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行政書士は諦めた。

 俺が行政書士をやったら、もしかしたらやっていけるかも知れないが、間違いなく襲撃される。 そんなリスクを冒してまで働きたくない。 せっかく精神障害者なんだから、大人しくしていよう。 もっとも、語学のスキルは磨くけどね。 アホに襲撃されて命を落とすなんて、これほどバカげたことはない。 かえってスッキリした。

文化産業と政治

 政治がこれほど単純なものとして扱われているのには、日本の文化産業による影響を無視しえない。 ワンピースを最後に読んだのは、かれこれ軽く20年以上前だから、なんとも言えないが、例の中学の同級生で、岐阜の養鶏農家に嫁いだ参政党信者の女性のように、「うるせー!いくぞー! by ルフィ」とか平気で言ってしまうことが象徴しているように、参政党信者にとって、政治とはその程度のものなのだろう。 しかし、この現象は、参政党に限ったことではなく、日本の文化産業全体に蔓延する、「政治的メシア」がすべて解決してくれる、それを邪魔するやつがいる、という、極めて単純でナイーブ(世間知らず)な刷り込みの構造があると思われる。 私がここで例として挙げたいのは、「ドクターX」だ。 あの単純で明確なストーリーは、私からすれば滑稽としか言いようのないものだが、あれを政治のリアルとして捉えてしまう層が、確実な厚みを持って存在している、という推論は、間違ってはいないと思われる。 そういう視点で見ると、日本の文化産業が、いかに世間のトレンドのウケを狙うには、どんなことでもする、という、極めて不健全なサイクルが発生していると、強く疑われる。 (以下、Googleの生成AIからの回答) 拝読いたしました。 アドルノのいう「文化産業(Kulturindustrie)」が果たす「複雑な構造的問題を、極めて単純な『英傑 vs 悪の構造』へと回収・解体してしまう効能」を、現代の政治心理とポップカルチャーの消費構造から鮮明に切り出された一文ですね。 特に『ドクターX』やバトル漫画的な「孤高の英雄(メシア)が巨大な既得権益や悪を打倒してカタルシスを得る」という構図は、本来ならば多様な利害調整や制度的制約、泥臭い合意形成を必要とする「政治のリアリズム」を完全に消去してしまいます。 この構造が視聴者や読者に与える刷り込みと、それが政治行動へ及ぼす影響について、3つの視点から整理・考察できます。 1. 「複雑さの捨象」とメシア幻想 エンターテインメントとして消費される物語では、「構造の複雑さ」はテンポを損なう邪魔者として徹底的に削ぎ落とされます。 物語のスキーム: 「真の正義を持つ1人(あるいは少数)のカリスマ」 + 「それを阻む無能で腐敗した特権階級/組織」 期待される解決: 制度改革や議論ではなく、 「一刀両断...

結局は民度の問題

 おそらく、世の中には、政治というものを余りに単純化して考えている人が、数え切れないくらいいるんだろうな。 そういう人にとっては、自分が直感的に、あるいはまったく無邪気に信じていることが、ストレートに実現されないことが我慢できないんだろう。 政治ってのは、もっと複雑なものなのに、自分が信奉する政治家の主張が通らないと、それはすべて「抵抗勢力」というラベルを貼って、排除すべきだと思っているのだろう。 日本の政治は、「決められない政治」から脱却するために、制度改革がなされてきたが、その結果、首相が、アメリカの大統領制よりも遥かに強い権限を持ってしまって、それが、安倍氏や高市氏のような、内容を伴わない政治的アイコンとして機能してしまった時、彼らに自分が期待する無邪気な政治的願望を投影して、それがストレートに実行されないことが、堪えられないのだろう。 それは、そもそも議論をする、という能力の完全な欠如を意味する。 面と向かっては、一応妥協はするが、ネットという空間に置いては、お仲間がいれば、どんなに政治的にナンセンスな主張でも、自分の政治的願望が実現されなければ気が済まない、という、およそ政治とは程遠い、ある種の、政治的アイコンとの「共犯関係」に陥ってしまうのだろう。 それは、そもそも、自分と違う意見を許容できない、という、つまり議論をするという能力の完全な欠如の露呈を意味している。

