2025年2月28日金曜日
10円?!
寝るときくらいは
ちゃんと寝よう、と
思って、
また
クエチアピンを
処方してもらって来た。
せっかく
処方してもらったのに、
気づいたら
椅子に座ったまま
寝てしまったが。
それはともかく、
処方箋を渡されて
会計するときに、
我が耳を疑った。
なんと、10円!!!
毎回
診療費が変わる
ナゾのシステムなのだが、
自立支援とやらで、
毎回
超格安料金で
済んでいるのだが、
さすがに
今日はビックリした。
しかも、処方箋が10円で、
薬代は、なんとタダ!!!!!!
信じられない。
もちろん毎回こんな
感じという訳ではないが、
我ながら
すげえ病気になったもんだな、と
ビックリする。
トシ喰ったな。。。
今日で
科目登録
期間
終了です。
色々
さんざん
プランを考えましたが、
結局
超おとなしめの
ラインナップになりそうです。
まだ
クローズするまで
わかりませんが。
うーん、
なんていうか、年齢を感じるよね。
自分自身の。
ちょっと
遠いけど攻めてみようかな、と
思っても、
何回か行ったことがあって、
金銭的にも体力的にも
イケないことはない、と
思っても、
ズシッと
来るよね。
心臓に。
ああ、こりゃキツいわ。
と
体感でわかる。
髪の毛にも
だいぶ
白髪が交じるように
なってきたし、もう
正真正銘のオジサンだわ。
2025年2月27日木曜日
オンライン読書会ー『メノン』ー
茨城大学の渡辺邦夫先生が
このたび
光文社古典新訳文庫から
「メノン」の
新訳を
上梓されたとのことで、
渡辺先生から
オンライン読書会に
お誘いいただき、
19:00から20:30
の間
パソコンと睨めっこ
していました。
難しい
古代ギリシャの道徳哲学を、
じつに
わかりやすく解説くださる先生で、
ああ、こんな
素晴らしい先生が
茨城大学で
ずーっと
教鞭を執っておられたんだなー、と
感嘆の念を禁じえません。
茨城大学って
ぶっちゃけ
影が薄いけど、
ほんとに
いい大学だと
思いますよ。
特に
人文・社会科学系にとっては。
あんないい大学は
なかなかない。
オンライン読書会という形式は
初めてなので、
かなり
緊張した。
対面のほうが
よっぽど楽。
オンライン読書会という形式ですが、
面接授業ではないので、
「メノン」の
要点を
噛み砕いて、ポイントを
押さえる、といった感じでした。
授業というより、まさに
対話、という体でした。
ちょっと今
疲れて寝てしまって、
目が醒めたところなので、
目がハッキリしないので、
調子のいい時に
読んでみよう。
そんなに厚い本ではないです。
・・・少しかじり始めたら、
面白くて
第50ページまでは読んだ。
ソクラテスとアリストテレスは
やったから、プラトンはいいかな?
などと
思っていたが、とんでもない!
プラトンはプラトンで
超超重要人物だ、ということが
見えてきました。
・・・明け方の
午前06:30頃です。
結局なんだかんだで
第1章
読み終えました。
これからどんな展開になっていくのか、
楽しみです。
昨晩の
オンライン読書会で
ポイントは教えていただいているので、
その点は安心ですが、
果たして
ソクラテス(=プラトン)が
どういう
論理展開をしてくのか、
まったく読めません。
・・・いま昼の12:50頃です。
第2章は
かなり読みやすかった、というか、
少年に対する
(たぶん)
初歩的な幾何学の問題の話
だったので、
読み飛ばしながらでも、
ソクラテス(=プラトン)
が何を言いたいかは
理解できた。
・・・3月1日
午前00:30頃です。
第3章を読み終えました。
「徳(アレテー)」とは何か?
について、バァーン!
と
提示するわけでは決してないですが、
ソクラテス(=プラトン)の
言いたいことは
だいぶ伝わって来ます。
・・・いま3月1日土曜日の
午後16:55頃です。
第4章、アニュトスとの対話は、
最後の最後に
アリストテレス(=プラトン)が
「徳は教えられないものだ。」と
言わせたいだけだったようなので、
そこまでの
内容は
ほとんど読み飛ばした。
残るは
第5章のみ。
・・・3月1日
土曜日。
午後18:55頃です。
本論はすべて読了。
西洋政治哲学が、
ハイデガー、アーレントやフーコーを経由して
ふたたび
ソクラテスに回帰する
ダイナミックな躍動を感じました。
二枚目の写真は、
「ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学」で
使った
「ソクラテスの弁明」
です。
プチバブル発生中@高崎
今月いっぱい
科目登録期間ですが、
東京文京キャンパス@茗荷谷
の
面接授業を
取ろうとすると、
どうしても
都心の
東横インを
今から
予約しないと
埋まっちゃう、というか
もう
埋まってるんですが、
以前と比べると、すげえ
高いから、
友達に
都心の東横インすげえ
高いんだけど、と言ったら、
ビジネスマンが出張でも
ビジネスホテル使えない
(一般論として)
と
言うから、え、じゃあ
ビジネスマンが
東京に出張に来る時は
どこに
泊まってるの?と
聞いたら、
漫画喫茶とかカプセルホテルに
泊まる、と
言っていました。
(これも一般論)
ぶったまげたね。
そりゃあ
東京でマンション買えないから
高崎とか、
前橋の駅前に
デカいマンション建つわな、と
思いました。
円安の影響なのかなんなのか
知りませんが、
東京という街が
あんまり良くないほうに
どんどん変わっていく感じがします。
若い頃に
東京の学校で
学べたのは、今となっては
ものすごく
貴重な財産だと
心底
思います。
どこかで不動産バブルが
始まる時って、
特に
マンションとか
早いもの勝ちみたいなところ
あるじゃないですか。
そうすると、
価格が高騰する前に
なるべく早く
購入したい、という
消費者の心理と、それを
見越して
不動産会社が
いち早く
いい条件で、まだ
地価がそれほど
上がってない
土地を買い求める、ということに
なりますよね。
そんで、不動産て、特に
マンションなんて、もちろん
莫大な投資が必要だし、
完成するまでにも
かなり時間がかかるから、
余計
我先に、という
シチュエーションになりますよね。
そうすると、
消費者心理と不動産会社の心理が
相俟って
不動産バブルが発生するのも
当然だろうな、という
気がします。
放送大学「現代の国際政治」第5回 まとめ (再掲)
あ〜あ、思い出せるだけ〜思い出して、あそびたぁぁぁぁい! てなわけで、 放送大学「現代の国際政治」第5回の放送授業内容を、出来る限り思い出しながら、要点をまとめてみたいと思います。 まず、第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。 ま、こんなとこかな。 地域間経済協定については割愛した。 https://www.homemate-research.com/useful/18249_shopp_010/
2025年2月26日水曜日
韓国語学習は1日にしてならず
語研て、かなり
マイナーな
出版社だけど、
たまに
すげえ
いい本出すよね。
ボキャビル自体は
韓国語能力試験中級レベルだったら
ほぼほぼ
出来てるっぽいんだけど、
知ってる単語でも、
音声を聴いてから
頭の中で
ただしい
イメージが湧くまでの
反応スピードをあげないと、
まだ
韓国語能力試験中級レベルは
攻略できないみたいなので、
買いました。
音声を
パソコンにダウンロードできるのも
嬉しい。
かなり
本格的。
それでいて、
バカ高くない。
税抜き
2,600円。
ちょっと時間のある時に
少しずつ
かじってみよう。
今はまだ
科目登録期間が
今月いっぱい終わるまでは、
余裕がない。
・・・ちょっと
かじってみた。
うん。
素晴らしい。
適度な難易度で、
音声も速すぎなくて、
萎えない。
しばらく受験してないから、
実際の音声よりかは
遅いかも知れないが、
まだ
未熟な学習者としては、
ありがたい。
これは力がつきそうだ♬
変な
チャラさがないのも
素晴らしい。
・・・おお。
これはほんとに
凄い本だぞ。
韓国語能力試験2の
聞き取りに特化した本で、
このクオリティーの本は
今までなかった。
ほんとうに素晴らしい。
・・・おはようございます!
あらためて聴いてみると、
ほんとに余す所なく
食べられる。
正解したところほど、
むしろ
御座なりにしていた
箇所があったので、
今朝はそこを
重点的に押さえた。
いやー、これ一冊やれば、
日常会話でほぼ
困らないくらいの
実力がつくね。
ほんと素晴らしいわ。
困ったねえ・・・
見るんだよね・・・
悪夢。
クエチアピン飲んでても。
飲まないよりかは
マシなんだろうけど。
寝る前に
水分摂りすぎなのかな?
でも、いつ
眠くなるか
わかんないからね。
俺は
一体なんの
コンプレックスを抱えている
んだろうか?
まあ、心当たりが
ないわけじゃないが、
自分でどうこう
できる話ではない。
相手の気持ちひとつだ。
だから
困るんだけどね。
拷問だよ。
これ。
俺そんなに
悪いことしたかな?
なんの
天罰なんだよ?
昨日たまたま
デブ御用達の
C-PAPの
機械、使ってないから
料金支払いと
使用解除を
申し出に
循環器の
クリニックに行ったから、
ついでに
脈と血圧を診てもらったが、
まったく
異常なし。
やんなっちゃうね、まったく。
自分でどうこう
できることなら
どうにかしようが
あるが、
自分じゃどうにも
出来ないことで
日々
責め苦に
遭うなんて、
理不尽だぜ。
まあ、人生そんなもんだ。
2025年2月25日火曜日
近代日本経済史@北九州サテライト レポート (再掲)
確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。
2025年2月24日月曜日
まだマシなレポートネタ
近代化・文明化の過程で社会的に周辺化された人々の意識は、社会秩序からの抑圧により、深層意識に抑圧された負のエネルギーを蓄積する。このエネルギーは、社会の矛盾や不正義に対して、時には世界を根底から覆しかねないほどの潜在的な力を秘めている。 社会的に周辺化された人々とは、具体的には、身体的、精神的、あるいは社会的な理由で「疎外」された人々を指す。例えば、身体的な障害を持つ人々、精神的な問題を抱える人々、あるいは社会的な偏見や差別に苦しむ人々などが挙げられる。これらの人々は、社会の主流から外れ、しばしば自己の存在意義や価値を見失いがちになる。 しかし、このような状況下でも、彼らの意識は社会との相互作用を通じて、特有のエネルギーを蓄積する。社会的な疎外や抑圧は、彼らにとって否定的な経験ではあるが、同時に社会の現実を深く洞察する機会ともなる。彼らは、社会の矛盾や不正義を敏感に感じ取り、それに対する抵抗や変革への願望を内面に育む。 このような意識は、日常生活の中では必ずしも表面化しない。社会的な規範や圧力の下で、彼らは自己の感情や思考を抑制し、社会的な役割を演じることに努める。しかし、深層心理では、抑圧された感情や思考がエネルギーとして蓄積され、それが時には夢や芸術、あるいは社会的な抗議活動として表出することがある。 重要なのは、このエネルギーが単なる否定的な感情や思考の集積ではなく、社会変革の潜在的な力となり得る点である。社会的に周辺化された人々の意識は、社会の主流とは異なる視点や価値観を提供し、社会全体の意識を豊かにする可能性がある。彼らが自己の経験を通じて得た洞察や感情は、社会の多様性を促進し、より包括的で公正な社会の実現に貢献するかもしれない。 例えば、芸術や文学の世界では、社会的に周辺化された人々の視点から生まれた作品が、社会に新たな光を投げかけることがある。彼らの作品は、社会の暗部や矛盾を浮き彫りにし、見る者に新たな気づきや感情を喚起する。また、社会運動や政治の分野でも、彼らの声は社会変革の原動力となり得る。社会的に疎外された人々が自己の権利や尊厳を主張する時、それは社会全体の意識を高め、より公正な社会の実現に向けた動きを加速させる。 このように、社会的に周辺化された人々の意識は、社会の深層に蓄積されたエネルギーであり、時には社会を根底から覆しかねないほどの力を持つ。このエネルギーは、社会の矛盾や不正義に対する抵抗の源泉となり、社会変革の潜在的な力となる。したがって、彼らの意識を理解し、その声を社会に反映させることは、より公正で包括的な社会を築く上で不可欠である。
2025年2月23日日曜日
<近代>と周縁化 (再掲)
後期資本主義批判を アドルノから荻野先生の社会学、 ゲーテを経て 漱石まで展開した動画を有り難う。 アドルノの後期資本主義批判は しばしば読ませてもらっていたところですが、 今回は 荻野氏の「詐欺」論へ 連接させることで、 論がひときわ具体性を増し、 鮮やかな像を結んだように思います。 不確定性に賭ける「詐欺師」とは、 計量と数値化を旨とする 近代合理主義社会の、 いわば虚をつく存在。 資本主義社会の到達点ともいえる 「管理社会」への 批判的メタファーなのですね。 それが足を置く場は、 まさに 資本主義社会の 「市場」の余白とでも表すべき領域。 とすれば、小林くん講話の 後半部のキーワードともいうべき 「自然」が、 まさに 商品の 等価交換から成り立つ 「市場」の〈外部〉であることと きれいに響き合っていることに、 つくづく感心しました。 そして、近代作家とは、 まさにその〈疎外〉感を以て、 同じく 近代が周縁化してしまった 〈自然〉 へ魅かれ、耽溺する者であるわけですね。 日本近代の場合、 より〈自然〉に親和的なのが自然主義作家で、 これをまさに 〈じねん〉 にみられるような 概念化への苦闘を経ることで、 欲望的な世界から 帰還してくるのが漱石、 ということになるでしょうか。 「ファウスト」こそ詐欺師では、 との小林くんの呟きにクスリとしながら つい頷いてもいるのですが、 その葛藤が 〈魂の救済〉 なるもので終結するのは、 やはりなんといっても キリスト教文化圏ならではの展開でしょう。 かの有名な 「疾風怒濤」期に 端的に現れる ゲーテの自然観 (近代的「自然」の発見)は、 日本の場合、 漱石よりも、北村透谷を経た 自然主義文学への影響の方が大きそうです。 いささか余談ですが、 ゲーテも、漱石も、そして ほとんどすべての男性・近代作家の描く異性愛の対象 ーー 〈女性〉 もまた 〈近代〉 が周縁化した存在なので、 なるほどテクストというものは 論理的かつ時代精神を おのずから反映したものだ、 と改めてつくづく納得した次第です。 いつものことながら、感謝です。誠に有り難う。 今回、頂戴した小林くん講話に これまで頂戴している 論考から得た知識を総合すれば、 資本主義-市民社会がもたらす 疎外、物象化に対する 苦悩という名の 徹底的相対化、 これこそが 漱石の文明批評の基盤であることが、 まさに 鮮明に図式化されて見えてくる感じです。 今回は 「ブログのハッシュタグ参照」とのことで、 アドルノとの関係への言及は省略されていましたが、 ここから展開してゆくのが、 何度か拝見させてもらった、 アドルノを援用した小林くんの 「それから」 論ですね。 主客分離から生じる疎外を批判し、 人間の自然 および身体の抑圧を論じながら、 原初的まどろみへの回帰は 徹底的に封じた アドルノの論理展開が、 何と代助の解読に有効であるか、 は、つねづね痛感するところです。
秘蔵しておくのも勿体ないので。ー泉鏡花論ー 私信
鏡花は文学史的には、
まずは「観念小説」に分類されるのでしたよね。
明治も半ばを過ぎて、
まさに資本主義の
合理主義、功利主義が
体制化されてゆく中で、
金銭や身分違い、
それをめぐって
掻き立てられる
欲望が
悲劇を招いてゆく
人間ドラマを、
しかしながら
自然主義的なドロドロした
醜悪な現実を
剔抉する手法とは異なって、
華麗な筆捌きで、
哀切感溢れる
昇華された人情の物語へ
仕立て上げているのが特徴、
といえばよいでしょうか。
(なにしろ鏡花は、
あの絢爛豪華な文体で
明治の人情世態を描いた
尾崎紅葉に入門したこともありました。)
特に
「夜行巡査」
「外科室」
などは、
社会の暗黒面
ーーいわば社会による疎外という
テーマ性を有している点で
「観念小説」と呼ばれ、
このジャンルの代表作でもありますが、
上述のような
文体と作法を特質とするため、
小林くんの感じている
怪奇性やロマンティズムは
遺憾なく発揮されています。
この点を
より発展させた大きな作品が、
『高野聖』『草迷宮』『夜叉が池』などで、
ここまでくれば
耽美的な「幻想文学」と称しても良いのでは、と。
「幻想」
は
もちろん
人間の深層意識と不可分なので、
精神分析の手法を使いたくなるところです。
けっして
鏡花に詳しくはないので、
大きなことは言えないのですが、
とりわけ『高野聖』は、
人間が社会秩序に拘束され、
抑圧し続けている
「深層意識」を着眼点に、
日常
ー表層意識 対 非日常ー
深層意識
を機軸にして作品を読み解けば、
まさにテクストの
網目のようなものが
鮮明に見えてくる作品ではないかと思われます。
後には高僧となったという
若い日の「宗朝」が、
ふとしたことから迷い込んで、
一夜の宿りを求めた山中の一軒家は、
修行僧の日常が
抑圧してきた
彼の深層世界の現れ、
とでも言えそうです。
処女のような羞らいを見せるかと思えば
エロティックな姐御の風貌も見せる
不思議な美女、
取り巻く猿や蟇の魑魅魍魎たち、
下僕のようでありながら
監視者でもあるような
「親仁」、
そして
心身の機能を奪われながら、
美女に
かしずかれて
天上の声のような
清澄な唄声を響かせる
「白痴」。
お膳立ては十分、といった感じです。
そして、
この「白痴」を基点に、
この魑魅魍魎の山中の世界とは、
実は
近代国家によって
損傷され、周縁化された者たち
ーー治療の過誤で不具にされてしまった者、
人間によって疎外された
動物たちこそが王座を占める、
日常の現実を反転させた
〈さかしまの世界〉
ではないか、と考えた時、
『高野聖』は、
単なる精神分析の対象を超えた、
一つの世界像として
見事に立ち上がってくるように思われます。
抑圧された者たちの、
いわば撓められた負のエネルギーが
一気に噴き出して
世界を反転させる時、
新たな世界の頂点は、
それまで最も抑圧されていた者たちによって
占められる‥。
ましてや、
上述のように
きわめて両儀的な風貌を
見せる美しい女は、
名医とは名ばかりで
正しい医療知識とは無縁で、
今の「白痴」
ーー五体満足な少年の日の彼を
心身の機能の癒えた
「白痴」にしてしまった
藪医者の一人娘であったとなれば、
貧富や貴賤という
現実社会の権力関係が
反転した世界に於いては、
彼女は被害者
「白痴」
への人身御供的なポジションに
あるのではないかといった
見立ても可能になってきます。
このように
山中一軒家の世界を、
近代化・文明化の過程で
抑圧されたものたちが徘徊する、
つまりはフロイド的な
「不気味なもの」
が何らかの機縁を以て
回帰してきた空間として、
明快かつ精密に読み解いた見事な論考に、
堀井一魔氏の
「国民の分身像ー泉鏡花「高野聖」における不気味なもの」
(『国民国家と不気味なものー日露戦後文学の〈うち〉なる他者像』、新曜社)
があります。
レポートネタ ー元ネタ:妄想卒論その7ー (再掲)
2011年の「ウォール街を占拠せよ」
運動に端を発する
反格差デモは世界中に広がり、
格差拡大の加速を象徴した。
アメリカでは、
上位10%の所得層が
2021年に総所得の46%を
占めるまでになった。
これは
1920年代に匹敵する
富の集中であり、
当時の
革命運動の再来を想起させる。
共産主義は、私有財産を奪う
究極の反格差運動と言える。
1917年のロシア革命後、
第3インターナショナルが設立され、
反資本主義の機運が高まった。
当時のグローバル化は
ロシアにも経済成長をもたらしたが、
格差を拡大させ、
日露戦争や第一次世界大戦による
困窮も重なり、革命へと繋がった。
ソ連成立後、
富の集中度は大幅に低下した。
現代では、
ポピュリズムが
人々の怒りの受け皿となっている。
トランプ大統領やオルバン首相のように、
国際協調に背を向ける姿勢が
支持を集めている。
人々が刹那的な主張になびくのは、
他者への信頼が
失われているからだ。
世界価値観調査では、
北欧諸国に比べて
アメリカや日本では
他者への信頼度が低い。
信用は本来、
合理的な裏付けを超えるものであり、
リスクを伴う。
資本主義の発達により、
血縁や地縁の関係が希薄化し、リスクが増大したため、
契約の発達や信用の合理化が進んだ。
しかし、
信用の合理化が進みすぎると、
客観的な指標で算定された信用こそが
全てであるかのような
逆転現象が起こる。
ポピュリズム政党は、
既成政治を一部の特権階級の
占有物として描き、
大衆の声を代表する存在として
現れる。
グローバル化は、
一部の富裕層に富を集中させる一方で、
不安定雇用を増大させ、
新たな下層階級を生み出している。
富が集中するほど
他者への信頼が下がり、
「フェアネス指数」が低下し、
ポピュリズムに翻弄されやすくなる。
グローバル化は世界の富を拡大したが、
分配の偏りを生み出した。
日本でも新自由主義的な政策により
格差が拡大している。
大企業は
グローバル展開と
国内労働条件の引き下げにより
利潤を増加させてきたが、
その利潤は
再びグローバル投資に振り向けられ、
株主配分に重点を置いた
利益処分が強まり、
所得格差を拡大させている。
経済的に恵まれない層は、
ワーキングプアとも言われる状況で
アイデンティティーを脅かされている。
旧来の中間層が
貧困層と同じ境遇に置かれることは屈辱であり、
生活苦も重なる。
過剰な同調圧力の中で、
人々は民族の
「本来性」
を求め、
排外主義的な傾向を強める。
グローバル化による
均質化、画一化が進むにつれて、
反動として
民族主義的な傾向が現れるのは
必然的なのかもしれない。
資本主義が高度に発展し、
物象化が進み、疎外が深刻になるほど、
人々は本来性を追求する。
社会が体系化され、
個人が歯車と化したとき、
人々は精神的な領域に救いを求め、
ヒエラルキーに組み込まれることに慰めを見出す。
ポピュリズムは、
現代のデモクラシーが抱える
矛盾を露呈させた。
多くの人々は
ポピュリズムを歓迎しないが、
その指摘に内心頷いている。
快晴の空。まだ寒い。
クエチアピン
なんだかんだで
6日連続
飲んでるけど、
うん。
いい薬だと
思いますよ。
最初は
ぼーっと
し過ぎちゃって、
ちょっと
まずいかな?
と
思ったけど、
またぞろ
姉のことで
頭の中が
嵐になってる時でも、
しっかり
睡眠中は
そういうことを
考えずに
ぐっすり眠れる。
もちろん、
朝起きた時に、
ドキドキしてたり、なんてこともない。
これはいいわ。
夢も、見ないことはない。
色々
抱え込んじゃって、
寝てる間にも
脳が過活性な状態で
朝起きた時に
心臓バクバクなんてことが
ザラにある
自分には
もってこい。
2025年2月21日金曜日
たぶん
思うに、
俺は
調子に乗っていたんだ。
折に触れて
あの
政治学入門@三島の
レポートは
やっぱり
ああいう内容に
なるのが
必然だ、とは
思うが、
しかし、
俺は
この世の中の
政治・経済を
すべて
語ろうとした、あるいは
語った気になっていた。
その
内容の適否は
ともかく、
それは
少なくとも
現時点では
奢りだったのだ。
もう
これ以上
このテーマについて
掘り下げるような
余力は
残っていないし、
出し尽くした。
それ自体
幸せなことだ。
自分のすべてを
出し尽くした
成果を、
専門家に評価してもらえる、ということ
自体が、
この上なく
贅沢なことだ。
だから、そのこと自体で
満足するべきだし、
鼻っ柱を折られている
ぐらいで
ちょうど良いのだろう。
山岡ショック
先週の木曜日に
放送大学の成績が
公開されて、
山岡龍一先生の
政治学入門@三島の
単位落としてるのが
わかったんだけど、
やっぱり
それが
ショックだったんだね。
ようやく
立ち直ったぜ。
長いようだったけど、
過ぎてみれば
たったの一週間か。
2025年2月20日木曜日
一歩退く
テンションはあがってるけど、
やっぱり
遠方まで行って
慣れないことをすると、
マジで
心臓か脳が
やられる危険性が
あるので、
大人しめの
計画で
行こうと思います。
科目登録は
今月いっぱいだけど、
この
期間はいつも
どういうラインナップを
組むかで悩む。
暇なようで
忙しい
春休み。
2025年2月18日火曜日
「はじめてのウィトゲンシュタイン」 古田徹也 NHK出版 ーネット時代だからこそ、言葉の使い方には気をつけるべきだー
「肝心なのは、像とは、物事の見方や活動の
仕方を曖昧に
ーつまり、多様な仕方で、
あるいは
未確定な仕方でー
方向づけるものだという
ことである。
まして、
像がそれ自体で
何ごとか意味のある内容を
主張しているわけではない。
にもかかわらず、人は
しばしば、
『人間の行動は
自然法則に支配
されている』
とか
『人間の行動は
石の落下や
天体の運行のようなものだ』
などという
記号列を口にし、
その際
何らかの
像を抱くだけで
満足してしまう。
なぜなら、
そうした記号列
によって
喚起される像が
意味ありげ
だからだ。
もう少し正確に言えば、
その像が
何かしら意味のある
主張内容を示唆するからだ。
しかし、
それだけなのだ。
像はそれ自体としては、
人間の行動を
どのように見るか、
人間の行動に対して
どのような探究や活動を
行っていくか、
その方向性を
大雑把に示すだけなのである。」
136ページより引用
統計に騙されないために
昨日の日経新聞の
コラム(?)で、
要するに
大卒のほうが
教育費込みで
考えても
コスパいい、みたいな
ことを
東北大学の
教授が
書いていたが、
そりゃあそうだろうよ。
そもそも
日本の社会全体が
特に
就職において
高卒より大卒を
優遇するように
出来てんだから。
と、いうか
それ以前の話として、
頭くるから
あまり
真面目に読めないが、
どういうデータの取り方を
したのかは
よく分からないが、
そもそもの
データの取り方として、
大卒で
ちゃんと就職して
定年まで働いた人を
前提として
調査しているフシがある。
大学に行って、
環境に適応できずに
かえって
俺みたいに
働けなくなった
人間を
最初から
データから外している
(ように見える)。
そりゃあ、大卒のほうが
コスパよく見えるだろうよ。
っていうか、それ以前の話として、
大学で勉強することの価値を
すべてとは言わないが、
金銭的価値に置き換えよう、
という
発想が気に入らない。
それはともかく、
データの取り方の恣意性には
よほど
注意しないといけない。
自分はもちろん
統計学に詳しいわけではないが、
データに
騙されないために
気をつけなければいけない
注意点を、
わかりやすく解説した
本として、
ちくま新書の
「ニュースの数字をどう読むか
ー統計にだまされないための22章」
を
挙げておきます。
クエチアピン
すげえ効く。
依存とかになっちゃう人には
ヤバいと思うけど、
自分には、
3週間に1錠くらい
飲めば、
温泉とかに行くより
はるかに
脳の疲れが
取れる。
これだけ良いものを
当然
合法的に
入手できるってのは
正直
助かる。
しかし、それだけ
強い薬なので、
依存とかになっちゃう人には
お勧めしない。
すげえTOEICっぽい。
朝の08:00頃。
ようやく
薬が抜けた。
他にやることもないし、
置き去りにしていた
TEX加藤さんの
TOEIC本を
再開。
やっぱ
TEX加藤さんは
すげえわ。
引っ掛け方が
すげえ
TOEICっぽい
気がする。
基本的な単語の
語法でも、へえー
この単語
自動詞でも使えるんだー、とか
新たな発見がある。
これ1冊やったら、かなり
力がつきそう♪
2025年2月17日月曜日
新しく薬を処方してもらってきました。
クエチアピンなる薬です。
主治医は
あんまり出したくなさそうだったけど。
依存性があるとかで。
だが、それを言ったら
デパスも
20年以上飲んでるが、
依存てことはない。
(と思う。)
他には
アキネトンさんと
リスペリドンくんを
デパスちゃんと
セットで
ずーっと飲んでる。
さて、
早く眠くなって、一度
見せてもらおうか、
クエチアピンとやらの
性能を。
誠に汝らに告ぐ、一粒の麦、地に落ちて死なずば、 唯一つにて在りなん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。 ヨハネ伝第十二章第二十四節
エコノミクストレンドで
小林慶一郎さんが
書いてたけど、
正確ではないが、
ISバランスで
自分なりに解釈すると、
政府が支出を減らして、
そのぶん
企業が投資を増やせば、
経済も活性化するし、
必ずしも
政府支出を減らすことが
暗い未来を
もたらす、というのは
イメージとして
単純すぎると
思われる。
経済の動きは
色んな側面があるから、
単純に
政府がカツカツだからといって、
じゃあ
増税だ!
未来に希望を持てない!
という
印象が先走ってはいけない。
日曜日の日経新聞によれば、
30代以下の若い層の
将来に対する
悲観論が広がっているらしいが、
根拠のない
ブードゥー経済学、
特に
三橋貴明や参政党やれいわ新選組が
唱えるような
デタラメ経済学を信用して、
こうすれば
大丈夫なんです!
と
いった類いの
楽観論を語っている
ような状況ではない、
という
最低限の認識だけでも
若い世代が持つことは、
決して
悪いことではない。
2025年2月16日日曜日
事実として
ライシャワーという
アメリカの高官が、
日本に滞在中
暴漢に襲われて、
重症を負ったが、
その当時の
日本の輸血制度は
安全性に問題があり、
ライシャワーは
ウイルス性の肝炎に罹り、
それがもとで
亡くなったという。
それがきっかけとなり、
日本の輸血制度は安全性が
向上した、らしい。
ちなみに、その暴漢は
統合失調症だったと言われている。
また、これは
井沢元彦氏が提唱しているが、
忠臣蔵の浅野内匠頭は
統合失調症で、
吉良上野介は別に
大して悪人ではなかった、という
説もある。
それじゃ
かえって
吉良さんが可哀想だ。
よく寝た。( ´∀`)
なにか夢を見た気はするが、
覚えてない。
そこまで酷い
夢でもなかった。
しかし、脈が早い。
これでも
相当マシなほうなんだが。
やはり、明日
かかりつけの
メンタルクリニックに行って、
ぼーっとする薬を
処方してもらおう。
薬ひとつで
寿命が延びるなら、
ありがたい話だ。
ミネルバの梟は夕暮れに旅立つ
やっぱり
まだ
ここがゴールじゃなかったんだろう。
読んでわかるように
書いたつもりだったが、
色々と
研究が出揃わないと、
あの
レポートを
ちゃんと学問的成果とは
認めてもらえないって
ことなのかも知れない。
自己弁護かも知れないが。
先駆的と言ったら
自画自賛に過ぎるが、
野心的な
研究といってもいいと
思う。
きっと、
10年20年
かかるんだろう。
それを楽しみに
今後の人生を送れるなら、
こんな
楽しいことはない。
真偽不明
日向台病院にいたとき、
お見舞いに来てくれた
家族(だったかな?)に、
買ってきてもらった
リゲインだかアリナミンVだか
何かを
2箱ぜんぶ飲んでしまった。
2本ではない。
2箱ぜんぶ飲んでしまった。
これで
頭がぼーっとする薬を飲んだら
さすがに
ヤバいんじゃないか、と
思って、看護師に
医者に相談してくれるように
言ったのに、
夜になって、いつものごとく
薬を飲んで、実際ヤバいことになって、
でも
なんとか平静を保って、
ケツに注射を打ってもらって、おさまった。
そのあと
割とすぐ
退院できた。
もしかしたら、医者からすると、
あれ?
