2022年3月10日木曜日
怖い
テレビ東京のカンブリア宮殿?で、スシロー特集やってるんだけど、舞台裏を覗くと、ちょっと恐怖感を覚えるね。北欧で、養殖サーモントラウトを感電させてから一瞬で三枚におろす作業が、ひたすら機械的に行われてるのも怖いんだけど、スシローはまた別の怖さがある。徹底した合理主義と先進技術の導入で、他の追随を許さない経営をしてるのはわかるんだけど、人間が魚の命を奪っている、という意識が、限りなく漂白されている感じがする。これが、殺す側、殺される側が逆転したら、何が起こるだろう?と考えると、これはもう一種のディストピアなんじゃないか、とすら思えてくる。藤子不二雄の「カンビュセスのくじ」っていう短編集を子供の頃に読んだんだけど、ある青年が、惑星に不時着して、そこでは、牛(ウス)と人間の立場が逆転している、つまり、牛(ウス)が殺す側で、人間が殺される側。こういうことは現実には起こりえない、とはいえ、人間どうしだって、殺す側/殺される側、が、明確に線引きされた時、命の価値が全くなくなってしまう、ということは、歴史上何度も起こってきたことだ。スローフード文化というのも言われるけど、「待つ」ということ、仮に報われなくても、「待つ」というところに、人間の人間たる尊厳があるのではないか?アリストテレスの倫理学で、欲望は抑えるべきかどうか、という議論があって、アリストテレスは、いくらミルクが沢山あっても、それを入れる甕が割れていれば、いくらミルクがあっても足りない、と答えたが、人間そんなにガツガツ食べなくても死にはしないんだから、摂生の効用というのも、見直すべきだろう。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
曽根崎心中 (再掲)
愛という感情が日本の歴史上にも古くから存在していたことは、源氏物語にも書かれていることで、わかる。 しかし、日本の宗教観念には、愛を裏打ちするものがない。 改行(節目節目で改行がある方が効果的。以下、同じ。) 曾根崎心中は、男が女郎をカネで身受けしようとするが、心中する、という悲...
-
2021年の大河ドラマは、渋沢栄一を扱っていたが、蚕を飼って桑の葉を食べさせているシーンがあったが、蚕を飼うということは、最終的に絹を作って、輸出するということだから、既に世界的な市場と繋がっていて、本を辿れば、あの時代に既に農家も貨幣経済に部分的に組み入れられていたということ。...
-
もし、日銀が目的としている2%の物価上昇が実現した場合、国債の発行金利が2%以上になるか、利回りが最低でも2%以上になるまで市場価格が下がります。なぜなら、実質金利 (名目利子率-期待インフレ率) がマイナスの (つまり保有していると損をする) 金融商品を買う投資家はいな...
新自由主義のグロさって、実はこういう側面があるのかもしれないけど、日本人が世界中の海産物を冷凍とグローバル・サプライチェーンを活用して食してるのって、アナロジーとしてどんな人でも世界の資本市場に参加できる市場型間接金融に似てる気がするんだけど、後者のほうは、経済的格差の膨張と、貧困を生んだ。新自由主義は、それも個人の責任だ、ということにしているが、現実には、世界各国の政府・中央銀行が財政金融政策によって尻ぬぐいを余儀なくされている。アリストテレスによれば、人は自らの人格に責任を持たなければならない、という。なぜなら、人格とは、習慣の繰り返しによって形成されるものだから。人間の放埓な欲望の解放は、経済格差のみならず、地球環境の破壊という形でも、しっぺ返しを喰らわせようとしている。
返信削除ベンヤミンは、「手」にもとづく認識の成果としての技術の巨大な発展が全く新しい貧困状態をもたらしたと指摘している。 「技術の巨大な発展とともに、まったく新しい貧困が人類に襲いかかってきたのである。」(「貧困と経験」『著作集』第1巻) 技術は不断の発明・発見によって次々に新しいものを作り出しては古いものを破壊していく「創造的破壊」(creative destruction)(シュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』)をもたらす。 機械は急速に進化していき、不断に「倫理的摩滅」にさらされている。(『資本論』第1巻、P.528参照)それとともに人間の生活を支えている周囲の事物はことごとく変化してしまうならば、人間はもはや自らの過去の経験を頼りにすることができず、つねに最初から新たにやり直すしかなくなってしまう。 「まだ鉄道馬車で学校へかよったことのあるひとつの世代が、いま、青空に浮かぶ雲のほかは何もかも変貌してしまった風景のなかに立っていた。破壊的な力と力がぶつかりあい、爆発をつづけているただなかに、ちっぽけなよわよわしい人間が立っていた。・・・これはそのまま、一種の新しい野蛮状態を意味する。野蛮?そのとおりである。・・・経験の貧困に直面した野蛮人には、最初からやりなおしをするほかはない。あらたにはじめるのである。」(「経験と貧困」)これは、1933年の「経験」状況である。 ベンヤミンは、人生における経験がゆっくりと時間をかけてつくられていくような「完成する時間」に対して、「永劫回帰」する時間を対置する。「・・・完成する時間・・・は、着手したものを完成することを許されないひとびとが住む地獄の時間と対をなしている。」(「ボードレールのいくつかのモチーフについて」『著作集』第6巻)
返信削除もっとも、アドルノが主観と客観との絶対的な分離に敵対的であり、ことにその分離が主観による客観のひそかな支配を秘匿しているような場合にはいっそうそれに敵意を示したとは言っても、それに替える彼の代案は、これら二つの概念の完全な統一だとか、自然のなかでの原初のまどろみへの回帰だとかをもとめるものではなかった。(93ページ) ホーマー的ギリシャの雄大な全体性という若きルカーチの幻想であれ、今や悲劇的にも忘却されてしまっている充実した<存在>というハイデガーの概念であれ、あるいはまた、人類の堕落に先立つ太古においては名前と物とが一致していたというベンヤミンの信念であれ、反省以前の統一を回復しようといういかなる試みにも、アドルノは深い疑念をいだいていた。『主観‐客観』は、完全な現前性の形而上学に対する原‐脱構築主義的と言っていいような軽蔑をこめて、あらゆる遡行的な憧憬に攻撃をくわえている。(94ページ) 言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
返信削除