投稿

ハイデガー哲学への省察 (再掲)

 <世界>はときに人間に対して、あまりに残酷な開かれ方をする。社会保障がどうとか、経済情勢がどうとか、などは 一切お構いなく、ただ 残酷に<世界>は現存在としての人間に対して 開かれうる。しかし、そのような開かれ方をする<世界>の中にこそ、ハイデガーは連帯の可能性を模索したのではないだろうか?人間が共同現存在のまどろみから醒めること、それはおそらく「死」を意識することを通して起こり得る。確かに、<世界>がそのように残酷な開かれ方をするとき、それは孤独ではなく、そのような開かれ方をする<世界>においてこそ、孤独ではなく連帯の可能性が現れる可能性はあり得る。もっとも、ハイデガー哲学においては、 それが「ドイツ民族の使命に目覚める」という方向へ進んでしまったがゆえに、ナチズムとの親和性をやり玉に挙げられる。しかし、現存在たる人間は、おそらくどんな時代、場所においても、そのような<世界>の開かれ方においてこそ、連帯の可能性を見出してきたのではないだろうか。もちろん、今後どんなに科学技術が発展しようが、どんなに社会構造がスマートになろうが、そのような<世界>の開かれ方は現存在たる人間に容赦なく襲いかかるだろう。だが、そうであるからこそ、人間は、はるか先の将来においても、あるいはたった今現在においても、古い殻から抜け出して、新たな一歩を踏み出すことが出来るのではないだろうか。言い換えれば、<世界>がそのような残酷な開かれ方をする限りにおいて、「人間」は孤独を克服し、連帯の可能性を見出すのである。

ハイエク思想と現代経済秩序 (再掲)

  経済活動の自律性と統制の相克:ハイエクとミーゼスの思想的峻別から見る現代社会の「中庸」への警鐘 社会的秩序の起源:設計主義的合理主義への懐疑と「中庸」の陥穑 現代の政治経済において、経済活動を単一の中央当局の指揮下に置くという発想に対して、生理的な拒絶反応を示す人々は少なくない。この「たじろぎ」は、単に巨大な組織を管理・運営することの技術的な困難さや、非効率性への懸念から生じるものではない。むしろ、万事を一箇所で決定し指示するという構造そのものが孕む、個人の自由への根源的な脅威に対する直感的な恐怖に基づいている 1 。しかし、こうした恐怖心がありながらも、現代社会が急速に中央管理的なシステムへと傾斜し続けているのは、完全な自由競争と完全な計画経済の間に、両者の欠点を補完し合い利点を融合させた「中庸」の体制が構築可能であるという、多くの人々が共有する根強い信念があるためである 2 。 合理的な思考を持つとされる多くの人々にとって、市場の無秩序な分権化による弊害を避けつつ、一方で硬直的な中央集権の弊害をも回避し、民主主義的な合意のもとで経済を「賢明に管理」するという構想は、極めて理にかなった魅力的な選択肢に見える 4 。しかし、フリードリヒ・ハイエクは主著『隷従への道』において、この「常識的」に見える判断こそが最も危険な幻想であると断じた 5 。ハイエクの議論によれば、競争と計画は、単に程度の問題として混合できるものではなく、本質的に相反する指導原理である。競争を機能させるための制度的枠組み(法の支配)と、特定の社会的成果を達成するための資源配分の計画は、一方が他方を浸食し、最終的には自由を維持するための基盤を破壊する「滑りやすい坂道」を形成する 3 。 この問題を深く理解するためには、ハイエクの思想をその先達であり師でもあるルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの理論と比較し、さらに彼らが依拠した「理性」や「ルール」といった概念の差異を解剖する必要がある。ミーゼスが個人の「計算的な理性」を社会形成の主座に据えたのに対し、ハイエクは理性の限界を強調し、長い進化の過程で蓄積された「非人格的なルール」への準拠こそが自生的秩序(カタラクシー)を形成すると論じた 7 。この微細ながらも決定的な相違を明らかにすることは、現代のAI技術やビッグデータによる「新しい計画経済」の可...