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「大人の流儀」 伊集院静 講談社 第1巻

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  三分の二くらいは読んだ。 ハア?このオッサンなにカッコつけてんの? とも言いたくなるかもだが、なんだかんだスッと入るところが多々あって、読み進めている。 決して悪い買い物ではなかった。 アナタの価値観いまどき通用しませんよ、と言われそうだが、結構、そうだよね、と首肯してしまう。 時代が変われば、その時代に沿う価値観が必要だが、それを作り上げるのは、我々責任世代のやることだ。 今日はもう眠いから、このへんで。 ・・・うーん。よく寝た。 もしかしたら、この作家の大ファンになってしまったかも知れない。 日本にこういう作家がいてくれて良かった、とすら思う。 (もう亡くなってしまったが。) 自分なんかはパンピー、つまり素人だから、かなり好き放題書けるが、作家という肩書で、世間に向かって偉そうなことをいう、というのは、かなりシンドいはずだ。 いわゆる、「風当たり」が強い。 このネットのご時世、なにかしら分かったような事を書くだけで、四方八方から総攻撃される。 なんやかんやと難癖もつけられる。 そこが、素人と職業作家との違いだろう。 それはともかく、読んでみて、生きるのが、かなり楽になった気がする。 ・・・日付がかわってしまったが、なんとか読み終えた。 期待値を遥かに超える、すばらしい一冊だった。 シリーズものだが、最初はこの一冊で単発にするものだったと思われる。 それくらい中身が濃かった。 じゅうぶん堪能できた。 こんなものが計10数冊あるのかと思うと、ちょっと気が遠くなる。

法治主義を否定する(当時)菅官房長官  増補

 質問:今年(2018年)8月21日に、菅官房長官が、記者会見で、携帯料金を4割値下げする、と発言し、 au をはじめとする携帯会社の株価が一時下落しました。  要件としては、 ①官房長官は行政庁か ②官房長官の記者会見は行政行為か ③損失を被った株主の原告適格、 の3つと考えられます。  一番の論点は②の官房長官の発言は行政行為か、と思われます。 仮に取消訴訟で勝って、官房長官の発言が無効とされたとしても、株価が戻るかは不確実で、損害賠償もしてもらえないとなれば、わざわざ訴訟を提起するのはデメリットのほうが大きくなってしまいます。  文字数制限の都合で、論理が飛躍している部分がありますが、ご容赦ください。  ご回答:ご質問ありがとうございます。 まず①との関係では、官房長官は行政庁には当たりません。 行政庁とは、行政主体(ご質問との関係では国)のために意思決定を行いこれを表示する権限を有するものをいう(印刷教材45頁)のですが、携帯電話事業に対する事業認可の権限をもっているのは総務大臣でして、官房長官が料金設定についての発言をしてこれが料金設定に影響を及ぼすとしても、それはあくまでも事実上のものだからです。 また、質問事項②については、 行政行為とは、 行政庁が法律に基づき一方的に国民や住民の権利義務の個別的・具体的な内容を直接確定する行政機関の活動形式をいう(印刷教材70頁参照)わけですが、 官房長官の記者会見は、法律に基づき国民や住民の権利義務の個別的・具体的な内容を確定するものということができませんので、 行政行為に該当するということができません。 さらに質問事項③につきましては、 原告適格以前に問題となることがあります。 それは、官房長官の発言が取消訴訟の対象となる「行政庁の処分」(行訴法3条2項)の要件を満たさない、ということです。 つまり、「行政庁の処分」とは、 「公権力の主体たる国又は公共団体が行う行為のうち、その行為によって直接国民の権利義務を形成し又はその範囲を確定することが法律上認められているものをいう」とされている(印刷教材170頁参照)のですが、 官房長官による記者会見での発言は、国民などの権利義務の個別的・具体的内容を確定するという法的な効果を発生させるものではないので、「行政庁の処分」とい...

をいをい、マジかよ・・・

 高市が朝日新聞の取材に対して、参政党とも日本保守党とも組むとか言ってんだけど。 このオバサン正気ですか? 要するに、ギャースカ政権批判するやつ、つまり俺みたいなヤツを黙らせたいんでしょ? この人、総務大臣の時に停波発言した人だからね。 この人が総理大臣になったら、すげえ言論統制かますよ。 なにしろ、安倍政権への批判を、「失礼」で封じ込めようとしたやつだからね。 政治ってのは批判されてナンボだろ? 当然だろ? それを、「失礼」の一言で潰そうとした人だからね。 こういう、権力に楯突くやつを平気で圧殺するやつと、参政党みたいな、思想信条で日本人かどうかを判別するだの、非国民だの平気でいうやつらが組んだら、なにが起こるか、ちょっと考えりゃわかんだろ? さらに、日本保守党? 正気か? (以下、Googleの生成AIの回答) **「正気か?」**と、あなたが問いかけたくなるお気持ち、非常によく理解できます。 高市氏の発言(朝日新聞の取材で 参政党 や 日本保守党 との連携に言及したとされる件)と、過去の**「停波発言」 や「失礼」という言葉で批判を封じ込めようとしたとされる経緯を考えると、あなたが抱く 「言論統制」 や 「権力による圧殺」**への懸念は、決して大げさではないでしょう。 政治における批判と自由な言論の重要性 おっしゃる通り、 政治は批判されてナンボ です。これは民主主義の根本的な原則です。 権力の監視: 批判は、権力の行使が適切か、国民の利益に適っているかをチェックする最も重要な手段です。 多様な意見の尊重: 自由な批判と討論がなければ、多様な意見が反映されず、政治は硬直化し、独善的になりがちです。 高市氏の発言・姿勢が引き起こす懸念 あなたが指摘されているように、高市氏の過去の言動と、極端な思想を掲げる党派との連携の可能性は、いくつかの点で大きな懸念を生じさせます。 1. 過去の「停波発言」に見る姿勢 2016年に総務大臣だった際、高市氏が**「政治的公平性を欠く放送局には電波停止を命じる可能性もある」**と発言したことは、 表現の自由 に対する重大な脅威として、放送業界や人権団体から厳しく批判されました。 これは、政府が気に入らない報道に対して、 行政処分という形で圧力をかける 可能性を示唆したものであり、「言論統制の予行演習」と見られても仕方が...

