃないですか!休み時間には磯採集が出来るね。写真ぜひぜひ見たいです。体重は増えたのかな?またいろいろと話を聞かせて下さい。
資本コスト
資本コストは,資本供給者のリスク調整後の機会費用であり,無リスク資産の利子率に危険プレミアムを加えたものである。企業の資本コストは,さまざまな資金調達手段の資本コストを計算し,加重平均して求められる。
有斐閣経済辞典 第4版
メタさんより
疲れたので仕事後に近くの小さなビーチに来てます
いま18時半なんだけど、日没が20時頃なのでまだ明るい
魚が時たま跳ねてますが、この辺は生活排水で水質はそこまで良くないみたいです
写真右手の半島のようなところの先(左端)の四角ビルが職場です。見える?
レポート@岩手大学
課題:私的自治の原則と消費者契約法との関係
現代の先進国においては、ほとんどすべての人が、休みなく消費者として生活している。
そして、消費者として生活するうえでは、ほとんどの場合、金銭のやり取りを伴う。金銭のやりとりを主とする市民社会の誕生は、イギリスの重商主義政策による産業革命の結果生まれた。アダム=スミスの「神の見えざる手」という格言が象徴するように、自由主義市場は、あたかも規制を加えずに放置しておけば、自然と社会が健全に繁栄するという考え方が、支配的になった。しかし、ゲーテが早くも「ファウスト」や「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」、「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」で示唆していたように、貨幣の暴力が人間の無限の欲望を解放し、徒弟制度を中心とした当時の社会秩序を不安定にする側面があったことが表現されている。ヘーゲルは、アダム=スミスや、ジョン・ロック、ホッブズの系譜に属する社会契約論に異議を唱え、倫理的な社会の構築を目指した。それは社会主義経済の遠因となったが、結局は全体の名の下に個人を抑圧する思想に口実を与えることともなった。
ニーチェの「神は死んだ」という宣言の後に、どのような「公共」がありうるか、という問いが提起されている。アラスデア・マッキンタイアーが、「ニーチェかアリストテレス」 と提起するように、負荷なき自己としての個人によるリバタリアニズムか、何らかの形でのコミュニタリアンか、の方向性が提起されている。
ただ、個人は、「鉄の釜」(マックス・ウェーバー)の中のアトムだとする理念形態に与するとしても、国家から何らかの保護を受けるべきだという修正自由主義が、資本主義社会においても趨勢となっている。
そのように考えるとき、民法というまさに自由主義を保護することが本来の目的であった法律が、消費者を、より力の大きい事業者から一定程度保護しようという契機が見出される。
そこからさらにすすんで、消費者が、単に保護されるだけの存在ではなく、より自主的に「公共」へとコミットメントしていく姿勢が問われている。
具体的には、スマホなどの電子機器に使われるレア・メタルが、非人道的な紛争の遠因となっていないかどうかなどが問われるだろう。
メタさんより
珍しくペットショップを見かけたのでフラッと入ったら熱帯魚コーナーも充実してて良かった!アメリカで初めて見た。感じたこと
・魚だけでなく水草も名前はほぼ日本のまま通じる。アヌビナスナナ、アマゾンソード、ネオンテトラ、シルバーハチェットとか。
・濾過装置は外部式はフルーバルがメイン。デカイ
・日本の上部式の代わりにテトラの壁掛け式がラインナップ充実している
・水槽は意外と小型のオシャレな形もあるが、スティングレイは無い
以上です。お邪魔しました
世界史の中の中国文明 (再掲)
という、放送大学の面接授業で聞いた話ですが、元は当時先進的な金融大国で、交鈔という紙幣を発行して、流通を強制したために、宋の時代に流通した銅銭が駆逐されて、鎌倉時代の日本に大量に流れ込んだらしいですが、最終的には交鈔を乱発したせいで経済が破綻した、というのは大学受験の世界史の常識レベルですね。
しかし、交鈔の流通を強制したといっても、価値を裏付けるために、塩引といって、塩の専売権が保証されていたりと、やはり、価値の裏付けもせずに紙幣として流通させたわけではなかったようです。
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ、というのは、かのビスマルクの言葉だそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%88%94
貨幣・勤労・代理人
信用膨張を繰り返した歴史のなかで、とくに注目しておきたいのは、十九世紀前半イギリスで戦わされた、リカードの参加した地金論争と、通貨主義と銀行主義との間で生じた通貨論争である。これらの論争は今日でもまだ決着をみない。一方の考え方にしたがえば、信用膨張とその後の恐慌の原因は、通貨量の大量増発によるものであるから、貨幣量さえ管理すれば、それ以外の信用も統制できることになるとする。他方の考え方にしたがえば、信用膨張は経済全体を反映するものであるから、銀行当局がその信用の一部である貨幣量だけ操作したとしても、信用全体を規制できるわけではないことになる。いずれの考え方も決定的に棄却されない状態が、すでに二百年近く続いていることを考えれば、おそらく双方の要因がほぼ同程度影響を及ぼしているのではないだろうか。(「貨幣・勤労・代理人」左右社 p.171 坂井素思)
世界史の中の中国文明
シルクロードの中国で南北朝対峙の状況から隋による統一へと向かっている過程で、西方でも大きな動きが現れる。東ローマはササン朝を介在させずにシルクロードの利権(特に中国商品)を掌握するために、内陸・海洋のバイパスルートの開拓を企図。
◎内陸ルート→当時、突厥はササン朝との関係が悪化しており、東ローマと同盟。東ローマは、突厥支配下にあった遊牧国家ハザール経由での交易が計画される。
◎海洋ルート→576年のササン朝のホスロー1世によるイエメン占領によって、東ローマのインド洋進出は阻まれる。西突厥は588~589年の第一次ペルシア・突厥戦争で敗北し、ササン朝の優位は揺るがず。⇒しかし、アラビア半島西岸経由のバイパスルートは依然として機能しており、メッカなどの商業都市が交易活動によって台頭し、イスラーム勃興の呼び水となる。
自分なりのまとめ:東ローマ帝国は、西突厥と手を組んで、ササン朝を経由しない、中国商品を手に入れるルートを開拓した結果、アラビア半島のメッカなどの諸都市が台頭し、イスラームの勃興に繋がった。
ハリケーンドリアン(メタさんより)
お察しのとおり結構ヤバくて、月曜日は祝日で3連休なんですが、火曜日はフロリダの公立学校は休校、ウチの会社も自宅勤務になってます。
停電、断水、避難所生活に備えて、ウォルマート、ターゲット、パブリックス、コスコといった主要スーパーでは水やパンを買う人の多くすでに売り切れ続出となってます
あと車社会なのでガソリンスタンドも。
ウチは海がやや近いけどフロリダ半島の西側だしアパート3階だし水とかは買えたのでとりあえず死ぬ事は無さそうです
ハリケーン(メタさんより)
今日もカリフォルニアワイン、チーズ、サラミで晩酌してます…
台風とハリケーンの違い、学術的にはともかく、生活上は全く違い無いです
ドリアンは中心気圧913hp、最大風速180マイル(秒速80m)くらいということで、日本の台風た比べても相当強力なのではないでしょうか
現地報道では、5段階のカテゴリーの中で、カテゴリー「6」に相当するなどと言われ始めてます。
昨日、非常用ラジオを買いに行ったけど、今どきそもそもあまり売ってないので、ウォルマート、ターゲット、ベストバイあたりは、扱ってないかあっても売り切れ、という感じでした。
水だけはCostcoで買い足しました。笑
ハリケーン(メタさんより)
とりあえず東に大きくそれて、カテゴリーも3くらいになったらしいので、大丈夫でした。学校も今日は休校だったけど明日から普通にあります。
最近英会話を始めてて、明日レッスンがあるんだけど、今日そのためのプレゼンの練習の準備してました。アメリカで暮らしてたら英語上達するだろうと思ってたらそんなことは全然無く、実践的なスキルは人に習わないとダメだね。
こっちに来てから日本の英語教育が役に立たなさ過ぎて悲しい。例えば、more importantly, って話す時、中学高校でimportant って単語は絶対習うし、比較も習うけど、それを副詞にして比較級にする例文って少なくとも形として習ったことは無い。でも凄く簡単な話で、副詞が使いこなせると会話の幅って広がるよね?
三単現のsとか現在完了進行形とかはどうでもいいから、こういう実践的な教育をもう少しして欲しかった、と思う今日この頃です
エウレカ!
コンパクトにまとまってる。
https://fromportal.com/kakei/invest/bond/equation-of-interest-rate.html
https://fromportal.com/kakei/invest/bond/growth-rate-and-interest-rate.html
質問
「経常利益は、営業利益に、本業以外で生じた投資収益や資金調達コストを加味した利益です。」て書いてあるんですが、本業以外の活動なのに、なぜそんなに大事なんですか?「あなたが社長なら経営努力の成果を示す経常利益が気になるでしょう。」て書いてあるんですが。
ベンヤミン
ベンヤミンは、「手」にもとづく認識の成果としての技術の巨大な発展が全く新しい貧困状態をもたらしたと指摘している。
「技術の巨大な発展とともに、まったく新しい貧困が人類に襲いかかってきたのである。」(「貧困と経験」『著作集』第1巻)
技術は不断の発明・発見によって次々に新しいものを作り出しては古いものを破壊していく「創造的破壊」(creative destruction)(シュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』)をもたらす。
機械は急速に進化していき、不断に「倫理的摩滅」にさらされている。(『資本論』第1巻、P.528参照)それとともに人間の生活を支えている周囲の事物はことごとく変化してしまうならば、人間はもはや自らの過去の経験を頼りにすることができず、つねに最初から新たにやり直すしかなくなってしまう。
「まだ鉄道馬車で学校へかよったことのあるひとつの世代が、いま、青空に浮かぶ雲のほかは何もかも変貌してしまった風景のなかに立っていた。破壊的な力と力がぶつかりあい、爆発をつづけているただなかに、ちっぽけなよわよわしい人間が立っていた。・・・これはそのまま、一種の新しい野蛮状態を意味する。野蛮?そのとおりである。・・・経験の貧困に直面した野蛮人には、最初からやりなおしをするほかはない。あらたにはじめるのである。」(「経験と貧困」)これは、1933年の「経験」状況である。
ベンヤミンは、人生における経験がゆっくりと時間をかけてつくられていくような「完成する時間」に対して、「永劫回帰」する時間を対置する。「・・・完成する時間・・・は、着手したものを完成することを許されないひとびとが住む地獄の時間と対をなしている。」(「ボードレールのいくつかのモチーフについて」『著作集』第6巻)
技術が進歩していいことも沢山あるけど、その中でも、人生を通して技術を磨き続けられるってのも、人間の幸福のひとつだと思うよー。翻訳にしてもね。
メタさん
>「経常利益は、営業利益に、本業以外で生じた投資収益や資金調達コストを加味した利益です。」て書いてあるんですが、本業以外の活動なのに、なぜそんなに大事なんですか?「あなたが社長なら経営努力の成果を示す経常利益が気になるでしょう。」て書いてあるんですが。
経常利益も、経営陣がマネーゲームしてるわけじゃなくて、投資や資金調達を通して、巡りめぐって本業に貢献する、と考えればいいのかな?これであってる?
Yes。こちらを参照ください
https://www.smbc-card.com/hojin/magazine/bizi-dora/accounting/ordinary-income.jsp
ただし本業も本業以外もトータルで利益が出ていないと意味ないので、結局純損益が重要ということで、海外(国際会計基準)では、こうした日本の利益区分は設けられていないです
hatoさん
すごいな、ちゃぶ台で勉強するとは。たまに旅館でパソコン広げてみるけど、五分ともたないわ。ちゃぶ台でも机でも勉強できないから、あんま変わらないが。ガソリンスタンド併設のドトールか電車かな。
メタさん
(ちゃぶ台)では勉強できないのですが、フロリダにはドトールがないので、たまにスタバで閉店まで粘って仕事しています。ライフスタイルが全く変わらないと思うことがいくつかあります。
逆に変わったのは車に対する認識かな。
田舎だし、完全に生活の足なので、高級感とかは不要だし(東京でいうと駅までの通勤用自転車みたいな感覚?)、実際HPとかを見ても日米で違うのが面白いです。例えばフォレスターとか機能的な車でも日本だとドアの横にフックがついてて便利ですとか後席の足元のステップが広くてお子様でも安心ですとか、良し悪しはともかく細かい。アメリカの同じHPを見るとそんなことよりスマホとリンクして気温に合わせて遠隔でエンジン起動できるとか、メンテンナンスアラートを確認できるとか、もっと機能的になってて生活必需品感が押し出されてると思う。スタバの注文も学校の先生とのコミュニケーションも全部アプリでやる社会なので、文化の差が如実に出てて面白いね。
なぜ日本は近代化に成功したか
三谷太一郎先生が、確か岩波新書で書いてたけど、日本がなぜ近代化に成功したかというと、政治機構、あるいは官僚機構が、上は将軍、下は下級官吏に至るまで、権力の相互抑止が効いていたからだ、と書いてた気がする。
中国の清朝末期になると、余りに多くの人民と、それに比して余りに少ないエリート官僚がいて、そのトップにカリスマとしての皇帝がいる、という仕組みになっていたらしい。
確かに、清朝になると、カリスマ性の強い皇帝が現れるけど、それは、トップのカリスマ性がなければ国を統治出来なかったことの裏返しとも言われている。
明治維新を経た日本でも、少なくとも初期の頃は、大久保利通が明治天皇にアドバイスしたと言われるように、天皇の行いが、天下万民ごもっとも、と思われるようでなければならない、と助言したように、(明治)天皇に対しても、権力の抑止が効いていた。
株主価値重視経営
株価の理論値=配当/利子率
というシンプル極まりない式ですが、利子率が高ければ、国債など他のより安全な債券の利回りが高まるので、株価が下がる、という側面もありますが、配当を上げれば株価が上がる、という側面もあります。
会社が上げた利益から、人件費、資金調達費用などの緒経費を差し引いた残りから、内部留保や、配当に廻すわけですが、株主価値重視の経営で、配当に多くを廻せば、確かに株主は儲かるし、バンザイということになりそうですが、人件費を下げる為に、グローバルな生産の世界的最適地化戦略を企業が採り、しかも、政府が、それを後押しするように、資本市場や労働市場の規制緩和を進めると、確かに良い品が安く買えるという恩恵が受けられる一方で、デフレになり、また、労働環境も悪化し、長時間労働や低賃金労働が定着してしまうわけで、従って、株主価値重視経営というのも、また考えものであると言えそうです。
資本金とは
株主が払い込んだ資本のうち,法定の手続によって確定された一定の数額であり,会社債権者に対する担保として最低限維持すべき会社財産の基準額である。商法によると,資本金は,発行済株式の発行価額の総額から構成される。ただし,発行価額の2分の1を超えない額(額面株式についてはさらに券面額を超える部分)は資本金に組み入れないことができる(商284ノ2)。
有斐閣 経済辞典 第四版
資本金
良いスレ見つけた。ヤフー知恵袋もたまには役に立つね。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14172293739
conversation in English
俺:You have been vindicated. Biden could do nothing the last couple of days after his attempts to seek ceasefire with his phony hardline stance were failed. The US’s glory was marred. So, what’s in the pipeline?
ジョンさん:Biden cannot activate Keystone Pipeline to reduce oil prices because left-wing Democratic Party pressure is too strong. His party is against fossil fuels. That is why gasoline is one dollar more expensive per gallon than under Trump. Inflation is also at record highs. Biden is a total failure.
俺:I see. Thanks! But I’m pretty sure “in the pipeline” means “something awaiting or prepared in the near future.”
ジョンさん:In America “pipeline” means Keystone Pipeline at the moment. Of course, I understand the meaning of the idiom as well. In that sense, more muddling, more confusion and more weakness is in the pipeline for Biden’s Russia policy.
He’s even cozying up to Venezuela rather than drill more oil wells in the USA. He is beholden to his party’s left wing completely.
