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月光

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ちくしょう、 エッチな サウンドだぜ

ついでに

宋の時代になると、 江南の開発が進み、 米作が盛んになるとともに、 菜種油が 使われるようになり、 烏龍茶や 肥満に関する 健康書や 日用書が 出回るように なったそうです。 宋の時代には 銅銭が流通し、 日本の 鎌倉幕府との 交流も進み、 交易船の重しとして 銅銭が使われたことから、 日本にも 宋銭(銅銭)が 流通し、 さらに 元(モンゴル帝国)によって 宋が滅ぼされると、 元は 紙幣を強制的に流通させた ために 大量の 銅銭が 鎌倉時代の 日本に 流入したと 言われています。 余談ですが、 米はもともと 温暖な地域が原産なので、 地球温暖化でも 病気の蔓延は別として 基本的に大丈夫です。 新潟、秋田や北海道といった 寒冷な地域で 栽培されている イメージが強いですが、 むしろ 品種改良した結果 冷涼な地域でも 栽培できるようになった、 と 言われています。 東北地方では しばしば 米の 凶作に見舞われましたが、 戦前の昭和で 米の大凶作が 起きて 農民が疲弊しなければ、 戦争は 避けられたのではないか、 という 説もあると 聞いたことがある気がします。

無知

ロシア文学を 少しでも かじったことのある 人なら 知っていますが、 ロシアでは ファーストネームを 呼び捨てにするのは ご法度です。 例えば、 カラマーゾフの兄弟でも、 アレクセイはアリョーシャ、 ドミートリーはミーチャ、 などと 呼ばれており、 最初は混乱します。 親ですら、いきなり ファーストネームで 呼び捨てたりはしません。 かの 安倍首相(当時)は、 よりにもよって 公然の場で プーチン氏のことを ウラジミール!と 呼び捨てにしましたが、 これがどれだけ 失礼なことか、 全くわかっていなかったのでしょうね。 アドリブなのか、外務省を シカトしたのか。 とにかく、世界に恥を晒しました。 ちなみに、 安倍首相(当時)の発言の後、 プーチン氏は 「いま思いついた」と 言って、 北方領土について 言及しましたが、 果たして 日本に好意的なものだったのでしょうか? とてもそうとは 思えないですね。

続けて

隋帝国、それに続く 唐帝国の時代に 北方で 栄えたのが、 突厥です。 (ちなみに、 突厥は 現在の トルコの 源流とされ、 突厥が 柔然から 独立した年が 現在でも トルコの 建国日とされている そうです。) 唐の時代の 「西遊記」で有名な 玄奘も 陸路で インドを目指しますが、 突厥の長 (可汗) から 歓待を享けています。 陸路で行けた、 ということは、 突厥の支配のおかげで 安全だった、ということです。 隋唐に続く 宋の時代、 北方で 栄えたのが、 契丹族です。 契丹は 英語で キャセイと言いますが、 香港の航空会社 キャセイ航空は これです。 ロシア語では いまでも 中国のことを キャセイと 呼んでいるらしいです。 それくらい 強大な力を誇りました。 英語の辞書で Cathay を 調べれば、 中国のことを指す ことが 確認できます。 さて、 契丹と、南では宋が 栄えた 10世紀、 周辺国家では 次々と あるものが発明 されます。 文字です。 契丹文字もそうですが、 日本でも ひらがな が 発明されています。

さらに

北魏は 漢民族の文化と 同化しようと、 名前を 漢民族風にしたりと、 いわゆる 漢化政策を 行います。 これは 特に 孝文帝の治世に 行われました。 また、 仏教を保護することで、 帝国の 正当性を強調したりしました。 雲崗・大同石窟が有名です。 また、 南の 隋、それに続く唐帝国も、 もはや 純粋な 漢民族帝国ではなく、 北方の騎馬民族の 血が入っています。

ついでに

項羽と劉邦の 戦いの果に 漢帝国が 成立するわけですが、 現実には それで 終わりではなく、 その後 漢帝国は 北方の 匈奴との 戦乱を経験します。 で、 実のところ、 負けてます。 秦の始皇帝が 築いた 万里の長城で、 北方の騎馬民族は その南には 入ってこれないのかと 自分も 思ってましたが、 そんなことは ありません。 (ちなみに 現在の万里の長城は 主に 明の時代に 修繕されたものです。) 漢帝国は、 匈奴と和睦するために、 皇族を匈奴に 嫁がせていたりします。 それが 後々、 五胡十六国時代といって、 さまざまな 北方民族が 東部ユーラシアで さまざまな 国を建国したときに、 我々は 漢帝国の末裔だ、と 名乗って、 漢を名乗る 国が現れるらしいです。 そして、 その戦乱の中から 鮮卑族拓跋氏が 平原を統一し、 北魏が 建国されます。 こうして、 中国大陸の 北では 北魏、 南では (さまざまな 王朝が栄えた後) 隋帝国が 統一・成立するのが、 南北朝時代です。

三国志

魏呉蜀は 知らなくても、 さすがに 孔明は 聞いたこと ある方は 多いと思います。 ただ、 世界史を 勉強すると、 魏晋南北朝時代といって、 呉も蜀もシカト、 魏だけ。 孔明のコの字も出てこない、 しかも 孔明のライバル 司馬懿仲達の子孫が 建国した 晋が出てきて、 それもその後続く 南北朝の動乱と 一緒くたにされてしまうのが 悲しい現実です。 さて、 あの戦乱の時代は、 地球が寒冷化したために、 海水が蒸発せずに、 雨がふらない、 したがって 作物が実らない、 (南米チリ沖に 寒流が流れてて、 砂漠が広がっているのと 同じですね。) という 気候変動が 戦乱の原因という説 が あるそうです。 暑すぎてもダメ、 寒すぎてもダメ なんですね。 失礼しました。

青の世界と赤の世界 「自然」を巡って

質問:授業でうかがった漱石の自然(じねん)感ですが、それは代助が「青」の世界で拵えた造り物だったのでしょうか? 三千代との実質的な姦通というある種の「原罪」のために、代助は「赤」の世界へと放り出されるのでしょうか? 代助にとって、「じねん」の世界は、「青」の世界でしか成立しえないまがい物なのか、それとも本来的に人間にとって所有しえない抽象物なのか。 アドルノの「自然」観との対比でも、興味深く感じられました。 ご回答:「原罪」という言葉もありましたが、倫理的な漱石は、やはり代助の「青の世界」を(海神の宮の「3年」期限に同じく)、癒しをも意味する一定期間の滞留後には出て行くべき、後にするべき世界として想定しているように思われます。 その意味では、現実世界と水底とーー世界を2つに分断してしまっているのは「代助」であり、人間が現実世界の死を背負った存在である以上、当然、水底的な内なる世界と連続しているはずの赤い現実世界へ、代助が帰還すべきであることは自明であり、当然、代助は葛藤を体験しなければならない‥。こんな感じかなと思います。(オタク青年の現実世界への帰還)。 「じねん」ですが。 「青の世界」ーー自負する「自家特有の世界」で彼が創出した「己に対する誠」を起点に「自分に正直なー(作為や人為の加わることのない)おのずからな−あるがままの」といった展開上に「じねん」が生まれて来るわけですが、上述のようなテクストの構造から言えば、当然、「じねん」は「自然」の最も暗い側面ともいうべき欲動的なものと接続せざるを得ない。というより、元々、「じねんーおのずからな・あるがまま」自体が、まさに「あるがまま」の欲動的なものを内包している、と言うべきなのかもしれません。 そう考えれば、ストーリー展開に従って、「青」が「赤」に接続してゆくように、「おのずから」も「行く雲・流れる水」といった上澄的なものへの憧れの昂まりが、必然的に、同じく「おのずから」人が備えている欲望的な側面を、まさに、おのずから浮上させざるを得ない。 こういった感じなのではないでしょうか。 「じねん」は、「青の世界」の文脈では不本意ではあるものの、本来的に欲動的なものと切り離せず(極論すれば、それを含み込んだ概念であり)、重々、それを承知の漱石が、(身勝手に2つの世界を分断してしまっている)代助を現実世界ー欲望の世...

レポート予備

そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 漱石の個人主義は、 まるで 原子核のように 硬い殻に閉じこもり、 独り 思考実験の檻に 苦しめられているように感じられる。 『それから』における、 代助が 百合の花にむせぶシーンが 象徴するように、 主観と客観の区別から 逃れ、そこに 純粋で平和な「自然」を 見出そうとしながら、 やはり 個人主義を手放せない 漱石は、 孤独な近代人の塑形であるようにも見える。 ジュリア・クリステヴァが論じたように、 近代は 主観と客観の区別の間にある abjectを 抑圧し、ないものとして 見做した社会なのかもしれない。

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 復習 資料より抜粋

問い: 幸福とは何か 。 ソクラテスは誰でも、これは、自分で人生を「設計してゆく」という発想と結びつくことである。 したがって、<配慮するもの>をもち、配慮を重ねてそのつど考え、行動する自分の人生設計者としての「一人称特権」のようなものは、幸福を問題にするとき、なおざりにできない。 たとえあることが自分のためであっても、それを押し付けられたのでは「自分の人生」ではなくなる。 ソクラテスは、このような一人称の問題があることに反して精神や徳に気を遣えといっているのではなく、 この問題があるからそれに沿うように「気を遣うもの」を考えさせようとした、 その場合、精神的なものや徳に気を遣うことは、あなたにとって納得できる方向になるはずだ、という語りかけをしている。 ☆人生を「まじめに」考えること  1.幸福の中身は「一人一人の問題」であり、他人に勧告されるには及ばない。 しかし幸福というものにまつわる「構造」や「形式」の問題は、単に「その人の問題」であるのではない。 われわれの「人生の夢」の見方は、お互いに、似ている。 構造や夢の見方を「知る」ことは、自分の「一人称」としての資格や個人の強さを上昇させてくれそうに思える。  2.問題なのは、人が「分かりやすい資格として」もしくは何らか「世間的に」上昇するということではない。 たとえば、社長になるとか出世するとか大学教員になるとか有名人になるとか金持ちになるとかではない。 実質的に自分の人生に対してよい位置を占めるようになることである。 したがって、ほんとうに行動が「自分のもの」として首尾一貫して統御されていること、 ほんとうの気持ち・実感から発想したことが 同時に知性の表現にもなっていることが目標になる。  3.ソクラテスはここで、 「知性」にふさわしい課題 がじつは数多くあり、 それを追求しながら生きてゆくことが幸福につながる、と語りかける。 われわれの生活は、目的・手段の関係を持つ多くの行為からできている。 お金儲けや名声・地位等のためのことは、 お金・名声・地位・容姿等で何をするかという、 「次の問い」を予想する。 ここから、人間らしい生活は、「その先」を考えるところまでいかなければ 成就しない、という結論を導くことができる。  4.この「その先」は、一人一人が考えな...

顔の現象学

ところで、ルソーは疎外論の元祖だそうである。 「ホントウのワタシ」と「社会的仮面を被ったワタシ」の分離という中学生が本能的に感じるようなことに言及していたそうである。ここで、いわゆる『キャラ』について考えてみよう。 サークルの飲み会で、場にあわせてドンチャン騒ぎをやることに倦み果てて、トイレに逃げ込んだときに自分の顔を鏡でみるのは一種のホラーである。鏡に映る、グダグダになって油断して仮面を剥がしかけてしまった見知らぬ自分。それを自分だと思えず一瞬見遣る鏡の前の男。男は鏡に映る男が自分であることに驚き、鏡の中の男が同時に驚く。その刹那両方の視線がカチあう。俺は鏡を見ていて、その俺を見ている鏡の中に俺がいて、それをまた俺が見ている・・・という視線の無限遡行が起こって、自家中毒に陥ってしまう。 このクラクラとさせるような思考実験からは、<顔>についてわれわれが持っているイメージとは違う<顔>の性質を垣間見ることが出来るのではないか。そもそも、自分の顔は自分が一番よく知っていると誰もが思っているが、鷲田清一によれば、「われわれは自分の顔から遠く隔てられている」(「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22)という。それは、「われわれは他人の顔を思い描くことなしに、そのひとについて思いをめぐらすことはできないが、他方で、他人がそれを眺めつつ<わたし>について思いをめぐらすその顔を、よりによって当のわたしはじかに見ることができない。」(P.22)からだ。 言い換えれば、「わたしはわたし(の顔)を見つめる他者の顔、他者の視線を通じてしか自分の顔に近づけないということである。」(P.56)ゆえに、「われわれは目の前にある他者の顔を『読む』ことによって、いまの自分の顔の様態を想像するわけである。その意味では他者は文字どおり<わたし>の鏡なのである。他者の<顔>の上に何かを読み取る、あるいは「だれか」を読み取る、そういう視覚の構造を折り返したところに<わたし>が想像的に措定されるのであるから、<わたし>と他者とはそれぞれ自己へといたるためにたがいにその存在を交叉させねばならないのであり、他者の<顔>を読むことを覚えねばならないのである。」(P.56) そして、「こうした自己と他者の存在の根源的交叉(キアスム)とその反転を可能にするのが、解釈の共同的な構造である。ともに同じ意味の枠をなぞってい...

脳の進化

https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=1213 そもそもヒトは単に信号を出しているのではなく、「あなたに心があって、あなたの心を読むことによって、私はあなたの思いを共有している。そして、そういうことをあなたも分かってくれるから、お互いに思いが共有できる」という、この基盤がなければ言語というものは実は働かないのです。

ある傷ついた生活

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ホルクハイマーと アドルノの 主張するところによれば、 事実、 ファシズムは ある程度まで 人間の抑圧された 神話的過去の 回帰とも、 また 道具的理性が 自然支配のために 発達させた 多くの道具を 逆用しての 支配された 自然の復讐とも 解されうるのである。 こうして「進歩」は、 おのれと 正反対のものを、 つまり 現代の制御技術を 駆使することによって はるかに 非情なものになった ひとつの 野蛮を 産み出すことになる。 科学は、 人間を 向上させる比類なき 力であるよりも、 むしろ ある新しいかたちの 非人間化の種子を 抱懐するものであることが 明らかになるのである。 科学が成立する 前提条件の一つは、 自然がまだ 道具的理性によって 支配されていない 状態の記憶を 消し去ってしまう ことにある。 ホルクハイマーと アドルノが、 きわめて 頻繁に 引用される その所感の一つで 強調しているように、 たしかに、 「あらゆる 物象化は 一種の 忘却なのである。」 (「アドルノ」 岩波現代文庫 49頁)

やさしい経済学 「衰退する日本の中間層」 田中聡一郎 駒沢大学准教授 より 抜粋、編集

先進諸国で中間層の衰退が話題になっています。 人工知能(AI)やロボット技術の発展で、中間層が担ってきた定型的な仕事が失われ、労働市場の二極化が進むのではないかということも議論されています。 また従来、リベラル政党を支持していた労働者階級も、グローバル化や移民労働者の増加で安定した雇用が失われ、没落したと感じています。 その不満が米トランプ政権の誕生や西欧での極右政党の台頭など、ポピュリズムや政治的分断の背景にあるようです。 日本もかつては「総中流社会」といわれ、平等な社会と考えられてきました。 しかし2000年代以降、格差社会が到来したといわれます。 なぜ、中間層の存在が重要なのでしょうか。 それは、経済成長と民主主義の基礎となる存在だからです。 経済的な観点からは、 中間層の家計は教育投資に力を入れる傾向があり、 それは社会全体としても人的資本の蓄積につながります。 その結果、 イノベーションや経済成長を生み出す原動力が生まれるのです。 また、 中間層の衰退で所得分布が二極化すると、 高所得層から低所得層への更なる所得移転が必要となるでしょう。 その結果、社会保障制度の維持が難しくなったり、 財源問題を巡る政治的対立が深刻化したりすることも考えられます。 中間層の衰退は、イノベーションの停滞や政治的分断を引き起こしかねません。 経済発展と社会の安定には分厚い中間層が必要といえます。 中間層の衰退の背景には、「仕事の二極化」の進行があるといわれます。 グローバル経済や情報通信技術(ICT)の発展で、 中間層が担ってきた定型タスクの仕事が喪失したという指摘です。 中間層においても、自動化による仕事喪失のリスクは小さくないのです。 またOECDの中間層の報告書によると、 今後の人工知能(AI)やロボットなどの自動化技術の進化によって、 さらに中間層の仕事が失われるのではないかと推測しています。 自動化リスクの高い職業に従事する労働者の割合は、 高所得層のうち11%、中所得層では22%と推計されています。 中間層においても、自動化による仕事喪失のリスクは小さくないのです。 日本の家計は中間層であるという自己認識を持っていますが、 実際には生活不安を抱えています。 実態は、 所得の二極化が生じているのではな...

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 資料より

私は、 自分のもともとの 性質が 「ここまで くらいは がんばろう」 と 課した限界の範囲で 自己研鑽に励む ときでさえ、 謝罪や後悔もなく、 自分の もともとの性質を 「与えられた 当たり前のもの」 として 受け入れており、 そのようなとき、 自分自身に対する 「自己愛」を 持っているのである。 私の 自我と 私とは、 一様に すべてのことを 共有しながら、 いっしょに 多くのことを くぐり抜けてきた。 私が彼 (=私の自我) を 支える限り、 彼が 私を 失望させることはなかった。 私は 彼を 叱ったこともあるが、 けっして 彼の本性を 呪うことはなかった。 彼には 間違いなく 欠点があるし、 ひどくそうなのだが、 その短所が あらわになるとき、 私はやさしく 寛大に ほほえむのである。 彼のへまは、 彼のような 性質をもつ だれからでも 人が予想するようなものである。 人は、 これほどまで きわめて 近しくしてきた 存在を 憎むようには なれない。 好むと好まざるとに かかわらず この人物 (=私の自我) に依存してきた 全年月の後、 どのようにして 別の自我と うまくやりはじめることができるか、 私は 実際知らないのである。 このように、 自己同一性 (自分が自分であること) は、 一種の約束による 見合い結婚だと 考えることが できる。 その 見合い結婚は、 安定的な人の中では 真実の愛へと 成熟するものだが、 不安定な人の中では、 堕落してしまって、 恨み言と 自滅へと至る。 人の 自己愛の もっとも 真実の表現は、 自身の善さへの献身であり、 それは 他の誰のものでもない 自身の もともとの性質 (そのような 性質は 不条理な、 変なものかもしれない) の 自己充足である。 (「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)