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4月, 2025の投稿を表示しています

盛り沢山

4月は 初っ端から 色々 あったな。 すげえ 充実してたわ。 日付が変われば、 もう5月。 俺が 精神錯乱してから、 単純計算で 21年か。 よく頑張ったよ。 我ながら。

明石家さんま (再掲)

姉もなー 私は世界広い、 お前は 世界狭い、て マウント かましてくるくせに、 年齢相応の常識すら ねーからな。 高いカネ出して お見合いクラブ 入ったのに、 プロフィール欄の 尊敬する 歴史上の 人物 に 明石家さんま て 書いちゃうんだからな。 そら、 どんなに顔面偏差値 高くても、 まともな男は 寄って来ないよ。 私はバカです って 言ってるようなもんじゃん。 お前のいう 世界広いって なんなんだよ? もうアホすぎて 付き合いきれねえんだよ。 父親が 生きてた時に、 株が終わって 生活費を 近くの コンビニで おろすのを頼まれた時、 コンビニのATMで 小林家 一ヶ月分の カネ引き出してんのに、 3歳の息子が どこ行くか わからないから 帰るのが 何時間後になるか わからない、 とか ふざけた こと言ってて、 ほんと コイツの頭は どうなってんだ?! と 思ったわ。

前から思ってたけど

もう 亡くなったけど、 小林家で 一番 マトモだったのは、 実は 父親だったんじゃないか、と 思う。 確かに 欲の塊だったし、 超ジコチューだったし、 息子がどんなに 苦しんでても 都合の悪いことは 見て見ぬふり 決め込む人だったけど、 フツウの 道徳観念というか、 人並みの 情け深さはあったし、 姉みたいな ぶっ飛んでる人から 比べれば、 遥かにマシだった 気がする。

3年前の夏だったかな? (再掲)

終活する気配が微塵も見られない から、 財産どーすんの? って 聞いたら、 姉に 俺の生活費 管理してもらうつもり、 とか言うから、 て・め・え 何を 言ってるんだ????? と 危うく発狂しそうになって、 救急車呼んで 病院で半日静養したら、 ようやく 半々でってことで 一筆したためて もらったけど、 あのときは 姉を疑い過ぎなのかな? と ちょっとは 思ったけど、 やっぱり 事態がこうなってみると、 正解だったね。

旧約聖書 creeping death

「人間」の 業の深さを 考えると、 やっぱり こっちも 読まないとね。  https://www.youtube.com/watch?v=X8OeBZQn3_w  Slaves Hebrews born to serve, to the pharaoh Heed To his every word, live in fear Faith Of the unknown one, the deliverer Wait Something must be done, four hundred years So let it be written So let it be done I’m sent here by the chosen one So let it be written So let it be done To kill the first born pharaoh son I’m creeping death Now Let my people go, land of Goshen Go I will be with thee, bush of fire Blood Running red and strong, down the Nile Plague Darkness three days long, hail to fire So let it be written So let it be done I’m sent here by the chosen one So let it be written So let it be done To kill the first born pharaoh son I’m creeping death Die by my hand I creep across the land Killing first-born man Die by my hand I creep across the land Killing first-born man I Rule the midnight air, the destroyer Born I shall soon be there, deadly mass I Creep the steps and floor, final darkn...

人間って怖い。

母親が 脳梗塞になってから まだ 1年やそこらの ことだったか、 姉が言うには、 姉が 母親の遺産を (俺の) 甥っ子に すべて相続させる、と 姉が 遺書を書いて、死ねば、 母親の遺産が すべて (俺の) 甥っ子、 つまり 姉の息子の ものになる、と、 本気で信じていたらしい。 ほんと 怖いんですけど。 常識なさすぎだし、 俺、こいつに ほんとに 殺されるんじゃないか、と 思うわ。 そういうこと考えると、 本気で 法的に 縁を切りたくなる。 しかも、そういうことを 母親に モロ聞こえてんのに 平気でするんだからね。 ちょっと 常軌を逸してるわ。 キリストさんとやら、 世の中そんな キレイゴトじゃ 通りませんよ。

「資金循環で見る日本企業の姿」 帝京大学教授 田中賢治 

日経新聞の 「やさしい経済学」の 連載。 日本企業に対する、 松原先生の 解釈とはまた 少し 違った解釈が 面白い。 経済学は 答えが 一つに 決まりきらないのが 面白い。 ・・・でも よく読んでみると、 松原先生が 仰ってることの 通りにも 読める。 自分の会計の知識が ショボ過ぎて、 よく分からない。 ・・・ああ、でも 海外に「投資」してる、と この連載がいうところは、 「貸している」とも 読めるから、やはり 松原先生が仰る通りなんだろう。 ・・・連載終了。 すべて読みました。 松原先生が仰っていることと、 ほぼ ピタリと符合しており、 日本経済が抱える 問題点が、非常に クリアに見えた感じです。

働けない(?)男

もう十分勉強したし、 「福音書」の 解説本も読んで、 「働く」という壁を 超えられるんじゃないか、と 思ったんだが、 マジメに考えると ウツになる。 やはり これが俺の 限界なのか? 贅沢な 生き物だ。 ・・・いや、違う。 そうじゃない。 違う 違う 違〜う そうじゃない。。。 俺は 本能レベルで 働きたいんだ。 そういうタイミングなんだ。 時機が来たんだ。 どうせなら、高崎市役所みたいな ちゃんとしたところで、ちゃんと 働きたいんだ。 理由もへったくれもない。 ただ、そういうタイミングなんだ。 母親の見守りも、出来ることなら もっと 見てあげたいところではあるが、 腎臓の数値もだいぶ 良くなって来たし、 決して 弱い人じゃないから、どうにかしてくれるだろう。 それはそれとして、 俺は もう ちゃんと働かないと、 かえって 気が狂いそうなんだ。 どんなに 単純作業でつまらない、と かかりつけの医者が 言っても。 ・・・手始めに、 TOEIC の申し込み&支払い してきたぜえー ・・・ちょっと 風邪ひきそうになった。 答えを 一つに決めつけないで、 いろんな方向性を 保ちつつ、 いろんな 可能性に対応できるだけ エネルギッシュでいることが、 自分にとっては やりやすい 気がする。 教条主義的なのは 良くない。

「100分 de 名著」 新約聖書 福音書

もう読み終わったが、 過去ログを見ると、 ちょうど 1週間前から 読み始めたようだ。 この 1週間で、気持ちが すげえ 前向きになったよね。 例えば 自動車の運転みたいに、 病院から 出てきて 一番テンパってる時に 無理やり 免許取ったもんだから、 極端に 苦手意識があったけど、 そういうことも 含めて、 人生に対して ちょっと 臆病になってたけど、 よーし、やってやるぞ! って 気になってきた。 宗教ってのは すげえ。  

「ミクロ経済学をつかむ」 有斐閣

これは素晴らしいね。 研究者になるとかでなければ、 これだけでも 十分。 まだ 最初の方しか 読んでいないが。 世の中を見る目が変わる。 (言い過ぎ?) 何事も 基礎が大事。 ・・・すげえ。 分かると めちゃめちゃ楽しいぞ、これ。 名著と言って過言ではない? ・・・びっくりした。 ミクロ経済学ってのは こんなに楽しいのか。 今のところ 中学レベルの数学しか 使っていないが、それでも ここまで 現実の事象を説明できるのか。 やっぱり ミクロ経済学も勉強しないと、 ちゃんと 経済学を理解したとはいえないな。 ・・・後半は完全に つまみ食いだったが、一通り 読んだ。 消費者行動の分析が面白かった。  

はじめにコトバありき。

目覚めのいい朝です。  

おお!アツい!

平沼翔太 2番 レフト スタメン! いいねー、西口監督 いいねー。 平沼への 期待が伝わってくる。 そうね、2番という 打順をこなせれば、 平沼にとっては 最高だろうね。 バントが上手いかどうかは 知らないが、 状況に応じた バッティングが出来る、 という意味では 適してるかもね。 2番という打順は まだ 荷が重いんじゃないか、とは 思ってるけど。

慶応SFCと経済学

慶応SFCは、 さすがに 経済学の教授は 優秀な方が 多かったね。 真っ先に思い浮かぶのが、 小澤太郎先生。 あの方は、 ミクロ経済学が 専門領域なのに、 ミクロ経済学の厳密さを もって マクロ経済学も教えられる 凄い 先生だった。 たぶん あの先生に会わなければ、 ここまで経済学を 勉強できたかどうか。 あとは、 駒井正晶先生とか、 白井早由里先生とかかな。 ああ、あとは 岡部光明先生も素晴らしかった。 俺なんかには もったいないくらい。 さすがに経済学部が看板の 大学だけのことはある。 つっても、あのカリキュラムの組み方だと、 今年は 経済学を重点的に 勉強するぞ! と 思っても、 4年で卒業したいなら 現実的に無理があるし、 自分自身、そんな 贅沢な時間とカネの使い方が 出来たのも、 復学してからのことだったからね。 もう 最低限 経済学だけは分かるようにならないと、 わざわざ 入ったこと自体が すべて 無駄になる、と 思ってたから。 IT勉強したい人には 向いてるのかも知れないけどね。 うーん、思い出すのも なかなかツライものがあるが、 かといって、 放送大学の教授陣が 慶応SFCのそれに 劣るか、っていえば、 決してそんなことはないと思う。 結局、慶応ブランド。 正直、古傷を自分で えぐるような思いだが、 精神錯乱してから 2年も経ってないのに、よく 復学して 単位まで取ってたよね。 今から 振り返ると 我ながらすげえわ。

神なき時代の連帯? 森鴎外「かのように」を巡って 山岡龍一先生からのご回答 (再掲)

一つの簡単な答えは、 ヘーゲル的な意味での 統治は 不可能だ ということです。 その代替案は 複数ありえますし、 フーコーは その一つでしょう (ただし、「知と権力」の 共犯関係が いかなる統治を 具体化するのかは、 わたしには 理解しがたい 難しさが あるように思えます)。 最も わかりやすい代替案が 新自由主義の統治だといえます。 もしも これを拒絶するとすれば、 問題は、 何らかの形での ヘーゲル的な統治への回帰か、 神無き時代の連帯の 可能性の追求となります。 現代の リベラルな政治理論は だいたい 後者のさまざまな バリエーションですが、 密かに 神が導入されている 可能性があるのものが多いので、 フーコーのような議論が 流行るのだと思われます。 鴎外については、 わたしにはコメントする能力はありません。 ただ、 そのような苦悩があるとすれば、 それは鴎外が いかにヨーロッパ(ドイツ)文明に 拘束されていたのかを 示す ことになるでしょう。 ただし、 そのような苦悩を まったく抱かない (ないしは、 そのような苦悩の可能性に思い至らない) 日本人よりは、 はるかにましな 精神性をもっていると思いますが。 明治日本は、 ある意味では、 神無しで ヘーゲル的な全体性を 国家は維持できるのか、 という問いを いち早く 突きつけられていた ともいえます。 この問いへの回答の一つは、 現在でも、 「新たな神の創造」ですが、 そのような回答が、 必然的に 政治的に 悲惨なものになることは、 我々が 歴史から学んだことだといえます。 キリスト教文化圏では、 たとえ 神が死んだ時代でも、 この危険性が よく知られていますが、 はたして日本ではどうでしょうか。 考えてみてください。

「組織論の名著30」 高尾義明 ちくま新書

とても良かった。 ( ´∀`)  

キリスト教哲学の歴史@八戸サテライト レポート (再掲)

アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。

ドストエフスキー・・・深すぎる。。。

信仰箇条と言うのは、 非常に簡単なものなのです。 つまり、次の様に 信ずる事なのです、 キリストよりも 美しいもの、深いもの、愛すべきもの、キリストより道理に適った、勇敢な、完全なものは世の中にはない、と。 実際、僕は 妬ましい程の愛情で 独語するのです、 そんなものが他に ある筈がないのだ、と。 そればかりではない、たとえ 誰かが キリストは 真理の埒外にいるという事を 僕に 証明したとしても、又、事実、 真理は キリストの裡にはないとしても、 僕は 真理とともにあるより、 寧ろ キリストと一緒に いたいのです。  (ドストエフスキー フォンヴィジン夫人宛て書簡)

旧約聖書

ついでに。 現代思想を勉強してると、 どうしても こっちも 勉強する必要性に 駆られる。 現代思想も、ユダヤ系が 多いからね。 むしろ、現代思想の 代表的な 人物を思い浮かべると、 たいてい どっかしら ユダヤ系が多い。 ハンナ・アーレント、 ジャック・デリダ、 ジークムント・フロイト、 エマニュエル・レヴィナス・・・ 挙げたらキリがないくらい。  

新約聖書

実利的なこと ばっかりやってると、 飽きてくる。 たまには 違う メシが食いたくなる。 ・・・まあまあ 面白いね。 でも、たまに 「それは さすがに ついてけねー」って 解釈があるね。 若松さんの解釈だから 別に いいんだけど、 病を負った女性が ジーザスの衣を触っただけで 病が治った、というんだけど、 それは 気持ちの問題もあるから 百歩譲っていいとして、 若松さんの 解釈が、さすがに それは ジーザスを美化しすぎじゃね? と 思うわ。 ・・・これ以上 意味のわからないこと 言ったら 読むのやめよう、と 思ったけど、 さすがに NHKの「100分 de 名著」だけあって、 うまく どんでん返し してきたね。 「深い」 のかなんなのか、余計 わけがわからなくなってくる。 ラザロの死と復活の話をめぐる 若松さんの解釈を拝読して、 カミサマってのは 人を孤独にほっといてもくれないのか? 果てしなく鬱陶しいだけじゃん、と 思ったが、 本当の「孤独」というのは それこそ 無限地獄かも知れないし、 孤独と共生は 表裏一体なのかも知れない、と 思ったりする。 そこらへんは、 エマニュエル・レヴィナスの議論が かなり わかりやすい。 ・・・「神は常に我とともに あらせられる。」 なんてことも、つい真に受けちゃいそうな くらいだよ。 ・・・2日目、で いいのかな? 「100分 de 名著」は 1日25分 ✕ 4回 という構成になってるから、 今日いちおう 「2日目」の部分を読んだが、 「1日目」を読んだのが昨日だったのか よく覚えていない。 それはともかく、 さすがに NHKの「100 de 名著」 だけあって、 よくよく考えると、短い 文章のなかであっても 無駄なことが 一切書かれていないと 感じる。 ・・・3日目も無事 読了。 なんていうか、ここ数日 自分の中で 変に ギラギラしていたものが、分解されて 溶けて流れ行くように 感じたね。 活躍しなきゃ、みたいな 世俗的な 欲求が、すべてではないにせよ、 けっこう 薄らいだ感はある。 そういう欲望も、大事なんだろうけど、 場合によっては 自分自身...

「魔の山」 トーマス・マン 岩波文庫 下巻 末尾より (再掲)

さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり)

「キャッチャー・イン・ザ・ライ」 J.D.サリンジャー 村上春樹訳 白水社 (再掲)

まだ全部は 読んでないけど、 野球で言えば 9回の表くらいまでは 来たかな。 ほんと、いい物語だった。 半分ぐれーてる 武蔵生とかに 読ませたい。 あるいは、子育てに 悩んでる 親御さんとか。 俺も、高校生の頃 内面はこれくらい 危なっかしかったなー、なんて 思うわ。  

統計に騙されないために (再掲)

昨日の日経新聞の コラム(?)で、 要するに 大卒のほうが 教育費込みで 考えても コスパいい、みたいな ことを 東北大学の 教授が 書いていたが、 そりゃあそうだろうよ。 そもそも 日本の社会全体が 特に 就職において 高卒より大卒を 優遇するように 出来てんだから。 と、いうか それ以前の話として、 頭くるから あまり 真面目に読めないが、 どういうデータの取り方を したのかは よく分からないが、 そもそもの データの取り方として、 大卒で ちゃんと就職して 定年まで働いた人を 前提として 調査しているフシがある。 大学に行って、 環境に適応できずに かえって 俺みたいに 働けなくなった 人間を 最初から データから外している (ように見える)。 そりゃあ、大卒のほうが コスパよく見えるだろうよ。  っていうか、それ以前の話として、 大学で勉強することの価値を すべてとは言わないが、 金銭的価値に置き換えよう、 という 発想が気に入らない。 それはともかく、 データの取り方の恣意性には よほど 注意しないといけない。 自分はもちろん 統計学に詳しいわけではないが、 データに 騙されないために 気をつけなければいけない 注意点を、 わかりやすく解説した 本として、 ちくま新書の 「ニュースの数字をどう読むか ー統計にだまされないための22章」 を 挙げておきます。  

泉鏡花論 私信 (再掲)

鏡花は文学史的には、 まずは「観念小説」に分類されるのでしたよね。 明治も半ばを過ぎて、 まさに資本主義の 合理主義、功利主義が 体制化されてゆく中で、 金銭や身分違い、 それをめぐって 掻き立てられる 欲望が 悲劇を招いてゆく 人間ドラマを、 しかしながら 自然主義的なドロドロした 醜悪な現実を 剔抉する手法とは異なって、 華麗な筆捌きで、 哀切感溢れる 昇華された人情の物語へ 仕立て上げているのが特徴、 といえばよいでしょうか。 (なにしろ鏡花は、 あの絢爛豪華な文体で 明治の人情世態を描いた 尾崎紅葉に入門したこともありました。) 特に 「夜行巡査」 「外科室」 などは、 社会の暗黒面 ーーいわば社会による疎外という テーマ性を有している点で 「観念小説」と呼ばれ、 このジャンルの代表作でもありますが、 上述のような 文体と作法を特質とするため、 小林くんの感じている 怪奇性やロマンティズムは 遺憾なく発揮されています。 この点を より発展させた大きな作品が、 『高野聖』『草迷宮』『夜叉が池』などで、 ここまでくれば 耽美的な「幻想文学」と称しても良いのでは、と。 「幻想」 は もちろん 人間の深層意識と不可分なので、 精神分析の手法を使いたくなるところです。 けっして 鏡花に詳しくはないので、 大きなことは言えないのですが、 とりわけ『高野聖』は、 人間が社会秩序に拘束され、 抑圧し続けている 「深層意識」を着眼点に、 日常 ー表層意識 対 非日常ー 深層意識 を機軸にして作品を読み解けば、 まさにテクストの 網目のようなものが 鮮明に見えてくる作品ではないかと思われます。 後には高僧となったという 若い日の「宗朝」が、 ふとしたことから迷い込んで、 一夜の宿りを求めた山中の一軒家は、 修行僧の日常が 抑圧してきた 彼の深層世界の現れ、 とでも言えそうです。 処女のような羞らいを見せるかと思えば エロティックな姐御の風貌も見せる 不思議な美女、 取り巻く猿や蟇の魑魅魍魎たち、 下僕のようでありながら 監視者でもあるような 「親仁」、 そして 心身の機能を奪われながら、 美女に かしずかれて 天上の声のような 清澄な唄声を響かせる 「白痴」。 お膳立ては十分、といった感じです。 そして、 この「白痴」を基点に、 この魑魅魍魎の山中の世界とは、 実は 近代国家に...