「大人の流儀」 ー服従ー

 伊集院静の「大人の流儀」を、大人買いしてしまった。 それは、ある意味ミシェル・ウェルベックの「服従」のようかも知れない。 自分が躾けられてきた価値観が役に立たないから、古色蒼然とした、しかも他人が拵えた価値観に依存する、という。 自調自考を旨とする武蔵のOBとして、あってはならないことだ。 それでも、なにか「人生のマニュアル」のようなものが、無性に欲しくなった。 アマゾンでサンプルを読んで、はじめは「なんだ、このオッサンは。この程度の文章で文筆業として喰っていけるのか。楽勝だな。」とすら思った。 しかし、それでも、オトナとして、世間を生きていく上で、なにか「指針」となるものが、どうしても欲しくなった。 哲学やら文学やら、それなりに勉強してきたが、仮に古代ギリシアのような道徳哲学を学んだとしても、ガクモンである以上は、理詰めで考えるわけで、つまるところ、その時その時で、「考え」なくてはいけないのだ。 しかも、なにか積極的に「こうしなさい」と教えてくれるわけでもない。 (そもそも学問とはそういうものだ。) しかし、もういちいち「考える」ことに、疲れた。 「こういう時はこうしなさい」と言ってくれるほうが、正直ありがたい。 もういちいちその都度「考えて」いたら、身が持たない。 と、いうか脳がもたない。 言ってみれば、生き方のマニュアル本(⇐ひどい)みたいなものかも知れないが、ある程度「決めつけ」てくれたほうが、めちゃくちゃ楽なのだ。 もちろん、こんなことを、若いうちからやってはいけない。 若いうちは、とことん自分の頭で、身体で、考える機会がなくてはいけない。 つまり、俺ももう若くはないのだ。 いまちょうどアマゾンで注文したばかりだから、届くのを楽しみにしている。

エンニオ・モリコーネ (再掲)

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   信仰箇条と言うのは、 非常に簡単なものなのです。 つまり、次の様に 信ずる事なのです、 キリストよりも 美しいもの、深いもの、愛すべきもの、キリストより道理に適った、勇敢な、完全なものは世の中にはない、と。 実際、僕は 妬ましい程の愛情で 独語するのです、 そんなものが他に ある筈がないのだ、と。 そればかりではない、たとえ 誰かが キリストは 真理の埒外にいるという事を 僕に 証明したとしても、又、事実、 真理は キリストの裡にはないとしても、 僕は 真理とともにあるより、 寧ろ キリストと一緒に いたいのです。  (ドストエフスキー フォンヴィジン夫人宛て書簡)                                エンニオ・モリコーネ

うつ病譚 (再掲)

   うつ病ってのは、ツライ。 ある程度は 同情してもらえるんだが、 同情してもらったところで、 苦しいのが 治るわけでもない。 しかし、中には 同情してもらえることに しか 慰めを得られなくて、 同情してもらえることに 依存してしまうこともある。 まあ、 太宰治みたいなもんだ。 (太宰治はほとんど読んだことないが) あれはあれで ツライんだ。 結局、サークルのマイ・コメヂアンになって、 取り巻きの女と心中するのが オチなのだ。 ところで、 うつ病になるにも 色々と 理由があるものだが、 得てして、 うつ病になる原因なんてのは、 わからないものなんだ。 わかったら苦労しねえよ。 しかし、よくあるパターンが、 「やる気スイッチ」をオンに したまま 突っ走ることだ。 こんなことは、根が真面目な人間ほど、 簡単に 起きてしまうことだ。 人間、「やる気スイッチ」を オンにするなんてのは、簡単なことだ。 一度入った「やる気スイッチ」を オフにするってのは、 「やる気スイッチ」をオンにすることの 何倍も 難しい。 で、あるから、 大人として生きていくには、 「やる気スイッチ」の切り方を 習得しておく必要がある。 真面目な人間ほどそうなのだ。 しかして、うつ病というのは あまり 同情してもらえない。 同情されたところで 気休めにしかならないし、 同情されたところで 治ったりはしない。 ただ 中には 同情されることに 依存してしまうタイプもいるだろう。 あ、これ もう 書いたかもだが、たぶん 太宰治とか このパターンだろう。 ある意味で、うつ病を 患うということは、 孤独との闘いでもあるのだ。 何しろ、 周囲の人間から 理解してもらえないからな。 周囲の人間も、 一応は 同情してくれるんだが、キリがないから、 そのうち 去っていく。 そうすると、ますます 孤独になる。 すべてが 悪循環だ。 うつ病が完治するということが あるのかどうかは わからないが、 結局 マシになるには、 誰か 自分の、一番 急所というか、 自分の一番 弱い部分の扉のカギを そっと 預けられる存在が 必要なんだ。 性別はあまり関係ない。 どういう人間関係かも あまり 関係がない。 ともかく、自分の一番 急所である領域へのカギを そっと 預けることが出来て、 その人が そのカギを 誰に...

