2022年3月7日月曜日

椅子と「近代化」

椅子のデザインも時代とともに移り変わるが、19世紀イギリスの子供の姿勢を矯正するような椅子は、身体を通して、経済的に自活できる、独立して社会生活を営める人間になることを目指された椅子といえる。 それは、よく言えば個人主義の時代ということができるかもしれないが、人間ひとりひとりをアトム化した、大量生産、大量消費へと駆り立て、人間そのものを、時間に正確な、身体的も画一的な製品にしようという試みだったかもしれない。 夏目漱石の「三四郎」で、野々宮さんが、運動会で、時計を持って時間を正確に測る場面があるが、運動会という行事そのものが、来るべき戦争に向けて、身体的に画一的な身体を志向しているし、時計によって正確な時間を測ることで、やはり規律に従う人間というものを作り上げようという意図が感じられる。 国によって整備された軍隊は、時間に正確で、画一的身体を要求する。そのことが、また産業社会の画一的労働と相互補完関係にある。 近代化というのは、こうした、身体を矯正することで、人間の画一化を推し進める運動だったのかもしれない。 しかし、近代化の先にある社会は、むしろ、欠如を抱えた人間が、第三者を巻き込んでいくことで、すべてを計量的理性で割り切ってしまう貨幣的暴力を脱‐構築して、新しい公共を生み出していく社会を志向するべきなのかもしれない。 椅子というのは、そういう公共を創造する一助としての役割を果たすポテンシャルを秘めている。

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