2022年12月31日土曜日
「おのれ自身を理解していない思想だけが、本物である。」 テオドール・W・アドルノ
母親の回復具合を見て、
来年こそは
公務員試験にチャレンジ
しようかどうしようか、
なんて考えてたけど、
どっちでもええわ。
どっちにしても
日本の命運が変わるわけでもないし。
1日3回ヘルパーさんが来てくれて、
まあ、
年齢層高めの女性だけど、
みんな可愛がってくれるし、
なんか
だんだん気分良くなってきた。
あれ、このテンション久しぶりだな、て。
もっと若ければ、
こんな境遇で満足していたらイカン!と
思ってただろうけど、
もう40超えてますからね。
どっちにしろ
人生の方向性は大方決まってるし、
それで
ハメを外して道を誤るってことも
ないだろうし、
まあいいか!
という感じです。
母親を見守るっていう
役目も果たせるしね。
https://www.youtube.com/watch?v=KZckLy6FKCA
2022年12月29日木曜日
抜書き
「abjectは、subjectあるいはobjectをもじった造語です。
ab-という接頭辞は、『離脱』という意味があります。
母胎の原初の混沌、
闇に由来し、
subject/object
の二項対立に収まり切らなかったもの、
それを排除しないと
秩序や合理性が成り立たないので、
抑圧され、ないことに
されてしまう要素を
abject
と言います。」
「ゲーテ『ファウスト』を深読みする」(仲正昌樹 明月堂書店 p.164)より
「ポピュリズムとは何か」(中公新書)締めくくり
「デモクラシーという品のよいパーティに出現した、
ポピュリズムという泥酔客。
パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。
ましてや手を取って、ディナーへと導こうとはしないだろう。
しかしポピュリズムの出現を通じて、
現代のデモクラシーというパーティは、
その抱える本質的な矛盾をあらわにしたとはいえないだろうか。
そして困ったような表情を浮かべつつも、
内心では泥酔客の重大な指摘に
密かにうなづいている客は、
実は多いのではないか。」
「ポピュリズムとは何か」 (中公新書)より 重要な論点
「国際都市ロンドンに集うグローバル・エリートの対極に位置し、
主要政党や労組から『置き去り』にされた人々と、
アメリカの東海岸や西海岸の都市部に本拠を置く
政治経済エリートや有力メディアから、
突き放された人々。
労働党や民主党といった、
労働者保護を重視するはずの政党が
グローバル化やヨーロッパ統合の
推進者と化し、
既成政党への失望が広がるなかで、
既存の政治を正面から批判し、
自国優先を打ち出して
EUやTPP,NAFTAなど
国際的な枠組みを否定する急進的な主張が、
強く支持されたといえる。」
「ポピュリズムとは何か」 中公新書 より
「近年語られてきた、『階級なき社会』『今やみんなが中産階級』という
言説は幻想にすぎないのであって、
現実には一部の人に富が集中する一方、
格差と困窮が広がっていることを彼は指摘する。
しかも自己責任原則が広まり、
就労優先政策が浸透するなかで、
職に就くこともままならない労働者階級の人々には
『怠惰』とのレッテルが貼られ、
社会的な批判が向けられている。
しかし、実際には産業構造の転換によって
不本意ながら職を失った労働者に
批判を向けるのはお門違いであり、
むしろ深刻な社会的分断を招いている、
と彼は論じる。」
「ポピュリズムとは何か」 中公新書 より
「ここには、VBにおける演劇批判と同様の、
『エリート文化』の『独占性』に
対するポピュリズム的な批判を見てとることができる。
批判される対象が、フランデレンの場合は
前衛的で多文化主義志向の演劇であり、
大阪の場合は典型的な
伝統芸能であるという点では、
批判の矛先がそれぞれ逆を向くように見える。
しかし
いずれの芸術も、高度の技能を持つ専門家たちによって
担われており、
公的な保護や財政支援の対象となりつつも、
必ずしも『大衆受け』するものになっていないという
現状がある。
そこが
『大衆のための芸術』を
求めるVBや
橋下市長により、
批判の対象とされたといえよう。」
ポピュリズムとは何か 中公新書
ネットで
「ルサンチマン 政治」で
ググってみたところ、
色々出てきましたが、
これだ!
という検索結果が得られなかったものの、
シャンタル・ムフ、という
どこかで聞いた
名前が出てきたので、
Amazonで
検索かけたら、
関連図書で、
「ポピュリズムとは何か−民主主義の敵か、改革の希望か」
(水島治郎 中公新書)が
引っかかって、
サンプルを読んでみたら、
面白そうだから、
購入して
キンドルにダウンロードして、
読んでます。
石橋湛山賞を受賞しているだけあって、
文章も軽妙、
含意するところも深いです。
新書だから安いしね。
ウキウキ♪
これだ!