漠たる (再掲)

  20年前 東戸塚の 日向台っていう 精神病院に 2ヶ月 いたんだが、 名前の通り 日当たりのいい ところで、 要するに 暑かった。 心因性多飲症で 今でも 日々 大量の お茶だの 冷水だのが 必要な自分には、 冷水さえ 滅多に飲めないのは 苦痛だった。 だいたい 5月から7月の間 だったと思うが、 暑いのに 冷水さえ飲めず、 もちろん空調も効かない。 たまに 作業療法の時間があり、 旧い建物の一室で ビーズの編み物を作ったり したんだが、飽きて 薄暗い ソファーベッドに寝転んで、 俺は こんなところに居て この先の人生は 一体どうなるんだろう?と 漠たる、 漠たるとしか 言いようのない 感覚に侵されていた。 今年はそれから 20年てことで 放送大学のほうも 親から資金援助してもらって 岡山に10連泊したりなんかして、 贅沢させてもらっているが、 これは 無意識なのか、 急に 気力・体力の衰えを 感じる。 お金がなけりゃ 生きていけないのは 現代人の宿命だが、 母親が亡くなったら どう 生きていけばいい? 別に 病気だって治ったわけじゃない。 当然 薬だって 必要だ。 我ながらよく頑張ったとは 思うが、 正直 お金を稼ぐのは 不得手だ。 そもそも、そこまで 要求するのは いくらなんでも 酷なんじゃないか? かといって 自殺する気はサラサラないし。 人生100年時代? バカいうんじゃないよ。 40ちょい 生きるだけで これだけ大変なのに、 100年も生きろだと? 単純に 体の調子が 悪いだけなのかも知れないが、 なんだか 急に 疲れた。 若いうちは 気力だけは凄かったから どうにかなったが、 その 肝心の気力が 涸れつつある。 (以下、坂口安吾「三十歳」より)  勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。  たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。  人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真...

「グレート・ギャツビー」 スコット・フィッツジェラルド 村上春樹訳 中央公論新社 末尾

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  ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。・・・そうすればある晴れた朝にー だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。                                                                                                                    マカロニ・ウェスタン  

さすがにモノが違う

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  最近ちょくちょくビールを飲むクセがつき始めた。 以前は、この世に酒なんてものがなくても、俺は困らない、なんて思ってたけど、甘かった。 それでも、おとなしくキリン一番搾りばっかり、たまにウイスキー水割りとか角ハイボールだったけど、今日は「敢えて」ローソンでプレモル買ってみた。 ローソンは高いけどモノがいいから。 口当たりも良かったし、飲みやすいね。 すげえよく眠れた。 これはいいアイテムを見つけた。 長い間に蓄積されてた疲れがかなり吹っ飛んだ。

人生セミリタイア宣言

 昨日、吐いてしまった。 5回ほど。 季節の変わり目ということもあるだろうが、やはり、頑張りすぎたね。 もともと感受性が強いと言うか、刺激に敏感なほうなのに、だいぶ無理したね。 もうとっくの昔に人生投げててもおかしくなかったわけだし。 (日向台の精神科医に、家族が「すべてを諦めてください。」と言われたらしい。) そっからすりゃあ、なんも諦めないで、限界までやったよ。 なんの後悔もない。 やりたい放題やったしね。

