2022年5月31日火曜日
ノートパソコン
東芝のノートパソコンを10年使ってたんだけど、あまりに動作が遅くて、いやになったので、1ヶ月ほど前にGoogle Chromeのノートパソコンを3万5千円くらいでアマゾンで買ったけど、素晴らしいね。
ネットの接続を義理の兄にやってもらったり、有斐閣の経済辞典がWindowsにしか対応してなくて、たまに不便は感じるけど、とにかくサクサク動くし、日本語にしても英語にしても文章の校閲なんかも性能が格段にアップしてるし、助かるわ。
勉強になる。
これぞホンモノ教育
三井も三菱も炭鉱業で財閥になったけど、三井にしても三菱にしても、こんなエゲツないことやってたんだ、そら團琢磨暗殺されるわ、と思ったね。
授業聞いてて、三井も三菱も嫌いになったほど。
教科書だけ読んで日本史わかった気になっちゃいけないね。
いかに多くのことが語られていないか。
旬報社(再掲)
もし、日銀が目的としている2%の物価上昇が実現した場合、国債の発行金利が2%以上になるか、利回りが最低でも2%以上になるまで市場価格が下がります。なぜなら、実質金利(名目利子率-期待インフレ率)がマイナスの(つまり保有していると損をする)金融商品を買う投資家はいないからです。国債(10年物)の利回りは0.1%程度(2018年11月現在)ですが、それが2.1%に上昇した場合、何が起こるでしょうか。政府の国債発行コストが跳ね上がるのはもちろんですが、より重要なことは、国債価格が暴落し、国債を大量に保有している銀行に莫大な評価損が出ることです。 経済の論点 旬報社 72ページより
フィッシャー効果とは(再掲)
物価上昇の予想が金利を上昇させるという効果で、フィッシャーが最初にそれを指摘したところからフィッシャー効果と呼ばれる。ある率で物価の上昇が予想されるようになると、貸手が貸金に生じる購買力目減りの補償を求める結果として、資金貸借で成立する名目金利は物価上昇の予想がなかったときの金利(=実質金利)より、その予想物価上昇率分だけ高まる。(以下略) 有斐閣経済辞典第5版 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html
明日から値上げラッシュらしい。
ウクライナ情勢による資源価格高騰と、円安によって、6月から食料品もかなり値上げされるらしい。
消費税を2%あげるのは反対の大合唱を上げるのに、どうせ物価が上げるのは同じなのに、政府に対する怨嗟の声が上がらないのが不思議。
ウクライナ情勢はともかく、円安は大方日銀の政策によるものじゃん。
それでも、安倍が日銀に国債買わせておけば心配ない、と発言しても、大して批判が起こらない。
日銀が国債買えば買うほど、金融緩和から抜け出すのが難しくなるっていう理屈が、大方の消費者には分からないらしい。
金融緩和から抜け出せないってのは、金利を上げられない、したがって趨勢的に円安にならざるを得ない。
しかも、物価が上がるってことは、金利に上昇圧力がかかる。(フィッシャー効果)
もし今後も日銀が金利抑圧政策を続ければ、物価上昇による円の購買力低下を埋め合わせるために、株に資金が流れ込んだり、あるいは米国債を買うなどの行動が起こるだろう。
その時、国内の円資産で日本国債を買い支えられるのか?という疑問が湧いてくる。
言わずもがな、賃金は上がらない。
製造コストの高騰で企業物価は高騰してるのに、最終製品に転嫁できず、今回は消費者の反応にビビりながらようやく値上げしたんだから、賃金なんか上がるはずがない。
CONVERSATION IN ENGLISH
俺:I’ve been to Mito、 Ibaraki University. Many classes of Open University of Japan are held at Universities located in every prefecture. Ibaraki University is not a higher ranked University in the so-called “hennsachi” hierarchy but there are so many interesting classes that I frequently take classes there. This time is quite interesting as well. The modern (from the later Edo era from the end of WW2) coal mining industry was palpably and critically important to the history of Japanese economic development. But less has been talked about it than it should have been, proportionately to its importance. Maybe it’s because the coal mining industry holds so much dark potion in Japan , including now. Anyway much should be talked about. It's a great loss to neglect it to understand Japanese history.
ジョンさん:Coal was also important in the rise of Germany in the same period.
俺:It sounds very interesting. I will take a class on the history of Germany from the invasion of Napoleon to the beginning of WW1 in June.
2022年5月30日月曜日
そのまんまでいいだろ!
そのまんま東って、なんでこんなに偉そうなんだろう?ただのテレビコメンテーターなのに。確かに時事的なことは言ってるけど、そんな大したことでもないし。早稲田の政経でてるってだけで、人ってここまで調子に乗れるもんなんかな。
産業革命(復習も兼ねて)
放送大学の「グローバル経済史」の授業でも、イギリスがいち早く産業革命を達成出来たのは、良質な石炭の産地と天然の良港が近接していたからだ、という議論があったけど、それが正しいとすれば、まさに日本にも当てはまる。
日本は、九州北部で非常に良質な石炭が産出され、それを長崎という天然の良港へとすぐに輸送することが出来、しかも上海という巨大なマーケットが存在していた。
石炭の産出地と輸出港が近接していることの最大のメリットは、石炭が酸化する前にマーケットへ届けることができるという点。
石炭は非常に酸化しやすいので、すぐに消費することが望ましい。
しかも、九州北部の石炭は非常に良質だった。
上海という巨大なマーケットが近くに存在していたメリットも大きく、オーストラリア産やイギリス産をも駆逐し、日本産の石炭は決定的な価格支配力を持っていた。
なぜなら、オーストラリア産やイギリス産の石炭がいくら良質でも、輸送中に酸化してしまうからである。しかも、日本は低価格で大量に販売したので、上海市場において他地域産の石炭を駆逐した。
また、石炭は江戸時代後期から使われており、製塩業の国内シェア9割を占めていた瀬戸内海沿岸の塩田で窯焚き用に中国地方産の石炭が使われていた。早い段階で石炭を商品として廻す市場システムが存在していたことも、日本の強みだった。
2022年5月29日日曜日
近代日本の炭鉱夫と国策@茨城大学
茨城大学強いわ。ここんとこ毎学期茨城大学行ってるけど、今回もめちゃくちゃ面白かった。面白いという言葉では言い表せない。アタマをバットで殴られるくらいの衝撃を感じた。
石炭産業を語らずに近代日本の経済発展は語れないと言って間違いない。
にもかかわらず、おおっぴらに語られることはほとんどない。
あたかも繊維産業が花形で日本経済の繁栄をほとんどすべて牽引したかのように語られている。
裏を返せば、それほどまでに、石炭産業を語るということは、現在に至るまで日本の暗部を映し出すことになるのかも知れない。
(以下レポート)
今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。
ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。
日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。
しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考えると、グローバリゼーションに対応しながら国民的自己決定を達成するには、国をまさに富国強兵のスローガンの下で一致団結させる必要があり、そこでは多様な民意というものを反映することは困難であり、したがって表現の自由が抑圧され、民主主義は達成できない、と考えられます。
戦前の日本に照らして考えると、前近代の村社会が国家組織の末端に組み入れられ、その中で炭鉱夫が生きるための最後の手段として究極のブラック職業として見なされていたこと、それでも西欧へ肩を並べなければならない、という官民一体の国家的意識のなかで、脅迫的に近代化へ歩みを進めざるを得なかった状況では、社会の底辺としての炭鉱夫には、およそ政治参加、すなわち民主主義の恩恵に浴することは出来なかった。それはとりもなおさず炭鉱業というものが本来的に暴力的であり、同時に「国策」としての帝国主義的性格を多分に内包していたことと平仄を合わせています。
中国のウイグル人の抑圧と戦前日本の坑夫を重ねて考えると、そのような構図が透けて見えてきます。
2022年5月27日金曜日
宇宙飛行士選抜試験
日テレの辻岡義堂アナの宇宙飛行士選抜試験、さんざん尺使った挙げ句、英語で落とされてた。
経歴みたら、中高大と慶応SFC。
なのに、TOEIC600未満て。。。
新入社員でもないし。
宇宙飛行士が子供の頃からの夢とか言いながら、英語全然勉強してないじゃん。
いやいや、むしろ、中高大と、何やってたの?
語学重視のSFCで、よくそのスコアで卒業できたね。
やっぱなあ、ああいうところは要領よくやれる人じゃないと卒業できないのかな。。。
自分はSFC入って初っ端TOEIC受けさせられて、400未満で、愕然としたけど、その後はちゃんと勉強したよ。そら、使える時間が違うから比較はできないけど。
でも、SFCはカリキュラムがしょっちゅう変わるんだけど、途中から、英語の授業受けるのに、TOEICじゃなくてTOEFLのスコアが必要になって、正直そこまで手が回らなかった。
後付けで考えれば、別にSFCじゃなくても、もっと言えば大学生じゃなくても英語勉強できるし。
一応辻岡アナを擁護しとくと、SFC中高からSFCに行くのはそこそこ難しいらしい。
塾高とかからSFCに来るのは、成績不良者か、逆にSFCで本気でやりたいことがあって来る優秀な人か、どっちか。
志木出身は、影が薄い。
慶応女子は一人も知らない。
ニューヨーク高は見た目でわかる。
自民党には愛想が尽きた。バカばっかの野党にも。
参院選、知人に教えてもらった「参政党」って党に入れるわ。
どうせ参議院だし、群馬はどうせ中曽根だし。
理性的に考えれば自民党なんだけど、もう愛想が尽きた。
ネットニュースだから不確かだけど、岸田・麻生の財政再建派と高市・安倍の積極財政派でバトルしてるらしい。
高市・安倍は俺からすれば論外だが、岸田にしても、参院選まえにお得意のバラマキやるし、バイデンには防衛費大幅増のリップ・サービス。
そもそも2025年度のプライマリーバランス黒字化達成にしても、非現実的な経済成長を想定しないと、達成できない。
もう、いい。
どうせコイツら、そして有権者に聞こえの良いことしか言わねークソ野党に任せていても、ドン詰まり。
せめて一矢報いたい。
ネーミングの問題?
消費税増税悪玉論を唱えておけば、右からも左からも叩かれない、ということで、右も左もお構いなく消費税増税を悪玉にしてますが、消費税って、本来は付加価値税と呼ばれるもので、それを財務省の役人かなんかが、消費税って呼び方に固執したらしいんだが、かえって今では消費税というと、なぜか財務省が悪者になる。
消費税っていうネーミングと、買い物する時に取られるから実感としてわかりやすいってのもあるんだろうけど、本来は付加価値税なんだから、よっしゃーそれじゃもっと付加価値を生み出すにはどうしたらいいか?と議論するのが本来あるべき姿だろう。
結局、日本人の経済に対する当事者意識の低さを象徴してるんじゃないの?
消費税は買い物すれば必ず取られるから、誰でも標的にしやすいって意味で。
経済合理性だけを考えれば、原発を再稼働させて貿易赤字を削減するのが国益にとっては当たり前だと思うが、それにも反対しておきながら、消費税を蛇蝎のように嫌うってのは、意味がわからない。
労働生産性(再掲)
労働生産性を上げるって、言うのは簡単だけど、実際には根深い話なのかもね。 以前、放送大学の原田順子先生の「人的資源論」の面接授業がたまたま前橋の群馬学習センターでやってたから、履修したけど、その時に聞いた話で、戦後GHQと、(当時)労働省の有名な役人が大喧嘩して、GHQは、まず仕事を作って、人を集める、という方針だったけど、労働省の役人は、まず労働者が最低限生活できる仕事量を割り出して、それに見合う仕事を確保すべきだ、と主張したらしい。 ところで、このコロナ禍で、アメリカは失業者が大量に発生して、逆に労働生産性が向上したらしい。 少ない労働者で、より多くの生産をあげるために。 それどころか、いったん失業した労働者のほうが、かえって復職してから、辞めなかった労働者よりも、高い賃金を得ているなんて話も。 そこまで根深い話だと、ちょっともう小手先では日本の労働生産性を上げるのは、無理があるという感じがしますね。
2022年5月26日木曜日
CONVERSATION IN ENGLISH
俺:Biden has clearly stated that the US would take part in a contingency situation between Taiwan and China.
