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8月, 2022の投稿を表示しています

大機小機

日本は「衰退途上国」になった、と書いてあったね。 アメリカや東南アジアなどは、 激しいインフレに見舞われているが、 賃金の伸びがそれを上回るので、 結果的に 経済成長する。 ところが、 日本は、インフレは 政府によって抑制されているものの、 反面、賃金は上がらない。 したがって、経済成長もしない。 他の国並みのインフレを許容すれば、 中小企業は潰れる、 付加価値の6割が人件費である以上、 賃上げをすれば インフレで庶民の生活が成り立たない。 ・・・そうやって、 経済成長を犠牲にしながら、 都合の悪いことを見て見ぬ振りをして、 ダラダラと他の国においてけぼりにされていく。 もしかしたら、 そんな状態が長く続くのかも知れない。 日本人のメンタリティからすれば、そんなものかも知れない。 下手に頑張って 体力を使い果たすより、 ひたすら 安全パイを選び続け、 挑戦もせず、 身の丈に合った暮らしを選択し続ける。 そうやって、 陽だまりの樹のように、 ゆっくりゆっくり朽ち果てていき、 もうどうにもならなくなって、爆発する。 そんなものかも知れない。 https://www.youtube.com/watch?v=ED322cpspko

青空文庫

いずこへ 坂口安吾  私はそのころ耳を澄ますようにして生きていた。もっともそれは注意を集中しているという意味ではないので、あべこべに、考える気力というものがなくなったので、耳を澄ましていたのであった。  私は工場街のアパートに一人で住んでおり、そして、常に一人であったが、女が毎日通ってきた。そして私の身辺には、釜かま、鍋なべ、茶碗、箸はし、皿、それに味噌みその壺つぼだのタワシだのと汚らしいものまで住みはじめた。 「僕は釜だの鍋だの皿だの茶碗だの、そういうものと一緒にいるのが嫌いなんだ」  と、私は品物がふえるたびに抗議したが、女はとりあわなかった。 「お茶碗もお箸も持たずに生きてる人ないわ」 「僕は生きてきたじゃないか。食堂という台所があるんだよ。茶碗も釜も捨ててきてくれ」  女はくすりと笑うばかりであった。 「おいしい御飯ができますから、待ってらっしゃい。食堂のたべものなんて、飽きるでしょう」  女はそう思いこんでいるのであった。私のような考えに三文さんもんの真実性も信じていなかった。  まったく私の所持品に、食生活に役立つ器具といえば、洗面の時のコップが一つあるだけだった。私は飲んだくれだが、杯さかずきも徳利とっくりも持たず、ビールの栓ぬきも持っていない。部屋では酒も飲まないことにしていた。私は本能というものを部屋の中へ入れないことにしていたのだが食物よりも先まず第一に、女のからだが私の孤独の蒲団ふとんの中へ遠慮なくもぐりこむようになっていたから、釜や鍋が自然にずるずる住みこむようになっても、もはや如是我説にょぜがせつを固執するだけの純潔に対する貞節の念がぐらついていた。  人間の生き方には何か一つの純潔と貞節の念が大切なものだ。とりわけ私のようにぐうたらな落伍者らくごしゃの悲しさが影身にまで泌しみつくようになってしまうと、何か一つの純潔とその貞節を守らずには生きていられなくなるものだ。  私はみすぼらしさが嫌いで、食べて生きているだけというような意識が何より我慢ができないので、貧乏するほど浪費する、一ヶ月の生活費を一日で使い果し、使いきれないとわざわざ人に呉くれてやり、それが私の二十九日の貧乏に対する一日の復讐ふくしゅうだった。  細く長く生きることは性来私のにくむところで、私は浪費のあげくに三日間ぐらい水を飲んで暮さねばならなかったり下宿や食堂の借金の...

青空文庫

風と光と二十の私と 坂口安吾  私は放校されたり、落第したり、中学を卒業したのは二十の年であった。十八のとき父が死んで、残されたのは借金だけということが分って、私達は長屋へ住むようになった。お前みたいな学業の嫌いな奴が大学などへ入学しても仕方がなかろう、という周囲の説で、尤もっとも別に大学へ入学するなという命令ではなかったけれども、尤もな話であるから、私は働くことにした。小学校の代用教員になったのである。  私は性来放縦で、人の命令に服すということが性格的にできない。私は幼稚園の時からサボることを覚えたもので、中学の頃は出席日数の半分はサボった。教科書などは学校の机の中へ入れたまま、手ぶらで通学して休んでいたので、休んで映画を見るとか、そんなわけではない。故郷の中学では浜の砂丘の松林にねころんで海と空をボンヤリ眺めていただけで、別段、小説などを読んでいたわけでもない。全然ムダなことをしていたので、これは私の生涯の宿命だ。田舎の中学を追いだされて、東京の不良少年の集る中学へ入学して、そこでも私が欠席の筆頭であったが、やっぱり映画を見に行くなどということは稀で、学校の裏の墓地や雑司ぞうしヶ谷やの墓地の奥の囚人墓地という木立にかこまれた一段歩たんぶほどの草原でねころんでいた。私がここにねころんでいるのはいつものことで、学校をサボる私の仲間はここへ私を探しにきたものだ。Sというそのころ有名なボクサーが同級生で、学校を休んで拳闘のグラブをもってやってきて、この草原で拳闘の練習をしたこともあるが、私は当時から胃が弱くて、胃をやられると一ぺんにノビてしまうので、拳闘はやらなかった。この草原の木の陰は湿地で蛇が多いのでボクサーは蛇をつかまえて売るのだと云って持ち帰ったが、あるとき彼の家へ遊びに行ったら、机のヒキダシへ蛇を飼っていた。ある日、囚人墓地でボクサーが蛇を見つけ、飛びかかってシッポをつかんでぶら下げた。ぶら下げたとたんに蝮まむしと気がついて、彼は急に恐怖のために殺気立って狂ったような真剣さで蛇をクルクルふりまわし始めたが、五分間も唸うなり声ひとつ立てずにふり廻していたものだ。それから蛇を大地へ叩きつけて、頭をふみつぶしたが、冗談じゃないぜ、蝮にかまれて囚人墓地でオダブツなんて笑い話にもならねえ、と呟つぶやきながらこくめいに頭を踏みつぶしていたのを妙に今もはっきり覚えて...

いずこへ

俺も 統一教会 勧誘されたことあるんだよね。 韓国語の先生探してるときに、 伊勢崎で待ち合わせて、 赤城山にドライブに連れてかれて、 結構しつこく勧誘された。 あの時は、 英語だけじゃなくて、 韓国語も出来ないと、 父親が死んだら 俺も野垂れ死ぬ! て半ば本気で思ってたから、 毒も喰らわば皿まで! ぐらいの勢いで、 ちょっと付き合ってみるかな、 と思ったんだけど、 親があまりにも 困惑し切った表情するもんだから、 諦めた。 中国語の教室って、 割と高崎みたいな地方都市でもあるんだけど、 韓国語の教室って、 少なくとも あの当時は 適当なのがなかったね。 結局 大宮の手前の宮原で、 韓国料理屋のかたわら 韓国語教室もやってるところで 少し勉強させてもらった。 贅沢。 あれ、確か放送大学 始める前だったかな? ほんと、俺の人生どうなっちまうんだか・・・? て感じだった。 ほんと放送大学に救われた。 精神病んで 大学中退して、 社会のレールから外れて トシだけ喰った 無職の男なんて、 わびしいなんてもんじゃないよ。 少しぐらい 慶応恨んだっていいだろ? そうじゃないか?

GAFA恐るべし

気付いたら、ノートパソコン、メール、ブログまでグーグル。 アマゾンのヘビーユーザー。 facebookも使ってる。 アップルのタブレット端末も持ってる。 グゥの音も出ねえ。 2019年のロイターの記事で、 日本の経常収支黒字は縮小が予想されるから、 稼げる プラットフォーム産業の構築が急務、 と書いてあったけど、 結局育たなかったね。 文化的資本にしても、 過去の蓄積を食いつぶすだけ。 あっ、スマホを初めて世に出したのも、アップルだったね。 もうお手上げです。 アメリカさんには敵いません。 https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX

放送大学

自分も入る前は、 果たして正規の大学なのか? カルチャーセンターじゃないのか? と思ってたけど、 運営費の6割が国から出てるらしいし、 山岡先生がいうには、 放送大学は 「文科省の手先」 らしいし、 カルチャーセンターどころか、 まさに大学のなかの大学と言っても過言ではない。 全都道府県に漏れなく学習センターがあって、 面接授業の講師も質が高い、 のみならず、 放送授業も 東大を始めとした、 文句のつけようのない 質の高い陣容。 それを、並の私学では考えられない 格安の授業料で受けられるんだから、 穴場中の穴場としか言いようがない。 しかも無試験。 まさに 学びのセーフティーネット。 慶応SFCの強みって、 色々な分野の優秀な教授の研究会に入れることなのに、 せっかくSFCに居ながら 研究会に入らないとか意味分かんない。 どうせ高い学費払うなら、 研究会に入らないと、 まじ無駄。 SFCに限った話じゃないだろうが、 メシを一人で食ってるだけで、 ”ぼっち”だなんだと騒いでるようじゃ、 到底話しにならない。 バカじゃねーの? メシぐらい一人で食わせろ!