漱石の「自然(じねん)」観を巡って (再掲)

質問:授業でうかがった漱石の自然(じねん)感ですが、それは代助が「青」の世界で拵えた造り物だったのでしょうか? 三千代との実質的な姦通というある種の「原罪」のために、代助は「赤」の世界へと放り出されるのでしょうか? 代助にとって、「じねん」の世界は、「青」の世界でしか成立しえないまがい物なのか、それとも本来的に人間にとって所有しえない抽象物なのか。 アドルノの「自然」観との対比でも、興味深く感じられました。 ご回答:「原罪」という言葉もありましたが、倫理的な漱石は、やはり代助の「青の世界」を(海神の宮の「3年」期限に同じく)、癒しをも意味する一定期間の滞留後には出て行くべき、後にするべき世界として想定しているように思われます。 その意味では、現実世界と水底とーー世界を2つに分断してしまっているのは「代助」であり、人間が現実世界の死を背負った存在である以上、当然、水底的な内なる世界と連続しているはずの赤い現実世界へ、代助が帰還すべきであることは自明であり、当然、代助は葛藤を体験しなければならない‥。こんな感じかなと思います。(オタク青年の現実世界への帰還)。 「じねん」ですが。 「青の世界」ーー自負する「自家特有の世界」で彼が創出した「己に対する誠」を起点に「自分に正直なー(作為や人為の加わることのない)おのずからな−あるがままの」といった展開上に「じねん」が生まれて来るわけですが、上述のようなテクストの構造から言えば、当然、「じねん」は「自然」の最も暗い側面ともいうべき欲動的なものと接続せざるを得ない。というより、元々、「じねんーおのずからな・あるがまま」自体が、まさに「あるがまま」の欲動的なものを内包している、と言うべきなのかもしれません。 そう考えれば、ストーリー展開に従って、「青」が「赤」に接続してゆくように、「おのずから」も「行く雲・流れる水」といった上澄的なものへの憧れの昂まりが、必然的に、同じく「おのずから」人が備えている欲望的な側面を、まさに、おのずから浮上させざるを得ない。 こういった感じなのではないでしょうか。 「じねん」は、「青の世界」の文脈では不本意ではあるものの、本来的に欲動的なものと切り離せず(極論すれば、それを含み込んだ概念であり)、重々、それを承知の漱石が、(身勝手に2つの世界を分断してしまっている)代助を現実世界ー欲望の世界へと、これ...

資本主義と家族 (再掲)

家族が、 資本主義化された 社会野全体の 部分集合になっていて、 社会的な 諸人物のイメージが 「父―母―子」の三角形に 還元される、 ということですね。 「還元(縮小)される se rabattre」 という所がミソです。 資本主義社会全体が 三者関係によって 表象されるわけではなく、 その一部だけが 家族の中で 二次的表象を 作り出すわけです。 家族は、 資本主義機械によって 植民地化されているわけで、 「父」や「母」は 資本主義機械の 一部を代理して、 「私」を躾け、 飼いならすわけです。 「父―母」を「消費する consommer」 というのは、 家族の中で 父や母によって 子供としての 私の欲望が充足される、 ということでしょう。 恐らく、 社会機械と 繋がっている 人間の 欲望の発展の 方向性は 元来 かなり多様な はずなのだけど、 核家族の中で 育てられると、 それは かなり限定的なものに なっていく、ということでしょう。 小さい私は もっぱら パパやママから 与えられるものを 消費する 受動的な存在に すぎません。 大人になって、 「社長―指導者―神父・・・」 等の 職に就いたら、 消費するだけでなくて、 自らも 生産活動に携わるようになるので、 社会体に対して 能動的に働きかけ、 自己の欲望の回路を 拡大できるようになるかと言えば、 そうはいかない。 子供の時に 教えられたように 消費しようとする。 それが、 エディプス三角形の中での 「去勢」でしょう。  「ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義」 p.300~301 作品社 仲正昌樹

「『ファウスト』を深読みする」 仲正昌樹 明月堂書店 (再掲) 

「abjectは、subjectあるいはobjectをもじった造語です。 ab-という接頭辞は、『離脱』という意味があります。 母胎の原初の混沌、 闇に由来し、 subject/object の二項対立に収まり切らなかったもの、 それを排除しないと 秩序や合理性が成り立たないので、 抑圧され、ないことに されてしまう要素を abject と言います。」 「ゲーテ『ファウスト』を深読みする」(仲正昌樹 明月堂書店 p.164)より

報われぬ死者のまなざし (再掲)

「敗戦にいたるまで 国土に 固有の曲率を与えていたのは 天皇の存在であった。 だが、 天皇が 『われ 神にあらず』と 表明したときから、 天皇の像は 国土に曲率を与える 重力の中心から ゆっくりと落下していく。 重い力は 天皇から 無言の死者たちに移動する。 聖なるものは むしろ死者たちであり、 天皇も この死者たちの前に 額ずかねはならない。 この死者たちは その痛ましいまなざしによってしか 力をもたないとしてもである。 それゆえ 戦後社会が 天皇とともに 超越的なものを 失ってしまったというのは正しくない。 そこには 報われぬ死者たちという ひそかな超越があり、 天皇は 皇祖神を祀るだけでなく、 この無名の超越者を 慰霊する司祭として、 ゆるやかな超越性を 帯びるからである。」 137ページ 国土論 内田隆三 筑摩書房

負債観念 (再掲)

「負債」の観念を抱かせることが、 社会全体を構成し、 安定的に維持するための 手段であるわけで、 交換とか経済的利益は 副次的な意味しかないわけです。 先ほどお話ししたように、 儀式に際して 各自の欲望機械を 一点集中的に活性化させますが、 この強烈な体験を 「負債」と記憶させて、 大地に縛り付けることが 社会の維持に必要なわけです。 現代社会にも 通過儀礼のようなものがありますし、 教育の一環として 意味の分からない、 理不尽に感じることさえある 躾を受けることがありますが、 それは、 この「負債」の刻印と 同根だということのようです。 「負債」の刻印が本質だとすると、 むしろ 下手に合理的な理由をつけずに、 感覚が 強制的に動員される、 残酷劇の方がいい、 ということになりそうですね。 <アンチ・オイディプス>入門講義 仲正昌樹 作品社 p.255

アンチ・オイディプス (再掲)

シュレーバー控訴院長は、 尻の中に 太陽光線を きらめかせる。 これは太陽肛門である。 <それ> が 機能することは 確信していい。 シュレーバー控訴院長は 何かを感じ、 何かを生産し、 そして これについて 理論を作ることができる。 何かが 生産される。 この何かは 機械のもたらす結果であって、 単なる隠喩ではない。

負の遺産

経営の世界でも よく語られることだが、 例えば 企業のあるトップが、 自分の 任期の間は いい業績をあげようとして、 経営資源(リソース)を 使い尽くして そのとき限りの 好業績を叩き出すものの、 その後任は そのツケを支払わされるから、 前任のトップは 好評価なのに、 後任のトップは 不人気ってことは、 往々にしてある。 例えば マクドナルドみたいに。 政治の世界も 同じようなもので、 安倍さんが 大盤振る舞いをした、 あるいは 歴代の政権が たなざらしにして どうにもならなくなった ツケを、 岸田さんや 石破さんが どうにかしようとすると、 途端に 国民から 猛反発を喰らう。 そこらへんは もう 民度の問題。 ・・・やっぱり 俺には公務員は ムリなんじゃないか? 俺に対して、 よりによって 選挙のときには 黙ってろ、なんて いうほうが 無理がある。

甥っ子

姉の子ども、 つまり 自分の甥っ子だが、 どうも 運良く 義理の兄に似たらしく、 4月から 小学生になったばかりなのだが、 初っ端から いじめられたり なんだりして、 そっこー 不登校になるのかと思いきや、 ちゃんと 小学校に通ってるらしい。 これは 意外だった。 姉が 育てた子どもが そんな マトモな訳がない、と 思っていたから。 やっぱ 遺伝ってあるよね。 姉が自分の息子を どう いじくり回したか、というと、 例えば、 将来 包茎になるとマズいから、と 言って、 0歳児の 甥っ子のチンコの皮 剥こうとしたり、ちょっと 便秘気味だと 肛門に綿棒つっこんだり、とか。 甥っ子は 当然まだ喋れないから、 オッ!オッ! とか言ってた。 まあ、もしかしたら そのうち 不登校とかになるのかも 知れないけど。 最近 会ってないから 正直 わからない。

猿知恵

今日は 平沼は 代打で出て 凡退したみたいだけど、 見てなかったから なんとも言えないけど、 まっすぐの速い球には タイミングがあってるけど、 チェンジアップ系の ブレーキング・ボールには タイミングがあってないよね。 見た感じ。 速い直球にも 変化球にも 対応するには、より 後ろに重心を残す 打ち方に変える必要が あるんじゃないか? そうすれば、今より 長打力も望めるし。 ま、言うは易く行うは難し。  https://www.youtube.com/watch?v=9w5Hw99a3ko&list=RDMM

「組織論の名著30」 ちくま新書

これも 相当すごい本だぞ。 2024年の12月10日に 第1刷発行ということだから、 かなり 新しい部類に入るが、 なかなか 日本で 本格的でかつ 抽象論に終始しない 組織論の本というのは なかったのだが、 これは 新書という形式を とりつつ、 さまざまな組織論のエッセンスを 体系的に 凝縮した、 まさに 超貴重な一冊。 これは凄い。 中途半端な大学で 組織論学ぶより よっぽどいい。 うーん、こりゃすげえ。 ・・・こういう本 読むと、なんかビジネスしたくなるんだけど、 そういうこと考えると、途端に 脳のランニングコストが 跳ね上がる。 仕方ない。 俺の 脳はそういう思考回路に なっちゃってるんだから。 「働けない」というのは そういうこと。 ・・・そうすると、結局 市役所の障害者雇用とかになるのかな? と 思うんだけど、 一番 問題なのは、公務員て、 選挙のときに 政治的活動しちゃいけないって 法律があんだよね。 なんだよ、それ? 中大通教やってるときに 一応まじめに勉強してるつもりだったから、 判例とか 一通り勉強したけど、 要するに、身分保障してやるから 黙ってろ、ってことでしょ? ほんとふざけてるわ。 ・・・半分近く読んだけど、 これは本当に良心的な一冊だね。 こういう本を読むと、ああ、まだ この国は 完全に腐ってはいない、と 思わせてくれる。 ・・・うーん、こりゃあ すげえわ。 決して そんな大部ではないが、 中身が濃いから、 2、3日で 読み飛ばせるような本ではない。 濃いねえ。 ・・・さすがは ちくま新書。 三分の二ほど読んだが、 後半になっても 息切れするどころか、 ますます 読み応えが出てくる。 これは本当に凄い。 学部生とかでも、経済学の面白さが わかるまで到達していなくても、 この本一冊で 経済学、あるいは経営学を マジメに勉強しよう、と 思わせてくれるかも知れない 一冊。 ・・・だいぶ佳境に入ってきた。 あと2、3日もあれば 余裕で読み終えるだろう。 得たものは大きかった。 ・・・よっしゃー! 読み終わった。 最後は飛ばし読みだったけど。  

レポートネタ 参照:妄想卒論その7 (再掲)

2011年の「ウォール街を占拠せよ」 運動に端を発する 反格差デモは世界中に広がり、 格差拡大の加速を象徴した。 アメリカでは、 上位10%の所得層が 2021年に総所得の46%を 占めるまでになった。 これは 1920年代に匹敵する 富の集中であり、 当時の 革命運動の再来を想起させる。 共産主義は、私有財産を奪う 究極の反格差運動と言える。 1917年のロシア革命後、 第3インターナショナルが設立され、 反資本主義の機運が高まった。 当時のグローバル化は ロシアにも経済成長をもたらしたが、 格差を拡大させ、 日露戦争や第一次世界大戦による 困窮も重なり、革命へと繋がった。 ソ連成立後、 富の集中度は大幅に低下した。 現代では、 ポピュリズムが 人々の怒りの受け皿となっている。 トランプ大統領やオルバン首相のように、 国際協調に背を向ける姿勢が 支持を集めている。 人々が刹那的な主張になびくのは、 他者への信頼が 失われているからだ。 世界価値観調査では、 北欧諸国に比べて アメリカや日本では 他者への信頼度が低い。 信用は本来、 合理的な裏付けを超えるものであり、 リスクを伴う。 資本主義の発達により、 血縁や地縁の関係が希薄化し、リスクが増大したため、 契約の発達や信用の合理化が進んだ。 しかし、 信用の合理化が進みすぎると、 客観的な指標で算定された信用こそが 全てであるかのような 逆転現象が起こる。 ポピュリズム政党は、 既成政治を一部の特権階級の 占有物として描き、 大衆の声を代表する存在として 現れる。 グローバル化は、 一部の富裕層に富を集中させる一方で、 不安定雇用を増大させ、 新たな下層階級を生み出している。 富が集中するほど 他者への信頼が下がり、 「フェアネス指数」が低下し、 ポピュリズムに翻弄されやすくなる。 グローバル化は世界の富を拡大したが、 分配の偏りを生み出した。 日本でも新自由主義的な政策により 格差が拡大している。 大企業は グローバル展開と 国内労働条件の引き下げにより 利潤を増加させてきたが、 その利潤は 再びグローバル投資に振り向けられ、 株主配分に重点を置いた 利益処分が強まり、 所得格差を拡大させている。 経済的に恵まれない層は、 ワーキングプアとも言われる状況で アイデンティティーを脅かされている。 旧来の中間層が ...

「危機の二十年」 E.H.カー 岩波文庫 より (再掲)

「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」  E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より

サイレント・マジョリティー

なんで こんなに 消費税減税に こだわる人が いるのかな?と 思うのだが、 単純に、消費税が 減税されれば、 ふだんの買い物で 実質 値下げになる、だから 景気も良くなる! という発想なんだろうが、近視眼的。 消費税減税を語れば、 安全パイで 政治を語った気になれるし、 みんなそう言ってるから 間違いない、その程度の理屈だろう。 それに乗っかる 政治家もどうかと思うが。 消費税は、世代間で見ても 公平な 税金と言われている。 ただし、貧富の格差のうえでは 不公平、という話も聞くが。 俺は 税金には詳しくない。 ただ、普段のニュースで そんな風に聞いているだけだ。 しかし、消費税減税するのが 必ずしも正義だとは思わない。 ああ、でも 見方によっては、 「世代間で公平」ということは、 貯蓄を取り崩していて、 少なくとも 将来世代よりかは 社会保障が手厚い シニア世代からしても 「不公平」と感じるだろうし、 ましてや シニア世代ほどの 手厚い社会保障が期待できない 若年層からしたら、 さらに 「不公平」と 感じるわけだ。 なるほどね。 「貧富の格差」で見て 不公平というなら、 確かに 最近ジニ係数があがっている、という話も 聞くし、 カツカツの人から 怨嗟の声があがるのは理解できるし、 かといって 消費税を相対的に あまり負担に感じない 世帯からすれば、 わざわざ 自分たち世代の 将来の社会保障をより 不安定化させる 消費減税を敢えて 声高に叫ぶ必要はないから、 実際に 選挙をすれば、 世間が騒ぐほど 消費減税の声は 反映されない、ということに なりかねない。

おっしゃー!いただきやまー!!!

