2025年4月4日金曜日
レポートネタ (再掲)
近代化・文明化の過程で社会的に周辺化された人々の意識は、社会秩序からの抑圧により、深層意識に抑圧された負のエネルギーを蓄積する。このエネルギーは、社会の矛盾や不正義に対して、時には世界を根底から覆しかねないほどの潜在的な力を秘めている。 社会的に周辺化された人々とは、具体的には、身体的、精神的、あるいは社会的な理由で「疎外」された人々を指す。例えば、身体的な障害を持つ人々、精神的な問題を抱える人々、あるいは社会的な偏見や差別に苦しむ人々などが挙げられる。これらの人々は、社会の主流から外れ、しばしば自己の存在意義や価値を見失いがちになる。 しかし、このような状況下でも、彼らの意識は社会との相互作用を通じて、特有のエネルギーを蓄積する。社会的な疎外や抑圧は、彼らにとって否定的な経験ではあるが、同時に社会の現実を深く洞察する機会ともなる。彼らは、社会の矛盾や不正義を敏感に感じ取り、それに対する抵抗や変革への願望を内面に育む。 このような意識は、日常生活の中では必ずしも表面化しない。社会的な規範や圧力の下で、彼らは自己の感情や思考を抑制し、社会的な役割を演じることに努める。しかし、深層心理では、抑圧された感情や思考がエネルギーとして蓄積され、それが時には夢や芸術、あるいは社会的な抗議活動として表出することがある。 重要なのは、このエネルギーが単なる否定的な感情や思考の集積ではなく、社会変革の潜在的な力となり得る点である。社会的に周辺化された人々の意識は、社会の主流とは異なる視点や価値観を提供し、社会全体の意識を豊かにする可能性がある。彼らが自己の経験を通じて得た洞察や感情は、社会の多様性を促進し、より包括的で公正な社会の実現に貢献するかもしれない。 例えば、芸術や文学の世界では、社会的に周辺化された人々の視点から生まれた作品が、社会に新たな光を投げかけることがある。彼らの作品は、社会の暗部や矛盾を浮き彫りにし、見る者に新たな気づきや感情を喚起する。また、社会運動や政治の分野でも、彼らの声は社会変革の原動力となり得る。社会的に疎外された人々が自己の権利や尊厳を主張する時、それは社会全体の意識を高め、より公正な社会の実現に向けた動きを加速させる。 このように、社会的に周辺化された人々の意識は、社会の深層に蓄積されたエネルギーであり、時には社会を根底から覆しかねないほどの力を持つ。このエネルギーは、社会の矛盾や不正義に対する抵抗の源泉となり、社会変革の潜在的な力となる。したがって、彼らの意識を理解し、その声を社会に反映させることは、より公正で包括的な社会を築く上で不可欠である。
確証はないけれど (再掲)
「社会経済の基礎('25)」に、
驚くべき記述があった。
278ページ。
さすがに
出版されたばかりの
印刷教材から
抜書するほど
無神経ではないし、
ましてや
超絶天才の
松原隆一郎先生に
ケンカを売るような
度胸はないので、
当然のごとく
抜書はしないが、
1ページ割いて、
日本における
「キャッチアップ型工業化論」と、
そこから
夏目漱石へと
論が展開されていて、
衝撃を受けた。
これ、まさに
私が
20余年をかけて
論証したかったこと。
松原先生は
サラッと書いておられるけど、
自分にとっては
ものすごいこと。
そこらへんの筋道を
手繰るのは
自分じゃ客観的には
出来ないから
他の方からの
意見を待つしかないが、
偶然にしろ何にしろ、
こうやって
経済発展と
夏目漱石を
結びつけて
論じられている、
しかも
松原隆一郎先生が、
というのは、
自分にとっては
この上なく
名誉なこと。
偶然にしても
何にしても。
今日は
さんざんな1日だったが、
これは救われる。
「やさしい経済学」ー金融が支配する世界ー 中央大学准教授 小倉将志郎 増補 (再掲)
今 連載中の 小倉将志郎 中央大学准教授の 「金融が支配する世界」 は 素晴らしい。 そう、そこ! と 膝を打ちたくなる。 以下、連載第4回より 「一方、家計の 経済活動以外の側面は、 主に 欧米で研究が進展しており、 日常生活にも 『金融的計算』が 組み込まれているとされます。 金融的計算という表現に 定まった 定義はありませんが、筆者は キャッシュフローを生み出す 取引可能な存在を、 量的に評価・把握し、 最適な状態に管理 しようとする姿勢と 捉えます。 その直接・間接の対象は 教育、文化、余暇など多岐にわたり、 社会の あらゆる対象が 市場価格を持つことが 前提とされるのです。」
「現代の国際政治」 第5回 まとめ (再掲)
あ〜あ、思い出せるだけ〜思い出して、あそびたぁぁぁぁい! てなわけで、 放送大学「現代の国際政治」第5回の放送授業内容を、出来る限り思い出しながら、要点をまとめてみたいと思います。 まず、第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。 ま、こんなとこかな。 地域間経済協定については割愛した。 https://www.homemate-research.com/useful/18249_shopp_010/
グローバル化と金融@金沢 まとめ (再掲)