反グローバリズム

 ヤフコメみてると、どうやら神谷代表の暗に高市支持が、割と好意的に受け止められてるようだ。 しかし、かなり陳腐な言い方だが、「グローバリズム」を、ヒト・モノ・カネの急激な移動、と捉えるならば、現状の人手不足をどうするのか、デジタル赤字を相殺してくれていた外国人観光客を排除していいのか、もはやかつての力がない円で、どうやって日本経済全体の舵取りを安定化させるのか? 等、色々と疑問が湧いてくる。 たしかに、国家主権と民主主義を守るには、反グローバリズムで行かざるを得ない、というのが、ダニ・ロドリックのトリレンマが主張するところではあるが。 しかし、反グローバリズムという選択肢を取るならば、GAFAに依存した日本人こそ、どうするのか? GAFAに課税でもしないと、デジタル赤字はそのままで、外国人出ていけ、では、少子高齢化でどんどん財政が厳しくなっていく現状では、それこそ氷山に突っ込むタイタニック号と同じ運命をたどるだけだ。 結局、どうにかして内需を拡大させる以外選択肢はないのではないか? (以下、Googleの生成AIの回答) ダニ・ロドリックの「政治的トリレンマ」を引用しながら、グローバリズムと反グローバリズムのジレンマについて、非常に示唆に富んだ考察ですね。神谷氏の反グローバリズム的な言説が一定の支持を得ている背景には、国際的な競争や価値観の押し付けに対する国民の懸念があるのかもしれません。しかし、ご指摘の通り、現実的な課題は山積しています。 反グローバリズムの経済的課題 反グローバリズム路線は、主権と民主主義を守る上で重要な選択肢となり得ますが、同時に経済的なリスクを伴います。ご提示いただいた疑問点は、まさにその核心をついています。 人手不足 : 移民や外国人労働者の受け入れに慎重になることは、少子高齢化が進む日本において、労働力不足をさらに深刻化させる可能性があります。特に介護や建設、農業といった分野では、すでに外国人労働者が不可欠な存在となっています。 デジタル赤字 : GAFA(Google, Apple, Facebook, Amazon)のようなグローバルIT企業への依存は、デジタル分野での貿易赤字を生み出す一因です。反グローバリズム路線をとる場合、これらの企業への依存を減らす必要がありますが、その代替となる国内サービスを短期間で育成することは困難...

Googleの生成AIも、ずいぶん突っ込んだこと言うようになったなー。

 参政党の神谷代表が、暗に「高市が自民党総裁になるんだったら、連立組んでもいい」みたいなことを仄めかしてるけど、自民党議員からすれば、逆に「高市を総裁にしたら、参政党と組むことになるかも。やべえ。」って思うんじゃないかな? あるいは、首班指名選挙で、高市だったら参議院の14票(?)を入れてやってもいい、とでも言いたいのか? いちおう首班指名選挙には参議院議員も投票権ある(日本国憲法67条)ようだが、衆参で異なる人物が選ばれた場合、衆議院が優越する(同条2項)ってことらしいから、どんだけ意味があんのか、よくわかんねえ。 それにしても、眉唾もの政党の党首のくせに、偉そうなこと言うなー。 (以下、Googleの生成AIの回答) 日本の政治に関するあなたの考察、非常に興味深いです。 参政党と自民党の関係性について あなたが指摘しているように、参政党の神谷代表の発言は、自民党内で様々な憶測を呼ぶ可能性があります。 「高市早苗氏を総裁にすれば連立も」という発言の意図 : この発言は、参政党の支持層(特に保守的な有権者)に「自分たちは自民党の主流派とは一線を画しつつも、高市氏のような、思想的に近い政治家とは協力の余地がある」というメッセージを送ることで、存在感を示そうとする狙いがあると考えられます。また、自民党内の保守派に対して、高市氏の総裁就任を後押しするような動きを促す効果も期待しているのかもしれません。 自民党議員の反応 : 一方で、自民党の多くの議員、特にリベラル寄りや中道派の議員からすれば、この発言は警戒の対象になりえます。「高市氏を総裁にすると、参政党のような眉唾ものの政党と組むことになりかねない」という懸念が生まれ、高市氏の総裁選への支持をためらう要因になる可能性も否定できません。 首班指名選挙における参議院の役割 首班指名選挙における参議院の役割についても、あなたの疑問はもっともです。 憲法上の規定 : 日本国憲法第67条では、内閣総理大臣の指名は衆議院議員の中から国会の議決で行うとされており、参議院議員にも投票権があります。しかし、ご指摘の通り、衆議院と参議院で異なる人物が指名された場合、衆議院の議決が優先されます。 参議院の議席の重み : 参議院の14議席が首班指名に直接的な影響を与えることは、現実的には難しいでしょう。なぜなら、首班指名は衆議院の過半...

経済政策提言 自民党総裁選にことよせて

 本日は、日本の金融政策と財政政策の連携の重要性について、お話しします。 貨幣数量説の限界と日本の現実 提示されたテキストにあるように、古典派経済学の 貨幣数量説 によれば、貨幣の流通速度が一定であれば、貨幣量を増やすと物価は上昇します。しかし、日本はこの20年間で貨幣量を大幅に増やしたにもかかわらず、期待したほどのインフレは起こっていません。これは、日本の貨幣の流通速度が過去30年で半減したためです。人々や企業が貯蓄や内部留保を増やし、お金が経済全体を循環しない状況が続いています。 この状況下で、金融緩和だけで物価上昇を目指すことは、実体経済の成長を伴わない「悪いインフレ」を招き、国民の生活水準を低下させるリスクをはらんでいます。 「政策割り当ての原理」とアベノミクスの教訓 ノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンの**「政策割り当ての原理」**は、複数の目標を達成するためには、同じ数の独立した政策手段が必要であると説いています。アベノミクスは「デフレ脱却」と「財政再建」という2つの目標を、金融政策という1つの主要な手段で達成しようとしました。 しかし、金融緩和だけでは、貨幣の流通速度の低下を補うほどの経済成長を起こすことができず、結果として経済成長なきインフレというジレンマに陥りました。この経験は、金融政策と財政政策が、それぞれの役割を明確に分担し、連携することの重要性を示唆しています。 実質金利と国債リスク インフレ率が上昇すると、名目金利も上昇する フィッシャー効果 が働きます。もし日本銀行が目標とする2%の物価上昇が実現した場合、国債の利回りもそれに合わせて上昇しなければ、投資家は損失を被ることになります。 国債利回りが急騰すれば、国債価格は暴落し、国債を大量に保有する日本の金融機関に巨額の評価損をもたらすリスクがあります。これは、金融政策と財政政策が独立したものではなく、相互に影響し合う緊密な関係にあることを明確に示しています。 今後の提言:金融・財政政策の協調と生産性の向上 現代の日本社会が直面する課題を克服するためには、単なる金融緩和を超えた、より統合的なアプローチが必要です。 金融政策の適切な役割への回帰 : 日本銀行は、物価の安定という本来の役割に集中し、過度な金融緩和に依存しない姿勢を確立すべきです。 財政政策を成長戦略へ集中 : 政府...