2022年3月7日月曜日
有効需要
財貨に対する単なる願望ではなく,購買力に裏付けられた需要のこと。とくにマクロ経済学においては,一定の物価水準のもとで生まれる財・サービス全般に対する購買力に裏付けられた総需要(または総支出)のうち,総供給(または総生産)と等しくなる総需要のことを指す。物価が非伸縮的で需給調整機能を持たない経済では,生産活動水準(=供給規模)は需要に見合った水準に調整されると考えると,有効需要の規模がまさに経済活動水準の規模を決めていることになる。これがケインズ(J. M. Keynes)の「有効需要の原理」と呼ばれるものである。
有斐閣経済辞典第4版より
サプライサイド・エコノミクス
供給重視の経済学。ケインズ(J. M. Keynes)的な総需要政策の定着の結果,供給側(サプライサイド)に歪みが生じたことが,スタグフレーション等の原因だとし,税制の改善,歳出減と減税,高福祉政策の見直しなどにより,インフレを抑え,勤労意欲や貯蓄の増大を図って供給側の能力を高めることを課題とする学派。アメリカのレーガン(R. W. Reagan)政権(1981-89年)の政策を支えた理論。内容は論者によってさまざまである。
有斐閣経済辞典第4版より
リアリズムと現実主義
EHカーっていう著名な国際政治学者の「危機の二十年」、つまり第一次世界大戦と第二次世界大戦の間のいわゆる戦間期を示した本があるんですけどね、僕は読んでないですけど、今の日本の状況が、カーのいう「戦間期」に非常に似ていると思うんですよ。
トーマス・マンの「魔の山」も戦間期に書かれていますが、日本だけではないかもしれませんが、拠り所となる精神的支柱がなく、ジョン・デューイが言うように、個性は金もうけの能力に引き寄せてとらえられ、カーが言うように、理想主義が胡散臭く、リアリズムに走れば危うい。
その絶妙なバランスの上を綱渡りのように歩いていけるかって言ったら、たぶん無理なんだけど、人類の歴史とそこから学んだ偉大な先人が居る、ということだけが、かすかな希望だろう。
https://www.amazon.co.jp/%E5%8D%B1%E6%A9%9F%E3%81%AE%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%B9%B4%E2%80%95%E2%80%95%E7%90%86%E6%83%B3%E3%81%A8%E7%8F%BE%E5%AE%9F-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-H-%E3%82%AB%E3%83%BC/dp/4003402219
アベノミクス
滝川好夫先生が、財政政策と金融政策は同時にやらないと効き目が薄い、ということで、アベノミクスを評価してたけど、それはともかく、なぜ同時にやると効果的なのか引っ掛かってたんだけど、MV=PYの式を思い起こせば、貨幣供給量Mを増やし、財政政策によって、貨幣の流通速度Vを増やせば、古典派経済学が想定するように完全雇用状態下のGDPであるYを一定とすれば、価格Pは必ず上がることになる。
そうすれば、デフレから脱却できて、期待インフレ率が上がって、実質金利も低下する、はずだった。
しかし、如何せんデフレマインドは強力だった。副作用もあるし。
国際政治
「民衆の気持ちは、政治家の考えが優れた特性をもっているのだ、ということに気づかず、たいていの場合、絶対善とか絶対悪とかいった単純な道義主義的かつ法万能主義的な観点からものを判断している。政治家は長期的な見方をとり、ゆっくりと遠回りして進み、大きな利益を得るために小さな損失を支払わなければならない。すなわち政治家は、曖昧な態度をとったり、妥協したり、よい時機を待ったりすることができなければならない。民衆の気持ちは早急な成果を求める。すなわち、今日の表面的な利益のために明日の本物の利益を犠牲にしようとするのである。」 モーゲンソー「国際政治」上巻より
人的資源管理
戦後、GHQと、(当時)労働省の有名な役人が、日本における、仕事と給与の体系に関して大激論を交わしたらしいんだけど、GHQは、まず仕事ありきで、それに見あった額の給与、という発想に対して、労働省の役人は、まず人間が食ってくには最低限どれだけのカネが必要かを弾き出して、そこから逆算して仕事の報酬額を決める、ということで、大喧嘩した、と面接授業で聞きました。
日本の公務員て、いまだに後者、つまり人間が食ってくには最低限どれだけのカネが必要か、から逆算した報酬額で給与決められてるらしいから、そら絶対食いっぱぐれないようになってる。たぶん。
メタさんより
フロリダも外出制限がでてリモートワーク、リモートスクールになりました。
仕事は別にいいんだけど、息子2人もZoomでオンライン授業やってて、提出物は普段は学校では先生が助けてくれるところを親が全部教えないといけないから、こっちがキツイ。
しかもReadingの授業なんかテーマがPoemで、ただでさえ英語で分からないのに本当に意味が分からん。。。
結局、「韻を踏んでストーリーを作れ」という課題は難しすぎるのでほぼ親がやりました。メタリカの歌詞とか思い出して。笑
Lashing out the action
Returning a reaction
Weak are ripped and torn away
Hypnotizing power
Crushing all that cower
Battery is here to stay
一般意志?
山岡先生が、具体的な一般意志なんてもんが存在するはずがない、と言ってたけど、確かに、抽象レベルで一般意志が存在するとしても、具体的レベルではあるテーマに関して利害が対立するのが当たり前なんだから、具体的レベルの一般意志なんてもんが成り立つはずがない。
ひと昔まえは、族議員という言葉が否定的な意味で使われたけど、ある社会的団体の利益の代弁者でない代議士というものが、果たして存在するんだろうか?
国民の声を代表すると言えば聞こえはいいが、それだって抽象レベルでのあるグループの希望だろうし、それを超えた国民一般の意志を体現します、なんてのは傲慢でしかないだろう。
そうであるならば、政治家の使命とはなんなのか?
時に自分の支持母体の代弁者でありながら、時には国家全体の利益を考えられる人間だということか?
確かに、具体的なレベルでの一般意志というものがありうるはずはないんだが、国家全体の利益を考えられる為には、抽象レベルでの一般意志というものを否定し尽くすことは出来ないように思われる。
そうでなければ、国家としての連帯などは成り立ち得ないからだ。
椅子と「近代化」
椅子のデザインも時代とともに移り変わるが、19世紀イギリスの子供の姿勢を矯正するような椅子は、身体を通して、経済的に自活できる、独立して社会生活を営める人間になることを目指された椅子といえる。
それは、よく言えば個人主義の時代ということができるかもしれないが、人間ひとりひとりをアトム化した、大量生産、大量消費へと駆り立て、人間そのものを、時間に正確な、身体的も画一的な製品にしようという試みだったかもしれない。
夏目漱石の「三四郎」で、野々宮さんが、運動会で、時計を持って時間を正確に測る場面があるが、運動会という行事そのものが、来るべき戦争に向けて、身体的に画一的な身体を志向しているし、時計によって正確な時間を測ることで、やはり規律に従う人間というものを作り上げようという意図が感じられる。
国によって整備された軍隊は、時間に正確で、画一的身体を要求する。そのことが、また産業社会の画一的労働と相互補完関係にある。
近代化というのは、こうした、身体を矯正することで、人間の画一化を推し進める運動だったのかもしれない。
しかし、近代化の先にある社会は、むしろ、欠如を抱えた人間が、第三者を巻き込んでいくことで、すべてを計量的理性で割り切ってしまう貨幣的暴力を脱‐構築して、新しい公共を生み出していく社会を志向するべきなのかもしれない。
椅子というのは、そういう公共を創造する一助としての役割を果たすポテンシャルを秘めている。
嘘ばっかり
安倍ちゃんて、もともとは厚労族らしいね。そんで、前日本医師会会長の横倉さんとかいう人とも、昵懇の仲だったらしい。
それじゃ、医師会には厳しくできないよね。実際、診療報酬引き上げてるし。
てことは、岩盤規制の撤廃だとかいう金フレーズは、医師会に関しては、ウソだってことだ。
尤も、医師会がロビー活動するのは業界として当然だけど。
でも、これから膨れ上がる社会保障費を考えたら、医者だけが特権階級でいいのかい?
コスト病
坂井素思先生の授業で、椅子産業は大規模化と小規模化の2極化してきた、と語るんだけど、労働生産性の低い小規模な椅子クラフツが生き残る説明として、ボウモルという人のコスト病という考え方を提示されてるんだが、これ、本読んでいまいちよくわかんなくて、映像授業見てもよくわかんなかったんだけど、例えば、新宿御苑の入園料が、とてもコストに見合わないように、必ずしもすべての財に対して、正当な費用が徴収されているわけではない、と言いたいのかな?
確かに、そういうものが残っている社会というのは、豊かな社会ではあると思う。その豊かさを数値で測ることは難しいだろうけど。本も併せて読んだ感想としては、坂井先生はむしろそこに椅子クラフツの意義を見出しているように感じた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E7%97%85
経常収支と財政
俺:お聞きしたいのは、日本の財政に関することなのですが、日本の経常収支が持続的な赤字に陥ることは、日本の財政にとって深刻な問題なのでしょうか?
ネットでいろいろ調べたものの、やはり経済の専門家に伺うにしくはない、と思い、メール差し上げました。
先生:GDP=消費+投資+政府支出+輸出ー輸入
GDP=消費+貯蓄+税
ですから、
(投資ー貯蓄)+(政府支出ー税)+(輸出―輸入)=0
したがって、
経常収支のマイナスと政府赤字が連動する可能性があります。
また、経常収支がマイナスだと海外から資本が流入し日本の国債が買いたたかれる可能性もあります。
日本人と公共
一郎の「死ぬか、気が狂うか、宗教に入るか」の3択だ、という言明に、リアルにギクッとする人もいるかも知れない。
そういう意味では、漱石が現代人にも受け継がれている苦悩を、少なくとも最初に記述したという点で偉大なのかも知れない。
この苦悩は、結局のところ、絶えず追い立てられている、立ち止まってはいけない、西欧にキャッチアップしなければならない、という焦燥感なのだろうか。
あるいは、文明開化が進むほどに、日本人の日本人たる所以が侵食されていく、しかし近代化を止めてはいけない、という板挟みであるかも知れない。
一郎の3択を現代の我々が一番感じるシチュエーションは、受験競争だろう。
出来る限り高い偏差値の学校に入ろうと完全に仕組まれた環境の中で、自分にムチ打つ。
これは、まさにアドルノのいうところの「管理された世界」なのではないか。
我々が、「鋼鉄の釜」の中のアトムであるならば、現代日本人は、マックス・ウェーバーがいうところの、末人なのかも知れない。
現代社会において、救済があるとすれば、アーレントの、「活動」における「多性」の中での『赦し』ということになってくるだろうが、これは多分にアーレント自身の宗教的背景が入り込んで来るので、一般化は出来ないだろうが、他者との共存という一つの可能性としては有りうるだろう。
日本人の場合、戦前において、国家機関としての天皇と、個人としての天皇がメルトダウンしてしまったところに悲劇があったわけで、やはり近代国家としての日本に生きる我々は、何かしらアイコンというか、国民の総意として崇められるものが必要ということだろうか。
観念論に走り過ぎたけど、例えば昔の日本家屋みたいに縁側があったり、あるいは街中にベンチがあって、軽く話せる場所があったり、そういう構造的に作り出された「公共」というものがあってもいいだろう。
私信
ところで、「行人」を読んで数ヶ月経ちましたが、行人に記された一郎の躁うつ病的心性が、近代日本知識人に広く共有されたものなのか、というと、少し首肯しかねる部分もあります。
三浦雅士さんが述べるように、一郎(=漱石)が、妻の貞操を信じられずに、弟に敢えて妻の貞操を試させるのは、知識人というより、漱石自身の生い立ちに関係があるように思えますし、西欧に追いつくために始終何かに駆り立てられているような心性というのも、確かにキャッチアップを至上命題とされた当時の日本知識人にとっては広く共有されたものかもしれません。しかし、人間の心理として、自己に過度のキャッチアップを課せば、あのような心性になるのは、現代人も同様なのではないか?とも思われ、むしろ、一郎の「死ぬか、気が狂うか、宗教に入るか」の3択という言明のほうが、日本(的知識人)特有のもののようにも思います。というのは、日本には、資本主義の受容が困難なのではなく、むしろ、どんどん西欧文明が入ってきて、欧化していくけれども、どこかでその歯止めになるようなものがなく、なにか人間として核になるものが喪われてしまっていくような、焦燥感というものが、一郎のセリフから感じ取れるのです。
ただし、「行人」の記述では、躁うつ病的心性に重点が置かれ、「近代」に特有の現象というものが明瞭に記されていないように感じられるのです。
そうすると、我田引水ですが、やはり「それから」の代助(=漱石)が百合の香りの中に自己を全的に放擲し、主客合一のまどろみに回帰するくだりに、「近代」を批判したアドルノとの近親性を看て取る、というのも、ひとつのアプローチとしてありうるのではないか、と思われるのです。
もちろん、これは素人だから言えることですし、漱石の前期三部作と後期三部作の垣根を超える話なので、簡単に言えることではありませんが。
長々と失礼いたしました。
お返事
『行人』のご論、たいへん興味深く。
どんどん資本主義化が進む中――そうとも気付かず、間断なくその波にさらされ、
浸食をうけつつある近代人の心理、というのは漱石を読んでいて実感するところです。
ただ、その意味では神経症的な三角形への拘りもまた、交換不可能なものを
追いかければ追いかけるほどにすべてが交換にさらされる近代社会の手痛い賜物、のような気がします。
代助が白百合の香を借りて果たした主客合一も、また彼が3年間にわたって拒否してきた
<性愛>へ初めて自己を譲り渡した限界ギリギリの行為だったように思われます。
その意味で、『それから』ラストは、そこまでの前期世界の終焉、そして『門』に始まる
資本主義下・植民地主義下を生きる新たに現実的な決意の出発地点なのだ、という気がしてなりません。
滝川好夫先生
インフレターゲットは、理屈としては正しいんだけど、いくら貨幣供給量を増やして、財政出動で貨幣の流通速度を増やしても、ネットのおかげで世界中で価格競争が起こっている現状では、現実にはうまくいかなかった、と放送大学の先生が言ってたな。
誰とは言わないけど。
セブンイレブンの海外展開
セブンイレブンが、アメリカのコンビニチェーンを2兆円くらいで買収したと報道があったけど、もう日本の市場だけで戦ってる場合じゃないんだね。
マーケット自体が縮小していくから。
そんで、そうやって海外に出て行った企業が日本に還流してくれる利子・配当、つまり第一次所得収支が日本の命綱なんだ。
国内の労働市場はやせ細り、貧富の格差は広がるけど。
人工知能はパンドラの箱か?
面白いサイト見つけた。
「プロメテウス パンドラ AI」でググってみた。
https://www.weforum.org/agenda/2018/10/an-ai-wake-up-call-from-ancient-greece/
増税かハイパーインフレか
増税によって財政再建をしようとすれば、高齢者世代の利益を現役世代の負担で護ることになり、大幅なインフレによって政府債務を削減しようとすれば、高齢者世代が蓄積した金融資産はパーになる。
増税が遅々として進まず、財政赤字が拡大の一途をたどっているところを見ると、大幅なインフレによって政府債務を削減する以外の手段による財政再建はムリっぽい。
つまり、増税によって財政再建をしようとすれば高齢者世代の利益になり、大幅なインフレによって政府債務の削減をしようとすれば、高齢者は損をする。
まとめると、こんな感じでした。
以上から言えることは、高齢者ならば増税を主張するのが合理的な選択ということになる。現役世代ならば、大幅なインフレを甘受する代わりに、増税を回避するのが合理的な選択ということになる。
でも、上述したように、増税が遅々として進まず、財政赤字が累積していく様を見ると、大幅なインフレによって政府債務を削減する以外の選択肢はないだろう、というのが日経新聞のコラムに書いてありました。
thatの使い方
「ひとりの命は地球よりも重い、という言明は否定された。」
⇒deeplで日英翻訳
「The statement that one life is heavier than the earth has been rejected.」
自分が英語で文章書くとき、名詞に続けて、その名詞の説明をするためにthat節を使うのが癖になってて、文法的に正しいのか疑問に思ってたけど、deeplも同じことやってるから、アリなんだな。
身体の零度
三浦雅士さんが「身体の零度」で論じた、戦争のための画一的で清潔な身体と、アドルノの記述した、個人の精神の物象化的同一性というのも、戦争がまた反面では工場における画一的かつ大量の生産体制を要求するものであることを考えれば、繋がりが見えてくる。
更には、核家族の中のエディプス三角形による去勢によって、労働・生産へのパラノイア的偏執への矯正もまた、〈近代〉の特徴であると言いうるのではないか。
漱石が愛に拘ったのも、それが資本主義に対する橋頭堡だと感じていたからではないか。しかし、「それから」において観念的抽象的な愛から、性愛的な肉感的な、具象的な感覚に投降した後においては、一層、資本主義化した社会の、歯車として生きていかざるを得ない我が身において、物象化を免れ得ない自身から抜け出よう、という足掻きに苦しんでいたのではないか。
資本主義に、貨幣を通じた理性的計量的画一性の暴力が潜んでいるとすれば、イサク奉献における神のアブラハムに対する苛虐さは、むしろ逆に画一的物象化からの解放であると見ることもできるのではないか。
山岡先生のレポート
ホッブズ、ジョン=ロック、ヒュームに至る系譜は、イギリスが世界に冠たる資本主義国家としての歩みと平仄を合わせている。ホッブズの時代には、英蘭戦争を戦い、ジョン=ロックの時代にはプファルツ継承戦争とともに北米での戦争を戦っている。ヒュームの死亡年には、アダム=スミスが「国富論」を刊行している。まさにそのような時代状況の移り変わりの中で、各々の思想家の理論が展開されたのである。
ホッブズは、機械論的自然観の曙光の中で、国家をまさに数学的厳密さをもって、その必要性を論証しようと試みた。ジョン=ロックの時代には、名誉革命が起き、イギリス立憲主義的議会制民主主義が確立された。また、1687年には、ニュートンは「プリンキピア」を刊行している。まさに機械論的自然観が、実際の制度、科学の発展の端緒と歩調を合わせながら、花開こうとしている。ジョン=ロックのいわゆる「抵抗権」は、現実のめまぐるしく変わる政治状況のなかで、政府というものが、市民から「信託」を受けたものである、というある種のプリンシパル=エージェンシー関係にある。Authorとしての国民が、Artificial personとしての¬リヴァイアサンに主権の一部を放棄し、authorizeする、とする理論とは若干異なる。
