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ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 資料より (再掲)

     私は、 自分のもともとの性質が 「ここまでくらいはがんばろう」と課した限界の範囲で自己研鑽に励むときでさえ、謝罪や後悔もなく、自分のもともとの性質を「与えられた当たり前のもの」として受け入れており、そのようなとき、自分自身に対する「自己愛」を持っているのである。私の自我と私とは、一様にすべてのことを共有しながら、いっしょに多くのことをくぐり抜けてきた。私が彼(=私の自我)を支える限り、彼が私を失望させることはなかった。私は彼を叱ったこともあるが、けっして彼の本性を呪うことはなかった。彼には間違いなく欠点があるし、ひどくそうなのだが、その短所があらわになるとき、私はやさしく寛大にほほえむのである。彼のへまは、彼のような性質をもつだれからでも人が予想するようなものである。 人は 、これほどまできわめて近しくしてきた存在を憎むようにはなれない。好むと好まざるとにかかわらずこの人物 (=私の自我)に依存してきた全年月の後、どのようにして別の自我とうまくやりはじめることができるか、私は実際知らないのである。このように、自己同一性 (自分が自分であること)は、一種の約束による見合い結婚だと考えることができる。その見合い結婚は、安定的な人の中では真実の愛へと成熟するものだが、不安定な人の中では、堕落してしまって、恨み言と自滅へと至る。人の自己愛のもっとも真実の表現は、自身の善さへの献身であり、それは他の誰のものでもない自身のもともとの性質(そのような性質は不条理な、変なものかもしれない)の自己充足である。(「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)

「グレート・ギャツビー」 スコット・フィッツジェラルド 村上春樹訳 中央公論新社 末尾

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      ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。・・・そうすればある晴れた朝に― だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。 夜明けのうた  

『ヨハネによる福音書』第12章24節 (再掲)

    誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麥、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。 タペストリー  

灰 (再掲)

   火が消えたあとに残るものは、敗北の象徴ではない。それは、何かが熱狂的に、あるいは静かに生きたという「完遂」の証明である。 私たちはつい、赤々と燃える炎にばかり目を奪われる。上昇する火の粉や、闇を切り裂く光に生の躍動を見出し、それを美徳とする。しかし、火はやがて消える運命にあり、その後に残る「灰」こそが、その存在が確かにそこに在ったという重みを持って横たわっている。 灰は、もうそれ以上燃えることがない。情熱や野心といった、形を変え続けるエネルギーから解き放たれ、一つの最終形態に到達した姿だ。それは極めて無垢で、かつ頑固なまでに沈黙している。触れれば脆く崩れ、風が吹けば跡形もなく散ってしまうかもしれない。だが、その一粒一粒には、かつて木であったり、紙であったり、あるいは誰かの想いであったりした頃の「記憶」が、極限まで凝縮されている。 興味深いのは、灰がかつての形を完全に捨て去りながらも、どこか凛とした佇まいを保っていることだ。白く、あるいは淡い灰色に染まったその姿は、余計な装飾を削ぎ落とした末の「骨格」にも似ている。 「灰になるまで」という言葉がある。それはしばしば、心身を使い果たすまでの献身として語られるが、見方を変えれば、それは一つの純化のプロセスでもある。不純物を焼き尽くし、最後に残ったエッセンス。そこには、燃えている最中の喧騒よりも深い静寂と、ある種の知性が宿っているように思えてならない。 暖簾を掲げ、日々を営む。その営みの中で、私たちは絶えず何かを燃やし続けている。言葉を燃やし、時間を燃やし、時には自分自身の命を削るようにして熱を生む。その果てに残るものが、美しく清らかな灰であるようにと願うのは、きっと表現者としての本能なのだろう。 灰は、終わりではない。それは次なる季節の肥料となり、あるいは静かに大地に還り、新しい生の土台となる。 燃え尽きることを恐れる必要はない。ただ、その火が何を目指し、何を照らしたのか。その軌跡さえ失われなければ、最後に残る灰は、何よりも気高く、優しい輝きを放つはずだ。

澱 (再掲)

  澄み切った水面を保つためには、流れを止めてはならないと人は言う。 だが、流れることを拒み、滞留することを選択した場所にしか生まれないものがある。それが「澱」だ。 澱は、かつて鮮やかな色彩を持っていた何かが、時間の重みに耐えかねて崩落し、底へと辿り着いた姿である。それはもはや、かつての形を留めていない。名前を失った記憶、賞味期限の切れた情熱、そして、誰にも手渡されることのなかった言葉の死骸。それらが堆積し、層を成し、音もなく底にへばりついている。 ふとした瞬間、私たちはその澱を「汚れ」だと錯覚し、かき混ぜて消し去ろうとする。しかし、かき混ぜれば混ぜるほど、視界はただ濁るだけだ。澱は消えるのではない。浮遊し、私たちを包囲し、呼吸を困難にさせるだけだ。 むしろ、必要なのはその濁りを受け入れ、再び沈殿するのを待つ静寂である。 底に溜まった澱は、私たちの「履歴」そのものだ。 どれだけ言葉を尽くして自分を透明に見せようとしても、器の底にあるその暗い重みが、その人の声に独特の響きを与え、眼差しに深みを与える。透明な水は美しいが、そこには何も育たない。澱があるからこそ、水は「土」としての機能を持ち始め、そこに何かが根を張る余地が生まれる。 書くという行為は、この底に溜まった澱を、そっと指でなぞるような作業に似ている。 すくい上げれば指の間からこぼれ落ちてしまうような、定義不能な重み。 それを無理に結晶化させるのではなく、ただ「そこにある」と認めること。 私たちは、自分自身の澱から逃れることはできない。 ならば、その重みに身を任せ、暗がりに沈殿する沈黙を、愛しみながら生きていくしかない。 それが、動きを止めた者だけに許された、静かな贅沢なのだから。

菜根譚 (再掲)

  静寂の中に、透き通る青。 降り積もる灰と澱が、不純な執着を静かに濾過していく。 終わりのない蒼穹の深みに、あえて無防備に身を預ける。 突き放された分だけ、己の青さを噛みしめる。 四十を過ぎて、なお。 紺碧の淵に映る自分は、迷いさえ捨てきれぬ初心者のまま。 灰の下、澱となって熱を帯びる青い迷い。それこそが地を踏みしめる重力だ。 その不器用な足取りこそ、私が私を生きている証。 ぐいと一口。 喉を駆け抜ける冷たさが、凍てついた刻を鮮やかに弾く。 偶然を間引けば、人生は色のない空っぽの器にすぎない。 情けなさという澱。それが沈むから、青はこれほど奥行き深く、美しい。 重ねた汚れや灰は、そのまま愛すべき風景になった。 ずっと探していた鍵は、外には落ちていない。 運命の青に焙り出された、自分の胸の、この体温。 青という名の、鍵が在る。 私は、私。それでいい。

光 (再掲)

   「光を見た」という言葉には、どこか救済の響きが伴う。しかし、私たちが日々目にしている光の多くは、実はそれ自体が見えているわけではない。光が何かにぶつかり、跳ね返り、その対象の輪郭を浮き彫りにしたとき、私たちは初めて「そこに光がある」と認識する。 光とは、常に「他者」を必要とするメディアなのだ。 窓から差し込む一筋の陽光が、宙に舞う微細な塵を黄金色に輝かせる。もしそこに塵がなければ、光はただ透明なまま通り過ぎ、虚空を突き抜けていくだけだろう。私たちの生もまた、これに似ている。何もない空白の時間を歩んでいるつもりでも、誰かの言葉や、ふと手にとった書物の熱、あるいは予期せぬ躓きという「塵」にぶつかることで、自分という存在の軌跡が光として可視化される。 思えば、眩しすぎる光は時に残酷だ。それはすべてを白日の下に晒し、影を消し去ってしまう。だが、真に豊かな光とは、深い陰影を連れてくるもののことをいうのではないか。谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』で説いたように、闇があるからこそ、磨かれた漆器や古びた柱の肌に宿る微かな光が、言葉以上に雄弁に物語を語り始める。 情報が光の速さで駆け巡り、あらゆるものが過剰なまでに照らし出される現代において、私たちは「照らされすぎること」の疲弊の中にいる。そんな時こそ、自らの内側に、静かな闇を蓄えておきたい。 光は、遠くから降り注ぐものだけではない。 暗闇の中で目を凝らし、沈黙の中に耳を澄ますとき、自らの内側からじわりと滲み出すような、体温を持った光がある。それは他者に誇示するための輝きではなく、ただ自分が自分であることの証として、ひっそりと灯される「暖簾」の灯火のようなものだ。 今日もまた、世界は光と影の織りなす綾で満たされている。 その中で、どの光を拾い上げ、どの影を慈しむか。その選択の積み重ねが、いつか私という人間の、たった一つの物語を形作っていく。