2023年4月29日土曜日

まだまだ進化

高崎の駅前留学で 知り合った ジョンさんという 日本語わからない 英語ネイティブと、 彼が アメリカに 帰った後も フェイスブックで 交流して、 英語力を 鍛えたので、 久々に TOEICの 公式問題集やってみた。 やっぱり、 英語の能力、 特に 聞き取りを 伸ばすコツは、 英語で文章書くことだね。 自然と 英語らしい 文章とはどんなものかが 体得できる。 リスニングの力を伸ばそうとすれば、 むしろ 英語で 書く訓練をするべきだと思う。 もちろん、 英語で ネイティブに 伝わる 文章を書こうとすれば、 ボキャブラリーも必要だし、 文法的に 詰めて 学習することが 必要 なので、 色んな力が 身につく。 今は 機械翻訳が 発達しているので、 自分が書いた英文が どんな 意味になるか、 日本語で 逐一確認しながら 勉強することができる。

診断されたわけじゃないが、 自分で 更年期障害とか 言ってるくらいだから、 体調悪いんだろうね。 子育て、住宅ローン、たぶん近所付き合い等、 下手に マイホーム建てて 子どもも 産んじゃったから、 今までみたいに 都合が悪くなったら 逃げるって ことが 出来なくなって、 大変なんだろうけど、 まあ いい経験なんじゃないの? アンタ 今まで 人生ナメ過ぎてたよ。 ちょっと いっぺん本気で苦労しないと、 人の苦労なんか 一生わかりゃしないよ。 姉が 少しでも まともになってくれたら、 それだけで 俺の 負担がかなり 減る。 https://www.google.com/search?q=%E5%99%82%E3%81%AE%E5%A5%B3+%E5%89%8D%E5%B7%9D%E6%B8%85+youtube&rlz=1CAJFMC_enJP1026&oq=%E5%99%82%E3%81%AE%E5%A5%B3&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUqBggBECMYJzIGCAAQRRg5MgYIARAjGCcyBwgCEAAYgAQyBwgDEAAYgAQyBwgEEAAYgAQyBwgFEAAYgAQyBwgGEAAYgAQyBwgHEAAYgAQyBwgIEAAYgAQyBwgJEAAYgATSAQk0MzY2ajBqMTWoAgCwAgA&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&vld=cid:8074502c,vid:zRi1I1O5hIQ

2023年4月28日金曜日

日本人への警鐘 「ローマ帝国衰亡史」下巻 訳者解説より

ローマ人は もともと 質実剛健で、 勇武の民でした。 建国以来の領土拡大は、 そのことを 如実に物語っています。 また、 かれらは多神教であり、 宗教的に寛容でした。 さらに、 人種的偏見も 少なかったようです。 くわえて、 実利的な考え方をしていた 民族でした。 そのため、 かれらの間には、 どの民族の出身であれ、 優秀な者は これを 活用するという 風潮がありました。 以上のような 民族性により、 ローマはしだいに 発展、拡大していったのです。  しかし、頂点にあることが 長く続けば、 だれであれ、 その地位がもたらす 影響を うけないはずはありません。 国家の興亡、 家門の盛衰、 いずれにおいても、 歴史はこのことを 示しています。 ローマ人にしても 同じです。 すなわち、 みずからを 元来優れた民族であると 思い込み、 悠久の昔から そうであったかのように 現在の地位を 当然とみなし、 ひるがえって、 周辺の蛮族を 蔑視したのです。  およそ蔑視は油断をうみ、 油断は 情報の欠如をもたらします。 その結果、 あらたな事態への 対応を 稚拙なものにします。 同時に、 油断は 訓練をおこたらせ、 みずからの力を 相対的に低下させます。 蛮族がもつ 潜在力をみくびり、 しかるべき 対応ができなかったのも、 もとはと言えば、 そうした ローマ人の傲慢さに 起因するものでした。

あれから19年か

措置入院くらって 今年で 19年。 錯乱してもうて、 神奈川県警に 身柄確保されて、 一旦 警察署で 検尿してから、 (薬物やってると 思われたんだろうな。) そのまま 病院送り。 まるで 昨日のことの ようだね。 あっという間 だったようにも 感じるけど、 19年 必死で 頑張ったよ。 https://www.google.com/search?q=the+unforgiven+iii&rlz=1CAJFMC_enJP1026&oq=the&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUqBggBEEUYOzIGCAAQRRg5MgYIARBFGDsyCQgCECMYJxiKBTIGCAMQRRg7MgcIBBAAGIAEMg0IBRAAGIMBGLEDGIAEMgoIBhAAGLEDGIAEMgcIBxAAGIAEMg0ICBAAGIMBGLEDGIAEMgoICRAAGLEDGIAE0gEJMTc1NWowajE1qAIAsAIA&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&vld=cid:89c7d7d6,vid:J3m6et00DfQ

2023年4月27日木曜日

箴言 「ローマ帝国衰亡史」下巻より

およそ 市民というものは、 現実の危険から 離れているときには きわめて 勇敢なものである。 じつは このときもそうであった。 かれらは 武器さえあれば、 自分たち だけで 蛮族を駆逐できると 豪語した。

人工知能は人間を馬鹿にする? (再掲)

世の中には、自分の頭で考える能力がなくて、 なんでも他人任せの人ってのがいるが、 そのうち、何から何までアレクサに訊いて、逐一行動するって人が、 大量発生しそうだよね。 自分の頭で考えるって、意外と難しいよね。 自分の頭で考えた結果、 人工知能に優る、とも限らないし。 自分の頭で考える、とはどういうことか、を自分の頭で考える、なんていうと、すでにもうメタの世界に入ってるし。 たださ、やっぱり自分の行動、言動に対して、最低限でも責任を負わせるってことは大事なんじゃないかな? 人工知能がそう言ったからその通りにしました、私の何が悪いんですか? なんて言われたら、社会が崩壊しかねない。 歴史に照らして見ても、政治的権利を放棄するのって、結局権力者に自分の自己決定権を丸投げするのと同じで、 無責任の共同体が出現するだけだよね。 前の参院選で、投票用紙を破って棄てた俺が言えた義理じゃないけど。 参政党が参院で1議席獲得して、何かとネット上で耳目を集めてるけど、 反ワクチンやら陰謀論やら、 物議を醸しそうなネタ満載だけど、 飽くまで主権者の主権を擁護する限りは、 存在を否定はしない。 しかし、陰謀論に走っちゃうと、 いつの間にか主権者の主権を放棄させてる結果になるってことは、 あり得る。 それは、ナチズムが、階層構造になっていて、上に行くほど、自分はより真実に近づいている、という錯覚、快感が、階層構造それ自体を補強している、というメカニズムが働いたのと同じ。 その結果、トップは誰もが知り得ない真実を知っているはずだから、トップの言うことに従えば間違いない、という理屈で、自らの政治的主権を放棄してしまう。 その兆候が見えたら、即、断固として抗議しなければならない。 安倍政権だって、そういう側面があるんじゃないか? 我々には窺い知れないが、きっと安倍さんには安倍さんなりの深謀遠慮があるはずだ、みたいな。 政治である以上、何でもかんでもガラス張りに出来るわけがないってところが、政治の難しさでもあるが。 不透明な世の中だからこそ、安易に陰謀論に流されず、丁寧に腑分けをしていく作業が求められる。

聞いてないよー!!

観葉植物を 窓際において、 水を あげていたら、 花が咲いた。

降雨

昨日、一昨日くらい ちょっと 雨が降ったけど、 雨が降ると 水道水の味が 変わるよね。 ちょっと 美味しくなる。 若い頃から 心因性多飲症 だと 自覚してるので、 1日の 水分摂取量が とんでもないことに なってるんだけど、 さすがに それを 全部 ペットボトルで 買うのは 無理なので 水道水に 麦茶の紙パック入れて 飲んでるんだが、 関東では まとまった 雨が 少なかったので、 ここ2日ばかりの 降雨でも、 水道水の味が違う。 台風とかで 超雨降ると、 水道水が ふつうに美味い。 調子乗って 飲みすぎると、 水中毒になるけど。

「ローマ帝国衰亡史」 下巻 エドワード・ギボン

上巻を 読み終え、 丸1日 寝るだけ寝て、 手持ち無沙汰なので、 下巻を 読み始めました。 上巻は コンスタンティヌス帝の 治世まででしたが、 どうやら 下巻は さらに 時代が下るところまで 行く みたいですね。 購入したときは、 てっきり 古代ローマ史までかと 思ってましたが、 どうも 東ローマ帝国、 つまり ビザンツ帝国が 滅亡する ところまで 行くみたいですね。 すげえ。 そんな 長大な スケールを 縮刷版とはいえ、 極めて お手頃な価格で 提供されているのは、 まさに 古典ゆえ。 ほんと、 古典が 廉価で 手に入るというのは まさに 日本での 先達の偉大さに 依るものです。 ・・・ユリアヌス帝から スタート。 背教者ユリアヌスという 異名で知られる人ですね。 背教者という くらいだから、 とんでもなく 暴虐非道の人物かと 思いきや、 真逆ですね。 別に キリスト教徒を迫害したとも 書いてないし。 単に コンスタンティヌス帝が 国教化した キリスト教を 非難したというだけで。 大変すぐれた 皇帝だったようです。 現代社会を 生きてると、 どうしても 近視眼的になりがちだけど、 歴史を学ぶと、 長い時間的スパンで 物事を考える という ことが 少なくとも 観念的には 出来るようになる 気がします。 現在を相対化して 考えることが できる、 ということも 大事。 ・・・うん。 下巻も 面白い。 ・・・西ローマ帝国滅亡。  https://10mtv.jp/pc/column/article.php?column_article_id=1144

2023年4月26日水曜日

道徳?

小学校だか 中学校だか わからないけど、 道徳の教科書に 大谷翔平選手が 載ってるらしいんだが、 ちょっと 無理があるんじゃないか? なぜ 大谷なのか? 成功者だから? 成功するためには 大谷を 見習えというのか? ちょっと 道徳の教育として 本質的に 間違ってるんじゃないか? 成功するイコール道徳 じゃねーだろ。 いきなり 西洋化しろとは 言わないが、 ソクラテスとか アリストテレスとか 教えても いいと 思うけどな。 ソクラテスは 別に 宗教色が 強いわけでも ないんだから、 日本の子どもに 教えたって 構わないと 思うがな。 道徳教育が おかしいと、 世の中そのものが おかしくなる。

うな丼

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230425/k10014049541000.html 立民は 相変わらず くだらねーなー。 まあ、 公安のトップとしては 軽はずみ だったかも 知れないが、 それで 更迭しろとか、 アホか・・・ 国会の 時間を ムダに 使うんじゃねえ。 この 給料泥棒が。 https://www.sankei.com/article/20230426-2YQOENUGNVJIZATBGB2WHA4QXE/

まあ当然だわな。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230426/k10014049811000.html いくら 植田総裁が 天才だとしても、 政府・国会が 財政規律ユルユルで 放漫財政 続けてたら、 日銀だけで どうこう 出来るものではない。 それは、 日銀と アコード (協定) を 結んだ 政府としての 責任だ。 https://www3.nhk.or.jp/news/movie.html

2023年4月25日火曜日

桶狭間の戦い

前から 疑問に思っていたが、 主君を 討ち取られた 今川は、 なぜ 織田に 報復しようとか 考えなかったんだろう? 今川家の 直系男子は 存続していたのに。 滅ぼされたわけでもないのに、 敵討ちとか 考えなかったのかな? あと、 実話かどうかは 知らないが、 信長が 深夜 驚天動地、 少数のものを 連れて、 熱田神宮に 屯ろしているところへ、 集まった 家来を 待ってから、 桶狭間で 今川を 急襲した、 と 言われているが、 ここにも 信長の 賢さが 見て取れる。 織田の 中にも、 当然 今川と 内通しているものが いただろうから、 突然の 一騎駆で、 従いてこれた 家臣ならば、 味方として 安心できる、 という 計算も あったのではないか? そうでないと、 背後から 襲われたら いくら 信長でも 簡単に 討ち取られて いただろう。 それにしても、 NHKの 大河ドラマも、 完全に 大衆化しちゃったね。 俺には 戦闘シーンとか 耐えられないし、 やたらと ほえるのも 不愉快。 父親が 亡くなってからは、 ほんとに 見てない。 信長にとって、 生き残るには あのタイミングで あの行動を取る 以外の 選択肢は 存在していなかっただろう。 それを 躊躇なく 実行できたのが 凄い。 さらに、 それを 思いつきではなく、 事前に 家来に 地形などの 情報を 収集させて、 戦勝後には その 家来に 最大の 褒美を与えた、 という話だから、 それも 相当 凄い。

今夜バブりません?

やっぱ、 疲れた時は 花王のバブだね。 入浴剤も 色々 試したけど、 これが 一番効く。 そして、 風呂上がりには やはり 花王の 保湿クリームを 塗る。 なかなか いい 気分だ。 海外展開が 遅れ、 株式時価総額か なにかで ユニ・チャームの 後塵を拝している とかいう 記事を 読んだ 気がするけど、 こんな いい製品を 造ってるなら、 悪くないんじゃないか? (何が?) 花王は 大正期創業の 超名門企業ですからね。 社名の由来は、 顔(カオ)も 洗える、 とのこと。 花王が 内需に頼りすぎて ユニ・チャームの 後塵を拝している、 と 書いたが、 単純に 人口が多けりゃいいって もんでもないらしいね。 インドの人口は いずれ 中国を抜いて 世界一に なるということで、 インド人エリートなんかは 「これからは インドの時代だ!」などと 言ってるらしいが、 インドという国は 国内産業の 保護が行き過ぎて、 国内の 若年労働者数に見合うだけの 雇用を、 国内企業が 提供できていないらしい。 しかも、 都会に 出てきても 職がなくて 農村に帰って 仕方なく 家族農業を手伝ってるような 人も 被雇用者として カウントしているので、 統計自体が あまり 信用できないなど、 多くの 問題を抱えているらしい。 人口が多けりゃ多いで大変だ。 それに 見合うだけの 教育システムと 雇用機会を 創出しなくちゃ いけないんだから。

与太話

理系重視が ますます 加速する 昨今、 文系人間としては 肩身の狭い思いですが、 自分の おじいちゃん ぐらいの 世代が、 ムダにデカイわりに 中身のない 話しを ブツのも、 まあ ウザいっちゃ ウザいよね。 昨日、 選挙、特に 岸信千代について もっと ぶっちゃけた話しが 聞きたいと 思って、 高崎駅まで わざわざ行って かなり久しぶりに 日刊ゲンダイ 買って 読んだけど、 薄かったな。 内容も、量も。 あれ、 ゲンダイさんって こんなもんだったっけ? と 物足りなさを 感じざるを得なかった。

功利主義批判序説その1 (再掲)

