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うつ日記

 こんなにウツなのは、久しぶりだ。 人生で2番目くらいにウツだ。 高校生の時にどん底を味わったが、あれに比べれば、大したことはないが。 なぜなら、もう二度とあんな思いをしないように、何重にも予防線を張って生きてきたのだから。 さて、ウツな時は、なるべく人との接触を避けたい。 それは、俺のアタマがあまり回らないせいで、相手に不愉快な思いをさせてしまうと、結局自分に跳ね返ってきて、ツラいからだ。 断っておくが、いまほとんどアタマがまわっていない。 アリピプラゾールも飲んだし。 アリピプラゾールはいい薬だ。 アタマの感度を、適度に下げてくれる。 思念というのは、ジッとしていても、脳内を廻る。 それは、あたかもキリがなく降ってくる宇宙線に、脳神経が勝手に反応しているようなものだ。 それにイチイチ反応していると、それだけで疲弊してしまう。 それくらい、「何も考えない」というのは、難しいことだ。 ウツなときほど、そのことが身に沁みる。 考えたくないときほど、考えてしまう。 考えることに、敏感になってしまう。 アリピプラゾールは、その感度を、心地よく下げてくれる。 こういう精神状態の時は、なるべく雑な情報から、自分自身を避難させなくてはならない。 インターネットで余計なことを検索したり、予想もせずにノイズが飛んでくるテレビなど、もってのほかだ。 案外、自分のブログを読んでいるのが一番気休めになるくらいだ。 それは、30年くらい前にウツのどん底を味わったときに得た教訓を、いま活かしているようなものだ。 自分自身で緻密に編み上げた論理のタペストリーを、なぞるように眺めること。 アタマが正常にまわっていた時の自分自身の思考回路の蓄積を、舐めるように辿ることで、ノイズを発している脳に、そう、お前は物事をこんな風に考える人間なのだ、と、自分自身に教えてくれる。 ある意味最強の灯火だ。 自分が長年ブログを書き溜めてきたのは、そのためだったとさえ言えるかも知れない。 ちょっとBGMが欲しいな、と思って、ずっと聴いていなかったけど、キャロル・キングを流している。 いいな。 こんなとき。 割とテンション高めなのに、雑な感じがぜんぜんしない。

この国はもうダメかも知れない。

 高市首相が、補正予算を組むように指示を出したとか。 補正予算を組まない、という前提で、過去最大の本予算を組んだにも関わらず。 もう、この国はダメかも知れない。 借金依存体質ってのは、結局生活習慣病みたいなものだから、毎年毎年借金だのみ、借金を借金で還してるような国が、いきなりプライマリーバランス黒字化を達成出来るわけがない。 もう、生活習慣病と同じなんだから。 父親も、糖尿病と、喫煙による高血圧という、典型的な生活習慣病だったけど、父親ほど意志の強いひとでも、生活習慣病は治せなかった。 そして、最後は肺炎という、一番苦しい死に方をした。 日本が同じ途を辿らない保障など、どこにもない。 もう、流れに身を任せるしかないのかも知れない。 最終的には、IMF(これも、脳を侵されたバカどもは、日本の財務省のOBがどうとか言っている。)によって、キビシー条件をつけられて、かえってポピュリズム政治がはびこる、という、現在の南米のようになるのかも知れない。 まさに、日経新聞が書いてた、「衰退途上国家」だ。 ここまで来たら、あまり先の将来を考えること自体が、意味がないのかも知れない。 それもまた、人間としてのひとつの合理的な行動原理なのだろう。 ・・・というお話しを、みやもとクリニックに行って、お話ししてきました。 そういう方面にもちゃんとアンテナ張ってる宮本先生は、さすがだね。 精神科医だから社会のことわかりません、じゃ、精神科医はつとまらない。 ちょっと気が楽になった。 アリピプラゾールを処方してもらってきました。 気休め。

よし、俺はまだやれる。

 昨日、またいつものように椅子に座ったまま寝てしまったのだが、母親がテレビつけっぱなしにしていて、自分は完璧に寝ていたのだが、テレビでテレビ東京の「昼めし旅」をやっていて、テレビのなかで、番組スタッフが、地元の人に「すみませーん」と声をかけたのに、俺が反応しちゃって、「はあ〜い!」と答えてしまった。 結構大きな声で。 完全に無意識に。 宅急便が来たのかと思ってしまったのだ。 完璧に寝ていたのに、無意識にここまで出来れば、俺はまだまだ使い物になる。

