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政治学入門(’26)

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  ようやく、長い長い戦いから解放された気分です。 万が一興味があれば、126、127ページを参照してください。 もしかしたら、私がなぜ安堵しているか、おわかりいただけると思います。 著作権の関係上、さすがに内容をコピペすることは出来ません。 まだ放送すら始まっていないので。 特大のウンコをひねり出した気分です。 これで、何でも出来るとは言いませんが、だいぶ余裕が出来ました。

合理化社会と詐欺の二面性 (再掲)

  現代日本における合理化の逆説:社会契約の深淵と「詐欺」の脱構築的可能性に関する研究報告 序論:徹底的な合理化がもたらす「社会の破れ」 現代日本社会は、マックス・ウェーバーが喝破した「脱魔術化」と「官僚制化」の極致に達している。あらゆる社会的営みは数値化され、効率性と自己責任の論理によって峻別される。このような徹底的に合理化された社会において、我々はあたかも強固な「信用」の基盤の上に生活しているかのような錯覚を抱いている。しかし、近年頻発する回転すし店での迷惑行為の動画投稿や、SNSを通じて可視化される逸脱行為は、この合理的な社会の表層に生じた致命的な「破れ」を露呈させている。 一見すると、これらの行為は単なる若者の無分別な悪ふざけや、法秩序に対する挑戦として捉えられがちである。事実、SNS上ではこれらの加害者に対して苛烈な糾弾が加えられ、損害賠償請求という「合理的な制裁」が正当化される。しかし、その背後にある実態を詳細に観察すれば、彼らの多くは「トー横民」や「ドン横民」、「グリコ下」といった、現代日本の周縁部を漂流する「寄る辺なき貧者」であることが浮き彫りになる 1 。彼らは、合理化された社会が提供する標準的な市民生活の枠組みから排除されており、社会契約が暗黙のうちに前提としている「失うべきものを持つ主体」ではない。 ひろゆき氏が提唱し、広く人口に膾炙した「無敵の人」という概念は、生存の基盤を喪失し、社会的な制裁がもはや抑止力として機能しない個人の出現を指している 1 。社会が「無敵の人」で溢れることは、単なる治安の悪化を意味するのではない。それは、合理性に基づくと信じられている社会契約そのものが、その論理的な限界(無限遡行)によって自壊する危機の予兆である。本報告書では、ランドル・コリンズの社会学やウィトゲンシュタインの言語哲学を補助線としつつ、現代日本における合理性と信用の関係を再考し、「詐欺」という現象が管理社会においていかなる脱構築的な機能を果たし得るのかを考察する。 第一章:社会契約の非契約的基礎と合理的個人の限界 社会契約説の論理的欠陥 トマス・ホッブズやジャン=ジャック・ルソーに代表される近代社会契約説は、人間が「万人の万人に対する闘争」という自然状態から脱却するために、互いに権利を委譲し、共通のルールに従うことに合意したとする 2 。この...