現代のグローバル資本主義の構造的問題は、 世界的なカネ余り状態である。 まず、1960年代に、 企業の海外進出に伴い、 銀行が国際展開を 急激に拡大したことにより、 どこからも規制を受けない 「ユーロ市場」 が登場した。 次に、1970年代に、 オイル・ショックによる オイルマネーの流入と 金融技術革新により、 米国の銀行による 「ユーロ・バンキング」 が活発化する。 変動相場制への移行により、 銀行は アセット・ライアビリティ・マネジメント (ALM) を導入。 これは、 ドル建ての資産と ドル建ての負債を 同額保有することにより 為替リスクを相殺する方法である。 たとえば、 ドル建て資産を1万ドル保有していた場合、 円高ドル安になれば 資産は減価し、 円安ドル高になれば資産は増価する。 逆に、 ドル建て負債を 1万ドル保有していた場合、 円高ドル安になれば負債は減価し、 円安ドル高になれば負債は増価する。 こうして為替リスクを相殺する。 1970年代のオイルマネーの増大と、 インフラ投資額の高騰により、 特定の一つだけの銀行だけでは 融資の実行が困難になり、 シンジケート・ローンが発展した。 シンジケート・ローンとは、 幹事引受銀行が ローンを組成し、 参加銀行に分売することで、 複数の銀行による 信用リスクの分散化を 図るものである。 しかし、シンジケート・ローンにより、 信用リスクは分散したが、 信用リスクそのものが 低下したわけではない。 この後の 資産の証券化の流れのなかで、 ALMの発展により リスク管理手段が多様化し、 デリバティブが登場し、急速に拡大した。
文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答 (再掲)
質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。 フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。 「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家を孤立させ絶望においやっている現状が鋭く指摘されています。その他の時事的な文章・発言においても、ヨーロッパにおけるグローバリズムと言うべきEU経済戦略のもたらすひずみと地場産業の危機は、ウエルベックにとって一つの固定観念とさえ言えるほど、しばしば繰り返されています。 つまり、ウエルベックは「グローバリゼーション」が伝統的な経済・産業活動にもたらすネガティヴな影響にきわめて敏感であり、そこにもまた「闘争領域の拡大」(ご存じのとおり、これはそもそも、現代的な個人社会における性的機会の不平等化をさす言葉だったわけですが)の脅威を見出していると言っていいでしょう。なお、「セロトニン」で描かれる、追いつめられたフランスの伝統的農業経営者たちの反乱、蜂起が「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言・予告するものだと評判になったことを、付記しておきます。 以上、ご質問に感謝しつつ、ご参考までお答え申し上げます。
2025年4月3日木曜日
「戦後世界経済史」 猪木武徳 中公新書 ー潮目が変わった。今こそ読まれるべき一冊ー (再掲)
を読み始めました。
そろそろ乱視がキツくなってきた。
非常に読みやすいです。
内容もしっかりしている。
こういう類の本って、
良書がなかなかない。
ざっくりと
戦後世界の経済史を
把握する、というだけでも
相当の力量が必要。
だから、得てして
史実を列挙しただけの無味乾燥な
話になるか、あるいは
眉唾ものの
煽り本になったりしてしまうのだが、
これは
著者の猪木武徳氏が
その
力量をいかんなく発揮されている。
素晴らしい。
まだ読み始めただけですが、
これ一冊読み通したら、
かなり
力がつくと思う。
・・・すげえ。
これは面白い。
淡々と叙述されてはいるが、
もの凄いことだ。
歴史的名著とさえ言える。
この
猪木武徳氏も、あまり知られた
存在ではないけど、
経歴はダテじゃない。
1945年生まれ。
京大経済学部卒、
MITで博士号。
現在
大阪大学名誉教授。
・・・これは凄いわ。
ほんと凄い。
ビビるわ、マジで。
これが税抜きで
1,000円切るんだからね。
(本体価格 940円)
日本の出版業界も
捨てたもんじゃない。
・・・ほんっとビビるわ。
細かいエピソードが
ちらほら散りばめられているんだが、
よくまあそんなこと
知ってんな、と
ほんと脱帽せざるを得ない。
・・・これは凄い。
ほんとうに凄い。
こんな本があったのか?!
というレベル。
・・・とりあえず
読み終えた。
正味2日間で、一気読み。
飛ばしたところも多々あるが、
押さえておいて欲しい
論点は、すべて
漏らさず記載されていた。
大満足。
( ´∀`)
「社会経済の基礎」質問と回答その1
質問:ガーシェンクロンによる「キャッチアップ型工業化論」から、夏目漱石への連接についてですが、この脈絡は、何か先行研究があるのでしょうか?