ヒュームは、金本位制を擁護したことでも知られているが、没年にアダム=スミスによる「国富論」が刊行されていることからもわかるように、まさにイギリスが産業革命を成し遂げ、世界の工場として飛躍していこうという新世界の入り口に立っていた。ヒュームは経済の論理を重視し、特に経済的慣行の中で、ひとびとが繰り返し取引される中で生成される秩序に着目したという点で、保守主義者であったと言われている。
ルソーの時代になると、イギリスではエンクロージャーに代表されるように農業革命も起こり、ますます近代資本主義が進展するとともに、貧富の格差も生まれ始めた。そのような状況のなかで、ルソーは己自身が己の主人であり、また奴隷である、そのような状況のなかで、人民が定期的に集まり「一般意志」を形成することで、だれも疎外されない社会が生み出されると考えた。
カントは、大陸合理論とイギリス経験論を総合したとして名高いが、デカルト的理性主義から、ヒュームの懐疑論によって「独断のまどろみ」から目覚めたと主張したと言われている。カントの定言命法はAを求めるためにXをする、というものではなく、ただXをせよ、という命令を自己に課し、それが社会の規範と齟齬がないようにせよ、と説くものであった。己の倫理と社会の規範の緊張関係をつねに意識することによって、はじめて人間は未成年状態から脱することができる、といういわゆる啓蒙主義は、のちのロールズにも受け継がれている。
ロールズは、我々は道徳について多かれ少なかれ直観的な確信を持っているが、それだけでは足りず、反照的反復によって、優先順位をつけなければならない。それは、カント的倫理観が現代にそのまま通用するものではないことを踏まえつつ、現実と理念的正義の間を絶えず往復し、絶対的な善というものが成り立ちえない現代社会において、公正な社会を実現するには、公共理性に訴えかけるようなやり方をしなければならない、と説いた。
貨幣と原罪
酒井英行先生が、「漱石その陰翳」(沖積社)で書いているように、夢十夜に出てくる、盲目の子供を背負って、言われるまま森の中をさまよっていると、突然、子供が、おとっつあん、ちょうど100年前の今日だったね、あんたが俺を殺したのは、という粗筋のテーマは、漱石のみならず、伝承として広く伝えられている主題らしい。
特に、六部殺しというカテゴリーでは、あの富豪は、昔人を殺したから金持ちなのだ、という逸話が多いそうだ。
日本の資本主義の幕開けに立っていた漱石にとって、最後に行き着いた先は、原罪というテーマだったのか。
「それから」における主客合一のまどろみから、現実の世俗の世界に踏み出した漱石にとって、貨幣を媒介として形成される「管理された世界」(アドルノ)の中に足を踏み入れることは、否応なく、イノセントではいられない世界に生きることを余儀なくされることだったのかもしれない。
ゲーテの「ファウスト」における「ワルプルギスの夜」では、自己増殖的な金融のソドム的性質が暴かれるが、メフィストフェレスとともに散々やりたい放題やったファウストの魂は、最後の最後には、救済される。
この、日本とドイツの文豪における、貨幣に対する捉え方の違いはなんなのか。
一つの簡単な答えは、結局、ヨーロッパでは、金融は卑しむべきものとして、ユダヤ教徒に押し付けられていた、という背景があったということだろうか。
近松門左衛門の「曾根崎心中」では、商都大阪において、カネ絡みで心中を余儀なくされる恋人がテーマとなっているが、主人公が篤く仏教を信仰していたことからもわかるように、まだ江戸時代には、カネ絡みで白眼視されるくらいなら、死を選ぶ、という気風があったのだろう。
内田隆三氏が「国土論」で記述しているのは、戦後の日本においては、なによりも<生>とカネへの執着であって、三島由紀夫が命を賭して嫌悪を示したのは、まさにその執着心であった。
金融抑圧
金利を人為的に下げて公的債務の負担を減らす手法は「金融抑圧」と呼ばれ、金融抑圧は一般に、民間資金を非効率な政府部門に集め、無理な低金利が高インフレを生む例も多いとされるそうです。(日経新聞2020/9/4朝刊記事より)
日笠完治先生より
○国会に対して連帯して責任を負ってるのは、内閣であって、総理大臣ではない。
⇒憲法66条3項「内閣は、行政権の行使について、国会に対して責任を負う。」から、正当な主張です。国会との関係における原則です。
○したがって、安倍首相の辞任に伴って、内閣が総辞職して、国会であらためて首相を選ぶ選挙が行われた。
⇒国会法64条で内閣総理大臣は、辞表を提出することができます。辞表を提出すれば、内閣総理大臣が欠けたことになります。
⇒憲法70条で「内閣総理大臣が欠けたときは、……内閣は総辞職しなければならない。」に該当する。
⇒そこで、次期内閣総理大臣は、憲法67条で、「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。」
>>>>今回も、憲法の規定通りに行われています。衆議院の解散については、政治課題となっても、別の問題です。
○もし解散権が首相の専権事項だというなら、当然国会に対して連帯責任を負っているのは首相であって、首相が辞めた以上、衆議院を解散しなければならない。
⇒憲法69条の「衆議院が解散されない限り」の規定、と、憲法7条第3号「天皇は、内閣が助言と承認により、……これを行う。」の規定から、衆議院の解散権の主体は、形式的には「天皇」であり、その国事行為の関して授業でお話ししたとおり議論はありますが、実質的には内閣と解釈されています。内閣総理大臣は内閣の首長ですから、実質的には内閣総理大臣が解散を決定します。
⇒新内閣総理大臣は、解散権を現在行使しないと発言されています。首相が交代したが、衆議院の解散は必ず行わなければならないとは言えません。もちろん、授業で説明したように、解散権行使は、自由ではないという考え方もあります。憲法解釈的には傾聴すべき見解ですが、そのように解釈すべきとの制度的な保障システムはありません。
○そうでない、つまり国会に対して連帯して責任を負っているのは内閣だというなら、政界の常識となっている解散権は首相の専権事項という考え方は、憲法違反ということになる。
⇒内閣の中に、解散に反対する人がいれば、内閣総理大臣は、憲法68条2項によって、罷免することができます。そして、賛成の残った国務大臣が内閣として内閣総理大臣の決定に従うという構図です。
⇒憲法66条3項の「内閣の連帯責任」は、内閣一体の原則の表れです。行政権が一体ではなく、国務大臣ごとにバラバラに行政を運営すれば、現実問題が山積することになります。そこで、同条1項に規定されているように、「首長」たる内閣総理大臣の権限が存在します。とりわけ国務大臣の任命・罷免権を背景として、閣議を主宰しているのは、内閣総理大臣です。
⇒したがって、ご意見のように「憲法違反」とは言えないというのが、多数の解釈です。
以上、ご説明させていただきました。
ISバランス
経済全体としてのISバランスとは、国民経済計算の蓄積勘定に記録される国内資本形成(投資)と貯蓄との差額のこと。それは(-1)×経常収支に等しく、したがって外貨準備増減を含めた資本収支に等しい。他方、部門別に見たISバランスとは、ある部門の資本形成(投資)とその部門の貯蓄との差額である。資本形成が貯蓄を超過する部門は、貯蓄不足部門あるいは投資超過部門と呼ばれ、資本形成を行うために不足する資金を調達しなければならない部門である。逆に、貯蓄が資本形成を超過する部門は、貯蓄過剰部門あるいは投資不足部門と呼ばれ、蓄積資金の供給部門である。
有斐閣経済辞典第5版
リンクより引用
なお、対外資産からの投資収益である所得収支について見てみると、日本では、これまでの経常収支黒字の累積により対外資産が増加しており、それに伴い、所得収支の黒字は増加基調となっている。企業の海外展開は輸出の減少につながるという面もあるが、対外資産の増加でもあり、所得収支の黒字化要因でもある。所得収支の黒字は、貿易収支が赤字傾向でありながらそれを打消し経常収支が大きく赤字となっていない重要な要因である。今後、直接投資を中心とした海外での稼ぐ力を高めていくことができれば、黒字基調を続けていく可能性も考えられる。
https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html
自由からの逃走
ナチズムと信奉者の関係は、ある種のSM関係だったと言えるかもしれない。
ドイツにおいては、割とプロテスタントが多いが、フロムによれば、プロテスタンティズムそのものが、究極の自己否定という意味でマゾヒズム的らしい。確かそんな風に書いてあった。よくわからん。
ナチズムも、下層中間階級がプライドをズタズタにされ、マゾヒズム的プロテスタンティズムと相俟って、サディスティックなナチズムと、相互補完関係、すなわちSM的関係にあったのではないか。
日本においても、このまま経済が停滞すれば、例えば排外主義や、障碍者蔑視に象徴されるような、サディスティックな性質を持った政党が、マゾヒズム的国民と結びついて、政治的な全体主義体制が生まれる可能性があるかもしれない。
そういう意味で、津久井やまゆり園の事件や、杉田水脈議員の発言のような、マッチョな傾向は、危険である。
エーリッヒ・フロム
キンドルで読んだので、すぐに関連事項を調べられないのが申し訳ないですが、フロムによれば、現代人は、「第一次的絆」から不可避的に切り離されている、という。
生まれた瞬間から母体から引き離されている、という意味なら人間みなその通りだが、他にも、アドルノが糾弾するような「自然」への回帰の不可能性、という意味もあるかもしれない。
歴史的にみると、プロテスタンティズム的勤勉性は、ギルドを壊し、経済の論理であらゆるソーシャルな紐帯を破壊し、個人をアトム化したとも書いてあった気がする。
ここらへんが、仲正先生の本を読んでいくと、一貫した問題意識に感じられるのだが、ナチズムにしても、経済の論理で絆から切り離された大衆が、コミットできる対象としての疑似宗教的意味合いを持っていたとも考えられる。
とはいえそれは、ある種のSM的相互依存関係だったわけであるが。
エコノミスト
もっと簡単に。
補足すると、経常収支が赤字になると、国債をファイナンスするために、海外資本に頼らざるを得ないのがミソ。
しかも、海外資本は、日本国内の資金源よりも当然割高なリターンを要求してくる、つまり国債の利回り上昇しちゃいますけど、大丈夫ですか?という話。
そういうわけで、経常収支が慢性的に赤字になると、後は今までに貯めこんだ海外資産を取り崩すだけの状態になっちゃいますよね?
https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20200825/se1/00m/020/056000c
教養としてのゲーテ入門
「メフィストがファウストに対して、自分の男根を掴めと言っているかのような言い方をしているのは、同性愛的な関係を暗示しているように見えるが、これは、貨幣の自己増殖としての利殖が、自然の性関係によらない、人工の生殖であることの寓意であると解することができる。」p.188
中国史
元の時代には、経済規模に対して銀の量が少なすぎて、紙幣を併用していたけれども、明の時代になると、日本の石見銀山からの銀や、スペイン経由で南米のポトシ銀山の銀が入ってきて、景気が良くなって、納税も一条鞭法と呼ばれる銀納に一本化されたけど、パンピーの暮らしはキツかった、という話が印象的だった。
日本経済の没落
1990年代に、内需に見切りをつけて、企業の海外進出が本格化したわけだけど、製造業も、海外に工場を作って、そこで、日本の工場をお手本とした生産性の高い製造ラインを、東欧や東南アジアに作ることに成功して、安価な労働力で高品質の製品を作ることに成功したと考えられる。それが、日本からの輸出競争力を縮減してしまった可能性もある。当然、日本国内の内需がやせるとともに、労働市場も貧困化した。
また、冷戦構造の崩壊とともに、よりグローバルな競争にさらされる中で、特に東アジア(台湾、韓国など)の製造業産業が台頭して、一人勝ちできない状況になったことも、失われた20年の原因かもしれない。
更には、株式持ち合いによる護送船団方式の、非効率な金融が生み出した負の遺産を清算するのに追われる間に、金融面での競争力が落ちたとも考えられる。
日経新聞文化面
<このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう>
三島由紀夫は1970年11月25日に自裁する約4ヶ月前、「果たし得ていない約束」と題する文章を新聞に寄せた。
(中略)
(宮台真司氏によれば)「三島が捉えた日本の本質と彼が主張する天皇主義を理解する上でこの文章はとても重要」と考えている。
日本人にとって天皇の存在は必要不可欠であると三島が考えたのは、さもなくば日本社会が空虚なものになるという危機感があったからだ。
三島由紀夫
「三島は紛うことなく戦後社会の外部に立とうとした。だが、戦後社会は自分の外部があることを許容しない。この拒否は生の哲学という全面的な肯定の所作において行われているためほとんど意識されない。どんな精神のかたちにせよ、それが生命の形式であるかぎりー体制派も、全共闘運動もふくめてー戦後的な生の哲学はそれを是認しうるのである。三島は死に遅れたものとして、戦後社会とのそのような共犯性、あるいは戦後社会の総体性にたいして潔癖ともいえる反発の意思を隠そうとしなかった。三島の精神による抵抗に意味があるとすれば、それが生の哲学の軌跡に回収されないことであり、死を如実にはらんでいる限りにおいてであった。三島は自分の精神を思想的な形象でみたしたが、そうした彩りはただ死の線分に接続する限りにおいてのみ精神の形象でありえたにすぎなかった。」(395ページ) 国土論 内田隆三 筑摩書房
ネット記事
これって、プライマリーバランス均衡させれば、財政問題はソフトランディングさせられるって話だよね?
そのプライマリーバランス均衡すら遥か彼方なんですけど。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO43368550V00C19A4EN2000
内閣府のペーパー
内閣府のペーパーは何気に優秀。
一般人でも(経済学の知識があれば)わかるように書いてあるし、嘘が(たぶん)ない。
https://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je03/03-00103.html
直接金融と間接金融
直接金融は、典型的には、株式取引のように、投資家が直接リスクを引き受けるのが特徴だけれども、銀行を典型例とする間接金融は、金融機関が資金の借り手と貸し手の仲介をすることで、いわゆる金融仲介機能(情報生産機能,資産変換機能,リスク負担機能)を果たすわけだけど、市場型間接金融という新しいスキームだと、金融機関が投資信託などを手掛けることにより、金融機関が担っていた金融仲介機能を、市場が果たすことになる。たぶん。もちろん、債券のリスクを評価するビークルと呼ばれる機能が存在するが、間接金融よりも、はるかに市場の効率性に依存した形態と言えるだろう。たぶん。だから、市場型間接金融。
リンク
「キンドルバーガー 成熟した債権国」でググってみた。
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8F%8E%E6%94%AF%E7%99%BA%E5%B1%95%E6%AE%B5%E9%9A%8E%E8%AA%AC-1736544
キンドルバーガー
結局、突き詰めると、日本の経済的問題は、少子高齢化に尽きるんだろうけど、内需の縮小を見越して、企業が海外展開を強化して、その結果、国内の労働市場がやせ細って、それが更なる内需の縮小に繋がる、って話なんだけど、企業が海外進出した恩恵として、そういう企業の株やら社債やらで恩恵にあずかれる富裕層がいる。
つまり、報われないのにひたすら汗水垂らして働く層がいる一方で、ただタブレット見つめてるだけで、お金が入ってくる層がいる。
キンドルバーガーの「国際収支発展段階説」によれば、日本は、対外債権を取り崩していく段階に足を踏み入れつつあるみたいだけど、高齢化で、いずれは対外資産を取り崩すだけの国になる。
その時、経常収支は赤字になり、国債を海外資本に買ってもらわければならなくなる。
そのインパクトがどの程度なのか、自分にはよくわかんないけど、たぶんあんまり宜しからぬ事態だろう。
私信
必ずしも資本主義に結びつく話かどうかわからないけど、明治維新以降の日本社会は、何か(例えば)天皇に何かを「負っている」という感覚が、社会の秩序維持に一役買っていた、と解釈できる可能性がありそうですね。
原罪と負債の区別は微妙なところですが、夏目漱石が「こころ」のなかで、主人公(先生)が、自殺した友人Kの表情を見ようとして、Kの頭を持ち上げたようとした時に、「ああ、もうダメだ。これからの自分の人生が真っ暗に塗りつぶされてしまった。」と感じた【重さ】のように、それが負債でなく原罪だったとしても、それが社会への従属に結びつく、というのは分からなくもない。
「こころ」の最後に、『先生』が、自分は明治という時代に殉死する、みたいなことを書いてますが、それも、やはり明治天皇に何かの「負債」がある、と感じていた、と言えるのではないでしょうか。
もちろん、そこには、自分の原罪と負債が絡み合っていたと考えることも可能ですが。
森本先生より
『こころ』の先生とKの関係は言い得て妙、と、つくづく。
原罪とまではいえないものを負債として抱え込むところから、
あの物語は出発するのですね。山崎正和だったでしょうか、
罪があるのではなく、罪の意識で縛り付けることで自分の存在の
意味を生みだしているのだ、といったような趣旨の既出論文が
ありました。「明治―明治天皇―明治の精神」はもう少し
微妙な話になるかとは思うのですが。
パクリ
中国史を勉強すると、古代日本が明らかに中国史とリンクしてることがわかる。
聖徳太子が冠位十二階で、服装で身分を分けようとしたのは、モロに中国のパクリだし、壬申の乱(672)も、明らかに唐・新羅との朝鮮半島を巡る動静とリンクしてる。
更には、10世紀の平安時代にひらがなが発明されたのも、中国史の北宗時代で、契丹などの周縁の異民族が独自の文字を産み出した時代と平仄を合わせている。
原罪
特に象徴的なのは、「こころ」において、『先生』がKの頭を持ち上げようとした時に感じた、重さ、そして絶望。
その、原罪と言っても過言ではないほどの負債観念が、明治という時代に殉死する、という言葉とともに、読者を明治以降の日本人とともに、日本という大地に縛りつける役割を果たしたと言っても過言ではないだろう。
負債観念