功利主義の根底にある条件は、例えばミカンとリンゴの個数のトレードオフ関係のように、効用曲線が原点に向かって凸であることが想定されている。 しかし、その個々人の効用曲線の総和としての、社会全体の効用曲線を推定して政府が政策を決定する、というアイデアは、現代社会の実態にそぐわないのではないか。 人々の(少なくとも経済的な)需要、あるいは好みと言い換えれば、効用は、極めて多様化しており、総体としての効用曲線を想定することの意義は薄れていると思われる。 菅直人元首相が「最小不幸社会」という用語を用いたのは、功利主義的な立場からは正当だろう。 しかし、それは社会から支持を得られたとは言い難い。 例えばスマートフォンで、初期設定の状態ならば、自分に興味のある記事も、逆に全く関心のない記事も、一緒くたに表示される。 しかし、閲覧履歴や、さらに記事への肯定的、あるいは否定的なフィードバックをすることによって、提供される情報は、個々人によって大きく異なってくる。 しかも、個々人は、自分の見ている世界が、自分にパーソナライズドされたものだと気づかずに、あたかもそれが他の人々が見ている世界と共通のものだと錯覚しやすい。 そのような状況にあって、社会全体としてある統一的な嗜好の傾向を導き出す意義は薄れていると言えないだろうか。 しかし、これは必ずしも肯定的な面ばかりとは言えない。 「私の目に浮かぶのは、 数え切れないほど多くの似通って平等な人々が 矮小で俗っぽい快楽を胸いっぱいに思い描き、 これを得ようと休みなく動きまわる光景である。 誰もが自分にひきこもり、他のすべての人々の運命にほとんど関わりをもたない。 彼にとっては 子供たちと特別の友人だけが人類のすべてである。 残りの同胞市民はというと、彼はたしかにその側にいるが、 彼らを見ることはない。 人々と接触しても、その存在を感じない。 自分自身の中だけ、自分のためにのみ存在し、家族はまだあるとしても、祖国はもはやないといってよい。」  「アメリカのデモクラシー」 岩波文庫 アレクシス・ド・トクヴィル 第二巻下2596ページ 人々は、金銭稼得能力の程度によって、自らの肯定感やその逆に否定的な感覚を抱きがちであるが、しかし、世界的な中産階級の縮小に伴い、人々の金銭稼得能力に対する見方も、両面的になっていると思われる。 貨幣文化の出現は伝統的な個人主義が人々の行動のエトスとして機能しえなくなっていることを意味した。「かつて諸個人をとらえ、彼らに人生観の支え、方向、そして統一を与えた忠誠心がまったく消失した。その結果、諸個人は混乱し、当惑している」。デューイはこのように個人が「かつて是認されていた社会的諸価値から切り離されることによって、自己を喪失している」状態を「個性の喪失」と呼び、そこに貨幣文化の深刻な問題を見出した。個性は金儲けの競争において勝ち抜く能力に引きつけられて考えられるようになり、「物質主義、そして拝金主義や享楽主義」の価値体系と行動様式が瀰漫してきた。その結果、個性の本来的なあり方が歪められるようになったのである。 「個性の安定と統合は明確な社会的諸関係や公然と是認された機能遂行によって作り出される」。しかし、貨幣文化は個性の本来的なあり方に含まれるこのような他者との交流や連帯、あるいは社会との繋がりの側面を希薄させる。というのは人々が金儲けのため他人との競争に駆り立てられるからである。その結果彼らは内面的にバラバラの孤立感、そして焦燥感や空虚感に陥る傾向が生じてくる。だが、外面的には、その心理的な不安感の代償を求めるかのように生活様式における画一化、量化、機械化の傾向が顕著になる。利潤獲得をめざす大企業体制による大量生産と大量流通がこれらを刺激し、支えるという客観的条件も存在する。個性の喪失とはこのような二つの側面を併せ持っており、そこには人々の多様な生活がそれぞれに固有の意味や質を持っているとする考え方が後退してゆく傾向が見いだされるのである。かくしてデューイは、「信念の確固たる対象がなく、行動の是認された目標が見失われている時代は歴史上これまでなかったと言えるであろう」と述べて、貨幣文化における意味喪失状況の深刻さを指摘している。(「ジョン・デューイの政治思想」小西中和著 北樹出版 p.243~244) 最近の若年層は、敢えて都会に出るよりも、地元ですべてを済ませてしまう傾向があるという。 それはそれで、彼らなりの貨幣文化(ジョン・デューイ)への対抗策なのだろう。 しかし、それも結局はトクヴィルが指摘したような、自らとその仲間たちだけの狭い空間に、彼らの存在領域を限定してしまう。 それはまさに「青春アミーゴ」の世界である。 それを象徴するのが、コムドットというユーチューバーの存在である。 私は視聴したことはないが、彼らの「地元ノリ」が、ウケているのだという。 ローカルな「地元最高」のノリが、ユーチューブとして多くの関係のない人々にウケる、というねじれ構造が見て取れる。 Google検索で、何でもわかると言われる時代になったが、逆に自分が何を知りたいかがわからないから、かえって使いにくい、という意見も聞こえる。 確かに、Google検索でカバーできる領域のすべてのカテゴリーを、余すことなく使いこなしている人を想像するのは難しい。 セブンイレブンに行けば、欲しいものは大体手に入る。 アマゾンカードを購入すれば、なおのこと手に入らないものはない。 以下日経新聞2023/1/20より 一部の大企業は自社の プラットフォームを有料で公開することを決めた。 例えばアマゾンは自社の通販サイトを運用する ために 独自の社内IT(情報技術)プラットフォームを 開発したが、 その技術を「切り売り」する 決断を下し、アマゾン・ウェブ・サービス(AWS)を 打ち出した。 これを 契機にクラウドサービス業界が 出現することになる。 このような事態は、もはや企業の需要探索能力が、政府のそれを遥かに上回っている世界の到来を告げていると言っていいだろう。 つまり、政府が必然的に企業の協力を仰がなければならない事態だ。 ここにおいては、官僚機構が消費者の需要に追いつくには余りにも遅すぎることは容易に想像できる。 政治家においては、個々の政策の実効性や、実現可能性を語るよりも、「大きな物語」を語るほうが圧倒的に有利になる。 つまり、ポピュリズム政治が台頭する現実と整合的である。

妄想卒論その7 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。 米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。 私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。 19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。 さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。 1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。 そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。 なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。  (以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93  「エリートに対する人々の違和感の広がり、 すなわちエリートと大衆の『断絶』こそが、 ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。 ポピュリズム政党は、既成政治を既得権にまみれた一部の人々の占有物として描き、 これに『特権』と無縁の市民を対置し、 その声を代表する存在として自らを提示するからである。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)  「二十世紀末以降進んできた、産業構造の転換と経済のグローバル化は、 一方では多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの発展を促し、 グローバル都市に大企業や高所得者が集中する結果をもたらした。 他方で経済のサービス化、ソフト化は、規制緩和政策とあいまって 『柔軟な労働力』としてのパートタイム労働や派遣労働などの 不安定雇用を増大させており、低成長時代における 長期失業者の出現とあわせ、 『新しい下層階級』(野田昇吾)を生み出している。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)  富が集中するほど他者への信頼が下がり、「フェアネス(公正さ)指数」(日経新聞作成)が低くなる。同時にポピュリズムの場当たり政策に翻弄されやすくなる。   「国際都市ロンドンに集うグローバル・エリートの対極に位置し、 主要政党や労組から『置き去り』にされた人々と、 アメリカの東海岸や西海岸の都市部に本拠を置く 政治経済エリートや有力メディアから、 突き放された人々。 労働党や民主党といった、 労働者保護を重視するはずの政党が グローバル化やヨーロッパ統合の 推進者と化し、 既成政党への失望が広がるなかで、 既存の政治を正面から批判し、 自国優先を打ち出して EUやTPP,NAFTAなど 国際的な枠組みを否定する急進的な主張が、 強く支持されたといえる。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)  人々の不満をあおるだけで解を示せないのがポピュリズム。不満のはけ口を外に求めた愚かさはナチスドイツの例を振り返っても明らかだ。  第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。(放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)  グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。   1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より  そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)  「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感覚だろうか。  「デモクラシーという品のよいパーティに出現した、 ポピュリズムという泥酔客。 パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。 ましてや手を取って、ディナーへと導こうとはしないだろう。 しかしポピュリズムの出現を通じて、 現代のデモクラシーというパーティは、 その抱える本質的な矛盾をあらわにしたとはいえないだろうか。 そして困ったような表情を浮かべつつも、 内心では泥酔客の重大な指摘に 密かにうなづいている客は、 実は多いのではないか。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)

ベンヤミンと貧困 (再掲)

ベンヤミンは、「手」にもとづく認識の成果としての技術の巨大な発展が全く新しい貧困状態をもたらしたと指摘している。 「技術の巨大な発展とともに、まったく新しい貧困が人類に襲いかかってきたのである。」(「貧困と経験」『著作集』第1巻) 技術は不断の発明・発見によって次々に新しいものを作り出しては古いものを破壊していく「創造的破壊」(creative destruction)(シュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』)をもたらす。 機械は急速に進化していき、不断に「倫理的摩滅」にさらされている。(『資本論』第1巻、P.528参照)それとともに人間の生活を支えている周囲の事物はことごとく変化してしまうならば、人間はもはや自らの過去の経験を頼りにすることができず、つねに最初から新たにやり直すしかなくなってしまう。 「まだ鉄道馬車で学校へかよったことのあるひとつの世代が、いま、青空に浮かぶ雲のほかは何もかも変貌してしまった風景のなかに立っていた。破壊的な力と力がぶつかりあい、爆発をつづけているただなかに、ちっぽけなよわよわしい人間が立っていた。・・・これはそのまま、一種の新しい野蛮状態を意味する。野蛮?そのとおりである。・・・経験の貧困に直面した野蛮人には、最初からやりなおしをするほかはない。あらたにはじめるのである。」(「経験と貧困」)これは、1933年の「経験」状況である。 ベンヤミンは、人生における経験がゆっくりと時間をかけてつくられていくような「完成する時間」に対して、「永劫回帰」する時間を対置する。「・・・完成する時間・・・は、着手したものを完成することを許されないひとびとが住む地獄の時間と対をなしている。」(「ボードレールのいくつかのモチーフについて」『著作集』第6巻)

2023年4月24日月曜日

大規模金融緩和策の蹉跌

国債発行 イコール 通貨発行 という俗説が あるらしいが、 金融政策の 基本が 何も わかってないね。 国債を 発行して、 買ってくれる人が いるから、 (国債を買うのは 当然のことながら 中央銀行だけではない。) そのお金が 市中に 流れるんだけど。 これ、 (国債に限らず 債券全般に対する、 中央銀行による) 買いオペとか 売りオペとか 言われる 金融政策の 常識中の常識 だけど、 そんなことも 知らずに、 ただ 国債発行すれば 自動的に 貨幣供給量が 増えると 本気で 思ってる 人が いるみたいね。 (それに、 国債だって商品だから、 本来は政府の都合で 発行した 国債を、 相場を無視した 高値で 売れると思うのが そもそも 間違ってる。 むしろ、 日本の現状として、 日銀が 市場の相場を 無視した 高値で 国債を 買い続けてることが 本質的に問題なんだけどな。) なにで 経済学 学んだんだろう? それに、 貨幣供給量を 増やす イコール 国の資産が 増える ってのも そもそも 間違い。 国の富の 源泉は 付加価値、 すなわち GDPです。 これ、 学部レベルの 経済学で 最初に 学ぶことなんだけどな。 ほんと、 誰に 刷り込まれたんだろう? ついでに 書いとくと、 赤字国債を 発行すること自体が 法律違反なんだけど、 毎年 特例法案つくって 可決して 予算作ってる。 (ちなみに、 一昔前は その種の予算を 通す通さないが 政争の具に 使われたのが、 短命政権が続いた 原因だった。 らしい。) それが 常態化。 それを 国民の側が 嬉々として 受け入れてる 現状が 異常。 ついでに 書いとくと、 日銀が 国債買い続けないと 国債の価格が (異常な高値を 維持できずに) 暴落して 金利が 急騰して この国 吹っ飛びますけど、 さあ この ムリゲー どうします? ちなみに 安倍ちゃんは 日銀は政府の 子会社だから いくらでも 日銀に 国債 買い取らせればいい とか ほざいてましたけど。 もう 日銀による 国債の保有比率 5割 超えましたね。 https://www.youtube.com/watch?v=thGpKa0MGa4

メモー社会学的考察 (再掲)

「人間にとって貧困とは何か」の 講義で、 現代人は 「見られているかもしれない不安」 と 「見られていないかもしれない不安」 が 入れ子構造に なっている と 論じられている。 確かに、 敢えて 些細な イタズラで 莫大な 賠償金その他の リスクを 冒してまで 世間の 耳目を集めたい、 という 昨今の 外食テロ 行為には、 『見られているかもしれない』 期待感と 『見られていないかもしれない』 不安感が ないまぜに なっており、 むしろ 手軽に 「見られたい」という 衝動に 駆られている ような 印象を受ける。 SNSで 世界中の 人と 繋がれる 可能性が 拓かれたが、 自分は こんなに 沢山の 人と 繋がりがある、 という 自己顕示 的な欲求の 消費も、 最近は 一抹な 不安感と ともに、 その 訴求力を 喪いつつあるように 見える。 つまり、 「見られている」 ことの 充足感よりも、 ”お互いを見ている関係性を持っている” という 連帯感を 顕示する 欲求を 消費しているのではないか。 誰もが スーパースターに なれる 可能性よりも、 自分が 直に アクセスできる、 限定された 間柄での 親密圏の 保持を 顕示する。 そんな、 グローバルに 「見られている」 ことの 充足感の 誇示と、 「閉じられている」 間柄での 強さを 顕示したい、 という まさに 「見られているかもしれない不安」 と 「見られていないかもしれない不安」 とが 入れ子構造に なっている、 という 指摘は、 説得力が ある。 そのような 関係性が 仮に 虚構だとしても、 騙すよりも 騙されている ほうが、 快適で 安定している、 という 側面は ないだろうか。 へずまりゅうや、 ガーシーなどが、 いくら 馬鹿げていても、 密かな 賞賛を 集めるのは、 彼らが 「常に見られている不安」に 耐えられる ”強者” だからではないだろうか。

妄想卒論その2 (再掲)

合理性と信用 という 語彙は、 一見 よく馴染むように 見える。 しかし、 社会が 合理的に 組織されれば されるほど、 詐欺が 必然的に 起きる。 なぜなら、 合理性が 追求された 社会においては、 相手を 欺くことが 合理的自己の 利得に なるからである。 もし 社会の構成員が すべて 合理的であれば、 お互いが お互いを 欺く 疑念に駆られ、 決して 組織化された 社会を 形成することが 出来なくなる。 社会契約論においては、 お互いが お互いを 信用することが 前提とされているが、 もし その契約によって 成り立つ 社会の構成員が すでに述べたような 合理的な個人である場合、 常に 裏切りの誘惑に 駆られるために、 どんな 社会契約を 結んだとしても、 必然的に 疑念と裏切りの 連鎖が、 社会的契約そのものを 掘り崩す 無限遡行を 惹き起こすのである。 従って、 現に 社会が成立している ということ それ自体が、 人々が 完全には 合理的には 行動しては いない、 ということを 意味する。 言い換えれば、 社会が成立している ということ それ自体が、 人が人を信用する 能力を持っている 証拠なのである。 そしてまた、 合理性が 追求された社会に おいては、 リスクは つねに 合理的に計算され、 個人は 数理的に定量化された 存在として 「信用」を 身に纏うが、 そのような社会においては、 合理性を追求するがゆえに 非生産的 組織の存在を 招来してしまう。 合理的に組織されたはずの 官僚制が その 非生産性ゆえに 非難の的になる、 という 事態が、 これを 例証している。 そのような社会においては、 「詐欺」の 存在可能性 そのものが、 「管理された社会」を 脱-構築する 希望の 可能性として 機能する。

