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しばらくぶり

 平沼翔太ヒット1本打った。 代打で。 あとで動画チェックしよっと。 そのままレフトの守備についた。 うまくいけば、もう1打席まわってくるかも? むぅ・・・12回表 空振り三振。 この日はもう平沼のバッターとしての出番は終わりだな。 あとは、最終12回裏の守備か。 ・・・ツイッターによると、代打でシングルヒットを打って、出塁して、最後は本塁を狙ったが、惜しくもアウト、とのこと。 見せ場は作ったな。 さすが。 カープサイド目線の動画だけど、最後に本塁にヘッドスライディングしてるのが、たぶん平沼翔太ですな。 さすがにあれは無理だろ。 外野があんな前進守備してんのに。 いくらゴロだからって。 三塁コーチの判断なのか? それとも平沼本人の判断か? よく見ないとわからんが、 さすがに無謀だろ。 ・・・三塁コーチが完全に腕グルグル廻してるな。 これは平沼の責任ではない。 どっちかっというと、ヒット打った動画見たい。 ようやく見つけた。 平沼って、なかなか使ってもらえなくても、やっぱり段々と進化してるんだよね。 バッティングフォームも、より確実性が増してるように見える。 タイミングも、自分の間合いに持っていけるようになってきてる。 やっぱ、こうやって、数字はショボくても、よく見るとちゃんと努力して成長してるんだよね。 期待を裏切らない。 ・・・細かいけど、スイングする直前に、一瞬手首でバットをコネちゃってるんだよね。 そういうクセというか、それでタイミング取ってるから、下手にいじらないほうがいいかもだけど、そこでちょっと力がボールに伝わりきってないかな。 欲を言えば、吉田正尚みたいに体全体で「待ち」を作れたら、もっと長打打てると思う。 広島時代の丸みたいに、ちょっとだけ差し込まれて、その反動で飛ばす、みたいなイメージ。 ここらへんは、才能の世界かもだけど。 ああ、でも、ほんとにバット振れてるときは、ちゃんと振れてるんだよね。 まだ改善の余地はあるな。

焔 人生という岬に立ち尽くすとき、人は自らが抱える不条理を前に、ただ凍りつくしかない。解決できない過去、拭い去れない絶望、論理の届かない痛み。それらは人生を凍らせる「絶対零度」となって、私たちの足を止める。 だが、ここで私は「解決」という幻想を捨てる。 真の浄化とは、何もかもを清めて無垢な状態へ戻すことではない。それは、自分の内なる闇をそのまま捧げ、自らの手で「焔」を灯し続けるという、いわば拝火教的な儀式にほかならない。 まず、割り切れない思いを、そのまま薪として抱きしめる。どんなに湿っていても、どれほど重くとも、それこそが唯一無二の燃料であると認めるのだ。解決を望む心は、焔を消す冷たい風にすぎない。そうではなく、絶望という重みを、そのまま火の中に放り込む。 火にくべられた絶望は、激しく煙を上げ、私の知性さえも焦がす。すべてが燃え尽きるわけではない。燃え残った煤は黒く残り、煙は空を濁らせる。だが、その燃焼の過程で、かつての苦痛は、凍えた指先をかろうじて温める「熱」へと変容する。 浄化とは、きれいになることではない。「割り切れないまま、熱を持つ」ことだ。 それは、山頂を目指して岩を運び上げながらも、何度でも足元へ転がり落ちるのを見届ける、シーシュポスの歩みに似ている。頂上に到達することを目的とせず、転がり落ちた岩をもう一度拾い上げ、火にくべる。その往復運動そのものが、私たちの「業」であり、焔の守り人としての矜持なのだ。 焔は、ただひたすらに燃え続ける。私は解決できない問題を抱えたまま、この火の守り人となる。薪が尽きれば、また新しい絶望を拾い上げ、火の中にくべる。そうして繰り返される儀式の中で、私の内側には、凍える世界を人肌で満たすための、しぶとい熱が宿る。 答えなど出なくていい。 岬に吹き荒れる風の前では、何が正解かも分からないままだ。 ただ、燃やし続ける。 黒い煤を吐き出し、湿った煙をくゆらせながら、この割り切れない人生の重さを、執拗に燃やし続ける。 立ち上る煙と、その足元にある確かな温もり。 たとえ世界がどれほど凍てついていようと、解決不能な「業」を抱えて、私は今日もまた、もう一薪、この闇をくべるのだ。

市井の漱石論 参照:面接授業「夏目漱石―<近代>への問い」@掛川

 夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。それは一見、無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。このことから、漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。 「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、そこでは、情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、「清」から用立ててもらった「金銭」は、交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と(現実的にはあり得もしない)「一心同体」となって憩うことのできる空間を「墓」ーー地底に埋めた漱石は、このような空間が決定的に喪われた、つまり現実には回復不能な時空として想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、この後、『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。  代助もまた、 嫁ぐ前の三千代の写真と草花だけを相手に生きる「自家特有」の水底の世界から、半ば夫に捨てられ子も失った不幸な人妻としての三千代と相対するべく、まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。 夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。もちろんフィクションで...