「エリートに対する人々の違和感の広がり、
すなわちエリートと大衆の『断絶』こそが、
ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。
ポピュリズム政党は、既成政治を既得権にまみれた一部の人々の占有物として描き、
これに『特権』と無縁の市民を対置し、
その声を代表する存在として自らを提示するからである。」
「二十世紀末以降進んできた、産業構造の転換と経済のグローバル化は、
一方では多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの発展を促し、
グローバル都市に大企業や高所得者が集中する結果をもたらした。
他方で経済のサービス化、ソフト化は、規制緩和政策とあいまって
『柔軟な労働力』としてのパートタイム労働や派遣労働などの
不安定雇用を増大させており、低成長時代における
長期失業者の出現とあわせ、
『新しい下層階級』(野田昇吾)を生み出している。」
2022年12月16日金曜日
「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?ー言語と運命の社会学」 内田隆三 岩波書店 p.485
読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。
物語とはおよそこんなものなのかもしれない。
実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。
語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、
じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。
物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。
だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、
またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。
しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、
触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。
2022年12月15日木曜日
「不良少年とキリスト」坂口安吾 より
歯は、何本あるか。これが、問題なんだ。人によって、歯の数が違うものだと思っていたら、そうじゃ、ないんだってね。変なところまで、似せやがるよ。そうまで、しなくったって、いゝじゃないか。だからオレは、神様が、きらいなんだ。なんだって、歯の数まで、同じにしやがるんだろう。気違いめ。まったくさ。そういうキチョウメンなヤリカタは、気違いのものなんだ。もっと、素直に、なりやがれ。
よく、数学とか物理が好きな人で、この世はすべてキレイな数式で表せるから美しいとか、樹木の葉の並び方には規則性があって・・・みたいなこと言うけど、俺にはそういう感覚はわかんねーわ。
世の中ってもっと不条理なもんなんじゃねーのか?
そのほうが健全な気がする。
2022年12月13日火曜日
アドルノと漱石
代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。 やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章) もっとも、アドルノが主観と客観との絶対的な分離に敵対的であり、ことにその分離が主観による客観のひそかな支配を秘匿しているような場合にはいっそうそれに敵意を示したとは言っても、それに替える彼の代案は、これら二つの概念の完全な統一だとか、自然のなかでの原初のまどろみへの回帰だとかをもとめるものではなかった。(93ページ) ホーマー的ギリシャの雄大な全体性という若きルカーチの幻想であれ、今や悲劇的にも忘却されてしまっている充実した<存在>というハイデガーの概念であれ、あるいはまた、人類の堕落に先立つ太古においては名前と物とが一致していたというベンヤミンの信念であれ、反省以前の統一を回復しようといういかなる試みにも、アドルノは深い疑念をいだいていた。『主観‐客観』は、完全な現前性の形而上学に対する原‐脱構築主義的と言っていいような軽蔑をこめて、あらゆる遡行的な憧憬に攻撃をくわえている。(94ページ) 言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) こういう風に考えてみて下さい。主体化した人間は、主客未分化で混沌とした自然から離脱して自立しようとしながら、その一方で、身体的欲望のレベルでは自然に引き付けられている。自らの欲望を最大限に充足し、完全な快楽、不安のない状態に至ろうとしている。それは、ある意味、自然ともう一度統合された状態と見ることができます。母胎の中の胎児のように、主客の分離による不安を覚える必要がないわけですから。そして、そうした完全な充足状態に到達すべく、私たちは自らの現在の欲望を抑え、自己自身と生活環境を合理的に改造すべく、努力し続けている。安心して寝て暮らせる状態に到達するために、今はひたすら、勤勉に働き続け、自分を鍛え続けている。しかし、本当に「自己」が確立され、各人が計算的合理性のみに従って思考し行動するだけの存在になってしまうと、自己犠牲によって獲得しようとしてきた自然との再統合は、最終的に不可能になってしまいます。日本の会社人間の悲哀という形でよく聞く話ですが、これは、ある意味、自己と環境の啓蒙を通して、「故郷」に帰還しようとする、啓蒙化された人間全てが普遍的に抱えている問題です。啓蒙は、そういう根源的自己矛盾を抱えているわけです。