純粋理性批判 熊野純彦訳
とりあえず100ページ読んだ。
空間と時間について論じてる箇所だけど、要するに、現存在が感じられる限りのものだ、てことかな?粗っぽく言えば。
原武史先生が、空間政治学を提唱してて、明治政府は天皇の行幸による時間と空間の支配を通じて日本を近代化した、と論じてた気がする。
そうすると、夏目漱石の三四郎で、野々宮さんが、運動会でタイムウォッチで正確な時間を計ろうとすることにたいする主人公の嫌悪感が描かれているわけだけど、漱石は、そこに近代化への反発を感じていたのかも知れない。
三浦雅士さんによれば、運動会という催し自体が、戦争を前提とした国民の均一化という意味で、また近代化の一様相なわけであるが。
それはともかく、漱石の「それから」における百合の中への自己理性の全的放擲の試みも、やはり理性の精神に対する暴力的支配からの逃走であるとの解釈も、あり得る。
それはやはり、ナチズムを経験したアドルノの啓蒙に対する警戒と、平仄を合わせているだろう。
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