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クリステヴァ

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買ったはいいが とっかかりが 掴めず しばらく 放置していたが、 ちょっと 意識して 読み始めてみると、 かなり 面白そうな 気配がする。 なかなか 難解だが、 筋が読めてくると、 ぐいぐい 読ませられる。 ・・・書いてあることが わからなくはないが 抽象的すぎて 腑に落ちない。 ・・・3日目くらいで ようやく 何が言いたいのか 仄めいて来た。 クリステヴァが 核になってくれた おかげで、 とりあえず 2学期の 勉強計画の 方向性が 見えてきた。 ムダに 面接授業いかなくても 有意義な 生活が 送れそうだ。 良かった。    クリステヴァは、 プロセという単語がもつ これら第一義的な意味に 着目する。 意味生成過程とは、 意味にかかわる<法> を めぐる訴訟、 というニュアンスを 必然的におびることを 計算して もちいられた表現なのだ。 法とは、 いうまでもなく、 サンボリックの秩序の 拘束性・強制性を 意味している。 サンボリックの法が 要請する 論理的秩序へと 意味生成がおこなわれる 争いと矛盾の過程、 このような 比喩的色合いを おびることによって、 意味生成過程の矛盾し、 葛藤している ダイナミックな性格が、 浮き彫りにされる。 この葛藤が <対話=双数論理> の別名に ほかならないことは、 理解されよう。 そこで係争を演じ、 対話を交わしているのは、 意味と意味ならざる 前意味・非意味、 定立と快楽、 ...

日本中世史

鎌倉時代を知るには、 本郷和人先生の 「北条氏の時代」 が 一番いい。 安いし。 下敷きとして、 井沢元彦の 「逆説の日本史」 も 第9巻までは 読むに値する。 近代日本政治史を 知りたければ、 尾崎行雄の 「民権闘争七十年」 が 秀逸。 これも 文庫本だから安い。 ・・・ちょうど いま キンドルで読んでる ところだけど、 「武士の起源を解きあかす」 (ちくま新書) も 抜群に面白い。 武士って何? を 掘り下げると、 日本中世史の本質が 見えてくる。 ・・・すげーな。 ぶっ飛んでるわ。 日本の古代中世の 土地制度が よくわかる。 ちくま新書さん ブチかましたね。 こんな 内容の濃い本が 1000円ちょっとで 手に入るってのは、 いい時代に 生まれたわ。 あまりに画期的すぎて、 受験科目として 日本史を 選択するのが 馬鹿らしくなる。 それぐらい ぶっ飛んでる。

ルカーチ メモその34 物象化 カバー裏面より

もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 そのような 近代社会の いわゆる 「物象化」論は、 マルクスの 「疎外論」や 「資本論」と 連接する 問題意識だった。 「商品」は その物自体の 「使用価値」と それが市場でもつ 「交換価値」の 二面をもつ。 現代の資本主義社会においては 交換価値のみが 突出するため、 商品を作って生きる 人間の労働も 交換価値に還元され、 ひいては 人間性そのものまで 計数化され 疎外されていく。 故に そのような資本主義的 「物象化」の 打破こそが、 近代人の 陥っている 閉塞状況の 根本的解決だと 論ずる。

ルカーチ メモその33 補遺

こうして、 <全社会を統一する 経済構造をもって、 はじめて 資本主義が 社会の総体に 対する 統一的意識構造 を 生み出した>。 ここにあって、 ブルジョワジーは 自己の利益が 全社会の利益であるかのように 見なし、 社会の本質を 見過つ。 それに対して、 奴隷の立場としてある <プロレタリアートの 階級意識> のみが、 社会の全体を把握することが 死活問題であり、 また、 その把握が可能になるのは、 社会全体の認識を 克ちえてのみだからだ。 308ページ

