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平沼・・・

 最後の最後にタイムリエラーしとるやん・・・ なんだろう・・・緊張してんのか? イップスか? 前から思っていたことだが、完全にえこひいきでしかないのだが、平沼翔太という選手は、実はユーティリティプレイヤーではないのではないか、と思う。 実は、かなりの完璧主義で、本来はひとつのポジションを極めることに秀でた選手なのではないか、と思っている。 なにか、自分と同じ「匂い」を感じてしまうのだ。 決して、あれもできる、これもできる、というわけでもないのに、周囲から便利屋になることを求められてしまう。 そんな不器用ながらも、一途なマジメさを感じてしまう。 まあ、いい。 君は、1軍のレギュラーに定着することもなく、プロの世界に10年間居続けたのだ。 それだけでも、大したことだ。 野球選手の選手生命は、短い。 もっと選手生命が短いプロスポーツはいくらでもあるだろうが。 つまり、プロスポーツ選手として大成できなくても、その後の人生が待っている。 君は、君自身の人生に対する真面目さを、決して喪わないで欲しい。

「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?―言語と運命の社会学」 内田隆三 岩波書店 p.485 (再掲)

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    読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。物語とはおよそこんなものなのかもしれない。実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。 しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。

夜 (再掲)

 昼間の世界は、あまりに雄弁すぎる。視界に飛び込んでくる色彩、絶え間なく交わされる言葉、そして「何者かであらねばならない」という無言の圧力。それらは光の下で明瞭な輪郭を持ち、私たちを否応なしに役割の舞台へと引きずり出す。 しかし、太陽が地平線の向こう側に身を隠し、世界に「夜」が訪れるとき、舞台装置は音もなく解体される。 夜の最大の功績は、境界線を曖昧にすることだ。自分と他者、あるいは現実と思索。闇が深まるにつれ、昼間は強固に見えたそれらの境界が溶け出し、意識は外側ではなく内側へと、静かに沈降を始める。 この時間、私たちはようやく「公人」としての衣を脱ぎ捨て、誰のためでもない自分自身と対峙することを許される。窓の外で動く影や、遠くで響くかすかな風の音だけが、自分が今ここに存在していることを証明する唯一の伴奏者となる。 夜は決して、単なる休息のための空白ではない。それは、昼の喧騒によって散らばってしまった精神の断片を、一つひとつ拾い集めるための「回収」の時間だ。暗闇の中で一人、思考の糸を辿るとき、私たちは自分自身の「底」に沈殿している、純度の高い孤独に触れることができる。 それは寂しさとは似て非なるものだ。むしろ、余計なものを削ぎ落とした先にある、清々しいほどの自立である。 やがて東の空が白み始めれば、再び輪郭のはっきりした、騒がしい日常が戻ってくるだろう。それでも、夜という深い淵を潜り抜けてきた者は、その瞳の奥に一滴の静寂を宿している。 夜を知る者だけが、昼の光に焼かれることなく、自分という「暖簾」を静かに守り抜くことができるのだ。

合理性の罠と小さな抵抗 (再掲)

  近代合理性の鉄の檻と主体性の地平:資格社会の超克と日常的実践のポイエティーク 序論:脱魔術化された世界の深淵 マックス・ウェーバーが二十世紀初頭に描き出した近代という航路の終着点は、理性が世界を支配しようとした結果、皮肉にも人間がそのシステムの一部と化していく「近代の悲劇」であった。科学的探究、計算可能性、そして官僚制という合理性の網の目が、かつて世界を彩っていた神秘や宗教的な意味を駆逐するプロセスを、ウェーバーは「世界の脱魔術化(Entzauberung)」と呼んだ 1 。この合理化の極致において、あらゆる事象は効率と予測可能性によって計測され、自由を求めたはずの人間は、自ら作り上げた官僚制や資本主義という逃れられないシステム、すなわち「鉄の檻(Stahlhartes Gehäuse)」に閉じ込められることとなる 1 。 本報告書では、提供された「最終版その1.docx」の知見を基軸に、近代合理性がもたらした「意味の喪失」と「主体性の消滅」という危機を詳細に分析する。マックス・ウェーバー、フリードリヒ・ニーチェ、テオドール・アドルノ、エルンスト・カッシーラー、ランドル・コリンズ、そして現代の社会学者である荻野昌弘らの思想を横断的に検証し、現代人が直面している「合理性の罠」の正体を浮き彫りにする。その上で、ミシェル・フーコーがボードレールから継承した「自己の芸術作品化」や、ミシェル・ド・セルトーが提唱した「日常的実践のポイエティーク(制作)」といった知見を交え、システムの内部で密かに遂行される「小さな抵抗」の可能性について、深層的な考察を試みる。 近代合理化の構造的特質と人間像の変容 ウェーバーが予見した近代の末路に現れる人間像は、「精神のない専門人、心情のない享楽人」という極めて冷徹なものであった 1 。これは、社会が高度に分業化され、個々の人間が特定の職能を果たすための「部品」として最適化される一方で、生の意味や全体性を見失った状態を指す。 ウェーバーとニーチェの共鳴:末人の社会学的表現 ここでウェーバーの議論と重なるのが、ニーチェが描いた「末人(まつじん)」という概念である。末人とは、創造的な情熱を失い、ただ安楽と自己保身のみを求める「最も軽蔑すべき人間」を指す 1 。近代の合理化プロセスは、生存の安定を保証する一方で、未知への挑戦や実存的な苦悩を...