2022年5月2日月曜日

「それから」論ノート(「漱石 その陰翳」 沖積舎 酒井英行 より)

代助の「自然」が、「法律」「世間の掟」に対立するものであることは明白である。社会が社会の保全・存続を図るために、個人の内部欲求の流出の抑止力として法や道徳を造り出しているのだから、自己の内面に絶対性を置く代助が、法や道徳と対立するのは当然である。法・道徳との対立の存在しない、いわば真空状態における個人の生命の要求に従うことが、彼の「自然」である。この時、「自然」は本能に近似してくるようであるが、「良心」の制御を受けている点で、やはり本能の跳梁とは一線を画するものと考えねばなるまい。自己の絶対性を認め、自己の「良心」に誠実であることが、代助の「自然」であると考えられる。しかし、漱石が、代助の「自然」を本能に傾斜する危険性を孕んだものとして描いていることも確認しておく必要がある。(157ページ)こう考えてくると、「再現の昔」は、「自然の昔」ではなく、「何も知らぬ昔」であることが分かる。「自然」の意味は、「何も知らぬ」に変質しているのだ。何が代助に「何も知らぬ昔」への回帰願望を抱かせるのか。(164ページ)平岡はとうとう自分と離れて仕舞った。逢ふたんびに、遠くにいて応対する様な気がする。実を云ふと、平岡ばかりではない。誰に逢っても左んな気がする。現代の社会は孤立した人間の集合体に過ぎなかった。(164ページ)近代的自我に目醒め、客観的規範意識を喪失して、他者からの孤立化が生じたのである。自我意識の跳梁に苦しみ、論理的武装を脱ぎ捨てたくなっているのである。近代的自我に目醒める以前の「何も知らぬ昔」は、自他の間に、和合と信頼のあった安らぎの世界であり、これが、「自由」と「平和」に充ちた「自然の昔」の実体であったのだ。代助の苦悩は、結局、漱石が処女作「吾輩は猫である」以来表白してきた自我意識の苦痛であったのである。(165ページ)近代的自我に目醒めた代助が、信頼と和合に充ちた「幸」を失い、自我意識の跋扈が苦痛になって”それから”以前の「何も知らぬ昔」に回帰しようとしたのが、「それから」である。(166ページ)

6 件のコメント:

  1. もっとも、アドルノが主観と客観との絶対的な分離に敵対的であり、ことにその分離が主観による客観のひそかな支配を秘匿しているような場合にはいっそうそれに敵意を示したとは言っても、それに替える彼の代案は、これら二つの概念の完全な統一だとか、自然のなかでの原初のまどろみへの回帰だとかをもとめるものではなかった。(93ページ) ホーマー的ギリシャの雄大な全体性という若きルカーチの幻想であれ、今や悲劇的にも忘却されてしまっている充実した<存在>というハイデガーの概念であれ、あるいはまた、人類の堕落に先立つ太古においては名前と物とが一致していたというベンヤミンの信念であれ、反省以前の統一を回復しようといういかなる試みにも、アドルノは深い疑念をいだいていた。『主観‐客観』は、完全な現前性の形而上学に対する原‐脱構築主義的と言っていいような軽蔑をこめて、あらゆる遡行的な憧憬に攻撃をくわえている。(94ページ) 言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)

