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坂口安吾 三十歳

勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。  たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。  人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。  けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。 https://www.youtube.com/watch?v=DwyV3N9_704

「華麗なる一族」 山崎豊子 

金融の勉強の一環として読み始めました。 コンビニに行って、アマゾンカードを買ってきて、 さあ、Kindleにダウンロードして読もう、と 思ったら、 5年前に既に買っている、とアマゾンから通知された。 5年前に価値が全くわからなかったものが、 いまはとても面白く感じられる。 それにしても、 ちょっと昔の日本には、 本当に偉大な社会派小説家が、キラ星の如く輝いていた。 松本清張、城山三郎、そして、山崎豊子。 現実の経済と同じように、 今の日本の文化的現状も、 当時から比べたら惨憺たるものだが、 そう遠くない過去の遺産から学べることも、 我々に多く残されている。 ・・・だんだん面白くなってきた。 胃の痛くなるようなスリル感。 圧倒的なリアル感。 これは凄い作品だ! 銀行というのがどういうところか、とても勉強になる。 ネタバレをウィキペディアで読んじゃったけど、 ミステリー要素もあり、 これはもう凄いね。 ・・・お前らは平安貴族か!って言いたくなるくらい、 姻戚関係で政官財がガチガチに癒着してて、 身内のリスキーな投資には コネで強引に融資を取り付けるくせに、 成り上がりのスーパーマーケットのワンマン社長には、 冷酷な仕打ちをする。 この対比が見事だな、と思うけど、 ネタバレで知ってるけど、この先に待っているドラマが楽しみだ。 ・・・物凄い作品だ。 半沢直樹なんて、完全にこれのパクリだろ。 万俵大介の二人の息子、鉄平も銀平も、人間としていささかリアリティーに欠けるくらい、純粋に感じられるのだが、それと、茨城の寺の息子として生まれながら、学歴でのし上がったエリート官僚の美馬中の、ドロドロとした人間臭さの対比が物凄く効いていて、小説としてもめちゃくちゃ凄い。 ・・・凄い。天下一品のスープ並みにドロドロしてる。 それこそ、上司の命令に従って、他行との預金獲得競争のために、文字通り泥にまみれて働いた挙げ句、死ぬ銀行員の話とか。 ナニワ金融道みたいな話だけど、小説としてここまでカネとはなんぞや? カネの重み、ドロドロした部分をこれでもか!といわんばかりに描いた作品は初めて読んだ。 ゴリオ爺さんもカネ絡みの話だったけど、正直あれより凄い。

圧巻

放送大学「社会と産業の倫理」の第5回 山岡龍一先生による「政治学と倫理」は、 いい人が善良に政治を行うのが正しい、と 考える人にも、 その逆に 政治に倫理観念なんか持ち込まずに、 リアリズムに徹するのが正しい、と 考える人にも、 是非聴いて欲しい内容です。

ドーマー条件

プライマリーバランス(基礎的財政収支)が均衡している下では、名目金利よりも名目GDP成長率が高ければ公債残高の対GDP比が少しずつ低下するため財政破綻は起こらないという定理のこと。 「ドーマーの条件」は財政破綻が起こらないための十分条件の1つであり、同じようなものに「ボーンの条件」が挙げられる。 プライマリーバランスが均衡していることが大前提で、しかも名目GDP成長率が名目金利を上回って始めて財政破綻が起こらない、ということだから、仮にプライマリーバランス均衡を達成したとしても、簡単に利上げなんか出来ないってことですね。 徒に国の借金を積み重ねることのツケがいかに大きいか、自分で自分の首を締める結果になっているか、と痛感しますね。

投機筋はどのようにして儲けるのか?その2

質問 : 円キャリートレードというのがよくわからないのですが、 日米金利差で円安ドル高が進行するなか、 ドルを持っている人が、 円を買って、 より安くて金利の高い海外通貨で稼ぐ、 という意味なら、 わからなくもないですが、 それだったら最初からドルで円より安くて金利の高い通貨を買えばいいと思われますし、 円キャリートレードとは一体なんなのかよくわからないのですが。 旧民主党政権の時にもそういうことがありましたね。 回答 : インターネット上にたくさん情報はありますが、 どれも文章説明だけで、 図を使った解説がないようなので分かりにくいのかもしれません。 この取引のスタートは現在 「①低金利の円を借りる」です。 それを「②ドルに替え」て 「③高金利のドル資産で運用する」。 そして将来「④稼いだドルを円に戻し」て、 「⑤借りていた円を返済する」 で完了です。 この取引が活発に起きるのは、 まず①(⑤)と③を左右する日米金利差です。 現在米国で運用した方が有利で、今後も金利差は広がると「予想」されます。 もうひとつは②と④で、 現在円安なので円をドルに替えることは損に思えます。 しかし将来もっと円安になると「予想」すれば、 ④で円に戻したとき、 多くの円に替えることができます。