回答:先行研究ではなく、漱石自身が自己分析をしています。
「私の個人主義」(大正4年、三好行雄編『漱石文明論集』岩波文庫 緑11-10)によると、「私のここに他人本位というのは、・・・人真似を指すのです」(p.112)、「わたしはこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました・・そのとき私の不安は全く消えました」(115)。
また「現代日本の開化」(明治44年、同所収)によると、開化すなわち近代化には「外発的」な欧米の人真似と、「内発的」なものとがあります。
漱石は「外発的」で「他人本位」から「内発的」で「自己本位」へ転じることで不安を逃れることが出来たとしていますが、それを松原はガーシェンクロンの「模倣」から共有資本の「自生」への転換、と理解しています。
追加でご回答いただきました。:先行研究ではなく、漱石自身が自己分析した文章を私なりに解釈したものです。
「私の個人主義」(大正4年、三好行雄編『漱石文明論集』岩波文庫 緑11-10)によると、漱石の「不安」は自分が英文学を果たして本当に理解できているのかにかかわっていました。
「いくら人に賞められたって、元々人の借着をして威張っているのだから、内心は不安です」(p.113)。では何を借りて威張っているのかというと、「私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです」(p.112)。
「私は英文学を専攻する。その本場の批評家のいう所と私の考えと矛盾・・が果たして何処から出るかという事を考えなければならなくなる。風俗、人情、習慣、遡っては国民の性格皆この矛盾の原因になっているに相違ない」(p.114)。
文学が対象とするのは自然や人情(人間関係にかかわる感情)、習慣、国民性です。漱石は英国で自生したそれらの共有資本を日本人が心から味わえているのか、英国人批評家の尻馬に乗って人真似しているだけではないか、と煩悶し不安になり、最終的に「わたしはこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました・・そのとき私の不安は全く消えました」(p.115)という心境に至りました。自然や人情、習慣、国民性は、自己本位に自生したものでないと、自信を持って論評できないと考えたのです。
ガーシェンクロンは、途上国は先進国の模倣をすることにより、経済的には早足で成長しうることを発見しました。英米の帝国主義に怯えた明治政府が目指したのはこれです。しかし先進国の共有資本を模倣した、すなわち漢籍に心落ち着いていた幕末日本人の文学的感性に英文学を押しつけた、同様に5音階でしかない音楽に西洋音楽の7音階をはめ込み、日本的美意識に西洋絵画の構成を持ち込んだ結果、漱石は自分では心から英文学を理解することができないという「不安」に巻き込まれてしまったというのです。漱石の不安は「ガーシェンクロンの模倣」の副産物と言うべきでしょう。
また「現代日本の開化」(明治44年、同所収)によると、開化すなわち近代化には「外発的」な欧米の人真似と、「内発的」なものとがあります。漱石はガーシェンクロンの「外発的」で「他人本位」な開化から「内発的」で「自己本位」の開化へ転じることで不安を逃れることが出来たというのです。これは共有資本が浸食を受けた状態から「自生」を回復することへの転換により、不安が解消されるということでしょう。
回顧録 (再掲)
今はたぶん だいぶ 違うんだろうが、自分が入った頃の武蔵は、権威主義的な 空気がまだ 漂っていた。 もちろん、学問的な、という意味だが。 しかし、その埃っぽさが、自分には耐えられないくらい 窮屈で 仕方がなかった。 武蔵は、学問の自由とか言いながら、肝心なことは教えてくれないし、しかも、ほこりっぽいアカデミズム、言い換えれば、 学問的権威主義の空気が横溢していて、そういうところはほんとにイヤだった。 ただ、そういう権威主義に対するカウンターカルチャーというか、 真面目くさった合理主義に対するアンチテーゼとしての 道化を演じる精神は根付いていたし、 学校側も、そういうところはかなり懐は深かった。 自分が武蔵を辞めずに済んだのは、 一緒に道化を演じてくれる友人や、 学校側の懐の深さによるものだと思う。 武蔵っていう場所は、 言い訳の効かない 「お前、自分の頭で考えろよ?」 っていう 場面を、必ず一度は突きつけられる場所だと思う。 別に武蔵じゃなくてもいいんだけど、 ぶっちゃけ サニチだったら、少なくとも勉強に関しては いくらでも 逃げられる。 「自分の頭で考える」と言えば、そら誰だって自分の頭で考えてるだろ、と思うだろうが、 実際には、逃げ場がある、言い訳が効く環境では、なかなか身につくもんじゃない。 それは、 教師が頑張ってどうこう出来るもんじゃなく、 カルチャーを含めて、武蔵という学校の環境だと思う。 