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  2. ある共同体において、共通の神を信じているということが、その成員を共通の成員として成り立たしめるのであれば、その共同体の外部に存在する異質な存在と、その共同体を繋ぐのが、貨幣である。なぜなら、貨幣はある共同体においても、その外部においても通用する、包含関係における共通要素だからである。(荻野昌弘)だからこそ、貨幣は経済の相互依存を通して平和をもたらす可能性を秘めている。(デービッド・ヒューム)しかし、貨幣は、ある社会における間主観性(フッサール)を、他の社会にも押し付ける、侵食するような暴力性も秘めている。ある社会における間主観性とは、例えばミカンをある集合とみなせば、その要素、つまりその集合の要素としての一つ一つのミカンは、何千個、何万個あっても、すべて一つずつミカンとして数えることになる。これは、物心のついていない子供や、狂人以外ならば、その社会の決まりごととして受け入れられるからだ。その一つ一つの計量可能性が、理性の暴力的な側面として現れる。(アドルノ)理性の働きを物心のついていない子供や、狂人と対比させるならば、「オデュッセイア」において、ポリュペーモスの問いに対しウーティス(何者でもない)と答えるのは、自らの自己同一性を偽る狡知であり、セイレーンの性的誘惑から逃れるのも、また理性の狡知である。つまり、人間の理性の狡知は、複数のアイデンティティーを使い分けたり、性的欲望をコントロールする、といった、現代人が社会において暮らすうえで、必要な能力なのである。しかし、アドルノはその理性の狡知に、自己同一性の揺らぎや性的欲動といった、ニーチェ的欲動との相克を見て取るのである。

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  3. うちのねーちゃんは、基本的に自分が損してないかどうかに過敏だけど、つねに自分が損したくないだけ戦略を、他人に見透かされたら、世間からどんな扱いを受けるか、というのは想像に難くないですよね。だから、色んなコミュニティに入ってはみるものの、いつも本性を見抜かれて、結局は排除される。こう考えると、世間と関わるには、独善的な姿勢だけでは上手くいかないことが見て取れる。仮に本心ではなくとも、利他的な行動を取ることも必要だし、世間から愛されたいと思われれば、それなりの自己犠牲だって必要だ。アダム・スミスは、確かに人々が自分の利益を追求することが、社会全体の富を増大させるとは書いているが、むしろ強調しているのは、社会で成功しようと思うならば、他人から憎まれることを避け、愛されることを望むことが必要と説いている。そういう感情、心性が、健全な社会を発展させると説いたのだ。そうであるならば、なぜ経済のグローバル化は、人間の疎外を生み出したのであろうか?人間は、地縁や血縁で結ばれていた社会には、お互いの信用度合いを肌感覚で知っていた。あいつは信用できる、信用できない、等。しかし、経済規模が拡大するにつれ、お互いの信用度合いを肌感覚で知ることは不可能になり、社会的地位や肩書で、信用度合いを判断するようになる。この傾向が更に進むと、人間の信用度合いを、複雑な数理モデルに基づいて数値化するようになる。(井上俊)そこにはもはや肌感覚の信用度合いというものは存在しない。現代の市場型間接金融においては、人間の信用度合いをスコア化して、地球規模の資本市場へアクセスする機会を提供している。そこでは、もはや社会的地位や肩書すらも、信用に足るものではない。単純に、マネーゲームに勝てるかどうかだけが、その人の価値の判断基準となる。これは、世界恐慌直前の戦間期に、ジョン・デューイが、「貨幣文化」と名付け、個性の喪失を嘆いた状況と軌を一にする。なぜなら、この段階ではもはや、その人が社会において愛されるべき存在であるかどうかなど、関係がなくなっているからだ。

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  4. 家族が、資本主義化された社会野全体の部分集合になっていて、社会的な諸人物のイメージが「父―母―子」の三角形に還元される、ということですね。「還元(縮小)される se rabattre」という所がミソです。資本主義社会全体が三者関係によって表象されるわけではなく、その一部だけが家族の中で二次的表象を作り出すわけです。家族は、資本主義機械によって植民地化されているわけで、「父」や「母」は資本主義機械の一部を代理して、「私」を躾け、飼いならすわけです。  「父―母」を「消費する consommer」というのは、家族の中で父や母によって子供としての私の欲望が充足される、ということでしょう。恐らく、社会機械と繋がっている人間の欲望の発展の方向性は元来かなり多様なはずなのだけど、核家族の中で育てられると、それはかなり限定的なものになっていく、ということでしょう。小さい私はもっぱらパパやママから与えられるものを消費する受動的な存在にすぎません。大人になって、「社長―指導者―神父・・・」等の職に就いたら、消費するだけでなくて、自らも生産活動に携わるようになるので、社会体に対して能動的に働きかけ、自己の欲望の回路を拡大できるようになるかと言えば、そうはいかない。子供の時に教えられたように消費しようとする。それが、エディプス三角形の中での「去勢」でしょう。 ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義 p.300~301 作品社 仲正昌樹

