2022年3月6日日曜日
エーリッヒ・フロムと共同体主義
エーリッヒ・フロムによれば、第一次的絆の喪失と、プロテスタンティズムのマゾ的心性と、ナチズムのサド的心性が、あたかもSMのような相互依存関係に陥ったことを問題視していたことを考えると、現代の日本社会でも、ある種の共同体主義は必要とされるんだろう。
漱石の一連の小説が、近代的個人の誕生と、concomitantに起こる旧いイエ制度の緩やかな崩壊を描いていることは、石原千秋が指摘するところでもある。
日本が、天皇を頂点とした想像的な父権社会という、全体主義の変奏曲を演じたのも、フロムの、第一次的絆の喪失という側面もあっただろう。
つまり、共同体主義と、全体主義との根本的な違いを明らかにすることが要請される。
ひとつ考えられるのは、共同体主義においては、自生的秩序や、コンベンションといった、保守的自由主義の効用が重視されるだろう。そこには、包摂できる範囲というものが、自と限界がある。
それに対して、全体主義は、メガロマニアックな神話が、exponentialyにメンバーを呑み込んでいく。
神話への退行は、現代社会の秘められた疎外の狡猾な顕れである、というのは、アドルノが指摘するところでもある。
その意味でも、詩は野蛮なのである。
戦後昭和の日本という国土を支配していたのは、天皇を祭祀とした、報われぬ死者に対する負債観念である。それが、実感として共有されている間は、日本という国土は、共同体主義であり得た。
だが、三島由紀夫がrevoltした〈生の哲学〉(内田隆三)が支配的になるにつれ、日本はただ経済的な豊かさと、マイホーム幻想以外の哲学を喪ってしまった。三島の自決は時代への警鐘だったのである。
グローバリゼーションという現象は、市場型間接金融という、世界中の人を信用力によって数値化するという、貨幣の計量的理性の暴力によって、世界全体を、ホッブズ的な自然状態に貶めた。アメリカや中国はそのような世界に秩序を与えるリヴァイアサンでもあるのだ。
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