単に大学受験のことだけ考えれば、武蔵よりサニチのほうが遥かにいい環境だろう。 お山の大将でいられるし。 しかし、武蔵は逃げを許してくれない。 現に今だって、 下手なことを書けば、 え、それはどういうことなの? と厳しいツッコミが友達から容赦なく飛んでくるのは覚悟してる。 そういうツッコミを、 自分の中で想定していること、 つまり、自分が表明することに対してどのような批判があり得るか、を考える思考回路を 内製化できていることが、 自分の強みでもある。 山川賞とった 大澤くんみたいなのが 部活の後輩にいるとね、 大学生にもなって 自分の研究テーマを持ってないってのは、凄く恥ずかしい、と思ってたよ。多くの大学生の意識はそうでもないってことに しばらくしてから気付いたけど。そこらへんが、武蔵がアカデミズム重視の学校と 言われるゆえんだろうね。 会報で、大昔のOBの回顧録で、中1で同級生に初めてかけられた言葉が、「ご専門はなんですか?」だった、なんて話も載ってた。もともとそういう学校なんだね。つっても、自分みたいなザコは高校の現国でレポート書けなくて、教師にキレられたり、小論文が書けなくてSFC2回も落ちたり、SFC入ったら入ったで、レポート書けなくて四苦八苦したり。今みたいに守備範囲内だったら書ける、というレベルになるまでは、相当な労力と時間がかかったよ。贅沢な話だけどね。でも、高校入ってからずーっと劣等感抱えて生きてきた。 自分が高校受験に邁進してた1年間は、 ちょうど父親が地方に単身赴任してて、 だからこそ、高校受験にあれほど 時間とカネをつぎ込めたんだろうけど、 父親が 東京に戻ってきて、 後楽園に近い社宅で 4人で暮らしていた頃は、 つまんなかった。 最寄り駅は飯田橋で、 地下鉄有楽町線で 新桜台まで直通で、 武蔵まで行けたんだが、 当時は西武線に直通する本数が少なくて、 結構遅刻もした。 新桜台という駅は地下の駅で、 名前はおしゃれだが、 ほこりっぽくて無機質で、 まったくテンションのあがらない駅だった。 父親も、 会社が合併したために全くテリトリーの違う土壌に乗り込んだが、 うまく馴染めず、かなり精神的にも堪えたらしい。 そのせいか、 東京の社宅にいた頃は、 夜食事をするにも、 家族団欒であるはずの場が、父親にとっては、単純にタダで酒が飲めて接待もしてもらえるクラブと化していた。 父親も、そういう形以外での家族との接し方がわからなかったんだろう。 俺も、そのころだんだんと気持ちが塞いで、頭もボンヤリするようになっていった。 ・・・おおたとしまささんの 新書を読んでみた。 非常に読みやすいので、 2、3時間くらいで 読めてしまった。 特に そこは違うだろ! とか ツッコミたいところもなかったし、 内容も 決して薄くはなかった。 教育学的な視点による 裏付けもしっかりしていたと思う。 単純に 「都会の頭のいい学校に通っている生徒は、 塾漬けで 勉強が出来るだけのバカ」 っていうほど 白黒ハッキリした 単純なストーリーでもなかった。 それだけに、 何か 一種の勧善懲悪的な 痛快な読み物、というわけではない。 かといって、 歴史に残るような名著、というほどではないが。 ただ、 読む価値は十分あると思う。 難しいテーマだから、 何か結論めいたことを言うのは 簡単ではない。 塾は塾。 学校は学校。 何か割り切れないものは残るが、 新書一冊で片付けるのは、 土台無理なテーマだ。 ただし、 著者が 日本のエリート教育に対して 抱く懸念は伝わってくる。 代々木に 鉄緑会、という まさに この本がターゲットとしている、 都会の高校生なら 知らぬものが居ないほどの 悪名高い?塾が存在するのだが、 都庁で夜景を眺めながら、 鉄緑会を指さして、 「○○くん今あそこにいるのかな? ミサイル撃ち込みたいよね。」 とか メタさんが言っていたのを思い出した。 メタさんは 高校生のころ (本人曰く) メタルに狂い過ぎて 勉強が疎かになっていたが、 今では 誰も文句のつけようがない 立派な 社会人。 もちろん 鳩さんも。 ふたりとも、 俺が 武蔵に絶望して、 学校を途中でバックレて 電車でどこかに逃避するようになったころ、 放課後一緒に 江ノ島やら逗子やら、 いろいろなところに 日常的に 連れて行ってくれるようになった。 新宿の高層ビル群は、 ほとんど庭と言っても過言ではない。 センターと言えば、 センター試験ではなく、 センタービルのこと。 夜景ソムリエの鳩さんが、 いつも先導してくれて、 今光ったのがどこそこの 灯台だとか、 いま 羽田空港の 新C滑走路に 飛行機が降りるところ、 とか 解説してくれた。 メタさんと鳩さんの会話を聴きながら、 自分は弁論術を学んだと言っても過言ではない。 学問に対する姿勢は、 生物部の後輩の大澤くんに学んだ。 たぶん、 自分の心のバッテリーの容量って、 人並みなんだよね。 