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眼科に行ってきた。

 先月の初めに、網膜剥離の治療を受けて、その経過観察。 レーザー治療だったが、眼科医によると、「手術」ではなかったらしい。 急に蒸し暑くなったせいか、体にこたえる。 年齢とともに、肉体が衰えるのは、仕方がない。 でも、自分は、それも悪くない、と思っている。 なぜだろうか? 説明するのは難しい。 本当に身体の自由が利かなくなったら、そんなことは到底言えないだろう。 しかし、生身の身体の若々しさというのは、往々にして持て余してしまうものだ。 ・・・って、相変わらず説教臭いオッサンだ。 それはともかく、一応日常生活を送るのに、困難は感じない。 体力がある内に、スキルを蓄えておくことも、必要だと、思う。 そこらへんは、個々人の事情ってもんがある。 俺は、恵まれていた。 いや、恵まれている。 それでも、いや、それだからこそ、つい頑張ってしまう。 ここ最近は、民法の勉強が捗って、そんなに無理している積もりもなかったが、中年になってから新しいことを勉強する、というのは、案外体力が要るようだ。 もう、そんなに何でもかんでも吸収できるというものでもない。 結局、この3学期のあいだに、1度も面接授業には行っていない。 あしたは、放送大学の単位認定試験だ。 択一式だし、分量も大したことないはずなので、すぐ終わるはずだが、それでもそれなりに気力体力を削られるだろう。 でも、それが終われば、今学期の放送大学関連の行事はすべて終了だ。 若いうちというのは、自分の気力体力を過信して、つい我慢しすぎてしまったりする。 そうせざるを得ない状況においては。 だから、ご老人が、時に迷惑なくらい我慢が利かなくて、傍若無人だったりすることも、気持としては理解できるようになってきた。 彼ら、彼女たちは、若い頃に、我慢に我慢を重ねてきたのだろう。 それが、気力体力の衰えとともに、抑えが効かなくなってくる、というのは、ある意味では当然の事かもしれない。 自分だって、若い頃のようには、自分を抑えつけることは、もう出来ないかも知れない。 しかし、そんな時、やはり自分も人並みの人間なのだ、と実感する。 それは、ある意味救いでもある。 どんなに心身を鍛えたって、我慢できなくなる時というのは、あっていいのだ。 なにより、人生というものについて、ある種の諦念を交えて語れること自体が、中年に至った人間の特権とは言えない...

「はじめて学ぶ民法判例」 実務教育出版 (増補)(増補)(増補)(増補)(増補)

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      一度は、もう民法の勉強をしたくない、と思って、本棚にしまってしまったが、やはり翻意して、また読み始めた。  すんげえな。これ。 中身濃すぎでしょ。 いくら30年前の本だと言っても、この内容で定価1400円(当時)は破格。 今だったらたぶん中古でしか手に入らないから、実際にはもっと安い可能性もある。 資格取得のためとかでなくても、これを読み通したら、たぶん相当な力がつく。 いい買い物だ。 正直、民法を理解できる日なんて、永久に来ないと思っていたが、いい巡り合わせがあれば、なんとかなるもんだ。 もちろん、放送大学で「民法’22」を担当されている、慶応大学の武川幸嗣先生の講義があればこそだけどね。 ・・・いやあ、ちょっと間が空いたが、あらためて読み進めると、この一冊は凄いぞ。 民法のエッセンスがぎゅーっと詰まってる。 これを一冊読み通せば、どんな法律系の資格にも通用する民法の土台ができると思う。 ・・・いいね。 民法なんて縁がない、と思っていたが、わかるとすげえ役に立つし、面白い。 まさか民法をここまで、といっても大したレベルではないが、理解できる日が来るとは思わなかった。 ・・・今まで無視していた「練習問題」に手を付けてみたが、超すげえ。 基礎をしっかり堅められる。 無駄に何冊も問題集買わなくて済む。 これはほんとすげえ。 エグい。 ・・・さて、気を取り直して、また民法の勉強だ。 ちょこちょこ行政書士試験の過去問を見たりするけど、この一冊を隈なく理解しておけば、そんなに怖くないことが、わかってきた。 ・・・これはすげえわ。 民法をナメてた。 たしかに、この一冊を通して勉強したら、その知識は、売り物に出来る。 単に行政法の知識と俺という客寄せパンダに頼ったビジネスモデル以上のものだ。 ・・・結局、資格取得のためというより、まずは自分のためなんだろうな。 民法を勉強するのって。 父親が生きてた頃は、良くも悪くも何事も父親のうかがいを立てなければいけなかったから、自分は、ただもうやむにやまれぬ時だけ、お願いすれば、出してもらえたから、考える必要なかったけど、今は、家計を姉に管理されてるから(⇚姉のカネというわけでもないのに)、自分の障害年金まで不当に支出しなくていいようにするには、やっぱりもっと民法を勉強しなくちゃいけないんだ...