(「現代ドイツ思想講義」作品社 148ページ) かなり抽象的な説明になっていますが、エッセンスは、先ほどお話ししたように、自然との再統合を目指す啓蒙の過程において、人間自身の「自然」を抑圧することになる、ということです。啓蒙は、自然を支配し、人間の思うように利用できるようにすることで、自然と再統合する過程だと言えます。自然を支配するために、私たちは社会を合理的に組織化します。工場での生産体制、都市の交通網、エネルギー供給体制、ライフスタイル等を合理化し、各人の欲求をそれに合わせるように仕向けます。それは、人間に本来備わっている“自然な欲求”を抑圧し、人間の精神や意識を貶めることですが、啓蒙と共にそうした事態が進展します。後期資本主義社会になると、その傾向が極めて顕著になるわけです。それが、疎外とか物象化と呼ばれる現象ですが、アドルノたちはそれを、資本主義経済に固有の現象ではなく、「主体性の原史」に既に刻印されていると見ます。(「現代ドイツ思想講義 作品社」150ページ) アドルノについては、ポスト構造主義が大きくクローズアップされた80年代から しばらくの間、私たちでも手に取るような一般的理論書の引用、あるいは論文の 脚注で名前はよく知りながら、レポートを拝見して、初めてその具体的実像について アウトラインを教えて頂いたことになります。 理性と個人の誕生に重きを置きながらも、それが疎外を産み出さざるをえない 一種の必然に対して、それを批判しながらも反動的な主客合一論へは与しない、 むしろ代償を支払いながら手にする「反省能力」に信頼を置く…… こんな感じで理解しましたが、何より漱石との親近性に瞠目に近い思いを 抱きました。漱石の文明批評は、いうまでもなく「近代」批判なのですが、 しかしけっして、傷だらけになりながらも獲得した「個人」を手放そうとはしません でした、それが彼を果てしない葛藤に陥れたにも拘わらず。 レポートを拝見させて頂き、末尾の件り――アドルノの「疎外」批判が、 それを資本主義に固有の現象としてそこに帰させるのではなく、「主体性の歴史」 に「刻印」されたものとして把握しているとの括りに、漱石との類縁性を改めて実感 し直すと同時に、漱石論への大きな励ましのステップを頂戴する思いです。 本当に有り難う。 なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。 しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。 三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。 こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。 静岡大学 森本隆子先生より
2022年12月12日月曜日
「ファウスト」を深読みする
待ちに待って、
やっと届いた。
明月堂書店は
初めてだけど、
書籍って、
出版社によっても
個性がぜんぜん違うよね。
あと、
本の作りも。
ちょっと読んでみた感じ、
作品社の
「○○入門講義」系の
パワーワードが
ズバーン!ズバーン!と
出てくる感じとは違って、
著者の
ほっこりした感じが
伝わってくるような、
売れることよりも、
長く愛されることを
狙っているような、
そんな感じですね。
装丁の感じからいうと、
紙が柔らかくて、
綴じがしっかりしているので、
あまり
ページ数が多いと、
かえって
読みにくいですね。
まあ
御託はいいから、
読んでみましょう。
・・・うん。
面白い。
さすがナカマサ先生。
期待を裏切らない。
・・・まだ途中なんだけど、
ゲーテ以来の
ドイツ文学・哲学における
「母胎回帰」のイメージ
というのは、
ほんとに
理性以前の世界、
こんなこと言うと陳腐な表現なんだけど、
読んでるうちに、
夏目漱石の「それから」の
代助が百合にむせぶシーンと、
すごく
通底するものを感じる。
森本先生が、
それを
三千代との姦通への決意、つまり
スプリングボードとした、
と
仰るのと、
とても
平仄を合わせている感じがする。
実際、
ファウストは
メフィストフェレスと「契約」を
結んでやりたい放題やるわけだからね。
この一冊には、
ゲーテ以降の
ドイツ的思想の
エッセンスが詰まっている感がある。
尤も、
自分の現代ドイツ思想のほとんどを、
ナカマサ先生の著作から
得ているのだから、
ある意味当たり前かも知れないが。
・・・よっしゃー!!!
とりあえず、ここまでは
今日中に読まないと、
眠りたくても眠れない、
ってところまでは
読み終えた。
今まで
たびたび
仄めかされてはいたが、
ハッキリと
わかりやすい形で
表明されて来なかった、
ナカマサ先生流の
「貨幣論」が
明快に展開されていて、
腑に落ちた。
そんなに
アクロバティックな話じゃないけど、
これを書くために、
アドルノやら、
「アンチ・オイディプス」やら、
色んな紆余曲折を経て、
ようやく
こんなシンプルなことが
書けるんだな、
と
頭が下がるわ。
と、いうか
ナカマサ先生とにかく頭いい。
逆に、
こんなに頭よかったら、
細かいことが気になりすぎて
生き辛いんじゃないかと
正直心配になってしまう。
まあ、
だいたい哲学やる人間てのは
ひねくれものだけど。
まあいずれにせよ
今日はこれで
安心して眠れるわ。
・・・おはようございます。
さて、続きを。
昨日読んだ段階では、
仄めかす程度だった
「理性以前=母たちの国」という
テーマが、
「ファウスト」の文脈に沿って
解説されていますね。
あ、なんかクリステヴァの議論があったな。
社会を成り立たしめるためには、
秩序や合理性が必要なわけだが、
その背後にある
主観ー客観の区別
(英語で言えばsubject/object)
に収まりきらないもの、
クリステヴァによると
abject(造語)を
抑圧し、ないものとする
ことが
要求される。
みたいな。
これはモロに
アドルノに
絡んでくる話ですね。
・・・・よっしゃー!!!読了した!!!!!!!!
