2022年8月31日水曜日

青空文庫

いずこへ 坂口安吾  私はそのころ耳を澄ますようにして生きていた。もっともそれは注意を集中しているという意味ではないので、あべこべに、考える気力というものがなくなったので、耳を澄ましていたのであった。  私は工場街のアパートに一人で住んでおり、そして、常に一人であったが、女が毎日通ってきた。そして私の身辺には、釜かま、鍋なべ、茶碗、箸はし、皿、それに味噌みその壺つぼだのタワシだのと汚らしいものまで住みはじめた。 「僕は釜だの鍋だの皿だの茶碗だの、そういうものと一緒にいるのが嫌いなんだ」  と、私は品物がふえるたびに抗議したが、女はとりあわなかった。 「お茶碗もお箸も持たずに生きてる人ないわ」 「僕は生きてきたじゃないか。食堂という台所があるんだよ。茶碗も釜も捨ててきてくれ」  女はくすりと笑うばかりであった。 「おいしい御飯ができますから、待ってらっしゃい。食堂のたべものなんて、飽きるでしょう」  女はそう思いこんでいるのであった。私のような考えに三文さんもんの真実性も信じていなかった。  まったく私の所持品に、食生活に役立つ器具といえば、洗面の時のコップが一つあるだけだった。私は飲んだくれだが、杯さかずきも徳利とっくりも持たず、ビールの栓ぬきも持っていない。部屋では酒も飲まないことにしていた。私は本能というものを部屋の中へ入れないことにしていたのだが食物よりも先まず第一に、女のからだが私の孤独の蒲団ふとんの中へ遠慮なくもぐりこむようになっていたから、釜や鍋が自然にずるずる住みこむようになっても、もはや如是我説にょぜがせつを固執するだけの純潔に対する貞節の念がぐらついていた。  人間の生き方には何か一つの純潔と貞節の念が大切なものだ。とりわけ私のようにぐうたらな落伍者らくごしゃの悲しさが影身にまで泌しみつくようになってしまうと、何か一つの純潔とその貞節を守らずには生きていられなくなるものだ。  私はみすぼらしさが嫌いで、食べて生きているだけというような意識が何より我慢ができないので、貧乏するほど浪費する、一ヶ月の生活費を一日で使い果し、使いきれないとわざわざ人に呉くれてやり、それが私の二十九日の貧乏に対する一日の復讐ふくしゅうだった。  細く長く生きることは性来私のにくむところで、私は浪費のあげくに三日間ぐらい水を飲んで暮さねばならなかったり下宿や食堂の借金の催促で夜逃げに及ばねばならなかったり落武者おちむしゃの生涯は正史にのこる由よしもなく、惨さん又惨、当人に多少の心得があると、笑いださずにいられなくなる。なぜなら、細々と毎日欠かさず食うよりは、一日で使い果して水を飲み夜逃げに及ぶ生活の方を私は確信をもって支持していた。私は市井しせいの屑くずのような飲んだくれだが後悔だけはしなかった。  私が鍋釜食器類を持たないのは夜逃げの便利のためではない。こればかりは私の生来の悲願であって――どうも、いけない、私は生れついてのオッチョコチョイで、何かというとむやみに大袈裟おおげさなことを言いたがるので、もっともこうして自分をあやしながら私は生きつづけてきたのだ。これは私の子守唄こもりうたであった。ともかく私はただ食って生きているだけではない、という自分に対する言訳のために、茶碗ひとつ、箸一本を身辺に置くことを許さなかった。  私の原稿はもはや殆ほとんど金にならなかった。私はまったく落伍者であった。私は然しかし落伍者の運命を甘受していた。人はどうせ思い通りには生きられない。桃山城で苛々いらいらしている秀吉と、アパートの一室で朦朧もうろうとしている私とその精神の高低安危にさしたる相違はないので、外形がいくらか違うというだけだ。ただ私が憂うれえる最大のことは、ともかく秀吉は力いっぱいの仕事をしており、落伍者という萎縮いしゅくのために私の力がゆがめられたり伸びる力を失ったりしないかということだった。  思えば私は少年時代から落伍者が好きであった。私はいくらかフランス語が読めるようになると長島萃ながしまあつむという男と毎週一回会合して、ルノルマンの「落伍者ラテ」という戯曲を読んだ。(もっともこの戯曲は退屈だったが)私は然しもっと少年時代からポオやボードレエルや啄木たくぼくなどを文学と同時に落伍者として愛しており、モリエールやヴォルテールやボンマルシェを熱愛したのも人生の底流に不動の岩盤を露呈している虚無に対する熱愛に外ほかならなかった。然しながら私の落伍者への偏向は更にもっとさかのぼる。私は新潟中学というところを三年生の夏に追いだされたのだが、そのとき、学校の机の蓋ふたの裏側に、余よは偉大なる落伍者となっていつの日か歴史の中によみがえるであろうと、キザなことを彫ほってきた。もとより小学生の私は大将だの大臣だの飛行家になるつもりであったが、いつごろから落伍者に志望を変えたのであったか。家庭でも、隣近所、学校でも憎まれ者の私は、いつか傲然ごうぜんと世を白眼視するようになっていた。もっとも私は稀代きたいのオッチョコチョイであるから、当時流行の思潮の一つにそんなものが有ったのかも知れない。  然し、少年時代の夢のような落伍者、それからルノルマンのリリックな落伍者、それらの雰囲気的な落伍者と、私が現実に落ちこんだ落伍者とは違っていた。  私の身辺にリリスムはまったくなかった。私の浪費精神を夢想家の甘さだと思うのは当らない。貧乏を深刻がったり、しかめっ面をして厳しい生き方だなどという方が甘ったれているのだと私は思う。貧乏を単に貧乏とみるなら、それに対処する方法はあるので、働いて金をもうければよい。単に食って生きるためなら必ず方法はあるもので、第一、飯が食えないなどというのは元来がだらしのないことで、深刻でもなければ厳粛でもなく、馬鹿馬鹿しいことである。貧乏自体のだらしなさや馬鹿さ加減が分らなければ文学などはやらぬことだ。  私は食うために働くという考えがないのだから、貧乏は仕方がないので、てんから諦あきらめて自分の馬鹿らしさを眺めていた。遊ぶためなら働く。贅沢ぜいたくのため浪費のためなら働く。けれども私が働いてみたところでとても意にみちる贅沢豪奢ごうしゃはできないから、結局私は働かないだけの話で、私の生活原理は単純明快であった。  私は最大の豪奢快楽を欲し見つめて生きており多少の豪奢快楽でごまかすこと妥協することを好まないので、そして、そうすることによって私の思想と文学の果実を最後の成熟のはてにもぎとろうと思っているので、私は貧乏はさのみ苦にしていない。夜逃げも断食も、苦笑以外にさしたる感懐はない。私の見つめている豪奢悦楽は地上に在あり得ず、歴史的にも在り得ず、ただ私の生活の後側にあるだけだ。背中合せに在るだけだった。思えば私は馬鹿な奴であるが、然し、人間そのものが馬鹿げたものなのだ。  ただ私が生きるために持ちつづけていなければならないのは、仕事、力への自信であった。だが、自信というものは、崩れる方がその本来の性格で、自信という形では一生涯に何日も心に宿ってくれないものだ。此奴こいつは世界一正直で、人がいくらおだててくれても自らを誤魔化すことがない。私とておだてられたり讃ほめたてられたりしたこともあったが、自信の奴は常に他の騒音に無関係なしろもので、その意味では小気味の良い存在だったが、これをまともに相手にして生きるためには、苦味にあふれた存在だ。  私は貧乏を意としない肉体質の思想があったので、雰囲気的な落伍者になることはなく、抒情的じょじょうてきな落伍者気分や厭世観えんせいかんはなかった。私は落伍者の意識が割合になかったのである。その代り、常に自信と争わねばならず、何等か実質的に自信をともかく最後の一歩でくいとめる手段を忘れることができない。実質的に――自信はそれ以外にごまかす手段のないものだった。  食器に対する私の嫌悪は本能的なものであった。蛇を憎むと同じように食器を憎んだ。又私は家具というものも好まなかった。本すらも、私は読んでしまうと、特別必要なもの以外は売るようにした。着物も、ドテラとユカタ以外は持たなかった。持たないように「つとめた」のである。中途半端な所有慾しょゆうよくは悲しく、みすぼらしいものだ。私はすべてを所有しなければ充みち足りぬ人間だった。        ★  そんな私が、一人の女を所有することはすでに間違っているのである。  私は女のからだが私の部屋に住みこむことだけ食い止めることができたけれども、五十歩百歩だ。鍋釜食器が住みはじめる。私の魂は廃頽はいたいし荒廃した。すでに女を所有した私は、食器を部屋からしめだすだけの純潔に対する貞節を失ったのである。  私は女がタスキをかけるのは好きではない。ハタキをかける姿などは、そんなものを見るぐらいなら、ロクロ首の見世物女を見に行く方がまだましだと思っている。部屋のゴミが一寸の厚さにつもっても、女がそれを掃はくよりは、ゴミの中に坐っていて欲しいと私は思う。私が取手とりでという小さな町に住んでいたとき、私の顔の半分が腫はれ、ポツポツと原因不明の膿うみの玉が一銭貨幣ぐらいの中に点在し、尤もっとも痛みはないのである。ちょうど中村地平と真杉静枝が遊びにきて、そのとき真杉静枝が、蜘蛛くもが巣をかけたんじゃないかしら、と言ったので、私は歴々と思いだした。まさしく蜘蛛が巣をかけたのである。私は深夜にふと目がさめて、天井と私の顔にはられた蜘蛛の巣を払いのけたのであった。私は今でも不思議に思っているのであるが、真杉静枝はなぜ蜘蛛の巣を直覚したのだろう? こんなことを考えつくのは感嘆すべきことであるよりも、凡およそ馬鹿馬鹿しいことではないか。  新しい蜘蛛の巣は綺麗きれいなものだ。古い蜘蛛の巣はきたなく厭いやらしく蜘蛛の貪慾どんよくが不潔に見えるが、新しい蜘蛛の巣は蜘蛛の貪慾まで清潔に見え、私はその中で身をしばられてみたいと思ったりする。新鮮な蜘蛛の巣のような妖婦ようふを私は好きであるが、そんな人には私はまだ会ったことがない。日本にポピュラーな妖婦の型は古い蜘蛛の巣の主人が主で、弱さも強さも肉慾的であり、私は本当の妖婦は肉慾的ではないように思う。小説を書く女の人に本当の妖婦はいない。「リエゾン・ダンジュルーズ」の作中人物がそう言っているのだが、私もそれは本当だと思う。  私は妖婦が好きであるが、本当の妖婦は私のような男は相手にしないであろう。逆さにふってふりまわしても出てくるものはニヒリズムばかり、外ほかには何もない。左様さよう。外にうぬぼれがあるか。当人は不羈独立ふきどくりつの魂と言う。鼻持ちならぬ代物しろものだ。  人生の疲労は年齢には関係がない。二十九の私は今の私よりももっと疲労し、陰鬱いんうつで、人生の衰亡だけを見つめていた。私は私の女に就ついて、何も描写する気持がない。私の所有した女は私のために良人おっとと別れた女であった。否いなむしろ、良人と別れるために私と恋をしたのかも知れない。それが多分正しいのだろう。  その当座、私達はその良人なる人物をさけて、あの山この海、温泉だの古い宿場の宿屋だの、泊り歩いていた。私は始めから特に女を愛してはいなかった。所有する気持もなかった。ただ当あてもなく逃げまわる旅寝の夢が、私の人生の疲労に手ごろな感傷を添え、敗残の快感にいささかうつつをぬかしているうちに、女が私の所有に確定するような気分的結末を招来してしまっただけだ。良人を嫌いぬいて逃にげ廻まわる女であったが、本質的にタスキをかけた女であり、私と知る前にはさるヨーロッパの紳士と踊り歩いたりしていた女でありながら、私のために、味噌汁をつくることを喜ぶような女であった。  女が私の属性の中で最も憎んでいたものは不羈独立の魂であった。偉い芸術家になどなってくれるなと言うのである。平凡な人間のままで年老い枯木の如ごとく一緒に老いてみたいというのである。私が老眼鏡をかけて新聞を読んでいる。女も老眼鏡をかけて私のシャツのボタンをつけている。二人の腰は曲っている。そして背中に陽ひが当っている。女はその光景を私に語るのである。そうなりたいのは女の本心であった。いくらかの土地を買って田舎いなかへ住みましょうよ。頻しきりに女はそう言うのだ。  そういう女だから私が不満なわけではない。元々私が女を「所有」したことがいけないので、私は女の愛情がうるさくて仕方がなかった。 「ほかに男をつくらないか。そしてその人と正式に結婚してくれないかね」  と私は言うが、女がとりあわないのにも理由があり、私は甚だ嫉妬しっと深く、嫉妬というより負け嫌いなのだ。女が他の男に好意をもつことに本能的に怒りを感じた。そんな怒りは三日もたてば忘れ果て、女の顔も忘れてしまう私なのだが、現在に処して私の怒りの本能はエネルギッシュで、あくどい。女が私の言葉を信用せず、私の愛情を盲信するにも一応自然な理由があった。  私が深夜一時頃、時々酒を飲みに行く十銭スタンドがあった。屋台のような構えになっているので二時三時頃まで営業してもめったに巡査も怒らない仕組で、一時頃酒が飲みたくなる私には都合の良い店であった。三十ぐらいの女がやっており、客が引上げると戸板のようなものを椅子いすの上へ敷いてその上へねむるのだそうで、非常に多淫たいんな女で、酔っ払うと客をとめる。けれども百万の人にもましてうすぎたない不美人で、私も時々泊れと誘われたが泊る気持にはとてもならない。土間に寝るのが厭なんでしょう、私があなたの所へ泊りに行くからアパートを教えて、と言うが、私はアパートも教えなかった。  この女には亭主があった。兵隊上りで、張作霖ちょうさくりんの爆死事件に鉄路に爆弾を仕掛けたという工兵隊の一人で、その後の当分は外出どめのカンヅメ生活がたのしかった、とそんな話を私にきかせてくれた。無頼の徒で、どこかのアパートにいるのだが、女は亭主を軽蔑しきっており、客の中から泊る勇士がない時だけ亭主を泊めてやる。亭主は毎晩見廻りに来て泊る客がある時は帰って行き、ヤキモチは焼かない代りに三、四杯の酒と小づかいをせびって行く。この男が亭主だということは私以外の客は知らない。私は女に誘われても泊らないので亭主は私に好意を寄せて打ち開けて話し、女も私には隠さず、あのバカ(女は男をそうよんだ)ヤキモチも焼かない代りに食いついてエモリみたいに離れないのよ、と言った。私と男二人だけで外ほかに客のない時は、今晩泊めろ、泊めてやらない、ネチネチやりだし、男が暴力的になると女が一そう暴力的にバカヤロー行ってくれ、水をひっかける、と言いも終らず皿一杯の水をひっかけ、このヤロー、男がいきなり女の横ッ面をひっぱたく、女が下のくぐりをあけて這はいだしてきて武者ぶりつき椅子をふりあげて力まかせに男に投げつけるのだ。女は殺気立つと気違いだった。ガラスは割れる、徳利ははねとぶ。男はあきらめて口笛を吹いて帰って行く。好色多淫、野犬の如くであるが、亭主にだけは妙に意地をはるのである。  男は立派な体格で、苦味走った好男子で、汚い女にくらべれば比較にならず、客のなかでこの男ほど若くて好い男は見当らぬのだから笑わせる。天性の怠け者で、働く代りに女を食い物にする魂の低さが彼を卑しくしていた。その卑しさは女にだけは良く分り、又、事情を知る私にも分るが、ほかの人には分らない。彼がムッツリ酒をのんでいると、知らない客は場違いの高級の客のように遠慮がちになるほどだ。彼は黒眼鏡をかけていた。それはその男の趣味だった。  ある夜更よふけすでに三時に近づいており客は私と男と二人であった。女はかなり酔っており、その晩は亭主を素直に泊める約束をむすんだ上で、今晩は特別私におごるからと女が一本男が一本、むりに私に徳利を押しつけた。そこへ新米の刑事が来た。新米と云っても年齢は四十近い鼻ヒゲをたてた男だ。酒をのんで露骨に女を口説くどきはじめたが、以前にも泊りこんだことがあるのは口説き方の様子で察しることが容易であった。女は応じない。応じないばかりでなく、あらわに刑事をさげすんで、商売の弱味で仕方なしに身体をまかせてやるのに有難いとも思わずに、うぬぼれるな、女は酔っていたので婉曲えんきょくに言っていても、露骨であった。刑事は、その夜の泊り客は私であり、そのために、女が応じないのだと考えた。  私はそのときハイキング用の尖端せんたんにとがった鉄のついたステッキを持っていた。私はステッキを放したことのない習慣で、そのかみはシンガポールで友達が十弗ドルで買ったという高級品をついていたが、酔っ払って円タクの中へ置き忘れ、つまらぬ下級品をつくよりはとハイキング用のステッキを買ってふりまわしていた。私の失った籐とうのステッキは先がはずれて神田かんだの店で修繕をたのんだとき、これだけの品は日本に何本もない物ですと主人が小僧女店員まで呼び集めて讃嘆して見せたほどの品物であった。一度これだけのステッキを持つと、まがい物の中等品は持てないのだ。  貴様、ちょっと来い。刑事はいきなり私の腕をつかんだ。 「バカヤロー。貴様がヨタモノでなくてどうする。そのステッキは人殺しの道具じゃないか」 「これはハイキングのステッキさ。刑事が、それくらいのことを知らないのかね」 「この助平」  女が憤然立上った。 「この方はね、私が泊れと言っても泊ったことのない人なんだ。アパートをきいても教えてくれないほどの人なんだ。見損うな」  そこで刑事は私のことはあきらめたのである。そこで今度は男の腕をつかんだ。男は前にも留置場へ入れられたことがあり、刑事とは顔ナジミであった。 「貴様、まだ、うろついているな。その腕時計はどこで盗んだ」 「貰もらったんですよ」 「いいから、来い」  男は馴なれているから、さからわなかった。落付いて立上たちあがって、並んで外へでた。そのとき女は椅子を踏み台にしてスタンドの卓をとび降りて跣足はだしでとびだした。卓の上の徳利とコップが跳はねかえって落ちて割れ、女は刑事にむしゃぶりついて泣なき喚わめいた。 「この人は私の亭主だい。私の亭主をどうするのさ」  私はこの言葉は気に入った。然し女は吠ほえるように泣きじゃくっているので、スタンドの卓を飛び降りた疾風しっぷうのような鋭さも竜頭蛇尾であった。刑事はいくらか呆気あっけにとられたが女の泣き方がだらしがないので、ひるまなかった。 「この人は本当にこの女の人の旦那だんなさんです」  と私も出て行って説明したが、だめだった。男は私に黙礼して、落付いて、肩をならべて行ってしまった。そのときだ、ちょうどそこに露路ろじがあり、露路の奥から私の女が出てきたのだ。女は黒い服に黒い外套がいとうをきており、白い顔だけが浮いたように街燈のほの明りの下に現れたとき、私はどういうわけなのか見当がつかなかったが、非常に不快を感じた。私達のつながりの宿命的な不自然に就て、胸につきあがる怒りを覚えた。  私の女は私に、行きましょう、と言った。当然私が従わねばならぬ命令のようなものと、優越のようなものが露骨であった。私はむらむらと怒りが燃えた。私は黙って店内へ戻って酒をのみはじめた。私の前には女と男が一本ずつくれた二本の酒があるのだが、私はもはや吐き気を催して実際は酒の匂いもかぎたくなかった。女は帰らないの、と言ったが、帰らない、君だけ帰れ、女は怒って行ってしまった。  ところが私は散々で、私はスタンドの気違い女に追いだされてしまったのである。この女は逆上すると気違いだ。行って呉れ、このヤロー、気取りやがるな、と女は私に喚いた。なんだい、あいつが彼女かい、いけ好かない、行かなきゃ水をぶっかけてやるよ。そして立ち去る私のすぐ背中にガラス戸をガラガラ締めて、アバヨ、もううちじゃ飲ませてやらないよ、とっとと消えてなくなれ、と言った。  私の女が夜更の道を歩いてきたのには理由があって、女のもとへ昔の良人がやってきて、二人は数時間睨にらみ合っていたが、女は思いたって外へでた。男は追わなかったそうである。そして私のアパートへ急ぐ途中、偶然、奇妙な場面にぶつかって、露路にかくれて逐一ちくいち見とどけたのであった。女の心事はいささか悲愴ひそうなものがあったが、私のようなニヒリストにはただその通俗が鼻につくばかり、私は蒲団をかぶって酔いつぶれ寝てしまう、女は外套もぬがず、壁にもたれて夜を明し、明け方私をゆり起した。女はひどく怒っていた。女は夜が明けたら二人で旅行にでようと言っていたのだ。然し、私も怒っていた。起き上ると、私は言った。 「なぜ昨日の出来事のようなときに君は横から飛びだしてきて僕に帰ろうと命令するのだ。君は僕を縛ることはできないのだ。僕の生活には君の関係していない部分がある。たとえば昨日の出来事などは君には無関係な出来事だ。あの場合君に許されている特権は僕の留守の部屋へ勝手に上りこんで僕の帰りを待つことができるというだけだ。君が偶然あの場所を通りかかったということによって僕の行為に掣肘せいちゅうを加える何の権力も生れはしない。君と僕とのつながりには、つながった部分以上に二人の自由を縛りあう何の特権も有り得ないのだ」  女は極度に強情であったが、他にさしせまった目的があるときは、そのために一時を忍ぶ方法を心得ていた。彼女は否応いやおうなしに私を連れだして汽車に乗せてしまい、その汽車が一時間も走って麦畑の外ほかに何も見えないようなところへさしかかってから 「自由を束縛してはいけないたって、女房ですもの、当然だわ」  もはや私は答えなかった。私が女を所有したことがいけないのだ。然し、それよりも、もっと切ないことがある。それは私が、私自身を何一つ書き残していない、ということだった。私はそのころラディゲの年齢を考えてほろ苦くなる習慣があった。ラディゲは二十三で死んでいる。私の年齢は何という無駄な年齢だろうと考える。今はもう馬鹿みたいに長く生きすぎたからラディゲの年齢などは考えることがなくなったが、年齢と仕事の空虚を考えてそのころは血を吐くような悲しさがあった。私はいったいどこへ行くのだろう。この汽車の旅行は女が私を連れて行くが、私の魂の行く先は誰が連れて行くのだろうか。私の魂を私自身が握っていないことだけが分った。これが本当の落伍者だ。生計的に落魄らくはくし、世間的に不問に附ふされていることは悲劇ではない。自分が自分の魂を握り得ぬこと、これほどの虚むなしさ馬鹿さ惨みじめさがある筈はない。女に連れられて行先の分らぬ汽車に乗っている虚しさなどは、末の末、最高のものを持つか、何物も持たないか、なぜその貞節を失ったのか。然し私がこの女を「所有しなくなる」ことによって、果してまことの貞節を取戻し得るかということになると、私はもはや全く自信を失っていた。私は何も見当がなかった。私自身の魂に。そして魂の行く先に。        ★  私は「形の堕落」を好まなかった。それはただ薄汚いばかりで、本来つまらぬものであり、魂自体の淪落りんらくとつながるものではないと信じていたからであった。  女の従妹いとこにアキという女があった。結婚して七、八年にもなり良人がいるが、喫茶店などで大学生を探して浮気をしている女で、千人の男を知りたいと言っており、肉慾の快楽だけを生いき甲斐がいにしていた。こういう女は陳腐であり、私はその魂の低さを嫌っていた。一見綺麗きれいな顔立で、痩やせこけた、いかにも薄情そうな女で、いつでも遊びに応じる風情ふぜいで、私の好色を刺戟しげきしないことはなかったが、私はかかる陳腐な魂と同列になり下さがることを好まなかった。私が女に「遊ぼう」と一言ささやけばそれでよい。そしてその次に起ることはただ通俗な遊びだけで、遊びの陶酔を深めるための多少のたしなみも複雑さもない。ただ安直な、投げだされた肉慾があるだけだった。  そう信じている私であったが、私は駄目であった。あるとき私の女が、離婚のことで帰郷して十日ほど居ないことがあり、アキが来て御飯こしらえてあげると云って酒を飲むと、元より女はその考えのことであり、私は自分の好色を押えることができなかった。  この女の対象はただ男の各々おのおのの生殖器で、それに対する好奇心が全部であった。遊びの果はてに私が見出さねばならぬことは、私自身が私自身ではなく単なる生殖器であり、それはこの女と対する限り如何いかんとも為なしがたい現実の事実なのであった。もしも私が単なる生殖器から高まるために、何かより高い人間であることを示すために、女に向って無益な努力を重ねるなら、私はより多く馬鹿になる一方だ。事実私はすでにそれ以上に少しも高くはないのである。だから私はハッキリ生殖器自体に定着して女とよもやまの話をはじめた。  女は私が三文文士であることを知っているので、男に可愛かわいく見えるにはどうすればよいかということを細々こまごまと訊たずねた。女は主として大衆作家の小説から技術を習得している様子であったが、その道にかけては彼等の方が私より巧者にきまっているから私などそれに附つけ足す何もない、私がそう言うと女は満足した様子に見えた。女は学生達の大半は物足らないのだと言った。私がハズをだまし、あなたがマダムをだまして、隠れて遊ぶのはたのしいわね、と女が言った。私は別にたのしくはない。私はただ陳腐な、それは全く陳腐それ自体で、鼻につくばかりであった。  女の肉体は魅力がなかった。女は男の生殖器の好奇心のみで生きているので、自分自身の肉体的の実際の魅力に就て最大の不安をもっていた。けれども、そういうことよりも、自分の肉慾の満足だけで生きている事柄自体に、最も魅力がないのだということに就て、女は全然さとらなかった。  単なるエゴイズムというものは、肉慾の最後の場でも、低級浅薄なものである。自分の陶酔や満足だけをもとめるというエゴイズムが、肉慾の場に於おいても、その真実の価値として高いものでは有り得ない。真実の娼婦は自分の陶酔を犠牲にしているに相違ない。彼女等はその道の技術家だ。天性の技術家だ。だから天才を要するのだ。それは我々の仕事にも似ている。真実の価値あるものを生むためには、必ず自己犠牲が必要なのだ。人のために捧げられた奉仕の魂が必要だ。その魂が天来のものである時には、決して幇間ほうかんの姿の如く卑小賤劣ひしょうせんれつなものではなく、芸術の高さにあるものだ。そして如何なる天才も目先の小さな我慾だけに狂ってしまうと、高さ、その真実の価値は一挙に下落し死滅する。  この女は着物の着こなしの技巧などに就て細々と考え、どんな風にすればウブな女に見えるとか、どの程度に襟えりや腕を露出すれば男の好色をかきたてうるとか、そしてそういう計算から煙草たばこも酒も飲まない女であった。然しながら、この女の最後のものは自分の陶酔ということだけで、天性の自己犠牲の魂はなかった。裸になれば、それまでだ。どんなにウブに見せ、襟足や腕の露出の程度に就て魅力を考えても、裸になれば、それまでのことだ。その真実の魂の低さに就て、この女はまったく悟るところがなかった。  私はそのころ最も悪魔に就て考えた。悪魔は全てを欲する。然し、常に充ち足りることがない。その退屈は生命の最後の崖がけだと私は思う。然し、悪魔はそこから自己犠牲に回帰する手段に就て知らない。悪魔はただニヒリストであるだけで、それ以上の何者でもない。私はその悪魔の無限の退屈に自虐的な大きな魅力を覚えながら、同時に呪のろわずにはいられなかった。私は単なる悪魔であってはいけない。私は人間でなければならないのだ。  然し、私が人間になろうとする努力は、私が私の文学の才能の自信に就て考えるとき、私の思想の全部に於て、混乱し壊滅せざるを得なかった。  するともう、私自身が最も卑小なエゴイストでしかなかった。私は女を「所有した」ことによって、女の存在をただ呪わずにいられなかった。私は私の女の肉体が、その生殖器が特別魅力の少いことに就てまで、呪い、嘆かずにいられなかった。 「あなたのマダムのからだ、魅力がありそうね」 「魅力がないのだ。凡そ、あらゆる女のなかで、私の知った女のからだの中で、誰よりも」 「あら、うそよ。だって、とても、可愛く、毛深いわ」  私は私の女の生殖器の構造に就て、今にも逐一語りたいような、低い心になるのであったが、私自身がもはやそれだけの屑のような生殖器にすぎないことを考え、私はともかく私の女に最後の侮辱ぶじょくを加えることを抑えている私自身の惨めな努力を心に寒々と突き放していた。 「君は何人の男を知った?」 「ねえ、マダムのあれ、どんな風なの? ごまかさないで、教えてよ」 「君のを教えてやろうか」 「ええ」  女は変に自信をくずさずに、ギラギラした眼で笑って私を見つめている。  私はそのときふと思った。それは女のギラギラしている眼のせいだった。私はスタンドの汚い女を思ったのだ。あの女は酔っ払うといつも生殖器の話をした。男の、又、女の。そして、私に泊らないかと言う時には、いつもギラギラした眼で笑っていた。  私は今度こそあのスタンドへ泊ろうと思った。一番汚いところまで、行けるところまで行ってやれ。そして最後にどうなるか、それはもう、俺おれは知らない。        ★  私はあの夜更にスタンドを追いだされて以来、その店へ酒を飲みに行かなかった。そのころは十銭スタンドの隆盛時代で、すこし歩くつもりならどんな夜更の飲酒にも困ることはなかったのだ。夜明までやっている屋台のおでん屋も常にあった。もっとも、この土地にはヨタモノが多く、そのために知らない店へ行くことが不安であったが、私はもはやそれも気にかけていなかった。  ある朝、私はその日のことを奇妙に歴々と天候まで覚えている。朝といっても十時半、十一時に近い頃であった。うららかな昼だった。私は都心へ用たしに出かけるため京浜電車の停留場へ急ぐ途中スタンドの前を通ったのだが、私はその日に限って、なにがしかまとまった金をふところに持っていた。ちょうどスタンドの女が起きて店の掃除そうじを終えたところであった。ガラス戸が開け放されていたので、店内の女は私を認めて追っかけてきた。 「ちょっと。どうしたのよ。あなた、怒ったの?」 「やあ、おはよう」 「あの晩はすみませんでしたわ。私、のぼせると、わけが分らなくなるのよ。又、飲みにきてちょうだいね」 「今、飲もう」  私はとっさに決意した。ふところに金のあることを考えた。用たしも流せ。金も流せ。自分自身を流すのだ。私はこの女を連れて落ちるところまで堕おちてやろうと思った。私は落付いて飲みはじめた。女は飲まなかった。私は朝食前であったから、酔が全身にまわったが、泥酔でいすいはしていなかった。 「泊りに行こうよ」  と私は言った。女は尻込しりごみして、ニヤニヤ笑いながら、かぶりを振った。 「行こうよ。すぐに」  私は当然のことを主張しているように断定的であったが、女の笑い顔は次第に太々ふてぶてしく落付いてきた。 「どうかしてるわね。今日は」 「俺は君が好きなんだ」  女の顔にはあらわに苦笑が浮んだ。女は返事をしなかったが、苦笑の中には言葉以上の言葉があった。私は女の顔が世にも汚い、その汚さは不潔という意味が同時にこもった、そしてからだが団子のかたまりを合せたような、それはちょうど足の短い畸型の侏儒と人間との合の子のように感じられる、どう考えても美しくない全部のものを冷静に意識の上に並べなおした。そして、その女に苦笑され、蔑さげすまれ、あわれまれている私自身の姿に就て考えた。うぬぼれの強い私の心に、然し、怒りも、反抗もなかった。悔いもなかった。そういう太虚たいきょの状態から、人はたぶん色々の自分の心を組み立て得、意志し得る状態であったと思う。私は然し堕ちて行く快感をふと選びそしてそれに身をまかせた。私はこの日の一切の行為のうちで、この瞬間の私が一番作為的であり、卑劣であったと思っている。なぜなら、私の選んだことは、私の意志であるよりも、ひとつの通俗の型であった。