ジョンさん:Biden does not know what official US Government foreign policy is. Every time he speaks about it he makes gaffes. His aides have to clarify his remarks after every news conference. His lack of mental acuity is striking. But pro-Biden mass media covers up for him each time. Of course, what he said now makes a US-China war more, not less likely. If Trump made such a huge gaffe, he would be impeached. Taiwan policy must be made deliberately ambiguous. Biden just destroyed 40 years of US policy in a few seconds.
俺:His remark has defined Japan as an enemy of China indeed. And PM Kishida made no denial about it.
ジョンさん:China had been lukewarm in its support of Putin. Now perhaps it will more actively back Russia to spite Biden and his pro-Ukrainian cohorts. It will also be far less cooperative in reigning in North Korea. China can do many things to punish Biden.
病院経営と行政指導
「病床数 行政指導」で検索すれば出てきますが、一定の範囲内に既に病床数が確保されている場合、その中で新たに病院を開設しようとしても、保険が効かない、つまり自由診療でしか開業できないのが日本の現状です。
これを、「行政指導」という玉虫色の手段を使って正当化しているのがいかにも日本的なやり方です。
行政指導というのは、必ずしも従う必要はありませんが、シカトし続けると、エライことになるケースがあります。
以前、コーヒー浣腸の業者が、再三にわたる行政指導を無視した結果、逮捕されてました。
実は、父親が、糖尿病のせいか便秘になり、信頼できる医者からコーヒー浣腸を紹介されて、実践していたので、少なくともその業者には悪意はなかったと思われます。
自分も、間違ってコーヒー浣腸に使うコーヒーを飲んでしまったことがありますが、全く違和感もなく、言われなければ気づかなかったです。
それでも、行政指導を無視し続けた末に、逮捕されてました。
そういう行政指導のあり方を、最高裁も判例で認めているのです。
正確には、行政指導の法的効力を行政争訟の対象にすることを最高裁が判例で認めた、ということですが。
俺の人生はつまらなくなんかないぞー!
タイトルは、クレヨンしんちゃんの野原ひろしの言葉です。
年収600万円、春日部に庭付き一戸建てを購入し、専業主婦の妻と子供2人、犬まで飼っている。
これがフツーだった日本はもう昔の話。
再掲(旬報社)
1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社
日経1面
薬剤師が看護の仕事も兼ねる検討がなされてるらしい。
薬剤師の人気が落ちるんじゃないか?
岩盤規制の撤廃だの既得権益の打破だの言えば聞こえはいいが、結局は資格で守られてた層を切り崩してるだけじゃん。
ほんと、医者は最後に残された聖域だな。
病気の診断なんてそれこそ人工知能にやらせればいいのに、日本医師会が絶対に許さないだろう。
安倍政権は、病院の新設を進めようという態度だけは見せたが、成田に特区を作って病院作っただけで終わった。
供給が増えるってことは、価格が下がるってことだからね。
日本医師会は、供給、つまり病院と医者の数そのものを制限して、診療報酬費を高めに維持したい。
安倍はその代わりに全国に獣医学部を作るとかやたら動物に優しいことだけは言ってた。
結局、社会保障費を抑制する、となったらこういう方向にならざるを得ないよね。
人手不足だし、外国人材の活用も、日本語習得の壁が高く。
海外からしたって、今の日本に出稼ぎに行くのが割に合わないことは分かってる。中間業者に搾取されることも含めて。
何より、高齢者への社会保障費を削減すれば、選挙で不利。
当然、野党が高齢者への社会保障費削減を唱えられるはずもなく。
年代別人口構成比から言ったら、日本が選挙で政治家を選ぶ民主主義国家である限り、社会保障費で自滅することは、早くから指摘されてきた。
と、言ってる自分だって、社会保障のお世話になってるから、文句は言えない。
THE FRAYED ENDS OF SANITY
ホーイーホッ!ヨーホッ!
てのは冗談で、薬もらってきた。
ペース的に二ヶ月に一度は受診しなくてはならない。
思ったより混んでいて、待った。
自分は話が短いから一分もかからない。
先生、目が半分死んでたね。
確かにこれだけ多くのメンタルに問題がある人を毎日のように相手にしてりゃ、そりゃ疲れるわな。
でも、こっちも付き合い長いし、ちゃんと話は聞いてくれてるんだな、とは感じた。
目は死んでたけど。
開業医でちゃんと患者も来るって、羨ましいと思ってたけど、見るほうからは羨ましくても、やる方は大変だろうな。
俺には真似できない。
覚醒?
昨夜も山崎晃大朗の逆転サヨナラ弾で日ハムに連勝したけど、ここんとこ山崎晃大朗の名前を目にすることが多くなったね。
たしか母の日もお立ち台に立ってたし。
守備固めの印象しかなかったけど、ここにきて覚醒か?
https://news.yahoo.co.jp/articles/7290a6ecac30d82dd4227b5e11cc990daf01e117
https://www.nikkansports.com/baseball/news/202205250001412.html
2022年5月25日水曜日
ハングル検定
SFCで韓国語と出会ってはや20年。
ハングル検定3級までは割とすんなり行ったけど、その後が遅々として進まず。
韓国語能力試験も中級はハードルが高く。
韓国語能力試験は、昔は、初級、中級、高級と分かれていたんだが、いまはⅠ・Ⅱという区分になっている。
中級の問題は、問題自体は慣れればそれほど難しくないが、中級(3、4級)と高級(5,6級)の問題が混じっていて、しかも選択肢を読む時間が明らかに足りないので、実際はめちゃくちゃむずい。
ボリューム自体も多く、作文もあったりして、とても気軽に受けられるようなシロモノではない。
さすがに2級は取ったけど。(韓国語能力試験の場合は、日本人の感覚と違って、数が増えるほど難易度が高い。従って、2級というのは下から2番目)
ハングル検定は、3級と準2級との間に高い壁があり、なかなか突破できなかったが、ハングル検定の公式サイトの準2級のレベルチェックテストも、最近になってようやく当たるようになってきた。
20年やってようやく準2級か、と思うけど、もちろんまだ取得したわけではないが、準2級でビジネスレベルとしては十分だし、KBSニュースぐらいは聞き取れると思われる。
KBSニュースは、早いけど、そんなに難しい文法とかは使ってない。
2,3年のうちに準2級は取得しておきたい。
このトシになって英語だけで勝負するのはキビシイし、韓国語もできると、たまに面白そうな求人があったりする。
日韓の力関係の問題で、韓国語の重要性がこの20年で格段に高まったのは事実だ。
英語で読む大統領演説
去年の段階で、インターネット上で全15回視聴して、感動した授業です。
機械翻訳が普及すれば、無駄に難しい単語や、構文を使った凝った大学受験的英語は無用になり、せいぜいTOEIC的な英語を操る能力しか価値がなくなる、と思っていたんですが、この授業を視聴して、やはり格式高い英語の重要性を再認識して、英語ってやっぱり面白いし、さんざんボキャビルやってきたのは無駄じゃなかった、と感銘を受けました。
これの単位取れたらカッコいいな、と思いつつ、ハードル高そうと思って、敬遠しつつも、今期逃すともう科目登録するチャンスがなくなるかも、と思って、科目登録はしたのですが、授業は去年の段階ですべて視聴していたこともあり、今月末提出期限の通信指導も、1問目が意外と難しくて、こりゃ骨が折れそうだ、と思って敬遠していたところですが、時間もあるし、ちょっくらやってみるか、ということで取り組んでみた所、要求されるレベルは高いものの、こっちも素人じゃないので、すぐに終わり、ウェブ上で提出したところ、7問中6問正解で、一安心。
放送授業の内容がとにかく素晴らしいけど、単に放送授業の内容の確認と言うよりは、英語力を問われる内容でした。
週末の面接授業を前に、軽い脳トレができて、貴重な刺激をもらいました。
素晴らしい!
https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/05/24/kiji/20220524s00001173575000c.html
巨人は廣岡と交換でほんとにいいピッチャーくれたわ。
もともと先発で2桁勝てるピッチャーだから、スタミナもあるし、将来的に先発もできるかも。
でも、今は貴重なリリーフとして役目をこなしていって欲しい。
コップンカー
昨日で、母親が脳梗塞を発症してちょうど1年経つんだけど、大きな後遺症もなく、むしろ病気になる以前より健康的になって、良かった。
1年前、買い物に行く前に焼きそばを作っていて、味付けがまだらになっているのみならず、母親が最も忌み嫌うおこげが出来ているのが、そのまま出てきたから、これは何かおかしい!と思って、買い物に付いていって、買い方がやっぱりおかしいから、問答無用で救急車呼んだ。
ずーっと無理し続けて、絶対いつかはおかしくなると思ってたから、そこを逃さず捉えられたのは良かった。
病前より自分の健康を過信せず、健康的な生活してるから、かえってリスクは低減したかも。
球根
土の中で待て
命の球根よ
魂にさあ根を増やして
咲け
花
ってのは冗談で、萎れてた観葉植物を、陽のあたる場所において水をやっていたら、新しい葉が力強く生えてきて、しかも、何かやる気のない茎が生えてきたなーと思ってたら、どうも、このポットじゃ収まりきらねーよ、という意志でも持っているかのように、ウニョーんと伸び続けて、明らかに新天地を求めるように地面に到達するまで伸びてきた。
2022年5月24日火曜日
見た目で判断しすぎ。
父親が糖尿病で高血圧だったから大変だった、て話すると、みんな俺のことだと勘違いするんだよね。
まあこんなみてくれだからしょうがないけど、俺はこう見えて血糖値も血圧も全く問題ないんだよ。
父親が生きてる時に、父親が片足がむくんでる、て医者に言ったら、急に俺の足首掴んで、そんなことは問診票に書いてなかったとか言い始めたんだけど、だから父親が、って言ってるだろ。と思った。
医者でさえも勘違いするからね。
血液検査も血圧測定もやってるじゃん。
俺は神経はイカレてるけどね。
でも、俺だけのせいじゃないと思うよ。
下手に武蔵だの慶応だの入っちゃうと、辞めるっていう選択肢は存在しないからね。
武蔵も一時期本気で辞めようと思ってて、父親に土下座までしたけど、不愉快そうにタバコふかすだけで、完全にシカトされた。
慶応も、入ったはいいけど、病気になって、復学して下手に単位取ったから、余計辞められなくなって、結局除籍ギリギリまで在籍してようやく中退した。
そりゃあね、イジケて人生送ることは簡単だけど、それで損するのは自分だからね。
何かしらモノにしなかったらほんとに無駄じゃん。
とにかく大変だったけど、それに見合うものは出せたと思うよ。
若いうちの苦労は買ってでもしろ、って韓国語のことわざにもあるしね。
安倍うぜえ
https://news.yahoo.co.jp/articles/ba84da6f9ceefc2b7630b51d490668b503aa937e
防衛は将来世代の財産になるから国債で賄えばいいっていうなら、今の日本の財政の最も削減するのが厄介な社会保障費は、将来世代の財産になるわけ?
高齢者の医療費のためにこさえた国債が子々孫々の財産になるっていう理屈はおかしくないですか?
価格転嫁と消費者心理
企業物価と消費者物価の乖離が大きくなっていて、企業も苦しい戦いを強いられているが、最終製品への価格転嫁が、吉と出るか凶と出るかが企業業績の明暗を分けているようだ。もともと高価格路線の商品、例えばプリマハムの「香燻」のような商品を持っていたところは、値上げしても売上は大きく落ち込まなかったようだが、Jオイルミルズは値上げが凶と出た。製パン業最大手のヤマサキパンも苦戦を強いられている。もともと安価な商品で勝負していたところでは、消費者心理的に値上げに対するマイナスの反応が高いということも考えられる。長いデフレで、低価格路線に走ってしまった企業は、これから苦戦を強いられる可能性はあるだろう。もちろん、賃金上昇は当分かなり難しいことは論をまたない。
ただでさえ内需の縮小が企業の海外逃避を招いたことを考えれば、日本国内での収益力の低下の加速は、さらなる海外逃避を加速させるのではないだろうか。
マネーも同様で、歴史的円安水準は、当然円の購買力の低下を意味するものであり、本来は金利の上昇によってその埋め合わせが行われるはずが、それが抑圧されているために、リスク資産である株式に資金が流れ込むことも予想されるし、あるいは米国債を買うなどの投資行動も見られるようになるだろうと考えられる。
再掲(編集)
渋沢栄一始まったねー。城山三郎の小説読んだな。 JR岡部駅で降りて、生家とか資料館見に行ったりとか、あるいは王子の飛鳥山の旧邸宅とか見に行きましたよ。 ところで、蚕を飼って桑の葉を食べさせてるシーンがあったけど、蚕を飼うってことは、最終的に絹を作って、輸出するってことだから、既に世界的な市場と繋がっていて、本を辿れば、あの時代に既に農家も貨幣経済に部分的に組み入れられてるってことらしいです。 つまり、生活するのにカネが必要になるということ。 それ以前は、綿花を作っていたそうです。その時代は、塩と綿の苗だけはカネで買ったけど、それ以外はカネを使わなかったとか。 つまり、養蚕業が日本の原風景というイメージは、違う。 それはともかく、綿花を作っていた頃は、綿を作って、紡績業者に委託して織物にしてもらって、それを藍染にしていたとか。 桐生などが代表的ですが、綿花を紡績する織機産業が日本のプロト工業化の役割を担ったと聞きました。 大河の描写では、渋沢家は養蚕と藍染を両方やってましたね。
横浜が開港して、八王子との間に交通が整備されると、山梨や長野からの絹が八王子に集積され、横浜港から世界に輸出され、第二次大戦まで、日本の外貨獲得の最大の資金源となり、横浜と八王子を結ぶラインは、シルクロードと呼ばれた。 戦後は、横浜からの舶来文化の流入で、在日米軍への、音楽などの文化的サービスが生まれ、花街も賑わった。 八王子を代表するシンガーソングライターに、松任谷由実がいるが、彼女も、八王子の絹呉服店に生まれ、子供のころから、米軍関係者に歌を披露していたそうだ。
松方デフレも、西南戦争で戦費調達の為に紙幣を乱発したために、インフレが起きて、米価が高騰して地主が潤う反面、地租改正で小作農は困窮し、また不平士族の残党が、自由民権運動に走って、米価が高騰した為に金がある豪農の資金が、自由党を中心とする自由民権運動の資金源になっていたために、そういう豪農から資金を巻き上げる為に、敢えてデフレ政策を断行したってことらしい。 実際、松方デフレの後に、追い詰められた自由党員が、加波山事件や、秩父事件を起こしている。
「近代」化によって、地方とは統治し経営する対象ではあっても、自治を体現するための場ではなくなった。「地方経営」のため中間支配者を官僚化するには、地域の自立性が障害となる。それゆえ、地方経営は「いかに地方を自立させないようにするか」を制度化するものになる。村と国の関係としては、村が府県や国を支えているのではなく、村や府県が国にぶら下がっている(依存している)状態をイメージすればわかりやすい。そして、現場から事実を積み上げていくのではなく、結論から逆算して物事が決まるということが一般化する時代になった。村々は、形の上では「自治権」を与えられ、自治体と位置づけられたが、自治の余地はほとんどなくなった。(村の日本近代史 ちくま新書)
ところで、現実の問題として、自立した個人から成る世界がすぐに出現するわけではない。他者は、他者を認知する者にとって異質な存在である。これは他者を「差異」であるということが同定された限りにおいてである。差異は同一性の下でしか正当性を持ちえない。同一性に吸収されない差異=他者は、排除される。それを可能にしていたのが、祖先の存在であり、また神であった。たとえ、異なる地位にあって、通常は口を聞くことも、顔を見ることさえ許されなくとも、共通の神を持っているという認識の下に、異なる地位にある者同士が共同体を維持する。地位を与えるのは神であり、それに対してほとんどの者は疑問さえ抱かなかったのである。(p.177~178) (中略) カースト制は、総体として、閉鎖的で完結的な世界を築く。そこでは、ウェーバーが「デミウルギー」と呼んだ、手工業者が村に定住し、無報酬で奉仕する代わりに、土地や収穫の分け前を受け取る制度が敷かれている。このような制度では、商品経済が発達する可能性はほとんどない。したがって、他者としての商人が、共同体内によそものとして現れる可能性は低い。 これに対して、市場論理が浸透した世界では、他者が他者として認知される。それは、複数の世界に属することを可能にする包含の論理によって律せられている世界である。このような世界が可能であるためには、共同体の外部に位置する他者の明確なイメージが築かれる。その推進者となるのが、商人であり、貨幣である。 それでは、なぜ貨幣が推進者となるのか。それは、貨幣を通じて、共同体の外部に存在するモノを手に入れ、みずから生産するモノを売却することが可能になるからである。共同体の外部が忌避すべき闇の空間でしかない状態から、共同体の内と外に明確な境界が引かれ、ある特定の共同体に属しながらも、その外部にも同時に存在することを可能にするのが、貨幣なのである。他者が、貨幣と交換可能なモノ、つまり商品を売買したいという希望を掲げていれば、それによって他者のイメージは固定され、他者の不透明性を払拭できる。こうして、貨幣は、共同体外部への関心を誘発していく。そして、カースト制のような閉鎖的な社会とは大きく異なり、ふたつの異なる世界において、同一性を築こうとするのである。 もちろん、誰もが商人になるこのような世界がすぐに出現するわけではない。そのためには、まず貨幣が複数の共同体のあいだで認知されなければならない。そして、マルクスが注視したように、多くの者が賃金労働者として「労働力」を売るような状況が必要である。そして、そうした状況が実際に現れてくるのが、マルクス自身が観察した通り、一九世紀のイギリスなのである。単独の世界に帰属することも、複数の世界に関わることも認める世界は、労働が労働力として商品になり、賃労働が普及する資本主義の世界においてである。(p.180~181) 「零度の社会」荻野昌弘著 世界思想社
ある共同体において、共通の神を信じているということが、その成員を共通の成員として成り立たしめるのであれば、その共同体の外部に存在する異質な存在と、その共同体を繋ぐのが、貨幣である。なぜなら、貨幣はある共同体においても、その外部においても通用する、包含関係における共通要素だからである。(荻野昌弘)だからこそ、貨幣は経済の相互依存を通して平和をもたらす可能性を秘めている。(デービッド・ヒューム)しかし、貨幣は、ある社会における間主観性(フッサール)を、他の社会にも押し付ける、侵食するような暴力性も秘めている。ある社会における間主観性とは、例えばミカンをある集合とみなせば、その要素、つまりその集合の要素としての一つ一つのミカンは、何千個、何万個あっても、すべて一つずつミカンとして数えることになる。これは、物心のついていない子供や、狂人以外ならば、その社会の決まりごととして受け入れられるからだ。その一つ一つの計量可能性が、理性の暴力的な側面として現れる。(アドルノ)理性の働きを物心のついていない子供や、狂人と対比させるならば、「オデュッセイア」において、ポリュペーモスの問いに対しウーティス(何者でもない)と答えるのは、自らの自己同一性を偽る狡知であり、セイレーンの性的誘惑から逃れるのも、また理性の狡知である。つまり、人間の理性の狡知は、複数のアイデンティティーを使い分けたり、性的欲望をコントロールする、といった、現代人が社会において暮らすうえで、必要な能力なのである。しかし、アドルノはその理性の狡知に、自己同一性の揺らぎや性的欲動といった、ニーチェ的欲動との相克を見て取るのである。
2022年5月23日月曜日
CONVERSATION IN ENGLISH
ジョンさん:I think economic crises in the past helped authoritarian rulers gain power around the world. But I don’t think this would ever happen in modern Japan. The memory of gunkokushugi is too strong. Even Greece, which had authoritarian rule in the 1970s, didn’t take that path during the financial crisis of recent years. So I wouldn’t be concerned. Japan always rights its ship after stormy seas eventually. Crises come and crises go but Japan remains afloat. More concerning is the certain social, political and financial collapse of the United States if Biden wins re-election. That is more likely to happen than Japan having a dictatorship again. 俺:Maybe I'm so concerned to fiscal that I believe Japan is walking alone. It must not be true. Thanks ! ジョンさん:Japan always maintains an equilibrium. Things were designed this way during the American Occupation in order to prevent a recurrence of 1931-1945. The threat from Nihon Sekigun in the 1960/1970s was weathered. Nothing like that will ever occur again, no matter how difficult the economy gets. 俺:Your word sounds quite relief. Thanks.
2022年5月22日日曜日
防衛費増額
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20220522-OYT1T50064/ 防衛に限らず、色んな意味でアメリカに守ってもらわないと日本は立ち行かないのは分かるけど、これ、最低限閣議決定とかやってるわけ?こんな大事なことを形式上とはいえ首相ひとりでやっていいわけ?越権行為じゃないのか?
CONVERSATION IN ENGLISH (ホッとした)
俺:This time Russia’s aggression may have benefited Japan. The aggression has made the US recognize Russia is still dangerous. It has augmented Japan’s importance as the defense basement against not only China but also Russia. This made the US unable to abandon Japan, which is at the brink of fiscal bankruptcy. The outcome of the withdrawal from the Middle East proved to be a failure for the US. It has let China and Russia sneak into the region. This is preventing the US from directing military resources to the Far East.
ジョンさん:The USA will never abandon Japan. Japan has been the cornerstone of America’s Asia-Pacific policy since 1945. What vexes Washington is the inability of Japan and Korea to mend fences and cooperate more closely with the USA to contain China and Russia.
2022年5月21日土曜日
エコーチェンバー
安倍は大嫌いだし、自民党という責任政党が、泥沼の金融緩和に日本を陥れたのは大きな問題だけど、反安倍的なワードでネット検索すると、主にツイッターとかで、れいわ新選組とか、共産党支持のツイート集に巡り合う。
乙武洋匡さんが、岸田総理はそんなに悪くない、という発言まで、やり玉に挙げられる。
そこは違うんじゃないか?
日本が土俵際まで追い詰められて、もう泥沼の金融緩和からの脱却の道筋さえ不確かになったのは確かだが、そこでもう諦めて、いやいや、そもそも土俵なんか関係ねーから!みたいな論調に走るのって、無責任じゃねーか?
山本太郎が掲げてる政策って、政治学的にいうとまさに全体主義そのもので、全然新しくもなにもない。
そこに多くの有権者が魅了されてしまうのって、単純に歴史とか政治学を勉強してない証拠だし、マスコミもそういうことを報道しない。
勉強しようと思えば勉強できることを、勉強しないで偽物の新しさに走るのは、日本人の民度の問題だと思う。
労働法判例
公務員の政治的活動が禁止されてるってのも、労働法の世界では判例の積み重ねでそうなってるんだけど、民間でも、労働組合が日本では産業別ではなく、企業別に結成されているところが特徴的。
フランスでは、国営鉄道が、帰省シーズン真っ最中にストライキやったりとか、病院がストライキするとか、日本じゃ考えられないことが普通に起きるらしいんだけど、日本ではなぜそうならないかと言えば、労働組合が、企業別に結成されていることが大きい。
つまり、企業別だと、あまり自分の会社に過度な要求をすると、競合他社との競争に不利だから、妥協する。
それが一昔前までは日本企業の強みだったんだけど、今では労働者搾取の一因にもなっていることは想像に難くない。
フランスの労働分配率の高さと、日本の労働分配率の低さを考えれば。
やっぱ俺には公務員って無理だなあ
公務員って、こういうご時世には最高なんだろうけど、身分の安定と引き換えに、政治的活動を禁じられてるから、俺には無理なんだよね。
身分の安定と引き換えに政治的活動を事実上禁じられてるってのは、判例の蓄積でそうなってるんだけど、全部の政治的活動を禁じられてるわけではなくとも、部分的にでも禁止されると、どんどん禁止される部分が増えてくるっていうか、自主規制的な側面が増えていって、事実上ほとんど全部禁じられてるのと同じになっちゃんだよね。
そうすると、どうせ表立って言えないとなると、どんどん自分の頭で考えなくなるんだよね。
日々自分の頭を悪くするような生き方は、俺には出来ないなあ。
まあでも、障害者枠で公務員に応募できるという特権を持ちながら、それを行使しようとすると、強烈なアレルギーが出るのは何故なのか、理由がわかったことは、物凄い発見だ。
中東の政治
ちょっともう、財政再建って言うだけ無駄な感じだね。
参院選の公約とか見てると、与党も野党もそんな発想乏しいし、その背景には、国民の意識があるし。
じゃあ財政破綻まっしぐらか、というと、一般論としてはそうなんだけど、地政学的に考えると、アメリカにとって、日本は、対ロシアでも対中国でも対北朝鮮でも、絶対に護らなければならない防衛上の要衝だから、日本国債買ってくれそうな気がするんだよね。
クアッドにしても、ロシアへの経済制裁の足並みの乱れが炙り出したように、インドは中国と仲悪いからロシアに厳しくなりきれないし、韓国も、北朝鮮とは同じ民族だから、さすがに殲滅とか出来ないし。
中東でも、アフガニスタンからの米軍撤退と、イランが存在感を増したことにより、両隣からの牽制が緩み空白地帯となったイラクに、中国とロシアが入り込み、本来は東アジアに軍事資源を振り向けるはずだったアメリカにとっては、誤算となった。
そうすると、アメリカの強力な同盟国としての日本の存在って、やっぱデカいと思うのよ。
もちろん、歳出削減など、厳しい財政上の要求は呑まざるを得ないだろうし、アメリカ人の対日感情はサイアクになるだろうけど。
これって、「戦後レジームからの脱却」どころか、対米従属を更にガチガチにしただけだよね。
それを決定的にしたのが安倍っていうのが、滑稽。
それと、中国の南洋諸島進出を考えたら、沖縄の米軍基地の重要性は否が応でも増すわけで、基地負担を押し付けてる本土の人間は、沖縄に足向けて寝られないよ。
2022年5月20日金曜日
安倍はもう出てくんな!引っ込んでろ!
日経は気を吐いてるね。「対韓輸出規制という黒歴史」(大機小機)と題して、安倍政権が反韓感情に乗じて日本の半導体材料の韓国への輸出を規制したことが「失敗」だったと断じる。実際、韓国の半導体産業は大してダメージを受けなかった。そして、「円の実力、51年ぶり水準 変動相場制下で最低に」として、日銀の金融緩和策への固執が円の実力低下を招いたと断じる。(もちろん、その背景にあるのはアベノミクスだ。)
アドルノはまだ生きている。
グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。 そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感じでしょうか。まるでオウム真理教のようですね。
参院選
安倍がウザ過ぎて自民党に入れたくないけど、れいわ新選組は、あなたが困る前に国が徹底的に財政出動して守る、とか完全に全体主義に走ってるし、国民民主党は一律10万円給付とか、ケンカ売ってんのか?ていう、相変わらず玉木のイケてなさ丸出し。立民はどうせ揚げ足取りだけの無能集団。目くそ鼻くそ。ほんと萎えるわ。知人に「参政党」という政党の存在を教えてもらったけど、ちょっとニュータイプだね。赤尾敏の姪っこがいるのが面白い。
2022年5月19日木曜日
素人考え
このまま円安が亢進するもんだと思ってたけど、若干(対ドル)円高に戻してるね。なんだろう?為替は予測で動くから、理屈通りには行かないけど、日本国内の消費が冷え込んで、かえって貯蓄の増加に繋がってることが、それによって日本国債を買い支えられる、という評価をされて、円売りが止まったのかな?
統合政府論
企業会計のことはよくわかんないから確かなことは何も言えないけど、統合政府論の言ってることって、フローが毎年大赤字の親会社が、子会社に手形買わせて、配当を大盤振る舞いしているようなものだと思うんだけど。
漱石論の私信(展開)
近代が産み出した<自意識>の悲劇は、それが<自己を把捉しようとする自己>という<純粋な自己>――社会関係から切り離された観念的で抽象的な<点>としての自己――を求めるものでありながら、実は<自己>は<他者>との関係性という座標軸においてしか存在を確かめようもない、この自己矛盾にあります。
紛れもなくその苦痛を味わった一人である漱石における<女性>の意味は…。
結論的には男性に都合の良い<女性の客体化>を免れるものではありませんが、漱石(文学)の特徴は、にも拘わらず、終始、女性に<他者>を求め、そして女性が紛れもない<他者>であるが故に、敗北し、傷つく男の姿までを射程に収めていた点ではないかと思われます。
【<自己>を映し出してくれる<鏡>としての女性】
<女性の客体化>の最たる例となると、一方ではモノ化(フェティシズムの対象)、他方で耽溺(女性の幻想化・一体化)が挙げられますが、漱石の場合は、いったん/とりあえずは<他者としての女性>が求められている、といってよいと思います。
<恋愛>の名を借りた――愛する女性に己(の物語)を投げかけ、相手から投げ返されてくる応答に揺らぎ、立て直される自己。性的他者の眼差しに曝されて、その葛藤する感情のドラマの中で自分というものを最も生々しく実感する――性的差異で隔てられた<絶対的他者>としての<女性>との関係性の上に<性的アイデンティティ>としての自己同一を獲得しようとする手法です。
以下の『彼岸過ぎまで』の須永の告白は、その典型。
女が自分に向ける感情――一種の<評価>に曝されることで<自己>の核心がゆさぶられ、剥き出しにされる、苦悩の戦慄は、そのまま須永が女の眼差しの下に自分という存在の手ごたえを、いつになく生き生き感じる瞬間を作り出しています。
純粋な感情程美しいものはない。美しいもの程強いものはない…強いものが恐れないのは当り前
である。僕がもし千代子を妻にするとしたら、妻の眼から出る強烈な光に堪えられないだろう。その
光は必ずしも怒を示すとは限らない。情の光でも、愛の光でも、若くは渇仰の光でも同じ事である。
僕は屹度その光りの為に射竦められるに極っている。それと同程度或はより以上の輝くものを、返礼として与えるには、感情家として僕が余りに貧弱だからである。僕は芳烈な一樽の清酒を貰っても、そ
れを味わい尽くす資格を持たない下戸として、今日まで世間から教育されて来たのである。(「須永の話」)
過剰な自意識に囚われ、内閉した近代人が、唯一、他者との関係性の上に<自己>を実感し得る<恋愛>。しかし、それが錯覚にすぎないのは、ここでの<女性>が、正確には<他者>とはよべないからです。男は相手の女性の眼差しの中に自分を見出しているわけで、そこで獲得されているのは再帰的自己です。女性はつまるところ、自分を映し出すための<鏡>、自分(の物語)を投影した存在にすぎません。
<恋愛>といえば、一見、独立した男と女が対峙して育むもの、のように見えますが、その内実があくまで男性を主体とした男性中心主義的に構築された物語にすぎないことを、漱石のテクストは炙り出してくれます。それは<身体の所有>に留まらず、相手が自分をどう感じ、思い、評価しているか――それを隈なく読み取ろうとする<内面の所有>という更にハイレベルな<所有>をさえ意味するでしょう。
漱石の陥っている図式は、近代的恋愛の祖型ともいえる「ロマンチックラブ」そのものですが、一対の男女が愛という感情の絆の下に生殖の営みを行うというこの近代夫婦家族の仕組みが、実は近代国家が最も効率の良い次世代再生産の仕組みとして採用した、徹底的な性別役割に支えられた<装置>であることは、今では常識です。「ロマンチックラブ・イデオロギー」と呼ばれる所以でもあります。
近代的個に目覚めた漱石は、上記のようにその幻想(愛という名の女性の客体化)に深く捉われました、が、また同時に、それを冷静に相対化する眼差しも持ち合わせていたと思われます。
【女性の他者性――構成の破綻/2人の主人公】
『行人』では存在を賭けて唯一の性的他者である「妻」の「スピリット」を執拗に求める主人公「一郎」に対して、たった一言、自分は「魂の抜殻」にすぎないのだというセリフを以て作中、「一郎」に対して最も手厳しい反撃を加える妻「直」が描かれ、女を触媒に男同士の濃密な関係が展開される『こころ』のホモソーシャルな物語に対しては、そこから徹底的に排除されているが故に、逆に<外部>からそのイデオロギー性と不毛さを鋭く突く「静」の言葉(「男の方は議論だけなさる…空の盃でよくああ飽きずに / では殉死でもしたら」)が点描されている――。漱石の女性たちが、主導権を握る男性主人公に対して、みずからその他者性をしばしば開示している、というのは有名な話です。
しかし、それ以上に、初期の漱石テクスト(『草枕』『虞美人草』)は徹底的な(性的)他者であるが故に己を映し出すに最も手応えのある<鏡>として女性を求めながら、当然の論理的結実として、女の厳然たる他者性に<生きるか死ぬか>ともいうべき地点へまで追い詰められてしまう主人公たちの姿を浮かび上がらせ、それ以降のテクストでは、そのような破綻を回避すべく、それを相対化するポジションに2人目の主人公を配置するという共通した構図を備えてゆきます。そのプロセスは、まさに<女性の客体化とその不可能性>が漱石テクストの一貫した通奏低音であり続けていたことを如実に示しているように思われます。
◆『草枕』と『虞美人草』
・『草枕』;
世間に倦んだ主人公「余」は、「気狂(きじるし)」――世の習いに背を向けた「那美さん」の美しく奔放な振る舞いに己を揺り動かされる。そんな那美さんを「画」に描いて、何とかその不安定な表情に纏まりを回復してやりたいと考える「余」であるが、「那美さん」を画に収めようとする――客体化が進むにつれて、そこに収まりきるべくもない那美さんの他者性が浮上してくる。そんな折、「余」が遭遇することになる「鏡が池」の風景――真っ赤な椿が滴る血のごとく池に降り積もり続ける光景は、他者の奥深い深淵を覗き見るような、つまりは他なる者と真に切り結ぶことの死をさえ孕む危険を見事に暗喩するものとなっている。この後、テクストの機軸は現実世界へと逸れてゆかざるを得ない。
