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零度の社会

ところで、現実の問題として、自立した個人から成る世界がすぐに出現するわけではない。他者は、他者を認知する者にとって異質な存在である。これを他者は「差異」であるということが同定された限りにおいてである。差異は同一性の下でしか正当性を持ちえない。同一性に吸収されない差異=他者は、排除される。それを可能にしていたのが、祖先の存在であり、また神であった。たとえ、異なる地位にあって、通常は口を聞くことも、顔を見ることさえ許されなくとも、共通の神を持っているという認識の下に、異なる地位にある者同士が共同体を維持する。地位を与えるのは神であり、それに対してほとんどの者は疑問さえ抱かなかったのである。(p.177~178) (中略) カースト制は、総体として、閉鎖的で完結的な世界を築く。そこでは、ウェーバーが「デミウルギー」と呼んだ、手工業者が村に定住し、無報酬で奉仕する代わりに、土地や収穫の分け前を受け取る制度が敷かれている。このような制度では、商品経済が発達する可能性はほとんどない。したがって、他者としての商人が、共同体内によそものとして現れる可能性は低い。 これに対して、市場論理が浸透した世界では、他者が他者として認知される。それは、複数の世界に属することを可能にする包含の論理によって律せられている世界である。このような世界が可能であるためには、共同体の外部に位置する他者の明確なイメージが築かれる。その推進者となるのが、商人であり、貨幣である。 それでは、なぜ貨幣が推進者となるのか。それは、貨幣を通じて、共同体の外部に存在するモノを手に入れ、みずから生産するモノを売却することが可能になるからである。共同体の外部が忌避すべき闇の空間でしかない状態から、共同体の内と外に明確な境界が引かれ、ある特定の共同体に属しながらも、その外部にも同時に存在することを可能にするのが、貨幣なのである。他者が、貨幣と交換可能なモノ、つまり商品を売買したいという希望を掲げていれば、それによって他者のイメージは固定され、他者の不透明性を払拭できる。こうして、貨幣は、共同体外部への関心を誘発していく。そして、カースト制のような閉鎖的な社会とは大きく異なり、ふたつの異なる世界において、同一性を築こうとするのである。 もちろん、誰もが商人になるこのような世界がすぐに出現するわけではない。そのためには、まず貨幣が複数の共同体のあいだで認知されなければならない。そして、マルクスが注視したように、多くの者が賃金労働者として「労働力」を売るような状況が必要である。そして、そうした状況が実際に現れてくるのが、マルクス自身が観察した通り、一九世紀のイギリスなのである。単独の世界に帰属することも、複数の世界に関わることも認める世界は、労働が労働力として商品になり、賃労働が普及する資本主義の世界においてである。(p.180~181) 「零度の社会」荻野昌弘著 世界思想社 共同体主義というのは、ある種の神を設定せずには、存続できないものなのだろうか? 吉本隆明が「共同幻想論」で説いていたことをなんとなく思い出すと、様々な神々と結びついたタブーや、物語が、ムラを支配する規範として働いていた。 ユダヤ民族が唯一神から、託宣を受けたのは、生存環境があまりにも過酷だったからだろうか? 少し具体的な話では、昭和史発掘を読んでいると、昭和天皇をご本人の意志を無視して、神として祭り上げていくムーヴメントが克明に描かれている。 簡単に言えば、国家があって天皇がある、というのではなく、万世一系の天皇がいて、国家がある、という考え方だ。 戦争をするには、そのほうが便利だということもあるだろう。 丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。 しかしながら天皇制が近代日本の思想的「機軸」として負った役割は単にいわゆる國體観念の教化と浸透という面に尽くされるのではない。それは政治構造としても、また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。(・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、それが制度自体と制度にたいする人々の考え方をどのように規定しているか、という、いわば日本国家の認識論的構造にある。 これに関し、仲正昌樹は「日本の思想講義」(作品社)において、つぎのように述べている。 「國體」が融通無碍だという言い方をすると、観念的なもののように聞こえるが、そうではなく、その観念に対応するように、「経済・交通・教育・文化」の各領域における「制度」も徐々に形成されていった。「國體」観念をはっきり教義化しないので、制度との対応関係も最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、目に見える効果をあげるようになった。ということだ。 後期のフーコー(1926-84)に、「統治性」という概念がある。統治のための機構や制度が、人々に具体的行動を取るよう指示したり、禁止したりするだけでなく、そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、それを当たり前のことにしていく作用を意味する。人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用) エーリッヒ・フロムによれば、第一次的絆の喪失と、プロテスタンティズムのマゾ的心性と、ナチズムのサド的心性が、あたかもSMのような相互依存関係に陥ったことを問題視していたことを考えると、現代の日本社会でも、ある種の共同体主義は必要とされるんだろう。 漱石の一連の小説が、近代的個人の誕生と、concomitantに起こる旧いイエ制度の緩やかな崩壊を描いていることは、石原千秋が指摘するところでもある。 日本が、天皇を頂点とした想像的な父権社会という、全体主義の変奏曲を演じたのも、フロムの、第一次的絆の喪失という側面もあっただろう。 つまり、共同体主義と、全体主義との根本的な違いを明らかにすることが要請される。 ひとつ考えられるのは、共同体主義においては、自生的秩序や、コンベンションといった、保守的自由主義の効用が重視されるだろう。そこには、包摂できる範囲というものが、自と限界がある。 それに対して、全体主義は、メガロマニアックな神話が、exponentialyにメンバーを呑み込んでいく。 むしろ、明治という時代に人々を日本という「大地」に縛り付けたものはなんなのか? 「負債」の観念を抱かせることが、社会全体を構成し、安定的に維持するための手段であるわけで、交換とか経済的利益は副次的な意味しかないわけです。先ほどお話ししたように、儀式に際して各自の欲望機械を一点集中的に活性化させますが、この強烈な体験を「負債」と記憶させて、大地に縛り付けることが社会の維持に必要なわけです。現代社会にも通過儀礼のようなものがありますし、教育の一環として意味の分からない、理不尽に感じることさえある躾を受けることがありますが、それは、この「負債」の刻印と同根だということのようです。「負債」の刻印が本質だとすると、むしろ下手に合理的な理由をつけずに、感覚が強制的に動員される、残酷劇の方がいい、ということになりそうですね。 <アンチ・オイディプス>入門講義 仲正昌樹 作品社 p.255 特に象徴的なのは、「こころ」において、『先生』がKの頭を持ち上げようとした時に感じた、重さ、そして絶望。その、原罪と言っても過言ではないほどの負債観念が、明治という時代に殉死する、という言葉とともに、読者を明治以降の日本人とともに、日本という大地に縛りつける役割を果たしたと言っても過言ではないだろう。 ヘーゲルもある種の共同体主義者なのかも知れないが、現代において、もはや国家を単位とした共同体主義を目指すことは不可能だろう。 そうであれば、グローバル化した現代社会においてviableな共同体主義とはいかなるものなのか、を考える必要がある。 しかし、共同体主義を強調し過ぎると、アーミッシュのような生活をしろという話になりかねない。 期せずして書いたように、政府という肥大化した「代理人」に対して、ジョン・ロックが市民の抵抗権を認めたように、現代社会においても、現代社会のあらゆる構図において見られるプリンシパル=エージェント関係の中での、自主的抵抗を自覚することが可能性として考えられる。 アブラハムに対して、我が子イサクを殺すように命じた神のように、その計量可能性を超越した呵責のなさが、逆に共同体を構成する「絆」としての負債観念として刻印される、ということはあるかもしれない。

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