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マジでうぜえ

 国の基幹税である消費税を、軽々しく弄ぶ高市。 日曜討論からも逃げる。 性別関係なく、到底首相の器ではない。 マジでイライラする。 高市が腹をくくるなら、投票用紙再発行してでも自民党に入れようかと思っていたが、そんな気は失せた。 正直、本気で嫌悪感を覚える。 ぶん殴ってやりたい。 ブレる高市

不惑

 儒教用語で、「四十にして惑わず」という言葉があり、そこから、四十歳のことを「不惑」というらしい。 大昔の中国人にとって、四十歳といえば、ほとんど老人に近い年齢だろう。 なにしろ、七十歳にもなったら、「古稀」、つまり、そんなトシまで生きる人は滅多にいない、というわけだ。 で、あるから、四十歳で、もういちいち人生に迷っている場合ではない、というのは、感覚として当然だろう。 しかし、と同時に、自分はいま44歳だが、確かに人間の生物としての特質からして、さすがにこのトシになると、良くも悪くも、考え方というのは、かなり固まってくる。 あるいは、思考の型というものが、ほとんど出来上がってくる。 もちろん、他の人との関わりの中で、変わる部分もあるだろう。 しかし、それは人生がひっくり返るような、というより、質の変化だと思う。 つまり、その人を湖にたとえれば、水質が良くなったり悪くなったりする可能性があるが、湖それ自体は変わらない、といったようなものだ。 (もしかしたら、大津波が来て、湖そのものを吹き飛ばしてしまうようなこともあるかもしれない。比喩として。) しかし、湖というその人の「人格」は、四十にもなれば、動的平衡を辿るものだと思われる。 それは、その人の人格が、その人自身のそれまでの選択の積み重ねのうえに出来上がったものだからだ。 だから、アリストテレスは、人は自分の人格に責任を持たなければならない、と説く。

「グレート・ギャツビー」 スコット・フィッツジェラルド 村上春樹訳 中央公論新社 末尾

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   ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。・・・そうすればある晴れた朝にー だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。

「魔の山」 トーマス・マン 岩波文庫 下巻 末尾より

 さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり) 自分は、結構皮肉屋かも知れないが、そんなにシニカルな人間でもなければ、悲観的な人間でもない、と思っている。 高校生で早くもウツ状態になったり、大学生の時には精神錯乱して、統合失調症と診断されて、施設送りにもされた。 しかし、今こうしてピンピンしているところからすると、おそらくめちゃくちゃポジティブな人間だとしか考えようがない。 常に、少なくとも自分の周りぐらいは「よく」 していこうと無意識レベルで思っているし、しつこくしつこく高校数学も理解しようと、さんざん跳ね返されながらも、ようやく手がかりを掴みかけている。 これがネアカでなくて、なんなのか? このご時世、絶望するのは簡単だ。 世の中が明るい時に絶望するのは大変なことだが、みんなが絶望している時に、同じように絶望するのは、救いがない。 みんなが絶望している時こそ、地の塩世の光でありたい、と思っている。 でも、心が弱っている人には、しばし弱さに浸っていてあげさせることも、大事だとは思う。 それも一種の労(いたわ)りだろう。 もちろん、どん底にいるときには、無理にどん底から這い上がろうとする必要はない。 しかし、どんなどん底にも、「どん底の先輩」というものがいて、全裸監督ではないが、「死にたくなったら下を見ろ。俺がいる。」と言ってくれる人がいるものだ。 ...

フィッシャー効果のわかりやすい(かも知れない)解説

 フィッシャー効果については、一応放送大学で勉強するうちに、どこかで習ったか、新聞を読んで理解したつもりでいましたが、いざインフレになってみると、ああ、なるほど、と思ったアイデアが浮かんだので、ちょっと(できれば)分かりやすく解説させていただこうと思います。 例えば、ここに六角精児さんが居たとします。 この方、売れるまでは、あちこちに借金していたそうです。 (あるいは、今も?) で、それでもお金を貸す人がいるんだから、六角さんの人格も含めて、いつか還してくれると思う人達がいた、と想定します。 で、だれかが、六角精児さんに、数万円のお金を貸していて、数年後に六角さんが返済してくれたとします。 サラ金とかでなければ、友人だし、額面通り、つまり利子をツケないで許してくれるかも知れません。 もし、デフレの状況であれば、数年前と六角精児さんから還してもらうお金の価値は、変わっていません。 なぜなら、物価が同じか、ちょっと下がっているからです。 しかし、ここ2,3年、物価が急速に上がり始めています。と、いうか上がりました。 つまり、インフレです。 そうすると、もしインフレの状況であれば、六角精児さんにお金を還してもらう側、つまり、六角精児さんにお金を貸した側としては、どうでしょう? 物価があがっている、つまり、インフレの状況では、もし六角精児さんが、貸した額面と同じ金額しか還してくれなかったら、ちょっと不満じゃないですか? 普通の感覚では、ちょっとモヤモヤしますよね? ですから、貸した額面にプラス・アルファして六角さんがお金を還してくれないと、なんかイヤだ、ということになります。 つまり、利子を上乗せして還してくれ、ということになります。 つまり、インフレになると、名目金利(名目利子率)があがる、という現象が起こります。 これを最初に提唱したのが、フィッシャーさんという方だったので、「フィッシャー効果」といいます。

偽らざる本音

  その1 その2

日本人への警鐘 「ローマ帝国衰亡史」下巻 訳者解説より (再掲)

 ローマ人はもともと質実剛健で、勇武の民でした。建国以来の領土拡大は、そのことを如実に物語っています。また、かれらは多神教であり、宗教的に寛容でした。さらに、人種的偏見も少なかったようです。くわえて、実利的な考え方をしていた民族でした。そのため、かれらの間には、どの民族の出身であれ、優秀な者はこれを活用するという風潮がありました。以上のような民族性により、ローマはしだいに発展、拡大していったのです。しかし、頂点にあることが長く続けば、だれであれ、その地位がもたらす影響をうけないはずはありません。国家の興亡、家門の盛衰、いずれにおいても、歴史はこのことを示しています。ローマ人にしても 同じです。 すなわち、みずからを元来優れた民族であると思い込み、悠久の昔からそうであったかのように現在の地位を当然とみなし、ひるがえって、周辺の蛮族を蔑視したのです。 およそ蔑視は油断をうみ、油断は情報の欠如をもたらします。その結果、あらたな事態への対応を稚拙なものにします。同時に、油断は訓練をおこたらせ、みずからの力を相対的に低下させます。蛮族がもつ潜在力をみくびり、しかるべき対応ができなかったのも、もとはと言えば、そうしたローマ人の傲慢さに起因するものでした。