人生という岬に立ち尽くすとき、人は自らが抱える不条理を前に、ただ凍りつくしかない。 解決できない過去、拭い去れない絶望、論理の届かない痛み。 それらは人生を凍らせる「絶対零度」となって、私たちの足を止める。 だが、ここで私は「解決」という幻想を捨てる。 真の浄化とは、何もかもを清めて無垢な状態へ戻すことではない。 それは、自分の内なる闇をそのまま捧げ、自らの手で「焔」を灯し続けるという、いわば拝火教的な儀式にほかならない。 まず、割り切れない思いを、そのまま薪として抱きしめる。 どんなに湿っていても、どれほど重くとも、それこそが唯一無二の燃料であると認めるのだ。 解決を望む心は、焔を消す冷たい風にすぎない。 そうではなく、絶望という重みを、そのまま火の中に放り込む。 火にくべられた絶望は、激しく煙を上げ、私の知性さえも焦がす。 すべてが燃え尽きるわけではない。燃え残った煤は黒く残り、煙は空を濁らせる。 だが、その燃焼の過程で、かつての苦痛は、凍えた指先をかろうじて温める「熱」へと変容する。 浄化とは、きれいになることではない。 「割り切れないまま、熱を持つ」ことだ。 それは、山頂を目指して岩を運び上げながらも、何度でも足元へ転がり落ちるを見届ける、シーシュポスの歩みに似ている。 頂上に到達することを目的とせず、転がり落ちた岩をもう一度拾い上げ、火にくべる。 その往復運動そのものが、私たちの「業」であり、焔の守り人としての矜持なのだ。 答えなど出なくていい。 岬に吹き荒れる風の前では、何が正解かも分からないままだ。 ただ、燃やし続ける。 黒い煤を吐き出し、湿った煙をくゆらせながら、 この割り切れない人生の重さを、執拗に燃やし続ける。 立ち上る煙と、その足元にある確かな温もり。 たとえ世界がどれほど凍てついていようと、解決不能な「業」を抱えて、 私は今日もまた、もう一薪、この闇をくべるのだ。