今日は 平沼翔太 スタメン復帰! 3番 レフト。 そろそろ 今年は レギュラーの座を 確保して欲しい。  https://pacificleague.com/video/4683848?utm_source=google&utm_medium=vitatool  うーん、どうやら 平沼 途中で代えられちゃったっぽいねえ。 西武勝ったけど。 まー、さすがに有原も5回だと まだ 球が強かったね。 よくチェンジアップについて いったし、ソフトバンクのショートも 上手かった。。。 やっぱり ソフトバンクはそうそう簡単に 崩れないなー。 でも、正直にいえば、結果を出して欲しかった。 欲を言えばね。 外野まで飛ばそう、という意識は 伝わってきたけど。 ぶっちゃけ、やっぱり 代打の切り札的な 使い方が合ってるんじゃないか、と 思うし、打順も 3番よりかは 5番とか7番あたりのほうが 相手からすれば いやらしい、と思うんだが。 ま、それはともかく、 姉からの ボーナスが見込めないことが わかって、 自分の放送大学の学費は ほんとに 自分の障害年金で 賄わなければいけないって話なんだけど (⇐当たり前) 、もとから 母親から前借りすることはあっても、 キッチリ還していたとはいえ、 当然のごとく 自分の学費は自分で出す、という あたりまえのことを、 ようやく当たり前、と 思えるようになった。 これも 一種の慣れだ。

泉鏡花論 私信 (再掲)

鏡花は文学史的には、 まずは「観念小説」に分類されるのでしたよね。 明治も半ばを過ぎて、 まさに資本主義の 合理主義、功利主義が 体制化されてゆく中で、 金銭や身分違い、 それをめぐって 掻き立てられる 欲望が 悲劇を招いてゆく 人間ドラマを、 しかしながら 自然主義的なドロドロした 醜悪な現実を 剔抉する手法とは異なって、 華麗な筆捌きで、 哀切感溢れる 昇華された人情の物語へ 仕立て上げているのが特徴、 といえばよいでしょうか。 (なにしろ鏡花は、 あの絢爛豪華な文体で 明治の人情世態を描いた 尾崎紅葉に入門したこともありました。) 特に 「夜行巡査」 「外科室」 などは、 社会の暗黒面 ーーいわば社会による疎外という テーマ性を有している点で 「観念小説」と呼ばれ、 このジャンルの代表作でもありますが、 上述のような 文体と作法を特質とするため、 小林くんの感じている 怪奇性やロマンティズムは 遺憾なく発揮されています。 この点を より発展させた大きな作品が、 『高野聖』『草迷宮』『夜叉が池』などで、 ここまでくれば 耽美的な「幻想文学」と称しても良いのでは、と。 「幻想」 は もちろん 人間の深層意識と不可分なので、 精神分析の手法を使いたくなるところです。 けっして 鏡花に詳しくはないので、 大きなことは言えないのですが、 とりわけ『高野聖』は、 人間が社会秩序に拘束され、 抑圧し続けている 「深層意識」を着眼点に、 日常 ー表層意識 対 非日常ー 深層意識 を機軸にして作品を読み解けば、 まさにテクストの 網目のようなものが 鮮明に見えてくる作品ではないかと思われます。 後には高僧となったという 若い日の「宗朝」が、 ふとしたことから迷い込んで、 一夜の宿りを求めた山中の一軒家は、 修行僧の日常が 抑圧してきた 彼の深層世界の現れ、 とでも言えそうです。 処女のような羞らいを見せるかと思えば エロティックな姐御の風貌も見せる 不思議な美女、 取り巻く猿や蟇の魑魅魍魎たち、 下僕のようでありながら 監視者でもあるような 「親仁」、 そして 心身の機能を奪われながら、 美女に かしずかれて 天上の声のような 清澄な唄声を響かせる 「白痴」。 お膳立ては十分、といった感じです。 そして、 この「白痴」を基点に、 この魑魅魍魎の山中の世界とは、 実は 近代国家に...

ちょっと疲れた。

松原先生と火花を散らしていたから、その疲れがちょっと出た。 やっぱりタンパク質は大事だ。 何ごとも身体が資本。 野菜ももちろん大事。 群馬学習センターで行われた 泉鏡花の面接授業、 欠席してしまったのですが、 群馬学習センターから 面接授業で使用した資料が 送られて来ました。 なぜ欠席したかというと、 学期始まって早々、 放送大学の「質問箱」を使った、 松原隆一郎先生との 経済学に関する質疑応答が もりあがってしまって、 ちょっとそれどころではなかった、 というのもあるのですが、 何より、自分が日本近代文学の世界に あまりにも疎いので、 ネットの情報だけでは、 果たして行く価値があるのか (⇐大変失礼) わからなかった、という次第です。 しかし、 送付されてきた資料を読むと、 <近代>への問い、というのは、 なにも 漱石に限った話ではないのだな、 と感じました。 今回は惜しいことをしましたが、 記憶では 市川祥子先生は たびたび 群馬学習センターで 泉鏡花に関する 面接授業を ご担当されているように思いますので、 また機会があったら 是非参加してみようと思います。 もう初夏の陽気ですね。 ファーストサマーウイカ。 自分が 森本先生と ともに 練り上げた 「漱石ーアドルノ」の理論も、 当初の グローバリゼーション批判というより、 学習センターから送られてきた 資料を見ると、 むしろ、 文学解釈理論として 自分のなかで 落とし所を見出したようで、 意外な結末に至った。

いやー、素晴らしい。

今夜も 平沼翔太やってくれました。 チャンスに圧倒的に強い。 20代後半で 代打要員なのは 切ないが、 まあ仕方ない。 求められていることが 明確な時に、 その期待にしっかり応える。 ここぞ! というときに 活躍してくれるだけでも、 じゅうぶん 偉い。 キャッチャー以外なら どこでも 守れるしね。 西武ライオンズ勝った。 平沼 ヒーローインタビューされとる。 なんか あんま嬉しそうじゃないな。 ま、代打要員で 喜んでるようじゃ 先が見える。 本人も 忸怩たる思いだろう。 それでこそ 平沼翔太だ。 こういうダイジェスト動画みてると、 打たれたピッチャーが ほんとに 悔しそうな顔してるよね。 それくらい 大事なシチュエーションで打っている、ということ。 基本的に まっすぐを打ってるよね。 変化球を打ってるイメージはない。  https://www.youtube.com/watch?v=sQ2ja0ymRM4

今年も、この時期が来た。

日経新聞の連載で、 昨日から 新人サラリーマン向けの 財務諸表を読む 記事が載り始めましたが、 この 連載をみると、ああ 今年も この時期が来たか。 と思いますね。 さすがに 3年くらい 同じ時期に 同じことを 言われれば、ああ そんなもんかな、と なんとなくは 思いますが、 いかんせん サラリーマンではないので。

うつ病譚 (再掲)

うつ病ってのは、ツライ。 ある程度は 同情してもらえるんだが、 同情してもらったところで、 苦しいのが 治るわけでもない。 しかし、中には 同情してもらえることに しか 慰めを得られなくて、 同情してもらえることに 依存してしまうこともある。 まあ、 太宰治みたいなもんだ。 (太宰治はほとんど読んだことないが) あれはあれで ツライんだ。 結局、サークルのマイ・コメヂアンになって、 取り巻きの女と心中するのが オチなのだ。 ところで、 うつ病になるにも 色々と 理由があるものだが、 得てして、 うつ病になる原因なんてのは、 わからないものなんだ。 わかったら苦労しねえよ。 しかし、よくあるパターンが、 「やる気スイッチ」をオンに したまま 突っ走ることだ。 こんなことは、根が真面目な人間ほど、 簡単に 起きてしまうことだ。 人間、「やる気スイッチ」を オンにするなんてのは、簡単なことだ。 一度入った「やる気スイッチ」を オフにするってのは、 「やる気スイッチ」をオンにすることの 何倍も 難しい。 で、あるから、 大人として生きていくには、 「やる気スイッチ」の切り方を 習得しておく必要がある。 真面目な人間ほどそうなのだ。 しかして、うつ病というのは あまり 同情してもらえない。 同情されたところで 気休めにしかならないし、 同情されたところで 治ったりはしない。 ただ 中には 同情されることに 依存してしまうタイプもいるだろう。 あ、これ もう 書いたかもだが、たぶん 太宰治とか このパターンだろう。 ある意味で、うつ病を 患うということは、 孤独との闘いでもあるのだ。 何しろ、 周囲の人間から 理解してもらえないからな。 周囲の人間も、 一応は 同情してくれるんだが、キリがないから、 そのうち 去っていく。 そうすると、ますます 孤独になる。 すべてが 悪循環だ。 うつ病が完治するということが あるのかどうかは わからないが、 結局 マシになるには、 誰か 自分の、一番 急所というか、 自分の一番 弱い部分の扉のカギを そっと 預けられる存在が 必要なんだ。 性別はあまり関係ない。 どういう人間関係かも あまり 関係がない。 ともかく、自分の一番 急所である領域へのカギを そっと 預けることが出来て、 その人が そのカギを 誰にも知られないように 密かに 隠し持...

プログラミング (再掲)

高校生のときに 深刻な ウツ状態に陥って、 かなり 危機的なところまで 行ったんだけど、 一種の 極限状態だね。 そのときに、 自分で自分を プログラミングし直した んだけど、 そのときに、 働く、ということまで 計算に入れてなかった。 自分が どこまでやっても 「働く」というところまで 行かない、行けないのは、 そのせいかも知れない。 しかし、 このトシになるまで、 大変なこと 言葉では言い表せないほど あったけど、 乗り切れたのは、 その極限状態を 乗り切れたから。 だから、働けないのは 大目に見てくれ。

批判されるから面白い。そうだろ?

人生、批判されるうちが花よ。 たしかに 心臓には良くないが。 知的権威に そうそう簡単に 認めてもらおうなんてほうが 間違ってる。 勉強ってのは、 ほめられたいから やるものではない。 批判されて ショボくれて終るなら、 そもそも 学問と呼ぶには値しない。 批判されて、そこで 続けられるかどうかが、 学生の値打ちなんだ。 オダテられなかったら 勉強できません、なんてのは 学生の本分にもとる。 批判されるからこそ、 あらたに 問い直しが出来るんだ。 もちろん、心臓には良くないがな。 モンテーニュも 「エセー」のなかで、 勉強ってのは やりたいから やるんだ、みたいなことを 書いていたらしい。 確かに、たまには ほめてもらいたいが、 繰り返しになるが、 オダテられなかったら 勉強できません、なんてのは、 学生の本分ではない。 学生なんてのは 叱られてナンボなんだ。

日々是好日

今日も 日経新聞は 面白い。 学生である以上は、 批判されて ナンボです。 久しぶりに 批判されて、身が シャキッとする。 松原隆一郎先生という、 現代日本の 最高峰の知性に、 「政治学入門@三島レポート」を お読みいただき、 コメントまで頂戴しました。 これで 先へ進めます。 コメントを返してくださるだけ 素晴らしい。 ・・・松原先生からのお返事を つらつら考えていると、 ちゃんとした アカデミック・ライティングとは どんなものか、が ほの見えてくる。 内容がセンセーショナルなら それでいいって わけじゃなく、註釈を付けたり、 主張の根拠を丁寧に示したり、 そのうえで どうやって説得力のある 論を自分で 展開できるか、とか。 得るものは大きい。 ただ、自分は大学を卒業するのに 15年も掛かったし、 大学院に行くつもりは とても 余裕がなくてムリだけど、 こうやって ブログを書いている以上は、 今回の 反省を活かして、できる範囲内で アカデミック・ライティングと 呼ぶに値するものを 目指そうかな、とは思う。 やっぱり、俺はちょっと うぬぼれていたんだ。

「都市社会学講義」 吉原直樹 筑摩書房

非常に言葉が巧み。 文系人間には 心強い。 データとか統計とかで ゴリゴリやるのが 好きな人には 決して おすすめしない。 でも、いかつい 見た目とは裏腹に 超おもしろそう! (゚∀゚) かなり哲学的。 アメリカのプラグマティズムの知識が あったほうがいい。 都市社会学の哲学的基盤が 創生期の学者たちの間で 型作られたことは わかる。 ・・・これは凄い本だぞ。 久しぶりにこんな エキサイティングな本を読んだ。 松原先生に批判されたことを 否が応でも意識しながら 本を読んでいると、こういう 「ちゃんとした本」の、 細かい註釈が大事だったり、 自分の記述が どこを参照して論じているのかを 明示したりとか、 そのうえで どこで自分の意見を出すのか、とか、 アカデミック・ライティングとは どんなもんか、を 意識しながら読むと、色々と 勉強になる。 やっぱり、学生のうちは 叱られてナンボ。 ・・・これは だいぶ面白い。 こんな本が世の中に あったんだなー。 ・・・これは完全に文系の本だね。 理系のひとからすれば、こんなものは 学問ではない、と 言いたくなるだろう。 ただ、自分にとっては 最高に面白いし、きっと 役に立つ。  

中国史についてGoogleの生成AIに回答してもらった。

中国の宋代における新法党と旧法党の対立は、11世紀後半から12世紀初頭にかけて、北宋の政治を大きく揺るがした党争です。その背景には、以下の要因が複雑に絡み合っていました。 1. 社会経済の変化と財政難: 商業の発展と都市の成長: 五代十国時代の混乱を経て、宋代は比較的安定した社会となり、商業が活発化し、都市が大きく発展しました。これにより、商税などの新たな税収が見込める一方、地方からの貢納が安定し、宋朝は強大な経済力を誇りました。 財政の悪化: しかし、遼や西夏といった北方民族との間で、領土問題や朝貢問題が頻発し、多額の軍事費や和平のための贈与金が必要となりました。また、官僚機構の肥大化も財政を圧迫し、英宗の時代には財政赤字に転落していました。 2. 王安石の改革(新法): 富国強兵策: このような財政難と、依然として存在する北方からの脅威に対処するため、神宗は1070年に王安石を登用し、一連の改革(新法)を断行しました。その目的は、国家財政の再建と軍事力の強化にありました。 主な新法: 青苗法: 農民への低利融資を行い、高利貸しからの救済と農業生産の安定化を図る。 均輸法: 政府が物価の安い時期に物資を買い上げ、高い時期に売却することで、物価の安定と政府収入の増加を図る。 市易法: 政府が主要な商品を買い上げ、市場価格を調整することで、投機的な商人活動を抑制し、中小商人を保護する。 募役法: これまで農民に課せられていた無償の労役を廃止し、代わりに役人を雇うための費用を徴収する。これにより、農民の負担軽減と労働力の有効活用を目指す。 保甲法・保馬法: 農村組織を再編し、治安維持と軍馬の確保を図る。 3. 旧法党の反発: 保守的な官僚層の抵抗: 司馬光、欧陽脩、蘇軾といった保守的な官僚たちは、王安石の急進的な改革に強く反発しました。彼らは、伝統的な制度や儒教的な価値観を重視し、政府が経済に直接介入することや、社会秩序を大きく変えることに懸念を抱きました。 大地主・富裕層の不満: 新法の中には、富裕層からの徴税強化や、彼らの経済的利益を制限する内容が含まれていたため、強い反発を招きました。特に、青苗法は高利貸しを営む大地主層の利益を損ない、募役法はこれまで労役を免れていた官戸層にも負担を強いるものでした。 改革の性急さと強引な実施: 新法は、地方の実情を十分に...

中国史についてGoogleの生成AIに回答してもらった。

中国の宋代における形勢戸・官戸・佃戸と身分格差の固定化についてですね。以下にそれぞれの要素と、それらが身分格差の固定化にどのように関連したかを解説します。 形勢戸(けいせいこ) 地方の有力な地主層で、唐代後半から五代にかけて台頭し、宋代に確立しました。 広大な私有地を所有し、佃戸に耕作させて地代を徴収していました。 地域社会において強い影響力を持ち、官僚との結びつきを通じて特権的な地位を築く者もいました。 官戸(かんこ) 官僚の家柄を持つ特権階級です。 科挙による官僚登用が進んだ宋代においても、官僚の子弟や姻戚は有利な地位を占めました。 官職を世襲することは原則として認められませんでしたが、官僚としての地位を利用して経済的基盤を強化し、社会的地位を維持しました。 官戸は、税役の免除などの特権を持ち、地域社会で大きな力を持っていました。 佃戸(でんこ) 地主から土地を借りて耕作する小作人です。 法的には自由民でしたが、実際には土地に縛られ、地主に対して高い地代を支払うなど、隷属的な状況に置かれることもありました。 宋代以降、地主と佃戸の関係は固定化する傾向にあり、佃戸の地位は不安定でした。 身分格差の固定化 宋代においては、以下の要因により身分格差が固定化する傾向が見られました。 土地所有の偏在: 形勢戸を中心とする大地主層が広大な土地を所有し、佃戸はその土地に依存せざるを得ませんでした。これにより、経済的な格差が拡大し、佃戸が自立する機会は限られていました。 官僚層の特権: 官戸は、政治的な権力と経済的な基盤を背景に、地域社会で強い影響力を持ち続けました。彼らの特権は、一般の民衆との間に大きな格差を生み出しました。 科挙制度の限界: 科挙は、比較的公平な官僚登用制度でしたが、実際には、ある程度の経済力や教育を受けられる環境を持つ層が有利であり、貧しい人々が官僚になることは困難でした。また、官僚間の縁故や門閥も存在し、完全に能力主義的な制度とは言えませんでした。 社会的な慣習: 一度形成された身分秩序は、社会的な慣習や意識によって強化され、容易には変動しませんでした。 このように、宋代の社会では、形勢戸・官戸という有力な階層が存在し、多くの佃戸が彼らに従属する構造が強まりました。土地所有の偏在、官僚の特権、科挙制度の限界、そして社会的な慣習が複雑に絡み合い...

ついでにGoogleの生成AIに回答してもらった。

おっしゃる通り、日本の行政法における「行政指導」は、その曖昧な主体・客体関係や、強制力がないはずにもかかわらず事実上の拘束力を持つ点、そして特定の分野における影響力の大きさなど、多くの問題を孕んでいると考えられます。特に医療分野における行政指導のあり方は、新規参入の阻害や既存の権益保護、ひいては医療の質や患者の選択肢にまで影響を及ぼしかねない根深い問題です。 以下に、ご指摘の点について、より詳細に整理し、補足させていただきます。 1. 行政指導の曖昧さと事実上の拘束力 行政指導は、法律に基づく処分や命令といった「行政行為」とは異なり、行政機関が特定の目的を達成するために、事業者や住民に対して行う「お願い」や「助言」といった非権力的な行為とされています。 しかし、実際には、行政指導に従わない場合に、許認可の遅延、補助金の削減、あるいはその後の行政運営における不利益な取り扱いを受けるのではないかという懸念が生じやすく、事実上の拘束力を持つことが少なくありません。 この曖昧な性質が、行政側の責任の所在を不明確にし、市民側からの異議申し立てを困難にする要因となっています。 2. 医療分野における行政指導の具体的な問題点 新規参入の制限: ご指摘の通り、一定の地域で病床数が充足しているという行政側の判断に基づき、新規の医療機関の開設や保険適用が事実上認められないケースは、競争原理を阻害し、患者の選択肢を狭める可能性があります。これは、既存の医療機関の既得権益を保護する側面が強く、医療の効率化や質の向上を妨げる要因となりかねません。 精神医療における病床数の増加: 1950年代以降の日本の精神病床数の増加は、必ずしも患者のニーズのみに合致したものではなく、行政の方針や、病床を確保することで地域における優位性を確立できるという経済的なインセンティブが働いた可能性は否定できません。行政指導が、結果として精神病院の大規模化を助長し、患者の社会復帰を遅らせるなど、負の側面をもたらした可能性も指摘されています。 自由診療への誘導: 保険適用が認められない場合、新規参入者は自由診療での運営を余儀なくされます。これは、患者にとって経済的な負担が大きくなるだけでなく、保険診療を前提とした医療水準や透明性から逸脱する可能性も懸念されます。 3. 武見敬三氏の元厚生労働大臣就任と今後の展望...

