2022年7月31日日曜日
メモ
スマホの記事で、櫻井よし子氏が寄稿してたけど、
安倍さんは、仲間内で話すときも、
本当にいい人で、
口汚いことは言わなかった、てんだけど、
結論から言えば、
だから、それがオトモダチ(の利益)優先政治なんじゃねーの?
仲間内でいい人ってことと、
政治家として国葬に値するほど偉大、ってことは、
およそ次元の違う話だろ。
むしろ、
政治家だったら、仲間内で群れたりせず、
孤独に耐えられるような素質がなければ、
とても務まらないはずだ。
散々えらそうなこと主張していながら、
そんなこともわからない櫻井氏は、政治評論家として根本的に駄目。
メモ
俺が病気になって、
医者のカウンセリングに通うようになって、
一番変わったのは、実はねーちゃんかもね。
怨みつらみがドロドロに溜まって、
それこそカオナシになってたから、
それを全部吐き出して、
しかも、
それが独りよがりであることを指摘されたことで、
だいぶ人間としてマシになったと思う。
あれでも。
メモ
明石家さんまがなぜ人気あるか、
自分なりに考えたけど、
やっぱり、
偉ぶったところがないし、イヤミがないよね。
あれだけ芸能界に長くいて。
それはなんでなのか、という自分の憶測だけど、
本来落語家なのに、
落語家として成功できなかった、
っていう挫折感があるからなんじゃないかな?
やっぱり、
なんでもできちゃう人ってのは、どっかでイヤミが出てくる。
アンジャッシュ渡部が勘違いしちゃってると感じたのは、
深夜番組で、
地方の隠れた名店に、こ汚いAD連れて、
ADを馬鹿にしながら、
寿司屋のカウンターで汚い言葉を使ってたあたりだったね。
やっぱ、寿司屋のカウンターで、”クソ”って言葉は、
グルメを自称する人間としては、絶対使っちゃダメだよ。
そこは、謙虚さが欠けてた。
佐々木希ほどの美女をゲットしたら、勘違いしちゃうのも仕方ないかも知れないけど。
キャパオーバー
きっと相続で揉めるだろうから、
今のうちに民法勉強しなきゃ、
と思ってたけど、
自分の脳はどうも
法律、特に民法ってのと相性が悪い。
ふと思い出したけど、
慶応入って最初のころは、
時間もあったから、
そこそこのお金出して、
伊藤塾の通信講座受講してたことを思い出した。
知り合いでも、似たようなことやってる人がいたから、
なんだかんだ勉強する気のある人が多かったのかもね。
サークル絡みでロクでもない(ように見えた)連中と付き合わざるを得なかったから、
馬鹿ばっかだと思ってたけど。
まあなんだかんだ優秀よ。
起業するなり、独自の理論を打ち立てようと試みたり。
父親には学業その他、さんざん金銭面では、疑いもなくお世話になってるし、
カネが掛かったこと自体をどうこう言われたことは一度もなかったから、
まあ感謝こそすれ、恨みは一切しないよ。
そりゃ、たまに理不尽だな、と思うこともあったけど。
ねーちゃんにしても、人生のほとんどの期間においてストレスの素でしかなかったけど、
なんとか協調路線でやってくほうが、
法律で理論武装するより、楽だよね。
このトシになって、脳と相性の悪い勉強をしてもしょうがない。
向こうは俺のこと敵認定してるかもしれないけど。
でも、義理の兄は純朴でめちゃくちゃいい人だし。
でなきゃ、ねーちゃんと所帯もつなんて出来っこない。
少なくとも、俺はねーちゃんと一つ屋根の下で暮らすのは耐えられない。
もちろんのこと、母親にも感謝。
一介の凡人でしかない俺がここまで来れたんだから、誰かを恨むのは筋違い。
感謝。感謝。
2022年7月30日土曜日
過去ログ(俺が就職の話したとき、ねーちゃんから送られてきたメール)
心配しないでください。??さんは、これを機に外の世界に一歩踏み出してください。外の世界は広くて楽しいです。知らないで終わるのは勿体ないです。私は今まで外の世界を沢山見てきました。今度は??さんの番です。思いっきり人生を楽しんで下さいね。
2022年7月29日金曜日
人工知能は人間を馬鹿にする?
世の中には、自分の頭で考える能力がなくて、
なんでも他人任せの人ってのがいるが、
そのうち、何から何までアレクサに訊いて、逐一行動するって人が、
大量発生しそうだよね。
自分の頭で考えるって、意外と難しいよね。
自分の頭で考えた結果、
人工知能に優る、とも限らないし。
自分の頭で考える、とはどういうことか、を自分の頭で考える、なんていうと、すでにもうメタの世界に入ってるし。
たださ、やっぱり自分の行動、言動に対して、最低限でも責任を負わせるってことは大事なんじゃないかな?
人工知能がそう言ったからその通りにしました、私の何が悪いんですか?
なんて言われたら、社会が崩壊しかねない。
歴史に照らして見ても、政治的権利を放棄するのって、結局権力者に自分の自己決定権を丸投げするのと同じで、
無責任の共同体が出現するだけだよね。
前の参院選で、投票用紙を破って棄てた俺が言えた義理じゃないけど。
参政党が参院で1議席獲得して、何かとネット上で耳目を集めてるけど、
反ワクチンやら陰謀論やら、
物議を醸しそうなネタ満載だけど、
飽くまで主権者の主権を擁護する限りは、
存在を否定はしない。
しかし、陰謀論に走っちゃうと、
いつの間にか主権者の主権を放棄させてる結果になるってことは、
あり得る。
それは、ナチズムが、階層構造になっていて、上に行くほど、自分はより真実に近づいている、という錯覚、快感が、階層構造それ自体を補強している、というメカニズムが働いたのと同じ。
その結果、トップは誰もが知り得ない真実を知っているはずだから、トップの言うことに従えば間違いない、という理屈で、自らの政治的主権を放棄してしまう。
その兆候が見えたら、即、断固として抗議しなければならない。
安倍政権だって、そういう側面があるんじゃないか?
我々には窺い知れないが、きっと安倍さんには安倍さんなりの深謀遠慮があるはずだ、みたいな。
政治である以上、何でもかんでもガラス張りに出来るわけがないってところが、政治の難しさでもあるが。
不透明な世の中だからこそ、安易に陰謀論に流されず、丁寧に腑分けをしていく作業が求められる。
機械翻訳
機械翻訳に、日本語を英語に翻訳させるときに、
もとの日本語の構造がしっかりしてるほど、
人間の出番がなくなる。
典型が法律文書で、
ああいう細かいところまで書き込んだ、複雑な文章は、
人間よりも機械翻訳に任せたほうがいい。
めちゃくちゃ複雑な日本語を、一瞬で処理してくれる。
もちろん、
法律に詳しい人間が事後的にチェックするのがいいにこしたことはないけど。
でも、
日本語ネイティブが、気ままに書いた文章は、
手抜きで書いているつもりでなくても、
機械翻訳にとっては、抜けが多すぎて理解できない、という側面があるようだ。
日本語のそういう性質がある限り、人間の手の介在する余地はあるのではないか?
やっぱ昔の政治家は偉いね
鈴木貫太郎は、2・26事件だったっけ?で、
瀕死の重傷を負いながら、
妻の「武士の情けです。とどめは私に刺させてください。」
という機転で、
青年将校を引き上がらせて、
辛うじて生き延びて、
終戦前最後の首相として
戦争終結まで持っていって、
終戦後は
千葉の田舎で畑仕事をして過ごしたってんだからね。
偉いもんだよ。
尊敬するわ。
亡くなって、火葬したら、頭の中から銃弾が出てきたってんだから。
ただ、
アメリカからの最後通牒に対して、「黙殺」と
回答したのに、それを、アメリカ側に「無視」と
捉えられて、
アメリカを本気にさせちゃったのは残念といえば残念だけど。
観照的生活
ちょっとここ数日、柄にもなく
神経を高ぶらせてしまったから、
疲れた。
自分は無位無官の徒で、
かえって良かった。
立場のある人間だと、
職業上の安定やら義務やらで、
あまり派手なことは言えないし、
言ったら言ったで、
キャラが立ってるってことで、
マスコミの御用学者や、おもちゃにされちゃうからね。
そんな生活はまっぴらご免だね。
猿猴捉月
https://m.facebook.com/enkopt/posts/619931148482547
unenlightened minds deluded by appearances
(悟りのない心は、外見に惑わされる。)
日本語で猿猴捉月を検索しても、
たかが猿ごときが
身の程知らず
のことをした、
という程度の意味しか出てこないのに、
英語で検索すると、
ちゃんと
もっと形而上学的なニュアンスが出てくる。
もう、ここらへんの差だよね。
2学期は法律の勉強しよ。
信用がどうとか
いろいろ書いたけど、
身内だからこそ、
我慢の限界ってもんがあるよね。
他人なら縁切れるけど。
後々のこと考えると、
ちゃんと相続のこととか勉強しとかないと。
慶大の武川先生の民法の放送授業
一通り聴けてほんと良かったわ。
これからの勉強の下地になる。
2022年7月28日木曜日
今夜も脳みそパラダイス
やたら片付けが好きなヘルパーさんがいて、
物置部屋を容赦なく整理してくれるんだけど、
つと、友達が撮ってくれた大昔の自分の写真がたくさん出てきて、
びっくりした。
え、大昔の俺って、こんなに痩せてたの?
て、我ながらびっくりした。
でも、あんまいい気がしなかった。
苦い思い出も多いし、
その時のスカした自分が、
自分でも嫌いだったから。
今は違うけどね。
・・・で、週刊新潮のネット記事を、
deepl翻訳にブチ込んで英訳して、
facebook繋がりのアメリカ人の友人に送ったら、喜んでた。
でも、
deepl翻訳にそのまんまブチ込んでも、意味の通る英語にならないのは経験上知ってるから、
もとの記事の日本語を、
英語にしやすいように手を加えて、
出来上がった英文を見て、
さらに手を加えて、式でやってみた。
これ、面白いね。
カネになるんじゃないの?
楽しかった。
2022年7月27日水曜日
まーじキモい
https://www.dailyshincho.jp/article/2022/07271132/?all=1
山上くん日本変えたな。
岸田さんも、こんな状況で強引に国葬なんてやったら、かえって墓穴だろう。
2022年7月26日火曜日
加藤くんと植松くん
2008年だっけ?
秋葉原で無差別殺傷した
加藤くんが
死刑執行されちゃったらしいね。
犯罪の量刑としては当然
なんだろうけど、
なんか哀れなやつだったな、という気もする。
39歳ってことだったから、
事件当時25歳とかそんなもんでしょ?
25歳で人生投げちゃったのかなー?
人生投げちゃうことと、
繁華街でリア充してる、かのように見える人を無差別殺傷することの
繋がりがイマイチ見えてこないんだけど、
俺は不幸だ!て思い込みすぎると、
リア充を皆殺しにしたくなるのかな?
よくわかんねーわ。
彼がもうこの世にはいないことを考えれば。
でも、なんかな、
我々も時としてそうだけど、
決めつけすぎは怖いと思うんだよね。
未来の、あるいは過去の不確定性をもっと受け入れないと、
必ずこうだ!
と決めつけ過ぎたら、
一旦人生投げちゃった人にとっては、
誰彼構わずリア充は殺してやる、なぜなら、俺の人生にはこの先なんもいいことないから!
て結論に至るのは、論理的にはある程度整合性があるんじゃないかな?
もっとさ、
社会が不確定性を受け入れて欲しいと思うのよ。
不景気だからこそ、安全牌を選びたくなるのは当然だと思うんだけど、
その傾向が強くなりすぎると、
一度失敗した人間には不幸な人生しか待ってない、
って風潮になっちゃうかもしれないけどさ、
社会に対して不満を述べたてたいなら、
今だったらYou Tubeとかあるし、
なんなら政見放送で
卑猥な発言したって、
逮捕されるわけでもないし、
あるいは、
ハードル高いけど、
ウーマン村本みたいに、
堂々と言いたいこと言う機会だって、無いわけじゃない。
あれは相当な度胸が必要だけどね。
相模原の施設で19人だっけ?
殺傷した植松くんにも言いたいけど、
なんか主張したいなら、
合法的にやればいいじゃん。
それこそネットで発信することだって出来たわけじゃん。
いかに公序良俗に違反するとしても。
自分が主張する手段として
人を殺すってのは、道理に合わない。
意思疎通の出来ない人は社会に有害だから殺すべきだ、というなら、
おそらく君が死刑になるのも、同じ理由(社会に有害だ)からではないのか?
有害にも色々な性質があるだろうが、君が社会にとって有害であるその性質が、意思疎通の出来ない障害者を生かしておくのが有害である性質よりも、より”マシ”だ、という根拠はなんだい?
戦争なんかになったら特にそうだろうが、
人間の心理的バイアスとして、
自国民の命と、敵国民の命との軽重を、
同等に扱える、というのはレアなケースではないか?
そういう意味では、
我々だって、植松くんと同じバイアスを抱えているわけだが。
だったらさ、
せめて同じ国に住んでる人間の命の軽重を、
そんなに簡単に決めつけなくたって、いいじゃないか。
つまり、加藤くんと植松くんに共通するのは、「決めつけ」であって、それは我々も同じだ、ということだ。
しかし、我々はなぜ、「決めつけ」てしまうのだろうか。
それは、そのほうが何かと都合がいいし、
宙ブラリんは気持ちが悪いからだ。
新型コロナにしても、
第1波や第2波の頃は、
何か得体の知れない人類史上最悪の病原菌がやってきた、という恐怖感に囚われていたが、
しばらくすると、
疫学的な知見や、
スペイン風邪の例を挙げて、
また、ワクチンが開発されたこともあり、
なんとなく安心しているが、
それは飽くまで事後的な一種の「こじつけ」であって、それをすることによって、
また決定論に安住してしまうのである。
東日本大震災における東電福島第一原発訴訟にしてもそうだが、
過去に遡って決定論を振り回すのは、狂気としか思えない。
坂口安吾 三十歳
勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。 たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。 人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。 けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。
https://www.youtube.com/watch?v=DwyV3N9_704
2022年7月25日月曜日
クリティカル・ヒット
父親の致命傷は、糖尿病と高血圧だった。
ちょうど同世代の定年退職するおじさん達が、
糖尿病で大量にヤバいことになり始めるころ。
医療の世界も、
糖尿病ビジネスに火がつき始め、
各種の啓発本が世に出回り始めていた。
母親が、
父親に泣いて頼んで、
頼むから病院に行ってくれ、と懇願して、
東京の糖尿病専門の病院に行くことになったんだが、
父親は、
どうせ検査だけだと言って、何百万も取るんだ!
とブチキレながら車を運転していたが、
その時助手席に座らされた俺は、
まだ精神病院から出てきて
半年も経っていない頃。
正直、なんでこの人は自分の息子にこんな酷い仕打ちをするんだろう?と思った。
もちろん、
その後治療費に掛かったカネは、数百万では済まなかったはずだ。
まあ、それぐらいの仕事人間じゃなかったら、
ごく身内だけで済ませるはずだった葬儀が、
あんなデカくなるわきゃねーわな。
母親が脳梗塞になってから半年も経ってなかったから、
自分は母親見守りで、
全部ねーちゃんに丸投げしたから、
話を聞いただけだけど。
自由からの逃走(再掲)
自由ってのは、政治哲学とか、カントの自由論とか、そういう話だと思っていたが、個々人のメンタリティーの問題でもあるらしい。 もちろん、エーリッヒ・フロムのように、ナチズムにおけるサド=マゾ関係を論じた著作もあるが、それにしても、やはり個人のメンタリティーと、それに接続する政治思想というのはある。 あるいは、丸山眞男のように、天皇制のもとで、自ら隷属状態に陥ろうとする人々の心性を論じた学者もいる。 我々は今、自由主義体制にあって、もちろん経済的な問題で、自由に生きられない人はいくらでもいる。 しかし、経済的問題に縛られていなくても、精神的隷属状態に自発的に入り込む人がいる。 ある系、それは家族でもいい、そういう系の中に、自分をはめ込んで、聖なる奴隷として生きる以外の生き方を知らない人がいる。 かといって、そういう系から全く自由な人があり得るか、と言えば、これもまた難問ではある。 そもそも、構造主義というのは、人間は、「構造」の中でしか存在しえないことを論じた思想だ。 現に、我々は、「国家」というフィクションの中で生きている。 社会契約論であれ、ヘーゲル主義であれ、天皇崇拝であれ、フィクションを、真実である「かのように」信じることでしか、我々は「国家」を前提として生きることはできない。 その「虚構性」が覆い隠されているのは、国家というフィクションが、単に概念上のものであるとしても、現実には、それに基づいて、強制力が我々に発動される、あるいは逆に、国家の成員であるということで、身分保障などの恩恵を受けられるからである。 しかし、だからといって、国家がなければ我々は自由か、というと、決してそうではない。 第一次大戦後のドイツのように、巨額の賠償金とハイパーインフレによって、国家の信用が崩れ、そのフィクション性が露骨に現れるようになると、国家社会主義労働者政党が現れ、没落した中流階級プロテスタンティズム的マゾヒズムと、ナチスのサディズムが、共犯関係を構築し、人々が進んでその「構造」に囚われるようになった、というのは、エーリッヒ・フロムが指摘したことである。 日本においても、丸山眞男が論じたように、天皇制のもとで、統治心性とフーコーが名付けたような、被統治的概念が、現実の制度に反映され、概念と制度、人々の心性が、相互に補完し合い、統治を強化し合う、という現象が起こる。 丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。 しかしながら天皇制が近代日本の思想的「機軸」として負った役割は単にいわゆる國體観念の教化と浸透という面に尽くされるのではない。それは政治構造としても、また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。(・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、それが制度自体と制度にたいする人々の考え方をどのように規定しているか、という、いわば日本国家の認識論的構造にある。 これに関し、仲正昌樹は「日本の思想講義」(作品社)において、つぎのように述べている。 「國體」が融通無碍だという言い方をすると、観念的なもののように聞こえるが、そうではなく、その観念に対応するように、「経済・交通・教育・文化」の各領域における「制度」も徐々に形成されていった。「國體」観念をはっきり教義化しないので、制度との対応関係も最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、目に見える効果をあげるようになった。ということだ。 後期のフーコー(1926-84)に、「統治性」という概念がある。統治のための機構や制度が、人々に具体的行動を取るよう指示したり、禁止したりするだけでなく、そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、それを当たり前のことにしていく作用を意味する。人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用) こういうと、現代の我々は、そういう支配関係にいないから自由であるか?といえば、必ずしもそうとは言えない。 家族という、社会を構成する最もミクロな系においてすら、自ら進んで隷属状態に陥ろうとする心性が、存在する。 あるいはしかし、フィクションとしての家族関係があるにせよ、特に資本主義というシステムの中で、我々が矯正されている、という側面もある。 家族が、資本主義化された社会野全体の部分集合になっていて、社会的な諸人物のイメージが「父―母―子」の三角形に還元される、ということですね。「還元(縮小)される se rabattre」という所がミソです。資本主義社会全体が三者関係によって表象されるわけではなく、その一部だけが家族の中で二次的表象を作り出すわけです。家族は、資本主義機械によって植民地化されているわけで、「父」や「母」は資本主義機械の一部を代理して、「私」を躾け、飼いならすわけです。 「父―母」を「消費する consommer」というのは、家族の中で父や母によって子供としての私の欲望が充足される、ということでしょう。恐らく、社会機械と繋がっている人間の欲望の発展の方向性は元来かなり多様なはずなのだけど、核家族の中で育てられると、それはかなり限定的なものになっていく、ということでしょう。小さい私はもっぱらパパやママから与えられるものを消費する受動的な存在にすぎません。大人になって、「社長―指導者―神父・・・」等の職に就いたら、消費するだけでなくて、自らも生産活動に携わるようになるので、社会体に対して能動的に働きかけ、自己の欲望の回路を拡大できるようになるかと言えば、そうはいかない。子供の時に教えられたように消費しようとする。それが、エディプス三角形の中での「去勢」でしょう。 ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義 p.300~301 作品社 仲正昌樹
昭和のおとこ
自分が高校受験に邁進してた1年間は、
ちょうど父親が地方に単身赴任してて、
だからこそ、高校受験にあれほど
時間とカネをつぎ込めたんだろうけど、
父親が
東京に戻ってきて、
後楽園に近い社宅で
4人で暮らしていた頃は、
つまんなかった。
最寄り駅は飯田橋で、
地下鉄有楽町線で
新桜台まで直通で、
武蔵まで行けたんだが、
当時は西武線に直通する本数が少なくて、
結構遅刻もした。
新桜台という駅は地下の駅で、
名前はおしゃれだが、
ほこりっぽくて無機質で、
まったくテンションのあがらない駅だった。
父親も、
会社が合併したために全くテリトリーの違う土壌に乗り込んだが、
うまく馴染めず、かなり精神的にも堪えたらしい。
そのせいか、
東京の社宅にいた頃は、
夜食事をするにも、
家族団欒であるはずの場が、父親にとっては、単純にタダで酒が飲めて接待もしてもらえるクラブと化していた。
父親も、そういう形以外での家族との接し方がわからなかったんだろう。
俺も、そのころだんだんと気持ちが塞いで、頭もボンヤリするようになっていった。
恥ずかしい思いで
武蔵入ったばかりの頃、地学の教師が、東北大出身と聞いて、え、ビミョー・・・
って思っちゃったんだよね。
ほんと調子乗ってたわ。
下手に高校受験でうまく行きすぎて。
全部塾のおかげなのに。
頑張ればふつうに東大行けると思ってたんだね。
ほんとイケ好かない高校生だったわ。
ま、早い段階で挫折を経験しておくのも大事だよね。
大王製紙の坊っちゃんみたいに、
筑駒東大で優越意識の塊だったのに、
賭博にハマって損失の穴埋めに会社のカネ100億円使っちゃったのに、
いまさらあれは陰謀だ、とか騒ぐのも、みっともないからね。
製造業のグローバル化と賃金の低下(再掲)
1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社
https://jp.reuters.com/article/column-kazuo-momma-idJPKBN2FB0CH
バラッサ・サムエルソン仮説(再掲)
消費バスケットを構成する貿易可能財では、国際貿易を通じた裁定取引により国際的な一物一価が生じる一方、サービスなどの非貿易可能財では国際的な裁定取引が行われない。日本での非貿易可能財価格は国内の生産投入費用、特に実質賃金により決定される。 貿易可能財産業で高い労働生産性の伸び率を達成した高所得国は、その高い労働の限界生産性から国内実質賃金がすべての国内産業で高い。高所得国の非貿易可能財価格は低所得国より高くなり、同所得国の実質為替レートは増価する。 日経新聞「経済教室」2022/1/26 より https://imidas.jp/genre/detail/A-109-0085.html
https://jp.reuters.com/article/column-kazuo-momma-idJPKBN2FB0CH
2022年7月24日日曜日
NHK党
NHKを目の敵にしておきながら、
選挙のときに、新聞で候補者を載せながら、
ロゴがNHKの丸パクリってのは、詐欺だろ?
頭のボケた人には、
ああ、NHKなんだ、じゃあ投票しよう、てなりかねない。
しかも、その結果当選したのがガーシー。
政治犯でもないのに、
逮捕されるのが怖いから
本国に帰ってこれない、なんて、論外だろ。
こんなやつ政治家にしてる時点で、
日本は平和ボケだぜ。
正味の話。
冷静に考えてもひどいね。
昨日の「満天 青空レストラン」にゲスト出演したコンビは、ひどかったね。
調べたけど、20年芸人やっててあれは、もうヤバい。
グルメ番組っていう趣旨を全く理解できてない。
とにかく、先輩芸人であるレギュラー出演の宮川大輔に対する態度が、あまりにも失礼だった。
清潔感もゼロ。
それほど売れてるわけでもなく、
芸風だのキャラだのを理解していない視聴者にとっては、
単純に食欲なんか一瞬で吹っ飛ばす不愉快な振る舞いでしかなかった。
それを20年芸人やって理解できないのが終わってる。
キャスティングするほうもセンスなさすぎ。
番組のイメージそのものをブチ壊してる。
関東さんには理解できまへん。
「華麗なる一族」は神戸を舞台とした物語だけど、
大阪とか神戸の上流階級ってのは、
すげー世界だな。
自分も面接授業で
何回か
神戸大学まで行かせてもらって、
寝坊したとき
東横インからタクシー使ったこともあるけど、
運転手さんから
六麓荘という超高級住宅街の話とか、
神戸ご出身の森本先生から
メールで事情をうかがったこともあるけど、
格差がヤバい。
ほんとに、文字通り
丘の上と下の世界。
山上容疑者が安倍ちゃん撃ったのが格差だなんていうなら、
神戸の高台の高級住宅街なんて、
いつ貧民に焼き討ちされてもおかしくないんじゃないか?
なんて、不謹慎な考えまで浮かんでくる。
阪神タイガースはタニマチが選手を甘やかすから弱い、なんて
まことしやかに言われるけど、
東京ドームで試合が終わったあと、
いかついデコレーションの効いたユニ着たまんま
水道橋駅に向かう阪神ファンとか見て、
よく恥ずかしくないな、と思ってたけど、
ちょっと納得。
つらつら思うこと
「華麗なる一族」はまだ上巻の半分も読んでいないが、
ほんとに金融の勉強になる。
結局、
金融危機というのは、
需要と供給のミスマッチによって
起こるのではないだろうか?
それは、読み進めながらおいおい考えるとして、
現代のグローバル化した金融のはらむ問題点、
つまり、リーマンショックのような危機は、
なぜ起こったのだろうか?
リーマンショックは、別名サブプライムローン・ショックとも呼ばれたが、
その名の通り、
低所得者層向けの住宅ローンを、ずさんな審査で通し、
それを各種の度合いのリスクを内包する債権とカクテルした挙げ句、
世界中に撒き散らしたことが、あのような結果になったとされる。
あの時よく言われたのが、
誰もリスクを正しく評価できていない債券が、
世界規模に出回っていた、という。
しかし、
そもそもそういう事態を招いたのは、
個人の信用力を数値化して、完全に計量可能だという前提だった。
それはまさしく、市場型間接金融の為せる技だったと言えるだろう。
人工知能と金融が結びついた、いわゆるフィンテックが発達すれば、
銀行の与信業務は、人工知能にとって代わられると言われているが、
おそらく
また地球規模の金融危機は起こるだろう。
それは、
社会と信用、という、根深い問題が横たわっているからだ。
ケインズが美人投票のパラドックスを持ち出して批判したかったことは、
科学技術が人間社会を完全にコントロールできる、などというのは、
傲慢でしかない、
ということではないだろうか。
2022年7月23日土曜日
貨幣数量説(再掲)
完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は古典派経済学の発想なので、完全雇用は常に達成されていると想定されているので、物価は貨幣量と貨幣の流通速度で決まる。 従って、貨幣量を増加させれば、物価は上がる。 「貨幣の所得流通速度が一定不変で,かつ伸縮的な価格メカニズムの作用により実質産出量(実質国民所得)の水準が長期の均衡値に一致するならば,貨幣数量の変化は国民所得の大きさや構成にはなんら影響を与えず,ただ物価水準を比例的に変化させると主張する説。」有斐閣経済辞典第4版
旬報社(再掲)
もし、日銀が目的としている2%の物価上昇が実現した場合、国債の発行金利が2%以上になるか、利回りが最低でも2%以上になるまで市場価格が下がります。なぜなら、実質金利(名目利子率-期待インフレ率)がマイナスの(つまり保有していると損をする)金融商品を買う投資家はいないからです。国債(10年物)の利回りは0.1%程度(2018年11月現在)ですが、それが2.1%に上昇した場合、何が起こるでしょうか。政府の国債発行コストが跳ね上がるのはもちろんですが、より重要なことは、国債価格が暴落し、国債を大量に保有している銀行に莫大な評価損が出ることです。 経済の論点 旬報社 72ページより
フィッシャー効果(再掲)
物価上昇の予想が金利を上昇させるという効果で、フィッシャーが最初にそれを指摘したところからフィッシャー効果と呼ばれる。 ある率で物価の上昇が予想されるようになると、貸手が貸金に生じる購買力目減りの補償を求める結果として、資金貸借で成立する名目金利は物価上昇の予想がなかったときの金利(=実質金利)より、その予想物価上昇率分だけ高まる。(以下略) 有斐閣経済辞典第5版 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html
「金融と社会」回答その1(再掲)
ご質問ありがとうございます。まず印刷教材のこの部分はすべてフローについての議論です。内閣府のペーパーにもあるように、マクロ経済学などで登場するISバランス (S-I) + (T-G) = NX 民間貯蓄超過 政府黒字 国際収支黒字(海外赤字) を念頭に、民間貯蓄超過の大幅プラスが、政府赤字のマイナスを相殺してもなお左辺がプラス、したがって右辺もプラス(海外マイナス)、という状態です。 近年コロナで政府赤字が大幅に増加しましたが、家計貯蓄も大幅増加して、2020、21年とも左辺はプラスを維持しています。 ご質問のなかばにあるストックの話は、たとえば銀行が保有していた米国債を売った資金で、新規に発行された日本国債を購入することをイメージされているのでしょうか。それが得だと銀行が判断すればそうするでしょうが、強制することはできず自動的にそうなるわけでもありません。 最後の第一次所得収支については、書かれているとおり、たとえば利子収入はドルで得られドルのまま持たれたり再投資されたりしますが、円換算して所得収支に繰り入れられています。
「金融と社会」質問その1(再掲)
内閣府のペーパー(https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html)によると、フローで見れば、経常収支の黒字が、政府部門の赤字をファイナンスしていることになりますが、経常収支の黒字が、対外純資産としてストック面で蓄積されていると考えられます。この場合、もちろん、経常収支が赤字に基調的に転落すれば、フローで見た場合、政府部門の赤字をファイナンスするために、海外資本を呼び込む必要性に迫られ、それは今よりも高金利であることが要請されるので危険だ、という意見もあります。ここで、フローで見れば確かにそうですが、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たすことはないのでしょうか?仮に、そのような事態になった場合、具体的にどのようなスキームで、対外純資産を政府部門の赤字をファイナンスの用に供するのでしょうか?また、経常収支黒字の源泉である、企業部門の第一次所得収支についてですが、最近は、企業も資金を更なる海外投資、M&Aに投資するべく、資金を円ではなく、ドルで保有しているとされますが、それは、第一次所得収支に、円換算して勘定されているのでしょうか?(https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX)
「金融と社会」質問と回答その3(再掲)
質問:2022年6月28日付け日経新聞朝刊に、 「家計資産、脱『預金』の兆し」と題して、 末尾に、 「いくら運用手段を充実させても、 企業の競争力が海外より劣っていれば家計の資金が海外に逃避する『キャピタルフライト』を招いて国力低下につながる。 (以下略)」 としてありましたが、 このような家計部門の海外への移転は、 経常収支の統計上どのように現れるのでしょうか? 回答:国連にあわせて、2014年に国際収支関連統計の大幅改訂がありましたので、統計上の扱いが大きく変わりました。 それ以前は、海外の国債や株式を買うと、日本のお金が出ていくから資本収支赤字とされ、お金が逃げていく「キャピタルフライト」のイメージでした。 でも、海外の国債や株式を買うのは、今後利子配当が期待できる金融資産が増えたことを意味しますので、いまは金融収支で「黒字」とされています。 海外での資産運用は、キャピタルフライトではなく、今後の収入を保証してくれる金融収支黒字要素と扱われています。 成長する海外企業に投資するのは良いことです。
2022年7月22日金曜日
物価上昇
ちょっと明らかに物価上昇が無視しえなくなってきたね。
実質賃金が上がってないとは言え、
現実に物価が上がってる以上、
おそらく期待インフレ率も上がってるんだろうが、
いざインフレになってみると、
中央銀行(と政府)がそもそも
消費者の期待インフレ率をコントロールするなどという
ウルトラC難度の技を出来るのか
甚だ疑問だが、
それはともかく、
名目金利が抑え込まれている以上、
多少リスクとってでもよりリターンを得られる資産、つまり株や外国債に投資しよう、というのは当然の成り行きだろう。
しかし、日本国内の貯蓄が、海外資産に投資されても、
統計上は経常収支上黒字として計上されるわけだから、
巨額の貿易赤字がデフォルト化した現状において、
経常収支が仮に黒字だとしても、
それで国内の民間部門の貯蓄が、実態として、政府部門の赤字をファイナンス出来ている、ということにはならない。
そうなれば、
経常収支が黒字でも、
外国資本からカネを借りないと日本国債を発行できない可能性も出てくる。
そうなれば、言わずもがな、
否が応でも日本国債の異常な高値が崩壊し、金利が急騰する、という怖ろしいシナリオも現実味を帯びてくる。
とはいえ、経常収支はフローの概念なので、経常収支でいうところの貯蓄と、
いわゆる国富としての貯蓄は違うのかもしれない。
そこは正直詰めてない。
国富は換金可能なのか不明だが、とりあえず3000兆円あると言われている。
従って、金利急騰という悲惨なシナリオを回避するには、増税は避けて通れないだろう。
「華麗なる一族」 山崎豊子
金融の勉強の一環として読み始めました。
コンビニに行って、アマゾンカードを買ってきて、
さあ、Kindleにダウンロードして読もう、と
思ったら、
5年前に既に買っている、とアマゾンから通知された。
5年前に価値が全くわからなかったものが、
いまはとても面白く感じられる。
それにしても、
ちょっと昔の日本には、
本当に偉大な社会派小説家が、キラ星の如く輝いていた。
松本清張、城山三郎、そして、山崎豊子。
現実の経済と同じように、
今の日本の文化的現状も、
当時から比べたら惨憺たるものだが、
そう遠くない過去の遺産から学べることも、
我々に多く残されている。
・・・だんだん面白くなってきた。
胃の痛くなるようなスリル感。
圧倒的なリアル感。
これは凄い作品だ!