妄想卒論その1 (再掲)

回転すし店で イタズラ行為を 動画に撮って ツイッターに あげて 騒ぎになった 人物が、 叩かれたりする。 しかし、 その正体を 暴いてみれば、 取るに足らない、 他愛もない 人物だったりする。 いわゆる、 トー横民だったり、 ドン横民だったり、 グリコ上だったり。 彼らは、 そういう 寄る辺なき 辺境をさまよう 「貧者」であったりする。 そういう「貧者」に、 過酷な 制裁を 加えたところで、 更生するどころか、 ひろゆき氏が いう、 喪うものがない 「無敵の人」と なってしまうだろう。 社会が 喪うものがない 「無敵の人」で 溢れてしまったら、 社会は崩壊する。 社会契約論を 持ち出しても、 その前提には その 社会契約を 守る、 という 暗黙の前提があるが、 その 前提すらも 守らなかったら、 暗黙の前提を守る、 という 合理性の 無限遡行が 起きるからだ。 つまり、 ランドル・コリンズが 言うように、 我々は 完全には 合理的には 生きておらず、 社会が成り立っているという こと自体が、 人々が 多少なりとも 非合理的に 生きている 証拠だ、 ということが 言える。 しかし、 人々が 自らの 非合理性に 気づかず、 ありもしない 「合理的な社会」を 生きていると 思い込んでいるとすれば、 それは 「合理的な社会」よりも さらに 生きにくい社会 とは 言えないだろうか。 各人が 自分の 手前勝手な 「合理性」を 相手に押し付け、 違犯するものを 糾弾する。 それは とても 生きにくい社会だろう。 ポピュリズム政党の台頭は、 そんな 生きにくい社会の 実体の 現れである かもしれない。

ルールか?自由か? その4 (再掲)

しかし、 だからといって、 ハイエクは ひたすら 自由放任を 称揚しているのではなく、 ヨノナカが 自然に 作り出した 自生的秩序には 従わなければ ならない、 と 説く。 自生的秩序については 仲正昌樹が 「いまこそハイエクに学べ」 (春秋社) の なかで デービッド・ヒュームに なぞらえて 論じている。 ヒュームの コンベンション(慣習)に 引き寄せて 考えれば、 理解しやすい。 しかし、 ハイエクの主張は、 決して 数理的に証明された 真理などではない。 これは 我々が 人類の歴史から 学ぶ 教訓のようなものだ。 過去のケーススタディを 網羅するのと、 歴史から学ぶのは、 似ているようで 根本的に違う。 一定の 時間の経過と その中の 一連の出来事から、 物語を紡ぎ出すのは、 歴史家の仕事である。 だから、 それを蓄積して ケーススタディとして 当てはめて なんでも解決できると 考えるのは、 危険だ。 過去のケーススタディに 含まれた バイアスが そのまま 反映されてしまう 可能性が あるからだ。 我々が 歴史を学ぶとき、 その材料には、 歴史家が 作り出した 空隙、スキマ、論理の飛躍がある。 しかし、 それを抜きにしては 歴史を語り得ないし、 そこから 現実を 照らし出す 光を見出すのは、 やはり 現在を生きる 我々の 仕事なのだ。 どんなに 凄い能力を 持っていても、 天下一品のロゴと 交通標識を、 いちいち 教えられなければ 識別できないような キカイに、 政治の大事な 意思決定を 委ねるのは、 やはり 怖い。 同様に、 歴史に学ばない 政治家も、 危険だ。

ルールか?自由か? その3 「隷従への道」 日経BP より

「競争は、ある程度までなら 規制と共存 しうるが、 計画を大幅に 導入したら、 生産の目安を 提供する 役割は 果たせなくなる。 また 計画は、 少量でも 効き目のある薬とはちがう。 競争も、 中央集権的な管理も、 中途半端に使ったのでは 役に立たない。 どちらも 同じ問題の 解決策には なりうるが、 両方を 混ぜたら効果はないし、 どちらか 一方を貫き通す場合 よりも 悪い結果になるだろう。 別の 言い方をすれば、 計画と競争は 『競争のための計画』 によってのみ 結びつくのであって、 『競争を阻む計画』 を 通じては 結びつかない。」 p.191

ルールか?自由か? その1

https://foetimes.com/2834/  あ〜あ、思い出せるだけ〜思い出して、あそびたぁぁぁぁい! てなわけで、 放送大学「現代の国際政治」第5回の放送授業内容を、出来る限り思い出しながら、要点をまとめてみたいと思います。 まず、第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。 ま、こんなとこかな。 地域間経済協定については割愛した。

ルールか?自由か? その2

https://foetimes.com/2881/  「現在支配的な 思想では、 自由社会の自生的な力を 最大限に 活用するには どうしたらよいか、 ということは もはや 問題にされていない。 それどころか、 予想外の結果を 生み出しがちな 力を 切り捨てようと している。 そして、 人格を 持たない 匿名の市場という メカニズムに 代えて、 意図的に選んだ 目的に向けて 社会の あらゆる 力を 『意識的に』 集約管理する システムの 導入が 試みられている。」 「隷従への道」日経BP p.150 「経済活動を 完全に 中央主導にする という 発想には、 やはり たじろぐ人が多い。 単に それが 途方もなく 困難だから ではなく、 たった一つの 中央当局なるものが 万事を 指示する ことに恐怖を 覚えるからだ。 それでも なお 私たちが そこへ向かって 急速に進んでいるのは、 完全な個人の競争 と 中央管理との間 に 『中庸』 が あるだろうと、 大半の人が いまだに 信じている せいである。 めざす目標は 自由競争による 極端な分権化でもなければ、 単一の計画に基づく 完全な中央集権化でもなく、 両者の いいとこどりをした 体制だと 考えるのは、 合理的な 人々にとって 実に魅力的であり、 さも実現可能にも見える。 だが このような問題に関しては、 常識は当てにならない。」 「隷従への道」日経BP p.190~191

「魔の山」 トーマス・マン 岩波文庫 下巻 末尾より (再掲)

さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり) https://www.youtube.com/watch?v=VD4PYP7WUCA

共依存

母親は、 少なくとも 家族関係において、 共依存という カタチでしか 繋がりを 持てない人だった。 家族を 自分に依存させ、 そうすることで 自分自身が 家族に 依存する。 しかし、 心からの 感謝の念も湧かず、 心からの 満足からも 程遠い人生だった。 それが 変わるキッカケが 脳梗塞の発症だった。 そのとき初めて、 自らの存在を 他者に投企する 試みを 実践することが出来た。 だから、 今は 心からの 感謝の念が湧き、 心からの 満足がある。 俺自身もまた、 愛に渇いていたのだった。

沈思黙考

忘れてたけど、 今日は 統一地方選と 衆参補欠選挙の 投開票日 でしたね。 岸信千代が 落ちてたら 面白かったけど、 さすがに それは なかった。 へずまりゅう は どうなったんだろう? とか 気になって エキサイトし過ぎたから、 ミニトマトを 食べて 神経を落ち着かせて、 内省していたら、 ふと、 企業が 資金調達する うえで 社債と株式って、 何が違うんだろう? 株式が 配当は別として 資金提供者に 返済する 必要がない 自己資本だったら、 別に 社債は 必要ないんじゃないか? と 疑問が 湧いてきたので、 引き出しから 記事の 切り抜きを 引っ張り出して、 株式と社債の 違いを 考えてみたけど、 つまるところ、 社債というのは 長期の 投資のための 資金調達手段って ことらしい。 一昔前 会社は誰のものか? という 議論が流行って、 侃々諤々 いわれたけど、 法律上は 会社は 株主のもの だからね。 100% 株式だけで 資金調達したら、 いつ何時 買収されるか わかんないという 恐怖感もあるよね。 それはともかく、 社債が 長期投資の資金調達手段として 利用される 例として、 日本ハムが 新球場を建設するために 個人向けに 社債を発行した、 と 書いてあったのを見て、 なるほど、 野球球団としての 日本ハムというチームは、 勝ち負けよりも、 収益を上げられるチーム、 つまり いかに ファンに お金を落としてもらうかが 大事な チームなんだな、と 納得した。 だから、 イメージ重視で 当面 新庄監督でいいし、 若手主体の フレッシュさを アピールするのも 理にかなってる。 ついでに言えば、 きつねダンス の ファイターズ・ガールも、 エンタメとして 決して 馬鹿にできない 要素なんだな、 と 納得。

2023年4月23日日曜日

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俺:Gibbon's text offers us great many lessons. To say , how people's whole lives are unstable even in the era of the ancient great Roman empire. However mentally decayed the contemporary Japanese are, we must be happy to live in it. I'm now 41 years old. For a long time, I was afraid of how to survive the rest of my life especially in financial aspects. But now I would not be afraid of that kind of fear. Albeit how unsure the future the Japanese people will face would be, I shall be satisfied with my life. For, after all I have been in an era of bliss.ジョンさん:It sounds like that book has a profound influence on you. Mr Gibbon would be pleased.俺:A history is totally far from the simply compiled facts ,without historians' subject perspectives I believe. We can truly learn from history through the historians' values which underlie through the portrayal of the era they observe. In other words, we can learn not only from the history of the Roman Empire but also from Mr. Gibbon's greatness as a historian.

漱石と資本主義 妄想卒論その11 (再掲)

確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

近代日本の炭坑夫と国策@茨城大学 レポート (再掲)

茨城大学強いわ。ここんとこ毎学期茨城大学行ってるけど、今回もめちゃくちゃ面白かった。面白いという言葉では言い表せない。アタマをバットで殴られるくらいの衝撃を感じた。 石炭産業を語らずに近代日本の経済発展は語れないと言って間違いない。 にもかかわらず、おおっぴらに語られることはほとんどない。 あたかも繊維産業が花形で日本経済の繁栄をほとんどすべて牽引したかのように語られている。 裏を返せば、それほどまでに、石炭産業を語るということは、現在に至るまで日本の暗部を映し出すことになるのかも知れない。 (以下レポート) 今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。   ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。   日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。   しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考えると、グローバリゼーションに対応しながら国民的自己決定を達成するには、国をまさに富国強兵のスローガンの下で一致団結させる必要があり、そこでは多様な民意というものを反映することは困難であり、したがって表現の自由が抑圧され、民主主義は達成できない、と考えられます。   戦前の日本に照らして考えると、前近代の村社会が国家組織の末端に組み入れられ、その中で炭鉱夫が生きるための最後の手段として究極のブラック職業として見なされていたこと、それでも西欧へ肩を並べなければならない、という官民一体の国家的意識のなかで、脅迫的に近代化へ歩みを進めざるを得なかった状況では、社会の底辺としての炭鉱夫には、およそ政治参加、すなわち民主主義の恩恵に浴することは出来なかった。それはとりもなおさず炭鉱業というものが本来的に暴力的であり、同時に「国策」としての帝国主義的性格を多分に内包していたことと平仄を合わせています。   中国のウイグル人の抑圧と戦前日本の坑夫を重ねて考えると、そのような構図が透けて見えてきます。

the day that never comes (再掲) 妄想卒論その10

言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。  やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章) なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。  しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。  三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。  こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。                            静岡大学 森本隆子先生より https://www.youtube.com/watch?v=RD83oy7ksUE

文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答より (再掲)

質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。  フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。  「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家を孤立させ絶望においやっている現状が鋭く指摘されています。その他の時事的な文章・発言においても、ヨーロッパにおけるグローバリズムと言うべきEU経済戦略のもたらすひずみと地場産業の危機は、ウエルベックにとって一つの固定観念とさえ言えるほど、しばしば繰り返されています。 つまり、ウエルベックは「グローバリゼーション」が伝統的な経済・産業活動にもたらすネガティヴな影響にきわめて敏感であり、そこにもまた「闘争領域の拡大」(ご存じのとおり、これはそもそも、現代的な個人社会における性的機会の不平等化をさす言葉だったわけですが)の脅威を見出していると言っていいでしょう。なお、「セロトニン」で描かれる、追いつめられたフランスの伝統的農業経営者たちの反乱、蜂起が「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言・予告するものだと評判になったことを、付記しておきます。 以上、ご質問に感謝しつつ、ご参考までお答え申し上げます。

妄想卒論その7 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。 米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。 私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。 19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。 さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。 1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。 そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。 なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。  (以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93  「エリートに対する人々の違和感の広がり、 すなわちエリートと大衆の『断絶』こそが、 ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。 ポピュリズム政党は、既成政治を既得権にまみれた一部の人々の占有物として描き、 これに『特権』と無縁の市民を対置し、 その声を代表する存在として自らを提示するからである。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)  「二十世紀末以降進んできた、産業構造の転換と経済のグローバル化は、 一方では多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの発展を促し、 グローバル都市に大企業や高所得者が集中する結果をもたらした。 他方で経済のサービス化、ソフト化は、規制緩和政策とあいまって 『柔軟な労働力』としてのパートタイム労働や派遣労働などの 不安定雇用を増大させており、低成長時代における 長期失業者の出現とあわせ、 『新しい下層階級』(野田昇吾)を生み出している。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)  富が集中するほど他者への信頼が下がり、「フェアネス(公正さ)指数」(日経新聞作成)が低くなる。同時にポピュリズムの場当たり政策に翻弄されやすくなる。   「国際都市ロンドンに集うグローバル・エリートの対極に位置し、 主要政党や労組から『置き去り』にされた人々と、 アメリカの東海岸や西海岸の都市部に本拠を置く 政治経済エリートや有力メディアから、 突き放された人々。 労働党や民主党といった、 労働者保護を重視するはずの政党が グローバル化やヨーロッパ統合の 推進者と化し、 既成政党への失望が広がるなかで、 既存の政治を正面から批判し、 自国優先を打ち出して EUやTPP,NAFTAなど 国際的な枠組みを否定する急進的な主張が、 強く支持されたといえる。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)  人々の不満をあおるだけで解を示せないのがポピュリズム。不満のはけ口を外に求めた愚かさはナチスドイツの例を振り返っても明らかだ。  第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。(放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)  グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。   1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より  そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)  「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感覚だろうか。  「デモクラシーという品のよいパーティに出現した、 ポピュリズムという泥酔客。 パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。 ましてや手を取って、ディナーへと導こうとはしないだろう。 しかしポピュリズムの出現を通じて、 現代のデモクラシーというパーティは、 その抱える本質的な矛盾をあらわにしたとはいえないだろうか。 そして困ったような表情を浮かべつつも、 内心では泥酔客の重大な指摘に 密かにうなづいている客は、 実は多いのではないか。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)

