2022年3月7日月曜日

漱石論-質問

読了してしばらく経ってから、行人がなぜ漱石の作品群の中でも特異な位置というか、別格の存在感を放っているのか、少し実感するところです。 あの話は、現代においても通用すると感じます。 後期漱石の主題というのは、男と女というのはカモフラージュで、実は、男同士の関係を描いたものではないかと考えるのです。 現代社会においても、男同士で、よき理解者というか、コイツは俺のことをわかっていてくれる、という存在が必要なのは、想像に難くありませんよね。 よき理解者が異性であれば、生殖に有利なのでなおさら都合は良いかも知れませんが、やはり、同性の理解者というのは、人生に必要な存在だと思われます。 「行人」の一郎には、弟や、あるいはHさんという候補者はいるけれども、理解者として決定的な存在ではない。 その意味においては、「こころ」の「先生」は、主人公を強引に理解者に仕立て上げようとしているフシがあるように感じられます。 実は、「先生」は、遺書を書いた後も、自殺しなかったのではないか?そう思えるのです。 なぜなら、主人公が「先生」の遺書を読んで、理解者になってくれる可能性はゼロではないからです。 そうである以上、どんなに恥さらしでも、一縷の望みをかけて、死ねないのではないか? しかし、主人公が理解者どころか、「先生」を侮蔑するようなことがあれば、それは死よりも恐ろしい。そのように考えるのです。

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