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 資料より (再掲)

      私は、 自分のもともとの性質が 「ここまでくらいはがんばろう」と課した限界の範囲で自己研鑽に励むときでさえ、謝罪や後悔もなく、自分のもともとの性質を「与えられた当たり前のもの」として受け入れており、そのようなとき、自分自身に対する「自己愛」を持っているのである。私の自我と私とは、一様にすべてのことを共有しながら、いっしょに多くのことをくぐり抜けてきた。私が彼(=私の自我)を支える限り、彼が私を失望させることはなかった。私は彼を叱ったこともあるが、けっして彼の本性を呪うことはなかった。彼には間違いなく欠点があるし、ひどくそうなのだが、その短所があらわになるとき、私はやさしく寛大にほほえむのである。彼のへまは、彼のような性質をもつだれからでも人が予想するようなものである。 人は 、これほどまできわめて近しくしてきた存在を憎むようにはなれない。好むと好まざるとにかかわらずこの人物 (=私の自我)に依存してきた全年月の後、どのようにして別の自我とうまくやりはじめることができるか、私は実際知らないのである。このように、自己同一性 (自分が自分であること)は、一種の約束による見合い結婚だと考えることができる。その見合い結婚は、安定的な人の中では真実の愛へと成熟するものだが、不安定な人の中では、堕落してしまって、恨み言と自滅へと至る。人の自己愛のもっとも真実の表現は、自身の善さへの献身であり、それは他の誰のものでもない自身のもともとの性質(そのような性質は不条理な、変なものかもしれない)の自己充足である。(「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)

アジシオ

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  アジシオは重宝する。 母親が、高島屋でサーモンの刺身を買ってきてくれた。 アジシオかけて、食った。 母親は、ハイソな人間である。 いや、とんでもなくハイソ、言い換えれば、箱入り娘である。 港区に実家があり、根津美術館など庭だと思っていたレベルである。 高校も、都立日比谷だ。 だから、結構、目新しいものが好きである。 大学は女子栄養大学だったが、とにかく食べ物に興味がある。 しかし、調理が好きだとか、ましてや、プロ級だというには、程遠い。 単純に、メシに対する興味が、尋常ではない。 テレビだって、基本的にメシに関する番組をハシゴする。 自分は、といえば、実はそんなに興味がない。 強いて言えば、水にはこだわりたい。 やっぱり、セブンイレブンよりかは、ファミリマートのほうが、良い水を売っている。 そこらへんは、値段は正直だ。 どうにも疲れた時は、アマゾンでサントリーの奥大山の水を取り寄せる。 これを飲むと、たいてい疲れは取れる。 さて、自分はシティーボーイ、言い換えれば、お坊ちゃまクンである。 おそらく、自分を構成する要素の6割強は、「シティーボーイ」という要素で出来ている。 しかし、シティーボーイにはシティーボーイの哀しみがあるのである。 佐野日大中学から、私立武蔵高校へ、高校受験して入った。 すでにミラクルである。 高校受験専門の超高い塾代を払って、1年間狂ったように猛勉強した。 慶應義塾も慶應志木も、当然本庄早稲田も受かった。 おそらく、人生で一番テングになっていた時期である。 その費用は、母親が出してくれた。 じゃあ、なぜそもそも佐野日大中学にいたか、といえば、母親が父親と結婚して、父親の実家である埼玉県羽生市で暮らすことになったからだ。 自分は、幼稚園のときから羽生市で暮らしていたから、幼少期から青春期の途中くらいまでは、基本的に羽生市が生活圏であった。 とはいえ、たまたま父親が高崎に転勤になっていた時に、産まれたので、自分は実は高崎産まれなのである。 ややこしい。 ところで、筋金入りの都会人である母親にとって、羽生市での暮らしは、精神的に耐え難いものだったようだ。 母親も、自分と同じで、割と世間体というか、うわべを取り繕える人間である。 しかし、母親自身、どうしても羽生市での暮らしは、耐え難いものだったようだ。 今から思えば。 筋金入りのお嬢様だか...