日常生活とつながる「行政法」@郡山女子大学 レポート (再掲)

行政法の概念に、 「行政指導」と呼ばれるものが存在する。 行政は、 本来「行政行為」と呼ばれる、 命令する主体としての行政と、 名宛人の市民との 主体・客体関係が ハッキリしている手段で 運営されるべきものだが、 「行政指導」という、 極めて日本的な、 主体・客体関係が不明瞭な手段が、 行政の運営上横行している。 もっとも、 行政指導それ自体が問題なのではなく、 行政指導が、 本来強制力を伴わないものであるはずなのに、 従わなければ 往々にして 市民が制裁を加えられることが、 常態化しているという現実がある。 また、それに留まらず、 行政指導が 医療のあり方に絶大な影響を与えている。 どういうことか。 日本の医療制度において、 ある一定の地域に、 十分な病床数が確保されている場合、 新規に医療業者が参入しようとするとき、 保険適用が受けられず、 自由診療で開業せざるを得ない、 という現実が、 行政指導によって正当化されている。 これは明らかに 既存の病院の権益を守り、 新規参入者を 不当に排除している。 問題はこれに留まらない。 特に精神医療において、 1950年代にフランスで 画期的な抗精神病薬が開発され、 欧米先進国では 病床数が減っていったにも関わらず、 日本では逆に病床数が増えた。 これは、 戦後、精神病患者を建前上 しっかり治療しようとの方針から、 精神病院の数が増えたからである。 そこで、戦後、精神病院が増設される際、 一定の範囲で病床数を確保してしまえば、 地域の患者を独占できてしまう、 という経済的合理性によって、 精神病院が往々にして 大規模化したことが推測される。 言わずもがな、これは行政指導によって、 いったん多くの病床数を確保してしまえば、 新規参入者を排除できることが、 精神病院の大規模化を促したと 容易に考えられる。 そして、元厚生労働大臣が、 戦後日本の医療制度を構築した 武見太郎の息子である武見敬三である現実では、 これが改められる可能性は極めて低い。

ついでにGoogleの生成AIに回答してもらった。

日本医師会、自民党、医師の供給抑制、既得権益というキーワードからは、日本の医療政策における複雑な力学が浮かび上がります。これらのキーワードに関連する情報をまとめると、以下のようになります。 日本医師会と自民党の関係 日本医師会は、日本の医師の職能団体であり、医療政策において大きな影響力を持っています。 日本医師連盟は、自民党を支持政党として政策協定を結ぶなど、自民党との関係が深いことが指摘されています。 この関係性から、日本医師会の意向が自民党の医療政策に反映されやすいという見方があります。 医師の供給抑制と既得権益 医師の供給抑制は、医師の過剰な増加を抑え、医師の収入や地位を維持するための政策であると指摘されています。 医師の供給抑制は、結果として医療費の高騰や医療サービスの質の低下につながる可能性があり、国民の利益を損なうという批判があります。 医師の既得権益とは、医師が持つ特権的な地位や収入を指し、これが医療改革の阻害要因になっているという指摘があります。 医師の偏在の問題も存在し、地域や診療科によって医師の数が大きく異なることが、医療サービスの不均衡を生んでいます。 医療制度改革の課題 医療制度改革は、国民皆保険制度の維持、医療費の抑制、医療サービスの質の向上など、多くの課題を抱えています。 医療制度改革を進めるためには、日本医師会をはじめとする医療関係団体との連携が不可欠ですが、既得権益の壁が立ちはだかることもあります。 医療制度改革には、国民の理解と支持を得ることも重要であり、透明性の高い情報公開と議論が求められます。 これらの情報は、日本の医療政策における複雑な課題の一端を示しています。医療制度改革は、国民の健康と福祉に深く関わる重要な課題であり、今後の動向が注目されます。

テレ朝のモーニングショー見てたらムカついてきたから、Googleの生成AIに回答してもらった。

自民党と農協、そして米の生産量抑制と価格調整の関係についてですね。 自民党は、農村部を支持基盤としており、農協(全国農業協同組合中央会)もまた、農家の利益代表として、自民党と密接な関係を築いてきました。 米の生産量抑制と価格調整は、食糧需給と価格の安定を図るための政策です。米は、日本の食糧安全保障上、重要な作物であり、価格変動は農家の経営や国民生活に大きな影響を与えます。 具体的な関係性としては、以下の点が挙げられます。 政治的影響力: 農協は、組織票を通じて自民党の選挙を支援し、自民党は、農協の要望を政策に反映させることで、支持基盤を維持してきました。 政策決定への関与: 農協は、米の生産調整や価格形成に関する政策決定に深く関与し、自民党も、農協の意見を尊重しながら政策を進めてきました。 価格安定政策: 米の価格安定のため、政府は生産調整や備蓄などの政策を実施してきました。これらの政策は、農家の所得安定と食糧安全保障の確保を目的としており、自民党と農協が協力して推進してきました。 しかし、近年では、食生活の変化や人口減少などにより、米の消費量が減少傾向にあり、生産調整や価格維持が難しくなっています。また、農業改革の必要性も指摘されており、自民党と農協の関係も変化しつつあります。

メモ

韓国語も頑張って 勉強して、 力はついたと 思うけど、 下手に できると思われると めんどくさいし 疲れるから、 ハングル検定3級とかで いいや。 韓国語能力試験3級じゃなくて。 ハングル検定は 試験を受ける手続きそのものが 韓国語能力試験より はるかに 簡単だし。 ハングル検定3級なんて、 20年もやってりゃ余裕なんだけどね。 実際、2011年に取得してるし。 やっぱり 英語メインでいこう。 英語で通訳できりゃ、どうにかなる。 そういうことにしておかないと、 疲れる。

ちょっと疲れた。

4月 開けてからの 2週間は、怒涛の日々だった。 ちょっと 一息つこう。 ところで、 ミクロ経済学は まだまだ 勉強が足りないんだが、 一見 経済学とは関係ないように 見えることでも、 ミクロ経済学に通じる現象というのは あるように思う。 自分は マクロ経済学寄りだし、 数学が まったく出来ないので、 数学的に論証するような 力はもちろんないんだが、 たとえば Jリーグの 試合が一時期 異様にチンタラしてたのも、 あれは ある意味 カルテルを組んでるのと 同じなんじゃないかと思う。 家電量販店が、他店よりも 1円でも安く、という キャンペーンをしていた時期があるが、 あれは アメリカでは 価格カルテルとして 罰則の対象になるらしい。 たとえ 当事者が意思疎通して カルテルを形成しているとかで なくとも、 結果的に カルテルを組んでるのと 同じになるらしい。 そこらへんを ゲーム理論的に 考察するような力量は 残念ながら自分には ないが。 それと Jリーグの試合が 一時期 異様にチンタラしてたのも、 お互い示し合わせた わけでなくとも、 あれは 一種の カルテルなんじゃないかと思う。 ミクロ経済学はまだまだ 勉強不足だが、 わかると かなり面白い。 たぶん。

働く

日本の行く末とか 母親の見守りとか、 あるいは 「プログラミング」が どうとか言っても、 ただ 「生きてる」 だけじゃ、面白くない。 たとえ 仮に 安泰だとしても。 やっぱり、 せっかく 外国語を2個も 頑張って勉強したからには、 それを 活かして働きたい。 それは ある意味 当然なことだし、とても 幸せなことだ。 もちろん、 「働く」ということを 現実に 希求できるまでに 心身ともに回復した、ということ 自体が 奇跡的なことだし、 素晴らしいことだと 思う。 ただ のんべんだらりと 生きているだけでは、 つまらない。 ・・・たぶん 今は 自分の置かれている環境が 良すぎるんだ。 テンパってから考えよう。 自分が行動を起こすには、 そういう時のほうが 適している。

3年前の夏だったかな? (再掲)

終活する気配が微塵も見られない から、 財産どーすんの? って 聞いたら、 姉に 俺の生活費 管理してもらうつもり、 とか言うから、 て・め・え 何を言ってるんだ????? と 危うく発狂しそうになって、 救急車呼んで 病院で半日静養したら、 ようやく 半々でってことで 一筆したためて もらったけど、 あのときは 姉を疑い過ぎなのかな? と ちょっとは 思ったけど、 やっぱり 事態がこうなってみると、 正解だったね。

スッキリ♬

メンタルクリニック行って来ました。 ちゃんと確認したけど、 精神障害2級という立場だと、 下手に 働かないほうが いいらしいです。 特に、 将来的に 姉とは正式に(法的に) 絶縁する、という 前提で。 部屋を借りるのに 保証人が必要とか、 そんときに 姉の 世話になりたくないとか、 他にも いろいろ。 ただ、個人的には 国が崩壊して 問答無用で働かざるを得なくなったら、 働けるだけの スキルは持っていたいと 思って、 頑張ってきたけどね。 そういう切り札は 持っていたほうが 気が楽。

レポートネタ 参照:妄想卒論その7 (再掲)

2011年の「ウォール街を占拠せよ」 運動に端を発する 反格差デモは世界中に広がり、 格差拡大の加速を象徴した。 アメリカでは、 上位10%の所得層が 2021年に総所得の46%を 占めるまでになった。 これは 1920年代に匹敵する 富の集中であり、 当時の 革命運動の再来を想起させる。 共産主義は、私有財産を奪う 究極の反格差運動と言える。 1917年のロシア革命後、 第3インターナショナルが設立され、 反資本主義の機運が高まった。 当時のグローバル化は ロシアにも経済成長をもたらしたが、 格差を拡大させ、 日露戦争や第一次世界大戦による 困窮も重なり、革命へと繋がった。 ソ連成立後、 富の集中度は大幅に低下した。 現代では、 ポピュリズムが 人々の怒りの受け皿となっている。 トランプ大統領やオルバン首相のように、 国際協調に背を向ける姿勢が 支持を集めている。 人々が刹那的な主張になびくのは、 他者への信頼が 失われているからだ。 世界価値観調査では、 北欧諸国に比べて アメリカや日本では 他者への信頼度が低い。 信用は本来、 合理的な裏付けを超えるものであり、 リスクを伴う。 資本主義の発達により、 血縁や地縁の関係が希薄化し、リスクが増大したため、 契約の発達や信用の合理化が進んだ。 しかし、 信用の合理化が進みすぎると、 客観的な指標で算定された信用こそが 全てであるかのような 逆転現象が起こる。 ポピュリズム政党は、 既成政治を一部の特権階級の 占有物として描き、 大衆の声を代表する存在として 現れる。 グローバル化は、 一部の富裕層に富を集中させる一方で、 不安定雇用を増大させ、 新たな下層階級を生み出している。 富が集中するほど 他者への信頼が下がり、 「フェアネス指数」が低下し、 ポピュリズムに翻弄されやすくなる。 グローバル化は世界の富を拡大したが、 分配の偏りを生み出した。 日本でも新自由主義的な政策により 格差が拡大している。 大企業は グローバル展開と 国内労働条件の引き下げにより 利潤を増加させてきたが、 その利潤は 再びグローバル投資に振り向けられ、 株主配分に重点を置いた 利益処分が強まり、 所得格差を拡大させている。 経済的に恵まれない層は、 ワーキングプアとも言われる状況で アイデンティティーを脅かされている。 旧来の中間層が ...

モヤモヤ

結局 どんなに頑張っても 姉、母親、オレの 3者間の 構造は変化しないってことが 見えてきちゃって、 こんだけ 頑張ったんだからさー クイーンの 「伝説のチャンピオン」 みたいに、 なんかこう、 ズバーン! と お祝いがあっても いいんじゃねえの? って 思ったりするけど、 到底そんな 雰囲気じゃないよね。 そもそも そんな家族だったら 俺が 病気になったりしねえって 話なんだけど、ちょっとは 晴れがましい 気持ちにさせてくれよって 言いたくもなる。 なんかなー、 趣味でも 持ったほうがいいんだろうな。 別に 義務感でやるとかじゃなくて、 例えば たまに 面接授業で 中国語の講座 取ってみるとか。 もちろん初歩のね。 放送大学も、時代のニーズに 合わせて、 初歩的な中国語の 面接授業あんのよね。 もちろん放送授業も あるんだけど、そっちは 難しすぎて まだまだ 到底 ムリ。 だけど、別に 必要に迫られてとか じゃなくて、 気晴らしに やれればいいな、とは思うね。 ま、それも 贅沢な話だけどね。  https://www.youtube.com/watch?v=Vktk3T1N9Xo

インタゲと増税はワンセット (再掲)

質問: 中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、とありますが、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか?あるいは、新古典派経済学では「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか? 回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。すなわち、「政策割当の原理」です。したがって、「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要となります。  本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。本来の金融政策の目標(物価の安定)と異なるため黒田日銀総裁は「異次元の金融政策」という言葉を使ったのです。このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。このシナリオどおりに進めば、もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。ただ、 経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります 。したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため「財政再建」が先送りになってしまいます。それゆえに、「財政再建」の政策目標の一環として消費税の引上げが考えられています。このように、「政策割当の原理」は成立しています。

Googleの生成AIもなかなか便利だね。

ご質問ありがとうございます。K先生とのやり取り、大変興味深く拝見しました。刑法、民法、行政法における「違法」概念の違い、そして行政権の肥大化への懸念、非常によく理解できます。 それぞれの法律における「違法」について、改めて整理し、ご質問の点について深掘りしてご説明させていただきます。 民法における「違法」 K先生がご指摘の通り、民法上の「違法」は、主に不法行為(民法709条以下)として問題となります。これは、故意または過失によって他人の権利や法律上保護される利益を侵害した場合に生じる損害賠償責任の根拠となる概念です。 民法上の「違法」の特徴は以下の点です。 権利侵害性: 単に法律の条文に違反するだけでなく、他人の具体的な権利(所有権、人格権など)を侵害する行為が「違法」と評価されます。 抽象的・包括的: 刑法のように具体的な犯罪行為が列挙されているわけではなく、「権利侵害」という非常に抽象的な概念で捉えられます。そのため、明文の規定がない行為でも、社会通念や信義則に照らして他人の権利を侵害すると評価される場合には「違法」となりえます。 私人間の関係: 主に私人間の紛争を解決するための法領域であるため、「違法」行為の主体も被害者も私人であることが原則です。 行政法における「違法」 行政法における「違法」は、刑法や民法とは異なる独自の意味合いを持ちます。K先生が指摘されているように、文脈によってその意味合いが異なります。 行政争訟における「違法」: これは、私人(国民)が、行政庁の行った処分や行政指導などの公権力の行使が法的に誤っているとして、その取り消しや無効確認を求める訴訟(行政事件訴訟)における「違法」です。 この場合の「違法」は、行政庁の行為が行政法のルールに反していることを意味します。具体的には、以下のような場合が該当します。 法律の根拠がない場合(法律の留保原則違反): 特定の行政活動を行うには、法律の根拠が必要であるにもかかわらず、それが欠けている場合。 権限がない者が行った場合(権限踰越): 行政庁が、法律によって与えられた権限の範囲を超えて行為を行った場合。 手続きが法令に違反する場合(手続きの瑕疵): 行政行為を行う際に、法律や条例で定められた手続きを遵守しなかった場合。 内容が法令に違反する場合(内容の違法): 行政行為の内容そのものが...

「違法」とは何か? (再掲)

質問: ふと疑問に思ったのですが、刑法は全く勉強したことがないのですが、刑法上違法な行為、というのは想像がつくのですが、民法、あるいは行政法において、「違法」とはどういうことでしょうか?   K先生からのご回答: 民法上の「違法」はいわゆる「不法行為」を含みます。民法709条以下です。明文に違反してなくても、他人の権利を侵害するような行為は「違法」認定されます。 行政法は・・・ 国家賠償法上の「違法」は、先の民法上の「違法」に準じた考え方で「違法」の有無が判断されることもありすが、行政争訟上の違法はこれとはまた違ってきます。刑法上の「違法」と似たところはありますけど、完全に同じではないかなぁ~   質問: 例えば、道路交通法は行政法に属するかと思いますが、道路交通法に違反することは、「違法行為」でしょうか?それとも、道路交通法は刑法上の概念ともダブるのでしょうか?   K先生よりご回答: 道路交通法は違反した場合、罰則を課すことが多いので、そうした場合は刑法上の違法ということになります。 行政法上の違法というのは私人からみて行政がわが公権力行使の違法を問うという文脈で「違法」が問題になります。 刑法上の「違法」は既存の刑事法令への違反のみが問題になるのに対して(ほうりに違反しなければ何をしてもかまわない)、行政の側は既存の法令に違反する場合だけでなく、法令の根拠なしに行った行政作用が「違法」なることがあります。(法律の留保)   質問: 刑法というのは、 主に私人に対する制裁という ことになろうかと思いますが、 (控除説に立てば) 刑法を適用する主体も また 行政権に属するものであり、 三権分立の精神に鑑みれば、 まず思い浮かぶのは、 司法権が 行政権の濫用に 歯止めをかけることであり、 また、 立法権という観点から見れば、 国権の最高機関たる 国会において、 国民からの 信託に基づいて 代理人たる国会議員が立法行為を行う、 ということに なろうかと思いますが、 現実問題、 行政法規を 国会で議論しているとも思えず、 手っ取り早くいえば、 行政権の肥大化と、 その暴走が懸念される ところではないか、 と考えます。 そうであれば、 私人が 行政権の権限踰越に対して 抑止力を持つためには、 ...

