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7月, 2022の投稿を表示しています

メモ

スマホの記事で、櫻井よし子氏が寄稿してたけど、 安倍さんは、仲間内で話すときも、 本当にいい人で、 口汚いことは言わなかった、てんだけど、 結論から言えば、 だから、それがオトモダチ(の利益)優先政治なんじゃねーの? 仲間内でいい人ってことと、 政治家として国葬に値するほど偉大、ってことは、 およそ次元の違う話だろ。 むしろ、 政治家だったら、仲間内で群れたりせず、 孤独に耐えられるような素質がなければ、 とても務まらないはずだ。 散々えらそうなこと主張していながら、 そんなこともわからない櫻井氏は、政治評論家として根本的に駄目。

メモ

俺が病気になって、 医者のカウンセリングに通うようになって、 一番変わったのは、実はねーちゃんかもね。 怨みつらみがドロドロに溜まって、 それこそカオナシになってたから、 それを全部吐き出して、 しかも、 それが独りよがりであることを指摘されたことで、 だいぶ人間としてマシになったと思う。 あれでも。

メモ

明石家さんまがなぜ人気あるか、 自分なりに考えたけど、 やっぱり、 偉ぶったところがないし、イヤミがないよね。 あれだけ芸能界に長くいて。 それはなんでなのか、という自分の憶測だけど、 本来落語家なのに、 落語家として成功できなかった、 っていう挫折感があるからなんじゃないかな? やっぱり、 なんでもできちゃう人ってのは、どっかでイヤミが出てくる。 アンジャッシュ渡部が勘違いしちゃってると感じたのは、 深夜番組で、 地方の隠れた名店に、こ汚いAD連れて、 ADを馬鹿にしながら、 寿司屋のカウンターで汚い言葉を使ってたあたりだったね。 やっぱ、寿司屋のカウンターで、”クソ”って言葉は、 グルメを自称する人間としては、絶対使っちゃダメだよ。 そこは、謙虚さが欠けてた。 佐々木希ほどの美女をゲットしたら、勘違いしちゃうのも仕方ないかも知れないけど。

キャパオーバー

きっと相続で揉めるだろうから、 今のうちに民法勉強しなきゃ、 と思ってたけど、 自分の脳はどうも 法律、特に民法ってのと相性が悪い。 ふと思い出したけど、 慶応入って最初のころは、 時間もあったから、 そこそこのお金出して、 伊藤塾の通信講座受講してたことを思い出した。 知り合いでも、似たようなことやってる人がいたから、 なんだかんだ勉強する気のある人が多かったのかもね。 サークル絡みでロクでもない(ように見えた)連中と付き合わざるを得なかったから、 馬鹿ばっかだと思ってたけど。 まあなんだかんだ優秀よ。 起業するなり、独自の理論を打ち立てようと試みたり。 父親には学業その他、さんざん金銭面では、疑いもなくお世話になってるし、 カネが掛かったこと自体をどうこう言われたことは一度もなかったから、 まあ感謝こそすれ、恨みは一切しないよ。 そりゃ、たまに理不尽だな、と思うこともあったけど。 ねーちゃんにしても、人生のほとんどの期間においてストレスの素でしかなかったけど、 なんとか協調路線でやってくほうが、 法律で理論武装するより、楽だよね。 このトシになって、脳と相性の悪い勉強をしてもしょうがない。 向こうは俺のこと敵認定してるかもしれないけど。 でも、義理の兄は純朴でめちゃくちゃいい人だし。 でなきゃ、ねーちゃんと所帯もつなんて出来っこない。 少なくとも、俺はねーちゃんと一つ屋根の下で暮らすのは耐えられない。 もちろんのこと、母親にも感謝。 一介の凡人でしかない俺がここまで来れたんだから、誰かを恨むのは筋違い。 感謝。感謝。

過去ログ(俺が就職の話したとき、ねーちゃんから送られてきたメール)

心配しないでください。??さんは、これを機に外の世界に一歩踏み出してください。外の世界は広くて楽しいです。知らないで終わるのは勿体ないです。私は今まで外の世界を沢山見てきました。今度は??さんの番です。思いっきり人生を楽しんで下さいね。

人工知能は人間を馬鹿にする?

世の中には、自分の頭で考える能力がなくて、 なんでも他人任せの人ってのがいるが、 そのうち、何から何までアレクサに訊いて、逐一行動するって人が、 大量発生しそうだよね。 自分の頭で考えるって、意外と難しいよね。 自分の頭で考えた結果、 人工知能に優る、とも限らないし。 自分の頭で考える、とはどういうことか、を自分の頭で考える、なんていうと、すでにもうメタの世界に入ってるし。 たださ、やっぱり自分の行動、言動に対して、最低限でも責任を負わせるってことは大事なんじゃないかな? 人工知能がそう言ったからその通りにしました、私の何が悪いんですか? なんて言われたら、社会が崩壊しかねない。 歴史に照らして見ても、政治的権利を放棄するのって、結局権力者に自分の自己決定権を丸投げするのと同じで、 無責任の共同体が出現するだけだよね。 前の参院選で、投票用紙を破って棄てた俺が言えた義理じゃないけど。 参政党が参院で1議席獲得して、何かとネット上で耳目を集めてるけど、 反ワクチンやら陰謀論やら、 物議を醸しそうなネタ満載だけど、 飽くまで主権者の主権を擁護する限りは、 存在を否定はしない。 しかし、陰謀論に走っちゃうと、 いつの間にか主権者の主権を放棄させてる結果になるってことは、 あり得る。 それは、ナチズムが、階層構造になっていて、上に行くほど、自分はより真実に近づいている、という錯覚、快感が、階層構造それ自体を補強している、というメカニズムが働いたのと同じ。 その結果、トップは誰もが知り得ない真実を知っているはずだから、トップの言うことに従えば間違いない、という理屈で、自らの政治的主権を放棄してしまう。 その兆候が見えたら、即、断固として抗議しなければならない。 安倍政権だって、そういう側面があるんじゃないか? 我々には窺い知れないが、きっと安倍さんには安倍さんなりの深謀遠慮があるはずだ、みたいな。 政治である以上、何でもかんでもガラス張りに出来るわけがないってところが、政治の難しさでもあるが。 不透明な世の中だからこそ、安易に陰謀論に流されず、丁寧に腑分けをしていく作業が求められる。

機械翻訳

機械翻訳に、日本語を英語に翻訳させるときに、 もとの日本語の構造がしっかりしてるほど、 人間の出番がなくなる。 典型が法律文書で、 ああいう細かいところまで書き込んだ、複雑な文章は、 人間よりも機械翻訳に任せたほうがいい。 めちゃくちゃ複雑な日本語を、一瞬で処理してくれる。 もちろん、 法律に詳しい人間が事後的にチェックするのがいいにこしたことはないけど。 でも、 日本語ネイティブが、気ままに書いた文章は、 手抜きで書いているつもりでなくても、 機械翻訳にとっては、抜けが多すぎて理解できない、という側面があるようだ。 日本語のそういう性質がある限り、人間の手の介在する余地はあるのではないか?

やっぱ昔の政治家は偉いね

鈴木貫太郎は、2・26事件だったっけ?で、 瀕死の重傷を負いながら、 妻の「武士の情けです。とどめは私に刺させてください。」 という機転で、 青年将校を引き上がらせて、 辛うじて生き延びて、 終戦前最後の首相として 戦争終結まで持っていって、 終戦後は 千葉の田舎で畑仕事をして過ごしたってんだからね。 偉いもんだよ。 尊敬するわ。 亡くなって、火葬したら、頭の中から銃弾が出てきたってんだから。 ただ、 アメリカからの最後通牒に対して、「黙殺」と 回答したのに、それを、アメリカ側に「無視」と 捉えられて、 アメリカを本気にさせちゃったのは残念といえば残念だけど。

観照的生活

ちょっとここ数日、柄にもなく 神経を高ぶらせてしまったから、 疲れた。 自分は無位無官の徒で、 かえって良かった。 立場のある人間だと、 職業上の安定やら義務やらで、 あまり派手なことは言えないし、 言ったら言ったで、 キャラが立ってるってことで、 マスコミの御用学者や、おもちゃにされちゃうからね。 そんな生活はまっぴらご免だね。

猿猴捉月

https://m.facebook.com/enkopt/posts/619931148482547 unenlightened minds deluded by appearances (悟りのない心は、外見に惑わされる。) 日本語で猿猴捉月を検索しても、 たかが猿ごときが 身の程知らず のことをした、 という程度の意味しか出てこないのに、 英語で検索すると、 ちゃんと もっと形而上学的なニュアンスが出てくる。 もう、ここらへんの差だよね。

2学期は法律の勉強しよ。

信用がどうとか いろいろ書いたけど、 身内だからこそ、 我慢の限界ってもんがあるよね。 他人なら縁切れるけど。 後々のこと考えると、 ちゃんと相続のこととか勉強しとかないと。 慶大の武川先生の民法の放送授業 一通り聴けてほんと良かったわ。 これからの勉強の下地になる。

今夜も脳みそパラダイス

やたら片付けが好きなヘルパーさんがいて、 物置部屋を容赦なく整理してくれるんだけど、 つと、友達が撮ってくれた大昔の自分の写真がたくさん出てきて、 びっくりした。 え、大昔の俺って、こんなに痩せてたの? て、我ながらびっくりした。 でも、あんまいい気がしなかった。 苦い思い出も多いし、 その時のスカした自分が、 自分でも嫌いだったから。 今は違うけどね。 ・・・で、週刊新潮のネット記事を、 deepl翻訳にブチ込んで英訳して、 facebook繋がりのアメリカ人の友人に送ったら、喜んでた。 でも、 deepl翻訳にそのまんまブチ込んでも、意味の通る英語にならないのは経験上知ってるから、 もとの記事の日本語を、 英語にしやすいように手を加えて、 出来上がった英文を見て、 さらに手を加えて、式でやってみた。 これ、面白いね。 カネになるんじゃないの? 楽しかった。