「貨幣」と「母なる国」との
関係性も明らかになったし、
これまでの
ナカマサ先生の著作の
集大成的なものを感じた。
俺もなぜかしら、
今までの人生が
走馬灯のように
蘇ってきた。
ごちそうさまでした。
感謝。
・・・長い旅だった。
研究会で、
グローバリゼーションに絡めて
「疎外」がどうのこうのと
プレゼンして、
集中砲火浴びて、
その後
措置入院食らう羽目になって・・・・
って、
この話は何度もしてるから
省くけど、
とにかく
普通の意味の経済学も
常識レベルではわかるし、
「疎外」とか
そっち方面の
話も
わかるようになった。
とりあえず
自分の
学問的探求も
一区切りついた。
https://www.youtube.com/watch?v=tAGnKpE4NCI
2022年12月11日日曜日
インタゲと増税はワンセット
そもそも、
インタゲは
物価を上げることを
目標(ターゲット)にしていて、
それが成功して、
物価が上昇しても、
経済成長が伴わない
物価上昇は
人々の
負担になるから、
財政出動が期待される、
それと
同時に、
財政規律を守るためには、
増税が
求められる。
と、
いうことは、
このブログでも
「政策割当の原理」で
数え切れないくらい
投稿してきたけど、
防衛費捻出のためとはいえ、
いずれにせよ
インタゲによって
物価が上昇すれば、
否応なく
増税という結果が
待っているのに、
いざ
物価が上がって、増税、という話になると、
文句をいう、
というのは、
経済学に無知としか言いようがない。
安倍は
国債発行して日銀に買わせれば
いくらでも
資金調達できる、などと
詭弁を弄していたし、
御用学者が、
MMTだの
三橋貴明だの、
高橋洋一だの、
自国通貨建てで国債発行できるから日本は絶対財政破綻しないだの、
ありとあらゆる
屁理屈で、
人々の目を現実から逸らし続けてきた。
そろそろ
現実に目を向けざるを得ない時が
来たんじゃないか?
2022年12月7日水曜日
MUROMACHI
「室町将軍の権力ー鎌倉幕府にはできなかったこと」(朝日文庫 本郷恵子)
を読んでます。
本郷和人先生の奥さんであり、
職場の上司でもあるそうです。
文庫本だから
高くないし、
内容も
読みやすい。
旦那さんが
鎌倉時代を専門としていて、
奥さんは
室町時代の専門家であるようですね。
本郷和人先生の
「北条氏の時代」も
いい本でしたね。
値段から言っても、
内容的にも
コスパ抜群でした。
日本中世史がわかんねー、と
モヤモヤしていた原因がやっと
わかったんだが、
いわゆる
ご恩と奉公っていう関係で、
具体的には
土地を安堵してもらうことがご恩なわけだけど、
結局それってお金に換算するといくらなの?
というのがわからなかった。
と、いうのは、
具体的に金額に換算してもらわなかったら
ご恩が具体的にどれくらいに相当するのが
わからないじゃないか、
と(漠然と)思っていた。
しかし、これは
ある意味愚問だった。
なぜなら、
明治期の地租改正まで、
土地の価値は
基本的に
米の収穫量で決まっていたのだから。
そして、
江戸時代においては、
わざわざ
農民から徴税した米を、
金銭に替えて武士に俸給していたのだから、
現在と同じ感覚で
捉えてはいけない。
とはいえ、
鎌倉時代でも、当然のごとく
土地のランク付けというものは
あったのだろうから、
金銭以外の方法で
評価していたのだろう。
それはやはり、土地の収益力、ということになるんだろう。
ここで勘違いしてはならないのは、
鎌倉時代に、
ちょうど
モンゴル帝国に南宋が滅ぼされると、
大量の宋銭(銅銭)が日本に流入し、
未発達ながらも
貨幣経済が浸透し始めたこと。
室町時代にはさらに
土倉などの
金融業者が発達することは
周知の通りだが、
それは
この本を読み進めてから考えよう。
とはいえ、
「北条氏の時代」を
読んだ限りでは、
土地の売買も普通に行われていたし、
対価が貨幣だったかまでは記憶にないが、
そもそも
鎌倉幕府の存在意義の柱のひとつは、
武士の土地争いを、
裁判をちゃんとやって確定させることにあったのだから、
単純に
ご恩に報いていただけ、とは到底言えないだろう。
こうやって
地道に文献を読んで、
粘り強く
積み重ねていって、
わかった!
と思えるのが
ガクモンの醍醐味ですね。
・・・うーむ。
これは大変な本だぞ。
室町時代の核心を突いている。
この内容が
1000円もしない値段で手に入るのは、
良心的としか
言いようがない。
・・・こりゃ800円の内容じゃないよ。
質・分量ともに、
相当な覚悟で読まないと、
軽い気持ちで
読んだら
大変なことになる。
相当気合い入れないと。
2022年12月5日月曜日
kindle
「東大なんか入らなきゃよかった」っていう本
読んでます。
こんなリアルに
東大生の実態を
赤裸々に書いた本は、
今まで
出くわしたことがない。
メガバンクに
就職して
ウツになった人も
気の毒だな、とは
思ったけど、
最近不人気で
東大からの供給が減っている
官僚の世界も、
あまりに
理不尽で、
官僚が可哀想で仕方がない。
これじゃ
人気なくなるのも
当然だ。
読んでいて、これはフィクションか?