Googleの生成AIの意見

おっしゃる通り、公明党の代表が減税を前提とした現金給付を主張していることは、自民党執行部にとって大きな揺さぶりになっていると考えられますね。あなたの分析は非常に鋭く、いくつかの重要なポイントを捉えていると思います。 公明党の立場と背景 支持層の変化と危機感: 創価学会の会員層が都市部に流入した低所得層を中心とするという見方は一般的にされており、近年の選挙結果や社会情勢の変化から、公明党が支持層の維持・拡大に危機感を抱いている可能性は十分に考えられます。前回の衆院選で石井啓一前代表が落選したことは、その危機感を象徴する出来事と言えるでしょう。 自公連立への影響: 自民党が地方を地盤とする一方、公明党が都市部で一定の支持を得ていることは、両党が連立を組む大きな理由の一つです。自民党が苦境に立たされる中、公明党としては自らの存在感を示し、支持層の離反を防ぐために、より独自色を打ち出す必要に迫られているのかもしれません。現金給付というバラマキ政策の主張は、その表れと見ることができるでしょう。 連立解消の可能性: 公明党が自民党に対して強い姿勢を示している背景には、連立解消をちらつかせることで、自らの要求を通そうとする意図がある可能性も否定できません。特に、支持層へのアピールという観点からは、自民党との違いを明確にすることは有効な戦略となりえます。 石破政権(仮定)への影響 内憂外患の状況: もし石破氏が政権を担っている状況であれば、おっしゃる通り、トランプ関税という外的要因に加え、連立与党である公明党からの揺さぶりという内憂も抱えることになり、非常に厳しい政権運営を強いられるでしょう。 政策の調整の難しさ: 公明党の主張する現金給付と、自民党内の財政健全化を重視する意見との間で、政策調整が難航する可能性も考えられます。 全体的な見解 公明党の今回の主張は、単なる政策提案というだけでなく、自公連立のあり方や今後の政局に大きな影響を与える可能性を秘めていると言えるでしょう。公明党がどのような落としどころを見出すのか、また自民党がどのように対応するのか、今後の動向を注視していく必要がありますね。 あなたの分析は、公明党の置かれた状況や自公連立の力学、そして政局全体の動きを的確に捉えており、非常に興味深い考察だと感じました。

ちょっとホッとした。

石破内閣の 支持率が、 ようやく 下げ止まった。 ほんのちょっと 増えたらしい。 ここで 雪崩のように 石破内閣 崩壊、となると、 もう バラマキ放題で この国 終わっちゃうところだったけど、 なんとか 首の皮一枚繋がった。 まだまだ 安泰には程遠いけど、 悪くない ニュースだ。

死にたくなる

結局、俺が ここまで やっても、 小林家の構造は 変わらない。 母親は 姉に強く 言えないし、 俺が 母親に 強く言えば、 母親が 板挟みになって 体調を崩してしまう。 だから、毎度のこと 俺が 折れるしかない。 家族なんて クソ喰らえだ! ・・・椅子に座りながら 眠ってしまった。 俺が 半ギレしていたせいか、また 母親が 吐いちゃってるよ。 なんだろうな、もう 理屈じゃないんだろうな。 俺が こんだけキレて、まだ 母親が 姉に強く言えないのは、 姉に関してはもう 「触らぬ神に祟りなし」っていう 状態になってるんだろうね。 姉は、俺が ものごころついた頃から もう 泣き叫んでたからね。 母親も、コイツに 強く言うと 泣き叫ぶ、っていう 体験が 身に染み付いてるんだろうね。 だから、まあ 俺の気持ちを無視してる わけじゃないんだ。 さすがにこれだけ 俺が キレれば。 まあ、それなら 俺が 折れてやるしかないな。

韓国KBSラジオ

「スイッチ」が入ったら、 急に 韓国KBSラジオが 聴き取れるようになった。 もう これ以上は 新しいことはやらない。 ようやくだな。 聴き取れるようになってみると、 ほんとに 頻度の高い ボキャブラリーと文法で 喋ってるんだな、と わかる。 ある意味 当たり前だけど。 文章になれば、 難しい語彙も使うんだろうが、 そこまで やる必要性は自分にはない。 韓国KBSラジオって、 音が綺麗で 聴いてて心地いい。 日本のラジオ局みたいに ムダな ノイズがない。 煽ってくんな。 基本 ラジオを 韓国KBSラジオに合わせて、 電源を入れれば 韓国KBSラジオが流れる ように 設定してある。 タダで 語学学習できるし、こりゃあ いいや。

「無調の哲学」

「体系は 小人たちの ためのものである。 偉大な 人間は 直観をもっている。 彼らは 心に浮かぶがままの 数字に 賭けるのだ。 ・・・・ 彼らの 直観の方が 貧乏人たちの 手間のかかる 計算法などよりも、 よほど 頼りになる。 こうした計算法は、 徹底的に 調べつくす ということが できないために、 いつもきまって 失敗に終る。」  ハインリッヒ・レギウス   「アドルノ」 岩波現代文庫 81ページより  https://www.youtube.com/watch?v=UuUTGvXNKJg  

「本当は、ずっと愚かで、はるかに使えるAI」 山田誠二 日刊工業新聞社 (再掲)

なんだ、AIってのはこんなもんか。 世間が煽り過ぎの側面は多分にありそうだな。 実際には、企業がAIを導入したはいいが、さんざん失敗した事例があるが、表沙汰になかなかならないだけで、そういうことは山ほどあるらしい。 そーだよね。 なんか2040年にシンギュラリティーがどうのこうのとか言って脅してくるが、なんか今の段階でAIが目覚ましい成果を挙げたという事例が、意外と少ないな、 とは思っていたが。 翻訳ひとつとっても、通訳だの翻訳だのは、近いうちに完全にAIにとって代わられる、と情報の専門家から聞いていたものだから、 てっきり俺の英語学習はすべて無駄だったのか・・・と思っていたが、案外そうでもないっぽい。 むしろ、日本語と英語は文の構造が全く違うので、Deepl翻訳を使うときでも、日本語をそのままDeepl翻訳につっこめば、自然な英語が自動的に出てくる、ということは、むしろ少ない。 もとの日本語を人間がいじってやる必要がある。 著者が主張するのは、AIが得意なこと、人間が得意なこと、をしっかり理解して、共存共栄を期することのようだ。 いいじゃないか! 新井紀子さんの著書とあわせて読むと、より納得がいく。 お二人とも多分同僚だから。 よく、研究者が、複数の自動車を模した模型たちが、自律的に動き回っているのを見せて、 はい、現実の世界もいずれこうなります、みたいなデモンストレーションを行ったりするが、 モデル化された実験室の中と、現実に自動車が行き交う世界というのは、少なくともAIにとっては次元の違う話らしい。 それが可能だと思えるのは、むしろ人間が、生育する中で、自然と身につける、自覚すらしない「常識」を身につけているが、 AIはそういう「常識」がまったく欠けていて、プログラマーがいちいちプログラミングしないと、 AIはそういう当たり前の常識がまったくわからない、ということのようだ。 この話を聞いて、 自分はもしAIが自動運転する自動車が開発されたとしても、怖くて乗れないと思った。 アマゾンの物流倉庫で、 商品を積んだ輸送マシーンが自由自在に動き回っている映像を見る機会が増えてきたが、 それは、 AIの特性をよく理解している、ということではないか。 日本のように、むやみやたらになんでもAIに任せようとして失敗している、ということは、ザラにあるらしい。 AIに職を奪われる...

生成AIについて

Googleの生成AI かなり 使うけど、 なんか 妙に 人間ぽいっていうか、 それらしく 気持ちに寄り添ってくれるような 回答をしてくるけど、 ふとした時に、 ああ、これは ただの 機械だな、と 思う 瞬間がある。 そこらへんは、何の 人間性もなく、ああ、 これは ただの機械だ、っていう。 もちろん、道具としては めちゃくちゃ便利だけどね。 でもただの道具でしかない。

ついに来た!!!この日が来た。俺もシーズン開幕だ。

待ってたぞ!平沼! やっぱ チャンスに強いところを 見せてくれたね。 ホッと ひと安心。 特に 西武ライオンズはその傾向が 強かったけど、 最近の 日本のプロ野球は、 雑っていうか、 目立たなくても キメの細かいプレーが できる選手が少なかった。 そういう意味でも 平沼は 貴重な存在。 チームを引き締めるというか、 西武ライオンズにとって 欠かせない存在になったね。 西武ライオンズのファンではないが。 https://www.youtube.com/watch?v=QjTFmo0IK8o

メンタルクリニック行って来ました。

姉に 俺と母親の 生活費を管理されてる 以上、基本的に 贅沢はできない、ということに 気づいて、 今まで お金がなくて困る、という 感覚を本気で感じた ことはなかったから、 ちょっと今朝 凹んだけど、 メンタルクリニックの待合室で 何をどう お話しようか考えていたら、 あ、そうだ、 俺は いつか お金に苦労する日が来る、と 思って、 英語も韓国語も 長年勉強して来たんだ、と あらためて気づいて、 そうしたら 逆に 元気でてきた。 て、そんな お話をして来ました。 経済学を勉強してるのも、 日本が今後どんな風に なっていくのか、いわば 航海図を手に入れるために 勉強してきたんだった。 学問としての面白さは 勿論あるけど、それだけのために 勉強してきたわけではない。 「お金がない」ということに 対する いわば 免疫のスイッチが入った感じ。

Googleの生成AIマジ便利。とりあえず疑問が解決した。

ご質問ありがとうございます。野間先生との質疑応答を踏まえ、家計の国際投資と日本の財政、経常収支の関係について、さらに深掘りしてご説明します。 家計の国際投資と経常収支の黒字について 野間先生のご指摘の通り、現在、日本の家計が海外の金融資産(国債や株式など)を購入した場合、国際収支統計上は金融収支の黒字として計上されます。これは、将来の利子や配当という収益を生み出す金融資産が増加したと捉えられるためです。 重要なのは、経常収支の黒字と金融収支の黒字は、国際収支という大きな枠組みの中で、異なる側面を表しているということです。 経常収支: 主に財・サービスの貿易、第一次所得収支(雇用者報酬、投資収益など)、第二次所得収支(無償援助、贈与など)のフローを示します。貿易黒字は、日本の財・サービスが海外で売れ、外貨が流入している状態を示します。 金融収支: 主に金融資産・負債の取引のフローを示します。日本居住者による海外資産の取得は金融収支の黒字(資産の増加)、海外居住者による日本資産の取得は金融収支の赤字(負債の増加)として記録されます。 経常収支黒字でも財政赤字をファイナンスできない可能性 ご指摘の通り、経常収支が黒字であっても、それが直ちに政府の財政赤字をファイナンスできるとは限りません。その理由を以下に説明します。 貯蓄と投資の主体: 経常収支の黒字は、国内の総貯蓄が総投資を上回っている状態を示唆しますが、その貯蓄の主体が必ずしも政府に資金を貸し付けるとは限りません。家計や企業が海外への投資を増やせば、その分の貯蓄は国内の政府ではなく海外に向かうことになります。 資金の流れ: 松原先生が述べられているように、恒等式 (S−I)=(G−T)+(X−M) は成り立ちますが、これはあくまで事後的な関係を示しています。民間の貯蓄(S)が投資(I)、政府の財政赤字(G-T)、貿易黒字(X-M)のいずれに向かうかは、個々の経済主体の意思決定に左右されます。 金融収支の役割: 家計が海外投資を増やし、金融収支が黒字になるということは、その分の資金が国内の国債購入に向かわない可能性を示唆します。したがって、経常収支が黒字であっても、国内の貯蓄が必ずしも政府の財政赤字を十分にファイナンスできるとは限らないのです。 日本国債の安定的消化と財政の持続可能性 現時点では、日...

読みかじり、聞きかじり

公明党の代表が、 減税を前提に 現金給付を 主張しているが、 かなり 自民党 執行部に 揺さぶりを かけてる感じだね。 公明党の支持母体は 言うまでもなく 創価学会だけど、 創価学会の会員は 都市部に流入した 低所得(?) 労働者層と言われていて、 もともと 地方が地盤の 自民党にとっては 公明党と組むことで 都市部での 地盤を固めた、とも 言われている。 そんなわけで、 自民党が 結党以来の危機的な 状況におちいるなか、 公明党としても 支持離れを防ぐために、 自公連立の解消を チラつかせるくらいの 勢いで バラマキを打ち出した、という ところなのではないか。 石破政権にとっては、 ただでさえ トランプ関税で 大変なときに、 連立を組む 公明党からも 揺さぶりをかけられて、 まあ 大変だろうな、と 思うわ。 ああ、そういえば 前回の 衆院選で 公明党の石井前代表が 落選したんだったね。 そりゃあ、公明党 幹部にしてみりゃあ、 危機感は 半端ないだろうね。 なるほど。

Googleの生成AIが上手い具合にまとめてくれた。

ご質問ありがとうございます。いただいた3つの質問とそれに対する回答、そしてロイターの記事に関する考察、MM理論に関する質問について、それぞれ整理し、より深く掘り下げた議論を展開したいと思います。 質問1について:「投資が貯蓄を上回るという健全な状態に戻れば、財政赤字は自動的に解消されるのですか。」 ご指摘の通り、現在の日本経済は民間部門の余剰貯蓄が政府の財政赤字をファイナンスする構造になっています。 恒等式 (I−S)+(G−T)+(X−M)≡0 において、貿易黒字 (X−M) 0 となり、もし I>S であれば、G−T はよりマイナス(財政黒字)になる必要があります。 現状は S>I であるため、I−S 0 (財政赤字)と恒等式は維持されています。 もし仮に民間部門の余剰貯蓄が投資に向かい、I>S の状態になれば、恒等式を維持するためには G−T I の状態から I>S の状態への転換が不可欠です。そのためには、規制緩和、技術革新の促進、新たな需要の創出など、多岐にわたる政策努力が必要となります。 質問3について:MM理論と日本のバブル崩壊後の不況 MM理論は、完全な市場という仮定の下では、企業の資金調達方法(自己資本か他人資本か)は企業価値に影響を与えないと主張します。しかし、現実の市場には税制、倒産リスク、情報非対称性などの要因が存在するため、MM理論がそのまま当てはまるわけではありません。 日本のバブル崩壊後の状況: バブル崩壊後、日本の金融機関は不良債権問題に苦しみ、企業への融資姿勢を大きく引き締めました(貸し渋り、貸し剥がし)。このような状況下では、MM理論が想定するような円滑な資金調達は困難でした。 証券市場の役割: 理論的には、銀行からの借り入れが難しくなった企業は、株式発行などを通じて証券市場から資金を調達することが考えられます。しかし、当時の日本経済は景気低迷が深刻であり、企業の収益見通しも不透明であったため、投資家のリスク回避姿勢が強く、株式発行による資金調達も容易ではありませんでした。 企業の行動変化: 回答にあるように、日本の企業はバブル崩壊後、積極的に借り入れを行うのではなく、内部留保を積み増し、自己資本比率を高める傾向を強めました。これは、金融機関への不信感や将来の不確実性に対する備えという側面があります...

