2022年3月16日水曜日
添削10
第4章 物象化を超えて――3つの試み
⑴ デリダの贈与論――「遅延」による「交換」の不成立
小林君はデリダの贈与論を「イサク奉献」へ焦点化して使っていましたが、メールの「付記」にもあったように、「神」という「超越者-絶対的他者」の問題を持ち出すと複雑化を免れない――「イサク奉献」そのものはもとより、デリダの解釈をめぐっても論議は尽きないようです。逆に、「イサク奉献」においてこそ、「予見不可能」な「出来事」をめぐる「他なる者」に対する「開け」を正面から論じることができる、ということになるのでしょうが、「死」の「贈与」は、「贈与と交換」の主題としては少し特殊であるように思えてなりません。(イサクを捧げたアブラハム自身の苦悩が「自己供犠」を意味しているのでは。アブラハムの「犠牲」は神からの「報い」を得て「エコノミー」に回収されるように見えるが、しかし、アブラハムに神が理解できず価値の共有がなされない以上、等価交換は神の側にしか成り立たない――この「犠牲のエコノミー」には「非エコノミー」が抱え込まれている。etc.)
そこで、資本主義経済の原理とも言える「等価交換」に対して、モースの贈与論に始まる「贈与」の論の系譜を辿り直して厳密化し、「資本主義」の「交換経済」を超えようとしたデリダの「贈与論」一般を以て、資本主義――物象化の呪縛からの解放の道筋を辿ってみるのはどうか、と思うのですが。
・厳密な意味での「贈与」の追究――徹底した「交換」の否定
「贈与」は「互酬」的な「贈与交換」はもとより、たとえ一方的な「贈与」であっても
「 そう認識されただけで破棄されている(←「現前」の形而上学を解体しようとするデリダ)
➡「贈与」は贈る側にも贈られる側にも「現れないもの」としての在るべき「絶対的な忘却」
・「差延=空間的な「差」と時間的な「遅延」」から生み出される<終わりなき遅延>の可能性の追究
「贈与」と「返礼」の間に横たわる「時間」――これを限りなく遅延させることで「返礼」は生じない
つまり「現れない(返礼までの)時間」が「現れない贈与」を支えている
➡未開人の贈与交換(互酬)にせよ、レヴィ・ストロースの発見した「女の交換」にせよ、絶え間ない交換が循環することで成り立っている「交換のシステム」に対して、「遅延」はこの循環の「環」を切り裂くもの。
8ページ後半では、貨幣経済がもたらした「労働―対価としての賃金」という「等価交換」の法則が、それまで「贈与」という行為が人に「負い目」の感情を抱かせる、といった人間らしい人間の在り方を喪わせてしまった、と嘆くアーレントの論が紹介されています。「人間の条件」が満たされないところに「公共」の概念は成立すべくもない、というのがアーレントの主張かと思われます。
逆に、そのような近代社会は、21ページで論じられているように、「負債」の観念を抱かせることで、安定的な維持を可能ならしめようとする、ということにもなると思うのですが。
ここでは、このような資本主義のシステムを乗り越えるために、資本主義を支える「等価交換」に可能な限りのズレを読み込もうとするデリダの贈与論を引いてみました。
なお、なかなか難解なデリダの贈与論については、初出は月刊誌『ふらんす』の連載モノで叙述が平明でわかりやすい岩野卓司氏の『贈与論』(青土社)がたいへん参考になりました。副題を「資本主義を突き抜けるための哲学」と銘打ってあります。
⑵ 「決定論」からの逃走――「テクスト」・その無限の可能性
小林君が紹介してくれた内田隆三氏の『ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?―言語と運命の社会学』は、まさに<テクスト=無数の織糸から成る織物>が秘める無限の可能性を読むことの快楽に満ちた書物ですね。
1人の真犯人=絶対的な1つの結論を到達点として組み立てられることで、最もリギッドな構造を持つ、つまりは閉ざされたテクストをイメージさせる探偵小説。
これを素材に、テクストが、実は張り巡らされた網の目のフレクシブルな組み替え――つまりは織糸の解きほぐし方ひとつで、確定的に見える結論に「余白」が残され、ひいてはテクストそのものが絶対的な1通りの結論を定めがたい「双数」的配置に伴われていることを明晰に説き明かしています。
手法としては、テクストをリギッドで体系的な1つの構造として見ようとする構造主義に対して、テクストをリゾーム的な可変性と揺らぎに満ちた錯綜体として読もうとするポスト構造主義の見事な範を示すものと言えると思います。
内田氏のあらゆる読みの可能性へ開かれた冒険は、まさに、「決定論」――<因-果>の論理からただ一つの正しい解を確定しようとする閉ざされた思考に対する果敢な挑戦であるのはもちろん、「テクストの同一性」を脅かす試みとして、仲正氏が論じていた貨幣経済が強いる「同一性の論理」に対する痛烈な批評性をさえ有していると言えるのではないでしょうか。