ルカーチ メモその32

機械的な 進歩・発展としてではなく、 主体的行為として、 それも 無意識状態、 虚偽意識に 囚われた状態から 意識化へ という 動的な過程として、 このように <歴史> が 思い描かれた点、 このことは、 高度資本主義社会のなかで、 たとえ ルカーチが 考えたような <階級>概念に 現実性が 感じられなくなっているとしても、 示唆するものは 残されているだろう。 312~313ページ

ルカーチ メモその31 結論

ルカーチは、 生産力や技術の発展、 合理化の徹底、 といった、 <近代化> の いわば 積極面の行き着く 果てに 決して <解放> を 見ていなかった。 <近代化> という 客観的な条件はむしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。  また、彼にするなら、 現実の労働者は <近代化> の呪縛に あまりに からめ取られている。 その日常的な意識は 物象化された 虚偽意識である。 彼らの 主観的な意志や決断に まったく 期待ができないというのは、 ハンガリー革命敗北の ひとつの 大きな教訓だったろう。  そこでルカーチは、 <近代化> の 否定面としての 物象化を、 プロレタリアートの意識において 積極面に逆転する論理を 考え出したのだった。 商品という客体としてある プロレタリアートの 自己認識こそは、 この 社会の本質の 客観認識である。 そしてそれも、 この プロレタリアートの 意識は <自分に対立して ある対象についての 意識ではなく、 対象の自己意識である> ために、 <意識化 という 活動は その 客体の対象性 形式を 転覆させる>。 つまり プロレタリアートの 自己認識そのものが すでに 実践的でしか ありえない。 こうして <プロレタリアートは、 歴史の同一的 <主体ー客体> として現われ、 その実践は 現実の変革となる> 道筋が描かれるのだった。 312ページ

ルカーチ メモその30 核心部分

<物神的性格> が 問題になるのは、 マルクスにおいては 商品世界特有の こととしてだった。 人間の労働が、 個人的な 質を離れて 計算可能な 商品という <物> の価値で測られる、 という 事態だ。 主観的な 価値が 交換価値によって 測られる 商品に即して 現れてしまうような 事態を 彼は <物象化=即物化 Versachlichung> と 呼んでいた。 これを ルカーチは意識の <物象化=事物化 Versachlichung> にまで 拡張したのだった。 310ページ

ルカーチ メモその29

価値判断とは 独自に ある形式合理性から 見た 近代化は、 否定面としては、 右の第二点で 挙げたように、 人間の <主体性> の 喪失という実感 が それに対して 起こるだろうし、 積極面としては、 古い紐帯、 束縛から解き放たれ、 個人の解放の 契機でもあった。 310ページ

ルカーチ メモその28

マックス・ヴェーバーは 西欧社会の近代化を 分析するにあたって、 それを 普遍的な 合理化過程と捉えた。 その際に 彼は、 行為者の価値観が 介在する <実質合理性> と、 価値判断抜きで、 計算・計量可能性に 還元された 観点からの <形式合理性> を 区別する。 西欧の普遍的な 合理化とは この後者にあたる。 政治でならば、 無記名選挙の 投票などで 表される 民主主義の <形式性> や、 官僚機構の整備、 経済でならば、 労働、労働生産物を その 実質的価値 (個々の顔をもつ 労働者個人の 満足感や 生産物の 使用価値) によってではなく、 計量化された 商品の 匿名の市場に 占める位置 (交換価値) によって測る、 資本主義の発展などだ。 310ページ

ルカーチ メモその27

ヘーゲルにあっては、 死を恐れず戦った 勝利者である <主人> は 自立した存在であり、 死を恐れて敗れた <奴隷> の労働を享受している かのようである。 しかし 実のところは、 奴隷の労働に 依存してしか 主人はありえない。 それに対して奴隷は、 労働を通して 自己対象化を 行ない、 労働の生産物によって 自己実現を果たす。 そして つねに さらされる 死の恐怖によって、 自己の生命への 執着から 抜け出てゆく。 このようにして、 主人が自由と 自立性を 失い、 奴隷がそれを 獲得してゆく、 という 逆転が起こる。 この <弁証法> の 奴隷の立場に、 ルカーチは プロレタリアートを 置くのだが、 その際に <物象化>概念 が 重要になるのだった。 305ページ