と思った。
話が少しズレるけど、
自分は
精神を病んだから、
意味のわからないレールから
良くも悪くも
外れられたのかな。
なんて
思えてくる。
「東大なんか入らなきゃよかった。」
この本読むと、
掛け値なくそう思う。
もちろん、
武蔵には
東大以外に行くところがない、
というくらい
優秀な人がいて、
羨ましい限り
なのは間違いないのだが、
下手に
官僚なんかになったら、
地獄が待ってる。
許しがたいのは、
政策立案能力なんか
これっぽっちもないくせに、
選挙に受かりたいだけのために
官僚をテレビカメラの前で
公開リンチする
バカ野党議員。
それだけじゃなく、
政権与党も、
安倍からして、
蓮舫へのディスすら
官僚に書かせて、
漢字も読めずに
読み間違える。
この国の統治機構は
明らかにおかしい。
ほんとこの国は終わってる。
ガーシーとか今すぐ辞めろ。
いらねー。
子供の頃から思ってたけど、
マスコミはマスコミで、
ネタに困ると
すぐ
行政、あるいは官僚をバッシングする。
国民も喝采を浴びせる。
あれはマジでモラルハザードとしか言いようがない。
この国潰れるわ。
今だに
財務省の役人が悪で、それと戦う安倍さん、みたいな構図を信じてるバカがいるんだからね。
東大生も大変だな・・・
翻って、自分は今ものすごくオイシイ位置取りにいることに気付かされる。
まったく働いてなくても
障害年金もらえるし、
母親と自分の
公的サポートで、
ヘルパーさんまで来て
ぜんぶやってくれる。
勉強もしたい放題。
これ
パラダイスじゃん。
そら、
障害年金もらえるレベルで
精神病むのもなかなか至難の業だけど、
正直
今朝方、
この本を読むまでは、
よっしゃー
障害者枠で
市役所で働くぞーって本気で思ってたけど、
ちょっとそんな気失せるね。
まあ
十把一絡げには言えないんだけど。
この国はオカシイ。
・・・読了。
最後の仙人みたいな
半世捨て人の話も面白かったな。
こういう人もいるから、
東大ってやっぱりなんだかんだ
深みがあるんだろうな。
SFCでは
まずお目にかかれない。
いたとしても、
いなかったことにされる。
SFCの、そういう”清潔さ”は、
正直まったく好きになれない。
それはともかく、
自分がこの本読んで、
いま自分がいかに恵まれた立場にいるかわかったから、
現状維持でいいや、
と言ったら、
母親がむしろ
急に元気になった。
やっぱり
一人は寂しいようだ。
・・・ふと思い出して、
引き出しの中から
2022/11/2
付けの日経新聞1面の記事を
引っ張り出してきたけど、
例えば、
福田達夫みたいな、
若手のホープ、
つまり
将来の首相候補に
気に入られた
官僚は
意気軒昂としているが、
そうではない
官僚は、
単調な事務作業をやらされて
どんよりしている、
なんて
話が書いてあった。
「政策決定を『官邸1強』で進めた結果、首相の周辺で働く官僚の発言権が増して『秘書官政治』とも呼ばれるようになった。」
また、
「こんな課長になりたいと思うわけない。野党の『国対ヒアリング』で上司が糾弾されるのを見た20代の財務官僚は漏らした。国会への提出資料や閣僚答弁の作成・読み合わせで深夜まで働いた末がこれかという悲観がまん延する。」
とも
書いてあった。
2022年12月3日土曜日
青空文庫ー風博士
風博士
坂口安吾
諸君は、東京市某町某番地なる風博士の邸宅を御存じであろう乎か? 御存じない。それは大変残念である。そして諸君は偉大なる風博士を御存知であろうか? ない。嗚呼ああ。では諸君は遺書だけが発見されて、偉大なる風博士自体は杳ようとして紛失したことも御存知ないであろうか? ない。嗟乎ああ。では諸君は僕が其筋そのすじの嫌疑のために並々ならぬ困難を感じていることも御存じあるまい。しかし警察は知っていたのである。そして其筋の計算に由れば、偉大なる風博士は僕と共謀のうえ遺書を捏造ねつぞうして自殺を装い、かくてかの憎むべき蛸たこ博士の名誉毀損をたくらんだに相違あるまいと睨にらんだのである。諸君、これは明らかに誤解である。何となれば偉大なる風博士は自殺したからである。果して自殺した乎? 然しかり、偉大なる風博士は紛失したのである。諸君は軽率に真理を疑っていいのであろうか? なぜならば、それは諸君の生涯に様々な不運を齎もたらすに相違ないからである。真理は信ぜらるべき性質のものであるから、諸君は偉大なる風博士の死を信じなければならない。そして諸君は、かの憎むべき蛸博士の――あ、諸君はかの憎むべき蛸博士を御存知であろうか? 御存じない。噫呼ああ、それは大変残念である。では諸君は、まず悲痛なる風博士の遺書を一読しなければなるまい。