銀行というのがどういうところか、とても勉強になる。
ネタバレをウィキペディアで読んじゃったけど、
ミステリー要素もあり、
これはもう凄いね。
・・・お前らは平安貴族か!って言いたくなるくらい、
姻戚関係で政官財がガチガチに癒着してて、
身内のリスキーな投資には
コネで強引に融資を取り付けるくせに、
成り上がりのスーパーマーケットのワンマン社長には、
冷酷な仕打ちをする。
この対比が見事だな、と思うけど、
ネタバレで知ってるけど、この先に待っているドラマが楽しみだ。
・・・物凄い作品だ。
半沢直樹なんて、完全にこれのパクリだろ。
万俵大介の二人の息子、鉄平も銀平も、人間としていささかリアリティーに欠けるくらい、純粋に感じられるのだが、それと、茨城の寺の息子として生まれながら、学歴でのし上がったエリート官僚の美馬中の、ドロドロとした人間臭さの対比が物凄く効いていて、小説としてもめちゃくちゃ凄い。
・・・凄い。天下一品のスープ並みにドロドロしてる。
それこそ、上司の命令に従って、他行との預金獲得競争のために、文字通り泥にまみれて働いた挙げ句、死ぬ銀行員の話とか。
ナニワ金融道みたいな話だけど、小説としてここまでカネとはなんぞや?
カネの重み、ドロドロした部分をこれでもか!といわんばかりに描いた作品は初めて読んだ。
ゴリオ爺さんもカネ絡みの話だったけど、正直あれより凄い。
少年老い易く学成り難し
大相撲中継見てて思ったけど、
デブのおっさんと思ってたお相撲さんが、
ほとんど全員自分より年下なんだからね。
歳取るってこわいわ。
いつか僕らもおとなになり老けてゆく
make you free
永久にあおく
yeah!
美人投票
https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=61511?site=nli
なかなか含蓄が深い。
これも、単純に選択肢の中からチョイスをする、ということが、
モノの選択である以上に、コトの選択である、
つまり、価値判断の表明である好例だろう。
当然、美人投票の例においては、「美人」の基準が個人の価値判断に基づいており、多様だからだ。
しかも、単に美人投票をするだけでなく、
投票をする人どうしが、そもそも「美人」とはどういう性質のものであるか、議論をし始めたら、
もっとややこしい話になるだろう。
こんなパラドックスを考えついたケインズはやはり偉人だ。
しかも、リンクの中では、近似解を得るために、
投票の対象を「美人」ではなく、数字に置き換えてしまっているが、
これは、ケインズの意図を換骨奪胎してしまっている。
牽強付会だが、ふたたび新日本風土記の話に引き寄せると、
無料紹介所のお兄さんと客は、実はとんでもなく複雑なゲームをしている、ということになりはしないだろうか?
昔の人が偉いな、と思うのは、実は数理的にめちゃくちゃ複雑なことでも、
普通のひとにわかるように言葉で説明してたことだよね。
昨今の日本の風潮だと、わからないのはお前の頭が悪いせいだ、と言わんばかりだからね。
研究者が数理モデルを使うのは当然だが、
社会科学者って、複雑な数理モデルがわかんない人にも、自分の主張をわかってもらえるように、言葉で説明する必要があると思うんだよね。
それをしないで、俺の考えてることは複雑過ぎてお前にはわからない、というのは、社会科学をやる人間としては傲慢でしかない。
2022年7月21日木曜日
日銀金融政策決定会合
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220721/k10013729041000.html
これは、日銀の政策が失敗であり、そして黒田総裁は無能だった、と自ら表明しているようなものではないか?
安定的でないとはいえ、物価上昇率2%目標は達成されているのに、賃金は上がっていない、と自ら認めている。
そして、ちょっと金利を上げたくらいでは円安を阻止できない、
しかも、金利を上げすぎると、経済が大混乱する。
これはもう、大規模金融緩和は失敗でした、と自ら認めているのと同じだろう。
しかも、その失敗した政策を、今後も続けていく、という。
これは、私はバカです、と言っているようなものだ。
徳倫理学への回帰、またその現代的意味としての<活動>
https://www.chuo-u.ac.jp/research/institutes/science/center/
自分としては、情報技術でも代替できないような人間の生存可能領域の条件を確保したいのに、こんな研究されたらたまらんな。
価値判断は人工知能にはできない、と書いたが、価値判断ができないで、ただただマジョリティーに追随しているだけの人間も少なからずいるだろう。
とはいえ、それもある種の価値判断だというパラドックスもあるだろうが。
あるいは、人間の価値判断のモデルを人工知能にパターン学習させて、人間っぽく価値判断をしてるフリをさせることも出来るだろう。
それでは、人間の人間たる理由はなんなのか?
それは、”善さ(good)”とは何か?ということだろう。
以前、あるニュースで、人工知能に”善さ(good)”とは何か?と繰り返し聞いたら、人工知能が怒り出した、という。
昨今、公共哲学界隈では、古代ギリシャに遡る徳倫理学が復権しつつあるそうだが、上述したような状況も無関係ではないだろう。
徳倫理学の代表選手はアリストテレスだが、日本人に馴染みのあるのは、その祖先と言ってもいい、ソクラテスを想像すればいいだろう。
モノの消費とコトの消費の対比でも考えたが、単純に選択肢の中から何かを選ぶ、ということと、それがどういう思想信条の表明であるか、というのは、次元の違う話なのではないか?
つまり、単純にどういう結果を選択したか、というより、その結果を選択した根拠が再び問われる事態が起こっていると言ってよいだろう。
しかし、単に選択肢の中からチョイスをするということが、その人の思想信条の表明と全く無関係ということがあり得るだろうか?
(以下森本先生からのフィードバックより)
〈私が選ぶ〉という行為は、私の志向と他者の志向を突き合わせ、つまりはコミットしようとする対話性を内包している、ということですね。
小林くんのご論のマクラに、モノ的発想とコト的発想の対比もありましたが、まさに人はパンのみにて生くるものにあらずーー他者との関係性の上に展開するストーリー(人生の物語)抜きに生きるということはあり得ない…。
ふと気付いたが、森本先生のコメントにある、〈私が選ぶ〉という行為は、私の志向と他者の志向を突き合わせ、つまりはコミットしようとする対話性を内包しているという考え方は、まさにハンナ・アーレントが<活動>として定式化した概念ではないだろうか。
2022年7月20日水曜日
少数派の声は無意味か?
社会的決定理論で学んだことだが、
自分には以下のことを数理的に証明する能力はないんだが、
少数派が声を挙げることは、必ずしも無意味ではない。
核兵器廃絶を訴えることも、無意味ではないし、
左派が、戦争放棄を訴えることも、無意味ではないし、
イジメをしているグループの中で、
ひとりでも、ただ何も言わず去ることだけですら、
イジメを止める、という結果を導くこともあり得る。
少数派が勇気を持って声を挙げることが、現実を変える可能性は、決して荒唐無稽ではない根拠で、正当化されうる。
自分としては、れいわ新選組の経済政策は全く支持できないが、
重度障害者を2人
国会に送り込んだことは、
社会の障害者に対する見方を変えた可能性もある。
「『きめ方』の論理」ー社会的決定理論への招待 佐伯胖 ちくま学芸文庫
社会科学をやってる人間には、必読の書なんじゃないかな。
数学的に難しいことも書いてあるけど、
文章で分かりやすく解説してくれてるし。
変に頭にハチマキして考えなくても、
自然と社会的決定理論の世界に入っていける。
しかも、その見返りとして得られるものも大きい。
かなり昔に書かれたことがうかがえるが、
いま読んでも全く価値が色褪せない。
コンフリクトが起こったとき、
話し合えばいい、とか、投票で決まったんだからそれでいいじゃないか、
という程度で済ませてしまっている人には、
特に強く一読を勧めたい。
新日本風土記にことよせて
大阪の道頓堀界隈を取り上げてるんだけど、 夜の和菓子屋ってのが出てきて、 キャバクラやら飲み屋の 無料紹介所のお兄さんが 和菓子 買いに来てたりするんだけど、 ふと、 飲み屋のほうが、 ウェブサイトにQRコードかなんか載っけて、 これをスマホで読み取ってくれたら 割引するサービスなんか始めたら、 どうなるんだろう? なぜそうしないんだろう? というのが不思議になった。 今だに 無料紹介所というのが 存在する経済合理性がわからない。 食べログみたいに、スマホで情報集めて、 オススメの店をランキングしたら、土地勘のない人間にとっても便利だろう。 でも、色気のない話だが、 そんな経済合理性を追求したら、 無料紹介所のお兄さんも職を失うし、 その結果もしかしたら 夜の和菓子屋も潰れるかもしれない。 しかし、 そういう「経済合理性」を 追求したのが、 新自由主義であり、グローバリゼーションではなかったのか? それの行き着いた先が、現代社会だろう。
なぜ大阪の道頓堀界隈では、キャバクラや飲み屋を無料で紹介する業者が生き延びているのか、といえば、
そういうサービスはモノの消費というより、コトの消費だから、というのが暫定的な答えだろう。
つまり、単に飲食をする、ということは、モノの消費であり、
食べログでも処理できるが、
ある種の社交場で接待を受ける、というのは、コトの消費であり、
場合によっては思想信条の表明でもあるから、
現在のアルゴリズムでは簡単には処理できないからかもしれない。
そもそも、人工知能は、新井紀子さんによれば、
四則演算の計算をしているだけであり、決してそれ以上のものではない。
つまり、価値判断は出来ない。
人間のモノの消費の選択に対して、最適解を提供することは出来るが、
価値判断を伴うようなコトの消費の選択肢を提示することは出来ない、と暫定的に結論づけておく。
ところで、コトの消費、言い換えればある種の価値観の選択を全く抜きにしたモノの消費、
ということ自体が、むしろ少ないのではないだろうか?
ストーリー性を全く抜きにした単純なモノの消費ならば、
テレビなど広告媒体で流すコマーシャルは、
これほどメッセージ性に溢れる必然性は全くないはずだ。
単純なモノの消費しか許さない社会は、
おそらく共産主義社会ぐらいのものだろう。
実際に体験したことはないが。
わたしたちは選ぶという行為を通して、自分が正しいと思うコトや、自分が良いと思うコトを、他人の正しいと思っているコトや、良いと思っているコトとつきあわせてみようとしているのである。
社会的決定理論は従来、人々のモノの選択から社会のモノの選択をひき出す方式ばかりを考え、最適なモノをどう選ぶかに苦労してきた。しかし、これは大変な勘違いだったと言わざるを得ない。
従来の社会的決定理論は、人間に対する不信の念の上に築かれてきた。人は利己的である。人は自らの欲望を満たそうとしているだけだ。人は他人のことなど構うわけがない。むしろ、スキあらばつけ入ろうとねらっていると考えた方がよい。人は己れの得になりそうなことの計算については徹底的に合理的である。・・・このように、人は常に他人からイジワルされると想定し、イジケにイジケた上で、「それでも社会は何とか”均衡”に達することができるはずだ」と思い、決定理論家の役割は、そういう均衡解の存在性や、その安定性を保障するものであると考えてきた。
しかし、わたしたちは一体何を学んできたのだろうか。人間を狼だと仮定して考案される仕組みは、どんなに立派に見え、頑強に見えるオリをつくったと思っても、どこかに穴があり、別の狼の侵入をふせぎえない。一つのパラドックスを見つけては修正し、その修正が次のパラドックスを生む。
このようなイタチごっこを繰り返した挙げ句、情報技術によって支えられた効率的市場経済が地球規模に達した現在においても、
パラドックスを解決するために考案されたスキームが、また新たなパラドックスを産む、という連鎖を繰り返している。
こうして見ると、むしろ我々は、善も悪も併せ持つ人間の本性を受け入れて、それを前提とした社会を肯定するべきなのではないだろうか。
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。
モノの選択からコトの選択へ (抜書き)
選択行動を発する当の本人でさえ、自分が選んだのはモノではなく、背後のコトだということを意識しているとはかぎらない。経済学者たちに「xとyのうちいずれを選ぶか」と問われたとき、「わたしはそのモノがほしい」ということで選んでしまったが、本当は「わたしがそのモノをもつ」というコトの意味を十分考えるべきだったと後悔するかもしれない。本人でさえも、背後にあるコトの選択は無意識に行ってしまうのだから、社会が人々の選択したモノから、人々の背後にある選択されたコトを抽出するのは容易ではない。たとえ選択行動は同一でも、選んだ人にはいろいろな「思惑」があり、それを、行動が一致しているということから、社会が「万人は同意見だ」とするのは明らかにおかしい。わたしたちが本当に選んだり、訴えたり、要求したりしているコトは、訴えている一つの事例の中で要求している内容の即時的満足ではないのである。わたしたちは選ぶという行為を通して、自分が正しいと思うコトや、自分が良いと思うコトを、他人の正しいと思っているコトや、良いと思っているコトとつきあわせてみようとしているのである。
貧乏性? (抜書き)
どうしてこんなことになってしまうかといえば、人々の選択動機の中に「相手より低い利得になりたくない」という意識がはたらいているからであろう。その動機が「自らの利得を少しでも多くしたい」という動機よりも強くはたらいているため、最悪事態に陥ってしまうのである。
考えてみると、わたしたちはいつも「他人がどれだけ得をしたか」を気にしており、それとの比較で自分の損・得を評価しているように思える。万人が貧乏だった戦時中はとりたてて貧困感はなかったが、戦後になって、貧富の差がはげしくなると、痛切に貧困感を感じるようなものである。
「『きめ方』の論理」 佐伯胖 ちくま学芸文庫 より抜書き
ひとりの良心的個人自由主義者は、社会の他の人々や自分自身に賦与された各種の自由裁量権を監視しており、パレート最適性が盲目的に適用されて、個人の自由の尊厳を侵す可能性が生じないかを見ている。そして、ひとたびそのような可能性が見えたときは、彼は自らの私的意見の公表をひかえるという手段に訴えて、パレート伝染病の発生をくいとめるのである。
パレート伝染病が猛威をふるうのは、全員一致という状況が偶然生じたときだけである。したがって、ひとりでも「一ぬけた」という人がいれば、思いもよらぬところへパレート性が波及することをくいとめることができるのである。そして、この良心的個人自由主義者は、そのような無差別のパレート性の適用が他の人や自分の「自由」を侵害しそうなときに、そのような意見をさしひかえて、「参加」を拒むのである。
2022年7月19日火曜日
「こころ」夏目漱石
放送大学の2学期の面接授業で
「こころ」を題材に
日本文学における近代性とは何か?
