2022年3月16日水曜日

添削9

第3章 貨幣経済の暴力性――物象化の下に 第1節 「同一化」の論理――外部の消失、排除される他者  「貨幣は、本来異質であるものを、自身を媒介としてあたかも同質であるかのように比 較衡量の対象とする」――11ページ冒頭の1文が、この節の主題を明確に呈示しているので、 ここを核に、「本来異質であるものをあたかも同質であるかのように」見せる、そのカラクリを、仲正論 から適宜引用しながら、簡潔にまとめると良い。 ◆仲正昌樹氏に学ぶ「同一化」の論理  といった体で進めると、現在の小林論を崩さずに展開できる ・「共同主観性」の下で働く「同一化」の論理  以下の仲正論からの引用部分が簡にして要を尽くしていると思われる。 共同主観をめぐる論議は広松渉が詳しいですね。 私の前に共同主観的な世界が現れてくるとき、その「世界」にはすでに、その世界に固有の共同主観性に根差した「同一化」の論理が働くようになります。a1、a2、a3・・・・は、みなAという同じ対象だと、「みんな」が認識するわけです。「みんな」と「私」の認識が一致していることによって、「私」にとっての諸物の同一性は確認・強化されます。それは裏を返して言えば、そうした間主観的に通用している形式と異なる形では、個々の“物”の個性、多様性を認識できなくなる、ということです。それが、物象化です。共同主観性の下での物象化=同一化に囚われていないのは、物心のついていない子供や、狂気の人です。」(「現代ドイツ思想講義」作品社より) ・「同一化の論理」においては、当然のことながら、「差異」「他者」は排除される ◆貨幣(という同一の基準)は、ふたつの異なる世界(共同体の外部)に同一性を築く 12頁に引用されている荻野論から適宜、引用しつつ自分の言葉で解説してしまう ◆[補論] もう1つの日本特殊論(2011・大河ドラマより)     本国イギリスに敗れた植民地インドの「綿花」 との対比で 貨幣経済に組み込まれながら、西欧列強との競争を生き抜いた戦前の蚕糸業 第2節 精神の物象化が産み出す病理――その様々な様態 or 抵抗と敗北   あえて13ページの「キャラ」論からラストの幻想としての「本来性」まで――現代の病理現象ともいうべき諸々の例を、このカテゴリー内に配列してみました。  その上で、次章で「解毒」の処方箋を3つ――デリダの贈与論、内田が範を示す「決定論」の呪縛からの逃走経路の引き方、そしてアドルノを「希望の光-曙光」として提示してみる、という試みです。 ⑴ 「ほんとうの私探し」と「キャラ化する私」――他者の喪失・浮遊する「私」   近代において、いわゆる「自我」は「関係の束」として捉えられてきた。社会関係――様々な他者との関係において定まってくる「役割」を束ねたところに成立するのが「自我」だと考えられてきた。  まさに、「疎外」状況を生きざるをえない現代人は、関係を喪失し、あてどなく浮遊する「私」でしかない。その時々の場において求められるイメージを自分像として程よく演じるのが「キャラ」。連続性を欠いたその時々の被っては脱ぎ捨てられる「キャラ」から「自己」を形成することはできない。  その裏側で「ほんとうの自分」を求めて止まない「私探し」が渇望されるのは当然の成り行きで、両者は表裏一体。本来、他者との関係性=相互応答性の上にしか成立すべくもない「自分」を、関係性から切断された点の如くに求める、純粋な=架空の私探し、もまた、疎外された現代人の悲しい姿である。  「キャラ化」と鷲田氏の「顔」論および「根源的交叉」との根本的違いについては、2月15日のメール参照。 ⑵ アドルノの指摘する観念化された精神世界、あるいは全体性への希求   17ページ3行目~ + 20ページ後半 に見られるアドルノの論   社会全体が体系化され、諸個人がその関数としてしか把握できなくなった時(=歯車の1つ・均質化された個人)、人は観念的な精神世界のヒエラルヒーに組み込まれ、その階層を登っていくことに救いを求めるようになる――新興宗教への近接 ⑶ 超越的存在の設定――「負債」の仮構    絶え間ない等価交換によって利潤追求を目的に展開し続ける社会システムにあっては、社会の安定的維持には、「負債―負い目」の観念を個人の記憶に刻印することで、人を大地に縛り続ける必要がある、ということですね。    21ページ以降、ラストまでの超越性に関わる諸事例を、ここのカテゴリーに配置してみました。 ◆「報われぬ戦死者たち」という「無言の超越者」     ――敗戦後の「天皇」は、それを「慰霊する」「祭司」として ゆるやかな超越性を帯びた存在へと変容する   こうして、戦前の「現人神」としての「天皇」を初め、日本の社会は常に「超越的なるもの」の存在 を設定し続けてきた。 内田隆三氏の論旨は明快なので、むしろ引用抜きに「~によると」として、自分の言葉で簡潔に説明した方が効果的。 ◆漱石テクストにおける「原罪」の仮構  ・『こころ』の「先生」:    幻想にしかすぎなかった「純粋な異性愛」に「漸近」すべく、その代償として「非自発的」に    死へ追いやることになった「K」への負い目を過剰に重い「原罪」として仮構し続ける(そうすることで空虚な自己の生を支え続ける)。それが潰えぬ前に、「原罪」は「明治の精神」への「忠誠としての殉死」へスリカエられてしまう。  ・『夢十夜』の第三夜の「子殺し」:    論理では全く説明できない「夢」の中に設定された「原罪」。これをあたかも原風景のごとくに描き出す漱石。 ◆三島由紀夫における<外部>の希求とその敗北    内田氏は、戦後の三島の誇大妄想的とも言い得る日本文化をめぐる主張を左翼と右翼、体制派と 反体制派が共犯的に受け入れる「戦後的な生の哲学」に対して、<外部>を追究したもの、またその 生き方を、まさに<死>という外部へ突き抜けることで最期を締め括った闘い、として読んでいると 思われる。  「戦後的な生の哲学」とは、「空虚な戦後」と表裏するもの、と読み下せばわかりやすいか。 ◆「愛」による超越への希求――日本文化に<愛>の<超越性>はあるか? ・近世『曾根崎心中』:<穢れ>としての「金銭」と切断することによって、いわば「金銭」という          「原罪」を担保にして<愛>の彼岸性を獲得、成就する物語として読むことができる ・尾崎豊「僕が僕であるために」:<愛>の不可能性    近代社会は、もはや「金銭」に「原罪」を仮構することを赦さない。    貨幣経済の閉ざされた循環の中に投げ込まれた「僕」が「僕であるため」には、そこで勝ち続ける しかない。それは非自発的であるにはせよ、女に対して別れを告げなければならないことと表裏する。 [補論] 資本主義社会における<家族>と<愛>  『アンチ・オイディプス』に倣えば、資本主義社会にあっては「家族」は資本主義化された社会の部分集合として、その一部を代理して子供を躾け、飼い馴らす。 異性愛は、家族を再生産するための装置ともいうべき<愛・性・生殖>の三位一体的なトライアングルに封じ込められ、もはや超越性を喪失している。 ⑷ 「本来性」への幻想――原理主義の台頭 貨幣経済は疎外と物象化を生みだしたが、現代のグローバリゼーション=全球化は、人をますます「一般化」の波間に曝し、自己の存在感を希薄に危うくしてゆく。 そのような個人が陥るのが「本来性」への――ありえもしない起源への遡行と探求である。それは集団の単位では強烈なナショナリズム、民族原理主義となって現われる。 村上春樹の『1Q84』; 閉塞した現代社会への壮大な挑戦の物語が、常に並行的にヒロイン「青豆」の「異性愛」を、新興宗教「証人会」への依存と重層させながら語っているのは、個のレベルにおける「愛」が「原理主義」の1つの形となり得ることを極めて示唆的に暗示したものではないだろうか。

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