宮沢賢治

NHKで 長々と やってるけど、 あんま この人は 心優しい いい人でした、 みたいに 賞賛するのは、 あまりに 表層的な 理解だと 思うけどな。 宮沢賢治は、 下手すると 極左革命テロリストに なってた 可能性がある。 原敬と 同郷の盛岡出身だから、 もしかしたら 原のことを おぞましい 資本主義の権化とか 考えてた 可能性もある。 実際 原敬は 東京駅で 暗殺されたし。 大正時代は 大正デモクラシーなどといって、 自由で 民主的文化が 開花した時代と 思われがちだが、 そういう側面は あるにせよ、 多様な文化と いえば 聞こえがいいが、 つまるところ、 昭和のテロリズムに 繋がる 危険思想が 芽生えた 時代でも あったことを 忘れてはならない。 極右にしても極左にしても。 その背後にあったのは、 経済成長による 貧富の格差の拡大。 貧困問題を ほったらかしにすると、 政治不信と 社会不安が増大する。 決して 他人事ではない。  国柱会は戦前、さまざまな考えを持つ人物を惹きつけていた。法華経の教えを通じて理想世界を実現するという考えは、理想郷「イーハトーブ」を繰り返し描いた熱心な信者でもある宮沢賢治の作品に影響を与えたとされる。 https://dot.asahi.com/aera/2017050200020.html?page=3

スタバではグランデを買え! 吉本佳生 ダイヤモンド社

タイトルからすると、 煽り要素 強めの 中身のない ビジネス本に 見えてしまいますが、 ちゃんとした 応用ミクロ経済学の 内容ですね。 経済学わかんねー と 思ってる人でも 無理なく 読めます。 吉本さんは、 自分も 20年くらい前に 読みました。 為替ってなんスか? 円高とか 円安って何? っていう レベルのときに、 この著者の本で 勉強したのが、 経済学の学習の 第一歩だったと 言って 過言はないです。 良心的な 経済学者です。 ・・・とても 刺激的ですね。 自分は これまで ミクロ経済学的に 世の中を 見る、 ということが 全く 出来ていなかったことに 気付かされる。 ・・・驚いた。 ほんとに 実践的な ミクロ経済学の本ですね。 大学で ミクロ経済学を 勉強した人なら わかると 思いますが、 ミクロ経済学は、 正直 なんの役に立つのか わからない、 という イメージがあると 思います。 でも、 (応用)ミクロ経済学の 世界は 現実の事象を うまく 説明できる 多様な発想を 内包しているようです。 この 本は、 特段 経済学の知識が なくても 理解できるので、 おすすめです。 ただ、 本の タイトルが、 ちょっと 誤解を招くような 印象を受けます。 れっきとした ミクロ経済学の本なのに、 中身のない ビジネス書みたいに 思われてしまいそうです。 もったいない。 ・・・難しい数式などは 一切出てこないですが、 それでも いかんせん その方面のセンスが からっきし無い 小生には、 著者が 言ってることが、 直感的に理解できない。 これはもう 数理的センスの問題だね。 ただ、 経済社会にとって 効率性は 大事だよね、というのは 伝わってきた。 フワッとした 情念で 経済を語りがちな 小生には、 いい 刺激になったのは 間違いない。 (以下引用) 何でもかんでも 政府に 期待して 安易に 要求する市民は、 程度の差ことあれ、 政治家と癒着して 不当な利益を 得る 企業と さほど 変わらない問題を 引き起こしている、と 自覚すべき でしょう。 ・・・疲れて 爆睡して、 起きたら、 この本の あくまで 部分的にですけど、 書いてあることが 身についた感じがします。 ミクロ経済学の 視点から 世の中を見る、 ということも 大事ですね。 今までとは また 違った視点で 世の中が 見えてくる。

失礼だけど

王林ちゃんって、 日本人だったのか。 てっきり 中国人だと 思ってた。 日本語うめーなーと 思ったら、 重度の東北訛りだった。 王林りんご。

機械翻訳

相当 注意して 日本語を deeplに 英語に 訳して もらうと、 確かに 文法的に 完璧な 訳文 出して くれるんだけど、 後から見ると、 頭に入ってこない。 NHKで 人工知能が 原稿読んでる時があるけど、 あれが 頭に入ってこないのと 同じ感覚。

2023年4月22日土曜日

経済ってたのしー

この時期になると、 日経新聞で 新社会人向けに 財務諸表の読み方を レクチャーしてくれる ようですね。 去年も ありましたけど、 読みはしたものの、 あんまり 理解できず。。。 今年も、 分からないなりに 切り抜いて ストックは していたので、 ある程度 まとまった ところで、 ちょっと頑張って 切り抜いた記事を 睨みながら 勉強してみたけど、 ああ、 そういうことか! と 分かった気になりました。 個人的な事情で 株式投資は やらないけど、 四季報なんか 見てみようかな、 と 企んでいます。 ・・・ネットで 試し読みしてみたけど、 素人が 読んでわかる シロモノじゃないね。 あれ 読んで 具体的に イメージ出来る人は、 プロだよ。 ウォーレン・バフェットとか すげーな。 ・・・でも、 ちょっと 複雑だね。 財務諸表の初歩の初歩が わかると、 逆に 自分が その分野について まったく分かってないって ことが 分かっちゃうから。 無力感を感じる。 つってもまあ、 他に わかる分野はあるから そんなに 落ち込まないけど、 若い人は よく 何者にもなれるけど、 まだ 何者でもない、 みたいに 言われるけど、 それはそれで 大変だよ。 言い換えれば 例外を除いて、 世の中のことが 分からないことだらけ なんだから。 それこそ 勉強しなくちゃいけないことが 山ほどある。 それを これからの人生で どれだけ モノに出来るのか。 期待感もあるだろうけど、 シンドくもあるよね。 若けりゃ 若いで 大変だよ。 ・・・あ、でも 自分には 会計は わからないと 思い込んでた 面もあるから、 ちゃんと お膳立てが 整えば 分からないと 思っていたことでも ちょっとは 分かる時もあるっていうのは、 大きな 一歩じゃないか。 ・・・おはようございます。 今朝は 少しひんやり。 木々の緑からも、 いい薫りがする 気がします。 経営指標って、 あんまり 好きじゃなかったけど、 その理由は、 経営の 効率性とか 回転率とか、 コトバの 外面的表層だけを 捉えて、 自らの 独裁的経営や、 パワハラを 正当化する 中途半端な 経営者とか 管理職が いたりするからだと 思います。 どっちにせよ そんなやつの会社は 大した 経営指標残せない でしょうけど。

「ローマ帝国衰亡史」 上巻 エドワード・ギボン 

歴史的名著と 名高い ギボンの 「ローマ帝国衰亡史」を キンドルで 読んでます。 グローバル化時代の 今だからこそ、 なお一層 読む価値がある。 現代の 国際政治を 理解する うえでも 役に立ちそう。 版元はPHPだけど、 なかなかの 名訳。 そもそもの ギボンによる 「ローマ帝国衰亡史」が 文学的にも 大変 評価が高いらしい。 ・・・古代の 大ローマ帝国の 時代ですら、 人の世とは これほど 儚いものか。 むしろ、 人生とは このようなものだ、 と 思ってしまえば、 今の 日本に生まれたこと そのものが 奇跡的な 幸運とも いうべきだろう。 たとえ その前途が 暗澹たるもので あったとしても。 人の世の儚さ とは よく言ったもんだけど、 ぶっちゃけ それを 受け容れちゃったら、 精神的に 楽だよね。 下手に 予算制約がないと、 果てしない 競争に 駆り立てられて、 物質的には 豊かなのに、 心は カラカラに 渇いてるって、 よくあるよね。 自分も例外ではないし、 今の 中年やあるいは 若者ならば、 そういう 感覚は よくわかるのではないか? ・・・特に 教訓めいたことが 書いてあるわけじゃ ないんだけど、 妙に 飽きが来ない。 不思議だ。 もっと 読み進めてみないと、 それが なぜなのかは 見えてこない。 記述が 簡潔なことはもちろん、 細かく 章立てが してあって、 小気味よい。 人物描写もうまく、 小説を 読んでいるような 錯覚を 覚える。 何より、 古代ローマ帝国が 支配していた 領域が広大なため、 その後の 世界史的動向との 連携が密だから、 想像力を 掻き立てられる、 ということも あるだろう。 ・・・何より、 現代の国際政治にも 通じるものが あるということも あるだろう。 ・・・うん。 読んで 何かしら 得るものがあるんだ。 ・・・主観の入らない 歴史とは 空疎な断片に過ぎない。 歴史とは 歴史を語る 歴史家の 偉大な洞察が 投影されたものなのだ。 「ローマ帝国衰亡史」に 関しては、 ギボンの 歴史家としての 偉大さの 投影が そこにある。 だからこそ、 我々は そこから 学ぶことができる。 ・・・上巻 読了。 4月26日 午前3時ごろ。

2023年4月21日金曜日

旬報社 (再掲)

もし、 日銀が 目的としている 2% の 物価上昇が 実現した場合、 国債の発行金利が 2% 以上になるか、 利回りが 最低でも 2% 以上に なるまで市場価格が 下がります。 なぜなら、 実質金利 (名目利子率-期待インフレ率) がマイナスの (つまり保有していると損をする) 金融商品を買う 投資家は いないからです。 国債 (10年物) の 利回りは 0.1% 程度 (2018年11月現在) ですが、 それが 2.1% に 上昇した場合、 何が起こるでしょうか。 政府の 国債発行コスト が 跳ね上がるのは もちろんですが、 より重要なことは、 国債価格が暴落し、 国債を 大量に保有している 銀行に 莫大な 評価損が 出ることです。 経済の論点 旬報社 72ページより

誰に刷り込まれたんだろう?

国債発行 イコール 通貨発行 という俗説が あるらしいが、 金融政策の 基本が 何も わかってないね。 国債を 発行して、 買ってくれる人が いるから、 (国債を買うのは 当然のことながら 中央銀行だけではない。) そのお金が 市中に 流れるんだけど。 これ、 (国債に限らず 債券全般に対する、 中央銀行による) 買いオペとか 売りオペとか 言われる 金融政策の 常識中の常識 だけど、 そんなことも 知らずに、 ただ 国債発行すれば 自動的に 貨幣供給量が 増えると 本気で 思ってる 人が いるみたいね。 (それに、 国債だって商品だから、 本来は政府の都合で 発行した 国債を、 相場を無視した 高値で 売れると思うのが そもそも 間違ってる。 むしろ、 日本の現状として、 日銀が 市場の相場を 無視した 高値で 国債を 買い続けてることが 本質的に問題なんだけどな。) なにで 経済学 学んだんだろう? それに、 貨幣供給量を 増やす イコール 国の資産が 増える ってのも そもそも 間違い。 国の富の 源泉は 付加価値、 すなわち GDPです。 これ、 学部レベルの 経済学で 最初に 学ぶことなんだけどな。 ほんと、 誰に 刷り込まれたんだろう? ついでに 書いとくと、 赤字国債を 発行すること自体が 法律違反なんだけど、 毎年 特例法案つくって 可決して 予算作ってる。 (ちなみに、 一昔前は その種の予算を 通す通さないが 政争の具に 使われたのが、 短命政権が続いた 原因だった。 らしい。) それが 常態化。 それを 国民の側が 嬉々として 受け入れてる 現状が 異常。 ついでに 書いとくと、 日銀が 国債買い続けないと 国債の価格が (異常な高値を 維持できずに) 暴落して 金利が 急騰して この国 吹っ飛びますけど、 さあ この ムリゲー どうします? ちなみに 安倍ちゃんは 日銀は政府の 子会社だから いくらでも 日銀に 国債 買い取らせればいい とか ほざいてましたけど。 もう 日銀による 国債の保有比率 5割 超えましたね。

私見

チャットGPTって、 そんなに 悪いもんでも ない 気がする。 例えば 日本の 財政に関する 迷妄だって、 どんな 経済学の オーソリティーでさえも 信用しない 愚かな人間でも、 チャットGPTが 言うことは 信用する かも知れないし、 特に 戦争を抑止する 機能を 果たすかも知れないよね。 と、いうのは、 戦争の 背後には お互いの 不信感から 起因する ケースも 多いし、 その 背後には えてして ポピュリズムや、 陰謀論が 人々の間に 浸透 している ケースもあるからね。 チャットGPTが 混沌とした 世界の現実を シンプルに してくれるなら、 それは 決して 悪いことじゃないし、 平和に寄与する 側面は あると 思う。

嘘じゃないよ

気休めだと 思って 飲んでたけど、 これ 効くなー!! 寝る前に 飲んで 起きたら 視界バッチリ! 眼科じゃ 飲み薬なんて もらえないが、 これは マジで 効く。 カネと健康に 関することは よほど 信憑性が ないと アドセンス取得 できないから、 迂闊には 書けないけど、 それでも これは 効く。

世界史の中の中国文明 (再掲)

という、 放送大学の 面接授業で 聞いた話ですが、 元 は 当時 先進的な金融大国で、 交鈔 という紙幣を発行して、 流通を強制した ために、 宋の 時代に 流通した 銅銭が 駆逐されて、 鎌倉時代の 日本に 大量に 流れ込んだらしいですが、 最終的には 交鈔を 乱発した せいで 経済が破綻した、 というのは 大学受験の 世界史の常識レベルですね。 しかし、 交鈔の 流通を強制した といっても、 価値を 裏付けるために、 塩引 といって、 塩の専売権 が 保証されて いたりと、 やはり、 価値の裏付けもせずに 紙幣 として 流通させた わけではなかった ようです。 現代の 愚かな 日本人より 賢いかもですね。

2023年4月20日木曜日

アベノミクスという麻薬

なんか、 生活が 苦しいのを 岸田さんの せいに しようとする 風潮があるが、 単純に アベノミクスという麻薬が 切れた 禁断症状が 出始めた だけだろ。 こんなん 序の口だぜ。 イールドカーブ・コントロールすら 脱却 出来るか どうか 分からないし、 それでも 大きな 混乱が 避けられないことは、 オーストラリアの 中央銀行の 例からみても 明らか。

無聊を託つ (再掲)

暇だな・・・ 暇なら働きゃいいじゃん、 母親も、 何も言わず 一人で郵便局行けるほどに回復したし。 しかし、 俺が暇だから働く、 となれば、 母親はどうなる? 俺より暇じゃないのか? 暇だってそれなりに苦痛であることを 理由に、働こうかな、なんて言ってる息子が、 母親を放置していいんだろうか。 ん?でも俺って、実はそれなりに体力ついてきたんじゃないか? 連日エキサイトしてるのに、それなりに朝早く起きられるし。 睡眠の質もいいし。 ところで、最近また世間のマインドがデフレの方向に向かってる気がする。 テレビとかでも、いかに食事などを安く済ませるか、という内容が散見される。 母親も、飯尾和樹がワンコインで賢く食費を浮かせてて、偉いと言っている。 円安と資源価格高騰による コストプッシュ・インフレの影響と、 それでも企業の価格転嫁が進まずで、 結局、名目賃金が上がったとしても、 実質賃金が目減りしているから、 当然と言えば当然なんだけど、 そもそも 期待インフレ率を上げて、実質金利を下げることにより、消費を喚起することが インタゲの主眼目のはずだったのに、 これじゃ本末転倒じゃないか。 ただのスタグフレーション。 黒田日銀は、日本経済を永久凍結させる気か? 見方によっては、富の分配の偏りは、消費の低迷によって 国全体を貧しくする、ということも言えるだろう。 そもそも、少子高齢化が進めば、 老人の支出が減るのは当たり前だし、 働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、 消費を控えるのは当然だろう。 それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。 政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。