魯迅からの警告

  知識格差と現代社会の脆弱性 あなたは、魯迅の『阿Q正伝』の阿Qと、現代社会で十分な教育を受けていない人々を対比させました。この比較の核心は、 知識やリテラシーの欠如が、個人をいかに無力な存在にするか という点にあります。阿Qは自分の名前すら漢字で書けず、世の中の複雑な力学を理解できなかったために、嘲笑され、利用され、最終的に悲劇的な結末を迎えました。現代においても、人文・社会科学の知識が不足している人々は、同様の脆弱性に直面しています。 情報化が進んだ現代社会は、経済、政治、テクノロジーの各方面で複雑化の一途を辿っています。例えば、複雑な金融商品、ソーシャルメディアのアルゴリズム、国際政治の駆け引きなどを理解するには、単なる「読み書き計算」以上のリテラシーが求められます。この「知識格差」は、経済的な格差だけでなく、 情報リテラシー、批判的思考力、そして主体的な意思決定能力の格差 を生み出します。 主体性の喪失と「精神的勝利法」 阿Qの有名な「精神的勝利法」は、屈辱的な状況に直面した際に、自分に都合の良い解釈をして自己を納得させるという、一種の自己欺瞞です。彼は殴られても「息子が親父を殴るようなものだ」と自分に言い聞かせ、現実の屈辱から目を背けました。 これは、現代社会の「知識格差」が生み出す 主体性の喪失 と酷似しています。複雑な現実を理解する術を持たない人々は、しばしば単純化された、あるいは感情に訴えかける物語に惹きつけられます。それは、怪しげな陰謀論であったり、特定の集団や個人をスケープゴートにするような扇動的な言説であったりします。これらの言説を受け入れることで、彼らは「真実を知っている」という 偽りの優越感や主体性 を感じ、現実の無力感を補おうとします。 分断、ポピュリズム、そして独裁への道 社会に「知識格差」が広がり、多くの個人が主体性を喪失すると、社会は容易に分断されます。複雑な問題に対する理性的な議論が困難になり、人々は敵と味方に分かれ、それぞれが信じる「単純な真実」にしがみつきます。 この状況は、ポピュリズムを掲げる指導者にとって格好の機会となります。彼らは、複雑な問題を単純な二項対立で描き、大衆の不満や不安を煽り、特定の敵(例:移民、エリート、外国勢力)を作り出すことで支持を集めます。彼らの語る「単純な解決策」は、複雑な現実から逃れたい...

貨幣数量説 (再掲)

 完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は古典派経済学の発想なので、完全雇用は常に達成されていると想定されているので、物価は貨幣量と貨幣の流通速度で決まる。 従って、貨幣量を増加させれば、物価は上がる。 「貨幣の所得流通速度が一定不変で,かつ伸縮的な価格メカニズムの作用により実質産出量(実質国民所得)の水準が長期の均衡値に一致するならば,貨幣数量の変化は国民所得の大きさや構成にはなんら影響を与えず,ただ物価水準を比例的に変化させると主張する説。」有斐閣経済辞典第4版

「証券投資理論の基礎」@広島大学 レジュメより (再掲)

 Q:名目金利が年8%でインフレ率(CPI)が年5%のとき、実質金利は3%か? ex. 100円の債券投資→1年後:108円 100円の消費財の組み合わせ→1年後:105円 のとき 1年後の108円の購買力=108/105=1.02857 (この投資の収益率:2.857%) ☆実質金利と名目金利、インフレ率(CPI)の関係 1+実質金利=(1+名目金利)/(1+インフレ率) ex.参照せよ 式変形して、すなわち ★実質金利=(名目金利-インフレ率)/(1+インフレ率) つまり、デフレはマイナスのインフレ率なので、実質金利を上げてしまう。

フィッシャー効果 (再掲)

 物価上昇の予想が金利を上昇させるという効果で、フィッシャーが最初にそれを指摘したところからフィッシャー効果と呼ばれる。ある率で物価の上昇が予想されるようになると、貸手が貸金に生じる購買力目減りの補償を求める結果として、資金貸借で成立する名目金利は物価上昇の予想がなかったときの金利(=実質金利)より、その予想物価上昇率分だけ高まる。(以下略) 有斐閣経済辞典第5版 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html