コイツ案外
暴れたりしないな、と
思われたのかも知れない。
健常者でも
カフェインドリンクを2箱
一気飲みして
ぼーっとする薬を飲んだら、
たぶん
平静では居られないと思う。
思い返すと
最近
悪夢を見る回数が
多いのは、
何を
科目登録するか、で
ただでさえ
頭をフル回転させているのに、
政治学入門@三島のこととか、
あるいは他のこととか、
そのうえ
カテキンたっぷりの
お茶飲んだり、
脳をちょっと
使いすぎたかな、と
感じる。
色々な薬があるのだろうが、
主治医に相談して、
寝る前だけでも
脳を休ませる薬を
処方してもらおう。
自分自身、そういう
ぼーっとする系の薬って、
辛い現実から目を背ける
ための薬、みたいに
思ってたふしがあるけど、
シンプルに脳を
休ませるためだけでも
大事だと思う。
いろんなタイプの薬が
あるんだろうから、とにかく
月曜日に
相談してみよう。
・・・さすがに
脳を酷使しすぎたか。
それを自覚できただけでも
収穫があった。
あえて、ぼーっとする
ことの効用。
2025年2月15日土曜日
なんとかしないと。
ここのところ、ほぼ
毎日
悪夢を見ている。
毎回ではないにせよ。
これはもう、
何かを抜本的に
変えるしかない。
飲みたくないが、
ジプレキサのような
強制的に
ぼーっとする薬でも
出してもらうしかない。
たぶん、入院中や、
退院後もしばらくは
飲んでた。
いかにも精神病患者、という
雰囲気になるので
飲みたくないのだが、
背に腹は代えられない。
これじゃ
ほんとに
死んでしまう。
強制的にでも
ぼーっとしないと。
そういえば、今日は
セブンイレブンで売ってる
お茶じゃ
薄くて物足りないから、
ローソンで
敢えて
濃いお茶を飲んだんだった。
カテキン摂取も
ほどほどにしないと、
飲みすぎると
こうなるのか?
2025年2月14日金曜日
昼寝
うーん、なんだろうな・・・
こんな誰もが
羨むような生活してて、
なんで
こんなに悪夢ばっかり
見てるんだろう?
ほんと
心臓か脳やられて
死んでしまう。
よっぽど抑圧された
何かがあるのか・・・
なにかハメを外して
やりたい放題やりたい、という
願望でも持ってんのか???
身が持たねーわ。
熊代享さんが言うように、
文明化された現代人は、
攻撃的な衝動を
抑圧するように
絶えざる自己家畜化を
自らに
課してるのか。
カラオケでもしたいのかな?
この20年カラオケすら
してねーよ。
ひたすら
勉強ばっかりしてる。
勉強は勉強で
最高のエンタメなんだけどね。
あるいは、やっぱり
政治学入門@三島を
落としたのが結構
ショックだったのか・・・
それはありそうだな。
ほんと、人間の欲望は
ないものねだりだ。
俺は相当
欲が深い人間なんだと思う。
もぱようございます。
いま
金曜日の
午前00:30
頃で
ございます。
うん、スッキリ♪
そうそう、最初っから
あの
レポート
(政治学入門@三島)
で
単位狙おうなんて、
考えてなかったよ。
山岡龍一先生という、
西洋政治思想史の専門家に
ちゃんと
読んでいただければ、
それで
十分なのよ。
それで
一番
下
(たぶんEとか)
じゃなくて、
ちゃんと読んだよっていう
しるし(Dが来た)んだからね。
十分だよ。
もちろん、
講義内容も
素晴らしかったし。
荷が降りた、というのが
正直なところ。
2025年2月13日木曜日
解放感
政治学入門@三島の
レポートには、
かなり
思い入れがあったから、
例年以上に
成績が
気になって、
くたびれたが、
今は
解放感のほうが
勝っている。
どっちにせよ、
あんな
支離滅裂なレポートを
読んで、
成績をつけて
いただいたことは
確か
なんだから、
それで良しと
するしかない。
一人で勝手に
理屈を作って、
専門家からの
正式な評価も
受けずに
勝手に
ドヤるより
遥かにマシだ。
イムジン河
別に
ショックだったというほど
ではなかったんだけど、
せっかくだから
メンタルクリニックに行って、
話を
聞いてもらってきた。
俺が
グダグダ言ってたら、
主治医が
「でもまあ、
興味を持って
読んでくれたと
思うよ。」
と
言ってくださったので、
なんとなく
ホッとした。
ちなみに、
何週間も前に
その
レポートは
主治医にも見てもらっていた。
うーん、
やっぱり
スッキリとは
終わらせてくれなかったなー。
武蔵大野の果てはあれ
学びの水は
とこしえならめ。
滔々とながる。
2024年度2学期の成績
金融と社会 A
日常生活とつながる「行政法」 特A
でした。
政治学入門@三島、落とした・・・
でも、
自分でも不思議なくらい、
気落ちというか、
ガッカリはしなかった。
あー、落としたか。。。
といった程度。
不合格といえども、
一応
D
だったから、
専門家にレポートを
読んでもらえただけ
ハンバーgood!
気になって仕方がなかったから、
スッキリした。
2025年2月12日水曜日
さすがに人権侵害じゃないか?
一応
Googleの生成AIにも
聞いたが、
安倍元首相を
襲撃した
山上被告の裁判、
いまだに
始まってないんだと。
さすがに
勾留期間長すぎじゃね?
これじゃ、
検察が山上被告を
有罪に持ってけるだけの
供述を
山上被告が「吐く」までは、
いつまで経っても
裁判すら
してもらえないってことじゃないか。
袴田さんの件があったのに、
日本の検察の姿勢は
何一つ変わっていない。
結局、
被告に無理やり
「自供」させて
有罪に持っていこうという
姿勢が
改まらなければ、
冤罪が発生し続けるのは
当然のことだ。
味気ないがちょっとマシになった。
夏目漱石『それから』における「赤の世界」と「青の世界」の対比から見る近年の政治
夏目漱石の小説『それから』では、主人公の代助が「赤の世界」と「青の世界」という二つの対照的な世界観の間で葛藤する姿が描かれています。「赤の世界」は、合理性や功利主義が支配する現実世界を象徴し、「青の世界」は、感情や美意識が重視される精神世界を象徴しています。
この「赤の世界」と「青の世界」の対比は、近年の政治状況を分析する上でも有益な視点を提供してくれます。
合理性の「赤の世界」から情動の「青の世界」への振れ
現代社会は、効率性や経済成長といった合理性を追求する「赤の世界」に大きく傾倒してきました。しかし、その一方で、人々の感情やアイデンティティといった「青の世界」が置き去りにされてきた側面も否定できません。
近年、世界的にポピュリズムやナショナリズムが台頭していますが、これは「赤の世界」への反発として、「青の世界」が前面に出てきた現象と捉えることができます。グローバル化や経済格差の拡大によって、人々の不安や不満が高まり、感情的な訴えかけや排他的なナショナリズムに共感する人々が増えているのです。
日本政治における「青の世界」の台頭
日本政治においても、かつては自民党を中心とした「赤の世界」が主流でしたが、近年では、民主党や維新の会といった「青の世界」を志向する政党が支持を集めるようになっています。
特に、小泉純一郎政権以降、新自由主義的な改革が進められ、経済効率が重視されるようになりました。しかし、その一方で、格差の拡大や社会の分断といった問題も深刻化し、人々の不満が高まっています。
「赤の世界」と「青の世界」のバランス
政治は、合理性だけでなく、人々の感情やアイデンティティにも配慮する必要があります。「赤の世界」と「青の世界」のバランスをどのように取るかが、現代政治の大きな課題と言えるでしょう。
『それから』が示唆する現代政治の課題
『それから』の主人公代助は、「赤の世界」と「青の世界」の間で葛藤し、最終的には自分の感情に正直に生きる道を選びます。この物語は、現代社会においても、合理性だけでなく、自分の感情や価値観を大切にすることの重要性を教えてくれます。
現代政治においても、効率性や経済成長といった「赤の世界」の価値観だけでなく、人々の感情やアイデンティティといった「青の世界」の価値観にも目を向ける必要があります。
『それから』は、現代政治が抱える課題を考える上で、示唆に富む作品と言えるでしょう。
レポートネタ 「妄想卒論その7」を2500字程度でGoogleの生成AIに要約させて見ました。
2011年の「ウォール街を占拠せよ」運動に端を発する反格差デモは世界中に広がり、格差の拡大を加速させた。アメリカでは、上位10%の所得層が2021年に総所得の46%を占めるまでになった。これは1920年代に匹敵する富の集中であり、当時の革命運動の再来を想起させる。
共産主義は、私有財産を奪う究極の反格差運動と言える。1917年のロシア革命後、第3インターナショナルが設立され、反資本主義の機運が高まった。当時のグローバル化はロシアにも経済成長をもたらしたが、格差を拡大させ、日露戦争や第一次世界大戦による困窮も重なり、革命へと繋がった。ソ連成立後、富の集中度は大幅に低下した。
現代では、ポピュリズムが人々の怒りの受け皿となっている。トランプ前大統領やオルバン首相のように、国際協調に背を向ける姿勢が支持を集めている。人々が刹那的な主張になびくのは、他者への信頼が失われているからだ。世界価値観調査では、北欧諸国に比べてアメリカや日本では他者への信頼度が低い。
信用は本来、合理的な裏付けを超えるものであり、リスクを伴う。資本主義の発達により、血縁や地縁の関係が希薄化し、リスクが増大したため、契約の発達や信用の合理化が進んだ。しかし、信用の合理化が進みすぎると、客観的な指標で算定された信用こそが全てであるかのような逆転現象が起こる。
ポピュリズム政党は、既成政治を一部の特権階級の占有物として描き、大衆の声を代表する存在として現れる。グローバル化は、一部の富裕層に富を集中させる一方で、不安定雇用を増大させ、新たな下層階級を生み出している。富が集中するほど他者への信頼が下がり、「フェアネス指数」が低下し、ポピュリズムに翻弄されやすくなる。
グローバル化は世界の富を拡大したが、分配の偏りを生み出した。日本でも新自由主義的な政策により格差が拡大している。大企業はグローバル展開と国内労働条件の引き下げにより利潤を増加させてきたが、その利潤は再びグローバル投資に振り向けられ、株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差を拡大させている。
経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況でアイデンティティーを脅かされている。旧来の中間層が貧困層と同じ境遇に置かれることは屈辱であり、生活苦も重なる。過剰な同調圧力の中で、人々は民族の「本来性」を求め、排外主義的な傾向を強める。
グローバル化による均質化、画一化が進むにつれて、反動として民族主義的な傾向が現れるのは必然的なのかもしれない。資本主義が高度に発展し、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、人々は本来性を追求する。社会が体系化され、個人が歯車と化したとき、人々は精神的な領域に救いを求め、ヒエラルキーに組み込まれることに慰めを見出す。
ポピュリズムは、現代のデモクラシーが抱える矛盾を露呈させた。多くの人々はポピュリズムを歓迎しないが、その指摘に内心頷いている。
エコノミクストレンド
昨日
(2025/2/11付け)
の
小林慶一郎
慶応大学
教授の
寄稿は、
素晴らしかった。
簡単に言えば、
経済成長を犠牲にして
企業に
賃上げを要求するのは、
筋違い、というものだ。
確かに、そこは
ちょっと
引っかかってた。
うまく
経済学の観点から
解説されていて、
納得した。
2025年2月11日火曜日
時代
まわるーまーわる〜よ時代はまわる〜
俺が
28歳の時に、
姉から
「えー、ムサシって私立だったのー?」
って
ビックリされた。
自分の弟が
高校卒業してから
10年経って、
その高校が
私立高校だったことに
驚いてるって、どういうことよ?
そして、
都立武蔵と勘違いしている訳ではない。
(たぶん。)
要するに、
「お前も
親の脛をかじってるんだ。」
と
言いたいだけ。
日々是好日
高校受験でお世話になった
「塚本数学クラブ」の
塚本先生から、
お送りした
本への
お礼状と商品券が
届いた。
日々なにかしら
あるってのは、
楽しいね。
・・・結論として言えば、
俺も
「一角の人物」になった、と
ある程度は
プライドを持たざるを得ない。
そうでなければ、あの
塚本先生から
篤く御礼状と、商品券まで
頂戴したのに、
いえ、私はただの
病人ですから、と
へりくだっていたら、
理屈が通らない。
かえって
塚本先生の
価値を貶めてしまうことになる。
軽くリタイア宣言
左手が
軽く
痺れる。
心臓かな?
