2022年5月30日月曜日

産業革命(復習も兼ねて)

放送大学の「グローバル経済史」の授業でも、イギリスがいち早く産業革命を達成出来たのは、良質な石炭の産地と天然の良港が近接していたからだ、という議論があったけど、それが正しいとすれば、まさに日本にも当てはまる。 日本は、九州北部で非常に良質な石炭が産出され、それを長崎という天然の良港へとすぐに輸送することが出来、しかも上海という巨大なマーケットが存在していた。 石炭の産出地と輸出港が近接していることの最大のメリットは、石炭が酸化する前にマーケットへ届けることができるという点。 石炭は非常に酸化しやすいので、すぐに消費することが望ましい。 しかも、九州北部の石炭は非常に良質だった。 上海という巨大なマーケットが近くに存在していたメリットも大きく、オーストラリア産やイギリス産をも駆逐し、日本産の石炭は決定的な価格支配力を持っていた。 なぜなら、オーストラリア産やイギリス産の石炭がいくら良質でも、輸送中に酸化してしまうからである。しかも、日本は低価格で大量に販売したので、上海市場において他地域産の石炭を駆逐した。 また、石炭は江戸時代後期から使われており、製塩業の国内シェア9割を占めていた瀬戸内海沿岸の塩田で窯焚き用に中国地方産の石炭が使われていた。早い段階で石炭を商品として廻す市場システムが存在していたことも、日本の強みだった。

2022年5月29日日曜日

近代日本の炭鉱夫と国策@茨城大学

茨城大学強いわ。ここんとこ毎学期茨城大学行ってるけど、今回もめちゃくちゃ面白かった。面白いという言葉では言い表せない。アタマをバットで殴られるくらいの衝撃を感じた。 石炭産業を語らずに近代日本の経済発展は語れないと言って間違いない。 にもかかわらず、おおっぴらに語られることはほとんどない。 あたかも繊維産業が花形で日本経済の繁栄をほとんどすべて牽引したかのように語られている。 裏を返せば、それほどまでに、石炭産業を語るということは、現在に至るまで日本の暗部を映し出すことになるのかも知れない。 (以下レポート) 今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。   ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。   日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。   しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考えると、グローバリゼーションに対応しながら国民的自己決定を達成するには、国をまさに富国強兵のスローガンの下で一致団結させる必要があり、そこでは多様な民意というものを反映することは困難であり、したがって表現の自由が抑圧され、民主主義は達成できない、と考えられます。   戦前の日本に照らして考えると、前近代の村社会が国家組織の末端に組み入れられ、その中で炭鉱夫が生きるための最後の手段として究極のブラック職業として見なされていたこと、それでも西欧へ肩を並べなければならない、という官民一体の国家的意識のなかで、脅迫的に近代化へ歩みを進めざるを得なかった状況では、社会の底辺としての炭鉱夫には、およそ政治参加、すなわち民主主義の恩恵に浴することは出来なかった。それはとりもなおさず炭鉱業というものが本来的に暴力的であり、同時に「国策」としての帝国主義的性格を多分に内包していたことと平仄を合わせています。   中国のウイグル人の抑圧と戦前日本の坑夫を重ねて考えると、そのような構図が透けて見えてきます。

2022年5月26日木曜日

病院経営と行政指導

「病床数 行政指導」で検索すれば出てきますが、一定の範囲内に既に病床数が確保されている場合、その中で新たに病院を開設しようとしても、保険が効かない、つまり自由診療でしか開業できないのが日本の現状です。 これを、「行政指導」という玉虫色の手段を使って正当化しているのがいかにも日本的なやり方です。 行政指導というのは、必ずしも従う必要はありませんが、シカトし続けると、エライことになるケースがあります。 以前、コーヒー浣腸の業者が、再三にわたる行政指導を無視した結果、逮捕されてました。 実は、父親が、糖尿病のせいか便秘になり、信頼できる医者からコーヒー浣腸を紹介されて、実践していたので、少なくともその業者には悪意はなかったと思われます。 自分も、間違ってコーヒー浣腸に使うコーヒーを飲んでしまったことがありますが、全く違和感もなく、言われなければ気づかなかったです。 それでも、行政指導を無視し続けた末に、逮捕されてました。 そういう行政指導のあり方を、最高裁も判例で認めているのです。 正確には、行政指導の法的効力を行政争訟の対象にすることを最高裁が判例で認めた、ということですが。