加藤くんと植松くん

2008年だっけ? 秋葉原で無差別殺傷した 加藤くんが 死刑執行されちゃったらしいね。 犯罪の量刑としては当然 なんだろうけど、 なんか哀れなやつだったな、という気もする。 39歳ってことだったから、 事件当時25歳とかそんなもんでしょ? 25歳で人生投げちゃったのかなー? 人生投げちゃうことと、 繁華街でリア充してる、かのように見える人を無差別殺傷することの 繋がりがイマイチ見えてこないんだけど、 俺は不幸だ!て思い込みすぎると、 リア充を皆殺しにしたくなるのかな? よくわかんねーわ。 彼がもうこの世にはいないことを考えれば。 でも、なんかな、 我々も時としてそうだけど、 決めつけすぎは怖いと思うんだよね。 未来の、あるいは過去の不確定性をもっと受け入れないと、 必ずこうだ! と決めつけ過ぎたら、 一旦人生投げちゃった人にとっては、 誰彼構わずリア充は殺してやる、なぜなら、俺の人生にはこの先なんもいいことないから! て結論に至るのは、論理的にはある程度整合性があるんじゃないかな? もっとさ、 社会が不確定性を受け入れて欲しいと思うのよ。 不景気だからこそ、安全牌を選びたくなるのは当然だと思うんだけど、 その傾向が強くなりすぎると、 一度失敗した人間には不幸な人生しか待ってない、 って風潮になっちゃうかもしれないけどさ、 社会に対して不満を述べたてたいなら、 今だったらYou Tubeとかあるし、 なんなら政見放送で 卑猥な発言したって、 逮捕されるわけでもないし、 あるいは、 ハードル高いけど、 ウーマン村本みたいに、 堂々と言いたいこと言う機会だって、無いわけじゃない。 あれは相当な度胸が必要だけどね。 相模原の施設で19人だっけ? 殺傷した植松くんにも言いたいけど、 なんか主張したいなら、 合法的にやればいいじゃん。 それこそネットで発信することだって出来たわけじゃん。 いかに公序良俗に違反するとしても。 自分が主張する手段として 人を殺すってのは、道理に合わない。 意思疎通の出来ない人は社会に有害だから殺すべきだ、というなら、 おそらく君が死刑になるのも、同じ理由(社会に有害だ)からではないのか? 有害にも色々な性質があるだろうが、君が社会にとって有害であ...

坂口安吾 三十歳

勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。  たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。  人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。  けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。 https://www.youtube.com/watch?v=DwyV3N9_704

クリティカル・ヒット

父親の致命傷は、糖尿病と高血圧だった。 ちょうど同世代の定年退職するおじさん達が、 糖尿病で大量にヤバいことになり始めるころ。 医療の世界も、 糖尿病ビジネスに火がつき始め、 各種の啓発本が世に出回り始めていた。 母親が、 父親に泣いて頼んで、 頼むから病院に行ってくれ、と懇願して、 東京の糖尿病専門の病院に行くことになったんだが、 父親は、 どうせ検査だけだと言って、何百万も取るんだ! とブチキレながら車を運転していたが、 その時助手席に座らされた俺は、 まだ精神病院から出てきて 半年も経っていない頃。 正直、なんでこの人は自分の息子にこんな酷い仕打ちをするんだろう?と思った。 もちろん、 その後治療費に掛かったカネは、数百万では済まなかったはずだ。 まあ、それぐらいの仕事人間じゃなかったら、 ごく身内だけで済ませるはずだった葬儀が、 あんなデカくなるわきゃねーわな。 母親が脳梗塞になってから半年も経ってなかったから、 自分は母親見守りで、 全部ねーちゃんに丸投げしたから、 話を聞いただけだけど。

自由からの逃走(再掲)

自由ってのは、政治哲学とか、カントの自由論とか、そういう話だと思っていたが、個々人のメンタリティーの問題でもあるらしい。 もちろん、エーリッヒ・フロムのように、ナチズムにおけるサド=マゾ関係を論じた著作もあるが、それにしても、やはり個人のメンタリティーと、それに接続する政治思想というのはある。 あるいは、丸山眞男のように、天皇制のもとで、自ら隷属状態に陥ろうとする人々の心性を論じた学者もいる。 我々は今、自由主義体制にあって、もちろん経済的な問題で、自由に生きられない人はいくらでもいる。 しかし、経済的問題に縛られていなくても、精神的隷属状態に自発的に入り込む人がいる。 ある系、それは家族でもいい、そういう系の中に、自分をはめ込んで、聖なる奴隷として生きる以外の生き方を知らない人がいる。 かといって、そういう系から全く自由な人があり得るか、と言えば、これもまた難問ではある。 そもそも、構造主義というのは、人間は、「構造」の中でしか存在しえないことを論じた思想だ。 現に、我々は、「国家」というフィクションの中で生きている。 社会契約論であれ、ヘーゲル主義であれ、天皇崇拝であれ、フィクションを、真実である「かのように」信じることでしか、我々は「国家」を前提として生きることはできない。 その「虚構性」が覆い隠されているのは、国家というフィクションが、単に概念上のものであるとしても、現実には、それに基づいて、強制力が我々に発動される、あるいは逆に、国家の成員であるということで、身分保障などの恩恵を受けられるからである。 しかし、だからといって、国家がなければ我々は自由か、というと、決してそうではない。 第一次大戦後のドイツのように、巨額の賠償金とハイパーインフレによって、国家の信用が崩れ、そのフィクション性が露骨に現れるようになると、国家社会主義労働者政党が現れ、没落した中流階級プロテスタンティズム的マゾヒズムと、ナチスのサディズムが、共犯関係を構築し、人々が進んでその「構造」に囚われるようになった、というのは、エーリッヒ・フロムが指摘したことである。 日本においても、丸山眞男が論じたように、天皇制のもとで、統治心性とフーコーが名付けたような、被統治的概念が、現実の制度に反映され、概念と制度、人々の心性が、相互に補完し合い、統治を強化し合う、という現象が起こる。 丸山眞男は...

昭和のおとこ

自分が高校受験に邁進してた1年間は、 ちょうど父親が地方に単身赴任してて、 だからこそ、高校受験にあれほど 時間とカネをつぎ込めたんだろうけど、 父親が 東京に戻ってきて、 後楽園に近い社宅で 4人で暮らしていた頃は、 つまんなかった。 最寄り駅は飯田橋で、 地下鉄有楽町線で 新桜台まで直通で、 武蔵まで行けたんだが、 当時は西武線に直通する本数が少なくて、 結構遅刻もした。 新桜台という駅は地下の駅で、 名前はおしゃれだが、 ほこりっぽくて無機質で、 まったくテンションのあがらない駅だった。 父親も、 会社が合併したために全くテリトリーの違う土壌に乗り込んだが、 うまく馴染めず、かなり精神的にも堪えたらしい。 そのせいか、 東京の社宅にいた頃は、 夜食事をするにも、 家族団欒であるはずの場が、父親にとっては、単純にタダで酒が飲めて接待もしてもらえるクラブと化していた。 父親も、そういう形以外での家族との接し方がわからなかったんだろう。 俺も、そのころだんだんと気持ちが塞いで、頭もボンヤリするようになっていった。

恥ずかしい思いで

武蔵入ったばかりの頃、地学の教師が、東北大出身と聞いて、え、ビミョー・・・ って思っちゃったんだよね。 ほんと調子乗ってたわ。 下手に高校受験でうまく行きすぎて。 全部塾のおかげなのに。 頑張ればふつうに東大行けると思ってたんだね。 ほんとイケ好かない高校生だったわ。 ま、早い段階で挫折を経験しておくのも大事だよね。 大王製紙の坊っちゃんみたいに、 筑駒東大で優越意識の塊だったのに、 賭博にハマって損失の穴埋めに会社のカネ100億円使っちゃったのに、 いまさらあれは陰謀だ、とか騒ぐのも、みっともないからね。

製造業のグローバル化と賃金の低下(再掲)

1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社  https://jp.reuters.com/article/column-kazuo-momma-idJPKBN2FB0CH

バラッサ・サムエルソン仮説(再掲)

消費バスケットを構成する貿易可能財では、国際貿易を通じた裁定取引により国際的な一物一価が生じる一方、サービスなどの非貿易可能財では国際的な裁定取引が行われない。日本での非貿易可能財価格は国内の生産投入費用、特に実質賃金により決定される。 貿易可能財産業で高い労働生産性の伸び率を達成した高所得国は、その高い労働の限界生産性から国内実質賃金がすべての国内産業で高い。高所得国の非貿易可能財価格は低所得国より高くなり、同所得国の実質為替レートは増価する。 日経新聞「経済教室」2022/1/26 より https://imidas.jp/genre/detail/A-109-0085.html https://jp.reuters.com/article/column-kazuo-momma-idJPKBN2FB0CH

NHK党

NHKを目の敵にしておきながら、 選挙のときに、新聞で候補者を載せながら、 ロゴがNHKの丸パクリってのは、詐欺だろ? 頭のボケた人には、 ああ、NHKなんだ、じゃあ投票しよう、てなりかねない。 しかも、その結果当選したのがガーシー。 政治犯でもないのに、 逮捕されるのが怖いから 本国に帰ってこれない、なんて、論外だろ。 こんなやつ政治家にしてる時点で、 日本は平和ボケだぜ。 正味の話。

冷静に考えてもひどいね。

昨日の「満天 青空レストラン」にゲスト出演したコンビは、ひどかったね。 調べたけど、20年芸人やっててあれは、もうヤバい。 グルメ番組っていう趣旨を全く理解できてない。 とにかく、先輩芸人であるレギュラー出演の宮川大輔に対する態度が、あまりにも失礼だった。 清潔感もゼロ。 それほど売れてるわけでもなく、 芸風だのキャラだのを理解していない視聴者にとっては、 単純に食欲なんか一瞬で吹っ飛ばす不愉快な振る舞いでしかなかった。 それを20年芸人やって理解できないのが終わってる。 キャスティングするほうもセンスなさすぎ。 番組のイメージそのものをブチ壊してる。