ルカーチ メモその26

階級意識ということで 念頭に置かれているのは、 決して 心理学的ないし 大衆心理学的原理 ではない。 つまり、一定の 階級に所属する者が 一定の 歴史的状態において 実際に 考えたり 感じたりした ものではない。 階級意識が 意味するのは 逆で、 ある階級に 所属する者が、 もしも自らの階級の状態、 そこから 生ずる利害を、 直接の行動および 全社会の構造という点に 関連づけて 完璧に 把握する 能力をもっている ならば 持つであろうような、 思考、感情のことである。 資本が事物として 存在するわけではなく、 ひとつの 「社会的生産関係」 であるのと 等しく、 階級意識は 心理学的存在ではない。 それは 生産過程の 一定の状態に 帰属する合理的に ふさわしい反応である。 301~302ページ

ルカーチ メモその25

この最終目的というものは、 闘争の個々の契機が それによって はじめて 革命的な意味を もちうるところの、 全体への関係 (過程として 考察された 社会全体への 関係) なのである。 この全体への 関係は 単純で 平静な 日常性のなかの あらゆる 契機のなかに 内在しているが、 それは 意識されることによって はじめて 現実的なものとなるのであり、 またこのように 全体への関係が 明らかになることによって、 日々の闘争の契機が 現実性をもつ ことになる。 つまり たんなる 事実性や たんなる 存在から 現実性に 高まるのである。 290ページ

ルカーチ メモその24

ここで述べられている 意識化の契機は、 カントの<啓蒙> についてのくだり を思わせる。 「啓蒙とは何か という問いに 対する答え」 のなかで、 啓蒙を定義して、 人間が 自らに責めのある <未成年状態> から 脱することだと述べていた。 その際に 啓く蒙とは、 個における 覚醒次元でというよりは、 人類史的に捉えられている。 そして これは 西欧的見地からすれば とりもなおさず、 西欧の近代化・合理化の 過程と軌を一にする。  ヴェーバーはこの合理化過程を、 また同時に 物象化 (Versachlichung) 過程とも表した。 ルカーチに即してみるならば、 目ざめた 自己意識が、 直接的で狭隘な 利害関係のなかに 捕らわれてゆく過程と なるだろう。 266~267ページ

ルカーチ メモその23

もしもルカーチの考察が ここまでで、 教養小説を讃えることで 終わっていたなら、 たんなる ご都合主義的な 折衷にとどまってしまっただろう。 それを扱った 最後の節は、 紙数も少なく他の箇所と 比べて 説得的とは 言いがたいが、 ルカーチが 指し示そうとしていたことがらならば 判る。 彼によるなら、 トルストイにあっては、 文化と自然がまったく 断絶した層をなしている 点で、 自然もが文化でしかない 西欧世界と分かたれる。 トルストイによって 描かれた 自然のなかに、 ルカーチは 小説の世界を 突き抜ける あらたな 叙事詩への ひとつの 可能性を予感する。 だがそれは同時に、 予感にとどまるもので あることも 確言されていた。 212ページ

ルカーチ メモその22

ギリシア悲劇の場合のような <悲劇的> な世界では、 人間は有無を言う余地も ないままに 運命に 盲従せざるを得ない。 だが、 そうした <悲劇> とは、 はたして本当に 人間の存在を究極的に 表したものなのだろうか、 というのが、 そのときの ルカーチの 問いかけだった。  これは、 文学ジャンルという 枠内で問題は 立てられてはいるものの、 その裏には、 近代資本主義社会の <運命的な力> に対する 考察もが 介在していたと 推定することは、 あながち 不自然ではないだろう。 というのも、 まさにこの点が マックス・ヴェーバーの ヨーロッパ近代の 考察の中心点でもあり、 ルカーチ自身その 影響下で 『近代戯曲発展史』 などにおいて、 <物象化 Versachlichung> 過程として それを 描いていたのだから。 そうした点を 踏まえてみるならば、 彼の <悲劇>論にも また 違う 光が当たる というものだ。 199ページ

