日本近現代史(季武嘉也先生よりご回答)
質問:福沢諭吉は、「太平無事の天下に、政治上の喧嘩をして居ると云ふ。サア分からない。コリャ大変なことだ」と「福翁自伝」で述べていますが、大久保利通が明治天皇に対して、政治は「天下万民ご尤も」と思われるようでなければならない、と語ったと述べています。日本近現代史の初学者としては、明治というと、つい明治天皇が絶対的な権威であり、その権威の御旗のもとで、具体的な一般意志が成立していたように考えがちですが、「日本近現代史」の授業を受けていると、実際には民意を吸い上げる政党があり、また、必ずしも明治維新以後すぐに日本が富国強兵に邁進したとは一面的に言えない様相が確認されます。これはまさに、福沢諭吉が述べたように、明治日本の方向性が一方向に邁進したというよりは、多元的な方向性の中で、相反する政論を、苦心しながら政党政治にまとめ上げる、という難事業を行っていた、と言えると思われます。 そうであるならば、我々が現代から振り返って、明治の時代は、明治天皇の絶対性に基づいて、具体的な一般意志を実現していた、というのは、フィクションであるのではないか?とも思われるのです。 松本清張の「象徴の設計」によれば、山県有朋が、軍人勅諭によって天皇の権威を絶対のものとして、軍人を訓育するのに腐心する様が描かれていますが、明治天皇による軍事演習の総覧や、鉄道による行幸などの空間的、時間的な支配による権威付けが、再帰的に明治天皇に権威を付与していた側面もあるのではないでしょうか? それは、日清戦争、日露戦争に勝利した後、特に日露戦争での夥しい数の死者に対する、国民の負債観念や、明治天皇崩御に際しての乃木希典の自刃、また、夏目漱石の「こころ」における「明治という時代に殉死」する、という言葉にあるように、むしろ明治天皇の権威は、崩御の後になってから追憶の呪縛として高められた、という側面があると思われるのですが、この点についてお考えをお聞かせいただければ幸いです。 回答:ご質問ありがとうございます。まず、福沢が言っていることは、政治の方向性を決めるために「議論」し「多数決」をすることに驚いた、ということです。ご質問の中で「一般意志」という言葉がありますが、当時の日本人には「議論」「多数決」で「一般意志」を決めることが理解できなかったということです。 次に、明治時代が明治天皇の絶対性に基づいて「一般...