「危機の二十年」 岩波文庫 (再掲)

「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」 E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より

インタゲと増税はワンセット (再掲)

質問:中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、とありますが、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか?あるいは、新古典派経済学では「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか? 回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。すなわち、「政策割当の原理」です。したがって、「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要となります。  本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。本来の金融政策の目標(物価の安定)と異なるため黒田日銀総裁は「異次元の金融政策」という言葉を使ったのです。このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。このシナリオどおりに進めば、もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。ただ、経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります。したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため「財政再建」が先送りになってしまいます。それゆえに、「財政再建」の政策目標の一環として消費税の引上げが考えられています。このように、「政策割当の原理」は成立しています。

あてはまりにくい「貨幣数量説」 (日経新聞「やさしい経済学」〘年月日不明〙より 抜書き)大阪大学 敦賀貴之教授 (再掲)

経済活動の量が変わらなければ、 貨幣量を増加させれば 物価だけが増えると予測できます。 つまり、経済に流通する貨幣量を 機械的に増やすと、 増えた貨幣はそのまま 経済に流通し、 経済取引の総額が増えます。 しかし、 経済にお金が回っても 需要が高まるだけで、 供給は増えず、 貨幣量と同じスピードで 物価だけが上昇します。 このように、 貨幣の数量で物価が 決まるという考え方が 貨幣数量説です。 日銀は20年近くにわたり、 貨幣量を大幅に増やしましたが、 物価の上昇は期待ほどではありません。 多くの経済学者は、 短期的には 貨幣量の変化は生産量の変化につながると考えます。 さらに データ上は、 流通速度は趨勢的に 低下傾向を示し、 日本ではこの30年で 流通速度が半分に低下しました。 貨幣量が増えれば 物価は上がるという 単純な理屈は 当てはまりにくいのです。

貨幣数量説 (再掲)

完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は古典派経済学の発想なので、完全雇用は常に達成されていると想定されているので、物価は貨幣量と貨幣の流通速度で決まる。 従って、貨幣量を増加させれば、物価は上がる。 「貨幣の所得流通速度が一定不変で,かつ伸縮的な価格メカニズムの作用により実質産出量(実質国民所得)の水準が長期の均衡値に一致するならば,貨幣数量の変化は国民所得の大きさや構成にはなんら影響を与えず,ただ物価水準を比例的に変化させると主張する説。」有斐閣経済辞典第4版

「金融と社会」質問と回答 その1 (再掲)

問題提起:日本には巨額の対外純資産があるからかなり巨額の政府債務があっても大丈夫、という話は、額面通り受け取るべきではないのではないか?やはり財政収支と経常収支の双子の赤字」は避けるべきではないのか?つまり、フローで見る必要があるのではないか?ストックで見るならば、増税を前提とするのが筋だろう。  内閣府のペーパー(https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html) によると、フローで見れば、経常収支の黒字が、政府部門の赤字をファイナンスしていることになりますが、経常収支の黒字が、対外純資産としてストック面で蓄積されていると考えられます。 この場合、もちろん、経常収支が赤字に基調的に転落すれば、フローで見た場合、政府部門の赤字をファイナンスするために、海外資本を呼び込む必要性に迫られ、それは今よりも高金利であることが要請されるので危険だ、という意見もあります。 ここで、フローで見れば確かにそうですが、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たすことはないのでしょうか? 仮に、そのような事態になった場合、具体的にどのようなスキームで、対外純資産を政府部門の赤字をファイナンスの用に供するのでしょうか? また、経常収支黒字の源泉である、企業部門の第一次所得収支についてですが、最近は、企業も資金を更なる海外投資、M&Aに投資するべく、資金を円ではなく、ドルで保有しているとされますが、それは、第一次所得収支に、円換算して勘定されているのでしょうか? (https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX)  ご質問ありがとうございます。まず印刷教材のこの部分はすべてフローについての議論です。内閣府のペーパーにもあるように、マクロ経済学などで登場するISバランス  (S-I) + (T-G) = NX 民間貯蓄超過   政府黒字  国際収支黒字(海外赤字) を念頭に、民間貯蓄超過の大幅プラスが、政府赤字のマイナスを相殺してもなお左辺がプラス、したがって右辺もプラス(海外マイナス)、という状態です。 近年コロナで政府赤字が大幅に増加しましたが、家計貯蓄も大幅増加して、2020、21年とも左辺はプラスを維持しています。  ご質問のなかばにあるストックの話は、たとえば銀行が保有していた米国債を売った資金で、新規に発行された日本国債を購入することをイメージされているのでしょうか。それが得だと銀行が判断すればそうするでしょうが、強制することはできず自動的にそうなるわけでもありません。  最後の第一次所得収支については、書かれているとおり、たとえば利子収入はドルで得られドルのまま持たれたり再投資されたりしますが、円換算して所得収支に繰り入れられています。

亡国の輩

三橋貴明っていう 有名な ペテン師が いるけど、 あいつの 言うことを 信じちゃう バカが いるんだよね。 なんか バランスシートが どうとか ゴチャゴチャ 言ってるけど、 単純に 詐欺。 簡単に言えば、 テメーが 1万円持ってて、 友達に 3000円貸したら、 自分は 債権者だから 友達が カネ返してくれたら 自分の資産が 1万3000円になる、 って 言ってるレベルの馬鹿。 騙されるほうが 悪い。 ネズミ講以下の 次元。

メンタルクリニック行ってきた

薬は まだ あったけど、 ヤフコメ民が バカ過ぎて、 日本の 未来に 絶望して、 ウツに なったので、 行きつけの メンタルクリニックに 行ってきました。 もう軽く10年以上の 付き合いだけど、 話を聞いて もらうだけでも、 気分が 全然違う。 医者に限らず だけど、 人間が 分かり合うには、 10年でも 足りない。 20年は 欲しいところだ。 語学だって、そう。 特に 成人になってから 仲良くなろうとすれば、 よほど 相性が いいとかでないと、 なかなか 相手の 心のうちは 見えてこない。 それは ともかく、 近所に 理解してくれる 精神科医 が いる、 というのは 本当に 貴重だ。

2023年4月19日水曜日

バカバカしい

ヤフコメ民みたいな バカを 見てると、 あー この国に 未来ねーわ、 と 思っちゃうわ。 働くなんて そもそも バカらしくなる。 少子高齢化が まずいと 分かっているのに、 少子化対策で 税金を あげようとすると、 妄想に走る。 かといって、 移民受け入れを 真剣に 議論するわけでもない。 日本人は いつの間に こんな バカばっか に なったんだ?

中立命題 (再掲) 常識で考えようよ!いい加減!

財政支出を課税により現在決済しようと,国債を発行して将来に決済を延期しようと,国民の経済厚生に変化はないという命題。 いま人口が変化せず,すべての国民に同額の所得税の減税をするとともに,減税分と同額の国債を新規に発行するケースを考えよう。 この経済では,国民の保有する国債という資産の価値と,国債償還のための費用とは同率で増加するために,国民の消費の時系列は影響を受けない。 リカード(D. Ricardo)が主張し,近年,バロー(R. J. Barro)ら合理的期待学派によって,公債の中立命題として再定式化されたもの。 有斐閣経済辞典第4版 上の中立命題が示唆することは、長い目で見れば、ケインズ経済学的な財政出動は、意味がない、ということになる。 もっとも、ケインズ自身が、そんな長い目で見たら、我々はみんな死んでいる、と反駁したわけであるが。 とはいえ、確かに、戦後の日本が財政赤字を垂れ流し続けた結果がこの有り様だから、中立命題のいうことも、もっともなことだ。

ヤフコメ民は相変わらずおバカさんだった。

ほんっと安倍とそのシンパの罪は重い。 例えば、 成田悠輔が 焚き付けて へずまりゅうですら かぶれてる、 (とはいえ事実だが) 社会保障費と 世代間ギャップの 問題だって、 ヤフコメのバカども が 言ってることが 正しければ、 無制限に 国債 発行して、 日銀に 買い取らせれば、 いくらでも カネが生まれるんだから、 なんの 問題も ねーだろーが?! それこそ、 社会保障の 世代間ギャップの 問題など 最初から 存在しないことになる。 そんなことも わかんねーのか?! 選挙権 持ってるんだったら、 最低限の 常識を 弁えろ!!! クソが!!!!!!! https://news.yahoo.co.jp/articles/6201ed35aa4e9a1086b8a452670d4bb6a85b06de

2023年4月18日火曜日

断片的分析

今は たぶん だいぶ 違うんだろうが、 自分が 入った 頃の 武蔵は、 権威主義的な 空気が まだ 漂っていた。 もちろん、 学問的な、 という 意味だが。 しかし、 その 埃っぽさが、 自分には 耐えられないくらい 窮屈で 仕方がなかった。

ハイエクとアドルノ (再掲)

経済活動を 完全に 中央主導にする という 発想には、 やはり たじろぐ人が多い。 単に それが 途方もなく 困難だから ではなく、 たった一つの 中央当局なるものが 万事を 指示する ことに恐怖を 覚えるからだ。 それでも なお 私たちが そこへ向かって 急速に進んでいるのは、 完全な個人の競争 と 中央管理との間 に 「中庸」 が あるだろうと、 大半の人が いまだに 信じている せいである。 めざす目標は 自由競争による 極端な分権化でもなければ、 単一の計画に基づく 完全な中央集権化でもなく、 両者の いいとこどりをした 体制だと 考えるのは、 合理的な 人々にとって 実に魅力的であり、 さも実現可能にも見える。 だが このような問題に関しては、 常識は当てにならない。 「隷従への道」日経BP p.190~191   理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)  ハイエクは 極端な 自由主義者かっていうと、 そういう わけでもない。 ただ、 一見 素晴らしいように 見える 規制も、 ついには 自由を 圧殺してしまう、 ということを 述べている に過ぎない。 例えば、 今年の 武蔵の 入学式の 杉山校長の 式辞も、 大変素晴らしい ものだが、 若者の 精神に 枷を嵌めるような 言辞は、 そう 長くない 時を経て、 自由を 圧殺する 危険性を 孕んでいる。 しかし、 だからといって、 ハイエクは ひたすら 自由放任を 称揚しているのではなく、 ヨノナカが 自然に 作り出した 自生的秩序には 従わなければ ならない、 と 説く。 自生的秩序については 仲正昌樹が 「いまこそハイエクに学べ」 (春秋社) の なかで デービッド・ヒュームに なぞらえて 論じている。 ヒュームの コンベンション(慣習)に 引き寄せて 考えれば、 理解しやすい。 しかし、 ハイエクの主張は、 決して 数理的に証明された 真理などではない。 これは 我々が 人類の歴史から 学ぶ 教訓のようなものだ。 過去のケーススタディを 網羅するのと、 歴史から学ぶのは、 似ているようで 根本的に違う。 一定の 時間の経過と その中の 一連の出来事から、 物語を紡ぎ出すのは、 歴史家の仕事である。 だから、 それを蓄積して ケーススタディとして 当てはめて なんでも解決できると 考えるのは、 危険だ。 過去のケーススタディに 含まれた バイアスが そのまま 反映されてしまう 可能性が あるからだ。 我々が 歴史を学ぶとき、 その材料には、 歴史家が 作り出した 空隙、スキマ、論理の飛躍がある。 しかし、 それを抜きにしては 歴史を語り得ないし、 そこから 現実を 照らし出す 光を見出すのは、 やはり 現在を生きる 我々の 仕事なのだ。 どんなに 凄い能力を 持っていても、 天下一品のロゴと 交通標識を、 いちいち 教えられなければ 識別できないような キカイに、 政治の大事な 意思決定を 委ねるのは、 やはり 怖い。 同様に、 歴史に学ばない 政治家も、 危険だ。 https://www.musashi.ed.jp/blog/lal9br00000011gw-att/lal9br00000011j9.pdf  ここで、管理された世界のもつ全体化する力 というキーワード を導きとして、 以下の丸山眞男の論考を 考えてみたい。 丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。 しかしながら天皇制が 近代日本の思想的「機軸」として 負った役割は 単にいわゆる 國體観念の教化と浸透という面に 尽くされるのではない。 それは政治構造としても、 また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、 機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。 (・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、 制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、 それが 制度自体と制度にたいする 人々の考え方をどのように規定しているか、 という、 いわば日本国家の認識論的構造にある。 これに関し、仲正昌樹は 「日本の思想講義」(作品社)において、 つぎのように述べている。 「國體」が融通無碍だという言い方をすると、 観念的なもののように聞こえるが、 そうではなく、 その観念に対応するように、 「経済・交通・教育・文化」の各領域における 「制度」も徐々に形成されていった。 「國體」観念をはっきり教義化しないので、 制度との対応関係も 最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、 国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、 目に見える効果をあげるようになった。 ということだ。 後期のフーコー(1926-84)に、 「統治性」という概念がある。 統治のための機構や制度が、 人々に具体的行動を取るよう指示したり、 禁止したりするだけでなく、 そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、 それを当たり前のことにしていく作用を意味する。 人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、 今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用) 社会全体が体系化され、 諸個人が事実上 その関数に貶めれられるようになればなるほど、 それだけ 人間そのものが 精神のおかげで 創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として 高められることに、 慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」 という言葉が何を表しているか、 自分の考えでは、 「社会全体が体系化され、 諸個人が事実上 その関数に 貶めれられるようになればなるほど」、 (疑似)宗教のように、 この世の全体を精神的な色彩で説明し、 現実生活では一個の歯車でしかない自分が、 それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、 そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、 救いを感じるようになる、という感じでしょうか。

2023年4月17日月曜日

エコひいき

https://www.dailyshincho.jp/article/2023/04171702/?all=1 岡本じゃなくて、 甥っ子の ために こんなことまで やってりゃ、 そりゃ 他の 選手は やる気 なくすわ。 入団の 経緯からしてね。 1年浪人 させてまで 獲得しておいて、 メジャー 行きたいでしゅ! と 言えば 地ならしまで してくれる ってんじゃね。

