儒教用語で、「四十にして惑わず」という言葉があり、そこから、四十歳のことを「不惑」というらしい。 大昔の中国人にとって、四十歳といえば、ほとんど老人に近い年齢だろう。 なにしろ、七十歳にもなったら、「古稀」、つまり、そんなトシまで生きる人は滅多にいない、というわけだ。 で、あるから、四十歳で、もういちいち人生に迷っている場合ではない、というのは、感覚として当然だろう。 しかし、と同時に、自分はいま44歳だが、確かに人間の生物としての特質からして、さすがにこのトシになると、良くも悪くも、考え方というのは、かなり固まってくる。 あるいは、思考の型というものが、ほとんど出来上がってくる。 もちろん、他の人との関わりの中で、変わる部分もあるだろう。 しかし、それは人生がひっくり返るような、というより、質の変化だと思う。 つまり、その人を湖にたとえれば、水質が良くなったり悪くなったりする可能性があるが、湖それ自体は変わらない、といったようなものだ。 (もしかしたら、大津波が来て、湖そのものを吹き飛ばしてしまうようなこともあるかもしれない。比喩として。) しかし、湖というその人の「人格」は、四十にもなれば、動的平衡を辿るものだと思われる。 それは、その人の人格が、その人自身のそれまでの選択の積み重ねのうえに出来上がったものだからだ。 だから、アリストテレスは、人は自分の人格に責任を持たなければならない、と説く。