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ワタシ、脱いでもヤバいんです。

 デブが寝るとき息が止まらないように、C-PAPという、よくお相撲さんとかが使ってる器具使って寝る時があるんです。 というのは、毎日使ってるわけじゃなくて、あ、今日はこのまま眠れるな、という時は、ちゃんと着けて寝られるんですけど、ちょっと横になろう、程度の気持ちで横になって、そのまま寝てしまう、というパターンのほうが圧倒的に多いので、実際には毎日使っている訳ではありません。 と、いうか、最近はやたら寝付きがいいので、下手すると、というかほぼ毎日、椅子に座ったまま寝てます。 そろそろ暑くなってきたので、そのうちエアコン掛けてちゃんとベッドに横にならないと眠れなくなりそうな季節ですが。 ここ数年でまた一段と暑さが過激になってきたので、そろそろ死活問題です。 さて、ここ数日、C-PAP着けて寝ていることが多いのですが、万事OKという訳でもないようです。 いや、確かによく眠れるんです。 (さすがの自分でも)忙しい時とか、ちゃんと短時間でしっかり眠れるのは、助かります。 しかし、いま迂闊にも書いたように、ちゃんと短時間でしっかり眠れるんです。 短時間で。 たしかに、脳の疲労も取れるし、心臓とかにも絶対いいです。 もちろん、メンタルにも。 たぶん。 でも、そのぶん起きている時間が長くなると、やっぱり、慣れないせいか、疲れます。 ああ、忙しいってのは、こういうことか、と実感します。 やっぱり、デレンコデレンコ眠りたい、という贅沢な欲求も、あながち惰性で済む話ではないようです。 最近はメンタルの調子がいいせいか、つい張り切って、今もこうして頑張っていますが、ちょっと外出すると、やっぱりちょっと疲れます。 疲労というのとはちょっと違うんです。 1日を有効活用できるのは確かにありがたいですが、それはそれでやっぱり疲れます。 まあ、調子がいいだけにね。 人間というのは、なんでもないものねだりです。 てか、どうして自分は普通に暮らすのがこんなに普通ではないのか。 あ、地震ですね。 リアルに。 東北地方は大変ですね。 なんだかんだ、割としょっちゅう揺れるじゃないですか。 (そういえば、病院に重度の地震恐怖症のひとがいたな。あれ、東日本大震災のまえなのに。) 案外、ふつうに暮らす、ということが、今どき一番難しいのかも知れませんね。 単純に社会に適応できないものを、見てみないフリ、あるい...

菜根譚

ひるのひかりに やかれつつ きみは だれかを おもいだす よごれた上着は ぬぎすてて よるのしんえん ひとり座る こはくにゆれる そのしずく ミントのにおいが はなをぬけ はいでこされた しじまが あついこころを とき放つ よるはゆたかな ようざいか とおいだれかを 引き算し のこった わずかな いとしさで むねのしんおう みちてゆく やみを おそれることはない それは おもいをつなぐ時間 くもりなきまで みがきあげ こころののれん ととのえん よるを知るめは すずやかに あしたのざわめき つきぬける りんとさくべき いちりんの きみのこどくを はじめればいい

 昼間の世界は、あまりに雄弁すぎる。視界に飛び込んでくる色彩、絶え間なく交わされる言葉、そして「何者かであらねばならない」という無言の圧力。それらは光の下で明瞭な輪郭を持ち、私たちを否応なしに役割の舞台へと引きずり出す。 しかし、太陽が地平線の向こう側に身を隠し、世界に「夜」が訪れるとき、舞台装置は音もなく解体される。 夜の最大の功績は、境界線を曖昧にすることだ。自分と他者、あるいは現実と思索。闇が深まるにつれ、昼間は強固に見えたそれらの境界が溶け出し、意識は外側ではなく内側へと、静かに沈降を始める。 この時間、私たちはようやく「公人」としての衣を脱ぎ捨て、誰のためでもない自分自身と対峙することを許される。窓の外で動く影や、遠くで響くかすかな風の音だけが、自分が今ここに存在していることを証明する唯一の伴奏者となる。 夜は決して、単なる休息のための空白ではない。それは、昼の喧騒によって散らばってしまった精神の断片を、一つひとつ拾い集めるための「回収」の時間だ。暗闇の中で一人、思考の糸を辿るとき、私たちは自分自身の「底」に沈殿している、純度の高い孤独に触れることができる。 それは寂しさとは似て非なるものだ。むしろ、余計なものを削ぎ落とした先にある、清々しいほどの自立である。 やがて東の空が白み始めれば、再び輪郭のはっきりした、騒がしい日常が戻ってくるだろう。それでも、夜という深い淵を潜り抜けてきた者は、その瞳の奥に一滴の静寂を宿している。 夜を知る者だけが、昼の光に焼かれることなく、自分という「暖簾」を静かに守り抜くことができるのだ。

