2023年8月31日木曜日
妄想卒論その12 (再掲)
「abjectは、subjectあるいはobjectをもじった造語です。 ab-という接頭辞は、『離脱』という意味があります。 母胎の原初の混沌、 闇に由来し、 subject/object の二項対立に収まり切らなかったもの、 それを排除しないと 秩序や合理性が成り立たないので、 抑圧され、ないことに されてしまう要素を abject と言います。」 「ゲーテ『ファウスト』を深読みする」(仲正昌樹 明月堂書店 p.164)より
クリステヴァ 「現代思想の冒険者たち」シリーズ 講談社 より (再掲)
買ったはいいが
とっかかりが
掴めず
しばらく
放置していたが、
ちょっと
意識して
読み始めてみると、
かなり
面白そうな
気配がする。
なかなか
難解だが、
筋が読めてくると、
ぐいぐい
読ませられる。
・・・書いてあることが
わからなくはないが
抽象的すぎて
腑に落ちない。
・・・3日目くらいで
ようやく
何が言いたいのか
仄めいて来た。
クリステヴァが
核になってくれた
おかげで、
とりあえず
2学期の
勉強計画の
方向性が
見えてきた。
ムダに
面接授業いかなくても
有意義な
生活が
送れそうだ。
良かった。
クリステヴァは、
プロセという単語がもつ
これら第一義的な意味に
着目する。
意味生成過程とは、
意味にかかわる<法>
を
めぐる訴訟、
というニュアンスを
必然的におびることを
計算して
もちいられた表現なのだ。
法とは、
いうまでもなく、
サンボリックの秩序の
拘束性・強制性を
意味している。
サンボリックの法が
要請する
論理的秩序へと
意味生成がおこなわれる
争いと矛盾の過程、
このような
比喩的色合いを
おびることによって、
意味生成過程の矛盾し、
葛藤している
ダイナミックな性格が、
浮き彫りにされる。
この葛藤が
<対話=双数論理>
の別名に
ほかならないことは、
理解されよう。
そこで係争を演じ、
対話を交わしているのは、
意味と意味ならざる
前意味・非意味、
定立と快楽、
ル・サンボリックとル・セミオティックである。
それと同様に
意味生成過程にある
主体もまた、
意味の法をめぐる
訴訟の場にいる姿を
あらわす。 139~140頁
SFCの研究会で
プレゼンした時、
労働からの疎外だの
なんだの言ったもんだから、
集中砲火浴びて、
防戦一方の果てに、
「人間は意味だけでは
生きられない」と、
なぜか口走ってしまって、
もう完全に
オカシな人になっちゃって、
自分でも
あれは回収できないな、
と闇歴史化していたが、
こんなところで
クリステヴァが
回収してくれたよ。
あん時
攻めた
おかげで
こんな実りが得られるとは。
ENDLESS RAINが
脳内で流れてるわ。
・・・ようやくabjectまで
到達。
とりあえず
ここまでは読めた。
・・・クリステヴァすっげーな!!!
まだ
こんな大物がいたのか。
さすがに
概説書出るだけのことはあるな。
こういう本が
お手頃な価格で、
日本人の手で
日本語で出版されてるって
ことが、
この国はまだ
死んでいないって
証拠だな。
少なくとも
先人の
知的営為の遺産ではある。
https://www.youtube.com/watch?v=QhOFg_3RV5Q
ルカーチ メモその34 (再掲)
もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 そのような 近代社会の いわゆる 「物象化」論は、 マルクスの 「疎外論」や 「資本論」と 連接する 問題意識だった。 「商品」は その物自体の 「使用価値」と それが市場でもつ 「交換価値」の 二面をもつ。 現代の資本主義社会においては 交換価値のみが 突出するため、 商品を作って生きる 人間の労働も 交換価値に還元され、 ひいては 人間性そのものまで 計数化され 疎外されていく。 故に そのような資本主義的 「物象化」の 打破こそが、 近代人の 陥っている 閉塞状況の 根本的解決だと 論ずる。
妄想卒論その7 (再掲)
「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。
米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。
私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。
19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。
さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。
1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。
そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。
なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93
「エリートに対する人々の違和感の広がり、 すなわちエリートと大衆の『断絶』こそが、 ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。 ポピュリズム政党は、既成政治を既得権にまみれた一部の人々の占有物として描き、 これに『特権』と無縁の市民を対置し、 その声を代表する存在として自らを提示するからである。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
「二十世紀末以降進んできた、産業構造の転換と経済のグローバル化は、 一方では多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの発展を促し、 グローバル都市に大企業や高所得者が集中する結果をもたらした。 他方で経済のサービス化、ソフト化は、規制緩和政策とあいまって 『柔軟な労働力』としてのパートタイム労働や派遣労働などの 不安定雇用を増大させており、低成長時代における 長期失業者の出現とあわせ、 『新しい下層階級』(野田昇吾)を生み出している。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
富が集中するほど他者への信頼が下がり、「フェアネス(公正さ)指数」(日経新聞作成)が低くなる。同時にポピュリズムの場当たり政策に翻弄されやすくなる。
「国際都市ロンドンに集うグローバル・エリートの対極に位置し、 主要政党や労組から『置き去り』にされた人々と、 アメリカの東海岸や西海岸の都市部に本拠を置く 政治経済エリートや有力メディアから、 突き放された人々。 労働党や民主党といった、 労働者保護を重視するはずの政党が グローバル化やヨーロッパ統合の 推進者と化し、 既成政党への失望が広がるなかで、 既存の政治を正面から批判し、 自国優先を打ち出して EUやTPP,NAFTAなど 国際的な枠組みを否定する急進的な主張が、 強く支持されたといえる。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
人々の不満をあおるだけで解を示せないのがポピュリズム。不満のはけ口を外に求めた愚かさはナチスドイツの例を振り返っても明らかだ。
第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。(放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)
グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。
1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より
そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感覚だろうか。
「デモクラシーという品のよいパーティに出現した、 ポピュリズムという泥酔客。 パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。 ましてや手を取って、ディナーへと導こうとはしないだろう。 しかしポピュリズムの出現を通じて、 現代のデモクラシーというパーティは、 その抱える本質的な矛盾をあらわにしたとはいえないだろうか。 そして困ったような表情を浮かべつつも、 内心では泥酔客の重大な指摘に 密かにうなづいている客は、 実は多いのではないか。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答 (再掲)
質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。 フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。 「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家を孤立させ絶望においやっている現状が鋭く指摘されています。その他の時事的な文章・発言においても、ヨーロッパにおけるグローバリズムと言うべきEU経済戦略のもたらすひずみと地場産業の危機は、ウエルベックにとって一つの固定観念とさえ言えるほど、しばしば繰り返されています。 つまり、ウエルベックは「グローバリゼーション」が伝統的な経済・産業活動にもたらすネガティヴな影響にきわめて敏感であり、そこにもまた「闘争領域の拡大」(ご存じのとおり、これはそもそも、現代的な個人社会における性的機会の不平等化をさす言葉だったわけですが)の脅威を見出していると言っていいでしょう。なお、「セロトニン」で描かれる、追いつめられたフランスの伝統的農業経営者たちの反乱、蜂起が「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言・予告するものだと評判になったことを、付記しておきます。 以上、ご質問に感謝しつつ、ご参考までお答え申し上げます。
ストライキ
池袋西武が
ストやってるって
話だが、
セブンイレブンの
傘下に
百貨店が
いるっていう
構図。
時代が
変わったなー。
百貨店の傘下に
コンビニではなく、
コンビニの傘下に
百貨店がいる。
時代の変化を感じる。
しかも、
セブンイレブンが
そごう・西武を
売却しちゃうってんだから。
確かに、おれも
セブンイレブン
日常的に使うけど、
びっくりするほど
効率のいい
経営してることは
肌身で感じるよね。
財務諸表読めないけど。
高崎はまだ
高島屋あるけど、
新潟みたいな
大きな
地方都市でも、
三越だったか
高島屋だったか
忘れたが、
閉店していたのを、
タクシーの運転手が
嘆いてた。
寄らば大樹の陰の時代は
終わったな。
とにかく、
生産性を
上げる
努力をし続けないところは
淘汰されちゃうよ。
地方の衰退は
ヤバい。
塾講師
若いころから
塾講師という
職業に
憧れてた
記憶があるんだが、
いざ
やってみると、
全然
報われないね。
子供ってのは
いつの時代も
そうなのかも知れないが、
最近は
少子化ってことで、
とにかく
社会から
大事にされて
育ってるせいか、
思い上がった
どーしょもないのが
ザラにいる。
まさに
小皇帝。
どうせ
知らないんだろうが、
お前ら
上の世代が
拵えた
莫大な借金
生まれる前から
背負わされてんのにな。
ざまあみろ。
人口動態考えろ。
少子高齢化の
悪弊は
もう
既に
顕在化している。
通貨安はヤバい (再掲)
なぜ、 本来 政治都市だった 江戸が、 商都 大阪に 経済面でも 優ったか、 というと、 江戸は 金遣い経済 だったのに 対し、 大阪は 銀遣い経済で、 銀の価格が 金の価格に 対して 相対的に 下落し続けたのが 原因らしい。 日本も 金利がこのまま 低いままだと、 円が 安くなり続け、 経済全体が 衰退するなんて ことも あるかも知れませんね。
YOUやっちゃいなよ
高校生のとき、
人生に
絶望しかけていて、
家に帰るのが
いやで、
電車のなかで
隣に
座っていた
中国人に
声かけられて、
そのまま
ついてっちゃったら、
危うく
犯されるところだった。
そのときは
世の中に
そういう
性的嗜好の人がいる
ということ
自体
知らなかった。
20年以上前だからね。
インターネットなんて
言葉すらなかった。
何言っても
帰してくれないんだが、
ポケベルで
母親から
「お父さんが
心配している。」
と
メッセージが来たら、
その
中国人が
オトウサン?!と
仰天して、
すぐに
帰してくれた。
中国人の
家族意識ってのは
日本人とは違うね。
2023年8月30日水曜日
為替相場 増補
円安が進んでますね。
植田日銀が、YCCからの脱却を示唆するとかでない限り、
日銀は利上げする気がないと思われたら、
円安が止まらなくなる可能性がある。
それは、見方を変えれば、
N個の政策課題に対して、N-1個の政策手段しか持っていないんだから、
もぐら叩きのように
どこかで必ず弱点が出てくる。
実務のことはよくわからないが、
YCCから脱却するには、市場を欺き続ける必要があるので、
オーストラリア中銀のように、経済が大変な混乱を来すと、
東短リサーチの加藤出さんなどは主張している。
これも、大規模金融緩和の失敗を示している。
(以下 日経新聞 2023/5/19 経済教室より 《加藤出氏寄稿》 )
間もなく出口政策が
始まると
市場が予想したら、
ターゲットを変更するまで
中銀は
国債を無制限に買い支えなければ
ならず、
自身の
バランスシートを制御できなくなる。
(以下 Chat-GPTの回答)
円安に関するお話ですね。円安が進行する場合、植田日銀がYCC(イールドカーブコントロール)からの脱却を示唆しない限り、日銀は利上げする意向がないと思われます。その結果、円安が止まらなくなる可能性があります。この状況は、政策課題がN個ある場合に、N-1個しか政策手段を持っていないため、どこかで弱点が現れるということを意味しています。
YCCから脱却するには、市場を欺き続ける必要があります。加藤出氏など一部の専門家は、オーストラリア中銀のように経済が大きな混乱を引き起こす可能性があると主張しています。これは、大規模な金融緩和策の失敗を指摘しているとも言えます。
また、出口政策が市場予想より早く始まると、中銀は国債を無制限に買い支える必要があり、自身のバランスシートを制御できなくなる可能性があります。
(以下 google bard より回答)
はい、円安が進んでいますね。
植田日銀総裁は、YCC(イールドカーブコントロール)の堅持を明言しており、利上げを実施する意向はないとみられています。そのため、円安が止まらない可能性があるという指摘は、正しいと言えるでしょう。
YCCとは、国債の利回りを一定に抑えることで、金融緩和を継続する政策です。しかし、この政策は、金利差拡大による円安を招くというデメリットがあります。
YCCから脱却するには、市場を欺き続ける必要があると指摘されています。しかし、これは非常に困難な作業であり、経済に混乱を招く可能性もあります。
また、出口政策が市場予想より早く始まると、中銀は国債を無制限に買い支える必要があり、自身のバランスシートを制御できなくなる可能性があります。
円安が止まらない場合、日本経済にどのような影響が及ぶのでしょうか。
まず、輸入物価の上昇によるインフレが懸念されます。輸入原材料やエネルギー価格の上昇は、企業のコスト増加につながり、製品やサービスの価格上昇につながります。また、家計の生活費も増加し、実質的な所得が減少する可能性があります。
さらに、円安は輸出企業の収益を押し上げますが、輸入企業の収益は圧迫されます。そのため、輸出と輸入のバランスが崩れ、日本経済の成長率が鈍化する可能性もあります。
円安は、日本経済にとって大きなリスクであると言えるでしょう。
夢分析
センター数学で
0点
取る夢みた。
それが、
試験監督が
小学校時代の
狂った
教師で、
ギリギリ
筆記用具は
見つかったが、
受験票は
あるんだかないんだか。
試験始まっても
なぜか
着席できず、
問題を見ても
わからず、
最後の最後に
狂った
試験監督が
解答教えてくれて、
マークシートの封を
開けようと
したところで
時間切れ。
試験監督が
小学校時代に
イジメていた
同級生を
大声で
怒鳴り散らし始めた
ところで
目が覚めた。
疲れた。
おれ
こんなに
しょっちゅう
変な
夢みてたら、
長生きできないな。
絶対。
2023年8月29日火曜日
クリステヴァ
買ったはいいが
とっかかりが
掴めず
しばらく
放置していたが、
ちょっと
意識して
読み始めてみると、
かなり
面白そうな
気配がする。
なかなか
難解だが、
筋が読めてくると、
ぐいぐい
読ませられる。
・・・書いてあることが
わからなくはないが
抽象的すぎて
腑に落ちない。
・・・3日目くらいで
ようやく
何が言いたいのか
仄めいて来た。
クリステヴァが
核になってくれた
おかげで、
とりあえず
2学期の
勉強計画の
方向性が
見えてきた。
ムダに
面接授業いかなくても
有意義な
生活が
送れそうだ。
良かった。
クリステヴァは、
プロセという単語がもつ
これら第一義的な意味に
着目する。
意味生成過程とは、
意味にかかわる<法>
を
めぐる訴訟、
というニュアンスを
必然的におびることを
計算して
もちいられた表現なのだ。
法とは、
いうまでもなく、
サンボリックの秩序の
拘束性・強制性を
意味している。
サンボリックの法が
要請する
論理的秩序へと
意味生成がおこなわれる
争いと矛盾の過程、
このような
比喩的色合いを
おびることによって、
意味生成過程の矛盾し、
葛藤している
ダイナミックな性格が、
浮き彫りにされる。
この葛藤が
<対話=双数論理>
の別名に
ほかならないことは、
理解されよう。
そこで係争を演じ、
対話を交わしているのは、
意味と意味ならざる
前意味・非意味、
定立と快楽、
ル・サンボリックとル・セミオティックである。
それと同様に
意味生成過程にある
主体もまた、
意味の法をめぐる
訴訟の場にいる姿を
あらわす。 139~140頁
SFCの研究会で
プレゼンした時、
労働からの疎外だの
なんだの言ったもんだから、
集中砲火浴びて、
防戦一方の果てに、
「人間は意味だけでは
生きられない」と、
なぜか口走ってしまって、
もう完全に
オカシな人になっちゃって、
自分でも
あれは回収できないな、
と闇歴史化していたが、
こんなところで
クリステヴァが
回収してくれたよ。
あん時
攻めた
おかげで
こんな実りが得られるとは。
ENDLESS RAINが
脳内で流れてるわ。
ふと思った
ある先生は、
社会保障費は
老人の
飲み食いに
消えるだけで
何も
残さない、
と
言っていたが、
社会保障
関連で、
けっこう
雇用も
生み出してるよね。
リハビリテーションとか
若い人
多いし。
あながち
ムダばかり
とは
言えないんじゃないか?
2023年8月28日月曜日
失敗は人生の糧
若いうちの
失敗は
大事だよね。
韓国語でも、
「若いうちの
苦労は
買ってでもしろ」
という
ことわざ
が
ありますし。
失敗を知らないと、
自分はもっと
出来る、が
暴走して、
自分自身も周囲も、
自分に対する
期待値が
どんどん
上昇していって、
苦しくなるし、
酷い
失敗をすれば、
世間の人が
当たり前に
日々
暮らしてることが
実は
どんなに
凄いことかってのも、
身にしみて
感じる。
俺も、
病院にいるとき、
少ししか
開かない窓に
必死に
頭つっこんで、
空気を吸いながら、
ああ、
病院の外で
ふつうに
暮らしてるって、
実は
すげえんだな、と
心底
思った。
そんな
当たり前のことが
当たり前でない、
ということが
わかると、
他人を羨む
気持ちから
解放される。
決して
自分から
負けを認める
とかではないけど、
無意味に
他人を
やっかむ
気持ちから
解放される。
かなり贅沢
メンタルが
ウツ気味だから、
テコ入れに
放送大学の
面接授業、
なるべく
早い
時期に
予定変更して
前倒し
した。
11月まで
何もないってのは
さすがに
キツイ。
・・・ホッ、
テコ入れが効いて
だいぶ
楽になったぜ。
メンタルクリニックにも
行ってきたしな。
母親も
(俺が買った)
ボケ防止の
ドリル
ちゃんとやってくれてるし。
いぜん問題なし!
急に
汗が吹き出てきた。
・・・我ながら
びっくりした。
さすがに勉強は
もういいだろ、と
思ったけど、
まだ
飽き足りないらしい。
どんだけー
勉強してる間は
夢見てるのと
同じようなもんだから、
ハッピーだけどね。
勉強は
裏切らない。
・・・ここ数日の
メンタルの不調は、
勉強意欲を
無意識のうちに
自分自身で
抑え込んでいたのが
原因だったんだな。
アリストテレスによれば、
欲望は
多すぎても
少なすぎても
ダメらしい。
重要なことは、
欲望を
円にたとえて、
円の中心を
知っていることだとか。
円の中心を知っていれば、
そこからの
距離がわかる。
そうすれば、
自分の欲が
どれくらい
ハミ出しているかが
わかる。
自分の
勉強したい欲は、
自分が思っていたより
お盛んだ。
つっても
あんまり
面接授業
を
科目登録しても、
抽選で落ちて
ある程度のところに
落ち着くんだけどね。
2023年8月27日日曜日
天の配剤?
自分がもっと
瞬間湯沸かし器とまで
いかなくても、
すぐ
怒りを
吐き出すタチの
人間だったら、
精神病になんか
ならなかった
かもね。
でも、そうしたら
小林家は
崩壊してたよ。
まあ、結局は
環境次第なのかも知れないけど、
SFCは
酷かった。
最近の大学生なんて
どこも
大差ないんだろうが。
あー、でもなー
熊谷の塾で
ケンカ売ってきた
幼稚園児みたいに、
もう
若い
日本人には
モラルもへったくれも
ないのかもね。
ふと思い出したんだが、
子供の頃
「ぼくらの七日間戦争」っていう
映画を
録画で見て、
少女時代の
宮沢りえが
出演してたんだけど、
ちょっとだけ
出てきたから
たぶん
ほとんどの人が
覚えてないだろうが、
住所不定・無職と
おぼしき
小汚い
オジサンが
ボーイズ・ビー・アンビシャス!
とか
言うんだけど、
その当時は
そういう
社会から爪弾きにされた
人たちにも、
居場所があった、というか、
存在しないものとして
無視されては
いなかった。
現在の日本社会は、
そういう
人たちは、
居てはいけない存在、
居ても無視される存在
なんだろう。
高崎だって、
駅に
居着いている
ホームレスがいるが、
(俺も含め)
みんな無視している。
「居ないこと」にされている。
行政が
処分してくれることを
皆が密かに期待している。
自分は
言うまでもなく
精神障害者で、
色々と
恩恵に浴しているが、
社会保障の
網の目に
引っかかってるって
だけで、
前者とは
天と地ほどの
格差の恩恵を、
行政から
得ている。
・・・ってまあ
そういう話を
したいわけじゃなくて、
自分がもっと
感情を
すぐに
爆発させるタチの
人間だったら、
少なくとも
精神障害者には
ならなかったかもしれないが、
なったらなったで
楽チンだし、
これはこれで、
ソーシャル・スティグマ
というより、
特権なんじゃないか、と
思えてくる。
そう考えれば、
我慢に我慢を重ねた
日々に対する
なぐさめ、と
言ってもいいだろう。
だから、無理に
障害者枠で
公務員になぞ
ならなくてもいいだろう。
どっちにせよ
体力的に無理だし。
現状は
これはこれで
一種の
必然なのだ。
2023年8月26日土曜日
おしゃべり
母親の
介護保険と
俺の
傷害保険で
ヘルパーさんが
毎日
来てくれるんだけど、
もう利用し始めてから
1年以上
経って、
だいぶ
打ち解けてきて、
おしゃべり
なんか
したりするんだけど、
やっぱ
こういう仕事に
関わる人っていうのは、
何かしら
自分自身
他人には言えないものを
持ってるね。
おしゃべり
してると
そんな話を
ポツリポツリと
話してくれるんだけど、
まあ
どこの家も
何かしらあるね。
何人だか
忘れたけど
海外の小説家の
ことばで、
幸福の種類は
少ないが、
不幸の種類は
多種多様、
みたいなこと
書いてる人がいたな。
まあさ、
俺も
このトシまで
生きてきて、
自殺したわけでもないし、
病気で
ひきこもってる
わけでもないし、
少なくとも
母親の
役には立ってるんだから、
それで
いいじゃん!
働けなくても。
どうせ
日本の経済に
未来はないんだから。
賢いやつは
みんな
海外に逃げちゃってるよ。
俺は
がんばった。
あれよね、
日本の社会って、
特に
男は、
働いてるかどうか、
ってのが
基準になるよね。
当たり前といえば
当たり前だけど、
結婚して
何十年も
一緒になることを
考えたら、
人間働いてるかどうか
だけじゃ
わからない
部分があるよね。
そういう場合
たいてい
女性が
我慢することに
なるんだけどさ。
まあ
千差万別よ。
為替相場 (再掲)
円安が進んでますね。
植田日銀が、YCCからの脱却を示唆するとかでない限り、
日銀は利上げする気がないと思われたら、
円安が止まらなくなる可能性がある。
それは、見方を変えれば、
N個の政策課題に対して、N-1個の政策手段しか持っていないんだから、
もぐら叩きのように
どこかで必ず弱点が出てくる。
実務のことはよくわからないが、
YCCから脱却するには、市場を欺き続ける必要があるので、
オーストラリア中銀のように、経済が大変な混乱を来すと、
東短リサーチの加藤出さんなどは主張している。
これも、大規模金融緩和の失敗を示している。
(以下 日経新聞 2023/5/19 経済教室より 《加藤出氏寄稿》 )
間もなく出口政策が
始まると
市場が予想したら、
ターゲットを変更するまで
中銀は
国債を無制限に買い支えなければ
ならず、
自身の
バランスシートを制御できなくなる。
(以下 Chat-GPTの回答)
円安に関するお話ですね。円安が進行する場合、植田日銀がYCC(イールドカーブコントロール)からの脱却を示唆しない限り、日銀は利上げする意向がないと思われます。その結果、円安が止まらなくなる可能性があります。この状況は、政策課題がN個ある場合に、N-1個しか政策手段を持っていないため、どこかで弱点が現れるということを意味しています。
YCCから脱却するには、市場を欺き続ける必要があります。加藤出氏など一部の専門家は、オーストラリア中銀のように経済が大きな混乱を引き起こす可能性があると主張しています。これは、大規模な金融緩和策の失敗を指摘しているとも言えます。
また、出口政策が市場予想より早く始まると、中銀は国債を無制限に買い支える必要があり、自身のバランスシートを制御できなくなる可能性があります。
「金融と社会」質問と回答その1 改訂 (再掲)
問題提起:日本には巨額の対外純資産があるからかなり巨額の政府債務があっても大丈夫、という話は、額面通り受け取るべきではないのではないか?やはり財政収支と経常収支の「双子の赤字」は避けるべきではないのか?つまり、フローで見る必要があるのではないか?ストックで見るならば、増税を前提とするのが筋だろう。
内閣府のペーパー(https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html) によると、フローで見れば、経常収支の黒字が、政府部門の赤字をファイナンスしていることになりますが、経常収支の黒字が、対外純資産としてストック面で蓄積されていると考えられます。 この場合、もちろん、経常収支が赤字に基調的に転落すれば、フローで見た場合、政府部門の赤字をファイナンスするために、海外資本を呼び込む必要性に迫られ、それは今よりも高金利であることが要請されるので危険だ、という意見もあります。 ここで、フローで見れば確かにそうですが、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たすことはないのでしょうか? 仮に、そのような事態になった場合、具体的にどのようなスキームで、対外純資産を政府部門の赤字をファイナンスの用に供するのでしょうか? また、経常収支黒字の源泉である、企業部門の第一次所得収支についてですが、最近は、企業も資金を更なる海外投資、M&Aに投資するべく、資金を円ではなく、ドルで保有しているとされますが、それは、第一次所得収支に、円換算して勘定されているのでしょうか? (https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX)
ご質問ありがとうございます。まず印刷教材のこの部分はすべてフローについての議論です。内閣府のペーパーにもあるように、マクロ経済学などで登場するISバランス (S-I) + (T-G) = NX 民間貯蓄超過 政府黒字 国際収支黒字(海外赤字) を念頭に、民間貯蓄超過の大幅プラスが、政府赤字のマイナスを相殺してもなお左辺がプラス、したがって右辺もプラス(海外マイナス)、という状態です。 近年コロナで政府赤字が大幅に増加しましたが、家計貯蓄も大幅増加して、2020、21年とも左辺はプラスを維持しています。 ご質問のなかばにあるストックの話は、たとえば銀行が保有していた米国債を売った資金で、新規に発行された日本国債を購入することをイメージされているのでしょうか。それが得だと銀行が判断すればそうするでしょうが、強制することはできず自動的にそうなるわけでもありません。 最後の第一次所得収支については、書かれているとおり、たとえば利子収入はドルで得られドルのまま持たれたり再投資されたりしますが、円換算して所得収支に繰り入れられています。
(以下 Google Bard より回答)
はい、日本には巨額の対外純資産があります。これは、日本企業が海外で稼いだ利益を日本に持ち帰らず、海外で再投資しているためです。このため、日本は経常収支黒字を続けています。しかし、この経常収支黒字は、政府の財政赤字をファイナンスしているとも言えます。つまり、日本政府は、財政赤字を補てんするために、海外から資金を借り入れているのです。
この状況が続けば、日本は債務超過に陥る恐れがあります。そのため、財政収支と経常収支の「双子の赤字」を避けるために、増税や歳出削減などの財政健全化策を講じる必要があります。
一方、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たす可能性があります。例えば、政府が海外から資金を借り入れる必要が生じた場合、対外純資産を担保に借り入れを行うことができます。また、政府が国債を発行する際にも、対外純資産を担保にすることで、低金利で発行することができます。
ただし、対外純資産はあくまでストックであり、フローがなければ枯渇します。そのため、対外純資産を維持するためには、経常収支黒字を継続する必要があります。
まとめると、日本には巨額の対外純資産がありますが、この資産を維持するためには、財政健全化策を講じるとともに、経常収支黒字を継続する必要があります。
2023年8月25日金曜日
2023年8月23日水曜日
姉
佐野日大から
日大
いけない
時点で
ちょっと
どうかと
思うが、
進学以前に
学校
サボりすぎて
卒業も
あやうくて、
ギリギリ
卒業できた。
(とはいえ
俺も
武蔵で
似たような
シチュエーションだったから、
あまり
とやかく
言えないが。)
で、
戸板女子短大っていう
松本伊代とか
菊池桃子とか
芸能人ご用達の
短大に
2次で
引っかかった。
東京タワーの
近くらしく、
都会生活を
満喫したようだった。
バカ丸出し (再掲)
姉もなー
私は世界広い、
お前は
世界狭い、て
マウント
かましてくるくせに、
年齢相応の常識すら
ねーからな。
高いカネ出して
お見合いクラブ
入ったのに、
プロフィール欄の
尊敬する
歴史上の人物
に
明石家さんま
て
書いちゃうんだからな。
そら、
どんなに顔面偏差値
高くても、
まともな男は
寄って来ないよ。
私はバカです
って
言ってるようなもんじゃん。
お前のいう
世界広いって
なんなんだよ?
もうアホすぎて
付き合いきれねえんだよ。
父親が
生きてた時に、
株が終わって
生活費を近くの
コンビニで
おろすのを頼まれた時、
コンビニのATMで
小林家
一ヶ月分の
カネ引き出してんのに、
3歳の息子が
どこ行くか
わからないから
帰るのが
何時間後になるか
わからない、とか
ふざけた
こと言ってて、
ほんと
コイツの頭は
どうなってんだ?!
と
思ったわ。
愕然 (再掲)
2ヶ月入れられてた
病院から
ようやく
退院したとき、
記帳をする
姉のペンの握り方を見て、
衝撃を受けた。
中指と薬指の間から
ボールペンが
突き出ている。
20年近く前の
ことだから
正確ではないかもしれないが、
よくその握り方で
字が書けるな、と
逆に関心してしまうような
握り方だった。
と、同時に、
俺は
この先の人生
誰を頼りにして
生きていけばいいんだ?
と
マジで
心が折れそうになった。
姉からのマウントかまし (再掲)
心配しないでください。??さんは、これを機に外の世界に一歩踏み出してください。外の世界は広くて楽しいです。知らないで終わるのは勿体ないです。私は今まで外の世界を沢山見てきました。今度は??さんの番です。思いっきり人生を楽しんで下さいね。
https://www.google.com/search?q=blackened&rlz=1CAJFMC_enJP1057&oq=blacken&aqs=chrome.1.69i57j0i512l6j0i4i512j0i512l2.274664j0j15&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&vld=cid:f02f044d,vid:nUZVXtDVrc0
姉
カッコつけてるけど、
やっぱ
アホなんだよなー。
短大生のときに、
先生から
「親の顔が
見てみたい」
って
言われて、
親は
まともです!
って
言い返したり、
聞いた話では、
友人と
海外旅行いくのに、
空港で
英語で
危険物は持ってないか
聞かれて、
意味わかってんのに
満面の笑みで
イエース!!!
って
返答しちゃって
友達が
すっ飛んできたとか。
2023年8月22日火曜日
妄想卒論その10 the day that never comes (再掲)
言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。 やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章) なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。 しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。 三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。 こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。 静岡大学 森本隆子先生より
https://www.youtube.com/watch?v=RD83oy7ksUE
「隷従への道」 フリードリヒ・ハイエク 日経BP p.190~191 (再掲)
経済活動を
完全に
中央主導にする
という
発想には、
やはり
たじろぐ人が多い。
単に
それが
途方もなく
困難だから
ではなく、
たった一つの
中央当局なるものが
万事を
指示する
ことに恐怖を
覚えるからだ。
それでも
なお
私たちが
そこへ向かって
急速に進んでいるのは、
完全な個人の競争
と
中央管理との間
に
「中庸」
が
あるだろうと、
大半の人が
いまだに
信じている
せいである。
めざす目標は
自由競争による
極端な分権化でもなければ、
単一の計画に基づく
完全な中央集権化でもなく、
両者の
いいとこどりをした
体制だと
考えるのは、
合理的な
人々にとって
実に魅力的であり、
さも実現可能にも見える。
だが
このような問題に関しては、
常識は当てにならない。
ルカーチ メモその34 (再掲)
もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 そのような 近代社会の いわゆる 「物象化」論は、 マルクスの 「疎外論」や 「資本論」と 連接する 問題意識だった。 「商品」は その物自体の 「使用価値」と それが市場でもつ 「交換価値」の 二面をもつ。 現代の資本主義社会においては 交換価値のみが 突出するため、 商品を作って生きる 人間の労働も 交換価値に還元され、 ひいては 人間性そのものまで 計数化され 疎外されていく。 故に そのような資本主義的 「物象化」の 打破こそが、 近代人の 陥っている 閉塞状況の 根本的解決だと 論ずる。
妄想卒論その7 (再掲)
「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。
米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。
私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。
19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。
さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。
1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。
そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。
なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93
「エリートに対する人々の違和感の広がり、 すなわちエリートと大衆の『断絶』こそが、 ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。 ポピュリズム政党は、既成政治を既得権にまみれた一部の人々の占有物として描き、 これに『特権』と無縁の市民を対置し、 その声を代表する存在として自らを提示するからである。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
「二十世紀末以降進んできた、産業構造の転換と経済のグローバル化は、 一方では多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの発展を促し、 グローバル都市に大企業や高所得者が集中する結果をもたらした。 他方で経済のサービス化、ソフト化は、規制緩和政策とあいまって 『柔軟な労働力』としてのパートタイム労働や派遣労働などの 不安定雇用を増大させており、低成長時代における 長期失業者の出現とあわせ、 『新しい下層階級』(野田昇吾)を生み出している。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
富が集中するほど他者への信頼が下がり、「フェアネス(公正さ)指数」(日経新聞作成)が低くなる。同時にポピュリズムの場当たり政策に翻弄されやすくなる。
「国際都市ロンドンに集うグローバル・エリートの対極に位置し、 主要政党や労組から『置き去り』にされた人々と、 アメリカの東海岸や西海岸の都市部に本拠を置く 政治経済エリートや有力メディアから、 突き放された人々。 労働党や民主党といった、 労働者保護を重視するはずの政党が グローバル化やヨーロッパ統合の 推進者と化し、 既成政党への失望が広がるなかで、 既存の政治を正面から批判し、 自国優先を打ち出して EUやTPP,NAFTAなど 国際的な枠組みを否定する急進的な主張が、 強く支持されたといえる。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
人々の不満をあおるだけで解を示せないのがポピュリズム。不満のはけ口を外に求めた愚かさはナチスドイツの例を振り返っても明らかだ。
第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。(放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)
グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。
1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より
そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感覚だろうか。
「デモクラシーという品のよいパーティに出現した、 ポピュリズムという泥酔客。 パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。 ましてや手を取って、ディナーへと導こうとはしないだろう。 しかしポピュリズムの出現を通じて、 現代のデモクラシーというパーティは、 その抱える本質的な矛盾をあらわにしたとはいえないだろうか。 そして困ったような表情を浮かべつつも、 内心では泥酔客の重大な指摘に 密かにうなづいている客は、 実は多いのではないか。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
政治的無知
ツイッターで
#岸田やめろ
とか
呟いてる
連中は、
そう
発信できるだけ
日本は
マシだ、と
考えるべきだ。
中国人が
中国で
#習近平やめろ
と
ツイッターで
呟けると
思うか?
社会保障に
おんぶに抱っこの
俺が
言えた義理じゃないが、
岸田さんは
よくやっている。
ひたすら
問題の先送りを
続けてきた
歴代政権より
マシ。
取り組もうという
意志が
明確にある。
確かに
舞台役者ではないが。
政治家には、
現実を見させるよりも、
イリュージョンを
見せる
才能が
必要なのかも知れない。
そういう
意味では、
安倍は
立派な
舞台役者だった。
妄想卒論その6 (再掲)
だいたい
やりたいこと
やり尽くして
ふと
自分の人生を
振り返るとき
どうしても
合理的な筋書き
というものを
作りたくなるのは
自然のサガなんだけど、
あんまり合理的、
言い換えれば
理性的な筋書きを
仕立てなくても
いいんじゃないか。
どこかに不合理な部分を
残しておいたほうが、
かえって健全なんじゃないか。
人間も社会も。
井上俊が
「詐欺が成り立ち得ないところでは、社会もまた成り立ち得ない。」(遊びの社会学)
と言ったように、
社会も、
どこかに余白を
残しておいたほうが、
かえって
健全なんじゃないか。
赤塚不二夫のレレレのおじさんのように、
おそらく知的障害を
持っているような
おじさんが
朝っぱらから
ホウキで道を
掃除していても、
いいのではないか。
日本の山岳信仰で
男根に似た
巨石を崇める
という風習は
よく見られるが、
あれはただの巨石だ、
と、
自然界をアレゴリーで
捉える考え方を排除したのが
近代という時代の精神だった。
それはどことなく
地中海の怪物たちを
狡知で倒していく
オデュッセウスに
繋がるようにも
見られる。
それは紛れもなく
理性の暴力性
という
アドルノが
主題とした
テーマである。
理性が
近代的個人の立脚点
でありながらも、
その限界に焦点を当てている。
ハイデガーは、
個人が共同現存在のまどろみから覚醒して、
ドイツ民族としての使命に目覚めなければならない、
と説いたわけであるが、
それが、
かつての
神聖ローマ帝国という
誇張を含んだ
憧憬の土地を回復する、
という
ドイツ民族の「使命」を
掲げる
ナチスのプロパガンダと
共鳴してしまった。
アドルノは、
そもそもの
共同現存在からの
個人としての覚醒が、
集団的暴走と
親和性があったことを
念頭に置きながらも、
集団に埋没しない
理性的な個人としての
人間を提示した。
理性の暴力性に
警鐘を鳴らしながらも、
主体性の原史に
既に
刻印されている
理性から逃れる道は、
再び
集団的暴走への道
であると考えた。
計算的理性が
近代的個人を
産み出した源泉である
としても、
理性から逃走し、
始源のまどろみへと
回帰することは
なお危険であると説いたのである。
もっとも、
アドルノが
主観と客観との
絶対的な分離に敵対的であり、
ことに
その分離が
主観による客観の
ひそかな支配を
秘匿しているような場合には
いっそうそれに
敵意を示したとは言っても、
それに替える
彼の代案は、
これら二つの概念の完全な統一だとか、
自然のなかでの
原初のまどろみへの回帰
だとかを
もとめるものではなかった。
(「アドルノ」 岩波現代文庫 93ページ)
理性とはもともと
イデオロギー的なものなのだ、
とアドルノは主張する。
「社会全体が体系化され、
諸個人が
事実上
その関数に貶めれられるように
なればなるほど、
それだけ人間そのものが
精神のおかげで
創造的なものの属性
である
絶対的支配
なるものを
ともなった原理として
高められることに、
慰めを
もとめるようになるのである。」
言いかえれば、
観念論者たちのメタ主観は、
マルクス主義的ヒューマニズムの説く
来たるべき
集合的主観なるものの
先取りとして
よりもむしろ、
管理された世界のもつ
全体化する力
の原像と
解されるべきなのである。
(「アドルノ」岩波現代文庫 98ページ)
ここで、
管理された世界のもつ全体化する力
というキーワード
を導きとして、
以下の丸山眞男の論考を
考えてみたい。
丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。
しかしながら天皇制が
近代日本の思想的「機軸」として
負った役割は
単にいわゆる
國體観念の教化と浸透という面に
尽くされるのではない。
それは政治構造としても、
また経済・交通・教育・文化を
包含する社会体制としても、
機構的側面を
欠くことはできない。
そうして近代化が
著しく目立つのは
当然にこの側面である。
(・・・)
むしろ問題は
どこまでも制度における
精神、制度をつくる精神が、
制度の
具体的な
作用のし方と
どのように
内面的に結びつき、
それが
制度自体と
制度にたいする
人々の考え方を
どのように規定しているか、
という、
いわば
日本国家の
認識論的構造にある。
これに関し、
仲正昌樹は
「日本の思想講義」(作品社)において、
つぎのように述べている。
「國體」が
融通無碍だという
言い方をすると、
観念的な
もののように聞こえるが、
そうではなく、
その観念に対応するように、
「経済・交通・教育・文化」の
各領域における
「制度」も
徐々に形成されていった。
「國體」観念を
はっきり教義化しないので、
制度との対応関係も
最初のうちは
はっきりと
分かりにくかったけど、
国体明徴運動から
国家総動員体制に向かう時期に
はっきりしてきて、
目に見える効果を
あげるようになった。
ということだ。
後期のフーコー(1926-84)に、
「統治性」という概念がある。
統治のための機構や制度が、
人々に
具体的行動を取るよう
指示したり、
禁止したりする
だけでなく、
そうした操作を通して、
人々の振舞い方、
考え方を規定し、
それを
当たり前のことに
していく
作用を意味する。
人々が
制度によって規定された
振舞い方を身に付けると、
今度は
それが新たな制度形成へと
フィードバックしていくわけである。
(P.111~112ページより引用)
社会全体が体系化され、
諸個人が事実上
その関数に貶めれられるように
なればなるほど、
それだけ
人間そのものが
精神のおかげで
創造的なものの属性である
絶対的支配なるものを
ともなった原理として
高められることに、
慰めを
もとめるようになるのである。
(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ
人間そのものが
精神のおかげで
創造的なものの属性である
絶対的支配なるものを
ともなった原理として
高められることに、
慰めをもとめるようになるのである」
という言葉が
何を表しているか、
自分の考えでは、
「社会全体が体系化され、
諸個人が事実上
その関数に
貶めれられるようになればなるほど」、
(疑似)宗教のように、
この世の全体を
精神的な色彩で説明し、
現実生活では
一個の歯車でしかない自分が、
それとは独立した
精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、
そのヒエラルキーの階層を
登っていくことに、
救いを
感じるようになる、
という感じだろうか。
まるでオウム真理教のようですね。
現代の市場型間接金融においては、
情報に基づいた信用こそが、
ある意味ではその人そのものである、
というのは、まさにその通りである、と思われる。
情報に基づいて、個人をランク付けし、
世界中の貸し手と借り手を結びつけた、
金融の実現されたユートピアだったはずが、
崩壊する時には一気に崩壊するシステミック・リスクも抱えている。
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より)
私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、
直観や好き嫌いによって信・不信を決める。
だが、信用とは本来そうしたものではないのか。
客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。
そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。
信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。
それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、
ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。
(略)
しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、
信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。
とくに、
資本主義が発達して、
血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、
広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、
リスクはますます大きくなるので、
リスク軽減の必要性が高まる。
そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、
他方では信用の〈合理化〉が進む。
(略)
リスク軽減のもうひとつの方向は、
信用の〈合理化〉としてあらわれる。
信用の合理化とは、
直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、
より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。
こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。
つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。
信用は、
個人の人格にかかわるものというより、
その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、
そのかぎりにおいて合理化され客観化される。
(略)
しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、
〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、
とくに経済生活の領域で、
信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。
その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、
さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。
と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、
まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93
ところで、
現実の問題として、
自立した個人から成る世界がすぐに出現するわけではない。
他者は、他者を認知する者にとって異質な存在である。
これは他者を「差異」であるということが同定された限りにおいてである。
差異は同一性の下でしか正当性を持ちえない。
同一性に吸収されない差異=他者は、排除される。
それを可能にしていたのが、祖先の存在であり、また神であった。
たとえ、異なる地位にあって、
通常は口を聞くことも、顔を見ることさえ許されなくとも、
共通の神を持っているという認識の下に、
異なる地位にある者同士が共同体を維持する。
地位を与えるのは神であり、
それに対してほとんどの者は疑問さえ抱かなかったのである。(p.177~178)
(中略)
カースト制は、総体として、閉鎖的で完結的な世界を築く。
そこでは、ウェーバーが「デミウルギー」と呼んだ、
手工業者が村に定住し、無報酬で奉仕する代わりに、
土地や収穫の分け前を受け取る制度が敷かれている。
このような制度では、商品経済が発達する可能性はほとんどない。
したがって、他者としての商人が、
共同体内によそものとして現れる可能性は低い。
これに対して、市場論理が浸透した世界では、
他者が他者として認知される。
それは、
複数の世界に属することを可能にする
包含の論理によって律せられている世界である。
このような世界が可能であるためには、
共同体の外部に位置する他者の明確なイメージが築かれる。
その推進者となるのが、商人であり、貨幣である。
それでは、なぜ貨幣が推進者となるのか。
それは、貨幣を通じて、
共同体の外部に存在するモノを手に入れ、
みずから生産するモノを売却することが可能になるからである。
共同体の外部が忌避すべき闇の空間でしかない状態から、
共同体の内と外に明確な境界が引かれ、
ある特定の共同体に属しながらも、
その外部にも同時に存在することを可能にするのが、
貨幣なのである。
他者が、貨幣と交換可能なモノ、つまり商品を売買したいという希望を掲げていれば、
それによって他者のイメージは固定され、
他者の不透明性を払拭できる。
こうして、貨幣は、共同体外部への関心を誘発していく。
そして、カースト制のような閉鎖的な社会とは大きく異なり、
ふたつの異なる世界において、
同一性を築こうとするのである。
もちろん、誰もが商人になるこのような世界がすぐに出現するわけではない。
そのためには、まず貨幣が複数の共同体のあいだで認知されなければならない。
そして、マルクスが注視したように、多くの者が賃金労働者として「労働力」を売るような状況が必要である。
そして、そうした状況が実際に現れてくるのが、マルクス自身が観察した通り、
一九世紀のイギリスなのである。
単独の世界に帰属することも、複数の世界に関わることも認める世界は、
労働が労働力として商品になり、
賃労働が普及する資本主義の世界においてである。(p.180~181) 「零度の社会」荻野昌弘著 世界思想社
ある共同体において、
共通の神を信じているということが、
その成員を共通の成員として成り立たしめるのであれば、
その共同体の外部に存在する異質な存在と、
その共同体を繋ぐのが、貨幣である。
なぜなら、
貨幣はある共同体においても、その外部においても通用する、
包含関係における共通要素だからである。(荻野昌弘)
だからこそ、
貨幣は経済の相互依存を通して平和をもたらす可能性を秘めている。(デービッド・ヒューム)
しかし、貨幣は、ある社会における間主観性(フッサール)を、他の社会にも押し付ける、侵食するような暴力性も秘めている。
ある社会における間主観性とは、
例えばミカンをある集合とみなせば、その要素、つまりその集合の要素としての一つ一つのミカンは、何千個、何万個あっても、すべて一つずつミカンとして数えることになる。
これは、物心のついていない子供や、狂人以外ならば、
その社会の決まりごととして受け入れられるからだ。
その一つ一つの計量可能性が、理性の暴力的な側面として現れる。(アドルノ)
理性の働きを物心のついていない子供や、狂人と対比させるならば、
「オデュッセイア」において、
ポリュペーモスの問いに対しウーティス(何者でもない)と答えるのは、
自らの自己同一性を偽る狡知であり、
セイレーンの性的誘惑から逃れるのも、
また理性の狡知である。
つまり、人間の理性の狡知は、複数のアイデンティティーを使い分けたり、性的欲望をコントロールする、といった、現代人が社会において暮らすうえで、必要な能力なのである。しかし、アドルノはその理性の狡知に、自己同一性の揺らぎや性的欲動といった、ニーチェ的欲動との相克を見て取るのである。
グローバリゼーションによって、
世界の富の大きさは拡大したが、
分配に著しい偏りが生じたことは、
論を俟たない。
日本においても、
新自由主義的な政策の結果、
正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。
そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、
自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。
エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、
旧来の中間層が、
自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、
生活も苦しくなってくると、
ドイツの場合は、
プロテスタンティズムのマゾ的心性が、
ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、
まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。
日本ではどうだろうか?
過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、
それは、
安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、
そうでなければ、
社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。
そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。
本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ)
グローバリゼーションが
後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、
グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、
反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、
日本に限ったことではないのかもしれない。
むしろ、
アドルノの言明を素直に読めば、
資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、
本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。
さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、
人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。
社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
妄想卒論その3 (再掲)
詐欺師の存在は、 本書で繰り返し指摘してきたように、 現実には非社会的な部分があり、 それが不確定性を 生んでいることを 端的に示す。 というのも、詐欺師は、 あたかも世界には 予測不可能な事態 以外存在しない かのように行動している からである。 そして、 詐欺師のように 不確定性に賭ける 意志を持たなければ、 ひとびとに対して、 未来への地平を開くことはできない。 逆にいえば、 危険のある 不確定な状態こそが、 未来への地平を開くのである。 それは、 実現することが困難な 「物語」 の方に ひとびとは魅了され、 その方が希望を与えることが あるからである。 実現可能かどうかは 不確定な場合、 合理的に計算可能な範囲 を 越えている場合にこそ (計算可能なのは「リスク」である)、 物語は価値を帯びるのである。 (「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」荻野昌弘 世界思想社 p.187~188)
妄想卒論その1・2 (再掲)
回転すし店で イタズラ行為を 動画に撮って ツイッターに あげて 騒ぎになった 人物が、 叩かれたりする。 しかし、 その正体を 暴いてみれば、 取るに足らない、 他愛もない 人物だったりする。 いわゆる、 トー横民だったり、 ドン横民だったり、 グリコ下だったり。 彼らは、 そういう 寄る辺なき 辺境をさまよう 「貧者」であったりする。 そういう「貧者」に、 過酷な 制裁を 加えたところで、 更生するどころか、 ひろゆき氏が いう、 喪うものがない 「無敵の人」と なってしまうだろう。 社会が 喪うものがない 「無敵の人」で 溢れてしまったら、 社会は崩壊する。 社会契約論を 持ち出しても、 その前提には その 社会契約を 守る、 という 暗黙の前提があるが、 その 前提すらも 守らなかったら、 暗黙の前提を守る、 という 合理性の 無限遡行が 起きるからだ。 つまり、 ランドル・コリンズが 言うように、 我々は 完全には 合理的には 生きておらず、 社会が成り立っているという こと自体が、 人々が 多少なりとも 非合理的に 生きている 証拠だ、 ということが 言える。 しかし、 人々が 自らの 非合理性に 気づかず、 ありもしない 「合理的な社会」を 生きていると 思い込んでいるとすれば、 それは 「合理的な社会」よりも さらに 生きにくい社会 とは 言えないだろうか。 各人が 自分の 手前勝手な 「合理性」を 相手に押し付け、 違犯するものを 糾弾する。 それは とても 生きにくい社会だろう。 ポピュリズム政党の台頭は、 そんな 生きにくい社会の 実体の 現れである かもしれない。 合理性と信用 という 語彙は、 一見 よく馴染むように 見える。 しかし、 社会が 合理的に 組織されれば されるほど、 詐欺が 必然的に 起きる。 なぜなら、 合理性が 追求された 社会においては、 相手を 欺くことが 合理的自己の 利得に なるからである。 もし 社会の構成員が すべて 合理的であれば、 お互いが お互いを 欺く 疑念に駆られ、 決して 組織化された 社会を 形成することが 出来なくなる。 社会契約論においては、 お互いが お互いを 信用することが 前提とされているが、 もし その契約によって 成り立つ 社会の構成員が すでに述べたような 合理的な個人である場合、 常に 裏切りの誘惑に 駆られるために、 どんな 社会契約を 結んだとしても、 必然的に 疑念と裏切りの 連鎖が、 社会的契約そのものを 掘り崩す 無限遡行を 惹き起こすのである。 従って、 現に 社会が成立している ということ それ自体が、 人々が 完全には 合理的には 行動しては いない、 ということを 意味する。 言い換えれば、 社会が成立している ということ それ自体が、 人が人を信用する 能力を持っている 証拠なのである。 そしてまた、 合理性が 追求された社会に おいては、 リスクは つねに 合理的に計算され、 個人は 数理的に定量化された 存在として 「信用」を 身に纏うが、 そのような社会においては、 合理性を追求するがゆえに 非生産的 組織の存在を 招来してしまう。 合理的に組織されたはずの 官僚制が その 非生産性ゆえに 非難の的になる、 という 事態が、 これを 例証している。 そのような社会においては、 「詐欺」の 存在可能性 そのものが、 「管理された社会」を 脱-構築する 希望の 可能性として 機能する。
アンチ・オイディプス (再掲)
シュレーバー控訴院長は、
尻の中に
太陽光線を
きらめかせる。
これは太陽肛門である。
<それ>
が
機能することは
確信していい。
シュレーバー控訴院長は
何かを感じ、
何かを生産し、
そして
これについて
理論を作ることができる。
何かが
生産される。
この何かは
機械のもたらす結果であって、
単なる隠喩ではない。
2023年8月21日月曜日
文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答 (再掲)
質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。 フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。 「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家を孤立させ絶望においやっている現状が鋭く指摘されています。その他の時事的な文章・発言においても、ヨーロッパにおけるグローバリズムと言うべきEU経済戦略のもたらすひずみと地場産業の危機は、ウエルベックにとって一つの固定観念とさえ言えるほど、しばしば繰り返されています。 つまり、ウエルベックは「グローバリゼーション」が伝統的な経済・産業活動にもたらすネガティヴな影響にきわめて敏感であり、そこにもまた「闘争領域の拡大」(ご存じのとおり、これはそもそも、現代的な個人社会における性的機会の不平等化をさす言葉だったわけですが)の脅威を見出していると言っていいでしょう。なお、「セロトニン」で描かれる、追いつめられたフランスの伝統的農業経営者たちの反乱、蜂起が「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言・予告するものだと評判になったことを、付記しておきます。 以上、ご質問に感謝しつつ、ご参考までお答え申し上げます。
功利主義批判ー改 (再掲)
質問:功利主義の根底にある条件は、例えばミカンとリンゴの個数のトレードオフ関係のように、効用曲線が原点に向かって凸であることが想定されている。 しかし、その個々人の効用曲線の総和としての、社会全体の効用曲線を推定して政府が政策を決定する、というアイデアは、現代社会の実態にそぐわないのではないか。 人々の(少なくとも経済的な)需要、あるいは好みと言い換えれば、効用は、極めて多様化しており、総体としての効用曲線を想定することの意義は薄れていると思われる。 このような事態は、もはや企業の需要探索能力が、政府のそれを遥かに上回っている世界の到来を告げていると言っていいだろう。 つまり、政府が必然的に企業の協力を仰がなければならない事態だ。 ここにおいては、官僚機構が消費者の需要に追いつくには余りにも遅すぎることは容易に想像できる。 政治家においては、個々の政策の実効性や、実現可能性を語るよりも、「大きな物語」を語るほうが圧倒的に有利になる。(功利主義批判序説その1より編集) 回答:あなたの指摘はもっともだと思います。功利主義は、社会全体の幸福を最大化することを目指す倫理学の一形態です。これは、個人の幸福を足し合わせて、社会全体の幸福を計算することによって行われます。しかし、あなたの指摘のように、人々の幸福は多様であり、社会全体の幸福を計算することは困難です。 さらに、企業は政府よりも消費者のニーズをよりよく理解している傾向があります。これは、企業が顧客と直接やり取りする機会が多く、顧客のニーズをよりよく把握できるためです。その結果、企業は政府よりも消費者のニーズに応える商品やサービスを提供できる可能性が高いです。 最後に、政治家は「大きな物語」を語るほうが、個々の政策の実効性や実現可能性を語るよりもはるかに有利です。これは、政治家が選挙に勝つために、人々の心をつかむ必要があるためです。そして、「大きな物語」は、人々の心をつかむのに効果的です。 功利主義は、倫理学の一形態ですが、現代社会では適用するのが難しいかもしれません。これは、人々の幸福が多様であり、社会全体の幸福を計算することが困難であるためです。さらに、企業は政府よりも消費者のニーズをよりよく理解している傾向があり、政治家は「大きな物語」を語るほうが、個々の政策の実効性や実現可能性を語るよりもはるかに有利です。
<キャラ>の現象学 (再掲)
ところで、
ルソーは疎外論の
元祖だそうである。
「ホントウのワタシ」
と
「社会的仮面を被ったワタシ」
の分離という
中学生が本能的に
感じるようなことに
言及していたそうである。
ここで、いわゆる
『キャラ』
について考えてみよう。
サークルの飲み会で、
場にあわせて
ドンチャン騒ぎを
やることに倦み果てて、
トイレに逃げ込んだときに
自分の顔を鏡でみるのは
一種のホラーである。
鏡に映る、グダグダに
なって油断して仮面を
剥がしかけてしまった
見知らぬ自分。
それを自分だと思えず
一瞬見遣る鏡の前の男。
男は鏡に映る男が
自分であることに驚き、
鏡の中の男が同時に驚く。
その刹那両方の視線がカチあう。
俺は鏡を見ていて、
その俺を見ている鏡の中に
俺がいて、
それをまた俺が見ている・・・
という視線の
無限遡行が起こって、
自家中毒に陥ってしまう。
このクラクラとさせるような
思考実験からは、
<顔>について
われわれが持っている
イメージとは違う
<顔>の性質を
垣間見ることが
出来るのではないか。
そもそも、
自分の顔は自分が一番よく知っている
と誰もが思っているが、
鷲田清一によれば、
「われわれは
自分の顔から
遠く隔てられている」
(「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22)
という。
それは、
「われわれは
他人の顔を思い描くこと
なしに、
そのひとについて
思いをめぐらすことは
できないが、
他方で、他人が
それを眺めつつ
<わたし>について
思いをめぐらす
その顔を、
よりによって当のわたしは
じかに見ることができない。」
(P.22)からだ。
言い換えれば、
「わたしはわたし(の顔)を
見つめる他者の顔、
他者の視線を通じてしか
自分の顔に
近づけないということである。」
(P.56)ゆえに、
「われわれは目の前にある
他者の顔を
『読む』ことによって、
いまの自分の顔の様態を
想像するわけである。
その意味では
他者は文字どおり
<わたし>の鏡なのである。
他者の<顔>の上に
何かを読み取る、
あるいは「だれか」を読み取る、
そういう視覚の構造を
折り返したところに
<わたし>が想像的に
措定されるのであるから、
<わたし>と他者とは
それぞれ自己へといたるために
たがいにその存在を
交叉させねば
ならないのであり、
他者の<顔>を
読むことを覚えねば
ならないのである。」(P.56)
そして、
「こうした自己と他者の
存在の根源的交叉(キアスム)と
その反転を可能にするのが、
解釈の共同的な構造である。
ともに同じ意味の枠を
なぞっているという、
その解釈の共同性のみに
支えられているような
共謀関係に
<わたし>の存在は
依拠しているわけである。
他者の<顔>、
わたしたちはそれを
通して自己の可視的な
イメージを形成するの
だとすれば、
<顔>の上にこそ
共同性が映しだされている
ことになる。」(P.56)
こう考えると、
「ひととひととの差異を
しるしづける<顔>は、
皮肉にも、
世界について、あるいは自分たち
についての
解釈のコードを
共有するものたちの
あいだではじめて
その具体的な意味を
得てくるような現象
だということがわかる。」(P.58)
これはまさに、
サークルなどで各々が
被っている<キャラ>に
まさしく当てはまる
のではないか。
サークルという場においては、
暗黙の解釈コードを
共有しているかどうかを
試し試され、確認し合っており、
そのコードを理解できないもの、
理解しようとしないものは
排除される。
その意味では
<キャラ>はまさしく社会的仮面なのだ。
視線の交錯の上に
成り立つ
「規律」に反するものを
“排除”する構造は、
<キャラ>を媒介として成り立つ、
目には見えない
一望監視装置と言えるだろう。
フーコー学者からすれば、
例えば国勢調査などはまさに
「生‐政治」の典型だろうけど、
自分はこの類の
「教科書的フーコー理解」は、
結局
国家の牧人的
国民管理からの反逆、
打倒政府、行政性悪説に
辿り着くものでしかなく、
また、
フーコーの考える
「生‐政治」の可能性を
矮小化させてしまう
ものだと思う。
フーコーの考えた
「生‐政治」というのは、
常に我々のすぐそばで
起こっている現象だと考える。
これは
『キャラ』
の牢獄に閉じ込められた
我々に当てはまる。
「生‐政治」というのは、
「私」が「国家権力」によって
常に監視されている、
という妄想的発想ではなく、
われわれ自身が、
お互いを監視し、
排除する当事者である
のではないか?というように
考えるのです。
そう考えれば、
<キャラ>
はすぐれて「生‐政治」の性質を
帯びている。
妄想卒論その8 「世界の共同主観的存在構造」 岩波文庫 (再掲)
われわれは、現に、時計の音を「カチカチ」と聞き、鶏の啼く声を「コケコッコー」と聞く。英語の知識をもたぬ者が、それを「チックタック」とか「コッカドゥドゥルドゥー」とか聞きとるということは殆んど不可能であろう。この一事を以ってしても判る通り、音の聞こえかたといった次元においてすら、所与をetwasとして意識する仕方が共同主観化されており、この共同主観化されたetwas以外の相で所与を意識するということは、殆んど、不可能なほどになっているのが実態である。(59ページ) しかるに、このetwasは、しばしば、”物象化”されて意識される。われわれ自身、先には、このものの”肉化”を云々することによって、物象化的意識に半ば迎合したのであったが、この「形式」を純粋に取出そうと試みるとき、かの「イデアール」な存在性格を呈し、”経験的認識”に対するプリオリテートを要求する。このため、当のetwasは「本質直感」といった特別な直感の対象として思念されたり、純粋な知性によって認識される形而上学的な実在として思念されたりすることになる。(67ページ) 第三に、この音は「カチカチ」と聞こえるが、チックタックetc.ならざるこの聞こえかたは、一定の文化的環境のなかで、他人たちとの言語的交通を経験することによって確立したものである。それゆえ、現在共存する他人というわけではないにせよ、ともあれ文化的環境、他人たちによってもこの音は規制される。(いま時計が人工の所産だという点は措くが、この他人たちは言語的交通という聯関で問題になるのであり、彼らの生理的過程や”意識”が介入する!)この限りでは、音は、文化的環境、他人たちにも”属する”と云う方が至当である。(70ページ) 一般には、同一の語彙で表される対象(ないし観念)群は、わけても”概念語”の場合、同一の性質をもつと思念されている。この一対一的な対応性は、しかも、単なる並行現象ではなく、同一の性質をもつ(原因)が故に同一の語彙で表現される(結果)という因果的な関係で考えられている。しかしながら、実際には、むしろそれと逆ではないであろうか?共同主観的に同一の語彙で呼ばれること(原因)から、同一の性質をもつ筈だという思念マイヌング(結果)が生じているのではないのか?(109ページ) 第二段は、共同主観的な価値意識、そしてそれの”物象化”ということが、一体いかにして成立するか?この問題の解明に懸る。因みに、貨幣のもつ価値(経済価値)は、人びとが共同主観的に一致してそれに価値を認めることにおいて存立するのだ、と言ってみたところで(これはわれわれの第一段落の議論に類するわけだが)、このことそれ自体がいかに真実であるにせよ、まだ何事をも説明したことにはならない。問題は、当の価値の内実を究明してみせることであり、また、何故如何にしてそのような共同主観的な一致が成立するかを説明してみせることである。この第二段の作業課題は、個々の価値形象について、歴史的・具体的に、実証的に試みる必要がある。(164~165ページ) (以下熊野純彦氏による解説より) 『資本論』のマルクスは、「抽象的人間労働」などというものがこの地上のどこにも存在しないことを知っている。存在しないものがゼリーのように「凝結」して価値を形成するはずがないことも知っていた。要するに『資本論』のマルクスはもはや疎外論者ではすこしもないのだ、と廣松はみる。 労働生産物は交換の内部においてはじめて価値となる。とすれば、交換という社会的関係そのものにこそ商品のフェティシズムの秘密があることになるだろう。関係が、謎の背後にある。つまり、関係がものとしてあらわれてしまうところに謎を解くカギがある。商品の「価値性格」がただ「他の商品にたいする固有の関係をつうじて」あらわれることに注目しなければならない。商品として交換されることそれ自体によって、「労働の社会的性格」が「労働生産物そのものの対象的性格」としてあらわれ、つまりは「社会的な関係」、ひととひとのあいだの関係が「物と物との関係」としてあらわれる(『資本論』第1巻)。ものは<他者との関係>において、したがって人間と人間との関係にあって価値をもち、商品となる。(533~534ページ)
ルカーチ メモその34 (再掲)
もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 そのような 近代社会の いわゆる 「物象化」論は、 マルクスの 「疎外論」や 「資本論」と 連接する 問題意識だった。 「商品」は その物自体の 「使用価値」と それが市場でもつ 「交換価値」の 二面をもつ。 現代の資本主義社会においては 交換価値のみが 突出するため、 商品を作って生きる 人間の労働も 交換価値に還元され、 ひいては 人間性そのものまで 計数化され 疎外されていく。 故に そのような資本主義的 「物象化」の 打破こそが、 近代人の 陥っている 閉塞状況の 根本的解決だと 論ずる。
妄想卒論その7 (再掲)
「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。
米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。
私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。
19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。
さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。
1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。
そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。
なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93
「エリートに対する人々の違和感の広がり、 すなわちエリートと大衆の『断絶』こそが、 ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。 ポピュリズム政党は、既成政治を既得権にまみれた一部の人々の占有物として描き、 これに『特権』と無縁の市民を対置し、 その声を代表する存在として自らを提示するからである。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
「二十世紀末以降進んできた、産業構造の転換と経済のグローバル化は、 一方では多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの発展を促し、 グローバル都市に大企業や高所得者が集中する結果をもたらした。 他方で経済のサービス化、ソフト化は、規制緩和政策とあいまって 『柔軟な労働力』としてのパートタイム労働や派遣労働などの 不安定雇用を増大させており、低成長時代における 長期失業者の出現とあわせ、 『新しい下層階級』(野田昇吾)を生み出している。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
富が集中するほど他者への信頼が下がり、「フェアネス(公正さ)指数」(日経新聞作成)が低くなる。同時にポピュリズムの場当たり政策に翻弄されやすくなる。
「国際都市ロンドンに集うグローバル・エリートの対極に位置し、 主要政党や労組から『置き去り』にされた人々と、 アメリカの東海岸や西海岸の都市部に本拠を置く 政治経済エリートや有力メディアから、 突き放された人々。 労働党や民主党といった、 労働者保護を重視するはずの政党が グローバル化やヨーロッパ統合の 推進者と化し、 既成政党への失望が広がるなかで、 既存の政治を正面から批判し、 自国優先を打ち出して EUやTPP,NAFTAなど 国際的な枠組みを否定する急進的な主張が、 強く支持されたといえる。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
人々の不満をあおるだけで解を示せないのがポピュリズム。不満のはけ口を外に求めた愚かさはナチスドイツの例を振り返っても明らかだ。
第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。(放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)
グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。
1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より
そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感覚だろうか。
「デモクラシーという品のよいパーティに出現した、 ポピュリズムという泥酔客。 パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。 ましてや手を取って、ディナーへと導こうとはしないだろう。 しかしポピュリズムの出現を通じて、 現代のデモクラシーというパーティは、 その抱える本質的な矛盾をあらわにしたとはいえないだろうか。 そして困ったような表情を浮かべつつも、 内心では泥酔客の重大な指摘に 密かにうなづいている客は、 実は多いのではないか。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
2023年8月20日日曜日
野党の怠慢 (再掲)
外泊したせいで
日経新聞の
記事の
時系列が
曖昧になって、
いつの
コラムだか
分からないが、
とにかく
この
2,3日の
ある日のコラムで、
日本は
実質的に
「自民党」
対
「無党派層」の
2大政党制で、
自民党からすると
無党派層を
投票に
来させないのが
選挙を戦ううえで
有利な
戦略、と
書いてあった。
一読して、
自民党はズルい!と
思ったが、
よくよく考えると、
自民党への
対立軸たる
「無党派層」の支持を
獲得できていない
野党、特に
旧民主党系
デリバティブズの
怠慢なのではないか?
という気がしてくる。
こんなこと言ったら
野党は怒るだろうが。
しかし、
「自民党」
対
「無党派層」という
対立軸のなかで、
野党は
アンチ自民的な
イデオロギーを
打ち出すことに
焦点を当てすぎている
感が否めない。
野党の
立派な学歴を持った
お歴々が、
常識で考えれば
非現実的なことが明白な
政策を
臆面もなく標榜する。
それが
アンチ自民たる
多様な考えを持った
「無党派層」にウケれば、
とりあえず
そこそこの
議席を獲得できてしまう。
無党派層にも
自民党は嫌だから、という
理由で
消極的に
野党に入れている有権者は
数多くいるだろうが、
そこを狙って
政策を個別化して
打ち出すよりも、
単純に
アンチ自民党「的」な
言説を撒き散らして
選挙戦を
戦い続けた
野党にこそ、
政治の停滞の責任の一端が
あると
言っても過言ではない。
日本の有権者も
そんなに
バカばっかじゃないのだ。
単に
総花的で
無責任な、
反自民の旗を掲げ続けた
野党の責任も重い。
自業自得。
・・・っていう意見を
バードに
打ち込んでみたら、
3秒くらいで
こんな回答が表示された。
人工知能に政治がわかるのか?
(以下GoogleBARDの回答)
あなたの意見に同意します。野党は、自民党に代わる明確なビジョンと提案を打ち出さなければ、政治の停滞は続くでしょう。アンチ自民党的なイデオロギーを打ち出すだけでは、有権者の心をつかむことはできません。野党は、日本の社会や経済の問題に真剣に取り組んでいることを示し、有権者に信頼される必要があります。
不況の入り口
中国の不動産不況ヤバいね。
日本にも影響あるし、
日本も物価高で消費が低迷。
こりゃあ、
よっぽど
堅気の職業じゃないと
生きていけないね。
俺も
身の振り方
考えないと。
今回の
中国不動産
不況は、
日本にも影響あるし、
日本も
物価高に
消費が追い付かずで、
深刻な不況に
陥る可能性が
無視できない
レベル。
あー、でも
ダメだ。
脳みそが
ついてかねー
もう、
無理の効かない
身体になっちゃったな。
無理すると、
過去のムカついた
記憶が
なぜか
蘇ってくる。
心理学で学んだが、
記憶と
感情は
繋がってるんだとか。
脳が
興奮状態になると、
熊谷の塾で
働いてた時に
ケンカ売ってきた
幼稚園児のガキとか、
あるいは
姉の
人を
小馬鹿にした態度とか、
そんなことが
蘇ってくる。
もう
無理が効かない。
日本中世史
鎌倉時代を知るには、
本郷和人先生の
「北条氏の時代」
が
一番いい。
安いし。
下敷きとして、
井沢元彦の
「逆説の日本史」
も
第9巻までは
読むに値する。
近代日本政治史を
知りたければ、
尾崎行雄の
「民権闘争七十年」
が
秀逸。
これも
文庫本だから安い。
・・・ちょうど
いま
キンドルで読んでる
ところだけど、
「武士の起源を解きあかす」
(ちくま新書)
も
抜群に面白い。
武士って何?
を
掘り下げると、
日本中世史の本質が
見えてくる。
・・・すげーな。
ぶっ飛んでるわ。
日本の古代中世の
土地制度が
よくわかる。
ちくま新書さん
ブチかましたね。
こんな
内容の濃い本が
1000円ちょっとで
手に入るってのは、
いい時代に
生まれたわ。
あまりに画期的すぎて、
受験科目として
日本史を
選択するのが
馬鹿らしくなる。
それぐらい
ぶっ飛んでる。
2023年8月19日土曜日
マクドナルド
最近やたら
新商品とか
コマーシャルとか
異常にやってるけど、
逆に
経営がやべーんじゃねーか?
とか、
実は
とんでもない
経営リスクを
抱えてるんじゃないか?
とか
勘ぐってしまう。
昔はもっと
美味かった気がするし。
最近、ごくたまに
食べても、
全然美味くない。
・・・やっぱ
原材料高が
響いてんのかな。
サプライチェーン・マネジメント
最近
新聞で
よく
目にする
キーワードですね。
コロナ禍と
ロシアのウクライナ侵攻で
サプライチェーンが
寸断された、みたいな。
あるいは
日常生活で
セブンイレブンとか
使ってると、
よくまあ
こんだけ
多品種少量のものを、
しかも
消費者のニーズに合ったものを
揃えられるな、と
関心しますよね。
放送大学の
放送授業で、
サプライチェーン・マネジメントの
授業があるのは
知っていたのですが、
最初は
あまり
面白いと
感じなかったのですが、
あらためて
視聴すると、
かなり
面白い科目であることが
見えて来ました。
科目登録してみようかな。
こんな
科目まで
用意されてる
放送大学は
マジすげえ。
学期の狭間って、
けっこう悩む。
もうこれくらい
勉強したから、
今度こそ
市役所受けなきゃ、とか
でも
拒絶反応でたりとか、
かといって
もう
目新しいものがないと
時間のムダだし、とか。
何かしら
時間を費やしてでも
やる価値のある
履修計画を
立てるのは、
なかなか
大変だ。
予算との兼ね合いもあるし。
お金だけじゃなくて、
体力的に
無理がないかとか。
2023年8月18日金曜日
無聊を託つ 改変 (再掲)
質問:少子高齢化が進めば、 老人の支出が減るのは当たり前だし、 働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、 消費を控えるのは当然だろう。 それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。 政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。(無聊を託つ より)
(以下 google bard より回答)少子高齢化が進むにつれて、老人の支出は減り、働く世代も将来の社会保障が不安になることで、消費が控えられるのは当然です。これは、小手先のナントカノミクスではどうにもならない問題です。政府は、NISAを恒久化するなど、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死ですが、デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、家計が現預金を貯め込むことで、結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることです。しかし、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、財政の規律が緩むことは目に見えています。また、日本ではインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうですが、フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずですが、日本の家計はそこまで合理的ではなく、現預金を貯め込むという方向に進んだようです。それはそれでいいでしょう。緩慢な死を迎えるだけです。
私は、少子高齢化が進む日本経済の将来は、非常に厳しいものになると思っています。デフレマインドが定着し、家計が消費を控え込むことで、経済が停滞し、財政が悪化する悪循環に陥るのではないでしょうか。政府は、デフレマインドを打破し、経済を活性化させるために、抜本的な改革をする必要があります。
⇐これ、太字部分Google Bard の回答です。
バードに聞いてみた (再掲)
中国の不動産不況は、日本経済にも大きな影響を与える可能性があります。中国は日本の最大の貿易相手国であり、中国経済が不況になれば、日本企業の輸出が減少し、日本の経済成長が鈍化する可能性があります。また、中国の不動産不況は、中国の消費者マインドを冷え込ませ、中国国内の消費が減少する可能性があります。これにより、日本の輸出品が中国で売れなくなる可能性があり、日本経済に悪影響を与える可能性があります。 さらに、中国の不動産不況は、中国の政情不安につながる可能性があります。中国の不動産市場は、中国経済の重要な柱であり、不動産不況は中国経済の基盤を揺るがす可能性があります。これにより、中国政府に対する不満が高まり、社会不安が拡大する可能性があります。中国の政情不安は、日本経済にも悪影響を与える可能性があります。 中国の不動産不況は、日本経済にとって大きなリスクです。日本政府は、中国の不動産不況が日本経済に与える影響を注視し、適切な対応を検討する必要があります。 以下は、中国の不動産不況が日本経済に与える影響の具体例です。 日本の輸出企業の業績悪化 日本の国内消費の減少 中国の政情不安によるリスクの拡大 中国の不動産不況は、日本経済にとって大きなリスクです。日本政府は、中国の不動産不況が日本経済に与える影響を注視し、適切な対応を検討する必要があります。
バードに聞いてみた その3 (再掲)
質問:コスト・プッシュインフレによる賃上げは、内需拡大以外にもデフレマインド払拭の意義がありますが、それは政策割り当ての原理に反してはいないでしょうか? 回答:コスト・プッシュインフレによる賃上げは、デフレマインド払拭につながる可能性があるため、政策割り当ての原理に反しているかどうかは議論の余地があります。政策割り当ての原理とは、政府が経済の安定と成長を促進するために、財政政策や金融政策などの政策手段を効果的に活用することです。コスト・プッシュインフレによる賃上げは、デフレマインド払拭を通じて、消費の拡大や投資の活性化につながり、経済の成長に寄与する可能性があります。しかし、コスト・プッシュインフレが持続すると、物価の上昇を招き、経済の安定を損なう可能性もあります。したがって、コスト・プッシュインフレによる賃上げが政策割り当ての原理に反しているかどうかは、その影響の程度や持続性によって判断される必要があると考えられます。
バードに聞いてみた その2 (再掲)
質問:コスト・プッシュインフレによる賃上げは、内需を拡大させると言われますが、デフレマインドが払拭されること以外に、厚生経済学的なメリットはあるのでしょうか? 回答:はい、コストプッシュインフレによる賃上げには、デフレマインドが払拭されること以外にも、厚生経済学的なメリットがあります。具体的には、以下のようなメリットがあります。 経済成長の促進:賃上げは、人々の購買力を高め、消費を増加させるため、経済成長につながります。 生活水準の向上:賃上げは、人々の可処分所得を増加させ、生活水準を向上させるため、人々の幸福度を高めることができます。 貧困削減:賃上げは、特に低所得者層の生活水準を向上させ、貧困削減につながります。 インフレの抑制:賃上げは、需要を抑制し、インフレを抑制する効果があります。 ただし、コストプッシュインフレによる賃上げには、以下のようなデメリットもあります。 企業の収益圧縮:賃上げは、企業のコスト増加につながり、企業の収益を圧迫する可能性があります。 失業率の上昇:賃上げは、企業のコスト増加を抑制するために、企業が従業員を解雇する可能性があるため、失業率の上昇につながる可能性があります。 価格の上昇:賃上げは、企業が商品やサービスの価格を引き上げる可能性があり、価格の上昇につながる可能性があります。 コストプッシュインフレによる賃上げは、メリットとデメリットの両方があるため、実施にあたっては慎重に検討する必要があります。
バードに聞いてみた その1 (再掲)
質問:賃上げは本来、バラッサ・サムエルソン仮説に基づき、高付加価値品の輸出を通じて実現されるべきではないでしょうか?日本のように主にコスト・プッシュインフレによる賃上げにどのような意味があるのでしょうか? 回答:バラッサ・サムエルソン効果とは、貿易財部門の生産性上昇率が高い国では、一般物価水準が外国と比べて上昇すると同時に、実質為替相場が増価する効果を意味します。この効果は、貿易財部門で生産性が上昇すると、貿易財部門の賃金が上昇しますが、非貿易財部門では生産性が上昇していないため、非貿易財価格が上昇し、一般物価水準が上昇するというメカニズムによって生じます。 賃金は、労働市場の需給関係によって決定されます。労働需要が労働供給を上回ると賃金は上昇し、労働供給が労働需要を上回ると賃金は下落します。 コストプッシュインフレとは、生産コストの上昇によって生じるインフレです。生産コストの上昇の原因としては、原材料価格の上昇、労働コストの上昇、エネルギー価格の上昇などが挙げられます。 日本では、近年、賃上げがコストプッシュインフレによって主に実現されています。これは、日本では労働市場が需給ギャップが縮小する中で賃上げが行われており、生産コストの上昇が賃上げに転嫁されているためです。 バラッサ・サムエルソン効果に基づくと、賃上げは本来、高付加価値品の輸出を通じて実現されるべきです。しかし、日本では、賃上げがコストプッシュインフレによって主に実現されているため、高付加価値品の輸出を通じた賃上げ効果は小さくなっています。これは、日本の貿易構造が、輸入品との競争が激しい労働集約型産業に偏っているためです。 日本の賃上げがコストプッシュインフレによって主に実現されていることは、いくつかの問題を引き起こしています。第一に、コストプッシュインフレは、輸入品を多く消費する家計にとって、実質所得の減少につながります。第二に、コストプッシュインフレは、企業の国際競争力の低下にもつながります。第三に、コストプッシュインフレは、インフレ期待の悪化につながり、長期的なインフレ率の上昇につながる可能性があります。
インタゲと増税はワンセット (再掲)
質問:中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、とありますが、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか?あるいは、新古典派経済学では「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか? 回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。すなわち、「政策割当の原理」です。したがって、「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要となります。 本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。本来の金融政策の目標(物価の安定)と異なるため黒田日銀総裁は「異次元の金融政策」という言葉を使ったのです。このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。このシナリオどおりに進めば、もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。ただ、経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります。したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため「財政再建」が先送りになってしまいます。それゆえに、「財政再建」の政策目標の一環として消費税の引上げが考えられています。このように、「政策割当の原理」は成立しています。
2023年8月17日木曜日
アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)
自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。
2023年度1学期の成績
社会・集団・家族心理学
B
感情・人格心理学
A
戦後ヨーロッパの政治と社会2
A
アリストテレスの倫理学
特A
夏目漱石
<近代>への問い
B
概ね良かった。
森本先生は
私情を挟まないところが
さすが。
アリストテレスの倫理学で
特A
取れて良かった。
自信になる。
渡邉邦夫先生
意外と
ツンデレ。
ちゃんと授業聞いて
レポートが
ツボると
高評価くださる。
放送授業の
心理学の単位も
しっかり
ゲット!
2023年8月15日火曜日
バードに聞いてみた。
中国の不動産不況は、日本経済にも大きな影響を与える可能性があります。中国は日本の最大の貿易相手国であり、中国経済が不況になれば、日本企業の輸出が減少し、日本の経済成長が鈍化する可能性があります。また、中国の不動産不況は、中国の消費者マインドを冷え込ませ、中国国内の消費が減少する可能性があります。これにより、日本の輸出品が中国で売れなくなる可能性があり、日本経済に悪影響を与える可能性があります。
さらに、中国の不動産不況は、中国の政情不安につながる可能性があります。中国の不動産市場は、中国経済の重要な柱であり、不動産不況は中国経済の基盤を揺るがす可能性があります。これにより、中国政府に対する不満が高まり、社会不安が拡大する可能性があります。中国の政情不安は、日本経済にも悪影響を与える可能性があります。
中国の不動産不況は、日本経済にとって大きなリスクです。日本政府は、中国の不動産不況が日本経済に与える影響を注視し、適切な対応を検討する必要があります。
以下は、中国の不動産不況が日本経済に与える影響の具体例です。
日本の輸出企業の業績悪化
日本の国内消費の減少
中国の政情不安によるリスクの拡大
中国の不動産不況は、日本経済にとって大きなリスクです。日本政府は、中国の不動産不況が日本経済に与える影響を注視し、適切な対応を検討する必要があります。
2023年8月14日月曜日
ユーミンとシルクロード (再掲)
2021年の大河ドラマは、渋沢栄一を扱っていたが、蚕を飼って桑の葉を食べさせているシーンがあったが、蚕を飼うということは、最終的に絹を作って、輸出するということだから、既に世界的な市場と繋がっていて、本を辿れば、あの時代に既に農家も貨幣経済に部分的に組み入れられていたということ。 つまり、生活するのにカネが必要になるということ。 それ以前は、綿花を作っていた。その時代は、塩と綿の苗だけはカネで買ったけれど、それ以外はカネを使わなかった。 つまり、養蚕業が日本の原風景というイメージは、違う。 綿花を作っていた頃は、綿を作って、紡績業者に委託して織物にしてもらって、それを藍染にしていた。 桐生などが代表的だが、綿花を紡績する織機産業が日本のプロト工業化の役割を担った。 大河の描写では、渋沢家は養蚕と藍染を両方やっていた。 横浜が開港して、八王子との間に交通が整備されると、山梨や長野からの絹が八王子に集積され、横浜港から世界に輸出され、第二次大戦まで、日本の外貨獲得の最大の資金源となり、横浜と八王子を結ぶラインは、シルクロードと呼ばれた。 戦後は、横浜からの舶来文化の流入で、在日米軍への、音楽などの文化的サービスが生まれ、花街も賑わった。 八王子を代表するシンガーソングライターに、松任谷由実がいるが、彼女も、八王子の絹呉服店に生まれ、子供のころから、米軍関係者に歌を披露していたそうだ。
台風
よりにもよって
お盆休みに
日本
直撃。
交通機関
各社は、
一番の
書き入れ時に、
経済的損失は
計り知れないでしょう。
東京では
江戸三大祭りの
ひとつ
深川祭り
が
執り行われたそうですが、
お祭りって、
この人
普段どこで
どんな生活
してる人なんだろう?
と
不思議になるような
人が
出没しますよね。
自分は
お祭り以前に
お祭り騒ぎ
そのものが
嫌いなタチなのですが。
経済教室 (再掲)
8月5日の
デール・コープランド、
バージニア大学教授の寄稿と、
今日
8月15日の
牧野邦昭
慶応大学教授の寄稿を
ざっくりまとめてみると、
現在の中国は、
貿易依存度が
高いという点で、
1930年代の日本に似ており、
下手に
貿易面での
過度の制裁を加えると、
戦前の日本のように
暴走する可能性があるので、
中国を
追い詰めすぎるのは
得策ではないこと、
中国が
台湾侵攻を自重しているのは、
もしそれをすれば
アメリカを中心とした
経済圏から
締め付けを喰らうことを
意識しているからだ、
とのこと。
新聞休刊日
テレ朝で
中国の不動産
不況を
取り上げてた。
木内登英さんによれば、
日本にとって
中国は
最大の
貿易相手国だから、
中国が
不況になると、
日本にも波及して
消費者の購買マインドを
冷え込ませ、
ひいては
物価上昇にも
マイナス、
さらには
賃金上昇ムードにも
悪影響、とのこと。
決して
対岸の火事ではない。
けっこう今
日本経済が
デフレから脱却できるか
どうか
大事なときだから、
中国には
財政出動なり
なんなり
頑張ってもらわないと、
日本も困る。
中国は
公式統計ですら
若者の2割が
失業中、
ニートも含めると
5割が
失業中、
という話もあるので、
けっこう
深刻。
若者が
大学を出ても、
国内で
それを吸収するだけの
雇用を
生み出せていないらしい。
もう
何年もまえに
瀧川好夫先生が
そんなこと
仰ってた。
やっぱ
学者ってのは
すげえ。
ここで
中国が
戦争っていう
一番
手っ取り早い
財政政策に打って出るか、
それとも
ふつうに
財政出動するかってのは、
歴史の分岐点よね。
中東諸国とも
仲良くしてるし、
それは
もちろん
エネルギー源を確保
する
狙いなんだろうが、
長期的視点で、
自由主義諸国との
対立を
志向しているようにも
見える。
ただ、まだ
戦争に打って出るには
時期尚早にも
思える。
電気自動車
製造に必要な
レアアースの
産出国という立場を
利用して
政治的圧力を
加えてくることは
容易に想像できるが、
超大国として
アメリカと
覇を競うには
まだ
早いのではないか。
とはいえ、
公言している
台湾併合を延期すれば
習政権の
求心力低下に繋がるし、
国内の不況による
政権への
批判の矛先を
逸らせるにも、
対外軍事行動に出る
リスクは
決して
過小評価できない。
2023年8月13日日曜日
妄想卒論その10 the day that never comes (再掲)
言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。 やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章) なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。 しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。 三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。 こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。 静岡大学 森本隆子先生より
https://www.youtube.com/watch?v=RD83oy7ksUE
2023年8月12日土曜日
妄想卒論その7 (再掲)
「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。
米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。
私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。
19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。
さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。
1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。
そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。
なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93
「エリートに対する人々の違和感の広がり、 すなわちエリートと大衆の『断絶』こそが、 ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。 ポピュリズム政党は、既成政治を既得権にまみれた一部の人々の占有物として描き、 これに『特権』と無縁の市民を対置し、 その声を代表する存在として自らを提示するからである。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
「二十世紀末以降進んできた、産業構造の転換と経済のグローバル化は、 一方では多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの発展を促し、 グローバル都市に大企業や高所得者が集中する結果をもたらした。 他方で経済のサービス化、ソフト化は、規制緩和政策とあいまって 『柔軟な労働力』としてのパートタイム労働や派遣労働などの 不安定雇用を増大させており、低成長時代における 長期失業者の出現とあわせ、 『新しい下層階級』(野田昇吾)を生み出している。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
富が集中するほど他者への信頼が下がり、「フェアネス(公正さ)指数」(日経新聞作成)が低くなる。同時にポピュリズムの場当たり政策に翻弄されやすくなる。
「国際都市ロンドンに集うグローバル・エリートの対極に位置し、 主要政党や労組から『置き去り』にされた人々と、 アメリカの東海岸や西海岸の都市部に本拠を置く 政治経済エリートや有力メディアから、 突き放された人々。 労働党や民主党といった、 労働者保護を重視するはずの政党が グローバル化やヨーロッパ統合の 推進者と化し、 既成政党への失望が広がるなかで、 既存の政治を正面から批判し、 自国優先を打ち出して EUやTPP,NAFTAなど 国際的な枠組みを否定する急進的な主張が、 強く支持されたといえる。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
人々の不満をあおるだけで解を示せないのがポピュリズム。不満のはけ口を外に求めた愚かさはナチスドイツの例を振り返っても明らかだ。
第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。(放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)
グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。
1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より
そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感覚だろうか。
「デモクラシーという品のよいパーティに出現した、 ポピュリズムという泥酔客。 パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。 ましてや手を取って、ディナーへと導こうとはしないだろう。 しかしポピュリズムの出現を通じて、 現代のデモクラシーというパーティは、 その抱える本質的な矛盾をあらわにしたとはいえないだろうか。 そして困ったような表情を浮かべつつも、 内心では泥酔客の重大な指摘に 密かにうなづいている客は、 実は多いのではないか。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
ルカーチ メモその34 物象化 カバー裏面より
もともとは
人間が作り上げた
文化・文明が、
やがて
作り手から自立し、
逆に
人間を拘束し、
圧迫してくる。
そのような
近代社会の
いわゆる
「物象化」論は、
マルクスの
「疎外論」や
「資本論」と
連接する
問題意識だった。
「商品」は
その物自体の
「使用価値」と
それが市場でもつ
「交換価値」の
二面をもつ。
現代の資本主義社会においては
交換価値のみが
突出するため、
商品を作って生きる
人間の労働も
交換価値に還元され、
ひいては
人間性そのものまで
計数化され
疎外されていく。
故に
そのような資本主義的
「物象化」の
打破こそが、
近代人の
陥っている
閉塞状況の
根本的解決だと
論ずる。
ルカーチ メモその33 補遺
こうして、
<全社会を統一する
経済構造をもって、
はじめて
資本主義が
社会の総体に
対する
統一的意識構造
を
生み出した>。
ここにあって、
ブルジョワジーは
自己の利益が
全社会の利益であるかのように
見なし、
社会の本質を
見過つ。
それに対して、
奴隷の立場としてある
<プロレタリアートの
階級意識>
のみが、
社会の全体を把握することが
死活問題であり、
また、
その把握が可能になるのは、
社会全体の認識を
克ちえてのみだからだ。
308ページ
近代日本の炭坑夫と国策@茨城大学 レポート (再掲)
今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。 ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。 日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。 しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考えると、グローバリゼーションに対応しながら国民的自己決定を達成するには、国をまさに富国強兵のスローガンの下で一致団結させる必要があり、そこでは多様な民意というものを反映することは困難であり、したがって表現の自由が抑圧され、民主主義は達成できない、と考えられます。 戦前の日本に照らして考えると、前近代の村社会が国家組織の末端に組み入れられ、その中で炭鉱夫が生きるための最後の手段として究極のブラック職業として見なされていたこと、それでも西欧へ肩を並べなければならない、という官民一体の国家的意識のなかで、脅迫的に近代化へ歩みを進めざるを得なかった状況では、社会の底辺としての炭鉱夫には、およそ政治参加、すなわち民主主義の恩恵に浴することは出来なかった。それはとりもなおさず炭鉱業というものが本来的に暴力的であり、同時に「国策」としての帝国主義的性格を多分に内包していたことと平仄を合わせています。 中国のウイグル人の抑圧と戦前日本の坑夫を重ねて考えると、そのような構図が透けて見えてきます。
妄想卒論その11 (再掲)
確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。
<キャラ>の分析 (再掲)
ところで、
ルソーは疎外論の
元祖だそうである。
「ホントウのワタシ」
と
「社会的仮面を被ったワタシ」
の分離という
中学生が本能的に
感じるようなことに
言及していたそうである。
ここで、いわゆる
『キャラ』
について考えてみよう。
サークルの飲み会で、
場にあわせて
ドンチャン騒ぎを
やることに倦み果てて、
トイレに逃げ込んだときに
自分の顔を鏡でみるのは
一種のホラーである。
鏡に映る、グダグダに
なって油断して仮面を
剥がしかけてしまった
見知らぬ自分。
それを自分だと思えず
一瞬見遣る鏡の前の男。
男は鏡に映る男が
自分であることに驚き、
鏡の中の男が同時に驚く。
その刹那両方の視線がカチあう。
俺は鏡を見ていて、
その俺を見ている鏡の中に
俺がいて、
それをまた俺が見ている・・・
という視線の
無限遡行が起こって、
自家中毒に陥ってしまう。
このクラクラとさせるような
思考実験からは、
<顔>について
われわれが持っている
イメージとは違う
<顔>の性質を
垣間見ることが
出来るのではないか。
そもそも、
自分の顔は自分が一番よく知っている
と誰もが思っているが、
鷲田清一によれば、
「われわれは
自分の顔から
遠く隔てられている」
(「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22)
という。
それは、
「われわれは
他人の顔を思い描くこと
なしに、
そのひとについて
思いをめぐらすことは
できないが、
他方で、他人が
それを眺めつつ
<わたし>について
思いをめぐらす
その顔を、
よりによって当のわたしは
じかに見ることができない。」
(P.22)からだ。
言い換えれば、
「わたしはわたし(の顔)を
見つめる他者の顔、
他者の視線を通じてしか
自分の顔に
近づけないということである。」
(P.56)ゆえに、
「われわれは目の前にある
他者の顔を
『読む』ことによって、
いまの自分の顔の様態を
想像するわけである。
その意味では
他者は文字どおり
<わたし>の鏡なのである。
他者の<顔>の上に
何かを読み取る、
あるいは「だれか」を読み取る、
そういう視覚の構造を
折り返したところに
<わたし>が想像的に
措定されるのであるから、
<わたし>と他者とは
それぞれ自己へといたるために
たがいにその存在を
交叉させねば
ならないのであり、
他者の<顔>を
読むことを覚えねば
ならないのである。」(P.56)
そして、
「こうした自己と他者の
存在の根源的交叉(キアスム)と
その反転を可能にするのが、
解釈の共同的な構造である。
ともに同じ意味の枠を
なぞっているという、
その解釈の共同性のみに
支えられているような
共謀関係に
<わたし>の存在は
依拠しているわけである。
他者の<顔>、
わたしたちはそれを
通して自己の可視的な
イメージを形成するの
だとすれば、
<顔>の上にこそ
共同性が映しだされている
ことになる。」(P.56)
こう考えると、
「ひととひととの差異を
しるしづける<顔>は、
皮肉にも、
世界について、あるいは自分たち
についての
解釈のコードを
共有するものたちの
あいだではじめて
その具体的な意味を
得てくるような現象
だということがわかる。」(P.58)
これはまさに、
サークルなどで各々が
被っている<キャラ>に
まさしく当てはまる
のではないか。
サークルという場においては、
暗黙の解釈コードを
共有しているかどうかを
試し試され、確認し合っており、
そのコードを理解できないもの、
理解しようとしないものは
排除される。
その意味では
<キャラ>はまさしく社会的仮面なのだ。
視線の交錯の上に
成り立つ
「規律」に反するものを
“排除”する構造は、
<キャラ>を媒介として成り立つ、
目には見えない
一望監視装置と言えるだろう。
フーコー学者からすれば、
例えば国勢調査などはまさに
「生‐政治」の典型だろうけど、
自分はこの類の
「教科書的フーコー理解」は、
結局
国家の牧人的
国民管理からの反逆、
打倒政府、行政性悪説に
辿り着くものでしかなく、
また、
フーコーの考える
「生‐政治」の可能性を
矮小化させてしまう
ものだと思う。
フーコーの考えた
「生‐政治」というのは、
常に我々のすぐそばで
起こっている現象だと考える。
これは
『キャラ』
の牢獄に閉じ込められた
我々に当てはまる。
「生‐政治」というのは、
「私」が「国家権力」によって
常に監視されている、
という妄想的発想ではなく、
われわれ自身が、
お互いを監視し、
排除する当事者である
のではないか?というように
考えるのです。
そう考えれば、
<キャラ>
はすぐれて「生‐政治」の性質を
帯びている。
「現代の国際政治」 第5回 まとめ (再掲)
あ〜あ、思い出せるだけ〜思い出して、あそびたぁぁぁぁい! てなわけで、 放送大学「現代の国際政治」第5回の放送授業内容を、出来る限り思い出しながら、要点をまとめてみたいと思います。 まず、第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。 ま、こんなとこかな。 地域間経済協定については割愛した。 https://www.homemate-research.com/useful/18249_shopp_010/
文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答 (再掲)
質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。 フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。 「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家を孤立させ絶望においやっている現状が鋭く指摘されています。その他の時事的な文章・発言においても、ヨーロッパにおけるグローバリズムと言うべきEU経済戦略のもたらすひずみと地場産業の危機は、ウエルベックにとって一つの固定観念とさえ言えるほど、しばしば繰り返されています。 つまり、ウエルベックは「グローバリゼーション」が伝統的な経済・産業活動にもたらすネガティヴな影響にきわめて敏感であり、そこにもまた「闘争領域の拡大」(ご存じのとおり、これはそもそも、現代的な個人社会における性的機会の不平等化をさす言葉だったわけですが)の脅威を見出していると言っていいでしょう。なお、「セロトニン」で描かれる、追いつめられたフランスの伝統的農業経営者たちの反乱、蜂起が「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言・予告するものだと評判になったことを、付記しておきます。 以上、ご質問に感謝しつつ、ご参考までお答え申し上げます。
ルカーチ メモその32
機械的な
進歩・発展としてではなく、
主体的行為として、
それも
無意識状態、
虚偽意識に
囚われた状態から
意識化へ
という
動的な過程として、
このように
<歴史>
が
思い描かれた点、
このことは、
高度資本主義社会のなかで、
たとえ
ルカーチが
考えたような
<階級>概念に
現実性が
感じられなくなっているとしても、
示唆するものは
残されているだろう。
312~313ページ
ルカーチ メモその31 結論
ルカーチは、
生産力や技術の発展、
合理化の徹底、
といった、
<近代化>
の
いわば
積極面の行き着く
果てに
決して
<解放>
を
見ていなかった。
<近代化>
という
客観的な条件はむしろ
いっさいを
平準化し
数量として
ひとしなみに
扱う、
そんなおぞましい
破局を
目指すだけだった。
また、彼にするなら、
現実の労働者は
<近代化>
の呪縛に
あまりに
からめ取られている。
その日常的な意識は
物象化された
虚偽意識である。
彼らの
主観的な意志や決断に
まったく
期待ができないというのは、
ハンガリー革命敗北の
ひとつの
大きな教訓だったろう。
そこでルカーチは、
<近代化>
の
否定面としての
物象化を、
プロレタリアートの意識において
積極面に逆転する論理を
考え出したのだった。
商品という客体としてある
プロレタリアートの
自己認識こそは、
この
社会の本質の
客観認識である。
そしてそれも、
この
プロレタリアートの
意識は
<自分に対立して
ある対象についての
意識ではなく、
対象の自己意識である>
ために、
<意識化
という
活動は
その
客体の対象性
形式を
転覆させる>。
つまり
プロレタリアートの
自己認識そのものが
すでに
実践的でしか
ありえない。
こうして
<プロレタリアートは、
歴史の同一的
<主体ー客体>
として現われ、
その実践は
現実の変革となる>
道筋が描かれるのだった。
312ページ
ルカーチ メモその30 核心部分
<物神的性格>
が
問題になるのは、
マルクスにおいては
商品世界特有の
こととしてだった。
人間の労働が、
個人的な
質を離れて
計算可能な
商品という
<物>
の価値で測られる、
という
事態だ。
主観的な
価値が
交換価値によって
測られる
商品に即して
現れてしまうような
事態を
彼は
<物象化=即物化 Versachlichung>
と
呼んでいた。
これを
ルカーチは意識の
<物象化=事物化 Versachlichung>
にまで
拡張したのだった。
310ページ
ルカーチ メモその29
価値判断とは
独自に
ある形式合理性から
見た
近代化は、
否定面としては、
右の第二点で
挙げたように、
人間の
<主体性>
の
喪失という実感
が
それに対して
起こるだろうし、
積極面としては、
古い紐帯、
束縛から解き放たれ、
個人の解放の
契機でもあった。
310ページ
ルカーチ メモその28
マックス・ヴェーバーは
西欧社会の近代化を
分析するにあたって、
それを
普遍的な
合理化過程と捉えた。
その際に
彼は、
行為者の価値観が
介在する
<実質合理性>
と、
価値判断抜きで、
計算・計量可能性に
還元された
観点からの
<形式合理性>
を
区別する。
西欧の普遍的な
合理化とは
この後者にあたる。
政治でならば、
無記名選挙の
投票などで
表される
民主主義の
<形式性>
や、
官僚機構の整備、
経済でならば、
労働、労働生産物を
その
実質的価値
(個々の顔をもつ
労働者個人の
満足感や
生産物の
使用価値)
によってではなく、
計量化された
商品の
匿名の市場に
占める位置
(交換価値)
によって測る、
資本主義の発展などだ。
310ページ
ルカーチ メモその27
ヘーゲルにあっては、
死を恐れず戦った
勝利者である
<主人>
は
自立した存在であり、
死を恐れて敗れた
<奴隷>
の労働を享受している
かのようである。
しかし
実のところは、
奴隷の労働に
依存してしか
主人はありえない。
それに対して奴隷は、
労働を通して
自己対象化を
行ない、
労働の生産物によって
自己実現を果たす。
そして
つねに
さらされる
死の恐怖によって、
自己の生命への
執着から
抜け出てゆく。
このようにして、
主人が自由と
自立性を
失い、
奴隷がそれを
獲得してゆく、
という
逆転が起こる。
この
<弁証法>
の
奴隷の立場に、
ルカーチは
プロレタリアートを
置くのだが、
その際に
<物象化>概念
が
重要になるのだった。
305ページ
ルカーチ メモその26
階級意識ということで
念頭に置かれているのは、
決して
心理学的ないし
大衆心理学的原理
ではない。
つまり、一定の
階級に所属する者が
一定の
歴史的状態において
実際に
考えたり
感じたりした
ものではない。
階級意識が
意味するのは
逆で、
ある階級に
所属する者が、
もしも自らの階級の状態、
そこから
生ずる利害を、
直接の行動および
全社会の構造という点に
関連づけて
完璧に
把握する
能力をもっている
ならば
持つであろうような、
思考、感情のことである。
資本が事物として
存在するわけではなく、
ひとつの
「社会的生産関係」
であるのと
等しく、
階級意識は
心理学的存在ではない。
それは
生産過程の
一定の状態に
帰属する合理的に
ふさわしい反応である。
301~302ページ
ルカーチ メモその25
この最終目的というものは、
闘争の個々の契機が
それによって
はじめて
革命的な意味を
もちうるところの、
全体への関係
(過程として
考察された
社会全体への
関係)
なのである。
この全体への
関係は
単純で
平静な
日常性のなかの
あらゆる
契機のなかに
内在しているが、
それは
意識されることによって
はじめて
現実的なものとなるのであり、
またこのように
全体への関係が
明らかになることによって、
日々の闘争の契機が
現実性をもつ
ことになる。
つまり
たんなる
事実性や
たんなる
存在から
現実性に
高まるのである。
290ページ
ルカーチ メモその24
ここで述べられている
意識化の契機は、
カントの<啓蒙>
についてのくだり
を思わせる。
「啓蒙とは何か
という問いに
対する答え」
のなかで、
啓蒙を定義して、
人間が
自らに責めのある
<未成年状態>
から
脱することだと述べていた。
その際に
啓く蒙とは、
個における
覚醒次元でというよりは、
人類史的に捉えられている。
そして
これは
西欧的見地からすれば
とりもなおさず、
西欧の近代化・合理化の
過程と軌を一にする。
ヴェーバーはこの合理化過程を、
また同時に
物象化
(Versachlichung)
過程とも表した。
ルカーチに即してみるならば、
目ざめた
自己意識が、
直接的で狭隘な
利害関係のなかに
捕らわれてゆく過程と
なるだろう。
266~267ページ
ルカーチ メモその23
もしもルカーチの考察が
ここまでで、
教養小説を讃えることで
終わっていたなら、
たんなる
ご都合主義的な
折衷にとどまってしまっただろう。
それを扱った
最後の節は、
紙数も少なく他の箇所と
比べて
説得的とは
言いがたいが、
ルカーチが
指し示そうとしていたことがらならば
判る。
彼によるなら、
トルストイにあっては、
文化と自然がまったく
断絶した層をなしている
点で、
自然もが文化でしかない
西欧世界と分かたれる。
トルストイによって
描かれた
自然のなかに、
ルカーチは
小説の世界を
突き抜ける
あらたな
叙事詩への
ひとつの
可能性を予感する。
だがそれは同時に、
予感にとどまるもので
あることも
確言されていた。
212ページ
ルカーチ メモその22
ギリシア悲劇の場合のような
<悲劇的>
な世界では、
人間は有無を言う余地も
ないままに
運命に
盲従せざるを得ない。
だが、
そうした
<悲劇>
とは、
はたして本当に
人間の存在を究極的に
表したものなのだろうか、
というのが、
そのときの
ルカーチの
問いかけだった。
これは、
文学ジャンルという
枠内で問題は
立てられてはいるものの、
その裏には、
近代資本主義社会の
<運命的な力>
に対する
考察もが
介在していたと
推定することは、
あながち
不自然ではないだろう。
というのも、
まさにこの点が
マックス・ヴェーバーの
ヨーロッパ近代の
考察の中心点でもあり、
ルカーチ自身その
影響下で
『近代戯曲発展史』
などにおいて、
<物象化
Versachlichung>
過程として
それを
描いていたのだから。
そうした点を
踏まえてみるならば、
彼の
<悲劇>論にも
また
違う
光が当たる
というものだ。
199ページ
国土論 三島由紀夫 (再掲)
「三島は
紛うことなく
戦後社会の外部に
立とうとした。
だが、
戦後社会は
自分の外部が
あることを
許容しない。
この拒否は
生の哲学という
全面的な
肯定の所作において
行われているため
ほとんど意識されない。
どんな精神のかたちにせよ、
それが生命の形式であるかぎり
ー体制派も、全共闘運動もふくめてー
戦後的な
生の哲学は
それを是認しうるのである。
三島は
死に遅れたものとして、
戦後社会との
そのような共犯性、
あるいは
戦後社会の総体性にたいして
潔癖ともいえる
反発の意思を
隠そうとしなかった。
三島の精神による抵抗に
意味があるとすれば、
それが
生の哲学の軌跡に
回収されないことであり、
死を如実にはらんでいる
限りにおいてであった。
三島は
自分の精神を
思想的な形象でみたしたが、
そうした彩りは
ただ死の線分に接続する
限りにおいてのみ
精神の形象でありえたに
すぎなかった。」
395ページ 国土論 内田隆三 筑摩書房
ルカーチ メモその21
さらに
この
時間意識は、
<死>
との
関係で
はかられている。
<現実の生は、
限界というものを
知らない。
死もなにか
恐ろしい脅威、
なにか無意味なもの、
生の流れを
突然に
断ち切ってしまうものと
考えている。
神秘的なるものは
この限界を
とび越え、
それ故死のもつ
あらゆる
現実的な価値を
打ち消してしまった。
悲劇にとって死はー
限界そのものなのだがー
つねに
内在的な現実性であり、
悲劇における
出来事のすべてが
分かちがたく
結びついている>。
<限界の体験は、
魂が意識へと
自意識へと
めざめることだ。
魂が存在するのは、
それに
限界があるからである。
限界があるために、
また
そのかぎりにおいてのみ、
魂は存在する>。
186ページ
ルカーチ メモその20
一方において
<現実の生>
にあっては
<完全に
成就されるものも
なければ、
完全に終了するものもない>、
<真の生へと開花するものは
なにもない>、
<常に
否定的な形でしか
書き表すことは
できない>。
それに対して
置かれるのが、
神の前で
なされる
<奇蹟>
だった。
<神にとっては、
相対性は
存在しえない。
過渡も微妙な陰翳もない。
神のまなざしは
いかなる
出来事からも、
その時間性と
場所性を
すべて
奪う。
神の前では
仮象と本質、
現象と理念、
出来事と運命の
差異は
存在しない。
価値と現実という
問題も、
ここでは
その意味を失った>。
そしてこうした
<偉大な瞬間の
血気に満ちた
直接に体験された
真実>
を
もたらすのが
悲劇の役割だった。
<それはあくまでも
瞬間である。
それは
生を意味しない。
通常の生とは
まったく
相容れず、
それと
対立する
別の生である>。
そこで、
<劇における時間の集中>
とは、
<生全体にほかならぬ
この瞬間の、
あらゆる
時間性からの
脱却>
を
目指したものであると
いうことになる。
185ページ
ルカーチ メモその19
<悲劇>とは、
エルンストにとって、
また
ルカーチにとって、
必然性の世界を
意味している。
そして、
<我ら高みの人間は
必然性に従い生きる>
という
ブルンヒルトの
科白にあるように、
悲劇は
<悲劇の国に
住むには
あまりにも
弱いもの、
あまりにも
低いものを
永久にしめ出す>。
そこで、
<万人に平等の權利
を
あたえよという
要請を
とことんまで
つきつめていった
民主主義者たちは、
常に
悲劇の存在理由を
否定しようとした>
という。
184ページ
ルカーチ メモその18
エルンスト本人に
即するならば、
労働運動への
関与
といった過去から、
このような
<新古典主義>
への
転回は、
<転向>
などではありえなかった。
彼にしてみれば、
反資本主義の
<倫理>
に
裏打ちされている、
という意味では、
両者は
乖離なく
つながっていただろう。
そして
同じことは、
翻って、
ルカーチにも
そのまま
当てはまる
局面があることは、
また
改めて
確認することになる。
181ページ
アーレントとカール・シュミット (再掲)
アーレントは、
「人間の条件」で、
現代人は、
ただ
経済学の原理に
従うだけの存在であり、
傑出した人間も
その反対の人間も、
偏差という意味では
人口の増加に伴って
大差のないものであり、
社会の
都合の良い存在に
成り果て、
どんな偉業も
社会の趨勢を変えることはない、
と述べている。
エルサレムのアイヒマンで、
悪の陳腐さを
白日の下に晒した
彼女にとって、
人間は
もはや
信用できないもので
あったのだろうか。
誰もが、
現世の組織の歯車として、
それ以上のものでは
なり得なくなった
現代社会において、
人間の価値とは
何なのであろうか?
単に
社会の中のアトムに
過ぎないのであろうか?
こう問いを立てたとき、
カール・シュミットの
「例外状態」理論は
魅力的に見えてくる。
シュミットのいう
「例外状態」とは、
端的に戦争のことであり、
そこにおいて、
友と敵を
明確に区別することによって、
社会のモヤモヤした部分が
排除され、
国家の本質が
明確になるからだ。
これは
大衆社会にとって
ある種の処方箋になりうるし、
当然
国家主義者にとっては
都合の良い理屈だ。
しかし、
アーレントの、
このモヤモヤした
社会の中で
いかに個々人が
その存在を輝かせるか、
という困難な思索のほうが、
困難であるだけ、
なお価値があると思われる。
結局彼女の
多数性における赦しとは、
キリスト教的な
愛の観念に基づくものなのだが、
彼女自身がユダヤ人であり、
万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、
むしろ
峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な
赦しの様相を拭いきれないのは、
その苛烈さが
社会のモヤモヤした
部分を
切り裂くような
可能性を
帯びているからとは
言えないだろうか。
ルカーチ メモその17
というのも、彼が
こうした
距離感を
保った
冷徹な
まなざしを
もっていたからといって、
そのような
時代の風潮の飛沫を
彼自身
まったく
かぶっていなかった、
ということでも
ないように
思えるからだ。
というよりむしろ、
そのあまりの
深みに
身を
浸しきって
いたために、
国家間戦争というような
次元には
与しないですんだ
ともいえる。
それは
後半部での
<英雄精神>
についての記述
にも
擬せられるような
態度、
すなわち
<物象化>
へと、
結局のところ
収斂してしまう
ことへの
反撥と
表裏一体だ。
このなかで
そうとは
露骨に
書かれている
わけではないが、
平準化、
民主主義的
平板化
への
嫌悪感の
表白ともいえるだろう。
つまり、
日々同じことが
繰り返されている
千篇一律なる
日常を切り裂く、
そんな力が
期待された
<戦争>
が、
結局のところは、
そこに
額ずき
従う者どもを、
部品のひとつとして
消費してゆく、
これまた
同じことの
繰り返しが
行われている、
という
判断だ。
172ページ
ルカーチ メモその16
もう少し言うなら、
戦争が
もたらしてくれる
この
<なにものか>
とは、
近代個人主義によって
分断されて
アトム化
されていた
ひとびとの
間の仕切りを
廃棄する
一体感、
<新しい友愛的共同体>
の
意識だという。
しかしこれは、
従来の素朴なかたちの
愛国心とも
異なった
特異性を
まとっており、
<非ドイツ人には
まったく
理解しがたい>
<ほとんど
宗教的で
名状しがたき
体験>
であるように、
ドイツ人たち
自身も
捉えている。
170ページ
ルカーチ メモその15
このような
形式化原理を
ルカーチは
<「純粋」形式>
と
名づけている。
ここに、
彼の
美学構想のひとつの
極致が
描かれた。
それは、
政治的ユートピアの
周りに漂う
血なまぐささに
汚染される
以前の、
最後の輝きを
秘めているかのようだ。
この
形式化原理によって、
<すべての願望が
純粋な成就に
収斂しうる>
作品、
<あらゆる
対立が崩れて、
楽園的世界を
築きあげるため
手を結び合う、
そんな
本当の地上の楽園>
であるような
作品が
創られる。
161ページ
ルカーチ メモその14
装飾的に
形成された
事物の表面は、
あらゆる
非合理性を
受け入れることが
可能であり、
かつすべては
厳密な
法則に
取り囲まれている。
そこでは
法則は
必然性を
損なうことなく
硬直は解かれ、
解消されえないものは、
平板な
把握可能性の
なかに
失せることなく、
明白かつ
軽快になる。
このような
秩序と遊戯の
綜合である装飾
という
概念によって、
この
形式化の
目標は達成され、
それの
すべての
逆説は解消される。
いっさいの
ユートピア的現実
の
模像が
成立したのだ。
161ページ
ルカーチ メモその13
レオー・ポッパーにとって、
技術と材料の
理論は、
芸術形而上学の
真の
第一段階だった。
なぜならば、
彼の見解にとっては、
技術的意欲と
材料の法則は、
作品への意志を
超主観的に担う
ものであるからだ。
これは、
意欲し自らを捧げる
主体を超えて
自己実現するよう
強いられ、
そして
作品において
実体をもつ。
そうすることで、
人間が
熱望し
人間が
創造しながらも、
人間の意志と体験では
決して
到達できない、
地上の楽園が
築かれるのだ。
158ページ
ルカーチ メモその12
誤解の意味するのは、
我々の
知るとおり、
美的受容者が
作品体験において
作品の
「真の」
内容を
受け入れる
ことでもなければ、
作品の
内的構造を
見通す
というような
ことでもない。
そうではなく、
受容者自身の
体験のもつ
諸要因は、
原理的に
伝達不可能で
比較できない
性質であるが、
そのような
体験の要因から、
ひとつの
閉じた世界が
生ずる、
そして
これを
受容者が作品として、
すなわち
自分から独立した
ものとして
体験する、
このことである。
この作品は、
受容者には
意識されない
仕方で、
彼固有の
体験内容と
彼固有の
体験の質を
もっている。
そこで、
この作品は
受容者にとっては、
自分にこそ
対応した、
そして
自分をこそ
充足させてくれる、
そんな
ユートピア的現実を
意味する。
157ページ
ルカーチ メモその11
芸術作品とは、
永遠化した
誤解という
逆説的で
類をみない
位置をもつ。
これによって
はじめて
美学の
自立性と
内在性が
可能になる。
この
芸術作品の位置は、
その
中心価値のもつ
永遠性、
普遍性、
客観性によって、
体験的現実と
戴然と
分かたれる。
159ページ
ルカーチ メモその10
それに対して、
どのような芸術作品であれ、
それを
享受する者がおらず、
抽斗なり
密室なりのなかに
人目に触れずに
あるかぎり、
芸術的感動も
なにもあるわけはない。
それにとどまらず、
制作者は作品が
どのように
受け入れられるのかを
先取りしている
場合もあろうし、
同じ作品が
時代によって
まったく
違った
評価を受ける
こともある。
どこに力点を
置くかはともかく、
作品が人によって
鑑賞され
受け入れられる、
という
側面に着眼した
<受容美学>
というものも、
他方で考えられる。
しかし
ルカーチの端緒は、
このいずれにも
つかないところで
開かれる。
つまり、
彼の考える
<美学体系>
にとって、
芸術作品の生産者、
あるいは
受容者といった
人間主体は
括弧に入れ、
芸術作品が
現に
そこにある、
という事実性を
出発点に据えるべき
ものである、
ということだ。
この発想の裏には、
『魂と形式』
に
即して
<形式>
概念としてみたのと
同様な発想、
つまり、
現実の生は
疎外されているが、
美の領域は
その汚染から
免れた
自立的な
価値領域として
存しうる、
という
考えがあった。
そのときすでに、
作品を
<生の客観化>、
<体験の表現>
と
捉え、
その理解、
追体験が受容者の態度、
と
考える
ディルタイ流の把握からは
すっかり脱している。
<体験>
と
直結させて
考えるには
作品はあまりにも
自律化し、
それ自体の
<生>
を
獲得している
からだ。
154~155ページ
ルカーチ メモその9
カントの
いわゆる
<三批判書>
では、
理論理性と
実践理性の
位置づけは
明快だった。
それに対して、
両者の中間領域
として
設定された、
美、崇高に向けられた
<判断力批判>
は、
両者では
片がつかない領域、
というその
そもそもの性格からして、
ある意味で
必然的とも
言える
曖昧さを
残さざるを得ない。
だが
この曖昧さによって
むしろ、
対象の
科学的認識を行う
理論理性と、
人と人との間の
関係において
成り立つ
実践理性と、
その
二つの領域の
架橋を
判断力が
なしうるのではないか、
ということで、
近年
再評価の機運が
高まっている。
ルカーチが
美学を構想したのも、
まさに
新カント学派の
二元論を
前提としつつ、
端的に言うなら、
美の領域でこそ
主体と客体の合一の境地
を
達成しうる、
という
目的意識に
貫かれている。
151~152
ルカーチ メモその8
ルカーチを
はじめとする
<これら若い哲学者たちを
動かしていたのは、
現世を越えた
神の
新しい使者に
向けられた、
終末論的な希望
だった。
そして
彼らは、同胞的友愛
によって
打ち立てられた
社会的な
結社秩序のなかに
救済の前提条件を
見ていた>。
148ページ
ルカーチ メモその7
彼
(マックス・ヴェーバー)
によるならば、
社会科学は
<価値自由>、
すなわち
観察者の主観的な
価値判断に
捕らわれない
認識であるべきであり、
価値は科学によっては
定められない領域にある
と
考えられた。
しかし、
人間の社会的行動
そのものは
なんらかの
価値と
結びついているのであり、
社会科学は、
社会現象を
諸個人の行為に
還元し、
そこにおける
価値的態度との
関係で
理解しなくては
ならない。
これが
彼の
理解社会学の
要諦になる。
これは、
社会科学者として、
価値判断をくだす
ことへの、
ある一定の
価値基準に
帰依することへの
断念とも
受け取れる。
そうすることによって、
社会科学を
<科学>
として、
自然科学とは
相違点を
伴いながらも
それと
並び立ちうる
ものとして
位置づけようと
したのだった。
142~143ページ
ルカーチ メモその6
・・・これに対してAは、
Bの見解のなかで
欠如している
<超越論的なもの>
を
導入しようとする。
人間の尺度が
我々人間自身にとって
息苦しく
狭すぎるように
感じられるとき、
人間は
空気をいれようと
自らを開くよう
余儀なくされる。
そのようにして
我々は、
<いつの日か来るべき
偉大なる
綜合
(ジンテーゼ)
のための
盲目なる
奴隷の労務>
に
就くのだという。
(中略)
我々は
さまざまに
問いを立て、
目の前にある
完結しているかに
見える
<作品>
に
ほころび、切断を
いれる。
これを
Aは
<永遠に
究極の
一歩手前に
いる者>
の
<殉教>
と称する。
そうすることによって
<現世の時間に
つながれたものを
永遠のものと
関係づける>、
すなわち、
生の不完全性、
断片性に
とどまるにも
かかわらず、
いや、
むしろ
そこに
とどまることによってこそ、
彼方に
完全無欠なる
なにものかを
呼び出そうという
衝迫が
語られている。
127ページ
2023年8月11日金曜日
妄想卒論その8 「世界の共同主観的存在構造」 岩波文庫 (再掲)
われわれは、現に、時計の音を「カチカチ」と聞き、鶏の啼く声を「コケコッコー」と聞く。英語の知識をもたぬ者が、それを「チックタック」とか「コッカドゥドゥルドゥー」とか聞きとるということは殆んど不可能であろう。この一事を以ってしても判る通り、音の聞こえかたといった次元においてすら、所与をetwasとして意識する仕方が共同主観化されており、この共同主観化されたetwas以外の相で所与を意識するということは、殆んど、不可能なほどになっているのが実態である。(59ページ) しかるに、このetwasは、しばしば、”物象化”されて意識される。われわれ自身、先には、このものの”肉化”を云々することによって、物象化的意識に半ば迎合したのであったが、この「形式」を純粋に取出そうと試みるとき、かの「イデアール」な存在性格を呈し、”経験的認識”に対するプリオリテートを要求する。このため、当のetwasは「本質直感」といった特別な直感の対象として思念されたり、純粋な知性によって認識される形而上学的な実在として思念されたりすることになる。(67ページ) 第三に、この音は「カチカチ」と聞こえるが、チックタックetc.ならざるこの聞こえかたは、一定の文化的環境のなかで、他人たちとの言語的交通を経験することによって確立したものである。それゆえ、現在共存する他人というわけではないにせよ、ともあれ文化的環境、他人たちによってもこの音は規制される。(いま時計が人工の所産だという点は措くが、この他人たちは言語的交通という聯関で問題になるのであり、彼らの生理的過程や”意識”が介入する!)この限りでは、音は、文化的環境、他人たちにも”属する”と云う方が至当である。(70ページ) 一般には、同一の語彙で表される対象(ないし観念)群は、わけても”概念語”の場合、同一の性質をもつと思念されている。この一対一的な対応性は、しかも、単なる並行現象ではなく、同一の性質をもつ(原因)が故に同一の語彙で表現される(結果)という因果的な関係で考えられている。しかしながら、実際には、むしろそれと逆ではないであろうか?共同主観的に同一の語彙で呼ばれること(原因)から、同一の性質をもつ筈だという思念マイヌング(結果)が生じているのではないのか?(109ページ) 第二段は、共同主観的な価値意識、そしてそれの”物象化”ということが、一体いかにして成立するか?この問題の解明に懸る。因みに、貨幣のもつ価値(経済価値)は、人びとが共同主観的に一致してそれに価値を認めることにおいて存立するのだ、と言ってみたところで(これはわれわれの第一段落の議論に類するわけだが)、このことそれ自体がいかに真実であるにせよ、まだ何事をも説明したことにはならない。問題は、当の価値の内実を究明してみせることであり、また、何故如何にしてそのような共同主観的な一致が成立するかを説明してみせることである。この第二段の作業課題は、個々の価値形象について、歴史的・具体的に、実証的に試みる必要がある。(164~165ページ) (以下熊野純彦氏による解説より) 『資本論』のマルクスは、「抽象的人間労働」などというものがこの地上のどこにも存在しないことを知っている。存在しないものがゼリーのように「凝結」して価値を形成するはずがないことも知っていた。要するに『資本論』のマルクスはもはや疎外論者ではすこしもないのだ、と廣松はみる。 労働生産物は交換の内部においてはじめて価値となる。とすれば、交換という社会的関係そのものにこそ商品のフェティシズムの秘密があることになるだろう。関係が、謎の背後にある。つまり、関係がものとしてあらわれてしまうところに謎を解くカギがある。商品の「価値性格」がただ「他の商品にたいする固有の関係をつうじて」あらわれることに注目しなければならない。商品として交換されることそれ自体によって、「労働の社会的性格」が「労働生産物そのものの対象的性格」としてあらわれ、つまりは「社会的な関係」、ひととひとのあいだの関係が「物と物との関係」としてあらわれる(『資本論』第1巻)。ものは<他者との関係>において、したがって人間と人間との関係にあって価値をもち、商品となる。(533~534ページ)
ルカーチ メモその5
人間の営為
の結果として
作られたものが、
人間の
手に負えない、
人間に対して
自立的に
振る舞う
ものへと
変ずる。
ディルタイと
対照するならば、
<生の客体化>
と
同義の
<精神の対象化>
から、
いわば
近代の病理としての
<疎外>
が
区別されていること、
これが
見落とすことのできない
特徴となる。
これを
ここでは
<疎外>論
の次元と
名づけておく。
61~62ページ
ルカーチ メモその4
労働、生産等の
経済生活にかぎらず、
国家組織にしても、
また
学問にしても、
かつては
人間と人間が
顔を
つき合わせていた
<人格的>
な
結びつきのうえに
成り立っていた。
それが
近代化の過程の
なかで
そのような
関係が
解体してゆき、
<客観的な合法則性>
へと
いっさいを
還元化する
傾向が
進行する、
これを彼は
<生の客観化>
と
称したのだった。
59ページ
ルカーチ メモその3
彼らにあって
共通項として
見られるのは、
かつて
存していた
いわば
<素朴>
な
段階から
<現在>
が
懸隔してしまった、
ということ、
そして
いまや
そのような
<素朴>
さは
そのままのかたちでは
もはや
取り戻しえない、
という
認識だ。
端的に言うならば、
過去との懸隔を
惜しみながらも、
<近代化>
という
前進運動の
不可避性、
不可逆性に
対する
認識に基づいて
<現在>
を
位置づけようという
理路とでも
形容できよう。
58ページ
ルカーチ メモその2
形式をもって
はじめて、
個の固有な
ものであった
体験が外化され、
そのことによって
他者と
共有可能となる、
すなわち
社会化される。
形式は
ここでは
固有性から
抽象化された、
他者との
交換を
前提とした
ものである。
それ故に、
形式の探求は、
自ずと
社会学的探求と
ならずには
いない
59ページ
ルカーチ メモその1 講談社 現代思想の冒険者たち 初見基
<芸術のための芸術>
といった
言い回しに
端的に
表されているような
芸術の
自律性が
意識的に
打ち出されるように
なったのは、
ようやく
十九世紀後半からの
ことだ。
客観的には、
市民社会の
近代化・合理化によって
<芸術>
も
独立した一分野として
分化・制度化された、
ということがあろう。
また
主観的には、
そのような
近代化・合理化、
あるいは
自然科学的世界観
の
進展に対する
反動として、
<合理性>
の観点からするなら
受け入れられない、
いわば
<非合理>
なるものを
避難、確保させる
場所が、
<芸術>
という領域に託された、
ということにでも
なるだろう。
ともあれ
そこでは
<芸術>
は、
なにものかに
仕えるという
役目を放り出して
いるかのように見え、
華々しい
破壊の身振りすら
しばしば
伴う
ことになる。
とりわけ
<世紀末芸術>
においては、
生や希望、
徳が
愛でられるのではなく、
死、絶望、背徳、残虐
といった
負の要因に
<美>
が
託されたりもする。
39~40ページ
2023年8月10日木曜日
妄想卒論その10 (再掲)
言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。 やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章) なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。 しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。 三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。 こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。 静岡大学 森本隆子先生より
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