2022年7月4日月曜日

生きられる社会

だいたいやりたいことやり尽くして ふと自分の人生を振り返るとき どうしても 合理的な筋書き というものを作りたくなるのは自然のサガなんだけど、 あんまり合理的、 言い換えれば 理性的な筋書きを 仕立てなくても いいんじゃないか。 どこかに不合理な部分を 残しておいたほうが、 かえって健全なんじゃないか。 人間も社会も。 井上俊が 「詐欺が成り立ち得ないところでは、社会もまた成り立ち得ない。」(遊びの社会学) と言ったように、 社会も、どこかに余白を残しておいたほうが、 かえって 健全なんじゃないか。 赤塚不二夫のレレレのおじさんのように、 おそらく知的障害を 持っているような おじさんが 朝っぱらから ホウキで道を 掃除していても、 いいのではないか。 日本の山岳信仰で 男根に似た 巨石を崇める という風習は よく見られるが、 あれはただの巨石だ、 と、 自然界をアレゴリーで 捉える考え方を排除したのが 近代という時代の精神だった。 それはどことなく 地中海の怪物たちを 狡知で倒していく オデュッセウスに 繋がるようにも 見られる。 それは紛れもなく 理性の暴力性 という アドルノが 主題とした テーマである。 理性が 近代的個人の立脚点 でありながらも、 その限界に焦点を当てている。 ハイデガーは、 個人が共同現存在のまどろみから覚醒して、 ドイツ民族としての使命に目覚めなければならない、 と説いたわけであるが、 それが、 かつての神聖ローマ帝国という誇張を含んだ憧憬の土地を回復する、 というドイツ民族の「使命」を掲げるナチスのプロパガンダと共鳴してしまった。 アドルノは、 そもそもの共同現存在からの個人としての覚醒が、 集団的暴走と親和性があったことを念頭に置きながらも、 集団に埋没しない理性的な個人としての人間を提示した。 理性の暴力性に警鐘を鳴らしながらも、 主体性の原史に既に刻印されている理性から逃れる道は、 再び集団的暴走への道であると考えた。 計算的理性が近代的個人を産み出した源泉であるとしても、 理性から逃走し、 始源のまどろみへと回帰することはなお危険であると説いたのである。 もっとも、 アドルノが主観と客観との絶対的な分離に敵対的であり、 ことにその分離が主観による客観のひそかな支配を秘匿しているような場合には いっそうそれに敵意を示したとは言っても、 それに替える彼の代案は、 これら二つの概念の完全な統一だとか、 自然のなかでの原初のまどろみへの回帰だとかをもとめるものではなかった。(「アドルノ」 岩波現代文庫 93ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、 とアドルノは主張する。 「社会全体が体系化され、 諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、 それだけ人間そのものが 精神のおかげで創造的なものの属性である 絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、 慰めをもとめるようになるのである。」 言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、 マルクス主義的ヒューマニズムの説く 来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、 管理された世界のもつ 全体化する力の原像と解されるべきなのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 98ページ) ここで、管理された世界のもつ全体化する力 というキーワード を導きとして、 以下の丸山眞男の論考を 考えてみたい。 丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。 しかしながら天皇制が 近代日本の思想的「機軸」として 負った役割は 単にいわゆる 國體観念の教化と浸透という面に 尽くされるのではない。 それは政治構造としても、 また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、 機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。 (・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、 制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、 それが 制度自体と制度にたいする 人々の考え方をどのように規定しているか、 という、 いわば日本国家の認識論的構造にある。 これに関し、仲正昌樹は 「日本の思想講義」(作品社)において、 つぎのように述べている。 「國體」が融通無碍だという言い方をすると、 観念的なもののように聞こえるが、 そうではなく、 その観念に対応するように、 「経済・交通・教育・文化」の各領域における 「制度」も徐々に形成されていった。 「國體」観念をはっきり教義化しないので、 制度との対応関係も 最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、 国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、 目に見える効果をあげるようになった。 ということだ。 後期のフーコー(1926-84)に、 「統治性」という概念がある。 統治のための機構や制度が、 人々に具体的行動を取るよう指示したり、 禁止したりするだけでなく、 そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、 それを当たり前のことにしていく作用を意味する。 人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、 今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用) 社会全体が体系化され、 諸個人が事実上 その関数に貶めれられるようになればなるほど、 それだけ 人間そのものが 精神のおかげで 創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として 高められることに、 慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」 という言葉が何を表しているか、 自分の考えでは、 「社会全体が体系化され、 諸個人が事実上 その関数に 貶めれられるようになればなるほど」、 (疑似)宗教のように、 この世の全体を精神的な色彩で説明し、 現実生活では一個の歯車でしかない自分が、 それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、 そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、 救いを感じるようになる、という感じでしょうか。 まるでオウム真理教のようですね。 現代の市場型間接金融においては、 情報に基づいた信用こそが、 ある意味ではその人そのものである、 というのは、まさにその通りである、と思われる。 情報に基づいて、個人をランク付けし、 世界中の貸し手と借り手を結びつけた、 金融の実現されたユートピアだったはずが、 崩壊する時には一気に崩壊するシステミック・リスクも抱えている。 (以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、 直観や好き嫌いによって信・不信を決める。 だが、信用とは本来そうしたものではないのか。 客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。 そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。 信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。 それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、 ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、 信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。 とくに、 資本主義が発達して、 血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、 広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、 リスクはますます大きくなるので、 リスク軽減の必要性が高まる。 そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、 他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、 信用の〈合理化〉としてあらわれる。 信用の合理化とは、 直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、 より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。 こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。 つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。 信用は、 個人の人格にかかわるものというより、 その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、 そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、 〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、 とくに経済生活の領域で、 信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。 その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、 さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。 と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、 まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93 ところで、 現実の問題として、 自立した個人から成る世界がすぐに出現するわけではない。 他者は、他者を認知する者にとって異質な存在である。 これを他者は「差異」であるということが同定された限りにおいてである。 差異は同一性の下でしか正当性を持ちえない。 同一性に吸収されない差異=他者は、排除される。 それを可能にしていたのが、祖先の存在であり、また神であった。 たとえ、異なる地位にあって、 通常は口を聞くことも、顔を見ることさえ許されなくとも、 共通の神を持っているという認識の下に、 異なる地位にある者同士が共同体を維持する。 地位を与えるのは神であり、 それに対してほとんどの者は疑問さえ抱かなかったのである。(p.177~178) (中略) カースト制は、総体として、閉鎖的で完結的な世界を築く。 そこでは、ウェーバーが「デミウルギー」と呼んだ、 手工業者が村に定住し、無報酬で奉仕する代わりに、 土地や収穫の分け前を受け取る制度が敷かれている。 このような制度では、商品経済が発達する可能性はほとんどない。 したがって、他者としての商人が、 共同体内によそものとして現れる可能性は低い。 これに対して、市場論理が浸透した世界では、 他者が他者として認知される。 それは、 複数の世界に属することを可能にする 包含の論理によって律せられている世界である。 このような世界が可能であるためには、 共同体の外部に位置する他者の明確なイメージが築かれる。 その推進者となるのが、商人であり、貨幣である。 それでは、なぜ貨幣が推進者となるのか。 それは、貨幣を通じて、 共同体の外部に存在するモノを手に入れ、 みずから生産するモノを売却することが可能になるからである。 共同体の外部が忌避すべき闇の空間でしかない状態から、 共同体の内と外に明確な境界が引かれ、 ある特定の共同体に属しながらも、 その外部にも同時に存在することを可能にするのが、 貨幣なのである。 他者が、貨幣と交換可能なモノ、つまり商品を売買したいという希望を掲げていれば、 それによって他者のイメージは固定され、 他者の不透明性を払拭できる。 こうして、貨幣は、共同体外部への関心を誘発していく。 そして、カースト制のような閉鎖的な社会とは大きく異なり、 ふたつの異なる世界において、 同一性を築こうとするのである。 もちろん、誰もが商人になるこのような世界がすぐに出現するわけではない。 そのためには、まず貨幣が複数の共同体のあいだで認知されなければならない。 そして、マルクスが注視したように、多くの者が賃金労働者として「労働力」を売るような状況が必要である。 そして、そうした状況が実際に現れてくるのが、マルクス自身が観察した通り、 一九世紀のイギリスなのである。 単独の世界に帰属することも、複数の世界に関わることも認める世界は、 労働が労働力として商品になり、 賃労働が普及する資本主義の世界においてである。(p.180~181) 「零度の社会」荻野昌弘著 世界思想社 ある共同体において、 共通の神を信じているということが、 その成員を共通の成員として成り立たしめるのであれば、 その共同体の外部に存在する異質な存在と、 その共同体を繋ぐのが、貨幣である。 なぜなら、 貨幣はある共同体においても、その外部においても通用する、 包含関係における共通要素だからである。(荻野昌弘) だからこそ、 貨幣は経済の相互依存を通して平和をもたらす可能性を秘めている。(デービッド・ヒューム) しかし、貨幣は、ある社会における間主観性(フッサール)を、他の社会にも押し付ける、侵食するような暴力性も秘めている。 ある社会における間主観性とは、 例えばミカンをある集合とみなせば、その要素、つまりその集合の要素としての一つ一つのミカンは、何千個、何万個あっても、すべて一つずつミカンとして数えることになる。 これは、物心のついていない子供や、狂人以外ならば、 その社会の決まりごととして受け入れられるからだ。 その一つ一つの計量可能性が、理性の暴力的な側面として現れる。(アドルノ) 理性の働きを物心のついていない子供や、狂人と対比させるならば、 「オデュッセイア」において、 ポリュペーモスの問いに対しウーティス(何者でもない)と答えるのは、 自らの自己同一性を偽る狡知であり、 セイレーンの性的誘惑から逃れるのも、 また理性の狡知である。 つまり、人間の理性の狡知は、複数のアイデンティティーを使い分けたり、性的欲望をコントロールする、といった、現代人が社会において暮らすうえで、必要な能力なのである。しかし、アドルノはその理性の狡知に、自己同一性の揺らぎや性的欲動といった、ニーチェ的欲動との相克を見て取るのである。 グローバリゼーションによって、 世界の富の大きさは拡大したが、 分配に著しい偏りが生じたことは、 論を俟たない。 日本においても、 新自由主義的な政策の結果、 正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。 そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、 自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、 旧来の中間層が、 自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、 生活も苦しくなってくると、 ドイツの場合は、 プロテスタンティズムのマゾ的心性が、 ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、 まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、 それは、 安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、 そうでなければ、 社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが 後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、 グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、 反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、 日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、 アドルノの言明を素直に読めば、 資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、 本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、 人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)

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