菜根譚

光を、浴びるのではない。 光を、吐き出すのだ。 かつて烈しく燃えた情熱が、 灰となって降り積もった、その最底から。 世間の眩しさに、眼を焼かれてはいけない。 本当の光は、 拭っても拭いきれぬ「澱(おり)」の中から、 静かに、滲み出すものだから。 後悔。執着。 その逃れられない濁りこそが、 あなたを、この地上に繋ぎ止めている。 すべてを諦め、灰の中に身を横たえたとき、 どこからともなく、ほのかな光が立ち昇る。 それは、世界を照らす灯火ではない。 あなたが今日まで、 ただ「生きて、そこにいた」ことへの、 名前のない、温かな肯定。 闇を深め、澱みを愛せ。 その重く、不透明な輝きの奥底に、 誰にも汚させぬ、あなただけの優しさが灯っている。 その一隅を、研ぎ澄ます。 それが、我々の「暖簾」にほかならない。

「光を見た」という言葉には、どこか救済の響きが伴う。しかし、私たちが日々目にしている光の多くは、実はそれ自体が見えているわけではない。光が何かにぶつかり、跳ね返り、その対象の輪郭を浮き彫りにしたとき、私たちは初めて「そこに光がある」と認識する。 光とは、常に「他者」を必要とするメディアなのだ。 窓から差し込む一筋の陽光が、宙に舞う微細な塵を黄金色に輝かせる。もしそこに塵がなければ、光はただ透明なまま通り過ぎ、虚空を突き抜けていくだけだろう。私たちの生もまた、これに似ている。何もない空白の時間を歩んでいるつもりでも、誰かの言葉や、ふと手にとった書物の熱、あるいは予期せぬ躓きという「塵」にぶつかることで、自分という存在の軌跡が光として可視化される。 思えば、眩しすぎる光は時に残酷だ。それはすべてを白日の下に晒し、影を消し去ってしまう。だが、真に豊かな光とは、深い陰影を連れてくるもののことをいうのではないか。谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』で説いたように、闇があるからこそ、磨かれた漆器や古びた柱の肌に宿る微かな光が、言葉以上に雄弁に物語を語り始める。 情報が光の速さで駆け巡り、あらゆるものが過剰なまでに照らし出される現代において、私たちは「照らされすぎること」の疲弊の中にいる。そんな時こそ、自らの内側に、静かな闇を蓄えておきたい。 光は、遠くから降り注ぐものだけではない。 暗闇の中で目を凝らし、沈黙の中に耳を澄ますとき、自らの内側からじわりと滲み出すような、体温を持った光がある。それは他者に誇示するための輝きではなく、ただ自分が自分であることの証として、ひっそりと灯される「暖簾」の灯火のようなものだ。 今日もまた、世界は光と影の織りなす綾で満たされている。 その中で、どの光を拾い上げ、どの影を慈しむか。その選択の積み重ねが、いつか私という人間の、たった一つの物語を形作っていく。

「青」という色は、常にそこにあるにもかかわらず、決して手に入れることができない。 空を見上げれば、そこには吸い込まれるような蒼穹が広がっている。しかし、その正体は光の散乱という物理現象であり、私たちがその場所へ辿り着いたとしても、手の中に残るのはただの透明な空気でしかない。海もまた同じだ。掌で掬い上げた瞬間に、あの深い群青は指の隙間から滑り落ち、無色透明な水へと還っていく。 思えば、私たちが「理想」や「純粋さ」と呼ぶものも、この青に似ている。 遠くから眺めているうちは、それは確かな色彩を持って私たちの心を打つ。だが、その中へ飛び込み、自分のものにしようと手を伸ばした途端、実体は霧散してしまう。到達できないからこそ美しく、触れられないからこそ、それは永遠の憧憬として心に残り続けるのだ。 哲学者の語る真理や、文学が追い求める至高の一行も、この「青」の領域にあるのかもしれない。それは、日々の卑近な営みの中では決して見ることのできない、魂の最遠点に位置する色だ。 しかし、手に入らないからといって、絶望する必要はない。私たちはその青を指標として、自らの歩みを正すことができる。どれほど日常の澱みに沈もうとも、ふと見上げた空にあの色がある限り、私たちの内なる「鏡」は再び透明度を取り戻し、高潔な何かを映し出そうと欲する。 私にとっての青とは、孤独であると同時に、最も深い場所で他者や世界と繋がっているという静かな確信の色だ。 それは、言葉にすれば消えてしまうほど繊細で、それでいて、何ものにも染まることのない強さを持っている。私はこれからも、この手に収まることのない「青」を、ただ遠くから、しかし真っ直ぐに見つめ続けていたいと思う。

菜根譚

静寂の中に、透き通る青。 降り積もる灰と澱が、不純な執着を静かに濾過していく。 終わりのない蒼穹の深みに、あえて無防備に身を預ける。 突き放された分だけ、己の青さを噛みしめる。 四十を過ぎて、なお。 紺碧の淵に映る自分は、迷いさえ捨てきれぬ初心者のまま。 灰の下、澱となって熱を帯びる青い迷い。それこそが地を踏みしめる重力だ。 その不器用な足取りこそ、私が私を生きている証。 ぐいと一口。 喉を駆け抜ける冷たさが、凍てついた刻を鮮やかに弾く。 偶然を間引けば、人生は色のない空っぽの器にすぎない。 情けなさという澱。それが沈むから、青はこれほど奥行き深く、美しい。 重ねた汚れや灰は、そのまま愛すべき風景になった。 ずっと探していた鍵は、外には落ちていない。 運命の青に焙り出された、自分の胸の、この体温。 青という名の、鍵が在る。 私は、私。それでいい。