2022年5月21日土曜日

中東の政治

ちょっともう、財政再建って言うだけ無駄な感じだね。 参院選の公約とか見てると、与党も野党もそんな発想乏しいし、その背景には、国民の意識があるし。 じゃあ財政破綻まっしぐらか、というと、一般論としてはそうなんだけど、地政学的に考えると、アメリカにとって、日本は、対ロシアでも対中国でも対北朝鮮でも、絶対に護らなければならない防衛上の要衝だから、日本国債買ってくれそうな気がするんだよね。 クアッドにしても、ロシアへの経済制裁の足並みの乱れが炙り出したように、インドは中国と仲悪いからロシアに厳しくなりきれないし、韓国も、北朝鮮とは同じ民族だから、さすがに殲滅とか出来ないし。 中東でも、アフガニスタンからの米軍撤退と、イランが存在感を増したことにより、両隣からの牽制が緩み空白地帯となったイラクに、中国とロシアが入り込み、本来は東アジアに軍事資源を振り向けるはずだったアメリカにとっては、誤算となった。 そうすると、アメリカの強力な同盟国としての日本の存在って、やっぱデカいと思うのよ。 もちろん、歳出削減など、厳しい財政上の要求は呑まざるを得ないだろうし、アメリカ人の対日感情はサイアクになるだろうけど。 これって、「戦後レジームからの脱却」どころか、対米従属を更にガチガチにしただけだよね。 それを決定的にしたのが安倍っていうのが、滑稽。 それと、中国の南洋諸島進出を考えたら、沖縄の米軍基地の重要性は否が応でも増すわけで、基地負担を押し付けてる本土の人間は、沖縄に足向けて寝られないよ。

2022年5月20日金曜日

アドルノはまだ生きている。

グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。 そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感じでしょうか。まるでオウム真理教のようですね。

2022年5月19日木曜日

漱石論の私信(展開)