気の毒

厚生労働省が頑張って、 待機児童を半減させたらしいけど、 世間が騒いで、 役人が頑張って解決した頃には、 みんな忘れてる。 天下りもできないし、 マスコミからは、 官僚(行政)はバッシングするための鉄板ネタ扱いされてるし。 これじゃ優秀な人材なんか集まるわけがない。 身分が保障されてるっていうけど、 それは政治的活動が事実上禁止されてることの裏返しでもあるからね。 公務員に口なしじゃないけど、 俺はそんな人生は絶対イヤだね。

世の中そんなに甘くない

ネット上の文章は、 ある程度機械的に、価値があるかどうかを判断できるけど、 動画はまだそこまで行ってないのかな? でも、 技術が進んで、 動画の価値もある程度機械的に判断できるようになれば、 日本のユーチューバーは、壊滅的な打撃受けるんじゃないの? ガーシーみたいに、 芸能人の裏話暴露して大金得て、 しかも 勢いで国会議員にまでなる、なんて事態は、 グーグルに対して 相当な危機感を抱かせたと思う。

オラオラ

グーグルブログに広告乗っけるのって、 意外と難易度高いらしいから、 乗っけることにした。 鬱陶しいし、どうせカネにもならないんだけど、 マトモなサイトであるとグーグルが判断した 証拠にもなるので。 特に、カネに関する内容の記事は、 厳しく審査されるらしい。 https://www.iscle.com/web-it/g-drive/adsense/no-diary.html

泥縄

https://news.yahoo.co.jp/articles/2d5a3386a7472b355ce257f695bba6b97bdb996c そらそうだよな。 2億で済むはずがない。 海外から要人がわんさか来るんだから。 警備費とか考えれば、かなりの額になるよな。 死んだ後まで嘘で塗り固めるのか。 いよいよ安倍らしいな。 岸田さんも、案外バカだね。 墓穴掘ったわ。

通りすぎた夏の匂い 思い出して 懐かしいね

7・8月の二ヶ月は大変だったな。 単位認定試験が終わった直後から 勉強し始めたし、 単位認定試験の結果次第で 2回目の卒業が決まるから、 気を揉んだし。 山崎豊子の「華麗なる一族」も ハードだった。 安倍ちゃん銃撃のあとの 統一教会がらみのネット記事を ジョンさんに 分かるように加工してエキサイトしたりとか。 振り返れば、結構がんばった。 8月が終われば、 同時に科目登録も終わるし、 2学期なにを履修するかも 気をもまないで済む。 少なくとも9月は なにもない春です。

前にも書いたけど

武蔵っていう場所は、 言い訳の効かない 「お前、自分の頭で考えろよ?」 っていう 場面を、必ず一度は突きつけられる場所だと思う。 別に武蔵じゃなくてもいいんだけど、 ぶっちゃけ サニチだったら、少なくとも勉強に関しては いくらでも 逃げられる。 「自分の頭で考える」と言えば、そら誰だって自分の頭で考えてるだろ、と思うだろうが、 実際には、逃げ場がある、言い訳が効く環境では、なかなか身につくもんじゃない。 それは、 教師が頑張ってどうこう出来るもんじゃなく、 カルチャーを含めて、武蔵という学校の環境だと思う。 単に大学受験のことだけ考えれば、武蔵よりサニチのほうが遥かにいい環境だろう。 お山の大将でいられるし。 しかし、武蔵は逃げを許してくれない。 現にいまだって、 下手なことを書けば、 え、それはどういうことなの? と厳しいツッコミが友達から容赦なく飛んでくるのは覚悟してる。 そういうツッコミを、 自分の中で想定していること、 つまり、自分が表明することに対してどのような批判があり得るか、を考える思考回路を 内製化できていることが、 自分の強みでもある。

日本の未来予想図

財政危機の度合いから言ったら、 既に終戦直前を上回る最悪のレベルなんだけど、 終戦直後のハイパーインフレが起きるか? と言ったら、そんなことにはならないと思う。 なぜなら、IMFがお金貸してくれるから。 とはいえ、めちゃくちゃ厳しいコンディショナリティ科されると思うけど。 ブレトンウッズ体制ってそういうもん。 それに、アメリカからすれば、 日本は対中国の地理的要衝だから、 日本が破滅するようなことにはさせないと思う。 とはいえ、 人口減少はどうにもならないから、 移民受け入れは避けられないだろうし、 既にその傾向は現れている。

言葉あそびーdeliverの意味の覚え方

The day Professor Kim delivered a speech about how to deliver the earth from global warming, the delayed delivery of pizza made him deliver a blow to a delivery staff. キム教授が「地球を温暖化から救う方法」について講演した日、ピザの配達が遅れたため、配達員に一撃を加えてしまったのです。(Deepl訳)

旬報社(再掲)

1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社

まとめ

あ〜あ、思い出せるだけ〜思い出して、あそびたぁぁぁぁい! てなわけで、 放送大学「現代の国際政治」第5回の放送授業内容を、出来る限り思い出しながら、要点をまとめてみたいと思います。 まず、第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 ...

現代の国際政治

放送大学すばらしすぎる!!!! 「現代の国際政治」の 第5回 『相互依存とグローバル化』は 東京大学教授の鈴木一人先生の 担当でしたが、 自分が、 これまで 面接授業で受けたことや、 放送授業で受けた内容、 なにより、 自分がさんざんこだわってきた 「グローバル化」について、 総ざらいしてくれていて、 自分のやって来たことは間違いじゃなかった! と確信を持てました。 俺、案外ナウいことやってんじゃん! https://www.youtube.com/watch?v=JCU2rQlULwY

下巻

万俵鉄平も可哀想にな。 ほんと同情するわ。 これじゃイジメだろ。 会社経営ってのは、 上手くいってる時は有頂天だろうが、 転がり落ちるときは、悲惨だな。 鉄平がほんの少し 過度に 高炉建設にこだわり過ぎただけなのに。 まあ、どっちにせよ、 経済の勉強になるわ。 ・・・第一章読み終えたところで、 先も見えたし、とりあえず 一段落。

民主主義への挑戦?

検察は、 山上被告?容疑者?に対して、 死刑を求刑する、と息巻いているそうだが、 1人殺害で死刑とは、 穏やかではない。 それでも 死刑を求刑する根拠は、 「民主主義への挑戦」だという。 なるほど、 選挙活動中に銃撃されて死んだんだから、 確かに民主主義への挑戦だ。 しかし、 民主主義に挑戦していたのは、 むしろ安倍のほうなのではないか? 宗教団体という、 信者たちが自分で主体的に考えて投票できるか疑わしい 組織を集票マシーン化しているほうが、 よっぽど 民主主義に対する挑戦だと思うが。 厚生経済学では、 組織の大小を問わず、 独裁者が出現する可能性があることを、数学的に証明している。 古代ギリシャでは、 僭主を陶片追放(オストラシズム)する制度があった。 これは、 独裁者を排除する方法として、やや粗っぽいとはいえ、 古代ギリシャ人の政治的知恵の水準の高さを示している。 翻って、 安倍は、 アベノミクスというイカサマ、 これがイカサマだということを、日本人はこれから知ることになるだろう。 このイカサマを使って、 日本の政界、のみならず 日本全体を支配していたのだ。 このような人間が排除されることは、 むしろ 民主主義に資することだ。 それが銃撃によって死亡する、というのは野蛮だったが。

NHKの経済コラム

海外資本の日本国債保有割合が高まってるって話だけど、 経常収支がみかけ上黒字でも、 実態はもう海外資本に頼らなければ、 日本国債を円だけではファイナンス出来なくなってるんじゃないか? https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220826/k10013788391000.html

今更だけど

山川賞とった 大澤くんみたいなのが 部活の後輩にいるとね、 大学生にもなって 自分の研究テーマを持ってないってのは、 凄く恥ずかしい、 と思ってたよ。 多くの大学生の意識はそうでもないってことに しばらくしてから気付いたけど。 そこらへんが、 武蔵がアカデミズム重視の学校と言われるゆえんだろうね。 会報で、 大昔のOBの回顧録で、 中1で 同級生に初めてかけられた言葉が、 「ご専門はなんですか?」 だった、なんて話も載ってた。 もともとそういう学校なんだね。 つっても、自分みたいなザコは 高校の現国でレポート書けなくて、 教師にキレられたり、 小論文が書けなくてSFC2回も落ちたり、 SFC入ったら入ったで、レポート書けなくて四苦八苦したり。 今みたいに守備範囲内だったら書ける、 というレベルになるまでは、相当な労力と時間がかかったよ。 贅沢な話だけどね。 でも、高校入ってからずーっと劣等感抱えて生きてきた。 正味の話。 https://www.youtube.com/watch?v=y4vzWSzNqZ0

深夜番組

父親の夜間採尿してた頃は、 夜中の1時半くらいまでは 普通に寝ないで、テレビつけてたけど、 キスマイ超ブサイクは めちゃくちゃ面白い。 宮田くんとか、もう下手な芸人より 全然面白い。 二階堂とかも狂気じみてるし。 安定して面白い。

このひとをみよ。

狩野英孝は、お笑い業界にとって 物凄い貴重な存在だと思う。 あれだけ リスク背負って ガンガン笑い取りに行けるヤツは他にいない。 最近のお笑い芸人は、 セーフティーな笑いに終始してて、微塵も面白くない。 芸人業界の内輪ネタで盛り上がるとか、話にならない。 とにかく、 リスク取らないで オイシイ汁だけ吸おうとする奴が多すぎる。 芸人に限らず。 https://www.youtube.com/watch?v=Qp3b-RXtz4w

ふと思った。

理系って、 文系、とくに歴史とかバカにするけど、 歴史って、 過去のデータベースだよね? 人工知能だって、 膨大なデータベースなかったら、 何も出来ないじゃん。 歴史は解釈によっていくらでも変わる、というけど、 人工知能だって、 専門家がちょっと画像を細工すれば、 リンゴをバナナと 判定してしまうらしい。 その程度のもんよ。

立憲民主党

新執行部に、 岡田克也氏、 長妻昭氏、 安住淳氏、 などの 顔ぶれが揃ったらしいね。 ま、いいんじゃないの? いくらイメージ刷新て言われたって、 アホが雁首揃えて お花畑談義されても、 支持しようがないわ。 上記の方々も、 安倍には太刀打ち出来なかったけど、 今の自民党相手なら まだどうにかなるでしょ。 とにかく 選択肢がなさすぎる。 日本人は 政治学を軽視し過ぎだ。 政治は学問の対象ではない、と思っているフシさえある。 古代ギリシャの時代から、 政治学は学問だったが、 アリストテレスが、 よき統治者になるためには、統治される経験が必要だ、と 説いたらしいが、 あんまり子供をおだてて、ガキになんでも出来ると思わせないほうがいい。 放送大学には山岡龍一先生という 政治学の大家がいらっしゃるが、 ラジオで授業が公開されているから、 ぜひ一度聴いて見て欲しい。

統一教会

仲正昌樹先生は、 10年くらい旧統一教会に関わってたそうだけど、 マルクス主義を悪魔扱いする 旧統一教会の教義に触れるなかで、 実は マルクス主義がキリスト教の転倒であることに気付いた、 みたいなことを何かの著作で書いてあったけど、 そこを気づきの出発点として、 もともとは バリバリの理系である 仲正先生が、 今では 一般人でもついていける 現代思想の水先案内人のような役割を果たしているんだから、 少なくとも その面においては、旧統一教会は存在意義があったと思うんだよね。 日本において無惨にも忘れられていた マルクス主義を、それが現代思想の潮流の川上であることを 濃厚に意識しながら、 日本人の知的レベルの向上に多大なる貢献をしている 仲正先生を自分は尊敬しているし、 何かしらの価値体系(旧統一教会)で世界を説明し尽くそうという試みが、 それがどんなに有害であろうとも、 それが有害であるという気づきを齎すという一点において、 価値のある試みだと思うのよ。 だから、 宗教を否定してはいけない、と思う。

意外と効く

森永製菓のブルーベリーのサプリと、 小林製薬の眼のサプリ飲んで 寝ると、 かなり 眼の見え具合が善くなるね。 サプリなんて、 とバカにしてたけど、 あながち 悪くないじゃないか。 さすがに眼を酷使しすぎて、 視力が落ちるのは仕方ないと 思ってたけど、 これだったら、 日常生活は問題なく送れる。 実際に視力が回復してるかどうかは知らないが。

中巻もうちょいで読み終わる

万俵鉄平可哀想だな。 こら死にたくもなるわ。 それにしても、 読み始めは 弟の万俵銀平のほうが メインに見せておいて、 話の本筋からすれば、 完全に鉄平のほうがメインじゃん。 ・・・ようやく中巻読み終わった。 下巻もかなりの分量があるようだけど、 話の筋立ては出揃ったから、 あとは下り坂を下るだけだろう。 たぶん。

青空文庫

不良少年とキリスト 坂口安吾  もう十日、歯がいたい。右頬に氷をのせ、ズルフォン剤をのんで、ねている。ねていたくないのだが、氷をのせると、ねる以外に仕方がない。ねて本を読む。太宰の本をあらかた読みかえした。  ズルフォン剤を三箱カラにしたが、痛みがとまらない。是非なく、医者へ行った。一向にハカバカしく行かない。 「ハア、たいへん、よろしい。私の申上げることも、ズルフォン剤をのんで、氷嚢をあてる、それだけです。それが何より、よろしい」  こっちは、それだけでは、よろしくないのである。 「今に、治るだろうと思います」  この若い医者は、完璧な言葉を用いる。今に、治るだろうと思います、か。医学は主観的認識の問題であるか、薬物の客観的効果の問題であるか。ともかく、こっちは、歯が痛いのだよ。  原子バクダンで百万人一瞬にたゝきつぶしたって、たった一人の歯の痛みがとまらなきゃ、なにが文明だい。バカヤロー。  女房がズルフォン剤のガラスビンを縦に立てようとして、ガチャリと倒す。音響が、とびあがるほど、ひゞくのである。 「コラ、バカ者!」 「このガラスビンは立てることができるのよ」  先方は、曲芸をたのしんでいるのである。 「オマエサンは、バカだから、キライだよ」  女房の血相が変る。怒り、骨髄に徹したのである。こっちは痛み骨髄に徹している。  グサリと短刀を頬へつきさす。エイとえぐる。気持、よきにあらずや。ノドにグリグリができている。そこが、うずく。耳が痛い。頭のシンも、電気のようにヒリヒリする。  クビをくくれ。悪魔を亡ぼせ。退治せよ。すゝめ。まけるな。戦え。  かの三文々士は、歯痛によって、ついに、クビをくくって死せり。決死の血相、ものすごし。闘志充分なりき。偉大。  ほめて、くれねえだろうな。誰も。  歯が痛い、などゝいうことは、目下、歯が痛い人間以外は誰も同感してくれないのである。人間ボートク! と怒ったって、歯痛に対する不同感が人間ボートクかね。然らば、歯痛ボートク。いゝじゃないですか。歯痛ぐらい。やれやれ。歯は、そんなものでしたか。新発見。  たった一人、銀座出版の升金編輯局長という珍妙な人物が、同情をよせてくれた。 「ウム、安吾さんよ。まさしく、歯は痛いもんじゃよ。歯の病気と生殖器の病気は、同類項の陰鬱じゃ」  うまいことを言う。まったく、陰にこもっている。し...

父親

自己中だったし、 欲が深いと言えばそうなんだけど、 人生最期の最期まで めげなかったのは、 正直偉いなと思うわ。 父親が 官僚じゃないけど、言ってみりゃ天下ってきて、 高崎に舞い戻ってきて、 後から社長の座に就いたわけだけど、 自分が初めて 父親が差配する会社の事務所を見た時、 え、思ってたよりショボい。。。 と感じてしまった。 バブル真っ盛りの時期に銀座で飲み歩いたような 父親が、 こんな鄙びたところに また戻ってきて、 よくまたやる気起こして 会社の業績を立て直したもんだな、と思うわ。 リストラ断行して、人から怨まれても。 あとあと全国組織のほうでも要職に就いてたみたいだけどね。 そういう「政治」が好きなんだな。 脳卒中おこして ついに仕事からリタイアしても、 株に熱中してたし。 亡くなる前日に面会したときも、 変わらなかったね。 欲と言えば欲なんだけど、 最期まで人生を投げなかったのは偉いと思うわ。 毎晩夜間採尿してた頃は、 自業自得だろ このクソジジイ!って思ってたけど、 いま遺影見てたら、 ちょっと泣けてきたわ。

言語と運命の社会学

確率のことについて、 数学が全く出来ない自分が たびたび 言及するのもおこがましい話ですが、 内田隆三先生の 「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?」(岩波書店) も、 確率、あるいは運命に関する 超一級の哲学書ですよ。 これだけ凄い著作が 残されているんだから、 日本もまだまだ捨てたもんじゃない。

ううむ、凄い。

「華麗なる一族」、中巻の8割方読んで、 ようやく話の筋も収束してきたな、 と思っていたら、 そこから更に一歩深みに足を踏み込んでいる。 ええ?そこまで行く?! みたいな。 Kindleで読んでるからイマイチわかんないけど、 分量も凄いし、 内容もめちゃくちゃ濃いし、 これを 上・中・下巻それぞれ 1000円もしないで購入できるってのは、 ほんとに先人(山崎豊子)が日本人に遺してくれた遺産としか言いようがない。 ほんとに凄い。

原発

どういう風の吹き回しか知らんが、 世論調査で、 原発再稼働賛成が、反対を上回るケースが増えてきてるみたいね。 ま、こんだけ貿易赤字が拡大すれば、まともな反応だとは思うけど。 でも、 ウランの調達先を、よりによって中国に依存してるらしい。 それに、 原発停止の間に使われずにいたウランを、 バイデン大統領に頼まれて、 アメリカに融通してしまった、なんて話もいつぞやの日経に書いてあった気がする。 ほんと後手後手だよなー。 天然ガスにしても、 サハリン2はどうなったんだっけ? それに、 原発も、最後は人の手で動かすから、 あまり長く稼働させないでいると、 生きたノウハウが継承されない虞もあるとか。 それに、 日本はもはや自前で原発を作れない国になってしまった可能性もある。 東日本大震災後、 原子炉工学に学生が集まらなくなったし、 東芝は見る陰もなく、 日立もどうなんだか知らん。 とにかく、 日本はやることなすことイケてない。

ガックリ・・・

今年で慶応SFC入ってからちょうど20年だけど、 結局、慶応SFCって俺にとってなんだったんだろう? 除籍目前まで9年間も粘って、91単位取ったけど、 ちょっとコスパ悪すぎる。 1番コスパ悪いと思うのは、 みんな結構いいとこの学校出てんのに、 議論が出来ない。 サッカーサークルの部長やってて、 開成でてんのに、 長後の牛丼屋でアルバイトして(たらしい)、 それでなんで週3とか4で湘南台で飲み会やるのか理解できない。 しかも、 ただ騒ぐだけで、議論なんかほとんどしない。 総じて言えることは、 器が小さいくせにプライドだけ高くて、 議論に発展しない。 単なる我利勉。 東洋大学でてるフワちゃんのほうが全然使えると思う。 受験の厳しさは身にしみて知ってるつもりだけど、 受験のためだけのガリ勉をやり続けると、 こういう、大学入ってから何一つ主体的に 学ぶ姿勢に欠けた大学生が大量発生するのか、と悟った。 そら日本企業の競争力が落ちるのも当然だわ。 そもそも、大学3年になって、ようやく学問の入り口が見え始めた時点で、 本格的に就活しなきゃいけないんだから、 まともに学問なんか出来るはずがない。

今朝の日経9面

市場は金利の先高観をかなり織り込んでいるようだね。 この先は波乱の展開になりそうだ。 返済期間の長い社債は、金利の先高観から、高くつくので、 返済期間の短いコマーシャル・ペーパーで凌いでいるらしい。 コマーシャル・ペーパーというのは、 本来社員へのボーナス支払いなどに充てるものらしいから、 そんなものに企業が資金調達を頼っている、というのは、 かなり金利の先高観を警戒しているということだろう。 しかも、 コマーシャル・ペーパーに頼っているのが、 電力・鉄鋼などの 本来長期かつ大口の資金調達を必要とする業界だというのだから、 事態は深刻だ。 これも結局、円の実力が大いに低下した、ということだろう。 https://www.sankeibiz.jp/business/news/190726/bse1907260650001-n1.htm https://www.jutakujohokan.co.jp/article/2022/05/05/inflation-2022/ https://www.sumai1.com/useful/plus/money/plus_0218.html

フォトギャラリー

https://www.youtube.com/watch?v=y6xAaj7uWrA

人間不信と金融

「華麗なる一族」は本当に勉強になる。 まだ途中だけど、 万俵鉄平は可哀想だな。 特殊鋼業界初の高炉建設の夢をたぎらせながら、 一本気な技術者として邁進しているのに、 父親が頭取である 阪神銀行からの融資を渋られたり、 たぶん陰で嫌がらせされている。 それは、一重に、  鉄平が自分の実の子ではなく、 父親が妊ませた子なのではないか、 という不信感から来る。 人間、なんで他人にカネを貸すか?って言ったら、 相手が利子付けて還してくれるのはもちろんのこと、 根本的には、 カネを貸す相手を信用するからだよね。 カネを貸した瞬間に還って来るわけではない以上、 そこに不確定な時間上のズレが生じざるを得ない。 そこには当然、リスクが生まれる。 そのリスクが金利という形で現れるわけだが、 貸したカネが還ってくる可能性が低いほど、 金利が高くなる、 また、返済までの時間上のズレが長くなるほど、 金利が高くなる、 というのが道理だろう。 カネを借りるほうは借りるほうで、 あらん限りの知恵を絞って、綿密に事業計画を立て、返済計画を立てるだろう。 しかし、 どんなに良心的な借り手が、あらん限りの精緻さで事業計画を立てたところで、 未来の事象には、本来的に不確定性がつき纏う。 その分だけ、 リスク・プレミアムとして更に金利が高くもなるだろう。 しかし、 未来とは本来的に不確定なのだ。 直近の事例にしたって、 まさか安倍氏が突然あんな最期を遂げると誰が予測し得ただろうか? 日銀がいくら超金融緩和を継続し、 イールド・カーブ・コントロール政策を強行して、 金利の上で未来の不確定性のリスクを低くしたところで、 未来とはやはり不確定なのだ。 では、終極的になぜ人は他人にカネを貸すか?といえば、 結局は、 騙されてもいいからちょっとやらせてみるか。 という発想だろう。 それこそ井上俊が言ったように、 「詐欺が成り立ち得ないところでは、社会もまた成り立ち得ない」 のである。 人が騙されるということは、裏を返せば人を信じる能力があるということの証左である。 これも、井上俊が言ったことだ。 ちょっと、 今の日本の空気は、1億総人間不信なのではないか? 社会全体が他人に対して不信感で凝り固まっていたら、 日...

保守主義宣言(再掲)

ベンヤミンは、「手」にもとづく認識の成果としての技術の巨大な発展が全く新しい貧困状態をもたらしたと指摘している。 「技術の巨大な発展とともに、まったく新しい貧困が人類に襲いかかってきたのである。」(「貧困と経験」『著作集』第1巻) 技術は不断の発明・発見によって次々に新しいものを作り出しては古いものを破壊していく「創造的破壊」(creative destruction)(シュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』)をもたらす。 機械は急速に進化していき、不断に「倫理的摩滅」にさらされている。(『資本論』第1巻、P.528参照) それとともに人間の生活を支えている周囲の事物はことごとく変化してしまうならば、人間はもはや自らの過去の経験を頼りにすることができず、つねに最初から新たにやり直すしかなくなってしまう。 「まだ鉄道馬車で学校へかよったことのあるひとつの世代が、いま、青空に浮かぶ雲のほかは何もかも変貌してしまった風景のなかに立っていた。破壊的な力と力がぶつかりあい、爆発をつづけているただなかに、ちっぽけなよわよわしい人間が立っていた。・・・これはそのまま、一種の新しい野蛮状態を意味する。 野蛮? そのとおりである。 ・・・経験の貧困に直面した野蛮人には、最初からやりなおしをするほかはない。あらたにはじめるのである。」(「経験と貧困」) これは、1933年の「経験」状況である。 ベンヤミンは、人生における経験がゆっくりと時間をかけてつくられていくような「完成する時間」に対して、「永劫回帰」する時間を対置する。 「・・・完成する時間・・・は、着手したものを完成することを許されないひとびとが住む地獄の時間と対をなしている。」(「ボードレールのいくつかのモチーフについて」『著作集』第6巻)

教養のヘーゲル(再掲)

問われるべき問題はいかにしたら、このようにして発達した、所有権のような個人の権利の意識が、社会全体への奉仕と一体になることで、より理性的で自由な意識へと陶冶されるかだ、とヘーゲルは考えた。そして、権利と義務が衝突せず、私的な利益と公的な利益が一致するような人間共同体が形成されるならば、その共同体のメンバーの幸福をみずからの幸福と感じ、法や制度に従うことは自己の欲望の否定ではなく、自己の理性的な本性の肯定であると考えるような市民が生まれると主張したのである。国家こそ、このような倫理的共同体における最高次のものだとヘーゲルは考えた。(放送大学「政治学へのいざない」211頁より) ヘーゲルが、国家と(市民)社会とを区別して捉えたことが、国家論の歴史において画期的な意味を持つことであるということはすでに指摘した通りである。その国家と社会の分離の理由として、ヘーゲルは、市民社会には、国家のはたすような真の普遍を支える能力がないからということをあげる。そこで、市民社会の私的利害に対応するだけのものである「契約」という概念によって、国家の成立原理を説明する「社会契約説」に厳しい批判を浴びせることともなった。しかし、それだけではないはずである。というのも、国家と市民社会の分離の把握ということは、市民社会が、相対的にではあっても国家から独立した存在であることの指摘でもあるはずだからである。近代国家においては、プラトンが掲げた理想国家におけるのとは異なって、国家が個人の職業選択に干渉したりはしないし、その他の個人の私生活に干渉したりはしない。同様に、国家が市場原理を廃絶あるいは抑圧するようなこともない。そのように、市民社会が自分独自の原則にしたがって存在し、機能していることが尊重されているということが、近代における個人の解放という観点から見て、重要なことであるはずなのである。それは、ヘーゲル流の表現にしたがうならば、一方では、近代国家なり、近代社会なりが「客観的必然性」によって構成された体制であったとしても、他方では、個人の恣意や偶然を媒介として成り立つにいたった体制だからだということになる。(p.103) (中略) 近代国家の原理は、主観性の原理がみずからを人格的特殊性の自立的極にまで完成することを許すと同時に、この主観性の原理を実体的統一につれ戻し、こうして主観性の原理そのもの...

中性脂肪あげていこー!!

ヘルパーさんが野菜中心の美味しい料理作ってくれるから、 気付いたら洋菓子なんか全然食べてなかったんだけど、 無駄な存在だと思ってた 生クリームも、摂らないなら摂らないでいると、 頭オカシクなるね。 今買ってきてもらって、中性脂肪チャージしました。 アー、サラッタ。。。

職業としての学問

https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-weber-wissenschaft-als-beruf/ 学問は究極的な価値を支持することはできない。だからこそ、ヴェーバーによれば、次のことが肝心となる。それはつまり、現在の自分の立場が、自分の世界観の根本態度から整合的に導かれるようなものであらねばならず、それゆえに、 自分の行為の究極的な意味については、みずから責任を取れるのでなければならない 、ということだ。

岸田内閣支持率低下(再掲)

○国会に対して連帯して責任を負ってるのは、内閣であって、総理大臣ではない。 ⇒憲法66条3項「内閣は、行政権の行使について、国会に対して責任を負う。」から、正当な主張です。国会との関係における原則です。 ○したがって、安倍首相の辞任に伴って、内閣が総辞職して、国会であらためて首相を選ぶ選挙が行われた。 ⇒国会法64条で内閣総理大臣は、辞表を提出することができます。辞表を提出すれば、内閣総理大臣が欠けたことになります。 ⇒憲法70条で「内閣総理大臣が欠けたときは、……内閣は総辞職しなければならない。」に該当する。 ⇒そこで、次期内閣総理大臣は、憲法67条で、「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。」 >>>>今回も、憲法の規定通りに行われています。衆議院の解散については、政治課題となっても、別の問題です。 ○もし解散権が首相の専権事項だというなら、当然国会に対して連帯責任を負っているのは首相であって、首相が辞めた以上、衆議院を解散しなければならない。 ⇒憲法69条の「衆議院が解散されない限り」の規定、と、憲法7条第3号「天皇は、内閣が助言と承認により、……これを行う。」の規定から、衆議院の解散権の主体は、形式的には「天皇」であり、その国事行為の関して授業でお話ししたとおり議論はありますが、実質的には内閣と解釈されています。内閣総理大臣は内閣の首長ですから、実質的には内閣総理大臣が解散を決定します。 ⇒新内閣総理大臣は、解散権を現在行使しないと発言されています。首相が交代したが、衆議院の解散は必ず行わなければならないとは言えません。もちろん、授業で説明したように、解散権行使は、自由ではないという考え方もあります。憲法解釈的には傾聴すべき見解ですが、そのように解釈すべきとの制度的な保障システムはありません。 ○そうでない、つまり国会に対して連帯して責任を負っているのは内閣だというなら、政界の常識となっている解散権は首相の専権事項という考え方は、憲法違反ということになる。 ⇒内閣の中に、解散に反対する人がいれば、内閣総理大臣は、憲法68条2項によって、罷免することができます。そして、賛成の残った国務大臣が内閣として内閣総理大臣の決定に従うという構図です。 ⇒憲法66条3項の「内閣の連帯責任」は、内閣一体の原則の表れです。行政権...

「グローバル化と金融」@金沢 まとめ (再掲)

現代のグローバル資本主義の構造的問題は、世界的なカネ余り状態である。まず、1960年代に、企業の海外進出に伴い、銀行が国際展開を急激に拡大したことにより、どこからも規制を受けない「ユーロ市場」が登場した。次に、1970年代に、オイル・ショックによるオイルマネーの流入と金融技術革新により、米国の銀行による「ユーロ・バンキング」が活発化する。 変動相場制への移行により、銀行はアセット・ライアビリティ・マネジメント(ALM)を導入。これは、ドル建ての資産とドル建ての負債を同額保有することにより為替リスクを相殺する方法である。たとえば、ドル建て資産を1万ドル保有していた場合、円高ドル安になれば資産は減価し、円安ドル高になれば資産は増価する。逆に、ドル建て負債を1万ドル保有していた場合、円高ドル安になれば負債は減価し、円安ドル高になれば負債は増価する。こうして為替リスクを相殺する。1970年代のオイルマネーの増大と、インフラ投資額の高騰により、特定の一つだけの銀行だけでは融資の実行が困難になり、シンジケート・ローンが発展した。シンジケート・ローンとは、幹事引受銀行がローンを組成し、参加銀行に分売することで、複数の銀行による信用リスクの分散化を図るものである。しかし、シンジケート・ローンにより、信用リスクは分散したが、信用リスクそのものが低下したわけではない。この後の資産の証券化の流れのなかで、ALMの発展によりリスク管理手段が多様化し、デリバティブが登場し、急速に拡大した。

華麗なる一族

阪神銀行の頭取である万俵大介、 その長男が、阪神銀行の子会社? である阪神特殊鋼の専務である、万俵鉄平なんだけど、 万俵鉄平は、 高炉建設のために資金集めに奔走して、 さまざまな困難に直面する・・・ というところを読んでる最中なんですが、 ふと疑問に思ったのは、 なんで資金調達の先が、父親が頭取である阪神銀行も含めて、 ぜんぶ銀行なんだろう? 株式発行とか、社債発行するとか、 なんで直接金融という選択肢を丸っきり考えないんだろう? なぜ銀行という間接金融のみで資金調達しようとするのか、 不思議だ。 作中で、阪神特殊鋼のアメリカの取引先が、買収されて、 受注がストップしたあたりから 雲行きが怪しくなるんだけど、 逆にいえば、 アメリカでは企業買収というのは普通に行われていた、ということだろう。 そして、冷戦終結とともに、それまで武器開発に向けられていた頭脳が 金融工学に向かい、革新的な金融形態を作り上げた。 話がそれたが、阪神特殊鋼のメイン・バンクである阪神銀行は、 金融再編に対抗して、 上位の都市銀行との合併を目論んでるんだけど、 それだけのため、と言ってはなんだが、 とにかくそのために 娘を嫁がせた大蔵官僚を使って、機密情報を知らせてもらったり、 政界の大物とも姻戚関係を結んだりとか、 ありとあらゆることをやっている。 それはそれで物語としては凄く面白いんだけど、 銀行同士の合併ということになれば、当局が絡むのは仕方ないとはいえ、 直接金融という手段が有効ならば、 こんな平安貴族まがいの無駄なことをしなくても済むはずだ。 真山仁による「ハゲタカ」は、 M&Aって何?を勉強したくて読んだが、 小説の出来としては「華麗なる一族」には遠く及ばないものの、 対比として浮かび上がってくる時世の違いを知るには、適している。

となりのトトロ

自分が知ってるジブリ作品のなかで、 一番こわい。 メイちゃんが行方不明になって、 サツキが走り回って探しに行くとか、 現実世界にもよくある話だからか、 妙に生々しくて、 あまりいい気がしない。 探し回ってるうちに日が暮れていく描写とか見てると、 ああ、 このままじゃサツキもヤバいことになるよ・・・ なんて思っちゃうんだけど、 もののけが全て解決してくれる。 その筋立てが、ちょっと強引かな、という気もする。 もっとも、まだ無垢な人間の子供と、もののけ(自然)が共存しあえていた時代へのノスタルジーという側面を考えれば、 むしろ、明るい「神隠し」の側面があって、 ただ、そのなかに昔話のような、 ちょっと不気味な要素を孕んでいる、ということなのかも知れない。 おそらくそこには、 都会から移り住んできたとはいえ、 まだ理性化されきっていない人間の子供が、 弱毒化されたもののけ(自然)と触れ合うことによって、 理性によって破壊される以前の自然への回帰、というテーマが底流していると思われる。

これ人権侵害だろ

もう何年前か忘れたけど、 なんかのトークバラエティーで、 溝端淳平が 小林麻耶に対して 「全員に媚び売ってる」って ”軽いノリ”で言ってたけど、 お前、なんの資格があってそんなこと言ってんだ? 「全員に媚び売ってる」ってのは、 小林麻耶自身が小林麻耶に対して「媚び売ってる」 とでも言うのか? こんなん完全にイジメだろ。 それをテレビが公共の電波使って流していいのか? 小林麻耶に対してなら何言っても許されると思って 暴言吐いてる溝端淳平こそ、 世間に 「媚び売ってる」んじゃないのか? https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/01/06/kiji/20200105s00041000139000c.html

二度目の大学卒業

「英語で読む大統領演説」特A、 「中東の政治」C、 「中国と東部ユーラシアの歴史」C、 「近現代ヨーロッパの歴史」B、 「グローバル経済史」B、 「ドイツ近代史」@東京文京B、 「近代日本の炭鉱夫と国策」@茨城大学特A、 日本近現代史(落とした) こんな感じでした。 中東の政治は、単位取れたとはいえ、やっぱキビシイなー。 まあ、新聞の切り抜き要約しただけだったから、 高橋和夫先生の目はごまかせないってとこか。

隔世の感

「華麗なる一族」を読んでいると、 政官財の癒着ってこういうもんか。 と痛感させられて、非常に勉強になる。 これはこれで、 日本がうまく行ってたうちは、強みだったんだろうけど、 さすがに今はこんな関係じゃ日本の現状を捉えられない。 今は、良くも悪くも民主的になったと思う。 選挙制度の改変で、 政治家も小粒になり、 官僚も天下りがバッシングされて、 優秀な人材が集まらなくなった。 そして、マスコミも、 古舘伊知郎のように、ただ官僚を言葉巧みに悪者に していればいい、という時代でもなくなった。 結論から言えば、 有権者がちゃんとした政治家を選ばないと、 その有権者の代表としての政治家の「質」が、 モロに国民の生活、将来に跳ね返ってくる、 ということを、国民がもっと自覚する必要がある。 ガーシーとか生稲とか選んでる場合じゃねえ。 既存のマスメディアも、 時代の変化に十分にキャッチアップしているとは思わないが、 有権者は、 もっと賢くなる必要がある。 繰り返すが、国民の代表としての政治家の「質」が、 国民の生活、将来に、ダイレクトに反映される時代になった。

ここで書くのは初めてか・・・

自分が子供の頃の中国って言ったら、 真冬のクッソ寒い朝でも、 みんな人民服着て、 チャリで大移動ってイメージだったけど、 まさかここまで巨大になるとは。 自分が小学生の頃なんて、 冬は霜柱立ってて、それをザクザク踏みしめながら 登校したもんだけど。 今の子供は、北海道とかならともかく、 霜柱なんか知らんでしょ? ま、そんなことは置いといて、 慶応の研究会で、 生協で見つけた末廣昭先生の「キャッチアップ型工業化論」(名古屋大学出版会) を、パクってパワポ作ってプレゼンしたんだけど、 まるっきりそのまんまじゃ つまんないから、 よせばいいのに 経済発展の過程で労働からの疎外が起きる、なんて ぶったもんだから、集中砲火されて、 しかも、今では無惨に色あせた、グローバリゼーションてコトバが当時流行ってて、 これも生協で見つけた 伊豫谷登士翁の本に感化されたりして、 俺の頭もオカシクなった。 ま、振り返れば簡単な話のように聞こえるけど、 我ながらよくここまでやったわ。

一段落

なにやら7月の頭くらいから、忙しかったね。 参院選、そして安倍ちゃん銃撃。 自民党と旧統一教会の癒着の記事を ジョンさんにfacebook上で 分かるように夜を徹して作業したり。 あの頃から、 ちょっと脳に過度の負担をかけてたな。 単位認定試験が終わったら終わったで、 なんか勉強してたし。 なにやってたかは覚えてないけど。 途中から山崎豊子の「華麗なる一族」も読み始めたし。 相続のことで気を揉んだし。 ああ、そうそう、ヘルパーさんとのことで一悶着あったしね。 いよいよ明日は単位認定試験の結果が公表される。 長期休暇はいつも波乱含みなんだけど、 これをやらないと、うまく次の学期へステップアップできない。

ジョン・デューイの政治思想

貨幣文化の出現は伝統的な個人主義が人々の行動のエトスとして機能しえなくなっていることを意味した。「かつて諸個人をとらえ、彼らに人生観の支え、方向、そして統一を与えた忠誠心がまったく消失した。その結果、諸個人は混乱し、当惑している」。デューイはこのように個人が「かつて是認されていた社会的諸価値から切り離されることによって、自己を喪失している」状態を「個性の喪失」と呼び、そこに貨幣文化の深刻な問題を見出した。個性は金儲けの競争において勝ち抜く能力に引きつけられて考えられるようになり、「物質主義、そして拝金主義や享楽主義」の価値体系と行動様式が瀰漫してきた。その結果、個性の本来的なあり方が歪められるようになったのである。 「個性の安定と統合は明確な社会的諸関係や公然と是認された機能遂行によって作り出される」。しかし、貨幣文化は個性の本来的なあり方に含まれるこのような他者との交流や連帯、あるいは社会との繋がりの側面を希薄させる。というのは人々が金儲けのため他人との競争に駆り立てられるからである。その結果彼らは内面的にバラバラの孤立感、そして焦燥感や空虚感に陥る傾向が生じてくる。だが、外面的には、その心理的な不安感の代償を求めるかのように生活様式における画一化、量化、機械化の傾向が顕著になる。利潤獲得をめざす大企業体制による大量生産と大量流通がこれらを刺激し、支えるという客観的条件も存在する。個性の喪失とはこのような二つの側面を併せ持っており、そこには人々の多様な生活がそれぞれに固有の意味や質を持っているとする考え方が後退してゆく傾向が見いだされるのである。かくしてデューイは、「信念の確固たる対象がなく、行動の是認された目標が見失われている時代は歴史上これまでなかったと言えるであろう」と述べて、貨幣文化における意味喪失状況の深刻さを指摘している。(「ジョン・デューイの政治思想」小西中和著 北樹出版 p.243~244) https://www.youtube.com/watch?v=f28g4pfTTp0

苦しい。

色んな歯車が上手く噛み合いすぎて、 これじゃまるで ほんとにノーテンキに生きてる貴族じゃないか。 こんな人生は想定していなかった。 今まで、これを成し遂げるまでは 這ってでも進む、という気合で生きてきたけど、 トンネルぶち抜いてみたら、 逆に何をどうして生きていいのかわからん。 あるいは、金曜日に公表される 今学期の放送大学の成績いかんでは 2度目の卒業が決まるから、 それが気がかりなのかも知れない。 しかし、それにしたって、既にもう一度卒業してるわけだし、 どっちでもいいじゃん、という気もする。 正直言って、人生の指針を失ってしまったような心持ちだ。

人生プランが狂った。

ねーちゃんと一生敵対しながら生きていくもんだと思ってたけど、 思いがけなく、ねーちゃんが、物わかりがよくなって、 助け合って生きていける目処が立った。 これはデカイ。 面接授業の軍資金まで支援してくれるって言ってるし。 助かった! https://www.youtube.com/watch?v=PhuGKkiUcuY

経済教室ー歴史に学ぶ

8月5日のデール・コープランド、バージニア大学教授の寄稿と、今日8月15日の牧野邦昭慶応大学教授の寄稿をざっくりまとめてみると、現在の中国は、貿易依存度が高いという点で、1930年代の日本に似ており、下手に貿易面での過度の制裁を加えると、戦前の日本のように暴走する可能性があるので、中国を追い詰めすぎるのは得策ではないこと、中国が台湾侵攻を自重しているのは、もしそれをすればアメリカを中心とした経済圏から締め付けを喰らうことを意識しているからだ、とのこと。 寄稿とは別の話だけど、アメリカからすれば、日本と韓国が協働して対中国で結束してくれないと困るって発想だったらしいけど、どうも無理っぽいよね。 最近のアメリカの台湾への接近を見ると、もう、日韓はアテにしてらんねーってことなんかな?

なぜデフレでは駄目なのか?(再掲)

Q:名目金利が年8%でインフレ率(CPI)が年5%のとき、実質金利は3%か? ex. 100円の債券投資→1年後:108円 100円の消費財の組み合わせ→1年後:105円 のとき 1年後の108円の購買力=108/105=1.02857 (この投資の収益率:2.857%) ☆実質金利と名目金利、インフレ率(CPI)の関係 1+実質金利=(1+名目金利)/(1+インフレ率) ex.参照せよ 式変形して、すなわち ★実質金利=(名目金利-インフレ率)/(1+インフレ率) つまり、デフレはマイナスのインフレ率なので、実質金利を上げてしまう。 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html

スカッドさわやか。

おはようございます。 間主観性(フッサール)の部分は、 自分の理論のキモとなる部分だったから、 (と、言ってみても、何が「自分」の「独自」の「理論」かなんてことは、当の本人がサッパリわからないんだが) 廣松渉の共同主観性の議論は、 そこの間隙をうまく突いてくれたから、 ようやくまあ理論的にはサマになったかな。 自己満足以外の何物でもないんだけど。 でもまあ、気分ええわ。 打ち上げますよ! https://www.youtube.com/watch?v=RUqs_g2-04c

漱石論コレクション2(再掲)

近代が産み出した<自意識>の悲劇は、それが<自己を把捉しようとする自己>という<純粋な自己>――社会関係から切り離された観念的で抽象的な<点>としての自己――を求めるものでありながら、実は<自己>は<他者>との関係性という座標軸においてしか存在を確かめようもない、この自己矛盾にあります。   紛れもなくその苦痛を味わった一人である漱石における<女性>の意味は…。   結論的には男性に都合の良い<女性の客体化>を免れるものではありませんが、漱石(文学)の特徴は、にも拘わらず、終始、女性に<他者>を求め、そして女性が紛れもない<他者>であるが故に、敗北し、傷つく男の姿までを射程に収めていた点ではないかと思われます。 【<自己>を映し出してくれる<鏡>としての女性】   <女性の客体化>の最たる例となると、一方ではモノ化(フェティシズムの対象)、他方で耽溺(女性の幻想化・一体化)が挙げられますが、漱石の場合は、いったん/とりあえずは<他者としての女性>が求められている、といってよいと思います。   <恋愛>の名を借りた――愛する女性に己(の物語)を投げかけ、相手から投げ返されてくる応答に揺らぎ、立て直される自己。性的他者の眼差しに曝されて、その葛藤する感情のドラマの中で自分というものを最も生々しく実感する――性的差異で隔てられた<絶対的他者>としての<女性>との関係性の上に<性的アイデンティティ>としての自己同一を獲得しようとする手法です。  以下の『彼岸過ぎまで』の須永の告白は、その典型。 女が自分に向ける感情――一種の<評価>に曝されることで<自己>の核心がゆさぶられ、剥き出しにされる、苦悩の戦慄は、そのまま須永が女の眼差しの下に自分という存在の手ごたえを、いつになく生き生き感じる瞬間を作り出しています。    純粋な感情程美しいものはない。美しいもの程強いものはない…強いものが恐れないのは当り前   である。僕がもし千代子を妻にするとしたら、妻の眼から出る強烈な光に堪えられないだろう。その     光は必ずしも怒を示すとは限らない。情の光でも、愛の光でも、若くは渇仰の光でも同じ事である。   僕は屹度その光りの為に射竦められるに極っている。それと同程度或はより以上の輝くものを、返礼として与えるには、感情家として僕が余りに貧弱だからである。僕は芳烈な一樽の清酒を貰って...

なんか凄い1年だったな・・・

去年の今頃は、毎晩父親の夜間採尿してたな。 それこそ、一晩で7回くらいは普通に採尿してた。 まあ、あれが限界だったな。 糖尿病ってのは、こえーよ。 糖尿病と高血圧のコンボはマジでヤバい。 生物部の吉田さんが、腎臓の研究してるって言ってたけど、 さすがに先見の明あるわ。 それはともかく、父親は9月の1日に肺炎で入院して、 ちょうど一ヶ月で亡くなってしまった。 もちろん、晩年は入院するのはほとんど日常茶飯事みたいなもんだったから、 まさか本人は死ぬなんて微塵も思ってなかっただろうけど。 しかも、入院のたびごとに、家族総出で、 病院に泊まり込んで、お世話しとったからな。 それが、コロナで新規患者を受け入れ拒否してるのに、 かかりつけの医者じゃなきゃ嫌だってことで、 無理矢理ねじこんでもらったもんだから、 最後の一ヶ月は、家族の誰も近寄れず、 最後の最後に、一番サイアクな思いしたんだろうな、と思うと、可哀想、という想いと、 罪滅ぼしかな、という想いと、半々。 去年は、おじさんが突然亡くなる、母親は長年の無理がたたって脳梗塞になる、父親も肺炎で亡くなる。 一家の大黒柱を喪ったとはいえ、とにもかくにも我が家は平穏な日々を取り戻したようだ。 https://www.youtube.com/watch?v=AsVsN43Fzxk

メモ(「世界の共同主観的存在構造」廣松渉 岩波文庫)ー文化帝国主義批判原論

われわれは、現に、時計の音を「カチカチ」と聞き、鶏の啼く声を「コケコッコー」と聞く。英語の知識をもたぬ者が、それを「チックタック」とか「コッカドゥドゥルドゥー」とか聞きとるということは殆んど不可能であろう。この一事を以ってしても判る通り、音の聞こえかたといった次元においてすら、所与をetwasとして意識する仕方が共同主観化されており、この共同主観化されたetwas以外の相で所与を意識するということは、殆んど、不可能なほどになっているのが実態である。(59ページ) しかるに、このetwasは、しばしば、”物象化”されて意識される。われわれ自身、先には、このものの”肉化”を云々することによって、物象化的意識に半ば迎合したのであったが、この「形式」を純粋に取出そうと試みるとき、かの「イデアール」な存在性格を呈し、”経験的認識”に対するプリオリテートを要求する。このため、当のetwasは「本質直感」といった特別な直感の対象として思念されたり、純粋な知性によって認識される形而上学的な実在として思念されたりすることになる。(67ページ) 第三に、この音は「カチカチ」と聞こえるが、チックタックetc.ならざるこの聞こえかたは、一定の文化的環境のなかで、他人たちとの言語的交通を経験することによって確立したものである。それゆえ、現在共存する他人というわけではないにせよ、ともあれ文化的環境、他人たちによってもこの音は規制される。(いま時計が人工の所産だという点は措くが、この他人たちは言語的交通という聯関で問題になるのであり、彼らの生理的過程や”意識”が介入する!)この限りでは、音は、文化的環境、他人たちにも”属する”と云う方が至当である。(70ページ) 一般には、同一の語彙で表される対象(ないし観念)群は、わけても”概念語”の場合、同一の性質をもつと思念されている。この一対一的な対応性は、しかも、単なる並行現象ではなく、同一の性質をもつ(原因)が故に同一の語彙で表現される(結果)という因果的な関係で考えられている。しかしながら、実際には、むしろそれと逆ではないであろうか?共同主観的に同一の語彙で呼ばれること(原因)から、同一の性質をもつ筈だという思念マイヌング(結果)が生じているのではないのか?(109ページ) 第二段は、共同主観的な価値意識、そしてそれの”物象化”ということ...

放送大学

今でも入学試験はないから、 当たり前なんだけどボーダーフリーだけど、 単位認定試験も 自宅ウェブ受験になって難易度上がってるし、 面接授業も、令和元年度から試験もしくはレポートが必須になったから、 誰でも単位取れるって状況じゃなくなってきたね。 一昔前は、ほんとにボーダーフリーだった。 と、いうのは、 試験がどうとかそれ以前に、 この人はホームレスなんじゃないか? という方がいた。 なぜか自分が取る面接授業でよくお会いしたけど。 ここに来る電車賃あるなら、 まず身なりどうにかしたほうがいいんじゃないですか? と、言ってあげたいくらい。 あとは、え?! このゴミ袋引きずってるおばあちゃん学生だったの?! みたいな。 放送大学の面接授業って、聞いてるだけならともかく、 講師陣はどっかの大学の名誉教授だったりとかザラにあるから、 その気になればいくらでもふるいに掛けられるんだよね。 自分だって、理系科目の面接授業(放送授業は尚のこと)なんて、 怖くて受けられないし、単位なんか到底取れないよ。 そういう意味じゃ、 放送大学卒業ってのも、ダテじゃなくなってきたね。

なぜ貨幣供給量を増やすと物価が上がるのか?ー貨幣数量説(再掲)

完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は古典派経済学の発想なので、完全雇用は常に達成されていると想定されているので、物価は貨幣量と貨幣の流通速度で決まる。 従って、貨幣量を増加させれば、物価は上がる。 「貨幣の所得流通速度が一定不変で,かつ伸縮的な価格メカニズムの作用により実質産出量(実質国民所得)の水準が長期の均衡値に一致するならば,貨幣数量の変化は国民所得の大きさや構成にはなんら影響を与えず,ただ物価水準を比例的に変化させると主張する説。」有斐閣経済辞典第4版

インタゲと増税(再掲)

質問:中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、とありますが、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか?あるいは、新古典派経済学では「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか? 回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。すなわち、「政策割当の原理」です。したがって、「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要となります。  本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。本来の金融政策の目標(物価の安定)と異なるため黒田日銀総裁は「異次元の金融政策」という言葉を使ったのです。このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。このシナリオどおりに進めば、もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。ただ、経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります。したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため「財政再建」が先送りになってしまいます。それゆえに、「財政再建」の政策目標の一環として消費税の引上げが考えられています。このように、「政策割当の原理」は成立しています。

フィッシャー効果(再掲)

物価上昇の予想が金利を上昇させるという効果で、フィッシャーが最初にそれを指摘したところからフィッシャー効果と呼ばれる。 ある率で物価の上昇が予想されるようになると、貸手が貸金に生じる購買力目減りの補償を求める結果として、資金貸借で成立する名目金利は物価上昇の予想がなかったときの金利(=実質金利)より、その予想物価上昇率分だけ高まる。(以下略) 有斐閣経済辞典第5版 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html

株高の要因の一つの可能性(再掲)

ちょっと明らかに物価上昇が無視しえなくなってきたね。 実質賃金が上がってないとは言え、 現実に物価が上がってる以上、 おそらく期待インフレ率も上がってるんだろうが、 いざインフレになってみると、 中央銀行(と政府)がそもそも 消費者の期待インフレ率をコントロールするなどという ウルトラC難度の技を出来るのか 甚だ疑問だが、 それはともかく、 名目金利が抑え込まれている以上、 多少リスクとってでもよりリターンを得られる資産、つまり株や外国債に投資しよう、というのは当然の成り行きだろう。(←フィッシャー効果) しかし、日本国内の貯蓄が、海外資産に投資されても、 統計上は経常収支上黒字として計上されるわけだから、 巨額の貿易赤字がデフォルト化した現状において、 経常収支が仮に黒字だとしても、 それで国内の民間部門の貯蓄が、実態として、政府部門の赤字をファイナンス出来ている、ということにはならない。 そうなれば、 経常収支が黒字でも、 外国資本からカネを借りないと日本国債を発行できない可能性も出てくる。 そうなれば、言わずもがな、 否が応でも日本国債の異常な高値が崩壊し、金利が急騰する、という怖ろしいシナリオも現実味を帯びてくる。 とはいえ、経常収支はフローの概念なので、経常収支でいうところの貯蓄と、 いわゆる国富としての貯蓄は違うのかもしれない。 そこは正直詰めてない。 国富は換金可能なのか不明だが、とりあえず3000兆円あると言われている。 従って、金利急騰という悲惨なシナリオを回避するには、増税は避けて通れないだろう。

ウクライナ情勢で引っ張りだこの

慶応の廣瀬陽子センセイだけど、俺が在学中に中央アジアの授業持ってて、 基本的にヌルい先生だったから、 学生にもナメられてたんだけど、 授業中に、教室の後ろの方で、 凄まじい勢いでパソコン叩いてるやつがいるから、 何やってんのかな?と思ったら、 パソコンで格闘ゲームやってんのwww そんなんでも単位取れちゃうんだからね。 試験とかないし、 チーム作って、申し訳程度にミーティングに参加して、 プレゼン当日にシレッとテクいパワポ作って発表すれば、 それでオーケー。 それをみんな知ってるから、受講希望者が殺到する。 ほんとの意味で人気があって受講希望者が殺到するのなんて、 小熊英二センセイぐらいのもんよ。 それが慶応SFCクオリティー。

「華麗なる一族」山崎豊子 新潮文庫 中

「銀行家には、他人の金を扱っているという自他から来る厳しい規制があり、その規制がともすれば、自然な人間の欲望を抑圧し、歪め、隠花植物のようなじめじめとした欲求をもたらせることがあるが、それを用意周到な方法で処理し、絶対、世間に知られぬようにするのも、また銀行家というものだ。」

井上俊「遊びの社会学」世界思想社(再掲)ー信頼関係構築のポテンシャル

私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93

事実は小説よりも奇なり

ねーちゃんと急に和解した。 って、こんなこと言うの何回目だよ? ねーちゃんが高崎に来るってんで、 俺が熊谷の東横インに4連泊したというのに。 その間に母親と何を喋ったのかは知らないが。 ま、結果的にお互い言いたいこと言い合えて良かったね、て話ですわ。 高崎に帰ってきて、玄関開けたら、 あれ、ねーちゃんがいるぞ?! と思ったけど。 義理の兄には感謝しても感謝したり無い。 良かった。 ( ;∀;) ドストエフスキーもびっくり! このまま良好な関係が続くならば、 母親の財産と俺の生活費の管理をねーちゃんに丸投げしても構わないくらい。 一応、母親には、財産は半々で分けてねって一筆書いてもらったし。

それから(再掲)ー文化帝国主義批判

確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

零度の社会(再掲)ー文化帝国主義批判

ところで、現実の問題として、自立した個人から成る世界がすぐに出現するわけではない。他者は、他者を認知する者にとって異質な存在である。これは他者を「差異」であるということが同定された限りにおいてである。差異は同一性の下でしか正当性を持ちえない。同一性に吸収されない差異=他者は、排除される。それを可能にしていたのが、祖先の存在であり、また神であった。たとえ、異なる地位にあって、通常は口を聞くことも、顔を見ることさえ許されなくとも、共通の神を持っているという認識の下に、異なる地位にある者同士が共同体を維持する。地位を与えるのは神であり、それに対してほとんどの者は疑問さえ抱かなかったのである。(p.177~178) (中略) カースト制は、総体として、閉鎖的で完結的な世界を築く。そこでは、ウェーバーが「デミウルギー」と呼んだ、手工業者が村に定住し、無報酬で奉仕する代わりに、土地や収穫の分け前を受け取る制度が敷かれている。このような制度では、商品経済が発達する可能性はほとんどない。したがって、他者としての商人が、共同体内によそものとして現れる可能性は低い。 これに対して、市場論理が浸透した世界では、他者が他者として認知される。それは、複数の世界に属することを可能にする包含の論理によって律せられている世界である。このような世界が可能であるためには、共同体の外部に位置する他者の明確なイメージが築かれる。その推進者となるのが、商人であり、貨幣である。 それでは、なぜ貨幣が推進者となるのか。それは、貨幣を通じて、共同体の外部に存在するモノを手に入れ、みずから生産するモノを売却することが可能になるからである。共同体の外部が忌避すべき闇の空間でしかない状態から、共同体の内と外に明確な境界が引かれ、ある特定の共同体に属しながらも、その外部にも同時に存在することを可能にするのが、貨幣なのである。他者が、貨幣と交換可能なモノ、つまり商品を売買したいという希望を掲げていれば、それによって他者のイメージは固定され、他者の不透明性を払拭できる。こうして、貨幣は、共同体外部への関心を誘発していく。そして、カースト制のような閉鎖的な社会とは大きく異なり、ふたつの異なる世界において、同一性を築こうとするのである。 もちろん、誰もが商人になるこのような世界がすぐに出現するわけではない。そのためには、まず貨幣...

「世界文学への招待」(再掲)ー文化帝国主義批判

質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。  フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。  「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家...

「顔の現象学」(再掲)ー文化帝国主義批判原論

ところで、ルソーは疎外論の元祖だそうである。 「ホントウのワタシ」と「社会的仮面を被ったワタシ」の分離という中学生が本能的に感じるようなことに言及していたそうである。ここで、いわゆる『キャラ』について考えてみよう。 サークルの飲み会で、場にあわせてドンチャン騒ぎをやることに倦み果てて、トイレに逃げ込んだときに自分の顔を鏡でみるのは一種のホラーである。鏡に映る、グダグダになって油断して仮面を剥がしかけてしまった見知らぬ自分。それを自分だと思えず一瞬見遣る鏡の前の男。男は鏡に映る男が自分であることに驚き、鏡の中の男が同時に驚く。その刹那両方の視線がカチあう。俺は鏡を見ていて、その俺を見ている鏡の中に俺がいて、それをまた俺が見ている・・・という視線の無限遡行が起こって、自家中毒に陥ってしまう。 このクラクラとさせるような思考実験からは、<顔>についてわれわれが持っているイメージとは違う<顔>の性質を垣間見ることが出来るのではないか。そもそも、自分の顔は自分が一番よく知っていると誰もが思っているが、鷲田清一によれば、「われわれは自分の顔から遠く隔てられている」(「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22)という。それは、「われわれは他人の顔を思い描くことなしに、そのひとについて思いをめぐらすことはできないが、他方で、他人がそれを眺めつつ<わたし>について思いをめぐらすその顔を、よりによって当のわたしはじかに見ることができない。」(P.22)からだ。 言い換えれば、「わたしはわたし(の顔)を見つめる他者の顔、他者の視線を通じてしか自分の顔に近づけないということである。」(P.56)ゆえに、「われわれは目の前にある他者の顔を『読む』ことによって、いまの自分の顔の様態を想像するわけである。その意味では他者は文字どおり<わたし>の鏡なのである。他者の<顔>の上に何かを読み取る、あるいは「だれか」を読み取る、そういう視覚の構造を折り返したところに<わたし>が想像的に措定されるのであるから、<わたし>と他者とはそれぞれ自己へといたるためにたがいにその存在を交叉させねばならないのであり、他者の<顔>を読むことを覚えねばならないのである。」(P.56) そして、「こうした自己と他者の存在の根源的交叉(キアスム)とその反転を可能にするのが、解釈の共同的な構造である。ともに同じ意味の枠をなぞってい...

ガーシー

ガーシーが、国民の支持が広まれば、日本に帰るかも、と発言したそうだが、何か根本的に勘違いしているのではないか? 警察に逮捕されるか否かが、国民からの支持の程度によって変わるとでも思っているのだろうか? それは、疑いもなく法治主義の否定だ。 それを国会議員がやる、ということが、もはや茶番でしかない。 安倍の数々の疑惑に絡んで、国民に司法の独立性を疑わせるようになった司法にも責任の一端はあるとは思うが。

権力と知 (再掲)

前二千年紀の終わりから前千年紀の初めの東地中海のヨーロッパ社会では、政治権力はいつもある種のタイプの知の保持者でした。権力を保持するという事実によって、王と王を取り巻く者たちは、他の社会グループに伝えられない、あるいは伝えてはならない知を所有していました。知と権力とは正確に対応する、連関し、重なり合うものだったのです。権力のない知はありえませんでした。そしてある種の特殊な知の所有なしの政治権力というのもありえなかったのです。(62ページ) ギリシア社会の起源に、前五世紀のギリシアの時代の起源に、つまりはわれわれの文明の起源に到来したのは、権力であると同時に知でもあったような政治権力の大いなる一体性の分解でした。アッシリアの大帝国に存在した魔術的―宗教的権力のこの一体性を、東方の文明に浸っていたギリシアの僭主たちは、自分たちのために復興しようとし、またそれを前六世紀から前五世紀のソフィストたちが、金銭で払われる授業という形で好きなように用いていました。われわれが立ち会っているのは、古代ギリシアで前五、六世紀にわたって進行したこの長い崩壊過程なのです。そして、古典期ギリシアが出現するとき―ソフォクレス(注:「オイディプス王」の作者)はその最初の時代、孵化の時点を代表しています―、この社会が出現するために消滅しなければならなかったのが、権力と知の一体性なのです。このときから、権力者は無知の人となります。結局、オイディプスに起こったのは、知りすぎていて何も知らないということです。このときから、オイディプスは盲目で何も知らない権力者、そして力余るために知らない権力者となるのです。(62ページ) 西洋は以後、真理は政治権力には属さず、政治権力は盲目で、真の知とは、神々と接触するときや、物事を想起するとき、偉大な永遠の太陽を見つめるとき、あるいは起こったことに対して目を見開くときに、はじめてひとが所有するものだという神話に支配されるようになります。プラトンとともに西洋の大いなる神話が始まります。知と権力とは相容れないという神話です。知があれば、それは権力を諦めねばならない、と。知と学識が純粋な真理としてあるところには、政治権力はもはやあってはならないのです。 この大いなる神話は清算されました。ニーチェが、先に引いた多くのテクストで、 あらゆる知の背後、あらゆる認識の背後で問題にな...

おはようございます。@熊谷の東横イン

なんか知らんが、小学生ぐらいの子ども達が大量にいる。 俺は子どもが苦手だ。 思うに、コイツらは、パターン学習途上の人工知能と同じなんじゃないか? 勘違いされちゃ困るが、コイツらの人格を否定してるって訳じゃないよ。 何が言いたいか、というと、これぐらいの年齢のガキは、まだ、世の中の人間のサンプリングをしている最中なので、とにかく少しでも奇異なものに敏感に反応してしまうのだ。 そして、正常か異常かを、瞬時に即断しようとする。 まあ、それもしょうがないだろう。 自然界の動物はそうやって生きているんだから。 しかし、君らは、世の中には色んな人間がいる、という単純な事実を学習するために、義務教育を受けているのではないのかね? 単純に、毛並みの違うやつをやたらとあげつらって嗤っているだけじゃ、教育を受けている意味がないだろう? そうではないか? 尤も、大学生にもなってこんなこともわからない奴ってのも、いくらでもいるが。 むしろ、そういうアホどもは、そういう即断のスピードを競い合い、ただでさえ狭い自身の中の《正常》を限りなく狭め、自分自身が《正常》である椅子取りゲームをしているのだ。 そういうのを学習とはいえない。 そういうアホが厄介なのは、実に、学びの場において、考えの違うやつを、あげつらい、嗤うことによって、周囲の学生の独創性を殺してしまうことだ。 そりゃそうだ。 ただでさえ視野の範囲が狭い幼少期から、椅子取りゲームに勝つために、更に自身の中の《正常》の範囲を狭め続けているのだから。 しかも、そういう椅子取りゲームに勝つのが得意な奴ほど、中途半端に学歴が高い。 頭はいいから。 慶応なんかそんなのばっか。 こんなんじゃ、日本企業の競争力なんか高まる筈がないに決まっている。 こういう末人どもには、もはや真理など存在しない。 あらゆる知、あらゆる認識の背後で問題になっているのは、権力闘争なのだ。 知は権力と絡み合い、権力とともに織り上げられているのだ。

経常収支よもやま話 (再掲)

ただでさえ安い円が、さらに安くなる可能性があるとのこと。 日本の経常収支は、かつては貿易黒字と第一次所得収支の黒字が双璧だったが、いまは第一次所得収支のみが頼り。 しかも、その第一次所得収支も、海外展開した企業が利子や配当として得た資金(ドルなど)は、統計上円に換算されるため、一見日本に富が還元されているように見えるが、実際には円には替えず、外貨で保有したままなので、実需の円買いにはならないため、円安是正には寄与しない。 しかも、海外展開した企業は、海外で得た資金を、日本には還流せず、再び海外市場へ投入するため、実需の円買いには繋がらない。 統計上は、第一次所得収支は経常収支に計上されるってことになってるけど、実質民間の貯蓄になってないなら、日本政府の赤字は、どうやってファイナンスしてるんだろう? 経常収支が黒字であればこそ、政府の赤字を国内の資金で補えるが、それが見かけだけのものならば、理屈でいえば海外からの資金に国債発行の原資をアテにしなければならないはず。 財政赤字に加え、経常収支まで赤字になったら、海外からの資金を呼び込むために、金利を上げる必要があるはずだが。 国際収支統計では、経常収支、資本収支、外貨準備増減の和はゼロとなるため、外貨準備増減を捨象して考えれば、経常収支が赤字となると資本収支が黒字となる。これは、経常収支が赤字の状況では、財政や民間投資等の資金需要を確保するためには、海外からの資金が流入超過になることを意味している。民間部門の貯蓄の黒字幅が縮小する一方、政府部門の赤字幅は縮小しない場合、その赤字のファイナンスを海外の資金に頼る必要が出てくるということである。 (リンクの内閣府のペーパーより) https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html

バラッサ・サムエルソン仮説 (再掲)

消費バスケットを構成する貿易可能財では、国際貿易を通じた裁定取引により国際的な一物一価が生じる一方、サービスなどの非貿易可能財では国際的な裁定取引が行われない。日本での非貿易可能財価格は国内の生産投入費用、特に実質賃金により決定される。 貿易可能財産業で高い労働生産性の伸び率を達成した高所得国は、その高い労働の限界生産性から国内実質賃金がすべての国内産業で高い。高所得国の非貿易可能財価格は低所得国より高くなり、同所得国の実質為替レートは増価する。 日経新聞「経済教室」2022/1/26 より https://imidas.jp/genre/detail/A-109-0085.html https://jp.reuters.com/article/column-kazuo-momma-idJPKBN2FB0CH

製造業のグローバル化と賃金の低下 (再掲)

1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社  https://jp.reuters.com/article/column-kazuo-momma-idJPKBN2FB0CH

第一次所得収支(再掲)

1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より つまり、日本の内需の縮小と労働市場の貧困化は、企業の海外進出と表裏一体であり、その見返りとしての、海外からの利子・配当などの、いわゆる第一次所得収支の恩恵として現れる。 https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX https://toyokeizai.net/articles/-/380494?page=4

物価上昇(再掲)

ちょっと明らかに物価上昇が無視しえなくなってきたね。 実質賃金が上がってないとは言え、 現実に物価が上がってる以上、 おそらく期待インフレ率も上がってるんだろうが、 いざインフレになってみると、 中央銀行(と政府)がそもそも 消費者の期待インフレ率をコントロールするなどという ウルトラC難度の技を出来るのか 甚だ疑問だが、 それはともかく、 名目金利が抑え込まれている以上、 多少リスクとってでもよりリターンを得られる資産、つまり株や外国債に投資しよう、というのは当然の成り行きだろう。 しかし、日本国内の貯蓄が、海外資産に投資されても、 統計上は経常収支上黒字として計上されるわけだから、 巨額の貿易赤字がデフォルト化した現状において、 経常収支が仮に黒字だとしても、 それで国内の民間部門の貯蓄が、実態として、政府部門の赤字をファイナンス出来ている、ということにはならない。 そうなれば、 経常収支が黒字でも、 外国資本からカネを借りないと日本国債を発行できない可能性も出てくる。 そうなれば、言わずもがな、 否が応でも日本国債の異常な高値が崩壊し、金利が急騰する、という怖ろしいシナリオも現実味を帯びてくる。 とはいえ、経常収支はフローの概念なので、経常収支でいうところの貯蓄と、 いわゆる国富としての貯蓄は違うのかもしれない。 そこは正直詰めてない。 国富は換金可能なのか不明だが、とりあえず3000兆円あると言われている。 従って、金利急騰という悲惨なシナリオを回避するには、増税は避けて通れないだろう。

黄色信号(再掲)

円安が進んでますね。 イエレンさんが、投機的な動きがある、と発言していました。 つまり、投機筋が、 円売りを仕掛ている。 なぜ円売りを仕掛ているかというと、 自国通貨が売られて通貨安になれば、 常識的には、中央銀行は、利上げをして自国通貨高に誘導しようとする。 日本に当てはめると、 日銀がイールドカーブコントロールという、馬鹿げた政策によって、 中央銀行は本来、短期金利しかコントロールできないとされているのに、 長期国債を無制限に買い入れて、 無理やり長期金利を抑え込んでいる。 つまり、日本国債の価格が異常に高い。 (裏を返せば、日本国債の利回りが異常に低い。) 投機筋は、円を売れば、 日銀は過度な円安を修正するために、 政策金利を上げざるを得ないと読んでいる。 それだけでなく、投機筋は、 日本国債売りも同時に仕掛けています。 そうすると、日銀は、金利上昇抑制のために、日本国債買い入れを余儀なくされる。 そうすると、市場に円が供給されるので、 結果、円安がますます進行する、という悪循環に陥っています。 まあ、はっきり言って自業自得としか言いようがないですが、 政府・日銀は、 日本国債を買い入れつつ、外貨準備を使って円買い介入をする、という 矛盾したことやろうとしています。 なぜ矛盾しているかというと、 国際金融のトリレンマに従えば、 「資本移動の自由」 「為替の安定」 「金融政策の独立性」 の3つは、同時にすべてを達成することは出来ないからです。 資本移動の自由は犠牲にすることは出来ません。 従って、 為替の安定と金融政策の独立性のどちらかを犠牲にせざるを得ないわけですが、 金融政策の独立性を保持するとすれば、 外貨準備を使って為替介入しなければ、 自国通貨は安定しないのです。 日銀・政府は、 大規模金融緩和を継続する一方で、為替介入をする、という”矛盾した”政策を行っているわけです。 投機筋もこれは完全に計算のうえでやっていますが、 問題は、結局のところ 日銀がどこまで無謀な大規模金融緩和を続けるか、ということです。 大規模金融緩和を続ける限り、 日銀のバランスシートに日本国債がたまり続けるだけで、 金利は上がりませんから、 今までは一般人も痛みを感じなかったので、 非難の声が上がりませんでしたが、 円安が急速に進んで、消費者物価まで上昇し始めると、 消費者からも...