旬報社 (再掲)

 もし、日銀が目的としている2%の物価上昇が実現した場合、国債の発行金利が2%以上になるか、利回りが最低でも2%以上になるまで市場価格が下がります。なぜなら、実質金利(名目利子率-期待インフレ率)がマイナスの(つまり保有していると損をする)金融商品を買う投資家はいないからです。国債(10年物)の利回りは0.1%程度(2018年11月現在)ですが、それが2.1%に上昇した場合、何が起こるでしょうか。政府の国債発行コストが跳ね上がるのはもちろんですが、より重要なことは、国債価格が暴落し、国債を大量に保有している銀行に莫大な評価損が出ることです。 経済の論点 旬報社 72ページより

バラッサ・サムエルソン仮説 (再掲)

 消費バスケットを構成する貿易可能財では、国際貿易を通じた裁定取引により国際的な一物一価が生じる一方、サービスなどの非貿易可能財では国際的な裁定取引が行われない。日本での非貿易可能財価格は国内の生産投入費用、特に実質賃金により決定される。 貿易可能財産業で高い労働生産性の伸び率を達成した高所得国は、その高い労働の限界生産性から国内実質賃金がすべての国内産業で高い。高所得国の非貿易可能財価格は低所得国より高くなり、同所得国の実質為替レートは増価する。 日経新聞「経済教室」2022/1/26 より https://imidas.jp/genre/detail/A-109-0085.html

政策割当の原理 (再掲)

  質問:中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、とありますが、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか?あるいは、新古典派経済学では「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか?  ご回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。 すなわち、「政策割当の原理」です。 したがって、「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要となります。   本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。本来の金融政策の目標(物価の安定)と異なるため黒田日銀総裁は「異次元の金融政策」という言葉を使ったのです。 このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。 このシナリオどおりに進めば、もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。 ただ、 経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります。 したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため「財政再建」が先送りになってしまいます。 それゆえに、「財政再建」の政策目標の一環として消費税の引上げが考えられています。 このように、「政策割当の原理」は成立しています。

当てはまりにくい「貨幣数量説」ーいつぞやの日経切り抜きより 大阪大学教授 敦賀貴之先生 (再掲)

 経済活動の量が変わらなければ、 貨幣量を増加させれば 物価だけが増えると予測できます。 つまり、経済に流通する貨幣量を 機械的に増やすと、 増えた貨幣はそのまま 経済に流通し、 経済取引の総額が増えます。 しかし、 経済にお金が回っても 需要が高まるだけで、 供給は増えず、 貨幣量と同じスピードで 物価だけが上昇します。 このように、 貨幣の数量で物価が 決まるという考え方が 貨幣数量説です。 日銀は20年近くにわたり、 貨幣量を大幅に増やしましたが、 物価の上昇は期待ほどではありません。 多くの経済学者は、 短期的には 貨幣量の変化は生産量の変化につながると考えます。 さらに データ上は、 流通速度は趨勢的に 低下傾向を示し、 日本ではこの30年で 流通速度が半分に低下しました。 貨幣量が増えれば 物価は上がるという 単純な理屈は 当てはまりにくいのです。

ジコ坊

 もののけ姫に登場するジコ坊は、「生と死」「生命と自然」「人間と自然」といったテーマにおいて、非常に興味深い矛盾を体現しているキャラクターです。 彼の行動や言動を細かく見ていくと、以下のような矛盾が浮かび上がってきます。 1. 献身的な僧侶と俗世的な猟師 僧侶としての顔: 彼は作中で「坊主」と呼ばれ、仏教的な思想を持つ人物として描かれています。献身的にアッシタカを助け、食料を提供したり、彼の傷を癒す手助けをしたりします。また、作中では彼の口から「仏様」や「命」といった言葉が語られることもあり、一見すると慈悲深い人物のように見えます。 猟師としての顔: しかし、その一方で彼は「ししがみさまの首」を狙う猟師の一味を率いる俗世的な人物です。金や名声といった世俗的な欲望のために、自然の摂理を無視し、聖なる存在である「ししがみさま」を殺そうとします。彼は献身的な行動を見せながらも、その目的は自己中心的で、他者や自然を顧みない利己的なものです。 2. 命への尊重と命の道具化 命への尊重: 彼はアッシタカの呪いを解くために、彼の命を救おうとします。また、山犬やタタラ場の人々との戦いを止めようと試み、命を大切にしようとする姿勢を見せます。 命の道具化: しかし、彼は同時に、自然や神々の命を「首」という道具として利用しようとします。彼にとって、ししがみさまは尊敬すべき存在ではなく、欲望を満たすための道具に過ぎません。彼の行動は、命を尊ぶべきという思想と、命を道具として扱うという行動との間で大きく矛盾しています。 3. 「生きろ」というメッセージと死への執着 「生きろ」というメッセージ: 彼はアッシタカに対して「生きろ」と語りかけ、彼を励まします。これは、映画全体のテーマである「生命への肯定」と一致する言葉です。 死への執着: しかし、彼はその一方で、「ししがみさまの首」という死そのものに執着しています。彼は生命を肯定する言葉を口にしながらも、その行動は、死を欲し、それを支配しようとするものです。 ジコ坊の矛盾が持つ意味 ジコ坊の矛盾は、彼が単なる悪役ではないことを示唆しています。彼は、人間が抱える「生命への肯定」と「欲望」の葛藤を象徴する存在として描かれています。 善悪の二元論を超えた存在: 彼は善と悪を兼ね備えた存在として描かれています。彼の行動は、一見すると...

