ローティとアリストテレス倫理学の統合 (再掲)
現代道徳哲学における言語的相対化と身体的倫理の統括──ローティのプラグマティズムとアリストテレス倫理学の交錯可能性── 序論:知の絶対性の解体と構造主義的相対化の限界 現代社会における政治や対話構造の空転は、長年にわたり知的基盤を支えてきた学術的権威や専門的知の絶対性が解体されたことに起因している 1 。この知の権威の相対化は、社会における説明責任(アカウンタビリティ)の徹底や「知の民主化」を推し進めた反面、ポピュリズムの蔓延や陰謀論の跳梁、言説の過度な分極化という負の側面を露呈させている 1 。この現象の背景には、言語や社会構造を自己完結的な記号体系内部における差異の関係性、すなわち一種の要素間ゲームとして解釈するフェルディナン・ド・ソシュール以降の構造主義的言語観の浸透が存在する 1 。フリードリヒ・ニーチェが『善悪の彼岸』等で示したように、すべての価値や道徳が体系内部の演出効果や相対的位置関係に過ぎないと捉えられるとき、客観的真理や絶対的規範という概念はその根底から失効する 1 。しかしながら、社会生活や他者関係の全貌を「単なる言葉のゲームの戯れ」に過度に還元する見解は、実容としての倫理的空転を引き起こし、冷笑主義(シニシズム)や対話拒絶を正当化する論理的危うさを孕んでいる 1 。 ローティのプラグマティズムと「リベラル・アイロニスト」の言説構造 言語的相対化がもたらす無力感に対し、アメリカのプラグマティズムの系譜に立つリチャード・ローティは、形而上学的な普遍的基礎付けを放棄しつつ倫理的連帯を模索する態度として「リベラル・アイロニスト」の概念を提示した 1 。ローティによれば、人間は自らの信念や行動を肯定し説明するための言語的枠組みとして「最終語彙(final vocabulary)」を所持しているが、アイロニストとは、自身が保持する最終語彙が普遍的な妥当性を秘めた真理ではなく、歴史的・環境的な偶然性(contingency)によって形成された産物に過ぎないことを痛烈に自覚している主体を指す 1 。アイロニストは自らの語彙の不確定性を絶えず自覚し、他者の異なる語彙との接触を通じて自己を再記述(redescription)し続ける柔軟性を持つ 1 。 しかし、自らの最終語彙を絶えず疑う純粋なアイロニズムは、一歩間違えれば他者の苦痛や社会的正義に対する...