感覚が敏感すぎて バッテリーが切れるのが早いってのは あるけど、 バッテリーの容量そのものは 健常者と大して変わらない。 宮本浩次のアルバム聴いてて、 さすがに 疲れたけど、 米軍が アルカイダの捕虜を拷問するとき、 メタリカを延々と流すらしいね。 確かに、いくら ファンの自分でも、何時間も メタリカ聴かされたら、 脳ミソ壊れちゃうよ。 駿台で2浪してた時に、既に 心の堤防が決壊寸前まで 行ってたのに、 SFC入ってから更に 災害級のストレスが襲って来たんだから、 そら 正気で居るのは無理だったな。 自分が子供の頃の中国って言ったら、 真冬のクッソ寒い朝でも、 みんな人民服着て、 チャリで大移動ってイメージだったけど、 まさかここまで巨大になるとは。 自分が小学生の頃なんて、 冬は霜柱立ってて、それをザクザク踏みしめながら 登校したもんだけど。 今の子供は、北海道とかならともかく、 霜柱なんか知らんでしょ? ま、そんなことは置いといて、 慶応の研究会で、 生協で見つけた末廣昭先生の「キャッチアップ型工業化論」(名古屋大学出版会) を、パクってパワポ作ってプレゼンしたんだけど、 まるっきりそのまんまじゃ つまんないから、 よせばいいのに 経済発展の過程で労働からの疎外が起きる、なんて ぶったもんだから、集中砲火されて、 しかも、今では無惨に色あせた、グローバリゼーションてコトバが当時流行ってて、 これも生協で見つけた 伊豫谷登士翁の本に感化されたりして、 俺の頭もオカシクなった。 ま、振り返れば簡単な話のように聞こえるけど、 我ながらよくここまでやったわ。 願わくばもっと 早く 中退させて欲しかったけどね。 2ヶ月入れられてた病院から ようやく退院したとき、記帳をする 姉のペンの握り方を見て、衝撃を受けた。 中指と薬指の間からボールペンが 突き出ている。 20年近く前のことだから正確ではないかもしれないが、 よくその握り方で字が書けるな、と 逆に関心してしまうような握り方だった。 と、同時に、俺は この先の人生 誰を頼りにして生きていけばいいんだ? と、マジで心が折れそうになった。 20年前 東戸塚の 日向台っていう 精神病院に 2ヶ月 いたんだが、 名前の通り 日当たりのいい ところで、 要するに 暑かった。 心因性多飲症で 今でも 日々 大量の お茶だの 冷水だのが 必要な自分には、 冷水さえ 滅多に飲めないのは 苦痛だった。 だいたい 5月から7月の間 だったと思うが、 暑いのに 冷水さえ飲めず、 もちろん空調も効かない。 たまに 作業療法の時間があり、 旧い建物の一室で ビーズの編み物を作ったり したんだが、飽きて 薄暗い ソファーベッドに寝転んで、 俺は こんなところに居て この先の人生は 一体どうなるんだろう?と 漠たる、 漠たるとしか 言いようのない 感覚に侵されていた。 今年はそれから 20年てことで 放送大学のほうも 親から資金援助してもらって 岡山に10連泊したりなんかして、 贅沢させてもらっているが、 これは 無意識なのか、 急に 気力・体力の衰えを 感じる。 お金がなけりゃ 生きていけないのは 現代人の宿命だが、 母親が亡くなったら どう 生きていけばいい? 別に 病気だって治ったわけじゃない。 当然 薬だって 必要だ。 我ながらよく頑張ったとは 思うが、 正直 お金を稼ぐのは 不得手だ。 そもそも、そこまで 要求するのは いくらなんでも 酷なんじゃないか? かといって 自殺する気はサラサラないし。 人生100年時代? バカいうんじゃないよ。 40ちょい 生きるだけで これだけ大変なのに、 100年も生きろだと? 単純に 体の調子が 悪いだけなのかも知れないが、 なんだか 急に 疲れた。 若いうちは 気力だけは凄かったから どうにかなったが、 その 肝心の気力が 涸れつつある。 母親も 要介護3で、 俺も 精神障害者2級で、 介護保険と 傷害保険で ヘルパーさんが 毎日来て 飯つくってくれて 掃除もしてくれるんだが、 正直 本人たちは どう見ても そんなに重症ではない。 確かに、 母親も脳梗塞を発症したとはいえ、 (俺が) 早期発見したから、 症状は軽い。 俺自身、いかに 20年前に 措置入院を食らったとはいえ、 薬は確かに 必需品だが、 至ってヘルシーだ。 しかし、思い返してみれば、 幼少期から、 小林家というのは 毎日が 非常事態、 とても 安らぎの場所ではなかった。 むしろ 針のむしろだった。 母親も外面がいいから 傍目から見れば 恵まれた家庭だっただろうが、 母親が 心を閉ざしているから、 父親がいくら 稼いでも、 それを相殺して余りあるほど、 小林家というのは 毎日が非常事態だったのだ。 ここ最近は、ほんとに お互い心安らかに暮らしているが、 こうやって完全に 平穏な暮らしを出来るまでには、 本当に 長い道のりだった。 母親は、 息子(俺)が 働いてお金を稼ぐことよりも、 勉強して 学問のある人間になることのほうが、 遥かに嬉しいのだ。 