2022年3月7日月曜日

漱石論ーご回答

続いて『行人』のコメントをお送り下さり、有り難う。  指摘下さった「男どうしの絆」は、文学理論としては、少し前に大流行した「ホモソーシャル」 (男性中心社会維持のための男性間の親密な関係性)に当りますが、漱石のとりわけ後期は その典型を示すものと思われます。  小林君の指摘通りで、主人公たちはそれを渇望するのですが、適材が現われない。 次作『こころ』は、ようやく年下の青年「私」にそれを見出す物語ですが、その文脈は、やはり、 あらかじめ年下の「大学生」に対して、自分の半生をめぐる「人生の暗い影」を投げかけ、「教訓」に してもらえたら、というもので、どこまでも「死」と引き換えの「言葉の授受」という大層な仕掛けを 伴ったものとなっています。しかも、「先生」が遺書を「私」単独に宛てるのは、締め括りの言葉に従えば、 「静」が生きている間、に限定され、それ以降は、彼が「あなた」と呼ぶ「私」に、「あなた方」みんなの 「参考」にしてもらうべく、それを一般に公開してもらうことを望んでいます。 その大きな意義を抜きには、「先生」の自尊心は、やはり「恥」と「罪」を含む過去を他者へ開くことは できない、あくまで「死」が前提ではないかと思えます。「上」の「私」は、そんな先生を「人間を愛し得る― 愛せずにはいられない人」と言いながら、また「それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて 抱き締める事のできない人」とも評しています。漱石は誰一人として自分と同じ者はあり得ない「個」の それ故の「孤独」を容易には晴らすことの出来ないものとして捉え続けていたような気がしてなりません。 「先生」をそのように評する「私」は、大学卒業後、「先生」から離れて暮らす郷里でのひと夏に、 次第に死へ向かいつつある実父と生活を共にしながら、喧騒をきわめる油蝉の鳴き声に却って 「心の底に沁み込む」ような「哀愁」――絶対的孤独?を味わう展開ともなります。  前作『行人』は、一郎、二郎を中心に、二人の間はもとより「一郎―Hさん」「二郎―Hさん」 「二郎―三沢」など、様々なホモソーシャルが描き分けられていますが、それぞれに、男どうしの親密が 共通の興味の対象ともなる女性に対する抑圧と表裏一体しているばかりか、その親密性の内実そのものも また試されているような気がします。その中で、一郎に対して唯一、誠実な「Hさん」は、しかしながら 小林君も指摘するように役不足であるばかりか、あの「K」に同じくイニシャル表記――意味深長なような 気がしてなりません。

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