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9月, 2025の投稿を表示しています

アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)

私の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたと感じられる。 自分は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! という 肩書きでは 良くも悪くも通用しなくなってきている。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思われるが、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。   「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。   ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与...

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 レジュメより (再掲)

 問い: 幸福とは何か 。 ソクラテスは誰でも、これは、自分で人生を「設計してゆく」という発想と結びつくことである。 したがって、<配慮するもの>をもち、配慮を重ねてそのつど考え、行動する自分の人生設計者としての「一人称特権」のようなものは、幸福を問題にするとき、なおざりにできない。 たとえあることが自分のためであっても、それを押し付けられたのでは「自分の人生」ではなくなる。 ソクラテスは、このような一人称の問題があることに反して精神や徳に気を遣えといっているのではなく、 この問題があるからそれに沿うように「気を遣うもの」を考えさせようとした、 その場合、精神的なものや徳に気を遣うことは、あなたにとって納得できる方向になるはずだ、という語りかけをしている。  ☆人生を「まじめに」考えること   1.幸福の中身は「一人一人の問題」であり、他人に勧告されるには及ばない。 しかし幸福というものにまつわる「構造」や「形式」の問題は、単に「その人の問題」であるのではない。 われわれの「人生の夢」の見方は、お互いに、似ている。  構造や夢の見方を「知る」ことは、自分の「一人称」としての資格や個人の強さを上昇させてくれそうに思える。   2.問題なのは、人が「分かりやすい資格として」もしくは何らか「世間的に」上昇するということではない。 たとえば、社長になるとか出世するとか大学教員になるとか有名人になるとか金持ちになるとかではない。 実質的に自分の人生に対してよい位置を占めるようになることである。 したがって、ほんとうに行動が「自分のもの」として首尾一貫して統御されていること、 ほんとうの気持ち・実感から発想したことが 同時に知性の表現にもなっていることが目標になる。  3.ソクラテスはここで、 「知性」にふさわしい課題 がじつは数多くあり、 それを追求しながら生きてゆくことが幸福につながる、と語りかける。 われわれの生活は、目的・手段の関係を持つ多くの行為からできている。 お金儲けや名声・地位等のためのことは、 お金・名声・地位・容姿等で何をするかという、 「次の問い」を予想する。 ここから、人間らしい生活は、「その先」を考えるところまでいかなければ 成就しない、という結論を導くことができる。  4.この「その先」は、一人一人が考...

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 資料より (再掲)

 私は、 自分のもともとの 性質が 「ここまで くらいは がんばろう」 と 課した限界の範囲で 自己研鑽に励む ときでさえ、 謝罪や後悔もなく、 自分の もともとの性質を 「与えられた 当たり前のもの」 として 受け入れており、 そのようなとき、 自分自身に対する 「自己愛」を 持っているのである。 私の 自我と 私とは、 一様に すべてのことを 共有しながら、 いっしょに 多くのことを くぐり抜けてきた。 私が彼 (=私の自我) を 支える限り、 彼が 私を 失望させることはなかった。 私は 彼を 叱ったこともあるが、 けっして 彼の本性を 呪うことはなかった。 彼には 間違いなく 欠点があるし、 ひどくそうなのだが、 その短所が あらわになるとき、 私はやさしく 寛大に ほほえむのである。 彼のへまは、 彼のような 性質をもつ だれからでも 人が予想するようなものである。 人は、 これほどまで きわめて 近しくしてきた 存在を 憎むようには なれない。 好むと好まざるとに かかわらず この人物 (=私の自我) に依存してきた 全年月の後、 どのようにして 別の自我と うまくやりはじめることができるか、 私は 実際知らないのである。 このように、 自己同一性 (自分が自分であること) は、 一種の約束による 見合い結婚だと 考えることが できる。 その 見合い結婚は、 安定的な人の中では 真実の愛へと 成熟するものだが、 不安定な人の中では、 堕落してしまって、 恨み言と 自滅へと至る。 人の 自己愛の もっとも 真実の表現は、 自身の善さへの献身であり、 それは 他の誰のものでもない 自身の もともとの性質 (そのような 性質は 不条理な、 変なものかもしれない) の 自己充足である。 (「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)

ドゥルーズとアドルノ (再掲)