網膜剥離

 昨日、飛蚊症の症状が気になったので、眼科に行ったら、網膜剥離と診断されて、レーザー照射してきました。 右眼だけやりましたが、うん、右眼はいいんだけど、まだ左眼に若干飛蚊症のケがあるな。 医者から、レーザー照射は痛い、と散々おどされたから、マジかよ、と思いましたが、慣れれば大したことなかったです。 たぶん、正確に患部にレーザーを当てるには、頭を動かされると困るとかそういった理由だと思います。 アタマだけでなく、ついに眼までオカシクなったかと思いましたが、とりあえず大事には至らないで済んで良かった。

本当は教えたくないんだけど。 ―秘密の疲労回復アイテム―

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  サントリーの天然水、奥大山。 どうにも疲れちゃって、疲れが取れない、という時に、オススメ。 2,3本飲めば、バッチリ疲れが取れる。 関東では売ってないと思うので、アマゾンかなにかで注文してください。

平沼翔太 ―推し活―

 動画見てると、ボールの上っ面を叩いちゃってるんだよな。 しっかりバットは振れてるんだけど、ボールの下を叩ければ、自然と長打も打てるし、ピッチャーも怖くなって警戒するから、あとはそこだけ直せば、すぐにレギュラー獲れるんだけどなー。 もったいない。

実存的孤独と他者の呼びかけ——近代の「理屈」を超えた誠実なる生の地平——

  「正しさ」と他者への応答:実存的孤独とレヴィナス思想の止揚   はじめに:多死社会における死の恐怖と「理屈」の限界 現代の日本は少子高齢化の帰結として、本格的な「多死社会」を迎えている。私たちは日常の中で否応なく他者の死、そしていずれ訪れる自らの死という現実に直面せざるを得ない。近代以降の人間は、知の力、すなわち理性の論理を用いて、死の恐怖や生の虚しさを克服しようと試みてきた。カントやゲーテといった巨人の哲学を理解し、理屈によって死を位置づけ、飼い慣らそうとする営みである。しかし、そうした高度な精神の境地に到達できるのは、学問を修めたごく一部の知識人に限られるのが現実であり、すべての人間に「理屈で死ぬこと」を強要するのは、土台無理があるだけでなく、一種の傲慢であるとも言える。 本レポートでは、個の内面における徹底的な孤独の中で「正しさ」の根拠を求めた近現代の実存哲学(デカルト、ハイデガー)の地平と、人間の理性を超えた「他者」との関係性を説いたレヴィナスの他者論を対比させ、それらを止揚(アウフヘーベン)することを試みる。理屈では説明のつかない世界を肯定しつつ、私たちが自らの「暖簾」を汚さずに主体的かつ倫理的に生きるための、新たな生の基盤を模索する。   1. 個の深淵としての実存的孤独(デカルトとハイデガー) 思想史において、真に拠って立つべき「正しさ」の根拠を他者や社会の合意ではなく、徹底的な「孤独」の中に求めた代表的な試みが、デカルトの方法的懐疑とハイデガーの本来性の哲学である。 ルネ・デカルトが敢行した普遍的懐疑は、既成の道徳や感覚、さらには自らの肉体をも疑い尽くすという、究極の孤立を引き受ける営みであった。社会的・歴史的な足場がすべて崩落した暗闇の底で、彼は「そうしてすべてを疑っているまさにその私の営み(思考)だけは消し去ることができない」という剥き出しの事実、すなわち『我思う、故に我あり(Cogito, ergo sum)』に到達した。ここにおける確実性とは、他者と共有可能な客観的正解ではなく、「自分をこれ以上誤魔化しようがない」という自己の内的な誠実さの限界点、すなわち実存的な確実性の宣言であった。 また、マルティン・ハイデガーは、人間(現存在)が日常において世間の常識(「世人」のまどろみ)に同調し、匿名性のなかに身を委ねて...