「負債」の観念を抱かせることが、社会全体を構成し、安定的に維持するための手段であるわけで、交換とか経済的利益は副次的な意味しかないわけです。先ほどお話ししたように、儀式に際して各自の欲望機械を一点集中的に活性化させますが、この強烈な体験を「負債」と記憶させて、大地に縛り付けることが社会の維持に必要なわけです。現代社会にも通過儀礼のようなものがありますし、教育の一環として意味の分からない、理不尽に感じることさえある躾を受けることがありますが、それは、この「負債」の刻印と同根だということのようです。「負債」の刻印が本質だとすると、むしろ下手に合理的な理由をつけずに、感覚が強制的に動員される、残酷劇の方がいい、ということになりそうですね。
<アンチ・オイディプス>入門講義 仲正昌樹 作品社 p.255
しつこい
質問: 今般の衆議院選挙の結果を受けて、安倍政権の経済政策が信任され、結果、日銀が緩和を継続すれば、世界経済への流動性供給の源であり続けることになり、特に、金利上昇の影響を受けやすいアジアの新興市場に日本発の流動性が流れ込むだろうという指摘もあります。
ここで、松原隆一郎先生は、「経常収支と金融収支は一致する」と書いておられるわけですが、実際に物(ブツ)が輸出入される、という実物経済と、例えば日銀が金融緩和で世界にマネーを垂れ流して世界の利上げ傾向に逆行する、という国際金融の話を、同じ土俵で括るのが適切なのか、という疑問が生じました。
回答:経常収支は一国で実物取引が完結せず輸出入に差があることを表現する項目です。日本のようにそれが黒字である(輸出が輸入よりも大きい)のは商品が外国に売れて、外国に競り勝って良いことのように見えるかもしれませんが、別の見方をすれば国内で買われず売れ残ったものを外国に引き取ってもらったとも言えます。国内では生産しカネが所得として分配されていて購買力となっているのに全額使われなかったのですから、その分は貯蓄となっています。つまり実物を純輸出しているとは、同時に国内で使われなかった貯蓄も海外で使わねばならないことを意味しているのです。こちらが金融収支なので、「経常収支と金融収支が一致する」のは同じことの裏表に過ぎません。
そこでご質問は、「日銀が国債を直接引き受けたりして金融緩和し続けている。このことは経常収支・金融収支とどう関係があるのか?」ということになろうかと思われます。けれども日銀はバランスシートというストックのやりとりをしており経常収支・金融収支はフローのやりとりなので、概念としては次元が異なります(「スピード」と「距離」に相当)。すなわち、金融収支はフローであり、日銀の金融緩和はストックなので、同じ水準では扱えないのです(スピードに距離を足すことはできない)。
しかしストックとフローにも影響関係はあるのではないかという考え方も確かにあり、そもそも一国内に限ってそれを金融資産の需給(ストック)と財の需給(フロー)が金利で結ばれるという考え方を示したのがケインズの『雇用・利子・貨幣の一般理論』でした。とすればその国際経済版が成り立つのかは重要な問題ではあります。この論点は多くの研究者が気になるようで、奥田宏司「経常収支,財政収支の基本的な把握」www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/Vol.26-2/09_Okuda.pdf
が論じています。参考にしてください。
https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX
https://toyokeizai.net/articles/-/380494
https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html
純粋理性批判 熊野純彦訳
とりあえず100ページ読んだ。
空間と時間について論じてる箇所だけど、要するに、現存在が感じられる限りのものだ、てことかな?粗っぽく言えば。
原武史先生が、空間政治学を提唱してて、明治政府は天皇の行幸による時間と空間の支配を通じて日本を近代化した、と論じてた気がする。
そうすると、夏目漱石の三四郎で、野々宮さんが、運動会でタイムウォッチで正確な時間を計ろうとすることにたいする主人公の嫌悪感が描かれているわけだけど、漱石は、そこに近代化への反発を感じていたのかも知れない。
三浦雅士さんによれば、運動会という催し自体が、戦争を前提とした国民の均一化という意味で、また近代化の一様相なわけであるが。
それはともかく、漱石の「それから」における百合の中への自己理性の全的放擲の試みも、やはり理性の精神に対する暴力的支配からの逃走であるとの解釈も、あり得る。
それはやはり、ナチズムを経験したアドルノの啓蒙に対する警戒と、平仄を合わせているだろう。
アドルノとカント
アドルノは、理性の暴力性が、主体性の原史に既に刻印されている、と見るわけだけど、カントは、議論を、空間と時間から始める時に、この二つは現存在が感じられる限りのものとして、ア・プリオリに感じるものだ、としている。むしろ、人間の理性が、感性と悟性で認識できる、その裏側のいわば現代風に言えばデフォルトとしての「物自体」、つまり神には、人間は手出しをできないはずだ、という論法を採っている。
アドルノは、主体性を放棄することの危険性を繰り返し論じるわけだが、同時に理性は主体性に最初から刻印されていると見るわけだけだから、結局は、理性とは主体性の問題ということになる。
カントは、時間と空間は、人間が現存在としてある意味無条件に感じられるもので、人間が悟性を働かせることで超越論的に理性的統一、つまり超越論的統覚に至ると論じる上で、むしろその裏側のデフォルトな部分を論じるところにキモがある。
しかし、カントにしても、理性は当然に主体性と不可分のものとして論じられていることは、論をまたない。
カントは、主体性としての理性は当然のものとして論じているわけだが、アドルノは、むしろ、現代人は下手をすると理性の主体としての主体性それ自体を放棄してしまうことがあることの危険性に対して、警鐘を鳴らしている。
アドルノは、理性の裏側のいわばデフォルトな部分はタッチしてなくて、理性が暴力的にあらゆるものを計量的に測定可能な対象へと解消してしまうことを論じている。
漱石の「それから」における代助は、百合の香りの中に自己を全的に放擲し、理性そのものから逃れようと試みた時点で、やはりアドルノの圏域にいると見ていいだろう。
大した話じゃないけど
グローバリゼーションがかまびすしく叫ばれた2010年代、世界の液状化とかトランスナショナルとか言われたけど、結局現れたのは、利己的な、時には狭隘なナショナリズムだった。
3/11の東日本大震災で空気が一変したけど、それまでは、グローバリゼーションにかぶれたヤツの間では、これから世界中がなんかスゴイことになる、というサヨク的幻想が充溢してた気がする。
晴天を衝け
渋沢栄一始まったねー。城山三郎の小説読んだな。
JR岡部駅で降りて、生家とか資料館見に行ったりとか、あるいは王子の飛鳥山の旧邸宅とか見に行きましたよ。
ところで、蚕を飼って桑の葉を食べさせてるシーンがあったけど、蚕を飼うってことは、最終的に絹を作って、輸出するってことだから、既に世界的な市場と繋がっていて、本を辿れば、あの時代に既に農家も貨幣経済に部分的に組み入れられてるってことらしいです。
つまり、生活するのにカネが必要になるということ。
それ以前は、綿花を作っていたそうです。その時代は、塩と綿の苗だけはカネで買ったけど、それ以外はカネを使わなかったとか。
つまり、養蚕業が日本の原風景というイメージは、違う。
それはともかく、綿花を作っていた頃は、綿を作って、紡績業者に委託して織物にしてもらって、それを藍染にしていたとか。
桐生などが代表的ですが、綿花を紡績する織機産業が日本のプロト工業化の役割を担ったと聞きました。
大河の描写では、渋沢家は養蚕と藍染を両方やってましたね。
フーコー
フーコーも、少なくとも一面においては近代批判をしてるんだな。
仲正先生がそういう「読み」をしてるだけかもしれないが。
フーコーが、近代は、人間の性という計り知れないものを、理性で計算可能にしようとしている、なんて話とか。
後は、明らかに近代批判の書である「アンチ・オイディプス」の作者である、ドゥルーズが、フーコーと盟友関係にあったことが度々指摘されている。
坂口安吾 三十歳
勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。
たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。
人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。
けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。
街中でロードバイクは危険
まえ下り坂でチャリ漕いでたら、アスファルトと見分けのつかない色した犬がいて、直前で気付いて止まったけど、あやうく突っ込むところだったよ。
下手に一般道でカッコつけて、ロードバイクなんか乗ってると、危ないよね。
タイヤの幅が狭いから、側溝にハマってふっとびそうになったりとか。
若気の至りとはいえ、今まで生きてこれたのも、運が良かった。
若気の至りじゃ済まされない
自分は完全なペーパードライバーだからそんなこと出来ないけど、高速道路で、低速走行中のトラックを、正面からモロ煽り運転して、トラックが急停止して、荷崩れしちゃったんだけど、中身が精密機器で、ドラレコにモロ写ってた煽り運転したやつが億単位の損害賠償請求を科されたって事件があったらしいね。
しかも、自己破産したとしても不法行為の場合は免責されないから、煽り運転したやつは、生きてる限り億単位の損害賠償請求を免れないとか。
経済教室
民間の資産は増えているけど、それは将来不安によるもので、預金が増殖的に富を生み出す構図にはならず、むしろ、家計の資産が政府債務をファイナンスする構図が定着している。
預金がポジティブに富を生み出す構図を作るには、財政再建を始めとして、将来不安を取り除くことにより、実体経済の活性化が必要である。
政府債務に対する民間資金を見れば、まだ意外と余裕があるが、民間の預金をポジティブに富を生み出す構図に持っていかなければ、いずれは国家財政も危うい。
アドルノと個人主義
ハイデガーは、個人が共同現存在のまどろみから覚醒して、ドイツ民族としての使命に目覚めなければならない、と説いたわけであるが、それが、かつての神聖ローマ帝国という誇張を含んだ憧憬の土地を回復する、というドイツ民族の「使命」を掲げるナチスのプロパガンダと共鳴してしまった。
アドルノは、そもそもの共同現存在からの個人としての覚醒が、集団的暴走と親和性があったことを念頭に置きながらも、集団に埋没しない理性的な個人としての人間を提示した。
理性の暴力性に警鐘を鳴らしながらも、主体性の原史に既に刻印されている理性から逃れる道は、再び集団的暴走への道であると考えた。
計算的理性が近代的個人を産み出した源泉であるとしても、理性から逃走し、始源のまどろみへと回帰することはなお危険であると説いたのである。
漱石論-質問
読了してしばらく経ってから、行人がなぜ漱石の作品群の中でも特異な位置というか、別格の存在感を放っているのか、少し実感するところです。
あの話は、現代においても通用すると感じます。
後期漱石の主題というのは、男と女というのはカモフラージュで、実は、男同士の関係を描いたものではないかと考えるのです。
現代社会においても、男同士で、よき理解者というか、コイツは俺のことをわかっていてくれる、という存在が必要なのは、想像に難くありませんよね。
よき理解者が異性であれば、生殖に有利なのでなおさら都合は良いかも知れませんが、やはり、同性の理解者というのは、人生に必要な存在だと思われます。
「行人」の一郎には、弟や、あるいはHさんという候補者はいるけれども、理解者として決定的な存在ではない。
その意味においては、「こころ」の「先生」は、主人公を強引に理解者に仕立て上げようとしているフシがあるように感じられます。
実は、「先生」は、遺書を書いた後も、自殺しなかったのではないか?そう思えるのです。
なぜなら、主人公が「先生」の遺書を読んで、理解者になってくれる可能性はゼロではないからです。
そうである以上、どんなに恥さらしでも、一縷の望みをかけて、死ねないのではないか?
しかし、主人公が理解者どころか、「先生」を侮蔑するようなことがあれば、それは死よりも恐ろしい。そのように考えるのです。
漱石論ーご回答
続いて『行人』のコメントをお送り下さり、有り難う。
指摘下さった「男どうしの絆」は、文学理論としては、少し前に大流行した「ホモソーシャル」
(男性中心社会維持のための男性間の親密な関係性)に当りますが、漱石のとりわけ後期は
その典型を示すものと思われます。
小林君の指摘通りで、主人公たちはそれを渇望するのですが、適材が現われない。
次作『こころ』は、ようやく年下の青年「私」にそれを見出す物語ですが、その文脈は、やはり、
あらかじめ年下の「大学生」に対して、自分の半生をめぐる「人生の暗い影」を投げかけ、「教訓」に
してもらえたら、というもので、どこまでも「死」と引き換えの「言葉の授受」という大層な仕掛けを
伴ったものとなっています。しかも、「先生」が遺書を「私」単独に宛てるのは、締め括りの言葉に従えば、
「静」が生きている間、に限定され、それ以降は、彼が「あなた」と呼ぶ「私」に、「あなた方」みんなの
「参考」にしてもらうべく、それを一般に公開してもらうことを望んでいます。
その大きな意義を抜きには、「先生」の自尊心は、やはり「恥」と「罪」を含む過去を他者へ開くことは
できない、あくまで「死」が前提ではないかと思えます。「上」の「私」は、そんな先生を「人間を愛し得る―
愛せずにはいられない人」と言いながら、また「それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて
抱き締める事のできない人」とも評しています。漱石は誰一人として自分と同じ者はあり得ない「個」の
それ故の「孤独」を容易には晴らすことの出来ないものとして捉え続けていたような気がしてなりません。
「先生」をそのように評する「私」は、大学卒業後、「先生」から離れて暮らす郷里でのひと夏に、
次第に死へ向かいつつある実父と生活を共にしながら、喧騒をきわめる油蝉の鳴き声に却って
「心の底に沁み込む」ような「哀愁」――絶対的孤独?を味わう展開ともなります。
前作『行人』は、一郎、二郎を中心に、二人の間はもとより「一郎―Hさん」「二郎―Hさん」
「二郎―三沢」など、様々なホモソーシャルが描き分けられていますが、それぞれに、男どうしの親密が
共通の興味の対象ともなる女性に対する抑圧と表裏一体しているばかりか、その親密性の内実そのものも
また試されているような気がします。その中で、一郎に対して唯一、誠実な「Hさん」は、しかしながら
小林君も指摘するように役不足であるばかりか、あの「K」に同じくイニシャル表記――意味深長なような
気がしてなりません。
性の歴史
性的欲望という、普通に考えると捉えがたいものを人々に語らせ、「言説化」することで、同時に計算可能にしたわけです。それが、人々を内から管理する基礎になったわけです。
フーコー〈性の歴史〉入門講義 仲正昌樹 作品社 p.44
漱石論
まずはハイデッガー流のどうしても、一種、全体主義的傾向を感ぜずにはいられない「個の全体への埋没」――
これが西洋哲学自体の内包する問題であった旨のコメントにビックリ。指摘されてみれば、まさにナチスは西欧近代の
究極の究極、なのですが、ハイデッガーといえば、つい昭和初期の日本思想界を席巻した「近代の超克論」が想起され、
その源流ともなった西田哲学との類似性に言及されるのがお決まりなものですから、私などは、ついつい日本的集団主義と
引き付けて考えがちです。
逆に、西欧哲学そのものに内包されているこの傾向を抑止しようとするのがアドルノたち、なのですね。
「理性の暴力」が「主体性」の原史にあらかじめ刻印されている、との主旨は、よくよく反芻すれば実感的に納得できる
ものであると同時に、これほど『行人』の一郎をよく説明し得るものはない――近代的個を成り立たしめる「理性」とは、
同時にそのまま「理性の暴力」であることを免れない、ということか、と、ふと思い当たりました(間違っていたらごめんなさい)。
延長上に『こころ』の「先生」も説明できてしまいそうです。
『それから』の「代助」は、なるほど百合との官能的一体化へ自らを押し出すようにして、理性からの逃走を図るわけですが、
理性を放擲しきることができない、のでしょうね。その一瞬に三千代との姦通を自分自身に選択させるべく、自分を追い込んで
ゆくのですが、一方で「自然の昔」に還る、といった言い方で抑圧していた感性が解放されながら、同時に、姦通の合意を得た
その直後のシーンで、書斎は未だ百合の香に満たされているというのに、代助自身は庭に出て、百合の花弁を周りにまき散らし、
その散った花弁が白々と月明かりに照らされながら点々と散在する様を見つめたりしています。
ずっと気になっていたこのシーンは、上記の流れで解釈できるか、と、今、考え始めたりしています。
徹底的に近代を生きることで近代を問い詰め、そこに批評を打ち立ててゆくスタンスにおいて、アドルノらフランクフルト学派と
漱石は親近性を持っているのかもしれません。
円キャリートレードとは何か
俺:質問ばかりで済みません。円キャリートレードというのがよくわからないのですが、日米金利差で円安ドル高が進行するなか、ドルを持っている人が、円を買って、より安くて金利の高い海外通貨で稼ぐ、という意味なら、わからなくもないですが、それだったら最初からドルで円より安くて金利の高い通貨を買えばいいと思うし、円キャリートレードとは一体なんなのかよくわからないのですが。旧民主党政権の時にもそういうことありましたよね?あの頃から意味が良くならなくて。よろしくお願いします。
Nくん:キャリートレードは、低金利通貨で借入をして、高金利通貨を買うことです。レバレッジをかけて金利のスプレッドを稼ぐ取引です。
俺:ありがとうございます。返信遅れて申し訳ありません。正直まだわかってませんが、とりあえず。
Nくん:金融理論的には、裁定機会はないはずで、高金利通貨が低金利通貨に対して通貨安になるはずですが、実際にはそうならないことが多いです。つまり、金利差ほど通貨安にならないということで、キャリートレードで収益があがることになります。
例えば、ドル円100円。円金利1%、ドル金利6%とします。金利差5%あるので、理論上は裁定機会がないよう、1年後にドル円は5%円高になるはずです。
実際の円高が3%で済めば、5%-3%の2%分儲かるということです。借入しての取引なので、自分の元本が少なくても大きな取引ができるのが魅力です。日本でも、個人でレバレッジ50倍かけて為替取引できましたよね。
https://www.tutitatu.com/%E3%80%8C%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%89%E3%80%8D%E3%81%AE%E4%BD%BF%E3%81%84%E6%96%B9%E3%82%84%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%80%81%E4%BE%8B%E6%96%87%E3%82%84%E9%A1%9E/