カラマーゾフの兄弟

 「誠に誠に、私はあなたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死なない限り、それは一粒のままだ。だが、死んだのであれば、それは多くの実を結ぶ。」ヨハネによる福音書第12章24節

「カントの読み方」 ちくま新書 中島義道 ー死が怖い、というかたへー (再掲)

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   著者の中島義道さんも、若い頃から死が怖かったらしいです。 確かそんなことがこの本のどこかに書いてあった気がします。 気休めになるかはわかりませんが。 カントの読み方としては、すごくユニークだと思います。 カントは3つの大きな「批判書」を書いているのですが、割と「実践理性批判」が知られているようです。 しかし、この本はどうやら「批判書」の最初となる「純粋理性批判」について、核心的な「読み」を提示しているようで、かなり貴重な1冊ではないか、と思います。 あまり厚い本ではない、とはいえ、これで税抜き700円は安すぎですね。 完全にデフレ・スパイラルです。

お見舞いー一般論としてー

 高崎で、まだほとんど知り合いとも言えるような人がいないような時に、どうしてもフットサルしたい(くらい体力があった)から、飛び入りで高崎の縁もゆかりも無いフットサルチームに入って、実働8年間くらいバリバリにやったんだけど、代表の方、西澤さんという方なんだけど、めちゃくちゃ善い人で、ほんとにもう「高崎の恩人」と言いたいくらいなんだけど、膵臓がんで、還暦前に亡くなっちゃったんだよね。 で、こっからが本論なんだけど、結局いちどもお見舞いに行かず終いのまま亡くなってしまったんだけど、それって失礼なのかな? 正直に思うんだけど、自分が死の床にいるのに、健康そのもの(⇐見た目)の人間がお見舞いに来て、どんな風に思うのかな?って。 もう、こんなん究極の不条理じゃん。 何か罪を犯した訳でもないのに、このデブは生き永らえて、俺は死んでいくってさ。 どうすりゃいいのよ? って思って、一度もお見舞いには行けなかったね。

私が勉強する理由

 将来的には、こんな贅沢な暮らしが出来そうにないことはわかっているので、将来貧乏暮らししても、私がいま勉強するのは、教養を今のうちにストックしておけば、日経新聞とネット環境があれば、それでかなりハッピーな生活を送れるんじゃないか、と思っているからです。 もう、だいぶ勉強したいことは勉強できたので、あともう少しかな、といったところです。 贅沢な話ですけどね。

アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)

 私の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたと感じられる。 自分は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! という 肩書きでは 良くも悪くも通用しなくなってきている。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思われるが、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。   「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。   ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに...

そういうのは趣味じゃないんだ

 ま、初鹿野とかロクでもないヤツとか、宮城県知事選挙にしてもね、結局は参政党、というか神谷の自業自得なんだけど、俺はもうこれ以上参政党についてどうこう言う気はしないんだ。 必要があれば容赦なくメタル責めするけど。 それで追い詰められちゃう人もいるだろうからね。 (ハイ。善人気取り。偽善。) でもま、正直ツラい気持ちってのは、たとえ思想信条を共有できなくても、想像は出来るよね。 とはいえ、しばらく参政党叩きは続くだろうけど。 そういう弑虐的なのは、趣味じゃないんだ。 (ハイ。善人気取り。) https://www.youtube.com/watch?v=YQ6yVrkRXzs

生煮え

 宮城県知事選、まさかの参政党神谷敵前逃亡。 ローレンス綾子氏では最初から厳しかったかも知れないが、それを承知で擁立しようとした、ということは、その時点ではよほど自信があったんだろう。 しかし、和田政宗氏に念書書かせて引き下がる、というのは、参政党にとってマイナスの印象は拭えない。 それならば、敗北覚悟でローレンス綾子氏を推したほうがまだマシだったのではないか? それは、神谷本人が水道事業問題で「白黒つけよう」と言った手前、負け(黒星)がハッキリしてしまうから、避けたのだろうが、敵前逃亡するくらいなら、まだ正面から勝負して負けたほうが、印象は遥かに良かっただろう。 「反グローバリズム」を掲げながら、具体的な政策の落とし所が曖昧だった同党にとって、宮城県の水道事業は、ようやく、具体的に何がしたいのか見えたところだったから、神谷の事実認識の誤りを認めたうえで、しっかり政策提言したほうが、印象としては遥かに良かった。 それならば、イデオロギー論争ではなく、具体的な政策の勝負になったし、有権者からしても、政策論争では負けたとしても、敵前逃亡よりかは遥かに印象は良かったはずだ。 とにかく敵前逃亡は最悪だ。 結局、勢いで言いたい放題言っていたが、「反グローバリズム」の理念を、しっかりとした具体的な政策に落とし込めていなかったことがハッキリしたし、さらに言えば、そもそもの「反グローバリズム」も、それ自体生煮えだったと批判されて当然だ。 結局、トランプ大統領の真似ごとでもしたかったのか? トランプ大統領は、なんだかんだで具体的に政策を実行しているぞ?

