2022年7月19日火曜日

新日本風土記

大阪の道頓堀界隈を取り上げてるんだけど、 夜の和菓子屋ってのが出てきて、 キャバクラやら飲み屋の 無料紹介所のお兄さんが 和菓子 買いに来てたりするんだけど、 ふと、 飲み屋のほうが、 ウェブサイトにQRコードかなんか載っけて、 これをスマホで読み取ってくれたら 割引するサービスなんか始めたら、 どうなるんだろう? なぜそうしないんだろう? というのが不思議になった。 今だに 無料紹介所というのが 存在する経済合理性がわからない。 食べログみたいに、スマホで情報集めて、 オススメの店をランキングしたら、土地勘のない人間にとっても便利だろう。 でも、色気のない話だが、 そんな経済合理性を追求したら、 無料紹介所のお兄さんも職を失うし、 その結果もしかしたら 夜の和菓子屋も潰れるかもしれない。 しかし、 そういう「経済合理性」を 追求したのが、 新自由主義であり、グローバリゼーションではなかったのか? それの行き着いた先が、現代社会だろう。

9 件のコメント:

  1. 新井紀子さんが書いていたが、医者の診療を人工知能に代替させればいい、という話があるが、患者の「痛い」にも色々あるし、「どこ」が具合が悪いのかも、現実には人間の判断が欠かせない。なぜなら、人工知能にそんな曖昧な情報を与えても、何も出来ないからである。(人工知能の専門家である)氏だったら、人工知能に自分の症状の診断を委ねるなどということは怖くて出来ない、とのこと。

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  2. いまテレビ東京で、地方に行って、タクシーの運転手さんに、地元のウマい店を教えてもらう、という番組があるが、確かに、メシに限らず、自分の土地勘がない場所に行って、タクシーの運転手さんと喋って色々情報が得られる、ということはよくある。これも新井紀子さんが書いていたが、人工知能に「美味しいイタリアン料理店」を聞くのは意味があるが、「不味いイタリアン料理店」を聞くのは無意味だそうだ。(そういう情報が蓄積されていれば別だが。)つまり、人工知能が持っている情報というのは、検索しているだけなので、おのずから限界がある、ということらしい。それと比べれば、人間のタクシー運転手さんが持っている情報というのは、遥かに量的にも質的にも豊富だ。

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  3. 個人の意思決定に関する本をKindleにダウンロードしていて、ちょっと古い本だから、アローの厚生経済学の話なんかが出てくるんだけど、数学的に難しいことはわからんが、集団の規模の大小を問わず、独裁者というのが誕生することを数学的に証明していて、へえー、と思った。もちろん、数学的に証明されたところで、自分にはわかるはずはないんだが、人生経験上、そういう状態が実際に起こりうることは納得がいく。シンプルに、自分以外の人間全員が、こうだ!と言っていても、自分が、それは違う!ということは、民主主義社会において全く正当なことで、独裁を防ぐためには、そうしなければならない、ということが書かれてあった。

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  4. とはいっても、あまりに奇異であったり、非常識な意見を表明することも、避けなければならないらしい。とはいっても、これはあくまで投票という形で民主主義を成り立たしめる時に、あくまで形式的に要求される条件に過ぎず、価値判断の問題では全くないそうです。

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  5. (以下抜書き)もっとも、多くの人々が社会的選択に関心をもつことには、実はもう一つの理由が存在している。それは、近代経済学が消費者の購買行動や、財の組み合わせの選択行動をたよりに理論を構築しようとすることからくるのである。つまり、外にあらわれる行為は常に選択であって、順序づけではないというしだいである。
     しかし、社会的決定理論というものを厚生経済学の中にのみ位置づけるのではなく、人々の社会的な道徳判断をふくめた決定を扱うものとするならば、何も選択だけがすべてであるような限定をする必要はないのである。

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  6. 「『きめ方』の論理」 佐伯胖 ちくま学芸文庫 を読んでいるのですが、四分の一くらい読んだ限りでは、単純に順序をつけるのではなく、多様な価値観を包含する社会を作るのは、もっと難しい話らしい。

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  7. (以下抜書き)しかし、考えてみると、個人であろうと社会であろうと、「決定」というものは常に暫定的なものなのである。その時点で出来るかぎりの多くのことを考慮した上できめるのであるが、考慮の範囲が変われば、いつでも決定がくつがえされるというのが本来の姿なのではないだろうか。ひとたび「xはyより良い」と決定したら、永久にこれを変えることができないという方が不自然だとも言える。
     こう考えると、無関係対象からの独立性の矛盾を指摘したハンソンの定理は、「社会的決定は常に”開かれた”(オープン)なものでなければならない」ことの証明と考えることができる。

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  8. 暫定的にまとめると、井上俊先生が「詐欺が成り立たないところでは、社会もまた成り立ち得ない」というのは、先生も言っているように、詐欺が成り立つということは、人は他人を信用する能力を持っている裏返しだ、ということだろう。逆に言えば、他人を信用する能力を人が喪えば、社会は成り立ち得ない。他人を信じることが一種の賭けであるとしても。これだけ情報社会が発達しても、やはり人が人を信じるのは、一種の冒険だろう。

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  9. 社会的選択における「自由」の議論が、数学的手法を援用しながら進められていますが、単純に個人に選択の「自由」を与えていればいい、というものでもないようだ。そこに、なんらかの仲介者、言い換えれば無料紹介所のお兄さんのような存在の必要性が正当化されるのかもしれない。

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妄想卒論その7 (再掲)

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