投機筋はどのようにして儲けるのか?その1

質問 :2022年6月23日の日経新聞朝刊に、 「円安、国債の売りと連鎖 海外投機筋 日銀の動き見透かす」と題した記事がありました。 自分なりに簡単にまとめると、 金利差拡大による円安⇛ (海外投機筋が)円売りを仕掛ける⇛ 輸入物価高騰によるインフレ⇛インフレ抑制のために、 日銀が金融緩和修正⇛ 金融緩和修正による日本国債価格の低下を見越して、 (海外投機筋が)日本国債売りを仕掛ける⇛ 日銀が日本国債を買い支える⇛ 金利差拡大による円安(最初に戻る) ということになるかと思うのですが、 投機筋は、円売りと日本国債売りを仕掛けることによって、 どのようにして利益を得るのでしょうか? 日本経済の安定性にとって極めて危険でありつつも、 印刷教材の第15章で説かれていたような、 日本政府・日銀の矛盾点を突いているのは理解できるのですが。 回答 :国債だけに話をしぼると、 空売りを仕掛けているとみるのがよいでしょう。 今は日銀が国債を買い支えており、 国債価格は高く(金利は低く)維持されています。 しかしいずれ日銀も政策転換し、 国債価格の低下(金利上昇)を容認するようになるかもしれません。 そちらに賭けた投機筋は、 今国債が高いうちに売って、 将来安くなってから買い戻すことによって、 その差額が利益となることを期待します。

黄色信号

円安が進んでますね。 イエレンさんが、投機的な動きがある、と発言していました。 つまり、投機筋が、 円売りを仕掛ている。 なぜ円売りを仕掛ているかというと、 自国通貨が売られて通貨安になれば、 常識的には、中央銀行は、利上げをして自国通貨高に誘導しようとする。 日本に当てはめると、 日銀がイールドカーブコントロールという、馬鹿げた政策によって、 中央銀行は本来、短期金利しかコントロールできないとされているのに、 長期国債を無制限に買い入れて、 無理やり長期金利を抑え込んでいる。 つまり、日本国債の価格が異常に高い。 (裏を返せば、日本国債の利回りが異常に低い。) 投機筋は、円を売れば、 日銀は過度な円安を修正するために、 政策金利を上げざるを得ないと読んでいる。 それだけでなく、投機筋は、 日本国債売りも同時に仕掛けています。 そうすると、日銀は、金利上昇抑制のために、日本国債買い入れを余儀なくされる。 そうすると、市場に円が供給されるので、 結果、円安がますます進行する、という悪循環に陥っています。 まあ、はっきり言って自業自得としか言いようがないですが、 政府・日銀は、 日本国債を買い入れつつ、外貨準備を使って円買い介入をする、という 矛盾したことやろうとしています。 なぜ矛盾しているかというと、 国際金融のトリレンマに従えば、 「資本移動の自由」 「為替の安定」 「金融政策の独立性」 の3つは、同時にすべてを達成することは出来ないからです。 資本移動の自由は犠牲にすることは出来ません。 従って、 為替の安定と金融政策の独立性のどちらかを犠牲にせざるを得ないわけですが、 金融政策の独立性を保持するとすれば、 外貨準備を使って為替介入しなければ、 自国通貨は安定しないのです。 日銀・政府は、 大規模金融緩和を継続する一方で、為替介入をする、という”矛盾した”政策を行っているわけです。 投機筋もこれは完全に計算のうえでやっていますが、 問題は、結局のところ 日銀がどこまで無謀な大規模金融緩和を続けるか、ということです。 大規模金融緩和を続ける限り、 日銀のバランスシートに日本国債がたまり続けるだけで、 金利は上がりませんから、 今までは一般人も痛みを感じなかったので、 非難...

青空文庫

FARCE に就て 坂口安吾  芸術の最高形式はファルスである、なぞと、勿体振つて逆説を述べたいわけでは無論ないが、然し私は、悲劇トラヂエヂイや喜劇コメディよりも同等以下に低い精神から道化ファルスが生み出されるものとは考へてゐない。然し一般には、笑ひは泪より内容の低いものとせられ、当今は、喜劇コメディといふものが泪の裏打ちによつてのみ危く抹殺を免かれてゐる位ひであるから、道化ファルスの如き代物しろものは、芸術の埒外へ、投げ捨てられてゐるのが普通である。と言つて、それだからと言つて、私は別に義憤を感じて爰ここに立ち上つた英雄ナポレオンでは決して無く、私の所論が受け容れられる容れられないに拘泥なく、一人白熱して熱狂しやうとする――つまり之が、即ち拙者のファルス精神でありますが、  ところで―― (まづ前もつて白状することには、私は浅学で、此の一文を草するに当つても、何一つとして先人の手に成つた権威ある文献を渉猟してはゐないため、一般の定説や、将又はたまたファルスの発生なぞといふことに就て一言半句の差出口を加へることさへ不可能であり、従而したがって、最も誤魔化しの利く論法を用ひてやらうと心を砕いた次第であるが――この言草を、又、ファルス精神の然らしめる所であらうと善意に解釈下されば、拙者は感激のあまり動悸が止まつて卒倒するかも知れないのですが――)  扨さて、それ故私は、この出鱈目な一文を草するに当つても、敢て世論を向ふに廻して、「ファルスといへども芸術である」なぞと肩を張ることを最も謙遜に差し控え、さればとて、「だから悲劇のみ芸術である」なぞと言はれるのも聊いささか心外であるために、先づ、何の躊躇ためらう所もなく此の厄介な「芸術」の二文字を語彙の中から抹殺して(アア、清々した!)、悲劇も喜劇も道化も、なべて一様に芝居と見做し、之を創る「精神」にのみ観点を置き、あわせて、之を享受せらるるところの、清浄にして白紙の如く、普あまねく寛大な読者の「精神」にのみ呼びかけやうとするものである。  次に又、この一文に於て、私は、決して問題を劇のみに限るものではなく、文学全般にわたつての道化に就て語りたいために、(そして私は、言葉の厳密な定義を知らないので、暫く私流に言はして頂くためにも――)、仮りに、悲劇、喜劇、道化に各次のやうな内容を与へたいと思ふ。A、悲劇とは大方の真面目な...