関東さんには理解できまへん。

「華麗なる一族」は神戸を舞台とした物語だけど、 大阪とか神戸の上流階級ってのは、 すげー世界だな。 自分も面接授業で 何回か 神戸大学まで行かせてもらって、 寝坊したとき 東横インからタクシー使ったこともあるけど、 運転手さんから 六麓荘という超高級住宅街の話とか、 神戸ご出身の森本先生から メールで事情をうかがったこともあるけど、 格差がヤバい。 ほんとに、文字通り 丘の上と下の世界。 山上容疑者が安倍ちゃん撃ったのが格差だなんていうなら、 神戸の高台の高級住宅街なんて、 いつ貧民に焼き討ちされてもおかしくないんじゃないか? なんて、不謹慎な考えまで浮かんでくる。 阪神タイガースはタニマチが選手を甘やかすから弱い、なんて まことしやかに言われるけど、 東京ドームで試合が終わったあと、 いかついデコレーションの効いたユニ着たまんま 水道橋駅に向かう阪神ファンとか見て、 よく恥ずかしくないな、と思ってたけど、 ちょっと納得。

つらつら思うこと

「華麗なる一族」はまだ上巻の半分も読んでいないが、 ほんとに金融の勉強になる。 結局、 金融危機というのは、 需要と供給のミスマッチによって 起こるのではないだろうか? それは、読み進めながらおいおい考えるとして、 現代のグローバル化した金融のはらむ問題点、 つまり、リーマンショックのような危機は、 なぜ起こったのだろうか? リーマンショックは、別名サブプライムローン・ショックとも呼ばれたが、 その名の通り、 低所得者層向けの住宅ローンを、ずさんな審査で通し、 それを各種の度合いのリスクを内包する債権とカクテルした挙げ句、 世界中に撒き散らしたことが、あのような結果になったとされる。 あの時よく言われたのが、 誰もリスクを正しく評価できていない債券が、 世界規模に出回っていた、という。 しかし、 そもそもそういう事態を招いたのは、 個人の信用力を数値化して、完全に計量可能だという前提だった。 それはまさしく、市場型間接金融の為せる技だったと言えるだろう。 人工知能と金融が結びついた、いわゆるフィンテックが発達すれば、 銀行の与信業務は、人工知能にとって代わられると言われているが、 おそらく また地球規模の金融危機は起こるだろう。 それは、 社会と信用、という、根深い問題が横たわっているからだ。 ケインズが美人投票のパラドックスを持ち出して批判したかったことは、 科学技術が人間社会を完全にコントロールできる、などというのは、 傲慢でしかない、 ということではないだろうか。

貨幣数量説(再掲)

完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は古典派経済学の発想なので、完全雇用は常に達成されていると想定されているので、物価は貨幣量と貨幣の流通速度で決まる。 従って、貨幣量を増加させれば、物価は上がる。 「貨幣の所得流通速度が一定不変で,かつ伸縮的な価格メカニズムの作用により実質産出量(実質国民所得)の水準が長期の均衡値に一致するならば,貨幣数量の変化は国民所得の大きさや構成にはなんら影響を与えず,ただ物価水準を比例的に変化させると主張する説。」有斐閣経済辞典第4版

旬報社(再掲)

もし、日銀が目的としている2%の物価上昇が実現した場合、国債の発行金利が2%以上になるか、利回りが最低でも2%以上になるまで市場価格が下がります。なぜなら、実質金利(名目利子率-期待インフレ率)がマイナスの(つまり保有していると損をする)金融商品を買う投資家はいないからです。国債(10年物)の利回りは0.1%程度(2018年11月現在)ですが、それが2.1%に上昇した場合、何が起こるでしょうか。政府の国債発行コストが跳ね上がるのはもちろんですが、より重要なことは、国債価格が暴落し、国債を大量に保有している銀行に莫大な評価損が出ることです。 経済の論点 旬報社 72ページより

フィッシャー効果(再掲)

物価上昇の予想が金利を上昇させるという効果で、フィッシャーが最初にそれを指摘したところからフィッシャー効果と呼ばれる。 ある率で物価の上昇が予想されるようになると、貸手が貸金に生じる購買力目減りの補償を求める結果として、資金貸借で成立する名目金利は物価上昇の予想がなかったときの金利(=実質金利)より、その予想物価上昇率分だけ高まる。(以下略) 有斐閣経済辞典第5版 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html

「金融と社会」回答その1(再掲)

ご質問ありがとうございます。まず印刷教材のこの部分はすべてフローについての議論です。内閣府のペーパーにもあるように、マクロ経済学などで登場するISバランス  (S-I) + (T-G) = NX 民間貯蓄超過   政府黒字  国際収支黒字(海外赤字) を念頭に、民間貯蓄超過の大幅プラスが、政府赤字のマイナスを相殺してもなお左辺がプラス、したがって右辺もプラス(海外マイナス)、という状態です。 近年コロナで政府赤字が大幅に増加しましたが、家計貯蓄も大幅増加して、2020、21年とも左辺はプラスを維持しています。  ご質問のなかばにあるストックの話は、たとえば銀行が保有していた米国債を売った資金で、新規に発行された日本国債を購入することをイメージされているのでしょうか。それが得だと銀行が判断すればそうするでしょうが、強制することはできず自動的にそうなるわけでもありません。  最後の第一次所得収支については、書かれているとおり、たとえば利子収入はドルで得られドルのまま持たれたり再投資されたりしますが、円換算して所得収支に繰り入れられています。

「金融と社会」質問その1(再掲)

内閣府のペーパー(https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html)によると、フローで見れば、経常収支の黒字が、政府部門の赤字をファイナンスしていることになりますが、経常収支の黒字が、対外純資産としてストック面で蓄積されていると考えられます。この場合、もちろん、経常収支が赤字に基調的に転落すれば、フローで見た場合、政府部門の赤字をファイナンスするために、海外資本を呼び込む必要性に迫られ、それは今よりも高金利であることが要請されるので危険だ、という意見もあります。ここで、フローで見れば確かにそうですが、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たすことはないのでしょうか?仮に、そのような事態になった場合、具体的にどのようなスキームで、対外純資産を政府部門の赤字をファイナンスの用に供するのでしょうか?また、経常収支黒字の源泉である、企業部門の第一次所得収支についてですが、最近は、企業も資金を更なる海外投資、M&Aに投資するべく、資金を円ではなく、ドルで保有しているとされますが、それは、第一次所得収支に、円換算して勘定されているのでしょうか?(https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX)

「金融と社会」質問と回答その3(再掲)

質問 :2022年6月28日付け日経新聞朝刊に、 「家計資産、脱『預金』の兆し」と題して、 末尾に、 「いくら運用手段を充実させても、 企業の競争力が海外より劣っていれば家計の資金が海外に逃避する『キャピタルフライト』を招いて国力低下につながる。 (以下略)」 としてありましたが、 このような家計部門の海外への移転は、 経常収支の統計上どのように現れるのでしょうか? 回答 :国連にあわせて、2014年に国際収支関連統計の大幅改訂がありましたので、統計上の扱いが大きく変わりました。 それ以前は、海外の国債や株式を買うと、日本のお金が出ていくから資本収支赤字とされ、お金が逃げていく「キャピタルフライト」のイメージでした。 でも、海外の国債や株式を買うのは、今後利子配当が期待できる金融資産が増えたことを意味しますので、いまは金融収支で「黒字」とされています。 海外での資産運用は、キャピタルフライトではなく、今後の収入を保証してくれる金融収支黒字要素と扱われています。 成長する海外企業に投資するのは良いことです。

物価上昇

ちょっと明らかに物価上昇が無視しえなくなってきたね。 実質賃金が上がってないとは言え、 現実に物価が上がってる以上、 おそらく期待インフレ率も上がってるんだろうが、 いざインフレになってみると、 中央銀行(と政府)がそもそも 消費者の期待インフレ率をコントロールするなどという ウルトラC難度の技を出来るのか 甚だ疑問だが、 それはともかく、 名目金利が抑え込まれている以上、 多少リスクとってでもよりリターンを得られる資産、つまり株や外国債に投資しよう、というのは当然の成り行きだろう。 しかし、日本国内の貯蓄が、海外資産に投資されても、 統計上は経常収支上黒字として計上されるわけだから、 巨額の貿易赤字がデフォルト化した現状において、 経常収支が仮に黒字だとしても、 それで国内の民間部門の貯蓄が、実態として、政府部門の赤字をファイナンス出来ている、ということにはならない。 そうなれば、 経常収支が黒字でも、 外国資本からカネを借りないと日本国債を発行できない可能性も出てくる。 そうなれば、言わずもがな、 否が応でも日本国債の異常な高値が崩壊し、金利が急騰する、という怖ろしいシナリオも現実味を帯びてくる。 とはいえ、経常収支はフローの概念なので、経常収支でいうところの貯蓄と、 いわゆる国富としての貯蓄は違うのかもしれない。 そこは正直詰めてない。 国富は換金可能なのか不明だが、とりあえず3000兆円あると言われている。 従って、金利急騰という悲惨なシナリオを回避するには、増税は避けて通れないだろう。