・『虞美人草』;
誇り高い義妹「藤尾」の内面に食い入るような視線を注ぎ、<我(意識)>への固執がもたらす破綻を警告し続ける「欣吾」。「藤尾」が世間に追い詰められて忽然と世を去った時、「欣吾」も自分の内面を独り「日記」の世界へ閉ざして退場してゆく。傲慢な藤尾が世間の道徳や倫理に罰されたかのように見える物語は、そのままそのような女性に自己投影していた男の内的世界の死(終焉)へと反転する。
◆二人の主人公――ロマンチックラブの相対化
「愛」という名の下に女性を自己投影の対象として客体化しようとする男は、客体化しきれるはずもない女性の他者性に打たれ、自己破綻へ追い詰められる。初期テクストでこれを体験した漱石は、それを相対化し得るポジションに、もう一人の男性主人公を配置する。
◆『三四郎』から『行人』『こころ』へ
・『三四郎』;
「野々宮さん」を筆頭に、「美禰子」の内面を謎化し、それを読みとることに腐心する男たち――本郷文化圏の知の共同体。
―――配するに、所謂<視点人物>の「三四郎」は大学一年の「田舎者」として、彼らの営みを眺めはするものの十全には理解もできなければ参画もできない(stray sheep)。
・『行人』;「一郎」の「直」をめぐる物語に対して、弟「二郎」
・『こころ』;「先生」の「静(とK)」をめぐる物語に対して、聴き手=書き手の「私」
『三四郎』では曖昧化されていた<2種類の男性主人公>は『行人』『こころ』へ向けて、次第に差異化が明確になってくる。
そして『それから』は、『三四郎』の次作に位置し、前期の漱石テクストの末尾を飾り、後期作品群への道を開く作品だと言える。
【『それから』――性的他者との遭遇】
いわば冒頭より一貫してその<自意識>が追究されることになる「代助」が、「余―欣吾―野々宮」の後継に当たることは自明でしょう。
『それから』は、その一連のテクスト群の最後に、男性主人公一人に焦点を絞って、<鏡>の役割を果たしてきた<女性>と真っ向から相対させる――こう考えた時、『それから』は、「代助」の自意識的世界が、それまで客体化し続けてきた<女性>の見せ始める生々しい性的他者性との遭遇を俟って崩壊してゆく物語、と言えないでしょうか。
◆「自家特有の世界」――三千代の結婚から再出現までの「3年間」
性的他者としての女性、それにまつわる男性間の争い、結婚のための社会市場への参画――これら人を傷つけ、傷つけられる<現実世界>から背を向け、自分一人で自足しようとする自己完結的=排他的世界(自分にしか行き着かない世界)。
➡この世界の重要アイテムとして登場する「花々 / 独身時代の三千代の写真」は、<女性のセクシュアリティ―喚起される性的欲望>を封じてしまうことで、まさに最高度に好ましく美しい自分像を映し出してくれる<客体(化された存在)>である。
憩いの世界は、終始、<青―水底>のイメージで描写される。
――その代償行為として、現実の代助はアマランスの「交配」に介助を施したりしているが、縁側の腐った君子蘭の葉から滴り落ちる緑の樹液は代助の性的に閉ざされた体液の暗喩だろう。
◆「それから」(=その3年後から)始まる物語
テクストは容赦なく、三千代が他ならぬ、生々しい性的他者であることを突き付けてい
く。―出産を体験し、赤ん坊を亡くし、心臓を病んで夫との性的交渉が遠ざかり、疎んじられがちな人妻
最も生々しく現実的な<金策>が必要な三千代が、恥じて頬を赤らめる姿は、<金銭と性―
赤の表象>を刻印する。
一方、代助自身の意識の中では、三千代は水底の世界にふさわしい落ち着いた情調の女
として、代助の非現実的夢想空間(自家特有の世界―青)と現実の時空(―赤)――対立的であるはずの2つの空間をしだいに繋いでゆく。「4~5年前」の記念ともいえる「百合」の花を携え、代助の夢とうつつのあわいに自在に出入りし、鈴蘭を活けた鉢植えの水を呑む三千代。
百合の香に満たされ、姦通の合意が成るクライマックスは、現実の三千代と代助の中の三千代が一枚に重なる瞬間であり、それは「自家特有の世界」に極点を持つ代助的世界が<真っ赤な現実>に飲み込まれてゆく瞬間であるともいえる。ここで最後の跳躍板として代助が身を任せた官能は、「自家特有の世界」が最も強く封印してきた性的欲望の謂いでもあり、「自家特有の世界」は崩壊せざるをえない。
【三千代は<他者>か?――<客体化>を免れ得るのか?】
代助が遭遇したもの――ここまでの主人公の系譜の掉尾を飾るにふさわしく、決定的・致命的に出会ってしまったものが女性の<他者性>であることは間違いないでしょう。
しかし、それでは三千代は<他者>として描かれ、<客体化>を免れているかと言えば、それは全く異なる――それは、代助の<姦通>という名の最高度の<純愛>に見えるものが、代助一人の頭の中でのみ成立している、つまりは<錯覚>にすぎない、からです。
いちばんわかりやすい例証は、すでに常識化されているように「異性愛はホモソーシャルな女性嫌悪の別名」でしかない――代助の三千代への愛が、このホモソーシャルを地で行く格好となっていること、です。再会した三千代への愛の再燃が、平岡への嫉妬(=譲ってしまったことへの口惜しさ)に根差したものであることを、これもテクストは冷酷に炙り出しています。密かに想いを寄せていた女性を親友に快く譲り渡した男は、それが成立した瞬間に始まる親友への嫉妬から、彼女への思慕をいっそう深めてゆく…。
『それから』は徹底した男の――男が男との関係性に突き動かされる物語であり、「愛」の対象として錯覚されている「三千代」は、実は男同士の友愛=闘争の目標として二義的に対象化された客体にすぎない――これが有体の事実、でしょう。
『それから』は、女性を己の<鏡>に見立て、そこに唯一といってよいアイデンティティの確証を得ようとしてきた前期漱石文学の最終決算として、その究極に、<女性の客体化――客体化されきらない女性の他者性>を描き、<錯覚>の崩壊にまで突き抜けてしまった作品と言えるのかもしれません。
つまるところ、それは女性の客体化(の1バージョン)への固執とその限界への批評意識、といったレベルに留まるものであり、女性に真の<他者>を見出し、描く文学とは質を異にする、と言わざるをえません。
ただ、逆に上に述べた経緯は、漱石という作家が<女性>の他者性(他者ならぬ他者性)――男性の枠組では捉えきれない他者性を鋭く捉え、言語化した近代作家であったことを端的に物語るものとも言えるでしょう。そもそも<男性>に対する<女性>という枠決めそのものが差別的であり、さらに<男性>が主体化される以上、<女性>は二義性を刻印されることを免れ得ません。それは、近代が発見したはずの「個人」なるものが幻想でしかなかった事態と正確に見合っているでしょう。<近代>がいわば捏造した<近代的個――自由で独立した自我>に身を投じ、その制度性を告発することになった漱石は、そのような男と対等に<対>化されているはずの<女性>なるものが、実は近代という時代がシステム化した<ジェンダー秩序>の縛りの中で排除され、抑圧された存在であることにも気付いていたと言えるでしょう。
それを<男性>の視座から描き続けたところに、漱石の徹底した誠実さと免れようもない限界性があるのではないでしょうか。
追記1
「代助と三千代」に<錯覚された愛>を、ではなく<純愛>を読めば、それがセカイ系の「キミとボク」と酷似に近い相似形を描いていることに、ハタと気づかれます。むしろ<閉ざされた自意識>なる問題意識そのものが、漱石を始発に狭められながら現代へ至っているのかもしれません(東浩紀たちの議論のいちばん基底にはこれがあるような気がします)。そして近似しているようで、決定的に一線を画しているのが上に述べた「代助」に対する相対化の目――代助を包囲する現実社会およびそれと代助の関係性が克明に描かれていることです。
代助の「自家」世界が父の仕送りに贖われ、姦通=義絶を以て自己崩壊するしかない体のものであること、さらに「三千代」に至っては金銭的にも社会的にも平岡に繋がれた従属の立場にしかない以上、三千代における姦通の決意は道徳や経済のレベルを超えた文字通りの「死」の覚悟抜きにはあり得ないものであることetc. 3年前の代助が拒否したのも、また姦通を以て参入することになるのも紛れもない近代資本主義社会のシステムであることを、テクストは精密に描いています。これが、セカイ系ではオミットされることが大前提の「中間項」(世界と「キミとボク」の間に存在しているはずの)と呼ばれる社会領域であることは、言うまでもありません。
追記2
絶筆の未完作『明暗』は、漱石的ジェンダーをめぐる上記の整理から大きく逸脱するものと思われます。<愛を求める主人公>役が男女逆転して「お延」というヒロイン側へ振り当てられた時、どだい男性主人公「津田」に、<女の客体化>などの術も余裕も残されていません。「お延」の登場を俟って、漱石的世界のジェンダーをめぐる構図は、次のステップへと大きな飛躍を遂げているような気がします。
2022年5月18日水曜日
漱石論の私信(応答)
お便りを有り難う。
ご依頼のあった<漱石における女性の客体化>について、少し考えてみたので、添付ファイルにさせてもらいました。
確かに「客体化」ではないのかと問われればそうであるには違いなく、また過剰な自意識に苛まれる漱石的存在にとって、女性との「距離」は大きな意味を持つものですが、その究極、意味するところが「自意識からの逃走」かと尋ねられれば、やはり少し異なっているようにも思いました。
むしろ、漱石テクストにおける<女性>なるものは、苦悩を孕みながらも自己を確認する拠り所として求められ続けていたように思われますし、またそのような女性との関係性は、即、客体化であるとは断じ難く、結果的に客体化は免れなくとも、まずはその他者性に慄き、畏怖と渇望の対象として女性の他者性を求めるところからドラマは始まっている、とでも表現すれば良いでしょうか。
そのようなことを、『それから』は前期の究極の作品でもあり、添付ファイルでは、そこへ至る道程から始めて記してみました。
前回、お送りした代助の「自然」は代助(の内面世界)に即した論じ方をしているので、今回、代助に対する相対化を含んだ作品テクストの大枠から俯瞰的に見ての記述とは齟齬しているように見えるかもしれませんが、(「女性」問題を含めた)大枠から見た『それから』は、今のところ、私にとってはこんな感じ、です。少し長くなっており、申し訳ありません。
前回、今回と、私にとっては誠に良い勉強となりましたが、あくまで私見ですので、ご参考程度に。
漱石論の私信(問いかけ)
いま伊藤之雄先生の原敬の生涯の本を読んで、戦前の政党政治について勉強しつつ、その時代精神がなんとなく掴めてきたところなのですが、森本先生との「それから」に関するやりとりを経て、我々は夏目漱石の小説、とりあえずここでは「それから」の自意識論から何を学べばいいのか、と考えたのですが、夏目漱石は、やはり酒井先生が書いておられたように、近代的自己の目醒めと、それへの対処に苦慮していた、という面はあると思われます。具体的な感覚としては、自己と自意識との<距離>が近すぎることから来る苦悩と言いますか、常に己自身の自我を無意識のうちに意識せざるを得ない、というのは、非常に辛いものがあると思われます。それが、「行人」の一郎の狂気にまで繋がっていくように思えます。そう考えた時、漱石にとって<女>とは何なのか?と問うとき、浮かび上がってくるのは、<女>を客体視することによって、その「距離」によって、己自身に絡みつく自意識から逃れようとした、とも考えられるのですが、いかがお考えでしょうか?
