2022年3月16日水曜日
添削6
第2章 近代における「国家」の要請-―ヘーゲルの国家論
or 「必要悪としての国家(論)」「装置としての近代国家」etc.
国家の倫理的絶対視、精神の極度の観念化、その必然的展開としての全体主義的傾向などから大変評判の悪いヘーゲルであるが、まさに装置(カラクリ)として、「近代」の出現と相俟って「国家」が要請されてくるのが論理的展開なので、いったん「第1節」ではヘーゲル的国家を概説し、「第3節」でデューイを核に批判―相対化する、という手順が妥当と思われる。
第1節 最高次の「倫理的共同体」としての「国家」
――<独立>という名の「市民社会」の<分離>
アーレントの論がおのずから示しているように、近代的個人とは独立した一個人であると同時に、社会を構成する一員でもある。
ヘーゲルの「国家」論は、国家を「倫理的共同体」と見なす――「法や制度に従うことは自己の欲望の否定ではなく、自己の理性的な本性の肯定である」――ことによって、国家の側に都合の良い論理を組み立てている。
換言するなら、国家を「高度に分節化」され「組織化」された「有機体」と見なす。それは伝統的共同体の崩壊によってバラバラになった個人を包摂することを可能にすると同時に、小林君も後に触れているように、容易に全体主義への道を用意する。
小林論における、ヘーゲル的国家観の最大の問題は、「市民社会」を言わば個人の「私的利害」に対応するだけの概念とみなして、「国家」から「分離」してしまうこと。ただ、「分離」されることで「市民社会」が国家から「独立」した「独自の原則にしたがって存在、機能する」組織として成立し得ることも事実。
「国家」と「市民社会」の相補的関係。
――ほぼ以上のような展開を行って、次の節で、「それでは、日本の場合、市民社会は健全に機能し得たか?」と問う、というのが、わかりやすい筋道では?
ヘーゲルが、国家と(市民)社会とを区別して捉えたことが、国家論の歴史において画期的な意味を持つことであるということはすでに指摘した通りである。その国家と社会の分離の理由として、ヘーゲルは、市民社会には、国家のはたすような真の普遍を支える能力がないからということをあげる。そこで、市民社会の私的利害に対応するだけのものである「契約」という概念によって、国家の成立原理を説明する「社会契約説」に厳しい批判を浴びせることともなった。しかし、それだけではないはずである。というのも、国家と市民社会の分離の把握ということは、市民社会が、相対的にではあっても国家から独立した存在であることの指摘でもあるはずだからである。近代国家においては、プラトンが掲げた理想国家におけるのとは異なって、国家が個人の職業選択に干渉したりはしないし、その他の個人の私生活に干渉したりはしない。同様に、国家が市場原理を廃絶あるいは抑圧するようなこともない。そのように、市民社会が自分独自の原則にしたがって存在し、機能していることが尊重されているということが、近代における個人の解放という観点から見て、重要なことであるはずなのである。それは、ヘーゲル流の表現にしたがうならば、一方では、近代国家なり、近代社会なりが「客観的必然性」によって構成された体制であったとしても、他方では、個人の恣意や偶然を媒介として成り立つにいたった体制だからだということになる。(p.103)
(中略)
近代国家の原理は、主観性の原理がみずからを人格的特殊性の自立的極にまで完成することを許すと同時に、この主観性の原理を実体的統一につれ戻し、こうして主観性の原理そのもののうちにこの統一を保持するという驚嘆すべき強さと深さをもつのである。【260節】
(中略)
国家が、有機体として高度に分節化されるとともに、組織化されているがゆえに、個人の選択意志による決定と行為が保障される。個人は、基本的には自分勝手に自分の人生の方向を決め、自分の利害関心にしたがって活動することが許されている。にもかかわらず、このシステムのなかで「実体的統一」へと連れ戻される。それは強制によるものとは異なったものであり、あくまで個人は自己決定の自由を認められて、恣意にしたがっているにもかかわらず、知らず知らずのうちに組織の原理にしたがってしまうという形を取るのである。また、個人の自律的活動あればこそ、社会組織の方も活性化され、システムとして満足に機能しうる。こうして、有機的組織化と個人の自由意志とは相反するものであるどころか、相互に補い合うものとされている。それが、近代国家というものだというのである。(p.104) 「教養のヘーゲル」佐藤康邦 三元社
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