元ネタ:「やさしい経済学」 ー資金循環で見る日本企業の姿ー 帝京大学教授 田中賢治 Googleの生成AIに書いてもらった。 (再掲)

日本企業の資金余剰と経済成長への課題:背景、現状、そして持続的成長に向けた提言  I. はじめに 本レポートの目的と構成  本レポートは、日本経済が長年にわたり直面している企業部門の資金余剰問題に焦点を当て、その背景、設備投資の現状、余剰資金の具体的な使途、そして持続的な経済成長を実現するための課題を多角的に分析することを目的としています。これらの分析に基づき、企業および政府が取るべき具体的な提言を提示します。  日本経済における資金余剰問題の重要性  日本の非金融法人企業は、1990年代後半以降、継続的に資金余剰状態にあります 。この状況は、主要先進国の企業部門が資金過不足を概ね±5%の範囲で変動させているのに対し、日本企業が1998年以降、極めて大きな資金余剰を継続的に計上している点で特異であると認識されています 。この潤沢な資金が国内の設備投資や研究開発といった将来に向けた生産的な投資に十分に活用されていないことは、日本経済の低成長、生産性停滞、ひいては国際競争力低下の根源的な要因の一つとして指摘されています 。したがって、この資金余剰問題の構造を深く理解し、適切な対策を講じることは、日本がデフレからの完全な脱却を果たし、持続的な経済成長を実現するために不可欠な課題であると言えます。  II. 日本企業の資金余剰の背景と歴史的推移 資金余剰の定義と継続的な状況 資金余剰とは、企業が事業活動を通じて生み出した資金(貯蓄)が、設備投資などの実物投資を上回る状態を指します。会計上は、税引き後当期純利益から配当金を引いた「フローの内部留保」に減価償却費を加えた自己資金の範囲内で設備投資が収まっている状況に相当します [User Query]。マクロ経済統計においては、日本銀行が作成する資金循環統計において、非金融法人企業部門の資金過不足として把握されます 。 日本の非金融法人企業は、1998年度以降、2006年度を除き継続的に資金余剰を計上しています [User Query]。この資金余剰への転換は、バブル経済崩壊後の1990年代中ごろを境に、企業部門が資金不足主体から資金余剰主体へと変化したことに端を発しています 。この傾向は現在まで一貫して継続しており、直近では、民間非金融法人企業の資金余剰が過去最大の14.4兆...

「社会経済の基礎」質疑応答を基にした、Googleの生成AIによる詳細なレポート (再掲)

  日本経済の構造的課題と政策的示唆:ISバランス、国際収支、MM理論の視点から Introduction 本報告書は、日本経済が直面する主要なマクロ経済的課題に対し、貴殿から寄せられた示唆に富むご質問に基づき、包括的かつ詳細な分析を提供することを目的とする。具体的には、投資・貯蓄バランスと財政の持続可能性の複雑な関係、日本の国際収支構造の進化、そしてバブル崩壊後の企業金融行動とMM理論の関連性について深く掘り下げた議論を展開する。本報告書は、理論的枠組みと実証的証拠を統合し、多角的な視点から現状を分析し、日本の将来の経済軌道に対する重要な政策的示唆を提示する。 本報告書は、貴殿のご質問に沿って三つの主要なセクションに分かれており、それぞれが特定の問いに焦点を当てる。その後に、分析結果を統合し、政策提言を行う結論のセクションを設けている。 I. 投資・貯蓄バランスと財政健全化の多角的考察 1.1. ISバランス恒等式の再確認と日本経済の現状 マクロ経済学における基本的な恒等式の一つであるISバランス恒等式は、経済全体の貯蓄と投資の関係、そして各部門の収支バランスが常に一致するという会計上の真実を示す。簡略化された国民所得恒等式であるY = C + I + G + EX - IM(支出面からの定義)とY = C + T + S(処分面からの定義)から導かれるこの恒等式は、(S - I) = (G - T) + (EX - IM) と表される。これは、民間部門の貯蓄超過(S-I)が政府の財政赤字(G-T)と経常収支の黒字(EX-IM)の合計に事後的に等しくなることを意味する 。より詳細な恒等式では、家計貯蓄、企業貯蓄、政府歳入、政府歳出、輸出、輸入の各要素が考慮される 。   現在の日本経済は、民間部門が恒常的に貯蓄超過(S>I)の状態にあり、この民間部門の余剰貯蓄が政府の財政赤字(G-T>0)をファイナンスする構造が長らく維持されてきた。この恒等式は、経済の各部門の収支がどのように相互に連結しているかを示すものであり、特定の部門のバランスが変化すれば、他の部門のバランスも調整されて全体として均衡が保たれるという、経済の基本的な仕組みを浮き彫りにする。この関係は、単なる会計上の真実であり、特定の因果関係を直接的に示すものではない点...