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菜根譚

指先に残る、消えない煤(すす)の匂い。 いくら洗っても、この「業」という汚れだけは、 皮膚の裏側にまで染み付いて、離れてはくれない。 鏡を覗けば、 そこには聖人でも罪人でもない、ただの男が立っている。 善も悪も、同じ火で焼かれれば、 最後には等しく、区別のつかない灰になるというのに。 私たちは、自ら編み上げた執着の檻の中で、 自由という名の空虚を、ただ眺めている。 捨て去ることができないのは、 その重みこそが、自分がここに居る唯一の証(あかし)だからか。 ふと、背後で誰かの視線が重なる。 それは私を許すためではなく、 この「業」を背負ったまま、果てしない荒野を歩けと命じる声だ。 救いなど、とうの昔に風に捨てた。 ただ、濁った澱みの底で、 自らの暖簾を、命の限り守り抜く。 すべてが灰に還るその日まで、 私は、私の宿命(さだめ)を、一滴もこぼさずに飲み干そう。 ただ、そこに在る。 逃れられぬ自分を、抱きしめたまま。

菜根譚

グラスの底に、逃げ場のない「澱」が溜まっている。 それは、捨て去ることができなかった執着か、 あるいは、正体もわからぬまま抱え続けてきた後悔か。 鏡を拭うたび、 自分でも気づかないふりをしていた、醜い輪郭が浮き彫りになる。 けれど、その濁りを含めて引き受けることこそが、 灰になるまで生きるということなのだろう。 世の中は、透明であることばかりを求めるけれど。 澱みのない水には、魚も、人の業も棲みつくことはできない。 ふと、他者の眼差しが、その濁った底まで見透かしてくる。 それは拒絶ではなく、 「お前は、その澱と共に、どう生きるのか」という静かな問いだ。 救いなんて、どこにもない。 ただ、澱んだ記憶さえも暖簾の一部として、 私は、この冷えた夜をやり過ごす。 すべてが灰に還るとき、 この澱みさえも、美しい模様に見えるのかもしれない。 ただ、そこに在る。 濁りながらも、揺るぎなく。

政治学入門(’26) 放送大学印刷教材より (再掲)

    ネオリベラリズムにおいては、市場の自動調整機能を全面的に信奉することで、可能な限りあらゆるアクターを経済的な競争者に、積極的に変えようとする。したがってネオリベラル達は、あらゆる人間関係を競争関係にしようとする傾向を持つ(かかる政策は、福祉国家政策と同様に、個人の生への政治的介入であるとさえいえる)。   この点で、社会主義が自由主義のなかに認めた、人間と人間とを疎遠にする傾向が強化されており、それは格差社会の蔓延という仕方で現れているとしばしば指摘される。   こうした自然的社会性や連帯の欠如を補うために、ネオリベラリズムは自由主義なら抵抗するような保守的な価値、例えば伝統的な家族主義や宗教的原理主義等と結びつく傾向がある。   こうした個人の分断という問題は、ネオリベラリズムのイデオロギーにおいては「自己責任」の倫理として表れる。   これは、福祉国家が生み出すとされる依存的な個人を批判するものであり、一種の倫理的な人間観ではあるが、社会関係のなかで人間本性が開花するとする、つまり人間の在り方は容易には認識できない仕方で社会関係のなかにあることを認めるという、ニューリベラリズムが持つ重要な要素に真っ向から対立する考え方である。   そしてこれは、人間は相互に依存するという一般的事実にも反する人間観でもあった。    放送大学「政治学入門(’26)」第7章126,127ページより

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 資料より (再掲)