アレゴリカルな処置となりますが、省くのは惜しまれるので、ここでは、近代の閉域に対する批評的思考として項目⑵を立てて収めてみました。
とりわけ「決定論」的思考に対峙するものとして、以下の2つの発想法を挙げてみたいと思いました。
◆すべてのテクストには――1つの主題・1つの読みに確定してしまっているかのごとくに見なされているテクストにも、必ず「余白」が残されている。そこには無限の可能性が広がっている。
◆「決定論」に抗する「双数」的配置――「双数の戯れ」とも呼び得る随所に姿を現す「双数」の組み合わせは、「1つの絶対的読み」への収斂、つまりは「テクストの同一性」に対して「意味の不確定性」を主張することで徹底的に抵抗している。
特に、[語り手/聴き手-シェパード医師――聴き手/語り手-探偵ポワロ]の「双数」性は、
シェパードの語る「物語世界」(=手記)に於いては、その登場人物の一人であるポワロが、
犯人告発という物語世界の意味を確定する際には、あたかもテクストがその内部に抜け穴を持っているかの如くに、言わば物語世界から抜け出し、超越的地点に立つ――この物語世界の境界に対する「踏み超え」の指摘は、まさに読まれるべき「テクスト」とはリギッドな構造体などではなく、読み手との相互応答(対話)によってフレクシブルに如何様にも姿を変えるリゾーム的な生き物であることを
生々しく教えてくれます。
これと相俟って示される、テクスト内に入れ子状に折り畳まれている幾つもの「物語水準」の重層もあわせ、まさにテクストはけっして1つの絶対的確定的な意味へと収斂されることはない。
同様に、「テクスト」を「現実世界」に、読み手を私たち自身に置き換えれば、内田氏のテクスト論は、そのまま私たちにとっての現実世界がけっして確定的なものではない――出来事の読み方についても、生き方そのものについても――ことを示唆してくれます。
◆以上の内田氏のテクスト論は、一ノ瀬氏の「確定」されているかに見える事象が、実は偶然性によって浸潤された不確実なものであり得る、という主張と呼応し合うものである。
⑶ アドルノにおける「主体化した人間」への信頼――「理性の暴力」を超えて
アドルノ論は小林君の独擅場なので、私からできるアドバイスは、もう少し簡略化しながら叙述の順序を整理すれば、くらいです。
とりあえず、ここまでの様式に従って記述しますが、ほんの骨子のみ。詳述は不要と思うので。
一番の要点は、タイトル例として記してみたように、痛苦に満ちながらも自立を獲得した<近代的主体>に対する「信頼」、としてみましたが、これを「手放さないこと」、ですね?
◆「理性の主体」としての「啓蒙」が内包する「根源的自己矛盾」
主客のまどろみから目覚め、主体化した近代的個人とは、
疎外された人間、物象化を免れない人間でもある(疎外・物象化と呼ばれる現象は、資本主義という
社会体制以前に「主体性の原史」に「既に刻印された」もの)
∴近代的主体は
計算的合理性の下に社会を組織し、自然を支配し、つまりはみずからの「自然(な欲求)」を抑圧する(→疎外・物象化)
と同時に、身体的欲望のレベルでは自然に引き付けられ、再び自然と統合された状態を求める
また近代的主体は
「理性」ゆえに反省能力を有し、進歩を目指すが、
同時に「理性」は「暴力」を内包したものでもある。
そして、アドルノは、「理性」がたとえ「暴力」を孕むものであっても、「理性の主体」としての主体性を放棄することがあってはならない、と警告する
◆アドルノにおける「理性」の重要性――カント、ハイデガーとの差異を通して
・カントは、理性を論じながら超越的神の存在を否定しない。
・ハイデガーは、共同現存在のまどろみからの覚醒から、ドイツ民族としての使命への目覚めへと至る。それは理性から逃れるための集団への埋没と暴走ではなかったか。
[補論]漱石『それから』―資本主義社会における疎外と快復への試みとして
恋愛からも社会的競争からも身を引いたところに成立する代助の「自家特有の世界」は、まさに資本主義社会における「疎外」の典型。それは理性が身体および身体的欲望を抑圧した姿でもある。
不幸になった人妻としての三千代と再会した代助がラストで見出す「白百合」との一体感とは、三千代との愛の成就を隠喩するものに他ならず、ここに抑圧されていた身体的欲望の解放を見ることもできるだろう。
但し、それに続く場面では、代助は一人、庭に出て、自分の周りに百合の花弁をまき散らし、それが木下闇に白く仄めく様を黙然と眺めている。いったん果たされた主客合一の融合感は、再び理性からの検証を受けていると言えるだろう。
作中、代助の辿る道筋は、まさに「理性」に内包された根源的矛盾の露呈に始まって、疎外からの身体および身体的欲望の快復、つまりは「自然」との合一感の希求、そして覚めた理性に辿り着くものであり、「自然」に強く魅かれながらも理性としての主体を放棄しようとはしない誠実な近代人の姿を示している、と言えるのではないだろうか。
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