2023年4月16日日曜日

申し訳ない

木曜日の 夜に 塾講師の 案件に 応募したけど、 返信すら 来てないのに、 辞退の メールを 送りました。 生活のペースが 乱れるのが 困る。 具体的には、 冷たい水を 気づかないうちに 飲みすぎてたりとか、 急に 不安感に 襲われるとか。 経験上、 こういう 時は 身を退いた ほうが いい。 後退は しないが、 かといって 足が 止まった わけでもない。 むしろ、 まだ 前へ 進める。 そこを 仕事の 都合で 邪魔 されたくない。 母親の 見守りも、 束縛って いうより、 もっともっと よく出来る 可能性が 見えてきて、 そっちが 大事。 高校受験で 無理しすぎて 高校はいってから ウツ状態に なったことと、 大学で 統合失調症に なったことで、 自分の 内面には いつも 配慮して、 手遅れになる前に 早めの対処が 必要 ということが 身に沁みて わかった。 無意識のうちに 自分の 心の内を 検べたり、 体調の 変化には 敏感に なっている。 就職に関しては、 手札を全部 切ってしまった。 どうせ 市役所の 障害者雇用も、 願書出したところで さんざん 悩んで 1次試験も 受けないのが 想像できるし。 じゃあ、 それで 不安に なるかっていうと、 意外と そんなことは なくて、 自由に 時間を 使える ありがたさの ほうが 勝る。 不安は 不安 だけど、 時代も 移り変わるし、 成り行き任せ で 行くってのも、 結構な 技術 だと 思う。 そういう 遊びの部分が あっても いいと 思う。 むしろ、 グローバリゼーションを もたらした 新自由主義は、 人間の 時間を、 その 存在を、 すべて 経済的な 側面に 還元してしまう ような 側面が あったのではないか。 人間は 本来 もっと 経済的側面 以外の ことを 考える 時間を 持つべき なのではないだろうか? 「合理化」が 進むほど、 人間は かえって 合理性を超えた 領域に 生存可能性を 見出すことは、 アドルノが 指摘する 通りである。 「合理性」で 覆い尽くされた 社会でこそ、 敢えてでも 騙されたい、 という 荻野昌弘の 指摘は 正しい。 人工知能が 発展し、 社会が さらに 「合理化」 されれば されるほど、 人間は かえって 「非合理的な」 行動に走る のでは ないだろうか? あるいは、 そういった 一種の 逃避が、 アウシュビッツの 再来なのか、 それとも 人間の 独創性の 開放なのか、 今は まだ わからない。 しかし、 人間の 独創性の 開放の 名のもとに、 自然との 原初の統一を 試みたり、 あるいは 世界の一体性が 到来する、 などと 鼓吹するのは、 危険な徴候だ、 ということは、 これも アドルノが 指摘した ことである。 アドルノによれば、 理性そのものが、 イデオロギー的な 性質を 持っている。 理性的な 社会を 追求するほど、 かえって 野蛮な 社会が 待っている かも知れない。 ジュリア・クリステヴァが 指摘するように、 現代社会は、 主観と客観の 区別によって 抑圧された アブジェクトを 隠蔽した 社会なのだ。 それでも 人間は 進歩するだろうが、 結局は やはり 社会全体として 見れば、 野蛮な 側面を 同様に 残したまま 社会は あり続けるだろう。

キャラの現象学的分析 (再掲)

ところで、ルソーは疎外論の元祖だそうである。 「ホントウのワタシ」と「社会的仮面を被ったワタシ」の分離という中学生が本能的に感じるようなことに言及していたそうである。ここで、いわゆる『キャラ』について考えてみよう。 サークルの飲み会で、場にあわせてドンチャン騒ぎをやることに倦み果てて、トイレに逃げ込んだときに自分の顔を鏡でみるのは一種のホラーである。鏡に映る、グダグダになって油断して仮面を剥がしかけてしまった見知らぬ自分。それを自分だと思えず一瞬見遣る鏡の前の男。男は鏡に映る男が自分であることに驚き、鏡の中の男が同時に驚く。その刹那両方の視線がカチあう。俺は鏡を見ていて、その俺を見ている鏡の中に俺がいて、それをまた俺が見ている・・・という視線の無限遡行が起こって、自家中毒に陥ってしまう。 このクラクラとさせるような思考実験からは、<顔>についてわれわれが持っているイメージとは違う<顔>の性質を垣間見ることが出来るのではないか。そもそも、自分の顔は自分が一番よく知っていると誰もが思っているが、鷲田清一によれば、「われわれは自分の顔から遠く隔てられている」(「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22)という。それは、「われわれは他人の顔を思い描くことなしに、そのひとについて思いをめぐらすことはできないが、他方で、他人がそれを眺めつつ<わたし>について思いをめぐらすその顔を、よりによって当のわたしはじかに見ることができない。」(P.22)からだ。 言い換えれば、「わたしはわたし(の顔)を見つめる他者の顔、他者の視線を通じてしか自分の顔に近づけないということである。」(P.56)ゆえに、「われわれは目の前にある他者の顔を『読む』ことによって、いまの自分の顔の様態を想像するわけである。その意味では他者は文字どおり<わたし>の鏡なのである。他者の<顔>の上に何かを読み取る、あるいは「だれか」を読み取る、そういう視覚の構造を折り返したところに<わたし>が想像的に措定されるのであるから、<わたし>と他者とはそれぞれ自己へといたるためにたがいにその存在を交叉させねばならないのであり、他者の<顔>を読むことを覚えねばならないのである。」(P.56) そして、「こうした自己と他者の存在の根源的交叉(キアスム)とその反転を可能にするのが、解釈の共同的な構造である。ともに同じ意味の枠をなぞっているという、その解釈の共同性のみに支えられているような共謀関係に<わたし>の存在は依拠しているわけである。他者の<顔>、わたしたちはそれを通して自己の可視的なイメージを形成するのだとすれば、<顔>の上にこそ共同性が映しだされていることになる。」(P.56) こう考えると、「ひととひととの差異をしるしづける<顔>は、皮肉にも、世界について、あるいは自分たちについての解釈のコードを共有するものたちのあいだではじめてその具体的な意味を得てくるような現象だということがわかる。」(P.58)これはまさに、サークルなどで各々が被っている<キャラ>にまさしく当てはまるのではないか。サークルという場においては、暗黙の解釈コードを共有しているかどうかを試し試され、確認し合っており、そのコードを理解できないもの、理解しようとしないものは排除される。その意味では<キャラ>はまさしく社会的仮面なのだ。

メモー社会学的考察

「人間にとって貧困とは何か」の 講義で、 現代人は 「見られているかもしれない不安」 と 「見られていないかもしれない不安」 が 入れ子構造に なっている と 論じられている。 確かに、 敢えて 些細な イタズラで 莫大な 賠償金その他の リスクを 冒してまで 世間の 耳目を集めたい、 という 昨今の 外食テロ 行為には、 『見られているかもしれない』 期待感と 『見られていないかもしれない』 不安感が ないまぜに なっており、 むしろ 手軽に 「見られたい」という 衝動に 駆られている ような 印象を受ける。 SNSで 世界中の 人と 繋がれる 可能性が 拓かれたが、 自分は こんなに 沢山の 人と 繋がりがある、 という 自己顕示 的な欲求の 消費も、 最近は 一抹な 不安感と ともに、 その 訴求力を 喪いつつあるように 見える。 つまり、 「見られている」 ことの 充足感よりも、 ”お互いを見ている関係性を持っている” という 連帯感を 顕示する 欲求を 消費しているのではないか。 誰もが スーパースターに なれる 可能性よりも、 自分が 直に アクセスできる、 限定された 間柄での 親密圏の 保持を 顕示する。 そんな、 グローバルに 「見られている」 ことの 充足感の 誇示と、 「閉じられている」 間柄での 強さを 顕示したい、 という まさに 「見られているかもしれない不安」 と 「見られていないかもしれない不安」 とが 入れ子構造に なっている、 という 指摘は、 説得力が ある。 そのような 関係性が 仮に 虚構だとしても、 騙すよりも 騙されている ほうが、 快適で 安定している、 という 側面は ないだろうか。 へずまりゅうや、 ガーシーなどが、 いくら 馬鹿げていても、 密かな 賞賛を 集めるのは、 彼らが 「常に見られている不安」に 耐えられる ”強者” だからではないだろうか。

良かった。

フジさん頑張った。 https://news.yahoo.co.jp/articles/c2a65e3184ec5e844dd2b752ebb7782de53d8adf

ぶっちゃけ

日本古代史って、 6世紀で ようやく 文明らしき ものが 登場するわけでしょ? 話に なんないじゃん。 井沢元彦の 「逆説の日本史」を 9巻まで 読んどきゃ 十分。 あとは 明治以降を 知ってれば。

2023年4月15日土曜日

よし!

平沼翔太スタメン! 結果も残した。 https://www.seibulions.jp/gamelive/stats/2023041501/

曇天だしな・・・

今日明日、 茗荷谷 (東京文京キャンパス) で 日本古代史の 面接授業だったんだが、 曇天だしな・・・ とか 思ってるうちに、 11時に なってしまった。 曇天だしな・・・ フットサル 行く気にも ならないし。 曇天だしな・・・ 日本古代史、 せっかく 東大名誉教授が 2日間 かけて 講義して くださるっていう メチャクチャ 貴重な機会なのに・・・ どうも 面白そうな 匂いが して来ない。 たぶん 1時間半 あれば 十分な 内容を、 2日間 かけて 聴くのもなあ・・・ 曇天だしな・・・ 曇天だしな・・・ 曇天だしな・・・

2023年4月14日金曜日

パワ原プロ野球

日ハムも まだ 結果は ついてきてないけど、 選手が イキイキしてるよね。 表情からして、 おっしゃー やってやる って 顔してるもん。 それに 比べて 巨人は。。。 もう、 表情からして どよ〜ん。 って してるよね。 これじゃ 無理だよ。 原監督 今季 1 シーズン もたないんじゃないか? 4月から こんなんじゃ、 夏までに 解任されても 何の 不思議もない。 選手が 可哀想で 仕方がない。 これで メシ食ってんのに。 アマチュアなら ともかく、 プロとして やってるんだから、 選手の 潜在能力を 発揮させるのが 監督の 最低限の 責務だろうに。

2023年4月12日水曜日

自己実現ってなんなのさ

年齢的に 社会に 出れる ギリギリのラインかな、 と 思って 焦ったけど、 別に 障害者雇用で いいんなら 今そんなに 年齢を 気にしなくて いい 気がしてきた。 変に焦ると、 逆に 簡単なことも 出来なくなる。 仕事イコール自己実現 みたいに 思ってたけど、 こんだけ 世間様に いいたい放題 言えて、 これ以上 何を 望むというのか? 確かに 友達が 社会で活躍している 姿は 眩しいけど、 羨ましがった ところで 真似できるわけじゃない。 働きもしないで 勉強に専念できるなんて サイコーだ。 やっぱり 障害者って 優遇されてるし。 病院は サイアクだけど。 とりあえず 母親を あの世に 見送るまでは そばに いることにした。

2023年4月11日火曜日

ビジネスと経済学@茨城大学

というタイトルの 応用ミクロ経済学の 授業を 数年前に 受けて、 それ以来、 身の回りの 出来事を 経済学的に 考える クセが ついた。 トゥルースリーパーという マットレスを 2年くらい前に 買ったんだが、 ヘタレて 腰が痛くなって きてしまったので、 新しく 買った。 深夜番組で 宣伝していたのだが、 30分以内だと 色々な 特典がつく、 というので、 3日前くらいの 深夜に 電話した。 今日 届いた。 やっぱり モノはいい。 しかし、 電話した時は 割と しつこく もう1枚セットで 買わせようとするのは、 経営状態が 悪いのか? それとも 在庫を処分したいのか? 現物が 届いたが、 請求書が 後日届く というのは、 使用後返品可と いいながら、 消費者心理として 一度 使ってしまうと やはり そこまで して 返品は しないだろう、 という 算段なのか? などなど。 先生のお名前が 女性みたいな お名前なので、 てっきり キャリアウーマンみたいな 人を想像していたら、 普通の おじさんだった。 茨城大学は面白い。 この授業で 行動経済学の 内容も あったけど、 あんまり 正確に 思い出せないが、 人間の心理として、 ある点を 基準として、 その点に近いところでは 凄く 差を 感じるんだけど、 遠くなるにつれ、 あまり 差を感じなくなるらしい。 例えば、 自分が病気になった 時点から 考えれば、 ほんの少し 出来ることが 増えれば、 ものすごく 進歩したように 感じるんだが、 出来ることが 増えるにつれ、 大したことでは ないように 感じられるように なってくる。 まあ、 そんなものかも知れない。 病気になった 時点を基準にすれば、 精神医療の 常識を ひっくり返す くらいの 飛躍を遂げたんだろうと 思う。 だけど、 働くってことに関しては、 からっきし ダメだね。 通訳のボランティアですら ビビってんだから。 若い頃に バイトでも していれば 違ったのかも 知れないが。 急ぎ足で 駆けてきたけど、 出来ないことは 出来ない。 仕方ない。 障害者という枠に カテゴライズされる ということは、 国の制度の 範疇に入っている ということだから、 むしろ 優遇されている。 2級だから 障害年金もらえるし。 国の制度に 引っかからずに セーフティーネットから 漏れている 人は 本当に大変だろう。 見てみぬふりをされる。 いないことにされる。 貧困とは そういうものだ。

こんな日が来るとは・・・

母親の 眉間のシワ が 完全に 消えた。 ヤッタネ!

ルールと自由

ハイエクは 極端な 自由主義者かっていうと、 そういう わけでもない。 ただ、 一見 素晴らしいように 見える 規制も、 ついには 自由を 圧殺してしまう、 ということを 述べている に過ぎない。 例えば、 今年の 武蔵の 入学式の 杉山校長の 式辞も、 大変素晴らしい ものだが、 若者の 精神に 枷を嵌めるような 言辞は、 そう 長くない 時を経て、 自由を 圧殺する 危険性を 孕んでいる。 しかし、 だからといって、 ハイエクは ひたすら 自由放任を 称揚しているのではなく、 ヨノナカが 自然に 作り出した 自生的秩序には 従わなければ ならない、 と 説く。 自生的秩序については 仲正昌樹が 「いまこそハイエクに学べ」 (春秋社) の なかで デービッド・ヒュームに なぞらえて 論じている。 ヒュームの コンベンション(慣習)に 引き寄せて 考えれば、 理解しやすい。 しかし、 ハイエクの主張は、 決して 数理的に証明された 真理などではない。 これは 我々が 人類の歴史から 学ぶ 教訓のようなものだ。 過去のケーススタディを 網羅するのと、 歴史から学ぶのは、 似ているようで 根本的に違う。 一定の 時間の経過と その中の 一連の出来事から、 物語を紡ぎ出すのは、 歴史家の仕事である。 だから、 それを蓄積して ケーススタディとして 当てはめて なんでも解決できると 考えるのは、 危険だ。 過去のケーススタディに 含まれた バイアスが そのまま 反映されてしまう 可能性が あるからだ。 我々が 歴史を学ぶとき、 その材料には、 歴史家が 作り出した 空隙、スキマ、論理の飛躍がある。 しかし、 それを抜きにしては 歴史を語り得ないし、 そこから 現実を 照らし出す 光を見出すのは、 やはり 現在を生きる 我々の 仕事なのだ。 どんなに 凄い能力を 持っていても、 天下一品のロゴと 交通標識を、 いちいち 教えられなければ 識別できないような キカイに、 政治の大事な 意思決定を 委ねるのは、 やはり 怖い。 同様に、 歴史に学ばない 政治家も、 危険だ。 https://www.musashi.ed.jp/blog/lal9br00000011gw-att/lal9br00000011j9.pdf

2023年4月10日月曜日

我々はあしたのジョー、ではない。

真っ白な灰に なって 燃え尽きました、 で 終われるなら いいけどさ、 生きてる以上は 進み続けなければ ならない。 常に 新しい 現実に 適応する ために。 資本主義社会って そういうもんだろ?