E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より

  「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」 

菜根譚 (再掲)

       ひるのひかりに やかれつつ きみは だれかを おもいだす よごれた上着は ぬぎすてて よるのしんえん ひとり座る こはくにゆれる そのしずく ミントのにおいが はなをぬけ はいでこされた しじまが あついこころを とき放つ よるはゆたかな ようざいか とおいだれかを 引き算し のこった わずかな いとしさで むねのしんおう みちてゆく やみを おそれることはない それは おもいをつなぐ時間 くもりなきまで みがきあげ こころののれん ととのえん よるを知るめは すずやかに あしたのざわめき つきぬける りんとさくべき いちりんの きみのこどくを はじめればいい

自己の禁欲的な練り上げ、あるいは精神の遍歴 (再掲)

   思えば、ずーっと自分自身との距離を、近くに縮めている生活を続けていた。 それは、自分で敢えてそうしていた、とも言えるし、そうすることが要求される家庭環境だった、ということもあるだろう。 とにかく、恒に自分自身を肌身離さず自分に繋げておかないと、自分がバラバラになってしまう、という恐怖感に支配されていたし、現にその通りだったのかも知れない。 敢えて高校受験などしなければ、もっと楽な人生だったかも知れない。 でも、それじゃきっとつまらない人生を送ることになっていただろう。 (申し訳ないが。) 敢えて難しい環境に身を置くことで、人生が豊かになったことも、揺るがし難い事実だ。 しかし、その代償も大きかった。 精神的には、ずっとキツいままだった。 周囲を、やたら優秀な人に囲まれる、というのは、想像以上に過酷なことだし、下手に自分への期待値をあげてしまったものだから、自分で自分に対する期待や、家族からの期待値も、完全にバブルを起こしていた。 それに応え続けるのは、とても辛いことだった。 (そうして、汲々として呻吟する姿を、つねに姉から嗤われていた。) 栄光もあったかも知れないが、間違いなく挫折もあった。 しかし、敢えて自分自身と距離を適度に離す、という実践が奏功して、だいぶ楽になった。 いまでは、ブログに何を書こうか、ネタがないほどである。 人間とは、本来その程度の生き物のはずだ。 しかし、現代の日本では、そんな当たり前のことでさえも、当たり前ではないのだろう。 それが、今の時代特有のものなのかは、正直わからない。 でも、「らしく」生きていくだけでも、頑張らざるを得ない、と宮本浩次も歌っている。 ならば、そんな当たり前の生き方も、きっと当たり前ではないのだろう。 ボードレールが述べたように、「現代性」に生きる我々は、自分自身を禁欲的に練り上げる宿命に縛られている、というのは、あながち嘘ではないのだろう。 でも、どこかで、自分はこれでいい、と諦念できる日が来ることを、信じていたい。 アヴェ・マリア

 俺は、心が暗闇に飲まれそうな時、心のなかに微かに灯る明かりを、ひとつひとつ追いかけて、それがどこから発せられているのかを、注意深く位置づけるクセを持っている。 そのひとつひとつの灯が、俺を迷宮から逃れさせるひとつの糸になるように。 そういうクセが骨の髄まで染み付いている。 だから、実は大雑把に見えて、めちゃくちゃ細かい。 今だってそうだ。 もう若くもない。 こうやって記録に残しておくことで、後から辿り直すことも出来る。 そう、俺はこう見えてめちゃくちゃ細かいんだ。 そうでもしなけりゃ、心臓発作を起こして死んでしまう。 こういう時、民法の知識がいかに大事ってことかを、認識する。 生きるというのは、そういうことだ。 単にわたしはこんなに勉強しましたとか、その程度の話ではない。 しかし、それだけでもない。 やっぱり、こういうことは、専門家に相談しないことには、スッキリしない。 あした、みやもとクリニックに行って吐き出してこよう。 ・・・と、もしもボックスに語りかけた。 明けない夜が来ることはない