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「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?―言語と運命の社会学」 内田隆三 岩波書店 p.485 (再掲)

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   読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。物語とはおよそこんなものなのかもしれない。実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。 しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。

零度の社会 (再掲)

 詐欺師の存在は、本書で繰り返し指摘してきたように、現実には非社会的な部分があり、それが不確定性を生んでいることを端的に示す。というのも、詐欺師は、あたかも世界には予測不可能な事態以外存在しないかのように行動しているからである。そして、詐欺師のように不確定性に賭ける意志を持たなければ、ひとびとに対して、未来への地平を開くことはできない。逆にいえば、危険のある不確定な状態こそが、未来への地平を開くのである。それは、実現することが困難な「物語」の方にひとびとは魅了され、その方が希望を与えることがあるからである。実現可能かどうかは不確定な場合、合理的に計算可能な範囲を越えている場合にこそ(計算可能なのは「リスク」である)、 物語は価値を帯びるのである。(「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」荻野昌弘 世界思想社 p.187~188) 

合理化社会と詐欺の二面性

  現代日本における合理化の逆説:社会契約の深淵と「詐欺」の脱構築的可能性に関する研究報告 序論:徹底的な合理化がもたらす「社会の破れ」 現代日本社会は、マックス・ウェーバーが喝破した「脱魔術化」と「官僚制化」の極致に達している。あらゆる社会的営みは数値化され、効率性と自己責任の論理によって峻別される。このような徹底的に合理化された社会において、我々はあたかも強固な「信用」の基盤の上に生活しているかのような錯覚を抱いている。しかし、近年頻発する回転すし店での迷惑行為の動画投稿や、SNSを通じて可視化される逸脱行為は、この合理的な社会の表層に生じた致命的な「破れ」を露呈させている。 一見すると、これらの行為は単なる若者の無分別な悪ふざけや、法秩序に対する挑戦として捉えられがちである。事実、SNS上ではこれらの加害者に対して苛烈な糾弾が加えられ、損害賠償請求という「合理的な制裁」が正当化される。しかし、その背後にある実態を詳細に観察すれば、彼らの多くは「トー横民」や「ドン横民」、「グリコ下」といった、現代日本の周縁部を漂流する「寄る辺なき貧者」であることが浮き彫りになる 1 。彼らは、合理化された社会が提供する標準的な市民生活の枠組みから排除されており、社会契約が暗黙のうちに前提としている「失うべきものを持つ主体」ではない。 ひろゆき氏が提唱し、広く人口に膾炙した「無敵の人」という概念は、生存の基盤を喪失し、社会的な制裁がもはや抑止力として機能しない個人の出現を指している 1 。社会が「無敵の人」で溢れることは、単なる治安の悪化を意味するのではない。それは、合理性に基づくと信じられている社会契約そのものが、その論理的な限界(無限遡行)によって自壊する危機の予兆である。本報告書では、ランドル・コリンズの社会学やウィトゲンシュタインの言語哲学を補助線としつつ、現代日本における合理性と信用の関係を再考し、「詐欺」という現象が管理社会においていかなる脱構築的な機能を果たし得るのかを考察する。 第一章:社会契約の非契約的基礎と合理的個人の限界 社会契約説の論理的欠陥 トマス・ホッブズやジャン=ジャック・ルソーに代表される近代社会契約説は、人間が「万人の万人に対する闘争」という自然状態から脱却するために、互いに権利を委譲し、共通のルールに従うことに合意したとする 2 。この...