2022年3月7日月曜日

漱石論

まずはハイデッガー流のどうしても、一種、全体主義的傾向を感ぜずにはいられない「個の全体への埋没」―― これが西洋哲学自体の内包する問題であった旨のコメントにビックリ。指摘されてみれば、まさにナチスは西欧近代の 究極の究極、なのですが、ハイデッガーといえば、つい昭和初期の日本思想界を席巻した「近代の超克論」が想起され、 その源流ともなった西田哲学との類似性に言及されるのがお決まりなものですから、私などは、ついつい日本的集団主義と 引き付けて考えがちです。 逆に、西欧哲学そのものに内包されているこの傾向を抑止しようとするのがアドルノたち、なのですね。 「理性の暴力」が「主体性」の原史にあらかじめ刻印されている、との主旨は、よくよく反芻すれば実感的に納得できる ものであると同時に、これほど『行人』の一郎をよく説明し得るものはない――近代的個を成り立たしめる「理性」とは、 同時にそのまま「理性の暴力」であることを免れない、ということか、と、ふと思い当たりました(間違っていたらごめんなさい)。 延長上に『こころ』の「先生」も説明できてしまいそうです。  『それから』の「代助」は、なるほど百合との官能的一体化へ自らを押し出すようにして、理性からの逃走を図るわけですが、 理性を放擲しきることができない、のでしょうね。その一瞬に三千代との姦通を自分自身に選択させるべく、自分を追い込んで ゆくのですが、一方で「自然の昔」に還る、といった言い方で抑圧していた感性が解放されながら、同時に、姦通の合意を得た その直後のシーンで、書斎は未だ百合の香に満たされているというのに、代助自身は庭に出て、百合の花弁を周りにまき散らし、 その散った花弁が白々と月明かりに照らされながら点々と散在する様を見つめたりしています。 ずっと気になっていたこのシーンは、上記の流れで解釈できるか、と、今、考え始めたりしています。  徹底的に近代を生きることで近代を問い詰め、そこに批評を打ち立ててゆくスタンスにおいて、アドルノらフランクフルト学派と 漱石は親近性を持っているのかもしれません。

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