俺自身、勉強は好きだ。 (理数系はまったくワカランが。) それは、母親自身 都立日比谷高校出身というのも 影響している。 姉は姉で、一緒に暮らしていた頃は モラルハザードが酷いものだったが、 いまは 結婚して出て行って、子供も出来たから、 じぃじばぁば 愛してる、なんていう どの口が言ってんだ?と 突っ込みたくなるような おべんちゃらを言っている。 とにかく、いまの小林家は 平和だ。 この平和に至るまでに 俺自身、他人には想像を絶するほどの 苦労をしながら 貢献してきたのだ。 だから、立派に 今の 安閑たる生活を享受して 許されるのだ。 放送大学の 2学期の 面接授業で、 福島学習センターで 取ってみようかと 思ってる 授業があって、 福島学習センターが 郡山の 郡山女子大学にあるんだが、 ふと、 郡山といえば、 2浪してる時に、 母親から1万円もらって、 羽生から東武動物公園まで行って、 日光線の快速に乗り換えて、 会津田島まで行って 野岩鉄道で 山奥の秘境みたいなところを ひたすら走って 会津若松まで行って、 そこから 郡山に出て、 東北線で久喜まで来たところで お金が足りなくなって、 母親に来てもらって、 精算して 羽生まで帰ってきた、 ってことがあったね。 あのときは、もう誰も 浪人してなくて、 メンタルも危機的だったし、 俺の人生どうなっちゃうんだろう? と 漠たる不安感のなかを 必死に もがいてる感じだったなあ。 そんなこと 思い出すと、 ほんとによくまあ ここまで来たよ。 あの時の俺に エールを送ってやりたいね。 お前の人生 悪くないぞ! てね。 俺けっこう 泥沼はいつくばって 生きてきたと 思ってるんだけど、 往々にして 苦労知らずの お坊ちゃんて 思われるんだよね。 その度に、 ふふ。 あなたは 俺に 騙されてるよ。 と 内心おもっているのだが。 教科書的に自分の歴史を振り返れば、20代から30代後半まで、友達から、働け、ってメタル責めされてたのは事実だけど、 あちこちドライブに連れてってもらった楽しい思い出もたくさんあるし、 それこそ彼らが地方に転勤してるときに、遊びに行ったときの楽しい思い出もたくさんあるし、無理に省略しようとすると、 「暗黒時代」かのような歴史観になりかねないけど、 ディティールを無視するのは、怖いよね。 いずれにせよ、 彼らはいつも自分に誠実に接してくれたし、説教してくれるのも、親身に考えてくれてることの裏返しだし。 (以下 坂口安吾「三十歳」より) 勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。 たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。 人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。 けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。
「グレート・ギャツビー」 スコット・フィッツジェラルド 村上春樹訳 中央公論新社 末尾より (再掲)
ギャツビーは 緑の灯火を信じていた。 年を追うごとに 我々の前から どんどん 遠のいていく、 陶酔に満ちた未来を。 それは あのとき我々の手から すり抜けていった。 でも まだ大丈夫。 明日はもっと 速く走ろう。 両腕をもっと 先まで差し出そう。 ・・・そうすれば ある晴れた朝にー だからこそ 我々は、前へ前へと 進み続けるのだ。 流れに立ち向かうボートのように、 絶え間なく 過去へと 押し戻されながらも。
プログラミング
高校生のときに
深刻な
ウツ状態に陥って、
かなり
危機的なところまで
行ったんだけど、
一種の
極限状態だね。
そのときに、
自分で自分を
プログラミングし直した
んだけど、
そのときに、
働く、ということまで
計算に入れてなかった。
自分が
どこまでやっても
「働く」というところまで
行かない、行けないのは、
そのせいかも知れない。
しかし、
このトシになるまで、
大変なこと
言葉では言い表せないほど
あったけど、
乗り切れたのは、
その極限状態を
乗り切れたから。
だから、働けないのは
大目に見てくれ。
2025年4月2日水曜日
ああ、そういうことか(゚∀゚)!
やっぱ
松原先生は
超絶天才だわ。
287ページで、
「これは
資金貸借の面で
貯蓄のうち
国内の民間では
使い切れなかった
貯蓄・投資
差額が、
財政赤字(G-T)分を
政府へ、貿易黒字(X-M)分を
海外に貸し付けていると
読めます。」
と書かれてあり、
後半が
対外純資産になることは
自分も理解していたが、
前半の
国内の民間では
使い切れなかった
貯蓄・投資
差額を、
政府に貸し付けていて、それが
財政赤字になる、という
のは、
納得するまで少し
時間がかかったが、
指摘されてみれば、
ああ、そうか!!!!
