2022年7月20日水曜日

新日本風土記にことよせて

大阪の道頓堀界隈を取り上げてるんだけど、 夜の和菓子屋ってのが出てきて、 キャバクラやら飲み屋の 無料紹介所のお兄さんが 和菓子 買いに来てたりするんだけど、 ふと、 飲み屋のほうが、 ウェブサイトにQRコードかなんか載っけて、 これをスマホで読み取ってくれたら 割引するサービスなんか始めたら、 どうなるんだろう? なぜそうしないんだろう? というのが不思議になった。 今だに 無料紹介所というのが 存在する経済合理性がわからない。 食べログみたいに、スマホで情報集めて、 オススメの店をランキングしたら、土地勘のない人間にとっても便利だろう。 でも、色気のない話だが、 そんな経済合理性を追求したら、 無料紹介所のお兄さんも職を失うし、 その結果もしかしたら 夜の和菓子屋も潰れるかもしれない。 しかし、 そういう「経済合理性」を 追求したのが、 新自由主義であり、グローバリゼーションではなかったのか? それの行き着いた先が、現代社会だろう。 なぜ大阪の道頓堀界隈では、キャバクラや飲み屋を無料で紹介する業者が生き延びているのか、といえば、 そういうサービスはモノの消費というより、コトの消費だから、というのが暫定的な答えだろう。 つまり、単に飲食をする、ということは、モノの消費であり、 食べログでも処理できるが、 ある種の社交場で接待を受ける、というのは、コトの消費であり、 場合によっては思想信条の表明でもあるから、 現在のアルゴリズムでは簡単には処理できないからかもしれない。 そもそも、人工知能は、新井紀子さんによれば、 四則演算の計算をしているだけであり、決してそれ以上のものではない。 つまり、価値判断は出来ない。 人間のモノの消費の選択に対して、最適解を提供することは出来るが、 価値判断を伴うようなコトの消費の選択肢を提示することは出来ない、と暫定的に結論づけておく。 ところで、コトの消費、言い換えればある種の価値観の選択を全く抜きにしたモノの消費、 ということ自体が、むしろ少ないのではないだろうか? ストーリー性を全く抜きにした単純なモノの消費ならば、 テレビなど広告媒体で流すコマーシャルは、 これほどメッセージ性に溢れる必然性は全くないはずだ。 単純なモノの消費しか許さない社会は、 おそらく共産主義社会ぐらいのものだろう。 実際に体験したことはないが。 わたしたちは選ぶという行為を通して、自分が正しいと思うコトや、自分が良いと思うコトを、他人の正しいと思っているコトや、良いと思っているコトとつきあわせてみようとしているのである。 社会的決定理論は従来、人々のモノの選択から社会のモノの選択をひき出す方式ばかりを考え、最適なモノをどう選ぶかに苦労してきた。しかし、これは大変な勘違いだったと言わざるを得ない。 従来の社会的決定理論は、人間に対する不信の念の上に築かれてきた。人は利己的である。人は自らの欲望を満たそうとしているだけだ。人は他人のことなど構うわけがない。むしろ、スキあらばつけ入ろうとねらっていると考えた方がよい。人は己れの得になりそうなことの計算については徹底的に合理的である。・・・このように、人は常に他人からイジワルされると想定し、イジケにイジケた上で、「それでも社会は何とか”均衡”に達することができるはずだ」と思い、決定理論家の役割は、そういう均衡解の存在性や、その安定性を保障するものであると考えてきた。 しかし、わたしたちは一体何を学んできたのだろうか。人間を狼だと仮定して考案される仕組みは、どんなに立派に見え、頑強に見えるオリをつくったと思っても、どこかに穴があり、別の狼の侵入をふせぎえない。一つのパラドックスを見つけては修正し、その修正が次のパラドックスを生む。 このようなイタチごっこを繰り返した挙げ句、情報技術によって支えられた効率的市場経済が地球規模に達した現在においても、 パラドックスを解決するために考案されたスキームが、また新たなパラドックスを産む、という連鎖を繰り返している。 こうして見ると、むしろ我々は、善も悪も併せ持つ人間の本性を受け入れて、それを前提とした社会を肯定するべきなのではないだろうか。 (以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。

3 件のコメント:

  1. コメント頂戴しました。

    〈私が選ぶ〉という行為は、私の志向と他者の志向を突き合わせ、つまりはコミットしようとする対話性を内包している、ということですね。
    小林くんのご論のマクラに、モノ的発想とコト的発想の対比もありましたが、まさに人はパンのみにて生くるものにあらずーー他者との関係性の上に展開するストーリー(人生の物語)抜きに生きるということはあり得ない…。
    井上俊といえば、元はというなら哲学から派生してきた案外、歴史の浅い社会学を日本の学術界に確たるものとして位置づけた草分け的存在のように思っていますが、まさに社会(学)というものが人と人との関係性の上に成り立つものであるという基本を、改めてしみじみ実感したことでした。

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  2. まあ、水商売の世界なんて、単純なモノの消費であるはずがないよね。それこそ、物語を消費してる世界の典型だよ。夢から覚めたら、玉手箱を開けた浦島太郎と一緒。

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  3. 新井紀子さんがテレビでコメントしていたことを覚えている範囲で書くと、アレクサとかに、体の不調を訴えて、Aという薬と、Bという薬、どちらを選択すればいいか?と聞いても、「面白い質問ですね。」とか答えてしまうらしい。

    それは、人工知能が、論理学と確率と統計学を基礎にして動いている以上、本質的な限界であって、アレクサの性能の問題ではないらしい。

    つまり、医学の知識が乏しい人間が、漠然とした症状だけ訴えても、そんな曖昧な情報からは、人工知能は何も判断できない、ということのようだ。

    それは、数理論理学を専門とする新井さんならば、特によく理解されていることなのだろう。

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