まあ、ちょっと
無理しすぎたかな。
なるべく
本気を出さないで、
今まで
蓄えた資本で
残りの
人生を
生きていこうかな。
まだ
死にたくはない。
2025年2月10日月曜日
「グレート・ギャツビー」 中央公論新社 村上春樹訳バージョン 読了
終章となる
第9章は、
ギャツビーが
亡くなってからの話だが、
きっちり
「けじめ」
を
つけてくれた。
重厚感がしっかりあって、
シリアスな展開に
なっていた。
まるで、第8章までが
すべて
この終章のために
書かれたかのように。
美しい物語だった。
この
終章がなければ、
ただの
軽薄な小説になっていたかも知れない。
全体として、少なくとも
ガッカリとは
させられなかった。
これで
〆かたが緩かったら、
ここまで
読んできたのが
虚しくなるところだったが、
しっかり
小説として
一級品に仕上がっていた。
素晴らしい
内容だったと思う。
終章(第9章)を読むまえに
よくよく
考えてみれば、
ギャツビーが
こういう形で
死ななかったら、
ストーカー紛いの
キモい
男の
二束三文の小説に
なってただろうな。
細かい描写も
ムダなところが
ほとんどなかったし、
ほんと
傑作か駄作かってのは、
紙一重だな、と
思ったわ。
そこを
ギリギリ訳し切る
翻訳家としての
村上春樹には
敬意を
表する。
第8章まで読了
ちょっと
そわそわしながら
第8章を
あっという間に
読んでしまった。
どうやら、
「コト」
は
済んだようだ。
あまり
細かい描写がなくて
安心した。
残りは
最終章となる
第9章のみ。
今夜はこれぐらいに
しておこう。
おそらく、
デイジーについて
多くは
語られないのだろう。
秘すれば花、ということか。
2025年2月9日日曜日
ネタバレ
マジか・・・
生成AIに
あらすじを聞いたら、
衝撃の結末を
教えてくれた。
なんてこった・・・
第7章を
読み終えて、
残りは
第8章と第9章までで、
いよいよ
静かに
終幕へと
向かっていくんだろう、と
予測がついて、
生成AIに
あらすじを聞いてみたが、
まさか
こんなことになるとは。
意外感はあまりないが、
残りの
分量で
話を終わらせるには、
こういう
ストーリー展開が
良いのかも知れない。
それにしても、
文章の書き方の
お手本というか、
文庫本1冊くらいの
文章は
こうやって
書けばいいんだよ、と
村上春樹に
教えてもらった
感じがする。
久々に
良いものを
読ませてもらった。
うーん・・・そう来たか。
「グレート・ギャツビー」
第7章。
凄い
展開になってきたな。
これは
読まされるわ。
ストーリー展開は
そんな
劇的ではないと
思うんだが、
なんか
すげえセンスを感じる。
いい意味で
突拍子な感じは
しないが、
確かに
これは
村上春樹が
「目標としてきた」
と
言うだけのことはある。
「金融と社会」質問と回答その7 (再掲)
質問:インフレ目標政策についてうかがいます。 私の実感でも、物価が上がってきたなー、と感じます。 より正確には、 通貨(円)の価値が目減りした ということだと思われますが。 あまり国民の生活が苦しくなれば、 物価の安定という意味では、 金利をあげたほうがまだマシ、 と考える家計も 増えてくるのではないかと考えます。 そうすると、なるほどこれがフィッシャー効果か、 と思われるのですが、 確かに 実質金利がさがったことで 消費者の購買意欲が増したことで 景気の底割れを防ぎ、 政府の名目上の税収も 増えていると言われています。 しかし、かといって、 国も企業も家計も借金まみれの現状では、 今さら金利を上げられるのか、 甚だ疑わしいです。 なぜなら、 金利の上昇は、確かに通貨(円)の価値を 底上げする可能性はありますが、 上述のように 政府・企業・家計が借金まみれの状態では 金利の上昇は難しいことは無論、 長期金利の上昇は、 政府の借金の利払いを増嵩させるのみならず、 日本国債の価格を低下させるため、 発行済日本国債の6割を保有すると いわれる日銀の財務状況を、 著しく危殆にさらすものと考えられるからです。 果たして、 これが当初のインフレ目標政策の 目指していた姿なのか、 甚だ疑念を感じずにはいられません。 回答: 質問文に書かれていることは、私も理解できます。 インフレ目標政策が 2013年に導入を余儀なくされた時、 当時の白川総裁には その問題点がわかっていたと思います。 日銀が2000年に インフレ目標政策について調査したレポートを リンクしておきます。 http://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2000/data/ron0006a.pdf
アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)
自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。
日常生活とつながる「行政法」@郡山女子大学 レポート (再掲)
行政法の概念に、 「行政指導」と呼ばれるものが存在する。 行政は、 本来「行政行為」と呼ばれる、 命令する主体としての行政と、 名宛人の市民との 主体・客体関係が ハッキリしている手段で 運営されるべきものだが、 「行政指導」という、 極めて日本的な、 主体・客体関係が不明瞭な手段が、 行政の運営上横行している。 もっとも、 行政指導それ自体が問題なのではなく、 行政指導が、 本来強制力を伴わないものであるはずなのに、 従わなければ 往々にして 市民が制裁を加えられることが、 常態化しているという現実がある。 また、それに留まらず、 行政指導が 医療のあり方に絶大な影響を与えている。 どういうことか。 日本の医療制度において、 ある一定の地域に、 十分な病床数が確保されている場合、 新規に医療業者が参入しようとするとき、 保険適用が受けられず、 自由診療で開業せざるを得ない、 という現実が、 行政指導によって正当化されている。 これは明らかに 既存の病院の権益を守り、 新規参入者を 不当に排除している。 問題はこれに留まらない。 特に精神医療において、 1950年代にフランスで 画期的な抗精神病薬が開発され、 欧米先進国では 病床数が減っていったにも関わらず、 日本では逆に病床数が増えた。 これは、 戦後、精神病患者を建前上 しっかり治療しようとの方針から、 精神病院の数が増えたからである。 そこで、戦後、精神病院が増設される際、 一定の範囲で病床数を確保してしまえば、 地域の患者を独占できてしまう、 という経済的合理性によって、 精神病院が往々にして 大規模化したことが推測される。 言わずもがな、これは行政指導によって、 いったん多くの病床数を確保してしまえば、 新規参入者を排除できることが、 精神病院の大規模化を促したと 容易に考えられる。 そして、元厚生労働大臣が、 戦後日本の医療制度を構築した 武見太郎の息子である武見敬三である現実では、 これが改められる可能性は極めて低い。
キリスト教哲学の歴史@八戸サテライト レポート (再掲)
アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。
政治学入門@三島レポートその2 (再掲)
第2節:カントは、言わずもがな18世紀の啓蒙思想家である。彼は、自然界に法則が存在するのと同様に、人間にとっても道徳法則があるはずだ、と考えた。その内容を極めて簡潔に述べると、人が何か行いをしようとするとき、他の全員が自分と同じ行動を取ったとして、仮にそれを受け入れられる、あるいはそういう社会を容認出来るならば、その行為を行ってもいいが、そうでなければ、その行為を行うべきではない、というものである。また、彼は、仮言命法の危険性も指摘している。仮言命法とは、例えば「美味しいプレッツェルを食べたければ、南ドイツに行け。」といった、現代の日本に住む我々が常識的に行っている思考回路である。これの何が問題なのだろうか?しかし、この一見無害な発想には、人間の自由を奪う危険性が潜んでいる。例えば、昨今は理系偏重の風潮があり、就職のことも考えて、なるべく理系の大学、学部を選ぶ傾向が受験生やその保護者に見て取れる。この一見ありがちな行動はしかし、連鎖する。将来不安、就職への不安から、理系の大学、学部を選好するようになると、その方面の進学に強い高校、ひいては中学を選ぶ、ということになり、特に首都圏では、そのような中学に合格するために、小学生のうちから塾通いを始める、という結果になりうる。果たして、これが自由な生き方と言えるだろうか?これは、まさに仮言命法の発想が、いかに現代日本人を不自由にしているか、ということを示している。また、私達は、基本的に何かに縛られて、言い方を変えれば「依存して」生きている。例えば、組織、カネ、家族、地位、恋人など、挙げればキリがない。そして、これらの存在を守ることが当然であり、むしろそうすることが義務であるかのような社会通念が存在する。もちろんこれらをすべて否定するつもりはない。しかし、往々にして、これらの存在への「依存」は、やはり我々を不自由にする。こう考えると、現代日本に暮らす我々が、いかに窮屈な存在であるか、ということが見て取れる。カントの発想は、人間にも道徳法則があり、各人は自身の道徳的行いを「自ら考え、自ら選択する」ことが出来ると考えた。これは極めて強力な自由論である。この意味において、カントの道徳哲学の発想は、我々が自由に生きるとはどういうことか、を考える時、非常に強力な武器となる。また、トマス・ホッブズが予言したように、現代の資本主義社会において、人は疑似殺し合いを演じている。つまり、絶えず他人を先んじよう、出し抜こう、という脅迫観念に囚われている。そのような社会において、カントの、自らの道徳的行いを自ら考えて決断していい、という自由論は、極めて強力な理論である。
ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 資料より (再掲)
私は、 自分のもともとの 性質が 「ここまで くらいは がんばろう」 と 課した限界の範囲で 自己研鑽に励む ときでさえ、 謝罪や後悔もなく、 自分の もともとの性質を 「与えられた 当たり前のもの」 として 受け入れており、 そのようなとき、 自分自身に対する 「自己愛」を 持っているのである。 私の 自我と 私とは、 一様に すべてのことを 共有しながら、 いっしょに 多くのことを くぐり抜けてきた。 私が彼 (=私の自我) を 支える限り、 彼が 私を 失望させることはなかった。 私は 彼を 叱ったこともあるが、 けっして 彼の本性を 呪うことはなかった。 彼には 間違いなく 欠点があるし、 ひどくそうなのだが、 その短所が あらわになるとき、 私はやさしく 寛大に ほほえむのである。 彼のへまは、 彼のような 性質をもつ だれからでも 人が予想するようなものである。 人は、 これほどまで きわめて 近しくしてきた 存在を 憎むようには なれない。 好むと好まざるとに かかわらず この人物 (=私の自我) に依存してきた 全年月の後、 どのようにして 別の自我と うまくやりはじめることができるか、 私は 実際知らないのである。 このように、 自己同一性 (自分が自分であること) は、 一種の約束による 見合い結婚だと 考えることが できる。 その 見合い結婚は、 安定的な人の中では 真実の愛へと 成熟するものだが、 不安定な人の中では、 堕落してしまって、 恨み言と 自滅へと至る。 人の 自己愛の もっとも 真実の表現は、 自身の善さへの献身であり、 それは 他の誰のものでもない 自身の もともとの性質 (そのような 性質は 不条理な、 変なものかもしれない) の 自己充足である。 (「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)
カント「実践理性批判」を読む@大宮 レポート (再掲)
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を題材に、人間の行為における善とはなにか、を考察する。 芥川龍之介は、自殺の時点で枕元に聖書を置いていたことが知られており、 キリスト教への関心があったことは疑いない。 その上で、 「蜘蛛の糸」を読み解くとき、 天上から地獄へと 救いの糸を垂らすのは 釈尊であるという設定であるが、 ここでは キリスト教的神であると置き換えたい。 そのほうが構図が簡潔になるからである。 なぜなら、 カント哲学においては、人間は神に対して アクセスできないが、 神は人間に対してアクセス できると考えられているからである。 これを前提とした上で、 人間の倫理がいかに成り立ちうるかを 考えたとき、 2つの考え方が可能である。 1つ目は、神の意志や行為は人間には 計り知れないのだから、 人間がどんな行いをしても 神はそれを赦しもするし裁きもする、という 発想である。 2つ目は、やはりそうは言っても、 人間と神とは完全に切り離された存在ではなく、 人間は神の意志や、その行為の意味を 感じたり考えたりすることが 可能である、という 発想である。 カント哲学においては、 人間の悟性では神の行為や意志を 計り知ることはできないが、 また神の存在を否定することも 不可能である、と 捉えていた。 しかし、これは 神がすべての事象を意のままに決定しうる、 という可能性を含意しており、 ある種の決定論に陥ってしまう。 デービッド・ヒュームの懐疑論は、 因果律を否定することにより、 この決定論に風穴を開けた。 ここでカント哲学は新たな可能性に開かれる。 なぜなら、 すべてが神によって決定されているわけではない以上、 人間が自らの悟性によって 自らの倫理を考える、という 「自由」を 手に入れたからである。 そのうえで、あらためて 「蜘蛛の糸」を 考察してみよう。 神はカンダタに対して 救いの可能性を示したが、 カンダタは 自分の利得のために 他人を犠牲にしたことによって、 神から見放される。 つまり、神から人間には 救いの可能性という点で アクセスが可能なのだが、 人間(カンダタ)から 神に対しては 自らの救いの可能性を選択する余地がないのである。 それはなにゆえなのだろうか? カンダタが善なる行いを しなかったからだろうか? しかし、それでは 人間にとって 善とは何かを、人間(カンダタ)が 選択する余地はなく、 すべて神が決定していると 読めてしまう。 これが果たして人間にとって 「自由」といえるだろうか? カンダタは、自分の救済の可能性のためには、 他人を犠牲にせざるを得なかったのである。 言い換えれば、自らの生命のためには そうする他なかったのである。 ここから導き出されることは、 人間は「善き生」のためには、 みずからの生命さえも 犠牲にしなかればならない、という アリストテレス的な「善」の考え方であると考えられる。
うーん・・・やっぱすげえな。村上春樹。
第6章
読了。
圧倒されたわ。
思わぬ
起承転結の「転」が
待っていたかと
思ったら、
グイグイ読まされて
持ってかれた。
あーまー
確かに
美しいわ。
あえて
詳細は語るまい。
読者が胸のうちに秘めておくべきものだ。
2025年2月8日土曜日
都合のいい俗説 (再掲)
国債発行 イコール 通貨発行 という俗説が あるらしいが、 金融政策の 基本が 何も わかってないね。 国債を 発行して、 買ってくれる人が いるから、 (国債を買うのは 当然のことながら 中央銀行だけではない。) そのお金が 市中に 流れるんだけど。 これ、 (国債に限らず 債券全般に対する、 中央銀行による) 買いオペとか 売りオペとか 言われる 金融政策の 常識中の常識 だけど、 そんなことも 知らずに、 ただ 国債発行すれば 自動的に 貨幣供給量が 増えると 本気で 思ってる 人が いるみたいね。 (それに、 国債だって商品だから、 本来は政府の都合で 発行した 国債を、 相場を無視した 高値で 売れると思うのが そもそも 間違ってる。 むしろ、 日本の現状として、 日銀が 市場の相場を 無視した 高値で 国債を 買い続けてることが 本質的に問題なんだけどな。) なにで 経済学 学んだんだろう? それに、 貨幣供給量を 増やす イコール 国の資産が 増える ってのも そもそも 間違い。 国の富の 源泉は 付加価値、 すなわち GDPです。 これ、 学部レベルの 経済学で 最初に 学ぶことなんだけどな。 ほんと、 誰に 刷り込まれたんだろう? ついでに 書いとくと、 赤字国債を 発行すること自体が 法律違反なんだけど、 毎年 特例法案つくって 可決して 予算作ってる。 (ちなみに、 一昔前は その種の予算を 通す通さないが 政争の具に 使われたのが、 短命政権が続いた 原因だったらしい。) それが 常態化。 それを 国民の側が 嬉々として 受け入れてる 現状が 異常。 ついでに 書いとくと、 日銀が 国債買い続けないと 国債の価格が (異常な高値を 維持できずに) 暴落して 金利が 急騰して この国 吹っ飛びますけど、 さあ この ムリゲー どうします? ちなみに 安倍ちゃんは 日銀は政府の 子会社だから いくらでも 日銀に 国債 買い取らせればいい とか ほざいてましたけど。 もう 日銀による 国債の保有比率 6割 超えましたね。
終わってる
一週間前くらいの
日経新聞に、
GPIFが
市場を介さずに
日本国債を
直に
買い始める、という
記事があったね。
小さくだけどね。
もう
これ以上
日銀の日本国債保有比率を
上げるのも限界だから、
まあ
目眩ましというか、
苦肉の策とでも
いったところだろう。
日本国債の消化のために
日本人の年金を運用する組織が
一肌脱ぐってか。
終わってんな。
おそらくこんな
ストーリーだろう。
事実問題として、
日本国債の現在の格付けは、
日銀が
日本国債を買い続けることを
前提にしている。
そこへ、
植田日銀が、
日本国債購入額を減額、
すると、
格付け会社から
日本国債格下げを
チラつかされる。
そうして、やべえってなって、
そうだ