という感じ。
マジで
蒙を啓かれた思い。
さらに、松原先生は、
262ページで
「企業は
(・・・)投資が貯蓄を
上回るという
健全な状態に
戻れば、財政赤字は
自動的に解消
されるのです。」
とまで
書いている。
納得するまで少し時間が
かかったが、
眉唾ものの
エセ経済学者はともかく、
まともな
経済学者で
こんなことを
主張する人には
初めて
出くわした。
やっぱ
松原先生はガチの天才だわ。
2025年4月1日火曜日
御冗談でしょう?松原先生。
「社会経済の基礎(’25)」
第12回。
うーん、やっぱ
松原先生
尋常じゃなく
頭いいんだろうね。
MMT理論の有効性を
ある程度
認める
内容が
印刷教材にも書いてあるし、
放送教材にも書いてあるんだけど、
自分の常識とは
あまりに
かけ離れていて、正直
何言ってるのか
わからなくて、
頭が混乱する。
もちろん、際限なく
日銀が国債を
購入すればいいとは
書いていないが。
うーん、こりゃ
ワケわかんねーわ。
考えれば考えるほど
松原先生が
いかに
頭がいいか
わかる、というか
どれくらい
頭がいいのか
わからない、という
ことだけは
わかった。
・・・久々に
アタマがおかしくなるかと
思ったが、
丁寧に
印刷教材を
読み込んでみたら、
なんとなく
何を
仰りたいのかは
見えてきた。
つまるところ、
シュンペーターは過小評価
されている、
ということか?
つまり、
国の経済は
つまるところ
企業の「創造的破壊」なしでは
成り立たず、
均衡を打破するような
「新機軸」を
打ち出すことによって
絶えず
新陳代謝していくことが
必要らしい。
どうやら。
・・・現時点での
自分の理解をまとめると、
大事なのは
(財務省のいいなりになって)
プライマリー・バランスの黒字化を
目指すのではなく、
企業が
もっと
投資して
均衡を打破していけば、
財政赤字の問題は
自然と解決する、という
ことのようだ。
・・・とりあえず
一度
第12回の講義を
視聴しました。
うん。
仰りたいことは
だいたい
理解できた。
うん。まあ
なるほどね。
そういうことか。
・・・いやあ、経済学ってのは
奥が深いわ。
・・・とりあえず
一眠りしてから
あらためて
第12回を視聴してみたが、まだ
モヤモヤする。
なんか仰りたいことは
だんだん
見えては来たが。
他の回も視聴する
必要がありそうだ。
・・・次の
第13回も視聴して、
ようやく
腑に落ちた。
経常収支の話。
一応
自分の現時点での理解で
とりあえず
大きくは
間違っては
いないようだ。
日常生活とつながる「行政法」@郡山女子大学 レポート (再掲)
行政法の概念に、 「行政指導」と呼ばれるものが存在する。 行政は、 本来「行政行為」と呼ばれる、 命令する主体としての行政と、 名宛人の市民との 主体・客体関係が ハッキリしている手段で 運営されるべきものだが、 「行政指導」という、 極めて日本的な、 主体・客体関係が不明瞭な手段が、 行政の運営上横行している。 もっとも、 行政指導それ自体が問題なのではなく、 行政指導が、 本来強制力を伴わないものであるはずなのに、 従わなければ 往々にして 市民が制裁を加えられることが、 常態化しているという現実がある。 また、それに留まらず、 行政指導が 医療のあり方に絶大な影響を与えている。 どういうことか。 日本の医療制度において、 ある一定の地域に、 十分な病床数が確保されている場合、 新規に医療業者が参入しようとするとき、 保険適用が受けられず、 自由診療で開業せざるを得ない、 という現実が、 行政指導によって正当化されている。 これは明らかに 既存の病院の権益を守り、 新規参入者を 不当に排除している。 問題はこれに留まらない。 特に精神医療において、 1950年代にフランスで 画期的な抗精神病薬が開発され、 欧米先進国では 病床数が減っていったにも関わらず、 日本では逆に病床数が増えた。 これは、 戦後、精神病患者を建前上 しっかり治療しようとの方針から、 精神病院の数が増えたからである。 そこで、戦後、精神病院が増設される際、 一定の範囲で病床数を確保してしまえば、 地域の患者を独占できてしまう、 という経済的合理性によって、 精神病院が往々にして 大規模化したことが推測される。 言わずもがな、これは行政指導によって、 いったん多くの病床数を確保してしまえば、 新規参入者を排除できることが、 精神病院の大規模化を促したと 容易に考えられる。 そして、元厚生労働大臣が、 戦後日本の医療制度を構築した 武見太郎の息子である武見敬三である現実では、 これが改められる可能性は極めて低い。
ビジネスと経済学@茨城大学 (再掲)
小山台高校の生徒が、シンドラー社製のエレベーターに挟まれて死亡した事件があったけど、あれは、マンションの管理組合がメンテナンス代をケチって、他の業者に委託したのが発端らしい。 あんまり詳しく書くと、面倒なことになりそうだから、これくらいにしとくけど、シンドラー社製のエレベーターに欠陥があったというより、エレベーター本体の価格は低く抑えて、メンテナンス代で儲ける仕組みが災いしたのかも。 本体価格を低く抑えて、付属品などで儲ける商品の典型が、プリンター。 プリンター本体の価格は低く抑えて、インク代で儲けてる。 しかし、ここにもシンドラー社製エレベーターと同じ構造があって、高いインク代に目をつけて、第三者企業が代替インクを低価格で販売し始めて、それに対してプリンター会社が対抗策を講じたりとか。 とにかく、二日間で面白い話がたくさん聞けました。
「違法」とは何か? (再掲)
質問:ふと疑問に思ったのですが、刑法は全く勉強したことがないのですが、刑法上違法な行為、というのは想像がつくのですが、民法、あるいは行政法において、「違法」とはどういうことでしょうか?
