投稿

曲江

 一片の花飛びて春を減却す 風は万点をひるがえしてまさに人を憂えしむ かつ看る 尽きんと欲する花の眼を経るを 厭う莫かれ 大きを傷む酒の唇に入るを

春望

 国破れて山河あり 城春にして草木深し 白頭掻けば更に短く すべてしんにたえざらんと欲す

ホッとした。

 久しぶりに、みやもとクリニック行ってきました。 ホッとしました。 やっぱり、たまには生身の人間と話さないとね。 いくら生成AIが賢いといっても。 やっぱり、たまにはいかないとダメだ。 特に話のネタがあったわけでもないんだけどね。

こころ

 人の心ってのは、難しいな。 俺も、裏表があると思われてそうだし。 単純に、アンガーマネジメント能力が異常に高いだけかも知れないのに。 なにしろ、もう20年以上前のことで、結果的に母親に土下座までさせたんだからな。 知に働けば角が立つ、情に棹させば、流される。 とかくこの世は生きづらい。 そろそろ、孤独なのも辛くなってくる。 ネットは所詮ネットでしかないし。 そこで勝手に俺の人物像が独り歩きするのも、やむを得ないけど、俺はそんな人間じゃないのに、と思ってしまう。

SAMEJIMA TIMES

 これは凄い。 知り合いの方にご教示いただいたが、これはどんだけテレビを見ててもわからないことだ。 ご安心を。 元朝日新聞の政治部デスクの方のYouTubeなので、信頼できます。(たぶん。) これは凄い情報源を得たぞ。 samejima times

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 資料より (再掲)

       私は、 自分のもともとの性質が 「ここまでくらいはがんばろう」と課した限界の範囲で自己研鑽に励むときでさえ、謝罪や後悔もなく、自分のもともとの性質を「与えられた当たり前のもの」として受け入れており、そのようなとき、自分自身に対する「自己愛」を持っているのである。私の自我と私とは、一様にすべてのことを共有しながら、いっしょに多くのことをくぐり抜けてきた。私が彼(=私の自我)を支える限り、彼が私を失望させることはなかった。私は彼を叱ったこともあるが、けっして彼の本性を呪うことはなかった。彼には間違いなく欠点があるし、ひどくそうなのだが、その短所があらわになるとき、私はやさしく寛大にほほえむのである。彼のへまは、彼のような性質をもつだれからでも人が予想するようなものである。 人は 、これほどまできわめて近しくしてきた存在を憎むようにはなれない。好むと好まざるとにかかわらずこの人物 (=私の自我)に依存してきた全年月の後、どのようにして別の自我とうまくやりはじめることができるか、私は実際知らないのである。このように、自己同一性 (自分が自分であること)は、一種の約束による見合い結婚だと考えることができる。その見合い結婚は、安定的な人の中では真実の愛へと成熟するものだが、不安定な人の中では、堕落してしまって、恨み言と自滅へと至る。人の自己愛のもっとも真実の表現は、自身の善さへの献身であり、それは他の誰のものでもない自身のもともとの性質(そのような性質は不条理な、変なものかもしれない)の自己充足である。(「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」村上春樹 文春文庫 より (再掲)

     人生は複雑な楽譜のようだ、とつくるは思う。十六分音符と三十二分音符と、たくさんの奇妙な記号と、意味不明な書き込みとで満ちている。それを正しく読み取ることは至難の業だし、たとえ正しく読み取れたとしても、またそれを正しい音に置き換えられたとしても、そこに込められた意味が人々に正しく理解され、評価されるとは限らない。それが人を幸福にするとは限らない。人の営みはなぜそこまで入り組んだものでなくてはならないのだろう?  「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」村上春樹 文春文庫 より 夜空ノムコウ