     私は、 自分のもともとの性質が 「ここまでくらいはがんばろう」と課した限界の範囲で自己研鑽に励むときでさえ、謝罪や後悔もなく、自分のもともとの性質を「与えられた当たり前のもの」として受け入れており、そのようなとき、自分自身に対する「自己愛」を持っているのである。私の自我と私とは、一様にすべてのことを共有しながら、いっしょに多くのことをくぐり抜けてきた。私が彼(=私の自我)を支える限り、彼が私を失望させることはなかった。私は彼を叱ったこともあるが、けっして彼の本性を呪うことはなかった。彼には間違いなく欠点があるし、ひどくそうなのだが、その短所があらわになるとき、私はやさしく寛大にほほえむのである。彼のへまは、彼のような性質をもつだれからでも人が予想するようなものである。 人は 、これほどまできわめて近しくしてきた存在を憎むようにはなれない。好むと好まざるとにかかわらずこの人物 (=私の自我)に依存してきた全年月の後、どのようにして別の自我とうまくやりはじめることができるか、私は実際知らないのである。このように、自己同一性 (自分が自分であること)は、一種の約束による見合い結婚だと考えることができる。その見合い結婚は、安定的な人の中では真実の愛へと成熟するものだが、不安定な人の中では、堕落してしまって、恨み言と自滅へと至る。人の自己愛のもっとも真実の表現は、自身の善さへの献身であり、それは他の誰のものでもない自身のもともとの性質(そのような性質は不条理な、変なものかもしれない)の自己充足である。(「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)

落ち着く (再掲)

    信仰箇条と言うのは、非常に簡単なものなのです。つまり、次の様に信ずる事なのです、キリストよりも美しいもの、深いもの、愛すべきもの、キリストより道理に適った、勇敢な、完全なものは世の中にはない、と。実際、僕は妬ましい程の愛情で独語するのです、そんなものが他にある筈がないのだ、と。そればかりではない、たとえ誰かがキリストは真理の埒外にいるという事を僕に証明したとしても、又、事実、真理はキリストの裡にはないとしても、僕は真理とともにあるより、寧ろキリストと一緒にいたいのです。  (ドストエフスキー フォンヴィジン夫人宛て書簡)

漠たる (再掲)

  20年前東戸塚の日向台っていう精神病院に2ヶ月いたんだが、名前の通り日当たりのいいところで、要するに暑かった。心因性多飲症で今でも日々大量のお茶だの冷水だのが必要な自分には、冷水さえ滅多に飲めないのは苦痛だった。だいたい5月から7月の間だったと思うが、暑いのに冷水さえ飲めず、もちろん空調も効かない。たまに作業療法の時間があり、旧い建物の一室でビーズの編み物を作ったりしたんだが、飽きて薄暗いソファーベッドに寝転んで、俺はこんなところに居てこの先の人生は 一体どうなるんだろう?と漠たる、漠たるとしか言いようのない感覚に侵されていた。今年はそれから20年てことで放送大学のほうも親から資金援助してもらって岡山に10連泊したりなんかして、贅沢させてもらっているが、これは無意識なのか、急に気力・体力の衰えを感じる。お金がなけりゃ生きていけないのは現代人の宿命だが、母親が亡くなったらどう生きていけばいい?別に病気だって治ったわけじゃない。当然薬だって必要だ。我ながらよく頑張ったとは思うが、正直お金を稼ぐのは不得手だ。そもそも、そこまで要求するのはいくらなんでも酷なんじゃないか?かといって自殺する気はサラサラないし。人生100年時代?バカいうんじゃないよ。40ちょい生きるだけでこれだけ大変なのに、100年も生きろだと?単純に体の調子が悪いだけなのかも知れないが、なんだか急に疲れた。若いうちは気力だけは凄かったからどうにかなったが、その肝心の気力が涸れつつある。 (以下、「三十歳」坂口安吾より引用)  勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。  たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。  人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。  けれども...

「やさしい経済学」―金融が支配する世界― 増補 (再掲)

 今連載中の小倉将志郎中央大学准教授の「金融が支配する世界」は素晴らしい。そう、そこ! と膝を打ちたくなる。以下、連載第4回より   「一方、家計の経済活動以外の側面は、主に欧米で研究が進展しており、日常生活にも『金融的計算』が組み込まれているとされます。金融的計算という表現に定まった定義はありませんが、筆者はキャッシュフローを生み出す取引可能な存在を、量的に評価・把握し、最適な状態に管理しようとする姿勢と捉えます。その直接・間接の対象は教育、文化、余暇など多岐にわたり、社会のあらゆる対象が市場価格を持つことが前提とされるのです。」