「華麗なる一族」 山崎豊子 

金融の勉強の一環として読み始めました。 コンビニに行って、アマゾンカードを買ってきて、 さあ、Kindleにダウンロードして読もう、と 思ったら、 5年前に既に買っている、とアマゾンから通知された。 5年前に価値が全くわからなかったものが、 いまはとても面白く感じられる。 それにしても、 ちょっと昔の日本には、 本当に偉大な社会派小説家が、キラ星の如く輝いていた。 松本清張、城山三郎、そして、山崎豊子。 現実の経済と同じように、 今の日本の文化的現状も、 当時から比べたら惨憺たるものだが、 そう遠くない過去の遺産から学べることも、 我々に多く残されている。 ・・・だんだん面白くなってきた。 胃の痛くなるようなスリル感。 圧倒的なリアル感。 これは凄い作品だ! 銀行というのがどういうところか、とても勉強になる。 ネタバレをウィキペディアで読んじゃったけど、 ミステリー要素もあり、 これはもう凄いね。 ・・・お前らは平安貴族か!って言いたくなるくらい、 姻戚関係で政官財がガチガチに癒着してて、 身内のリスキーな投資には コネで強引に融資を取り付けるくせに、 成り上がりのスーパーマーケットのワンマン社長には、 冷酷な仕打ちをする。 この対比が見事だな、と思うけど、 ネタバレで知ってるけど、この先に待っているドラマが楽しみだ。 ・・・物凄い作品だ。 半沢直樹なんて、完全にこれのパクリだろ。 万俵大介の二人の息子、鉄平も銀平も、人間としていささかリアリティーに欠けるくらい、純粋に感じられるのだが、それと、茨城の寺の息子として生まれながら、学歴でのし上がったエリート官僚の美馬中の、ドロドロとした人間臭さの対比が物凄く効いていて、小説としてもめちゃくちゃ凄い。 ・・・凄い。天下一品のスープ並みにドロドロしてる。 それこそ、上司の命令に従って、他行との預金獲得競争のために、文字通り泥にまみれて働いた挙げ句、死ぬ銀行員の話とか。 ナニワ金融道みたいな話だけど、小説としてここまでカネとはなんぞや? カネの重み、ドロドロした部分をこれでもか!といわんばかりに描いた作品は初めて読んだ。 ゴリオ爺さんもカネ絡みの話だったけど、正直あれより凄い。

少年老い易く学成り難し

大相撲中継見てて思ったけど、 デブのおっさんと思ってたお相撲さんが、 ほとんど全員自分より年下なんだからね。 歳取るってこわいわ。 いつか僕らもおとなになり老けてゆく make you free 永久にあおく yeah!

美人投票

https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=61511?site=nli なかなか含蓄が深い。 これも、単純に選択肢の中からチョイスをする、ということが、 モノの選択である以上に、コトの選択である、 つまり、価値判断の表明である好例だろう。 当然、美人投票の例においては、「美人」の基準が個人の価値判断に基づいており、多様だからだ。 しかも、単に美人投票をするだけでなく、 投票をする人どうしが、そもそも「美人」とはどういう性質のものであるか、議論をし始めたら、 もっとややこしい話になるだろう。 こんなパラドックスを考えついたケインズはやはり偉人だ。 しかも、リンクの中では、近似解を得るために、 投票の対象を「美人」ではなく、数字に置き換えてしまっているが、 これは、ケインズの意図を換骨奪胎してしまっている。 牽強付会だが、ふたたび新日本風土記の話に引き寄せると、 無料紹介所のお兄さんと客は、実はとんでもなく複雑なゲームをしている、ということになりはしないだろうか? 昔の人が偉いな、と思うのは、実は数理的にめちゃくちゃ複雑なことでも、 普通のひとにわかるように言葉で説明してたことだよね。 昨今の日本の風潮だと、わからないのはお前の頭が悪いせいだ、と言わんばかりだからね。 研究者が数理モデルを使うのは当然だが、 社会科学者って、複雑な数理モデルがわかんない人にも、自分の主張をわかってもらえるように、言葉で説明する必要があると思うんだよね。 それをしないで、俺の考えてることは複雑過ぎてお前にはわからない、というのは、社会科学をやる人間としては傲慢でしかない。

日銀金融政策決定会合

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220721/k10013729041000.html これは、日銀の政策が失敗であり、そして黒田総裁は無能だった、と自ら表明しているようなものではないか? 安定的でないとはいえ、物価上昇率2%目標は達成されているのに、賃金は上がっていない、と自ら認めている。 そして、ちょっと金利を上げたくらいでは円安を阻止できない、 しかも、金利を上げすぎると、経済が大混乱する。 これはもう、大規模金融緩和は失敗でした、と自ら認めているのと同じだろう。 しかも、その失敗した政策を、今後も続けていく、という。 これは、私はバカです、と言っているようなものだ。

徳倫理学への回帰、またその現代的意味としての<活動>

https://www.chuo-u.ac.jp/research/institutes/science/center/ 自分としては、情報技術でも代替できないような人間の生存可能領域の条件を確保したいのに、こんな研究されたらたまらんな。 価値判断は人工知能にはできない、と書いたが、価値判断ができないで、ただただマジョリティーに追随しているだけの人間も少なからずいるだろう。 とはいえ、それもある種の価値判断だというパラドックスもあるだろうが。 あるいは、人間の価値判断のモデルを人工知能にパターン学習させて、人間っぽく価値判断をしてるフリをさせることも出来るだろう。 それでは、人間の人間たる理由はなんなのか? それは、”善さ(good)”とは何か?ということだろう。 以前、あるニュースで、人工知能に”善さ(good)”とは何か?と繰り返し聞いたら、人工知能が怒り出した、という。 昨今、公共哲学界隈では、古代ギリシャに遡る徳倫理学が復権しつつあるそうだが、上述したような状況も無関係ではないだろう。 徳倫理学の代表選手はアリストテレスだが、日本人に馴染みのあるのは、その祖先と言ってもいい、ソクラテスを想像すればいいだろう。 モノの消費とコトの消費の対比でも考えたが、単純に選択肢の中から何かを選ぶ、ということと、それがどういう思想信条の表明であるか、というのは、次元の違う話なのではないか? つまり、単純にどういう結果を選択したか、というより、その結果を選択した根拠が再び問われる事態が起こっていると言ってよいだろう。 しかし、単に選択肢の中からチョイスをするということが、その人の思想信条の表明と全く無関係ということがあり得るだろうか? (以下森本先生からのフィードバックより) 〈私が選ぶ〉という行為は、私の志向と他者の志向を突き合わせ、つまりはコミットしようとする対話性を内包している、ということですね。 小林くんのご論のマクラに、モノ的発想とコト的発想の対比もありましたが、まさに人はパンのみにて生くるものにあらずーー他者との関係性の上に展開するストーリー(人生の物語)抜きに生きるということはあり得ない…。 ふと気付いたが、森本先生のコメントにある、 〈私が選ぶ〉という行為は、私の志向と他者の志向を突き合わせ、つまりはコミットしようとする対話性を...

少数派の声は無意味か?

社会的決定理論で学んだことだが、 自分には以下のことを数理的に証明する能力はないんだが、 少数派が声を挙げることは、必ずしも無意味ではない。 核兵器廃絶を訴えることも、無意味ではないし、 左派が、戦争放棄を訴えることも、無意味ではないし、 イジメをしているグループの中で、 ひとりでも、ただ何も言わず去ることだけですら、 イジメを止める、という結果を導くこともあり得る。 少数派が勇気を持って声を挙げることが、現実を変える可能性は、決して荒唐無稽ではない根拠で、正当化されうる。 自分としては、れいわ新選組の経済政策は全く支持できないが、 重度障害者を2人 国会に送り込んだことは、 社会の障害者に対する見方を変えた可能性もある。

「『きめ方』の論理」ー社会的決定理論への招待 佐伯胖 ちくま学芸文庫

社会科学をやってる人間には、必読の書なんじゃないかな。 数学的に難しいことも書いてあるけど、 文章で分かりやすく解説してくれてるし。 変に頭にハチマキして考えなくても、 自然と社会的決定理論の世界に入っていける。 しかも、その見返りとして得られるものも大きい。 かなり昔に書かれたことがうかがえるが、 いま読んでも全く価値が色褪せない。 コンフリクトが起こったとき、 話し合えばいい、とか、投票で決まったんだからそれでいいじゃないか、 という程度で済ませてしまっている人には、 特に強く一読を勧めたい。

新日本風土記にことよせて

大阪の道頓堀界隈を取り上げてるんだけど、 夜の和菓子屋ってのが出てきて、 キャバクラやら飲み屋の 無料紹介所のお兄さんが 和菓子 買いに来てたりするんだけど、 ふと、 飲み屋のほうが、 ウェブサイトにQRコードかなんか載っけて、 これをスマホで読み取ってくれたら 割引するサービスなんか始めたら、 どうなるんだろう? なぜそうしないんだろう? というのが不思議になった。 今だに 無料紹介所というのが 存在する経済合理性がわからない。 食べログみたいに、スマホで情報集めて、 オススメの店をランキングしたら、土地勘のない人間にとっても便利だろう。 でも、色気のない話だが、 そんな経済合理性を追求したら、 無料紹介所のお兄さんも職を失うし、 その結果もしかしたら 夜の和菓子屋も潰れるかもしれない。 しかし、 そういう「経済合理性」を 追求したのが、 新自由主義であり、グローバリゼーションではなかったのか? それの行き着いた先が、現代社会だろう。 なぜ大阪の道頓堀界隈では、キャバクラや飲み屋を無料で紹介する業者が生き延びているのか、といえば、 そういうサービスはモノの消費というより、コトの消費だから、というのが暫定的な答えだろう。 つまり、単に飲食をする、ということは、モノの消費であり、 食べログでも処理できるが、 ある種の社交場で接待を受ける、というのは、コトの消費であり、 場合によっては思想信条の表明でもあるから、 現在のアルゴリズムでは簡単には処理できないからかもしれない。 そもそも、人工知能は、新井紀子さんによれば、 四則演算の計算をしているだけであり、決してそれ以上のものではない。 つまり、価値判断は出来ない。 人間のモノの消費の選択に対して、最適解を提供することは出来るが、 価値判断を伴うようなコトの消費の選択肢を提示することは出来ない、と暫定的に結論づけておく。 ところで、コトの消費、言い換えればある種の価値観の選択を全く抜きにしたモノの消費、 ということ自体が、むしろ少ないのではないだろうか? ストーリー性を全く抜きにした単純なモノの消費ならば、 テレビなど広告媒体で流すコマーシャルは、 これほどメッセージ性に溢れる必然性は全くないはずだ。 単純なモノの消費しか許さない社会は、 おそらく共産主義社会ぐらいのものだろう。...

