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「はじめて学ぶ民法判例」 実務教育出版

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  さて、ようやく、債権に入りました。 ようやく、グッといわゆる「法律」と世間にイメージされる分野という感じですね。 基本、民法を勉強すると、総則や物権が先に来るので、世間一般がイメージする「法律」とは違うので、まずそこで萎えます。 でも、民法も学問なので、仕方ないです。 身も蓋もない言い方をすれば、だから、民法の知識を一旦理解してしまえば、民法のことをあまり知らない人よりも優位に立てる、という現実があるわけですが。 そこはいかんともしがたいです。

菜根譚

老いとは、生が炭のフィルターを通り、 極限まで濾過されていく日々のようだ。 かつての激しい情熱や、若さゆえの葛藤がすべて燃え尽き、 あとに残された「灰」が、静かに、優しく土へと還っていく。 これ以上燃え上がるもののない静寂と、かつて熱を帯びていた記憶の温度。 鏡の中に映る衰えを見つめるとき、そこにあるのは冷たい忘却ではない。 すべてを燃やし尽くし、大地の糧へと昇華させた人間だけが持つ、 一本の凛とした「暖簾」の佇まいである。 しかし、その静けさの裏側には、 ガラス細工のような脆さと、痛いほどの繊細さが隠れている。 皮膚が薄くなるように、心は外からの刺激に敏感になっていく。 若い頃には受け流せた一言に、深く傷つき、立ちすくむ夜もある。 だからこそ、多くを語らずともただそこにいてくれる存在のありがたみが、 灰を優しく抱き留める土壌に染み込む夕暮れの雨のように、 じんわりと、剥き出しの心に広がっていくのだ。 お互いの弱さをそっと受け止め、慈しみ合うその場所には、 かつてない、深く豊かな潤いが醸されている。 炭のように寡黙で、しかし大地のように温かい芯を持って寄り添い合うこと。 己の脆さと、かつて燃え尽きた痛みの跡を知るからこそ、 相手の頼りなさをも、その灰の温もりのようにそっと包み込める。 ぽつり、ぽつりと清らかな音を響かせ合いながら、 独りで舞台に立つ矜持と、他者とぬくもりを分かち合う慈しみを、両立させる。 その調和の土壌から、 明日の朝を静かに待ち望む、小さな希望の芽がふっと顔を出す。 誰もが脆さを抱え、かつて燃え尽きた過去を持ちながらも、 また新しく、大地を踏みしめて歩き出していける。 そのひかりこそが、老いゆく日々を、 どこまでも透明に、そして豊かに支えてくれる。

食卓の片隅に置かれた小さな器を眺めながら、ふと思うことがある。この白い結晶は、私たちの生を静かに支える最も原初的な「楔(くわすげ)」ではないか、と。 今でこそ、この白い粒をごく当たり前の日常の背景として受け入れている。しかし歴史をさらに深く遡れば、塩は決してありふれた調味料などではなかった。それは「白い黄金」と呼ばれた、国家の興亡をも左右する超一級の貴重品だった。 海から遠く離れた内陸や高地において、塩は金銀にも匹敵する富の象徴であり、それを巡って凄惨な戦争すら引き起こされた。ローマ帝国の兵士たちに支払われた「サラリウム(塩代)」が、現代の給与(サラリー)の語源となった史実は、塩がそのまま通貨の価値を持ち、生命を維持するための絶対的な生存権そのものであったことを物語っている。 かつて聖書が、社会の腐敗を防ぎ、陰ながら世界を支える存在を「地の塩」と呼んだとき、そこには私たちが忘れがちな「圧倒的な希少価値」への敬意が含まれていたはずだ。それは単に「地味で目立たない存在」を指すのではない。世の片隅にありながらも、その本質において「なくてはならない極めて貴きもの」であるという、揺るぎない自負の表明なのだ。 けれど、生の現場に転がっている塩は、最初から完璧な純白の結晶というわけではない。 手に入れたばかりの生塩(きじお)は、じっとりと湿気を吸って固まりやすく、奥底にはどこか尖った苦味──にがり──を孕んでいる。そのままでは、生活のスープをただ苦く、不快なものにしてしまいかねない。 だからこそ、私たちはその塩を、自らの内なる「焔(ほむら)」で焼かねばならないのだ。 土鍋に塩を盛り、静かに、しかし烈しい熱でじっくりと炒り上げていく。焔に焼かれることで、塩がまとっていた余分な湿気は消え去り、あの刺すような角(かど)や不純な苦味は、熱気の中へと綺麗に揮発していく。 焔をくぐり抜けた後に残されるのは、驚くほどサラサラとした、指先からこぼれ落ちるような純白の「焼き塩」だ。それは、どこまでもまろやかで、澄み切った、気高い塩気を持っている。 私たちが以前語り合った、あの「味」のことを思い出す。 生きていくなかで、私たちの内にはどうしても「苦味」や「澱(おり)」が沈殿していく。だが、その苦味をそのままにせず、自らの「焔」でじっくりと焼き、鍛え上げることで、それはただの不快な雑味から、人生を肯定...

警告

 俺は、ゆるキャラではない。 俺は、ゆるキャラではない。 もう一度言う。 俺は、ゆるキャラではない。 自分は、将来、行政書士を個人で開業することを目指している。 そんな大それたサービスを提供できるとは思えない。 しかし、自らの覚悟と、そして自分が(もしなれたら)行政書士として開業するための、土台を固めるために、今から警告しておく。 俺のところに来るなら、それなりの覚悟を持って来い。 俺は、誰に対してもニコニコ愛想を振りまくような、お客様商売をするつもりは、毛頭ない。 そんなことをすれば、メンタルも削られるし、結局資金的にも続かないことは、目に見えている。 こちらも、個人でSOHOを開業するからには、安全保障上のリスク、資金面でのリスクを背負っている。 だから、相応の対価も要求する。 (場合によっては、優遇もするかも知れない。それはその時の俺のフィーリング次第。) 従って、カスハラまがいのことをしてくる方を、顧客として相手にするつもりは、毛頭ない。 これだけは、肝に銘じておけ。 もう一度いう。 俺のところに来るなら、それなりの覚悟を持って来い。 クリーピング・デス

眼科に行ってきた。

 先月の初めに、網膜剥離の治療を受けて、その経過観察。 レーザー治療だったが、眼科医によると、「手術」ではなかったらしい。 急に蒸し暑くなったせいか、体にこたえる。 年齢とともに、肉体が衰えるのは、仕方がない。 でも、自分は、それも悪くない、と思っている。 なぜだろうか? 説明するのは難しい。 本当に身体の自由が利かなくなったら、そんなことは到底言えないだろう。 しかし、生身の身体の若々しさというのは、往々にして持て余してしまうものだ。 ・・・って、相変わらず説教臭いオッサンだ。 それはともかく、一応日常生活を送るのに、困難は感じない。 体力がある内に、スキルを蓄えておくことも、必要だと、思う。 そこらへんは、個々人の事情ってもんがある。 俺は、恵まれていた。 いや、恵まれている。 それでも、いや、それだからこそ、つい頑張ってしまう。 ここ最近は、民法の勉強が捗って、そんなに無理している積もりもなかったが、中年になってから新しいことを勉強する、というのは、案外体力が要るようだ。 もう、そんなに何でもかんでも吸収できるというものでもない。 結局、この3学期のあいだに、1度も面接授業には行っていない。 あしたは、放送大学の単位認定試験だ。 択一式だし、分量も大したことないはずなので、すぐ終わるはずだが、それでもそれなりに気力体力を削られるだろう。 でも、それが終われば、今学期の放送大学関連の行事はすべて終了だ。 若いうちというのは、自分の気力体力を過信して、つい我慢しすぎてしまったりする。 そうせざるを得ない状況においては。 だから、ご老人が、時に迷惑なくらい我慢が利かなくて、傍若無人だったりすることも、気持としては理解できるようになってきた。 彼ら、彼女たちは、若い頃に、我慢に我慢を重ねてきたのだろう。 それが、気力体力の衰えとともに、抑えが効かなくなってくる、というのは、ある意味では当然の事かもしれない。 自分だって、若い頃のようには、自分を抑えつけることは、もう出来ないかも知れない。 しかし、そんな時、やはり自分も人並みの人間なのだ、と実感する。 それは、ある意味救いでもある。 どんなに心身を鍛えたって、我慢できなくなる時というのは、あっていいのだ。 なにより、人生というものについて、ある種の諦念を交えて語れること自体が、中年に至った人間の特権とは言えない...

