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プログラミング 補訂 (再掲) ―ウザいくらいしつこいけど―

 どんなに冷静に自己分析して、よし、イケる!働ける!と思っても、それだけは出来ないんだよね。やっぱり。塾講師だけはやったことあるけど、いかんせん少子化なもんだから、子供を相手にお客様商売するのがいかに割に合わないか、はすげえ知ってるんだよね。正直、ガキは相手にしたくない。やっぱり、病気だって、完治したわけじゃない。必ずしもストレスに耐性がないわけじゃないが、如何せん、こと働くってことに関しては、デフォルト設定は自分でもどうにも出来ない。    高校生のときに深刻なウツ状態に陥って、かなり危機的なところまで行ったんだけど、一種の極限状態だね。そのときに、自分で自分をプログラミングし直したんだけど、そのときに、働く、ということまで計算に入れてなかった。自分がどこまでやっても「働く」というところまで行かない、行けないのは、そのせいかも知れない。しかし、このトシになるまで、大変なこと言葉では言い表せないほどあったけど、乗り切れたのは、その極限状態を乗り切れたから。だから、働けないのは大目に見てくれ。

죽을 뻔했어요.

 頻脈が治らねえ。 なんか、放送大学の面接授業か何かで?すげえパワハラされる夢を見た。 しかし、自分の解釈では、今のは、(働いたとして)職場でパワハラされるかも知れないっていう夢だったんだろう。 なんかな、夢がねえな。 日本て国は。 つくづく。 結局、足元見られたら、終わりなんだ。 この国では。 人権も何もあったもんじゃない。 おそらく、市役所なんかの障害者雇用を前提にした夢だったんだろうけど・・・ 根拠もなく夢想で市役所をディスってはいけないが、結局、そういうところで障害者雇用で働いたら、陰湿なパワハラをされるんじゃないか、というのは、自分が慶応で感じた、人間は、というか日本人は、その気になれば、どこまでも卑劣になれるんだ、という夢だったんじゃないか、と思う。 そんなことやってるようじゃ、組織として上手く回らないなんてことは、ちょっと考えりゃわかんのにね。 もし働くなら、派遣とかのほうがまだいいわ。 一応、派遣会社が中に入ってくれる(だろう)し。 (よく知らんけど。) いずれにせよ、やらないうちからこんな夢みて頻脈起こしてるようじゃ、先が知れてる。 死んでしまう。 でも、パワハラって、端から見てすごい立派な職場でこそ、往々にして起きるものだからね。 そんな職場のために寿命を縮めるなんて、バカげている。 ああ、日本(人)てビミョーだな。。。 でも、今朝の夢は、ほんとこんな夢を常態的に見てたら、心臓発作起こして死んでしまう、っていうレベルだったよ。 ああ、とはいえ、制度がどうこうじゃなくて、結局は日本人がクソなだけだと思うけどね。 結局は。 慶応の連中が上司だったら、なんて、冷静に考えるだけで文字通り悪夢だわ。 やめとこ! ウイスキー・イン・ザ・ジャー

近代化と個人:『それから』を通して Googleの生成AIが詳細なレポートを作成してくれました。 (再掲)