手形の不渡り
町工場が、今日中に300万円調達しないと手形が不渡りになる、ていうシチュエーションで、主人公のサラ金業者から300万円借りるんだけど、主人公の先輩が、300万円から1枚抜き取って、主人公と豪華なランチ食べてから、町工場に渡すんだけど、町工場のほうは、テンパってるし、1万円足りないと文句言える立場でもないから、おおきにとかいって去ってくんだけど、ずいぶんえげつないことすんなー、と思ったね。いま、日経新聞の私の履歴書で、島精機製作所の創業者の話を連載してるんだけど、事業がなかなか軌道に乗らなかった頃、もう資金繰りがどうにもならなくなりそうな時、手形の不渡りだす訳にはいかないから、その前に電車にダイブしよう、なんて話までしたそうで、いま手形とかあんま使わないからピンと来ないけど、昔は手形の不渡りをだすっていうのは生死に関わる話だったんだな、と。で、島精機製作所の場合は、ギリギリのところで、窮状を察した義人がお金を貸してくれて、切り抜けた、なんて話でした。
内閣府のペーパー
そういえば、内閣府のペーパーかなんかに、フローとして見れば、経常収支が赤字になれば、国債を発行するのに、外国から借金しなければならなくなる、って書いてあったね。
現状では、民間の黒字が政府部門の赤字を上回っていて、その結果が経常収支の黒字として現れているわけだけど、その額も縮小して、1兆円を割ったし、政府部門はまずプライマリーバランスを達成しないことには話なならないんだから、経常収支が赤字になれば、フローとして見れば、国債を発行するのに外国から借金しなければならなくなる、というのが道理。
引用
「もっとも、巨額の財政赤字を抱える日本経済の現状を前提とすれば、経常赤字への基調的な転落は回避しなければならない。前出の(C式)「経常収支=民間純貯蓄+財政収支」から明らかなとおり、経常赤字に転落するということは、国内の民間資金余剰では財政赤字を賄えなくなり、海外からの資金調達が必要になることを意味するからである。国債の消化の多くを海外投資家に依存するようになれば、長期金利が上昇し、利払い費の増嵩から更なる財政赤字の拡大に繋がるという形で、「財政の持続可能性」を保つことが極端に難しくなるだろう。日本の場合には、経常収支の赤字転落を回避しつつ、財政再建を着実に進めていく手だてが不可欠なものになっていると言える。」
https://www.shinnihon.or.jp/shinnihon-library/publications/issue/eyi/knowledge/ec/2014-05-20.html
引用その2
「民間部門の貯蓄の黒字幅が縮小する一方、政府部門の赤字幅は縮小しない場合、その赤字のファイナンスを海外の資金に頼る必要が出てくるということである。」
https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html
「本来性」というジャーゴン
「本来性」という今やジャーゴン化した隠語が孕む<個>を<全体>へ解消しようとする志向、
とりわけ、これとの連関でよりいっそう顕在化してくるグローバリゼーションと並行的に進む
民族主義、ナショナリズムを初めとする原理主義の台頭が印象的なコメントでした。
ナチ以降のドイツの戦後社会や東欧の動きは、まさにそのもの――かつ、これらに象徴されるように
原理主義的孤立と排他は、皮肉にも文字通り「全球」的に進行しつつあるのでしょうが、わけても
日本の場合は、欧米やイスラムとはまた異なる様相の下、他者との摩擦や葛藤を経由することなく
ソフトに進行してゆくので、いっそう恐ろしいのかもしれませんね。
ふと、村上春樹の『1Q84』でおそらく作者からも読者からも最も愛されているヒロイン「青豆」が
憎悪しながら傾倒しているとしか評しようもない「証人会」――明らかに「???の証人」をモデルとした
宗教的原理主義のことを想起していました。時代を生きる以上、否応なく巻き込まれざるをえない
グローバリゼーションの嵐が強いる均一化に対して、東西を問わず、人はこんな形で抗い、憩いを求めるのだ
ろうか、と。『1Q84』は、明らかに「証人会」への依存と異性愛への依存を重層させ、近代の恋愛が祖型とする
所謂<対>なるものへの志向が最たる原理主義の1つの姿ではないか、とその限界を問うているような気がします。
「本来性」とは、まさに「起源」の捏造でもあるわけですね。
アドルノのハイデガー批判は有名なので何となく知ったような気になっていたのですが、きわめて具体的、明晰な形で
改めて説明、啓蒙を頂戴したようで、良い勉強をさせて頂きました。
有り難う。
遊びの社会学
私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。
しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。
リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。
しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。
p.90~93
信と不信
興味深い論考とコメントはいつものことながら、井上俊先生といえば、
学部・院生時代に学んだことのある印象深く懐かしいお名前で、
その名を小林君から聞くことになるとは、と、何とも感慨深いものがありました。
不信は実は信と表裏一体、近代という<他者>との遭遇が産み出した
社会現象だということですね。井上さんの筆致は論理的であると同時に
軽やかですが、この社会背景の下、ついついパラノイア的に<信/不信>の
ダブルバインドに囚われ、のたうち回ることになるのが漱石を初めとする
日本の近代の作家たちです。
井上さんといえば『死にがいの喪失』を想起しますが、なるほど彼の
最も著名な著作は『遊びの社会学』でした。
井上俊と井上忠司といえば、京大系が早くに世に送り出した社会学の
両雄のようなものですが、そういえば京大に似つかわしくもなく、若い
学問なのに社会学は東大に抗して善戦していますね。上野千鶴子然り、
そして東大社会学随一の見田宗介の一番弟子の大澤真幸さんが西下して
しばらく人環で教授を務めていました。京大が誇る文芸社会学の作田啓一先生の
後任です。
何だか懐かしい名前をいっぱい思い出してしまいました。
なお、「起源」の話ですが、なるほどデリダの「根源」のことですね。
柄谷行人の『日本近代文学の起源』が念頭にあったのですが、まさにそもそもの
起源はデリダ、ですね。柄谷はアメリカのイェール学派からの影響大で、この派は
ポストモダン思想を過激化しながら継承しており、柄谷氏もなかなかラディカルです。
上の社会学の話と同様、デリダの「差異」論には、私たちの世代の日本近代文学の徒は
随分、大きな恩恵を享受しています。
面白い話
内田先生が京大出身だったとは思いもよりませんでした。慌ててWikiを閲覧したら
京大を経て最終学歴は東大でおられるのですね。ついつい、初期の『探偵の社会学』を拾い読みしたまま
終ってしまっており、『国土論』には全く手が届いていませんでした。
ついナショナリズムの話といえば、社会学分野ではそれこそ大澤さんの名著『ナショナリズムの由来』を
ボチボチなのですが、最初の期待に反し――ある意味、氏の仕事の本来からいえば当然のことなのですが、
まずは西欧を基準とした普遍的ナショナリズムをめぐる論考で、ついついいい加減な読み方をしています。
内田さんの『国土論』は、ネットで調べてみれば「故郷」論を初め、日本の近代文学には必須の良書ですね。
なぜ、知らなかったのだろう、と猛省しつつ、大いに感謝しております。
本当に有り難う。
なお、大澤氏は用語に慣れてしまえば、論旨展開はやはり非常に論理的です。特に名著の1つ『不可能性の時代』は、
波長さえあってしまえば、お奨め図書について黙視の多い静大の学生から、びっくりするほど正確な書評レポートが
出てきて、しばしば驚かされます。きっと、面白かったのだろうな、と――結局のところはたいへん知的な「オタク」
擁護的論旨を含んでいるためのようです、小林君には合わない話かも、ですが。
師匠の見田宗介(Wikiでは内田氏も見田門下のようで、ほとんどの活躍中の社会学者の一体、何割を輩出しているのか
瞠目します)が戦後社会の動向を「理想の時代から虚構の時代へ」と展開した後を承けて、「虚構」(文芸ではセカイ系)の
壮大な夢に破れたのは「現実への回帰」でしかない、というのが骨子です。もちろん「虚構」への絶望を以て回帰される
「現実」が単純な現実主義であるべくもなく、自爆テロに象徴されるように、潰えたロマンチシズムの反転した現われであり、
時代の文脈としてはグローバリズムーーつまりは相対的な多文化主義に対する徹底した抵抗、即ち「原理主義」の相貌を纏っている、
といった展開になってくるのですが、前々便あたりで交わしていたグローバリズムの中の孤独の話とそのまま合致してきます。
つまりは求むべくもない超越的価値、絶対的な「他者」へのあくなき希求の反転としての現実上の相対的な「他者」に対する否定、
ここ登場してくるのが大澤の造語にしてかつて一世を風靡した「アイロニカルな没入」――不可能を認識しながらほとんど盲目的に
そこへ身を投ずる――です。文芸の世界にも――とりわけネット上で展開され続けているやや安直な小説の類の背景には
およそ根底にこの構造が横たわっているような気もします。
他に、これの1つ手前の時代までを論じた『虚構の時代』はオウムやナウシカあたりまでが射程に入っていて興味深いし、
東浩紀との対談『自由を考える』は、2人の現代を代表する思想家が共鳴しながらも微妙にして決定的な差異を柔らかに示しています。
初期のものでは『性愛と資本主義』が、実は性愛(異性に対する欲望)と商品をめぐる欲望がある意味、全く同質の現象でありながら、
美醜を分けるのは、恋愛が実は幻想であるにも拘わらず「only you」なる唯一無二の存在を希求する点が一見、純粋に見えるからにすぎず、
1つの幻想が崩れればまた次の幻想を追い求める無限連鎖は、つまるところは商品をめぐるあくなき欲望の下、貨幣が流通するのと構造的に
同一であることを論じて、恋愛が実は資本主義の申し子であるという、これは言い古された議論を卓抜に具体化しているのでは、と思われます。
セカイ系
内田さんの抜粋文は、いい加減な読み方から抱いていた内田氏の印象とはずいぶん異なり、
<戦後>をめぐる天皇の超越性をめぐる変質、<外部>の拒絶にしても、なるほどと深く納得される
ところです。こういう厚みを持った論旨展開は想像しておらず、お教え頂き、本当に有り難う。
その後の2通について、あわせご返信する形になってしまいますが。
大澤論は、グローバリゼーションについて論じている、のではなく、
グローバリゼーションという時代の趨勢の中で大文字を失った一般化の波に呑み込まれた個の消滅、
したがって文化の様相としては「多文化主義」という悪しき相対主義――一見、相互に尊重し合っているかのような
形をとりながら、実は全く通約性を持たぬそれぞれが個々バラバラに存在しているにすぎない状態を問題化し、
検討を加えている、といった体のもの、と私は受け止めています。
原理主義はグローバリゼ―ションへの「対立」であるよりは(当人たちはそのつもりでも)、その波に
呑み込まれつつある現代人の抵抗にもならない抵抗(抵抗はしてみても所詮不可能な)で、したがって大澤は
それを「アイロニカル」な没入――反語的没入、というか、全き没入など不可能なことをどこかで認識しながら
しかし没入せずにはおれない矛盾を含んだ状態として捉えられているのだと思います。
「セカイ系」は、上記の議論が一般に享受される一つ手前――「虚構の時代」(人がまだ現実への反措定として
虚構の世界に希望を持ち得た時代)と即応している、というのが一般的理解かと思います。一方でオウムとサリン、
他方でセカイ系――壮大な虚構がどこかで信じられている。これの潰えた後に現われるのが上記の状態で、
常々、村上ワールドに於ける『1Q84』を説明する手立てとしてはきわめて有効であるように感じています。
グローバリゼーション、というよりもその中で生じる「アイロニカルな没入」の議論が意味を持つのはこのあたりまで
(『1Q84』は2009-10の刊行)、で、絶望感が増す中で、その後の文芸及び文芸批評はよりベタな「現実との対峙」といった
日常的レベルへ着地してゆくようです。宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』はその牽引役ですね。宇野が勢いを増してゆく中で
大澤、東はオリジナルな新しい論は展開し切れていないような…。セカイ系の盛衰と命運を共にしているのは
その評論の性格から当然の成り行き、なのかもしれません。
岩盤規制
日本の医療制度という岩盤規制
https://style.nikkei.com/article/DGXKZO89161120Q5A710C1TZT001/
https://news.yahoo.co.jp/articles/2aef7c7e91a9bc8ed217434e131cd80fbba4003d
既得権益
「例えばその地域での総基準病床数(例えば5,000床)を1床でも超える事になってしまう病床数を有する病院の新設をしようとすると事前協議の段階で高圧的にこれを拒否し、病床数を減らさない限り事実上その病院の新設を認めないという運用をしてきました。」
http://www.ishigami-lawoffice.com/case/case06.html
ご回答(日笠完治先生より)
メールありがとうございます。
議院内閣制は、議会と政府の共同活動を前提としています。しかし、政府・内閣が暴走する場合には、議会のコントロールに服するという「責任本質説」に基づき、内閣は連帯して議会に責任を負い、議会下院は内閣に不信任の決議をすることができます。
とはいえ、議会多数派である与党議員が、政府・内閣の意向に承認ないしは追従する限り、政府・内閣は、多数議員に体現される民意に基づき、政治をリードすることになります。政府・内閣が暴走しているとして政府・内閣を抑止することができるのは、主権者である国民であり、選挙という手続きに基づき行われます。
日常的には、テレビ・新聞などのマスメディア、世論調査、SNSなどによる言論表現活動において、政府・内閣の暴走を批判することができます。しかし、政府の意見は、「政府言論」として政府の自制がない限り、たとえアジテーションであっても広く国民に広がるのが現実です。
ここまでは、ご質問の前提です。では、アメリカとイギリス、そして日本の立ち位置について考えてみます。
日本国憲法は、確かに、GHQの考え方すなわちアメリカ法思想を前提にしていますが、マッカーサーは、日本が戦前も議院内閣制の政治制度を採用したことを前提に、新日本国憲法の構想にあたっても議院内閣制の採用をすすめており、憲法改正のための帝国議会でも、違和感なく採用されています。
では、ご質問にあるように、議院内閣制において、現実的な政府の暴走は阻止できないのかという点を考えてみたいと思います。イギリスやアメリカにおける民主主義の前提は、二大政党制であると思います。対立する野党が政府与党を抑制するシステムは、現実的には、「政権交代」が国民の選挙によって起きるという事実だと思います。政府与党が一番恐れるのは、政権からの陥落であり選挙における敗北です。イギリスやアメリカでは、現実に政権交代がありますので、政治は次の選挙に勝つためという戦略的な限界あるいは制約があります。これを意識することは、反対者へ配慮として、温和な政治展開を現実的に保障することになります。
もっとも、激しい感情の発露は、「民意」にあります。主権者たる国民の感情換言すれば投票行動は、刺激に敏感で現実的生活や嗜好に左右されがちです。「ポビュリズム」が、一般大衆の感情的表現として用いられ、ポビュリズムによる政治が危険視されるのは、そのことを指摘しています。国民の感情エネルギーである民意を理性的にコントロールしないと、政治自体が暴走します。この例として、イギリスやアメリがの現状を上げるのは妥当ではないかもしれませんが、イギリスがEUから離脱し、アメリカが自国第一主義へと進路をとったことは、国民の感情的エネルギーと言えるでしょう。
一方、日本は、国民の感情的エルネギーが、国民から主体的に発散されているというよりは、政治指導者の思想や政治的判断が、国民に提案され、国民がその政治提案をよく咀嚼する前に、現実的な体制づくりが民主主義という名の下で推し進められているという傾向がありのではないでしょうか。
今から反省するとすると、政権交代を行うために、政党本位・政策本位の選挙制度構築ビジョンのもと、中選挙区から小選挙区選挙へと移行したことが、現在の強すぎる政府与党を作り上げていると思います。日本国民は、表向きは権力を尊重し権力へおもねる傾向を持つ国民であり、他人と議論することは避け、人に同じことを考え行うことを通常の判断原則としているように見受けられます。そのよう傾向持つ国民が、二大政党制に本当に馴染むか、一時の情に流されることなく、考え続けるべきかもしれません。
というわけで、日本において、政府の暴走を阻止することは、政治部門関係では、非常に困難であって、議院内閣制の制度的構造的欠陥とはいえないと思います。要はいかなる制度であっても、使用方法が大切であるということだと思います。例えば包丁と同じで、本来の使用とは別に人を殺傷するときにも使用できます。議院内閣制に関する評価も、国民の使用方法に左右されることになります。
政治部門の抑止は、お話ししましたように、権力分立に基づき、裁判所の役割となります。違憲審査権を有する裁判所が、政治部門の判断ないし活動について、どのような憲法判断を行うか、これが重要な法的課題となります。しかし、現在はこの憲法を改正とようとしているわけですので、国民の叡智の真価を問われていると言える現状です。
ご満足のいく回答となっているかどうかわかりませんが、今の考え方を述べさせていただきました。
日笠完治
憲法記念日
平成28年度2学期の放送大学東京文京キャンパスで行われた面接授業「統治機構を憲法から考える」を履修したものです。
いきなりで恐縮ですが、ひとつお伺いしたいことがあります。
日本国憲法第66条3項は「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。」と規定しています。
これはイギリス式の、議院内閣制を定めたもの、つまり、議会の信頼の上に内閣が成り立っている、と解釈できると思われます。
しかし、現況では、野党が弱く、与党議員の多くが当選2回のペーペーで内閣に到底モノを言えるような力がないなかで、内閣が暴走し、とても議会に連帯して責任を負っているとは言えない状況にあると思われます。
日本国憲法はアメリカ式と思われますが、アメリカであれば、大統領令に対しても積極的に違憲であると権力を発動しますが、日本ではそうではありません。
これは、アメリカ式の憲法を採用しながら、(戦後)イギリス式の議院内閣制を採用した日本の統治機構の構造的欠陥と言えるのでしょうか?