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  5. 多くの東京市民は、こうした嫌悪すべき「目下の日本」に生きている。「平岡もその一人であった」と言う。ここで働いているのは、代助の美意識である。代助のこうした感性は、いったい何を基準として生まれるのだろうか。それは明治の一代目である父の家、すなわち青山にある代助の実家をおいてほかにはない。代助の感性には、まちがいなく長井家の財産(アレントが言う意味での財産)が組み込まれている。代助の審美眼は、長井家が近代という時代に合わせて形作ったハビトゥスだったのだ。若き日の代助が三千代の趣味の教育形だったことを考えれば、代助を誘う三千代のやり方も長井家の財産が育てたのである。それが「家」に関わって「孤立感」を語った理由だろう。これはほんの一例にすぎない。代助は、彼と同じ階層に属する「明治の二代目」とつき合ってもいないようだ。だとすれば、先に引用した一節にある「誰に逢っても」の「誰」には、おそらく「明治の二代目」は含まれていない。明治の一代目から引き継いだ「ブルジョワジー」としての階層意識は、代助にしっかり内面化されているのだ。しかしい、代助自身はそれを高級な美意識の持ち主としては意識しているが、階層意識としては十分に意識していないようだ。言い換えれば、代助の高級な美意識が、内面化された階級意識に目隠しをしているのである。(漱石と日本の近代(上)新潮社 石原千秋)

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  6. ◆酒井先生の「それから」論――とりわけ引用の一節は、作中、食い違いを見せる2つの「自然」について明快な論理的説明を付した論として価値の高いものと思います。

    ただ、拝読するたびにどうしてもストンと落ち切らぬものがあるので、今回、少し立ち止まって考えてみました。

    たぶん、作品自体の論理的展開が明快にクローズアップされたのと引き換えに、「自然」概念が後景化している、のだと思います。

    作中、最も本能的欲望的なものに傾斜して倫理と対立する「自然」(=「何も知らぬ昔」と対立する自然)に重点が置かれ、そのため、クライマックス(百合の場面)の「再現の昔」と対立するどころか重ね合されることになる「自然の昔」について、自然の「変質」を指摘するに留まる、という論展開となっているのですが、「自然」の比重は逆、ではないか、と。

    実は、酒井先生は、後者の「自然」についても、いったんは西田哲学の例の「主客合一」を参照枠として提示しておられるのですが、その上で両者の相違――「自然の昔」には西田的「知情意の合一」はなく「情」しかない、と結論しておられます。

    ここが、逆では、と思われるのです。

    代助が作品展開に従って三千代に対してしだいに気付いてゆく「自然の愛(=作中「誠の愛」とも呼ばれる)」は、(たとえ今日では通説となっているホモソーシャルな平岡への嫉妬に媒介されたものであるにせよ)、代助「本来」の最も自然な――一切の顧慮を忘れたおのずからなところに発するもの、として感じられています。

    実は酒井論は、充分、この点にも触れてはいるのですが、この代助本来の在り方を「自意識」や「本能的欲求」に引き付けて考えておられるようです。しかし、この自ずから内側から湧き上がってくるような<自然=誠>の愛とは、むしろ自意識が抑圧し、蓋をした感覚や感情の自然な流露、ではないか、と。いうまでもなく、代助が三千代を平岡に譲ってから3年このかた、密かに営んできた「自家特有=水底の世界」です。プライドや男同士の義侠的友情(=恋譲り)、その裏側には初めての異性への身体的欲望への戸惑いと忌避。これら自意識や本能的欲求をシャットアウトするべく、まさに水面下の非現実的夢想的時空(=「青の世界」)において、花々と洋書と乙女時代の三千代の写真に囲まれて、代助は最も本来の自分に忠実な、しかしながら完全に現実と他者を欠いた3年間を生きてきた。

