2022年3月16日水曜日

添削8

第3節 ヘーゲル的国家論を批判する ⑴ 国家の倫理的絶対化――デューイによる批判 ◆ヘーゲルにおける「国家」の「倫理」化 を「第1節」の復習も兼ねて概観  近代および近代的個人が内包する一種の二律背反 ――伝統的共同体から解放された自由な社会が利潤獲得に狂奔する市場経済を要請し、無限の欲望 に突き動かされる個人を生み出す(=小林論の主題ともいうべき「貨幣経済」の「暴力」)  ➡ヘーゲルは、このバラバラな個人を統合する手段として、 「社会契約論」(=市民社会論)は採らず、 「政治」に「倫理」を冠した「国家」(=国家論)を主張 ◆デューイのヘーゲル批判   しかしながら、「国家」あるいは「政治」は、あくまで社会が機能を果たすための「手段」――つまり相対的なものにすぎず、それ自体が究極的な「価値」や「目的」を体現することはありえない。   この観点からするなら、ヘーゲルにおける「国家」の「倫理的絶対化」は許されるべきでない。 ⑵ 身体としての国家観 近代国家の真に畏怖すべき性格は、フーコーが言うところの「統治性」にある。 それは社会制度上の「権力」そのものの行使、ではなく、「統治」のための諸「制度」が個々人の「身体」を通して「内面化」され、人々の「振る舞い方」までを形成するに至る。 15ページで言及されているフーコーの「生政治」論は、ここへ挿入するのが良いのではと思われます。フーコーの指摘する「権力」とは、まさに個々の身体を通じての規範の内面化、つまるところは「生き方の管理」を行うものであり、同じフーコーの「統治」を説明、敷衍するのに持ってこい、であるばかりでなく、具体例として挙げることになる次の丸山の「國体」論とピタリと繋がります。 幸い、丸山真男の論じる「國体」論は、これまで言い尽くされてきた「國体」の「教化・浸透」が実は「内面化」(精神の制度化)に他ならないことを論じているので、上記フーコーの「統治」論の恰好の具体例、といった文脈で要約的に述べると効果も大。 いうまでもなく、ヘーゲル的な有機体としての国家論と結びつく話。    現代の先進国においては、ほとんどすべての人が、休みなく消費者として生活している。 そして、消費者として生活するうえでは、ほとんどの場合、金銭のやり取りを伴う。金銭のやりとりを主とする市民社会の誕生は、イギリスの重商主義政策による産業革命の結果生まれた。アダム=スミスの「神の見えざる手」という格言が象徴するように、自由主義市場は、あたかも規制を加えずに放置しておけば、自然と社会が健全に繁栄するという考え方が、支配的になった。しかし、ゲーテが早くも「ファウスト」や「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」、「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」で示唆していたように、貨幣の暴力が人間の無限の欲望を解放し、徒弟制度を中心とした当時の社会秩序を不安定にする側面があったことが表現されている。ヘーゲルは、アダム=スミスや、ジョン・ロック、ホッブズの系譜に属する社会契約論に異議を唱え、倫理的な社会の構築を目指した。それは社会主義経済の遠因となったが、結局は全体の名の下に個人を抑圧する思想に口実を与えることともなった。 ニーチェの「神は死んだ」という宣言の後に、どのような「公共」がありうるか、という問いが提起されている。 国家ないし政治の世界は、それが社会にとっていかに重要で不可欠の機能を果たすにしても、本来道具的ないし手段的な性格をもつにすぎず、したがってそれ自体で究極的な価値や目的を体現することはありえないのだということである。したがって、デューイは政治的なるものが孕む価値的な限界性への自覚を持っていたということである。国家ないし政治の担う価値はどこまで行っても第二次的で、手段的なものでしかなく、だから、他のあらゆる社会的諸価値を吸収したり、またその源泉となるような究極的な価値を体現することは決してありえない。つまり、政治の追求する価値は相対的なものでしかなく、その倫理的絶対化は許されない。 「ジョン・デューイの政治思想」(北樹出版)p.111、112より 丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。 しかしながら天皇制が近代日本の思想的「機軸」として負った役割は単にいわゆる國體観念の教化と浸透という面に尽くされるのではない。それは政治構造としても、また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。(・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、それが制度自体と制度にたいする人々の考え方をどのように規定しているか、という、いわば日本国家の認識論的構造にある。  さて、ここから、問題の「イサク奉献」と「決定論」の節が始まるわけですが、デリダの「贈与」論、これとの連動で小林君が辿り着いた内田隆三氏の決定論を回避すべく見出した「余白」と「双数」的世界の可能性、は、「貨幣経済(の暴力性)」との関係で言えば、エコノミーの支配する貨幣経済の「物象化」に対抗して、これを超えるポジションにある言説ではないのか、と思えるのですが。   このように考えた場合、論の展開としては、「貨幣経済の暴力性」について、「個性の喪失」「国家」の権力性、と述べ進んできたところで、まずはそのまま、そのクライマックスとも言える仲正昌樹氏による「同一化の論理=外部・他者・差異の排除」を持ってきて、物象化をめぐる批判的考察を展開し切ってしまう方が明快なような気がします。 その後、「貨幣の暴力」の弊害的な諸現象を順次、解説し切り(キャラ化する私・超越論への逃避・「本来性」という名の原理主義etc.)、それを終えた後、いちばんラストに「物象化を超えて」「物象化からの逃走」風の「未来への展望」的な章を設けて、そこで、小林君のいちばんの専門分野でもあるアドルノを中心としながら、他の具体的思考法、の体で、デリダの贈与論と内田氏の決定論からの逃走的戦略を紹介的に提示する、といった展開が良くはないか、と思うのですが。 この場合、本来、小林論では「原理主義」の諸傾向を「現代」――グローバル資本主義の「現在」として見定め、そうすることで獲得されていた論文冒頭(序)との呼応性が喪われてしまうのですが、やはり何といっても小林君のアドルノ論は質量ともに豊かで論理性も確保されており、説得力、の点からいっても「本来性の幻想・希求➡原理主義」と比べて、どちらが「論の〆」としてふさわしいか、と問われれば、「アドルノ」――「貨幣経済とその暴力性」の呪縛を解くための苦渋に満ちながらも思考を止めることをしない誠実な試みに、一縷の望みを託しながら論を閉じる方向性を、選択したくなります。 以下は、たいへん勝手ながら、上記のような思いと判断から、小林論の順序を少し組み替えながら展開の筋道を考えてみたものです。 元のご論からの順序の入れ替えが大小あわせ、甚だしいものですから、以降については、これもまた、たいへん失礼ながら、いったん元の文章を消して、ともかく論(旨)展開について、お伝えしようとするところがわかりやすいように、優先的に記し、必要に応じて元の小林君の文章を引用、言及する、といった手法で進めてみたいと思います。

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