核心 (抜書き)

社会的決定理論は従来、人々のモノの選択から社会のモノの選択をひき出す方式ばかりを考え、最適なモノをどう選ぶかに苦労してきた。しかし、これは大変な勘違いだったと言わざるを得ない。

モノの選択からコトの選択へ (抜書き)

選択行動を発する当の本人でさえ、自分が選んだのはモノではなく、背後のコトだということを意識しているとはかぎらない。経済学者たちに「xとyのうちいずれを選ぶか」と問われたとき、「わたしはそのモノがほしい」ということで選んでしまったが、本当は「わたしがそのモノをもつ」というコトの意味を十分考えるべきだったと後悔するかもしれない。本人でさえも、背後にあるコトの選択は無意識に行ってしまうのだから、社会が人々の選択したモノから、人々の背後にある選択されたコトを抽出するのは容易ではない。たとえ選択行動は同一でも、選んだ人にはいろいろな「思惑」があり、それを、行動が一致しているということから、社会が「万人は同意見だ」とするのは明らかにおかしい。わたしたちが本当に選んだり、訴えたり、要求したりしているコトは、訴えている一つの事例の中で要求している内容の即時的満足ではないのである。 わたしたちは選ぶという行為を通して、自分が正しいと思うコトや、自分が良いと思うコトを、他人の正しいと思っているコトや、良いと思っているコトとつきあわせてみようとしているのである。

貧乏性? (抜書き)

どうしてこんなことになってしまうかといえば、人々の選択動機の中に「相手より低い利得になりたくない」という意識がはたらいているからであろう。その動機が「自らの利得を少しでも多くしたい」という動機よりも強くはたらいているため、最悪事態に陥ってしまうのである。 考えてみると、わたしたちはいつも「他人がどれだけ得をしたか」を気にしており、それとの比較で自分の損・得を評価しているように思える。万人が貧乏だった戦時中はとりたてて貧困感はなかったが、戦後になって、貧富の差がはげしくなると、痛切に貧困感を感じるようなものである。

「『きめ方』の論理」 佐伯胖 ちくま学芸文庫 より抜書き

ひとりの良心的個人自由主義者は、社会の他の人々や自分自身に賦与された各種の自由裁量権を監視しており、パレート最適性が盲目的に適用されて、個人の自由の尊厳を侵す可能性が生じないかを見ている。そして、ひとたびそのような可能性が見えたときは、彼は自らの私的意見の公表をひかえるという手段に訴えて、パレート伝染病の発生をくいとめるのである。 パレート伝染病が猛威をふるうのは、全員一致という状況が偶然生じたときだけである。したがって、ひとりでも「一ぬけた」という人がいれば、思いもよらぬところへパレート性が波及することをくいとめることができるのである。そして、この良心的個人自由主義者は、そのような無差別のパレート性の適用が他の人や自分の「自由」を侵害しそうなときに、そのような意見をさしひかえて、「参加」を拒むのである。

「こころ」夏目漱石

放送大学の2学期の面接授業で 「こころ」を題材に 日本文学における近代性とは何か? を探る、というのがあるんだが、 自分の考えでは、 「こころ」は、 入念に準備された実験室で、 わずかな人間のエゴが 登場人物全員を不幸にする、 という 一種の実験小説のような気がする。 あたかも 化学の実験のように 人間関係の動きをシミュレーションする、というのは、 ある意味ゲーテ的でもあるような気がするが、 ちょっとガチガチの決定論に陥っている印象が否めない。 夏目漱石の意図としては、 人間のエゴそれ自体を糾弾したかったというより、 飽くまで そういう実験小説を書きたかったのではないか、という気もする。 未完の遺作「明暗」は、 もっと 登場人物の意図せざる発言や、 エゴや、 その他 偶然に支配されたより現実生活に近い 構成になっている感がある。

新日本風土記

大阪の道頓堀界隈を取り上げてるんだけど、 夜の和菓子屋ってのが出てきて、 キャバクラやら飲み屋の 無料紹介所のお兄さんが 和菓子 買いに来てたりするんだけど、 ふと、 飲み屋のほうが、 ウェブサイトにQRコードかなんか載っけて、 これをスマホで読み取ってくれたら 割引するサービスなんか始めたら、 どうなるんだろう? なぜそうしないんだろう? というのが不思議になった。 今だに 無料紹介所というのが 存在する経済合理性がわからない。 食べログみたいに、スマホで情報集めて、 オススメの店をランキングしたら、土地勘のない人間にとっても便利だろう。 でも、色気のない話だが、 そんな経済合理性を追求したら、 無料紹介所のお兄さんも職を失うし、 その結果もしかしたら 夜の和菓子屋も潰れるかもしれない。 しかし、 そういう「経済合理性」を 追求したのが、 新自由主義であり、グローバリゼーションではなかったのか? それの行き着いた先が、現代社会だろう。

素人考え

日銀が採っているイールドカーブコントロール政策は、金利を長いスパンに渡ってフラットに抑え込もうという政策だと考えられるが、遠い先の未来の金利までコントロールしようなどというのは、本質的におこがましい考え方と言えないだろうか。 日銀が、今後も長い間金利が低いままですよ、と企業に期待を持たせるという効果があるならば、有益な政策かもしれないが、そうは言ってもいつ金利が上がるか?と疑心暗鬼に陥らせるようになってしまったとしたら、有益どころか、危険で有害な政策ではないだろうか。

反・決定論

私はここまで、決定論という見方は過去の確定性・決定性を全時間へと誤って適用してしまった一種の錯覚だ、論じてきた。しかるに実は、この「過去の確定性」という出発点をなす捉え方自体、厳密には申し立て難いのである。「過去」という概念自体に関わる、超一級の哲学的困難が存在するからである。ほかでもない、「過去」は過ぎ去っており、いまはないので、本当に確定しているかどうか確かめようがなく、不確実であって、よって過去それ自体もまた偶然性によって浸潤されてゆくという、このことである。 「 確率と曖昧性の哲学」p.114 一ノ瀬正樹 岩波書店 私は、そもそも「決定論」という概念それ自体、字義通りに受け取った場合、意味をなさないナンセンスな主張だと考えている。私が決定論を斥ける根拠ははっきりしている。決定論とは、平均的に言って、「すべては因果的に決定されている」とする考え方であると言ってよいであろう。しかるに、「すべては」という以上、未来に生じる事象も含めて丸ごと「決定されている」と言いたいはずである。しかし、生身の身体を持つ私たち人間が、一体どんな資格で、未来の事象すべてについて、そのありようを断言できるというのか。私には、そのように断言できると述べる人たちの心境が到底理解できない。こうした理解不能の断定を含意する限り、「決定論」を受け入れることは哲学的良心に反する、と私は思うのである。ここにはおそらく、過去の事象がすでに「確定/決定されてしまった」という過去理解(これは、おおむねは健全だと言える)から、すべてが「決定されている」という無時制的な主張へと、不注意かつ無自覚的にジャンプしてしまうという事態が潜んでいるのではなかろうか。 「確率と曖昧性の哲学」p.257~258 一ノ瀬正樹 岩波書店

暗い時代の人々

ヒロミが、軽い更年期障害を患ってて、収録中に汗をかいてしまう、とか言ってて、 同年代が亡くなったりする話を聞くと、 死について考えたりする、って 言うんだけど、 彼は アウトドアが好きで、 バイクとかにも乗ったりするんだけど、 あ、ここでスピード出し過ぎたら死ぬな、 とか、 そういうことを感じることで、 逆に生きてるリアルな感覚を覚えるらしい。 自分は働いてないし、 時間も自由に使える暮らしをしてるけど、 やっぱりまともな社会人として 日々仕事に追われる生活してると、 生きてるリアルな感覚を感じられなくなっちゃうってのは、わかる気がする。 経済合理性はもちろん大事だし、 経済の知識なく現代社会を生きるのは 地図を持たずに航海をするようなものだと思うけど、 それがすべてじゃない。 人工知能だって決して万能じゃない。 世間では、情報技術とそれの前提となる 理系教育の重要性が喧しく言われるけど、 昨今の、 ひろゆき氏がいうところの「無敵の人」 による凶悪犯罪を見てると、 こういう暗い世の中で希望になりうるのは、 文学なんじゃないか? と思ったりする。 そこで安易に問題発見・問題解決 なんていう薄っぺらい言葉は 使いたくない。

圧巻

放送大学「社会と産業の倫理」の第5回 山岡龍一先生による「政治学と倫理」は、 いい人が善良に政治を行うのが正しい、と 考える人にも、 その逆に 政治に倫理観念なんか持ち込まずに、 リアリズムに徹するのが正しい、と 考える人にも、 是非聴いて欲しい内容です。

これはマジで読む価値ある

母親がテレビを見ていて、 たまたま新井紀子さんという方が 出演されていて、 人工知能について 興味深い発言を されていたので、 Kindleで 氏の本をダウンロードして 読んでみました。 めちゃくちゃ有益でした。 いかに我々が 人工知能とはなんぞや? に無知で、 わけも分からず 過剰に 怖れているか、を 痛感させられました。 タイトルは 「AI vs 教科書が読めない子どもたち」 ですが、 最初の6割は人工知能について 書かれています。 残りはまだ読んでません。 しかし、 この本は 文系理系問わず、 人工知能を正しく怖れる、 という意味で、 これ以上ない本です。 マジでオススメです!

