ハイデガー哲学への省察 (再掲)
<世界>はときに人間に対して、あまりに残酷な開かれ方をする。社会保障がどうとか、経済情勢がどうとか、などは 一切お構いなく、ただ 残酷に<世界>は現存在としての人間に対して 開かれうる。しかし、そのような開かれ方をする<世界>の中にこそ、ハイデガーは連帯の可能性を模索したのではないだろうか?人間が共同現存在のまどろみから醒めること、それはおそらく「死」を意識することを通して起こり得る。確かに、<世界>がそのように残酷な開かれ方をするとき、それは孤独ではなく、そのような開かれ方をする<世界>においてこそ、孤独ではなく連帯の可能性が現れる可能性はあり得る。もっとも、ハイデガー哲学においては、 それが「ドイツ民族の使命に目覚める」という方向へ進んでしまったがゆえに、ナチズムとの親和性をやり玉に挙げられる。しかし、現存在たる人間は、おそらくどんな時代、場所においても、そのような<世界>の開かれ方においてこそ、連帯の可能性を見出してきたのではないだろうか。もちろん、今後どんなに科学技術が発展しようが、どんなに社会構造がスマートになろうが、そのような<世界>の開かれ方は現存在たる人間に容赦なく襲いかかるだろう。だが、そうであるからこそ、人間は、はるか先の将来においても、あるいはたった今現在においても、古い殻から抜け出して、新たな一歩を踏み出すことが出来るのではないだろうか。言い換えれば、<世界>がそのような残酷な開かれ方をする限りにおいて、「人間」は孤独を克服し、連帯の可能性を見出すのである。