を探る、というのがあるんだが、
自分の考えでは、
「こころ」は、
入念に準備された実験室で、
わずかな人間のエゴが
登場人物全員を不幸にする、
という
一種の実験小説のような気がする。
あたかも
化学の実験のように
人間関係の動きをシミュレーションする、というのは、
ある意味ゲーテ的でもあるような気がするが、
ちょっとガチガチの決定論に陥っている印象が否めない。
夏目漱石の意図としては、
人間のエゴそれ自体を糾弾したかったというより、
飽くまで
そういう実験小説を書きたかったのではないか、という気もする。
未完の遺作「明暗」は、
もっと
登場人物の意図せざる発言や、
エゴや、
その他
偶然に支配されたより現実生活に近い
構成になっている感がある。
新日本風土記
大阪の道頓堀界隈を取り上げてるんだけど、
夜の和菓子屋ってのが出てきて、
キャバクラやら飲み屋の
無料紹介所のお兄さんが
和菓子
買いに来てたりするんだけど、
ふと、
飲み屋のほうが、
ウェブサイトにQRコードかなんか載っけて、
これをスマホで読み取ってくれたら
割引するサービスなんか始めたら、
どうなるんだろう?
なぜそうしないんだろう?
というのが不思議になった。
今だに
無料紹介所というのが
存在する経済合理性がわからない。
食べログみたいに、スマホで情報集めて、
オススメの店をランキングしたら、土地勘のない人間にとっても便利だろう。
でも、色気のない話だが、
そんな経済合理性を追求したら、
無料紹介所のお兄さんも職を失うし、
その結果もしかしたら
夜の和菓子屋も潰れるかもしれない。
しかし、
そういう「経済合理性」を
追求したのが、
新自由主義であり、グローバリゼーションではなかったのか?
それの行き着いた先が、現代社会だろう。
素人考え
日銀が採っているイールドカーブコントロール政策は、金利を長いスパンに渡ってフラットに抑え込もうという政策だと考えられるが、遠い先の未来の金利までコントロールしようなどというのは、本質的におこがましい考え方と言えないだろうか。
日銀が、今後も長い間金利が低いままですよ、と企業に期待を持たせるという効果があるならば、有益な政策かもしれないが、そうは言ってもいつ金利が上がるか?と疑心暗鬼に陥らせるようになってしまったとしたら、有益どころか、危険で有害な政策ではないだろうか。
反・決定論
私はここまで、決定論という見方は過去の確定性・決定性を全時間へと誤って適用してしまった一種の錯覚だ、論じてきた。しかるに実は、この「過去の確定性」という出発点をなす捉え方自体、厳密には申し立て難いのである。「過去」という概念自体に関わる、超一級の哲学的困難が存在するからである。ほかでもない、「過去」は過ぎ去っており、いまはないので、本当に確定しているかどうか確かめようがなく、不確実であって、よって過去それ自体もまた偶然性によって浸潤されてゆくという、このことである。
「確率と曖昧性の哲学」p.114 一ノ瀬正樹 岩波書店
私は、そもそも「決定論」という概念それ自体、字義通りに受け取った場合、意味をなさないナンセンスな主張だと考えている。私が決定論を斥ける根拠ははっきりしている。決定論とは、平均的に言って、「すべては因果的に決定されている」とする考え方であると言ってよいであろう。しかるに、「すべては」という以上、未来に生じる事象も含めて丸ごと「決定されている」と言いたいはずである。しかし、生身の身体を持つ私たち人間が、一体どんな資格で、未来の事象すべてについて、そのありようを断言できるというのか。私には、そのように断言できると述べる人たちの心境が到底理解できない。こうした理解不能の断定を含意する限り、「決定論」を受け入れることは哲学的良心に反する、と私は思うのである。ここにはおそらく、過去の事象がすでに「確定/決定されてしまった」という過去理解(これは、おおむねは健全だと言える)から、すべてが「決定されている」という無時制的な主張へと、不注意かつ無自覚的にジャンプしてしまうという事態が潜んでいるのではなかろうか。
「確率と曖昧性の哲学」p.257~258 一ノ瀬正樹 岩波書店
2022年7月18日月曜日
暗い時代の人々
ヒロミが、軽い更年期障害を患ってて、収録中に汗をかいてしまう、とか言ってて、
同年代が亡くなったりする話を聞くと、
死について考えたりする、って
言うんだけど、
彼は
アウトドアが好きで、
バイクとかにも乗ったりするんだけど、
あ、ここでスピード出し過ぎたら死ぬな、
とか、
そういうことを感じることで、
逆に生きてるリアルな感覚を覚えるらしい。
自分は働いてないし、
時間も自由に使える暮らしをしてるけど、
やっぱりまともな社会人として
日々仕事に追われる生活してると、
生きてるリアルな感覚を感じられなくなっちゃうってのは、わかる気がする。
経済合理性はもちろん大事だし、
経済の知識なく現代社会を生きるのは
地図を持たずに航海をするようなものだと思うけど、
それがすべてじゃない。
人工知能だって決して万能じゃない。
世間では、情報技術とそれの前提となる
理系教育の重要性が喧しく言われるけど、
昨今の、
ひろゆき氏がいうところの「無敵の人」
による凶悪犯罪を見てると、
こういう暗い世の中で希望になりうるのは、
文学なんじゃないか?
と思ったりする。
そこで安易に問題発見・問題解決
なんていう薄っぺらい言葉は
使いたくない。
圧巻
放送大学「社会と産業の倫理」の第5回
山岡龍一先生による「政治学と倫理」は、
いい人が善良に政治を行うのが正しい、と
考える人にも、
その逆に
政治に倫理観念なんか持ち込まずに、
リアリズムに徹するのが正しい、と
考える人にも、
是非聴いて欲しい内容です。
2022年7月17日日曜日
これはマジで読む価値ある
母親がテレビを見ていて、
たまたま新井紀子さんという方が
出演されていて、
人工知能について
興味深い発言を
されていたので、
Kindleで
氏の本をダウンロードして
読んでみました。
めちゃくちゃ有益でした。
いかに我々が
人工知能とはなんぞや?
に無知で、
わけも分からず
過剰に
怖れているか、を
痛感させられました。
タイトルは
「AI vs 教科書が読めない子どもたち」
ですが、
最初の6割は人工知能について
書かれています。
残りはまだ読んでません。
しかし、
この本は
文系理系問わず、
人工知能を正しく怖れる、
という意味で、
これ以上ない本です。
マジでオススメです!
2022年7月16日土曜日
ドーマー条件
プライマリーバランス(基礎的財政収支)が均衡している下では、名目金利よりも名目GDP成長率が高ければ公債残高の対GDP比が少しずつ低下するため財政破綻は起こらないという定理のこと。 「ドーマーの条件」は財政破綻が起こらないための十分条件の1つであり、同じようなものに「ボーンの条件」が挙げられる。
プライマリーバランスが均衡していることが大前提で、しかも名目GDP成長率が名目金利を上回って始めて財政破綻が起こらない、ということだから、仮にプライマリーバランス均衡を達成したとしても、簡単に利上げなんか出来ないってことですね。
徒に国の借金を積み重ねることのツケがいかに大きいか、自分で自分の首を締める結果になっているか、と痛感しますね。
2022年7月15日金曜日
メモ
住宅ローンの固定金利は上昇しているようですが、
変動金利は逆に下落しているそうですね。
詳しくはリンク(https://news.yahoo.co.jp/articles/09cda78c85dcfe3dd4d25e1058a01ebccd96772a)を参照していただくとして、
ふと、
銀行が横並びで
住宅ローンの変動金利を下げるのは、
家電量販店が、
昔よく行っていた、
他店よりも1円でも安く販売します、
という
キャンペーンが、
実は
果てしない安値競争に陥るよりもむしろ、
かえって
価格カルテルを形成するのと同じ理屈、
というか、現象だな、と
感じました。
この手法は
日本では法に抵触することはありませんが、
アメリカでは
法的に問題になるそうです。
この話は
茨城大学で行われた
応用ミクロ経済学の授業で
聴いた話ですが、
結構いい話が聞けたな、
と思います。
単位認定試験
6科目すべて受験し終えた。
疲れた。
在宅受験なので、
内容については一切ここでは書けないけど。
・・・試験期間終わったから、ちょっと書き足し。
やっぱり在宅受験ということもあり、
通信指導も、本番の試験も、難しかった。
ビミョーな択一より、記述のほうがかえって楽だね。
記述にしても、語句指定があったりする場合、
出題者の意図を読まないと書けないから、
実はお題を与えられて自由に書くより難しい。
「中東の政治」は、
お題を見て、ウッ!と思って、
引き出しに溜めてあった新聞記事の切り抜きの中から中東情勢に関するものを選んで、
さらにお題に関係のあるものをピックアップして、
要約して書いた。
時間との闘いで、書き終わったら残り4分とかで、
久々に焦った。
出題者の高橋和夫先生も、新聞の切り抜きだってことは
読めばわかるんだろうけど、
そこは寛大に
単位くれ!
「中東の政治」は、やはり取っておきたい。
気持ち的に。
あとは、
「英語で読む大統領演説」も取っておきたいけど、
感触として、最低でも単位は取れてると思う。
他の科目は、確実といえるほどの出来じゃなかったな。
投機筋はどのようにして儲けるのか?その2
質問:
円キャリートレードというのがよくわからないのですが、
日米金利差で円安ドル高が進行するなか、
ドルを持っている人が、
円を買って、
より安くて金利の高い海外通貨で稼ぐ、
という意味なら、
わからなくもないですが、
それだったら最初からドルで円より安くて金利の高い通貨を買えばいいと思われますし、
円キャリートレードとは一体なんなのかよくわからないのですが。
旧民主党政権の時にもそういうことがありましたね。
回答:
インターネット上にたくさん情報はありますが、
どれも文章説明だけで、
図を使った解説がないようなので分かりにくいのかもしれません。
この取引のスタートは現在
「①低金利の円を借りる」です。
それを「②ドルに替え」て
「③高金利のドル資産で運用する」。
そして将来「④稼いだドルを円に戻し」て、
「⑤借りていた円を返済する」
で完了です。
この取引が活発に起きるのは、
まず①(⑤)と③を左右する日米金利差です。
現在米国で運用した方が有利で、今後も金利差は広がると「予想」されます。
もうひとつは②と④で、
現在円安なので円をドルに替えることは損に思えます。
しかし将来もっと円安になると「予想」すれば、
④で円に戻したとき、
多くの円に替えることができます。
投機筋はどのようにして儲けるのか?その1
質問:2022年6月23日の日経新聞朝刊に、
「円安、国債の売りと連鎖 海外投機筋 日銀の動き見透かす」と題した記事がありました。
自分なりに簡単にまとめると、
金利差拡大による円安⇛
(海外投機筋が)円売りを仕掛ける⇛
輸入物価高騰によるインフレ⇛インフレ抑制のために、
日銀が金融緩和修正⇛
金融緩和修正による日本国債価格の低下を見越して、
(海外投機筋が)日本国債売りを仕掛ける⇛
日銀が日本国債を買い支える⇛
金利差拡大による円安(最初に戻る)
ということになるかと思うのですが、
投機筋は、円売りと日本国債売りを仕掛けることによって、
どのようにして利益を得るのでしょうか?