私はそれに身をまかせた。そして何か快感の中にいるような亢奮こうふんを感じた。  私は卓の下のくぐりをあけて犬のように這入はいろうとした。女は立上って戸を押えようとしたが、私の行動が早かったので、私はなんなく内側へ這入った。けれども女を押えようとするうちに、女はもうすりぬけて、あべこべに外側へくぐり出ていた。両方の位置が変って向き直った時には私はさすがにてれかくしに苦笑せずにいられなかった。 「泊りに行こうよ」  と私は笑いながらも、しつこく言いつづけた。 「商売の女のところへ行きな」  と女の笑顔は益々ますます太々しかった。 「昼ひなか、だらしがないね。私はしつこいことはキライさ」  と女は吐きだすように言った。  私の頭には「商売の女のところへ」という言葉が強くからみついていた。この不潔な女すら羞はずかしめうる階級が存在するということは私の大いなる意外であった。私はアキを思いだした。その思いつきは私を有頂天にした。アキなら否む筈はない。特別の事情のない限り否む筈は有り得ない。この侏儒と人間の合の子のような畸型な不潔な女にすら羞しめられる女がアキであるということをこの畸型の女も知る筈はなく、もとよりアキも、私以外に誰も知らない。この発見のたのしさは私の情慾をかきたてた。私はもう好色だけのかたまりにすぎなかった。そして畸型の醜女しこめの代りにアキの美貌びぼうに思いついた満足で私の好色はふくらみあがり、私は新たな目的のために期待だけが全部であった。  私は改めて酒を飲んだ。女は酒をだし渋ったが、私が別人のように落付いたので、意味が分らぬ様子であった。私はビール瓶びんに酒をつめさせた。それをぶら下げて、でかけた。  アキは気取り屋であった。金持の有閑マダムであるように言いふらして大学生と遊んでいたが、凡そ貧乏なサラリーマンの女房で、豪奢な着物は一張羅だった。その気取りに私は反撥はんぱつを感じていた。気取りに比べて内容の低さを私は蔑んでいたのである。思いあがっていた。そのくせ常に苛々していた。それはただ肉慾がみたされない為ためだけのせいであり、常に男をさがしている眼、それが魂の全部であった。  私はアキをよびだして、海岸の温泉旅館へ行った。すべては私の思うように運んだ。私はアキを蔑んでいると言った。そしてこの気取り屋が畸形の醜女にすら羞しめられる女であることを見出した喜びで一ぱいだったと言った。そういう風に一度は考えたに相違ないのは事実であったが、それはただ考えたというだけのことで、私の情慾を豊かにするための絢あやであり、私の期待と亢奮はまったく好色がすべてであった。私は人を羞しめ傷きずつけることは好きではない。人を羞しめ傷けるに堪たえうるだけの自分の拠よりどころを持たないのだ。吐くツバは必ず自分へ戻ってくる。私は根柢的こんていてきに弱気で謙虚であった。それは自信のないためであり、他への妥協で、私はそれを卑しんだが、脱けだすことができなかった。  私は然し酔っていた。アキは良人の手前があるので夜の八時ごろ帰ったが、私はチャブ台の上の冷えた徳利の酒をのみ、後姿を追っかけるように、突然、なぜアキを誘ったか、その日の顛末てんまつを喋りはじめた。私はアキの怒った色にも気付かなかった。私は得意であった。そしてアキの帰ったのちに、さらに芸者をよんで、夜更けまで酒をのんだ。そして翌日アパートへ帰ると、胃からドス黒い血を吐いた。五合ぐらいも血を吐いた。  然し、アキの復讐はさらに辛辣しんらつだった。アキは私の女に全てを語った。それはあくどいものだった。肉体の行為、私のしわざの一部始終を一々描写してきかせるのだ。私の女のからだには魅力がないと言ったこと、他の誰よりも魅力がないと言ったこと、すべて女に不快なことは掘りだし拾いあつめて仔細しさいに語ってきかせた。        ★  私は女のねがいは何と悲しいものであろうかと思う。馬鹿げたものであろうかと思う。  狂乱状態の怒りがおさまると、女はむしろ二人だけの愛情が深められているように感じているとしか思われないような親しさに戻った。そして女が必死に希ねがっていることは、二人の仲の良さをアキに見せつけてやりたい、ということだった。アキの前で一時間も接吻せっぷんして、と女は駄々をこねるのだ。  こういう心情がいったい素直なものなのだろうか。私は疑うたぐらずにいられなかった。どこかしら、歪ゆがめられている。どこかしら、不自然があると私は思う。女の本性がこれだけのものなら、女は軽蔑すべき低俗な存在だが、然し、私はそういう風に思うことができないのである。最も素直な、自然に見える心情すらも、時に、歪められているものがある。先ず思え。嫌われながら、共に住むことが自然だろうか。愛なくして、共に住むことが自然だろうか。  私はむかし友達のオデン屋のオヤジを誘ってとある酒場で酒をのんでいた。酒場の女給がある作家の悪口を言った。オデン屋のオヤジは文学青年でその作家とは個人的に親しくその愛顧に対して恩義を感じていた。それで怒って突然立上たちあがって女を殴り大騒ぎをやらかしたことがある。義理人情というものは大概この程度に不自然なものだ。殴った当人は当然だと思い、正しいことをしたと思って自慢にしているのだから始末が悪い。彼が恩義を感じていることは彼の個人的なことであり、決して一般的な真実ではない。その特殊なつながりをもたない女が何を言っても、彼の特殊な立場とは本来交渉のないことだ。私は復讐の心情は多くの場合、このオデン屋のオヤジの場合のように、どこか車の心棒が外はずれているのだと思う。大概は当人自体の何か大事な心棒を歪めたり、外したままで気づかなかったりして、自分の手落の感情の処理まで復讐の情熱に転嫁して甘えているのではないかと思う。  まもなく私と女は東京にいられなくなった。女の良人が刃物をふり廻しはじめたので、逃げださねばならなかったのだ。  私達はある地方の小都市のアパートの一室をかりて、私はとうとう女と同じ一室で暮さねばならなくなっていた。私は然しこれは女のカラクリであったと思う。私と同じ一室に、しかも外ほかの知り人から距へだたって、二人だけで住みたいことが女のねがいであったと思う。男が私の住所を突きとめ刃物をふりまわして躍りこむから、と言うのだが、私は多分女のカラクリであろうと始めから察したので、それを私は怖れないと言うのだが、女は無理に私をせきたてて、そして私は知らない町の知らない小さなアパートへ移りすむようになっていた。  私は一応従順であった。その最大の理由は、女と別れる道徳的責任に就て自分を納得させることが出来ないからであった。私は女を愛していなかった。女は私を愛していた。私は「アドルフ」の中の一節だけを奇妙によく思いだした。遊学する子供に父が訓戒するところで「女の必要があったら金で別れることのできる女をつくれ」と言う一節だった。私は、「アドルフ」を読みたいと思った。町に小さな図書館があったが、フランスの本はなかった。岩波文庫の「アドルフ」はまだ出版されていなかった。私は然し図書館へ通った。私自身に考える気力がなかったので、私は私の考えを本の中から探しだしたいと考えた。読みたい本もなく、読みつづける根気もなかった。私は然し根気よく図書館に通った。私は本の目録をくりながら、いつも、こう考えるのだ。俺の心はどこにあるのだろう? どこか、このへんに、俺の心が、かくされていないか? 私はとうとう論語も読み、徒然草つれづれぐさも読んだ。勿論もちろん、いくらも読まないうちに、読みつづける気力を失っていた。  すると皮肉なもので、突然アキが私達をたよって落ちのびてきたのだ。アキは淋病りんびょうになっていた。それが分ると、男に追いだされてしまったのだ。もっとも、男に新しい女ができたのが実際の理由で、淋病はその女から男へ、男からアキへ伝染したのが本当の径路なのだというのだが、アキ自身、どうでもいいや、という通り、どうでもよかったに相違ない。アキは薄情な女だから友達がない。天地に私の女以外にたよるところはなかった。  私の女が私をこの田舎町へ移した理由は、私をアキから離すことが最大の眼目であったと思う。それは痛烈な思いであったに相違ない。なぜなら、女はその肉体の行為の最大の陶酔のとき、必ず迸ほとばしる言葉があった。アキ子にもこんなにしてやったの! そして目が怒りのために狂っているのだ。それが陶酔の頂点に於おける譫言うわごとだった。その陶酔の頂点に於て目が怒りに燃えている。常に変らざる習慣だった。なんということだろう、と私は思う。  この卑小さは何事だろうかと私は思う。これが果して人間というものであろうか。この卑小さは痛烈な真実であるよりも奇怪であり痴呆的ちほうてきだと私は思った。いったい女は私の真実の心を見たらどうするつもりなのだろう? 一人のアキは問題ではない。私はあらゆる女を欲している。女と遊んでいるときに、私は概おおむねほかの女を目に描いていた。  然し女の魂はさのみ純粋なものではなかった。私はあるとき娼家に宿り淋病をうつされたことがあった。私は女にうつすことを怖れたから正直に白状に及んで、全治するまで遊ぶことを中止すると言ったのだが、女は私の遊蕩ゆうとうをさのみ咎とがめないばかりか、うつされてもよいと云って、全治せぬうちに遊ぼうとした。それには理由があったのだ。女の良人は梅毒であり、女の子供は遺伝梅毒であった。夫婦の不和の始まりはそれであったが、女は医療の結果に就て必ずしも自信をもっていなかった。そして彼女の最大の秘密はもしや私に梅毒がうつりはしないかということ、そのために私に嫌われはしないかということだった。そのために女は私とのあいびきの始まりは常に硫黄泉いおうせんへ行くことを主張した。私が淋病になったことは、女の罪悪感を軽減したのだ。女はもはやその最大の秘密によって私に怖れる必要はないと信じることができた。彼女はすすんで淋病のうつることすら欲したのだった。  私はそのような心情をいじらしいとは思わなかった。いじらしさとは、そのようなことではない。むしろ卑劣だと私は思った。私は差引計算や、バランスをとる心掛こころがけが好きではない。自分自身を潔く投げだして、それ自体の中に救いの路みちをもとめる以外に正しさはないではないか。それはともかく私自身のたった一つの確信だった。その一つの確信だけはまだそのときも失われずに残っていた。私の女の魂がともかく低俗なものであるのを、私は常に、砂を噛かむ思いのように、噛みつづけ、然し、私自身がそれ以上の何者でも有り得ぬ悲しさを更に虚しく噛みつづけねばならなかった。正義! 正義! 私の魂には正義がなかった。正義とは何だ! 私にも分らん。正義、正義。私は蒲団をかぶって、ひとすじの涙をぬぐう夜もあった。  私の女はいたわりの心の深い女であるから、よるべないアキの長々の滞在にも表面にさしたる不快も厭いやがらせも見せなかった。然し、その復讐は執拗しつようだった。アキの面前で私に特別たわむれた。アキは平然たるものだった。苦笑すらもしなかった。  アキは毎日淋病の病院へ通った。それから汽車に乗って田舎の都市のダンスホールへ男を探しに行った。男は却々なかなか見つからなかった。夜更けにむなしく帰ってきて冷つめたい寝床へもぐりこむ。病院の医者をダンスホールへ誘ったが、応じないので、病院通いもやめてしまった。医者にふられちゃったわ、とチャラチャラ笑った。その金属質な笑い方は爽さわやかだったが、夜更にむなしく戻ってきて一人の寝床へもぐりこむ姿には、老婆のような薄汚い疲れがあった。何一つ情慾をそそる色気がなかった。私はむしろ我が目を疑った。一人の寝床へもぐりこむ女の姿というものは、こんなに色気のないものだろうか。蒲団を持ちあげて足からからだをもぐらして行く泥くさい女の姿に、私は思いがけない人の子の宿命の哀れを感じた。  アキの品物は一つ一つ失なくなった。私の女からいくらかずつの金を借りてダンスホールへ行くようになった。しかし男は見つからなかった。それでも働く決意はつかないのだ。踊子や女給を軽蔑し、妙な気位をもっており、うぬぼれに憑つかれているのだ。  最後の運だめしと云って、病院の医者を誘惑に行き、すげなく追いかえされて戻ってきた。夕方であった。私が図書館から帰るとき、病院を出てくるアキに会った。私達はそこから神社の境内けいだいの樹木の深い公園をぬけてアパートへ帰るのである。公園の中に枝を張った椎しいの木の巨木があった。 「あの木は男のあれに似てるわね。あんなのがほんとに在ったら、壮大だわね」  アキは例のチャラチャラと笑った。  私はアキが私達の部屋に住むようになり、その孤独な姿を見ているうちに、次第に分りかけてきたように思われる言葉があった。それはエゴイストということだった。アキは着物の着こなしに就て男をだます工夫をこらす。然し、裸になればそれまでなのだ。自分一人の快楽をもとめているだけなのだから、刹那的せつなてきな満足の代りに軽蔑と侮辱を受けるだけで、野合以上の何物でもあり得ない。肉慾の場合に於ても単なるエゴイズムは低俗陳腐なものである。すぐれた娼婦は芸術家の宿命と同じこと、常に自ら満たされてはいけない、又、満たし得る由もない。己れは常に犠牲者にすぎないものだ。  芸術家は――私はそこで思う。人のために生きること。奉仕のために捧げられること。私は毎日そのことを考えた。 「己れの欲するものをささげることによって、真実の自足に到ること。己れを失うことによって、己れを見出すこと」  私は「無償の行為」という言葉を、考えつづけていたのである。  私は然し、私自身の口によって発せられるその言葉が、単なる虚偽にすぎないことを知っていた。言葉の意味自体は或いは真実であるかも知れない。然し、そのような真実は何物でもない。私の「現身うつしみ」にとって、それが私の真実の生活であるか、虚偽の生活であるか、ということだけが全部であった。  虚しい形骸けいがいのみの言葉であった。私は自分の虚しさに寒々とする。虚しい言葉のみ追いかけている空虚な自分に飽き飽きする。私はどこへ行くのだろう。この虚しい、ただ浅ましい一つの影は。私は汽車を見るのが嫌いであった。特別ゴトンゴトンという貨物列車が嫌いであった。線路を見るのは切なかった。目当のない、そして涯はてのない、無限につづく私の行路を見るような気がするから。  私は息をひそめ、耳を澄ましていた。女達のめざましい肉慾の陰で。低俗な魂の陰で。エゴイズムの陰で。私がいったい私自身がその外ほかの何物なのであろうか。いずこへ? いずこへ? 私はすべてが分らなかった。 (附記 私はすでに「二十一」という小説を書いた。「三十」「二十八」「二十五」という小説も予定している。そしてそれらがまとめられて一冊の本になるとき、この小説の標題は「二十九」となる筈である) 底本:「風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇」岩波文庫、岩波書店    2008(平成20)年11月14日第1刷発行    2013(平成25)年1月25日第3刷発行 底本の親本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房    1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行 初出:「新小説 第一巻第七号」    1946(昭和21)年10月1日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:Nana ohbe 校正:酒井裕二 2015年5月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。 ●図書カード

青空文庫

風と光と二十の私と 坂口安吾  私は放校されたり、落第したり、中学を卒業したのは二十の年であった。十八のとき父が死んで、残されたのは借金だけということが分って、私達は長屋へ住むようになった。お前みたいな学業の嫌いな奴が大学などへ入学しても仕方がなかろう、という周囲の説で、尤もっとも別に大学へ入学するなという命令ではなかったけれども、尤もな話であるから、私は働くことにした。小学校の代用教員になったのである。  私は性来放縦で、人の命令に服すということが性格的にできない。私は幼稚園の時からサボることを覚えたもので、中学の頃は出席日数の半分はサボった。教科書などは学校の机の中へ入れたまま、手ぶらで通学して休んでいたので、休んで映画を見るとか、そんなわけではない。故郷の中学では浜の砂丘の松林にねころんで海と空をボンヤリ眺めていただけで、別段、小説などを読んでいたわけでもない。全然ムダなことをしていたので、これは私の生涯の宿命だ。田舎の中学を追いだされて、東京の不良少年の集る中学へ入学して、そこでも私が欠席の筆頭であったが、やっぱり映画を見に行くなどということは稀で、学校の裏の墓地や雑司ぞうしヶ谷やの墓地の奥の囚人墓地という木立にかこまれた一段歩たんぶほどの草原でねころんでいた。私がここにねころんでいるのはいつものことで、学校をサボる私の仲間はここへ私を探しにきたものだ。Sというそのころ有名なボクサーが同級生で、学校を休んで拳闘のグラブをもってやってきて、この草原で拳闘の練習をしたこともあるが、私は当時から胃が弱くて、胃をやられると一ぺんにノビてしまうので、拳闘はやらなかった。この草原の木の陰は湿地で蛇が多いのでボクサーは蛇をつかまえて売るのだと云って持ち帰ったが、あるとき彼の家へ遊びに行ったら、机のヒキダシへ蛇を飼っていた。ある日、囚人墓地でボクサーが蛇を見つけ、飛びかかってシッポをつかんでぶら下げた。ぶら下げたとたんに蝮まむしと気がついて、彼は急に恐怖のために殺気立って狂ったような真剣さで蛇をクルクルふりまわし始めたが、五分間も唸うなり声ひとつ立てずにふり廻していたものだ。それから蛇を大地へ叩きつけて、頭をふみつぶしたが、冗談じゃないぜ、蝮にかまれて囚人墓地でオダブツなんて笑い話にもならねえ、と呟つぶやきながらこくめいに頭を踏みつぶしていたのを妙に今もはっきり覚えている。  私はこの男にたのまれて飜訳をやったことがある。この男は中学時代から諸方の雑誌へボクシングの雑文を書いていたが、私にボクシング小説の飜訳をさせて「新青年」へのせた。「人心収攬しゅうらん術」というので、これは私の訳したものなのである。原稿料は一枚三円でお前に半分やると云っていたが、その後言を左右にして私に一文もくれなかった。私が後日物を書いて原稿料を貰うようになっても、一流の雑誌でも二円とかせいぜい二円五十銭で、私が三円の稿料を貰ったのは文筆生活十五年ぐらいの後のことであった。純文学というものの稼ぎは中学生の駄文の飜訳に遠く及ばないのである。  私はこの不良少年の中学へ入学してから、漠然と宗教にこがれていた。人の命令に服すことのできない生れつきの私は、自分に命令してそれに服するよろこびが強いのかも知れない。然し非常に漠然たるあこがれで、求道のきびしさにノスタルジイのようなものを感じていたのである。  凡およそ学校の規律に服すことのできない不良中学生が小学校の代用教員になるというのは変な話だが、然し、少年多感の頃は又それなりに夢と抱負はあって、第一、その頃の方が今の私よりも大人であった。私は今では世間なみの挨拶すらろくにできない人間になったが、その頃は節度もあり、たしなみもあり、父兄などともったいぶって教育家然と話をしていたものだ。  今新潟で弁護士の伴純という人が、そのころは「改造」などへ物を書いており、夢想家で、青梅の山奥へ掘立小屋をつくって奥さんと原始生活をしていた。私も後日この小屋をかりて住んだことがあったが、モモンガーなどを弓で落して食っていたので、私が住んだときは小屋の中へ蛇がはいってきて、こまった。この伴氏が私が教員になるとき、こういうことを私に教えてくれた。人と話をするときは、始め、小さな声で語りだせ、というのだ。え、なんですか、と相手にきき耳をたてさせるようにして、先ず相手をひきずるようにしたまえ、と云うのだ。  私の学校の地区に、伴氏の友人で藤田という、両手の指が各々三本ずつという畸形児で鯰なまずばかり書いている風変りな日本画家がいる。一風変った境地をもっているから一度訪ねてごらんなさい、と紹介状をくれたので、訪ねてみたことがある。今日はただ挨拶にきただけだ、いずれゆっくり来るからと私が言うのに、いや、そんなことを云わずに、サイダーがあるから、ぜひ上れという。無理にすすめるので、それでは、と私が上ると、奥さんをよんで、オイ、サイダーを買ってこい、と言うので、これには面喰ったものだ。        ★  私が代用教員をしたところは、世田ヶ谷の下北沢というところで、その頃は荏原えばら郡と云い、まったくの武蔵野で、私が教員をやめてから、小田急ができて、ひらけたので、そのころは竹藪だらけであった。本校は世田ヶ谷の町役場の隣にあるが、私のはその分校で、教室が三つしかない。学校の前にアワシマサマというお灸きゅうだかの有名な寺があり、学校の横に学用品やパンやアメダマを売る店が一軒ある外は四方はただ広茫かぎりもない田園で、もとよりその頃はバスもない。今、井上友一郎の住んでるあたりがどうもその辺らしい気がするのだが、あんまり変りすぎて、もう見当がつかない。その頃は学校の近所には農家すらなく、まったくただひろびろとした武蔵野で、一方に丘がつらなり、丘は竹藪と麦畑で、原始林もあった。この原始林をマモリヤマ公園などと称していたが、公園どころか、ただの原始林で、私はここへよく子供をつれて行って遊ばせた。  私は五年生を受持ったが、これが分校の最上級生で、男女混合の七十名ぐらいの組であるが、どうも本校で手に負えないのを分校へ押しつけていたのではないかと思う。七十人のうち、二十人ぐらい、ともかく片仮名で自分の名前だけは書けるが、あとはコンニチハ一つ書くことのできない子供がいる。二十人もいるのだ。このてあいは教室の中で喧嘩けんかばかりしており、兵隊が軍歌を唄って外を通ると、授業中に窓からとびだして見物に行くのがある。この子供は兇暴で、異常児だ。アサリムキミ屋の子供だが、コレラが流行してアサリが売れなくなったとき、俺のアサリがコレラでたまるけえ、とアサリをくって一家中コレラになり、子供が学校へくる道で米汁のような白いものを吐きだした。尤もみんな生命は助かったようである。  本当に可愛いい子供は悪い子供の中にいる。子供はみんな可愛いいものだが、本当の美しい魂は悪い子供がもっているので、あたたかい思いや郷愁をもっている。こういう子供に無理に頭の痛くなる勉強を強いることはないので、その温い心や郷愁の念を心棒に強く生きさせるような性格を育ててやる方がいい。私はそういう主義で、彼等が仮名も書けないことは意にしなかった。田中という牛乳屋の子供は朝晩自分で乳をしぼって、配達していたが、一年落第したそうで、年は外の子供より一つ多い。腕っぷしが強く外の子供をいじめるというので、着任のとき、分教場の主任から特にその子供のことを注意されたが、実は非常にいい子供だ。乳をしぼるところを見せてくれと云って遊びに行ったら躍りあがるように喜んで出てきて、時々人をいじめることもあったが、ドブ掃除だの物の運搬だの力仕事というと自分で引受けて、黙々と一人でやりとげてしまう。先生、オレは字は書けないから叱らないでよ。その代り、力仕事はなんでもするからね、と可愛いいことを云って私にたのんだ。こんな可愛いい子がどうして札つきだと言われるのだか、第一、字が書けないということは咎とがむべきことではない。要は魂の問題だ。落第させるなどとは論外である。  女の子には閉口した。五年生ぐらいになると、もう女で、中には生理的にすら女でないかと思われるのが二人いた。  私は始め学校の近くのこの辺でたった一軒の下宿屋へ住んだが、部屋数がいくつもないので、同宿だ。このへんに海外殖民しょくみんの実習的の学校があって、東北の田舎まるだしの農家出の生徒と同宿したが、奇妙な男で、あたたかい御飯は食べない。子供の時から野良仕事で冷飯ばかり食って育ったので、あたたかい御飯はどうしても食べる気にならないと云って、さましてから食っている。ところが、この下宿の娘が二十四五で、二十貫もありそうな大女だが、これが私に猛烈に惚れて、私の部屋へ遊びにきて、まるでもうウワずって、とりのぼせて、呂律ろれつが廻らないような、顔の造作がくずれて目尻がとけるような、身体がそわそわと、全く落付なく喋しゃべったり、沈黙したり、ニヤニヤ笑ったり、いきなりこの突撃には私も呆気あっけにとられたものだ。そして私の部屋へだけ自分で御飯をたいて、いつもあたたかいのを持ってくるから、同宿の猫舌先生がわが身の宿命を嘆いたものである。この娘の狂恋ぶりには下宿の老夫婦も手の施す術がなく困りきっていた様子であったが、私はそれ以上に困却して、二十日ぐらいで引越した。同宿者があっては勉強ができないから、と云って、引越しの決意を老夫婦に打ち開けると、そのホッとした様子は意外のほどで、又、私への感謝は全く私の予想もしないものだった。だからこの老夫婦はそれ以来常に私を賞揚し口を極めてほめたたえていたそうで、私にとっては思いもよらぬことであったが、ところがここの娘の一人が私の組の生徒で、これが誰よりマセた子だ。親が私をほめるのが心外で、私に面と向って、お父さんやお母さんが先生をとてもほめるから変だという。先生はそんないい人じゃないと言うのだ。こういう女の子供たちは私が男の悪童を可愛がってやるのが心外であり、嫉ねたましいのである。女の子の嫉妬深さというものは二十の私の始めて見た意外であって、この対策にはほとほと困却したものだった。  私が引越したのは分教場の主任の家の二階であった。代田橋にあって、一里余の道だ。けれども分教場の子供達の半数はそれぐらい歩いて通っていて、私が学校へくるまでには生徒が三十人ぐらい一緒になってしまう。私は時に遅刻したが、無理もねえよ、若いんだからな、ゆうべはどこへ泊ってきたかね、などとニヤニヤしながら言うのがいる。みんな家へ帰ると百姓の手伝いをする子供だから、片仮名も書けないけれども、ませていた。  分教場の主任は教師の誰かを下宿させるのが内職の一つで、私の前には本校の長岡という代用教員が泊っていたが、ロシヤ文学の愛好者で、変り者であったが、蛙デンカンという奇妙な持病があって、蛙を見るとテンカンを起す。私のクラスが四年の時はこの先生に教わったのだが、生徒の一人がチョークの箱の中へ蛙を入れておいた。それで先生、教室でヒックリ返って泡を吹いてしまったそうで、あの時はビックリしたよ、と牛乳屋の落第生が言っていた。彼が蛙を入れたのかも知れぬ。お前だろう、入れたのは、と訊いたら、そうでもないよ、とニヤニヤしていた。  この主任は六十ぐらいだが、精力絶倫で、四尺六寸という畸形的な背の低さだが、横にひろがって隆々たる筋骨、鼻髭はなひげで隠しているがミツクチであった。非常な癇癪かんしゃくもちで、だから小心なのであろうが、やたらに当りちらす。小使だの生徒には特別あたりちらすが、学務委員だの村の有力者にはお世辞たらたらで、癇癪を起すと授業を一年受持の老人に押しつけて、有力者の家へ茶のみ話に行ってしまう。学校では彼のいない方を喜ぶので、授業を押しつけられても不平を言わなかった。腹が立つと女房をブン殴ったり蹴とばしたり、あげくに家をとびだして、雑木林や竹藪へはいって、木の幹や竹の木を杖でメチャクチャに殴っている。それはまったく気違いであったが、大変な力で、手が痛くないのか、五分間ぐらいも、エイエイエイ、ヤアヤアヤアと気合をかけて夢中になぐっている。  この節の若者は、とか、青二才が、とか口癖であったが、私は当時まったく超然居士こじで、怒らぬこと、悲しまぬこと、憎まぬこと、喜ばぬこと、つまり行雲流水の如く生きようという心掛であるからビクともしない。尤も私に怒ると転居されて下宿料が上らなくなる怖れがあるから、そういうところは抜目がなくて、私にだけは殆ど当りちらさぬ。先生は全部で五人で、一年の山門老人、二年の福原女先生、三年の石毛女先生、この山門老人が又超然居士で六十五だかで、麻布からワラジをはいて歩いて通ってくる。娘には市内で先生をさせ、結婚したがっているのだそうだが、ドッコイ、許されぬ、もう暫しばらくは家計を助けて貰わねばならぬ、毎日もめているから毎日私達にその話をして、イヤハヤ色気づいてウズウズしておりますよ、アッハッハと言っている。子供が十人ちかいから生活が大変で、毎晩一合の酒に人生を托している。主任は酒をのまない。  小学校の先生には道徳観の奇怪な顛倒がある。つまり教育者というものは人の師たるもので人の批難を受けないよう自戒の生活をしているが、世間一般の人間はそうではなく、したい放題の悪行に耽ふけっているときめてしまって、だから俺達だってこれぐらいはよかろうと悪いことをやる。当人は世間の人はもっと悪いことをしている、俺のやるのは大したことではないと思いこんでいるのだが、実は世間の人にはとてもやれないような悪どい事をやるのである。農村にもこの傾向があって、都会の人間は悪い、彼等は常に悪いことをしている、だから俺たちだって少しぐらいはと考えて、実は都会の人よりも悪どいことを行う。この傾向は宗教家にもある。自主的に思い又行うのでなく他を顧て思い又行うことがすでにいけないのだが、他を顧るのが妄想的なので、なおひどい。先生達が人間世界を悪く汚く解釈妄想しすぎているので、私は驚いたものであった。  私が辞令をもらって始めて本校を訪ねたとき、あなたの勤めるのは分校の方だからと、分校の方に住んでいる女の先生が送ってくれた。これが驚くべき美しい人なのである。こんな美しい女の人はそのときまで私は見たことがなかったので、目がさめるという美しさは実在するものだと思った。二十七の独身の人で、生涯独身で暮す考えだということを人づてにきいたが、何かしっかりした信念があるのか、非常に高貴で、慎しみ深く、親切で、女先生にありがちな中性タイプと違い、女らしい人である。私はひそかに非常にあこがれを寄せたものだ。本校と分校と殆ど交渉がないので、それっきり話を交す機会もなかったが、その後数年間、私はこの人の面影を高貴なものにだきしめていた。  村のある金持、もう相当な年配の男だそうだが、女房が死んでその後釜にこの女の先生を貰いたいという。これを分校の主任にたのんだものだ。何百円とか何千円とかの謝礼という約束の由で、そのときのこの主任の東奔西走、授業をうっちゃらかして馳け廻って、なにしろ御本尊の女先生が全然結婚自体に意志がないので無理な話だ。毎日八ツ当りで、その一二ヶ月というもの、そわそわしたこの男の粗暴というより狂暴にちかい癇癪は大変だった。  私は行雲流水を志していたから、別段女の先生に愛を告白しようとか、結婚したいなどとは考えず、ただその面影を大切なものに抱きしめていたが、この主任の暗躍をきいたときには、美しい人のまぼろしがこんな汚らしい結婚でつぶされてはと大変不安で、行雲流水の建前にも拘かかわらず、主任をひそかに憎んだりした。  石毛先生は憲兵曹長だかの奥さんで、実に冷めたい中性的な人であったが、福原先生はよいオバサンであった。もう三十五六であったろうが、なりふり構わず生徒のために献身するというたちで、教師というよりは保姆ほぼのような天性の人だ。だから独身でも中性的な悪さはなく、高い理想などはなかったが、善良な人であった。例の高貴な先生の親友で、偶像的な尊敬をよせていることも、私には快かった。多くの女先生は嫉妬していたのである。私が先生をやめたとき、お別れするのは辛いが、先生などに終ってはいけない、本当によいことです、と云って、喜んでくれて、お別れの酒宴をひらいてうんとこさ御馳走をこしらえてくれた。私は然し先生で終ることのできない自分の野心が悲しいと思っていた。なぜ身を捧げることが出来ないのだろう?  私は放課後、教員室にいつまでも居残っていることが好きであった。生徒がいなくなり、外の先生も帰ったあと、私一人だけジッと物思いに耽っている。音といえば柱時計の音だけである。あの喧噪けんそうな校庭に人影も物音もなくなるというのが妙に静寂をきわだててくれ、変に空虚で、自分というものがどこかへ無くなったような放心を感じる。私はそうして放心していると、柱時計の陰などから、ヤアと云って私が首をだすような幻想を感じた。ふと気がつくと、オイ、どうした、私の横に私が立っていて、私に話しかけたような気がするのである。私はその朦朧もうろうたる放心の状態が好きで、その代り、私は時々ふとそこに立っている私に話しかけて、どやされることがあった。オイ、満足しすぎちゃいけないぜ、と私を睨むのだ。 「満足はいけないのか」 「ああ、いけない。苦しまなければならぬ。できるだけ自分を苦しめなければならぬ」 「なんのために?」 「それはただ苦しむこと自身がその解答を示すだろうさ。人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」  本当だろうかと私は思った。私はともかくたしかに満足には淫していた。私はまったく行雲流水にやや近くなって、怒ることも、喜ぶことも、悲しむことも、すくなくなり、二十のくせに、五十六十の諸先生方よりも、私の方が落付と老成と悟りをもっているようだった。私はなべて所有を欲しなかった。魂の限定されることを欲しなかったからだ。私は夏も冬も同じ洋服を着、本は読み終ると人にやり、余分の所有品は着代えのシャツとフンドシだけで、あるとき私を訪ねてきた父兄の口からあの先生は洋服と同じようにフンドシを壁にぶらさげておくという笑い話がひろまり、へえ、そういうことは人の習慣にないことなのか、と私の方がびっくりしたものだ。フンドシを壁にぶら下げておくのは私の整頓の方法で、私には所蔵という精神がなかったので、押入は無用であった。所蔵していたものといえば高貴な女先生の幻で、私がそのころバイブルを読んだのは、この人の面影から聖母マリヤというものを空想したからであった。然し私は、あこがれてはいたが、恋してはいなかった。恋愛という平衡を失った精神はいささかも感じなかったので、せめて同じこの分校で机を並べて仕事ができたらいいになアと、私の欲する最大のことはそれだけであった。この人の面影は今はもう私の胸にはない。顔も思いだすことができず、姓名すら記憶にないのである。        ★  私はそのころ太陽というものに生命を感じていた。私はふりそそぐ陽射しの中に無数の光りかがやく泡、エーテルの波を見ることができたものだ。私は青空と光を眺めるだけで、もう幸福であった。麦畑を渡る風と光の香気の中で、私は至高の歓喜を感じていた。  雨の日は雨の一粒一粒の中にも、嵐の日は狂い叫ぶその音の中にも私はなつかしい命を見つめることができた。樹々の葉にも、鳥にも、虫にも、そしてあの流れる雲にも、私は常に私の心と語り合う親しい命を感じつづけていた。酒を飲まねばならぬ何の理由もなかったので、私は酒を好まなかった。女の先生の幻だけでみたされており、女の肉体も必要ではなかった。夜は疲れて熟睡した。  私と自然との間から次第に距離が失われ、私の感官は自然の感触とその生命によって充たされている。私はそれに直接不安ではなかったが、やっぱり麦畑の丘や原始林の木暗い下を充ちたりて歩いているとき、ふと私に話かける私の姿を木の奥や木の繁みの上や丘の土肌の上に見るのであった。彼等は常に静かであった。言葉も冷静で、やわらかかった。彼等はいつも私にこう話しかける。君、不幸にならなければいけないぜ。うんと不幸に、ね。そして、苦しむのだ。不幸と苦しみが人間の魂のふるさとなのだから、と。  だが私は何事によって苦しむべきか知らなかった。私には肉体の慾望も少なかった。苦しむとは、いったい、何が苦しむのだろう。私は不幸を空想した。貧乏、病気、失恋、野心の挫折、老衰、不知、反目、絶望。私は充ち足りているのだ。不幸を手探りしても、その影すらも捉えることはできない。叱責を怖れる悪童の心のせつなさも、私にとってはなつかしい現実であった。不幸とは何物であろうか。  然し私はふと現れて私に話しかける私の影に次第に圧迫されていた。私は娼家へ行ってみようか。そして最も不潔なひどい病気にでもなってみたらいいのだろうか、と考えてみたりした。  私のクラスに鈴木という女の子がいた。この子の姉は実の父と夫婦の関係を結んでいるという隠れもない話であった。そういう家自体の罪悪の暗さは、この子の性格の上にも陰鬱な影となって落ちており、友達と話をしていることすらめったになく、浮々と遊んでいることなどは全くない。いつも片隅にしょんぼりしており、話しかけるとかすかに笑うだけなのである。この子からは肉体が感じられなかった。  私は不幸ということに就て戸惑いするたびに、この十二の陰鬱な娘の姿を思い出した。  石津という娘と、山田という娘がいた。私はこの二人は生理的にももう女ではないのだろうかと時々疑ったものだが、石津の方は色っぽくて私に話しかける時などは媚こびるような色気があったが、そのくせ他の女生徒にくらべると、嫉妬心だの意地の悪さなどは一番すくなく、ただやがて弄もてあそばれるふくよかな肉体だけしかないような気がする。これも余り友達などはない方で、女の子にありがちな、親友と徒党的な垣をつくるようなことが性格的に稀薄なようだ。そのくせ明るくて、いつも笑ってポカンと口をあけて何かを眺めているような顔だった。  山田の方は豆腐屋の子で、然し豆腐屋の実子ではなく、女房の連れ子なのである。その妹と弟は豆腐屋の実子であった。この娘は仮名で名前だけしか書けない一人で、女の子の中で最も腕力が強い。男の子と対等で喧嘩をして、これに勝つ男はすくないので、身体も大きかったが、いつも口をキッと結んで、顔付はむしろ利巧そうに見える。陰性というのとも違う、何か思いつめているようで、明るさがなく、全然友達がない。喋ることに喜びを感じることがないように人と語り合うことがすくなく、それでも沈黙がちに遊戯の中へ加わって極めて野性的にとび廻っている。笑うことなどはなく、面白くもなさそうだが、然し跳ね廻っている姿は他の子供に比べると格段にその描きだす線が大きく荒々しく、まったく野獣のような力がこもっていて、野性がみちていた。そのくせ色気が乏しい。大胆不敵のようだが、実際は、私は他の小さなたわいもない女生徒の方に実はもっと本質的な女自体の不敵さを見出していたもので、嫉妬心だの意地の悪さだの女的なものが少いのである。今は早熟の如くでも、すべてこれらの子供達が大人になったときには、結局この娘の方が最後に女から取り残され、あらゆる同性に敗北するのではないかと私は思った。  この娘の母親がある一夜私を訪ねてきたことがある。この娘の特別の事情、つまり、何人かの妹弟の中でこの娘だけが実子でないために性格がひねくれていることを説明して、父母の方では別に差別はしていないのだから、もっと父に打ちとけるように娘にさとしてくれというのだ。この母親は淫奔な女だという評判で、まったく見るからに淫奔らしい三十そこそこの女であった。いや、ひねくれてはおりません、と私は答えた。ひねくれたように見えるだけです。素直な心と、正しいものをあやまたずに認めてそれを受け入れる立派な素質を持っています。私の説教などは不要です。問題はあなた方の本当の愛情です。私がいちばん心配なのは、あの娘は、人に愛される素質がすくない。女として愛される素質がすくない。ひねくれのせいではないのです。あの娘は人に愛されたことがないのではありませんか。先ず親に、あなた方に愛されたことがないのではありませんか。私に説教してくれなんて、とんでもないお門違いですよ。あなたが、あなたの胸にきいてごらんなさい。  この母親はちっとも表情を表わさずに、私の言葉をとりとめのない漠然たる顔付できいていた。これも仮名で名前しか書けない一人だろうと私は思った。ただ、子供とはあべこべに、徹頭徹尾色っぽく、肉慾的だ。最も女であった。その淫奔な動物性が、娘の野性と共通しているだけだった。娘は大柄であるのに、母親はひどく小柄であった。顔はどちらも美人の部類である。二三分だまっていたが、やがてひどく馴れ馴れしく世間話をして帰って行った。  鈴木と並べて石津と山田を私は思いだす習慣になっていた。この三人の未来には不幸のみが待ち構えているように思われてならない。私は不幸というものを、私自身に就てでなしに、生徒の影の上から先ず見凝みつめはじめていたのだ。その不幸とは愛されないということだ。尊重されないということだ。石津の場合はただオモチャにされ、私はやがて娼婦となって暮している喜怒哀楽の稀薄な、たわいもない肉塊を想像した。私は実際の娼家も娼婦も知らなかったが、まったく小説などから得たものの中で現実を組み立てていたのである。然し私の予感は今でも当っていたように考えている。  石津は貧しい家の娘で、その身体にはいっぱい虱しらみがたかっていた。外の子供がそう云って冷やかす。キリリと怒るような顔になるが、やがて又たわいもない笑い顔になってしまう。善良というよりも愚かという魂が感じられる。読み書きはともかく出来て、中くらいの成績なのだが、人生の行路では、仮名も知らない女よりも処世に疎うとくて、要するに本当の生長がないような愚な魂がのぞけて見えるのだ。そのくせ、ひどく色っぽい。ただ、それだけだ。  私は先生をやめるとき、この娘を女中に譲り受けて連れて行こうかと思った。そうして、やがて自然の結果が二人の肉体を結びつけたら、結婚してもいいと思った。まったくこれは奇妙な妄想であった。私は今でも白痴的な女に妙に惹ひかれるのだが、これがその現実に於ける首はじまりで、私は恋情とか、胸の火だとか、そういうものは自覚せず、極めて冷静に、一人の少女とやがて結婚してもいいと考え耽っていたのである。  私は高貴な女先生の顔はもうその輪郭すらも全く忘れて思い描くよしもないが、この三人の少女の顔は今も生々しく記憶している。石津はオモチャにされ、踏みつけられ、虐しいたげられても、いつもたわいもなく楽天的なような気がするのだが、むろん現実ではそんな筈はない。虱たかりと云われて、やっぱり一瞬はキリリとまなじりを決するので、踏みしだかれて、路上の馬糞のように喘あえいでいる姿も思う。私の予感は当っていて、その後娼家の娼婦に接してみると、こんな風なたわいもない楽天家に屡々しばしばめぐりあったものである。        ★  私は近頃、誰しも人は少年から大人になる一期間、大人よりも老成する時があるのではないかと考えるようになった。  近頃私のところへ時々訪ねてくる二人の青年がいる。二十二だ。彼等は昔は右翼団体に属していたこちこちの国粋主義者だが、今は人間の本当の生き方ということを考えているようである。この青年達は私の「堕落論」とか「淪落りんらく論」がなんとなく本当の言葉であるようにも感じているらしいが、その激しさについてこれないのである。彼等は何よりも節度を尊んでいる。  やっぱり戦争から帰ってきたばかりの若い詩人と特攻くずれの編輯者がいる。彼等は私の家へ二三日泊り、ガチャガチャ食事をつくってくれたり、そういう彼等には全く戦陣の影がある。まったく野戦の状態で、野放しにされた荒々しい野性が横溢おういつしているのである。然し彼等の魂にはやはり驚くべき節度があって、つまり彼等はみんな高貴な女先生の面影を胸にだきしめているのだ。この連中も二十二だ。彼等には未だ本当の肉体の生活が始まっていない。彼等の精神が肉体自体に苦しめられる年齢の発育まできていないのだろう。この時期の青年は、四十五十の大人よりも、むしろ老成している。彼等の節度は自然のもので、大人達の節度のように強いて歪ゆがめられ、つくりあげられたものではない。あらゆる人間がある期間はカンジダなのだと私は思う。それから堕ちるのだ。ところが、肉体の堕ちると共に、魂の純潔まで多くは失うのではないか。  私は後年ボルテールのカンジダを読んで苦笑したものだが、私が先生をしているとき、不幸と苦しみの漠然たる志向に追われ、その実私には不幸や苦しみを空想的にしか捉えることができない。そのとき私は自分に不幸を与える方法として、娼家へ行くこと、そして最も厭な最も汚らしい病気になっては、と考えたものだ。この思いつきは妙に根強く私の頭に絡からみついていたものである。別に深い意味はない。外に不幸とはどんなものか想像することができなかったせいだろう。  私は教員をしている間、なべて勤める人の処世上の苦痛、つまり上役との衝突とか、いじめられるとか、党派的な摩擦とか、そういうものに苦しめられる機会がなかった。先生の数が五人しかない。党派も有りようがない。それに分教場のことで、主任といっても校長とは違うから、そう責任は感じておらず、第一非常に無責任な、教育事業などに何の情熱もない男だ。自分自身が教室をほったらかして、有力者の縁談などで東奔西走しているから、教育という仕事に就ては誰に向っても一言半句も言うことができないので、私は音楽とソロバンができないから、そういうものをぬきにして勝手な時間表をつくっても文句はいわず、ただ稀れに、有力者の子供を大事にしてくれということだけ、ほのめかした。然し私はそういうことにこだわる必要はなかったので、私は子供をみんな可愛がっていたから、それ以上どうする必要も感じていなかった。  特に主任が私に言ったのは荻原という地主の子供で、この地主は学務委員であった。この子は然し本来よい子供で、時々いたずらをして私に怒られたが、怒られる理由をよく知っているので、私に怒られて許されると却かえって安心するのであった。あるとき、この子供が、先生は僕ばかり叱る、といって泣きだした。そうじゃない。本当は私に甘えている我がままなのだ。へえ、そうかい。俺はお前だけ特別叱るかい。そう云って私が笑いだしたら、すぐ泣きやんで自分も笑いだした。私と子供とのこういうつながりは、主任には分らなかった。  子供は大人と同じように、ずるい。牛乳屋の落第生なども、とてもずるいにはずるいけれども、同時に人のために甘んじて犠牲になるような正しい勇気も一緒に住んでいるので、つまり大人と違うのは、正しい勇気の分量が多いという点だけだ。ずるさは仕方がない。ずるさが悪徳ではないので、同時に存している正しい勇気を失うことがいけないのだと私は思った。  ある放課後、生徒も帰り、先生も帰り、私一人で職員室に朦朧もうろうとしていると、外から窓のガラスをコツコツ叩く者がある。見ると、主任だ。  主任は帰る道に有力者の家へ寄った。すると子供が泣いて帰ってきて、先生に叱られたという。お父さんが学務委員などをして威張っているから、先生が俺を憎むのだ。お父さんの馬鹿野郎、と云って、大変な暴れ方で手がつけられない。いったい、どうして、叱ったのだ、と言うのである。  あいにく私はその日はその子供を叱ってはいないのである。然し子供のやることには必ず裏側に悲しい意味があるので、決して表面の事柄だけで判断してはいけないものだ。そうですか。大したことではないけれど、叱らねばならないことがあったから叱っただけです、じゃ、君、と、主任はいやらしい笑い方をして、君、ちょっと、出掛けて行って釈明してくれ給え。長い物にはまかれろというから、仕方がないさ、ヘッヘ、という。主任はヘッヘという笑い方を屡々つけたす男であった。 「僕は行く必要がないです。先生はお帰りの道順でしょうから、子供に、子供にだけです、ここへ来るように言っていただけませんか」 「そうかい。然し、君、あんまり子供を叱っちゃ、いけないよ」 「ええ、まア、僕の子供のことは僕にまかせておいて下さい」 「そうかい。然し、お手やわらかに頼むよ、有力者の子供は特別にね」  と、その日の主任は虫の居どころのせいか、案外アッサリぴょこぴょこ歩いて行った。私は今まで忘れていたが、彼はほんの少しだがビッコで、ちょっと尻を横っちょへ突きだすようにぴょこぴょこ歩くのである。だが、その足はひどく速い。  まもなく子供はてれて笑いながらやってきて、先生と窓の外からよんで、隠れている。私はよく叱るけれども、この子供が大好きなのである。その親愛はこの子供には良く通じていた。 「どうして親父をこまらしたんだ」 「だって、癪しゃくだもの」 「本当のことを教えろよ。学校から帰る道に、なにか、やったんだろう」  子供の胸にひめられている苦悩懊悩おうのうは、大人と同様に、むしろそれよりもひたむきに、深刻なのである。その原因が幼稚であるといって、苦悩自体の深さを原因の幼稚さで片づけてはいけない。そういう自責や苦悩の深さは七ツの子供も四十の男も変りのあるものではない。  彼は泣きだした。彼は学校の隣の文房具屋で店先の鉛筆を盗んだのである。牛乳屋の落第生におどかされて、たぶん何か、おどかされる弱い尻尾があったのだろう、そういうことは立入ってきいてやらない方がいいようだ、ともかく仕方なしに盗んだのである。お前の名前など言わずに鉛筆の代金は払っておいてやるから心配するなと云うと、喜んで帰って行った。その数日後、誰もいないのを見すましてソッと教員室へやってきて、二三十銭の金をとりだして、先生、払ってくれた? とききにきた。  牛乳屋の落第生は悪いことがバレて叱られそうな気配が近づいているのを察しると、ひどくマメマメしく働きだすのである。掃除当番などを自分で引受けて、ガラスなどまでセッセと拭いたり、先生、便所がいっぱいだからくんでやろうか、そんなことできるのか、俺は働くことはなんでもできるよ、そうか、汲んだものをどこへ持ってくのだ、裏の川へ流しちゃうよ、無茶言うな、ザッとこういうあんばいなのである。その時もマメマメしくやりだしたので、私はおかしくて仕方がない。  私が彼の方へ歩いて行くと、彼はにわかに後じさりして、 「先生、叱っちゃ、いや」  彼は真剣に耳を押えて目をとじてしまった。 「ああ、叱らない」 「かんべんしてくれる」 「かんべんしてやる。これからは人をそそのかして物を盗ませたりしちゃいけないよ。どうしても悪いことをせずにいられなかったら、人を使わずに、自分一人でやれ。善いことも悪いことも自分一人でやるんだ」  彼はいつもウンウンと云って、きいているのである。  こういう職業は、もし、たとえば少年達へのお説教というものを、自分自身の生き方として考えるなら、とても空虚で、つづけられるものではない。そのころは、然し私は自信をもっていたものだ。今はとてもこんな風に子供にお説教などはできない。あの頃の私はまったく自然というものの感触に溺れ、太陽の讃歌のようなものが常に魂から唄われ流れでていた。私は臆面もなく老成しきって、そういう老成の実際の空虚というものを、さとらずにいた。さとらずに、いられたのである。  私が教員をやめるときは、ずいぶん迷った。なぜ、やめなければならないのか。私は仏教を勉強して、坊主になろうと思ったのだが、それは「さとり」というものへのあこがれ、その求道のための厳しさに対する郷愁めくものへのあこがれであった。教員という生活に同じものが生かされぬ筈はない。私はそう思ったので、さとりへのあこがれなどというけれども、所詮名誉慾というものがあってのことで、私はそういう自分の卑しさを嘆いたものであった。私は一向希望に燃えていなかった。私のあこがれは「世を捨てる」という形態の上にあったので、そして内心は世を捨てることが不安であり、正しい希望を抛棄している自覚と不安、悔恨と絶望をすでに感じつづけていたのである。まだ足りない。何もかも、すべてを捨てよう。そうしたら、どうにかなるのではないか。私は気違いじみたヤケクソの気持で、捨てる、捨てる、捨てる、何でも構わず、ただひたすらに捨てることを急ごうとしている自分を見つめていた。自殺が生きたい手段の一つであると同様に、捨てるというヤケクソの志向が実は青春の跫音あしおとのひとつにすぎないことを、やっぱり感じつづけていた。私は少年時代から小説家になりたかったのだ。だがその才能がないと思いこんでいたので、そういう正しい希望へのてんからの諦めが、底に働いていたこともあったろう。  教員時代の変に充ち足りた一年間というものは、私の歴史の中で、私自身でないような、思いだすたびに嘘のような変に白々しい気持がするのである。 底本:「坂口安吾全集4」ちくま文庫、筑摩書房    1990(平成2)年3月27日第1刷発行 底本の親本:「いづこへ」真光社    1947(昭和22)年5月15日発行 初出:「文芸 第四巻第一号(新春号)」    1947(昭和22)年1月1日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下に限って、大振りにつくっています。 「その一二ヶ月というもの」 入力:砂場清隆 校正:伊藤時也 2005年12月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。

2022年8月25日木曜日

青空文庫

不良少年とキリスト 坂口安吾  もう十日、歯がいたい。右頬に氷をのせ、ズルフォン剤をのんで、ねている。ねていたくないのだが、氷をのせると、ねる以外に仕方がない。ねて本を読む。太宰の本をあらかた読みかえした。  ズルフォン剤を三箱カラにしたが、痛みがとまらない。是非なく、医者へ行った。一向にハカバカしく行かない。 「ハア、たいへん、よろしい。私の申上げることも、ズルフォン剤をのんで、氷嚢をあてる、それだけです。それが何より、よろしい」  こっちは、それだけでは、よろしくないのである。 「今に、治るだろうと思います」  この若い医者は、完璧な言葉を用いる。今に、治るだろうと思います、か。医学は主観的認識の問題であるか、薬物の客観的効果の問題であるか。ともかく、こっちは、歯が痛いのだよ。  原子バクダンで百万人一瞬にたゝきつぶしたって、たった一人の歯の痛みがとまらなきゃ、なにが文明だい。バカヤロー。  女房がズルフォン剤のガラスビンを縦に立てようとして、ガチャリと倒す。音響が、とびあがるほど、ひゞくのである。 「コラ、バカ者!」 「このガラスビンは立てることができるのよ」  先方は、曲芸をたのしんでいるのである。 「オマエサンは、バカだから、キライだよ」  女房の血相が変る。怒り、骨髄に徹したのである。こっちは痛み骨髄に徹している。  グサリと短刀を頬へつきさす。エイとえぐる。気持、よきにあらずや。ノドにグリグリができている。そこが、うずく。耳が痛い。頭のシンも、電気のようにヒリヒリする。  クビをくくれ。悪魔を亡ぼせ。退治せよ。すゝめ。まけるな。戦え。  かの三文々士は、歯痛によって、ついに、クビをくくって死せり。決死の血相、ものすごし。闘志充分なりき。偉大。  ほめて、くれねえだろうな。誰も。  歯が痛い、などゝいうことは、目下、歯が痛い人間以外は誰も同感してくれないのである。人間ボートク! と怒ったって、歯痛に対する不同感が人間ボートクかね。然らば、歯痛ボートク。いゝじゃないですか。歯痛ぐらい。やれやれ。歯は、そんなものでしたか。新発見。  たった一人、銀座出版の升金編輯局長という珍妙な人物が、同情をよせてくれた。 「ウム、安吾さんよ。まさしく、歯は痛いもんじゃよ。歯の病気と生殖器の病気は、同類項の陰鬱じゃ」  うまいことを言う。まったく、陰にこもっている。してみれば、借金も同類項だろう。借金は陰鬱なる病気也。不治の病い也。これを退治せんとするも、人力の及ぶべからず。あゝ、悲し、悲し。  歯痛をこらえて、ニッコリ、笑う。ちっとも、偉くねえや。このバカヤロー。  ああ、歯痛に泣く。蹴とばすぞ。このバカ者。  歯は、何本あるか。これが、問題なんだ。人によって、歯の数が違うものだと思っていたら、そうじゃ、ないんだってね。変なところまで、似せやがるよ。そうまで、しなくったって、いゝじゃないか。だからオレは、神様が、きらいなんだ。なんだって、歯の数まで、同じにしやがるんだろう。気違いめ。まったくさ。そういうキチョウメンなヤリカタは、気違いのものなんだ。もっと、素直に、なりやがれ。  歯痛をこらえて、ニッコリ、笑う。ニッコリ笑って、人を斬る。黙って坐れば、ピタリと、治る。オタスケじいさんだ。なるほど、信者が集る筈だ。  余は、歯痛によって、十日間、カンシャクを起せり。女房は親切なりき。枕頭に侍り、カナダライに氷をいれ、タオルをしぼり、五分間おきに余のホッペタにのせかえてくれたり。怒り骨髄に徹すれど、色にも見せず、貞淑、女大学なりき。  十日目。 「治った?」 「ウム。いくらか、治った」  女という動物が、何を考えているか、これは利巧な人間には、わからんよ。女房、とたんに血相変り、 「十日間、私を、いじめたな」  余はブンナグラレ、蹴とばされたり。  あゝ、余の死するや、女房とたんに血相変り、一生涯、私を、いじめたな、と余のナキガラをナグリ、クビをしめるべし。とたんに、余、生きかえれば、面白し。  檀一雄、来る。ふところより高価なるタバコをとりだし、貧乏するとゼイタクになる、タンマリお金があると、二十円の手巻きを買う、と呟きつゝ、余に一個くれたり。 「太宰が死にましたね。死んだから、葬式に行かなかった」  死なない葬式が、あるもんか。  檀は太宰と一緒に共産党の細胞とやらいう生物活動をしたことがあるのだ。そのとき太宰は、生物の親分格で、檀一雄の話によると一団中で最もマジメな党員だったそうである。 「とびこんだ場所が自分のウチの近所だから、今度はほんとに死んだと思った」  檀仙人は神示をたれて、又、曰く、 「またイタズラしましたね。なにかしらイタズラするです。死んだ日が十三日、グッドバイが十三回目、なんとか、なんとかゞ、十三……」  檀仙人は十三をズラリと並べた。てんで気がついていなかったから、私は呆気にとられた。仙人の眼力である。  太宰の死は、誰より早く、私が知った。まだ新聞へでないうちに、新潮の記者が知らせに来たのである。それをきくと、私はたゞちに置手紙を残して行方をくらました。新聞、雑誌が太宰のことで襲撃すると直覚に及んだからで、太宰のことは当分語りたくないから、と来訪の記者諸氏に宛て、書き残して、家をでたのである。これがマチガイの元であった。  新聞記者は私の置手紙の日附が新聞記事よりも早いので、怪しんだのだ。太宰の自殺が狂言で、私が二人をかくまっていると思ったのである。  私も、はじめ、生きているのじゃないか、と思った。然し、川っぷちに、ズリ落ちた跡がハッキリしていたときいたので、それでは本当に死んだと思った。ズリ落ちた跡までイタズラはできない。新聞記者は拙者に弟子入りして探偵小説を勉強しろ。  新聞記者のカンチガイが本当であったら、大いに、よかった。一年間ぐらい太宰を隠しておいて、ヒョイと生きかえらせたら、新聞記者や世の良識ある人々はカンカンと怒るか知れないが、たまにはそんなことが有っても、いゝではないか。本当の自殺よりも、狂言自殺をたくらむだけのイタズラができたら、太宰の文学はもっと傑すぐれたものになったろうと私は思っている。           ★  ブランデン氏は、日本の文学者どもと違って眼識ある人である。太宰の死にふれて(時事新報)文学者がメランコリイだけで死ぬのは例が少い、たいがい虚弱から追いつめられるもので、太宰の場合も肺病が一因ではないか、という説であった。  芥川も、そうだ。支那で感染した梅毒が、貴族趣味のこの人をふるえあがらせたことが思いやられる。  芥川や太宰の苦悩に、もはや梅毒や肺病からの圧迫が慢性となって、無自覚になっていたとしても、自殺へのコースをひらいた圧力の大きなものが、彼らの虚弱であったことは本当だと私は思う。  太宰は、M・C、マイ・コメジアン、を自称しながら、どうしても、コメジアンになりきることが、できなかった。  晩年のものでは、――どうも、いけない。彼は「晩年」という小説を書いてるもんで、こんぐらかって、いけないよ。その死に近きころの作品に於ては(舌がまわらんネ)「斜陽」が最もすぐれている。然し十年前の「魚服記」(これぞ晩年の中にあり)は、すばらしいじゃないか。これぞ、M・Cの作品です。「斜陽」も、ほゞ、M・Cだけれども、どうしてもM・Cになりきれなかったんだね。 「父」だの「桜桃」だの、苦しいよ。あれを人に見せちゃア、いけないんだ。あれはフツカヨイの中にだけあり、フツカヨイの中で処理してしまわなければいけない性質のものだ。  フツカヨイの、もしくは、フツカヨイ的の、自責や追悔の苦しさ、切なさを、文学の問題にしてもいけないし、人生の問題にしてもいけない。  死に近きころの太宰は、フツカヨイ的でありすぎた。毎日がいくらフツカヨイであるにしても、文学がフツカヨイじゃ、いけない。舞台にあがったM・Cにフツカヨイは許されないのだよ。覚醒剤をのみすぎ、心臓がバクハツしても、舞台の上のフツカヨイはくいとめなければいけない。  芥川は、ともかく、舞台の上で死んだ。死ぬ時も、ちょッと、役者だった。太宰は、十三の数をひねくったり、人間失格、グッドバイと時間をかけて筋をたて、筋書き通りにやりながら、結局、舞台の上ではなく、フツカヨイ的に死んでしまった。  フツカヨイをとり去れば、太宰は健全にして整然たる常識人、つまり、マットウの人間であった。小林秀雄が、そうである。太宰は小林の常識性を笑っていたが、それはマチガイである。真に正しく整然たる常識人でなければ、まことの文学は、書ける筈がない。  今年の一月何日だか、織田作之助の一周忌に酒をのんだとき、織田夫人が二時間ほど、おくれて来た。その時までに一座は大いに酔っ払っていたが、誰かゞ織田の何人かの隠していた女の話をはじめたので、 「そういう話は今のうちにやってしまえ。織田夫人がきたら、やるんじゃないよ」  と私が言うと、 「そうだ、そうだ、ほんとうだ」  と、間髪を入れず、大声でアイヅチを打ったのが太宰であった。先輩を訪問するに袴をはき、太宰は、そういう男である。健全にして、整然たる、本当の人間であった。  然し、M・Cになれず、どうしてもフツカヨイ的になりがちであった。  人間、生きながらえば恥多し。然し、文学のM・Cには、人間の恥はあるが、フツカヨイの恥はない。 「斜陽」には、変な敬語が多すぎる。お弁当をお座敷にひろげて御持参のウイスキーをお飲みになり、といったグアイに、そうかと思うと、和田叔父が汽車にのると上キゲンに謡をうなる、というように、いかにも貴族の月並な紋切型で、作者というものは、こんなところに文学のまことの問題はないのだから平気な筈なのに、実に、フツカヨイ的に最も赤面するのが、こういうところなのである。  まったく、こんな赤面は無意味で、文学にとって、とるにも足らぬことだ。  ところが、志賀直哉という人物が、これを採りあげて、やッつける。つまり、志賀直哉なる人物が、いかに文学者でないか、単なる文章家にすぎん、ということが、これによって明かなのであるが、ところが、これが又、フツカヨイ的には最も急所をついたもので、太宰を赤面混乱させ、逆上させたに相違ない。  元々太宰は調子にのると、フツカヨイ的にすべってしまう男で、彼自身が、志賀直哉の「お殺し」という敬語が、体をなさんと云って、やッつける。  いったいに、こういうところには、太宰の一番かくしたい秘密があった、と私は思う。  彼の小説には、初期のものから始めて、自分が良家の出であることが、書かれすぎている。  そのくせ、彼は、亀井勝一郎が何かの中で自ら名門の子弟を名乗ったら、ゲッ、名門、笑わせるな、名門なんて、イヤな言葉、そう言ったが、なぜ、名門がおかしいのか、つまり太宰が、それにコダワッているのだ。名門のおかしさが、すぐ響くのだ。志賀直哉のお殺しも、それが彼にひゞく意味があったのだろう。  フロイドに「誤謬の訂正」ということがある。我々が、つい言葉を言いまちがえたりすると、それを訂正する意味で、無意識のうちに類似のマチガイをやって、合理化しようとするものだ。  フツカヨイ的な衰弱的な心理には、特にこれがひどくなり、赤面逆上的混乱苦痛とともに、誤謬の訂正的発狂状態が起るものである。  太宰は、これを、文学の上でやった。  思うに太宰は、その若い時から、家出をして女の世話になった時などに、良家の子弟、時には、華族の子弟ぐらいのところを、気取っていたこともあったのだろう。その手で、飲み屋をだまして、借金を重ねたことも、あったかも知れぬ。  フツカヨイ的に衰弱した心には、遠い一生のそれらの恥の数々が赤面逆上的に彼を苦しめていたに相違ない。そして彼は、その小説で、誤謬の訂正をやらかした。フロイドの誤謬の訂正とは、誤謬を素直に訂正することではなくて、もう一度、類似の誤謬を犯すことによって、訂正のツジツマを合せようとする意味である。  けだし、率直な誤謬の訂正、つまり善なる建設への積極的な努力を、太宰はやらなかった。  彼は、やりたかったのだ。そのアコガレや、良識は、彼の言動にあふれていた。然し、やれなかった。そこには、たしかに、虚弱の影響もある。然し、虚弱に責を負わせるのは正理ではない。たしかに、彼が、安易であったせいである。  M・Cになるには、フツカヨイを殺してかゝる努力がいるが、フツカヨイの嘆きに溺れてしまうには、努力が少くてすむのだ。然し、なぜ、安易であったか、やっぱり、虚弱に帰するべきであるかも知れぬ。  むかし、太宰がニヤリと笑って田中英光に教訓をたれた。ファン・レターには、うるさがらずに、返事をかけよ、オトクイサマだからな。文学者も商人だよ。田中英光はこの教訓にしたがって、せっせと返事を書くそうだが、太宰がせッせと返事を書いたか、あんまり書きもしなかろう。  しかし、ともかく、太宰が相当ファンにサービスしていることは事実で、去年私のところへ金沢だかどこかの本屋のオヤジが、画帖(だか、どうだか、中をあけてみなかったが、相当厚みのあるものであった)を送ってよこして、一筆かいてくれという。包みをあけずに、ほッたらかしておいたら、時々サイソクがきて、そのうち、あれは非常に高価な紙をムリして買ったもので、もう何々さん、何々さん、何々さん、太宰さんも書いてくれた、余は汝坂口先生の人格を信用している、というような変なことが書いてあった。虫の居どころの悪い時で、私も腹を立て、変なインネンをつけるな、バカ者め、と、包みをそっくり送り返したら、このキチガイめ、と怒った返事がきたことがあった。その時のハガキによると、太宰は絵をかいて、それに書を加えてやったようである。相当のサービスと申すべきであろう。これも、彼の虚弱から来ていることだろうと私は思っている。  いったいに、女優男優はとにかく、文学者とファン、ということは、日本にも、外国にも、あんまり話題にならない。だいたい、現世的な俳優という仕事と違って、文学は歴史性のある仕事であるから、文学者の関心は、現世的なものとは交りが浅くなるのが当然で、ヴァレリイはじめ崇拝者にとりまかれていたというマラルメにしても、木曜会の漱石にしても、ファンというより門弟で、一応才能の資格が前提されたツナガリであったろう。  太宰の場合は、そうではなく、映画ファンと同じようで、こういうところは、芥川にも似たところがある。私はこれを彼らの肉体の虚弱からきたものと見るのである。  彼らの文学は本来孤独の文学で、現世的、ファン的なものとツナガルところはない筈であるのに、つまり、彼らは、舞台の上のM・Cになりきる強靭さが欠けていて、その弱さを現世的におぎなうようになったのだろうと私は思う。  結局は、それが、彼らを、死に追いやった。彼らが現世を突ッぱねていれば、彼らは、自殺はしなかった。自殺したかも、知れぬ。然し、ともかく、もっと強靭なM・Cとなり、さらに傑れた作品を書いたであろう。  芥川にしても、太宰にしても、彼らの小説は、心理通、人間通の作品で、思想性は殆どない。  虚無というものは、思想ではないのである。人間そのものに附属した生理的な精神内容で、思想というものは、もっとバカな、オッチョコチョイなものだ。キリストは、思想でなく、人間そのものである。  人間性(虚無は人間性の附属品だ)は永遠不変のものであり、人間一般のものであるが、個人というものは、五十年しか生きられない人間で、その点で、唯一の特別な人間であり、人間一般と違う。思想とは、この個人に属するもので、だから、生き、又、亡びるものである。だから、元来、オッチョコチョイなのである。  思想とは、個人が、ともかく、自分の一生を大切に、より良く生きようとして、工夫をこらし、必死にあみだした策であるが、それだから、又、人間、死んでしまえば、それまでさ、アクセクするな、と言ってしまえば、それまでだ。  太宰は悟りすまして、そう云いきることも出来なかった。そのくせ、よりよく生きる工夫をほどこし、青くさい思想を怖れず、バカになることは、尚、できなかった。然し、そう悟りすまして、冷然、人生を白眼視しても、ちッとも救われもせず、偉くもない。それを太宰は、イヤというほど、知っていた筈だ。  太宰のこういう「救われざる悲しさ」は、太宰ファンなどゝいうものには分らない。太宰ファンは、太宰が冷然、白眼視、青くさい思想や人間どもの悪アガキを冷笑して、フツカヨイ的な自虐作用を見せるたびに、カッサイしていたのである。  太宰はフツカヨイ的では、ありたくないと思い、もっともそれを咒っていた筈だ。どんなに青くさくても構わない、幼稚でもいゝ、よりよく生きるために、世間的な善行でもなんでも、必死に工夫して、よい人間になりたかった筈だ。  それをさせなかったものは、もろもろの彼の虚弱だ。そして彼は現世のファンに迎合し、歴史の中のM・Cにならずに、ファンだけのためのM・Cになった。 「人間失格」「グッドバイ」「十三」なんて、いやらしい、ゲッ。他人がそれをやれば、太宰は必ず、そう言う筈ではないか。  太宰が死にそこなって、生きかえったら、いずれはフツカヨイ的に赤面逆上、大混乱、苦悶のアゲク、「人間失格」「グッドバイ」自殺、イヤらしい、ゲッ、そういうものを書いたにきまっている。           ★  太宰は、時々、ホンモノのM・Cになり、光りかゞやくような作品をかいている。 「魚服記」、「斜陽」、その他、昔のものにも、いくつとなくあるが、近年のものでも、「男女同権」とか、「親友交驩」のような軽いものでも、立派なものだ。堂々、見あげたM・Cであり、歴史の中のM・Cぶりである。  けれども、それが持続ができず、どうしてもフツカヨイのM・Cになってしまう。そこから持ち直して、ホンモノのM・Cに、もどる。又、フツカヨイのM・Cにもどる。それを繰りかえしていたようだ。  然し、そのたびに、語り方が巧くなり、よい語り手になっている。文学の内容は変っていない。それは彼が人間通の文学で、人間性の原本的な問題のみ取り扱っているから、思想的な生成変化が見られないのである。  今度も、自殺をせず、立ち直って、歴史の中のM・Cになりかえったなら、彼は更に巧みな語り手となって、美しい物語をサービスした筈であった。  だいたいに、フツカヨイ的自虐作用は、わかり易いものだから、深刻ずきな青年のカッサイを博すのは当然であるが、太宰ほどの高い孤独な魂が、フツカヨイのM・Cにひきずられがちであったのは、虚弱の致すところ、又、ひとつ、酒の致すところであったと私は思う。  ブランデン氏は虚弱を見破ったが、私は、もう一つ、酒、この極めて通俗な魔物をつけ加える。  太宰の晩年はフツカヨイ的であったが、又、実際に、フツカヨイという通俗きわまるものが、彼の高い孤独な魂をむしばんでいたのだろうと思う。  酒は殆ど中毒を起さない。先日、さる精神病医の話によると、特に日本には真性アル中というものは殆どない由である。  けれども、酒を麻薬に非ず、料理の一種と思ったら、大マチガイですよ。  酒は、うまいもんじゃないです。僕はどんなウイスキーでもコニャックでも、イキを殺して、ようやく呑み下しているのだ。酔っ払うために、のんでいるです。酔うと、ねむれます。これも効用のひとつ。  然し、酒をのむと、否、酔っ払うと、忘れます。いや、別の人間に誕生します。もしも、自分というものが、忘れる必要がなかったら、何も、こんなものを、私はのみたくない。  自分を忘れたい、ウソつけ。忘れたきゃ、年中、酒をのんで、酔い通せ。これをデカダンと称す。屁理窟を云ってはならぬ。  私は生きているのだぜ。さっきも言う通り、人生五十年、タカが知れてらア、そう言うのが、あんまり易しいから、そう言いたくないと言ってるじゃないか。幼稚でも、青くさくても、泥くさくても、なんとか生きているアカシを立てようと心がけているのだ。年中酔い通すぐらいなら、死んでらい。  一時的に自分を忘れられるということは、これは魅力あることですよ。たしかに、これは、現実的に偉大なる魔術です。むかしは、金五十銭、ギザギザ一枚にぎると、新橋の駅前で、コップ酒五杯のんで、魔術がつかえた。ちかごろは、魔法をつかうのは、容易なことじゃ、ないですよ。太宰は、魔法つかいに失格せずに、人間に失格したです。と、思いこみ遊ばしたです。  もとより、太宰は、人間に失格しては、いない。フツカヨイに赤面逆上するだけでも、赤面逆上しないヤツバラよりも、どれぐらい、マットウに、人間的であったか知れぬ。  小説が書けなくなったわけでもない。ちょッと、一時的に、M・Cになりきる力が衰えただけのことだ。  太宰は、たしかに、ある種の人々にとっては、つきあいにくい人間であったろう。  たとえば、太宰は私に向って、文学界の同人についなっちゃったが、あれ、どうしたら、いゝかね、と云うから、いゝじゃないか、そんなこと、ほッたらかしておくがいゝさ。アヽ、そうだ、そうだ、とよろこぶ。  そのあとで、人に向って、坂口安吾にこうわざとショゲて見せたら、案の定、大先輩ぶって、ポンと胸をたゝかんばかりに、いゝじゃないか、ほッたらかしとけ、だってさ、などゝ面白おかしく言いかねない男なのである。  多くの旧友は、太宰のこの式の手に、太宰をイヤがって離れたりしたが、むろんこの手で友人たちは傷つけられたに相違ないが、実際は、太宰自身が、わが手によって、内々さらに傷つき、赤面逆上した筈である。  もとより、これらは、彼自身がその作中にも言っている通り、現に眼前の人へのサービスに、ふと、言ってしまうだけのことだ。それぐらいのことは、同様に作家たる友人連、知らない筈はないが、そうと知っても不快と思う人々は彼から離れたわけだろう。  然し、太宰の内々の赤面逆上、自卑、その苦痛は、ひどかった筈だ。その点、彼は信頼に足る誠実漢であり、健全な、人間であったのだ。  だから、太宰は、座談では、ふと、このサービスをやらかして、内々赤面逆上に及ぶわけだが、それを文章に書いてはおらぬ。ところが、太宰の弟子の田中英光となると、座談も文学も区別なしに、これをやらかしており、そのあとで、内々どころか、大ッピラに、赤面混乱逆上などゝ書きとばして、それで当人救われた気持だから、助からない。  太宰は、そうではなかった。もっと、本当に、つゝましく、敬虔で、誠実であったのである。それだけ、内々の赤面逆上は、ひどかった筈だ。  そういう自卑に人一倍苦しむ太宰に、酒の魔法は必需品であったのが当然だ。然し、酒の魔術には、フツカヨイという香しからぬ附属品があるから、こまる。火に油だ。  料理用の酒には、フツカヨイはないのであるが、魔術用の酒には、これがある。精神の衰弱期に、魔術を用いると、淫しがちであり、えゝ、まゝよ、死んでもいゝやと思いがちで、最も強烈な自覚症状としては、もう仕事もできなくなった、文学もイヤになった、これが、自分の本音のように思われる。実際は、フツカヨイの幻想で、そして、病的な幻想以外に、もう仕事ができない、という絶体絶命の場は、実在致してはおらぬ。  太宰のような人間通、色々知りぬいた人間でも、こんな俗なことを思いあやまる。ムリはないよ。酒は、魔術なのだから。俗でも、浅薄でも、敵が魔術だから、知っていても、人智は及ばぬ。ローレライです。  太宰は、悲し。ローレライに、してやられました。  情死だなんて、大ウソだよ。魔術使いは、酒の中で、女にほれるばかり。酒の中にいるのは、当人でなくて、別の人間だ。別の人間が惚れたって、当人は、知らないよ。  第一、ほんとに惚れて、死ぬなんて、ナンセンスさ。惚れたら、生きることです。  太宰の遺書は、体をなしていない。メチャメチャに酔っ払っていたようだ。十三日に死ぬことは、あるいは、内々考えていたかも知れぬ。ともかく、人間失格、グッドバイ、それで自殺、まア、それとなく筋は立てゝおいたのだろう。内々筋は立てゝあっても、必ず死なねばならぬ筈でもない。必ず死なねばならぬ、そのような絶体絶命の思想とか、絶体絶命の場というものが、実在するものではないのである。  彼のフツカヨイ的衰弱が、内々の筋を、次第にノッピキならないものにしたのだろう。  然し、スタコラ・サッちゃんが、イヤだと云えば、実現はする筈がない。太宰がメチャ/\酔って、言いだして、サッちゃんが、それを決定的にしたのであろう。  サッちゃんも、大酒飲みの由であるが、その遺書は、尊敬する先生のお伴をさせていたゞくのは身にあまる幸福です、というような整ったもので、一向に酔った跡はない。然し、太宰の遺書は、書体も文章も体をなしておらず、途方もない御酩酊に相違なく、これが自殺でなければ、アレ、ゆうべは、あんなことをやったか、と、フツカヨイの赤面逆上があるところだが、自殺とあっては、翌朝、目がさめないから、ダメである。  太宰の遺書は、体をなしていなすぎる。太宰の死にちかいころの文章が、フツカヨイ的であっても、ともかく、現世を相手のM・Cであったことは、たしかだ。もっとも、「如是我聞」の最終回(四回目か)は、ひどい。こゝにも、M・Cは、殆どいない。あるものは、グチである。こういうものを書くことによって、彼の内々の赤面逆上は益々ひどくなり、彼の精神は消耗して、ひとり、生きぐるしく、切なかったであろうと思う。然し、彼がM・Cでなくなるほど、身近かの者からカッサイが起り、その愚かさを知りながら、ウンザリしつゝ、カッサイの人々をめあてに、それに合わせて行ったらしい。その点では、彼は最後まで、M・Cではあった。彼をとりまく最もせまいサークルを相手に。  彼の遺書には、そのせまいサークル相手のM・Cすらもない。  子供が凡人でもカンベンしてやってくれ、という。奥さんには、あなたがキライで死ぬんじゃありません、とある。井伏さんは悪人です、とある。  そこにあるものは、泥酔の騒々しさばかりで、まったく、M・Cは、おらぬ。  だが、子供が凡人でも、カンベンしてやってくれ、とは、切ない。凡人でない子供が、彼はどんなに欲しかったろうか。凡人でも、わが子が、哀れなのだ。それで、いゝではないか。太宰は、そういう、あたりまえの人間だ。彼の小説は、彼がまッとうな人間、小さな善良な健全な整った人間であることを承知して、読まねばならないものである。  然し、子供をたゞ憐れんでくれ、とは言わずに、特に凡人だから、と言っているところに、太宰の一生をつらぬく切なさの鍵もあったろう。つまり、彼は、非凡に憑かれた類の少い見栄坊でもあった。その見栄坊自体、通俗で常識的なものであるが、志賀直哉に対する「如是我聞」のグチの中でも、このことはバクロしている。  宮様が、身につまされて愛読した、それだけでいゝではないか、と太宰は志賀直哉にくッてかゝっているのであるが、日頃のM・Cのすぐれた技術を忘れると、彼は通俗そのものである。それでいゝのだ。通俗で、常識的でなくて、どうして小説が書けようぞ。太宰が終生、ついに、この一事に気づかず、妙なカッサイに合わせてフツカヨイの自虐作用をやっていたのが、その大成をはゞんだのである。  くりかえして言う。通俗、常識そのものでなければ、すぐれた文学は書ける筈がないのだ。太宰は通俗、常識のまッとうな典型的人間でありながら、ついに、その自覚をもつことができなかった。           ★  人間をわりきろうなんて、ムリだ。特別、ひどいのは、子供というヤツだ。ヒョッコリ、生れてきやがる。  不思議に、私には、子供がない。ヒョッコリ生れかけたことが、二度あったが、死んで生れたり、生まれて、とたんに死んだりした。おかげで、私は、いまだに、助かっているのである。  全然無意識のうちに、変テコリンに腹がふくらんだりして、にわかに、その気になったり、親みたいな心になって、そんな風にして、人間が生れ、育つのだから、バカらしい。  人間は、決して、親の子ではない。キリストと同じように、みんな牛小屋か便所の中かなんかに生れているのである。  親がなくとも、子が育つ。ウソです。  親があっても、子が育つんだ。親なんて、バカな奴が、人間づらして、親づらして、腹がふくれて、にわかに慌てゝ、親らしくなりやがった出来損いが、動物とも人間ともつかない変テコリンな憐れみをかけて、陰にこもって子供を育てやがる。親がなきゃ、子供は、もっと、立派に育つよ。  太宰という男は、親兄弟、家庭というものに、いためつけられた妙チキリンな不良少年であった。  生れが、どうだ、と、つまらんことばかり、云ってやがる。強迫観念である。そのアゲク、奴は、本当に、華族の子供、天皇の子供かなんかであればいゝ、と内々思って、そういうクダラン夢想が、奴の内々の人生であった。  太宰は親とか兄とか、先輩、長老というと、もう頭が上らんのである。だから、それをヤッツケなければならぬ。口惜しいのである。然し、ふるいついて泣きたいぐらい、愛情をもっているのである。こういうところは、不良少年の典型的な心理であった。  彼は、四十になっても、まだ不良少年で、不良青年にも、不良老年にもなれない男であった。  不良少年は負けたくないのである。なんとかして、偉く見せたい。クビをくゝって、死んでも、偉く見せたい。宮様か天皇の子供でありたいように、死んでも、偉く見せたい。四十になっても、太宰の内々の心理は、それだけの不良少年の心理で、そのアサハカなことを本当にやりやがったから、無茶苦茶な奴だ。  文学者の死、そんなもんじゃない。四十になっても、不良少年だった妙テコリンの出来損いが、千々に乱れて、とうとう、やりやがったのである。  まったく、笑わせる奴だ。先輩を訪れる、先輩と称し、ハオリ袴で、やってきやがる。不良少年の仁義である。礼儀正しい。そして、天皇の子供みたいに、日本一、礼儀正しいツモリでいやがる。  芥川は太宰よりも、もっと大人のような、利巧のような顔をして、そして、秀才で、おとなしくて、ウブらしかったが、実際は、同じ不良少年であった。二重人格で、もう一つの人格は、ふところにドスをのんで縁日かなんかぶらつき、小娘を脅迫、口説いていたのである。  文学者、もっと、ひどいのは、哲学者、笑わせるな。哲学。なにが、哲学だい。なんでもありゃしないじゃないか。思索ときやがる。  ヘーゲル、西田幾多郎、なんだい、バカバカしい。六十になっても、人間なんて、不良少年、それだけのことじゃないか。大人ぶるない。冥想ときやがる。  何を冥想していたか。不良少年の冥想と、哲学者の冥想と、どこに違いがあるのか。持って廻っているだけ、大人の方が、バカなテマがかゝっているだけじゃないか。  芥川も、太宰も、不良少年の自殺であった。  不良少年の中でも、特別、弱虫、泣き虫小僧であったのである。腕力じゃ、勝てない。理窟でも、勝てない。そこで、何か、ひきあいを出して、その権威によって、自己主張をする。芥川も、太宰も、キリストをひきあいに出した。弱虫の泣き虫小僧の不良少年の手である。  ドストエフスキーとなると、不良少年でも、ガキ大将の腕ッ節があった。奴ぐらいの腕ッ節になると、キリストだの何だのヒキアイに出さぬ。自分がキリストになる。キリストをこしらえやがる。まったく、とうとう、こしらえやがった。アリョーシャという、死の直前に、ようやく、まにあった。そこまでは、シリメツレツであった。不良少年は、シリメツレツだ。  死ぬ、とか、自殺、とか、くだらぬことだ。負けたから、死ぬのである。勝てば、死にはせぬ。死の勝利、そんなバカな論理を信じるのは、オタスケじいさんの虫きりを信じるよりも阿呆らしい。  人間は生きることが、全部である。死ねば、なくなる。名声だの、芸術は長し、バカバカしい。私は、ユーレイはキライだよ。死んでも、生きてるなんて、そんなユーレイはキライだよ。  生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。おまけに、死ぬ方は、たゞなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。  死ぬ時は、たゞ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私は、これを、人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、たゞ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生れる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。  然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。  勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てる筈が、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。  時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生れてから、死ぬまでの間です。  大ゲサすぎたのだ。限度。学問とは、限度の発見にあるのだよ。大ゲサなのは、子供の夢想で、学問じゃないのです。  原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。子供の遊びです。これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。  自殺は、学問じゃないよ。子供の遊びです。はじめから、まず、限度を知っていることが、必要なのだ。  私はこの戦争のおかげで、原子バクダンは学問じゃない、子供の遊びは学問じゃない、戦争も学問じゃない、ということを教えられた。大ゲサなものを、買いかぶっていたのだ。  学問は、限度の発見だ。私は、そのために戦う。 底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房    1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行 底本の親本:「新潮 第四五巻第七号」    1948(昭和23)年7月1日発行 初出:「新潮 第四五巻第七号」    1948(昭和23)年7月1日発行 入力:tatsuki 校正:小林繁雄 2006年11月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。 「くの字点」は「/\」で表しました。

2022年8月24日水曜日

人間不信と金融

「華麗なる一族」は本当に勉強になる。 まだ途中だけど、 万俵鉄平は可哀想だな。 特殊鋼業界初の高炉建設の夢をたぎらせながら、 一本気な技術者として邁進しているのに、 父親が頭取である 阪神銀行からの融資を渋られたり、 たぶん陰で嫌がらせされている。 それは、一重に、  鉄平が自分の実の子ではなく、 父親が妊ませた子なのではないか、 という不信感から来る。 人間、なんで他人にカネを貸すか?って言ったら、 相手が利子付けて還してくれるのはもちろんのこと、 根本的には、 カネを貸す相手を信用するからだよね。 カネを貸した瞬間に還って来るわけではない以上、 そこに不確定な時間上のズレが生じざるを得ない。 そこには当然、リスクが生まれる。 そのリスクが金利という形で現れるわけだが、 貸したカネが還ってくる可能性が低いほど、 金利が高くなる、 また、返済までの時間上のズレが長くなるほど、 金利が高くなる、 というのが道理だろう。 カネを借りるほうは借りるほうで、 あらん限りの知恵を絞って、綿密に事業計画を立て、返済計画を立てるだろう。 しかし、 どんなに良心的な借り手が、あらん限りの精緻さで事業計画を立てたところで、 未来の事象には、本来的に不確定性がつき纏う。 その分だけ、 リスク・プレミアムとして更に金利が高くもなるだろう。 しかし、 未来とは本来的に不確定なのだ。 直近の事例にしたって、 まさか安倍氏が突然あんな最期を遂げると誰が予測し得ただろうか? 日銀がいくら超金融緩和を継続し、 イールド・カーブ・コントロール政策を強行して、 金利の上で未来の不確定性のリスクを低くしたところで、 未来とはやはり不確定なのだ。 では、終極的になぜ人は他人にカネを貸すか?といえば、 結局は、 騙されてもいいからちょっとやらせてみるか。 という発想だろう。 それこそ井上俊が言ったように、 「詐欺が成り立ち得ないところでは、社会もまた成り立ち得ない」 のである。 人が騙されるということは、裏を返せば人を信じる能力があるということの証左である。 これも、井上俊が言ったことだ。 ちょっと、 今の日本の空気は、1億総人間不信なのではないか? 社会全体が他人に対して不信感で凝り固まっていたら、 日銀がいくら頑張ったところで、限界があるのは自明のことだ。 ちょっと騙されたな、ま、しょうがないか!というくらいの心積もりがなければ、 景気なんか良くなるはずがない。 https://www.sankeibiz.jp/business/news/190726/bse1907260650001-n1.htm

2022年8月23日火曜日

山崎豊子すげー

「華麗なる一族」新潮文庫 面白すぎだろ。 これは物凄い本だ。 めちゃくちゃ勉強になる。

2022年8月22日月曜日

職業としての学問

https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-weber-wissenschaft-als-beruf/ 学問は究極的な価値を支持することはできない。だからこそ、ヴェーバーによれば、次のことが肝心となる。それはつまり、現在の自分の立場が、自分の世界観の根本態度から整合的に導かれるようなものであらねばならず、それゆえに、自分の行為の究極的な意味については、みずから責任を取れるのでなければならない、ということだ。

2022年8月19日金曜日

隔世の感

「華麗なる一族」を読んでいると、 政官財の癒着ってこういうもんか。 と痛感させられて、非常に勉強になる。 これはこれで、 日本がうまく行ってたうちは、強みだったんだろうけど、 さすがに今はこんな関係じゃ日本の現状を捉えられない。 今は、良くも悪くも民主的になったと思う。 選挙制度の改変で、 政治家も小粒になり、 官僚も天下りがバッシングされて、 優秀な人材が集まらなくなった。 そして、マスコミも、 古舘伊知郎のように、ただ官僚を言葉巧みに悪者に していればいい、という時代でもなくなった。 結論から言えば、 有権者がちゃんとした政治家を選ばないと、 その有権者の代表としての政治家の「質」が、 モロに国民の生活、将来に跳ね返ってくる、 ということを、国民がもっと自覚する必要がある。 ガーシーとか生稲とか選んでる場合じゃねえ。 既存のマスメディアも、 時代の変化に十分にキャッチアップしているとは思わないが、 有権者は、 もっと賢くなる必要がある。 繰り返すが、国民の代表としての政治家の「質」が、 国民の生活、将来に、ダイレクトに反映される時代になった。

2022年8月16日火曜日

ジョン・デューイの政治思想

貨幣文化の出現は伝統的な個人主義が人々の行動のエトスとして機能しえなくなっていることを意味した。「かつて諸個人をとらえ、彼らに人生観の支え、方向、そして統一を与えた忠誠心がまったく消失した。その結果、諸個人は混乱し、当惑している」。デューイはこのように個人が「かつて是認されていた社会的諸価値から切り離されることによって、自己を喪失している」状態を「個性の喪失」と呼び、そこに貨幣文化の深刻な問題を見出した。個性は金儲けの競争において勝ち抜く能力に引きつけられて考えられるようになり、「物質主義、そして拝金主義や享楽主義」の価値体系と行動様式が瀰漫してきた。その結果、個性の本来的なあり方が歪められるようになったのである。 「個性の安定と統合は明確な社会的諸関係や公然と是認された機能遂行によって作り出される」。しかし、貨幣文化は個性の本来的なあり方に含まれるこのような他者との交流や連帯、あるいは社会との繋がりの側面を希薄させる。というのは人々が金儲けのため他人との競争に駆り立てられるからである。その結果彼らは内面的にバラバラの孤立感、そして焦燥感や空虚感に陥る傾向が生じてくる。だが、外面的には、その心理的な不安感の代償を求めるかのように生活様式における画一化、量化、機械化の傾向が顕著になる。利潤獲得をめざす大企業体制による大量生産と大量流通がこれらを刺激し、支えるという客観的条件も存在する。個性の喪失とはこのような二つの側面を併せ持っており、そこには人々の多様な生活がそれぞれに固有の意味や質を持っているとする考え方が後退してゆく傾向が見いだされるのである。かくしてデューイは、「信念の確固たる対象がなく、行動の是認された目標が見失われている時代は歴史上これまでなかったと言えるであろう」と述べて、貨幣文化における意味喪失状況の深刻さを指摘している。(「ジョン・デューイの政治思想」小西中和著 北樹出版 p.243~244) https://www.youtube.com/watch?v=f28g4pfTTp0

2022年8月15日月曜日

経済教室ー歴史に学ぶ

8月5日のデール・コープランド、バージニア大学教授の寄稿と、今日8月15日の牧野邦昭慶応大学教授の寄稿をざっくりまとめてみると、現在の中国は、貿易依存度が高いという点で、1930年代の日本に似ており、下手に貿易面での過度の制裁を加えると、戦前の日本のように暴走する可能性があるので、中国を追い詰めすぎるのは得策ではないこと、中国が台湾侵攻を自重しているのは、もしそれをすればアメリカを中心とした経済圏から締め付けを喰らうことを意識しているからだ、とのこと。 寄稿とは別の話だけど、アメリカからすれば、日本と韓国が協働して対中国で結束してくれないと困るって発想だったらしいけど、どうも無理っぽいよね。 最近のアメリカの台湾への接近を見ると、もう、日韓はアテにしてらんねーってことなんかな?

2022年8月12日金曜日

「華麗なる一族」山崎豊子 新潮文庫 中

「銀行家には、他人の金を扱っているという自他から来る厳しい規制があり、その規制がともすれば、自然な人間の欲望を抑圧し、歪め、隠花植物のようなじめじめとした欲求をもたらせることがあるが、それを用意周到な方法で処理し、絶対、世間に知られぬようにするのも、また銀行家というものだ。」

思秋期

ようやく、湿気が抜けて、カラッとした空気になりましたね。 一体いつまでジメジメしているのか、と思うと、それだけでだいぶストレスでしたね。 とりあえずあと数カ月は湿気からは解放される、と期待したい。 それにしても、イスラエル対ハマスの戦闘も、一応形だけは停戦合意に至ったのか、正直よ...