ドーマー条件

プライマリーバランス(基礎的財政収支)が均衡している下では、名目金利よりも名目GDP成長率が高ければ公債残高の対GDP比が少しずつ低下するため財政破綻は起こらないという定理のこと。 「ドーマーの条件」は財政破綻が起こらないための十分条件の1つであり、同じようなものに「ボーンの条件」が挙げられる。 プライマリーバランスが均衡していることが大前提で、しかも名目GDP成長率が名目金利を上回って始めて財政破綻が起こらない、ということだから、仮にプライマリーバランス均衡を達成したとしても、簡単に利上げなんか出来ないってことですね。 徒に国の借金を積み重ねることのツケがいかに大きいか、自分で自分の首を締める結果になっているか、と痛感しますね。

メモ

住宅ローンの固定金利は上昇しているようですが、 変動金利は逆に下落しているそうですね。 詳しくはリンク(https://news.yahoo.co.jp/articles/09cda78c85dcfe3dd4d25e1058a01ebccd96772a)を参照していただくとして、 ふと、 銀行が横並びで 住宅ローンの変動金利を下げるのは、 家電量販店が、 昔よく行っていた、 他店よりも1円でも安く販売します、 という キャンペーンが、 実は 果てしない安値競争に陥るよりもむしろ、 かえって 価格カルテルを形成するのと同じ理屈、 というか、現象だな、と 感じました。 この手法は 日本では法に抵触することはありませんが、 アメリカでは 法的に問題になるそうです。 この話は 茨城大学で行われた 応用ミクロ経済学の授業で 聴いた話ですが、 結構いい話が聞けたな、 と思います。

単位認定試験

6科目すべて受験し終えた。 疲れた。 在宅受験なので、 内容については一切ここでは書けないけど。 ・・・試験期間終わったから、ちょっと書き足し。 やっぱり在宅受験ということもあり、 通信指導も、本番の試験も、難しかった。 ビミョーな択一より、記述のほうがかえって楽だね。 記述にしても、語句指定があったりする場合、 出題者の意図を読まないと書けないから、 実はお題を与えられて自由に書くより難しい。 「中東の政治」は、 お題を見て、ウッ!と思って、 引き出しに溜めてあった新聞記事の切り抜きの中から中東情勢に関するものを選んで、 さらにお題に関係のあるものをピックアップして、 要約して書いた。 時間との闘いで、書き終わったら残り4分とかで、 久々に焦った。 出題者の高橋和夫先生も、新聞の切り抜きだってことは 読めばわかるんだろうけど、 そこは寛大に 単位くれ! 「中東の政治」は、やはり取っておきたい。 気持ち的に。 あとは、 「英語で読む大統領演説」も取っておきたいけど、 感触として、最低でも単位は取れてると思う。 他の科目は、確実といえるほどの出来じゃなかったな。

投機筋はどのようにして儲けるのか?その2

質問 : 円キャリートレードというのがよくわからないのですが、 日米金利差で円安ドル高が進行するなか、 ドルを持っている人が、 円を買って、 より安くて金利の高い海外通貨で稼ぐ、 という意味なら、 わからなくもないですが、 それだったら最初からドルで円より安くて金利の高い通貨を買えばいいと思われますし、 円キャリートレードとは一体なんなのかよくわからないのですが。 旧民主党政権の時にもそういうことがありましたね。 回答 : インターネット上にたくさん情報はありますが、 どれも文章説明だけで、 図を使った解説がないようなので分かりにくいのかもしれません。 この取引のスタートは現在 「①低金利の円を借りる」です。 それを「②ドルに替え」て 「③高金利のドル資産で運用する」。 そして将来「④稼いだドルを円に戻し」て、 「⑤借りていた円を返済する」 で完了です。 この取引が活発に起きるのは、 まず①(⑤)と③を左右する日米金利差です。 現在米国で運用した方が有利で、今後も金利差は広がると「予想」されます。 もうひとつは②と④で、 現在円安なので円をドルに替えることは損に思えます。 しかし将来もっと円安になると「予想」すれば、 ④で円に戻したとき、 多くの円に替えることができます。

投機筋はどのようにして儲けるのか?その1

質問 :2022年6月23日の日経新聞朝刊に、 「円安、国債の売りと連鎖 海外投機筋 日銀の動き見透かす」と題した記事がありました。 自分なりに簡単にまとめると、 金利差拡大による円安⇛ (海外投機筋が)円売りを仕掛ける⇛ 輸入物価高騰によるインフレ⇛インフレ抑制のために、 日銀が金融緩和修正⇛ 金融緩和修正による日本国債価格の低下を見越して、 (海外投機筋が)日本国債売りを仕掛ける⇛ 日銀が日本国債を買い支える⇛ 金利差拡大による円安(最初に戻る) ということになるかと思うのですが、 投機筋は、円売りと日本国債売りを仕掛けることによって、 どのようにして利益を得るのでしょうか? 日本経済の安定性にとって極めて危険でありつつも、 印刷教材の第15章で説かれていたような、 日本政府・日銀の矛盾点を突いているのは理解できるのですが。 回答 :国債だけに話をしぼると、 空売りを仕掛けているとみるのがよいでしょう。 今は日銀が国債を買い支えており、 国債価格は高く(金利は低く)維持されています。 しかしいずれ日銀も政策転換し、 国債価格の低下(金利上昇)を容認するようになるかもしれません。 そちらに賭けた投機筋は、 今国債が高いうちに売って、 将来安くなってから買い戻すことによって、 その差額が利益となることを期待します。

黄色信号

円安が進んでますね。 イエレンさんが、投機的な動きがある、と発言していました。 つまり、投機筋が、 円売りを仕掛ている。 なぜ円売りを仕掛ているかというと、 自国通貨が売られて通貨安になれば、 常識的には、中央銀行は、利上げをして自国通貨高に誘導しようとする。 日本に当てはめると、 日銀がイールドカーブコントロールという、馬鹿げた政策によって、 中央銀行は本来、短期金利しかコントロールできないとされているのに、 長期国債を無制限に買い入れて、 無理やり長期金利を抑え込んでいる。 つまり、日本国債の価格が異常に高い。 (裏を返せば、日本国債の利回りが異常に低い。) 投機筋は、円を売れば、 日銀は過度な円安を修正するために、 政策金利を上げざるを得ないと読んでいる。 それだけでなく、投機筋は、 日本国債売りも同時に仕掛けています。 そうすると、日銀は、金利上昇抑制のために、日本国債買い入れを余儀なくされる。 そうすると、市場に円が供給されるので、 結果、円安がますます進行する、という悪循環に陥っています。 まあ、はっきり言って自業自得としか言いようがないですが、 政府・日銀は、 日本国債を買い入れつつ、外貨準備を使って円買い介入をする、という 矛盾したことやろうとしています。 なぜ矛盾しているかというと、 国際金融のトリレンマに従えば、 「資本移動の自由」 「為替の安定」 「金融政策の独立性」 の3つは、同時にすべてを達成することは出来ないからです。 資本移動の自由は犠牲にすることは出来ません。 従って、 為替の安定と金融政策の独立性のどちらかを犠牲にせざるを得ないわけですが、 金融政策の独立性を保持するとすれば、 外貨準備を使って為替介入しなければ、 自国通貨は安定しないのです。 日銀・政府は、 大規模金融緩和を継続する一方で、為替介入をする、という”矛盾した”政策を行っているわけです。 投機筋もこれは完全に計算のうえでやっていますが、 問題は、結局のところ 日銀がどこまで無謀な大規模金融緩和を続けるか、ということです。 大規模金融緩和を続ける限り、 日銀のバランスシートに日本国債がたまり続けるだけで、 金利は上がりませんから、 今までは一般人も痛みを感じなかったので、 非難...

美しい

https://www.youtube.com/watch?v=4yWxNCGT1Ss 清宮こんな綺麗なホームラン打てるんだ。 単純に鈍足で守備も下手な中距離バッターだと思ってた。 ごめん。 清宮を覚醒させた新庄監督は凄い。 栗山より全然有能でしょ。 あとは吉田輝星が覚醒したところ見たい。

アンチ合理主義

民法に馴染めなかった最大の要因かもしれないけど、 なんとなく物心ついた頃から、 人間の私生活を法律で割り切る ってのが、 しっくりこないと感じていた気がする。 完全に合理的な社会なんて、ディストピア だと今でも思ってるし、 ましてや 完全な法律があれば完全に合理的な社会が 実現するなどというのは、 大真面目なギャグでしかないと思っている。 そんなことを信じている人は、 少数派だろう。 どんなに理不尽と感じることがあっても、 いきなり法律に訴えて、 解決できる、という感覚は、 少なくとも 日本人では少数派だろう。 もちろん、私法が整備されていない社会なんて、 怖くて住めないだろうが。 かといって、 人間の私生活上の問題すべてが 法律で解決される、などというのは、 滑稽な考えとしか思えない。 つまり、 こういうアンチ合理主義的な自分が 民法を習得するには、 現代日本社会が民法を必要とし、 それを基盤として成り立っている社会だ、 ということを 認識し、 その歴史的経緯まで勉強した上でないと、 民法を 受け付けない、 という厄介な問題があった。 そうすると、やはり明治維新以後の日本史を 勉強する必要があった、ということになる。 もっとも、これはトーマス・マン「魔の山」に 出てくる、 楽天的合理主義者であるロドヴィコ・セテムブリーニ と ゴシック的中世主義者のレオ・ナフタの対立に 現れるような、根の深い問題なのかもしれないが。 結局、合理主義に傾き過ぎるのも危険だし、 その逆もまた然り、ということなんだろう。

Quite helpful.