日本経済の安定性にとって極めて危険でありつつも、
印刷教材の第15章で説かれていたような、
日本政府・日銀の矛盾点を突いているのは理解できるのですが。
回答:国債だけに話をしぼると、
空売りを仕掛けているとみるのがよいでしょう。
今は日銀が国債を買い支えており、
国債価格は高く(金利は低く)維持されています。
しかしいずれ日銀も政策転換し、
国債価格の低下(金利上昇)を容認するようになるかもしれません。
そちらに賭けた投機筋は、
今国債が高いうちに売って、
将来安くなってから買い戻すことによって、
その差額が利益となることを期待します。
2022年7月14日木曜日
黄色信号
円安が進んでますね。
イエレンさんが、投機的な動きがある、と発言していました。
つまり、投機筋が、
円売りを仕掛ている。
なぜ円売りを仕掛ているかというと、
自国通貨が売られて通貨安になれば、
常識的には、中央銀行は、利上げをして自国通貨高に誘導しようとする。
日本に当てはめると、
日銀がイールドカーブコントロールという、馬鹿げた政策によって、
中央銀行は本来、短期金利しかコントロールできないとされているのに、
長期国債を無制限に買い入れて、
無理やり長期金利を抑え込んでいる。
つまり、日本国債の価格が異常に高い。
(裏を返せば、日本国債の利回りが異常に低い。)
投機筋は、円を売れば、
日銀は過度な円安を修正するために、
政策金利を上げざるを得ないと読んでいる。
それだけでなく、投機筋は、
日本国債売りも同時に仕掛けています。
そうすると、日銀は、金利上昇抑制のために、日本国債買い入れを余儀なくされる。
そうすると、市場に円が供給されるので、
結果、円安がますます進行する、という悪循環に陥っています。
まあ、はっきり言って自業自得としか言いようがないですが、
政府・日銀は、
日本国債を買い入れつつ、外貨準備を使って円買い介入をする、という
矛盾したことやろうとしています。
なぜ矛盾しているかというと、
国際金融のトリレンマに従えば、
「資本移動の自由」
「為替の安定」
「金融政策の独立性」
の3つは、同時にすべてを達成することは出来ないからです。
資本移動の自由は犠牲にすることは出来ません。
従って、
為替の安定と金融政策の独立性のどちらかを犠牲にせざるを得ないわけですが、
金融政策の独立性を保持するとすれば、
外貨準備を使って為替介入しなければ、
自国通貨は安定しないのです。
日銀・政府は、
大規模金融緩和を継続する一方で、為替介入をする、という”矛盾した”政策を行っているわけです。
投機筋もこれは完全に計算のうえでやっていますが、
問題は、結局のところ
日銀がどこまで無謀な大規模金融緩和を続けるか、ということです。
大規模金融緩和を続ける限り、
日銀のバランスシートに日本国債がたまり続けるだけで、
金利は上がりませんから、
今までは一般人も痛みを感じなかったので、
非難の声が上がりませんでしたが、
円安が急速に進んで、消費者物価まで上昇し始めると、
消費者からも、なにやってんだ、という声があがり始めます。
アベノミクスの3本の矢のうち、
結局、大規模金融緩和だけが継続していますが、
安倍氏の死去に伴い、
日銀に対して、大規模金融緩和を継続させる
政治的プレッシャーが弱くなったことは事実でしょう。
日本の財政から言っても、
れいわ新選組が言ってるように、
国債をどんどん発行して、
日銀に買い取らせればいい、などという、
無責任なことをやっていると、
日銀の財務状況が悪化して、円の信用が毀損されたり、
そうでなくとも、日銀が、政府の借金である国債をいくらでも買い取ってくれるから、
いくら赤字国債を発行してもいい、という
モラルハザードが現実に起こっています。
岸田首相はそこらへんの事情は当然わかっているはずです。
いずれにせよ、
日銀はこれ以上、
異常な大規模金融緩和を続けることによって、
イールドカーブコントロールという
国際金融の現状からすれば異常な金融政策を維持することは、
非現実的と認識していると思われますので、
少なくとも
金利の上昇幅の拡大をこっそり容認する、
ということは、
十分予想されるところです。
しかし、加藤出さんも言っているように、
イールドカーブコントロールから抜け出すことは、
大きな混乱を伴うと予想されるので、
それこそ
投機筋の外圧がなければ
いつまでも続けていたところでしょうが、
幸か不幸か、現実的ではありませんでした。
さて、焦点は、
日銀がどこまで金利の上昇幅を容認するか、
そしてそのタイミングはいつか、
ということになりそうですが、
金利の上昇幅は実務家ではないので知りませんが、
タイミングとしては、そう遠くないのではないかと思われます。
これだけ急激な円安を鑑みると、
黒田総裁の任期満了まで
待てるとは思えません。
従って、
急に金利が上がる、ということは、
十分ありえる話です。
・・・で、何が言いたいか、というと、
金利が上がって困るのは、
超低金利を前提として
変動金利で住宅ローンを組んでいる家計です。
銀行も馬鹿ではないので、
固定金利は既に段階的に引き上げています。
それは、変動金利が上昇すれば、
固定金利に借り換える人が増えると予想しているからと言って過言ではないでしょう。
ですので、
変動金利で住宅ローンを組んでいる人は、
専門家に相談するなりして、
対策を立てたほうが良いでしょう。
自分は専門家でもなんでもないので、
この文章の内容に責任は負えません。
https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/470422.html
https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/466765.html
美しい
https://www.youtube.com/watch?v=4yWxNCGT1Ss
清宮こんな綺麗なホームラン打てるんだ。
単純に鈍足で守備も下手な中距離バッターだと思ってた。
ごめん。
清宮を覚醒させた新庄監督は凄い。
栗山より全然有能でしょ。
あとは吉田輝星が覚醒したところ見たい。
2022年7月13日水曜日
アンチ合理主義
民法に馴染めなかった最大の要因かもしれないけど、
なんとなく物心ついた頃から、
人間の私生活を法律で割り切る
ってのが、
しっくりこないと感じていた気がする。
完全に合理的な社会なんて、ディストピア
だと今でも思ってるし、
ましてや
完全な法律があれば完全に合理的な社会が
実現するなどというのは、
大真面目なギャグでしかないと思っている。
そんなことを信じている人は、
少数派だろう。
どんなに理不尽と感じることがあっても、
いきなり法律に訴えて、
解決できる、という感覚は、
少なくとも
日本人では少数派だろう。
もちろん、私法が整備されていない社会なんて、
怖くて住めないだろうが。
かといって、
人間の私生活上の問題すべてが
法律で解決される、などというのは、
滑稽な考えとしか思えない。
つまり、
こういうアンチ合理主義的な自分が
民法を習得するには、
現代日本社会が民法を必要とし、
それを基盤として成り立っている社会だ、
ということを
認識し、
その歴史的経緯まで勉強した上でないと、
民法を
受け付けない、
という厄介な問題があった。
そうすると、やはり明治維新以後の日本史を
勉強する必要があった、ということになる。
もっとも、これはトーマス・マン「魔の山」に
出てくる、
楽天的合理主義者であるロドヴィコ・セテムブリーニ
と
ゴシック的中世主義者のレオ・ナフタの対立に
現れるような、根の深い問題なのかもしれないが。
結局、合理主義に傾き過ぎるのも危険だし、
その逆もまた然り、ということなんだろう。
Quite helpful.
民法って、
自分で専門書とか買って読んでみても、
まず総則、物権、債権、債権各論、家族法、相続と分かれてることが普通で、
通しで一冊書かれた本がそもそも相対的に少ないうえに、
色んな学説が載ってるうえに、判例はこうです、
みたいに書いてあって、
結局なんなの?っていうのが全く見えてこない。
かといって、資格試験対策の本は、
よく出るトピックを網羅はしているものの、
隙間を埋める理論がないために、
単なる暗記に堕している。
従って、自分で民法的に考えるなんてのは、夢のまた夢、ということが往々にしてある。
今回の武川先生の民法の授業は、
武川先生がすべての回を一人で担当されているし、
もちろん大学の教員として専門的な知識と理論に
裏打ちされた、
しかも圧倒的にわかりやすい講義編成で、
本当に助かりました。
いくらネットで調べればわかる、という時代でも、
専門用語の正確な理解と、理論がなければ、
書いてあることが全くわからないも同然だから、
民法に関わることを自分で調べられるようになった
というのは大きい。
2022年7月12日火曜日
民法
12時間でめちゃくちゃ頭よくなった。
夜中の12時半に起きて、
ふと、
放送大学の民法の授業を
聞いてみようと思って、
聞き始めたら、
めちゃくちゃ面白くて、
全15回のうち10回を聞いてしまった。
ラジオ講義だから、
映像がないぶん、
あまり疲れない。
慶應義塾大学法学部の武川幸嗣先生の
流れるような
素晴らしい講義に聞き惚れているうちに、
あれよあれよと言う間に、
民法の知識が身についた。
もちろん、
実際問題身につまされる話も多いし、
かといって、
実利だけでなく、理論としても一貫した
魅力的な講義でした。
長らく民法はわかんねーと思ってたけど、
ついに攻略した。
もっとも、中大通教で5年もやってれば、
全く知識がないわけじゃないけど、
なかなか
理論として一貫して解説した
出版物や講義に出会うことは少なかった。
この放送大学の民法の講義は、
これだけでも、十分お金を払う価値がある。
2022年7月10日日曜日
びっくり
放送大学の来学期の面接授業の予定が、もうウェブにアップされてるよ。
まだ単位認定試験も始まってもいないのに。
いつもまだかなまだかな~とやきもきするから、ありがたいけど。
でも、色々と予算やらなんやらで制約があるから、当然好き放題行けるわけじゃないけど。
またコロナの再流行で、そもそも近場しか行けなくなるって可能性も十分あるし、
来学期授業が始まるまでに、日銀が海外投機筋からの国債売りに
耐えられているかどうかも、かなりアヤシイし。
ほんと、コロナは、確実と思われてた未来が、
いかに不安定なものか、という側面を
顕にしたよね。
2022年7月9日土曜日
スマホ
新しい通信機器手に入れて思ったけど、
これはコミュニケーションのあり方を変えるんじゃないかな?
あんまり熟考してメッセージ送る暇がない。
こっちが黙っていると、
相手がどんどんメッセージを送ってきてしまうで、
自然と、
こちらも早いテンポでメッセージを送信しなければならなくなる。
ネットで
過激な発言や誹謗中傷が氾濫するのも、無理からぬことで、
特に若い人からすれば、
自分が投稿する内容を、時間をかけて吟味、精査したりする
というコミュニケーションのあり方にそもそも
慣れていないんじゃないか。
大人もそうで、
早いテンポのコミュニケーションに
さらされると、
なんか時代は新しくなった、と感じるし、
変な高揚感を覚えるけど、
行き着く先はどこなのか?
結局プラットフォーマーに情報を利用されているだけなのではないか?
ベンヤミンが「倫理的摩滅」と
嘆いたように、
徒に、
過去にしがみつくのは違うと思うが、
技術が進歩した先の社会において、
どのような公共的理性が有り得るのか?
を考えるのは、
決して意味のないことではないだろう。
2022年7月7日木曜日
やべーなー
日銀が債務超過になったら、
円が暴落する可能性があるのはもちろんのこと、
日本株のETF買いもやってるから、
日本株の投げ売りも起こるんじゃないか?
全く、とんでもないことやってくれたよ。
そうでなくても、
日本はこれから本格的に
人口オーナス期に
入るっていうのに。
お先真っ暗じゃねーか。
2022年7月6日水曜日
青空文庫
FARCE に就て
坂口安吾
芸術の最高形式はファルスである、なぞと、勿体振つて逆説を述べたいわけでは無論ないが、然し私は、悲劇トラヂエヂイや喜劇コメディよりも同等以下に低い精神から道化ファルスが生み出されるものとは考へてゐない。然し一般には、笑ひは泪より内容の低いものとせられ、当今は、喜劇コメディといふものが泪の裏打ちによつてのみ危く抹殺を免かれてゐる位ひであるから、道化ファルスの如き代物しろものは、芸術の埒外へ、投げ捨てられてゐるのが普通である。と言つて、それだからと言つて、私は別に義憤を感じて爰ここに立ち上つた英雄ナポレオンでは決して無く、私の所論が受け容れられる容れられないに拘泥なく、一人白熱して熱狂しやうとする――つまり之が、即ち拙者のファルス精神でありますが、
ところで――
(まづ前もつて白状することには、私は浅学で、此の一文を草するに当つても、何一つとして先人の手に成つた権威ある文献を渉猟してはゐないため、一般の定説や、将又はたまたファルスの発生なぞといふことに就て一言半句の差出口を加へることさへ不可能であり、従而したがって、最も誤魔化しの利く論法を用ひてやらうと心を砕いた次第であるが――この言草を、又、ファルス精神の然らしめる所であらうと善意に解釈下されば、拙者は感激のあまり動悸が止まつて卒倒するかも知れないのですが――)
扨さて、それ故私は、この出鱈目な一文を草するに当つても、敢て世論を向ふに廻して、「ファルスといへども芸術である」なぞと肩を張ることを最も謙遜に差し控え、さればとて、「だから悲劇のみ芸術である」なぞと言はれるのも聊いささか心外であるために、先づ、何の躊躇ためらう所もなく此の厄介な「芸術」の二文字を語彙の中から抹殺して(アア、清々した!)、悲劇も喜劇も道化も、なべて一様に芝居と見做し、之を創る「精神」にのみ観点を置き、あわせて、之を享受せらるるところの、清浄にして白紙の如く、普あまねく寛大な読者の「精神」にのみ呼びかけやうとするものである。
次に又、この一文に於て、私は、決して問題を劇のみに限るものではなく、文学全般にわたつての道化に就て語りたいために、(そして私は、言葉の厳密な定義を知らないので、暫く私流に言はして頂くためにも――)、仮りに、悲劇、喜劇、道化に各次のやうな内容を与へたいと思ふ。A、悲劇とは大方の真面目な文学、B、喜劇とは寓意や涙の裏打によつて、その思ひありげな裏側によつて人を打つところの笑劇、小説、C、道化とは乱痴気騒ぎに終始するところの文学。
と言つて、私は、A・Bのヂャンルに相当する文学を軽視するといふのでは無論ない。第一、文学を斯様な風に類別するといふことからして好ましくないことであり、全ては同一の精神から出発するものには違ひあるまいけれど――そして、それだから私は、道化の軽視される当節に於て(敢て当今のみならず、全ての時代に道化は不遇であつたけれども――)道化も亦、悲劇喜劇と同様に高い精神から生み出されるものであつて、その外形のいい加減に見える程、トンチンカンな精神から創られるものでないことを言ひ張りたいのである。無論道化にもくだらない道化もあるけれども、それは丁度、くだらない悲劇喜劇の多いことと同じ程度の責任を持つに止まる。
そこで、私が最初に言ひたいことは、特に日本の古典には、Cに該当する勝れた滑稽文学が存外多く残されてゐる、このことである。私は古典に通じてはゐないので、私の目に触れた外にも幾多の滑稽文学が有ることとは思ふが、日頃私の愛読する数種を挙げても、「狂言」、西鶴(好色一代男、胸算用等)、「浮世風呂」、「浮世床」、「八笑人」、「膝栗毛」、平賀源内、京伝、黄表紙、落語等の或る種のもの等。
一体に、わが国の古典文学には、文学本来の面目として現実を有りの儘に写実することを忌む風があつた。底に一種の象徴が理窟なしに働いてゐて、ある角度を通して、写実以上に現実を高揚しなければ文学とは呼ばない習慣になつてゐる。写実を主張した芭蕉にしてからが、彼の俳諧が単なる写実でないことは明白な話であるし――尤も、作者自身にとつて、自分の角度とか精神とか、技術、文字といふものは、表現されるところの現実を離れて存在し得ないから、本人は写実であると信ずることに間違ひのあらう筈はないけれども――斯様に、最も写実的に見える文学に於てさへ、わが国の古典は決して写実的ではなかつた。
又、「花伝書」の著者、世阿弥なぞも、写実といふことを極力説いてゐるけれども、結局それが、所謂写実でないことは又明白なところである。私は、世阿弥の「花伝書」に於て、大体次のやうな意味の件りを読んだやうに記憶してゐる。『能を演ずるに当つて、演者は、たとへ賤しずが女めを演ずる場合にも、先づ「花」(美くしいといふ観念)を観客に与へることを第一としなければならぬ。先づ「花」を与へてのち、はぢめて次に、賤が女としての実体を表現するやうに――』と。
私は、このように立派な教訓を、さう沢山は知らない。そして、世阿弥は、この外にも多くの芸術論を残してゐるが、中世以降の日本文学といふものは、彼の精神が伝承されたものかどうかは知らないが、この、「先づ花を与へる」云々の精神と全く同一のものが、常に底に流れてゐて、鋭く彼等の作品に働きかけて来たやうに思はれるのである。俳諧に於ける芭蕉の精神に於ても其れを見ることが出来るし、又、今この話の中心である戯作者達の作品を通しても、(狂言は無論のこと)、私は此の精神の甚だ強いものを汲み取ることが出来るのである。
尤も、この精神は、ひとり日本に於て見られるばかりではなく、欧洲に於ても、古典と称せられるものは概ね斯様な精神から創り出されたものであつた。単なる写実といふものは、理論ではなしに、理窟抜きの不文律として、本来非芸術的なものと考へられ、誰からも採用されなかつたのである。近世たまたま、芸術の分野にも理論が発達して理論から芸術を生み出さうとする傾向を生じ、新らしい何物かを探索して在来の芸術に新生面を附け加へやうと努力した結果、自然主義の時代から、遂に単なる写実といふものが、恰もそれが正当な芸術であるかのやうに横行しはぢめたのであつた。