ルカーチ メモその21

さらに この 時間意識は、 <死> との 関係で はかられている。 <現実の生は、 限界というものを 知らない。 死もなにか 恐ろしい脅威、 なにか無意味なもの、 生の流れを 突然に 断ち切ってしまうものと 考えている。 神秘的なるものは この限界を とび越え、 それ故死のもつ あらゆる 現実的な価値を 打ち消してしまった。 悲劇にとって死はー 限界そのものなのだがー つねに 内在的な現実性であり、 悲劇における 出来事のすべてが 分かちがたく 結びついている>。 <限界の体験は、 魂が意識へと 自意識へと めざめることだ。 魂が存在するのは、 それに 限界があるからである。 限界があるために、 また そのかぎりにおいてのみ、 魂は存在する>。 186ページ

ルカーチ メモその20

一方において <現実の生> にあっては <完全に 成就されるものも なければ、 完全に終了するものもない>、 <真の生へと開花するものは なにもない>、 <常に 否定的な形でしか 書き表すことは できない>。 それに対して 置かれるのが、 神の前で なされる <奇蹟> だった。 <神にとっては、 相対性は 存在しえない。 過渡も微妙な陰翳もない。 神のまなざしは いかなる 出来事からも、 その時間性と 場所性を すべて 奪う。 神の前では 仮象と本質、 現象と理念、 出来事と運命の 差異は 存在しない。 価値と現実という 問題も、 ここでは その意味を失った>。  そしてこうした <偉大な瞬間の 血気に満ちた 直接に体験された 真実> を もたらすのが 悲劇の役割だった。 <それはあくまでも 瞬間である。 それは 生を意味しない。 通常の生とは まったく 相容れず、 それと 対立する 別の生である>。 そこで、 <劇における時間の集中> とは、 <生全体にほかならぬ この瞬間の、 あらゆる 時間性からの 脱却> を 目指したものであると いうことになる。 185ページ

ルカーチ メモその19

<悲劇>とは、 エルンストにとって、 また ルカーチにとって、 必然性の世界を 意味している。 そして、 <我ら高みの人間は 必然性に従い生きる> という ブルンヒルトの 科白にあるように、 悲劇は <悲劇の国に 住むには あまりにも 弱いもの、 あまりにも 低いものを 永久にしめ出す>。 そこで、 <万人に平等の權利 を あたえよという 要請を とことんまで つきつめていった 民主主義者たちは、 常に 悲劇の存在理由を 否定しようとした> という。 184ページ

ルカーチ メモその18

エルンスト本人に 即するならば、 労働運動への 関与 といった過去から、 このような <新古典主義> への 転回は、 <転向> などではありえなかった。 彼にしてみれば、 反資本主義の <倫理> に 裏打ちされている、 という意味では、 両者は 乖離なく つながっていただろう。 そして 同じことは、 翻って、 ルカーチにも そのまま 当てはまる 局面があることは、 また 改めて 確認することになる。 181ページ

ルカーチ メモその17

というのも、彼が こうした 距離感を 保った 冷徹な まなざしを もっていたからといって、 そのような 時代の風潮の飛沫を 彼自身 まったく かぶっていなかった、 ということでも ないように 思えるからだ。 というよりむしろ、 そのあまりの 深みに 身を 浸しきって いたために、 国家間戦争というような 次元には 与しないですんだ ともいえる。 それは 後半部での <英雄精神> についての記述 にも 擬せられるような 態度、 すなわち <物象化> へと、 結局のところ 収斂してしまう ことへの 反撥と 表裏一体だ。 このなかで そうとは 露骨に 書かれている わけではないが、 平準化、 民主主義的 平板化 への 嫌悪感の 表白ともいえるだろう。  つまり、 日々同じことが 繰り返されている 千篇一律なる 日常を切り裂く、 そんな力が 期待された <戦争> が、 結局のところは、 そこに 額ずき 従う者どもを、 部品のひとつとして 消費してゆく、 これまた 同じことの 繰り返しが 行われている、 という 判断だ。 172ページ