  近代が産み出した<自意識>の悲劇は、それが<自己を把捉しようとする自己>という<純粋な自己>――社会関係から切り離された観念的で抽象的な<点>としての自己――を求めるものでありながら、実は<自己>は<他者>との関係性という座標軸においてしか存在を確かめようもない、この自己矛盾にあります。   紛れもなくその苦痛を味わった一人である漱石における<女性>の意味は…。   結論的には男性に都合の良い<女性の客体化>を免れるものではありませんが、漱石(文学)の特徴は、にも拘わらず、終始、女性に<他者>を求め、そして女性が紛れもない<他者>であるが故に、敗北し、傷つく男の姿までを射程に収めていた点ではないかと思われます。 【<自己>を映し出してくれる<鏡>としての女性】   <女性の客体化>の最たる例となると、一方ではモノ化(フェティシズムの対象)、他方で耽溺(女性の幻想化・一体化)が挙げられますが、漱石の場合は、いったん/とりあえずは<他者としての女性>が求められている、といってよいと思います。   <恋愛>の名を借りた――愛する女性に己(の物語)を投げかけ、相手から投げ返されてくる応答に揺らぎ、立て直される自己。性的他者の眼差しに曝されて、その葛藤する感情のドラマの中で自分というものを最も生々しく実感する――性的差異で隔てられた<絶対的他者>としての<女性>との関係性の上に<性的アイデンティティ>としての自己同一を獲得しようとする手法です。  以下の『彼岸過ぎまで』の須永の告白は、その典型。 女が自分に向ける感情――一種の<評価>に曝されることで<自己>の核心がゆさぶられ、剥き出しにされる、苦悩の戦慄は、そのまま須永が女の眼差しの下に自分という存在の手ごたえを、いつになく生き生き感じる瞬間を作り出しています。    純粋な感情程美しいものはない。美しいもの程強いものはない…強いものが恐れないのは当り前   である。僕がもし千代子を妻にするとしたら、妻の眼から出る強烈な光に堪えられないだろう。その     光は必ずしも怒を示すとは限らない。情の光でも、愛の光でも、若くは渇仰の光でも同じ事である。   僕は屹度その光りの為に射竦められるに極っている。それと同程度或はより以上の輝くものを、返礼として与えるには、感情家として僕が余りに貧弱だからである。僕は芳烈な一樽の清酒を貰っても、そ  れを味わい尽くす資格を持たない下戸として、今日まで世間から教育されて来たのである。(「須永の話」)   過剰な自意識に囚われ、内閉した近代人が、唯一、他者との関係性の上に<自己>を実感し得る<恋愛>。しかし、それが錯覚にすぎないのは、ここでの<女性>が、正確には<他者>とはよべないからです。男は相手の女性の眼差しの中に自分を見出しているわけで、そこで獲得されているのは再帰的自己です。女性はつまるところ、自分を映し出すための<鏡>、自分(の物語)を投影した存在にすぎません。   <恋愛>といえば、一見、独立した男と女が対峙して育むもの、のように見えますが、その内実があくまで男性を主体とした男性中心主義的に構築された物語にすぎないことを、漱石のテクストは炙り出してくれます。それは<身体の所有>に留まらず、相手が自分をどう感じ、思い、評価しているか――それを隈なく読み取ろうとする<内面の所有>という更にハイレベルな<所有>をさえ意味するでしょう。   漱石の陥っている図式は、近代的恋愛の祖型ともいえる「ロマンチックラブ」そのものですが、一対の男女が愛という感情の絆の下に生殖の営みを行うというこの近代夫婦家族の仕組みが、実は近代国家が最も効率の良い次世代再生産の仕組みとして採用した、徹底的な性別役割に支えられた<装置>であることは、今では常識です。「ロマンチックラブ・イデオロギー」と呼ばれる所以でもあります。 近代的個に目覚めた漱石は、上記のようにその幻想(愛という名の女性の客体化)に深く捉われました、が、また同時に、それを冷静に相対化する眼差しも持ち合わせていたと思われます。 【女性の他者性――構成の破綻/2人の主人公】   『行人』では存在を賭けて唯一の性的他者である「妻」の「スピリット」を執拗に求める主人公「一郎」に対して、たった一言、自分は「魂の抜殻」にすぎないのだというセリフを以て作中、「一郎」に対して最も手厳しい反撃を加える妻「直」が描かれ、女を触媒に男同士の濃密な関係が展開される『こころ』のホモソーシャルな物語に対しては、そこから徹底的に排除されているが故に、逆に<外部>からそのイデオロギー性と不毛さを鋭く突く「静」の言葉(「男の方は議論だけなさる…空の盃でよくああ飽きずに / では殉死でもしたら」)が点描されている――。漱石の女性たちが、主導権を握る男性主人公に対して、みずからその他者性をしばしば開示している、というのは有名な話です。   しかし、それ以上に、初期の漱石テクスト(『草枕』『虞美人草』)は徹底的な(性的)他者であるが故に己を映し出すに最も手応えのある<鏡>として女性を求めながら、当然の論理的結実として、女の厳然たる他者性に<生きるか死ぬか>ともいうべき地点へまで追い詰められてしまう主人公たちの姿を浮かび上がらせ、それ以降のテクストでは、そのような破綻を回避すべく、それを相対化するポジションに2人目の主人公を配置するという共通した構図を備えてゆきます。そのプロセスは、まさに<女性の客体化とその不可能性>が漱石テクストの一貫した通奏低音であり続けていたことを如実に示しているように思われます。 ◆『草枕』と『虞美人草』 ・『草枕』; 世間に倦んだ主人公「余」は、「気狂(きじるし)」――世の習いに背を向けた「那美さん」の美しく奔放な振る舞いに己を揺り動かされる。そんな那美さんを「画」に描いて、何とかその不安定な表情に纏まりを回復してやりたいと考える「余」であるが、「那美さん」を画に収めようとする――客体化が進むにつれて、そこに収まりきるべくもない那美さんの他者性が浮上してくる。そんな折、「余」が遭遇することになる「鏡が池」の風景――真っ赤な椿が滴る血のごとく池に降り積もり続ける光景は、他者の奥深い深淵を覗き見るような、つまりは他なる者と真に切り結ぶことの死をさえ孕む危険を見事に暗喩するものとなっている。この後、テクストの機軸は現実世界へと逸れてゆかざるを得ない。 ・『虞美人草』; 誇り高い義妹「藤尾」の内面に食い入るような視線を注ぎ、<我(意識)>への固執がもたらす破綻を警告し続ける「欣吾」。「藤尾」が世間に追い詰められて忽然と世を去った時、「欣吾」も自分の内面を独り「日記」の世界へ閉ざして退場してゆく。傲慢な藤尾が世間の道徳や倫理に罰されたかのように見える物語は、そのままそのような女性に自己投影していた男の内的世界の死(終焉)へと反転する。 ◆二人の主人公――ロマンチックラブの相対化  「愛」という名の下に女性を自己投影の対象として客体化しようとする男は、客体化しきれるはずもない女性の他者性に打たれ、自己破綻へ追い詰められる。初期テクストでこれを体験した漱石は、それを相対化し得るポジションに、もう一人の男性主人公を配置する。 ◆『三四郎』から『行人』『こころ』へ ・『三四郎』; 「野々宮さん」を筆頭に、「美禰子」の内面を謎化し、それを読みとることに腐心する男たち――本郷文化圏の知の共同体。   ―――配するに、所謂<視点人物>の「三四郎」は大学一年の「田舎者」として、彼らの営みを眺めはするものの十全には理解もできなければ参画もできない(stray sheep)。 ・『行人』;「一郎」の「直」をめぐる物語に対して、弟「二郎」 ・『こころ』;「先生」の「静(とK)」をめぐる物語に対して、聴き手=書き手の「私」 『三四郎』では曖昧化されていた<2種類の男性主人公>は『行人』『こころ』へ向けて、次第に差異化が明確になってくる。 