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統計に騙されないために (再掲)

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 昨日の日経新聞のコラム(?)で、要するに大卒のほうが教育費込みで考えてもコスパいい、みたいなことを東北大学の教授が書いていたが、そりゃあそうだろうよ。そもそも日本の社会全体が特に就職において高卒より大卒を優遇するように出来てんだから。と、いうかそれ以前の話として、頭くるからあまり真面目に読めないが、どういうデータの取り方をしたのかはよく分からないが、そもそものデータの取り方として、大卒でちゃんと就職して定年まで働いた人を前提として調査しているフシがある。大学に行って、環境に適応できずにかえって俺みたいに働けなくなった人間を最初からデータから外している(ように見える)。そりゃあ、大卒のほうがコスパよく見えるだろうよ。っていうか、それ以前の話として、大学で勉強することの価値を、すべてとは言わないが、金銭的価値に置き換えよう、という発想が気に入らない。それはともかく、データの取り方の恣意性にはよほど注意しないといけない。自分はもちろん統計学に詳しいわけではないが、データに騙されないために気をつけなければいけない注意点を、わかりやすく解説した本として、ちくま新書の「ニュースの数字をどう読むか ー統計にだまされないための22章」を挙げておきます。  

「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?―言語と運命の社会学」 内田隆三 岩波書店 p.485 (再掲)

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   読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。物語とはおよそこんなものなのかもしれない。実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。 しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。

洗練された野蛮と人間性の探求 (再掲)

  野蛮のゆくえ:精製される情動と、奪われた沈黙 かつて「野蛮」という概念は、文明の境界線の外側に画定されていた。それは、地理的な辺境に住まう未開の人々、あるいは都市の秩序を脅かす荒れ狂う嵐や制御不能な暴力、理性の光が届かない根源的な闇の代名詞として理解されてきた。ジャン=ジャック・ルソーやミシェル・ド・モンテーニュがかつて論じたように、文明化された社会はその鏡像として野蛮を設定し、自らの洗練を定義してきたのである 1 。しかし、二十一世紀の現在、野蛮はその姿を劇的に変容させた。それはもはや泥にまみれた剥き出しの暴力としてではなく、白磁のように滑らかで、計算機科学によって磨き上げられた「高度な知性の顔」をして私たちの日常の深層に現れる。 私たちは今、「洗練された野蛮」のただ中にいる。現代の野蛮は、物理的な破壊ではなく、情報の秩序化と最適化を通じて、人間の内面という最も親密な領域を侵食し、解体している。かつてカッシーラーが警告した「技術的神話」は、現代においてアルゴリズムという全知の神へと進化した 3 。私たちの内面から湧き上がる怒り、悲しみ、あるいは誰かを愛おしむ情動さえも、デジタル空間という精錬所に投げ込まれた瞬間に、純度の高い「資源(Bestand)」へと変質させられるのである。そこでは、感情はもはや個人の魂に固有の震えではなく、クリック率を上げ、滞在時間を延ばし、広告収益を最大化するための効率的な「燃料」へと還元される。 本報告書は、現代における「洗練された野蛮」の構造を、哲学的な批判理論と最新の技術動向の交差点から網羅的に分析する。ハイデガーが危惧した「存在の忘却」がいかにしてデジタル空間において完成したのか、そしてアドルノが喝破した「文化産業」がアルゴリズムによるパーソナライゼーションを通じていかに深層心理に根を張ったのかを明らかにする 5 。さらに、管理不可能な他者性や予測不可能な偶然を排除しようとするこの「洗練された檻」の中で、人間がいかにして自らの沈黙と不透明性を守り抜くことができるのかを考察する。 第一章 技術的神話の進化とアルゴリズムの神託 エルンスト・カッシーラーは、理性の時代においても神話的思考が消滅することなく、むしろ技術という形態を借りて復活する可能性を予見していた。現代のアルゴリズム体制は、まさにこの予見を「全知全能のデータ」と...