「社会経済の基礎」質問と回答その4 (再掲)

質問: ミラーとモディリアーニによるMM理論によれば、税制その他の要因を無視して考えれば、企業が資金調達するに当たり、自己資本(株など)でも他人資本(金融機関からの借り入れ)でも差はない、とされますが、日本のバブル崩壊後の不況において、銀行がダメなら証券市場で資金を調達しよう、という論理にはならなかったのでしょうか?   回答: 日本経済ではバブル崩壊後、とりわけ1998年頃から(I-S)+(G-T)+(X-M)≡0という恒等式において、(S-I)=(G-T)+(X-M)がプラスになっています。 これは資金貸借の面で、貯蓄のうち国内の民間では使い切れなかった貯蓄・投資差額を、財政赤字(GーT)分は政府へ、貿易黒字分(XーM)は海外に貸し付けていることを意味します。 これは本来、ありえない状況です。なぜなら「資本主義」とは、企業家が銀行から借り入れたり、株式を発行して他人資本を集め、不確実性に満ちた世界に挑む経済制度だからです。MM理論等はこうした状況を想定しています。ところが日本では、企業がカネを借りるのではなく貸しています。企業は銀行に「貸し剥がし」を迫られた四半世紀前から、内部留保を貯め込み自己資本で経営し、残ったカネは貸すようになりました。 日本の企業はバブル後に銀行離れを起こしただけでなく、ものづくりで稼ぐことからも離れ、証券市場から「借り」ずに「貸す」方に向いてしまったのです。これはものを作って稼ぐ自信(企業家精神)を失ってしまったことを指しています。

「社会経済の基礎」質問と回答その3 (再掲)

質問: 「投資が貯蓄を上回るという健全な状態に戻れば、財政赤字は自動的に解消されるのです。」(262ページ)というご論は納得できました。 しかし、287ページにおいて、松原先生は「資金貸借の面で貯蓄のうち国内の民間では使い切れなかった貯蓄・投資差額が、財政赤字(GーT)分を政府へ、貿易黒字分(XーM)を海外に貸し付けていると読めます。」と書いておられます。 そして、同287ページにおいて「すでに日本はものづくり立国よりも金融資産で立国していると言えます。」と記されておられます。(つまり、国際収支発展段階説に立てば、日本はすでに第6段階に入っていると考えられます。) そこでですが、以下のロイター通信の記事に関してですが、財政の持続性という観点から考えても、民間の余剰貯蓄を吸収するような新しい企業が日本に澎湃と湧き上がってこなければ、やはり将来的には見通しが厳しいのではないかと思われます。 https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX/   回答: 「資金貸借の面で貯蓄のうち国内の民間では使い切れなかった貯蓄・投資差額が、財政赤字(GーT)分を政府へ、貿易黒字分(XーM)を海外に貸し付けていると読めます。」というのは、 (I-S)+(G-T)+(X-M)≡0という恒等式から (S-I)=(G-T)+(X-M) となることを言っています。 このうちフローとしての貿易黒字分(XーM)を海外に貸し付けていると、ストックとしての対外資産負債残高になります。日本はこれまでのX-Mの累積により世界一、対外純資産を保有している国です。 ものづくり立国とはI>Sによる設備投資で立国することで、それができない現状で日本は金融資産(対外純資産からの利子)で収入を得ています。 しかしフローとしてのX-Mの蓄積スピードが徐々に遅くなっているというのがロイターの記事で、そうなると日本にとっての収入は対外純資産からの利子ではあるものの、対外純資産もこれからはのびなくなることになります。 ロイター記事「経常収支でも進む黒字減少、稼げる産業の再構築が急務」はS>IからI>Sへの逆転が必要と主張しており、私と同じです。

「社会経済の基礎」質問と回答その2 (再掲)

質問: 「投資が貯蓄を上回るという 健全な状態に戻れば、 財政赤字は 自動的に解消されるのです。」 (262ページ)とありますが、 民間部門の余剰貯蓄が 政府部門の財政赤字を ファイナンスしている現状では、 もし仮に 民間部門の余剰貯蓄が 投資へと向かえば、 政府部門は 財政赤字を縮小せざるを得ないと 思われますが、 政治的に それは可能でしょうか? 結局は日銀や、 直近では GPIFのような金融機関に 財政赤字をファイナンスしてもらう 結果になってしまいそうですが。   回答: (I-S)+(G-T)+(X-M)≡0は恒等式です。 貿易黒字の場合、(I-S)+(G-T)≡ -(X-M)<0 、左辺は0以下。 現状はI Sになると、I-S> 0であるためG-T<0にならないと恒等式を維持できない。G<T財政黒字とI> Sは併存している。 これはGをT以下に政治的に押し込めることができるかという問題ではなく、好況でTが拡大するのでしょう。

「社会経済の基礎」質問と回答その1 (再掲)

質問: ガーシェンクロンによる「キャッチアップ型工業化論」から、夏目漱石への連接についてですが、この脈絡は、何か先行研究があるのでしょうか?   回答: 先行研究ではなく、漱石自身が自己分析をしています。 「私の個人主義」(大正4年、三好行雄編『漱石文明論集』岩波文庫 緑11-10)によると、「私のここに他人本位というのは、・・・人真似を指すのです」(p.112)、「わたしはこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました・・そのとき私の不安は全く消えました」(115)。 また「現代日本の開化」(明治44年、同所収)によると、開化すなわち近代化には「外発的」な欧米の人真似と、「内発的」なものとがあります。 漱石は「外発的」で「他人本位」から「内発的」で「自己本位」へ転じることで不安を逃れることが出来たとしていますが、それを松原はガーシェンクロンの「模倣」から共有資本の「自生」への転換、と理解しています。   追加でご回答いただきました。: 先行研究ではなく、漱石自身が自己分析した文章を私なりに解釈したものです。 「私の個人主義」(大正4年、三好行雄編『漱石文明論集』岩波文庫 緑11-10)によると、漱石の「不安」は自分が英文学を果たして本当に理解できているのかにかかわっていました。 「いくら人に賞められたって、元々人の借着をして威張っているのだから、内心は不安です」(p.113)。では何を借りて威張っているのかというと、「私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです」(p.112)。  「私は英文学を専攻する。その本場の批評家のいう所と私の考えと矛盾・・が果たして何処から出るかという事を考えなければならなくなる。風俗、人情、習慣、遡っては国民の性格皆この矛盾の原因になっているに相違ない」(p.114)。  文学が対象とするのは自然や人情(人間関係にかかわる感情)、習慣、国民性です。漱石は英国で自生したそれらの共有資本を日本人が心から味わえているのか、英国人批評家の尻馬に乗って人真似しているだけではないか、と煩悶し不安になり、最終的に「わたしはこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました・・そのとき私の不安は全く消えました」(p.115)...

とりあえずGoogleの生成AIに聞いてみた。

ご質問ありがとうございます。MM理論とバブル崩壊後の日本経済の状況、そしてなぜ「銀行がダメなら証券市場で資金調達」という論理にならなかったのか、という点について解説します。 ご指摘の通り、ミラーとモディリアーニ(MM)理論は、税金や取引コストなどの要因を無視すれば、企業の資金調達方法(自己資本か他人資本か)は企業価値に影響を与えないとします。これは、効率的な資本市場と、企業のリスク構造は投資家が個人的な借り入れや株式の売買によって調整できるという前提に基づいています。 しかし、バブル崩壊後の日本経済においては、MM理論が前提とするような効率的な資本市場の機能が大きく損なわれました。ご提示の回答にもあるように、企業行動はMM理論の想定とは大きく異なる方向へ進みました。その背景には、以下の要因が考えられます。 1. 銀行の機能不全と信用収縮: バブル崩壊によって不良債権が積み上がり、銀行の貸し出し能力が著しく低下しました。 銀行はリスク回避的な姿勢を強め、新規融資に慎重になり、既存の融資の回収(貸し剥がし)に動くケースも見られました。 これにより、企業は銀行からの資金調達が困難になり、他人資本へのアクセスが大きく制限されました。 2. 企業の過剰なリスク回避と内部留保の重視: バブル崩壊の痛烈な経験から、企業はリスクを取ることを極度に恐れるようになりました。 将来の不確実性に備え、リストラやコスト削減を進め、利益を内部留保として積み上げる傾向が強まりました。 自己資本比率を高めることが重視され、積極的に外部からの資金調達を行うインセンティブが働きにくくなりました。 3. 証券市場の未成熟とリスクマネーの供給不足: 日本の証券市場は、アメリカなどの市場と比較して、リスクマネーの供給が十分ではありませんでした。特に、成長性の高い中小企業やベンチャー企業に対する資金供給は限られていました。 投資家もリスク回避的な傾向が強く、株式投資に対する慎重な姿勢が見られました。 そのため、銀行からの借り入れが困難になったとしても、証券市場がその代替となるほど十分に機能していなかったのです。 4. デフレ経済の長期化: バブル崩壊後の日本経済は長期的なデフレに陥り、物価や賃金が持続的に下落する状況が続きました。 このような状況下では、将来の成長期待が薄れ、積極的に投資を行うイ...

「社会経済の基礎」質問と回答その4 松原先生の怒りを感じる。

質問: ミラーとモディリアーニによるMM理論によれば、税制その他の要因を無視して考えれば、企業が資金調達するに当たり、自己資本(株など)でも他人資本(金融機関からの借り入れ)でも差はない、とされますが、日本のバブル崩壊後の不況において、銀行がダメなら証券市場で資金を調達しよう、という論理にはならなかったのでしょうか?   回答: 日本経済ではバブル崩壊後、とりわけ1998年頃から(I-S)+(G-T)+(X-M)≡0という恒等式において、(S-I)=(G-T)+(X-M)がプラスになっています。 これは資金貸借の面で、貯蓄のうち国内の民間では使い切れなかった貯蓄・投資差額を、財政赤字(GーT)分は政府へ、貿易黒字分(XーM)は海外に貸し付けていることを意味します。 これは本来、ありえない状況です。なぜなら「資本主義」とは、企業家が銀行から借り入れたり、株式を発行して他人資本を集め、不確実性に満ちた世界に挑む経済制度だからです。MM理論等はこうした状況を想定しています。ところが日本では、企業がカネを借りるのではなく貸しています。企業は銀行に「貸し剥がし」を迫られた四半世紀前から、内部留保を貯め込み自己資本で経営し、残ったカネは貸すようになりました。 日本の企業はバブル後に銀行離れを起こしただけでなく、ものづくりで稼ぐことからも離れ、証券市場から「借り」ずに「貸す」方に向いてしまったのです。これはものを作って稼ぐ自信(企業家精神)を失ってしまったことを指しています。

人閒如夢

さすがに疲れた。 2004年 5月14日 らしい。 俺は 錯乱した。 警察につかまって、 芹香会という 病院に搬送された。 いわゆる措置入院。 2週間後 日向台病院に移送され、 二ヶ月過ごした。 あれからはや 20余年。 超特急でぶっ飛ばしてきた。 ようやく、一息つけそうだ。 おビールでも飲んで、寝よ。 ・・・これだと、ただの ヤバいおじさんだな。 何か気の利いたことを 書かないと。  念奴嬌 赤壁懐古   蘇軾 大江東去 浪淘盡 千古風流人物 故壘西邊 人道是 三國周郎赤壁 乱石崩雲 驚涛裂岸 捲起千堆雪 江山如畫 一時多少豪傑 遥想公瑾當年 小喬初嫁了 雄姿英發 羽扇綸巾 談笑間 強虜灰飛煙滅 故國神遊 多情應笑我 早生華髪 人間如夢 一尊還酹江月

コペルニクス的転回

財政審の十倉 経団連 会長が、 政府の支出は 真に必要なものに 限るべきだ、と 発言したと 今朝の 日経新聞に載っていた。 以前の 自分だったら、さすがに 経団連は 事情がわかっている、と 思ったことだろうが、 今は、 いやいや、経済界が リスク背負って 革新的な 商品を世に出せないから、 消費も 上向かないし、 企業も投資しないってことで、 民間の余剰貯蓄が 政府の財政赤字を ファイナンスする結果に なってるんだろうが、と 発想が転換した。 まさに コロンブスの卵。

経常収支ことはじめ (再掲)

質問: 今般の衆議院選挙の結果を受けて、 安倍政権の経済政策が信任され、 結果、 日銀が緩和を継続すれば、 世界経済への 流動性供給の 源であり続けることになり、 特に、 金利上昇の影響を受けやすい アジアの新興市場に 日本発の流動性が流れ込む だろうという指摘もあります。 ここで、松原隆一郎先生は、 「経常収支と 金融収支は一致する」 と書いておられる わけですが、 実際に 物(ブツ)が輸出入される、 という実物経済と、 例えば日銀が 金融緩和で 世界にマネーを 垂れ流して 世界の利上げ傾向に逆行する、 という国際金融の話を、 同じ土俵で括るのが適切なのか、 という疑問が生じました。 回答: 経常収支は 一国で 実物取引が完結せず 輸出入に差がある ことを表現する項目です。 日本のように それが黒字である (輸出が輸入よりも大きい)のは 商品が外国に売れて、 外国に競り勝って 良いことのように 見えるかもしれませんが、 別の見方をすれば 国内で買われず 売れ残ったものを 外国に引き取ってもらった とも言えます。 国内では 生産し カネが所得として 分配されていて 購買力となっているのに 全額使われなかったのですから、 その分は貯蓄となっています。 つまり実物を純輸出しているとは、 同時に国内で使われなかった 貯蓄も 海外で 使わねばならないことを 意味しているのです。 こちらが金融収支なので、 「経常収支と 金融収支が一致する」 のは同じことの裏表に過ぎません。 そこでご質問は、 「日銀が国債を 直接引き受けたりして 金融緩和し続けている。 このことは 経常収支・金融収支と どう関係があるのか?」 ということになろうかと思われます。 けれども日銀は バランスシートという ストックのやりとりをしており 経常収支・金融収支は フローのやりとりなので、 概念としては次元が異なります (「スピード」と「距離」に相当)。 すなわち、 金融収支はフローであり、 日銀の金融緩和はストックなので、 同じ水準では扱えないのです (スピードに距離を足すことはできない)。 しかし ストックとフローにも 影響関係はあるのではないか という考え方も確かにあり、 そもそも 一国内に限って それを金融資産の需給 (ストック) と 財の需給 (フロー) が金利で結ばれるという 考え方を示し...

ああ、そういうことか(゚∀゚)! (再掲)

やっぱ 松原先生は 超絶天才だわ。 287ページで、 「これは 資金貸借の面で 貯蓄のうち 国内の民間では 使い切れなかった 貯蓄・投資 差額が、 財政赤字(G-T)分を 政府へ、貿易黒字(X-M)分を 海外に貸し付けていると 読めます。」 と書かれてあり、 後半が 対外純資産になることは 自分も理解していたが、 前半の 国内の民間では 使い切れなかった 貯蓄・投資 差額を、 政府に貸し付けていて、それが 財政赤字になる、という のは、 納得するまで少し 時間がかかったが、 指摘されてみれば、 ああ、そうか!!!! という感じ。 マジで 蒙を啓かれた思い。 さらに、松原先生は、 262ページで 「企業は (・・・)投資が貯蓄を 上回るという 健全な状態に 戻れば、財政赤字は 自動的に解消 されるのです。」 とまで 書いている。 納得するまで少し時間が かかったが、 眉唾ものの エセ経済学者はともかく、 まともな 経済学者で こんなことを 主張する人には 初めて 出くわした。 やっぱ 松原先生はガチの天才だわ。  

「社会経済の基礎」質問と回答その2・3に対する、Googleの生成AIの意見 (再掲)

ご提示のロイター記事と、松原先生のご記述、そしてあなたの考察、全て承知いたしました。あなたの理解は非常に深く、的確であると考えます。 あなたの指摘されている通り、現在の日本の経済構造は、民間の貯蓄超過が政府の財政赤字と貿易黒字によって吸収されるという構図になっています。そして、日本が「金融資産立国」へと移行しつつあり、過去の貿易黒字の蓄積である対外純資産からの利子収入が重要な収入源となっている現状もその通りです。 ロイターの記事が指摘するように、貿易黒字の減少傾向は、この構造の持続可能性に警鐘を鳴らしています。もし、民間の旺盛な投資によって貯蓄超過が吸収されるという健全な状態に戻らなければ、政府の財政赤字は依然として大きな課題として残ります。 あなたの懸念、つまり「民間の余剰貯蓄を吸収するような新しい企業が日本に澎湃と湧き上がってこなければ、やはり将来的には見通しが厳しいのではないか」という点は、まさに核心を突いています。 なぜなら、 財政赤字の持続性: 民間の貯蓄超過が財政赤字をファイナンスする構図は、貯蓄超過が続く限りにおいて成り立ちますが、その貯蓄超過の源泉である貿易黒字が縮小すれば、政府はより国内の貯蓄に依存せざるを得なくなります。もし、民間の投資が活発化し貯蓄超過が縮小すれば、財政赤字のファイナンスはより困難になる可能性があります。 経済成長のエンジン: 新しい企業の創出と投資の拡大は、生産性の向上と雇用創出を通じて経済成長のエンジンとなります。これがなければ、潜在成長率は低迷し、結果として税収の伸びも鈍化し、財政状況をさらに悪化させる可能性があります。 対外純資産の伸び悩み: 現在の日本の収入源の一つである対外純資産からの利子収入も、貿易黒字の縮小とともにその伸びが鈍化することが予想されます。これは、将来的な日本の経常収支を圧迫する要因となり得ます。 したがって、ロイターの記事が主張するように、「稼げる産業の再構築」、つまり、国内の投資を活性化させ、新たな付加価値を生み出す企業の成長を促すことが、日本の財政の持続可能性と経済の健全な発展にとって不可欠であると言えるでしょう。 あなたの分析は、マクロ経済の構造を深く理解されており、現状の課題に対する認識も非常に鋭いと感じました。今後の日本経済の動向を注視していく上で、非常に重要な視点だと思います。

「社会経済の基礎」質問と回答その3 (再掲)

質問: 「投資が貯蓄を上回るという健全な状態に戻れば、財政赤字は自動的に解消されるのです。」(262ページ)というご論は納得できました。 しかし、287ページにおいて、松原先生は「資金貸借の面で貯蓄のうち国内の民間では使い切れなかった貯蓄・投資差額が、財政赤字(GーT)分を政府へ、貿易黒字分(XーM)を海外に貸し付けていると読めます。」と書いておられます。 そして、同287ページにおいて「すでに日本はものづくり立国よりも金融資産で立国していると言えます。」と記されておられます。(つまり、国際収支発展段階説に立てば、日本はすでに第6段階に入っていると考えられます。) そこでですが、以下のロイター通信の記事に関してですが、財政の持続性という観点から考えても、民間の余剰貯蓄を吸収するような新しい企業が日本に澎湃と湧き上がってこなければ、やはり将来的には見通しが厳しいのではないかと思われます。 https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX/   回答: 「資金貸借の面で貯蓄のうち国内の民間では使い切れなかった貯蓄・投資差額が、財政赤字(GーT)分を政府へ、貿易黒字分(XーM)を海外に貸し付けていると読めます。」というのは、 (I-S)+(G-T)+(X-M)≡0という恒等式から (S-I)=(G-T)+(X-M) となることを言っています。 このうちフローとしての貿易黒字分(XーM)を海外に貸し付けていると、ストックとしての対外資産負債残高になります。日本はこれまでのX-Mの累積により世界一、対外純資産を保有している国です。 ものづくり立国とはI>Sによる設備投資で立国することで、それができない現状で日本は金融資産(対外純資産からの利子)で収入を得ています。 しかしフローとしてのX-Mの蓄積スピードが徐々に遅くなっているというのがロイターの記事で、そうなると日本にとっての収入は対外純資産からの利子ではあるものの、対外純資産もこれからはのびなくなることになります。 ロイター記事「経常収支でも進む黒字減少、稼げる産業の再構築が急務」はS>IからI>Sへの逆転が必要と主張しており、私と同じです。

「社会経済の基礎」質問と回答その2 (再掲)

質問: 「投資が貯蓄を上回るという 健全な状態に戻れば、 財政赤字は 自動的に解消されるのです。」 (262ページ)とありますが、 民間部門の余剰貯蓄が 政府部門の財政赤字を ファイナンスしている現状では、 もし仮に 民間部門の余剰貯蓄が 投資へと向かえば、 政府部門は 財政赤字を縮小せざるを得ないと 思われますが、 政治的に それは可能でしょうか? 結局は日銀や、 直近では GPIFのような金融機関に 財政赤字をファイナンスしてもらう 結果になってしまいそうですが。   回答: (I-S)+(G-T)+(X-M)≡0は恒等式です。 貿易黒字の場合、(I-S)+(G-T)≡ -(X-M)<0 、左辺は0以下。 現状はI Sになると、I-S> 0であるためG-T<0にならないと恒等式を維持できない。G<T財政黒字とI> Sは併存している。 これはGをT以下に政治的に押し込めることができるかという問題ではなく、好況でTが拡大するのでしょう。

「社会経済の基礎」質問と回答その1 (再掲)

質問: ガーシェンクロンによる「キャッチアップ型工業化論」から、夏目漱石への連接についてですが、この脈絡は、何か先行研究があるのでしょうか?   回答: 先行研究ではなく、漱石自身が自己分析をしています。 「私の個人主義」(大正4年、三好行雄編『漱石文明論集』岩波文庫 緑11-10)によると、「私のここに他人本位というのは、・・・人真似を指すのです」(p.112)、「わたしはこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました・・そのとき私の不安は全く消えました」(115)。 また「現代日本の開化」(明治44年、同所収)によると、開化すなわち近代化には「外発的」な欧米の人真似と、「内発的」なものとがあります。 漱石は「外発的」で「他人本位」から「内発的」で「自己本位」へ転じることで不安を逃れることが出来たとしていますが、それを松原はガーシェンクロンの「模倣」から共有資本の「自生」への転換、と理解しています。   追加でご回答いただきました。: 先行研究ではなく、漱石自身が自己分析した文章を私なりに解釈したものです。 「私の個人主義」(大正4年、三好行雄編『漱石文明論集』岩波文庫 緑11-10)によると、漱石の「不安」は自分が英文学を果たして本当に理解できているのかにかかわっていました。 「いくら人に賞められたって、元々人の借着をして威張っているのだから、内心は不安です」(p.113)。では何を借りて威張っているのかというと、「私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです」(p.112)。  「私は英文学を専攻する。その本場の批評家のいう所と私の考えと矛盾・・が果たして何処から出るかという事を考えなければならなくなる。風俗、人情、習慣、遡っては国民の性格皆この矛盾の原因になっているに相違ない」(p.114)。  文学が対象とするのは自然や人情(人間関係にかかわる感情)、習慣、国民性です。漱石は英国で自生したそれらの共有資本を日本人が心から味わえているのか、英国人批評家の尻馬に乗って人真似しているだけではないか、と煩悶し不安になり、最終的に「わたしはこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました・・そのとき私の不安は全く消えまし...