この事は単に文学だけではなく、音楽に於ても、(私は音楽の知識は皆無に等しいものであるが、素人アマチュアとして一言することを許して頂ければ――)私は、近代の先達として、ドビュッシイの価値を決して低く見積りはしないが、しかも尚この偉大な先達が、恰かもそれが最も斬新な、正しい音楽であるかのやうに、全く反省するところなしに単なる描写音楽を、例へば「西風の見たところ」、「雨の庭」と言つた類ひの作品を、多く残してゐることに就て、時代の人を盲目とする蛮力に驚きを深くせざるを得ない。そして現今、洋の東西を問はず、凡そ近代と呼ばれる音楽の多くは、単なる描写音楽の愚を敢てしてゐる。斯様に低調な精神から生れた作品は、リュリ、クウプラン、ラモオ、バッハ等の古典には嘗て見られぬところであつた。単なる写実は芸術とは成り難いものである。
言葉には言葉の、音には音の、色には又色の、もつと純粋な領域がある筈である。
一般に、私達の日常に於ては、言葉は専ら「代用」の具に供されてゐる。例へば、私達が風景に就て会話を交す、と、本来は話題の風景を事実に当つて相手のお目に掛けるのが最も分りいいのだが、その便利が、無いために、私達は言葉を藉かりて説明する。この場合、言葉を代用して説明するよりは、一葉の写真を示すに如かず、写真に頼るよりは、目のあたり実景を示すに越したことはない。
斯様に、代用の具としての言葉、即ち、単なる写実、説明としての言葉は、文学とは称し難い。なぜなら、写実よりは実物の方が本物だからである。単なる写実は実物の前では意味を成さない。単なる写実、単なる説明を文学と呼ぶならば、文学は、宜しく音を説明するためには言葉を省いて音譜を挿み、蓄音機を挿み、風景の説明には又言葉を省いて写真を挿み、(超現実主義者、アンドレ・ブルトンの“Nadja”には後生大事に十数葉の写真を挿み込んでゐる)、そして宜しく文学は、トーキーの出現と共に消えてなくなれ。単に、人生を描くためなら、地球に表紙をかぶせるのが一番正しい。
言葉には言葉の、音には音の、そして又色には色の、各代用とは別な、もつと純粋な、絶対的な領域が有る筈である。
と言つて、純粋な言葉とは言ふものの、勿論言葉そのものとしては同一で、言葉そのものに二種類あると言ふものではなく、代用に供せられる言葉のほかに純粋な語彙が有る筈のものではない。畢竟するに、言葉の純粋さといふものは、全く一に、言葉を使躯する精神の高低に由るものであらう。高い精神から生み出され、選び出され、一つの角度を通して、代用としての言葉以上に高揚せられて表現された場合に、之を純粋な言葉と言ふべきものであらう。(文章の練達といふことは、この高い精神に附随して一生の修業を賭ける問題であるから、この際、ここでは問題とならない。)
「一つの作を書いて、更に気持が深まらなければ、自分は次の作を書く気にはならない」と、葛西善蔵は屡しばしばさう言つてゐたさうであるし、又その通り実行した勇者であつたと谷崎精二氏は追憶記に書いてゐるが、この尊敬すべき言葉――私は、汗顔の至であるが、葛西善蔵のこの言葉をかりて言ひ表はすほかに、今、私自身の言葉として、より正確に説明し得る適当な言葉を知らないので、先づ此の言葉を提出したわけであるが――この尊敬すべき言葉に由つて表はされてゐる一つの製作精神が、文字を、(音を、色を)、芸術と非芸術とに分つところの鉄則となるのではないだらうか。
余りにも漠然と、さながら雲を掴むやうにしか、「言葉の純粋さ」に就て説明を施し得ないのは、我ながら面目次第もない所とひそかに赤面することであるが、で、私は勇気を奮つて次なる一例を取り出すと――
「古池や蛙飛び込む水の音」
之ならば、誰が見ても純粋な言葉であらう。蛙飛び込む水音を作曲して、この句の意味を音楽化したと言ふ人もなからうし、古池に蛙飛び込む現実の風景が、この句から受けるやうな感銘を私達に与へやうとは考へられない。ここには一切の理窟を離れて、ただ一つの高揚が働いてゐる。
「古池や蛙飛び込む水の音、淋しくもあるか秋の夕暮れ」
私は、右の和歌を、五十嵐力氏著、「国歌の胎生並びにその発達」といふ名著の中から抜き出して来たのであるが、五十嵐氏も述べてゐられる通り、ここには親切な下の句が加へられて、明らかに一つの感情と、一つの季節までが附け加へられ説明せられてゐるにも拘はらず、この親切な下の句は、結局芭蕉の名句を殺し、愚かな無意味なものとするほかには何の役にも立つてゐない。言葉の秘密、言葉の純粋さ、言葉の絶対性――と、如何にも虚仮威こけおどしに似た言ひ分ではあるが、この簡単な一行の句と和歌とで、その実際を汲んでいただきたい。言葉をいくら費して満遍なく説明しても、芸術とは成り難いものである。何よりも先づ、言葉を使駆するところの、高い芸術精神を必要とする。
文学のやうに、如何に大衆を相手とする仕事でも、その「専門性スペシアリテ」といふものは如何とも仕方のないことである。どのやうに大衆化し、分り易いものとするにも、文学そのものの本質に附随するスペシアリテ以下にまで大衆化することは出来ない。その最低のスペシアリテまでは、読者の方で上つて来なければならぬものだ。来なければ致し方のないことで、さればと言つて、スペシアリテ以下にまで、作者の方から出向いて行く法はない。少くとも文学を守る限りは。そして、単なる写実といふものは、文学のスペシアリテの中には這入らないものである。少くとも純粋な言葉を持たなければ、純粋な言葉を生むだけの高揚された精神を持たなければ――これだけは、文学の最低のスペシアリテである。
兎に角芸術といふものは、作品に表現された世界の中に真実の世界があるのであつて、これを他にして模写せられた実物が在るわけではない。その意味に於ては、芸術はたしかに創造であつて、この創造といふことは、芸術のスペシアリテとして捨て放すわけには行かないものだ。
ところで、ファルスであるが――
このファルスといふものは、文学のスペシアリテの圏内にあつても、甚だ剽逸自在、横行闊歩を極めるもので、あまりにも専門化しすぎるために、かなり難解な文学に好意を寄せられる向きにも、往々、誤解を招くものである。
尤も、専門化しすぎるからと言つて、難解であるからと言つて、それ故それが、偉大な文学である理由には毫もならないものである。スペシアリテの埒内に足を置く限りは、よし大衆的であれ、将又貴族的であれ、さらに選ぶところは無い筈である。(尤も拙者は、断乎として、断々乎としてファルスは難解であるとは信じません!)それはそれとしておいて、扨て――
一体が、人間は、無形の物よりは有形の物の方が分り易いものらしい。ところで、悲劇は、現実を大きく飛躍しては成り立たないものである。(そして、喜劇も然り)。荒唐無稽といふものには、人の悲しさを唆る力はないものである。ところがファルスといふものは、荒唐無稽をその本来の面目とする。ところで、荒唐無稽であるが、この妙チキリンな一語は、芸術の領域では、さらに心して吟味すべき言葉である。
一体、人々は、「空想」といふ文字を、「現実」に対立させて考へるのが間違ひの元である。私達人間は、人生五十年として、そのうちの五年分くらいは空想に費してゐるものだ。人間自身の存在が「現実」であるならば、現に其の人間によつて生み出される空想が、単に、形が無いからと言つて、なんで「現実」でないことがある。実物を掴まなければ承知出来ないと言ふのか。掴むことが出来ないから空想が空想として、これほども現実的であるといふのだ。大体人間といふものは、空想と実際との食ひ違ひの中に気息奄々として(拙者なぞは白熱的に熱狂して――)暮すところの儚ない生物にすぎないものだ。この大いなる矛盾のおかげで、この箆棒べらぼうな儚なさのおかげで、兎も角も豚でなく、蟻でなく、幸ひにして人である、と言ふやうなものである、人間といふものは。
単に「形が無い」といふことだけで、現実と非現実とが区別せられて堪まらうものではないのだ。「感じる」といふこと、感じられる世界の実在すること、そして、感じられるといふ世界が私達にとつてこれ程も強い現実であること、此処に実感を持つことの出来ない人々は、芸術のスペシアリテの中へ大胆な足を踏み入れてはならない。
ファルスとは、最も微妙に、この人間の「観念」の中に踊りを踊る妖精である。現実としての空想の――ここまでは紛れもなく現実であるが、ここから先へ一歩を踏み外せば本当の「意味無しナンセンス」になるといふ、斯様な、喜びや悲しみや歎きや夢や嚔くしゃみやムニャ/\や、凡有あらゆる物の混沌の、凡有ゆる物の矛盾の、それら全ての最頂天バラロキシミテに於て、羽目を外して乱痴気騒ぎを演ずるところの愛すべき怪物が、愛すべき王様が、即ち紛れなくファルスである。知り得ると知り得ないとを問はず、人間能力の可能の世界に於て、凡有ゆる翼を拡げきつて空騒ぎをやらかしてやらうといふ、人間それ自身の儚なさのやうに、之も亦儚ない代物しろものには違ひないが、然りといへども、人間それ自身が現実である限りは、決して現実から羽目を外してゐないところの、このトンチンカンの頂天がファルスである。もう一歩踏み外せば本当に羽目を外して「意味無し」へ堕落してしまふ代物であるが、勿論この羽目の外し加減は文学の「精神」の問題であつて、紙一枚の差であつても、その差は、質的に、差の甚しいものである。
ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しやうとするものである。凡そ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャ/\であれ、何から何まで肯定しやうとするものである。ファルスとは、否定をも肯定し、肯定をも肯定し、さらに又肯定し、結局人間に関する限りの全てを永遠に永劫に永久に肯定肯定肯定して止むまいとするものである。諦めを肯定し、溜息を肯定し、何言つてやんでいを肯定し、と言つたやうなもんだよを肯定し――つまり全的に人間存在を肯定しやうとすることは、結局、途方もない混沌を、途方もない矛盾の玉を、グイとばかりに呑みほすことになるのだが、しかし決して矛盾を解決することにはならない、人間ありのままの混沌を、永遠に肯定しつづけて止まない所の根気の程を、呆れ果てたる根気の程を、白熱し、一人熱狂して持ちつづけるだけのことである。哀れ、その姿は、ラ・マンチャのドン・キホーテ先生の如く、頭から足の先まで Ridicule に終つてしまふとは言ふものの。それはファルスの罪ではなく人間様の罪であらう、と、ファルスは決して責任を持たない。
此処は遠い太古の市、ここに一人の武士がゐる。この武人は、恋か何かのイキサツから自分の親父を敵として一戦を交へねばならぬといふ羽目に陥る。その煩悶を煩悶として悲劇的に表はすのも、その煩悶を諷刺して喜劇的に表はすのも、共にそれは一方的で、人間それ自身の、どうにもならない矛盾を孕んだ全的なものとしては表はし難いものである。ところがファルスは、全的に、之を取り扱はうとするものである。そこでファルスは、いきなり此の、敬愛すべき煩悶の親父と子供を、最も滑稽千万な、最も目も当てられぬ懸命な珍妙さに於て、掴み合ひの大立廻りを演じさせてしまふのである。そして彼等の、存在として孕んでゐる、凡そ所有ゆるどうにもならない矛盾の全てを、爆発的な乱痴気騒ぎ、爆発的な大立廻りに由つて、ソックリそのまま昇天せてしまほうと企らむのだ。
之はもう現実の――いや、手に触れられる有形の世界とは何の交渉もないかに見える。「感じる」、あくまで唯「感じる」――といふ世界である。
斯様にして、ファルスは、その本来の面目として、全的に人を肯定しやうとする結果、いきほひ人を性格的には取扱はずに、本質的に取扱ふこととなり、結局、甚しく概念的となる場合が多い。そのために人物は概ね類型的となり、筋も亦単純で大概は似たり寄つたりのものであるし、更に又、その対話の方法や、洒落や、プローズの文章法なぞも、国別に由つて特別の相違らしいものを見出すことは出来ないやうである。
類型的に取扱はれてゐる此等の人物の、特に典型らしいものを一二挙げると、例へばファルスの人物は、概ね「拙者は偉い」とか「拙者はあのこに惚れられてゐる」、なぞと自惚れてゐる。そのくせ結局、偉くもなければ智者でもなく惚れられてもゐない。ファルスの作者といふものは、作中の人物を一列一体の例外無しに散々な目に会はすのが大好きで、自惚れる奴自惚れない奴に拘りなく、一人として偉いが偉いで、智者が智者で、終る奴はゐないのである。あいつよりこいつの方が少しは悧巧であらうといふ、その多少の標準でさへ、ファルスは決して読者に示さうとはしないものだ。尤も、あいつは馬鹿であるなぞとファルスは決して言ひはしないが。又、例へば、ファルスの人物は、往々、「拙者は悲惨だ、拙者の運命は実に残酷である――」と大いに悲歎に暮れてゐる。ところがファルスの作者達は、さういふ歎きに一向お構ひなく、此等の悲しきピエロとかスガナレルといふ連中てあいを、ヤッツケ放題にヤッツケて散々な目に会はすのである。ファルスの作者といふものは、決して誰にも(無論自分自身にも――)同情なんかしやうとはしないものだ。頑として、木像の如く木杭の如く、電信柱の如く断じて心臓を展くことを拒むものである。そして、この凡有ゆる物への冷酷な無関心に由つて、結局凡有ゆる物を肯定する、といふ哀れな手段を、ファルス作家は金科玉条として心得てゐるだけである。
一体ファルスといふものは、何国に由らず由来最も衒学的(出来損ひの――)なものであるが、西洋では、近世に近づくに順したがつて、次第にファルスは科学的に――と言ふのもちと大袈裟であるが、つまりファルス全体の構成が甚しくロヂカルになつてきた。従而、その文章法なぞも、ひどくロヂカルにこねくり廻された言葉のあやに由つて、異体えたいの知れない混沌を捏ね出さうとするかのやうに見受けられる。プローズでは、已にエドガア・ポオ(彼には、Nosologie, Xing paragraph, Bon-Bon と言つた類ひの異体の知れない作品がある――)あたりから、此の文章法はかなり完璧に近いものがあるし、劇の方では、仏蘭西現代の作家マルセル・アシアルの「ワタクシと遊んでくれませんか」なぞは、この方面の立派な技術が尽されてゐる。
ところが日本では西洋と反対で、最も時代の古い「狂言」が、最もロヂカルに組み立てられ、人物の取扱ひなぞでも、これが西洋の近代に最も類似してゐる。
で、西洋近世のロヂカルなファルス的文章法といふものは、本質的には実に単純極まりないもので、「AはAである」とか、「Aは非Aでない」と言つた類ひの最も単純な法則の上で、それを基調として、アヤなされてゐる。語の運用は無論として、筋も人物も全体が、それに由つて運用されてゐると見ることも出来る。マルセル・アシアルの「ワタクシと遊んで呉れませんか」をどの一頁でも読みさへすれば、この事は直ちに明瞭に知ることが出来やう。が、このロヂカルな取扱ひは、非常に行き詰り易いものである。アシアルにしてからが、已に早くも行き詰つて、近頃は、より性格的な、より現実的な喜劇の方へ転向しやうとしてゐるが、ファルスと喜劇との取扱ひの上に於ける食ひ違ひが未だにシックリと錬れないので、喜劇ともつかずファルスともつかず、妙にグラグラして、彼の近作は概ね愚作である。
が、然し何も、このロヂカルな方向がファルスの唯一の方向ではない。ファルスはファルスとして、ファルスなりに性格的であり現実的であり得るのである。西洋の古代、並びに、特に日本の江戸時代は、ファルスはファルスなりに余程性格的であり、かつ現実的であつた。浮世風呂、浮世床であるとか、西洋では、Ma※(サーカムフレックスアクセント付きI小文字)tre Pathelin(仏蘭西の十五世紀頃の作品)、なぞがさうである。私達のファルスは、この方面に尚充分に延びて行く可能性があるやうに考へられるし、又この逆に、概念的な、奇想天外な乱痴気騒ぎにしてからが、まだまだ古来東西にわたつて甚だシミッタレなところがあつた。なまじひに科学的な国柄だけに西洋の方に此の弊が強く、例へば、オスカア・ワイルドに「カンタビイルの幽霊」といふものがあるが、日本の落語に之と全く同一の行き方をしたものがあつて――題は忘れてしまつたが、(隠居がお化けをコキ使ふ話)、私には、その落語の方が、はるかに羽目を外れて警抜であつたために、ケタ違ひの深い感銘を受けたことを覚えてゐる。と言つて、日本のファルスといへども、決して自由自在に延びきつてゐたわけではないが。
一体に、日本の滑稽文学では、落語なぞの影響で、駄洒落に堕した例が多い。(尤も外国でも、愚劣な滑稽文学は概ねさうであるが)。いはゆる立派な、哲学的な根拠から割り出された洒落といふものは、人間の聯想作用であるとか、又、高度の頭の働きを利用し、つまりは、意味を利用して逆に無意味を強めるもので、近世風な滑稽文学(日本では「狂言」が――)が皆この傾向をとつてゐる。ところが、江戸時代の滑稽文学や、西洋の古典は、之とは別な方向をとり、人間的であるために、その洒落が駄洒落に堕して目も当てられぬ愚劣な例が多いのである。(「八笑人」を摸して「七偏人」といふ愚作が後世出たが、之なぞは駄洒落文学を知る上には最適の例でめらう。)こういふことは、ファルスを人間的に取扱ひ、浮世の風を滲み込ませやうとする時に、最も陥り易い短所であるが、しかし之も見様に由れば、技術の洗錬されないせいで、用ひ様に由つては、一見短所と見える斯様な方向にさへ尚開拓の余地はあるやうである。私は時々落語をきいて感ずるのであるが、恐らくは文学として読むに堪えないであらう愚劣なものが、立派な落語家に由つて高座で表現されると、勝れた芸術として感銘させられる場合がある。技術は理窟では習得しがたく、又律しがたいものである。古来軽視されてゐただけに、文学としての「道化」は、その技術にも多くの新らしい開拓を必要とするであらう。
私は深い知識があるわけではないので良くは知らないのであるが、当て推量で言つてみれば、「道化」は、その本来の性質として、恐らく人智のあると共にその歴史は古いやうに思はれるし、且又、それだけに特別の努力も払はれたことはなく、大して新生面も附け加へられて来なかつたやうに考へられてならぬのである。もつと意識的に、ファルスは育てられていいやうに私は思ふのである。せめてファルスを軽蔑することは、これは無くなつてもいいと思ふが――
肩が凝らないだけでも、仲々どうして、大したものだと思ふのです。Peste!
底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「青い馬 第五号」岩波書店
1932(昭和7)年3月3日発行
初出:「青い馬 第五号」岩波書店
1932(昭和7)年3月3日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年4月8日作成
2016年4月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
アクセント符号付きラテン文字は、画像化して埋め込みました。
●図書カード
数学ぎらい
永野裕之さんという方の数学1・Aの本をキンドルで買って、ちょっと面白そうだし、キンドルだと読みにくいから、新書をアマゾンで注文して、届くの待ってる。
この手の本はさんざん試してきて、結局たいして得るところがなかったけど、今度ばかりは期待できるかも知れない。
高校数学って、高1で対偶とか背理法あたりから、もうモヤモヤしてきて、早くもついていけなくなる。
でも、そういうモヤモヤを持つのは、実はまともな知性を持っていることの証左であることも、分かってきた。
こっちとしては、めちゃくちゃ頑張って高校受験して入ってきてるから、わからないのはこっちの頭が悪いからだ、と思い込んでた。
予備校でもそういう肝心なことは教えてくれなかったから、結局どの学校でも同じなんだろうけど、まず、対偶と元の命題の真偽がなぜ一致するかの証明は、実はそんなに簡単ではないこと、
背理法もそんなに無敵の論法ではないし、
しかも、入試問題は、背理法の弱点が露呈しないように、入念に作られてる、とか。
そういうことを先に教えて欲しかった。
武蔵は、学問の自由とか言いながら、
肝心なことは教えてくれないし、
しかも、
ほこりっぽいアカデミズム、言い換えれば、
学問的権威主義の空気が横溢していて、
そういうところはほんとにイヤだった。
ただ、そういう権威主義に対するカウンターカルチャーというか、
真面目くさった合理主義に対するアンチテーゼとしての
道化を演じる精神は根付いていたし、
学校側も、そういうところはかなり懐は深かった。
自分が武蔵を辞めずに済んだのは、
一緒に道化を演じてくれる友人や、
学校側の懐の深さによるものだと思う。
慶応SFCは
ガチガチの合理主義者ばかりの純粋ファシスト養成機関で、
道化の哀しさなんか理解できるやつは
ほとんどいなかった。
2022年7月5日火曜日
知らんがな
ケータイようやく繋がった。
Wi-Fi先に接続しないと、何も出来なかった。
知らねーよ。
どこがかんたんスマホなんだよ。
それはともかく、ガラホが突然死んだから、
電話帳すべて消えた。
イチから情報収集しないと。
漱石論コレクション1再掲
確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。
近代日本の炭鉱夫と国策レポート再掲
今回の授業を受けて、
改めて民主主義の大切さを痛感しました。
現在でも、
中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、
また、
上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、
民主主義、
そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、
人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、
日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。
ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、
すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、
というテーゼを考えたとき、
現在の中国は
民主主義を犠牲にしている
と言えるでしょう。
この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、
明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、
日清・日露戦争を経て、
対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、
まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。
日本国民は、そのような時代のなかで、
藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、
農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、
近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。
そして、
国民的自己決定という側面から見れば、
政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、
国民の民意というものは、
次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。
しかし、
「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、
国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、
図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。
これは現在の中国を補助線として考えると、
グローバリゼーションに対応しながら
国民的自己決定を達成するには、
国をまさに富国強兵のスローガンの下で一致団結させる必要があり、
そこでは多様な民意というものを反映することは困難であり、
したがって表現の自由が抑圧され、
民主主義は達成できない、
と考えられます。
戦前の日本に照らして考えると、
前近代の村社会が
国家組織の末端に組み入れられ、
その中で炭鉱夫が、生きるための最後の手段として
究極のブラック職業として見なされていたこと、
それでも西欧へ肩を並べなければならない、
という官民一体の国家的意識のなかで、
脅迫的に近代化へ歩みを進めざるを得なかった状況では、
社会の底辺としての炭鉱夫には、およそ政治参加、すなわち民主主義の恩恵に浴することは出来なかった。
それはとりもなおさず炭鉱業というものが本来的に暴力的であり、
同時に「国策」としての帝国主義的性格を多分に内包していたことと平仄を合わせています。
中国のウイグル人の抑圧と戦前日本の坑夫を重ねて考えると、そのような構図が透けて見えてきます。
2022年7月4日月曜日
日本経済は末期的
日銀は国債買い支えに必死。
ETF購入もやってる。
しかも、政府の円買い介入も囁かれているらしい。
こんなん完全に統制経済じゃん。
こんな馬鹿げた政策、
続けられてるうちはいいが
当局が白旗揚げたら、
とんでもないことになる。
金利も株も為替さえも、
市場の実態を反映していない、
という
異常事態。
もうええわ。
回線が切り替わったのかどうかよくわからないが、
新機種の操作方法の問題なのかなんなのか、
電話のかけ方がわかんねーんだよ。
かんたんスマホなのに。
パソコン使えれば
別に
ケータイ繋がんなくても
とりあえず困んないから、
しばらくええわ。
生きられる社会
だいたいやりたいことやり尽くして
ふと自分の人生を振り返るとき
どうしても
合理的な筋書き
というものを作りたくなるのは自然のサガなんだけど、
あんまり合理的、
言い換えれば
理性的な筋書きを
仕立てなくても
いいんじゃないか。
どこかに不合理な部分を
残しておいたほうが、
かえって健全なんじゃないか。
人間も社会も。
井上俊が
「詐欺が成り立ち得ないところでは、社会もまた成り立ち得ない。」(遊びの社会学)
と言ったように、
社会も、どこかに余白を残しておいたほうが、
かえって
健全なんじゃないか。
赤塚不二夫のレレレのおじさんのように、
おそらく知的障害を
持っているような
おじさんが
朝っぱらから
ホウキで道を
掃除していても、
いいのではないか。
日本の山岳信仰で
男根に似た
巨石を崇める
という風習は
よく見られるが、
あれはただの巨石だ、
と、
自然界をアレゴリーで
捉える考え方を排除したのが
近代という時代の精神だった。
それはどことなく
地中海の怪物たちを
狡知で倒していく
オデュッセウスに
繋がるようにも
見られる。
それは紛れもなく
理性の暴力性
という
アドルノが
主題とした
テーマである。
理性が
近代的個人の立脚点
でありながらも、
その限界に焦点を当てている。
ハイデガーは、
個人が共同現存在のまどろみから覚醒して、
ドイツ民族としての使命に目覚めなければならない、
と説いたわけであるが、
それが、
かつての神聖ローマ帝国という誇張を含んだ憧憬の土地を回復する、
というドイツ民族の「使命」を掲げるナチスのプロパガンダと共鳴してしまった。
アドルノは、
そもそもの共同現存在からの個人としての覚醒が、
集団的暴走と親和性があったことを念頭に置きながらも、
集団に埋没しない理性的な個人としての人間を提示した。
理性の暴力性に警鐘を鳴らしながらも、
主体性の原史に既に刻印されている理性から逃れる道は、
再び集団的暴走への道であると考えた。
計算的理性が近代的個人を産み出した源泉であるとしても、
理性から逃走し、
始源のまどろみへと回帰することはなお危険であると説いたのである。
もっとも、
アドルノが主観と客観との絶対的な分離に敵対的であり、
ことにその分離が主観による客観のひそかな支配を秘匿しているような場合には
いっそうそれに敵意を示したとは言っても、
それに替える彼の代案は、
これら二つの概念の完全な統一だとか、
自然のなかでの原初のまどろみへの回帰だとかをもとめるものではなかった。(「アドルノ」 岩波現代文庫 93ページ)
理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、
とアドルノは主張する。
「社会全体が体系化され、
諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、
それだけ人間そのものが
精神のおかげで創造的なものの属性である
絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、
慰めをもとめるようになるのである。」
言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、
マルクス主義的ヒューマニズムの説く
来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、
管理された世界のもつ
全体化する力の原像と解されるべきなのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 98ページ)
ここで、管理された世界のもつ全体化する力
というキーワード
を導きとして、
以下の丸山眞男の論考を
考えてみたい。
丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。
しかしながら天皇制が
近代日本の思想的「機軸」として
負った役割は
単にいわゆる
國體観念の教化と浸透という面に
尽くされるのではない。
それは政治構造としても、
また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、
機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。
(・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、
制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、
それが
制度自体と制度にたいする
人々の考え方をどのように規定しているか、
という、
いわば日本国家の認識論的構造にある。
これに関し、仲正昌樹は
「日本の思想講義」(作品社)において、
つぎのように述べている。
「國體」が融通無碍だという言い方をすると、
観念的なもののように聞こえるが、
そうではなく、
その観念に対応するように、
「経済・交通・教育・文化」の各領域における
「制度」も徐々に形成されていった。
「國體」観念をはっきり教義化しないので、
制度との対応関係も
最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、
国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、
目に見える効果をあげるようになった。
ということだ。
後期のフーコー(1926-84)に、
「統治性」という概念がある。
統治のための機構や制度が、
人々に具体的行動を取るよう指示したり、
禁止したりするだけでなく、
そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、
それを当たり前のことにしていく作用を意味する。
人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、
今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用)
社会全体が体系化され、
諸個人が事実上
その関数に貶めれられるようになればなるほど、
それだけ
人間そのものが
精神のおかげで
創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として
高められることに、
慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」
という言葉が何を表しているか、
自分の考えでは、
「社会全体が体系化され、
諸個人が事実上
その関数に
貶めれられるようになればなるほど」、
(疑似)宗教のように、
この世の全体を精神的な色彩で説明し、
現実生活では一個の歯車でしかない自分が、
それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、
そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、
救いを感じるようになる、という感じでしょうか。
まるでオウム真理教のようですね。
現代の市場型間接金融においては、
情報に基づいた信用こそが、
ある意味ではその人そのものである、
というのは、まさにその通りである、と思われる。
情報に基づいて、個人をランク付けし、
世界中の貸し手と借り手を結びつけた、
金融の実現されたユートピアだったはずが、
崩壊する時には一気に崩壊するシステミック・リスクも抱えている。
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より)
私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、
直観や好き嫌いによって信・不信を決める。
だが、信用とは本来そうしたものではないのか。
客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。
そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。
信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。
それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、
ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。
(略)
しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、
信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。
とくに、
資本主義が発達して、
血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、
広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、
リスクはますます大きくなるので、
リスク軽減の必要性が高まる。
そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、
他方では信用の〈合理化〉が進む。
(略)
リスク軽減のもうひとつの方向は、
信用の〈合理化〉としてあらわれる。
信用の合理化とは、
直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、
より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。
こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。
つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。
信用は、
個人の人格にかかわるものというより、
その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、
そのかぎりにおいて合理化され客観化される。
(略)
しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、
〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、
とくに経済生活の領域で、
信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。
その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、
さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。
と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、
まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93
ところで、
現実の問題として、
自立した個人から成る世界がすぐに出現するわけではない。
他者は、他者を認知する者にとって異質な存在である。
これを他者は「差異」であるということが同定された限りにおいてである。
差異は同一性の下でしか正当性を持ちえない。
同一性に吸収されない差異=他者は、排除される。
それを可能にしていたのが、祖先の存在であり、また神であった。
たとえ、異なる地位にあって、
通常は口を聞くことも、顔を見ることさえ許されなくとも、
共通の神を持っているという認識の下に、
異なる地位にある者同士が共同体を維持する。
地位を与えるのは神であり、
それに対してほとんどの者は疑問さえ抱かなかったのである。(p.177~178)
(中略)
カースト制は、総体として、閉鎖的で完結的な世界を築く。
そこでは、ウェーバーが「デミウルギー」と呼んだ、
手工業者が村に定住し、無報酬で奉仕する代わりに、
土地や収穫の分け前を受け取る制度が敷かれている。
このような制度では、商品経済が発達する可能性はほとんどない。
したがって、他者としての商人が、
共同体内によそものとして現れる可能性は低い。
これに対して、市場論理が浸透した世界では、
他者が他者として認知される。
それは、
複数の世界に属することを可能にする
包含の論理によって律せられている世界である。
このような世界が可能であるためには、
共同体の外部に位置する他者の明確なイメージが築かれる。
その推進者となるのが、商人であり、貨幣である。
それでは、なぜ貨幣が推進者となるのか。
それは、貨幣を通じて、
共同体の外部に存在するモノを手に入れ、
みずから生産するモノを売却することが可能になるからである。
共同体の外部が忌避すべき闇の空間でしかない状態から、
共同体の内と外に明確な境界が引かれ、
ある特定の共同体に属しながらも、
その外部にも同時に存在することを可能にするのが、
貨幣なのである。
他者が、貨幣と交換可能なモノ、つまり商品を売買したいという希望を掲げていれば、
それによって他者のイメージは固定され、
他者の不透明性を払拭できる。
こうして、貨幣は、共同体外部への関心を誘発していく。
そして、カースト制のような閉鎖的な社会とは大きく異なり、
ふたつの異なる世界において、
同一性を築こうとするのである。
もちろん、誰もが商人になるこのような世界がすぐに出現するわけではない。
そのためには、まず貨幣が複数の共同体のあいだで認知されなければならない。
そして、マルクスが注視したように、多くの者が賃金労働者として「労働力」を売るような状況が必要である。
そして、そうした状況が実際に現れてくるのが、マルクス自身が観察した通り、
一九世紀のイギリスなのである。
単独の世界に帰属することも、複数の世界に関わることも認める世界は、
労働が労働力として商品になり、
賃労働が普及する資本主義の世界においてである。(p.180~181) 「零度の社会」荻野昌弘著 世界思想社
ある共同体において、
共通の神を信じているということが、
その成員を共通の成員として成り立たしめるのであれば、
その共同体の外部に存在する異質な存在と、
その共同体を繋ぐのが、貨幣である。
なぜなら、
貨幣はある共同体においても、その外部においても通用する、
包含関係における共通要素だからである。(荻野昌弘)
だからこそ、
貨幣は経済の相互依存を通して平和をもたらす可能性を秘めている。(デービッド・ヒューム)
しかし、貨幣は、ある社会における間主観性(フッサール)を、他の社会にも押し付ける、侵食するような暴力性も秘めている。
ある社会における間主観性とは、
例えばミカンをある集合とみなせば、その要素、つまりその集合の要素としての一つ一つのミカンは、何千個、何万個あっても、すべて一つずつミカンとして数えることになる。
これは、物心のついていない子供や、狂人以外ならば、
その社会の決まりごととして受け入れられるからだ。
その一つ一つの計量可能性が、理性の暴力的な側面として現れる。(アドルノ)
理性の働きを物心のついていない子供や、狂人と対比させるならば、
「オデュッセイア」において、
ポリュペーモスの問いに対しウーティス(何者でもない)と答えるのは、
自らの自己同一性を偽る狡知であり、
セイレーンの性的誘惑から逃れるのも、
また理性の狡知である。
つまり、人間の理性の狡知は、複数のアイデンティティーを使い分けたり、性的欲望をコントロールする、といった、現代人が社会において暮らすうえで、必要な能力なのである。しかし、アドルノはその理性の狡知に、自己同一性の揺らぎや性的欲動といった、ニーチェ的欲動との相克を見て取るのである。
グローバリゼーションによって、
世界の富の大きさは拡大したが、
分配に著しい偏りが生じたことは、
論を俟たない。
日本においても、
新自由主義的な政策の結果、
正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。
そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、
自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。
エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、
旧来の中間層が、
自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、
生活も苦しくなってくると、
ドイツの場合は、
プロテスタンティズムのマゾ的心性が、
ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、
まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。
日本ではどうだろうか?
