2022年3月7日月曜日
セカイ系
内田さんの抜粋文は、いい加減な読み方から抱いていた内田氏の印象とはずいぶん異なり、
<戦後>をめぐる天皇の超越性をめぐる変質、<外部>の拒絶にしても、なるほどと深く納得される
ところです。こういう厚みを持った論旨展開は想像しておらず、お教え頂き、本当に有り難う。
その後の2通について、あわせご返信する形になってしまいますが。
大澤論は、グローバリゼーションについて論じている、のではなく、
グローバリゼーションという時代の趨勢の中で大文字を失った一般化の波に呑み込まれた個の消滅、
したがって文化の様相としては「多文化主義」という悪しき相対主義――一見、相互に尊重し合っているかのような
形をとりながら、実は全く通約性を持たぬそれぞれが個々バラバラに存在しているにすぎない状態を問題化し、
検討を加えている、といった体のもの、と私は受け止めています。
原理主義はグローバリゼ―ションへの「対立」であるよりは(当人たちはそのつもりでも)、その波に
呑み込まれつつある現代人の抵抗にもならない抵抗(抵抗はしてみても所詮不可能な)で、したがって大澤は
それを「アイロニカル」な没入――反語的没入、というか、全き没入など不可能なことをどこかで認識しながら
しかし没入せずにはおれない矛盾を含んだ状態として捉えられているのだと思います。
「セカイ系」は、上記の議論が一般に享受される一つ手前――「虚構の時代」(人がまだ現実への反措定として
虚構の世界に希望を持ち得た時代)と即応している、というのが一般的理解かと思います。一方でオウムとサリン、
他方でセカイ系――壮大な虚構がどこかで信じられている。これの潰えた後に現われるのが上記の状態で、
常々、村上ワールドに於ける『1Q84』を説明する手立てとしてはきわめて有効であるように感じています。
グローバリゼーション、というよりもその中で生じる「アイロニカルな没入」の議論が意味を持つのはこのあたりまで
(『1Q84』は2009-10の刊行)、で、絶望感が増す中で、その後の文芸及び文芸批評はよりベタな「現実との対峙」といった
日常的レベルへ着地してゆくようです。宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』はその牽引役ですね。宇野が勢いを増してゆく中で
大澤、東はオリジナルな新しい論は展開し切れていないような…。セカイ系の盛衰と命運を共にしているのは
その評論の性格から当然の成り行き、なのかもしれません。
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