2022年3月6日日曜日
山県有朋
山県有朋が想定していた当時の状態は、西南戦争が終わった直後で、まだ日本が確固とした「管理された世界」になっていない状態だったと思われる。
ホッブズが想定するリベラリズムにおいては、人間は生まれながらに全ての権利を持っているが、その故に、放置するとお互いを殺しあう「自然状態」になるから、生存権だけを残して、それ以外の権利をすべてリヴァイアサンに預けてしまおう、という発想。
かなりラディカルなようだけど、完全に資本主義化が進んで、全員がアトムと化した世界においては、非常に有効な、秩序維持のための発想ではあると思う。
明治から大正になり、昭和になる、という時代を経るうちに、経済発展によって、生存そのものが危うくなるにつれ、政治家への信頼が薄れ、軍人への期待感が高まってくると、経済的に豊かだった頃には疎ましい存在だった軍部への憧れが湧き上がってくる。
もっとも、大正デモクラシーという思想的な百花繚乱の中で、自由主義のみならず、国粋主義もまた、成長してきた。
このような、多様な思想の中で、究極のリーダーとしての天皇の存在が、過剰な存在感を持ってしまった面はあるのかもしれない。
昨今も安倍ブーム一色のような情景を見ると、今からしたってそんなにおかしな状況ではないはずだ。
ホッブズ的なリベラリズムの上手い点は、高度に資本主義化された社会において、秩序維持を正当化するのに非常に適合的である面だ。
その意味では、戦前昭和において、天皇は「リヴァイアサン」でありえたのかもしれない。
しかし、そう考えると、(ホッブズ的)リベラリズムと、共同体主義は、どう棲み分けたらいいのだろう?
そして、共同体主義においては、どんな「象徴(=神)」が必要とされるのだろうか?
ここまで考えると、戦前昭和の天皇を頂点とする家父長制的な日本が、ホッブズ的な意味でのリベラリズムだったのか、あるいは、共同体主義だったのか、論理上の区別がつかなくなる。
日本が、天皇を頂点とした想像的な父権社会という、全体主義の変奏曲を演じたのも、フロムの、第一次的絆の喪失という側面もあっただろう。
つまり、共同体主義と、全体主義との根本的な違いを明らかにすることが要請される。
ひとつ考えられるのは、共同体主義においては、自生的秩序や、コンベンションといった、保守的自由主義の効用が重視されるだろう。そこには、包摂できる範囲というものが、自と限界がある。
それに対して、全体主義は、メガロマニアックな神話が、exponentialyにメンバーを呑み込んでいく。
神話への退行は、現代社会の秘められた疎外の狡猾な顕れである、というのは、アドルノが指摘するところでもある。
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