意味分かんない
https://diamond.jp/articles/-/303337 ダイヤモンド・オンラインって、たまに暴論平気で載せるよね。前も、室伏とかいう自称政策コンサルの暴論を載せてたけど、この山崎元って人も、肩書は立派なのに、なんでこんなトンチンカンなこと平気で書けるんだろう?と思うわ。統合政府で見れば大丈夫っていう類の財政論があるのかどうかは知らんけど、統合政府で見るなら、別に政府の借金である国債を日銀に買わせる必要なんかなくね?他に買ってくれる主体がいれば、そっちに買ってもらえばいいじゃん。日銀と政府のバランスシートを統合すれば云々て話も、そもそもストックからしか論じてない点で問題だが、日銀と政府のバランスシート合わせて見れば大丈夫って話だと、じゃあ政府と日銀のバランスシートを「統合」(この場合の「統合」というのが何を意味するのか、会計の知識が乏しい自分にはわからないけど)したとして、それでもヤバくなったらどうすんの?もうほんとにケツの毛まで抜かれて鼻血も出ねえって状態になるまで借金しろっていうわけ?そんだったら、もう日銀が国債買えなくなっても、アメリカが日本国債買ってくれるから大丈夫、とかいう話になりかねない。そう考えれば、そもそも既に日銀以外に日本国債を(異常な高値で)買ってくれる主体がいないってことが問題で、しかもその状態から抜け出ることができないまま、政府が赤字国債を垂れ流し続けるっていう状態が続いた場合、日本円の価値、換言すれば日本円の信用を、どう担保するんですか?って話になるだろう。
俺、働けねーわ。
母親が、思ってた以上に心弱くなってたみたいで、俺が塾講師に応募したって話したら、メシも喉を通らなくなっちゃったみたい。まあ、もうこの年齢じゃそもそも案件なんかないのかも知れないけど、四六時中母親見守ってないといけないんじゃ、働くなんて無理だわ。
フィッシャー効果とは
物価上昇の予想が金利を上昇させるという効果で、フィッシャーが最初にそれを指摘したところからフィッシャー効果と呼ばれる。ある率で物価の上昇が予想されるようになると、貸手が貸金に生じる購買力目減りの補償を求める結果として、資金貸借で成立する名目金利は物価上昇の予想がなかったときの金利(=実質金利)より、その予想物価上昇率分だけ高まる。(以下略) 有斐閣経済辞典第5版 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html
物価上昇による危険性
物価が上がること自体の危険性もある。フィッシャー効果によれば、物価の上昇は名目金利の上昇を招くが、日本では長期金利は日銀によって強制的に抑圧されているので、物価上昇に伴う、円の購買力の低下を埋め合わせるために、よりリターンの望める、株式や、安定した利回りを見込める米国債、あるいはFXによるドル買いなど、民間部門の資産の海外逃避が起こる危険性がある。それは、さらなる円安を招くことによって、国内資金では日本国債を買い支えられなくなる事態を招く可能性がある。
政策割当の原理
質問:中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、とありますが、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか?あるいは、新古典派経済学では「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか? 回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。すなわち、「政策割当の原理」です。したがって、「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要となります。 本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。本来の金融政策の目標(物価の安定)と異なるため黒田日銀総裁は「異次元の金融政策」という言葉を使ったのです。このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。このシナリオどおりに進めば、もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。ただ、経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります。したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため「財政再建」が先送りになってしまいます。それゆえに、「財政再建」の政策目標の一環として消費税の引上げが考えられています。このように、「政策割当の原理」は成立しています。https://news.infoseek.co.jp/article/joseijishin_2068465/
デフレと実質金利
Q:名目金利が年8%でインフレ率(CPI)が年5%のとき、実質金利は3%か? ex. 100円の債券投資→1年後:108円 100円の消費財の組み合わせ→1年後:105円 のとき 1年後の108円の購買力=108/105=1.02857 (この投資の収益率:2.857%) ☆実質金利と名目金利、インフレ率(CPI)の関係 1+実質金利=(1+名目金利)/(1+インフレ率) ex.参照せよ 式変形して、すなわち ★実質金利=(名目金利-インフレ率)/(1+インフレ率) つまり、デフレはマイナスのインフレ率なので、実質金利を上げてしまう。
価格転嫁
企業物価は諸外国なみに上がってるのに、それを最終製品に転嫁できなくて困ってる業界もあるみたいね。飲料業界とか。ビールとか、ただでさえ税金対策で涙ぐましい努力で新ジャンルを開発してきたのに、円安と原材料価格高騰で、コストが激増してるのに、最終製品に価格転嫁できなくて、株も下がってる。アサヒとか。安倍が言ってたのは、インフレを起こせば、最終的に賃金が上がるってことだったけど、いくら企業物価があがっても、最終製品に価格転嫁できないんじゃ、賃金上がるわけねーじゃん。もちろん、デフレは実質賃金を上げるから、期待インフレ率が上がること自体は消費を喚起するけど、経済成長なきインフレは、消費者にとってはマイナスなので、その埋め合わせに財政出動が要請され、財政は悪化するから、それを防ぐためには、政策割当の原理に従えば、増税せざるを得ない。
2022年5月17日火曜日
北欧2国のNATO加盟
どうも、テレビより新聞のほうが、情報の質というか、情報の受け手の問題もあるのかも知れないが、高いね。昼間の民放では、トルコが北欧2国のNATO加盟に反対するのは、トルコと敵対するクルド人勢力の避難民を、スウェーデンが受け入れていることが理由だと述べている一方、今朝の日経新聞では、ロシアと関係が深いトルコの、北欧2国のNATO加盟への反対は、北欧2国のNATO加盟によってかえってNATOによるロシア包囲網が築かれることに対する牽制の狙いがある、と述べている。大局的には、後者のほうがより説得的だろう。
過ぎた日の微笑みをみんな君にあげる
なんかテンションあがってきちゃったよ。まえに講師として勤めてた塾で、いかに塾講師という仕事が報われないか思い知らされて、もう塾講師は嫌だ、と思ってたんだけど、でも俺、やっぱ教えるの好きだし、塾講師ぐらいしかできねーよ、って思ってたんだけど、gmailに届いた求人で、集団指導、前橋駅チカ、高校生のみ・・・・って、いいじゃん!て思って、冷静になれ、俺!とか思いつつ、気付いたら応募しちゃってた。さーて、どんな返事が来るか。
2022年5月14日土曜日
上巻読了
「原敬 外交と政治の理想(上)」伊藤之雄 講談社 読み終えた。かなりの分量だけど、読みやすい。下巻もセットで買ったから、やったー上巻読み終えたーと思ってスワイプしたら、もう下巻が始まってて、ちょっと待って!という感じです。得る所大なり。
2022年5月13日金曜日
経常収支黒字急減
今朝の日経に、経常収支黒字が4兆円まで急減て書いてあったけど、記事の末尾にも書かれてあったけど、経常収支が赤字に転落したら、財政運営の厳しさはこれまでとは段違いに難しくなる。なぜなら、経常収支黒字というのは、政府部門の赤字を、民間部門の黒字が上回っている、つまり政府部門の赤字を民間部門の黒字でファイナンスできる(可能性がある)ということであり、経常収支が赤字に転落するということは、理屈の上では政府部門の赤字をファイナンスするために、外国資本を導入する必要に迫られるということである。今までは、日銀が、政府部門の赤字を、民間部門の貯蓄を背景として、異常な高値で国債を買い入れることでファイナンスしていたが、海外資本に国債を買ってもらうには、市場の「適正価格」まで国債価格が下落し、当然、金利も上昇する危険性が高まる。日本は史上最大の400兆円の対外純資産を保有しているが、それが自動的に国債購入に回るわけではないし、もちろんその義務があるわけでもない。
2022年5月11日水曜日
自縄自縛
さっき民放の番組で、ちゃんと働いてるのにめちゃくちゃ倹約生活してる人がいて、洗剤とかも自分で調合して使うほどの筋金入りの倹約生活してるんだけど、その人は、貯めたお金で米国債のETFとかを買えば、30代で労働から抜け出して、生きていけるっていうんだよね。日本国内で消費もせず、もちろん日本国債を買うでもなく、米国債を買うっていうのが、合理的だと気付いちゃったんだね。彼の場合は倹約生活がちょっと極端だけど、円で資産持ってるよりドルで資産運用したほうが合理的だとみんな気付いちゃったら、日本人が日本国債買ってるから大丈夫っていう理屈は崩れるよね?安倍は、日銀が持ってる日本国債は満期が来たら借り換えればいいから問題ないっていうけど、満期が来て、借り換えてくれるのも、結局日銀でしょ?他にそうやって異常な高値で永久に国債買ってくれるって、日銀以外にないよね?そうやって発行済み日本国債の、日銀の保有割合がどんどん増えていって、無事で済むと思う?常識で考えようよ。何せ、日本国債は異常な高値で日銀に買われ続けるんだから。そうしないと、日本国債の利回りがちょっと上がっただけで、利払い費が数兆円増えちゃうんだから。(あれ、債券価格と利回りが大雑把に言って反比例するってことぐらいは知ってるよね?それも知らなかったら金融論も財政も語る資格ないよ?)アメリカの長期金利がこれからも上がり続けるかどうかは知らないけど、日銀は、イールドカーブコントロールから抜け出すことすら困難を極めるんだから、長期金利なんか上がるはずないよね?(財政破綻すれば別だけど。)そうすると、最初に書いたように、資産を円で保有するより、ドルで資産運用したほうが合理的って気付いちゃった人が増えたら、仮にそれで日本円の価値がどうなるかなんて考えて無くても、国内の貯蓄では日本国債買い支えられないってことは分かるよね?経常収支はフローで、対外純資産はストックだけど、それはコメント欄に書いておくから、そっから先は自分で考えてね。
どこまでもセコイ野郎だ
一連の疑惑も検察の起訴からは逃れられた、コロナ禍に対する社会の危機感も薄れてきた、円安の亢進で、アベノミクスのメッキが剥げてきた。このタイミングで、敢えて観測気球を揚げてみたってところなんだろう。そういう政治屋的勘だけは鋭い。ほんとに安倍晋三はクソ野郎だ。
臨時収入
期せずしてアマゾンカードを贈呈されて、アマゾンで大人買いしたもんだから、暇を持て余すはずだった今月は、一転読書三昧。いまはキンドルにダウンロードした伊藤之雄先生の原敬の本。上下合本で4000円もしたもんだから、読んでも読んでも残量が減らない。40になってからでも、人間って成長できるんだな。
聞いてないよー!!!
ダメだよ上島さーん!南部ちゃんより先に死んじゃー!!!!どうした?!?!?!病後18年ご苦労さまってことで、サプライズで姉と母親からアマゾンカードプレゼントされて、早速アマゾンで大人買いしてたら、訃報がポップアップされたけど。
2022年5月9日月曜日
落日の安倍
安倍が、日銀は政府の子会社だから、日銀が持ってる500兆円の国債は還さなくていい、とか発言したらしい。いやいや、その日本銀行券の価値を信用して日々生活してる我々はどうすればいいんですか?日銀がそれだけ国債保有してるってことは、国債の価値が担保されてなかったら、安心してお札使えないじゃないですか。国債の価値を担保するって、早い話が日本の財政に対する信用でしょ?いや、もういい。この馬鹿野郎はやっぱり馬鹿野郎だった。こんなバカが歴代最長の首相在位記録を持っていること自体が、国の恥だ。何を焦っているんだろう?桜?今だに政権与党内で存在感を持っている元首相が、こんなネトウヨレベルの知識で政権運営していたのかと思うと、呆れるどころの騒ぎじゃない。不思議なのは、この「日銀は政府の子会社」説、どっから出てきたんだろう?高橋洋一?それはどうでもいいけど、事実上の問題として、仮に日銀が政府の子会社だとしても、これだけ日銀に国債が溜まった状態で、国債の価値が担保されなかったら、日本銀行券(お札)の価値は無くなるってことなんだよ!馬鹿野郎!