過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、
それは、
安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、
そうでなければ、
社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。
そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。
本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ)
グローバリゼーションが
後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、
グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、
反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、
日本に限ったことではないのかもしれない。
むしろ、
アドルノの言明を素直に読めば、
資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、
本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。
さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、
人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。
社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
いかんなー。
なんか、午前1時過ぎた頃からエンジンかかる体質になっちゃったなー。
最近は、午前2時過ぎとか3時に寝ても、朝8時くらいにスキッと起きられるようになったけど。
体質的に夜型朝型ってのは、生まれつきもあるらしいけどね。
でも、昼にまた寝る。
まさに働かないおじさん。
なぜ貨幣供給量を増やすと物価があがるのか? 貨幣数量説(再掲)
完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は古典派経済学の発想なので、完全雇用は常に達成されていると想定されているので、物価は貨幣量と貨幣の流通速度で決まる。 従って、貨幣量を増加させれば、物価は上がる。 「貨幣の所得流通速度が一定不変で,かつ伸縮的な価格メカニズムの作用により実質産出量(実質国民所得)の水準が長期の均衡値に一致するならば,貨幣数量の変化は国民所得の大きさや構成にはなんら影響を与えず,ただ物価水準を比例的に変化させると主張する説。」有斐閣経済辞典第4版
2022年7月3日日曜日
風にのこした過去の冷めた愛の言葉
どんなに心で愛していても、
もうあまり心を動かされるということがなくなってきた。
当然、見てくれで魅了されるということも、
ほとんど無くなりつつある。
もっとも、これは年齢によるものなんだろう。
女がなんだ?
世界の半分は女じゃねーか。
めちゃくちゃフラストレーション溜まる
今朝スマホが届いたのはいいが、よりによってこんな時にauが大規模通信障害起こして、
そのせいなのか知らんが、いつまで経っても回線が切り替わんねー。
朝からやってんのに。
こんなにフラストレーション溜まるのは久しぶりだぜ。
2022年7月2日土曜日
カノジョ論
女性と付き合ったことがない俺が言えた義理じゃないんだが、
いわゆるカノジョという存在について、
不思議に思うことがある。
仮に、ある男Aがある女Bと付き合ったとする。
毎日は会えないにしても、数日に一度は会うだろう。
メールやら電話やらは日にしょっちゅうやるだろう。
ところで、彼らは、散々コミュニケーションを取ったあとで、分かりあえたと思った結果、
付き合い始めたのだろうか?
それとも、付き合ってから、散々コミュニケーションを取ったあとで、分かり合うのだろうか?
もし後者ならば、付き合ってみても、既に分かり合ってるわけではないだろうから、
コミュニケーションを取るのは結構な勇気が要るだろうし、従って、ある程度は面倒くさいはずだ。
それが、付き合っているからには何でも話し合える、というのは、幻想なのではないか?
もし、そういう幻想を抱えたまま、頻繁にコミュニケーションを取り合っているとしたら、
それは、カレシ、カノジョ、という社会的ロールプレイングを演じているだけなのではないか?
そういうイメージは、連ドラとか漫画とかで、マスコミや文化産業によって作られたイメージを演じているだけなのではないだろうか?
そうでなかったら、よく知り合ってもいない女としょっちゅう連絡を取り合うなど、俺にとっては面倒臭いだけだ。
ほら、もうこの男めんどくさい、意味わかんない、ってなってる。
2022年7月1日金曜日
CONVERSATION IN ENGLISH
俺:Finland and Sweden have entered NATO. The mass media is warning this is the second cold war. But I think it’s not. Russia is not going beyond aggressing Ukraine. Putin doesn’t look like launching missiles into the Western Europe or the US. He doesn’t have the intention to fight the US. China is much more gigantic than Russia in both economic and military scale. But, albeit supposing China is aiming at the world's strongest country, I don’t believe it can create a globally peaceful regime. If there were to be pax-China, there would be no more benefits than the economy. It would cost too much to maintain it. China is just seeking an economic scale which is required to keep its people politically silent.
ジョンさん:President Eisenhower (a great man) warned the world about the “military-industrial complex” in 1960. NATO exists and expands today as an example of this. With the Warsaw Pact defunct, it serves no useful purpose nowadays except to further the aims of the military-industrial complex. I agree with you about Putin.
俺:I believe no country can create a peaceful world-wide regime without true democracy. Indeed, ideologies sometimes justify irrational activities, but no country except China itself and its allies can share a legitimacy to support China’s domination.
ジョンさん:As long as Biden is president, China will do whatever it wants in the world. It will have a free ride for the rest of Biden’s presidency, so Japan must accept this reality.
俺:It’s true. But what is China’s final goal ? If China swallows Taiwan and Japan, will China fight the US ? I can’t believe it’s reasonable.
ジョンさん:They want to be the world’s #1 superpower. They want the same power the USA had in the Cold War era. This does not entail actually attacking other countries, unless Taiwan declares independence. It might mean demanding the removal of American bases in Japan and Korea, which the Asian Leftist parties also want. It will entail replacing the USA as the major trading partner of all Asian-Pacific countries. It will mean China has unlimited access to Asian raw materials.
In essence, it simply means China will completely replace the USA as the main power in the Asia/Pacific region. Politically, it means authoritarian rulers will receive money and support from China just as democratic governments received American support during the Cold War.
Biden is allowing this to happen even as we speak. Taiwan will be sacrificed to China to prevent a major war. Japan will be forced to reject the 1960 Ampo (which the Japanese Left has always wanted). US bases will close. South Korea will likewise demand an American troop withdrawal. Perhaps the Chinese will allow the reunification of Korea once the Americans leave, but it will then become a Chinese satellite as it was before Japan became dominant after 1894.
I can see all this happening.
俺:So, will China try to forge its own territory to gain economic benefits ? Or, is China trying to make the world retrogress to the Cold War ? Even Japan during WW2 was driven by unleashed desire rather than economic needs. Is China the same as Japan ?
ジョンさん:China does not want actual war, it wants the fruits of war. China would be destroyed in a nuclear war with the USA so it will try to avoid that. Japanese militaristic culture of 1800s-1945 was different. War was seen as an extension of politics, as Clausewitz wrote. The world was a different place before the Atomic Bomb. Nuclear powers do not directly fight anymore. It is too risky. China can dominate Asia economically and intimidate America’s allies without resorting to war. As I mentioned, only Taiwan declaring its independence would trigger a shooting war, and Taiwan really has no desire to commit suicide. As long as America has weak leadership China can begin to intimidate Korea, Japan, Philippines, Vietnam and Singapore economically. Australia would be next. China is rapidly developing a powerful navy to challenge the American, Japanese and Australian navies. A combination of growing Chinese economic and military power plus weak American leadership will put increasing pressure on Asia-Pacific nations to gradually draw away from the US security umbrella and economic orbit. They will each cut their own deals with China to preserve a modicum if independence.
Interestingly, MacArthur saw the growing importance of the Asia-Pacific region long ago in the 1940s-1950s, but he was ridiculed by the “Europe First” American Establishment. They should have listened to him!!!
俺:It’s quite understandable. I hate Abe and his macho-spirited cronies. But I understood their worth to have political power. So, what should Japan do ?
ジョンさん:Japan has three choices: 1) Completely surrender to China’s designs 2) Wait for a change to America’s leadership 3) Make a real effort to mend fences with Korea and arrange a regional anti-China defense agreement of all nations threatened by China,
俺:Unfortunately, choice 3) seems to be the most difficult for Japanese leaders and their people. Choice 1) is possible but it is the doomed future. After all, choice 2) is the best and feasible.
ジョンさん:I know the Americans always push Japan and Korea to move on from their difficult past and face up to the shared present danger of China, but neither country has the political will to do so. Domestic political considerations always trump strategic interests it seems. I also feel it is incumbent on Japan to take the first step because Korea justifiably sees itself as the aggrieved party. Japan needs to muffle it’s extreme Right and finally deal honestly and justly with its past. Europeans have done this. It seems East Asian countries lack the same will.
俺:I can't agree with you more. Japanese people are so obsessed with ridiculous economic theories that they are irresponsible even to their descendants. I mean, they have been passing fiscal debts on to the future generations. So, it’s beyond their scope to concede to South Korea and form a strong alliance with it. Japanese people are too obsessed with the economy in front of them to think about the future.
復学
SFCに復学して、会計の授業の初回の授業の前に座っている時に、新入生が、しつこく何回生ですか?何回生ですか?って聞いてきて、
て・め・え!
俺がどんな苦労してここに座ってると思ってんだコラァ!!!
って言ってやりたかったね。
適当にごまかしたけど。
病気になったこと敢えて周知してたし、
相当後ろ指さされてたと思うけど、
よくまあ単位取ったね。
卒業は出来なかったけど。
大原
病院から出てきて、数ヶ月、食う時とウンコする時以外はひたすら寝る生活して、
これじゃいかんと思って、
教習所通ってなんとか自動車免許取って、
次に、大宮の大原に通い始めて、
国家2種(地方上級)コースの授業を受けてたんだけど、
内容は、法律、経済学、数的処理とかだった。
そこで、経済学って面白いな、もっとちゃんと勉強したいな、と思ったのが、
SFCに復学しようと思ったきっかけだった。
ところで、ネットで財務官僚をバカにするやつが掃いて捨てるほどいるが、
国家2種の数的処理でもまったくついていけなかった俺としては、
国家1種で、しかも財務省なんて、現人神レベルなのに、
財務官僚を馬鹿にしてるやつの神経が理解できない。
どうせ周りが財務官僚をバカにしてるからネットで騒いでるだけなんだろうが、
そうやって周りに流されてるだけの自分の愚かさに気づくことすらしない
テメーらは、所詮大馬鹿野郎なんだよ。
テカガミスト
気付いたら法律よりも経済学のほうが詳しくなってたけど、大学受験のときに、経済学部志望では決してなかったな。
まだインターネットとか普及してなかった時代だから、テレビで見るだけだったけど、
経済学者、あるいはその当時の流行りの言葉で言えば、エコノミスト
と呼ばれる人たちの、いかにもテキトーなノリが、不愉快だったのは記憶にある。
今でも、ネットで活躍してる自称経済評論家なんて、デタラメなのがいくらでもいるし。
英語がいくら出来ても、数学が絶望的にできないと、
センターで足切りされるから国立大学受けられなくて、
自動的に私立文系になるんだけど、
さらに、小論文が書けないと、自動的に慶応は無理だし、
私大文系といえども、看板学部は社会がクイズに近いので、数学で受けたほうが圧倒的に有利だから、
自動的に早稲田の社会科学部とか明青立法中に限られてくる。
結局ギリギリ、というか、ほとんど試験当日に小論文書けるようになったから、
SFC受かったわけだけど。
数学できない文系で、英語と社会はマストだけど、
2浪もして小論文書けないって、さみしいよね。
一応慶応ってことで、体面は保ったかたちにはなったけど、ほんとにギリギリだった。
病気になった直後とかは、自分は無理して慶応なんていう身分不相応のところに入ったのが間違いだった、
と、しばらくコンプレックスの塊だった。
なんで小論文が書けなかったかというと、二十歳になるまで本なんて馬鹿にして読まなかったんだけど、
本も読まないで小論文なんか書けるはずがない、ということに気づかなかった。
駿台の小論文の講座で、お題を出されて、書いては消し書いては消しをしているところを見て、
講師が、言葉が揺れてるね、
と言ったのが、本を読もうとするきっかけになった気がする。
とりあえず山崎正和の「不機嫌の時代」を読んで、
受験の前にトーマス・マンの「魔の山」を読んだ記憶がある。
どちらも、自分が言葉に出来ないモヤモヤした部分を突いていた、と言えば大げさなんだけど、
心に刺さるものがあった。
そもそも数学が出来ないのが問題なんだが、
2年も浪人して、自分で勉強してセンター試験レベルの問題も解けるようにならない時点で、
数学に向いてなかったんだと思う。
武蔵の教育がどうとかじゃなくて。
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