2023年4月9日日曜日

英語でコミュニケーション

TEX加藤さんの TOEIC本、 初っ端から 面食らって、 これ 終わらせるのに 1年くらい かかるんじゃないか? と 思ったけど、 徐々に 簡単に なってきて、 かといって 適度に 得るところも あり、 いい スピード感が 出てきて、 良かった。 英語って、 文法の知識と 豊富なボキャブラリーで オラオラすれば 通じることは 通じるし、 それはそれで 大事なんだけど、 やっぱり 相手も 人間だから、 あんまり オラついてると、 身構えちゃうっていうか、 コイツは 何を言い出す んだろう? みたいな テンションに なっちゃうから、 やっぱり なるべく シンプルな 語彙、 シンプルな 表現を 使うのが 正解 なんだろうな、 とは 思う。 基本単語に 始まり、 基本単語に 終わる。 TOEICも、 最近は 申し込んでも 気力が 足りず 受けない っていう パターンが 定着してるけど、 こんな オッサンになると、 2時間集中する こと 自体が シンドイ。 よほど 得るものが あれば 別なんだろうけど。 もう 何十回も 受けたけど、 よく 病み上がり なのに 受けたな、 と 我ながら 関心するわ。 900 超えた こともあるし。 ・・・不思議だね。 TOEICに出る 単語だけを 選んでるのに、 自然と 頭の中で 英語で 短文 作れるわ。 まさに 継続は力なり。 ・・・この本、 税抜きで 990円だけど、 絶対 TOEICの満点スコア の 990を 意識してるよね。 990円の 内容じゃないよ。 ・・・だんだん 佳境に入ってきた。 いつの間にか。 やっぱ 英語が好きなんだねえ。 少なくとも 一ヶ月くらいは かかると 見込んでたけど、 このペースだと 一週間も あれば 余裕で 終わる。 それにしても、 これは 画期的な 一冊だよ。 知ってるつもりの 単語でも、 こういう 使い方が できるのか! と 発見がある。 TOEICって なんか モヤモヤした 問いが 多い、 と 思ってたけど、 それは 単語の意味を 正確に 理解できて いなかったって ことなんだな。 ・・・8割方 終わった。 自然と TOEIC受けて 力試し してみたくなってくるね。 ビジネスの現場で ちゃんと 通用する 英語って 感じ。 ・・・リーマン・ショックだ。 この クオリティー、ボリュームで 1000円切るのは。 デフレ・スパイラルだ。 ・・・やっと終わった。 19日の 日付が変わる 直前。

フジさん・・・

胸が痛くなるな。。。 https://news.yahoo.co.jp/articles/573be315f6a851cb8a169c25bd3c4051ac809b57

夕べ枯れてた花が今は咲いているよ

https://www.youtube.com/watch?v=y6xAaj7uWrA

キャラの現象学的分析 (再掲)

ところで、ルソーは疎外論の元祖だそうである。 「ホントウのワタシ」と「社会的仮面を被ったワタシ」の分離という中学生が本能的に感じるようなことに言及していたそうである。ここで、いわゆる『キャラ』について考えてみよう。 サークルの飲み会で、場にあわせてドンチャン騒ぎをやることに倦み果てて、トイレに逃げ込んだときに自分の顔を鏡でみるのは一種のホラーである。鏡に映る、グダグダになって油断して仮面を剥がしかけてしまった見知らぬ自分。それを自分だと思えず一瞬見遣る鏡の前の男。男は鏡に映る男が自分であることに驚き、鏡の中の男が同時に驚く。その刹那両方の視線がカチあう。俺は鏡を見ていて、その俺を見ている鏡の中に俺がいて、それをまた俺が見ている・・・という視線の無限遡行が起こって、自家中毒に陥ってしまう。 このクラクラとさせるような思考実験からは、<顔>についてわれわれが持っているイメージとは違う<顔>の性質を垣間見ることが出来るのではないか。そもそも、自分の顔は自分が一番よく知っていると誰もが思っているが、鷲田清一によれば、「われわれは自分の顔から遠く隔てられている」(「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22)という。それは、「われわれは他人の顔を思い描くことなしに、そのひとについて思いをめぐらすことはできないが、他方で、他人がそれを眺めつつ<わたし>について思いをめぐらすその顔を、よりによって当のわたしはじかに見ることができない。」(P.22)からだ。 言い換えれば、「わたしはわたし(の顔)を見つめる他者の顔、他者の視線を通じてしか自分の顔に近づけないということである。」(P.56)ゆえに、「われわれは目の前にある他者の顔を『読む』ことによって、いまの自分の顔の様態を想像するわけである。その意味では他者は文字どおり<わたし>の鏡なのである。他者の<顔>の上に何かを読み取る、あるいは「だれか」を読み取る、そういう視覚の構造を折り返したところに<わたし>が想像的に措定されるのであるから、<わたし>と他者とはそれぞれ自己へといたるためにたがいにその存在を交叉させねばならないのであり、他者の<顔>を読むことを覚えねばならないのである。」(P.56) そして、「こうした自己と他者の存在の根源的交叉(キアスム)とその反転を可能にするのが、解釈の共同的な構造である。ともに同じ意味の枠をなぞっているという、その解釈の共同性のみに支えられているような共謀関係に<わたし>の存在は依拠しているわけである。他者の<顔>、わたしたちはそれを通して自己の可視的なイメージを形成するのだとすれば、<顔>の上にこそ共同性が映しだされていることになる。」(P.56) こう考えると、「ひととひととの差異をしるしづける<顔>は、皮肉にも、世界について、あるいは自分たちについての解釈のコードを共有するものたちのあいだではじめてその具体的な意味を得てくるような現象だということがわかる。」(P.58)これはまさに、サークルなどで各々が被っている<キャラ>にまさしく当てはまるのではないか。サークルという場においては、暗黙の解釈コードを共有しているかどうかを試し試され、確認し合っており、そのコードを理解できないもの、理解しようとしないものは排除される。その意味では<キャラ>はまさしく社会的仮面なのだ。 https://www.google.com/search?q=%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%87%E3%82%B9&rlz=1CAJFMC_enJP1026&oq=%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%87%E3%82%B9&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUyBggAEEUYOTIHCAEQABiABDIHCAIQABiABDIHCAMQABiABDIHCAQQABiABNIBCTU4NDFqMGoxNagCALACAA&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&vld=cid:2374e666,vid:X8OeBZQn3_w

市民社会とはなにか

市民社会とは、 お互いが 仮面を 被っている 社会と 言って 良いであろう。 どんなに この クソ野郎が と 思っていても、 とりあえず 微笑みを たたえ、 社交辞令を言う。 そうしているうちに、 お、 コイツ 案外 いい奴じゃん? と 思ったり するのである。 それを、 「大人は汚い」 などと 言っている うちは、 所詮 子どもだ。 ネット社会で、 各人が 身バレさえ しなければ、 どんなに 他人に 罵詈雑言を 浴びせられるか、 今の 日本人なら よく 知っているだろう。 最近は 人工知能の おかげで ヤフコメとかでも まともな コメントが 表示される ようになったが。 しかし、 一昔前は、 反町隆史が 「言いたいことも 言えない こんな 世の中じゃ」 と 歌っていたのだ。 結局、 一元化された 行政権力のない 世界は カオスであり、 自然状態であり、 地獄なのだ。 お互いが 仮面をかぶり、 裏表を抱え、 お世辞をいい、 陰口を叩く。 これが 健全な 市民社会なのだ。 陳腐な言い換えだが、 市民社会とは 演じられた 世の中なのだ。 https://www.google.com/search?rlz=1CAJFMC_enJP1026&tbm=vid&sxsrf=APwXEdc4N4tl5AXqbAf5frysdDcD_L5nCg:1680992054929&q=the+show+must+go+on+%E5%92%8C%E8%A8%B3&sa=X&ved=2ahUKEwiunreyp5v-AhXB_GEKHVRtCDkQ8ccDegQIDRAH&biw=1536&bih=742&dpr=1.25#fpstate=ive&vld=cid:27035403,vid:P0dTn1Ga818

2023年4月8日土曜日

キタ!!!

平沼翔太 今季 初スタメン! https://news.yahoo.co.jp/articles/c8c9348b06dbeebe9b23b162e598d87c68d991d6

バラッサ・サムエルソン仮説 (再掲)

消費バスケットを 構成する 貿易可能財では、 国際貿易を 通じた 裁定取引 により 国際的な 一物一価が 生じる一方、 サービスなどの 非貿易可能財 では 国際的な 裁定取引が 行われない。 日本での 非貿易可能財価格 は 国内の 生産投入費用、 特に 実質賃金により 決定される。 貿易可能財産業 で 高い 労働生産性の 伸び率 を 達成した 高所得国は、 その 高い 労働の 限界生産性から 国内実質賃金が すべての 国内産業で高い。 高所得国の 非貿易可能財価格は 低所得国より 高くなり、 同所得国の 実質為替レート は 増価する。 日経新聞「経済教室」2022/1/26 より  https://imidas.jp/genre/detail/A-109-0085.html  https://jp.reuters.com/article/column-kazuo-momma-idJPKBN2FB0CH

労働生産性

ここ数日の 日経新聞の 論調だと、 賃金あげるのも アリだけど、 やっぱ 海外市場で 稼げる コンテンツが 大事だよね、 そのためには やっぱり 労働生産性を 高める 工夫が 必要だよね、 って 流れになってるね。 だけど、 生産性って 言葉だけ 取り出して、 ジェンダー差別の 道具に すり替える 杉田水脈みたいな クソが 国会議員やってる ようじゃ、 無理かもね。

アイデンティティー

最近、 やっぱ 武蔵で 良かった、 と 思う。 頭がよく、 ときに 厳しく、 基本 優しく、 話も 面白い。 決して 飽きない 人たち。 思い出を 共有してるってのを 抜きにしても、 実に 気持ちのいい 人たちだ。 俺自身も 最近 ようやく、 武蔵の 一員なんだな、 と 思えるように なってきた。

「金融と社会」質問と回答その1 (再掲)

問題提起:日本には巨額の対外純資産があるからかなり巨額の政府債務があっても大丈夫、という話は、額面通り受け取るべきではないのではないか?やはり財政収支と経常収支の双子の赤字」は避けるべきではないのか?つまり、フローで見る必要があるのではないか?ストックで見るならば、増税を前提とするのが筋だろう。  内閣府のペーパー(https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html) によると、フローで見れば、経常収支の黒字が、政府部門の赤字をファイナンスしていることになりますが、経常収支の黒字が、対外純資産としてストック面で蓄積されていると考えられます。 この場合、もちろん、経常収支が赤字に基調的に転落すれば、フローで見た場合、政府部門の赤字をファイナンスするために、海外資本を呼び込む必要性に迫られ、それは今よりも高金利であることが要請されるので危険だ、という意見もあります。 ここで、フローで見れば確かにそうですが、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たすことはないのでしょうか? 仮に、そのような事態になった場合、具体的にどのようなスキームで、対外純資産を政府部門の赤字をファイナンスの用に供するのでしょうか? また、経常収支黒字の源泉である、企業部門の第一次所得収支についてですが、最近は、企業も資金を更なる海外投資、M&Aに投資するべく、資金を円ではなく、ドルで保有しているとされますが、それは、第一次所得収支に、円換算して勘定されているのでしょうか? (https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX)  ご質問ありがとうございます。まず印刷教材のこの部分はすべてフローについての議論です。内閣府のペーパーにもあるように、マクロ経済学などで登場するISバランス  (S-I) + (T-G) = NX 民間貯蓄超過   政府黒字  国際収支黒字(海外赤字) を念頭に、民間貯蓄超過の大幅プラスが、政府赤字のマイナスを相殺してもなお左辺がプラス、したがって右辺もプラス(海外マイナス)、という状態です。 近年コロナで政府赤字が大幅に増加しましたが、家計貯蓄も大幅増加して、2020、21年とも左辺はプラスを維持しています。  ご質問のなかばにあるストックの話は、たとえば銀行が保有していた米国債を売った資金で、新規に発行された日本国債を購入することをイメージされているのでしょうか。それが得だと銀行が判断すればそうするでしょうが、強制することはできず自動的にそうなるわけでもありません。  最後の第一次所得収支については、書かれているとおり、たとえば利子収入はドルで得られドルのまま持たれたり再投資されたりしますが、円換算して所得収支に繰り入れられています。

経常収支 (再掲)

https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX

2023年4月7日金曜日

漱石と資本主義 (再掲)

確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

近代日本の炭坑夫と国策@茨城大学 レポート (再掲)

茨城大学強いわ。ここんとこ毎学期茨城大学行ってるけど、今回もめちゃくちゃ面白かった。面白いという言葉では言い表せない。アタマをバットで殴られるくらいの衝撃を感じた。 石炭産業を語らずに近代日本の経済発展は語れないと言って間違いない。 にもかかわらず、おおっぴらに語られることはほとんどない。 あたかも繊維産業が花形で日本経済の繁栄をほとんどすべて牽引したかのように語られている。 裏を返せば、それほどまでに、石炭産業を語るということは、現在に至るまで日本の暗部を映し出すことになるのかも知れない。 (以下レポート) 今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。   ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。   日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。   しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考えると、グローバリゼーションに対応しながら国民的自己決定を達成するには、国をまさに富国強兵のスローガンの下で一致団結させる必要があり、そこでは多様な民意というものを反映することは困難であり、したがって表現の自由が抑圧され、民主主義は達成できない、と考えられます。   戦前の日本に照らして考えると、前近代の村社会が国家組織の末端に組み入れられ、その中で炭鉱夫が生きるための最後の手段として究極のブラック職業として見なされていたこと、それでも西欧へ肩を並べなければならない、という官民一体の国家的意識のなかで、脅迫的に近代化へ歩みを進めざるを得なかった状況では、社会の底辺としての炭鉱夫には、およそ政治参加、すなわち民主主義の恩恵に浴することは出来なかった。それはとりもなおさず炭鉱業というものが本来的に暴力的であり、同時に「国策」としての帝国主義的性格を多分に内包していたことと平仄を合わせています。   中国のウイグル人の抑圧と戦前日本の坑夫を重ねて考えると、そのような構図が透けて見えてきます。

「日本金融史」(有斐閣選書 玉置紀夫) 九州大学の鷲崎俊太郎先生にご教示いただきました。

幕末から 明治にかけて、 多くの 混乱を 経て、 生糸や 茶の 輸出の 決済手段を 通じて、 それまで 存在した 多様な 種類の 通貨を 一本化した ようです。 貿易実務の 勉強を していた時期が あるので、 なんとなく わかる気がしますが、 ややこしいですね。 以下引用(p.48より) すなわち 生糸や茶を 輸出するものはまず、 船荷証券を つけた 取立為替手形を 正金に 呈示する。 正金は、 政府より 借り受ける はずの 紙幣をもって、 これを 買い取る、 つまり 割り引く。 ついで 正金は、 手形と 船荷証券を その 仕向地に 配備されるはずの 正金出張員へ 送付する。 出張員は、 手形と証券を 受領次第、 これを 名宛人に 呈示して その 債務を確認させ、 期日に 生糸や茶の 代価を ポンド、ドルの 外貨や正価で 回収する。 直ちに この 代価は 正金横浜本店へ 電送される。 そして 最後に 正金が、 この 正価または 外貨を、 借り受けた 紙幣の 代価 として 政府に 返済して、 前田(正名) の 推奨する 紙幣を もって 正価を 得る仕組みは 完結する のであった。

インタゲと増税はワンセット (再掲)

質問:中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、とありますが、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか?あるいは、新古典派経済学では「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか? 回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。すなわち、「政策割当の原理」です。したがって、「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要となります。  本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。本来の金融政策の目標(物価の安定)と異なるため黒田日銀総裁は「異次元の金融政策」という言葉を使ったのです。このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。このシナリオどおりに進めば、もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。ただ、経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります。したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため「財政再建」が先送りになってしまいます。それゆえに、「財政再建」の政策目標の一環として消費税の引上げが考えられています。このように、「政策割当の原理」は成立しています。

日韓関係

自分も すべての ニュース番組 見てる わけじゃないけどさ、 母親が 老人特有の 軽い テレビ依存 で ずっと 点けてるけど、 特に 昼間の いわゆる ワイドショー枠って、 ほんとに アホだな、 と 思うわ。 天下の 日経新聞でも 扱い 小さいけど、 いま 韓国の 尹大統領が、 政治リスク 取って 日本に 歩み寄ろうと してて、 日本が それに 対して 誠意ある 外交的対応を できるかどうかが 世界中から 注目 されてるのに、 まったく 報道しない。 毎日 大谷。 WBC。 この国の テレビ報道って どうなってんの?