ちょっとテンションあがった
放送大学は今期から在宅で単位認定試験を行うので、単位認定試験受験資格を取得するための通信指導も、これまでよりかなり難しくなっているのですが、全部ではないが、とりあえず出せるものは出せて気分が良い。放送大学優しいから、通信指導も、提出すればすぐに正解・不正解を教えてくれる。結果から見れば、まず落とされることはない。グローバル経済史、日本近現代史、近現代ヨーロッパの歴史、中国と東部ユーラシアの歴史はWeb上で提出。択一。中東の政治は、論述(600字)を専用の用紙に添付して提出予定。ふだんから日経新聞で中東に関することは切り抜いておいてあるので、すんなり書けた。課題がいつもより難しいぶん、ちゃんと勉強した感がある。でも、これ正解を仲間内で教えちゃう人いるんじゃないかな?歴史系の面接授業も追加で申し込んだし、よほどのことがない限り、9月には2度目の卒業だ。(人間と文化コース。)
2022年5月8日日曜日
ああ、そうですか。
姉夫婦が、昨日の夜から高崎に居たらしいんだが、今日も挨拶だけして、子供を連れてあちこち義理の兄の運転で行楽してるらしい。なんか、ゲンナリするね。昨日の夜から居るんなら、俺に、ちょっと外泊してきたら?とか、そういう発想は一切なし。まあ、金曜日に桐生の東横インに日帰りで行ってきたんだけど。こっちは外泊もできない、長時間の外出も控えてるのに、子供連れて、あそこ行きましたここ行ってきました。キラキラ。みたいなメールを母親に送ってるの見ると、なんかほんとに萎えるね。国語力は俺に負けてないとかお前はセカイが狭いとかマウント取ろうとするくせに、人の気持なんか全くわからない。いつも自分だけ。物心ついた頃からねーちゃんにイジメられ続けて、病気になってから18年も経って、まだこんな仕打ちにあうのか。まあしょうがねーかな。空港の手荷物検査で、英語で、何か危険なものを所持していませんか?て聞かれて、意味わかってんのに、満面の笑みで、イエース!て答えちゃうレベルのアホだもんな。知力の問題とはまた別なのかも。生まれつきネジがぶっ飛んでるのかも知れない。犬が死んだときも、死骸に抱きついてたし、父親が亡くなったときも、遺骸にキスしてたし。ちょっともう、感覚が違う。
2022年5月5日木曜日
桜を見る会
安倍の秘書の供述が公開されて、安倍の矛盾が明らかになってきたそうなんだが、これからどうなるんだろう?捜査終結という報道も半年ぐらい前に聞いた気がするけど、まだ安倍が起訴される可能性はあるんだろうか?個人的な心情としては、本気で安倍は起訴されて、願わくば逮捕されて政治の世界から永久に排除されて欲しい。が。政治の世界は、仮に結果として司法の忖度だとしても、ちょっとでも一線を超えたら即アウトにしてしまうと、スキャンダル暴露合戦になってしまって、結局政治全体の信用失墜に陥ってしまう。戦前の政党政治も、それで潰れて、軍部の台頭を招いた。安倍は大嫌いだし、政界から永久に追放されて欲しいが、政治の世界を単純な感情論で捌くのは要注意だということは念頭に置いておくべきだろう。尤も、国民が、コイツはもういらねーと大合唱を揚げれば、司直を動かす可能性はあるかもしれない。
2022年5月4日水曜日
無理ゲー
維新の会が、資産課税を検討してるってんで、ネットが騒然としてるらしいが、まあしょうがないでしょ。消費増税って言葉を聞いただけで、国民が狂ったように反対するんだから、別口で取るしかねーじゃん。円安の裏には日本の財政に対する不信感もあるわけだから、いくら民間部門の貯蓄があるから財政大丈夫って言ったって、法律の根拠もなく徴収できんでしょ。仮に年度ベースで見て経常収支が黒字、つまり政府部門の赤字を民間部門の黒字が上回っている、と言ったって、徴収するには法律の根拠が要る。経常収支の黒字の源泉となる第一次所得収支の黒字だって、企業の保有するドルを円に換算して計上してるだけで、そのカネは企業が海外の買収とかに使うだけで、国内には還流しない。つまり、もう国民の財産からどうにかして取るしか選択肢がない。企業から徴収しないのは不公平な気もするが。山本太郎は憲法記念日に合わせて、弱者救済の積極財政を唱えたらしいが、バランスシートの裏付けもなくただカネ刷って配れ、という極論から脱皮したのは大きな進歩だとは思うが、財政出動すれば、クラウディング・アウト効果で金利が上がる、そうすると国債の利払いがヤバいから金融緩和で金利を下げる、そのために日銀が国債を買う、という、結局今まで安倍と黒田がやってきたことと変わらないことに、まだ気づいていないようだ。イヤダイヤダ言うなら、原発を再稼働させて、原油の輸入を減らして、貿易赤字をちょっとでも減らすぐらいのことは受け入れなければならない。一番ヤバいシナリオは、日本人自身が、資産を円で保有することが損だとばかりに、大挙して海外通貨に資産フライトさせること。そうなると円安が止まらなくなる。https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX結局、コロナ禍と、アベノミクスという事実上の財政ファイナンス政策を続けてしまったことが、日本の寿命を縮めてしまっただけのこと。
TOEIC申込み
コンビニで支払ってきました。受験料ってこんなに高かったっけ?と思いながら。別に今すぐ受けなきゃいけない事情なんかどこにもないのに、こんな高い試験料払う意味あるんだろうか?などと考えながらも、足取り軽やかにコンビニまで行ってきました。何か行動起こすときって、行動って言っても大したことじゃないけど、頭の先っぽで考えるよりも、体が自然と動いちゃうよね。まあ、なんだかんだ自分は英語が好きだし、TOEICも好きなんだろう。
「それから」論
多くの東京市民は、こうした嫌悪すべき「目下の日本」に生きている。「平岡もその一人であった」と言う。ここで働いているのは、代助の美意識である。代助のこうした感性は、いったい何を基準として生まれるのだろうか。それは明治の一代目である父の家、すなわち青山にある代助の実家をおいてほかにはない。代助の感性には、まちがいなく長井家の財産(アレントが言う意味での財産)が組み込まれている。代助の審美眼は、長井家が近代という時代に合わせて形作ったハビトゥスだったのだ。若き日の代助が三千代の趣味の教育形だったことを考えれば、代助を誘う三千代のやり方も長井家の財産が育てたのである。それが「家」に関わって「孤立感」を語った理由だろう。これはほんの一例にすぎない。代助は、彼と同じ階層に属する「明治の二代目」とつき合ってもいないようだ。だとすれば、先に引用した一節にある「誰に逢っても」の「誰」には、おそらく「明治の二代目」は含まれていない。明治の一代目から引き継いだ「ブルジョワジー」としての階層意識は、代助にしっかり内面化されているのだ。しかし、代助自身はそれを高級な美意識の持ち主としては意識しているが、階層意識としては十分に意識していないようだ。言い換えれば、代助の高級な美意識が、内面化された階級意識に目隠しをしているのである。(漱石と日本の近代(上) 228ページ 新潮社 石原千秋)
見守り
なんで外泊できないかっていうと、母親が寂しいかららしいんだけど、どうも、夜に限らず、昼間も一人でいるのは嫌みたいだね。ヘルパーさん来てくれるけど、そういう問題じゃないっぽい。体力に自信があって、健康番組をよく見てたのに脳梗塞になっちゃって、立て続けにおじさんと父親が亡くなったからね。やっぱりこっちが思うよりもショックは大きいのかな。話は変わるけど、昨日のヤクルト阪神戦、ライアン小川が5安打無四球完封の素晴らしいピッチングだったね。正捕手の中村悠平が復帰したのが大きい。少なくともセ・リーグでは中村はリード面では他の球団とは次元が違うよね。日本シリーズでもMVPに選ばれたし、完全にヤクルトの大黒柱に成長したよ。ヤクルトはあと10年は安泰。ライアン小川は絶対的なピッチャーじゃないし、いつも球数多いのに、ビジターで無四球完封できるってのは、キャッチャーが優秀な証拠。あと、野球中継のあとにサッカーJ1の清水湘南戦見たけど、湘南のキーパーが酷すぎる。これほんとにJ1なの?と目を疑うレベル。日本はまだまだサッカーより野球のほうがレベルが上だよ。少なくともキーパー目線から言えば。
2022年5月3日火曜日
憲法記念日
質問:平成28年度2学期の放送大学東京文京キャンパスで行われた面接授業「統治機構を憲法から考える」を履修したものです。 いきなりで恐縮ですが、ひとつお伺いしたいことがあります。 日本国憲法第66条3項は「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。」と規定しています。 これはイギリス式の、議院内閣制を定めたもの、つまり、議会の信頼の上に内閣が成り立っている、と解釈できると思われます。 しかし、現況では、野党が弱く、与党議員の多くが当選2回のペーペーで内閣に到底モノを言えるような力がないなかで、内閣が暴走し、とても議会に連帯して責任を負っているとは言えない状況にあると思われます。 日本国憲法はアメリカ式と思われますが、アメリカであれば、大統領令に対しても積極的に違憲であると権力を発動しますが、日本ではそうではありません。 これは、アメリカ式の憲法を採用しながら、(戦後)イギリス式の議院内閣制を採用した日本の統治機構の構造的欠陥と言えるのでしょうか? ご多忙のことと存じますが、ご回答賜れれば幸いです。 ご回答:メールありがとうございます。 議院内閣制は、議会と政府の共同活動を前提としています。しかし、政府・内閣が暴走する場合には、議会のコントロールに服するという「責任本質説」に基づき、内閣は連帯して議会に責任を負い、議会下院は内閣に不信任の決議をすることができます。 とはいえ、議会多数派である与党議員が、政府・内閣の意向に承認ないしは追従する限り、政府・内閣は、多数議員に体現される民意に基づき、政治をリードすることになります。政府・内閣が暴走しているとして政府・内閣を抑止することができるのは、主権者である国民であり、選挙という手続きに基づき行われます。 日常的には、テレビ・新聞などのマスメディア、世論調査、SNSなどによる言論表現活動において、政府・内閣の暴走を批判することができます。しかし、政府の意見は、「政府言論」として政府の自制がない限り、たとえアジテーションであっても広く国民に広がるのが現実です。 ここまでは、ご質問の前提です。では、アメリカとイギリス、そして日本の立ち位置について考えてみます。 日本国憲法は、確かに、GHQの考え方すなわちアメリカ法思想を前提にしていますが、マッカーサーは、日本が戦前も議院内閣制の政治制度を採用したことを前提に、新日本国憲法の構想にあたっても議院内閣制の採用をすすめており、憲法改正のための帝国議会でも、違和感なく採用されています。 では、ご質問にあるように、議院内閣制において、現実的な政府の暴走は阻止できないのかという点を考えてみたいと思います。イギリスやアメリカにおける民主主義の前提は、二大政党制であると思います。対立する野党が政府与党を抑制するシステムは、現実的には、「政権交代」が国民の選挙によって起きるという事実だと思います。政府与党が一番恐れるのは、政権からの陥落であり選挙における敗北です。イギリスやアメリカでは、現実に政権交代がありますので、政治は次の選挙に勝つためという戦略的な限界あるいは制約があります。これを意識することは、反対者へ配慮として、温和な政治展開を現実的に保障することになります。 もっとも、激しい感情の発露は、「民意」にあります。主権者たる国民の感情換言すれば投票行動は、刺激に敏感で現実的生活や嗜好に左右されがちです。「ポビュリズム」が、一般大衆の感情的表現として用いられ、ポビュリズムによる政治が危険視されるのは、そのことを指摘しています。国民の感情エネルギーである民意を理性的にコントロールしないと、政治自体が暴走します。この例として、イギリスやアメリがの現状を上げるのは妥当ではないかもしれませんが、イギリスがEUから離脱し、アメリカが自国第一主義へと進路をとったことは、国民の感情的エネルギーと言えるでしょう。 一方、日本は、国民の感情的エルネギーが、国民から主体的に発散されているというよりは、政治指導者の思想や政治的判断が、国民に提案され、国民がその政治提案をよく咀嚼する前に、現実的な体制づくりが民主主義という名の下で推し進められているという傾向がありのではないでしょうか。 今から反省するとすると、政権交代を行うために、政党本位・政策本位の選挙制度構築ビジョンのもと、中選挙区から小選挙区選挙へと移行したことが、現在の強すぎる政府与党を作り上げていると思います。日本国民は、表向きは権力を尊重し権力へおもねる傾向を持つ国民であり、他人と議論することは避け、人に同じことを考え行うことを通常の判断原則としているように見受けられます。そのよう傾向持つ国民が、二大政党制に本当に馴染むか、一時の情に流されることなく、考え続けるべきかもしれません。 というわけで、日本において、政府の暴走を阻止することは、政治部門関係では、非常に困難であって、議院内閣制の制度的構造的欠陥とはいえないと思います。要はいかなる制度であっても、使用方法が大切であるということだと思います。例えば包丁と同じで、本来の使用とは別に人を殺傷するときにも使用できます。議院内閣制に関する評価も、国民の使用方法に左右されることになります。 政治部門の抑止は、お話ししましたように、権力分立に基づき、裁判所の役割となります。違憲審査権を有する裁判所が、政治部門の判断ないし活動について、どのような憲法判断を行うか、これが重要な法的課題となります。しかし、現在はこの憲法を改正とようとしているわけですので、国民の叡智の真価を問われていると言える現状です。 ご満足のいく回答となっているかどうかわかりませんが、今の考え方を述べさせていただきました。 日笠完治
2022年5月2日月曜日
「それから」論ノート(「漱石 その陰翳」 沖積舎 酒井英行 より)
代助の「自然」が、「法律」「世間の掟」に対立するものであることは明白である。社会が社会の保全・存続を図るために、個人の内部欲求の流出の抑止力として法や道徳を造り出しているのだから、自己の内面に絶対性を置く代助が、法や道徳と対立するのは当然である。法・道徳との対立の存在しない、いわば真空状態における個人の生命の要求に従うことが、彼の「自然」である。この時、「自然」は本能に近似してくるようであるが、「良心」の制御を受けている点で、やはり本能の跳梁とは一線を画するものと考えねばなるまい。自己の絶対性を認め、自己の「良心」に誠実であることが、代助の「自然」であると考えられる。しかし、漱石が、代助の「自然」を本能に傾斜する危険性を孕んだものとして描いていることも確認しておく必要がある。(157ページ)こう考えてくると、「再現の昔」は、「自然の昔」ではなく、「何も知らぬ昔」であることが分かる。「自然」の意味は、「何も知らぬ」に変質しているのだ。何が代助に「何も知らぬ昔」への回帰願望を抱かせるのか。(164ページ)平岡はとうとう自分と離れて仕舞った。逢ふたんびに、遠くにいて応対する様な気がする。実を云ふと、平岡ばかりではない。誰に逢っても左んな気がする。現代の社会は孤立した人間の集合体に過ぎなかった。(164ページ)近代的自我に目醒め、客観的規範意識を喪失して、他者からの孤立化が生じたのである。自我意識の跳梁に苦しみ、論理的武装を脱ぎ捨てたくなっているのである。近代的自我に目醒める以前の「何も知らぬ昔」は、自他の間に、和合と信頼のあった安らぎの世界であり、これが、「自由」と「平和」に充ちた「自然の昔」の実体であったのだ。代助の苦悩は、結局、漱石が処女作「吾輩は猫である」以来表白してきた自我意識の苦痛であったのである。(165ページ)近代的自我に目醒めた代助が、信頼と和合に充ちた「幸」を失い、自我意識の跋扈が苦痛になって”それから”以前の「何も知らぬ昔」に回帰しようとしたのが、「それから」である。(166ページ)
円キャリートレードとは何か?その2(野間敏克先生より)
質問:円キャリートレードというのがよくわからないのですが、日米金利差で円安ドル高が進行するなか、ドルを持っている人が、円を買って、より安くて金利の高い海外通貨で稼ぐ、という意味なら、わからなくもないですが、それだったら最初からドルで円より安くて金利の高い通貨を買えばいいと思われますし、円キャリートレードとは一体なんなのかよくわからないのですが。旧民主党政権の時にもそういうことがありましたね。回答:インターネット上にたくさん情報はありますが、どれも文章説明だけで、図を使った解説がないようなので分かりにくいのかもしれません。
この取引のスタートは現在「①低金利の円を借りる」です。それを「②ドルに替え」て「③高金利のドル資産で運用する」。そして将来「④稼いだドルを円に戻し」て、「⑤借りていた円を返済する」で完了です。
この取引が活発に起きるのは、まず①(⑤)と③を左右する日米金利差です。現在米国で運用した方が有利で、今後も金利差は広がると「予想」されます。もうひとつは②と④で、現在円安なので円をドルに替えることは損に思えます。しかし将来もっと円安になると「予想」すれば、④で円に戻したとき、多くの円に替えることができます。
道徳感情論(アダム・スミス)
うちのねーちゃんは、基本的に自分が損してないかどうかに過敏だけど、つねに自分が損したくないだけ戦略を、他人に見透かされたら、世間からどんな扱いを受けるか、というのは想像に難くないですよね。だから、色んなコミュニティに入ってはみるものの、いつも本性を見抜かれて、結局は排除される。こう考えると、世間と関わるには、独善的な姿勢だけでは上手くいかないことが見て取れる。仮に本心ではなくとも、利他的な行動を取ることも必要だし、世間から愛されたいと思われれば、それなりの自己犠牲だって必要だ。アダム・スミスは、確かに人々が自分の利益を追求することが、社会全体の富を増大させるとは書いているが、むしろ強調しているのは、社会で成功しようと思うならば、他人から憎まれることを避け、愛されることを望むことが必要と説いている。そういう感情、心性が、健全な社会を発展させると説いたのだ。そうであるならば、なぜ経済のグローバル化は、人間の疎外を生み出したのであろうか?人間は、地縁や血縁で結ばれていた社会には、お互いの信用度合いを肌感覚で知っていた。あいつは信用できる、信用できない、等。しかし、経済規模が拡大するにつれ、お互いの信用度合いを肌感覚で知ることは不可能になり、社会的地位や肩書で、信用度合いを判断するようになる。この傾向が更に進むと、人間の信用度合いを、複雑な数理モデルに基づいて数値化するようになる。(井上俊)そこにはもはや肌感覚の信用度合いというものは存在しない。現代の市場型間接金融においては、人間の信用度合いをスコア化して、地球規模の資本市場へアクセスする機会を提供している。そこでは、もはや社会的地位や肩書すらも、信用に足るものではない。単純に、マネーゲームに勝てるかどうかだけが、その人の価値の判断基準となる。これは、世界恐慌直前の戦間期に、ジョン・デューイが、「貨幣文化」と名付け、個性の喪失を嘆いた状況と軌を一にする。なぜなら、この段階ではもはや、その人が社会において愛されるべき存在であるかどうかなど、関係がなくなっているからだ。
貧乏性
ねーちゃん、金遣い荒い、というか、ドカーンと買う割には、妙なところでケチるんだよね。まず自分が損してないかどうかにすげー敏感で、そこは絶対に妥協できない。しかも、いま我が家の資産管理任せてるもんだから、まるでこっちの支出は無駄だらけで、自分たちの支出は全然ムダがない、というのが基本スタンス。母親が介護認定軽くなることが見込まれるから、ヘルパーさんの時間を削らなきゃいけなくて、高崎市の担当と話すときも、初期にヘルパーさんと話し込んで、ネガティブが印象をキャッチした人を枠から外そうとしたり。俺からみれば、確かに融通が利かないし頑固だとは思うけど、すごくテキパキしてて有能と思われる人なのに、その姿を見てもいないのに、最初にヘルパーとベラベラ喋ってキャッチした情報だけで判断しようとする。その代わり、俺が週3回の入浴介助を減らそうというと、普通は毎日風呂に入るもんだ、とかナゾなこと言い出すし。そんなんだから、俺が下手に東横イン泊まりたいなんて云うと、ワタシたちはゴールデンウィーク完璧に予定組んでるのに、アナタのせいで台無しになりました、みたいなノリになるんだろうね。
2022年5月1日日曜日
肩こるなー
姉夫婦一家が嵐のように去ってった。ゴールデンウィークは意外と忙しかったようで。下手に東横イン泊まりたいなんて言ったもんだから、ワタシたちはゴールデンウィーク満喫できませんでした、みたいな目つきされると、ほんとに疲れるなー。なんなんだろう?どっちにしろ東横イン空いてなかったから、余計なこと言うんじゃなかった。話が通じないレベルのバカ相手にするのはほんとに疲れる。義理の兄はほんとに偉いよ。あんなモンスターと付き合ってられるんだから。ほんとに感謝。感謝。感謝。裏を返せば、特に何するでもなく母親と暮らすだけでも、結構大変なことなんだな。明日は市役所に、自立支援と障害者手帳の更新申請に行かなきゃいけないから、風呂にでも入って体力温存しよ。
名言
統合失調症発症してから今年で18年だけど、最初、家族が医者から言われたのが、「すべてを諦めてください。」だったらしいからね。ふざけやがって。一生ラリったまま暮らすとでも思ってんのか?バカにしやがって。ちゃんと大学卒業しましたよ。働いてないけどね。発症してから3学期休学したけど、復学して33単位取って、合計91単位までは取ったけど、クソSFCは卒業できんかった。でも十分頑張っただろ。今からSFCに行けって言われたって、絶対いやだね。近寄るのもいや。錯乱して警察に捕まって措置入院だからな。派手に発症したよ。でもね、もう浪人中から限界だったんだよ。もっと言えば、高校生の頃から危機的だったのを、ごまかしごまかしやって、なんとか凌いでたんだよ!
メモ
ある共同体において、共通の神を信じているということが、その成員を共通の成員として成り立たしめるのであれば、その共同体の外部に存在する異質な存在と、その共同体を繋ぐのが、貨幣である。なぜなら、貨幣はある共同体においても、その外部においても通用する、包含関係における共通要素だからである。(荻野昌弘)だからこそ、貨幣は経済の相互依存を通して平和をもたらす可能性を秘めている。(デービッド・ヒューム)しかし、貨幣は、ある社会における間主観性(フッサール)を、他の社会にも押し付ける、侵食するような暴力性も秘めている。ある社会における間主観性とは、例えばミカンをある集合とみなせば、その要素、つまりその集合の要素としての一つ一つのミカンは、何千個、何万個あっても、すべて一つずつミカンとして数えることになる。これは、物心のついていない子供や、狂人以外ならば、その社会の決まりごととして受け入れられるからだ。その一つ一つの計量可能性が、理性の暴力的な側面として現れる。(アドルノ)理性の働きを物心のついていない子供や、狂人と対比させるならば、「オデュッセイア」において、ポリュペーモスの問いに対しウーティス(何者でもない)と答えるのは、自らの自己同一性を偽る狡知であり、セイレーンの性的誘惑から逃れるのも、また理性の狡知である。つまり、人間の理性の狡知は、複数のアイデンティティーを使い分けたり、性的欲望をコントロールする、といった、現代人が社会において暮らすうえで、必要な能力なのである。しかし、アドルノはその理性の狡知に、自己同一性の揺らぎや性的欲動といった、ニーチェ的欲動との相克を見て取るのである。
メモ
アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。
歯車
芥川龍之介が自殺した心境も、理解できる。発狂することは、死よりも遥かに恐ろしいことだ。笑いながら死ぬことなんて僕にはできないから。でも、売文家として、死を弄ぶことは、甘ったれかもしれない。少なくとも、そこにはなんの進歩もない。俺はほっといてもそのうち心臓発作で死ぬだろう。これだけの頻度で悪夢を見ていれば、いつかはそうなる。俺は神を信じる。人間はアテにならないから。でも、個人主義ってそういうものじゃないか?人間が相互に信じあうに足りるものであれば、神(あるいはリヴァイアサン)を信じることなんて必要ないじゃないか。ミシェル・ウェルベックの「地図と領土」(ちくま文庫)の最後のほうで、主人公のジェドが、大腸ガンを患っていた自身の父親が、合法自殺を選んでチューリッヒに旅立ったことを知り、追いかける描写で、父親が安楽死を遂げたとごく事務的に告げる施設の女性職員に対して、人を殴ったこともないようなジェドが、その女性職員をフルボッコしたけど、神を信じているとは言い難いウェルベックが、神を信じようが信じまいが、簡単に自殺なんかするな、というメッセージを発しているような気もする。俺は人間はアテにしないが、自殺はダサいと思う。アルベール・カミュの「異邦人」で、死刑判決を受けた主人公が、儀礼的に慰めに訪れる神父に、容赦なく罵声を浴びせる描写があるが、かといって死におののくでもなく、生に恋々とするわけでもない。実存主義真っ最中の時代精神として、明らかに神を信じていないカミュの作品だが、「ペスト」の中では、(神なき時代の)人間の連帯が描かれていた。神を信じるも信じないも自由。その中で、どう社会の連帯を築くかを模索するのが、ナウいんだろう。
ゴールデンウィーク・ブルー
連休とかの日以外、平日は、こんな楽ちん生活させてもらって申し訳ない、と思うんだけど、ゴールデンウィークになると、世間は行楽ニュースで賑わうのに、なんで俺は外泊すらできないんだろう?という気になるね。放送大学がコロナで面接授業ないってのも大きいけど。姉夫婦一家がやってきても、息子にかこつけて家にいないであちこち出掛けて廻るのも、いい身分ですこと、て感じですわ。早くゴールデンウィークおわんねーかなー。姉夫婦、特に自動車を運転して東京から来てくれる義理の兄の協力なくしては、外泊できないんだけど、働いてなくてこんな心境になるんじゃ、終日働いてて休日に息抜きもできないんじゃ、働くなんて無理だよ。損な役回りはいつも俺の担当。犬の介護もそう。父親の介護もそう。そして母親の見守りもそう。ねーちゃんはいつも口先だけ。結局、泣き叫んだもの勝ちだよ。本当はこんな恨みつらみを書きたくないんだが、あんまり溜め込むと、正直メンタルによろしくない。前に進むだけで精一杯なんだよ。今の俺に働くことなんか求めないでくれ!
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