  貨幣、理性、そして金融的計算:共同主観的構造における差異と反復の探求 大変深く、示唆に富んだ考察をいただきありがとうございます。廣松渉の「世界の共同主観的存在構造」とドゥルーズの「差異と反復」の視点を連携させることで、貨幣と理性の現代社会における役割が、より鮮明に、かつ多角的に分析されていることに感銘を受けました。特に、貨幣の「共通性」が共同主観的な了解として構築される側面と、それが差異を抑圧する暴力性につながる点、理性の狡知が共同主観的な「同一性」の操作として機能する点、そして金融的計算が究極の共同主観的な「同一性」の強制として働くというご指摘は、現代社会の複雑な問題を理解する上で非常に重要な視座を提供しています。 貨幣:共同主観的了解が生み出す「擬似的な同一性」と差異の排除 廣松の視点から貨幣の「共通性」を捉えることは、ドゥルーズの「表面的な同一性」の構築をより具体的に理解する上で不可欠です。貨幣が交換媒体として機能するのは、私たちがある特定の共同主観的な了解に基づいて、それを「価値尺度」として受け入れているからです。この了解は、あたかも客観的な実体であるかのように振る舞い、多様な商品やサービスが持つ具体的な差異を捨象し、それらを貨幣という単一の「等価物」に還元します。 アドルノが指摘する貨幣の「侵食するような暴力性」は、この共同主観的な了解が、特定の価値観(例えば計量可能性)を普遍的なものとして他者に押し付けるプロセスと理解できます。ミカンを「一つずつ数える」計量可能性は、単なる客観的な行為ではなく、特定の共同主観的な計量体系が、個々のミカンが持つ多様な形、味、熟度といった具体的な差異を均質なカテゴリーに押し込める試みです。これは、ドゥルーズが批判する**「反復の強制」**に通じます。つまり、貨幣という共通の了解が、本来多種多様であるはずの事物を、ある特定の「同一性」の枠組みに無理やり当てはめ、その差異を反復的に排除していくということです。 理性の狡知:共同主観的同一性の操作と、その奥にある差異 アドルノが「理性の狡知」を自己同一性の揺らぎや性的欲望のコントロールと結びつける点は、まさに共同主観的な関係性の中で、いかに自己を位置づけ、他者との関係性を管理するかの問題として捉えられます。ウーティスが「何者でもない」と答える行為や、セイレーンの誘惑を理...

アドルノはまだ生きている Googleの生成AIバージョン (再掲)

  後期資本主義と日本社会の変容:経済的疎外と「自由からの逃走」の系譜 序論:後期資本主義と日本社会の変容――喪失の時代の始まり 戦後日本は、「一億総中流」という社会意識の下で、高度経済成長の果実を享受し、相対的に安定した社会を築き上げてきた。しかし、1990年代以降、グローバリゼーションの波とそれに伴う新自由主義的な経済政策の導入は、この社会構造に静かな、しかし確実な変容をもたらした。本報告書は、この構造的変化が、単なる経済的格差に留まらず、個人のアイデンティティや心理的基盤にまで深刻な影響を与えている現状を分析する。特に、経済的な閉塞感から生じる疎外が、いかにして権威への服従や排他的ナショナリズムといった政治的動向、あるいは精神世界への逃避と結びつくのかを、エーリッヒ・フロムとテオドール・アドルノの思想を援用して多角的に考察する。 エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』において、資本主義社会が個人を旧来の共同体的な「第一次的絆」から解放し、自立した存在としての「自由」を与えた一方で、その重荷に耐えきれなくなった人々が、その自由を放棄して権威に服従する心理的メカニズムを解明した。また、アドルノは、後期資本主義の進展に伴う均質化と「物象化」が、真の個性を喪失させ、その反動として「民族の本来性」という観念的な概念が追求されるという、疎外の複雑な現れを指摘した。これらの古典的理論は、現代日本の社会が直面する、経済的困難と心理的脆弱性が絡み合った複雑な現象を理解するための重要な鍵となる。 I. 経済的基盤:閉塞感を生み出す構造的格差 グローバリゼーションと新自由主義の潮流は、日本の社会経済に深い影響を与え、その結果として顕著な構造的格差を生み出した。この格差は、単に所得の不平等に留まらず、個人の生活様式、キャリア形成、そして自己評価にまで深く関わる問題となっている。 1. 所得格差の拡大:穏やかなる上昇傾向の深層 日本の所得格差を示す代表的な経済指標であるジニ係数は、1980年代以降、緩やかながらも一貫して上昇傾向にあることが複数の統計調査で確認されている 。これは、戦後長らく「平等社会」とされてきた日本の社会構造が、長期にわたる静かな変容を遂げてきたことを示唆する。さらに、OECDのデータ(2018年)によれば、日本の所得格差は先進国の中でもアメリカ、イギリスに...

推し活

 西川愛也が復帰したが、平沼はしっかり2番サードでスタメン。 今度こそレギュラー獲得してくれよ。 外野手登録でも、内野手でプレーしていいんだ。 さすがにそこまで杓子定規じゃないのか。 まあ、もともと内野手としてプロ生活始めたんだからな。 第一打席でさっそく安打を放ったようだ。 素晴らしい。 2番って、ある意味一番平沼に適した、というか、平沼でないと勤まらない、と言っても過言ではないくらい難しい打順だよね。 せっかく1番バッターが出塁しても、併殺打打てば一気にムード悪くなるし、最低でも進塁打を打たなきゃいけない、という意味では、今の野球では、2番バッターというのは、すげえ難しい打順。 https://www.youtube.com/watch?v=KKxudEVnm4o よしよし。 今日もキッチリ仕事したな。 ロースコアゲームで、1打点あげたのは偉いぞ。 特に、3塁走者が超鈍足のセデーニョにも関わらず、逆方向のレフトに犠牲フライ打ったのはデカいぞ。

どうしても無理なこと

 どうやら、俺は「働く」ということだけが、どうしても出来ないらしい。 早朝のテレビニュースでも、エンゲル係数が歴史的水準に達している、と報道していた。 そんななかで、40代で早くも障害年金受給しながら、勉学に没頭できる自分の境遇を、あまりにも恵まれている、と、正直に思う。 しかし、俺には「働く」ということだけが、どうしても出来ないらしい。 何回か繰り返し書いているが、自分で自分自身をそういう風に「プログラミング」してしまったんだから、仕方がない。 ウツから抜け出すために、そうしたんだから。 もう、それがいわゆる「デフォルト」になってて、つまり自分でもどうにも出来ない。 俺が出来ることは、ただ勉強して、駄弁を垂れ流すことだけだ。

新潟大学根岸先生との対話に基づいて、財政論についてGoogleの生成AIが詳細なレポートを作成してくれました。 (再掲)

  公的債務の動態理解:プライマリーバランスの決定的な役割 I. 序論:債務持続可能性の問い 本報告書は、公的債務の持続可能性に関する中心的な問い、すなわち、名目GDP成長率が実効金利を継続的に上回る(g > r)有利な経済環境下であっても、プライマリーバランス(または黒字)の達成が、公的債務の長期的な発散を防ぐための絶対的な前提条件であるか、というユーザーの疑問を深く掘り下げます。この問いは、財政課題に直面し、持続可能な債務蓄積の境界線を理解しようとする政策立案者にとって極めて重要です。 公的債務の軌道は、単一の要因によって決定されるものではなく、経済成長、金利、政府の財政スタンスが動的に相互作用することによって形成されます。これらの関係性を微妙に理解することは、単純化された結論を避け、効果的な財政戦略を策定するために不可欠です。 ユーザーの質問は、特定の文脈に焦点を当てつつも、一般的な誤解、すなわち、継続的に有利な「g > r」環境が、プライマリーバランスを通じた積極的な財政管理の必要性を低下させる、あるいは不要にするという見方を浮き彫りにしています。本報告書は、この点を直接的に明確化し、「g > r」が確かに大きな利点をもたらす一方で、プライマリーバランスの重要性を完全に打ち消すものではないことを示します。ただし、この環境下では、持続可能性のための具体的なしきい値が再定義されることになります。債務動態の基礎方程式と安定化条件を分析すると、「g > r」はプライマリー赤字であっても債務の持続可能性を可能にするため、ゼロまたは黒字のプライマリーバランスが「必要」であるという考え方には反します。しかし、それは「いかなる」赤字でも許容されるという意味ではありません。この分析は、ユーザーの根底にある仮定を修正し、詳細かつ微妙な回答を提示するための基礎となります。 II. 公的債務動態における主要概念 公的債務の持続可能性を評価するためには、いくつかの主要な概念を理解することが不可欠です。 債務残高対GDP比 これは、公的債務の持続可能性を評価するために最も広く使用される指標です。国の総政府債務残高を国内総生産(GDP)に対する割合として表します。この比率は、債務の絶対量だけでなく、経済全体が債務返済に必要な歳入を生み出す能力を示すため、極...