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英語で発信する日本文化(’26)

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  好きですね―。 英語勉強するの。 この放送授業、新規開講科目ということもあり、科目登録はせずに、印刷教材(テキスト。市販されている。)だけ購入して、いままたインターネットで放送大学生に公開されている放送授業を視聴しましたが、やはり、斎藤兆史先生、ちょっとしたところで、とても気の利いた表現を繰り出されます。 改革派の英語指導者たちからは、おそらく諸悪の根源のように扱われている斎藤兆史先生ですが、英語学習を愛するものからすれば、とても貴重な存在であられます。 この授業の位置づけ自体が、中級レベルということもあり、長年英語を勉強してきた身としては、一見簡単に見えますが、サラッと、ああ、こういう表現があったか、と、先達の奥の深さに、感銘を覚えます。 テキストには訳語もなく、サラッと読んだだけでは、つい見逃してしまうような表現も、ちゃんと放送授業を視聴すると、ああ、いい表現だな、という語彙や言い回しが、随所に散りばめられており、やはり、英語はやればやるほど面白い、と感慨深いです。

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 資料より (再掲)

 私は、 自分のもともとの性質が 「ここまでくらいはがんばろう」と課した限界の範囲で自己研鑽に励むときでさえ、謝罪や後悔もなく、自分のもともとの性質を「与えられた当たり前のもの」として受け入れており、そのようなとき、自分自身に対する「自己愛」を持っているのである。私の自我と私とは、一様にすべてのことを共有しながら、いっしょに多くのことをくぐり抜けてきた。私が彼(=私の自我)を支える限り、彼が私を失望させることはなかった。私は彼を叱ったこともあるが、けっして彼の本性を呪うことはなかった。彼には間違いなく欠点があるし、ひどくそうなのだが、その短所があらわになるとき、私はやさしく寛大にほほえむのである。彼のへまは、彼のような性質をもつだれからでも人が予想するようなものである。 人は 、これほどまできわめて近しくしてきた存在を憎むようにはなれない。好むと好まざるとにかかわらずこの人物 (=私の自我)に依存してきた全年月の後、どのようにして別の自我とうまくやりはじめることができるか、私は実際知らないのである。このように、自己同一性 (自分が自分であること)は、一種の約束による見合い結婚だと考えることができる。その見合い結婚は、安定的な人の中では真実の愛へと成熟するものだが、不安定な人の中では、堕落してしまって、恨み言と自滅へと至る。人の自己愛のもっとも真実の表現は、自身の善さへの献身であり、それは他の誰のものでもない自身のもともとの性質(そのような性質は不条理な、変なものかもしれない)の自己充足である。(「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)

「アドルノ」 岩波現代文庫 より (再掲)

   もっとも、アドルノが主観と客観との絶対的な分離に敵対的であり、ことにその分離が主観による客観のひそかな支配を秘匿しているような場合にはいっそうそれに敵意を示したとは言っても、それに替える彼の代案は、これら二つの概念の完全な統一だとか、自然のなかでの原初のまどろみへの回帰だとかをもとめるものではなかった。(93ページ)   ホーマー的ギリシャの雄大な全体性という若きルカーチの幻想であれ、今や悲劇的にも忘却されてしまっている充実した<存在>というハイデガーの概念であれ、あるいはまた、人類の堕落に先立つ太古においては名前と物とが一致していたというベンヤミンの信念であれ、反省以前の統一を回復しようといういかなる試みにも、アドルノは深い疑念をいだいていた。『主観‐客観』は、完全な現前性の形而上学に対する原‐脱構築主義的と言っていいような軽蔑をこめて、あらゆる遡行的な憧憬に攻撃をくわえている。(94ページ)  言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(95ページ)   理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるように...

365日の献立日記

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   昭和の名脇役、沢村貞子さんが、26年半書き残した献立をもとにして、NHKが制作した料理番組のDVD。 1年くらい前に買ったのですが、料理でも覚えようと思ったものの、そんな簡単に身につくものでもなく。 しかし、母親はとにかく料理が好きで、かといって自分で料理するというわけでもなく、とにかく、世の中にはこんな料理があるのだ、ということに、並々ならぬ興味がある。 そんなわけで、とにかく買ってみたのだ。 いったん観て、しばらくほったらかしにしていたのだが、音楽CDも聴き飽きたし、ふと思い立って、BGM代わりにリピート再生にして聞き流している。 音楽とはまた違った良さがある。 エグい音は一切でてこないし、包丁の音や、油で揚げる音、鈴木保奈美さんのナレーション、BGMとして、とてもいい。 もちろん、たまに映像を観ても、色彩豊かで、下手にテレビなんか見たところで、どうせ気分が悪くなるだけなので、テレビはもうただのDVDプレイヤーでしかない。 ともあれ、こういう使い方も、とてもいい。