風博士の遺書
諸君、彼は禿頭である。然り、彼は禿頭である。禿頭以外の何物でも、断じてこれある筈はずはない。彼は鬘かつらを以て之の隠蔽をなしおるのである。ああこれ実に何たる滑稽! 然り何たる滑稽である。ああ何たる滑稽である。かりに諸君、一撃を加えて彼の毛髪を強奪せりと想像し給え。突如諸君は気絶せんとするのである。而して諸君は気絶以外の何物にも遭遇することは不可能である。即ち諸君は、猥褻わいせつ名状すべからざる無毛赤色の突起体に深く心魄を打たるるであろう。異様なる臭気は諸氏の余生に消えざる歎きを与えるに相違ない。忌憚きたんなく言えば、彼こそ憎むべき蛸である。人間の仮面を被り、門にあらゆる悪計を蔵かくすところの蛸は即ち彼に外ならぬのである。
諸君、余を指して誣告ぶこくの誹そしりを止やめ給え、何となれば、真理に誓って彼は禿頭である。尚疑わんとせば諸君よ、巴里パリ府モンマルトル三番地、Bis, Perruquier ショオブ氏に訊き給え。今を距ること四十八年前のことなり、二人の日本人留学生によって鬘の購あがなわれたることを記憶せざるや。一人は禿頭にして肥満すること豚児の如く愚昧ぐまいの相を漂わし、その友人は黒髪明眸めいぼうの美少年なりき、と。黒髪明眸なる友人こそ即ち余である。見給え諸君、ここに至って彼は果然四十八年以前より禿はげていたのである。於戯ああ実に慨嘆の至に堪えんではない乎! 高尚なること※(「木+解」、第3水準1-86-22)かしわの木の如き諸君よ、諸君は何故彼如き陋劣漢ろうれつかんを地上より埋没せしめんと願わざる乎。彼は鬘を以てその禿頭を瞞着まんちゃくせんとするのである。
諸君、彼は余の憎むべき論敵である。単なる論敵であるか? 否否否。千辺否。余の生活の全てに於て彼は又余の憎むべき仇敵である。実に憎むべきであるか? 然り実に憎むべきである! 諸君、彼の教養たるや浅薄至極でありますぞ。かりに諸君、聡明なること世界地図の如き諸君よ、諸君は学識深遠なる蛸の存在を認容することが出来るであろうか? 否否否、万辺否。余はここに敢あえて彼の無学を公開せんとするものである。
諸君は南欧の小部落バスクを認識せらるるであろうか? もしも諸君が仏蘭西フランス、西班牙スペイン両国の国境をなすピレネエ山脈をさまようならば、諸君は山中に散在する小部落バスクに逢着ほうちゃくするのである。この珍奇なる部落は、人種、風俗、言語に於て西欧の全人種に隔絶し、実に地球の半廻転を試みてのち、極東じゃぽん国にいたって初めて著しき類似を見出すのである。これ余の研究完成することなくしては、地球の怪談として深く諸氏の心胆を寒からしめたに相違ない。而して諸君安んぜよ、余の研究は完成し、世界平和に偉大なる貢献を与えたのである。見給え、源義経は成吉思汗ジンギスカンとなったのである。成吉思汗は欧州を侵略し、西班牙に至ってその消息を失うたのである。然り、義経及びその一党はピレネエ山中最も気候の温順なる所に老後の隠栖いんせいを卜ぼくしたのである。之即ちバスク開闢かいびゃくの歴史である。しかるに嗚乎、かの無礼なる蛸博士は不遜千万にも余の偉大なる業績に異論を説となえたのである。彼は曰いわく、蒙古の欧州侵略は成吉思汗の後継者太宗の事蹟にかかり、成吉思汗の死後十年の後に当る、と。実に何たる愚論浅識であろうか。失われたる歴史に於て、単なる十年が何である乎! 実にこれ歴史の幽玄を冒涜するも甚だしいではないか。
さて諸君、彼の悪徳を列挙するは余の甚だ不本意とするところである。なんとなれば、その犯行は奇想天外にして識者の常識を肯がえんぜしめず、むしろ余に対して誣告の誹を発せしむる憾みあるからである。たとえば諸君、頃日けいじつ余の戸口に Banana の皮を撒布し余の殺害を企てたのも彼の方寸に相違ない。愉快にも余は臀部でんぶ及び肩胛骨けんこうこつに軽微なる打撲傷を受けしのみにて脳震盪のうしんとうの被害を蒙るにはいたらなかったのであるが、余の告訴に対し世人は挙げて余を罵倒したのである。諸君はよく余の悲しみを計りうるであろう乎。
賢明にして正大なること太平洋の如き諸君よ。諸君はこの悲痛なる椿事ちんじをも黙殺するであろう乎。即ち彼は余の妻を寝取ったのである! 而して諸君、再び明敏なること触鬚しょくしゅの如き諸君よ。余の妻は麗わしきこと高山植物の如く、実に単なる植物ではなかったのである! ああ三度冷静なること扇風機の如き諸君よ、かの憎むべき蛸博士は何等の愛なくして余の妻を奪ったのである。何となれば諸君、ああ諸君永遠に蛸なる動物に戦慄せよ、即ち余の妻はバスク生れの女性であった。彼の女は余の研究を助くること、疑いもなく地の塩であったのである。蛸博士はこの点に深く目をつけたのである。ああ、千慮の一失である。然り、千慮の一失である。余は不覚にも、蛸博士の禿頭なる事実を余の妻に教えておかなかったのである。そしてそのために不幸なる彼の女はついに蛸博士に籠絡ろうらくせられたのである。