    いうまでもなく、ここに不幸になった三千代が再登場し、純粋であると同時に他者を排した独りよがりな<自然=誠>は、<金銭・性>に彩られた欲望的現実(=赤の世界)とまみえ、それにまみれ、試練に曝される。その極限が「何も知らぬ・昔」と対立せざるをえない欲望や性欲も内包した<自然>です。

    このように考えれば、以上の経緯を経た後に「白百合」と共に出現するクライマックスの「幸(ブリス)」としての<自然>が、代助本来・特有の<水底の世界>の再現、とは言わずとも、通底性を持った自然であることが首肯されます。ここでの<自然>が「雲の様な自由」と併せて「水の如き自然」と呼ばれるのはそのためでしょう。もちろん、この<自然>には今・現在の愛を確認しあった三千代が含まれています。但し、すでに懐かしい白百合を携えて現われ、あるいは鉢植えの水を飲みほしてみせる三千代は、代助の夢とうつつのあわいのような午睡の世界に自由に出入する花の精、水の女として代助と一体化し始めている。前出の「何も知らぬ・昔」が、頂点に庇護者としての三千代の兄を頂いての4~5年前という現実の時空を具体的に指すものであるのに対して、ここに出現する「再現の・昔」は、まさに「再」現――過去が過去そのものから更に昇華された時空ではないか。それを代助は「自然の・昔」と呼ぶわけです。

    この三千代との一体感は、「情」だけ、の一体感でないどころか、「知情意の合一」といった理屈の説明にもなじまず、意識の零度における「自」も「他」もない融合感、のようなものに近いのではないでしょうか。

    漱石の<自然>といえば、柄谷行人の有名な漱石論「意識と自然」(『畏怖する人間』)が定番、ですが、酒井先生も引用しておられる西田論と併せ、若い日の漱石のワーズワスと老師への傾斜に焦点化したドイツ文学者の高橋英夫の「漱石と「「自然」」(『文学界』19896~7月号)が、漱石的自然における融合感をよく説明していると思います。



    ◆批判①―アドルノの「主観―客観」

    代助における自他一体の融合感、をいえば、次に来るのは、やはりアドルノの主客合一への厳しい批判、ですね。

    小林君に教えてもらった「理性の暴力」――主観と客観の区別が、たとえ「疎外」をもたらすとしても、それを代償とした「反省」の力を尊しとする…

    ただ、その折にも記したように、三千代が去った後の夕暮れ、庭に出て百合の花弁をまき散らして憮然とする代助は、クライマックスの融合的境地を得るための跳躍版として、百合の香という官能の力に預かったことをよく自覚もしています。

    行く雲、流れる水のような融合感に満ちた<自然>は一回きりのものとして、次作『門』の姦通における<自然>は、まさに酒井先生の指摘しておられる欲望を内包した<自然>です。



    ◆批判②―石原氏のハビトゥス論

    石原氏の挙げる代助のみずから自負する高級な「審美感」とは、まさに上述の<水底の世界>を構成する感受性の謂いです。

    したがって、代助が追究する<自然>そのものが、「士族」という特権階級に許され、そこで培わされた「階級意識」の産物に他ならない――この痛烈な批判(代助的自然の相対化)も、当然、免れることはできません。

    それは言い換えれば、士族という特権階級に刻印された<男性中心主義>も免れない、ということだと思われます。

    上述した代助における三千代の処理が、「愛」の名を借りた女性の客体化であることは、言を俟ちません。

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妄想卒論その7 (再掲)

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