GPIFに買ってもらおう。
ま、こんなところだろう。
馬鹿げた話だ。
2025年2月7日金曜日
体力の限界
体重は変わらないが、
メシを食べる量は、
かなり
減った気がする。
それはそれで
結構なことなんだが、
勉学のほうも
案外
身体が資本なところがあって、
まず
気力・体力が
充実していないと、
遠方まで
出向いて、
といっても
大した距離じゃないが、
つまり
面接授業も
東京まででも
もう
キツい、と
なって来てしまった。
ほんとに近場で済ませるか、
逆に東北の
鄙びたところに
一点集中するか、という
選択肢を
取らざるを得ない、という
感じになって来た。
お金かからなくて済むのは
助かるけど。
ミヤネ屋ー論外ー
交通事故の裁判を
巡ってなんだが、
確かに
被害者の遺族の
心情は
わかるが、
マスメディアが
司法の判断を、
つまみ食いした
裁判の中身だけで
あたかも
不当な判決のように
報道する、というのは、
報道機関として
あってはならないことだ。
この御時世で、
またぞろ
「かわいそう」という
無敵のワードを
使って
アホが
暴走する口実を
確信犯的に提供するようでは、
およそ
天下の公器と
呼ぶに値しない。
徒に
司法の信用性を
失墜させるような報道は、
厳に
慎むべきだということは、
いまさら
素人に言わせるまでも
ないはずのことだ。
日本テレビの神経を
疑わざるを得ない。
「魔の山」 トーマス・マン 岩波文庫 下巻 末尾より (再掲)
さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり)
うつ病譚 (再掲)
うつ病ってのは、ツライ。 ある程度は 同情してもらえるんだが、 同情してもらったところで、 苦しいのが 治るわけでもない。 しかし、中には 同情してもらえることに しか 慰めを得られなくて、 同情してもらえることに 依存してしまうこともある。 まあ、 太宰治みたいなもんだ。 (太宰治はほとんど読んだことないが) あれはあれで ツライんだ。 結局、サークルのマイ・コメヂアンになって、 取り巻きの女と心中するのが オチなのだ。 ところで、 うつ病になるにも 色々と 理由があるものだが、 得てして、 うつ病になる原因なんてのは、 わからないものなんだ。 わかったら苦労しねえよ。 しかし、よくあるパターンが、 「やる気スイッチ」をオンに したまま 突っ走ることだ。 こんなことは、根が真面目な人間ほど、 簡単に 起きてしまうことだ。 人間、「やる気スイッチ」を オンにするなんてのは、簡単なことだ。 一度入った「やる気スイッチ」を オフにするってのは、 「やる気スイッチ」をオンにすることの 何倍も 難しい。 で、あるから、 大人として生きていくには、 「やる気スイッチ」の切り方を 習得しておく必要がある。 真面目な人間ほどそうなのだ。 しかして、うつ病というのは あまり 同情してもらえない。 同情されたところで 気休めにしかならないし、 同情されたところで 治ったりはしない。 ただ 中には 同情されることに 依存してしまうタイプもいるだろう。 あ、これ もう 書いたかもだが、たぶん 太宰治とか このパターンだろう。 ある意味で、うつ病を 患うということは、 孤独との闘いでもあるのだ。 何しろ、 周囲の人間から 理解してもらえないからな。 周囲の人間も、 一応は 同情してくれるんだが、キリがないから、 そのうち 去っていく。 そうすると、ますます 孤独になる。 すべてが 悪循環だ。 うつ病が完治するということが あるのかどうかは わからないが、 結局 マシになるには、 誰か 自分の、一番 急所というか、 自分の一番 弱い部分の扉のカギを そっと 預けられる存在が 必要なんだ。 性別はあまり関係ない。 どういう人間関係かも あまり 関係がない。 ともかく、自分の一番 急所である領域へのカギを そっと 預けることが出来て、 その人が そのカギを 誰にも知られないように 密かに 隠し持っていてくれるって ことが、 重要なんだ。 そこはもう 損得勘定抜きだ。 とにかく、 自分の生死を 預けるくらい 大変なことなんだ。 しかし、そういうケースもあるから、 人間てのは ときに 脆くても、なお一層 キレイな 存在なんだ。 もっとも、うつ病は キレイゴトばかりではない。 何しろ、 ひたすらウツな訳じゃなくて、 往々にして ハイになってしまう時期があるからだ。 そうして、ハイになっても、 結局は また ウツになる。 それを繰り返していると、 周囲の人は コイツはふざけているんじゃないか、と 思って、 疎まれる。 こうやって、ますます 孤独になる。 そう、 うつ病患者というのは 孤独なんだ。 ま、いろんなパターンがあるがな。 俺も 病院にいるとき いくつかの うつ病と思しき類型を見たが、 一類型として、 基本ウツなんだが、 ハイになったときに、 やらんでもいいことをやって、 周囲のヒンシュクを買って、 ずどーんと ウツになる、というパターンの人がいた。 まあ、その人がハイな時は、確かに 鬱陶しいんだが、 やっぱり当人はツライんだ。 そうして 同じことを繰り返すほど、どんどん 絶望的な 気持ちになってくる。 永遠にこの状態から 抜け出せないんじゃないか、と 確信が深まるからな。 だから、 たまにハイになってしまうタイプの うつ病というのは、 それはそれで 厄介なんだ。 あれは 傍から見るより、当人は 遥かに ツライんだ。 上述の例でも、風呂に入ったときに、 腰のつけ根のところに、 褥瘡の痕が出来ているのを見て、驚いた。 褥瘡というのは、 つまるところ ずっと 同じ姿勢で寝ているために、 圧迫された部分が 血流が悪くなって、 壊死してしまうんだ。 ハイなときには 鬱陶しいほど テンションがあがってる人が、 寝返りをうつ 気力も湧かないほど 眠らざるを得ない。 これが どれほどシンドイか、わかるか? うつ病は甘えだとか言うやつが たまに いるが、 そう思うなら いっぺん 褥瘡が出来るまで ひたすら 同じ姿勢で 寝てみたらどうだ? とにかく、そんなわけで、 うつ病のツラさというのは、なかなか 理解してもらえない。 そこが また 厄介なんだ。 とにかく、うつ病から抜け出すには、 何か 一つでも 問答無用で楽しいと 思えることとか、 一緒にいると なんか 楽しい人とか、 そういう存在が 絶対に必要なんだ。 そして、徹底的に 自分の 心のありようと 向き合うことが まず 必要だ。 絡まり合って ぐちゃぐちゃになった 心と、ひたすら 向き合って、 どこでどう間違えたのか、 ひたすら 考えることが必要だ。 ただし、これは これをやれば うつ病から抜け出せるって もんでもなくて、 言うなれば 「ジョジョの奇妙な冒険」の プッチ神父の ホワイトスネイクの攻撃みたいなもんで、 うつ病から 抜け出してみて 初めて 原因がわかるってことが ほぼほぼ 当てはまると思われる。 なにが原因で ウツになってるのか わかれば、そもそも うつ病には 簡単にはならない。 なんの慰めにもならないかも知れないが、 うつ病というのは 抜け出した人間にしか 対処方法が わからないんだ。 何しろ、自分の心の働きというのは、 たいてい 自分にしかわからないからな。 そういう意味では、 うつ病というのは よく知られた病いでありながら、 自分自身に 固有の病いと 言ってもいい。 とにかく、人間ひとりひとりに 個性があるのと 同じ意味で、 うつ病には 個性があるのだ。 だから、余計 難しい。 周囲の人間は理解してくれないし、 理解しようがない。 しかし、 繰り返すが、 やはり 最終的には 自分の 心のカギを そっと 預けて、そうして 誰にも 悟られることなく、 永遠に キープしてくれる 存在が必要。 そして、徹底的に 自分自身の こころのありようと 向き合い、 どうしたら うつ病に逆戻りしないか、を 徹底的に 考えることが大事。 確かに、うつ病ってのは 詳述したように、孤独だ。 しかし、だからこそ 人間というのは 他者を必要とする。 その意味で 孤独ではない。 そういう 存在だと 言える。
武蔵を辞めんと欲す
俺は
武蔵を本気で
辞めようと
していた時期がある。
父親に、辞めさせてください、と
土下座したが、
父親は
不愉快そうにタバコを
ふかすだけだった。
苦虫を噛み潰したような
渋面をしながら。
その後ろでは、
母親が困り果てた顔を
していた。
塩漬けモード (再掲)
細かい疑問点を、 ちょくちょく 放送大学 群馬学習センターに電話して 問い合わせるんだけど、 基本 いやがらずに 教えてくれるのが ありがたい。 たまに、 それは 冊子に書いてあります、みたいな 塩対応の時もあるけど、 それは 結構レア。 こっちが調べればわかることでも、 基本 丁寧に対応してくれる。 いいね〜、この 懐の深さ。 安心するよね。 やっぱ 運営費の6割が 国から出されているだけあって、 普通の私立大学ではない。 実際、 群馬学習センターは、これは 図書館か? というくらい立派な建物で、 中も 広々としています。 で、慶応SFCの学事のことを 思い出すけど、 アイツらは とにかく酷い。 何を聞いても、 「ネットに書いてあるでしょ?」 で 門前払いされる。 こっちとしちゃーさー わかんねーから 聞いてんだろーが! って 言いたくなる。 窓口まで 直に出向いても、 パソコン叩いてるだけで、 こっちを 見ようともしない。 あそこはほんとに 学事からして冷血だよ。 絶望感と徒労感に 打ちひしがれる。 慶応SFCの学事って、 卒業生がそのまま 就職したりするから、 (今はどうか分からないが) 慶応SFC特有の、 能無しのくせに 思い上がった 選民思想に凝り固まった 連中だからね。 あれはヤバい。 よほど 神経が図太い人間じゃないと 慶応SFCでは 生きていけない。 知り合いの彼女なんか、 ウェブ上で 履修申告してんのに、 学事がミスって あれ? こんな授業申し込んでないのに、って ことが 実際にあったからね。 ほんと ふざけてるよ。 大学3年目の 5月に 錯乱して 措置入院くらって 1年半休学したのに、 よくまた あんな ストレスフルな環境に戻って、 そっから 33単位取ったよね。 ちょっと 我ながら 信じられない。 ・・・ちょっとまた 蒸し返しになっちゃうけど、 下手に 単位取ったから、 親が 塩漬けモードに 突入して、 もう これ以上 単位取れねーって 言ってんのに、 見て見ぬふりして、 無駄に 除籍寸前まで行って ようやく 中退した。 あの頃は ほんとに心臓マヒ 起こすんじゃないか? っていうくらい 酷い悪夢を ほぼ毎日見ていた。 そっから さらに 中大通教を5年やって、 (ちなみに、その時 慶応SFCで取った91単位が 中大で40単位に 換算された。 切ない。 (´;ω;`) ) 英語以外の単位が1つも取れず、 もういい!って 言ってんのに、親が 大卒に拘って、 (神もホトケもない!) 放送大学入って ようやく 負の連鎖から 抜け出した。 自分で書いてて 気が遠くなる。
うざい (再掲)
無駄に 慶應生を続けていた頃、 どういう訳か 戸塚のアパートで 姉と 暮らしていた時期があった。 ある日、 姉が 「ウフ♪」と 呟いたから、ああ、また 人を馬鹿にする練習でも してんのか、と 思って、 「なに?」と 聞いたら? 「わかる? この バカにしてる 感じ?」と 言ったから、 ああ、練習してんのね、と やり過ごしたが、 後から考えると、 あれは、 慶応を辞めることすら出来ず、 かといって 大学に行くでもなく、 無駄に 時間とカネを使ってる 俺を 馬鹿にしてるんだな、と 気づいて、 心の底から コイツは クソ野郎だ、と 思った。
悪魔 (再掲)
どうせ 一生 協力なんか できねーんだから、 この際 ブチまけてやるわ。 母親から 父親に 腎臓移植が 決まったタイミングで、 父親に 2号さんがいるのが バレちゃって、 うずくまって 泣いてる 母親の耳元で、 姉が、 「お父さんは 家政婦さんみたいな人を 探してたんだよ。」 って 囁いた。 つまり、母親は 父親にとって 家政婦でしかない、と。 姉はそういう人間。 人の傷に塩を 擦り込むのが 大好きな人間。
大学受験
慶応SFCは、
別に
入りたくて入った
わけじゃない。
2回も
落ちてるし、
どうせ小論文
書けないから、
そもそも
3回も
受けたくなかった。
ほんとは
中大法学部に行きたかった。
しかし、
母親に
「お父さんが
慶応SFC
気に入ってるから」
と
いうだけの理由で、
受けさせられた。
風呂桶を破壊したり、
挙句の果てには
受験票を破って棄てた。
それでも、当日
再発行してまで
受けさせられて、
受かってしまった。
受かってしまった以上、
慶応信者の父親に
逆らえるわけもなく、
入らざるを得なかった。
その
結果が、これ。
三田の慶応で合格発表を
確認した後、
SFCまで行って、
入口から続く
坂道を歩いていて、
「ここは嫌だ。」
と
つぶやいたら、
母親は
視線を下にそむけて、
両目をキョロキョロさせていた。
それは紛れもなく
「そんなこと言ったら
また
ワタシがお父さんに
怒られちゃう。」
と
能弁に語っていた。
ちなみに、
かなり後になってから、
中大に行きたかったと
父親に
なぜ
言わなかったんだ?と
姉に
詰られた。
これが
小林家。
確かに病気にはなったが、
そりゃ
病気にもなるだろ。
むしろ、
薬物に手を出さず、
もちろん
半グレにもならず、
よく
やってると思うんだが?
2025年2月6日木曜日
「共有地の悲劇、グローバリゼーション、地域間格差、人的資源の偏在」をキーワードにして、Googleの生成AIにレポートを作成させてみました。
1. はじめに
現代社会は、グローバリゼーションの進展により、世界がますます相互に依存し合うようになっています。その一方で、共有地の悲劇、地域間格差、人的資源の偏在といった問題が深刻化しており、持続可能な社会の実現を妨げる要因となっています。本レポートでは、これらの問題の関連性と、その解決に向けた取り組みについて考察します。
2. 共有地の悲劇
共有地の悲劇とは、共有資源が過剰に利用され、枯渇してしまう現象を指します。 Hardin (1968) は、共有牧草地における過放牧を例に、各個人が自身の利益を最大化しようとする結果、共有資源全体が損なわれることを示しました。この悲劇は、地球温暖化、海洋汚染、森林破壊など、現代社会における様々な環境問題の根源にあると考えられます。
3. グローバリゼーション
グローバリゼーションは、国境を越えた人、物、資本、情報の自由な移動を促進し、世界経済の発展に貢献してきました。しかし、その一方で、地域間格差の拡大や人的資源の偏在といった新たな問題を引き起こしています。
4. 地域間格差
グローバリゼーションの恩恵は、先進国や一部の地域に集中しやすく、発展途上国や取り残された地域との格差が拡大する傾向があります。これは、経済的、社会的な不平等を増大させ、社会不安や紛争の原因となる可能性があります。
5. 人的資源の偏在
グローバリゼーションは、高度なスキルや知識を持つ人材の国際的な移動を促進します。しかし、その結果、発展途上国から先進国への人材流出(ブレイン・ドレイン)が起こり、人的資源の偏在が生じます。これは、発展途上国の経済発展を阻害し、地域間格差をさらに拡大させる要因となります。
6. 解決に向けた取り組み
これらの問題を解決するためには、国際社会全体での協力が不可欠です。
共有地の悲劇に対しては、資源の利用制限や排出量取引などの制度設計が必要です。
地域間格差の是正には、発展途上国へのODAや技術移転、フェアトレードの推進などが有効です。
人的資源の偏在に対しては、発展途上国における教育・研究機関の充実や、人材還流を促すための政策が必要です。
7. まとめ
共有地の悲劇、グローバリゼーション、地域間格差、人的資源の偏在は、相互に関連し、複雑に絡み合っています。これらの問題を解決するためには、持続可能な社会の実現に向けた長期的な視点に立ち、国際社会全体での包括的な取り組みが必要です。
参考文献
Hardin, G. (1968). The tragedy of the commons. Science, 162(3859), 1243-1248.
[注] このレポートは、あくまで概要であり、より詳細な分析や具体的な事例については、別途調査が必要です。
民法をまなぶ
中大通教を始めたのが
確か
2010年あたりだから、
一応
法学部だから
法律を勉強したわけだが、
結局
英語以外の単位が
ひとつも
取れずしまいになって、
特に
民法がまったく
わからなかった。
放送大学はいってからも、
円谷峻先生の放送授業聞いても、
わからず。
しかし、
慶応大の武川幸嗣先生の名講義を
聞いて、ようやく
単位は取れた。
Cだけど。
武川先生の講義は、条文の解釈
うんぬんよりも、
どうしてこういう結論になるのか、という
「理由」を
教えてくださったので、
その裏にある
民法的発想がどんなものか
垣間見えて、
ようやく
腑に落ちた。
つまり、自分の頭で
現実問題を考えられるように
なった気がする。
アマゾンで、なかなか
荷物が届かないから、
外出するから
置き配指定にしたのだが、
置き配指定にすると
かえって
不都合なので、宅配ボックス
指定にしようとしたが、変更できず、
「問題が発生しました」
なんていう
面倒なことになって、
仕方ないから
キャンセルしようと思ったら、
届いてもいないのに
「返品」の
手続きを自分でしなければならないことになって、
こりゃあ
面倒なことになったぞ、と
思ったが、
少なくとも
日本で生活する以上、
こういうケースの場合
民法上どういう
行動をすれば、たぶん「セーフ」なのか、
なんとなく見えてきて、
なるほど、
民法的に考えるというのは
こういうことか、と
納得した。
・・・そんなこんなありつつ、
でも
アマゾンが返金してくれたから、
また
同じ
アイテム買った。
普通に生活していて、
相手が
まともだったら、
日本であんまり
日常生活で
法律沙汰になることは
あまり
ない気がする。
むしろ、政治絡みで、
これは
行政法的にアウトなんじゃないの?