そして『それから』は、『三四郎』の次作に位置し、前期の漱石テクストの末尾を飾り、後期作品群への道を開く作品だと言える。 【『それから』――性的他者との遭遇】 いわば冒頭より一貫してその<自意識>が追究されることになる「代助」が、「余―欣吾―野々宮」の後継に当たることは自明でしょう。 『それから』は、その一連のテクスト群の最後に、男性主人公一人に焦点を絞って、<鏡>の役割を果たしてきた<女性>と真っ向から相対させる――こう考えた時、『それから』は、「代助」の自意識的世界が、それまで客体化し続けてきた<女性>の見せ始める生々しい性的他者性との遭遇を俟って崩壊してゆく物語、と言えないでしょうか。 ◆「自家特有の世界」――三千代の結婚から再出現までの「3年間」   性的他者としての女性、それにまつわる男性間の争い、結婚のための社会市場への参画――これら人を傷つけ、傷つけられる<現実世界>から背を向け、自分一人で自足しようとする自己完結的=排他的世界(自分にしか行き着かない世界)。 ➡この世界の重要アイテムとして登場する「花々 / 独身時代の三千代の写真」は、<女性のセクシュアリティ―喚起される性的欲望>を封じてしまうことで、まさに最高度に好ましく美しい自分像を映し出してくれる<客体(化された存在)>である。  憩いの世界は、終始、<青―水底>のイメージで描写される。   ――その代償行為として、現実の代助はアマランスの「交配」に介助を施したりしているが、縁側の腐った君子蘭の葉から滴り落ちる緑の樹液は代助の性的に閉ざされた体液の暗喩だろう。 ◆「それから」(=その3年後から)始まる物語   テクストは容赦なく、三千代が他ならぬ、生々しい性的他者であることを突き付けてい く。―出産を体験し、赤ん坊を亡くし、心臓を病んで夫との性的交渉が遠ざかり、疎んじられがちな人妻 最も生々しく現実的な<金策>が必要な三千代が、恥じて頬を赤らめる姿は、<金銭と性― 赤の表象>を刻印する。   一方、代助自身の意識の中では、三千代は水底の世界にふさわしい落ち着いた情調の女 として、代助の非現実的夢想空間(自家特有の世界―青)と現実の時空(―赤)――対立的であるはずの2つの空間をしだいに繋いでゆく。「4~5年前」の記念ともいえる「百合」の花を携え、代助の夢とうつつのあわいに自在に出入りし、鈴蘭を活けた鉢植えの水を呑む三千代。   百合の香に満たされ、姦通の合意が成るクライマックスは、現実の三千代と代助の中の三千代が一枚に重なる瞬間であり、それは「自家特有の世界」に極点を持つ代助的世界が<真っ赤な現実>に飲み込まれてゆく瞬間であるともいえる。ここで最後の跳躍板として代助が身を任せた官能は、「自家特有の世界」が最も強く封印してきた性的欲望の謂いでもあり、「自家特有の世界」は崩壊せざるをえない。 【三千代は<他者>か?――<客体化>を免れ得るのか?】 代助が遭遇したもの――ここまでの主人公の系譜の掉尾を飾るにふさわしく、決定的・致命的に出会ってしまったものが女性の<他者性>であることは間違いないでしょう。 しかし、それでは三千代は<他者>として描かれ、<客体化>を免れているかと言えば、それは全く異なる――それは、代助の<姦通>という名の最高度の<純愛>に見えるものが、代助一人の頭の中でのみ成立している、つまりは<錯覚>にすぎない、からです。 いちばんわかりやすい例証は、すでに常識化されているように「異性愛はホモソーシャルな女性嫌悪の別名」でしかない――代助の三千代への愛が、このホモソーシャルを地で行く格好となっていること、です。再会した三千代への愛の再燃が、平岡への嫉妬(=譲ってしまったことへの口惜しさ)に根差したものであることを、これもテクストは冷酷に炙り出しています。密かに想いを寄せていた女性を親友に快く譲り渡した男は、それが成立した瞬間に始まる親友への嫉妬から、彼女への思慕をいっそう深めてゆく…。 『それから』は徹底した男の――男が男との関係性に突き動かされる物語であり、「愛」の対象として錯覚されている「三千代」は、実は男同士の友愛=闘争の目標として二義的に対象化された客体にすぎない――これが有体の事実、でしょう。 『それから』は、女性を己の<鏡>に見立て、そこに唯一といってよいアイデンティティの確証を得ようとしてきた前期漱石文学の最終決算として、その究極に、<女性の客体化――客体化されきらない女性の他者性>を描き、<錯覚>の崩壊にまで突き抜けてしまった作品と言えるのかもしれません。 つまるところ、それは女性の客体化(の1バージョン)への固執とその限界への批評意識、といったレベルに留まるものであり、女性に真の<他者>を見出し、描く文学とは質を異にする、と言わざるをえません。 ただ、逆に上に述べた経緯は、漱石という作家が<女性>の他者性(他者ならぬ他者性)――男性の枠組では捉えきれない他者性を鋭く捉え、言語化した近代作家であったことを端的に物語るものとも言えるでしょう。そもそも<男性>に対する<女性>という枠決めそのものが差別的であり、さらに<男性>が主体化される以上、<女性>は二義性を刻印されることを免れ得ません。それは、近代が発見したはずの「個人」なるものが幻想でしかなかった事態と正確に見合っているでしょう。<近代>がいわば捏造した<近代的個――自由で独立した自我>に身を投じ、その制度性を告発することになった漱石は、そのような男と対等に<対>化されているはずの<女性>なるものが、実は近代という時代がシステム化した<ジェンダー秩序>の縛りの中で排除され、抑圧された存在であることにも気付いていたと言えるでしょう。 それを<男性>の視座から描き続けたところに、漱石の徹底した誠実さと免れようもない限界性があるのではないでしょうか。 追記1 「代助と三千代」に<錯覚された愛>を、ではなく<純愛>を読めば、それがセカイ系の「キミとボク」と酷似に近い相似形を描いていることに、ハタと気づかれます。むしろ<閉ざされた自意識>なる問題意識そのものが、漱石を始発に狭められながら現代へ至っているのかもしれません(東浩紀たちの議論のいちばん基底にはこれがあるような気がします)。そして近似しているようで、決定的に一線を画しているのが上に述べた「代助」に対する相対化の目――代助を包囲する現実社会およびそれと代助の関係性が克明に描かれていることです。   代助の「自家」世界が父の仕送りに贖われ、姦通=義絶を以て自己崩壊するしかない体のものであること、さらに「三千代」に至っては金銭的にも社会的にも平岡に繋がれた従属の立場にしかない以上、三千代における姦通の決意は道徳や経済のレベルを超えた文字通りの「死」の覚悟抜きにはあり得ないものであることetc. 3年前の代助が拒否したのも、また姦通を以て参入することになるのも紛れもない近代資本主義社会のシステムであることを、テクストは精密に描いています。これが、セカイ系ではオミットされることが大前提の「中間項」(世界と「キミとボク」の間に存在しているはずの)と呼ばれる社会領域であることは、言うまでもありません。 追記2 絶筆の未完作『明暗』は、漱石的ジェンダーをめぐる上記の整理から大きく逸脱するものと思われます。<愛を求める主人公>役が男女逆転して「お延」というヒロイン側へ振り当てられた時、どだい男性主人公「津田」に、<女の客体化>などの術も余裕も残されていません。「お延」の登場を俟って、漱石的世界のジェンダーをめぐる構図は、次のステップへと大きな飛躍を遂げているような気がします。