自分自身との距離感

よく、「自分自身と向き合う」という言い方をする。 て、なんかエッセイ風だな。 妙に。 俺はそんなに文章が上手い訳でもないのに。 それはさておき、「自分自身と向き合う」という言い方をした場合、それは、自分で自分自身をよく眺める、ということだろう。 そういう作業が必要とされるのは、危機的な状況だったりとか、困難を乗り越えるために、内省的になる必要がある、ということだろう。 そういう意味では、自分は極めて内省的な人間だと思う。 自分自身との距離感が、とても近い。 それは一見いいことのように響く。 なにか卓越した精神状態のようでもあるかのように聴こえる。 確かに、そういうこともあるだろう。 しかし、ずーっとそれをやり続けるのは、とても疲れる。 精神錯乱してから22年も経った。 もう危機的な状況ではない。 もっと自分自身との距離感を遠くしてもいいのだろう。 と、いうかそれが今のシンドさを解決する最善の方法だろう。 今まで、あまりにも自分自身との距離が近すぎた。 自分で自分を近くから眺めすぎていた。 言い換えれば、あまりにも内省的だったのだ。 あまりにも自分自身との距離を離しすぎてしまっては、「自分が見えていない」という誹りを免れないが、その逆も、やっぱりツラい。 そういう意味では、自分は自分自身との距離感をもっと離すべきなんだろう。 今はもう危機的な状況ではないのだから。 平時には平時の距離感が大事だ。 自分自身との。 そういう感じで、ちょっと試してみよう。 ハレルヤ

「不道徳的倫理学講義」 古田徹也 ちくま新書 (再掲)

  総じて、運を自他の人生から切り離さずに引き受けることは、運の肯定に伴う幾多の危険を抱え込むことになるのである。しかし、かといって、運のなかに生きる人間への眼差しをまるごと放棄すれば、人間の輪郭のほとんどを見失うことになる。というのも、我々の人生とは、運の産物が不断に織り込まれた網の目にほかならないからだ。はかれないもの、はかないものがあってこそ、我々の生に光や闇がもたらされ、陰影が与えられる。本書では全体を通じて、この点を度々確認してきたつもりである。運の肯定と否定の間 ―人間について考えることは、鋭く切り立った尾根の上を歩くような危うい道のりである。しかも、我々はその営みに関して、いまだ初心者に過ぎない。  p.347

権威相対化と共感の倫理 (再掲)

  アリストテレス倫理学と構造主義の対峙:現代における知的権威の変容と共感の地平 知的権威の失墜とアカウンタビリティの台頭 現代社会において、かつて強固であった「知的権威」の基盤が劇的に相対化されている事実は、多くの専門家や市民が肌身で感じている変化である。大学教授という肩書きや、著名な研究機関に所属しているという事実だけでは、もはやその発言の正当性を自動的に担保することはできなくなっている。この現象は、単なる敬意の欠如ではなく、知識の受容と検証における構造的な変容を意味している 1 。かつては「門外漢」として排除されていた一般市民が、専門家に対してその知見の根拠を平易に説明するよう求める「アカウンタビリティ(説明責任)」という概念が、現代の知識流通の必須条件となった。 この変容は、一見すると「知の民主化」という肯定的な側面を持っている。特権的な地位に安住していた専門家に対し、その知を社会に開くことを強いることで、透明性の高い議論が可能になるからである。しかし、その影には深刻な副作用が潜んでいる。知的オーソリティに対する信頼が崩壊した結果、人々は自らのアイデンティティや信条に合致する情報を選択的に信じるようになり、学術的に明白な誤りや、陰謀論めいた言説を臆面もなく支持する土壌が形成された 2 。この状況に政治が介入することで、いわゆるポピュリズム政治が加速し、理性的対話よりも感情的な分断が優先される極端な社会情勢が顕在化している。 このような「知の権威の相対化」は、二十世紀後半に一世を風靡した構造主義的な思考様式、あるいはそれ以降のポスト構造主義的な「知」の解体作業がもたらした成果、あるいはその帰結であると言える。構造主義は、絶対的と思われていた価値や真理を、特定のシステム(体系)内における一時的な「関係性の効果」へと還元した。この思想的背景を理解することは、現代のポピュリズムやエピステミック(認識論的)な危機の根源を解明するために不可欠である。 構造主義による価値の解体:トランプとアリスの寓話 構造主義の先駆者であるフェルディナン・ド・ソシュールは、言語における意味や価値が、その語それ自体に備わっているのではなく、他の語との「差異」の関係から生じると説いた 4 。この言語学的知見は、後に社会全体における「価値」や「権威」のあり方を説明するメタファーとして機...