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政治学入門(’26) 放送大学印刷教材より (再掲)

      ネオリベラリズムにおいては、市場の自動調整機能を全面的に信奉することで、可能な限りあらゆるアクターを経済的な競争者に、積極的に変えようとする。したがってネオリベラル達は、あらゆる人間関係を競争関係にしようとする傾向を持つ(かかる政策は、福祉国家政策と同様に、個人の生への政治的介入であるとさえいえる)。   この点で、社会主義が自由主義のなかに認めた、人間と人間とを疎遠にする傾向が強化されており、それは格差社会の蔓延という仕方で現れているとしばしば指摘される。   こうした自然的社会性や連帯の欠如を補うために、ネオリベラリズムは自由主義なら抵抗するような保守的な価値、例えば伝統的な家族主義や宗教的原理主義等と結びつく傾向がある。   こうした個人の分断という問題は、ネオリベラリズムのイデオロギーにおいては「自己責任」の倫理として表れる。   これは、福祉国家が生み出すとされる依存的な個人を批判するものであり、一種の倫理的な人間観ではあるが、社会関係のなかで人間本性が開花するとする、つまり人間の在り方は容易には認識できない仕方で社会関係のなかにあることを認めるという、ニューリベラリズムが持つ重要な要素に真っ向から対立する考え方である。   そしてこれは、人間は相互に依存するという一般的事実にも反する人間観でもあった。    放送大学「政治学入門(’26)」第7章126,127ページより

「国土論」 内田隆三 筑摩書房 137ページより (再掲)

 「敗戦にいたるまで国土に固有の曲率を与えていたのは天皇の存在であった。だが、天皇が『われ神にあらず』と表明したときから、天皇の像は国土に曲率を与える重力の中心からゆっくりと落下していく。重い力は天皇から無言の死者たちに移動する。聖なるものはむしろ死者たちであり、天皇もこの死者たちの前に額ずかねはならない。この死者たちはその痛ましいまなざしによってしか力をもたないとしてもである。それゆえ戦後社会が天皇とともに超越的なものを失ってしまったというのは正しくない。そこには報われぬ死者たちというひそかな超越があり、天皇は皇祖神を祀るだけでなく、この無名の超越者を慰霊する司祭として、ゆるやかな超越性を帯びるからである。」137ページ 国土論 内田隆三 筑摩書房

日本財政、インフレとバラマキの懸念 (再掲) ―高市政権は、余計なことをするな―

  日本の財政健全化の虚実:インフレと政治的誘因が蝕む長期安定性 — 「アベノミクス・レジーム」再来の危険性分析 — 第1部:序論 — インフレ下の財政不安と「無策の選択」の論理 1.1. 報告書の背景:インフレ環境下における日本のマクロ財政動向の再評価 近年の日本経済は、デフレ期には見られなかったマクロ経済環境の転換期を迎えている。長年の異次元緩和と、国際的なインフレ圧力が複合的に作用し、名目GDP成長率が上昇傾向を示している。この名目成長は、特に税収の増加という形で政府の歳入に反映され、基礎的財政収支(Primary Balance, PB)の数値目標を一時的に改善させる効果をもたらしている。 政府はこのPB改善を財政健全化への道筋として提示しがちであるが、専門家の間では、この数値改善の「質」に対する根本的な懐疑論が共有されている。PBの改善が、実質的な経済構造改革や生産性向上に基づくものではなく、インフレによる名目的な効果に大きく依存しているとすれば、その持続性は極めて低いと言わざるを得ない。本報告書の出発点は、この「名目的な改善」の裏側に潜む構造的な脆弱性を徹底的に分析することにある。 この状況下で、特定の政権(ユーザーの指摘する高市政権など)が、物価高対策を名目とした新たな財政出動(いわゆる「バラマキ」)を開始している。これは、財政規律が一時的に緩むことによる政治的なモラルハザードの典型例である。もし、財政規律を重視する政策が有権者の支持を得られにくいという構造的な制約が存在するならば、経済政策において「余計なこと(バラマキ)をするくらいなら、まだ経済に関しては何もしないほうがマシ」という、政策不信に裏打ちされた「無策の便益」の論理が、政策論の核心として重みを増すことになる。 1.2. ユーザーの核心的懸念の構造:名目改善 vs 実質的な財政規律 ユーザーが抱える懸念は、日本の財政問題の複合的な側面を正確に捉えている。第一に、PB改善が「インフレ税」効果、すなわち既存の国債の実質価値圧縮と名目税収増加に依存している危険性である。この効果は短期的には政府の帳簿を改善させるが、将来の金利上昇リスクと構造的な歳出圧力の増加という形で、長期安定性を蝕む。 第二に、島澤諭教授が指摘する「アベノミクス・レジーム」への回帰である。このレジームは、積極財政の恒常化...

ハイエク思想と現代経済秩序 (再掲)

  経済活動の自律性と統制の相克:ハイエクとミーゼスの思想的峻別から見る現代社会の「中庸」への警鐘 社会的秩序の起源:設計主義的合理主義への懐疑と「中庸」の陥穑 現代の政治経済において、経済活動を単一の中央当局の指揮下に置くという発想に対して、生理的な拒絶反応を示す人々は少なくない。この「たじろぎ」は、単に巨大な組織を管理・運営することの技術的な困難さや、非効率性への懸念から生じるものではない。むしろ、万事を一箇所で決定し指示するという構造そのものが孕む、個人の自由への根源的な脅威に対する直感的な恐怖に基づいている 1 。しかし、こうした恐怖心がありながらも、現代社会が急速に中央管理的なシステムへと傾斜し続けているのは、完全な自由競争と完全な計画経済の間に、両者の欠点を補完し合い利点を融合させた「中庸」の体制が構築可能であるという、多くの人々が共有する根強い信念があるためである 2 。 合理的な思考を持つとされる多くの人々にとって、市場の無秩序な分権化による弊害を避けつつ、一方で硬直的な中央集権の弊害をも回避し、民主主義的な合意のもとで経済を「賢明に管理」するという構想は、極めて理にかなった魅力的な選択肢に見える 4 。しかし、フリードリヒ・ハイエクは主著『隷従への道』において、この「常識的」に見える判断こそが最も危険な幻想であると断じた 5 。ハイエクの議論によれば、競争と計画は、単に程度の問題として混合できるものではなく、本質的に相反する指導原理である。競争を機能させるための制度的枠組み(法の支配)と、特定の社会的成果を達成するための資源配分の計画は、一方が他方を浸食し、最終的には自由を維持するための基盤を破壊する「滑りやすい坂道」を形成する 3 。 この問題を深く理解するためには、ハイエクの思想をその先達であり師でもあるルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの理論と比較し、さらに彼らが依拠した「理性」や「ルール」といった概念の差異を解剖する必要がある。ミーゼスが個人の「計算的な理性」を社会形成の主座に据えたのに対し、ハイエクは理性の限界を強調し、長い進化の過程で蓄積された「非人格的なルール」への準拠こそが自生的秩序(カタラクシー)を形成すると論じた 7 。この微細ながらも決定的な相違を明らかにすることは、現代のAI技術やビッグデータによる「新しい計画経済」の可...