2022年5月18日水曜日

漱石論の私信(応答)

お便りを有り難う。  ご依頼のあった<漱石における女性の客体化>について、少し考えてみたので、添付ファイルにさせてもらいました。  確かに「客体化」ではないのかと問われればそうであるには違いなく、また過剰な自意識に苛まれる漱石的存在にとって、女性との「距離」は大きな意味を持つものですが、その究極、意味するところが「自意識からの逃走」かと尋ねられれば、やはり少し異なっているようにも思いました。  むしろ、漱石テクストにおける<女性>なるものは、苦悩を孕みながらも自己を確認する拠り所として求められ続けていたように思われますし、またそのような女性との関係性は、即、客体化であるとは断じ難く、結果的に客体化は免れなくとも、まずはその他者性に慄き、畏怖と渇望の対象として女性の他者性を求めるところからドラマは始まっている、とでも表現すれば良いでしょうか。  そのようなことを、『それから』は前期の究極の作品でもあり、添付ファイルでは、そこへ至る道程から始めて記してみました。  前回、お送りした代助の「自然」は代助(の内面世界)に即した論じ方をしているので、今回、代助に対する相対化を含んだ作品テクストの大枠から俯瞰的に見ての記述とは齟齬しているように見えるかもしれませんが、(「女性」問題を含めた)大枠から見た『それから』は、今のところ、私にとってはこんな感じ、です。少し長くなっており、申し訳ありません。  前回、今回と、私にとっては誠に良い勉強となりましたが、あくまで私見ですので、ご参考程度に。

漱石論の私信(問いかけ)

いま伊藤之雄先生の原敬の生涯の本を読んで、戦前の政党政治について勉強しつつ、その時代精神がなんとなく掴めてきたところなのですが、森本先生との「それから」に関するやりとりを経て、我々は夏目漱石の小説、とりあえずここでは「それから」の自意識論から何を学べばいいのか、と考えたのですが、夏目漱石は、やはり酒井先生が書いておられたように、近代的自己の目醒めと、それへの対処に苦慮していた、という面はあると思われます。具体的な感覚としては、自己と自意識との<距離>が近すぎることから来る苦悩と言いますか、常に己自身の自我を無意識のうちに意識せざるを得ない、というのは、非常に辛いものがあると思われます。それが、「行人」の一郎の狂気にまで繋がっていくように思えます。そう考えた時、漱石にとって<女>とは何なのか?と問うとき、浮かび上がってくるのは、<女>を客体視することによって、その「距離」によって、己自身に絡みつく自意識から逃れようとした、とも考えられるのですが、いかがお考えでしょうか?

フィッシャー効果とは

物価上昇の予想が金利を上昇させるという効果で、フィッシャーが最初にそれを指摘したところからフィッシャー効果と呼ばれる。ある率で物価の上昇が予想されるようになると、貸手が貸金に生じる購買力目減りの補償を求める結果として、資金貸借で成立する名目金利は物価上昇の予想がなかったときの金利(=実質金利)より、その予想物価上昇率分だけ高まる。(以下略) 有斐閣経済辞典第5版 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html

物価上昇による危険性

物価が上がること自体の危険性もある。フィッシャー効果によれば、物価の上昇は名目金利の上昇を招くが、日本では長期金利は日銀によって強制的に抑圧されているので、物価上昇に伴う、円の購買力の低下を埋め合わせるために、よりリターンの望める、株式や、安定した利回りを見込める米国債、あるいはFXによるドル買いなど、民間部門の資産の海外逃避が起こる危険性がある。それは、さらなる円安を招くことによって、国内資金では日本国債を買い支えられなくなる事態を招く可能性がある。