ここに於てか諸君、余は奮然蹴起けっきしたのである。打倒蛸! 蛸博士を葬れ、然り、膺懲ようちょうせよ、憎むべき悪徳漢! 然り然り。故に余は日夜その方策を練ったのである。諸君はすでに、正当なる攻撃は一つとして彼の詭計きけいに敵し難い所以ゆえんを了解せられたに違いない。而して今や、唯一策を地上に見出すのみである。然り、ただ一策である。故に余は深く決意をかため、鳥打帽に面体を隠してのち夜陰に乗じて彼の邸宅に忍び入ったのである。長夜にわたって余は、錠前に関する凡およそあらゆる研究書を読破しておいたのである。そのために、余は空気の如く彼の寝室に侵入することが出来たのである。そして諸君、余は何のたわいもなくかの憎むべき鬘を余の掌中に収めたのである。諸君、目前に露出する無毛赤色の怪物を認めた時に、余は実に万感胸にせまり、溢れ出る涙を禁じ難かったのである。諸君よ、翌日の夜明けを期して、かの憎むべき蛸はついに蛸自体の正体を遺憾なく暴露するに至るであろう! 余は躍る胸に鬘をひそめて、再び影の如く忍び出たのである。
しかるに諸君、ああ諸君、おお諸君、余は敗北したのである。悪略神の如しとは之これか。ああ蛸は曲者の中の曲者である。誰かよく彼の深謀遠慮を予測しうるであろう乎。翌日彼の禿頭は再び鬘に隠されていたのである。実に諸君、彼は秘かに別の鬘を貯蔵していたのである。余は負けたり矣。刀折れ矢尽きたり矣。余の力を以てして、彼の悪略に及ばざることすでに明白なり矣。諸氏よ、誰人かよく蛸を懲こらす勇士なきや。蛸博士を葬れ! 彼を平なる地上より抹殺せよ! 諸君は正義を愛さざる乎! ああ止むを得ん次第である。しからば余の方より消え去ることにきめた。ああ悲しいかな。
諸君は偉大なる同博士の遺書を読んで、どんなに深い感動を催されたであろうか? そしてどんなに劇はげしい怒りを覚えられたであろうか? 僕にはよくお察しすることが出来るのである。偉大なる風博士はかくて自殺したのである。然り、偉大なる風博士は果して死んだのである。極めて不可解な方法によって、そして屍体したいを残さない方法によって、それが行われたために、一部の人々はこれを怪しいと睨にらんだのである。ああ僕は大変残念である。それ故僕は唯一の目撃者として、偉大なる風博士の臨終をつぶさに述べたいと思うのである。
偉大なる博士は甚だ周章あわて者であったのである。たとえば今、部屋の西南端に当る長椅子に腰懸けて一冊の書に読み耽っていると仮定するのである。次の瞬間に、偉大なる博士は東北端の肱掛椅子に埋もれて、実にあわただしく頁をくっているのである。又偉大なる博士は水を呑む場合に、突如コップを呑み込んでいるのである。諸君はその時、実にあわただしい後悔と一緒に黄昏たそがれに似た沈黙がこの書斎に閉じ籠もるのを認められるに相違ない。順したがって、このあわただしい風潮は、この部屋にある全ての物質を感化せしめずにおかなかったのである。たとえば、時計はいそがしく十三時を打ち、礼節正しい来客がもじもじして腰を下そうとしない時に椅子は劇しい癇癪を鳴らし、物体の描く陰影は突如太陽に向って走り出すのである。全てこれらの狼狽は極めて直線的な突風を描いて交錯する為に、部屋の中には何本もの飛ぶ矢に似た真空が閃光せんこうを散らして騒いでいる習慣であった。時には部屋の中央に一陣の竜巻が彼自身も亦周章てふためいて湧き起ることもあったのである。その刹那偉大なる博士は屡々しばしばこの竜巻に巻きこまれて、拳を振りながら忙しく宙返りを打つのであった。
さて、事件の起った日は、丁度偉大なる博士の結婚式に相当していた。花嫁は当年十七歳の大変美しい少女であった。偉大なる博士が彼の女に目をつけたのは流石さすがに偉大なる見識といわねばならない。何となればこの少女は、街頭に立って花を売りながら、三日というもの一本の花も売れなかったにかかわらず、主として雲を眺め、時たまネオンサインを眺めたにすぎぬほど悲劇に対して無邪気であった。偉大なる博士ならびに偉大なる博士等の描く旋風に対照して、これ程ふさわしい少女は稀にしか見当らないのである。僕はこの幸福な結婚式を祝福して牧師の役をつとめ、同時に食卓給仕人となる約束であった。僕は僕の書斎に祭壇をつくり花嫁と向き合せに端坐して偉大なる博士の来場を待ち構えていたのである。そのうちに夜が明け放れたのである。流石に花嫁は驚くような軽率はしなかったけれど、僕は内心穏かではなかったのである。もしも偉大なる博士は間違えて外ほかの人に結婚を申し込んでいるのかも知れない。そしてその時どんな恥をかいて、地球一面にあわただしい旋風を巻き起すかも知れないのである。僕は花嫁に理由を述べ、自動車をいそがせて恩師の書斎へ駆けつけた。そして僕は深く安心したのである。その時偉大なる博士は西南端の長椅子に埋もれて飽くことなく一書を貪むさぼり読んでいた。そして、今、東北端の肱掛椅子から移転したばかりに相違ない証拠には、一陣の突風が東北から西南にかけて目に沁み渡る多くの矢を描きながら走っていたのである。
「先生約束の時間がすぎました」
僕はなるべく偉大なる博士を脅かさないように、特に静粛なポオズをとって口上を述べたのであるが、結果に於てそれは偉大なる博士を脅かすに充分であった。なぜなら偉大なる博士は色は褪せていたけれど燕尾服を身にまとい、そのうえ膝頭にはシルクハットを載せて、大変立派なチューリップを胸のボタンにはさんでいたからである。つまり偉大なる博士は深く結婚式を期待し、同時に深く結婚式を失念したに相違ない色々の条件を明示していた。
「POPOPO!」
偉大なる博士はシルクハットを被り直したのである。そして数秒の間疑わしげに僕の顔を凝視みつめていたが、やがて失念していたものをありありと思い出した深い感動が表れたのであった。
「TATATATATAH!」
已すでにその瞬間、僕は鋭い叫び声をきいたのみで、偉大なる博士の姿は蹴飛ばされた扉の向う側に見失っていた。僕はびっくりして追跡したのである。そして奇蹟の起ったのは即ち丁度この瞬間であった。偉大なる博士の姿は突然消え失せたのである。
諸君、開いた形跡のない戸口から、人間は絶対に出入しがたいものである。順したがって偉大なる博士は外へ出なかったに相違ないのである。そして偉大なる博士は邸宅の内部にも居なかったのである。僕は階段の途中に凝縮して、まだ響き残っているその慌しい跫音あしおとを耳にしながら、ただ一陣の突風が階段の下に舞い狂うのを見たのみであった。
諸君、偉大なる博士は風となったのである。果して風となったか? 然り、風となったのである。何となればその姿が消え失せたではないか。姿見えざるは之即ち風である乎? 然り、之即ち風である。何となれば姿が見えないではない乎。これ風以外の何物でもあり得ない。風である。然り風である風である風である。諸氏は尚、この明白なる事実を疑るのであろうか。それは大変残念である。それでは僕は、さらに動かすべからざる科学的根拠を附け加えよう。この日、かの憎むべき蛸博士は、恰あたかもこの同じ瞬間に於て、インフルエンザに犯されたのである。
底本:「坂口安吾全集1」ちくま文庫、筑摩書房
1989(平成元)年12月4日第1刷発行
1989(平成元)年12月25日第2刷発行
底本の親本:「黒谷村」竹村書房
1935(昭和10)年6月25日発行
初出:「青い馬 第二号」岩波書店
1931(昭和6)年6月1日発行
入力:砂場清隆
校正:伊藤時也
2005年11月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
2022年12月2日金曜日
近代日本と石炭
どうしても、
近代日本の経済発展を語るとき、
絹糸やら綿糸が
主役になるんだけど、
やっぱり
良質の石炭が
特に
九州北部で
多量に
産出された
メリットは
計り知れないほど
大きい。
しかも、
天然の良港に恵まれ、
そのうえ、
近くに
上海という
国際貿易の一大拠点が
あったことも、
かなり
アドバンテージになったのは間違いない。
2022年12月1日木曜日
経済教室
昨日の経済教室も
素晴らしかったけど、
今日の経済教室も
面白かった。
渡辺努
東京大学教授
の寄稿。
日々これだけ
貴重な情報が
得られれば、
購読料は
決して高くない。
渡辺先生は
3つの「ステルス」を挙げる。
1つ目は、
いわゆる
「ステルス値上げ」。
これは、
イノベーショを阻害する。
2つ目は、
労働市場における
「ステルス値上げ」。
商品の「ステルス値上げ」にも関わらず、
賃金が上がらないなら、
労働者は、
自らが提供するサービスの質を低下させる、
という「ステルス値上げ」。
3つ目は、
金融市場における「ステルス利下げ」。
金利がこれ以上は無理、
というレベルまで低下したにも関わらず、
量的緩和を継続することは、
日銀による
国債の大量購入に支えられた、
政府のプロジェクトの質を低下させた。
いずれにせよ、
「価格」のシグナル効果を毀損することで、
市場の健全性を損なっている。
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