「はじめて学ぶ民法判例」 実務教育出版 (増補)(増補)(増補)(増補)

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     一度は、もう民法の勉強をしたくない、と思って、本棚にしまってしまったが、やはり翻意して、また読み始めた。  すんげえな。これ。 中身濃すぎでしょ。 いくら30年前の本だと言っても、この内容で定価1400円(当時)は破格。 今だったらたぶん中古でしか手に入らないから、実際にはもっと安い可能性もある。 資格取得のためとかでなくても、これを読み通したら、たぶん相当な力がつく。 いい買い物だ。 正直、民法を理解できる日なんて、永久に来ないと思っていたが、いい巡り合わせがあれば、なんとかなるもんだ。 もちろん、放送大学で「民法’22」を担当されている、慶応大学の武川幸嗣先生の講義があればこそだけどね。 ・・・いやあ、ちょっと間が空いたが、あらためて読み進めると、この一冊は凄いぞ。 民法のエッセンスがぎゅーっと詰まってる。 これを一冊読み通せば、どんな法律系の資格にも通用する民法の土台ができると思う。 ・・・いいね。 民法なんて縁がない、と思っていたが、わかるとすげえ役に立つし、面白い。 まさか民法をここまで、といっても大したレベルではないが、理解できる日が来るとは思わなかった。 ・・・今まで無視していた「練習問題」に手を付けてみたが、超すげえ。 基礎をしっかり堅められる。 無駄に何冊も問題集買わなくて済む。 これはほんとすげえ。 エグい。 ・・・さて、気を取り直して、また民法の勉強だ。 ちょこちょこ行政書士試験の過去問を見たりするけど、この一冊を隈なく理解しておけば、そんなに怖くないことが、わかってきた。 ・・・これはすげえわ。 民法をナメてた。 たしかに、この一冊を通して勉強したら、その知識は、売り物に出来る。 単に行政法の知識と俺という客寄せパンダに頼ったビジネスモデル以上のものだ。 ・・・結局、資格取得のためというより、まずは自分のためなんだろうな。 民法を勉強するのって。 父親が生きてた頃は、良くも悪くも何事も父親のうかがいを立てなければいけなかったから、自分は、ただもうやむにやまれぬ時だけ、お願いすれば、出してもらえたから、考える必要なかったけど、今は、家計を姉に管理されてるから(⇚姉のカネというわけでもないのに)、自分の障害年金まで不当に支出しなくていいようにするには、やっぱりもっと民法を勉強しなくちゃいけないんだろ...

『ヨハネによる福音書』第12章24節 (再掲)

     誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麥、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。 タペストリー  

落ち着く (再掲)

       信仰箇条と言うのは、非常に簡単なものなのです。つまり、次の様に信ずる事なのです、キリストよりも美しいもの、深いもの、愛すべきもの、キリストより道理に適った、勇敢な、完全なものは世の中にはない、と。実際、僕は妬ましい程の愛情で独語するのです、そんなものが他にある筈がないのだ、と。そればかりではない、たとえ誰かがキリストは真理の埒外にいるという事を僕に証明したとしても、又、事実、真理はキリストの裡にはないとしても、僕は真理とともにあるより、寧ろキリストと一緒にいたいのです。  (ドストエフスキー フォンヴィジン夫人宛て書簡) orion