政策割当の原理

質問:中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、とありますが、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか?あるいは、新古典派経済学では「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか? 回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。すなわち、「政策割当の原理」です。したがって、「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要となります。  本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。本来の金融政策の目標(物価の安定)と異なるため黒田日銀総裁は「異次元の金融政策」という言葉を使ったのです。このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。このシナリオどおりに進めば、もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。ただ、経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります。したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため「財政再建」が先送りになってしまいます。それゆえに、「財政再建」の政策目標の一環として消費税の引上げが考えられています。このように、「政策割当の原理」は成立しています。https://news.infoseek.co.jp/article/joseijishin_2068465/

デフレと実質金利

Q:名目金利が年8%でインフレ率(CPI)が年5%のとき、実質金利は3%か? ex. 100円の債券投資→1年後:108円 100円の消費財の組み合わせ→1年後:105円 のとき 1年後の108円の購買力=108/105=1.02857 (この投資の収益率:2.857%) ☆実質金利と名目金利、インフレ率(CPI)の関係 1+実質金利=(1+名目金利)/(1+インフレ率) ex.参照せよ 式変形して、すなわち ★実質金利=(名目金利-インフレ率)/(1+インフレ率) つまり、デフレはマイナスのインフレ率なので、実質金利を上げてしまう。

価格転嫁

企業物価は諸外国なみに上がってるのに、それを最終製品に転嫁できなくて困ってる業界もあるみたいね。飲料業界とか。ビールとか、ただでさえ税金対策で涙ぐましい努力で新ジャンルを開発してきたのに、円安と原材料価格高騰で、コストが激増してるのに、最終製品に価格転嫁できなくて、株も下がってる。アサヒとか。安倍が言ってたのは、インフレを起こせば、最終的に賃金が上がるってことだったけど、いくら企業物価があがっても、最終製品に価格転嫁できないんじゃ、賃金上がるわけねーじゃん。もちろん、デフレは実質賃金を上げるから、期待インフレ率が上がること自体は消費を喚起するけど、経済成長なきインフレは、消費者にとってはマイナスなので、その埋め合わせに財政出動が要請され、財政は悪化するから、それを防ぐためには、政策割当の原理に従えば、増税せざるを得ない。

2022年5月13日金曜日

経常収支黒字急減

今朝の日経に、経常収支黒字が4兆円まで急減て書いてあったけど、記事の末尾にも書かれてあったけど、経常収支が赤字に転落したら、財政運営の厳しさはこれまでとは段違いに難しくなる。なぜなら、経常収支黒字というのは、政府部門の赤字を、民間部門の黒字が上回っている、つまり政府部門の赤字を民間部門の黒字でファイナンスできる(可能性がある)ということであり、経常収支が赤字に転落するということは、理屈の上では政府部門の赤字をファイナンスするために、外国資本を導入する必要に迫られるということである。今までは、日銀が、政府部門の赤字を、民間部門の貯蓄を背景として、異常な高値で国債を買い入れることでファイナンスしていたが、海外資本に国債を買ってもらうには、市場の「適正価格」まで国債価格が下落し、当然、金利も上昇する危険性が高まる。日本は史上最大の400兆円の対外純資産を保有しているが、それが自動的に国債購入に回るわけではないし、もちろんその義務があるわけでもない。

2022年5月4日水曜日

「それから」論

多くの東京市民は、こうした嫌悪すべき「目下の日本」に生きている。「平岡もその一人であった」と言う。ここで働いているのは、代助の美意識である。代助のこうした感性は、いったい何を基準として生まれるのだろうか。それは明治の一代目である父の家、すなわち青山にある代助の実家をおいてほかにはない。代助の感性には、まちがいなく長井家の財産(アレントが言う意味での財産)が組み込まれている。代助の審美眼は、長井家が近代という時代に合わせて形作ったハビトゥスだったのだ。若き日の代助が三千代の趣味の教育形だったことを考えれば、代助を誘う三千代のやり方も長井家の財産が育てたのである。それが「家」に関わって「孤立感」を語った理由だろう。これはほんの一例にすぎない。代助は、彼と同じ階層に属する「明治の二代目」とつき合ってもいないようだ。だとすれば、先に引用した一節にある「誰に逢っても」の「誰」には、おそらく「明治の二代目」は含まれていない。明治の一代目から引き継いだ「ブルジョワジー」としての階層意識は、代助にしっかり内面化されているのだ。しかし、代助自身はそれを高級な美意識の持ち主としては意識しているが、階層意識としては十分に意識していないようだ。言い換えれば、代助の高級な美意識が、内面化された階級意識に目隠しをしているのである。(漱石と日本の近代(上) 228ページ 新潮社 石原千秋)