  夏目漱石『それから』に映し出される明治期の近代化と個人の葛藤:アドルノ的視点からの考察 序論:夏目漱石『それから』における明治近代化の多層的考察 本稿は、夏目漱石の小説『それから』(1909年発表)を題材に、明治期の日本の急速な近代化がもたらした状況と、それが個人の経験に与えた影響について深く考察するものである。特に、経済的豊かさが生み出す「自家特有の世界」への耽溺と、それが最終的に経済の論理に絡め取られていく過程、そしてテオドール・W・アドルノが指摘する、社会の合理化と精神世界における非合理への慰めを求める人々の傾向を、作品を通して分析する。『それから』は漱石の「前期三部作」の二作目にあたり、日露戦争勝利後の日本社会の変革期を背景に、個人の欲望と社会規範の対立を深く掘り下げた作品として位置づけられる 。   明治期の近代化:外発的開化とその影響 日本の明治時代(1868-1912年)は、1853年の黒船来航を契機に長きにわたる鎖国状態を脱し、驚くべき速度で西洋の制度や文化を取り入れ「近代国家」への道を歩んだ画期的な時代であった。この時期には、鉄道、郵便局、小学校、電気、博物館、図書館、銀行、病院、ホテルといった現代の基盤となるインフラや制度が次々と整備された。政府は「富国強兵」や「殖産興業」といった政策を推進し、工場、兵舎、鉄道駅舎などの建設を奨励した。また、廃藩置県や憲法制定といった統治制度の変更に伴い、官庁舎や裁判所、監獄などが建設され、教育制度の導入は学校や博物館の整備を促した。 西洋化の影響は日常生活にも深く浸透した。住宅様式においては、外国人居留地を起点に西洋館が普及し、やがて庶民の住宅にも椅子式の生活スタイルが段階的に浸透した 。食文化においても、仏教の影響で長らく禁じられていた肉食が解禁され、西洋列強との競争意識から日本人の体格向上と体力増強が期待された。洋食は都市部の富裕層を中心に広まり、カレーライスやオムライス、ハヤシライスといった日本独自の洋食が定着した 。大正ロマン期(1912-1926年)には、西洋文化と日本独自の文化が融合し、「モガ」や「モボ」と呼ばれる若者たちが洋装に身を包み、カフェで音楽や映画を楽しむ「自由でおしゃれな空気」が醸成された。経済面では、明治後期から軽工業が発展し、日露戦争前後には鉄鋼や船舶...

漱石、アドルノと「自然」を巡る考察 (再掲)

  倫理的自発性(おのずから)の構造と媒介された自然:夏目漱石の「自然」感とアドルノの『自然史』に関する比較考察 I. 序論:近代における自発性と人工性の弁証法 1.1. 研究目的と対象範囲の明確化 本研究は、夏目漱石の小説『それから』の主人公代助が追求した「自然」(じねん)の概念を、それが「青」の世界で構築された人工的な「造り物」であったのか、それとも本来的に人間が所有し得ない抽象的な倫理的理想であったのか、という二律背反的な問いを軸に分析する。さらに、この漱石的な「自然」の倫理的地位を、フランクフルト学派の主要人物であるテオドール・W・アドルノが展開した批判理論における「自然」( Natur )の概念と対比させることを目的とする。 中心的な概念の三点比較分析を行う。一つ目は、代助の美学的「自然」(「青の世界」) 1 。二つ目は、日本の倫理学的な概念としての「おのずから」(自発性・非強制性)。三つ目は、アドルノの『否定的弁証法』や『啓蒙の弁証法』における「自然」( Natur )、特に「自然史」( Naturgeschichte )および「非同一性」の概念である 2 。 代助の試みが、近代社会における自律性を確立しようとする主体的な抵抗であると同時に、彼の階級的な特権によって支えられた受動的な逃避であるという二重性を掘り下げ、この実存的な失敗が、アドルノが批判した道具的理性と概念による世界の捕捉という暴力とどのように構造的に響き合っているかを考察する。 1.2. 方法論的枠組み 本報告書では、比較批判理論のアプローチを採用し、明治期の日本文学が西洋近代と対峙する過程で生じた倫理的・美学的葛藤と、後期資本主義に対するフランクフルト学派の体系的な批判 2 との間に橋を架ける。 漱石文学における核心的な問題は、非強制的な世界との関係性( おのずから )の理想が、現実の社会的・経済的媒介(『それから』における「赤の世界」 1 や、アドルノが指摘する「搾取的経済の優位」 3 )によっていかに浸食されるか、という緊張関係にある。代助の行動は、この緊張を乗り越えようとする美学的な試みだが、その試み自体が、究極的には経済構造と社会的欲望によって媒介されているということを、アドルノの理論的枠組みを用いて明らかにする。 1.3. 用語の確立と概念的分化 分析の精度を保つた...