民法って、 自分で専門書とか買って読んでみても、 まず総則、物権、債権、債権各論、家族法、相続と分かれてることが普通で、 通しで一冊書かれた本がそもそも相対的に少ないうえに、 色んな学説が載ってるうえに、判例はこうです、 みたいに書いてあって、 結局なんなの?っていうのが全く見えてこない。 かといって、資格試験対策の本は、 よく出るトピックを網羅はしているものの、 隙間を埋める理論がないために、 単なる暗記に堕している。 従って、自分で民法的に考えるなんてのは、夢のまた夢、ということが往々にしてある。 今回の武川先生の民法の授業は、 武川先生がすべての回を一人で担当されているし、 もちろん大学の教員として専門的な知識と理論に 裏打ちされた、 しかも圧倒的にわかりやすい講義編成で、 本当に助かりました。 いくらネットで調べればわかる、という時代でも、 専門用語の正確な理解と、理論がなければ、 書いてあることが全くわからないも同然だから、 民法に関わることを自分で調べられるようになった というのは大きい。

民法

12時間でめちゃくちゃ頭よくなった。 夜中の12時半に起きて、 ふと、 放送大学の民法の授業を 聞いてみようと思って、 聞き始めたら、 めちゃくちゃ面白くて、 全15回のうち10回を聞いてしまった。 ラジオ講義だから、 映像がないぶん、 あまり疲れない。 慶應義塾大学法学部の武川幸嗣先生の 流れるような 素晴らしい講義に聞き惚れているうちに、 あれよあれよと言う間に、 民法の知識が身についた。 もちろん、 実際問題身につまされる話も多いし、 かといって、 実利だけでなく、理論としても一貫した 魅力的な講義でした。 長らく民法はわかんねーと思ってたけど、 ついに攻略した。 もっとも、中大通教で5年もやってれば、 全く知識がないわけじゃないけど、 なかなか 理論として一貫して解説した 出版物や講義に出会うことは少なかった。 この放送大学の民法の講義は、 これだけでも、十分お金を払う価値がある。

びっくり

放送大学の来学期の面接授業の予定が、もうウェブにアップされてるよ。 まだ単位認定試験も始まってもいないのに。 いつもまだかなまだかな~とやきもきするから、ありがたいけど。 でも、色々と予算やらなんやらで制約があるから、当然好き放題行けるわけじゃないけど。 またコロナの再流行で、そもそも近場しか行けなくなるって可能性も十分あるし、 来学期授業が始まるまでに、日銀が海外投機筋からの国債売りに 耐えられているかどうかも、かなりアヤシイし。 ほんと、コロナは、確実と思われてた未来が、 いかに不安定なものか、という側面を 顕にしたよね。

襟裳岬

いじけることだけが 生きることだと 飼い慣らしすぎたので 身構えながら 話すなんて ああ 臆病なんだよね 襟裳の春は なにもない 春です

スマホ

新しい通信機器手に入れて思ったけど、 これはコミュニケーションのあり方を変えるんじゃないかな? あんまり熟考してメッセージ送る暇がない。 こっちが黙っていると、 相手がどんどんメッセージを送ってきてしまうで、 自然と、 こちらも早いテンポでメッセージを送信しなければならなくなる。 ネットで 過激な発言や誹謗中傷が氾濫するのも、無理からぬことで、 特に若い人からすれば、 自分が投稿する内容を、時間をかけて吟味、精査したりする というコミュニケーションのあり方にそもそも 慣れていないんじゃないか。 大人もそうで、 早いテンポのコミュニケーションに さらされると、 なんか時代は新しくなった、と感じるし、 変な高揚感を覚えるけど、 行き着く先はどこなのか? 結局プラットフォーマーに情報を利用されているだけなのではないか? ベンヤミンが「倫理的摩滅」と 嘆いたように、 徒に、 過去にしがみつくのは違うと思うが、 技術が進歩した先の社会において、 どのような公共的理性が有り得るのか? を考えるのは、 決して意味のないことではないだろう。

やべーなー

日銀が債務超過になったら、 円が暴落する可能性があるのはもちろんのこと、 日本株のETF買いもやってるから、 日本株の投げ売りも起こるんじゃないか? 全く、とんでもないことやってくれたよ。 そうでなくても、 日本はこれから本格的に 人口オーナス期に 入るっていうのに。 お先真っ暗じゃねーか。

日本には野球がある

西武の平沼翔太がスタメン1番サード。 嬉しい。 今までスタメンでも下位だったけど、ついに西武の1番スタメンに名を連ねた。 もう、なんか勝手に年の離れた弟みたいに思ってるもん。

青空文庫

FARCE に就て 坂口安吾  芸術の最高形式はファルスである、なぞと、勿体振つて逆説を述べたいわけでは無論ないが、然し私は、悲劇トラヂエヂイや喜劇コメディよりも同等以下に低い精神から道化ファルスが生み出されるものとは考へてゐない。然し一般には、笑ひは泪より内容の低いものとせられ、当今は、喜劇コメディといふものが泪の裏打ちによつてのみ危く抹殺を免かれてゐる位ひであるから、道化ファルスの如き代物しろものは、芸術の埒外へ、投げ捨てられてゐるのが普通である。と言つて、それだからと言つて、私は別に義憤を感じて爰ここに立ち上つた英雄ナポレオンでは決して無く、私の所論が受け容れられる容れられないに拘泥なく、一人白熱して熱狂しやうとする――つまり之が、即ち拙者のファルス精神でありますが、  ところで―― (まづ前もつて白状することには、私は浅学で、此の一文を草するに当つても、何一つとして先人の手に成つた権威ある文献を渉猟してはゐないため、一般の定説や、将又はたまたファルスの発生なぞといふことに就て一言半句の差出口を加へることさへ不可能であり、従而したがって、最も誤魔化しの利く論法を用ひてやらうと心を砕いた次第であるが――この言草を、又、ファルス精神の然らしめる所であらうと善意に解釈下されば、拙者は感激のあまり動悸が止まつて卒倒するかも知れないのですが――)  扨さて、それ故私は、この出鱈目な一文を草するに当つても、敢て世論を向ふに廻して、「ファルスといへども芸術である」なぞと肩を張ることを最も謙遜に差し控え、さればとて、「だから悲劇のみ芸術である」なぞと言はれるのも聊いささか心外であるために、先づ、何の躊躇ためらう所もなく此の厄介な「芸術」の二文字を語彙の中から抹殺して(アア、清々した!)、悲劇も喜劇も道化も、なべて一様に芝居と見做し、之を創る「精神」にのみ観点を置き、あわせて、之を享受せらるるところの、清浄にして白紙の如く、普あまねく寛大な読者の「精神」にのみ呼びかけやうとするものである。  次に又、この一文に於て、私は、決して問題を劇のみに限るものではなく、文学全般にわたつての道化に就て語りたいために、(そして私は、言葉の厳密な定義を知らないので、暫く私流に言はして頂くためにも――)、仮りに、悲劇、喜劇、道化に各次のやうな内容を与へたいと思ふ。A、悲劇とは大方の真面目な...

数学ぎらい

永野裕之さんという方の数学1・Aの本をキンドルで買って、ちょっと面白そうだし、キンドルだと読みにくいから、新書をアマゾンで注文して、届くの待ってる。 この手の本はさんざん試してきて、結局たいして得るところがなかったけど、今度ばかりは期待できるかも知れない。 高校数学って、高1で対偶とか背理法あたりから、もうモヤモヤしてきて、早くもついていけなくなる。 でも、そういうモヤモヤを持つのは、実はまともな知性を持っていることの証左であることも、分かってきた。 こっちとしては、めちゃくちゃ頑張って高校受験して入ってきてるから、わからないのはこっちの頭が悪いからだ、と思い込んでた。 予備校でもそういう肝心なことは教えてくれなかったから、結局どの学校でも同じなんだろうけど、まず、対偶と元の命題の真偽がなぜ一致するかの証明は、実はそんなに簡単ではないこと、 背理法もそんなに無敵の論法ではないし、 しかも、入試問題は、背理法の弱点が露呈しないように、入念に作られてる、とか。 そういうことを先に教えて欲しかった。 武蔵は、学問の自由とか言いながら、 肝心なことは教えてくれないし、 しかも、 ほこりっぽいアカデミズム、言い換えれば、 学問的権威主義の空気が横溢していて、 そういうところはほんとにイヤだった。 ただ、そういう権威主義に対するカウンターカルチャーというか、 真面目くさった合理主義に対するアンチテーゼとしての 道化を演じる精神は根付いていたし、 学校側も、そういうところはかなり懐は深かった。 自分が武蔵を辞めずに済んだのは、 一緒に道化を演じてくれる友人や、 学校側の懐の深さによるものだと思う。 慶応SFCは ガチガチの合理主義者ばかりの純粋ファシスト養成機関で、 道化の哀しさなんか理解できるやつは ほとんどいなかった。

知らんがな

ケータイようやく繋がった。 Wi-Fi先に接続しないと、何も出来なかった。 知らねーよ。 どこがかんたんスマホなんだよ。 それはともかく、ガラホが突然死んだから、 電話帳すべて消えた。 イチから情報収集しないと。

漱石論コレクション1再掲

確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、 明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

近代日本の炭鉱夫と国策レポート再掲

今回の授業を受けて、 改めて民主主義の大切さを痛感しました。 現在でも、 中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、 また、 上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、 民主主義、 そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、 人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、 日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。   ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、 すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、 というテーゼを考えたとき、 現在の中国は 民主主義を犠牲にしている と言えるでしょう。 この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、 明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、 日清・日露戦争を経て、 対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、 まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。 日本国民は、そのような時代のなかで、 藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、 農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、 近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。 そして、 国民的自己決定という側面から見れば、 政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、 国民の民意というものは、 次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。 しかし、 「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、 国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、 図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。 これは現在の中国を補助線として考えると、 グローバリゼーションに対応しながら 国民的自己決定を達成するには、 国をまさに富国強兵のスローガンの下で一致団結させる必要があり、 そこでは多様な民意というものを反映することは困難であり、 したがって表現の自由が抑圧され、 民主主義は達成できない、 と考えられます。 戦前の日本に照らして考えると、 前近代の村社会が 国家組織の末端に組み入れられ、 その中で炭...