っていうことのほうが
多い気がする。
行政法は過小評価されている。
精神分析ーちょっとだけ真面目な話ー
https://www.youtube.com/watch?v=Ef8CM1V44Pc
確かに、だいぶ
楽になったね。
姉とか、参政党支持者の、
知り合いだった人とか、
結局
学歴コンプレックスを
俺にぶつけてただけなんだな、とか、
(放送大学卒の俺に
なぜ
そんなことをするのか
理解しがたいが。)
あるいは
日常生活でちょっとしたことで
感じる、
ちょっとイヤなことでも、
この人は
俺にキレてるっていうより、
自分のなかの
負のイメージを
俺に投影して
ぶつけてるだけで、
俺そのものに
キレてるわけじゃないんだろうな、とか。
そう
考えるだけで、余計なことに
いちいち
ムカつかなくていいってのは、
実に
楽だね。
2025年2月5日水曜日
小説
ノーベル文学賞に
韓国の作家
韓江
(ハン・ガン)
さんが
輝いた、という
ニュースが話題になったね。
韓国は
ソフトパワーでも
日本を凌駕しつつある、ということか。
その
真偽はさておき、
バリバリの儒教社会である
韓国で
「小説」というものが
発展したことは、凄いことだと思う。
何しろ、「小説」だから。
儒教の思想では、「小」とは
それ自体
否定的な意味合いを多分に含んでいる。
わかりやすいのが、
中国人が
上野動物園に「小人」料金で
入場して、
咎められると、
いや、私達は
ろくでもない人間ですので、と
ブラックジョークをかましたり、
一時期の
反日運動では、しきりに
「小日本」
(シャオリーベン)
と
叫んでいたように、とにかく
儒教社会では
「小」
という漢字自体が
否定的なニュアンスを表している。
だから、
「小説」というのは、
文字通り
「くだらない話」という
意味になる。
儒教の警句に、
「君子怪力乱神を語らず」
というものがある。
解釈はさまざまだが、
早い話、ちゃんとした
大人は、
嘘八百を語ってはいけない、
ということだろう。
だから、
フィクションに過ぎない
「小説」は
「小説」でしかない、ということに
なるのだろう。
「グレート・ギャツビー」 村上春樹訳バージョン
なんかあらためて
文学に
目覚め始めた。
うん。
読みやすい。
訳文なのに、村上春樹っぽい。
情景がありありと
浮かんでくる。
・・・昨日
(2025/2/5)
から読み始めて、今日で
もう
三分の一
読んだ。
文章がこなれてるし、文章ってのは
こういう風に書くんだよ、という
お手本のような
文章。
面白いし、勉強になる。
2025年2月4日火曜日
「精神分析とユング心理学」
前半の
フロイトの
精神分析に関する
一連の講義は、
担当される講師の方が
ちょっと
滑舌が悪いのと、
それ以上に
講義の内容が
濃いので、
なかなか
聴くのに手間取ったし、
講義の内容が
理解できたら、それはそれで
考えさせられることが
多いので、
なかなか大変だったが、
後半の
ユング心理学に関する
講義は、
担当される講師の方が
滑舌が良いし、
内容も
そんなに難しくないので、
とりあえず
履修申告期間の前に
この授業なら
科目登録しても
無駄にはならないだろう、と
見積もりが出来たので、
とりあえず
一安心。
面接授業の遠征費も
含めて、予算の
限界を考慮すると、
科目登録(履修申告)が
始まる前に
これくらいはやっておかないと、
無駄に
テンパるのは
決して
好きではない。
ちょっと良くなった。Googleの生成AIからの回答。
現代政治における「赤の世界」と「青の世界」:夏目漱石『それから』からの考察
夏目漱石の小説『それから』において、主人公の代助は、合理性と打算の「赤の世界」と、感情と情熱の「青の世界」の間で葛藤します。この対比は、現代政治にも通じる構図として捉えることができます。近年、政治の局面において、合理性や効率性を重視する「赤の世界」から、人々の感情や共感を重視する「青の世界」へのシフトが見られるのはなぜでしょうか。
1. 「赤の世界」の限界:合理性と効率性の落とし穴
これまでの政治は、経済成長や効率性を重視する「赤の世界」に偏っていました。しかし、その結果として、社会の格差拡大や環境問題など、さまざまな問題が生じました。人々は、合理性や効率性だけでは満たされない、人間の尊厳や心の豊かさを求めるようになりました。
2. 「青の世界」の台頭:感情と共感の重要性
このような背景から、人々の感情や共感を重視する「青の世界」が台頭してきました。SNSの普及により、人々は自分の感情を共有しやすくなり、共感する仲間を見つけやすくなりました。また、社会問題に対する関心が高まり、感情的な訴えかけが人々の心を動かすようになりました。
3. 現代政治における「青の世界」の表れ
現代政治においては、以下のような「青の世界」の表れが見られます。
ポピュリズムの台頭: 大衆の感情に訴えかける政治家が登場し、支持を集めるようになりました。
ソーシャルメディアの活用: 政治家はSNSを通じて有権者と直接コミュニケーションを図り、共感を呼び起こそうとしています。
社会運動の活発化: 環境問題や人権問題など、感情的な訴えかけを伴う社会運動が活発化しています。
4. 「赤の世界」と「青の世界」の調和:これからの政治
しかし、「青の世界」だけに偏ると、感情的な対立や分断を招く可能性もあります。これからの政治は、「赤の世界」と「青の世界」を調和させ、人々の理性と感情の両方に訴えかけることが重要です。
エビデンスに基づいた政策: 合理的な根拠に基づいた政策立案を行いながら、人々の感情や共感にも配慮する必要があります。
対話と共感の重視: 異なる意見を持つ人々との対話を通じて、相互理解を深め、共感を生み出すことが重要です。
多様性の尊重: さまざまな価値観を持つ人々が共存できる社会を目指し、多様性を尊重する姿勢が求められます。
夏目漱石の『それから』は、合理性と感情の対立という普遍的なテーマを描いています。この小説から、現代政治における「赤の世界」と「青の世界」のバランスの重要性を改めて認識し、より良い社会の実現に向けて取り組む必要があるでしょう。
静岡大学の森本先生から、AIによる「赤の世界」、「青の世界」の解釈が転倒している、とご指摘を受けたので、そのメールの部分をコピペしてGoogleの生成AIに読み込ませた後、しばらくして同じ質問をしてみました。若干修正されました。
夏目漱石『それから』における「赤の世界」と「青の世界」の対比から見る近年の政治情勢
夏目漱石の小説『それから』では、主人公の代助を取り巻く世界が「赤の世界」と「青の世界」という二つの対照的な色彩を帯びて描かれています。
赤の世界
とは、合理性や功利主義が支配する世界です。
代助の兄や友人たちが代表するこの世界は、家制度や世間体、金銭勘定といった現実的な制約の中で、人々がそれぞれの役割を演じることを求めます。
そこでは、感情や個人的な欲求は二の次とされ、社会的な成功や効率性が重視されます。
青の世界
は、感情や情熱が優先される世界です。
代助が幼馴染の三千代との関係に求めるのは、打算や世間体を度外視した純粋な愛情です。
しかし、彼を取り巻く社会はそれを許さず、二人の関係は悲劇的な結末を迎えます。
青の世界は、合理性や社会規範に縛られない、人間の内面的な欲求や感情が渦巻く世界なのです。
近年の政治情勢
近年、世界的にポピュリズムが台頭し、政治における感情の重要性が増しています。
伝統的な政治家や政党は、合理的な政策や論理的な説明に偏りがちで、人々の感情や不満に寄り添うことができませんでした。
一方、ポピュリストたちは、人々の不安や怒り、不満といった感情に訴えかけ、共感を得ることで支持を拡大しています。
合理性の「赤の世界」から感情の「青の世界」へ
この現象は、政治の世界が合理性の「赤の世界」から感情の「青の世界」へとシフトしていると解釈できます。
人々は、合理的な政策や説明だけでは満足せず、自分たちの感情や生活に寄り添ってくれる政治家や政党を求めているのです。
課題
しかし、感情に訴えかける政治は、時に扇動的になりやすく、排他的なナショナリズムや分断を招く危険性も孕んでいます。
理性と感情のバランスをどのように取るかが、現代政治の大きな課題となっています。
結論
夏目漱石が『それから』で描いた「赤の世界」と「青の世界」の対比は、現代政治における理性と感情の対立を象徴していると言えるでしょう。
感情に寄り添うことの重要性が増す一方で、理性的な判断を疎かにしてはならないという教訓を、『それから』は私たちに示唆しているのではないでしょうか。
「蛇でつながる世界 十選」 京都精華大学特任教授 稲賀繁美 (再掲)
日経新聞の 終面に、 「蛇でつながる世界」 と 題して、 古今東西の 蛇にまつわる 美術品を 通して、 その寓意を探る、 という 連載をやっていて、 頭の中で 放送大学の 「原典で読む日本の思想」 (賴住光子) の中の記紀神話と、 「精神分析とユング心理学」 (吉川眞理、田中健夫)の 「集合的無意識」が バチッと 繋がった。 日経新聞は こういうちょっとした カラクリがあるから、 高いけど やめられない。
充実
「精神分析とユング心理学」
かなり
中身の濃い
内容だ。
理解できると、
人の心の
機序みたいなものが、
確かに
実感として
見えてくる。
もちろん、自分自身を
格好の材料として。
これと、
「原典で読む日本の思想」
の
2つがあれば、
放送授業に関しては
来学期
十分に充実した
科目選択と言えそうだ。
2025年2月3日月曜日
よく寝た。
フロイトの理屈は
面白いし
役に立つと思うけど、
単位とかは
どうでもいいや。
ただ、
受診者として
精神分析の理屈を
齧ったと
医者との共通理解のうえで
カウンセリング受けると、
また
違った展開になったりするかも
知れないから、
そこは
面白いかな、と
思う程度。
でもまあ、なんだかんだ
そこを
共通認識でカウンセリング
受けるのは
結構
実のある話だと思う。
要らんこと考えるな。
お?
これ、卒論書けば
心理と教育コースも
卒業できんじゃね?
なんて
余計なことを
考えてしまった。
放送大学で
卒論書くには、かなり
キッチリした
手続きが必要
らしく、
準備期間に1年、
執筆、審査に1年、
計2年
かかるそうだ。
やっと
大学を卒業して、気ままに
暮らしているのに、
またぞろ
最短でも
2年もの間
気を揉むようなことを
するのは、
それこそ
メンタルヘルスに
よろしくない。
要らんことは
せんでいい。
「精神分析とユング心理学」
23年度に開講された
放送授業ですが、
2年前に
一通り
聞いて、ほったらかしに
していたのですが、
ちょっと
ネタも尽きたので、
なにか
面白いものはないか、と
探していたところ、
ふと
思い出して
また聞いてみました。
うーん、確かに
理解できると
面白いね。
なに?
俺の
精神構造を
理屈でわかろうとするだと?!
ふざけるな!!!!
と
思っていたが、今になって
冷静に
授業を聞いて
自分自身に投影すると、
ああ、確かに
そんな
もんかもね、と
腑に落ちるものが
あります。
これは
なかなか
面白い。
それにしても、まあ
放送教材にしても
よく
作り込んでるなあ、と
実に
感心させられます。
2025年2月2日日曜日
Googleの生成AIに英訳してもらった。何でもありだな。すげえわ。
The Contrast of "Red World" and "Blue World" in Natsume Soseki's "Sorekara": A Look at Recent Politics
In Natsume Soseki's novel "Sorekara," the world surrounding the protagonist, Daisuke, is symbolically depicted through two contrasting colors: the "Red World" and the "Blue World." The "Red World" represents a world dominated by worldly desires and utilitarian rationality, embodied by Daisuke's brother and his friend Hiraoka. On the other hand, the "Blue World" represents the world where Daisuke seeks spiritual fulfillment and aesthetic values, symbolized by Daisuke himself and the woman he is attracted to, Michiyo.
The contrast between these two worlds is a useful concept for explaining phenomena seen in modern politics. In recent years, in the world of politics, "Red World" values that emphasize economic growth and efficiency have become dominant, while "Blue World" elements such as people's emotions and ethical values cannot be ignored.
The Shift from the Rational "Red World" to the Emotional "Blue World"
In the past, politics was mainly conducted based on rational policy decisions. Economic indicators and efficiency were emphasized, and emotional elements tended to be excluded. However, in recent years, the importance of emotions in politics has been recognized, and political methods that appeal to people's emotions such as dissatisfaction, anxiety, and expectations have emerged.
For example, in the 2016 US presidential election, Donald Trump skillfully appealed to emotions such as dissatisfaction with existing politicians and anxiety about social change, gaining public support. Also, in the UK's withdrawal from the EU (Brexit), emotional factors such as immigration issues and national sovereignty had a significant impact on the outcome of the national referendum.
The Growing Importance of the "Blue World"
The rise of such political methods that appeal to emotions indicates the growing importance of the "Blue World." People seek not only economic wealth and efficiency, but also elements such as spiritual richness, ethical values, and social connections. Politicians are required to understand these elements and show a stance of empathizing with people's emotions.
The Balance of the "Red World" and the "Blue World"
Of course, "Red World" rationality is also an important element in politics. Economic growth and improved efficiency are essential for social development. However, people's happiness cannot be realized by that alone. It is important to strike a balance with "Blue World" elements, namely people's emotions, ethical values, and social connections.
Politicians need to understand both the "Red World" and the "Blue World" and make balanced policy decisions. While emphasizing economic growth, they also need to empathize with people's emotions and value social connections. Such politics is what is required in the coming era.
Conclusion
The contrast between the "Red World" and the "Blue World" in Natsume Soseki's "Sorekara" is a useful concept for explaining the conflict between rationality and emotion in modern politics. In recent years, emotional factors have increased in importance in the world of politics, and politicians are required to show a stance of empathizing with people's emotions. Politics that realizes people's happiness while balancing the "Red World" and the "Blue World" is necessary in the coming era.
Googleの生成AIがこんなこと言い始めた。すげえ。
夏目漱石『それから』における「赤の世界」と「青の世界」の対比から見る近年の政治
夏目漱石の小説『それから』では、主人公の代助を取り巻く世界が「赤の世界」と「青の世界」という二つの対照的な色で象徴的に描かれています。「赤の世界」は、世俗的な欲望や功利的な合理性が支配する世界であり、代助の兄や友人である平岡が体現しています。他方、「青の世界」は、代助が求める精神的な充足や美意識が重視される世界であり、代助自身や、彼が惹かれる女性である三千代が象徴しています。
この「赤の世界」と「青の世界」の対比は、現代政治においても見られる現象を説明する上で有効な概念です。近年、政治の世界では、経済成長や効率性を重視する「赤の世界」的な価値観が優勢である一方、人々の感情や倫理観といった「青の世界」的な要素も無視できなくなっています。
合理性の「赤の世界」から感情の「青の世界」への振れ
かつて、政治は主に合理的な政策決定に基づいて行われていました。経済指標や効率性が重視され、感情的な要素は排除される傾向にありました。しかし、近年、政治における感情の重要性が認識されるようになり、人々の不満や不安、期待といった感情に訴えかける政治手法が台頭してきました。
例えば、2016年のアメリカ大統領選挙では、ドナルド・トランプ氏が、既存の政治家に対する不満や、社会の変化に対する不安といった感情に巧みに訴えかけ、大衆の支持を得ました。また、イギリスのEU離脱(ブレグジット)においても、移民問題や国家主権といった感情的な要素が、国民投票の結果に大きな影響を与えました。
「青の世界」の重要性の高まり
このような感情に訴えかける政治手法の台頭は、「青の世界」の重要性が高まっていることを示しています。人々は、単に経済的な豊かさや効率性だけでなく、心の豊かさや倫理観、社会的なつながりといった要素も求めています。政治家は、これらの要素を理解し、人々の感情に寄り添う姿勢を示すことが求められています。
「赤の世界」と「青の世界」のバランス
もちろん、「赤の世界」的な合理性も政治において重要な要素です。経済成長や効率性の向上は、社会の発展に不可欠です。しかし、それだけでは人々の幸福は実現できません。「青の世界」的な要素、すなわち人々の感情や倫理観、社会的なつながりといった要素とのバランスを取ることが重要です。
政治家は、「赤の世界」と「青の世界」の両方を理解し、バランスの取れた政策決定を行う必要があります。経済成長を重視しながらも、人々の感情に寄り添い、社会的なつながりを重視する。そのような政治が、これからの時代には求められています。
結論
夏目漱石の『それから』における「赤の世界」と「青の世界」の対比は、現代政治における合理性と感情の対立を説明する上で有効な概念です。近年、政治の世界では、感情的な要素が重要性を増しており、政治家は、人々の感情に寄り添う姿勢を示すことが求められています。「赤の世界」と「青の世界」のバランスを取りながら、人々の幸福を実現する政治が、これからの時代には必要です。
回顧録 (再掲)
今はたぶん だいぶ 違うんだろうが、自分が入った頃の武蔵は、権威主義的な 空気がまだ 漂っていた。 もちろん、学問的な、という意味だが。 しかし、その埃っぽさが、自分には耐えられないくらい 窮屈で 仕方がなかった。 武蔵は、学問の自由とか言いながら、肝心なことは教えてくれないし、しかも、ほこりっぽいアカデミズム、言い換えれば、 学問的権威主義の空気が横溢していて、そういうところはほんとにイヤだった。 ただ、そういう権威主義に対するカウンターカルチャーというか、 真面目くさった合理主義に対するアンチテーゼとしての 道化を演じる精神は根付いていたし、 学校側も、そういうところはかなり懐は深かった。 自分が武蔵を辞めずに済んだのは、 一緒に道化を演じてくれる友人や、 学校側の懐の深さによるものだと思う。 武蔵っていう場所は、 言い訳の効かない 「お前、自分の頭で考えろよ?」 っていう 場面を、必ず一度は突きつけられる場所だと思う。 別に武蔵じゃなくてもいいんだけど、 ぶっちゃけ サニチだったら、少なくとも勉強に関しては いくらでも 逃げられる。 「自分の頭で考える」と言えば、そら誰だって自分の頭で考えてるだろ、と思うだろうが、 実際には、逃げ場がある、言い訳が効く環境では、なかなか身につくもんじゃない。 それは、 教師が頑張ってどうこう出来るもんじゃなく、 カルチャーを含めて、武蔵という学校の環境だと思う。 単に大学受験のことだけ考えれば、武蔵よりサニチのほうが遥かにいい環境だろう。 お山の大将でいられるし。 しかし、武蔵は逃げを許してくれない。 現に今だって、 下手なことを書けば、 え、それはどういうことなの? と厳しいツッコミが友達から容赦なく飛んでくるのは覚悟してる。 そういうツッコミを、 自分の中で想定していること、 つまり、自分が表明することに対してどのような批判があり得るか、を考える思考回路を 内製化できていることが、 自分の強みでもある。 山川賞とった 大澤くんみたいなのが 部活の後輩にいるとね、 大学生にもなって 自分の研究テーマを持ってないってのは、凄く恥ずかしい、と思ってたよ。多くの大学生の意識はそうでもないってことに しばらくしてから気付いたけど。そこらへんが、武蔵がアカデミズム重視の学校と 言われるゆえんだろうね。 会報で、大昔のOBの回顧録で、中1で同級生に初めてかけられた言葉が、「ご専門はなんですか?」だった、なんて話も載ってた。もともとそういう学校なんだね。つっても、自分みたいなザコは高校の現国でレポート書けなくて、教師にキレられたり、小論文が書けなくてSFC2回も落ちたり、SFC入ったら入ったで、レポート書けなくて四苦八苦したり。今みたいに守備範囲内だったら書ける、というレベルになるまでは、相当な労力と時間がかかったよ。贅沢な話だけどね。でも、高校入ってからずーっと劣等感抱えて生きてきた。 自分が高校受験に邁進してた1年間は、 ちょうど父親が地方に単身赴任してて、 だからこそ、高校受験にあれほど 時間とカネをつぎ込めたんだろうけど、 父親が 東京に戻ってきて、 後楽園に近い社宅で 4人で暮らしていた頃は、 つまんなかった。 最寄り駅は飯田橋で、 地下鉄有楽町線で 新桜台まで直通で、 武蔵まで行けたんだが、 当時は西武線に直通する本数が少なくて、 結構遅刻もした。 新桜台という駅は地下の駅で、 名前はおしゃれだが、 ほこりっぽくて無機質で、 まったくテンションのあがらない駅だった。 父親も、 会社が合併したために全くテリトリーの違う土壌に乗り込んだが、 うまく馴染めず、かなり精神的にも堪えたらしい。 そのせいか、 東京の社宅にいた頃は、 夜食事をするにも、 家族団欒であるはずの場が、父親にとっては、単純にタダで酒が飲めて接待もしてもらえるクラブと化していた。 父親も、そういう形以外での家族との接し方がわからなかったんだろう。 俺も、そのころだんだんと気持ちが塞いで、頭もボンヤリするようになっていった。 ・・・おおたとしまささんの 新書を読んでみた。 非常に読みやすいので、 2、3時間くらいで 読めてしまった。 特に そこは違うだろ! とか ツッコミたいところもなかったし、 内容も 決して薄くはなかった。 教育学的な視点による 裏付けもしっかりしていたと思う。 単純に 「都会の頭のいい学校に通っている生徒は、 塾漬けで 勉強が出来るだけのバカ」 っていうほど 白黒ハッキリした 単純なストーリーでもなかった。 それだけに、 何か 一種の勧善懲悪的な 痛快な読み物、というわけではない。 かといって、 歴史に残るような名著、というほどではないが。 ただ、 読む価値は十分あると思う。 難しいテーマだから、 何か結論めいたことを言うのは 簡単ではない。 塾は塾。 学校は学校。 何か割り切れないものは残るが、 新書一冊で片付けるのは、 土台無理なテーマだ。 ただし、 著者が 日本のエリート教育に対して 抱く懸念は伝わってくる。 代々木に 鉄緑会、という まさに この本がターゲットとしている、 都会の高校生なら 知らぬものが居ないほどの 悪名高い?塾が存在するのだが、 都庁で夜景を眺めながら、 鉄緑会を指さして、 「○○くん今あそこにいるのかな? ミサイル撃ち込みたいよね。」 とか メタさんが言っていたのを思い出した。 メタさんは 高校生のころ (本人曰く) メタルに狂い過ぎて 勉強が疎かになっていたが、 今では 誰も文句のつけようがない 立派な 社会人。 もちろん 鳩さんも。 ふたりとも、 俺が 武蔵に絶望して、 学校を途中でバックレて 電車でどこかに逃避するようになったころ、 放課後一緒に 江ノ島やら逗子やら、 いろいろなところに 日常的に 連れて行ってくれるようになった。 新宿の高層ビル群は、 ほとんど庭と言っても過言ではない。 センターと言えば、 センター試験ではなく、 センタービルのこと。 夜景ソムリエの鳩さんが、 いつも先導してくれて、 今光ったのがどこそこの 灯台だとか、 いま 羽田空港の 新C滑走路に 飛行機が降りるところ、 とか 解説してくれた。 メタさんと鳩さんの会話を聴きながら、 自分は弁論術を学んだと言っても過言ではない。 学問に対する姿勢は、 生物部の後輩の大澤くんに学んだ。 たぶん、 自分の心のバッテリーの容量って、 人並みなんだよね。 感覚が敏感すぎて バッテリーが切れるのが早いってのは あるけど、 バッテリーの容量そのものは 健常者と大して変わらない。 宮本浩次のアルバム聴いてて、 さすがに 疲れたけど、 米軍が アルカイダの捕虜を拷問するとき、 メタリカを延々と流すらしいね。 確かに、いくら ファンの自分でも、何時間も メタリカ聴かされたら、 脳ミソ壊れちゃうよ。 駿台で2浪してた時に、既に 心の堤防が決壊寸前まで 行ってたのに、 SFC入ってから更に 災害級のストレスが襲って来たんだから、 そら 正気で居るのは無理だったな。 自分が子供の頃の中国って言ったら、 真冬のクッソ寒い朝でも、 みんな人民服着て、 チャリで大移動ってイメージだったけど、 まさかここまで巨大になるとは。 自分が小学生の頃なんて、 冬は霜柱立ってて、それをザクザク踏みしめながら 登校したもんだけど。 今の子供は、北海道とかならともかく、 霜柱なんか知らんでしょ? ま、そんなことは置いといて、 慶応の研究会で、 生協で見つけた末廣昭先生の「キャッチアップ型工業化論」(名古屋大学出版会) を、パクってパワポ作ってプレゼンしたんだけど、 まるっきりそのまんまじゃ つまんないから、 よせばいいのに 経済発展の過程で労働からの疎外が起きる、なんて ぶったもんだから、集中砲火されて、 しかも、今では無惨に色あせた、グローバリゼーションてコトバが当時流行ってて、 これも生協で見つけた 伊豫谷登士翁の本に感化されたりして、 俺の頭もオカシクなった。 ま、振り返れば簡単な話のように聞こえるけど、 我ながらよくここまでやったわ。 願わくばもっと 早く 中退させて欲しかったけどね。 2ヶ月入れられてた病院から ようやく退院したとき、記帳をする 姉のペンの握り方を見て、衝撃を受けた。 中指と薬指の間からボールペンが 突き出ている。 20年近く前のことだから正確ではないかもしれないが、 よくその握り方で字が書けるな、と 逆に関心してしまうような握り方だった。 と、同時に、俺は この先の人生 誰を頼りにして生きていけばいいんだ? と、マジで心が折れそうになった。 20年前 東戸塚の 日向台っていう 精神病院に 2ヶ月 いたんだが、 名前の通り 日当たりのいい ところで、 要するに 暑かった。 心因性多飲症で 今でも 日々 大量の お茶だの 冷水だのが 必要な自分には、 冷水さえ 滅多に飲めないのは 苦痛だった。 だいたい 5月から7月の間 だったと思うが、 暑いのに 冷水さえ飲めず、 もちろん空調も効かない。 たまに 作業療法の時間があり、 旧い建物の一室で ビーズの編み物を作ったり したんだが、飽きて 薄暗い ソファーベッドに寝転んで、 俺は こんなところに居て この先の人生は 一体どうなるんだろう?と 漠たる、 漠たるとしか 言いようのない 感覚に侵されていた。 今年はそれから 20年てことで 放送大学のほうも 親から資金援助してもらって 岡山に10連泊したりなんかして、 贅沢させてもらっているが、 これは 無意識なのか、 急に 気力・体力の衰えを 感じる。 お金がなけりゃ 生きていけないのは 現代人の宿命だが、 母親が亡くなったら どう 生きていけばいい? 別に 病気だって治ったわけじゃない。 当然 薬だって 必要だ。 我ながらよく頑張ったとは 思うが、 正直 お金を稼ぐのは 不得手だ。 そもそも、そこまで 要求するのは いくらなんでも 酷なんじゃないか? かといって 自殺する気はサラサラないし。 人生100年時代? バカいうんじゃないよ。 40ちょい 生きるだけで これだけ大変なのに、 100年も生きろだと? 単純に 体の調子が 悪いだけなのかも知れないが、 なんだか 急に 疲れた。 若いうちは 気力だけは凄かったから どうにかなったが、 その 肝心の気力が 涸れつつある。 母親も 要介護3で、 俺も 精神障害者2級で、 介護保険と 傷害保険で ヘルパーさんが 毎日来て 飯つくってくれて 掃除もしてくれるんだが、 正直 本人たちは どう見ても そんなに重症ではない。 確かに、 母親も脳梗塞を発症したとはいえ、 (俺が) 早期発見したから、 症状は軽い。 俺自身、いかに 20年前に 措置入院を食らったとはいえ、 薬は確かに 必需品だが、 至ってヘルシーだ。 しかし、思い返してみれば、 幼少期から、 小林家というのは 毎日が 非常事態、 とても 安らぎの場所ではなかった。 むしろ 針のむしろだった。 母親も外面がいいから 傍目から見れば 恵まれた家庭だっただろうが、 母親が 心を閉ざしているから、 父親がいくら 稼いでも、 それを相殺して余りあるほど、 小林家というのは 毎日が非常事態だったのだ。 ここ最近は、ほんとに お互い心安らかに暮らしているが、 こうやって完全に 平穏な暮らしを出来るまでには、 本当に 長い道のりだった。 母親は、 息子(俺)が 働いてお金を稼ぐことよりも、 勉強して 学問のある人間になることのほうが、 遥かに嬉しいのだ。 俺自身、勉強は好きだ。 (理数系はまったくワカランが。) それは、母親自身 都立日比谷高校出身というのも 影響している。 姉は姉で、一緒に暮らしていた頃は モラルハザードが酷いものだったが、 いまは 結婚して出て行って、子供も出来たから、 じぃじばぁば 愛してる、なんていう どの口が言ってんだ?と 突っ込みたくなるような おべんちゃらを言っている。 とにかく、いまの小林家は 平和だ。 この平和に至るまでに 俺自身、他人には想像を絶するほどの 苦労をしながら 貢献してきたのだ。 だから、立派に 今の 安閑たる生活を享受して 許されるのだ。 放送大学の 2学期の 面接授業で、 福島学習センターで 取ってみようかと 思ってる 授業があって、 福島学習センターが 郡山の 郡山女子大学にあるんだが、 ふと、 郡山といえば、 2浪してる時に、 母親から1万円もらって、 羽生から東武動物公園まで行って、 日光線の快速に乗り換えて、 会津田島まで行って 野岩鉄道で 山奥の秘境みたいなところを ひたすら走って 会津若松まで行って、 そこから 郡山に出て、 東北線で久喜まで来たところで お金が足りなくなって、 母親に来てもらって、 精算して 羽生まで帰ってきた、 ってことがあったね。 あのときは、もう誰も 浪人してなくて、 メンタルも危機的だったし、 俺の人生どうなっちゃうんだろう? と 漠たる不安感のなかを 必死に もがいてる感じだったなあ。 そんなこと 思い出すと、 ほんとによくまあ ここまで来たよ。 あの時の俺に エールを送ってやりたいね。 お前の人生 悪くないぞ! てね。 俺けっこう 泥沼はいつくばって 生きてきたと 思ってるんだけど、 往々にして 苦労知らずの お坊ちゃんて 思われるんだよね。 その度に、 ふふ。 あなたは 俺に 騙されてるよ。 と 内心おもっているのだが。 教科書的に自分の歴史を振り返れば、20代から30代後半まで、友達から、働け、ってメタル責めされてたのは事実だけど、 あちこちドライブに連れてってもらった楽しい思い出もたくさんあるし、 それこそ彼らが地方に転勤してるときに、遊びに行ったときの楽しい思い出もたくさんあるし、無理に省略しようとすると、 「暗黒時代」かのような歴史観になりかねないけど、 ディティールを無視するのは、怖いよね。 いずれにせよ、 彼らはいつも自分に誠実に接してくれたし、説教してくれるのも、親身に考えてくれてることの裏返しだし。 (以下 坂口安吾「三十歳」より) 勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。 たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。 人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。 けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。
2025年2月1日土曜日
アドルノはまだ生きている (再掲)
グローバリゼーションによって、
世界の富の大きさは拡大したが、
分配に著しい偏りが生じたことは、
論を俟たない。
日本においても、
新自由主義的な政策の結果、
正規、非正規の格差など、
目に見えて格差が生じている。
そのような中で、
経済的に恵まれない層は、
ワーキングプアとも言われる状況のなかで、
自らのアイデンティティーを
脅かされる環境に置かれている。
エーリッヒ・フロムの論考を
参考にして考えれば、
旧来の中間層が、
自分たちより下に見ていた
貧困層と同じ境遇に
置かれるのは屈辱であるし、
生活も苦しくなってくると、
ドイツの場合は、
プロテスタンティズムの
マゾ的心性が、
ナチズムのサディスティックな
プロパガンダとの親和性により、
まるで
サド=マゾ関係を結んだ結果、
強力な全体主義社会が生まれた。
日本ではどうだろうか?
過剰な同調圧力が
日本人の間には存在することは、
ほぼ共通認識だが、
それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、
そうでなければ、
社会から強要される
画一性への服従となって、
負のエネルギーが現れる。
そこで追究されるのが、
特に民族としての「本来性」という側面だ。
本来性という隠語は、
現代生活の疎外を否定する
というよりは
むしろ、
この疎外の
いっそう狡猾な現われに
ほかならないのである。
(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ)
グローバリゼーションが
後期資本主義における
物象化という側面を
持っているとすれば、
グローバリゼーションによる
均質化、画一化が進行するにつれ、
反動として
民族の本来性といった民族主義的、
右翼的、排外主義的な傾向が
現れるのは、
日本に限ったことではないのかもしれない。
むしろ、
アドルノの言明を素直に読めば、
資本主義が高度に発展して、
物象化が進み、
疎外が深刻になるほど、
本来性というものを
追求するのは不可避の傾向だ、
とさえ言える。
さらには、
資本主義社会が浸透し、
人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、
人々は、
自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、
理性を超えた領域に
求めるようになる。
社会全体が体系化され、
諸個人が事実上
その関数に
貶めれられるように
なればなるほど、
それだけ
人間そのものが
精神のおかげで創造的なものの属性である
絶対的支配なるものをともなった原理として
高められることに、
慰めを
もとめるようになるのである。
(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ
人間そのものが
精神のおかげで
創造的なものの属性である
絶対的支配なるものをともなった原理として
高められることに、
慰めを
もとめるようになるのである」
という言葉が
何を表しているか、
自分の考えでは、
「社会全体が体系化され、
諸個人が
事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、
(疑似)宗教のように、
この世の全体を
精神的な色彩で説明し、
現実生活では
一個の歯車でしかない自分が、
それとは
独立した
精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、
その
ヒエラルキーの階層を登っていくことに、
救いを感じるようになる、
という感じだろうか。
まるでオウム真理教のようだ。
教養のヘーゲル (再掲)
ヘーゲルが、国家と
(市民)社会とを
区別して捉えたことが、
国家論の歴史において
画期的な意味を持つことである
ということは
すでに指摘した通りである。
その
国家と社会の分離の理由として、
ヘーゲルは、
市民社会には、
国家のはたすような
真の普遍を支える
能力がないから
ということをあげる。
そこで、
市民社会の
私的利害に対応する
だけのものである
「契約」
という概念によって、
国家の成立原理を説明する
「社会契約説」
に
厳しい批判を
浴びせることともなった。
しかし、
それだけではないはずである。
というのも、
国家と市民社会の
分離の把握
ということは、
市民社会が、
相対的にではあっても
国家から独立した
存在であることの
指摘でも
あるはずだからである。
近代国家においては、
プラトンが掲げた
理想国家におけるのとは異なって、
国家が
個人の職業選択に
干渉したりはしないし、
その他の
個人の私生活に
干渉したりはしない。
同様に、
国家が
市場原理を
廃絶あるいは抑圧するような
こともない。
そのように、
市民社会が
自分独自の原則に
したがって存在し、
機能していることが
尊重されている
ということが、
近代における
個人の解放という
観点から見て、
重要なことである
はずなのである。
それは、
ヘーゲル流の表現にしたがうならば、
一方では、
近代国家なり、近代社会なりが
「客観的必然性」
によって
構成された
体制であったとしても、
他方では、
個人の
恣意や偶然を
媒介として
成り立つにいたった
体制だからだ
ということになる。
(p.103)
(中略)
近代国家の原理は、
主観性の原理が
みずからを
人格的特殊性の自立的極に
まで
完成することを
許すと同時に、
この
主観性の原理を
実体的統一につれ戻し、
こうして
主観性の原理
そのもののうちに
この統一を
保持するという
驚嘆すべき
強さと深さを
もつのである。
【260節】
(中略)
国家が、
有機体として
高度に
分節化されるとともに、
組織化されているが
ゆえに、
個人の選択意志による
決定と行為が
保障される。
個人は、
基本的には
自分勝手に
自分の人生の方向を決め、
自分の
利害関心にしたがって
活動することが許されている。
にもかかわらず、
このシステムのなかで
「実体的統一」
へと連れ戻される。
それは
強制によるものとは
異なったものであり、
あくまで
個人は
自己決定の自由を認められて、
恣意にしたがっている
にもかかわらず、
知らず知らずのうちに
組織の原理に
したがってしまう
という
形を取るのである。
また、
個人の
自律的活動あればこそ、
社会組織の方も
活性化され、
システムとして
満足に機能しうる。
こうして、
有機的組織化と
個人の自由意志とは
相反するものであるどころか、
相互に
補い合うものとされている。
それが、
近代国家というものだと
いうのである。
(p.104)
「教養のヘーゲル」佐藤康邦 三元社
神なき時代の連帯? 森鴎外「かのように」を巡って 山岡龍一先生からのご回答 (再掲)
一つの簡単な答えは、 ヘーゲル的な意味での 統治は 不可能だ ということです。 その代替案は 複数ありえますし、 フーコーは その一つでしょう (ただし、「知と権力」の 共犯関係が いかなる統治を 具体化するのかは、 わたしには 理解しがたい 難しさが あるように思えます)。 最も わかりやすい代替案が 新自由主義の統治だといえます。 もしも これを拒絶するとすれば、 問題は、 何らかの形での ヘーゲル的な統治への回帰か、 神無き時代の連帯の 可能性の追求となります。 現代の リベラルな政治理論は だいたい 後者のさまざまな バリエーションですが、 密かに 神が導入されている 可能性があるのものが多いので、 フーコーのような議論が 流行るのだと思われます。 鴎外については、 わたしにはコメントする能力はありません。 ただ、 そのような苦悩があるとすれば、 それは鴎外が いかにヨーロッパ(ドイツ)文明に 拘束されていたのかを 示す ことになるでしょう。 ただし、 そのような苦悩を まったく抱かない (ないしは、 そのような苦悩の可能性に思い至らない) 日本人よりは、 はるかにましな 精神性をもっていると思いますが。 明治日本は、 ある意味では、 神無しで ヘーゲル的な全体性を 国家は維持できるのか、 という問いを いち早く 突きつけられていた ともいえます。 この問いへの回答の一つは、 現在でも、 「新たな神の創造」ですが、 そのような回答が、 必然的に 政治的に 悲惨なものになることは、 我々が 歴史から学んだことだといえます。 キリスト教文化圏では、 たとえ 神が死んだ時代でも、 この危険性が よく知られていますが、 はたして日本ではどうでしょうか。 考えてみてください。
「危機の二十年」 岩波文庫 (再掲)
「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」 E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より
行政法を学ぶ、ということ (再掲)
初めて 行政法という 法分野に触れたのは、 慶応SFCで 位田央先生の講義でしたが、 およそ 慶応SFCみたいなところで 行政法の授業を 履修するような学生 というのは、 保険で 公務員狙いの層なので、 下手に 授業中に質問なんかしようものなら、 とてつもない 無言の圧を感じる羽目になるので、 結局 たしか 履修申告はしたものの、 ほとんど 授業には出席せずに もちろん 単位も取得できずに 終わりましたが、 それが 2006年のことで、 なぜか 自分には 行政法という分野が 面白く感じられて、 ちょこちょこ 勉強してきました。 放送大学の放送授業でも、 磯部力先生という 行政法学界の超大御所や、 北海道大学の 渡辺賢先生の 名講義などを聴いたものの、 単位認定試験が とてつもなく 難しく、 結局 行政法の単位は取得できずじまいに 終わっていましたが、 今回 郡山女子大学で 行われた 福島大学の垣見教授の 面接授業を 超少人数の対面授業で 受講できて、 細かい疑問点を解消したり、 あるいは 実際の 事例などを通して、 行政法の知見を深めることが できました。 行政法というのは、 非常に マイナーな法分野ですが、 実は 果てしなく 重要な、というか、 知っているのと 知らないのとでは 天地の差があると 言って過言ではないほどの 法分野だと 思います。 例えば、私は 精神障害者ですが、 行政から 障害者という 「枠」 で 括られることの メリット・デメリット、 強いて言えば メリットがあるからこそ 「障害者」という 「枠」 が あるわけですが、 それがどういう 重みを持っているか、ということを 改めて 実感いたしました。 私などは 狭い専門が 経済思想なので、 フワフワしたことを 語りがちなのですが、 それはそれで 大事だと 思うのですが、 だからこそ、 現実に 行政というのが どういう 法的建て付けで 動いているかを知る、というのは、 極めて 重要なことだと、 痛感いたしました。 行政から、行政に対して、 どういう 権利義務関係を 構築するのか、という 法的 建て付けを 知っているということは、 自由に生きたければ、尚一層 大事なことだと 思います。 場合によっては 行政を相手に ケンカをするにしても、 正しい ケンカの仕方を 知っているのと知らないのとでは、 大違いです。 そもそも、 行政法の知識が なければ、 行政を相手に ケンカする、などということが およそ ドン・キホーテな ことです。 そういう観点からも、 今回 行政法の授業を 集中的に 受講できたことは、 じつに 貴重な機会でした。 担当された 福島大学の 垣見先生には、 心より 感謝申し上げます。
「金融と社会」質問と回答その7 (再掲)
質問:インフレ目標政策についてうかがいます。 私の実感でも、物価が上がってきたなー、と感じます。 より正確には、 通貨(円)の価値が目減りした ということだと思われますが。 あまり国民の生活が苦しくなれば、 物価の安定という意味では、 金利をあげたほうがまだマシ、 と考える家計も 増えてくるのではないかと考えます。 そうすると、なるほどこれがフィッシャー効果か、 と思われるのですが、 確かに 実質金利がさがったことで 消費者の購買意欲が増したことで 景気の底割れを防ぎ、 政府の名目上の税収も 増えていると言われています。 しかし、かといって、 国も企業も家計も借金まみれの現状では、 今さら金利を上げられるのか、 甚だ疑わしいです。 なぜなら、 金利の上昇は、確かに通貨(円)の価値を 底上げする可能性はありますが、 上述のように 政府・企業・家計が借金まみれの状態では 金利の上昇は難しいことは無論、 長期金利の上昇は、 政府の借金の利払いを増嵩させるのみならず、 日本国債の価格を低下させるため、 発行済日本国債の6割を保有すると いわれる日銀の財務状況を、 著しく危殆にさらすものと考えられるからです。 果たして、 これが当初のインフレ目標政策の 目指していた姿なのか、 甚だ疑念を感じずにはいられません。 回答: 質問文に書かれていることは、私も理解できます。 インフレ目標政策が 2013年に導入を余儀なくされた時、 当時の白川総裁には その問題点がわかっていたと思います。 日銀が2000年に インフレ目標政策について調査したレポートを リンクしておきます。 http://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2000/data/ron0006a.pdf
黄色信号 (再掲)
円安が進んでますね。 イエレンさんが、投機的な動きがある、と発言していました。 つまり、投機筋が、 円売りを仕掛ている。 なぜ円売りを仕掛ているかというと、 自国通貨が売られて通貨安になれば、 常識的には、中央銀行は、利上げをして自国通貨高に誘導しようとする。 日本に当てはめると、 日銀がイールドカーブコントロールという、馬鹿げた政策によって、 中央銀行は本来、短期金利しかコントロールできないとされているのに、 長期国債を無制限に買い入れて、 無理やり長期金利を抑え込んでいる。 つまり、日本国債の価格が異常に高い。 (裏を返せば、日本国債の利回りが異常に低い。) 投機筋は、円を売れば、 日銀は過度な円安を修正するために、 政策金利を上げざるを得ないと読んでいる。 それだけでなく、投機筋は、 日本国債売りも同時に仕掛けています。 そうすると、日銀は、金利上昇抑制のために、日本国債買い入れを余儀なくされる。 そうすると、市場に円が供給されるので、 結果、円安がますます進行する、という悪循環に陥っています。 まあ、はっきり言って自業自得としか言いようがないですが、 政府・日銀は、 日本国債を買い入れつつ、外貨準備を使って円買い介入をする、という 矛盾したことやろうとしています。 なぜ矛盾しているかというと、 国際金融のトリレンマに従えば、 「資本移動の自由」 「為替の安定」 「金融政策の独立性」 の3つは、同時にすべてを達成することは出来ないからです。 資本移動の自由は犠牲にすることは出来ません。 従って、 為替の安定と金融政策の独立性のどちらかを犠牲にせざるを得ないわけですが、 金融政策の独立性を保持するとすれば、 外貨準備を使って為替介入しなければ、 自国通貨は安定しないのです。 日銀・政府は、 大規模金融緩和を継続する一方で、為替介入をする、という”矛盾した”政策を行っているわけです。 投機筋もこれは完全に計算のうえでやっていますが、 問題は、結局のところ 日銀がどこまで無謀な大規模金融緩和を続けるか、ということです。 大規模金融緩和を続ける限り、 日銀のバランスシートに日本国債がたまり続けるだけで、 金利は上がりませんから、 今までは一般人も痛みを感じなかったので、 非難の声が上がりませんでしたが、 円安が急速に進んで、消費者物価まで上昇し始めると、 消費者からも、なにやってんだ、という声があがり始めます。 アベノミクスの3本の矢のうち、 結局、大規模金融緩和だけが継続していますが、 安倍氏の死去に伴い、 日銀に対して、大規模金融緩和を継続させる 政治的プレッシャーが弱くなったことは事実でしょう。 日本の財政から言っても、 れいわ新選組が言ってるように、 国債をどんどん発行して、 日銀に買い取らせればいい、などという、 無責任なことをやっていると、 日銀の財務状況が悪化して、円の信用が毀損されたり、 そうでなくとも、日銀が、政府の借金である国債をいくらでも買い取ってくれるから、 いくら赤字国債を発行してもいい、という モラルハザードが現実に起こっています。 岸田首相はそこらへんの事情は当然わかっているはずです。 いずれにせよ、 日銀はこれ以上、 異常な大規模金融緩和を続けることによって、 イールドカーブコントロールという 国際金融の現状からすれば異常な金融政策を維持することは、 非現実的と認識していると思われますので、 少なくとも 金利の上昇幅の拡大をこっそり容認する、 ということは、 十分予想されるところです。 しかし、加藤出さんも言っているように、 イールドカーブコントロールから抜け出すことは、 大きな混乱を伴うと予想されるので、 それこそ 投機筋の外圧がなければ いつまでも続けていたところでしょうが、 幸か不幸か、現実的ではありませんでした。 さて、焦点は、 日銀がどこまで金利の上昇幅を容認するか、 そしてそのタイミングはいつか、 ということになりそうですが、 金利の上昇幅は実務家ではないので知りませんが、 タイミングとしては、そう遠くないのではないかと思われます。 これだけ急激な円安を鑑みると、 黒田総裁の任期満了まで 待てるとは思えません。 従って、 急に金利が上がる、ということは、 十分ありえる話です。 ・・・で、何が言いたいか、というと、 金利が上がって困るのは、 超低金利を前提として 変動金利で住宅ローンを組んでいる家計です。 銀行も馬鹿ではないので、 固定金利は既に段階的に引き上げています。 それは、変動金利が上昇すれば、 固定金利に借り換える人が増えると予想しているからと言って過言ではないでしょう。 ですので、 変動金利で住宅ローンを組んでいる人は、 専門家に相談するなりして、 対策を立てたほうが良いでしょう。 自分は専門家でもなんでもないので、 この文章の内容に責任は負えません。
「失われた時を求めて」 光文社古典新訳文庫 第一巻 読了
特に肩肘張らずに、
気の向いたときに
ちょこちょこ
読んでいたら、
いつの間にか
読み終わった。
訳文が
素晴らしいのだろうが、
もとの
フランス語の文章が
珠玉のように
洗練されてるんだろうな、とは
思う。
ひたすら
優雅であり、また
その
心裡描写には、ギクリと
させられるほど。
こんな
素晴らしい小説が
あったんだなー。
フランス文学ってのは
すげえわ。
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