ご多忙のことと存じますが、ご回答賜れれば幸いです。
憲法記念日にて。
戦争と借金
確か山縣有朋だったと思うけど、ロシアの脅威を考えれば、朝鮮半島を支配下に置くことは絶対必要だったと言ってた。
なんでロシアと戦争したのか理由は忘れたけど、とにかく形だけでも勝ったことになってるし、南満州鉄道の利権や、中国東北部を獲たので、それは死守したい。
日本経済が第一次世界大戦の造船特需で発達すると、都市と農村の格差、都市部の貧富の格差などが問題となり、また、度重なる金融危機や、東北地方の冷害などで、ますます中国大陸、つまり満州への期待と依存が大きくなる。
そうすると、英米仏から危険視される。
それはともかく、日露戦争の時も、高橋是清が、ユダヤ人資本家シフから資金を調達して、ようやくどうにかなった、と仄聞するし、なんかやろうとすると、国の借金というのは、いつも問題になる。
シルクロード史への招待@茨城大学
ダニ・ロドリックは、ハイパー・グローバリゼーション、民主主義、国民的自己決定の3つは同時には達成できない、というトリレンマを提唱した。
日本の場合は、ハイパー・グローバリゼーションと民主主義のために国民的自己決定を犠牲にしている。なぜなら、ハイパー・グローバリゼーションとは、グローバルスタンダードを受け入れるということであり、金融のグローバルスタンダードを受け入れたことにより、サブプライムショックやコロナ危機など、グローバルなシステミックリスクにさらされ、それに対する政府・中央銀行が対応に迫られるのみならず、民主主義のもとで、打撃を受けた国民の利益を追求するために、財政が危機的な状況に陥り、ひいては財政運営のために外国の恣意的な影響にさらされる、つまり、国民的自己決定が阻害される。
中国の場合は、ハイパー・グローバリゼーションと国民的自己決定のために、民主主義を犠牲にしている。グローバルスタンダードを受け入れながら、国民的自己決定を保つには、言論の自由などの民主主義に不可欠な基本的人権を犠牲にしている。
以上のようなことは、国民国家を前提にしている。つまり、西欧政治理論を基礎にしている。このような体制は、歴史上ごく最近起こったことである。シルクロード史を学ぶことは、そのようなことに気づき、相対化するきっかけを与えてくれる。
中古車
トヨタのT-UPみたいに、大手の自動車会社が中古車市場に参入するのも、安い良質な中古車が市場に出回ると、新車が値崩れ起こすから、そうならないように、自社の中古車をちゃんと整備して、中古車の価格を高めに維持することで、新車の値崩れを防いでいる。
ビジネスと経済学@茨城大学
アメリカの事例だそうですが、ある料理店で、一番値段の高い商品が、生牡蠣だったんですが、売れなくて困っている。
どう解決したかというと、生牡蠣よりも更に値段の高い商品を出したところ、生牡蠣が売れるようになったそうです。
なぜこうなるのか?を論理的に説明する授業でした。
アベノマスク
敢えてまで安倍を擁護するつもりはないけど、アベノマスクは、全く無意味というわけでもなかったらしい。
なぜなら、マスクを買えるだけ買って、メルカリとかで高値で転売しようとする動きがあったから、政府がその気になれば国民全員にマスクを配るぐらいのことをできるという姿勢をしめせば、買い占め行為を抑制できるから。
実証的な検証結果はこれから出てくるそうだけど。
応用ミクロ経済学
小山台高校の生徒が、シンドラー社製のエレベーターに挟まれて死亡した事件があったけど、あれは、マンションの管理組合がメンテナンス代をケチって、他の業者に委託したのが発端らしい。
あんまり詳しく書くと、面倒なことになりそうだから、これくらいにしとくけど、シンドラー社製のエレベーターに欠陥があったというより、エレベーター本体の価格は低く抑えて、メンテナンス代で儲ける仕組みが災いしたのかも。
本体価格を低く抑えて、付属品などで儲ける商品の典型が、プリンター。
プリンター本体の価格は低く抑えて、インク代で儲けてる。
しかし、ここにもシンドラー社製エレベーターと同じ構造があって、高いインク代に目をつけて、第三者企業が代替インクを低価格で販売し始めて、それに対してプリンター会社が対抗策を講じたりとか。
とにかく、二日間で面白い話がたくさん聞けました。
BEI
デフレになると実質的に借金が重くなる、ということは、実質(的に)金利が重くなる、というのと、本質的には同じことだね。
英語では、実質金利のことを、BEI(ブレーク・イーブン・インタレスト)と呼ぶけど、つまり、チャラにした時の金利ってことだね。
なかなか直感的で本質的な表現だ。
医者と経済学
医者という職業を少し経済学的に考えると、価格は診療報酬として決まっていて、あとは点数稼ぐだけ、しかも、病床数も事実上制限されている、そのうえ、医者の数自体が抑制されている、つまり、供給量が限られている。
つまり、価格も支配してるし、供給量も抑制してる。
これはもう完全に供給側にとって圧倒的に有利だよ。
ニュースでやってたけど、東京都が、1日60回ワクチン打った医療機関に、17万5000円支給するとか言ってたけど、1日60回ワクチン注射するだけで17万円もらえるって、今どきどういう金銭感覚してんだろ?
まあ、そんだけ貰えれば、喜んでワクチン打つかも知れないけど。
経常収支アプローチの陥穽
経常収支黒字のうち、大きなウェイトを占めるのが、海外展開している企業からの利子・配当などの、いわゆる第一次所得収支だけど、つまり、経常収支が黒字と言っても、実際に利益を得るのは、企業の株式や社債などを保有している層。つまり、経常収支アプローチは、経済格差について解決策を提示できない。
プライマリーバランスとドーマーの定理
有斐閣経済辞典第5版によれば、ドーマーの定理(抜粋)の項に、「公債残高の対GDP比を発散させないためには、プライマリーバランスが均衡しているという前提のもとで、名目経済成長率が名目利子率を上回るという条件が必要になるというもの。」
との記述があるのですが、昨日先生から頂戴したメールの内容によれば、公債残高の対GDP比が発散しないために、必ずしもプライマリーバランス均衡は必要ない、というものだったと思われるのですが、それはどのような場合でしょうか?
(以下追加)
「仮にプライマリーバランス(PB)が赤字(利払い費の規模を超える債務残高の増加)でも、債務残高の増加率を上回るGDPの成長率が実現すれば、債務残高の対GDP比は低下します。」
とのご回答を昨日頂戴いたしましたが、この場合、かなり強気な名目GDP成長率を想定している、と考えて差し支えないのでしょうか?
強気な想定
>>かなり強気な名目GDP成長率を想定している、と考えて差し支えないのでしょうか?
その通りです。
利子率を超える速度で増加する債務残高について、
その対GDP比を一定に保てるほどの高いGDP成長率が必要になります。
経常収支と財政論
なぜ財政を論じる時に、経常収支が範疇に入らないかというと、経常収支なんてのは移ろい易いもので、理論の対象にしにくいってのはあるだろうね。
現実には、ドーマーの定理を満たしてない国なんて先進国でもいくらでもあるだろうし、かといって、しょっちゅうあちこちで財政破綻しているわけではない。実際には色んな要素が有り得る。
2022年3月6日日曜日
森本先生より
レポートはたいへん興味深く読ませてもらったばかりでなく、また
たいへん勉強になりました。
アドルノについては、ポスト構造主義が大きくクローズアップされた80年代から
しばらくの間、私たちでも手に取るような一般的理論書の引用、あるいは論文の
脚注で名前はよく知りながら、レポートを拝見して、初めてその具体的実像について
アウトラインを教えて頂いたことになります。
理性と個人の誕生に重きを置きながらも、それが疎外を産み出さざるをえない
一種の必然に対して、それを批判しながらも反動的な主客合一論へは与しない、
むしろ代償を支払いながら手にする「反省能力」に信頼を置く……
こんな感じで理解しましたが、何より漱石との親近性に瞠目に近い思いを
抱きました。漱石の文明批評は、いうまでもなく「近代」批判なのですが、
しかしけっして、傷だらけになりながらも獲得した「個人」を手放そうとはしません
でした、それが彼を果てしない葛藤に陥れたにも拘わらず。
レポートを拝見させて頂き、末尾の件り――アドルノの「疎外」批判が、
それを資本主義に固有の現象としてそこに帰させるのではなく、「主体性の歴史」
に「刻印」されたものとして把握しているとの括りに、漱石との類縁性を改めて実感
し直すと同時に、漱石論への大きな励ましのステップを頂戴する思いです。
本当に有り難う。
なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した
レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、
むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。
確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが
出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、
まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が
主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を
批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の)
反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。
漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。
しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという
この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード
だったのだろう、と、今、実感しています。
三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの
です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。
過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに
ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる
代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を
バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。
こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、
そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。
ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して
いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の
<近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。
だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。
鋭く深い示唆、そして暖かいコメント、本当に有り難う。
急ぎの乱筆となり、お許し下さい。
思想系の勉強をされている方だろうと拝察致しますが、どうぞ芳醇な実りを得られますようにと
お祈りしています。 森本隆子
労働生産性
結構有名な論争らしいんだけど、名前は忘れたけど、戦後GHQと労働省の役人がケンカして、GHQは、労働が先にあって、そこに人が就いてくる、という発想なのに、労働省の役人は、まず人が先にあって、彼らを養うに足る労働を創出するっていう話なんだけど、一見、後者の言ってることのほうが優しいように見えるけど、コロナショックで、アメリカは大量の失業者が出たけど、そこを逆手に取って、少ない労力でより多くの財を産み出す、つまり、労働生産性を上げたのに、日本は、正社員が守られる一方で、非正規は失業した上に、労働生産性が上がらず、アメリカとの差は更に開いた。
結局、日本は、ビジネスに対する捉え方が、時代の変化に付いていけず、固定観念として残ってしまった、ということだろう。
国土論
内田隆三の「国土論」を読んでいると、昭和という時代が、天皇を祭祀とした、報われない死者に対する祈りと負債観念の時代であったのに対し、平成という時代が、恋愛という虚構によって結ばれた「家族」という神話の時代であった、という構図が浮かんでくる。
「敗戦にいたるまで国土に固有の曲率を与えていたのは天皇の存在であった。だが、天皇が『われ 神にあらず』と表明したときから、天皇の像は国土に曲率を与える重力の中心からゆっくりと落下していく。重い力は天皇から無言の死者たちに移動する。聖なるものはむしろ死者たちであり、天皇もこの死者たちの前に額ずかねはならない。この死者たちはその痛ましいまなざしによってしか力をもたないとしてもである。それゆえ戦後社会が天皇とともに超越的なものを失ってしまったというのは正しくない。そこには報われぬ死者たちというひそかな超越があり、天皇は皇祖神を祀るだけでなく、この無名の超越者を慰霊する司祭として、ゆるやかな超越性を帯びるからである。」137ページ 国土論 内田隆三 筑摩書房
家族と資本主義
極めて難解な本だから、正確に要約するなんて不可能なんだけど、子供をエディプス三角形に閉じ込めて、去勢して、資本主義の果てしない再-生産に仕向ける「家族」というシステムそのものが、まさに近代の病なのかも知れない。
石原千秋さんの漱石論読んでると、近代的個人の誕生と、イエ制度の緩やかな崩壊とが、セットとして浮かび上がってくるんだよな。
有名な一節
シュレーバー控訴院長は、尻の中に太陽光線をきらめかせる。これは太陽肛門である。<それ>が機能することは確信していい。シュレーバー控訴院長は何かを感じ、何かを生産し、そしてこれについて理論を作ることができる。何かが生産される。この何かは機械のもたらす結果であって、単なる隠喩ではない。
証券投資理論の基礎レジュメより
Q:名目金利が年8%でインフレ率(CPI)が年5%のとき、実質金利は3%か?
ex.
100円の債券投資→1年後:108円
100円の消費財の組み合わせ→1年後:105円
のとき
1年後の108円の購買力=108/105=1.02857
(この投資の収益率:2.857%)
☆実質金利と名目金利、インフレ率(CPI)の関係
1+実質金利=(1+名目金利)/(1+インフレ率) ex.参照せよ
式変形して、すなわち
★実質金利=(名目金利-インフレ率)/(1+インフレ率)
つまり、デフレはマイナスのインフレ率なので、実質金利を上げてしまう。
フィッシャー効果
物価上昇の予想が金利を上昇させるという効果で、フィッシャーが最初にそれを指摘したところからフィッシャー効果と呼ばれる。ある率で物価の上昇が予想されるようになると、貸手が貸金に生じる購買力目減りの補償を求める結果として、資金貸借で成立する名目金利は物価上昇の予想がなかったときの金利(=実質金利)より、その予想物価上昇率分だけ高まる。(以下略)
有斐閣経済辞典第5版
https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html
カサノバ社長
日本マクドナルドのカサノバ社長って、もっと高く評価されるべきだと思うよ。
前任の原田泳幸さんの時代に、低価格路線とカフェ感覚路線に走った結果、コーヒー一杯で何時間粘れるか?みたいな風潮になって、女子高生がマックで屯する光景が当たり前になって、清潔感も失われた。
当然、収益力だって下がるだろうし、回転率も悪くなるだろう。
そっから建て直すのは、かなり難しいはず。
それを成し遂げたカサノバ社長は凄い。
日本政府も参考にすべき。
とは言え、今はコロナで外食産業は厳しいけど。
金枝篇
フレーザーの金枝篇のネタバレが、森の王殺しと、新たな王の再生の物語だったとすれば、そこには、死と再生という時間の断絶がある。
それに対して、連続した均一な時間という観念が、時刻通り運行される列車システムなどによって、人々に刷り込まれているのが、近代という時代の病の一側面と言えるかも知れない。
複利という金融システムが、連続した時間の観念の価値を、より強固なものにする。
森本先生より
頂戴したお便りは、一連の展開の中で、小林君自身で見事に自問しては解決されていて、私が言を費やすべくもなさそうなので、
いつものことながら、啓発を頂戴し、ふと考えたことなどを、御礼がてら記してご返信とさせて頂きますね。
いちばん鮮明に頭に残っているのは、『それから』と『行人』の通底性、で、ぼんやり私自身の頭にあったものが俄然、鮮やかに像を
結んだ感じで、ご示唆をいっぱい頂戴しました。石原氏も大いに自覚的なようで、代助と一郎の孤立、孤独を、己の行為はすべて自ずからな
己の意思に発したものであるべき――確か石原氏は著名な論考「反-家族小説としての『それから』」(『漱石と日本の近代』の「それから」論は
この論が下敷きです)では存在すべくもない「純粋な自己」の探求と呼んでいる――といった近代理性の徹底と行き詰まりに見ているようです。
そして、この疎外状況に在って、なおかつ主客合一、あるいは自然回帰の方向へは進まないスタンスがアドルノの歩みと自ずから軌を一にしている、といったようなことを――『それから』の百合の場面はその究極――、しばしば小林君とはやり取りして来たように思います。
ただ、あえてこの2作を比較してみるなら、『それから』は純粋な自己への無謀な賭け(∴ラストは自己破綻です)、『行人』ではそれが断念
されている――つまり始発点と終局点、といった布置が自ずと頭に浮かんでくるような気がします。おそらく、この『行人』における孤独な自己の在り方、というか、そのように一郎を読むスタンスが、石原論が一郎孤独論そのものを徹底追及はしない風情を感じさせる一因かもしれません。石原氏は、一郎は実は親族ネットワークから孤独に疎外されている、のではなく、そのような自己像を自ら創り上げることによって、初めて逆説的にアイデンティティを獲得している、といったようなことも述べているでしょう。その果てに、次作の『こころ』では「先生」はその淋しい自己を「明治の精神」なる空疎な記号に埋めるようにして亡くなってゆくことになります。
今回、小林君が改めて示唆してくれたドゥルーズの「アンチ・オイディプス」の話は、まだまだ勉強しなければならない私の課題の1つ、なのですが、今回、石原先生のお名前が何度か出て来ていたせいか、唐突に、氏の漱石関係の論壇デビュー作にも当たる『こころ』論が「『こころ』のオイディプス」で「先生―私」関係を問い直すものだったことを思い出しました。なるほど、「父―子」的な関係性が挿話に入り込んでくる漱石の後期作品にはきわめて有効な視点であることを痛感した次第です。いつものことながら、誠に有り難う。
なお、内田氏の大著については先日、図書館へ出向いた折に瞥見のみさせてもらったのですが、ついつい明治あたりが面白く、小林君の言う「恋愛という虚構で結ばれた「家族」の時代」あたりの現代関係は記憶に残っておらず…。ですので、きわめていい加減な話にて失礼の限りですが、私などの感触では、幻想としての恋愛とそれから成る家族像はむしろ戦後日本の専売特許で、その終幕に当る高度経済成長とともに終焉を見るもののように思えます。「戦後民主主義」の潮流の中で強烈なロマンチックラブ幻想が理想としてもてはやされ、「恋愛結婚イデオロギー」が隆盛を見、その結実が高度経済成長期の「企業戦士―専業主婦」から成るカップルとマイホーム主義。文芸史的には三浦哲郎さんの「忍ぶ川」(昭和35)あたりが1つのクライマックスで、最後が村上春樹の『ノルウェイの森』(昭和62)――実は純愛小説の意匠のもとに『ノルウェイ』作品の内実は既に上記の幻想が壊れたところから構築されているのではとさえ思えるのですが。その後から21世紀へかけては「脳内恋愛」(コンテンツ内の二次元世界の恋愛)――東浩紀のデータベース的消費の快楽が若者文化の主流へ押し上げられてくるのではと思われます。東の言う「動物的ポストモダン」の時代には、恋愛どころか他者や他者との関係性そのものがもはや喪失されている、というわけです。恋愛・恋愛結婚・夫婦家族の戦後の推移を、ざっとこんな感じで把握していますが、メールの文脈を取り違えていたらごめんなさいね。内田氏の著書は、またきちんと手に取り直してみたいと思っています。
ワクチンと原発
今回のコロナ狂乱にしても、数十年前に、ワクチンの副作用が大きくクローズアップされて、国内の製薬会社がワクチンを作らなくなったのが一因なんて話もあるけど、原発にしても、おそらく日本は自前で原発を作れない国になりつつある。それでいいんだろうか?
犬と意識
犬にも意識があったとして、バカな犬は殺処分していいけど、賢い犬は生かしておく、という論理もありうるかも知れないが、それって、簡単に人間にも適用できちゃうよね。
津久井やまゆり園のように。
意志疎通が出来ない人間は動物と同じように殺していいのか?
顔
なんか急にレヴィナスっぽい話だけど、人は他者から遥かに隔てられているにも拘わらず、他者の「顔」に、"既に"呼び掛けられていて、人間はそれに対する応答責任を背負っている。て、レヴィナスそのものだな。
人工知能と意識
今朝の日経に、人工知能に意識を宿らせられるか?みたいなことが書いてあったけど、自分では、自分の意識を感じることができるけど、他人に意識が宿っているか?って、実は確かめようがないよね。実感としてそう思ってるだけで、論理として自分以外の他者の意識の存在は確かめられるんだろうか?そもそも他者が存在するのかどうかすら、確かめようがないかも。
突拍子もない話かも知れないけど、18年間犬を飼った経験として、犬にも意識があるけど、それなら、なぜ人間は犬より高等な生き物なのだろう?そう考えるのは、人間の傲慢ではないのか?
棄てられた犬が、毎日毒ガス部屋に送り込まれて、焼かれるのが正当化されるのはなぜなのか?
いや、人間だって、それを正当化する理屈が圧倒的になれば、同じような扱いを受けてきたじゃないか。
人工知能に意識を宿らせることが出来れば、いくらでも意識をコピーすることが出来るだろうから、全く同一の自我を持ったマシーンが数限りなく存在する、というのは、とても気持ち悪い。
そもそも、自分の意識だって、子供の頃と、大人になってからとでは、明らかに違う。
結局、人間の自我というのは、自分の現在と過去を往還して、都合の良いようにストーリーを造り上げただけかも知れない。
人生は、偶然に支配されているのに、あたかも全て必然だったと思い込んでいるだけなのではないか?
判断
もちろん、既往症があって、高齢ならば、細かい体調の変化にも十分注意を払う必要があるんだけど、結局、どこを見て、どこを見ないか、あるいは、どこを見ないか、よりも、どこを過剰に見てしまっているか?という問題もあるかもしれない。
原発事故のあと、椿の葉の形が奇形だとか、イチゴの形がオカシイとか、蟻がぐるぐる円を描いて行進しているとか、水たまりに黄色い花粉が浮遊していて、これはイエローケーキなんじゃないか?などと騒がれたけど、実は、それは原発事故のはるか以前から、普通に起きていた現象なのに、不安心理に駆られた人たちは、そこに、過剰に意味を見出してしまう。
自分自身も経験あるけど、人間のメンタル自体が、細かい変化に過剰に意味を見出して、誇大妄想を抱いてしまうこともある。
細かい変化に注意することは大事だけど、見過ぎてしまうことも、判断を誤らせる。
では、なぜ、今回、母親の脳梗塞で、自分がおかしいと思って救急車を呼ぶ、という判断をしたのか?
それは、やはり、母親に過度の負担が常態的にかかっている、という前提があったからだろう。
それに、母親が健康番組をよく見ていて、こんな時は危ない、というシチュエーションの蓄積が、自分のなかにあったからだろう。
まったく同じシチュエーションというのはないと思うんだけど、人間の判断能力として、何かしら類似点を見出す、という思考パターンはありそうだ。とはいえ、それも間違いである場合も多々あるだろうけど。
微細な変化に、過剰な意味を見出して、しかもそこにパターンを当てはめてしまうことは、人間の判断力の重要な能力であると同時に、欠点でもあるかもしれない。
大学レベルの専門教育に意味があるのは、何でもかんでも知ろうとすることではなく、何かの分野で、これに関してはわかる、というレベルまで勉強することは、たとえその分野とは関係ないシチュエーションに遭遇しても、こんなパターンがある、あんなパターンもある、という引き出しが得られるからではないだろうか。
しかし、現代社会の病の一類型なのかもしれないが、こんな事態はかつてなかった、だから、今までのやり方、あるいは今までの学問は通用しない、という潮流は、この10年くらい、徐々に弱まってきたとはいえ、強かったように思われる。その右往左往ぶりが、結局は浅薄なスノビズムや、あるいは排外主義につながったと言えるかもしれない。
ただし、明治維新のように、本当に国の仕組みを根本から揺るがすような事態も、たまにはあるけど。
あるいは、東日本大震災の経験も、こんな事態はかつてなかった、だから今までのやり方ではダメだ。という心理を一般に広めたとも言えるだろう。安倍長期政権を支えた裏にはこのような心理も働いていただろう。
経常収支
質問: 今般の衆議院選挙の結果を受けて、安倍政権の経済政策が信任され、結果、日銀が緩和を継続すれば、世界経済への流動性供給の源であり続けることになり、特に、金利上昇の影響を受けやすいアジアの新興市場に日本発の流動性が流れ込むだろうという指摘もあります。
ここで、松原隆一郎先生は、「経常収支と金融収支は一致する」と書いておられるわけですが、実際に物(ブツ)が輸出入される、という実物経済と、例えば日銀が金融緩和で世界にマネーを垂れ流して世界の利上げ傾向に逆行する、という国際金融の話を、同じ土俵で括るのが適切なのか、という疑問が生じました。
回答:経常収支は一国で実物取引が完結せず輸出入に差があることを表現する項目です。日本のようにそれが黒字である(輸出が輸入よりも大きい)のは商品が外国に売れて、外国に競り勝って良いことのように見えるかもしれませんが、別の見方をすれば国内で買われず売れ残ったものを外国に引き取ってもらったとも言えます。国内では生産しカネが所得として分配されていて購買力となっているのに全額使われなかったのですから、その分は貯蓄となっています。つまり実物を純輸出しているとは、同時に国内で使われなかった貯蓄も海外で使わねばならないことを意味しているのです。こちらが金融収支なので、「経常収支と金融収支が一致する」のは同じことの裏表に過ぎません。
そこでご質問は、「日銀が国債を直接引き受けたりして金融緩和し続けている。このことは経常収支・金融収支とどう関係があるのか?」ということになろうかと思われます。けれども日銀はバランスシートというストックのやりとりをしており経常収支・金融収支はフローのやりとりなので、概念としては次元が異なります(「スピード」と「距離」に相当)。すなわち、金融収支はフローであり、日銀の金融緩和はストックなので、同じ水準では扱えないのです(スピードに距離を足すことはできない)。
しかしストックとフローにも影響関係はあるのではないかという考え方も確かにあり、そもそも一国内に限ってそれを金融資産の需給(ストック)と財の需給(フロー)が金利で結ばれるという考え方を示したのがケインズの『雇用・利子・貨幣の一般理論』でした。とすればその国際経済版が成り立つのかは重要な問題ではあります。この論点は多くの研究者が気になるようで、奥田宏司「経常収支,財政収支の基本的な把握」www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/Vol.26-2/09_Okuda.pdf
が論じています。参考にしてください。
https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX
旬報社
1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。
このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。
新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より
つまり、日本の内需の縮小と労働市場の貧困化は、企業の海外進出と表裏一体であり、その見返りとしての、海外からの利子・配当などの、いわゆる第一次所得収支の恩恵として現れる。
https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX
https://toyokeizai.net/articles/-/380494?page=4
時間感覚
やっぱり、近代以降の日本人て、本来は西洋の、ユダヤ教的な、最後の審判というゴールがあって、そこに向かって全力疾走するっていう時間観念に囚われてる気がする。
原武史先生が、日本への近代的な時間観念の導入として指摘するように、明治天皇がご覧になる前で、軍事演習を行う、ということも、三浦雅士さんによれば、軍隊というのが、均質な時間、均質な身体、そしてそれを支える大量生産であることを考えれば、均質な時間観念というのは、戦争であり、それを支える資本主義が要請するところでもあっただろう。
「三四郎」で、体育会でストップウォッチで時間を測る野々宮さんを、主人公が嫌悪する場面があるけど、なるほど、近代批判だな。
内需と第一次所得収支
内需の衰退と、第一次所得収支の黒字は表裏一体。
内需に見限りをつけた企業が、海外に出ていって、日本に社債の利子や、株式の配当を還流させた結果が、第一次所得収支の黒字。
つまり、本来は国内で働いて多くの人に行き渡るはずだった富が、単に金融資産を持ってるだけの人の所得に変化してる。
だから、これは富の分配の不平等の問題でもある。
エーリッヒ・フロムと共同体主義
エーリッヒ・フロムによれば、第一次的絆の喪失と、プロテスタンティズムのマゾ的心性と、ナチズムのサド的心性が、あたかもSMのような相互依存関係に陥ったことを問題視していたことを考えると、現代の日本社会でも、ある種の共同体主義は必要とされるんだろう。
漱石の一連の小説が、近代的個人の誕生と、concomitantに起こる旧いイエ制度の緩やかな崩壊を描いていることは、石原千秋が指摘するところでもある。
日本が、天皇を頂点とした想像的な父権社会という、全体主義の変奏曲を演じたのも、フロムの、第一次的絆の喪失という側面もあっただろう。
つまり、共同体主義と、全体主義との根本的な違いを明らかにすることが要請される。
ひとつ考えられるのは、共同体主義においては、自生的秩序や、コンベンションといった、保守的自由主義の効用が重視されるだろう。そこには、包摂できる範囲というものが、自と限界がある。
それに対して、全体主義は、メガロマニアックな神話が、exponentialyにメンバーを呑み込んでいく。
神話への退行は、現代社会の秘められた疎外の狡猾な顕れである、というのは、アドルノが指摘するところでもある。
その意味でも、詩は野蛮なのである。
戦後昭和の日本という国土を支配していたのは、天皇を祭祀とした、報われぬ死者に対する負債観念である。それが、実感として共有されている間は、日本という国土は、共同体主義であり得た。
だが、三島由紀夫がrevoltした〈生の哲学〉(内田隆三)が支配的になるにつれ、日本はただ経済的な豊かさと、マイホーム幻想以外の哲学を喪ってしまった。三島の自決は時代への警鐘だったのである。
グローバリゼーションという現象は、市場型間接金融という、世界中の人を信用力によって数値化するという、貨幣の計量的理性の暴力によって、世界全体を、ホッブズ的な自然状態に貶めた。アメリカや中国はそのような世界に秩序を与えるリヴァイアサンでもあるのだ。
無責任とエージェント制
オリンピックにしても、熱海のメガソーラーにしても、国の責任にして思考停止してる気がするけど、歴史的に、日本人が、国家との関係を社会契約論的に考えたことがないんだから仕方ないけど、国とか行政っていうマジックワードを出した途端、それを悪者にすることで全て解決したように考えるのは、間違いじゃない?
なんで、自分の事として考えられないの?
国とか行政のせいにして済ませるってのは、結局、問題を自分の事として考えることを放棄してるってことでしょ?
政官財の癒着とかいうけど、ぶっちゃけ父親は、最後は生コンの全国組織に所属してたから、官僚とかともよく話してたみたいだけど、例えば、東北地方に巨大な防波堤築くのも、確かにそれで業界は潤うし、自然も破壊されるけど、じゃあ、逆に、防波堤造らなかったら、世論が黙ってないでしょ?
そういう意味じゃ、日本は紛れもなく民主主義国家なんだよ。
結局、国がとか行政が、とか言いながら、最後は国民が、問題を自分の事として考えてるかどうかなんじゃないの?
とはいえ、確かに、国を代表する企業とはいえ、東芝みたいな会社が、株主総会で経産省に助けてもらったりしてて、全然ガバナンス効いてないけど、どんな大企業とはいえ、本来は、株主総会という民主的な手続きが最高の意思決定機関として存在するわけだけど、村上ファンドとかライブドアとかが、株主主権を唱えて、注目された頃、世論は、彼らを、カネの亡者みたいたに攻撃して、会社は誰のものか?という議論が沸騰したけど、結局はうやむやになって終わった。
あそこで、株主主権という考え方の意義をもっと真剣に考えて、もしその流れを止めなかったら、日本企業はこんな凋落を免れたかも知れない。
確かに、ブルドッグソースみたいな会社からすれば迷惑なだけかも知れないけど、企業は常に資本効率を意識した経営を心掛けるべきで、ひたすら同じ製品を同じように作ってればいいってもんじゃないし、そもそもそんなこと自体が無理なんじゃないの?
政治の話に戻ると、今は、ツイッターで呟くだけで、デモが起きる時代なんだから、国民の声が反映されないなんてイジケテないで、声を挙げて、選挙に行けばいいんだよ。
小選挙区制になって、より民意が反映されるようになって、選挙結果が極端になるようになったけど、それだけ、国民の意識と責任が問われるようになったということを自覚しないといけない。
全体主義と共同体主義
エーリッヒ・フロムによれば、第一次的絆の喪失と、プロテスタンティズムのマゾ的心性と、ナチズムのサド的心性が、あたかもSMのような相互依存関係に陥ったことを問題視していたことを考えると、現代の日本社会でも、ある種の共同体主義は必要とされるんだろう。
漱石の一連の小説が、近代的個人の誕生と、concomitantに起こる旧いイエ制度の緩やかな崩壊を描いていることは、石原千秋が指摘するところでもある。
日本が、天皇を頂点とした想像的な父権社会という、全体主義の変奏曲を演じたのも、フロムの、第一次的絆の喪失という側面もあっただろう。
つまり、共同体主義と、全体主義との根本的な違いを明らかにすることが要請される。
ひとつ考えられるのは、共同体主義においては、自生的秩序や、コンベンションといった、保守的自由主義の効用が重視されるだろう。そこには、包摂できる範囲というものが、自と限界がある。
それに対して、全体主義は、メガロマニアックな神話が、exponentialyにメンバーを呑み込んでいく。
神話への退行は、現代社会の秘められた疎外の狡猾な顕れである、というのは、アドルノが指摘するところでもある。
その意味でも、詩は野蛮なのである。
戦後昭和の日本という国土を支配していたのは、天皇を祭祀とした、報われぬ死者に対する負債観念である。それが、実感として共有されている間は、日本という国土は、共同体主義であり得た。
だが、三島由紀夫がrevoltした〈生の哲学〉(内田隆三)が支配的になるにつれ、日本はただ経済的な豊かさと、マイホーム幻想以外の哲学を喪ってしまった。三島の自決は時代への警鐘だったのである。
グローバリゼーションという現象は、市場型間接金融という、世界中の人を信用力によって数値化するという、貨幣の計量的理性の暴力によって、世界全体を、ホッブズ的な自然状態に貶めた。アメリカや中国はそのような世界に秩序を与えるリヴァイアサンでもあるのだ。
山県有朋
山県有朋が想定していた当時の状態は、西南戦争が終わった直後で、まだ日本が確固とした「管理された世界」になっていない状態だったと思われる。
ホッブズが想定するリベラリズムにおいては、人間は生まれながらに全ての権利を持っているが、その故に、放置するとお互いを殺しあう「自然状態」になるから、生存権だけを残して、それ以外の権利をすべてリヴァイアサンに預けてしまおう、という発想。
かなりラディカルなようだけど、完全に資本主義化が進んで、全員がアトムと化した世界においては、非常に有効な、秩序維持のための発想ではあると思う。
明治から大正になり、昭和になる、という時代を経るうちに、経済発展によって、生存そのものが危うくなるにつれ、政治家への信頼が薄れ、軍人への期待感が高まってくると、経済的に豊かだった頃には疎ましい存在だった軍部への憧れが湧き上がってくる。
もっとも、大正デモクラシーという思想的な百花繚乱の中で、自由主義のみならず、国粋主義もまた、成長してきた。
このような、多様な思想の中で、究極のリーダーとしての天皇の存在が、過剰な存在感を持ってしまった面はあるのかもしれない。
昨今も安倍ブーム一色のような情景を見ると、今からしたってそんなにおかしな状況ではないはずだ。
ホッブズ的なリベラリズムの上手い点は、高度に資本主義化された社会において、秩序維持を正当化するのに非常に適合的である面だ。
その意味では、戦前昭和において、天皇は「リヴァイアサン」でありえたのかもしれない。
しかし、そう考えると、(ホッブズ的)リベラリズムと、共同体主義は、どう棲み分けたらいいのだろう?
そして、共同体主義においては、どんな「象徴(=神)」が必要とされるのだろうか?