2022年5月3日火曜日

憲法記念日

質問:平成28年度2学期の放送大学東京文京キャンパスで行われた面接授業「統治機構を憲法から考える」を履修したものです。 いきなりで恐縮ですが、ひとつお伺いしたいことがあります。 日本国憲法第66条3項は「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。」と規定しています。 これはイギリス式の、議院内閣制を定めたもの、つまり、議会の信頼の上に内閣が成り立っている、と解釈できると思われます。 しかし、現況では、野党が弱く、与党議員の多くが当選2回のペーペーで内閣に到底モノを言えるような力がないなかで、内閣が暴走し、とても議会に連帯して責任を負っているとは言えない状況にあると思われます。 日本国憲法はアメリカ式と思われますが、アメリカであれば、大統領令に対しても積極的に違憲であると権力を発動しますが、日本ではそうではありません。 これは、アメリカ式の憲法を採用しながら、(戦後)イギリス式の議院内閣制を採用した日本の統治機構の構造的欠陥と言えるのでしょうか? ご多忙のことと存じますが、ご回答賜れれば幸いです。 ご回答:メールありがとうございます。  議院内閣制は、議会と政府の共同活動を前提としています。しかし、政府・内閣が暴走する場合には、議会のコントロールに服するという「責任本質説」に基づき、内閣は連帯して議会に責任を負い、議会下院は内閣に不信任の決議をすることができます。  とはいえ、議会多数派である与党議員が、政府・内閣の意向に承認ないしは追従する限り、政府・内閣は、多数議員に体現される民意に基づき、政治をリードすることになります。政府・内閣が暴走しているとして政府・内閣を抑止することができるのは、主権者である国民であり、選挙という手続きに基づき行われます。  日常的には、テレビ・新聞などのマスメディア、世論調査、SNSなどによる言論表現活動において、政府・内閣の暴走を批判することができます。しかし、政府の意見は、「政府言論」として政府の自制がない限り、たとえアジテーションであっても広く国民に広がるのが現実です。  ここまでは、ご質問の前提です。では、アメリカとイギリス、そして日本の立ち位置について考えてみます。  日本国憲法は、確かに、GHQの考え方すなわちアメリカ法思想を前提にしていますが、マッカーサーは、日本が戦前も議院内閣制の政治制度を採用したことを前提に、新日本国憲法の構想にあたっても議院内閣制の採用をすすめており、憲法改正のための帝国議会でも、違和感なく採用されています。  では、ご質問にあるように、議院内閣制において、現実的な政府の暴走は阻止できないのかという点を考えてみたいと思います。イギリスやアメリカにおける民主主義の前提は、二大政党制であると思います。対立する野党が政府与党を抑制するシステムは、現実的には、「政権交代」が国民の選挙によって起きるという事実だと思います。政府与党が一番恐れるのは、政権からの陥落であり選挙における敗北です。イギリスやアメリカでは、現実に政権交代がありますので、政治は次の選挙に勝つためという戦略的な限界あるいは制約があります。これを意識することは、反対者へ配慮として、温和な政治展開を現実的に保障することになります。  もっとも、激しい感情の発露は、「民意」にあります。主権者たる国民の感情換言すれば投票行動は、刺激に敏感で現実的生活や嗜好に左右されがちです。「ポビュリズム」が、一般大衆の感情的表現として用いられ、ポビュリズムによる政治が危険視されるのは、そのことを指摘しています。国民の感情エネルギーである民意を理性的にコントロールしないと、政治自体が暴走します。この例として、イギリスやアメリがの現状を上げるのは妥当ではないかもしれませんが、イギリスがEUから離脱し、アメリカが自国第一主義へと進路をとったことは、国民の感情的エネルギーと言えるでしょう。  一方、日本は、国民の感情的エルネギーが、国民から主体的に発散されているというよりは、政治指導者の思想や政治的判断が、国民に提案され、国民がその政治提案をよく咀嚼する前に、現実的な体制づくりが民主主義という名の下で推し進められているという傾向がありのではないでしょうか。  今から反省するとすると、政権交代を行うために、政党本位・政策本位の選挙制度構築ビジョンのもと、中選挙区から小選挙区選挙へと移行したことが、現在の強すぎる政府与党を作り上げていると思います。日本国民は、表向きは権力を尊重し権力へおもねる傾向を持つ国民であり、他人と議論することは避け、人に同じことを考え行うことを通常の判断原則としているように見受けられます。そのよう傾向持つ国民が、二大政党制に本当に馴染むか、一時の情に流されることなく、考え続けるべきかもしれません。  というわけで、日本において、政府の暴走を阻止することは、政治部門関係では、非常に困難であって、議院内閣制の制度的構造的欠陥とはいえないと思います。要はいかなる制度であっても、使用方法が大切であるということだと思います。例えば包丁と同じで、本来の使用とは別に人を殺傷するときにも使用できます。議院内閣制に関する評価も、国民の使用方法に左右されることになります。  政治部門の抑止は、お話ししましたように、権力分立に基づき、裁判所の役割となります。違憲審査権を有する裁判所が、政治部門の判断ないし活動について、どのような憲法判断を行うか、これが重要な法的課題となります。しかし、現在はこの憲法を改正とようとしているわけですので、国民の叡智の真価を問われていると言える現状です。  ご満足のいく回答となっているかどうかわかりませんが、今の考え方を述べさせていただきました。 日笠完治

2022年5月2日月曜日

「それから」論ノート(「漱石 その陰翳」 沖積舎 酒井英行 より)

