明暗
アリストテレスによれば、人は、自分の人格に、責任を持たなければいけない、という。 なぜなら、日々の自分の選択が、その人の人格を形作るからだ、と。 確かに、それはそうだろう、と思う。 だが、最近、それもちょっと違うのではないか、と思うようになってきた。 人生とは、そもそも儘ならないものなのではないか。 自分の人生を、完全に自分で設計することなど、とても出来ることではない。 それは、ある種の設計主義的陥穽だ。 さんざん自分で非同一性がどうのと、というかAIに言わせておいてなんだが、人生が儘ならないということは、実は、自らの非同一性を受け入れざるを得ない、ということなのではないか。 現代民主主義社会の日本だって、いくらネットで言いたい放題言えて、選挙権だって与えられていたって、政治家やポピュリストの無責任な選択のおかげで、人生を狂わされる。 しかし、歴史においては、自分の人生というのは、儘ならないことのほうが圧倒的に多かったのではないか。 自分も今年で満45歳だが、そろそろ体力的にも衰えを感じざるを得ないし、気力だってもたなくなってくる。 そういった中で、なんでもかんでも自分の理性で自分の人生に責任を持てるか、といえば、ちょっと覚束ない。 責任とここでいうのは、果たして、自分は世間的に「正しい」行いをしているかどうか、出来ているかどうか、の問題だ。 自分の人生に、完全に責任を負うのが設計主義だというなら、自分は自分の正しいと思うことを実行しつつ、それでも世間で決まったことには、従うべきなのではないか。 これはハイエク的な発想かも知れないが、人間の合理的な選択など、その正しさには限界があるのだから、先人が積み重ねてきた「自生的秩序」を尊重し、自分が何かしらその「暗黙のルール」を変えてやろう、などというのは、不遜な考えなのではないか、と思うようになってきた。 けれども、やはり、今の自分は、過去の自分の積み重ねの上に成り立っている、ということは、否定しようがない。 もちろん、それが偶然の積み重ねに過ぎない、という議論があるのも知っている。 しかし、だからといって、今さら自分の生き方を変えろ、と言われても、変えられない。 その「変えられなさ」こそが、ある意味では(皮肉にも)自分の人生の「儘ならなさ」なのではないだろうか。 くじら12号