ルカーチ メモその16

もう少し言うなら、 戦争が もたらしてくれる この <なにものか> とは、 近代個人主義によって 分断されて アトム化 されていた ひとびとの 間の仕切りを 廃棄する 一体感、 <新しい友愛的共同体> の 意識だという。 しかしこれは、 従来の素朴なかたちの 愛国心とも 異なった 特異性を まとっており、 <非ドイツ人には まったく 理解しがたい> <ほとんど 宗教的で 名状しがたき 体験> であるように、 ドイツ人たち 自身も 捉えている。 170ページ

ルカーチ メモその15

このような 形式化原理を ルカーチは <「純粋」形式> と 名づけている。 ここに、 彼の 美学構想のひとつの 極致が 描かれた。 それは、 政治的ユートピアの 周りに漂う 血なまぐささに 汚染される 以前の、 最後の輝きを 秘めているかのようだ。 この 形式化原理によって、 <すべての願望が 純粋な成就に 収斂しうる> 作品、 <あらゆる 対立が崩れて、 楽園的世界を 築きあげるため 手を結び合う、 そんな 本当の地上の楽園> であるような 作品が 創られる。 161ページ

ルカーチ メモその14

装飾的に 形成された 事物の表面は、 あらゆる 非合理性を 受け入れることが 可能であり、 かつすべては 厳密な 法則に 取り囲まれている。 そこでは 法則は 必然性を 損なうことなく 硬直は解かれ、 解消されえないものは、 平板な 把握可能性の なかに 失せることなく、 明白かつ 軽快になる。 このような 秩序と遊戯の 綜合である装飾 という 概念によって、 この 形式化の 目標は達成され、 それの すべての 逆説は解消される。 いっさいの ユートピア的現実 の 模像が 成立したのだ。 161ページ

ルカーチ メモその13

レオー・ポッパーにとって、 技術と材料の 理論は、 芸術形而上学の 真の 第一段階だった。 なぜならば、 彼の見解にとっては、 技術的意欲と 材料の法則は、 作品への意志を 超主観的に担う ものであるからだ。 これは、 意欲し自らを捧げる 主体を超えて 自己実現するよう 強いられ、 そして 作品において 実体をもつ。 そうすることで、 人間が 熱望し 人間が 創造しながらも、 人間の意志と体験では 決して 到達できない、 地上の楽園が 築かれるのだ。 158ページ

ルカーチ メモその12

誤解の意味するのは、 我々の 知るとおり、 美的受容者が 作品体験において 作品の 「真の」 内容を 受け入れる ことでもなければ、 作品の 内的構造を 見通す というような ことでもない。 そうではなく、 受容者自身の 体験のもつ 諸要因は、 原理的に 伝達不可能で 比較できない 性質であるが、 そのような 体験の要因から、 ひとつの 閉じた世界が 生ずる、 そして これを 受容者が作品として、 すなわち 自分から独立した ものとして 体験する、 このことである。 この作品は、 受容者には 意識されない 仕方で、 彼固有の 体験内容と 彼固有の 体験の質を もっている。 そこで、 この作品は 受容者にとっては、 自分にこそ 対応した、 そして 自分をこそ 充足させてくれる、 そんな ユートピア的現実を 意味する。 157ページ

ルカーチ メモその11

芸術作品とは、 永遠化した 誤解という 逆説的で 類をみない 位置をもつ。 これによって はじめて 美学の 自立性と 内在性が 可能になる。 この 芸術作品の位置は、 その 中心価値のもつ 永遠性、 普遍性、 客観性によって、 体験的現実と 戴然と 分かたれる。 159ページ

