2022年3月16日水曜日

添削3

第1節 人間の価値をめぐる変貌――「人格」から合理化された「信用」へ 金融というものは常にそうあり続けてきたが、とりわけ現代の市場型間接金融においては、情報に基づいた「信用」こそが、ある意味ではその人の評価を決する価値そのものである、というのは、まさに金融というものの本質を語って余りあると思われる。情報に基づいて、個人をランク付けし、世界中の貸し手と借り手を結びつけるという、金融が実現するはずだったユートピアは、崩壊する時には一気に崩壊するシステミック・リスクも抱えている。  この「情報に基づいた信用」というものが、いかに「信用」という語が孕む本来的なイメージとは異質な非人間的なものであるかについては、以下の井上俊の論考が明晰に説き明かしている。   私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) 信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へ  と重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。                  (井上俊『遊びの社会学』p.90~93)(注3)                            出版社・発行年などは注記に回せばよい    井上氏からの引用については少し削ったが、可能ならばより減じた方が好ましい。    なお、結論ともいうべき当初の引用・最後尾部分については、あえて井上氏自身の文章は削って   引用者本人の言葉でまとめ直して記載した方が、効果大なので、その一例を示してみた。  以上の引用から明らかなように、高度な資本主義社会における「信用」とは、もはやその人固有の「人格」とは無縁な、一般化された社会的基準によって量的に算出された非人格的なしろものにすぎない。ここには<個人>を生みだしたはずの<近代>が他ならぬ<個人>を否定する、という一種の逆説さえ見て取ることができるだろう。  以下、このような皮肉な逆説が生じる具体的経緯について論じたデューイの説を、小西中和氏の敷衍に添って概観してみたい(注4)。                   書名・出版社・発行年、該当ページ数は(注)で明記する

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