代助の「自然」が、「法律」「世間の掟」に対立するものであることは明白である。社会が社会の保全・存続を図るために、個人の内部欲求の流出の抑止力として法や道徳を造り出しているのだから、自己の内面に絶対性を置く代助が、法や道徳と対立するのは当然である。法・道徳との対立の存在しない、いわば真空状態における個人の生命の要求に従うことが、彼の「自然」である。この時、「自然」は本能に近似してくるようであるが、「良心」の制御を受けている点で、やはり本能の跳梁とは一線を画するものと考えねばなるまい。自己の絶対性を認め、自己の「良心」に誠実であることが、代助の「自然」であると考えられる。しかし、漱石が、代助の「自然」を本能に傾斜する危険性を孕んだものとして描いていることも確認しておく必要がある。(157ページ)こう考えてくると、「再現の昔」は、「自然の昔」ではなく、「何も知らぬ昔」であることが分かる。「自然」の意味は、「何も知らぬ」に変質しているのだ。何が代助に「何も知らぬ昔」への回帰願望を抱かせるのか。(164ページ)平岡はとうとう自分と離れて仕舞った。逢ふたんびに、遠くにいて応対する様な気がする。実を云ふと、平岡ばかりではない。誰に逢っても左んな気がする。現代の社会は孤立した人間の集合体に過ぎなかった。(164ページ)近代的自我に目醒め、客観的規範意識を喪失して、他者からの孤立化が生じたのである。自我意識の跳梁に苦しみ、論理的武装を脱ぎ捨てたくなっているのである。近代的自我に目醒める以前の「何も知らぬ昔」は、自他の間に、和合と信頼のあった安らぎの世界であり、これが、「自由」と「平和」に充ちた「自然の昔」の実体であったのだ。代助の苦悩は、結局、漱石が処女作「吾輩は猫である」以来表白してきた自我意識の苦痛であったのである。(165ページ)近代的自我に目醒めた代助が、信頼と和合に充ちた「幸」を失い、自我意識の跋扈が苦痛になって”それから”以前の「何も知らぬ昔」に回帰しようとしたのが、「それから」である。(166ページ)

円キャリートレードとは何か?その2(野間敏克先生より)

質問:円キャリートレードというのがよくわからないのですが、日米金利差で円安ドル高が進行するなか、ドルを持っている人が、円を買って、より安くて金利の高い海外通貨で稼ぐ、という意味なら、わからなくもないですが、それだったら最初からドルで円より安くて金利の高い通貨を買えばいいと思われますし、円キャリートレードとは一体なんなのかよくわからないのですが。旧民主党政権の時にもそういうことがありましたね。回答:インターネット上にたくさん情報はありますが、どれも文章説明だけで、図を使った解説がないようなので分かりにくいのかもしれません。 この取引のスタートは現在「①低金利の円を借りる」です。それを「②ドルに替え」て「③高金利のドル資産で運用する」。そして将来「④稼いだドルを円に戻し」て、「⑤借りていた円を返済する」で完了です。 この取引が活発に起きるのは、まず①(⑤)と③を左右する日米金利差です。現在米国で運用した方が有利で、今後も金利差は広がると「予想」されます。もうひとつは②と④で、現在円安なので円をドルに替えることは損に思えます。しかし将来もっと円安になると「予想」すれば、④で円に戻したとき、多くの円に替えることができます。

2022年5月1日日曜日

メモ

ある共同体において、共通の神を信じているということが、その成員を共通の成員として成り立たしめるのであれば、その共同体の外部に存在する異質な存在と、その共同体を繋ぐのが、貨幣である。なぜなら、貨幣はある共同体においても、その外部においても通用する、包含関係における共通要素だからである。(荻野昌弘)だからこそ、貨幣は経済の相互依存を通して平和をもたらす可能性を秘めている。(デービッド・ヒューム)しかし、貨幣は、ある社会における間主観性(フッサール)を、他の社会にも押し付ける、侵食するような暴力性も秘めている。ある社会における間主観性とは、例えばミカンをある集合とみなせば、その要素、つまりその集合の要素としての一つ一つのミカンは、何千個、何万個あっても、すべて一つずつミカンとして数えることになる。これは、物心のついていない子供や、狂人以外ならば、その社会の決まりごととして受け入れられるからだ。その一つ一つの計量可能性が、理性の暴力的な側面として現れる。(アドルノ)理性の働きを物心のついていない子供や、狂人と対比させるならば、「オデュッセイア」において、ポリュペーモスの問いに対しウーティス(何者でもない)と答えるのは、自らの自己同一性を偽る狡知であり、セイレーンの性的誘惑から逃れるのも、また理性の狡知である。つまり、人間の理性の狡知は、複数のアイデンティティーを使い分けたり、性的欲望をコントロールする、といった、現代人が社会において暮らすうえで、必要な能力なのである。しかし、アドルノはその理性の狡知に、自己同一性の揺らぎや性的欲動といった、ニーチェ的欲動との相克を見て取るのである。

メモ

アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。

思秋期

ようやく、湿気が抜けて、カラッとした空気になりましたね。 一体いつまでジメジメしているのか、と思うと、それだけでだいぶストレスでしたね。 とりあえずあと数カ月は湿気からは解放される、と期待したい。 それにしても、イスラエル対ハマスの戦闘も、一応形だけは停戦合意に至ったのか、正直よ...