ルカーチ メモその10

それに対して、 どのような芸術作品であれ、 それを 享受する者がおらず、 抽斗なり 密室なりのなかに 人目に触れずに あるかぎり、 芸術的感動も なにもあるわけはない。 それにとどまらず、 制作者は作品が どのように 受け入れられるのかを 先取りしている 場合もあろうし、 同じ作品が 時代によって まったく 違った 評価を受ける こともある。 どこに力点を 置くかはともかく、 作品が人によって 鑑賞され 受け入れられる、 という 側面に着眼した <受容美学> というものも、 他方で考えられる。 しかし ルカーチの端緒は、 このいずれにも つかないところで 開かれる。 つまり、 彼の考える <美学体系> にとって、 芸術作品の生産者、 あるいは 受容者といった 人間主体は 括弧に入れ、 芸術作品が 現に そこにある、 という事実性を 出発点に据えるべき ものである、 ということだ。 この発想の裏には、 『魂と形式』 に 即して <形式> 概念としてみたのと 同様な発想、 つまり、 現実の生は 疎外されているが、 美の領域は その汚染から 免れた 自立的な 価値領域として 存しうる、 という 考えがあった。 そのときすでに、 作品を <生の客観化>、 <体験の表現> と 捉え、 その理解、 追体験が受容者の態度、 と 考える ディルタイ流の把握からは すっかり脱している。 <体験> と 直結させて 考えるには 作品はあまりにも 自律化し、 それ自体の <生> を 獲得している からだ。 154~155ページ

ルカーチ メモその9

カントの いわゆる <三批判書> では、 理論理性と 実践理性の 位置づけは 明快だった。 それに対して、 両者の中間領域 として 設定された、 美、崇高に向けられた <判断力批判> は、 両者では 片がつかない領域、 というその そもそもの性格からして、 ある意味で 必然的とも 言える 曖昧さを 残さざるを得ない。 だが この曖昧さによって むしろ、 対象の 科学的認識を行う 理論理性と、 人と人との間の 関係において 成り立つ 実践理性と、 その 二つの領域の 架橋を 判断力が なしうるのではないか、 ということで、 近年 再評価の機運が 高まっている。 ルカーチが 美学を構想したのも、 まさに 新カント学派の 二元論を 前提としつつ、 端的に言うなら、 美の領域でこそ 主体と客体の合一の境地 を 達成しうる、 という 目的意識に 貫かれている。 151~152

ルカーチ メモその8

ルカーチを はじめとする <これら若い哲学者たちを 動かしていたのは、 現世を越えた 神の 新しい使者に 向けられた、 終末論的な希望 だった。 そして 彼らは、同胞的友愛 によって 打ち立てられた 社会的な 結社秩序のなかに 救済の前提条件を 見ていた>。 148ページ

ルカーチ メモその7

彼 (マックス・ヴェーバー) によるならば、 社会科学は <価値自由>、 すなわち 観察者の主観的な 価値判断に 捕らわれない 認識であるべきであり、 価値は科学によっては 定められない領域にある と 考えられた。 しかし、 人間の社会的行動 そのものは なんらかの 価値と 結びついているのであり、 社会科学は、 社会現象を 諸個人の行為に 還元し、 そこにおける 価値的態度との 関係で 理解しなくては ならない。 これが 彼の 理解社会学の 要諦になる。 これは、 社会科学者として、 価値判断をくだす ことへの、 ある一定の 価値基準に 帰依することへの 断念とも 受け取れる。 そうすることによって、 社会科学を <科学> として、 自然科学とは 相違点を 伴いながらも それと 並び立ちうる ものとして 位置づけようと したのだった。 142~143ページ