K先生からのご回答:民法上の「違法」はいわゆる「不法行為」を含みます。民法709条以下です。明文に違反してなくても、他人の権利を侵害するような行為は「違法」認定されます。
行政法は・・・
国家賠償法上の「違法」は、先の民法上の「違法」に準じた考え方で「違法」の有無が判断されることもありすが、行政争訟上の違法はこれとはまた違ってきます。刑法上の「違法」と似たところはありますけど、完全に同じではないかなぁ~
質問:例えば、道路交通法は行政法に属するかと思いますが、道路交通法に違反することは、「違法行為」でしょうか?それとも、道路交通法は刑法上の概念ともダブるのでしょうか?
K先生よりご回答:道路交通法は違反した場合、罰則を課すことが多いので、そうした場合は刑法上の違法ということになります。
行政法上の違法というのは私人からみて行政がわが公権力行使の違法を問うという文脈で「違法」が問題になります。
刑法上の「違法」は既存の刑事法令への違反のみが問題になるのに対して(ほうりに違反しなければ何をしてもかまわない)、行政の側は既存の法令に違反する場合だけでなく、法令の根拠なしに行った行政作用が「違法」なることがあります。(法律の留保)
質問:刑法というのは、
主に私人に対する制裁という
ことになろうかと思いますが、
(控除説に立てば)
刑法を適用する主体も
また
行政権に属するものであり、
三権分立の精神に鑑みれば、
まず思い浮かぶのは、
司法権が
行政権の濫用に
歯止めをかけることであり、
また、
立法権という観点から見れば、
国権の最高機関たる
国会において、
国民からの
信託に基づいて
代理人たる国会議員が立法行為を行う、
ということに
なろうかと思いますが、
現実問題、
行政法規を
国会で議論しているとも思えず、
手っ取り早くいえば、
行政権の肥大化と、
その暴走が懸念される
ところではないか、
と考えます。
そうであれば、
私人が
行政権の権限踰越に対して
抑止力を持つためには、
やはり選挙を通じて
自らの権利を保障してもらう、
という
堂々巡りになって
しまいそうな気がします。
K先生からのご回答:刑事訴訟法という法律は「訴訟」という名前になっていますが、文字通りの「訴訟」のみならず、警察の犯罪捜査から、逮捕、送検、公訴提起、裁判手続き、判決、刑の執行まですべてを網羅しています。
そして、俗にいう警察(官)は「司法警察職員」とされ、一般の行政職員とは区別されています。警察職員の行動は警察官職務執行法によって規律され、家宅捜索や逮捕も裁判所が発する令状によらなければできないことになっています。
なので、「行政権」とはいっても、一般の行政とは相当に違っています。もっとも、司法によるチェックがどれだけ機能しているか、はまた別問題ですが・・・
統計に騙されないために (再掲)
昨日の日経新聞の
コラム(?)で、
要するに
大卒のほうが
教育費込みで
考えても
コスパいい、みたいな
ことを
東北大学の
教授が
書いていたが、
そりゃあそうだろうよ。
そもそも
日本の社会全体が
特に
就職において
高卒より大卒を
優遇するように
出来てんだから。
と、いうか
それ以前の話として、
頭くるから
あまり
真面目に読めないが、
どういうデータの取り方を
したのかは
よく分からないが、
そもそもの
データの取り方として、
大卒で
ちゃんと就職して
定年まで働いた人を
前提として
調査しているフシがある。
大学に行って、
環境に適応できずに
かえって
俺みたいに
働けなくなった
人間を
最初から
データから外している
(ように見える)。
そりゃあ、大卒のほうが
コスパよく見えるだろうよ。
っていうか、それ以前の話として、
大学で勉強することの価値を
すべてとは言わないが、
金銭的価値に置き換えよう、
という
発想が気に入らない。
それはともかく、
データの取り方の恣意性には
よほど
注意しないといけない。
自分はもちろん
統計学に詳しいわけではないが、
データに
騙されないために
気をつけなければいけない
注意点を、
わかりやすく解説した
本として、
ちくま新書の
「ニュースの数字をどう読むか
ー統計にだまされないための22章」
を
挙げておきます。
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