2022年3月7日月曜日

日本人と公共

一郎の「死ぬか、気が狂うか、宗教に入るか」の3択だ、という言明に、リアルにギクッとする人もいるかも知れない。 そういう意味では、漱石が現代人にも受け継がれている苦悩を、少なくとも最初に記述したという点で偉大なのかも知れない。 この苦悩は、結局のところ、絶えず追い立てられている、立ち止まってはいけない、西欧にキャッチアップしなければならない、という焦燥感なのだろうか。 あるいは、文明開化が進むほどに、日本人の日本人たる所以が侵食されていく、しかし近代化を止めてはいけない、という板挟みであるかも知れない。 一郎の3択を現代の我々が一番感じるシチュエーションは、受験競争だろう。 出来る限り高い偏差値の学校に入ろうと完全に仕組まれた環境の中で、自分にムチ打つ。 これは、まさにアドルノのいうところの「管理された世界」なのではないか。 我々が、「鋼鉄の釜」の中のアトムであるならば、現代日本人は、マックス・ウェーバーがいうところの、末人なのかも知れない。 現代社会において、救済があるとすれば、アーレントの、「活動」における「多性」の中での『赦し』ということになってくるだろうが、これは多分にアーレント自身の宗教的背景が入り込んで来るので、一般化は出来ないだろうが、他者との共存という一つの可能性としては有りうるだろう。 日本人の場合、戦前において、国家機関としての天皇と、個人としての天皇がメルトダウンしてしまったところに悲劇があったわけで、やはり近代国家としての日本に生きる我々は、何かしらアイコンというか、国民の総意として崇められるものが必要ということだろうか。 観念論に走り過ぎたけど、例えば昔の日本家屋みたいに縁側があったり、あるいは街中にベンチがあって、軽く話せる場所があったり、そういう構造的に作り出された「公共」というものがあってもいいだろう。

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