土 (再掲)
古人は言う。万物は地の汚れより生ず、と。 しかし、いま私たちの足元からは、その「汚れ」が徹底的に拭い去られている。 街はアスファルトで覆われ、思考は論理で整地された。 成分の分からぬものは「不潔」として撥(は)ねられ、すべてが数値と説明のつく言葉へと置き換わっていく。 だが、その清潔すぎる風景の中で、私たちの魂はどこに根を張ればよいのだろうか。 土の恐ろしさは、その「分からなさ」にある。 そこには死者の沈黙が堆積し、忘れ去られた言葉が混ざり合い、人知れず発酵を続けている。 その不気味な抱擁力に耐えかねた者は、そこに「伝統」や「血」という名の着色料を注ぎ込み、人々を熱狂の泥濘(でいねい)へと誘い出す。 かつて、詩人の愛した地平が、鉄と血の荒野へと塗り替えられたように。 だからこそ、私たちは土を語る手に、細心の注意を払わなければならない。 土を神聖視してはならない。それはただの、巨大な「忘却の胃袋」だ。 そこに、私はあえて一掴みの**「灰」**を撒く。 灰とは、激しく燃えた果ての静寂であり、熱狂を中和する冷ややかな理性の形だ。 しかし、その灰の混じった冷たい土の底に、私はわずかな**「希望」**を馴染ませておこうと思う。 それは、安易な救いの言葉ではない。 あらゆる理屈が焼き尽くされ、泥にまみれたその先で、なお「生きたい」と願う命が放つ、消え入りそうな、けれど確かな震えのことだ。 望ましいのは、土から酒を醸す職人のような佇まいだ。 泥の臭みを厭わず、灰の静寂を慈しみ、その奥にある希望の体温を掬い上げる。 そうして出来上がった「酒」には、一点の濁りも残さない。 土の上に立ちながら、土とは異なる透明な風を、その身に纏うこと。 同化せず、拒絶せず。 ただ、自らの**「眼差し」**だけを標(しるべ)として、この不確かな地面を歩き続ける。 それが、舗装された時代において、なお「土」と共に生きる者の矜持である。