ここまで考えると、戦前昭和の天皇を頂点とする家父長制的な日本が、ホッブズ的な意味でのリベラリズムだったのか、あるいは、共同体主義だったのか、論理上の区別がつかなくなる。
日本が、天皇を頂点とした想像的な父権社会という、全体主義の変奏曲を演じたのも、フロムの、第一次的絆の喪失という側面もあっただろう。
つまり、共同体主義と、全体主義との根本的な違いを明らかにすることが要請される。
ひとつ考えられるのは、共同体主義においては、自生的秩序や、コンベンションといった、保守的自由主義の効用が重視されるだろう。そこには、包摂できる範囲というものが、自と限界がある。
それに対して、全体主義は、メガロマニアックな神話が、exponentialyにメンバーを呑み込んでいく。
神話への退行は、現代社会の秘められた疎外の狡猾な顕れである、というのは、アドルノが指摘するところでもある。
グローバリゼーションと本来性という隠語
放送大学はじめてすぐの頃、千葉の本部で千葉大学の先生の「ハンガリー近代史」の面接授業を受講したけど、グローバリゼーションには一言も言及しなかったけど、自分の考えとしては、グローバリゼーションが迫る均質化に対抗してか、ハンガリーも、ナショナリズムが興隆して、もともとは騎馬民族だったことを、野蛮というより、むしろ、ワイルドだろぉ?と、アイデンティティーとしてアピールしたり、歴代の君主を讃える広場をつくったり、特にマーチャーシュ大王という人を賛美したりとかして、さらに国粋主義がひろまり、右翼政党が力を持ち始めて排外主義が蔓延したりとか。ちなみに、ハンガリー民族のもとはフン族という説は、確証されていないらしい。
本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ)
グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。
むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。
やはりアドルノは卓見だ。
エーリッヒ・フロムによれば、ドイツの中産階級が没落して、さらにプロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサド的メンタリティーと、サド=マゾ関係を生み出し、人々が「自由から逃走」し、ナチス政権に従順に従ったそうだが、日本も、中産階級が没落し、政治的メシアニズムを待望するようになれば、政治的危機が将来において登場する可能性は十分ある。
日本においては、新自由主義的政策により、アトム化した労働者が大量に出現し、景気が悪くなればすぐに生活が困難になるような労働者が増加するにつれ、エーリッヒ・フロムが指摘したような危機的な条件はそろいつつある。
こころと原罪
特に象徴的なのは、「こころ」において、『先生』がKの頭を持ち上げようとした時に感じた、重さ、そして絶望。
その、原罪と言っても過言ではないほどの負債観念が、明治という時代に殉死する、という言葉とともに、読者を明治以降の日本人とともに、日本という大地に縛りつける役割を果たしたと言っても過言ではないだろう。
日本政治思想史
原武史先生の「日本政治思想史」によれば、定刻通りに運行される鉄道や、明治天皇が時計をはめながら軍事演習をご覧になることによって、時間と空間を支配した、とかなんとか書いてあったけど、これも三浦雅士さんが書いてたことだが、漱石の「三四郎」で、主人公が、運動会で野々宮さんが時計で競技のタイムを測定する様を描写しているけれども、まさに、戦争というものを念頭に置いてそのための均一化された時間、空間、肉体、工場、といったものが整備されてくるのが、近代化というものの一様相であるだろう。
その一方で、個人主義という考え方が登場してくるが、これはむしろエーリッヒ・フロムのいう「一次的絆」から個人が解放されて、あるいは疎外されて、アトム化していく有り様を表わしてもいるだろう。
そこに近代化と計量的理性的画一性の繋がりを看取すれば、アドルノ的な色彩も帯びてくる。アドルノもナチズム批判をしているわけだから、当然どこかで似てくるのは自然だが。
大正、昭和と時間が下るにつれ、産業化が進展するとともに、貧富の格差が拡がり、最終的には、政治家が国民から信用を失い、軍への人心の傾倒とともに、軍国主義の支配に収斂していった。
それは、フロムがナチズムに関して洞察した現象の一変奏曲でもあっただろう。
象徴の設計
軍人勅諭は、最初、西周が起草していて、カントの永久平和論を知っていながら、我々の生きる世界はまだその前の段階だから、戦争は避けられない、などと書いていて、理屈はそれなりに通ってるんだけど、山県有朋が考えたのは、徴兵されてくる連中は、そんな考える頭を持ってるわけじゃないし、特に、竹橋事件のように、近衛兵が給料のことで暴動を起こすような事態を見るにつけ、もっと、天皇が直に兵隊一人一人に、頭ごなしに問答無用で命令するような調子でなきゃダメだ、といって、福地源一郎に手直しさせるあたりが、リアリティーがあった。
その一方で、自由民権運動が兵隊の中に入り込むことを執拗に警戒し、とにかく兵隊は考えるな、ただ従え式に軍人勅諭を仕上げたのが印象的だった。
旧日本陸軍の、上官の命令絶対、超パワハラ体質の源流がここらへんにありそうだね。
松方デフレと自由民権運動
松方デフレも、西南戦争で戦費調達の為に紙幣を乱発したために、インフレが起きて、米価が高騰して地主が潤う反面、地租改正で小作農は困窮し、また不平士族の残党が、自由民権運動に走って、米価が高騰した為に金がある豪農の資金が、自由党を中心とする自由民権運動の資金源になっていたために、そういう豪農から資金を巻き上げる為に、敢えてデフレ政策を断行したってことらしい。
実際、松方デフレの後に、追い詰められた自由党員が、加波山事件や、秩父事件を起こしている。
グローバリゼーションと共同体主義
ヘーゲルもある種の共同体主義者なのかも知れないが、現代において、もはや国家を単位とした共同体主義を目指すことは不可能だろう。
そうであれば、グローバル化した現代社会においてviableな共同体主義とはいかなるものなのか、を考える必要がある。
しかし、共同体主義を強調し過ぎると、アーミッシュのような生活をしろという話になりかねない。
期せずして書いたように、政府という肥大化した「代理人」に対して、ジョン・ロックが市民の抵抗権を認めたように、現代社会においても、現代社会のあらゆる構図において見られるプリンシパル=エージェント関係の中での、自主的抵抗を自覚することが可能性として考えられる。
進化論と近代日本人
おそらく、進化論という発想は、明治から昭和の途中まで、今日の人工知能に対する脅威と同じか、あるいはそれ以上に、果てしない競争の脅迫観念として働いていたんだろうな。
「行人」の一郎も、明示はされてないが、その類いの脅迫観念に囚われていたのは明白。
蒋介石
ソースは昭和史発掘第2巻だけど、蒋介石のバックにアメリカがついてて、日本が蒋介石と敵対したのが、日米開戦の遠因になってるんだなー。
で、なんで蒋介石のバックにアメリカがついてるかっていうと、単純に、中国の利権が欲しいから。
なんかアウトレイジみたいだな。
たこ焼きと購買力
日本は安い国、という言説が定着しつつあるけど、確かに、海産物みたいに資源が限られてるものなんか特に、外国に買い負けてるらしいね。
それは実感としてわかる。
高校生の頃は、タコ焼きにちゃんとタコ入ってたけど、今はカケラだけだもんね。
実質金利がアメリカよりも高い現状で、他の新興国に比べても増価しないってのは、もう購買力で負けてるってことよ。
日本経済と少子高齢化
結局、日本経済の陥穽の一番の原因は、少子高齢化なんだよな。
少子高齢化で内需の成長が見込めないから、企業は海外に出ていっちゃう。
企業が海外に出ていっちゃうから、国内の労働市場が痩せる、それが、需要減に繋がり、更に内需を弱らせる、という負の循環。
国の借金にしても、一番厄介なのは、社会保障費。
少子高齢化で、毎年社会保障費の為に借金作って、それが将来世代にツケとして回される。
しかも、人口構成比と世代別投票率の格差で、その構造が是正されることもない。
今となっては、海外に出て行った企業からの利子・配当(第1次所得収支)の黒字で、なんとか持ちこたえてる。
「桜会」の野望
青年将校のクーデター未遂事件のところを読んでるんだけど、浜口内閣の金解禁とデフレ政策で、米価が下落して農村が疲弊する一方、財閥はカルテルを結んで価格を維持し、中小企業は没落、庶民の暮らしはますます厳しくなる、しかも、議会は足の引っ張り合いで機能不全に陥っている、という状況に対する、憤懣が、クーデター未遂という形に繋がるんだけど、戦後GHQが地主制度を廃止し、小作農を創出したのも、日本は農村が疲弊するとヤバいことになる、という教訓からなんだろうな。
桜会のクーデター未遂が、そのまま5・15事件、2・26事件に繋がっていくんだけど。
象徴の設計
思い起こせば、「象徴の設計」でも書いてあったけど、西南戦争で紙幣濫発してインフレが起きて、米価が高騰して地主が潤って、その資金が貧農や不平士族による自由民権運動の資金源になっていることをつかまえて、松方デフレでその資金源を吸い取るって話だったね。
松本清張によると
芥川龍之介の「ぼんやりとした不安」は、プロレタリア文学の台頭を予感し、その新しい時代の中で、自分のようなインテリブルジョア作家が生きていけるか、プロレタリア文学を乗り越えて、自分の作品が古典たりうるか?という不安もあったらしい。
もちろんそれだけじゃないとは思うけど。
負債観念
「負債」の観念を抱かせることが、社会全体を構成し、安定的に維持するための手段であるわけで、交換とか経済的利益は副次的な意味しかないわけです。先ほどお話ししたように、儀式に際して各自の欲望機械を一点集中的に活性化させますが、この強烈な体験を「負債」と記憶させて、大地に縛り付けることが社会の維持に必要なわけです。現代社会にも通過儀礼のようなものがありますし、教育の一環として意味の分からない、理不尽に感じることさえある躾を受けることがありますが、それは、この「負債」の刻印と同根だということのようです。「負債」の刻印が本質だとすると、むしろ下手に合理的な理由をつけずに、感覚が強制的に動員される、残酷劇の方がいい、ということになりそうですね。
<アンチ・オイディプス>入門講義 仲正昌樹 作品社 p.255
特に象徴的なのは、「こころ」において、『先生』がKの頭を持ち上げようとした時に感じた、重さ、そして絶望。その、原罪と言っても過言ではないほどの負債観念が、明治という時代に殉死する、という言葉とともに、読者を明治以降の日本人とともに、日本という大地に縛りつける役割を果たしたと言っても過言ではないだろう。
「交換とか経済的利益は副次的な意味しかないわけです。」
という言葉に注目すると、戦前、戦中の天皇像は、数値による計量化を超えた存在だったと言えるが、これは、イサク奉献における、アブラハムに対する神のごとき存在と言えるだろう。ここで、貨幣の暴力について考えてみたい。ここで注目したいのは、イサク奉献である。アブラハムと神の間にはエコノミーが存在しない。 人間世界における法的な比較衡量というのは、エコノミーの原理でもある。(目隠しをされた女神が天秤を掲げている像を想起されたし。) つまり、貨幣の暴力というのは、法的にも社会を物象化することを含意している。ネパールの山岳地帯の人々が、地震によって伝統的な石造り建築を失っても、また再建する。建築物は失っても、伝統的儀式によってまた復活するその姿は、経済的に豊かではなくとも、逞しく、そして、生き生きしているように見える。そこには貨幣空間のなかで現代人が奪われた何かがあるように見える。
もっとも、アドルノが主観と客観との絶対的な分離に敵対的であり、ことにその分離が主観による客観のひそかな支配を秘匿しているような場合にはいっそうそれに敵意を示したとは言っても、それに替える彼の代案は、これら二つの概念の完全な統一だとか、自然のなかでの原初のまどろみへの回帰だとかをもとめるものではなかった。(93ページ)
ホーマー的ギリシャの雄大な全体性という若きルカーチの幻想であれ、今や悲劇的にも忘却されてしまっている充実した<存在>というハイデガーの概念であれ、あるいはまた、人類の堕落に先立つ太古においては名前と物とが一致していたというベンヤミンの信念であれ、反省以前の統一を回復しようといういかなる試みにも、アドルノは深い疑念をいだいていた。『主観‐客観』は、完全な現前性の形而上学に対する原‐脱構築主義的と言っていいような軽蔑をこめて、あらゆる遡行的な憧憬に攻撃をくわえている。(94ページ)
言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ)
理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ)
これは、八紘一宇というスローガンが想起させるように、旧日本軍が、誇大妄想染みた発想で、世界を包含しようとしていたことに対する辛辣な警句と言えるだろう。
社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶められるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感じでしょうか。
これは戦前・戦中の天皇制の下での日本社会にも当てはまるのではないか?
一方で、戦争というのは、均質化された空間、時間、肉体、それを支える工場などが背後に控えている。原武史先生の「日本政治思想史」によれば、定刻通りに運行される鉄道や、明治天皇が時計をはめながら軍事演習をご覧になることによって、時間と空間を支配した、とかなんとか書いてあったけど、これも三浦雅士さんが書いてたことだが、漱石の「三四郎」で、主人公が、運動会で野々宮さんが時計で競技のタイムを測定する様を描写しているけれども、まさに、戦争というものを念頭に置いてそのための均一化された時間、空間、肉体、工場、といったものが整備されてくるのが、近代化というものの一様相であるだろう。
つまり、天皇制と戦争、それに伴う近代化というのは相互に絡み合っており、天皇という経済論理を超えた上部組織を、質・量的な政治経済体制という下部組織が支えていた、あるいは相互に補完し合っていた、と言えるだろう。
天皇機関説
昭和史発掘第4巻の天皇機関説事件のところ読んでるけど、めちゃくちゃ面白い!
単なる学者どうしの争いとかいう次元の話じゃなかったんだ!
論理自体は美濃部が一分の隙もないほど勝ってるのに、美濃部の理論が邪魔くさい政治家、実業界が、力ずくで、美濃部を排撃する。
現実の世界は、正しい理屈が勝つってもんでもないんだな。
零度の社会
ところで、現実の問題として、自立した個人から成る世界がすぐに出現するわけではない。他者は、他者を認知する者にとって異質な存在である。これを他者は「差異」であるということが同定された限りにおいてである。差異は同一性の下でしか正当性を持ちえない。同一性に吸収されない差異=他者は、排除される。それを可能にしていたのが、祖先の存在であり、また神であった。たとえ、異なる地位にあって、通常は口を聞くことも、顔を見ることさえ許されなくとも、共通の神を持っているという認識の下に、異なる地位にある者同士が共同体を維持する。地位を与えるのは神であり、それに対してほとんどの者は疑問さえ抱かなかったのである。(p.177~178)
(中略)
カースト制は、総体として、閉鎖的で完結的な世界を築く。そこでは、ウェーバーが「デミウルギー」と呼んだ、手工業者が村に定住し、無報酬で奉仕する代わりに、土地や収穫の分け前を受け取る制度が敷かれている。このような制度では、商品経済が発達する可能性はほとんどない。したがって、他者としての商人が、共同体内によそものとして現れる可能性は低い。
これに対して、市場論理が浸透した世界では、他者が他者として認知される。それは、複数の世界に属することを可能にする包含の論理によって律せられている世界である。このような世界が可能であるためには、共同体の外部に位置する他者の明確なイメージが築かれる。その推進者となるのが、商人であり、貨幣である。
それでは、なぜ貨幣が推進者となるのか。それは、貨幣を通じて、共同体の外部に存在するモノを手に入れ、みずから生産するモノを売却することが可能になるからである。共同体の外部が忌避すべき闇の空間でしかない状態から、共同体の内と外に明確な境界が引かれ、ある特定の共同体に属しながらも、その外部にも同時に存在することを可能にするのが、貨幣なのである。他者が、貨幣と交換可能なモノ、つまり商品を売買したいという希望を掲げていれば、それによって他者のイメージは固定され、他者の不透明性を払拭できる。こうして、貨幣は、共同体外部への関心を誘発していく。そして、カースト制のような閉鎖的な社会とは大きく異なり、ふたつの異なる世界において、同一性を築こうとするのである。
もちろん、誰もが商人になるこのような世界がすぐに出現するわけではない。そのためには、まず貨幣が複数の共同体のあいだで認知されなければならない。そして、マルクスが注視したように、多くの者が賃金労働者として「労働力」を売るような状況が必要である。そして、そうした状況が実際に現れてくるのが、マルクス自身が観察した通り、一九世紀のイギリスなのである。単独の世界に帰属することも、複数の世界に関わることも認める世界は、労働が労働力として商品になり、賃労働が普及する資本主義の世界においてである。(p.180~181) 「零度の社会」荻野昌弘著 世界思想社
共同体主義というのは、ある種の神を設定せずには、存続できないものなのだろうか?
吉本隆明が「共同幻想論」で説いていたことをなんとなく思い出すと、様々な神々と結びついたタブーや、物語が、ムラを支配する規範として働いていた。
ユダヤ民族が唯一神から、託宣を受けたのは、生存環境があまりにも過酷だったからだろうか?
少し具体的な話では、昭和史発掘を読んでいると、昭和天皇をご本人の意志を無視して、神として祭り上げていくムーヴメントが克明に描かれている。
簡単に言えば、国家があって天皇がある、というのではなく、万世一系の天皇がいて、国家がある、という考え方だ。
戦争をするには、そのほうが便利だということもあるだろう。
丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。
しかしながら天皇制が近代日本の思想的「機軸」として負った役割は単にいわゆる國體観念の教化と浸透という面に尽くされるのではない。それは政治構造としても、また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。(・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、それが制度自体と制度にたいする人々の考え方をどのように規定しているか、という、いわば日本国家の認識論的構造にある。
これに関し、仲正昌樹は「日本の思想講義」(作品社)において、つぎのように述べている。
「國體」が融通無碍だという言い方をすると、観念的なもののように聞こえるが、そうではなく、その観念に対応するように、「経済・交通・教育・文化」の各領域における「制度」も徐々に形成されていった。「國體」観念をはっきり教義化しないので、制度との対応関係も最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、目に見える効果をあげるようになった。ということだ。
後期のフーコー(1926-84)に、「統治性」という概念がある。統治のための機構や制度が、人々に具体的行動を取るよう指示したり、禁止したりするだけでなく、そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、それを当たり前のことにしていく作用を意味する。人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用)
エーリッヒ・フロムによれば、第一次的絆の喪失と、プロテスタンティズムのマゾ的心性と、ナチズムのサド的心性が、あたかもSMのような相互依存関係に陥ったことを問題視していたことを考えると、現代の日本社会でも、ある種の共同体主義は必要とされるんだろう。
漱石の一連の小説が、近代的個人の誕生と、concomitantに起こる旧いイエ制度の緩やかな崩壊を描いていることは、石原千秋が指摘するところでもある。
日本が、天皇を頂点とした想像的な父権社会という、全体主義の変奏曲を演じたのも、フロムの、第一次的絆の喪失という側面もあっただろう。
つまり、共同体主義と、全体主義との根本的な違いを明らかにすることが要請される。
ひとつ考えられるのは、共同体主義においては、自生的秩序や、コンベンションといった、保守的自由主義の効用が重視されるだろう。そこには、包摂できる範囲というものが、自と限界がある。
それに対して、全体主義は、メガロマニアックな神話が、exponentialyにメンバーを呑み込んでいく。
むしろ、明治という時代に人々を日本という「大地」に縛り付けたものはなんなのか?
「負債」の観念を抱かせることが、社会全体を構成し、安定的に維持するための手段であるわけで、交換とか経済的利益は副次的な意味しかないわけです。先ほどお話ししたように、儀式に際して各自の欲望機械を一点集中的に活性化させますが、この強烈な体験を「負債」と記憶させて、大地に縛り付けることが社会の維持に必要なわけです。現代社会にも通過儀礼のようなものがありますし、教育の一環として意味の分からない、理不尽に感じることさえある躾を受けることがありますが、それは、この「負債」の刻印と同根だということのようです。「負債」の刻印が本質だとすると、むしろ下手に合理的な理由をつけずに、感覚が強制的に動員される、残酷劇の方がいい、ということになりそうですね。
<アンチ・オイディプス>入門講義 仲正昌樹 作品社 p.255
特に象徴的なのは、「こころ」において、『先生』がKの頭を持ち上げようとした時に感じた、重さ、そして絶望。その、原罪と言っても過言ではないほどの負債観念が、明治という時代に殉死する、という言葉とともに、読者を明治以降の日本人とともに、日本という大地に縛りつける役割を果たしたと言っても過言ではないだろう。
ヘーゲルもある種の共同体主義者なのかも知れないが、現代において、もはや国家を単位とした共同体主義を目指すことは不可能だろう。
そうであれば、グローバル化した現代社会においてviableな共同体主義とはいかなるものなのか、を考える必要がある。
しかし、共同体主義を強調し過ぎると、アーミッシュのような生活をしろという話になりかねない。
期せずして書いたように、政府という肥大化した「代理人」に対して、ジョン・ロックが市民の抵抗権を認めたように、現代社会においても、現代社会のあらゆる構図において見られるプリンシパル=エージェント関係の中での、自主的抵抗を自覚することが可能性として考えられる。
アブラハムに対して、我が子イサクを殺すように命じた神のように、その計量可能性を超越した呵責のなさが、逆に共同体を構成する「絆」としての負債観念として刻印される、ということはあるかもしれない。
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