日本経済は末期的

日銀は国債買い支えに必死。 ETF購入もやってる。 しかも、政府の円買い介入も囁かれているらしい。 こんなん完全に統制経済じゃん。 こんな馬鹿げた政策、 続けられてるうちはいいが 当局が白旗揚げたら、 とんでもないことになる。 金利も株も為替さえも、 市場の実態を反映していない、 という 異常事態。

もうええわ。

回線が切り替わったのかどうかよくわからないが、 新機種の操作方法の問題なのかなんなのか、 電話のかけ方がわかんねーんだよ。 かんたんスマホなのに。 パソコン使えれば 別に ケータイ繋がんなくても とりあえず困んないから、 しばらくええわ。

生きられる社会

だいたいやりたいことやり尽くして ふと自分の人生を振り返るとき どうしても 合理的な筋書き というものを作りたくなるのは自然のサガなんだけど、 あんまり合理的、 言い換えれば 理性的な筋書きを 仕立てなくても いいんじゃないか。 どこかに不合理な部分を 残しておいたほうが、 かえって健全なんじゃないか。 人間も社会も。 井上俊が 「詐欺が成り立ち得ないところでは、社会もまた成り立ち得ない。」(遊びの社会学) と言ったように、 社会も、どこかに余白を残しておいたほうが、 かえって 健全なんじゃないか。 赤塚不二夫のレレレのおじさんのように、 おそらく知的障害を 持っているような おじさんが 朝っぱらから ホウキで道を 掃除していても、 いいのではないか。 日本の山岳信仰で 男根に似た 巨石を崇める という風習は よく見られるが、 あれはただの巨石だ、 と、 自然界をアレゴリーで 捉える考え方を排除したのが 近代という時代の精神だった。 それはどことなく 地中海の怪物たちを 狡知で倒していく オデュッセウスに 繋がるようにも 見られる。 それは紛れもなく 理性の暴力性 という アドルノが 主題とした テーマである。 理性が 近代的個人の立脚点 でありながらも、 その限界に焦点を当てている。 ハイデガーは、 個人が共同現存在のまどろみから覚醒して、 ドイツ民族としての使命に目覚めなければならない、 と説いたわけであるが、 それが、 かつての神聖ローマ帝国という誇張を含んだ憧憬の土地を回復する、 というドイツ民族の「使命」を掲げるナチスのプロパガンダと共鳴してしまった。 アドルノは、 そもそもの共同現存在からの個人としての覚醒が、 集団的暴走と親和性があったことを念頭に置きながらも、 集団に埋没しない理性的な個人としての人間を提示した。 理性の暴力性に警鐘を鳴らしながらも、 主体性の原史に既に刻印されている理性から逃れる道は、 再び集団的暴走への道であると考えた。 計算的理性が近代的個人を産み出した源泉であるとしても、 理性から逃走し、 始源のまどろみへと回帰することはなお危険であると説いたのである。 もっとも、 アドルノが主観と客...

いかんなー。

なんか、午前1時過ぎた頃からエンジンかかる体質になっちゃったなー。 最近は、午前2時過ぎとか3時に寝ても、朝8時くらいにスキッと起きられるようになったけど。 体質的に夜型朝型ってのは、生まれつきもあるらしいけどね。 でも、昼にまた寝る。 まさに働かないおじさん。

なぜ貨幣供給量を増やすと物価があがるのか?  貨幣数量説(再掲)

完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は古典派経済学の発想なので、完全雇用は常に達成されていると想定されているので、物価は貨幣量と貨幣の流通速度で決まる。 従って、貨幣量を増加させれば、物価は上がる。 「貨幣の所得流通速度が一定不変で,かつ伸縮的な価格メカニズムの作用により実質産出量(実質国民所得)の水準が長期の均衡値に一致するならば,貨幣数量の変化は国民所得の大きさや構成にはなんら影響を与えず,ただ物価水準を比例的に変化させると主張する説。」有斐閣経済辞典第4版

風にのこした過去の冷めた愛の言葉

どんなに心で愛していても、 もうあまり心を動かされるということがなくなってきた。 当然、見てくれで魅了されるということも、 ほとんど無くなりつつある。 もっとも、これは年齢によるものなんだろう。 女がなんだ? 世界の半分は女じゃねーか。

めちゃくちゃフラストレーション溜まる

今朝スマホが届いたのはいいが、よりによってこんな時にauが大規模通信障害起こして、 そのせいなのか知らんが、いつまで経っても回線が切り替わんねー。 朝からやってんのに。 こんなにフラストレーション溜まるのは久しぶりだぜ。

噂の女

女ごころの かなしさなんて わかりゃしないわ 世間のひとに よしてよしてよ なぐさめなんか 嘘となみだの しみついた どうせ あたしは 噂の女

カノジョ論

女性と付き合ったことがない俺が言えた義理じゃないんだが、 いわゆるカノジョという存在について、 不思議に思うことがある。 仮に、ある男Aがある女Bと付き合ったとする。 毎日は会えないにしても、数日に一度は会うだろう。 メールやら電話やらは日にしょっちゅうやるだろう。 ところで、彼らは、散々コミュニケーションを取ったあとで、分かりあえたと思った結果、 付き合い始めたのだろうか? それとも、付き合ってから、散々コミュニケーションを取ったあとで、分かり合うのだろうか? もし後者ならば、付き合ってみても、既に分かり合ってるわけではないだろうから、 コミュニケーションを取るのは結構な勇気が要るだろうし、従って、ある程度は面倒くさいはずだ。 それが、付き合っているからには何でも話し合える、というのは、幻想なのではないか? もし、そういう幻想を抱えたまま、頻繁にコミュニケーションを取り合っているとしたら、 それは、カレシ、カノジョ、という社会的ロールプレイングを演じているだけなのではないか? そういうイメージは、連ドラとか漫画とかで、マスコミや文化産業によって作られたイメージを演じているだけなのではないだろうか? そうでなかったら、よく知り合ってもいない女としょっちゅう連絡を取り合うなど、俺にとっては面倒臭いだけだ。 ほら、もうこの男めんどくさい、意味わかんない、ってなってる。

CONVERSATION IN ENGLISH

俺:Finland and Sweden have entered NATO. The mass media is warning this is the second cold war. But I think it’s not. Russia is not going beyond aggressing Ukraine. Putin doesn’t look like launching missiles into the Western Europe or the US. He doesn’t have the intention to fight the US. China is much more gigantic than Russia in both economic and military scale. But, albeit supposing China is aiming at the world's strongest country, I don’t believe it can create a globally peaceful regime. If there were to be pax-China, there would be no more benefits than the economy. It would cost too much to maintain it. China is just seeking an economic scale which is required to keep its people politically silent. ジョンさん:President Eisenhower (a great man) warned the world about the “military-industrial complex” in 1960. NATO exists and expands today as an example of this. With the Warsaw Pact defunct, it serves no useful purpose nowadays except to further the aims of the military-industrial ...

復学

SFCに復学して、会計の授業の初回の授業の前に座っている時に、新入生が、しつこく何回生ですか?何回生ですか?って聞いてきて、 て・め・え! 俺がどんな苦労してここに座ってると思ってんだコラァ!!! って言ってやりたかったね。 適当にごまかしたけど。 病気になったこと敢えて周知してたし、 相当後ろ指さされてたと思うけど、 よくまあ単位取ったね。 卒業は出来なかったけど。

大原

病院から出てきて、数ヶ月、食う時とウンコする時以外はひたすら寝る生活して、 これじゃいかんと思って、 教習所通ってなんとか自動車免許取って、 次に、大宮の大原に通い始めて、 国家2種(地方上級)コースの授業を受けてたんだけど、 内容は、法律、経済学、数的処理とかだった。 そこで、経済学って面白いな、もっとちゃんと勉強したいな、と思ったのが、 SFCに復学しようと思ったきっかけだった。 ところで、ネットで財務官僚をバカにするやつが掃いて捨てるほどいるが、 国家2種の数的処理でもまったくついていけなかった俺としては、 国家1種で、しかも財務省なんて、現人神レベルなのに、 財務官僚を馬鹿にしてるやつの神経が理解できない。 どうせ周りが財務官僚をバカにしてるからネットで騒いでるだけなんだろうが、 そうやって周りに流されてるだけの自分の愚かさに気づくことすらしない テメーらは、所詮大馬鹿野郎なんだよ。

テカガミスト

気付いたら法律よりも経済学のほうが詳しくなってたけど、大学受験のときに、経済学部志望では決してなかったな。 まだインターネットとか普及してなかった時代だから、テレビで見るだけだったけど、 経済学者、あるいはその当時の流行りの言葉で言えば、エコノミスト と呼ばれる人たちの、いかにもテキトーなノリが、不愉快だったのは記憶にある。 今でも、ネットで活躍してる自称経済評論家なんて、デタラメなのがいくらでもいるし。 英語がいくら出来ても、数学が絶望的にできないと、 センターで足切りされるから国立大学受けられなくて、 自動的に私立文系になるんだけど、 さらに、小論文が書けないと、自動的に慶応は無理だし、 私大文系といえども、看板学部は社会がクイズに近いので、数学で受けたほうが圧倒的に有利だから、 自動的に早稲田の社会科学部とか明青立法中に限られてくる。 結局ギリギリ、というか、ほとんど試験当日に小論文書けるようになったから、 SFC受かったわけだけど。 数学できない文系で、英語と社会はマストだけど、 2浪もして小論文書けないって、さみしいよね。 一応慶応ってことで、体面は保ったかたちにはなったけど、ほんとにギリギリだった。 病気になった直後とかは、自分は無理して慶応なんていう身分不相応のところに入ったのが間違いだった、 と、しばらくコンプレックスの塊だった。 なんで小論文が書けなかったかというと、二十歳になるまで本なんて馬鹿にして読まなかったんだけど、 本も読まないで小論文なんか書けるはずがない、ということに気づかなかった。 駿台の小論文の講座で、お題を出されて、書いては消し書いては消しをしているところを見て、 講師が、言葉が揺れてるね、 と言ったのが、本を読もうとするきっかけになった気がする。 とりあえず山崎正和の「不機嫌の時代」を読んで、 受験の前にトーマス・マンの「魔の山」を読んだ記憶がある。 どちらも、自分が言葉に出来ないモヤモヤした部分を突いていた、と言えば大げさなんだけど、 心に刺さるものがあった。 そもそも数学が出来ないのが問題なんだが、 2年も浪人して、自分で勉強してセンター試験レベルの問題も解けるようにならない時点で、 数学に向いてなかったんだと思う。 武蔵の教育がどうとかじゃなくて。