ルカーチ メモその6

・・・これに対してAは、 Bの見解のなかで 欠如している <超越論的なもの> を 導入しようとする。 人間の尺度が 我々人間自身にとって 息苦しく 狭すぎるように 感じられるとき、 人間は 空気をいれようと 自らを開くよう 余儀なくされる。 そのようにして 我々は、 <いつの日か来るべき 偉大なる 綜合 (ジンテーゼ) のための 盲目なる 奴隷の労務> に 就くのだという。 (中略) 我々は さまざまに 問いを立て、 目の前にある 完結しているかに 見える <作品> に ほころび、切断を いれる。 これを Aは <永遠に 究極の 一歩手前に いる者> の <殉教> と称する。 そうすることによって <現世の時間に つながれたものを 永遠のものと 関係づける>、 すなわち、 生の不完全性、 断片性に とどまるにも かかわらず、 いや、 むしろ そこに とどまることによってこそ、 彼方に 完全無欠なる なにものかを 呼び出そうという 衝迫が 語られている。 127ページ

ルカーチ メモその5

人間の営為 の結果として 作られたものが、 人間の 手に負えない、 人間に対して 自立的に 振る舞う ものへと 変ずる。 ディルタイと 対照するならば、 <生の客体化> と 同義の <精神の対象化> から、 いわば 近代の病理としての <疎外> が 区別されていること、 これが 見落とすことのできない 特徴となる。 これを ここでは <疎外>論 の次元と 名づけておく。 61~62ページ

ルカーチ メモその4

労働、生産等の 経済生活にかぎらず、 国家組織にしても、 また 学問にしても、 かつては 人間と人間が 顔を つき合わせていた <人格的> な 結びつきのうえに 成り立っていた。 それが 近代化の過程の なかで そのような 関係が 解体してゆき、 <客観的な合法則性> へと いっさいを 還元化する 傾向が 進行する、 これを彼は <生の客観化> と 称したのだった。 59ページ

ルカーチ メモその3

彼らにあって 共通項として 見られるのは、 かつて 存していた いわば <素朴> な 段階から <現在> が 懸隔してしまった、 ということ、 そして いまや そのような <素朴> さは そのままのかたちでは もはや 取り戻しえない、 という 認識だ。 端的に言うならば、 過去との懸隔を 惜しみながらも、 <近代化> という 前進運動の 不可避性、 不可逆性に 対する 認識に基づいて <現在> を 位置づけようという 理路とでも 形容できよう。 58ページ

ルカーチ メモその2

形式をもって はじめて、 個の固有な ものであった 体験が外化され、 そのことによって 他者と 共有可能となる、 すなわち 社会化される。 形式は ここでは 固有性から 抽象化された、 他者との 交換を 前提とした ものである。 それ故に、 形式の探求は、 自ずと 社会学的探求と ならずには いない 59ページ

ルカーチ メモその1 講談社 現代思想の冒険者たち 初見基

<芸術のための芸術> といった 言い回しに 端的に 表されているような 芸術の 自律性が 意識的に 打ち出されるように なったのは、 ようやく 十九世紀後半からの ことだ。 客観的には、 市民社会の 近代化・合理化によって <芸術> も 独立した一分野として 分化・制度化された、 ということがあろう。 また 主観的には、 そのような 近代化・合理化、 あるいは 自然科学的世界観 の 進展に対する 反動として、 <合理性> の観点からするなら 受け入れられない、 いわば <非合理> なるものを 避難、確保させる 場所が、 <芸術> という領域に託された、 ということにでも なるだろう。 ともあれ そこでは <芸術> は、 なにものかに 仕えるという 役目を放り出して いるかのように見え、 華々しい 破壊の身振りすら しばしば 伴う ことになる。 とりわけ <世紀末芸術> においては、 生や希望、 徳が 愛でられるのではなく、 死、絶望、背徳、残虐 といった 負の要因に <美> が 託されたりもする。 39~40ページ

ルカーチ

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かなり期待大だ。 実は 超重要人物なんじゃないか? 少なくとも 自分にとって。