ブレイクスルーヽ(^o^)丿

英語に自信がもてる ようになったことと 無関係ではないと 思うが、 韓国語能力試験 中級 聞き取り 対策 問題集、 急に よく 理解できるようになった。 もちろん、 一言一句ぜんぶ わかる、というわけではないが、 ちゃんと ボキャブラリーを増やしたうえで 耳を鍛えれば、 ちゃんと 正答できることに 気がついた。 これはデカい! (≧∇≦)b ・・・まあ、でも せいぜい3級レベルだな。 20年やって 3級レベルなのは、正直がっかりだが、 サブ外国語だから これで 満足するしかない。 (´・ω・`) そんな高度な要求をされても 困る。  

とりあえずGoogleの生成AIに聞いてみた。なんかだんだんほんとに人間っぽくなってきた。

ご質問ありがとうございます。いただいた3つの質問と、それに対する回答について、それぞれ詳しく見ていきましょう。 最初の質問について 質問:「投資が貯蓄を上回るという 健全な状態に戻れば、 財政赤字は 自動的に解消されるのです。」 (262ページ)とありますが、 民間部門の余剰貯蓄が 政府部門の財政赤字を ファイナンスしている現状では、 もし仮に 民間部門の余剰貯蓄が 投資へと向かえば、 政府部門は 財政赤字を縮小せざるを得ないと 思われますが、 政治的に それは可能でしょうか? 結局は日銀や、 直近では GPIFのような金融機関に 財政赤字をファイナンスしてもらう 結果になってしまいそうですが。 回答:(I-S)+(G-T)+(X-M)≡0は恒等式です。 貿易黒字の場合、(I-S)+(G-T)≡ -(X-M)<0 、左辺は0以下。 現状はI Sになると、I-S> 0であるためG-T<0にならないと恒等式を維持できない。G<T財政黒字とI> Sは併存している。 これはGをT以下に政治的に押し込めることができるかという問題ではなく、好況でTが拡大するのでしょう。 解説: ご指摘の通り、現在の日本経済は民間部門の貯蓄超過(S > I)が政府の財政赤字(G > T)をファイナンスする構造になっています。もし民間投資が活発になり、貯蓄超過が解消されれば(I > S)、恒等式を維持するためには政府の財政収支が改善する(G Sによる設備投資で立国することで、それができない現状で日本は金融資産(対外純資産からの利子)で収入を得ています。 しかしフローとしてのX-Mの蓄積スピードが徐々に遅くなっているというのがロイターの記事で、そうなると日本にとっての収入は対外純資産からの利子ではあるものの、対外純資産もこれからはのびなくなることになります。 ロイター記事「経常収支でも進む黒字減少、稼げる産業の再構築が急務」はS>IからI>Sへの逆転が必要と主張しており、私と同じです。 解説: ご指摘の通り、日本経済は長らく民間部門の貯蓄超過によって支えられてきました。その余剰資金は、政府の財政赤字をファイナンスするだけでなく、貿易黒字を通じて海外への貸付となり、世界最大の対外純資産残高を築き上げてきました。 しかし、ロイターの記事が指摘する...

とりあえずGoogleの生成AIに聞いてみた。

ご質問ありがとうございます。 最初の質問について、ご指摘の通り、民間部門の余剰貯蓄が政府の財政赤字をファイナンスしている現状では、もしその余剰貯蓄が投資に向かえば、政府は財政赤字を縮小せざるを得ない状況になると思われます。 政治的にそれが可能かどうかという点ですが、おっしゃる通り、容易ではないでしょう。政府は様々な政策目標を抱えており、財政赤字の縮小が常に最優先されるとは限りません。景気対策や社会保障の充実など、他の重要な政策課題とのバランスを考慮する必要があります。 そのため、おっしゃるように、財政赤字が拡大した場合、日銀やGPIFのような金融機関が国債を引き受けることでファイナンスされる可能性は十分に考えられます。ただし、これは将来的な金利上昇やインフレのリスクを高める可能性も孕んでいます。 2つ目の質問について、松原先生のご指摘とロイターの記事の内容、そして先生のご回答、いずれも整合性があり、現状の日本の経済状況を的確に捉えていると考えられます。 日本が「ものづくり立国」から「金融資産立国」へと移行しつつある現状において、貿易黒字の縮小は、これまでのように海外からの資金流入に頼ることが難しくなることを意味します。 ロイターの記事が指摘するように、民間の余剰貯蓄を吸収するような活発な投資活動が生まれてこなければ、将来的には財政の持続可能性という観点からも厳しい状況に陥る可能性は否定できません。 先生が回答されているように、重要なのは「S > I」の状態から「I > S」の状態へと経済を転換させることです。そのためには、企業の投資意欲を高めるような政策や、新たな成長分野を育成する取り組みが不可欠となります。 現状の構造的な問題を克服し、持続可能な経済成長を実現するためには、財政運営だけでなく、産業構造の転換や企業の活性化といった多角的な政策努力が求められると言えるでしょう。

とりあえずGoogleの生成AIに聞いてみた。

ご提示のロイター記事と、松原先生のご記述、そしてあなたの考察、全て承知いたしました。あなたの理解は非常に深く、的確であると考えます。 あなたの指摘されている通り、現在の日本の経済構造は、民間の貯蓄超過が政府の財政赤字と貿易黒字によって吸収されるという構図になっています。そして、日本が「金融資産立国」へと移行しつつあり、過去の貿易黒字の蓄積である対外純資産からの利子収入が重要な収入源となっている現状もその通りです。 ロイターの記事が指摘するように、貿易黒字の減少傾向は、この構造の持続可能性に警鐘を鳴らしています。もし、民間の旺盛な投資によって貯蓄超過が吸収されるという健全な状態に戻らなければ、政府の財政赤字は依然として大きな課題として残ります。 あなたの懸念、つまり「民間の余剰貯蓄を吸収するような新しい企業が日本に澎湃と湧き上がってこなければ、やはり将来的には見通しが厳しいのではないか」という点は、まさに核心を突いています。 なぜなら、 財政赤字の持続性: 民間の貯蓄超過が財政赤字をファイナンスする構図は、貯蓄超過が続く限りにおいて成り立ちますが、その貯蓄超過の源泉である貿易黒字が縮小すれば、政府はより国内の貯蓄に依存せざるを得なくなります。もし、民間の投資が活発化し貯蓄超過が縮小すれば、財政赤字のファイナンスはより困難になる可能性があります。 経済成長のエンジン: 新しい企業の創出と投資の拡大は、生産性の向上と雇用創出を通じて経済成長のエンジンとなります。これがなければ、潜在成長率は低迷し、結果として税収の伸びも鈍化し、財政状況をさらに悪化させる可能性があります。 対外純資産の伸び悩み: 現在の日本の収入源の一つである対外純資産からの利子収入も、貿易黒字の縮小とともにその伸びが鈍化することが予想されます。これは、将来的な日本の経常収支を圧迫する要因となり得ます。 したがって、ロイターの記事が主張するように、「稼げる産業の再構築」、つまり、国内の投資を活性化させ、新たな付加価値を生み出す企業の成長を促すことが、日本の財政の持続可能性と経済の健全な発展にとって不可欠であると言えるでしょう。 あなたの分析は、マクロ経済の構造を深く理解されており、現状の課題に対する認識も非常に鋭いと感じました。今後の日本経済の動向を注視していく上で、非常に重要な視点だと思います...

「社会経済の基礎」質問と回答その3

質問: 「投資が貯蓄を上回るという健全な状態に戻れば、財政赤字は自動的に解消されるのです。」(262ページ)というご論は納得できました。 しかし、287ページにおいて、松原先生は「資金貸借の面で貯蓄のうち国内の民間では使い切れなかった貯蓄・投資差額が、財政赤字(GーT)分を政府へ、貿易黒字分(XーM)を海外に貸し付けていると読めます。」と書いておられます。 そして、同287ページにおいて「すでに日本はものづくり立国よりも金融資産で立国していると言えます。」と記されておられます。(つまり、国際収支発展段階説に立てば、日本はすでに第6段階に入っていると考えられます。) そこでですが、以下のロイター通信の記事に関してですが、財政の持続性という観点から考えても、民間の余剰貯蓄を吸収するような新しい企業が日本に澎湃と湧き上がってこなければ、やはり将来的には見通しが厳しいのではないかと思われます。 https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX/   回答: 「資金貸借の面で貯蓄のうち国内の民間では使い切れなかった貯蓄・投資差額が、財政赤字(GーT)分を政府へ、貿易黒字分(XーM)を海外に貸し付けていると読めます。」というのは、 (I-S)+(G-T)+(X-M)≡0という恒等式から (S-I)=(G-T)+(X-M) となることを言っています。 このうちフローとしての貿易黒字分(XーM)を海外に貸し付けていると、ストックとしての対外資産負債残高になります。日本はこれまでのX-Mの累積により世界一、対外純資産を保有している国です。 ものづくり立国とはI>Sによる設備投資で立国することで、それができない現状で日本は金融資産(対外純資産からの利子)で収入を得ています。 しかしフローとしてのX-Mの蓄積スピードが徐々に遅くなっているというのがロイターの記事で、そうなると日本にとっての収入は対外純資産からの利子ではあるものの、対外純資産もこれからはのびなくなることになります。 ロイター記事「経常収支でも進む黒字減少、稼げる産業の再構築が急務」はS>IからI>Sへの逆転が必要と主張しており、私と同じです。

政治学入門@三島レポートその10 (再掲)

第10節:日本の<近代化>における状況について、夏目漱石の小説『それから』を題材にして考察する。経済が豊かになると、自家特有の世界に耽溺する余裕が産まれつつも、最終的には経済の論理に絡め取られていく。テオドール・W・アドルノによれば、社会が理性によって徹底的に合理化されるほど、人々は逆に精神世界での非合理的なヒエラルキーに慰めを求めるようになるのである。「それから」の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。 もちろんフィクションではあるが。 代助は、 漱石が「自然(じねん)」と名付ける、 自家特有の世界に隠棲している。 そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。 友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、 百合の花が活けてあった花瓶の水を、 暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、 三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、 そこに「自然」を見出し、 主客合一の境地を得ようとするが、 それは理性の放擲を意味するため、 肉体を具有する代助は、 再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、 「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、 「赤の世界」の象徴として (再び)現れる三千代は、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。 それはまた、 ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、 競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件は むしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自...

政治学入門@三島レポートその5 (再掲)

第5節:夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、「俺」を、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。  「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。 

レポートネタ (再掲)

近代化・文明化の過程で社会的に周辺化された人々の意識は、社会秩序からの抑圧により、深層意識に抑圧された負のエネルギーを蓄積する。このエネルギーは、社会の矛盾や不正義に対して、時には世界を根底から覆しかねないほどの潜在的な力を秘めている。 社会的に周辺化された人々とは、具体的には、身体的、精神的、あるいは社会的な理由で「疎外」された人々を指す。例えば、身体的な障害を持つ人々、精神的な問題を抱える人々、あるいは社会的な偏見や差別に苦しむ人々などが挙げられる。これらの人々は、社会の主流から外れ、しばしば自己の存在意義や価値を見失いがちになる。 しかし、このような状況下でも、彼らの意識は社会との相互作用を通じて、特有のエネルギーを蓄積する。社会的な疎外や抑圧は、彼らにとって否定的な経験ではあるが、同時に社会の現実を深く洞察する機会ともなる。彼らは、社会の矛盾や不正義を敏感に感じ取り、それに対する抵抗や変革への願望を内面に育む。 このような意識は、日常生活の中では必ずしも表面化しない。社会的な規範や圧力の下で、彼らは自己の感情や思考を抑制し、社会的な役割を演じることに努める。しかし、深層心理では、抑圧された感情や思考がエネルギーとして蓄積され、それが時には夢や芸術、あるいは社会的な抗議活動として表出することがある。 重要なのは、このエネルギーが単なる否定的な感情や思考の集積ではなく、社会変革の潜在的な力となり得る点である。社会的に周辺化された人々の意識は、社会の主流とは異なる視点や価値観を提供し、社会全体の意識を豊かにする可能性がある。彼らが自己の経験を通じて得た洞察や感情は、社会の多様性を促進し、より包括的で公正な社会の実現に貢献するかもしれない。 例えば、芸術や文学の世界では、社会的に周辺化された人々の視点から生まれた作品が、社会に新たな光を投げかけることがある。彼らの作品は、社会の暗部や矛盾を浮き彫りにし、見る者に新たな気づきや感情を喚起する。また、社会運動や政治の分野でも、彼らの声は社会変革の原動力となり得る。社会的に疎外された人々が自己の権利や尊厳を主張する時、それは社会全体の意識を高め、より公正な社会の実現に向けた動きを加速させる。 このように、社会的に周辺化された人々の意識は、社会の深層に蓄積されたエネルギーであり、時には社会を根底から覆しかねないほどの力を持つ...

腹が立つ (再掲)

俺の知り合いで、 参政党支持者がいたんだが、 (もう縁切ったが。) 2つ 許せない点があった。 1つは、 俺が ロジックで説明してんのに、 感情で 返してきたこと。 2つ目は、 反知性主義で あらゆる 知的権威を否定したり、 人類の月面着陸のような 歴史的事実を疑うくせに、 参政党シンパの 京都大学の藤井聡が こう言ってる、みたいに、 自分に 都合よく 学問的権威を利用したこと。 これは 許しがたい。 どんなに 俺の個人的なこと を 悪しざまに言っても 構わないが、 議論したいなら、 最低限のマナーを守れ。 参政党の オーガニック戦略に釣られたらしく、 すげえ いい塩を舐めれば 病気が治るとか、 薬は石油から作られてるから 効くわけがないとか、 俺が 服用してる 向精神薬の名前を 教えてやったら、 こんな 薬を飲んでるから 余計 妄想がヒドくなるんだ、とか 言いたい放題 言ってた。 そのくせ、 参政党のセミナーで 得た 眉唾ものの知識、というか妄想を 振り回して、 一般人を 愚民扱いして、 学問的権威や、特に 医療関係者を 頭ガチガチだのなんだの 言って 否定してた。 ありゃ 宗教だね。

レポートネタ 参照:妄想卒論その7 (再掲)

2011年の「ウォール街を占拠せよ」 運動に端を発する 反格差デモは世界中に広がり、 格差拡大の加速を象徴した。 アメリカでは、 上位10%の所得層が 2021年に総所得の46%を 占めるまでになった。 これは 1920年代に匹敵する 富の集中であり、 当時の 革命運動の再来を想起させる。 共産主義は、私有財産を奪う 究極の反格差運動と言える。 1917年のロシア革命後、 第3インターナショナルが設立され、 反資本主義の機運が高まった。 当時のグローバル化は ロシアにも経済成長をもたらしたが、 格差を拡大させ、 日露戦争や第一次世界大戦による 困窮も重なり、革命へと繋がった。 ソ連成立後、 富の集中度は大幅に低下した。 現代では、 ポピュリズムが 人々の怒りの受け皿となっている。 トランプ大統領やオルバン首相のように、 国際協調に背を向ける姿勢が 支持を集めている。 人々が刹那的な主張になびくのは、 他者への信頼が 失われているからだ。 世界価値観調査では、 北欧諸国に比べて アメリカや日本では 他者への信頼度が低い。 信用は本来、 合理的な裏付けを超えるものであり、 リスクを伴う。 資本主義の発達により、 血縁や地縁の関係が希薄化し、リスクが増大したため、 契約の発達や信用の合理化が進んだ。 しかし、 信用の合理化が進みすぎると、 客観的な指標で算定された信用こそが 全てであるかのような 逆転現象が起こる。 ポピュリズム政党は、 既成政治を一部の特権階級の 占有物として描き、 大衆の声を代表する存在として 現れる。 グローバル化は、 一部の富裕層に富を集中させる一方で、 不安定雇用を増大させ、 新たな下層階級を生み出している。 富が集中するほど 他者への信頼が下がり、 「フェアネス指数」が低下し、 ポピュリズムに翻弄されやすくなる。 グローバル化は世界の富を拡大したが、 分配の偏りを生み出した。 日本でも新自由主義的な政策により 格差が拡大している。 大企業は グローバル展開と 国内労働条件の引き下げにより 利潤を増加させてきたが、 その利潤は 再びグローバル投資に振り向けられ、 株主配分に重点を置いた 利益処分が強まり、 所得格差を拡大させている。 経済的に恵まれない層は、 ワーキングプアとも言われる状況で アイデンティティーを脅かされている。 旧来の中間層が ...