「アドルノ」 岩波現代文庫 より (再掲)

     もっとも、アドルノが主観と客観との絶対的な分離に敵対的であり、ことにその分離が主観による客観のひそかな支配を秘匿しているような場合にはいっそうそれに敵意を示したとは言っても、それに替える彼の代案は、これら二つの概念の完全な統一だとか、自然のなかでの原初のまどろみへの回帰だとかをもとめるものではなかった。(93ページ)   ホーマー的ギリシャの雄大な全体性という若きルカーチの幻想であれ、今や悲劇的にも忘却されてしまっている充実した<存在>というハイデガーの概念であれ、あるいはまた、人類の堕落に先立つ太古においては名前と物とが一致していたというベンヤミンの信念であれ、反省以前の統一を回復しようといういかなる試みにも、アドルノは深い疑念をいだいていた。『主観‐客観』は、完全な現前性の形而上学に対する原‐脱構築主義的と言っていいような軽蔑をこめて、あらゆる遡行的な憧憬に攻撃をくわえている。(94ページ)  言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(95ページ)   理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めを...

近代日本経済史@北九州サテライト レポート (再掲)

  確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

コミュニケーションの論理 ―主観‐客観― (再掲)

  時として言われる。 主観を排除すること、客観的であること、は、良いことだ、と。 しかし、結論を先取りすれば、極端に主観的でもいけないし、極端に客観的でも、コミュニケーションは成り立たないのではないか。 まず、コミュニケーションをするには、自分のなかの「主観」が存在するのであり、それをある程度は「客観」に置き換えてから、相手に渡すのであるが、逆に言えば、客観が先に存在するのではなく、まず「主観」が先にあり、それを、ある程度は「客観的」に整理整頓してから、相手に渡すのである。 極端に客観的に洗練された「主観」は、その情報の受け手にとって、どういう「刺激」として受け取られるのであろうか。 確かに、意図は通じるだろう。 しかし、それで情報を発信する側の「主観」は、相手に通じるのか、甚だ疑わしい。 しかし、「主観」は、それ自体として存在するものであるか? 「主観」の存在しない意識というものが、いったいあるのだろうか? デカルトが主張したことによれば、あまりにも有名な「我思う故に我あり」である。 つまり、主観が存在するとは、自分自身の存在を証明することである。 で、あるならば、主観が存在しない「ワレ」というものは、およそ意識を具有し得ないのではないか? もちろん、ある誰かが遺した言葉が、その当該の人物が亡くなった後でも、あたかもその人が生きているかのごとく、その人の「意図」を、後世の人に伝える、ということはある。 それはそれで、また哲学的な難題であるから、とりあえずここでは問題にしない。 話を戻すと、さきに「客観」があるのではなく、デカルトの主張によれば「主観」がまず先にあるのである。 かなりややこしい話になってきたが、極めて簡単に言えば、主観をあまりに客観的に伝えようとすると、かえって相手に伝わらないのではないか、ということだ。 一番わかりやすい例が、恋愛感情である。 ラブレターをもらって、もしその手紙が、コンピューター言語で書かれていて、(仮に理解できたとして)こころを動かされる人がいるだろうか? ちょっと想像しにくい。 なかにはそういう人もいるかも知れないが。 ちょっと話を変えよう。 自分が日向台病院にいたときに、自分の思いを、精神科医に伝えようと、どれだけ頑張っても、通じなかった。 それは、相手(精神科医)が、こちら(患者)の「主観」を、単に論理が破綻したノ...

夏目漱石『それから』に関する論考 (部分再掲)

 アドルノについては、ポスト構造主義が大きくクローズアップされた80年代から しばらくの間、私たちでも手に取るような一般的理論書の引用、あるいは論文の 脚注で名前はよく知りながら、レポートを拝見して、初めてその具体的実像について アウトラインを教えて頂いたことになります。  理性と個人の誕生に重きを置きながらも、それが疎外を産み出さざるをえない 一種の必然に対して、それを批判しながらも反動的な主客合一論へは与しない、 むしろ代償を支払いながら手にする「反省能力」に信頼を置く……  こんな感じで理解しましたが、何より漱石との親近性に瞠目に近い思いを 抱きました。漱石の文明批評は、いうまでもなく「近代」批判なのですが、 しかしけっして、傷だらけになりながらも獲得した「個人」を手放そうとはしません でした、それが彼を果てしない葛藤に陥れたにも拘わらず。  レポートを拝見させて頂き、末尾の件り――アドルノの「疎外」批判が、 それを資本主義に固有の現象としてそこに帰させるのではなく、「主体性の歴史」 に「刻印」されたものとして把握しているとの括りに、漱石との類縁性を改めて実感 し直すと同時に、漱石論への大きな励ましのステップを頂戴する思いです。  本当に有り難う。  なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。  しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプ...