なんか知らんが、小学生ぐらいの子ども達が大量にいる。 俺は子どもが苦手だ。 思うに、コイツらは、パターン学習途上の人工知能と同じなんじゃないか? 勘違いされちゃ困るが、コイツらの人格を否定してるって訳じゃないよ。 何が言いたいか、というと、これぐらいの年齢のガキは、まだ、世の中の人間のサンプリングをしている最中なので、とにかく少しでも奇異なものに敏感に反応してしまうのだ。 そして、正常か異常かを、瞬時に即断しようとする。 まあ、それもしょうがないだろう。 自然界の動物はそうやって生きているんだから。 しかし、君らは、世の中には色んな人間がいる、という単純な事実を学習するために、義務教育を受けているのではないのかね? 単純に、毛並みの違うやつをやたらとあげつらって嗤っているだけじゃ、教育を受けている意味がないだろう? そうではないか? 尤も、大学生にもなってこんなこともわからない奴ってのも、いくらでもいるが。 むしろ、そういうアホどもは、そういう即断のスピードを競い合い、ただでさえ狭い自身の中の《正常》を限りなく狭め、自分自身が《正常》である椅子取りゲームをしているのだ。 そういうのを学習とはいえない。 そういうアホが厄介なのは、実に、学びの場において、考えの違うやつを、あげつらい、嗤うことによって、周囲の学生の独創性を殺してしまうことだ。 そりゃそうだ。 ただでさえ視野の範囲が狭い幼少期から、椅子取りゲームに勝つために、更に自身の中の《正常》の範囲を狭め続けているのだから。 しかも、そういう椅子取りゲームに勝つのが得意な奴ほど、中途半端に学歴が高い。 頭はいいから。 慶応なんかそんなのばっか。 こんなんじゃ、日本企業の競争力なんか高まる筈がないに決まっている。 こういう末人どもには、もはや真理など存在しない。 あらゆる知、あらゆる認識の背後で問題になっているのは、権力闘争なのだ。 知は権力と絡み合い、権力とともに織り上げられているのだ。
1. 序論:『それから』に映し出される明治期の近代化 本稿は、夏目漱石の小説『それから』を題材に、日本の近代化がもたらした状況と、それが個人の経験に与えた影響について考察するものである。特に、経済的豊かさが生み出す「自家特有の世界」への耽溺と、それが最終的に経済の論理に絡め取られていく過程、そしてテオドール・W・アドルノが指摘する、社会の合理化と精神世界における非合理への慰めを求める人々の傾向を、作品を通して分析する。 日本の明治時代(1868-1912年)は、長きにわたる鎖国状態を経て、1853年の黒船来航を契機に世界と対峙し、驚くべき速度で西洋の制度や文化を取り入れ、「近代国家」への道を歩んだ画期的な時代である 。この時期には、鉄道、郵便局、小学校、電気、博物館、図書館、銀行、病院、ホテルといった現代の基盤となるインフラや制度が次々と整備された 。政府は「富国強兵」や「殖産興業」といった政策を推進し、工場、兵舎、鉄道駅舎などの建設を奨励した。また、廃藩置県や憲法制定といった統治制度の変更に伴い、官庁舎や裁判所、監獄などが建設され、教育制度の導入は学校や博物館の整備を促した 。 西洋化の影響は日常生活にも深く浸透した。住宅様式においては、外国人居留地を起点に西洋館が普及し、やがて庶民の住宅にも椅子式の生活スタイルが段階的に浸透した 。食文化においても、仏教の影響で長らく禁じられていた肉食が解禁され、西洋列強との競争意識から日本人の体格向上と体力増強が期待された 。洋食は都市部の富裕層を中心に広まり、カレーライスやオムライス、ハヤシライスといった日本独自の洋食が定着した 。大正ロマン期(1912-1926年)には、西洋文化と日本独自の文化が融合し、「モガ」や「モボ」と呼ばれる若者たちが洋装に身を包み、カフェで音楽や映画を楽しむ「自由でおしゃれな空気」が醸成された 。経済面では、明治後期から軽工業が発展し、日露戦争前後には鉄鋼や船舶などの重工業が急速に発展し、日本の近代化を加速させた 。第一次世界大戦期には工業生産が飛躍的に増大し、輸出が輸入を上回る好景気を享受した 。 『それから』(1909年発表)は、夏目漱石の「前期三部作」の二作目にあたり、急速な近代化が進む日本を背景に、個人の欲望と社会規範の...
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