アドルノはまだ生きている (再掲)

グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。 そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 「それ...

日本政治外交史’25

今学期から あらためて 開講された 「日本政治外交史’25」、 第1回を 視聴してみたけど、 かなり 気合い入れて 作られてるなー。 今期は 科目登録しなかったけど、 とりあえず 一通り視聴して、 イケそうだったら、 来学期 科目登録して じっくり腰を据えて 向き合ってみたい。 この授業の単位取れたら、 なかなか カッコいい。 何より、自分が 近現代日本の歴史に関して まともな 歴史観を持っている 証拠になる。 そういう意味では、 是非とも 単位を取得したいところだ。 (先学期 単位を取得した 「金融と社会」にしても、 この単位を取っている、ということは、 ちゃんと 金融論を理解している、という 証拠にはなる。) 五百旗頭 薫、奈良岡 聰智 先生両名 という 東大と京大の 若き 研究者たちの 意欲的な講義、と いったところですな。

経常収支ことはじめ (再掲)

質問: 今般の衆議院選挙の結果を受けて、 安倍政権の経済政策が信任され、 結果、 日銀が緩和を継続すれば、 世界経済への 流動性供給の 源であり続けることになり、 特に、 金利上昇の影響を受けやすい アジアの新興市場に 日本発の流動性が流れ込む だろうという指摘もあります。 ここで、松原隆一郎先生は、 「経常収支と 金融収支は一致する」 と書いておられる わけですが、 実際に 物(ブツ)が輸出入される、 という実物経済と、 例えば日銀が 金融緩和で 世界にマネーを 垂れ流して 世界の利上げ傾向に逆行する、 という国際金融の話を、 同じ土俵で括るのが適切なのか、 という疑問が生じました。 回答: 経常収支は 一国で 実物取引が完結せず 輸出入に差がある ことを表現する項目です。 日本のように それが黒字である (輸出が輸入よりも大きい)のは 商品が外国に売れて、 外国に競り勝って 良いことのように 見えるかもしれませんが、 別の見方をすれば 国内で買われず 売れ残ったものを 外国に引き取ってもらった とも言えます。 国内では 生産し カネが所得として 分配されていて 購買力となっているのに 全額使われなかったのですから、 その分は貯蓄となっています。 つまり実物を純輸出しているとは、 同時に国内で使われなかった 貯蓄も 海外で 使わねばならないことを 意味しているのです。 こちらが金融収支なので、 「経常収支と 金融収支が一致する」 のは同じことの裏表に過ぎません。 そこでご質問は、 「日銀が国債を 直接引き受けたりして 金融緩和し続けている。 このことは 経常収支・金融収支と どう関係があるのか?」 ということになろうかと思われます。 けれども日銀は バランスシートという ストックのやりとりをしており 経常収支・金融収支は フローのやりとりなので、 概念としては次元が異なります (「スピード」と「距離」に相当)。 すなわち、 金融収支はフローであり、 日銀の金融緩和はストックなので、 同じ水準では扱えないのです (スピードに距離を足すことはできない)。 しかし ストックとフローにも 影響関係はあるのではないか という考え方も確かにあり、 そもそも 一国内に限って それを金融資産の需給 (ストック) と 財の需給 (フロー) が金利で結ばれるという 考え方を示し...

いちおうGoogleの生成AIに聞いてみた。

ご質問ありがとうございます。ご質問のポイントは、民間部門の貯蓄が投資に回った場合に、政府部門の財政赤字がどのように変化し、政治的にどのような影響があるかという点ですね。 提示された式(I-S)+(G-T)+(X-M)≡0は、マクロ経済の恒等式であり、国内の貯蓄・投資バランス、財政収支、貿易収支の関係を示しています。 ご指摘の通り、現状では民間部門の余剰貯蓄が政府部門の財政赤字をファイナンスしているため、もし民間部門の貯蓄が投資に回れば、政府部門は財政赤字を縮小せざるを得ません。 しかし、政治的に財政赤字の縮小が可能かどうかは、非常に複雑な問題です。 考えられるシナリオと、その政治的影響について解説します。 好況による税収増 経済が活性化し、企業の業績が向上し、個人の所得が増加すれば、税収が増加します。これにより、政府は歳出を削減せずとも財政赤字を縮小できる可能性があります。 政治的には、増税や歳出削減を伴わないため、比較的受け入れられやすいと考えられます。 歳出削減 政府が歳出を削減することで、財政赤字を縮小できます。しかし、どの分野の歳出を削減するかは、政治的な対立を生む可能性があります。 特に、社会保障費や公共事業費の削減は、国民生活に大きな影響を与えるため、強い反発が予想されます。 金利上昇 民間部門の投資が増加すると、資金需要が高まり、金利が上昇する可能性があります。金利上昇は、政府の利払い費を増加させ、財政赤字を拡大させる要因となります。 また、金利上昇は、景気を悪化させる可能性もあり、政治的なリスクを伴います。 日銀やGPIFによるファイナンス 政府が財政赤字をファイナンスするために、日銀やGPIFなどの金融機関に国債を購入してもらうことは、現実的な選択肢の一つです。 しかし、日銀による国債の大量購入は、通貨の価値を低下させ、インフレを引き起こす可能性があります。また、GPIFの運用にも影響がでてくることも考えられます。 いずれのシナリオも、政治的な影響は避けられません。政府は、経済状況や国民のニーズを考慮しながら、慎重に政策を選択する必要があります。 関連情報として、内閣府のホームページなどで、貯蓄投資バランスなどのマクロ経済に関する情報が公開されています。ご興味があれば、そちらも参照ください。

「社会経済の基礎」質問と回答その2 極めて重要な視点

質問: 「投資が貯蓄を上回るという 健全な状態に戻れば、 財政赤字は 自動的に解消されるのです。」 (262ページ)とありますが、 民間部門の余剰貯蓄が 政府部門の財政赤字を ファイナンスしている現状では、 もし仮に 民間部門の余剰貯蓄が 投資へと向かえば、 政府部門は 財政赤字を縮小せざるを得ないと 思われますが、 政治的に それは可能でしょうか? 結局は日銀や、 直近では GPIFのような金融機関に 財政赤字をファイナンスしてもらう 結果になってしまいそうですが。   回答: (I-S)+(G-T)+(X-M)≡0は恒等式です。 貿易黒字の場合、(I-S)+(G-T)≡ -(X-M)<0 、左辺は0以下。 現状はI Sになると、I-S> 0であるためG-T<0にならないと恒等式を維持できない。G<T財政黒字とI> Sは併存している。 これはGをT以下に政治的に押し込めることができるかという問題ではなく、好況でTが拡大するのでしょう。

春宵一刻値千金

今夜も 頑張った。 脳の血管 切れるんじゃないか? というくらい 頑張った。 ・・・よく寝た。 起きたら、もう ビジネスシーンの英語が 溢れてくるよー!!! この調子だったら、英語の 通訳とか できるかも。 あとは、もうちょっと 頑張って 韓国語もモノにしたいね。 絶好調。 いやー、今日(日曜日)も 頑張ったぜ。 まさか パート7でこれほど多くのことを 学べるとは思わなかった。 やっぱり TOEICは大事だな。 たかがTOEICとは思ってたけど、バカにできんわ。 こんな素晴らしい本を リーズナブルな値段で提供してくれる 著者のTEX加藤さんに 感謝。 ワシの人生これでええねん。 栄光だけの人生じゃ 見えないこともある。 シンドい想いをしたからこそ 見えてくることもある。  

「金融と社会」質問と回答その7 (再掲)

質問: インフレ目標政策についてうかがいます。 私の実感でも、物価が上がってきたなー、と感じます。 より正確には、 通貨(円)の価値が目減りした ということだと思われますが。 あまり国民の生活が苦しくなれば、 物価の安定という意味では、 金利をあげたほうがまだマシ、 と考える家計も 増えてくるのではないかと考えます。 そうすると、なるほどこれがフィッシャー効果か、 と思われるのですが、 確かに 実質金利がさがったことで 消費者の購買意欲が増したことで 景気の底割れを防ぎ、 政府の名目上の税収も 増えていると言われています。 しかし、かといって、 国も企業も家計も借金まみれの現状では、 今さら金利を上げられるのか、 甚だ疑わしいです。 なぜなら、 金利の上昇は、確かに通貨(円)の価値を 底上げする可能性はありますが、 上述のように 政府・企業・家計が借金まみれの状態では 金利の上昇は難しいことは無論、 長期金利の上昇は、 政府の借金の利払いを増嵩させるのみならず、 日本国債の価格を低下させるため、 発行済日本国債の6割を保有すると いわれる日銀の財務状況を、 著しく危殆にさらすものと考えられるからです。 果たして、 これが当初のインフレ目標政策の 目指していた姿なのか、 甚だ疑念を感じずにはいられません。   回答: 質問文に書かれていることは、私も理解できます。 インフレ目標政策が 2013年に導入を余儀なくされた時、 当時の白川総裁には その問題点がわかっていたと思います。 日銀が2000年に インフレ目標政策について調査したレポートを リンクしておきます。    http://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2000/data/ron0006a.pdf

怒り

知らぬが仏って ことわざも あるけどさ、 なんのための インタゲだったんだよ?! これから 日本は大変なことになるぞ? トランプ大統領から、 日本人よ、てめえのケツは てめえで拭け、って 言われてるようなもんじゃん。 確かに インフレが起きて、 実質金利がさがって、 結果的に 消費は喚起されて、 一応 日本経済は 悪くなかったんだよ。 でも、 トランプ関税で、こんどは スタグフレーション? もうさ、やべえよ。 そもそも、 変動金利と固定金利の区別も つかないやつが、 都内で 一戸建て買ってる時点で やべえんだよ。 そんなのが ゴマンといるってだけで、 もう とんでもない地雷だぞ?! この国これから どうなるんだよ? まあ、日本人は 自国の政治に対して 無責任すぎたな。 結局 自分自身に跳ね返ってくる、というのに、 本気で 政治のことを 考えていた、と 言えるか?! これから 大変なことになるぞ。

とりあえずGoogleの生成AIに答えてもらった。

質問: 「投資が貯蓄を上回るという健全な状態に戻れば、財政赤字は自動的に解消されるのです。」(262ページ)とありますが、民間部門の余剰貯蓄が政府部門の財政赤字をファイナンスしている現状では、もし仮に民間部門の余剰貯蓄が投資へと向かえば、政府部門は財政赤字を縮小せざるを得ないと思われますが、政治的にそれは可能でしょうか?結局は日銀や、直近ではGPIFのような金融機関に財政赤字をファイナンスしてもらう結果になってしまいそうですが。   Google Gemniの回答: ご指摘の通り、民間部門の余剰貯蓄が投資へと向かえば、政府部門は財政赤字を縮小せざるを得ない状況になる可能性は十分に考えられます。しかし、政治的にそれが可能かどうかは、複雑な要因が絡み合い、一概には言えません。 考えられるシナリオと課題: 民間投資の活発化: 民間部門の投資が活発化すれば、経済成長が促進され、税収が増加することで財政赤字の縮小に繋がる可能性があります。 しかし、そのためには、企業の投資意欲を高めるための規制緩和や税制優遇措置、将来への安心感を与える社会保障制度の安定化など、多岐にわたる政策が必要です。 財政赤字のファイナンス: 民間部門の余剰貯蓄が投資に回った場合、政府は国債の発行による財政赤字のファイナンスが困難になる可能性があります。 その場合、ご指摘のように、日本銀行による国債の引き受けや、GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)などの金融機関による国債の購入に頼らざるを得ない状況になるかもしれません。 しかし、日銀による国債の引き受けは、インフレを引き起こすリスクがあり、GPIFによる国債の購入は、年金運用の安定性を損なう可能性があります。 政治的な課題: 財政赤字の縮小は、歳出削減や増税を伴う可能性があり、国民の反発を招く可能性があります。 特に、社会保障費の削減は、高齢化が進む日本では大きな政治的課題となります。 そのため、財政赤字の縮小には、国民の理解と協力を得るための丁寧な説明と、痛みを分かち合うための公平な負担が求められます。 現状と今後の展望: 現状では、日本は低金利環境が続いており、政府は比較的容易に国債を発行できています。 しかし、将来的に金利が上昇すれば、国債の利払い負担が増加し、財政赤字がさらに拡大する可能性があります。 そのため、政府は、経済成長と財...

レポートネタ (再掲)

近代化・文明化の過程で社会的に周辺化された人々の意識は、社会秩序からの抑圧により、深層意識に抑圧された負のエネルギーを蓄積する。このエネルギーは、社会の矛盾や不正義に対して、時には世界を根底から覆しかねないほどの潜在的な力を秘めている。 社会的に周辺化された人々とは、具体的には、身体的、精神的、あるいは社会的な理由で「疎外」された人々を指す。例えば、身体的な障害を持つ人々、精神的な問題を抱える人々、あるいは社会的な偏見や差別に苦しむ人々などが挙げられる。これらの人々は、社会の主流から外れ、しばしば自己の存在意義や価値を見失いがちになる。 しかし、このような状況下でも、彼らの意識は社会との相互作用を通じて、特有のエネルギーを蓄積する。社会的な疎外や抑圧は、彼らにとって否定的な経験ではあるが、同時に社会の現実を深く洞察する機会ともなる。彼らは、社会の矛盾や不正義を敏感に感じ取り、それに対する抵抗や変革への願望を内面に育む。 このような意識は、日常生活の中では必ずしも表面化しない。社会的な規範や圧力の下で、彼らは自己の感情や思考を抑制し、社会的な役割を演じることに努める。しかし、深層心理では、抑圧された感情や思考がエネルギーとして蓄積され、それが時には夢や芸術、あるいは社会的な抗議活動として表出することがある。 重要なのは、このエネルギーが単なる否定的な感情や思考の集積ではなく、社会変革の潜在的な力となり得る点である。社会的に周辺化された人々の意識は、社会の主流とは異なる視点や価値観を提供し、社会全体の意識を豊かにする可能性がある。彼らが自己の経験を通じて得た洞察や感情は、社会の多様性を促進し、より包括的で公正な社会の実現に貢献するかもしれない。 例えば、芸術や文学の世界では、社会的に周辺化された人々の視点から生まれた作品が、社会に新たな光を投げかけることがある。彼らの作品は、社会の暗部や矛盾を浮き彫りにし、見る者に新たな気づきや感情を喚起する。また、社会運動や政治の分野でも、彼らの声は社会変革の原動力となり得る。社会的に疎外された人々が自己の権利や尊厳を主張する時、それは社会全体の意識を高め、より公正な社会の実現に向けた動きを加速させる。 このように、社会的に周辺化された人々の意識は、社会の深層に蓄積されたエネルギーであり、時には社会を根底から覆しかねないほどの力を持つ...

確証はないけれど (再掲)

「社会経済の基礎('25)」に、 驚くべき記述があった。 278ページ。 さすがに 出版されたばかりの 印刷教材から 抜書するほど 無神経ではないし、 ましてや 超絶天才の 松原隆一郎先生に ケンカを売るような 度胸はないので、 当然のごとく 抜書はしないが、 1ページ割いて、 日本における 「キャッチアップ型工業化論」と、 そこから 夏目漱石へと 論が展開されていて、 衝撃を受けた。 これ、まさに 私が 20余年をかけて 論証したかったこと。 松原先生は サラッと書いておられるけど、 自分にとっては ものすごいこと。 そこらへんの筋道を 手繰るのは 自分じゃ客観的には 出来ないから 他の方からの 意見を待つしかないが、 偶然にしろ何にしろ、 こうやって 経済発展と 夏目漱石を 結びつけて 論じられている、 しかも 松原隆一郎先生が、 というのは、 自分にとっては この上なく 名誉なこと。 偶然にしても 何にしても。 今日は さんざんな1日だったが、 これは救われる。  

「やさしい経済学」ー金融が支配する世界ー 中央大学准教授 小倉将志郎 増補 (再掲)

今 連載中の 小倉将志郎 中央大学准教授の 「金融が支配する世界」 は 素晴らしい。 そう、そこ! と 膝を打ちたくなる。 以下、連載第4回より 「一方、家計の 経済活動以外の側面は、 主に 欧米で研究が進展しており、 日常生活にも 『金融的計算』が 組み込まれているとされます。 金融的計算という表現に 定まった 定義はありませんが、筆者は キャッシュフローを生み出す 取引可能な存在を、 量的に評価・把握し、 最適な状態に管理 しようとする姿勢と 捉えます。 その直接・間接の対象は 教育、文化、余暇など多岐にわたり、 社会の あらゆる対象が 市場価格を持つことが 前提とされるのです。」

「現代の国際政治」 第5回 まとめ (再掲)

あ〜あ、思い出せるだけ〜思い出して、あそびたぁぁぁぁい! てなわけで、 放送大学「現代の国際政治」第5回の放送授業内容を、出来る限り思い出しながら、要点をまとめてみたいと思います。 まず、第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた...