2022年12月31日土曜日

「おのれ自身を理解していない思想だけが、本物である。」 テオドール・W・アドルノ

母親の回復具合を見て、 来年こそは 公務員試験にチャレンジ しようかどうしようか、 なんて考えてたけど、 どっちでもええわ。 どっちにしても 日本の命運が変わるわけでもないし。 1日3回ヘルパーさんが来てくれて、 まあ、 年齢層高めの女性だけど、 みんな可愛がってくれるし、 なんか だんだん気分良くなってきた。 あれ、このテンション久しぶりだな、て。 もっと若ければ、 こんな境遇で満足していたらイカン!と 思ってただろうけど、 もう40超えてますからね。 どっちにしろ 人生の方向性は大方決まってるし、 それで ハメを外して道を誤るってことも ないだろうし、 まあいいか! という感じです。 母親を見守るっていう 役目も果たせるしね。 https://www.youtube.com/watch?v=KZckLy6FKCA

2022年12月30日金曜日

brilliant world

https://www.youtube.com/watch?v=JSaWZHlMUws こんな曲が 頭のなかで 鳴り響くほど ラリってる。

2022年12月29日木曜日

抜書き

「abjectは、subjectあるいはobjectをもじった造語です。 ab-という接頭辞は、『離脱』という意味があります。 母胎の原初の混沌、 闇に由来し、 subject/object の二項対立に収まり切らなかったもの、 それを排除しないと 秩序や合理性が成り立たないので、 抑圧され、ないことに されてしまう要素を abject と言います。」 「ゲーテ『ファウスト』を深読みする」(仲正昌樹 明月堂書店 p.164)より

「魔の山」 トーマス・マン 岩波文庫 (再掲)

さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり) https://www.youtube.com/watch?v=P0dTn1Ga818

「ポピュリズムとは何か」(中公新書)締めくくり

「デモクラシーという品のよいパーティに出現した、 ポピュリズムという泥酔客。 パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。 ましてや手を取って、ディナーへと導こうとはしないだろう。 しかしポピュリズムの出現を通じて、 現代のデモクラシーというパーティは、 その抱える本質的な矛盾をあらわにしたとはいえないだろうか。 そして困ったような表情を浮かべつつも、 内心では泥酔客の重大な指摘に 密かにうなづいている客は、 実は多いのではないか。」

「ポピュリズムとは何か」 (中公新書)より 重要な論点

「国際都市ロンドンに集うグローバル・エリートの対極に位置し、 主要政党や労組から『置き去り』にされた人々と、 アメリカの東海岸や西海岸の都市部に本拠を置く 政治経済エリートや有力メディアから、 突き放された人々。 労働党や民主党といった、 労働者保護を重視するはずの政党が グローバル化やヨーロッパ統合の 推進者と化し、 既成政党への失望が広がるなかで、 既存の政治を正面から批判し、 自国優先を打ち出して EUやTPP,NAFTAなど 国際的な枠組みを否定する急進的な主張が、 強く支持されたといえる。」

追慕

こんな気分の時に、 あなたのことを 思い出して少し元気になるのも、 許されないのですか? これが 依存だの妄想だの 言われたら、 僕の人生のすべては 砂上の楼閣ですよ。 まったく。 https://www.youtube.com/watch?v=tAGnKpE4NCI

歴史は繰り返さないが、韻を踏む。

やっぱ 明治・大正を 学ぶって、 すげー 意義深いと思うのよ。 現代社会が置かれている グローバル化、 経済発展、 それに伴う 貧富の格差、 社会的分断、 さらには ポピュリズム。 全部の要素が詰まっている。 日本に留まらず、 南米・欧州・アメリカも含めて、 政治と経済のダイナミズムの 縮図が、 明治・大正・昭和前期の日本にある。

「ポピュリズムとは何か」 中公新書 より

「近年語られてきた、『階級なき社会』『今やみんなが中産階級』という 言説は幻想にすぎないのであって、 現実には一部の人に富が集中する一方、 格差と困窮が広がっていることを彼は指摘する。 しかも自己責任原則が広まり、 就労優先政策が浸透するなかで、 職に就くこともままならない労働者階級の人々には 『怠惰』とのレッテルが貼られ、 社会的な批判が向けられている。 しかし、実際には産業構造の転換によって 不本意ながら職を失った労働者に 批判を向けるのはお門違いであり、 むしろ深刻な社会的分断を招いている、 と彼は論じる。」

出遅れ気味のメリークリスマス!

どうやら 使っていない タブレットに毎月 結構な額の 料金を支払っていることが 明らかになり、 支払請求書から どうにかこうにか 電話を繋げて、 どうも ソフトバンクのタブレットのようだ、 ということがわかって、 ソフトバンクのオペレーターに 予約を取ってもらって、 イオンモール高崎の ソフトバンクショップに 行って来ました。 解約手続きは拍子抜けするほど 簡単だったけど、 イオンモールそのものが 大きすぎて 疲れた。 また、 帰りのバスが ガキどもで混んで、 それも ストレスだった。 とにかく、行ってきたぜー! 我ながら、 やるべきことは グズグズせずに やれる人間だな、と 大げさだけど 自画自賛。

「世界文学への招待」 野崎歓先生との質疑応答より (再掲)

質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。  フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。  「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家を孤立させ絶望においやっている現状が鋭く指摘されています。その他の時事的な文章・発言においても、ヨーロッパにおけるグローバリズムと言うべきEU経済戦略のもたらすひずみと地場産業の危機は、ウエルベックにとって一つの固定観念とさえ言えるほど、しばしば繰り返されています。 つまり、ウエルベックは「グローバリゼーション」が伝統的な経済・産業活動にもたらすネガティヴな影響にきわめて敏感であり、そこにもまた「闘争領域の拡大」(ご存じのとおり、これはそもそも、現代的な個人社会における性的機会の不平等化をさす言葉だったわけですが)の脅威を見出していると言っていいでしょう。なお、「セロトニン」で描かれる、追いつめられたフランスの伝統的農業経営者たちの反乱、蜂起が「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言・予告するものだと評判になったことを、付記しておきます。 以上、ご質問に感謝しつつ、ご参考までお答え申し上げます。

とりあえずまとめ

「ポピュリズムとは何か」(中公新書)で指摘している 日本のポピュリズム政党は、 維新の会なんだけど、 最初はラディカルだった 維新の会も、 国政政党として 活動するにつれ、 簡単に言うと ”丸くなる”。 が、かといって 存在意義がなかったかというと、そんなことはなくて、 既存のエスタブリッシュメント政党を 変えるポテンシャルを持っていた。 その後、 NHK党や参政党のような ガチガチのポピュリズム政党が現れたが、 完全に民主主義にとっての脅威か、というと、 そういう側面もあるが、 やはり 既存のエスタブリッシュメント政党を 変容させる ポテンシャルを秘めているし、 なにより、 既存の政党に魅力を感じていない無党派層の 声を国政に反映させる、 という役割を演じる可能性もある。

「ポピュリズムとは何か」 中公新書 より 

「ここには、VBにおける演劇批判と同様の、 『エリート文化』の『独占性』に 対するポピュリズム的な批判を見てとることができる。 批判される対象が、フランデレンの場合は 前衛的で多文化主義志向の演劇であり、 大阪の場合は典型的な 伝統芸能であるという点では、 批判の矛先がそれぞれ逆を向くように見える。 しかし いずれの芸術も、高度の技能を持つ専門家たちによって 担われており、 公的な保護や財政支援の対象となりつつも、 必ずしも『大衆受け』するものになっていないという 現状がある。 そこが 『大衆のための芸術』を 求めるVBや 橋下市長により、 批判の対象とされたといえよう。」

ちびまる子ちゃん (再掲)

どういうわけか 最近 母親が ちびまる子ちゃんの 再放送を見てるんだが、 昨日の放送だと、 ノグチさん?とかいう、 見た瞬間に 陰キャと判定できる、 しかもひねくれた女の子が、 お菓子目当てで、 他の いつもの連中と ちびまる子ちゃんの家に集まってるんだけど、 そこに、 ちびまる子ちゃんの母親はもちろん、 おじいさん、 (もしかしたらおばあさんも?) まで 集まって、 そのノグチさん?の 繰り出す 卑屈なクイズに付き合ってあげてるんだよね。 ちびまる子ちゃんって、 他にも 玉ねぎ頭のナガサワくん?だっけ? みたいな ほぼつねに ひねくれてる キャラが出てくるけど、 そういう日陰者にも、 漫画の中でとは言え、 居場所があったんだな、と思うわ。 もしかしたら、 現代の日本は、 効率性の美名のもとに、 そういう日陰者に対して、 お前は陰キャだ! ひねくれ者だ! そして それはお前のせいだ! 自己責任だ! と、 ネガティブな心性を内面化させ、 社会から居場所を排除した社会なのかも知れない。

グローバリゼーションとナショナリズム (再掲)

グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。 そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、理性による計量的画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 (以下引用)社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感じでしょうか。まるでオウム真理教のようですね。

旬報社 (再掲)

1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。 大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。 しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。 そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。 また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。 1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より つまり、日本の内需の縮小と労働市場の貧困化は、企業の海外進出と表裏一体であり、その見返りとしての、海外からの利子・配当などの、いわゆる第一次所得収支の恩恵として現れる。 https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX

「現代の国際政治」第5回 まとめ (再掲)

あ〜あ、思い出せるだけ〜思い出して、あそびたぁぁぁぁい! てなわけで、 放送大学「現代の国際政治」第5回の放送授業内容を、出来る限り思い出しながら、要点をまとめてみたいと思います。 まず、第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。 ま、こんなとこかな。 地域間経済協定については割愛した。

ポピュリズムとは何か 中公新書

ネットで 「ルサンチマン 政治」で ググってみたところ、 色々出てきましたが、 これだ! という検索結果が得られなかったものの、 シャンタル・ムフ、という どこかで聞いた 名前が出てきたので、 Amazonで 検索かけたら、 関連図書で、 「ポピュリズムとは何か−民主主義の敵か、改革の希望か」 (水島治郎 中公新書)が 引っかかって、 サンプルを読んでみたら、 面白そうだから、 購入して キンドルにダウンロードして、 読んでます。 石橋湛山賞を受賞しているだけあって、 文章も軽妙、 含意するところも深いです。 新書だから安いしね。 ウキウキ♪ これだ! 「エリートに対する人々の違和感の広がり、 すなわちエリートと大衆の『断絶』こそが、 ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。 ポピュリズム政党は、既成政治を既得権にまみれた一部の人々の占有物として描き、 これに『特権』と無縁の市民を対置し、 その声を代表する存在として自らを提示するからである。」 「二十世紀末以降進んできた、産業構造の転換と経済のグローバル化は、 一方では多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの発展を促し、 グローバル都市に大企業や高所得者が集中する結果をもたらした。 他方で経済のサービス化、ソフト化は、規制緩和政策とあいまって 『柔軟な労働力』としてのパートタイム労働や派遣労働などの 不安定雇用を増大させており、低成長時代における 長期失業者の出現とあわせ、 『新しい下層階級』(野田昇吾)を生み出している。」

2022年12月28日水曜日

年末年始

なんか、 世の中が 妙なテンションになるから、 疲れるね。 母親もそう感じるらしいけど。 テレビはテレビで 普段とは違うノリになるし、 新聞読んでても、 妙に1年の総括みたいな 空気感漂ってるし。 今年は特に 安倍ちゃんが銃撃されて亡くなったり、 年末に 日銀がサプライズ利上げしたりとか、 ドタバタしてたからか、 余計にアタフタ感がある。 自分自身、 嫌でも無意識に 来年どうするか、を 考えるし。 ぶっちゃけ、 放送大学の来年の面接授業の 予定が 公開されるまで、 筋肉注射でもしてもらって 眠らせてもらっていたいくらいだ。 結局行かないことになったけど、 忘年会なんてもってのほかだ。 疲れるだけ。 まあ、 新年あけたら、 誰かから1枚くらいは 年賀状来るかも知れないから、 それはそれで 楽しみだけど。 薄々思ってたけど、 俺って 陰キャなのかも。 岩をひっくり返した時に 逃げ回る 芋虫みたいな キャラなのかもね。 もしかしたら。 もうほっといてくれ。

2022年12月27日火曜日

あてはまりにくい「貨幣数量説」 (日経新聞「やさしい経済学」〘年月日不明〙より 抜書き)大阪大学 敦賀貴之教授 (再掲)

経済活動の量が変わらなければ、 貨幣量を増加させれば 物価だけが増えると予測できます。 つまり、経済に流通する貨幣量を 機械的に増やすと、 増えた貨幣はそのまま 経済に流通し、 経済取引の総額が増えます。 しかし、 経済にお金が回っても 需要が高まるだけで、 供給は増えず、 貨幣量と同じスピードで 物価だけが上昇します。 このように、 貨幣の数量で物価が 決まるという考え方が 貨幣数量説です。 日銀は20年近くにわたり、 貨幣量を大幅に増やしましたが、 物価の上昇は期待ほどではありません。 多くの経済学者は、 短期的には 貨幣量の変化は生産量の変化につながると考えます。 さらに データ上は、 流通速度は趨勢的に 低下傾向を示し、 日本ではこの30年で 流通速度が半分に低下しました。 貨幣量が増えれば 物価は上がるという 単純な理屈は 当てはまりにくいのです。

貨幣数量説 (再掲)

完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は古典派経済学の発想なので、完全雇用は常に達成されていると想定されているので、物価は貨幣量と貨幣の流通速度で決まる。 従って、貨幣量を増加させれば、物価は上がる。 「貨幣の所得流通速度が一定不変で,かつ伸縮的な価格メカニズムの作用により実質産出量(実質国民所得)の水準が長期の均衡値に一致するならば,貨幣数量の変化は国民所得の大きさや構成にはなんら影響を与えず,ただ物価水準を比例的に変化させると主張する説。」有斐閣経済辞典第4版

ルポ塾歴社会 幻冬舎新書

暇だったので、 キンドルで おおたとしまささんの 新書を読んでみた。 非常に読みやすいので、 2、3時間くらいで 読めてしまった。 特に そこは違うだろ! とか ツッコミたいところもなかったし、 内容も 決して薄くはなかった。 教育学的な視点による 裏付けもしっかりしていたと思う。 単純に 「都会の頭のいい学校に通っている生徒は、 塾漬けで 勉強が出来るだけのバカ」 っていうほど 白黒ハッキリした 単純なストーリーでもなかった。 それだけに、 何か 一種の勧善懲悪的な 痛快な読み物、というわけではない。 かといって、 歴史に残るような名著、というほどではないが。 ただ、 読む価値は十分あると思う。 難しいテーマだから、 何か結論めいたことを言うのは 簡単ではない。 塾は塾。 学校は学校。 何か割り切れないものは残るが、 新書一冊で片付けるのは、 土台無理なテーマだ。 ただし、 著者が 日本のエリート教育に対して 抱く懸念は伝わってくる。 代々木に 鉄緑会、という まさに この本がターゲットとしている、 都会の高校生なら 知らぬものが居ないほどの 悪名高い?塾が存在するのだが、 都庁で夜景を眺めながら、 鉄緑会を指さして、 「○○くん今あそこにいるのかな? ミサイル撃ち込みたいよね。」 とか メタさんが言っていたのを思い出した。 メタさんは 高校生のころ (本人曰く) メタルに狂い過ぎて 勉強が疎かになっていたが、 今では 誰も文句のつけようがない 立派な 社会人。 もちろん 鳩さんも。 ふたりとも、 俺が 武蔵に絶望して、 学校を途中でバックレて 電車でどこかに逃避するようになったころ、 放課後一緒に 江ノ島やら逗子やら、 いろいろなところに 日常的に 連れて行ってくれるようになった。 新宿の高層ビル群は、 ほとんど庭と言っても過言ではない。 センターと言えば、 センター試験ではなく、 センタービルのこと。 夜景ソムリエの鳩さんが、 いつも先導してくれて、 今光ったのがどこそこの 灯台だとか、 いま 羽田空港の 新C滑走路に 飛行機が降りるところ、 とか 解説してくれた。 メタさんと鳩さんの会話を聴きながら、 自分は弁論術を学んだと言っても過言ではない。 学問に対する姿勢は、 生物部の後輩の大澤くんに学んだ。 https://www.youtube.com/watch?v=0e4Odk-v3oU

2022年12月25日日曜日

はぁ・・・萩生田うぜえな。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221225/k10013934201000.html 国民の歓心を買いたいだけ。 今まで通り 国債発行して 日銀に 尻ぬぐいしてもらおう っていう意図が丸見え。 国民は国民で、 泣けばあめ玉を しゃぶらせて もらえる っていう 発想に 浸りきっている。 こんな国はもう終わりだ。

こういうやり取りがさらっと成り立つのが、武蔵生の面白いところ。

俺:確か、Vitzと同時にPlatzてクルマも世に出てた気がするけど、なんで前者は売れて、後者は流行らなかったんだろうね。 鳩さん:日本ではセダンブームが去ったのが大きいかな。プラッツはビッツをベースにした派生車だからトヨタとしてはプラッツ売れなくてもあまり関係ない。あとビッツもプラッツも世界戦略車でプラッツは南米とかでかなり売れてるね。僕もチリで運転したことある(冷房壊れてて窓開けて走ったら車内が砂場になった)

忘年会

年末に、 中学(佐野日大)の 忘年会に誘われました。 色々聞かれるかなー? と思って、 自分の中で 想定問答集つくってみたけど、 なかなか 昔のことを思い出すってのは、 ツライね。 でも、 誘ってくれた人と やり取りしてるうちに、 自分自身の 色々なことに気付いた。 なかでも、 なぜ自分は 高校受験してまで 武蔵はいったのに、 武蔵に絶望したのか。 受験そのものは、 なんも知らない 田舎の中学生が、 夢だけで突っ走っただけだったけど、 入ったあとに、 何を考え、絶望したのか。 まあ、 こんだけ 前振りして、 大したオチじゃないんだけど、 この国の受験ヒエラルキーってのはオワッてて、 中学生のうちから 東大に行くことを至上命題としてるやつが ひたすら学校と塾を往復してるっていう 現実かな。 まあ、実際はそこまでシンプルじゃないんだけど、 あれ、俺って東大行きたいから 高校受験したんだったっけ? 俺の憧れてた生活ってこんなんだったの? っていう、ごく単純な話。 その反動から 高校のときは ひたすら遊んでたって結論。 で、 2年浪人して 慶応はいったら、 やっぱり 偏差値ヒエラルキーに取り憑かれたやつら ばっかりで つまんなかった、というオチ。 https://www.youtube.com/watch?v=pxpIXKUOoZY

2022年12月24日土曜日

「証券投資理論の基礎」@広島大学レジュメより (再掲)

Q:名目金利が年8%でインフレ率(CPI)が年5%のとき、実質金利は3%か? ex. 100円の債券投資→1年後:108円 100円の消費財の組み合わせ→1年後:105円 のとき 1年後の108円の購買力=108/105=1.02857 (この投資の収益率:2.857%) ☆実質金利と名目金利、インフレ率(CPI)の関係 1+実質金利=(1+名目金利)/(1+インフレ率) ex.参照せよ 式変形して、すなわち ★実質金利=(名目金利-インフレ率)/(1+インフレ率) つまり、デフレはマイナスのインフレ率なので、実質金利を上げてしまう。

結局、この10年で「政策割当の原理」が正しいということが実証されただけだったね。 (再掲)

質問:中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、とありますが、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか?あるいは、新古典派経済学では「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか? 回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。すなわち、「政策割当の原理」です。したがって、「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要となります。  本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。本来の金融政策の目標(物価の安定)と異なるため黒田日銀総裁は「異次元の金融政策」という言葉を使ったのです。このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。このシナリオどおりに進めば、もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。ただ、経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります。したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため「財政再建」が先送りになってしまいます。それゆえに、「財政再建」の政策目標の一環として消費税の引上げが考えられています。このように、「政策割当の原理」は成立しています。https://news.infoseek.co.jp/article/joseijishin_2068465/

この国はサイアクだ!

結局 日銀は 何をしたかったんだろう? 物価が上がれば、 名目金利に上昇圧力が加わる(フィッシャー効果)わけだから、 それは即 政府債務危機に繋がるわけで、 そう考えたら、 インフレターゲットは 財政健全化とセットだったはずなのに、 事態は真逆。 で、 円安が行き過ぎて、 コスト・プッシュのインフレになって、 でも 名目金利を指値オペしまくって 抑え込んでたけど、 限界に達して、 譲歩した。 家計は、 物価上昇による 購買力の目減りを 名目金利の上昇に求めることよりも、 現預金を貯め込む方向、 つまり デフレに逆戻り。 そうして、 家計の資産が 政府債務を買い支える構図が 維持される。 こんなん、もうどうにもなんないじゃん。 蟻地獄にハマったアリと同じ。 それはともかく、 今回の日銀の措置は、 ちょっと奇妙だよね。 金利が上がるのは容認するが、 国債の買い入れ額は増やす、っていう。 金融緩和と利下げは必ずしも同じではない、という興味深いケース。 つまり、政府の尻拭いは続けるけど、 市場の圧力には屈しました、ってこと? よくわかんねえ。 https://www.youtube.com/watch?v=fJ9rUzIMcZQ

フィッシャー効果 (再掲)

物価上昇の予想が金利を上昇させるという効果で、フィッシャーが最初にそれを指摘したところからフィッシャー効果と呼ばれる。 ある率で物価の上昇が予想されるようになると、貸手が貸金に生じる購買力目減りの補償を求める結果として、資金貸借で成立する名目金利は物価上昇の予想がなかったときの金利(=実質金利)より、その予想物価上昇率分だけ高まる。(以下略) 有斐閣経済辞典第5版 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html

無聊を託つ (再掲)

暇だな・・・ 暇なら働きゃいいじゃん、 母親も、 何も言わず 一人で郵便局行けるほどに回復したし。 しかし、 俺が暇だから働く、 となれば、 母親はどうなる? 俺より暇じゃないのか? 暇だってそれなりに苦痛であることを 理由に、働こうかな、なんて言ってる息子が、 母親を放置していいんだろうか。 ん?でも俺って、実はそれなりに体力ついてきたんじゃないか? 連日エキサイトしてるのに、それなりに朝早く起きられるし。 睡眠の質もいいし。 ところで、最近また世間のマインドがデフレの方向に向かってる気がする。 テレビとかでも、いかに食事などを安く済ませるか、という内容が散見される。 母親も、飯尾和樹がワンコインで賢く食費を浮かせてて、偉いと言っている。 円安と資源価格高騰による コストプッシュ・インフレの影響と、 それでも企業の価格転嫁が進まずで、 結局、名目賃金が上がったとしても、 実質賃金が目減りしているから、 当然と言えば当然なんだけど、 そもそも 期待インフレ率を上げて、実質金利を下げることにより、消費を喚起することが インタゲの主眼目のはずだったのに、 これじゃ本末転倒じゃないか。 ただのスタグフレーション。 黒田日銀は、日本経済を永久凍結させる気か? 見方によっては、富の分配の偏りは、消費の低迷によって 国全体を貧しくする、ということも言えるだろう。 そもそも、少子高齢化が進めば、 老人の支出が減るのは当たり前だし、 働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、 消費を控えるのは当然だろう。 それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。 政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。 https://www.youtube.com/watch?v=c8qrwON1-zE

どーすんだろうね? (再掲)

もし、日銀が目的としている2%の物価上昇が実現した場合、国債の発行金利が2%以上になるか、利回りが最低でも2%以上になるまで市場価格が下がります。なぜなら、実質金利(名目利子率-期待インフレ率)がマイナスの(つまり保有していると損をする)金融商品を買う投資家はいないからです。国債(10年物)の利回りは0.1%程度(2018年11月現在)ですが、それが2.1%に上昇した場合、何が起こるでしょうか。政府の国債発行コストが跳ね上がるのはもちろんですが、より重要なことは、国債価格が暴落し、国債を大量に保有している銀行に莫大な評価損が出ることです。 経済の論点 旬報社 72ページより

2022年12月23日金曜日

スペイン戦2点目

いわゆる 三苫の1mm だけど、 ボールがゴールライン 割ってたかどうか はともかく、 ボールに対して、 あの角度で滑り込んで、 あの角度に ボールを蹴れる技術は 凄い。 どうやったら ああいう角度に蹴れるのか、 皆目見当がつかない。

岸田さん

岸田内閣は 必ずしも支持しないが、 岸田首相は よくこんだけ 安倍が遺した 地雷踏みまくって、 しかも 増税だの 超金融緩和修正だの、 明らかに 国民に不人気なこと やりまくって、 安倍みたいに 放り出さずに タフに 政権運営してるのって、 正直すげーな、と思うけどね。 野党は楽でいいよ。 旧民主党デリバティブズは、 与党の足引っ張って おとぎ話してりゃ それで ポイント稼げるんだから。 しかも、 敢えてテレビに映るところで、 官僚を絞り上げて、 いかにも やってます感 演出してるところとかね。 うざいんだよ、正直。

2022年12月22日木曜日

単純に

最初は 2年でベースマネーを2倍にして、期待インフレ率2% という3つの”2”を掲げて、 それを 実現する強い意志表示としての 政府・日銀が一体として 取り組む アコード(協定)を 発したけど、 結局10年やった結果がこれだよ。 安倍なんていう 経済のこと何もわかってないバカが ええかっこしいして、 挙句の果てには 「日銀は政府の子会社」とか 公言して、 日銀を政府の打ち出の小槌にしてた。 そして、 国民も喝采を浴びせていた。 そのツケがまわってきたんだよ。

2022年12月20日火曜日

住宅ローン金利

今回の 日銀の措置で、 住宅ローンの固定金利は あがるだろうが、 変動金利は 上がらない、 とされているが、 もちろん 自分は実務のことは全くわからないが、 銀行だって 前もって予告して 変動金利を上げるよりは、 不意打ちで、 しかも 各行一斉に利上げするのが当然だろうから、 なんだ、 うちは 変動金利で住宅ローン借りてるから 関係ないや、で済まされるのかどうか? 明日の日経新聞にどう書いてあるか、 明日の朝が待ち遠しい。 余談だけど、 去年だったか、 茨城大学で受けた 応用ミクロ経済学の授業では、 家電量販店の 「他社のほうが1円でも安かったら教えて下さい。うちのほうが安くします。」 という セールスは、 逆に 価格カルテルを結んでいるのと同じで、 アメリカでは違法行為らしいけど、 今回銀行が住宅ローン金利で どういう 行動に出るかってのは、 非常に興味深い。 もちろん、 ゲーム理論的に分析するような 能力は ないんだが。 ・・・さて、朝刊が届きました。 住宅ローンの変動金利については、 さらっと 影響は限定的、みたいなことが書いてありました。 ただ、問題は 今回の日銀の措置は、 海外投資家からすると 「歴史的勝利」と 映じているらしく、 今後さらなる 日本国債売りを しかけてくる、 みたいなことが書いてありました。 舞台は幕が上がったばかり。 これからが本番。 切り抜いた記事載せたかったけど、 スマホのカメラの性能が良すぎて、 記事の内容が全部モロ・マルミエールさんに なっちゃったから、 断念。 https://diamond-fudosan.jp/articles/-/1111795 https://www.youtube.com/watch?v=5tsw4zRAleY 千日太郎氏に言われると、納得。 こういう人がYouTubeに こんな質の高い内容上げられたら、 テレビはよっぽど頑張らないと、 生き残れないんじゃないか? 民放の中途半端な記者の話 より、遥かに参考になるし、 信用できる。 https://www.a-tm.co.jp/top/housingloan/basicknowledges/type/housing-loane-floating_rate/ わかりやすい。

愚か者どもが夢のあと (再掲)

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2022-12-14/RMUP25T0AFB701 https://president.jp/articles/-/64467?page=1 来年の4月の黒田日銀総裁退任まで、 何事もなく終わるとは 思えない。 リフレ政策が明らかに失敗に終わったのに、 黒田が日銀総裁の地位に居座ってるのは、 もう単純に メンツの問題だけでしょ? 金融正常化するなら、 一刻も早く退任してくれないと、 漫然と国債買い続けられても、 迷惑なんだよね。 お前のメンツのためにこれ以上日本の将来を 犠牲にするのはやめろ。 政治は政治で自分の権力欲むき出しの 政争繰り広げてるし。 もう、 市場が鉄槌をくださない限り、 日本に未来はない。 すでに手遅れかも知れないが、 ちょっと痛い目に遭わないと、 フリーランチはないってことを、 国民も理解できない。 いい加減安倍のペテン政治から目を覚ませ。
人為的に長期金利を押し下げる金融政策を続ける日銀は、 皮肉にも歳出圧力や負担先送り論を受け止める安全弁となってしまっている。 「市場のメカニズムをねじ曲げることは一時的にできても、 最後はひずみが来る。今のままいけば市場の制裁を受けることになる」 法政大学の小黒一正教授はいう。 負担軽減策は確かにありがたいが、 この繰り返しで国はやっていけるのか。 国民の間に疑問が芽生えてもおかしくない。 (日経新聞朝刊 2022/12/14 6面) https://www.youtube.com/watch?v=JU5LMG3WFBw

黄色信号―ほれ、ゆーたやろ? (再掲)

円安が進んでますね。 イエレンさんが、投機的な動きがある、と発言していました。 つまり、投機筋が、 円売りを仕掛ている。 なぜ円売りを仕掛ているかというと、 自国通貨が売られて通貨安になれば、 常識的には、中央銀行は、利上げをして自国通貨高に誘導しようとする。 日本に当てはめると、 日銀がイールドカーブコントロールという、馬鹿げた政策によって、 中央銀行は本来、短期金利しかコントロールできないとされているのに、 長期国債を無制限に買い入れて、 無理やり長期金利を抑え込んでいる。 つまり、日本国債の価格が異常に高い。 (裏を返せば、日本国債の利回りが異常に低い。) 投機筋は、円を売れば、 日銀は過度な円安を修正するために、 政策金利を上げざるを得ないと読んでいる。 それだけでなく、投機筋は、 日本国債売りも同時に仕掛けています。 そうすると、日銀は、金利上昇抑制のために、日本国債買い入れを余儀なくされる。 そうすると、市場に円が供給されるので、 結果、円安がますます進行する、という悪循環に陥っています。 まあ、はっきり言って自業自得としか言いようがないですが、 政府・日銀は、 日本国債を買い入れつつ、外貨準備を使って円買い介入をする、という 矛盾したことやろうとしています。 なぜ矛盾しているかというと、 国際金融のトリレンマに従えば、 「資本移動の自由」 「為替の安定」 「金融政策の独立性」 の3つは、同時にすべてを達成することは出来ないからです。 資本移動の自由は犠牲にすることは出来ません。 従って、 為替の安定と金融政策の独立性のどちらかを犠牲にせざるを得ないわけですが、 金融政策の独立性を保持するとすれば、 外貨準備を使って為替介入しなければ、 自国通貨は安定しないのです。 日銀・政府は、 大規模金融緩和を継続する一方で、為替介入をする、という”矛盾した”政策を行っているわけです。 投機筋もこれは完全に計算のうえでやっていますが、 問題は、結局のところ 日銀がどこまで無謀な大規模金融緩和を続けるか、ということです。 大規模金融緩和を続ける限り、 日銀のバランスシートに日本国債がたまり続けるだけで、 金利は上がりませんから、 今までは一般人も痛みを感じなかったので、 非難の声が上がりませんでしたが、 円安が急速に進んで、消費者物価まで上昇し始めると、 消費者からも、なにやってんだ、という声があがり始めます。 アベノミクスの3本の矢のうち、 結局、大規模金融緩和だけが継続していますが、 安倍氏の死去に伴い、 日銀に対して、大規模金融緩和を継続させる 政治的プレッシャーが弱くなったことは事実でしょう。 日本の財政から言っても、 れいわ新選組が言ってるように、 国債をどんどん発行して、 日銀に買い取らせればいい、などという、 無責任なことをやっていると、 日銀の財務状況が悪化して、円の信用が毀損されたり、 そうでなくとも、日銀が、政府の借金である国債をいくらでも買い取ってくれるから、 いくら赤字国債を発行してもいい、という モラルハザードが現実に起こっています。 岸田首相はそこらへんの事情は当然わかっているはずです。 いずれにせよ、 日銀はこれ以上、 異常な大規模金融緩和を続けることによって、 イールドカーブコントロールという 国際金融の現状からすれば異常な金融政策を維持することは、 非現実的と認識していると思われますので、 少なくとも 金利の上昇幅の拡大をこっそり容認する、 ということは、 十分予想されるところです。 しかし、加藤出さんも言っているように、 イールドカーブコントロールから抜け出すことは、 大きな混乱を伴うと予想されるので、 それこそ 投機筋の外圧がなければ いつまでも続けていたところでしょうが、 幸か不幸か、現実的ではありませんでした。 さて、焦点は、 日銀がどこまで金利の上昇幅を容認するか、 そしてそのタイミングはいつか、 ということになりそうですが、 金利の上昇幅は実務家ではないので知りませんが、 タイミングとしては、そう遠くないのではないかと思われます。 これだけ急激な円安を鑑みると、 黒田総裁の任期満了まで 待てるとは思えません。 従って、 急に金利が上がる、ということは、 十分ありえる話です。 ・・・で、何が言いたいか、というと、 金利が上がって困るのは、 超低金利を前提として 変動金利で住宅ローンを組んでいる家計です。 銀行も馬鹿ではないので、 固定金利は既に段階的に引き上げています。 それは、変動金利が上昇すれば、 固定金利に借り換える人が増えると予想しているからと言って過言ではないでしょう。 ですので、 変動金利で住宅ローンを組んでいる人は、 専門家に相談するなりして、 対策を立てたほうが良いでしょう。自分は専門家でもなんでもないので、 この文章の内容に責任は負えません。 https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/470422.html https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/466765.html

ついに

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221220/k10013928411000.html 山が動いた。 これからどうなるか、見ものだぜ。

乗り越えた

今年も 残り2週間を切りましたね。 よく、 中年の危機、 ミドル・クライシスなんて言いますけど、 ひとつ40代ってのは 山場ですよね。 竹内結子とか、 三浦春馬とか、 彼は30代だったけど、 ポックリいっちまう。 自分も ずっとしんどかったけど、 今年は なんか乗り越えたな、 という感が強いです。 やっぱ 八戸サテライトで受けた 「キリスト教哲学の歴史」は 大きかったかな。 人はパンのみにて生くるにあらず、ですよ。 まったく。 キリスト教哲学と歴史との関わりを 知れた、というのも 大きかったですけど。 何しろ、「哲学」ですからね。 無闇矢鱈に信じろって話じゃないですからね。 それと、 茨城大学で受けた 「ソクラテスに批評精神を学ぶ」も良かった。 古代ギリシャ哲学とキリスト教ってのは 密接な繋がりがあるし、 ソクラテスの話だけでも、 人生の指針になる。 今年は 非常に実りの多い年でした。 フライング気味のハッピーニューイヤー!!!!!

ゼロコロナ政策

中国のゼロコロナ政策が失敗して、 それどころか 経済の停滞や、 共産党支配への 反発まで招いた 現状を鑑みると、 日本で コロナ感染が真っ盛りの頃、 中国は 強権的に ゼロコロナ政策、 つまりロックダウンが できるから、 その点においては 民主主義国家よりも 優れていて、 これからは 中国の時代だ、 みたいな論調があったことを思うと、 やっぱり 東洋的専制(オリエンタル・デスポティズム)との対比で 民主主義を考えると、 何か 我々が当然と思っている以上の 価値が、 民主主義という 政治体制には 内包されているのではないか、 という 気がしてくる。 戦前の日本において、 他のアジア諸国に先駆けて 政党政治が根付いたということは、 間違いなく 日本にとって 貴重な財産であるはずだ。

2022年12月17日土曜日

英語で「道」を語る

放送大学の 英語の授業で、 タイトルの 講座があり、 時間もあるので、 教材も調達して 勉強し始めました。 最初は、 簡単過ぎて やる価値ないかと 思いましたが、 いざ始めて見ると、 日本人のこころ、 つまり発想を 英語で表現する、 という知的でスリリングな 試みの中から、 これは使える! という表現が 1ページ目から 詰まっていて、 これは いいものを見つけたぞ! と 掘り出し物に 出会った気分です。 しみじみと 体に染み込ませたい 表現が たくさんあります。 日本語と英語は発想そのものが違うから、 日本語の発想を 英語で伝えるには どうすればいいか、 という 問いに対する ひとつの答えに なっていると思います。 ・・・素晴らしいね。 昨日今日と 茶道の話でしたが、 簡単な単語でも、 なるほど! こういう使い方があったか!と 非常に勉強になります。 ・・・スクリプトを書き下ろしたのは 斎藤兆史東大大学院教授だけど、 久しぶりに 日本人指導者が日本人学習者のために 書いた 英文に触れると、 やっぱり日本人の発想で英文書くからか、 そうそう、 こう言いたい時どうすればいいか 知りたかったのよ! っていう表現が 沢山載ってて、非常に参考になる。 ・・・2日間で半分終わらせた。 よく日本人の思考の型を捉えてるな、と思います。 これを英語で表現する方法を 習得できたら、かなり強みになるんじゃないかな。 ・・・これは相当な意欲作かつ野心的な試みですね。 ・・・あらかた終わった。 ああ、日本人て言われてみればそんなもんかな、という 話が多かった。 後半になるにつれ、 前半で論じた内容が 基礎となって、 話が進むので、 単に 日本人っぽい話、 という内容ではなく、 英語の達人である 斎藤兆史先生が 真摯に 日本文化の底流を洞察し、 それを 英語で伝える、 という 非常に意義深い講義でした。 日本人としてのアイデンティティを固めたうえで、 国際人としての 英語力を身につける、という意味で、 大変勉強になりました。

物語 (再掲)

詐欺師の存在は、本書で繰り返し指摘してきたように、現実には非社会的な部分があり、それが不確定性を生んでいることを端的に示す。 というのも、詐欺師は、あたかも世界には予測不可能な事態以外存在しないかのように行動しているからである。 そして、詐欺師のように不確定性に賭ける意志を持たなければ、ひとびとに対して、未来への地平を開くことはできない。 逆にいえば、危険のある不確定な状態こそが、未来への地平を開くのである。 それは、実現することが困難な「物語」の方にひとびとは魅了され、その方が希望を与えることがあるからである。 実現可能かどうかは不確定な場合、合理的に計算可能な範囲を越えている場合にこそ(計算可能なのは「リスク」である)、 物語は価値を帯びるのである。(「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」荻野昌弘 世界思想社 p.187~188) 読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。 物語とはおよそこんなものなのかもしれない。 実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。 語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、 じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。 物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。 だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、 またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。 しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、 触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。(「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?ー言語と運命の社会学」内田隆三 岩波書店 p.485

これもね。人生の主人公はいつだって自分だろ?中途半端に社会に絶望してんじゃねーよ。 (再掲)

ボードレールにとって、現代的な人間とは、自己自身の発見、自らの秘密および自らの隠された真理の発見へと向かう人間ではない。 現代的な人間とは、自分自身を自ら創出する人間のことなのだ。 現代性は、「人間をその固有の存在へと解き放つことはない」。 現代性は、人間を、自分自身を作り上げるという使命に縛り付けるのである。 (379ページ) (中略) <現在>のこうしたアイロニカルな英雄化、現実的なものを 変容させるために現実的なものと取り結ぶ自由の戯れ、 自己の禁欲的な練り上げ、 ボードレールはそれらが社会自体のなかで、 あるいは政治体のなかで 成立しうる、 とは考えていない。 それは、他の場所でしか起こりえないのであり、 その場所こそ、 ボードレールが 芸術と呼ぶものなのである。 (「フーコー・コレクション6」ちくま学芸文庫 380ページ)

スマホで麻布競馬場の話聞いてると、どうしてもこれ思い出すのよ。 (再掲)

近代の経済学の根本にあるのはこれと同一の画一主義である。 つまり、近代の経済学は、人間は行動するのであって、お互い同士活動するのではないと仮定している。 実際、近代の経済学は社会の勃興と時を同じくして誕生し、その主要な技術的道具である統計学とともに、すぐれて社会の科学となった。 経済学は、近代に至るまで、倫理学と政治学のあまり重要でない一部分であって、人間は他の分野と同様に、経済行動の分野においても活動するという仮定にもとづいていた。 この経済学が科学的性格を帯びるようになったのは、ようやく人間が社会的存在となり、一致して一定の行動パターンに従い、そのため、規則を守らない人たちが非社会的あるいは異常とみなされるようになってからである。(65~66ページ) (中略) しかし、多数を扱う場合に統計学の法則が完全に有効である以上、人口が増大するごとにその有効性が増し、それだけ「逸脱」が激減するのは明らかである。 政治の次元でいうと、このことは、一定の政治体で人口が殖えれば殖えるほど、公的領域を構成するものが、政治的なるものよりは、むしろ社会的なるものに次第に変わってゆくということである。(66ページ) (中略) 行動主義とその「法則」は、不幸にも、有効であり、真実を含んでいる。 人びとが多くなればなるほど、彼らはいっそう行動するように思われ、いっそう非行動に耐えられなくなるように思われるからである。 統計学の面でみれば、このことは偏差がなくなり、標準化が進むことを意味する。 現実においては、偉業は、行動の波を防ぎとめるチャンスをますます失い、出来事は、その重要性、つまり歴史的時間を明らかにする能力を失うだろう。 統計学的な画一性はけっして無害の科学的理想などではない。 社会は型にはまった日常生活の中にどっぷり浸って、社会の存在そのものに固有の科学的外見と仲よく共存しているが、むしろ、統計学的な画一性とは、このような社会の隠れもない政治的理想なのである。(67ページ) (中略) 大衆社会の出現とともに、社会的なるものの領域は、数世紀の発展の後に、大いに拡大された。 そして、今や、社会的領域は、一定の共同体の成員をすべて、平等に、かつ平等の力で、抱擁し、統制するに至っている。 しかも、社会はどんな環境のもとでも均一化する。 だから、現代世界で平等が勝利したというのは、社会が公的領域を征服し、その結果、区別と差異が個人の私的問題になったという事実を政治的、法的に承認したということにすぎない。(64ページ) 「人間の条件」ハンナ・アーレント ちくま学芸文庫

クセがすごい。

ジョンさん:Mr Kishida announces Japans biggest defense expenditure since WWII. Taxes will be raised to pay for the weapons. How does Japanese public feel that Japan will be spending the third highest defense amount of any nation after US and PRC? Closer defense ties with Taiwan also announced. 俺:I have yet to confirm the information. But the Japanese conservatives have an ambivalent and contradictory idea that increasing the defense expenditure is OK, but tax increase is bad, it's OK as long as it's financed by JGB. And, Japanese in general, are thinking it's good to strengthen the self-defense with many more missiles which are to be launched onto the enemy's missile base preemptively, regardless of its denying of Chapter 9 and the breach of the international law. PM Kishida has a strong will to finance the expenditure by tax increase. But it is incurring the backlashes from the Abe faction. And it's undermining the support of the Kishida cabinet from the Japanese people. And he clarified that he will strengthen the ties with Taiwan, which had been ambiguous during the past cabinets. I think Kishida is honest person. ジョンさん:You would assume Abe’s minions would support increased defense expenditure and closer Taiwan ties! Unless they simply want to dethrone him for one of their own stable. 俺:A country with a tremendous government bond will easily go bankrupt if it depends on issuing additional government bonds to fight. I'm pretty sure we should have taken action when Hong Kong was dominated by China. Even with many more missiles, we would not be able to prevent China from attacking Japan. Do you think diplomacy cannot solve the problem or not ? As you pointed out, both the communism countries and LDP are gaining scores from the hard-line stance of each other. The shale oil has made the US free from being entangled with the Middle East. Why does Biden not focus on the Far East ? The problem is, the right wing believes that the government can issue JGB at little or no cost. And, furthermore, many of them believe the outstanding JGB itself is the asset, so there is no need to worry. If they understand the danger of issuing additional JGB, there would be some room for concessions with them.

2022年12月16日金曜日

労働の日々

メタさんも 体重俺の半分以下なのに、 めちゃくちゃ 働くよね。 鳩さんは 言わずもがなだけど。 あの2人、 つまり 武蔵基準で 「働く」を 要求されたら、 そら ハードル高いわ。 ただでさえ 神経おかしくなってんのに、 その基準では 私は働けません。 今は だいぶ 神経がマトモになって来たから、 人並み程度なら できる自信が ついてきたけど、 武蔵基準は ハードル高すぎ。 ふと思ったけど、 ピラミッドって、 立派な公共事業だよね。 一昔前の発想だと、 あれは 権力者の人民収奪の象徴だっただろうけど、 ピラミッドを実際に見たことはないけど、 無理やりで あんなすげーもん作れないよね。 働かせるには 食料も水も当然必要だろうし、 当然なにかしら 報酬はあるでしょ。 それが 消費にまわって、 経済がまわる、 と 考えたら、 立派な公共事業だと思うんだけど。 今朝の日経新聞(2022/12/16)の大機小機に 「日本の資金循環は政府部門が日銀と金融機関を通じて、ブラックホールのように家計の現預金を吸い上げていく構造となっている。 家計における貯蓄から投資への資金循環の創造は本来、赤字を垂れ流す政府部門における資金循環の是正と表裏一体であるべきものだ。」 と書いてあったね。 乗数効果も検証せずに、国債を発行するのがカッコいい、みたいな意味不明なマッチョイズムが横行してるけど、 それって 結局 資金循環、つまりカネの巡りを悪くしてるだけなんじゃないの? 日経新聞(2021/9/9)に 慶応大学教授の 櫻川昌哉先生が 寄稿してたけど 「バブル資産は、 市場の期待で価格が高騰する株式や不動産はもちろんのこと、 政府の信用をもとにした現金や国債などの政府債務を含む。 『人々の期待が価値を決める貨幣はバブル資産だ』とミルトン・フリードマンが言ったように、 現金はバブル資産だ。 国債の価値は、将来の税収で償還されるならバブルとはいえないが、 将来借り換えできるという信用を根拠に流通しているならバブル資産だ。」 貨幣がバブル資産というのは ちょっと難しい話ですが、 「ファウスト」のなかで、 乱痴気騒ぎの最中の神聖ローマ皇帝に、 地下に眠っている金銀を担保に 紙幣を発行することを 署名させた寓話に通じるものがありますね。 つまり、 まだ採掘してもいない地下の鉱山をアテにして、 紙幣を発行する。 つまり、皇帝の信用を裏付けとして 発行される 紙幣は、本来的にバブル資産の側面を持っている、ということですね。 通貨がバブルを起こしている、というのは、 簡単に言うと、デフレですね。 続けて、 「つまり日本では、政府債務というバブル資産を大量に保有しているという事実が実質利子率を押し上げる力として働き、金融緩和がインフレにつながりにくい経済の体質をつくり出している。」 「実質利子率を決めるのは一国の貯蓄・投資バランスである。貯蓄が増えれば利子率は低下し、投資が増えれば利子率は上昇する。」 これは、標準的なIS-LM分析の話ですね。 投資が増えれば、資金需要が増えるために、マネーの希少性が高まり、利子率が上昇する。 貯蓄が増えれば、資金需要が減るために、マネーの希少性が弱まり、利子率が低下する。 こう考えると、貯蓄が旺盛な状態では(実質)利子率も低くなりそうだが、 超低金利でかつインフレが起きない状況では、 実質金利もほぼゼロになる。 インフレーション・ターゲットでは、 名目利子率がゼロのまま、 期待インフレ率を2%あげることにより、 実質金利をマイナスにすることを目指していました。 (フィッシャー方程式:名目利子率=実質利子率−期待インフレ率) 日経新聞朝刊(2022/12/7)「やさしい経済学」によれば、 「高齢化が進むと資本成長率にはマイナスだとされます。 経済学の消費理論に『ライフサイクル仮説』があります。 各個人は現在の所得だけでなく、将来の所得を考えて消費計画を立てるという仮説です。 この考えでは、仕事をしている若年期に貯蓄をし、老年期に貯蓄を取り崩す消費行動を想定します。 このため、高齢化が進展すると貯蓄を取り崩す層が増え、全体の貯蓄は低下します。 貯蓄は投資の源泉ですから、投資も減ることになります、 投資が減ることは資本ストックの成長率の低下をもたらします。 つまり、高齢化が資本成長率に負の影響をもたらすのです。」 とあります。 日本では、インフレが起こっても現預金に固執する傾向がある、という記事も最近ありましたね。 いずれにせよ、手持ちの資産を、投資にまわさず、貯蓄として貯め込むことが、 現金のバブル資産性を発揮させ、その結果デフレを引き起こしている。 ひいては、投資を抑制し、低い成長率に繋がっている。 そのうえで、櫻川先生の論考によれば、 「利子率が成長率を下回ると、実物資産に加えバブル資産への需要が資金需要として加わる。 期待だけで高騰する資産を低利の借金で買い支えられるからだ。」 これは、国債を例に考えると、国債の利回りが経済成長率を下回っていれば、 仮にプライマリーバランスが実現されている、すなわち国の借金の元金が増えない限り、 元金の利息、つまり国債の利回りが経済成長率を下回っているうちは、国債価格を維持できる、という話ですね。 また、現預金志向が強まるほど、貨幣の重みが増し、デフレ傾向を強める。 つまり、国債や現金などの「バブル資産」を貯め込むことは、 デフレを招くわけです。 これを打開しようとしたのが、アベノミクスだったわけです。 櫻川先生は、 「日本では、政府債務というバブル資産を大量に保有している という事実が 実質利子率を押し上げる力として働き、 金融緩和がインフレにつながりにくい経済の体質をつくり出している。 現金信仰がデフレに一役買っていることは想像に難くない。 国債の国内保有比率の高さがデフレに貢献している事実も見逃せない。」 としています。そのうえで、 「金融政策の有効性を回復して 経済をインフレ体質にするには、 政府債務というバブル資産の保有を減らすことに尽きる」 と結論づけています。 岸田政権も、 NISAの拡充など、 貯蓄から投資へ、の流れを作ろうとはしていますが、 あんまり 国民に伝わってないですね。

「主観−客観」を超えて (再掲)

理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ

「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?ー言語と運命の社会学」 内田隆三 岩波書店 p.485

読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。 物語とはおよそこんなものなのかもしれない。 実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。 語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、 じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。 物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。 だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、 またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。 しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、 触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。

遊びの社会学 (再掲)

(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93

人間不信と金融 (再掲)

「華麗なる一族」は本当に勉強になる。 まだ途中だけど、 万俵鉄平は可哀想だな。 特殊鋼業界初の高炉建設の夢をたぎらせながら、 一本気な技術者として邁進しているのに、 父親が頭取である 阪神銀行からの融資を渋られたり、 たぶん陰で嫌がらせされている。 それは、一重に、  鉄平が自分の実の子ではなく、 父親が妊ませた子なのではないか、 という不信感から来る。 人間、なんで他人にカネを貸すか?って言ったら、 相手が利子付けて還してくれるのはもちろんのこと、 根本的には、 カネを貸す相手を信用するからだよね。 カネを貸した瞬間に還って来るわけではない以上、 そこに不確定な時間上のズレが生じざるを得ない。 そこには当然、リスクが生まれる。 そのリスクが金利という形で現れるわけだが、 貸したカネが還ってくる可能性が低いほど、 金利が高くなる、 また、返済までの時間上のズレが長くなるほど、 金利が高くなる、 というのが道理だろう。 カネを借りるほうは借りるほうで、 あらん限りの知恵を絞って、綿密に事業計画を立て、返済計画を立てるだろう。 しかし、 どんなに良心的な借り手が、あらん限りの精緻さで事業計画を立てたところで、 未来の事象には、本来的に不確定性がつき纏う。 その分だけ、 リスク・プレミアムとして更に金利が高くもなるだろう。 しかし、 未来とは本来的に不確定なのだ。 直近の事例にしたって、 まさか安倍氏が突然あんな最期を遂げると誰が予測し得ただろうか? 日銀がいくら超金融緩和を継続し、 イールド・カーブ・コントロール政策を強行して、 金利の上で未来の不確定性のリスクを低くしたところで、 未来とはやはり不確定なのだ。 では、終極的になぜ人は他人にカネを貸すか?といえば、 結局は、 騙されてもいいからちょっとやらせてみるか。 という発想だろう。 それこそ井上俊が言ったように、 「詐欺が成り立ち得ないところでは、社会もまた成り立ち得ない」 のである。 人が騙されるということは、裏を返せば人を信じる能力があるということの証左である。 これも、井上俊が言ったことだ。 ちょっと、 今の日本の空気は、1億総人間不信なのではないか? 社会全体が他人に対して不信感で凝り固まっていたら、 日銀がいくら頑張ったところで、限界があるのは自明のことだ。 ちょっと騙されたな、ま、しょうがないか!というくらいの心積もりがなければ、 景気なんか良くなるはずがない。 https://www.sankeibiz.jp/business/news/190726/bse1907260650001-n1.htm

反・決定論 (再掲)

私はここまで、決定論という見方は過去の確定性・決定性を全時間へと誤って適用してしまった一種の錯覚だ、論じてきた。しかるに実は、この「過去の確定性」という出発点をなす捉え方自体、厳密には申し立て難いのである。「過去」という概念自体に関わる、超一級の哲学的困難が存在するからである。ほかでもない、「過去」は過ぎ去っており、いまはないので、本当に確定しているかどうか確かめようがなく、不確実であって、よって過去それ自体もまた偶然性によって浸潤されてゆくという、このことである。 「確率と曖昧性の哲学」p.114 一ノ瀬正樹 岩波書店 私は、そもそも「決定論」という概念それ自体、字義通りに受け取った場合、意味をなさないナンセンスな主張だと考えている。私が決定論を斥ける根拠ははっきりしている。決定論とは、平均的に言って、「すべては因果的に決定されている」とする考え方であると言ってよいであろう。しかるに、「すべては」という以上、未来に生じる事象も含めて丸ごと「決定されている」と言いたいはずである。しかし、生身の身体を持つ私たち人間が、一体どんな資格で、未来の事象すべてについて、そのありようを断言できるというのか。私には、そのように断言できると述べる人たちの心境が到底理解できない。こうした理解不能の断定を含意する限り、「決定論」を受け入れることは哲学的良心に反する、と私は思うのである。ここにはおそらく、過去の事象がすでに「確定/決定されてしまった」という過去理解(これは、おおむねは健全だと言える)から、すべてが「決定されている」という無時制的な主張へと、不注意かつ無自覚的にジャンプしてしまうという事態が潜んでいるのではなかろうか。 「確率と曖昧性の哲学」p.257~258 一ノ瀬正樹 岩波書店

「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」荻野昌弘 世界思想社 p.187~188

詐欺師の存在は、本書で繰り返し指摘してきたように、現実には非社会的な部分があり、それが不確定性を生んでいることを端的に示す。 というのも、詐欺師は、あたかも世界には予測不可能な事態以外存在しないかのように行動しているからである。 そして、詐欺師のように不確定性に賭ける意志を持たなければ、ひとびとに対して、未来への地平を開くことはできない。 逆にいえば、危険のある不確定な状態こそが、未来への地平を開くのである。 それは、実現することが困難な「物語」の方にひとびとは魅了され、その方が希望を与えることがあるからである。 実現可能かどうかは不確定な場合、合理的に計算可能な範囲を越えている場合にこそ(計算可能なのは「リスク」である)、 物語は価値を帯びるのである。

2022年12月15日木曜日

タイタニック症候群

http://www.signal-net.co.jp/2010/02/post-89.html 日本人の財政に対する認識は、タイタニック症候群ともいうべき状態なのではないか? 正常性バイアスとも言うらしい。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%B8%B8%E6%80%A7%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%B9 もっとも、 こういうバイアスがないと、 地震恐怖症みたいになりかねないけど。 ビョーインにそういう人がいた。

「金融と社会」質問と回答その1 (再掲)

問題提起:日本には巨額の対外純資産があるからかなり巨額の政府債務があっても大丈夫、という話は、額面通り受け取るべきではないのではないか?やはり財政収支と経常収支の双子の赤字」は避けるべきではないのか?つまり、フローで見る必要があるのではないか?ストックで見るならば、増税を前提とするのが筋だろう。 内閣府のペーパー(https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html) によると、フローで見れば、経常収支の黒字が、政府部門の赤字をファイナンスしていることになりますが、経常収支の黒字が、対外純資産としてストック面で蓄積されていると考えられます。 この場合、もちろん、経常収支が赤字に基調的に転落すれば、フローで見た場合、政府部門の赤字をファイナンスするために、海外資本を呼び込む必要性に迫られ、それは今よりも高金利であることが要請されるので危険だ、という意見もあります。 ここで、フローで見れば確かにそうですが、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たすことはないのでしょうか? 仮に、そのような事態になった場合、具体的にどのようなスキームで、対外純資産を政府部門の赤字をファイナンスの用に供するのでしょうか? また、経常収支黒字の源泉である、企業部門の第一次所得収支についてですが、最近は、企業も資金を更なる海外投資、M&Aに投資するべく、資金を円ではなく、ドルで保有しているとされますが、それは、第一次所得収支に、円換算して勘定されているのでしょうか? (https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX) ご質問ありがとうございます。まず印刷教材のこの部分はすべてフローについての議論です。内閣府のペーパーにもあるように、マクロ経済学などで登場するISバランス  (S-I) + (T-G) = NX 民間貯蓄超過   政府黒字  国際収支黒字(海外赤字) を念頭に、民間貯蓄超過の大幅プラスが、政府赤字のマイナスを相殺してもなお左辺がプラス、したがって右辺もプラス(海外マイナス)、という状態です。 近年コロナで政府赤字が大幅に増加しましたが、家計貯蓄も大幅増加して、2020、21年とも左辺はプラスを維持しています。  ご質問のなかばにあるストックの話は、たとえば銀行が保有していた米国債を売った資金で、新規に発行された日本国債を購入することをイメージされているのでしょうか。それが得だと銀行が判断すればそうするでしょうが、強制することはできず自動的にそうなるわけでもありません。  最後の第一次所得収支については、書かれているとおり、たとえば利子収入はドルで得られドルのまま持たれたり再投資されたりしますが、円換算して所得収支に繰り入れられています。

愚か者どもが夢のあと

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2022-12-14/RMUP25T0AFB701 https://president.jp/articles/-/64467?page=1 来年の4月の黒田日銀総裁退任まで、 何事もなく終わるとは 思えない。 リフレ政策が明らかに失敗に終わったのに、 黒田が日銀総裁の地位に居座ってるのは、 もう単純に メンツの問題だけでしょ? 金融正常化するなら、 一刻も早く退任してくれないと、 漫然と国債買い続けられても、 迷惑なんだよね。 お前のメンツのためにこれ以上日本の将来を 犠牲にするのはやめろ。 政治は政治で自分の権力欲むき出しの 政争繰り広げてるし。 もう、 市場が鉄槌をくださない限り、 日本に未来はない。 すでに手遅れかも知れないが、 ちょっと痛い目に遭わないと、 フリーランチはないってことを、 国民も理解できない。 いい加減安倍のペテン政治から目を覚ませ。
人為的に長期金利を押し下げる金融政策を続ける日銀は、 皮肉にも歳出圧力や負担先送り論を受け止める安全弁となってしまっている。 「市場のメカニズムをねじ曲げることは一時的にできても、 最後はひずみが来る。今のままいけば市場の制裁を受けることになる」 法政大学の小黒一正教授はいう。 負担軽減策は確かにありがたいが、 この繰り返しで国はやっていけるのか。 国民の間に疑問が芽生えてもおかしくない。 (日経新聞朝刊 2022/12/14 6面) https://www.youtube.com/watch?v=JU5LMG3WFBw

「不良少年とキリスト」坂口安吾 より

歯は、何本あるか。これが、問題なんだ。人によって、歯の数が違うものだと思っていたら、そうじゃ、ないんだってね。変なところまで、似せやがるよ。そうまで、しなくったって、いゝじゃないか。だからオレは、神様が、きらいなんだ。なんだって、歯の数まで、同じにしやがるんだろう。気違いめ。まったくさ。そういうキチョウメンなヤリカタは、気違いのものなんだ。もっと、素直に、なりやがれ。 よく、数学とか物理が好きな人で、この世はすべてキレイな数式で表せるから美しいとか、樹木の葉の並び方には規則性があって・・・みたいなこと言うけど、俺にはそういう感覚はわかんねーわ。 世の中ってもっと不条理なもんなんじゃねーのか? そのほうが健全な気がする。

2022年12月13日火曜日

アドルノと漱石

代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。  やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章) もっとも、アドルノが主観と客観との絶対的な分離に敵対的であり、ことにその分離が主観による客観のひそかな支配を秘匿しているような場合にはいっそうそれに敵意を示したとは言っても、それに替える彼の代案は、これら二つの概念の完全な統一だとか、自然のなかでの原初のまどろみへの回帰だとかをもとめるものではなかった。(93ページ) ホーマー的ギリシャの雄大な全体性という若きルカーチの幻想であれ、今や悲劇的にも忘却されてしまっている充実した<存在>というハイデガーの概念であれ、あるいはまた、人類の堕落に先立つ太古においては名前と物とが一致していたというベンヤミンの信念であれ、反省以前の統一を回復しようといういかなる試みにも、アドルノは深い疑念をいだいていた。『主観‐客観』は、完全な現前性の形而上学に対する原‐脱構築主義的と言っていいような軽蔑をこめて、あらゆる遡行的な憧憬に攻撃をくわえている。(94ページ) 言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) こういう風に考えてみて下さい。主体化した人間は、主客未分化で混沌とした自然から離脱して自立しようとしながら、その一方で、身体的欲望のレベルでは自然に引き付けられている。自らの欲望を最大限に充足し、完全な快楽、不安のない状態に至ろうとしている。それは、ある意味、自然ともう一度統合された状態と見ることができます。母胎の中の胎児のように、主客の分離による不安を覚える必要がないわけですから。そして、そうした完全な充足状態に到達すべく、私たちは自らの現在の欲望を抑え、自己自身と生活環境を合理的に改造すべく、努力し続けている。安心して寝て暮らせる状態に到達するために、今はひたすら、勤勉に働き続け、自分を鍛え続けている。しかし、本当に「自己」が確立され、各人が計算的合理性のみに従って思考し行動するだけの存在になってしまうと、自己犠牲によって獲得しようとしてきた自然との再統合は、最終的に不可能になってしまいます。日本の会社人間の悲哀という形でよく聞く話ですが、これは、ある意味、自己と環境の啓蒙を通して、「故郷」に帰還しようとする、啓蒙化された人間全てが普遍的に抱えている問題です。啓蒙は、そういう根源的自己矛盾を抱えているわけです。(「現代ドイツ思想講義」作品社 148ページ) かなり抽象的な説明になっていますが、エッセンスは、先ほどお話ししたように、自然との再統合を目指す啓蒙の過程において、人間自身の「自然」を抑圧することになる、ということです。啓蒙は、自然を支配し、人間の思うように利用できるようにすることで、自然と再統合する過程だと言えます。自然を支配するために、私たちは社会を合理的に組織化します。工場での生産体制、都市の交通網、エネルギー供給体制、ライフスタイル等を合理化し、各人の欲求をそれに合わせるように仕向けます。それは、人間に本来備わっている“自然な欲求”を抑圧し、人間の精神や意識を貶めることですが、啓蒙と共にそうした事態が進展します。後期資本主義社会になると、その傾向が極めて顕著になるわけです。それが、疎外とか物象化と呼ばれる現象ですが、アドルノたちはそれを、資本主義経済に固有の現象ではなく、「主体性の原史」に既に刻印されていると見ます。(「現代ドイツ思想講義 作品社」150ページ) アドルノについては、ポスト構造主義が大きくクローズアップされた80年代から しばらくの間、私たちでも手に取るような一般的理論書の引用、あるいは論文の 脚注で名前はよく知りながら、レポートを拝見して、初めてその具体的実像について アウトラインを教えて頂いたことになります。  理性と個人の誕生に重きを置きながらも、それが疎外を産み出さざるをえない 一種の必然に対して、それを批判しながらも反動的な主客合一論へは与しない、 むしろ代償を支払いながら手にする「反省能力」に信頼を置く……  こんな感じで理解しましたが、何より漱石との親近性に瞠目に近い思いを 抱きました。漱石の文明批評は、いうまでもなく「近代」批判なのですが、 しかしけっして、傷だらけになりながらも獲得した「個人」を手放そうとはしません でした、それが彼を果てしない葛藤に陥れたにも拘わらず。  レポートを拝見させて頂き、末尾の件り――アドルノの「疎外」批判が、 それを資本主義に固有の現象としてそこに帰させるのではなく、「主体性の歴史」 に「刻印」されたものとして把握しているとの括りに、漱石との類縁性を改めて実感 し直すと同時に、漱石論への大きな励ましのステップを頂戴する思いです。  本当に有り難う。  なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。  しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。  三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。  こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。                            静岡大学 森本隆子先生より

新聞はエンタメだ!

最近、 日経新聞の記事が めちゃめちゃ 面白い。 今日も 爆発的に面白かった! やっぱり 放送大学で 色んな 授業を 履修したのが 良かったんだろうな。 一番手っ取り早くて、 コストも掛からない、 しかも 役に立つエンタメ。 もし 自分が 理数系に強かったら、 企業業績とか 個別の 鉱物とか鉄鋼とか化学産業なんかの 分析も理解できたんだろうけど、 やんぬるかな、 俺には 理解できないし、 興味もない。

2022年12月12日月曜日

「ファウスト」を深読みする

待ちに待って、 やっと届いた。 明月堂書店は 初めてだけど、 書籍って、 出版社によっても 個性がぜんぜん違うよね。 あと、 本の作りも。 ちょっと読んでみた感じ、 作品社の 「○○入門講義」系の パワーワードが ズバーン!ズバーン!と 出てくる感じとは違って、 著者の ほっこりした感じが 伝わってくるような、 売れることよりも、 長く愛されることを 狙っているような、 そんな感じですね。 装丁の感じからいうと、 紙が柔らかくて、 綴じがしっかりしているので、 あまり ページ数が多いと、 かえって 読みにくいですね。 まあ 御託はいいから、 読んでみましょう。 ・・・うん。 面白い。 さすがナカマサ先生。 期待を裏切らない。 ・・・まだ途中なんだけど、 ゲーテ以来の ドイツ文学・哲学における 「母胎回帰」のイメージ というのは、 ほんとに 理性以前の世界、 こんなこと言うと陳腐な表現なんだけど、 読んでるうちに、 夏目漱石の「それから」の 代助が百合にむせぶシーンと、 すごく 通底するものを感じる。 森本先生が、 それを 三千代との姦通への決意、つまり スプリングボードとした、 と 仰るのと、 とても 平仄を合わせている感じがする。 実際、 ファウストは メフィストフェレスと「契約」を 結んでやりたい放題やるわけだからね。 この一冊には、 ゲーテ以降の ドイツ的思想の エッセンスが詰まっている感がある。 尤も、 自分の現代ドイツ思想のほとんどを、 ナカマサ先生の著作から 得ているのだから、 ある意味当たり前かも知れないが。 ・・・よっしゃー!!! とりあえず、ここまでは 今日中に読まないと、 眠りたくても眠れない、 ってところまでは 読み終えた。 今まで たびたび 仄めかされてはいたが、 ハッキリと わかりやすい形で 表明されて来なかった、 ナカマサ先生流の 「貨幣論」が 明快に展開されていて、 腑に落ちた。 そんなに アクロバティックな話じゃないけど、 これを書くために、 アドルノやら、 「アンチ・オイディプス」やら、 色んな紆余曲折を経て、 ようやく こんなシンプルなことが 書けるんだな、 と 頭が下がるわ。 と、いうか ナカマサ先生とにかく頭いい。 逆に、 こんなに頭よかったら、 細かいことが気になりすぎて 生き辛いんじゃないかと 正直心配になってしまう。 まあ、 だいたい哲学やる人間てのは ひねくれものだけど。 まあいずれにせよ 今日はこれで 安心して眠れるわ。 ・・・おはようございます。 さて、続きを。 昨日読んだ段階では、 仄めかす程度だった 「理性以前=母たちの国」という テーマが、 「ファウスト」の文脈に沿って 解説されていますね。 あ、なんかクリステヴァの議論があったな。 社会を成り立たしめるためには、 秩序や合理性が必要なわけだが、 その背後にある 主観ー客観の区別 (英語で言えばsubject/object) に収まりきらないもの、 クリステヴァによると abject(造語)を 抑圧し、ないものとする ことが 要求される。 みたいな。 これはモロに アドルノに 絡んでくる話ですね。 ・・・・よっしゃー!!!読了した!!!!!!!! 「貨幣」と「母なる国」との 関係性も明らかになったし、 これまでの ナカマサ先生の著作の 集大成的なものを感じた。 俺もなぜかしら、 今までの人生が 走馬灯のように 蘇ってきた。 ごちそうさまでした。 感謝。 ・・・長い旅だった。 研究会で、 グローバリゼーションに絡めて 「疎外」がどうのこうのと プレゼンして、 集中砲火浴びて、 その後 措置入院食らう羽目になって・・・・ って、 この話は何度もしてるから 省くけど、 とにかく 普通の意味の経済学も 常識レベルではわかるし、 「疎外」とか そっち方面の 話も わかるようになった。 とりあえず 自分の 学問的探求も 一区切りついた。 https://www.youtube.com/watch?v=tAGnKpE4NCI

技術と政治

丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。 しかしながら天皇制が近代日本の思想的「機軸」として負った役割は単にいわゆる國體観念の教化と浸透という面に尽くされるのではない。それは政治構造としても、また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。(・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、それが制度自体と制度にたいする人々の考え方をどのように規定しているか、という、いわば日本国家の認識論的構造にある。 これに関し、仲正昌樹は「日本の思想講義」(作品社)において、つぎのように述べている。 「國體」が融通無碍だという言い方をすると、観念的なもののように聞こえるが、そうではなく、その観念に対応するように、「経済・交通・教育・文化」の各領域における「制度」も徐々に形成されていった。「國體」観念をはっきり教義化しないので、制度との対応関係も最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、目に見える効果をあげるようになった。ということだ。 後期のフーコー(1926-84)に、「統治性」という概念がある。統治のための機構や制度が、人々に具体的行動を取るよう指示したり、禁止したりするだけでなく、そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、それを当たり前のことにしていく作用を意味する。人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、 とアドルノは主張する。 「社会全体が体系化され、 諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、 それだけ人間そのものが 精神のおかげで創造的なものの属性である 絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、 慰めをもとめるようになるのである。」 言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、 マルクス主義的ヒューマニズムの説く 来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、 管理された世界のもつ 全体化する力の原像と解されるべきなのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 98ページ) Technology is by no means innocent. Technology has been the best tool to help the authoritarians rule. This time, information technology will be it. As soon as GAFA swallows up the world, they can be another conglomerate that forms an alliance with the authority. We are facing the classic theme, to say, the authority’s ruling and the freedom of citizenship. 前二千年紀の終わりから前千年紀の初めの東地中海のヨーロッパ社会では、政治権力はいつもある種のタイプの知の保持者でした。権力を保持するという事実によって、王と王を取り巻く者たちは、他の社会グループに伝えられない、あるいは伝えてはならない知を所有していました。知と権力とは正確に対応する、連関し、重なり合うものだったのです。権力のない知はありえませんでした。そしてある種の特殊な知の所有なしの政治権力というのもありえなかったのです。(62ページ) ギリシア社会の起源に、前五世紀のギリシアの時代の起源に、つまりはわれわれの文明の起源に到来したのは、権力であると同時に知でもあったような政治権力の大いなる一体性の分解でした。アッシリアの大帝国に存在した魔術的―宗教的権力のこの一体性を、東方の文明に浸っていたギリシアの僭主たちは、自分たちのために復興しようとし、またそれを前六世紀から前五世紀のソフィストたちが、金銭で払われる授業という形で好きなように用いていました。われわれが立ち会っているのは、古代ギリシアで前五、六世紀にわたって進行したこの長い崩壊過程なのです。そして、古典期ギリシアが出現するとき―ソフォクレス(注:「オイディプス王」の作者)はその最初の時代、孵化の時点を代表しています―、この社会が出現するために消滅しなければならなかったのが、権力と知の一体性なのです。このときから、権力者は無知の人となります。結局、オイディプスに起こったのは、知りすぎていて何も知らないということです。このときから、オイディプスは盲目で何も知らない権力者、そして力余るために知らない権力者となるのです。(62ページ) 西洋は以後、真理は政治権力には属さず、政治権力は盲目で、真の知とは、神々と接触するときや、物事を想起するとき、偉大な永遠の太陽を見つめるとき、あるいは起こったことに対して目を見開くときに、はじめてひとが所有するものだという神話に支配されるようになります。プラトンとともに西洋の大いなる神話が始まります。知と権力とは相容れないという神話です。知があれば、それは権力を諦めねばならない、と。知と学識が純粋な真理としてあるところには、政治権力はもはやあってはならないのです。 この大いなる神話は清算されました。ニーチェが、先に引いた多くのテクストで、あらゆる知の背後、あらゆる認識の背後で問題になっているのは権力闘争なのだ、ということをを示しながら、打ち壊し始めたのはこの神話なのです。政治権力は知を欠いているのではなく、権力は知とともに織り上げられているのです。(「フーコー・コレクション6」 ちくま学芸文庫 63ページ) 行政指導って、 日本特有のものなのかは わからないけど、 極めて 日本的ではあるよね。 確かに 行政指導も 行政争訟の対象には(確か)なるけど、 行政指導が 何らかの 具体的な 不利益を 国民に与えるまでは、 争訟もへったくれもないし。 行政指導を無視し続ければ、 別の 何かしらの 法律に抵触したってことで、 下手すると 逮捕されるし。 コーヒー浣腸の業者みたいに。 これ、 行政にとっては 非常に便利な武器よ。 なにしろ、 行政指導ひとつで、 医者が開業するときに、 保険診療適用で営業できるかどうか、 なんていう 重大な 要件まで 決められるんだから。 行政による国民の支配という意味では、 これほど 便利な ツールはない。 なにしろ、 行政指導に従わなければ、 別の 法律に抵触したカドで 国民にお縄をかけられるんだから。 これ、 ある意味 別件逮捕よ。 まあ、 だからこそ 行政指導も行政争訟の対象になるんだろうけど。 これからの日本では、 言論封じのために 行政指導が 暗躍するってことも、 もしかしたら あるかもしれない。 https://news.yahoo.co.jp/articles/917c8bd750b1cadc0c35930e53661b44ad258c19 ベンヤミンは、「手」にもとづく認識の成果としての技術の巨大な発展が全く新しい貧困状態をもたらしたと指摘している。 「技術の巨大な発展とともに、まったく新しい貧困が人類に襲いかかってきたのである。」(「貧困と経験」『著作集』第1巻) 技術は不断の発明・発見によって次々に新しいものを作り出しては古いものを破壊していく「創造的破壊」(creative destruction)(シュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』)をもたらす。 機械は急速に進化していき、不断に「倫理的摩滅」にさらされている。(『資本論』第1巻、P.528参照)それとともに人間の生活を支えている周囲の事物はことごとく変化してしまうならば、人間はもはや自らの過去の経験を頼りにすることができず、つねに最初から新たにやり直すしかなくなってしまう。 「まだ鉄道馬車で学校へかよったことのあるひとつの世代が、いま、青空に浮かぶ雲のほかは何もかも変貌してしまった風景のなかに立っていた。破壊的な力と力がぶつかりあい、爆発をつづけているただなかに、ちっぽけなよわよわしい人間が立っていた。・・・これはそのまま、一種の新しい野蛮状態を意味する。野蛮?そのとおりである。・・・経験の貧困に直面した野蛮人には、最初からやりなおしをするほかはない。あらたにはじめるのである。」(「経験と貧困」)これは、1933年の「経験」状況である。 ベンヤミンは、人生における経験がゆっくりと時間をかけてつくられていくような「完成する時間」に対して、「永劫回帰」する時間を対置する。「・・・完成する時間・・・は、着手したものを完成することを許されないひとびとが住む地獄の時間と対をなしている。」(「ボードレールのいくつかのモチーフについて」『著作集』第6巻) 言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、 結局は進歩という性格をもっていたのである。 『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、 ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、 人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。 アドルノからすれば、 人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、 そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、 それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、 きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。 というのも、 主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、 反省の能力を失うことを意味しようからである。 たしかに、 主観と客観のこの区別は、 マルクス主義的ヒューマニストや その他の人びとを嘆かせた あの疎外を産み出しもしたが、 それにもかかわらず こうした反省能力を産み出しもしたのだ。「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) ホーマー的ギリシャの雄大な全体性という若きルカーチの幻想であれ、今や悲劇的にも忘却されてしまっている充実した<存在>というハイデガーの概念であれ、あるいはまた、人類の堕落に先立つ太古においては名前と物とが一致していたというベンヤミンの信念であれ、反省以前の統一を回復しようといういかなる試みにも、アドルノは深い疑念をいだいていた。『主観‐客観』は、完全な現前性の形而上学に対する原‐脱構築主義的と言っていいような軽蔑をこめて、あらゆる遡行的な憧憬に攻撃をくわえている。(「アドルノ」岩波現代文庫 94ページ)

2022年12月11日日曜日

インタゲと増税はワンセット

そもそも、 インタゲは 物価を上げることを 目標(ターゲット)にしていて、 それが成功して、 物価が上昇しても、 経済成長が伴わない 物価上昇は 人々の 負担になるから、 財政出動が期待される、 それと 同時に、 財政規律を守るためには、 増税が 求められる。 と、 いうことは、 このブログでも 「政策割当の原理」で 数え切れないくらい 投稿してきたけど、 防衛費捻出のためとはいえ、 いずれにせよ インタゲによって 物価が上昇すれば、 否応なく 増税という結果が 待っているのに、 いざ 物価が上がって、増税、という話になると、 文句をいう、 というのは、 経済学に無知としか言いようがない。 安倍は 国債発行して日銀に買わせれば いくらでも 資金調達できる、などと 詭弁を弄していたし、 御用学者が、 MMTだの 三橋貴明だの、 高橋洋一だの、 自国通貨建てで国債発行できるから日本は絶対財政破綻しないだの、 ありとあらゆる 屁理屈で、 人々の目を現実から逸らし続けてきた。 そろそろ 現実に目を向けざるを得ない時が 来たんじゃないか?

2022年12月10日土曜日

目覚めた。

日本の古代中世史が 一通りわかったから、 放送大学の 「日本の古代中世」 を インターネットで 視聴してみたら、 めちゃくちゃ面白い ことに気付いた。 この科目は、 今期限りで 来期は 後継科目にリニューアルされてしまうけど、 春休みに じっくり 堪能させてもらおう。 やっぱり、 何を面白いと 感じるかは、 前提知識次第 ってところもあるよね。 ・・・・全15回のうち、11回まで視聴した。 途中寝たけど、 分量からすると、 これだけ 一気に見ても、 全然疲れなかった。 大満足。 ・・・良かった。 日本史の勉強が 思ったより 遥かに 早く終わった。 全部まともにやったら 春休み 終わっちゃうんじゃないかと思った。 放送大学のおかげで、 深い理解が獲られたし。

萩生田うざい

今朝の日経新聞(朝刊) によると自民党の政調全体会議を、 萩生田が 急遽開催を決めて 行ったそうだが、 もう、 私は増税には反対でした、 っていう アピールに必死だな。 それはそうと、 1兆円ひねり出すのに 増税するかどうするか これだけ 騒いでるのに、 安倍がトランプから 買わされた 中古の戦闘機 1兆円はなんだったの?! あのカネどっから出してたわけ?! そんな話ぜんぜん 話題にすらならなかったじゃないか! 娘にまで57億円だっけ? ぽーんっとあげちゃって。 アイツこそ 国民の血税なんだと思ってんだ! って話よ。 それはそうと、 1兆円ひねり出す財源に、 法人税を検討してるらしいが、 確かに 企業が海外に出て行っちゃって、 それが 国内の労働市場を空洞化させ、 ひいては 内需も冷え込ませているとはいえ、 企業からすれば、 そんなところまで 切り込まれたら、 もう 別の国に 法人移します、 って話になりかねない。 これだけ 支持率さがっても、 財政規律は守ろうとする 岸田さんは マトモだと思うがな。 1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社  https://toyokeizai.net/articles/-/380494 https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX それと、 ミサイルの本数とか性能を 高めたって、 無駄に中国刺激するだけだし、 本気で 中国が日本にミサイル ぶっ放したら どっちにしろもたない んだから、 どうせ防衛費増やすなら、 サイバーセキュリティとかに まわしたほうがよくね? 単純に 武器の量で対抗しようなんて、 ただの 税金の無駄遣いとしか 思えない。 ・・・アハ! よっしゃ、障害者枠で公務員だ! と思っても、 そのたびに酷い悪夢みて断念してきたし、 そもそも こういう政治的発言 絶対に 止められないんだから、 どっちにしろ 公務員はムリだわ。 それならそれでいい。 気力・体力ともに 人並みまで 回復してきた気がするから、 あとは 自力で どうにかするしかない。 https://news.yahoo.co.jp/articles/917c8bd750b1cadc0c35930e53661b44ad258c19 怖い話やで。。。

2022年12月9日金曜日

こわいこわい・・・

自分は クレジットカードは 持ってないし、 現金で預金してても、 基本そんなに 浪費はしないほうだと 思ってるけど、 Amazonポイントが 貯まってると、 使わずにいられない タチだね。 これなんだろう? Amazonの 心理作戦に ハマってんのかな?

韓国語

韓国語を勉強し始めて 20年近くになるが、 最近感じるのは、 日本語と韓国語は 極めて近いという 当たり前のこと はさておき、 実は 日本語を韓国語に 直訳しても、 実は それっぽい 韓国語には ならないのではないか? ということ。 もちろん、 通じることは通じるんだろうが。 どういうことかというと、 機械翻訳とかにかければ、 日本語を入力すれば (英語と違って) ほぼ 正確な韓国語が かえって くるはずなのだが、 それでも 実は 韓国語ネイティブからは 不自然な 韓国語になっている 可能性がある気がする。 つまり、 発想が違うのだ。 言語的に極めて 近いからこそ、 見えてこない 発想の遠さ、 というのが ある気がする。 逆に、 そこを意識できるようになれば、 さらなる 上達が見込める。

フライング気味のメリークリスマス!

日本中世史は だいたい わかったから、 日本古代史で 何か 良い本はないか 漁ってみたところ、 出口治明さんという、 立命館アジア太平洋大学学長を やってられる 人の本が面白そうだと 思って、 「0から学ぶ『日本史』講義 古代編」 を kindleで 購入してみました。 ほんとに 日本史含め、世界史、特に中国史の知識がない人には かえって 難しいだけかもしれないけど、 非常にわかりやすくて 面白い。 氏の他の著作も 大人買いしました。 自分に一足早いクリスマス・プレゼント♪ ・・・宇宙誕生からようやく平将門まで来た。 軽いノリだけど、 入試に十分通用する濃い内容です。 価格に見合った内容ですね。 逆に、 まったく何も知らない人が読むのは、 かなり キツいと思う。 自分は20年くらい前に 井沢元彦氏の「逆説の日本史」 読んだから、 よくわかんないなりに 前提知識があったから 読めた。 古代史は特に理解するまで苦労する。 ・・・古代中世、戦国江戸時代をすっ飛ばして、近代がわかったところで、 だいぶ 日本史全体の見通しがついてきた。 わかると気持ちいいね。 山登りみたいなもんだけど、 これは やった人間にしか 気持ちの良さはわからない。

2022年12月7日水曜日

なにゆえ?

https://news.yahoo.co.jp/articles/e89a8e9606bdcac088e7b2a23382f7b2cf78236c 百歩譲って、りゅうちぇる 呼ぶのはわかるが、 だったら 今井絵理子センセイも呼べよ。 政治家だろ? 当選したとき、 「これから考える」って 言ったんだから、 考えた成果見せてくれよ。

MUROMACHI

「室町将軍の権力ー鎌倉幕府にはできなかったこと」(朝日文庫 本郷恵子) を読んでます。 本郷和人先生の奥さんであり、 職場の上司でもあるそうです。 文庫本だから 高くないし、 内容も 読みやすい。 旦那さんが 鎌倉時代を専門としていて、 奥さんは 室町時代の専門家であるようですね。 本郷和人先生の 「北条氏の時代」も いい本でしたね。 値段から言っても、 内容的にも コスパ抜群でした。 日本中世史がわかんねー、と モヤモヤしていた原因がやっと わかったんだが、 いわゆる ご恩と奉公っていう関係で、 具体的には 土地を安堵してもらうことがご恩なわけだけど、 結局それってお金に換算するといくらなの? というのがわからなかった。 と、いうのは、 具体的に金額に換算してもらわなかったら ご恩が具体的にどれくらいに相当するのが わからないじゃないか、 と(漠然と)思っていた。 しかし、これは ある意味愚問だった。 なぜなら、 明治期の地租改正まで、 土地の価値は 基本的に 米の収穫量で決まっていたのだから。 そして、 江戸時代においては、 わざわざ 農民から徴税した米を、 金銭に替えて武士に俸給していたのだから、 現在と同じ感覚で 捉えてはいけない。 とはいえ、 鎌倉時代でも、当然のごとく 土地のランク付けというものは あったのだろうから、 金銭以外の方法で 評価していたのだろう。 それはやはり、土地の収益力、ということになるんだろう。 ここで勘違いしてはならないのは、 鎌倉時代に、 ちょうど モンゴル帝国に南宋が滅ぼされると、 大量の宋銭(銅銭)が日本に流入し、 未発達ながらも 貨幣経済が浸透し始めたこと。 室町時代にはさらに 土倉などの 金融業者が発達することは 周知の通りだが、 それは この本を読み進めてから考えよう。 とはいえ、 「北条氏の時代」を 読んだ限りでは、 土地の売買も普通に行われていたし、 対価が貨幣だったかまでは記憶にないが、 そもそも 鎌倉幕府の存在意義の柱のひとつは、 武士の土地争いを、 裁判をちゃんとやって確定させることにあったのだから、 単純に ご恩に報いていただけ、とは到底言えないだろう。 こうやって 地道に文献を読んで、 粘り強く 積み重ねていって、 わかった! と思えるのが ガクモンの醍醐味ですね。 ・・・うーむ。 これは大変な本だぞ。 室町時代の核心を突いている。 この内容が 1000円もしない値段で手に入るのは、 良心的としか 言いようがない。 ・・・こりゃ800円の内容じゃないよ。 質・分量ともに、 相当な覚悟で読まないと、 軽い気持ちで 読んだら 大変なことになる。 相当気合い入れないと。

2022年12月6日火曜日

ゴールキーパー論

There are three indispensable elements a great GK should have I believe. 1.catching skill 2.positioning and decision making 3.observing As for the first element, needless to say, the great GK will be the man of great catching skill. The second, a GK who must preserve the goal should be agile with the strategic variants of the game. This means a great GK should be not only a man of great skill, but also is a man of great position maker. And, the first element shall be abided by the second element. Why? This is, he would not be able to face the ball if he wasn't in the correct position. To say, a great catching skill comes from a good positioning skill. Then, if needed, he must bravely rush out of the penalty area and jump at the game. The last, the great GK is the man of great observation, who is, to say, the man with an element second to none in observing and decision making. The last element will provide him great decision making, positioning and thus good catching. Therefore, the three elements I described above are the triangle of the good GK that are incorporated in each other.

政策割当の原理 (再掲)

質問:中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、 とありますが、 アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、 インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、 インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、 これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか? あるいは、新古典派経済学では 「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか? 回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、 「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。 すなわち、「政策割当の原理」です。 したがって、 「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、 2つの政策手段が必要となります。 本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、 アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。 本来の金融政策の目標(物価の安定)と 異なるため黒田日銀総裁は 「異次元の金融政策」 という言葉を使ったのです。 このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、 物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、 また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、 すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。 このシナリオどおりに進めば、 もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。 ただ、経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります。 したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため 「財政再建」が先送りになってしまいます。 それゆえに、 「財政再建」の政策目標の一環として 消費税の引上げが考えられています。 このように、 「政策割当の原理」は成立しています。 https://news.infoseek.co.jp/article/joseijishin_2068465/

「危機の二十年」 岩波文庫 (再掲)

「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」 E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より

自分のケツはまず自分で拭け。

財務省悪玉論で 感じるのは、 財務省の役人は 特権階級だ、 だから、 まず その特権を剥奪しない限り 増税は認めない、 的なノリだけど、 そうやって マスコミ含め 国民総出で 官僚叩いた結果、 官僚ってのは 能力に対して まったく ペイしない職業になって、 もっとも優秀な層は 官僚にならなくなったんだけど。 バカが官僚になって困るのは俺らだろ? 日本人が終わってると思うのは、 自分の身を自分でどうにかする前に、 まず 自分より恵まれてる(とお前らが思い込んでる)やつを 引きずりおろすことしか考えてない。 その結果、 優秀な層は (特に国立)医学部を志望するようになったが、 医者は それこそ 日本医師会の政治力で ガチガチに守られた 既得権益層なのに、 自分が医者にお世話になるかもしれないという危惧からか、 あまり 医者は叩かれない。 ほんと日本人は馬鹿。 ただでさえ 実質賃金さがってるところへ、 増税されたら困るのはわかるが、 それで財務省の役人を叩くのは 根本的に間違っている。

茨城大学

これを言っちゃおしまいだけど、 教授も、 茨大生を相手にしてるから、 授業が わかりやすいよね。 それに、 面白い。 興味持ってもらわないことには始まらない。 かといって、 アホみたいに 簡単すぎてつまらない、ということは決してない。 学問的でありながら、 わかりやすくて、面白い。 内容も、 高校で教わることを深堀りする、という感じで、 基礎をしっかり固めるのに役立つ。 あなた 基礎ほんとにわかってますか? という感じ。 そのぶん、 アクロバティックなことはやらないが、 確実な 知識が身につくのは、いいと思う。

2022年12月5日月曜日

漸化式

自分の 数字の捉え方に 問題があるのかも知れないが、 数字を弄んでるだけなのに、 その結果 何か重大な帰結が 得られる、 ということ自体に、 耐え難い 違和感を覚えてしまう。 漸化式とか 特に。 高校受験の数学からして、 例えば 塩水の塩分濃度を求める、 っていう定番問題でも、 簡単なレベルならともかく、 複雑になってくると、 意味もわからず ひたすらゴリゴリ計算するわけだが、 自分がいま計算している 数式が何を意味しているのか まったくわからないのに、 ただ機械的に計算しまくって、 出てきた答えが 正解だったり不正解だったりする、 ということが、 正直メチャクチャ気持ち悪かった。 受験を目指す高揚感で 隠蔽されてはいたが。

kindle

「東大なんか入らなきゃよかった」っていう本 読んでます。 こんなリアルに 東大生の実態を 赤裸々に書いた本は、 今まで 出くわしたことがない。 メガバンクに 就職して ウツになった人も 気の毒だな、とは 思ったけど、 最近不人気で 東大からの供給が減っている 官僚の世界も、 あまりに 理不尽で、 官僚が可哀想で仕方がない。 これじゃ 人気なくなるのも 当然だ。 読んでいて、これはフィクションか? と思った。 話が少しズレるけど、 自分は 精神を病んだから、 意味のわからないレールから 良くも悪くも 外れられたのかな。 なんて 思えてくる。 「東大なんか入らなきゃよかった。」 この本読むと、 掛け値なくそう思う。 もちろん、 武蔵には 東大以外に行くところがない、 というくらい 優秀な人がいて、 羨ましい限り なのは間違いないのだが、 下手に 官僚なんかになったら、 地獄が待ってる。 許しがたいのは、 政策立案能力なんか これっぽっちもないくせに、 選挙に受かりたいだけのために 官僚をテレビカメラの前で 公開リンチする バカ野党議員。 それだけじゃなく、 政権与党も、 安倍からして、 蓮舫へのディスすら 官僚に書かせて、 漢字も読めずに 読み間違える。 この国の統治機構は 明らかにおかしい。 ほんとこの国は終わってる。 ガーシーとか今すぐ辞めろ。 いらねー。 子供の頃から思ってたけど、 マスコミはマスコミで、 ネタに困ると すぐ 行政、あるいは官僚をバッシングする。 国民も喝采を浴びせる。 あれはマジでモラルハザードとしか言いようがない。 この国潰れるわ。 今だに 財務省の役人が悪で、それと戦う安倍さん、みたいな構図を信じてるバカがいるんだからね。 東大生も大変だな・・・ 翻って、自分は今ものすごくオイシイ位置取りにいることに気付かされる。 まったく働いてなくても 障害年金もらえるし、 母親と自分の 公的サポートで、 ヘルパーさんまで来て ぜんぶやってくれる。 勉強もしたい放題。 これ パラダイスじゃん。 そら、 障害年金もらえるレベルで 精神病むのもなかなか至難の業だけど、 正直 今朝方、 この本を読むまでは、 よっしゃー 障害者枠で 市役所で働くぞーって本気で思ってたけど、 ちょっとそんな気失せるね。 まあ 十把一絡げには言えないんだけど。 この国はオカシイ。 ・・・読了。 最後の仙人みたいな 半世捨て人の話も面白かったな。 こういう人もいるから、 東大ってやっぱりなんだかんだ 深みがあるんだろうな。 SFCでは まずお目にかかれない。 いたとしても、 いなかったことにされる。 SFCの、そういう”清潔さ”は、 正直まったく好きになれない。 それはともかく、 自分がこの本読んで、 いま自分がいかに恵まれた立場にいるかわかったから、 現状維持でいいや、 と言ったら、 母親がむしろ 急に元気になった。 やっぱり 一人は寂しいようだ。 ・・・ふと思い出して、 引き出しの中から 2022/11/2 付けの日経新聞1面の記事を 引っ張り出してきたけど、 例えば、 福田達夫みたいな、 若手のホープ、 つまり 将来の首相候補に 気に入られた 官僚は 意気軒昂としているが、 そうではない 官僚は、 単調な事務作業をやらされて どんよりしている、 なんて 話が書いてあった。 「政策決定を『官邸1強』で進めた結果、首相の周辺で働く官僚の発言権が増して『秘書官政治』とも呼ばれるようになった。」 また、 「こんな課長になりたいと思うわけない。野党の『国対ヒアリング』で上司が糾弾されるのを見た20代の財務官僚は漏らした。国会への提出資料や閣僚答弁の作成・読み合わせで深夜まで働いた末がこれかという悲観がまん延する。」 とも 書いてあった。

世渡り上手

https://toyokeizai.net/articles/-/636351 34にもなって こんなショボい論考しかできないのか。 さすがSFCだわ。 こんな学歴ロンダばっかりやってるやつに負ける気しないわ。 自分が34のときは まだまだ 泥沼の中だったけど、 こんな薄っぺらいことは考えてなかった。 そもそも 慶応SFC入ったのも、AO入試だろ? そんなんで メディアで地位確立できんだったら、 1年猛勉強して 佐野日大から武蔵入った俺でも 本書けるわ。 有能なゴーストライターがいれば。 てゆーか、くだらねえ。 このビリギャルにしてもそうだけど、 自分のたかだか高校受験体験談を本にするなんて 発想も、 考えただけでバカバカしくてうんざりする。 世の中 もっと泥水すするような思いして 苦労して生きてる人はいくらでもいる。 たかだか 大学受験成功体験談で マスメディアの寵児になれるっていう 現状のほうが狂ってる。 それこそ 中島みゆきの、タイトル忘れたけど、 プロジェクトXの主題歌だよ。 「地上の星」か? いや、 Batteryだったね。 https://www.youtube.com/watch?v=md3B3I7Nmvw てゆーか、 こんな程度の物語を 有り難がってる時点で、ヤバい。 最近、 大して価値のないものが、 ちょっと ネットでバズった程度で、 割高な値段で流通している。 麻布競馬場とか。 日本企業が プラットフォーマーになれなかったのは 仕方ないとして、 ソフトにしろハードにしろ 世界を相手に稼げる商品を 作っていかなきゃ ジリ貧になることは 指摘され続けているのに、 思いつき程度の 商品を有り難がってるようじゃ、 とても 世界を相手に稼げる財は生み出せない。 価値の低いものを 割高の値段で売って 稼いでるような ビジネスをやってたら、 日本は衰退するだけ。 https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX 製造業のほうはよくわからないが、 ソフトパワー、 つまりエンタメにしても 完全に韓国に負けてるし、 そもそも 日本の内向きの 傾向が強まっている感が否めない。 日本人相手にいくら稼いでも、 世界を相手に出来なければ、意味がない。 お笑いなんかモロにそう。 世界に伍するとか以前に、 芸能界の互助会の 内輪ネタで盛り上がってるだけで、 微塵も面白くない。 漫画にしても、 素人に毛が生えた程度の連中が、 判で押したような テーマで競い合っている。

2022年12月4日日曜日

「魔の山」 (再掲)

さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり) https://www.youtube.com/watch?v=9HZ_tx8aWuA

2022年12月3日土曜日

ギフテッド

自分の スマホに入ってくる 情報が 偏ってるのかも知れないけど、 最近、 いわゆる 生まれつき 飛び抜けて 知能指数が高い ギフテッドの子どもの話を よく 目にするんだが、 そういう子供たちに対する 対応も大事だとは思うが、 学習塾で 幼稚園児を相手にした経験からすると、 このバカガキ将来どないすんねん?!と 言いたくなってしまうようなレベルの 子供とか、 来年小学校あがるのに 自分の名前も言えない子供とか、 ギフテッドギフテッド言ってる裏で、 こんな学力云々以前の子供たちを、 どーすんのよ?! と言いたい。 あとは、 親のしつけが狂ってて、 やたら 攻撃的な子供とか。 つっても 一番ムカつくのは、 せいぜい並レベルの知能のくせに、 勘違いして オッサンに平気でケンカ売ってくるガキだけど。 かくいう俺も、 幼稚園児の頃は覚えてないが、 小学5年くらいまでは 平気で毎日 昼夜関係なく 小便漏らしてたから、 他人のことは言えないけど。 塾で小便漏らさないだけ立派やな! ナッ・・・・・・!

青空文庫ー風博士

風博士 坂口安吾  諸君は、東京市某町某番地なる風博士の邸宅を御存じであろう乎か? 御存じない。それは大変残念である。そして諸君は偉大なる風博士を御存知であろうか? ない。嗚呼ああ。では諸君は遺書だけが発見されて、偉大なる風博士自体は杳ようとして紛失したことも御存知ないであろうか? ない。嗟乎ああ。では諸君は僕が其筋そのすじの嫌疑のために並々ならぬ困難を感じていることも御存じあるまい。しかし警察は知っていたのである。そして其筋の計算に由れば、偉大なる風博士は僕と共謀のうえ遺書を捏造ねつぞうして自殺を装い、かくてかの憎むべき蛸たこ博士の名誉毀損をたくらんだに相違あるまいと睨にらんだのである。諸君、これは明らかに誤解である。何となれば偉大なる風博士は自殺したからである。果して自殺した乎? 然しかり、偉大なる風博士は紛失したのである。諸君は軽率に真理を疑っていいのであろうか? なぜならば、それは諸君の生涯に様々な不運を齎もたらすに相違ないからである。真理は信ぜらるべき性質のものであるから、諸君は偉大なる風博士の死を信じなければならない。そして諸君は、かの憎むべき蛸博士の――あ、諸君はかの憎むべき蛸博士を御存知であろうか? 御存じない。噫呼ああ、それは大変残念である。では諸君は、まず悲痛なる風博士の遺書を一読しなければなるまい。     風博士の遺書  諸君、彼は禿頭である。然り、彼は禿頭である。禿頭以外の何物でも、断じてこれある筈はずはない。彼は鬘かつらを以て之の隠蔽をなしおるのである。ああこれ実に何たる滑稽! 然り何たる滑稽である。ああ何たる滑稽である。かりに諸君、一撃を加えて彼の毛髪を強奪せりと想像し給え。突如諸君は気絶せんとするのである。而して諸君は気絶以外の何物にも遭遇することは不可能である。即ち諸君は、猥褻わいせつ名状すべからざる無毛赤色の突起体に深く心魄を打たるるであろう。異様なる臭気は諸氏の余生に消えざる歎きを与えるに相違ない。忌憚きたんなく言えば、彼こそ憎むべき蛸である。人間の仮面を被り、門にあらゆる悪計を蔵かくすところの蛸は即ち彼に外ならぬのである。  諸君、余を指して誣告ぶこくの誹そしりを止やめ給え、何となれば、真理に誓って彼は禿頭である。尚疑わんとせば諸君よ、巴里パリ府モンマルトル三番地、Bis, Perruquier ショオブ氏に訊き給え。今を距ること四十八年前のことなり、二人の日本人留学生によって鬘の購あがなわれたることを記憶せざるや。一人は禿頭にして肥満すること豚児の如く愚昧ぐまいの相を漂わし、その友人は黒髪明眸めいぼうの美少年なりき、と。黒髪明眸なる友人こそ即ち余である。見給え諸君、ここに至って彼は果然四十八年以前より禿はげていたのである。於戯ああ実に慨嘆の至に堪えんではない乎! 高尚なること※(「木+解」、第3水準1-86-22)かしわの木の如き諸君よ、諸君は何故彼如き陋劣漢ろうれつかんを地上より埋没せしめんと願わざる乎。彼は鬘を以てその禿頭を瞞着まんちゃくせんとするのである。  諸君、彼は余の憎むべき論敵である。単なる論敵であるか? 否否否。千辺否。余の生活の全てに於て彼は又余の憎むべき仇敵である。実に憎むべきであるか? 然り実に憎むべきである! 諸君、彼の教養たるや浅薄至極でありますぞ。かりに諸君、聡明なること世界地図の如き諸君よ、諸君は学識深遠なる蛸の存在を認容することが出来るであろうか? 否否否、万辺否。余はここに敢あえて彼の無学を公開せんとするものである。  諸君は南欧の小部落バスクを認識せらるるであろうか? もしも諸君が仏蘭西フランス、西班牙スペイン両国の国境をなすピレネエ山脈をさまようならば、諸君は山中に散在する小部落バスクに逢着ほうちゃくするのである。この珍奇なる部落は、人種、風俗、言語に於て西欧の全人種に隔絶し、実に地球の半廻転を試みてのち、極東じゃぽん国にいたって初めて著しき類似を見出すのである。これ余の研究完成することなくしては、地球の怪談として深く諸氏の心胆を寒からしめたに相違ない。而して諸君安んぜよ、余の研究は完成し、世界平和に偉大なる貢献を与えたのである。見給え、源義経は成吉思汗ジンギスカンとなったのである。成吉思汗は欧州を侵略し、西班牙に至ってその消息を失うたのである。然り、義経及びその一党はピレネエ山中最も気候の温順なる所に老後の隠栖いんせいを卜ぼくしたのである。之即ちバスク開闢かいびゃくの歴史である。しかるに嗚乎、かの無礼なる蛸博士は不遜千万にも余の偉大なる業績に異論を説となえたのである。彼は曰いわく、蒙古の欧州侵略は成吉思汗の後継者太宗の事蹟にかかり、成吉思汗の死後十年の後に当る、と。実に何たる愚論浅識であろうか。失われたる歴史に於て、単なる十年が何である乎! 実にこれ歴史の幽玄を冒涜するも甚だしいではないか。  さて諸君、彼の悪徳を列挙するは余の甚だ不本意とするところである。なんとなれば、その犯行は奇想天外にして識者の常識を肯がえんぜしめず、むしろ余に対して誣告の誹を発せしむる憾みあるからである。たとえば諸君、頃日けいじつ余の戸口に Banana の皮を撒布し余の殺害を企てたのも彼の方寸に相違ない。愉快にも余は臀部でんぶ及び肩胛骨けんこうこつに軽微なる打撲傷を受けしのみにて脳震盪のうしんとうの被害を蒙るにはいたらなかったのであるが、余の告訴に対し世人は挙げて余を罵倒したのである。諸君はよく余の悲しみを計りうるであろう乎。  賢明にして正大なること太平洋の如き諸君よ。諸君はこの悲痛なる椿事ちんじをも黙殺するであろう乎。即ち彼は余の妻を寝取ったのである! 而して諸君、再び明敏なること触鬚しょくしゅの如き諸君よ。余の妻は麗わしきこと高山植物の如く、実に単なる植物ではなかったのである! ああ三度冷静なること扇風機の如き諸君よ、かの憎むべき蛸博士は何等の愛なくして余の妻を奪ったのである。何となれば諸君、ああ諸君永遠に蛸なる動物に戦慄せよ、即ち余の妻はバスク生れの女性であった。彼の女は余の研究を助くること、疑いもなく地の塩であったのである。蛸博士はこの点に深く目をつけたのである。ああ、千慮の一失である。然り、千慮の一失である。余は不覚にも、蛸博士の禿頭なる事実を余の妻に教えておかなかったのである。そしてそのために不幸なる彼の女はついに蛸博士に籠絡ろうらくせられたのである。  ここに於てか諸君、余は奮然蹴起けっきしたのである。打倒蛸! 蛸博士を葬れ、然り、膺懲ようちょうせよ、憎むべき悪徳漢! 然り然り。故に余は日夜その方策を練ったのである。諸君はすでに、正当なる攻撃は一つとして彼の詭計きけいに敵し難い所以ゆえんを了解せられたに違いない。而して今や、唯一策を地上に見出すのみである。然り、ただ一策である。故に余は深く決意をかため、鳥打帽に面体を隠してのち夜陰に乗じて彼の邸宅に忍び入ったのである。長夜にわたって余は、錠前に関する凡およそあらゆる研究書を読破しておいたのである。そのために、余は空気の如く彼の寝室に侵入することが出来たのである。そして諸君、余は何のたわいもなくかの憎むべき鬘を余の掌中に収めたのである。諸君、目前に露出する無毛赤色の怪物を認めた時に、余は実に万感胸にせまり、溢れ出る涙を禁じ難かったのである。諸君よ、翌日の夜明けを期して、かの憎むべき蛸はついに蛸自体の正体を遺憾なく暴露するに至るであろう! 余は躍る胸に鬘をひそめて、再び影の如く忍び出たのである。  しかるに諸君、ああ諸君、おお諸君、余は敗北したのである。悪略神の如しとは之これか。ああ蛸は曲者の中の曲者である。誰かよく彼の深謀遠慮を予測しうるであろう乎。翌日彼の禿頭は再び鬘に隠されていたのである。実に諸君、彼は秘かに別の鬘を貯蔵していたのである。余は負けたり矣。刀折れ矢尽きたり矣。余の力を以てして、彼の悪略に及ばざることすでに明白なり矣。諸氏よ、誰人かよく蛸を懲こらす勇士なきや。蛸博士を葬れ! 彼を平なる地上より抹殺せよ! 諸君は正義を愛さざる乎! ああ止むを得ん次第である。しからば余の方より消え去ることにきめた。ああ悲しいかな。  諸君は偉大なる同博士の遺書を読んで、どんなに深い感動を催されたであろうか? そしてどんなに劇はげしい怒りを覚えられたであろうか? 僕にはよくお察しすることが出来るのである。偉大なる風博士はかくて自殺したのである。然り、偉大なる風博士は果して死んだのである。極めて不可解な方法によって、そして屍体したいを残さない方法によって、それが行われたために、一部の人々はこれを怪しいと睨にらんだのである。ああ僕は大変残念である。それ故僕は唯一の目撃者として、偉大なる風博士の臨終をつぶさに述べたいと思うのである。  偉大なる博士は甚だ周章あわて者であったのである。たとえば今、部屋の西南端に当る長椅子に腰懸けて一冊の書に読み耽っていると仮定するのである。次の瞬間に、偉大なる博士は東北端の肱掛椅子に埋もれて、実にあわただしく頁をくっているのである。又偉大なる博士は水を呑む場合に、突如コップを呑み込んでいるのである。諸君はその時、実にあわただしい後悔と一緒に黄昏たそがれに似た沈黙がこの書斎に閉じ籠もるのを認められるに相違ない。順したがって、このあわただしい風潮は、この部屋にある全ての物質を感化せしめずにおかなかったのである。たとえば、時計はいそがしく十三時を打ち、礼節正しい来客がもじもじして腰を下そうとしない時に椅子は劇しい癇癪を鳴らし、物体の描く陰影は突如太陽に向って走り出すのである。全てこれらの狼狽は極めて直線的な突風を描いて交錯する為に、部屋の中には何本もの飛ぶ矢に似た真空が閃光せんこうを散らして騒いでいる習慣であった。時には部屋の中央に一陣の竜巻が彼自身も亦周章てふためいて湧き起ることもあったのである。その刹那偉大なる博士は屡々しばしばこの竜巻に巻きこまれて、拳を振りながら忙しく宙返りを打つのであった。  さて、事件の起った日は、丁度偉大なる博士の結婚式に相当していた。花嫁は当年十七歳の大変美しい少女であった。偉大なる博士が彼の女に目をつけたのは流石さすがに偉大なる見識といわねばならない。何となればこの少女は、街頭に立って花を売りながら、三日というもの一本の花も売れなかったにかかわらず、主として雲を眺め、時たまネオンサインを眺めたにすぎぬほど悲劇に対して無邪気であった。偉大なる博士ならびに偉大なる博士等の描く旋風に対照して、これ程ふさわしい少女は稀にしか見当らないのである。僕はこの幸福な結婚式を祝福して牧師の役をつとめ、同時に食卓給仕人となる約束であった。僕は僕の書斎に祭壇をつくり花嫁と向き合せに端坐して偉大なる博士の来場を待ち構えていたのである。そのうちに夜が明け放れたのである。流石に花嫁は驚くような軽率はしなかったけれど、僕は内心穏かではなかったのである。もしも偉大なる博士は間違えて外ほかの人に結婚を申し込んでいるのかも知れない。そしてその時どんな恥をかいて、地球一面にあわただしい旋風を巻き起すかも知れないのである。僕は花嫁に理由を述べ、自動車をいそがせて恩師の書斎へ駆けつけた。そして僕は深く安心したのである。その時偉大なる博士は西南端の長椅子に埋もれて飽くことなく一書を貪むさぼり読んでいた。そして、今、東北端の肱掛椅子から移転したばかりに相違ない証拠には、一陣の突風が東北から西南にかけて目に沁み渡る多くの矢を描きながら走っていたのである。 「先生約束の時間がすぎました」  僕はなるべく偉大なる博士を脅かさないように、特に静粛なポオズをとって口上を述べたのであるが、結果に於てそれは偉大なる博士を脅かすに充分であった。なぜなら偉大なる博士は色は褪せていたけれど燕尾服を身にまとい、そのうえ膝頭にはシルクハットを載せて、大変立派なチューリップを胸のボタンにはさんでいたからである。つまり偉大なる博士は深く結婚式を期待し、同時に深く結婚式を失念したに相違ない色々の条件を明示していた。 「POPOPO!」  偉大なる博士はシルクハットを被り直したのである。そして数秒の間疑わしげに僕の顔を凝視みつめていたが、やがて失念していたものをありありと思い出した深い感動が表れたのであった。 「TATATATATAH!」  已すでにその瞬間、僕は鋭い叫び声をきいたのみで、偉大なる博士の姿は蹴飛ばされた扉の向う側に見失っていた。僕はびっくりして追跡したのである。そして奇蹟の起ったのは即ち丁度この瞬間であった。偉大なる博士の姿は突然消え失せたのである。  諸君、開いた形跡のない戸口から、人間は絶対に出入しがたいものである。順したがって偉大なる博士は外へ出なかったに相違ないのである。そして偉大なる博士は邸宅の内部にも居なかったのである。僕は階段の途中に凝縮して、まだ響き残っているその慌しい跫音あしおとを耳にしながら、ただ一陣の突風が階段の下に舞い狂うのを見たのみであった。  諸君、偉大なる博士は風となったのである。果して風となったか? 然り、風となったのである。何となればその姿が消え失せたではないか。姿見えざるは之即ち風である乎? 然り、之即ち風である。何となれば姿が見えないではない乎。これ風以外の何物でもあり得ない。風である。然り風である風である風である。諸氏は尚、この明白なる事実を疑るのであろうか。それは大変残念である。それでは僕は、さらに動かすべからざる科学的根拠を附け加えよう。この日、かの憎むべき蛸博士は、恰あたかもこの同じ瞬間に於て、インフルエンザに犯されたのである。 底本:「坂口安吾全集1」ちくま文庫、筑摩書房    1989(平成元)年12月4日第1刷発行    1989(平成元)年12月25日第2刷発行 底本の親本:「黒谷村」竹村書房    1935(昭和10)年6月25日発行 初出:「青い馬 第二号」岩波書店    1931(昭和6)年6月1日発行 入力:砂場清隆 校正:伊藤時也 2005年11月19日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。

アンチ・非モテディプス

その非モテは、尻の中に太陽光線をきらめかせる。これは太陽肛門である。<モテ>が機能することは確信していい。その非モテは何かを感じ、何かを生産し、そしてこれについて理論を作ることができる。何かが生産される。この何かは機械のもたらす結果であって、単なる隠喩ではない。 https://www.youtube.com/watch?v=P0dTn1Ga818

反転攻勢

入りたくもなかった 慶応SFCで、 無謀なリスクかけまくって 大怪我したけど、 ようやく リターンを回収した。 リスクの賭け方が 無謀だったぶん、 リターンも大きかった。 怪我はしたけど。 教訓として、 働くにしても、 市役所に 障害者枠で入って、 身分保障されて 定年まで ヌルい仕事して 過ごすより、 たとえば コールセンターで 通訳のバイトして 自分のスキル活かすほうが、 性に合うし、 自分自身成長できるはず。 俺は、 後者を選びたい。 以下は余談だけど、 若いくせに リスク賭けないヤツが多すぎなんだよ。 そのくせ、 他人にリスク背負わせて、 自分はオイシイところだけ 持っていこうとする。 中途半端に学歴高い 慶応生なんて そんなんばっか。 https://www.youtube.com/watch?v=KPNzH6LGOmc

2022年12月2日金曜日

防衛費増額問題

俺:The Japanese government is under dispute if the increase of national defense expenditure should be financed by the tax-hike or issuing JGBs. I believe it’s absurd to finance the defense expenditure by issuing JGBs. But, many people are forgetting that the recent augment of Japanese financial or de-facto burden for military expenditure is demanded by the US, that is no longer to be the global policeman. Is the international situation not allowing Japan to be just conscious about self-defense ? ジョンさん:It’s an ages old argument: “guns or butter.” The US has long wanted its allies, especially NATO Allies, to pay more of their budgets for defense, lessening the burden of American taxpayers. I don’t know the percentage of the Japanese budget that goes to defense. I imagine it is already high. 俺:It is aiming at 2% of GDP. 1% so far. ジョンさん:I believe our allies promise America that they will spend a certain percentage of GDP on defense, but the Europeans were always spending less than they pledged. Japan and Korea probably live up to their pledges. I suppose the Japanese public can decide for itself if they want increased defense expenditure or not through their votes. 俺:I hope so. But the origin of power, which shall be the diet, has gone to the cabinets after Koizumi. Ok. It’s dependent on ourselves. ジョンさん:People can certainly vote for Left wing parties if they oppose increased JSDF spending or constitutional revision. 俺:Exactly. Japanese political status quo is negative for LDP. 私:日本政府は、防衛費の増額を増税で賄うか、国債の発行で賄うかで議論しています。私は、国防費を国債発行で賄うのは無茶だと思う。しかし、最近の日本の軍事費の財政的、事実上の負担増は、世界の警察官でなくなった米国が要求していることを多くの人が忘れているのではないでしょうか。国際情勢は、日本が自衛の意識を持つことを許さないのでしょうか?ジョンさん:昔からよく言われることです。「銃かバターか。アメリカは長い間、同盟国、特にNATOの同盟国が防衛のためにもっと予算を払い、アメリカの納税者の負担を軽減することを望んできた。日本の防衛予算の割合を私は知らない。すでに高いのではないでしょうか。私:GDPの2%を目指しています。今のところ1%です。ジョンさん:同盟国はアメリカに対して、GDPの何パーセントを防衛費として使うという約束をしていると思いますが、ヨーロッパはいつも約束よりも少ない支出をしていました。日本と韓国はおそらく公約通りでしょう。防衛費を増やすかどうかは、日本国民が投票によって決めることができるのでしょう。私:そう願いたい。しかし、権力の原点である国会は、小泉以降、内閣に移ってしまった。分かった。それは自分たち次第だ。ジョンさん:自衛隊の増強や憲法改正に反対する人は、左翼政党に投票すればいいんですよ。俺:その通り。日本の政治の現状は、自民党にとってマイナスだ。

集団的自衛権と集団安全保障の違い (再掲)

①帝国クライスと国連の関係、②集団的自衛権と集団安全保障の違い、について山梨大学の皆川卓先生にうかがいました。(放送大学面接授業「神聖ローマ帝国の歴史」の先生です。) 第一の質問ですが、コトは少々複雑です。神聖ローマ帝国の帝国クライスは、帝国の解体と共に忘れられていました。しかし帝国クライスがまだ健在だった18世紀初頭、フランスのサン・ピエール(Charles-Irenee Castel de Saint-Pierrem 1658-1743)という聖職者・外交官・政治哲学者が、帝国クライスの仕組みと活動を見て(サン・ピエールの主君であるフランス王ルイ14世は神聖ローマを侵略して帝国クライスに痛い目に遭っていました)、これをお手本に、ヨーロッパ各国が恒久的な同盟を結び、共通の会議や裁判所を持てば、戦争は防げるという著書『ヨーロッパに永久平和を回復するための計画』(Projet pour rendre la paix perpe'tuelle en Europe)という著書を著します。この著書を褒めながら、「平和を希求する君主の同盟では、彼らの心変わりがあって心許ない。国際安全保障は人権の土台である平和を守るという人民の意思に基づかなければ」という修正を加えたのが、有名な政治哲学者ルソー(Jean Jacque Rousseau, 1712-78)が1761年に著した『サン=ピエール師の永久平和論抜粋』(これは日本語訳のルソー全集4巻に入っていて簡単に読めます)でした。そして彼の著作に触発されたのが、これも有名なプロイセンの哲学者カント(Immanuel Kant, 1724-1804)で、彼はルソー論文の理論を発展させ、国際安全保障に必要な条件を列挙した『恒久平和のために』(Zum ewigen Frieden)という論文を1795年に著します(これも岩波文庫に入っていて簡単に読めます)。これがその後の国際安全保障構想の土台になる論文で、19世紀にイギリスの国際法学者ロバート・フィリモア(Robert Phillimore, 1810-85)の多くの論文によって、国際法を実現するためになくてはならない機構と訴えられることになり、その息子の国際法学者ウォルター・フィリモア(Walter Phillimore, 1845-1929)やフランスの政治理論家レオン・ブルジョワ(Leon Bourgeois, 1851-1925)、ドイツの国家学者ゲオルク・イェリネク(Georg Jellinek, 1851-1911)ら広い範囲の学者たちの支持を得るに至りました。そして第一次大戦の最中、大英帝国の南アフリカ担当大臣で総力戦の繰り返しを防ぐにはどうしたらよいか考えていたヤン・スマッツ(1870-1950)がカント(>ルソー>サン・ピエール>帝国クライス)の理論を知り、これを元に新しい国際安全保障体制の構想を立て、同じく安定した国際秩序の樹立を考えていたアメリカの大統領ウッドロー・ウィルソン(Th.Woodrow Wilson, 1856-1924)に紹介し、第一次世界大戦後の国際秩序再建の折に、世界初の国際機構「国際連盟」となって実現したわけです。第二次大戦後の「国際連合」が「国際連盟」の機能を強化したものであることはご存じの通りです。というわけで、現実が思想になってまた現実を生み出すには、長い長い過程が必要です。ただし元になる現実がなければ思想も生まれないわけで(たとえばこうした例がないアジアでは、国際安全保障体制の構想は生まれませんでした)、その意味では帝国クライスは画期的だったと言えます。 第二の集団的自衛権と集団安全保障は大きく違います。それは集団的自衛権が、仮想敵を具体的に想定して結ぶ部分的な国家連合であるのに対し、集団安全保障は仮想敵を想定せず、安全保障にかかわる全ての国と同盟し、想定外の状況としてその一部が安全を脅かした場合、他の全ての国がこの脅威の除去を義務づけあうからです。そのため集団的自衛権は地域的にもまとまらない2カ国(多くは遠交近攻関係)から数カ国の同盟に留まるのに対し、集団安全保障は世界全体を覆う国連をはじめ、神聖ローマやスイス盟約者団(1848年以前のスイス)、合衆国成立(1787年)以前のアメリカ13州のように、一定地域内の国をすべて同盟内に取り込みます。ただし現実の組織においては、この両方の目的を持っている場合が少なくありません。それは安全保障にかかわる全ての国を同盟の中に取り込むことができない場合、取り込むことが出来ない国々は全て敵になるかもしれない存在だからです。神聖ローマは帝国内では集団安全保障機構でしたが、オスマン帝国やフランスに対しては集団的自衛権のための同盟でしたし、アメリカ13州も独立を認めないイギリスに対しては同様でした。近代でもたとえばヨーロッパと北米大陸のほとんどの国を含む北大西洋条約機構(NATO)は、大西洋地域では集団安全保障の組織ですが、ソ連率いるワルシャワ条約機構の諸国がある東ヨーロッパに対しては、集団的自衛権のための組織として機能していました(残念ながら現在でもロシアなどに対してはそのように機能しています)。ですから同盟をより集団安全保障機構に近づけていくことが、戦争の危険を避けるために重要です。

JAM (再掲)

なんか、どうも 中国と北朝鮮は、 日本は 自民党に支配されているほうが 好都合だ、 とでも思っているんじゃないか? 日中国交正常化の記念日(だっけ?)の ときも、 向こうから手を差し伸べて来たし、 その 直後に北朝鮮が 弾道ミサイル撃って、 Jアラート発したし。 これって、 自民党がさすがにちょっとヤバいんじゃないか? っていうタイミングだったんだよね。 上記のようなことが起こると、 どうしたって、 やっぱり自民党が政権を担っていてくれないと! っていう発想になるよね。 なんかなー、出来すぎてる感じがして仕方がない。 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221011/k10013855221000.html 俺:I have a supposition. It seems both China and North Korea prefer Japan, which is ruled by the LDP. In the midst of the LDP’s political foundation is at stake, China literally reached out its hands and North Korea launched a missile. Both benefited the LDP, threatening the Japanese people into believing the legitimacy of the rule by the LDP. ジョンさん:For domestic political consumption both communist countries prefer LDP-ruled Japan as the LDP more closely conforms to the 1931-45 stereotype of Militaristic Japan. Anti-Japanese political points can then be scored by the communist governments to strengthen their own hold on power as the people of both nations are still very suspicious of Japan. South Korea does this as well. Of course LDP and it’s love affair with Yasukuni Jinja and denial of Nanjing Massacre and Comfort Women plays right into the hands of Its communist neighbors as well as South Korea. So both LDP and the Reds benefit. LDP, as you correctly say, benefits politically from provoking China and Korea. And they benefit politically from standing tall against LDP perennial provocations like Dokdo island dispute. It is a mutually beneficial symbiotic relationship between LDP and China/Two Koreas. They need each other. 俺:仮説なんだけどさ。中国も北朝鮮も、自民党が支配する日本を好んでいるようです。自民党の政治基盤が危うい中で、中国は文字通り手を伸ばし、北朝鮮はミサイルを発射した。どちらも自民党を利し、日本国民を脅して自民党支配の正当性を信じ込ませた。ジョンさん:国内の政治的消費のために、共産主義国はどちらも自民党支配の日本を好む。自民党は1931-45年の軍国主義日本というステレオタイプにより近いからだ。そうすれば、共産主義政府は反日的な政治的ポイントを獲得し、自国の権力を強化することができる。両国の国民はいまだに日本に対して強い疑念を抱いているからだ。韓国も同様である。もちろん、自民党は靖国神社を愛し、南京大虐殺と慰安婦を否定しているので、韓国と同様に共産主義的な隣国の手のひらに乗っているのだ。つまり、自民党と赤軍の両方が利益を得ているのです。自民党は、あなたが正しく言うように、中国と韓国を刺激することで政治的な利益を得ています。そして、独島問題のような自民党の度重なる挑発に対抗することで、政治的に利益を得ているのです。自民党と中国・朝鮮半島の間には、相互に利益のある共生関係があるのです。彼らはお互いを必要としている。 www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。 https://www.youtube.com/watch?v=xv55yyNxCuE

こりゃアウトだな。上等じゃヴォケ!!!

https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/1830606soumu-siryou2.pdf/$File/1830606soumu-siryou2.pdf 例えば、 杉田水脈みたいな やつに 当選してもらいたくないから、 中国ブロックの人は 自民党に 比例で 入れるな、 とか 絶対言うもん。 その時点でアウト。

ヨーヨーマッ!

世耕もどうなのよ? ぶっ飛ばしてやりたい。 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA014AA0R01C22A2000000/

アメリカのデモクラシー (再掲)

「私の目に浮かぶのは、数え切れないほど多くの似通って平等な人々が矮小で俗っぽい快楽を胸いっぱいに思い描き、これを得ようと休みなく動きまわる光景である。誰もが自分にひきこもり、他のすべての人々の運命にほとんど関わりをもたない。彼にとっては子供たちと特別の友人だけが人類のすべてである。残りの同胞市民はというと、彼はたしかにその側にいるが、彼らを見ることはない。人々と接触しても、その存在を感じない。自分自身の中だけ、自分のためにのみ存在し、家族はまだあるとしても、祖国はもはやないといってよい。」 「アメリカのデモクラシー」 岩波文庫 アレクシス・ド・トクヴィル 第二巻下2596ページ

啓蒙という時代と漱石 (再掲)

で、どうなのよ? 面接授業受けてきて。 近世ロシア史の 授業を受けた時にも ちょっと 思ったけど、 日本にとって 一番近い 「西欧」って、 その当時は ロシアだったと思うし、 ちょっと漱石よりも 時代は早いけど、 ちょうど 時代の流れとして、 啓蒙専制君主3人組の影響は 無視できないよね。 ロシアのエカチェリーナ2世、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ、プロイセンのヴィルヘルム・フリードリッヒ2世。 この国々を、 日本はお手本にしてたんだから、 追いつけ追い越せで、 啓蒙は疑いもなく良いものだ! というノリでやってたんだろう。 その 啓蒙理性に身を投じながらも、 反発を覚えた、という筋も、あるだろう。 現実に、 その当時の 日本社会は、 劇的に 変化し続けていたのだから。

「それから」における漱石とアドルノ (再掲)

代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。  やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章) もっとも、アドルノが主観と客観との絶対的な分離に敵対的であり、ことにその分離が主観による客観のひそかな支配を秘匿しているような場合にはいっそうそれに敵意を示したとは言っても、それに替える彼の代案は、これら二つの概念の完全な統一だとか、自然のなかでの原初のまどろみへの回帰だとかをもとめるものではなかった。(93ページ) ホーマー的ギリシャの雄大な全体性という若きルカーチの幻想であれ、今や悲劇的にも忘却されてしまっている充実した<存在>というハイデガーの概念であれ、あるいはまた、人類の堕落に先立つ太古においては名前と物とが一致していたというベンヤミンの信念であれ、反省以前の統一を回復しようといういかなる試みにも、アドルノは深い疑念をいだいていた。『主観‐客観』は、完全な現前性の形而上学に対する原‐脱構築主義的と言っていいような軽蔑をこめて、あらゆる遡行的な憧憬に攻撃をくわえている。(94ページ) 言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) こういう風に考えてみて下さい。主体化した人間は、主客未分化で混沌とした自然から離脱して自立しようとしながら、その一方で、身体的欲望のレベルでは自然に引き付けられている。自らの欲望を最大限に充足し、完全な快楽、不安のない状態に至ろうとしている。それは、ある意味、自然ともう一度統合された状態と見ることができます。母胎の中の胎児のように、主客の分離による不安を覚える必要がないわけですから。そして、そうした完全な充足状態に到達すべく、私たちは自らの現在の欲望を抑え、自己自身と生活環境を合理的に改造すべく、努力し続けている。安心して寝て暮らせる状態に到達するために、今はひたすら、勤勉に働き続け、自分を鍛え続けている。しかし、本当に「自己」が確立され、各人が計算的合理性のみに従って思考し行動するだけの存在になってしまうと、自己犠牲によって獲得しようとしてきた自然との再統合は、最終的に不可能になってしまいます。日本の会社人間の悲哀という形でよく聞く話ですが、これは、ある意味、自己と環境の啓蒙を通して、「故郷」に帰還しようとする、啓蒙化された人間全てが普遍的に抱えている問題です。啓蒙は、そういう根源的自己矛盾を抱えているわけです。(「現代ドイツ思想講義」作品社 148ページ) かなり抽象的な説明になっていますが、エッセンスは、先ほどお話ししたように、自然との再統合を目指す啓蒙の過程において、人間自身の「自然」を抑圧することになる、ということです。啓蒙は、自然を支配し、人間の思うように利用できるようにすることで、自然と再統合する過程だと言えます。自然を支配するために、私たちは社会を合理的に組織化します。工場での生産体制、都市の交通網、エネルギー供給体制、ライフスタイル等を合理化し、各人の欲求をそれに合わせるように仕向けます。それは、人間に本来備わっている“自然な欲求”を抑圧し、人間の精神や意識を貶めることですが、啓蒙と共にそうした事態が進展します。後期資本主義社会になると、その傾向が極めて顕著になるわけです。それが、疎外とか物象化と呼ばれる現象ですが、アドルノたちはそれを、資本主義経済に固有の現象ではなく、「主体性の原史」に既に刻印されていると見ます。(「現代ドイツ思想講義 作品社」150ページ) アドルノについては、ポスト構造主義が大きくクローズアップされた80年代から しばらくの間、私たちでも手に取るような一般的理論書の引用、あるいは論文の 脚注で名前はよく知りながら、レポートを拝見して、初めてその具体的実像について アウトラインを教えて頂いたことになります。  理性と個人の誕生に重きを置きながらも、それが疎外を産み出さざるをえない 一種の必然に対して、それを批判しながらも反動的な主客合一論へは与しない、 むしろ代償を支払いながら手にする「反省能力」に信頼を置く……  こんな感じで理解しましたが、何より漱石との親近性に瞠目に近い思いを 抱きました。漱石の文明批評は、いうまでもなく「近代」批判なのですが、 しかしけっして、傷だらけになりながらも獲得した「個人」を手放そうとはしません でした、それが彼を果てしない葛藤に陥れたにも拘わらず。  レポートを拝見させて頂き、末尾の件り――アドルノの「疎外」批判が、 それを資本主義に固有の現象としてそこに帰させるのではなく、「主体性の歴史」 に「刻印」されたものとして把握しているとの括りに、漱石との類縁性を改めて実感 し直すと同時に、漱石論への大きな励ましのステップを頂戴する思いです。  本当に有り難う。  なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。  しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。  三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。  こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。                            静岡大学 森本隆子先生より

漱石と資本主義 (再掲)

確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

近代日本の炭鉱夫と国策@茨城大学 レポート (再掲)

茨城大学強いわ。ここんとこ毎学期茨城大学行ってるけど、今回もめちゃくちゃ面白かった。面白いという言葉では言い表せない。アタマをバットで殴られるくらいの衝撃を感じた。 石炭産業を語らずに近代日本の経済発展は語れないと言って間違いない。 にもかかわらず、おおっぴらに語られることはほとんどない。 あたかも繊維産業が花形で日本経済の繁栄をほとんどすべて牽引したかのように語られている。 裏を返せば、それほどまでに、石炭産業を語るということは、現在に至るまで日本の暗部を映し出すことになるのかも知れない。 (以下レポート) 今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。   ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。   日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。   しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考えると、グローバリゼーションに対応しながら国民的自己決定を達成するには、国をまさに富国強兵のスローガンの下で一致団結させる必要があり、そこでは多様な民意というものを反映することは困難であり、したがって表現の自由が抑圧され、民主主義は達成できない、と考えられます。   戦前の日本に照らして考えると、前近代の村社会が国家組織の末端に組み入れられ、その中で炭鉱夫が生きるための最後の手段として究極のブラック職業として見なされていたこと、それでも西欧へ肩を並べなければならない、という官民一体の国家的意識のなかで、脅迫的に近代化へ歩みを進めざるを得なかった状況では、社会の底辺としての炭鉱夫には、およそ政治参加、すなわち民主主義の恩恵に浴することは出来なかった。それはとりもなおさず炭鉱業というものが本来的に暴力的であり、同時に「国策」としての帝国主義的性格を多分に内包していたことと平仄を合わせています。   中国のウイグル人の抑圧と戦前日本の坑夫を重ねて考えると、そのような構図が透けて見えてきます。

近代日本と石炭

どうしても、 近代日本の経済発展を語るとき、 絹糸やら綿糸が 主役になるんだけど、 やっぱり 良質の石炭が 特に 九州北部で 多量に 産出された メリットは 計り知れないほど 大きい。 しかも、 天然の良港に恵まれ、 そのうえ、 近くに 上海という 国際貿易の一大拠点が あったことも、 かなり アドバンテージになったのは間違いない。

2022年12月1日木曜日

経済教室

昨日の経済教室も 素晴らしかったけど、 今日の経済教室も 面白かった。 渡辺努 東京大学教授 の寄稿。 日々これだけ 貴重な情報が 得られれば、 購読料は 決して高くない。 渡辺先生は 3つの「ステルス」を挙げる。 1つ目は、 いわゆる 「ステルス値上げ」。 これは、 イノベーショを阻害する。 2つ目は、 労働市場における 「ステルス値上げ」。 商品の「ステルス値上げ」にも関わらず、 賃金が上がらないなら、 労働者は、 自らが提供するサービスの質を低下させる、 という「ステルス値上げ」。 3つ目は、 金融市場における「ステルス利下げ」。 金利がこれ以上は無理、 というレベルまで低下したにも関わらず、 量的緩和を継続することは、 日銀による 国債の大量購入に支えられた、 政府のプロジェクトの質を低下させた。 いずれにせよ、 「価格」のシグナル効果を毀損することで、 市場の健全性を損なっている。

みんなのたまごクラブー詐欺と贈与の社会学

https://www.sankei.com/article/20221130-43HA7DDQHFKTZMGTO476XA627U/ 久しぶりに 詐欺師らしい詐欺師を見た、という感じ。 詐欺は詐欺だから、 色は付けられないんだけど、 手法のマヌケさと、 主犯のキャラが、 なんとなく ”憎めなさ”を演出している。 「詐欺と贈与の社会学」(世界思想社 荻野昌弘)の 言ってる 詐欺って、こういうもんかな? 「詐欺が成り立ち得ないところでは、社会もまた成り立ち得ない。」(「遊びの社会学」世界思想社 井上俊) ところで、 公然と合法的に行われている”詐欺”がある。 競馬、競輪、競艇、宝くじなどだ。 あれは、確率的に考えれば、 明らかに詐欺だ。 それを、収益を公益に使うから、という理由で、 合法的に行っている。 もちろん、私的なギャンブルは法律で禁止されている。 賭けマージャンですらも。 それは、収益が公益に使われないからだ。 しかし、 上述したような 賭け事が、最近とみに クリーンでファッショナブルなものに イメチェンされている感が否めない。 それほど、 国の予算はカツカツなのか、と勘ぐってしまう。

ルネッサンス

ピサの斜塔から 2つの鉄球を落とす、 あまりにも 有名な実験ですが、 あれは、 実は 当時の人にとっては 衝撃だったのです。 なぜかというと、 アリストテレスは、 重い物は軽い物よりも、 早く落下すると言っていたのに、 実験したら、同時に落ちたから。 アリストテレスは、 中世ヨーロッパの人にとっては、 科学、倫理、宗教の絶対的存在であり、 それが 否定される、ということは、 価値観が根底から揺るがされるほどの 衝撃なわけです。 アリストテレスは、トマス・アクィナスの神学に受け入れられ、 倫理観、宗教観の絶対的参照項だったから、 それが 少なくとも自然科学の分野において 否定される、ということは、 当時の人にとって 衝撃以外のなにものでもないわけです。

どっせい!

照強(現役力士)に BMIで勝った。 前々から 感じてたけど、 頭の中が充実すると、 ガタイもよくなるんだよね。 なぜか。 せっかく 食べる順番 ダイエットで、 少し 痩せたのに。 焼肉なんて 20年くらい 行ってないのに、なんでだろ? ラーメンだって3年くらい食べてないし、 ビールだって半年に一度くらいしか飲まないのに。 ・・・それだけ気力がみなぎっている、ということにしておこう。

妄想卒論その7 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」 を 合言葉に 米国で 反格差のデモが広がったのは 2011年。 怒りが新興国に伝播し、 米国では 富の集中がさらに進んだ。 米国の 所得10%の人々が得た 所得は 21年に全体の46%に達した。 40年で11ポイント高まり、 ...