「はじめて学ぶ民法判例」 実務教育出版 (増補)(増補)(増補)(増補)(増補)

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      一度は、もう民法の勉強をしたくない、と思って、本棚にしまってしまったが、やはり翻意して、また読み始めた。  すんげえな。これ。 中身濃すぎでしょ。 いくら30年前の本だと言っても、この内容で定価1400円(当時)は破格。 今だったらたぶん中古でしか手に入らないから、実際にはもっと安い可能性もある。 資格取得のためとかでなくても、これを読み通したら、たぶん相当な力がつく。 いい買い物だ。 正直、民法を理解できる日なんて、永久に来ないと思っていたが、いい巡り合わせがあれば、なんとかなるもんだ。 もちろん、放送大学で「民法’22」を担当されている、慶応大学の武川幸嗣先生の講義があればこそだけどね。 ・・・いやあ、ちょっと間が空いたが、あらためて読み進めると、この一冊は凄いぞ。 民法のエッセンスがぎゅーっと詰まってる。 これを一冊読み通せば、どんな法律系の資格にも通用する民法の土台ができると思う。 ・・・いいね。 民法なんて縁がない、と思っていたが、わかるとすげえ役に立つし、面白い。 まさか民法をここまで、といっても大したレベルではないが、理解できる日が来るとは思わなかった。 ・・・今まで無視していた「練習問題」に手を付けてみたが、超すげえ。 基礎をしっかり堅められる。 無駄に何冊も問題集買わなくて済む。 これはほんとすげえ。 エグい。 ・・・さて、気を取り直して、また民法の勉強だ。 ちょこちょこ行政書士試験の過去問を見たりするけど、この一冊を隈なく理解しておけば、そんなに怖くないことが、わかってきた。 ・・・これはすげえわ。 民法をナメてた。 たしかに、この一冊を通して勉強したら、その知識は、売り物に出来る。 単に行政法の知識と俺という客寄せパンダに頼ったビジネスモデル以上のものだ。 ・・・結局、資格取得のためというより、まずは自分のためなんだろうな。 民法を勉強するのって。 父親が生きてた頃は、良くも悪くも何事も父親のうかがいを立てなければいけなかったから、自分は、ただもうやむにやまれぬ時だけ、お願いすれば、出してもらえたから、考える必要なかったけど、今は、家計を姉に管理されてるから(⇚姉のカネというわけでもないのに)、自分の障害年金まで不当に支出しなくていいようにするには、やっぱりもっと民法を勉強しなくちゃいけないんだ...

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 資料より (再掲)

      私は、 自分のもともとの性質が 「ここまでくらいはがんばろう」と課した限界の範囲で自己研鑽に励むときでさえ、謝罪や後悔もなく、自分のもともとの性質を「与えられた当たり前のもの」として受け入れており、そのようなとき、自分自身に対する「自己愛」を持っているのである。私の自我と私とは、一様にすべてのことを共有しながら、いっしょに多くのことをくぐり抜けてきた。私が彼(=私の自我)を支える限り、彼が私を失望させることはなかった。私は彼を叱ったこともあるが、けっして彼の本性を呪うことはなかった。彼には間違いなく欠点があるし、ひどくそうなのだが、その短所があらわになるとき、私はやさしく寛大にほほえむのである。彼のへまは、彼のような性質をもつだれからでも人が予想するようなものである。 人は 、これほどまできわめて近しくしてきた存在を憎むようにはなれない。好むと好まざるとにかかわらずこの人物 (=私の自我)に依存してきた全年月の後、どのようにして別の自我とうまくやりはじめることができるか、私は実際知らないのである。このように、自己同一性 (自分が自分であること)は、一種の約束による見合い結婚だと考えることができる。その見合い結婚は、安定的な人の中では真実の愛へと成熟するものだが、不安定な人の中では、堕落してしまって、恨み言と自滅へと至る。人の自己愛のもっとも真実の表現は、自身の善さへの献身であり、それは他の誰のものでもない自身のもともとの性質(そのような性質は不条理な、変なものかもしれない)の自己充足である。(「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)