2022年3月7日月曜日
身体の零度
三浦雅士さんが「身体の零度」で論じた、戦争のための画一的で清潔な身体と、アドルノの記述した、個人の精神の物象化的同一性というのも、戦争がまた反面では工場における画一的かつ大量の生産体制を要求するものであることを考えれば、繋がりが見えてくる。
更には、核家族の中のエディプス三角形による去勢によって、労働・生産へのパラノイア的偏執への矯正もまた、〈近代〉の特徴であると言いうるのではないか。
漱石が愛に拘ったのも、それが資本主義に対する橋頭堡だと感じていたからではないか。しかし、「それから」において観念的抽象的な愛から、性愛的な肉感的な、具象的な感覚に投降した後においては、一層、資本主義化した社会の、歯車として生きていかざるを得ない我が身において、物象化を免れ得ない自身から抜け出よう、という足掻きに苦しんでいたのではないか。
資本主義に、貨幣を通じた理性的計量的画一性の暴力が潜んでいるとすれば、イサク奉献における神のアブラハムに対する苛虐さは、むしろ逆に画一的物象化からの解放であると見ることもできるのではないか。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
思秋期
ようやく、湿気が抜けて、カラッとした空気になりましたね。 一体いつまでジメジメしているのか、と思うと、それだけでだいぶストレスでしたね。 とりあえずあと数カ月は湿気からは解放される、と期待したい。 それにしても、イスラエル対ハマスの戦闘も、一応形だけは停戦合意に至ったのか、正直よ...
-
日本の家計国際投資、財政、経常収支の相互関係に関する深掘り分析 I. はじめに:日本のマクロ経済構造における家計国際投資、財政、経常収支の相互関係 本レポートの目的と分析の視点 本レポートは、日本の家計による国際投資の動向が、国の財政の持続可能性および経常収支に与える影響について...
0 件のコメント:
コメントを投稿