この10年は結局なんだったんだ? (再掲)

内閣府によると、 現状の物価高は 資源高や円安による コスト増の 影響が大半。 国内需要の回復や 賃金上昇が 伴わなければ 再び デフレに陥る リスクがある、 とのこと。

無聊を託つ (再掲)

暇だな・・・ 暇なら働きゃいいじゃん、 母親も、 何も言わず 一人で郵便局行けるほどに回復したし。 しかし、 俺が暇だから働く、 となれば、 母親はどうなる? 俺より暇じゃないのか? 暇だってそれなりに苦痛であることを 理由に、働こうかな、なんて言ってる息子が、 母親を放置していいんだろうか。 ん?でも俺って、実はそれなりに体力ついてきたんじゃないか? 連日エキサイトしてるのに、それなりに朝早く起きられるし。 睡眠の質もいいし。 ところで、最近また世間のマインドがデフレの方向に向かってる気がする。 テレビとかでも、いかに食事などを安く済ませるか、という内容が散見される。 母親も、飯尾和樹がワンコインで賢く食費を浮かせてて、偉いと言っている。 円安と資源価格高騰による コストプッシュ・インフレの影響と、 それでも企業の価格転嫁が進まずで、 結局、名目賃金が上がったとしても、 実質賃金が目減りしているから、 当然と言えば当然なんだけど、 そもそも 期待インフレ率を上げて、実質金利を下げることにより、消費を喚起することが インタゲの主眼目のはずだったのに、 これじゃ本末転倒じゃないか。 ただのスタグフレーション。 黒田日銀は、日本経済を永久凍結させる気か? 見方によっては、富の分配の偏りは、消費の低迷によって 国全体を貧しくする、ということも言えるだろう。 そもそも、少子高齢化が進めば、 老人の支出が減るのは当たり前だし、 働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、 消費を控えるのは当然だろう。 それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。 政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。

キリスト教哲学の歴史@八戸サテライト レポート (再掲)

アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。

魔の山

さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり)

坂口安吾 三十歳

勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。  たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。  人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。  けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。

2023年4月6日木曜日

耐え難きを耐え、忍び難きを忍び

メンタルクリニック 行って 話を 聞いてもらってきた。 医者に 「不条理」 と 言われた。 俺だって 抱えきれないものを 抱えて 生きてきたんだよ。 今だから 言えるけどね。 大変な さなかじゃ、 言ったところで 気休めにもならない。 医者には 軽く 10年以上 診てもらってるけど、 おじさんが 亡くなり、 父親が 亡くなり、 ねーちゃんも 嫁いで 子どもも出来て、 それで 初めて 言える ってこともある。 ようやく 伝わった。 https://www.youtube.com/watch?v=VD4PYP7WUCA

頭が下がるわ・・・

TEX加藤さんの本は ハズレがないね。 初っ端から もう 情報が濃い。 基礎的な 単語から、 あなた 本当に 分かってますか? と 試される。 英語嫌いな人 だったら、 発狂するね。 これだけの クオリティー かつ ボリューム で 1000円(税抜き)切られたら、 他の 教材は 太刀打ちできないね。 大学受験用の 英語学習教材は、 怠慢だよ。 桐原書店とかでも、 ムダに 高いだけじゃなくて、 文法的に 間違ってたり するからね。 ちょっとは TOEIC本の 世界を 見習え。 ・・・TOEICっていうか、 英語って 奥が深いわ。 こりゃ ちょっと 生半可な 気持ちで やっちゃ イカンな。 本腰入れて やらないと。 ・・・こういう 毎日 ちびちびと、 長く 楽しめる 本は ほんと ありがたいね。 生活に ハリが出る。 酒は ほとんど 呑まないけど、 ウイスキー水割りを 飲んでるような 感覚。

日本の蹉跌

結局 日本が 失敗したのは、 完全な個人の競争 と 中央管理との間 の 「中庸」 を 追い求めたせいかも ですね。 金融も イールドカーブ・コントロールのように、 完全に 日銀の 管理化に ありますし、 社会保障も そういう面 ありそうですよね。 中途半端な 福祉国家体制 というか。 そのくせ 新自由主義を 奉じているような 心性が 瀰漫している。 いわゆる 自己責任論。 そのくせ 下手くそな 漫画しか 描けないやつ の為に 大学に 漫画学科 作ったり、 漫画市場まで ご丁寧に 作ったりするんだけど、 全然 国際競争力に 繋がってない。 漫画でも 韓国に 負けてる。

「隷従への道」 フリードリヒ・ハイエク 日経BP p.190〜191

経済活動を 完全に 中央主導にする という 発想には、 やはり たじろぐ人が多い。 単に それが 途方もなく 困難だから ではなく、 たった一つの 中央当局なるものが 万事を 指示する ことに恐怖を 覚えるからだ。 それでも なお 私たちが そこへ向かって 急速に進んでいるのは、 完全な個人の競争 と 中央管理との間 に 「中庸」 が あるだろうと、 大半の人が いまだに 信じている せいである。 めざす目標は 自由競争による 極端な分権化でもなければ、 単一の計画に基づく 完全な中央集権化でもなく、 両者の いいとこどりをした 体制だと 考えるのは、 合理的な 人々にとって 実に魅力的であり、 さも実現可能にも見える。 だが このような問題に関しては、 常識は当てにならない。

国家をつねにこの世の地獄としてきたのは、それを天国にしようとする人間の努力にほかならない。 フリードリヒ・ヘルダーリン

もし 政治の世界が 完全に 人工知能に 取って代わられれば、 果たして 理想的な 政治が 行われるのだろうか? 仮に 人工知能が 需要と供給を 完全に 予測し尽くす ことが 出来たとして、 ならば 完璧な 計画経済を 今こそ 実現させられる という のだろうか? それとも、 もっと 自由放任な 社会を 作り出すのだろうか? 人工知能が 過去のデータから 学ぶために、 前時代的な 偏見、 例えば ジェンダーなどに 関して 女性に 不利な 過去を学習してしまう 危険性を スプツニ子!氏 などは 指摘しているが、 人工知能が 学習するという その 具体的な 範囲は どこまでなのだろうか? 完璧な 計画経済を 実現しようとするなら、 それは ディストピアかも 知れない。 確かに セブンイレブンに 行けば なんでも売っている。 あるいは それだけ 魅力的な商品が 揃っている。 あるいは CMの力によって そう 思い込まされている のかも知れない。 いずれにせよ、 こちらの 欲しがる、 欲しがりそうなものが 既に 店頭に揃っている、 ということは、 ちょっと 怖い ことなのかも知れない。 コンビニに 行けば なんでも 手に入る、 という 現実は、 個人の 孤立化を 深める 危険性が あるのではないか? 物資的な 欲望、 それに 附随する 物語性が 満足のいくまで 充足された 消費者は、 私的領域に 閉じこもり、 もはや 公的な問題、 政治の問題 に関心を 寄せなくなってしまう 危険性はないのか? そこにおいて、 人は どんな 価値観を 持てば良いのだろうか? 人工知能は 価値観を 教えてくれない らしい。 価値観を持たない 人工知能に、 政治を 任せる 危険性は ないのか? 価値観を 持たない 「貧者」は せいぜい、 自分の身の回りに 関して、 自分は 平均以上の 人間だと 思いたい と 常に願いながら、 むしろ 必死で 経済的豊かさを 渇望することに 終始して しまうのではないだろうか?

2023年4月5日水曜日

いまこそハイエクに学べ

分かりにくいハイエクの 「集産主義」だが、 日本の現状が まさに それに 当てはまると 思われる。 「結局のところ、 計画が 必要だという 合意があっても、 個別の計画に ついて 合意を形成する 民主的な 手続きが うまく機能しない となれば、 政府なり誰か 一人の人間なりに、 その責任において 実行する 権限を与えざるを得ない。 そして 計画を実行に移すには、 全体を指揮する 責任者は 民主的な 手続きの 束縛を 免れる必要が あるという 考えが、 次第に 受けれられる ように なる。」 p.61  「現在支配的な 思想では、 自由社会の自生的な力を 最大限に 活用するには どうしたらよいか、 ということは もはや 問題にされていない。 それどころか、 予想外の結果を 生み出しがちな 力を 切り捨てようと している。 そして、 人格を 持たない 匿名の市場という メカニズムに 代えて、 意図的に選んだ 目的に向けて 社会の あらゆる 力を 『意識的に』 集約管理する システムの 導入が 試みられている。」 p.150

ダイソン

吸い込みが 悪くなったから、 ダイソンの コールセンターに 電話してみた。 フィルター と 吸込口の 掃除するように アドバイスされたので、 フィルターを 取り外してみたら、 すげえ ホコリが 着いてて、 こりゃあ 駄目だな。 吸込口も、 いろいろ ホコリとか くっつきまくってて、 おおまかに 取り除いた。 フィルターは 水洗いして 24時間以上 乾燥させなければ ならない らしい。 けど、 これで 復活してくれるなら、 ムダな 出費を しなくて済む。 ・・・ダイソンが 復活した。 良かった。 家電も セルフメンテナンスする 時代だね。

眠くなる

オンライン授業、 スピード感が ねーなー。 細切れにして 受講者の 利便性を 高めた つもりなんだろうけど、 正直 眠くなる。 教材の 作り込み具合も、 普通の 放送授業ほど 手が込んでないし、 しかも ひとつひとつ 視聴して チェックが つかないと レポートを 提出する ところまで たどり着かない。 要するに、 まどろっこしい。 これは コケたな。 ・・・ オンライン授業が 3つコケた おかげで 今学期は 暇になってしまった。 以前だったら、 暇だと、 罪悪感というか、 焦燥感に 駆られた ものなんだが、 今は 暇なら 暇でも いいや、 と 思えるように なってきた。 それはそれで いいだろう。 なんだかんだ やることは 見つけられる。

曙光

心理学の 授業で 教わったけど、 人間は うまく行ってる 時は あんまり 論理的に 考えられず、 逆に シンドイ 時は 論理的に 考えられる らしい。 自分が いま なんとなく ノリで 考えてる ってことは、 うまく行ってる って ことなんだろう。 逆に、 今まで 特に 就労に関して、 あーじゃねー こーじゃねー と 考えた挙げ句 諦めてたのは、 それだけ 組織で 痛い目に遭って きた、 ということなのだろう。 慶応SFCで 負った トラウマは そう 簡単には 消えない。 て、 まあ 冷静に 振り返って わかるだけでも、 ようやく 長く暗い トンネルから 抜け出せたって ことなんだろうけど。 で、 今から また 暗黒時代に 突入する リスクを かけて 就職したいかって 言ったら、 ちょっと 無理だね。 特に 市役所みたいな 組織そのものな ところには。 https://www.google.com/search?q=to+live+is+to+die&rlz=1CAJFMC_enJP1026&oq=to+live+is+&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUqBwgAEAAYgAQyBwgAEAAYgAQyBwgBEAAYgAQyBwgCEAAYgAQyBggDEEUYOTIHCAQQABiABDIHCAUQABiABDIHCAYQABiABDIHCAcQABiABDIGCAgQABgeMgYICRAAGB7SAQk1NDA2ajBqMTWoAgCwAgA&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&vld=cid:cc055fe0,vid:YPMCYH54tcc

ぶっちゃけた話

手塚治虫の 漫画って、 非モテの ルサンチマンが 極致に 達した シロモノな 気がする。 あと 数時間で オンライン授業が 始まる。 楽しみ。 https://www.youtube.com/watch?v=1GthsekibpY

2023年4月4日火曜日

働くってむずい

勉強してるほうが、 なんか 義務を 果たしてる ような 錯覚を 感じるから、 楽だね。 どうにも 働けない 自分に とっては。 太り過ぎ & とにかく 悪夢を見る ので サクサク 動けない。 働き始めるには そろそろ タイムリミットな 気がするんだけど。 ・・・でも、 勉強も 働くも 両立させたい ってのは、 ちょっと 無理が ある。 それはともかく、 昨日あたりから 妙に ユーフォリックな 気分になっちゃって、 なんでだか よくわかんないんだけど、 調子はいい。

2023年4月3日月曜日

オンライン授業

明後日から 英語と、 坂井素思先生の 椅子クラフトの 授業と、 山岡龍一先生の 政治哲学の 授業だけど、 レポートネタ は ちゃんと 仕込んであるから、 単位なんか どーでもいいから 思いっきり ぶつかっていきまーす!

ジャム

リンゴが 余ってたので ヘルパーさんに 三温糖で 簡単な ジャム を 作って もらったんだけど、 一口 食べた だけなのに、 便通が 良くなって、 なんか ハッピーな 気分に なってきた。 やっぱ 普段 気づかない うちに 糖分も 人工的なもの を 摂取してんだろうね。 たまには ちゃんとした 甘い物を 摂るのも いいんだろう。

スッキリ

ハイエクの 指摘を受けて、 腑に落ちました。 岸田さんなら どうにか してくれるんじゃないか、 なんて かすかに 思ってたけど、 アベノミクスを 継承するにせよ しないにせよ、 通貨安政策を 続ける限り、 経済が オカシなことに なるのは ある意味 当たり前なんだな、と。 ハイエクの、 中央銀行から 通貨発行の 独占権を奪う、 という 代替案が 現実的でないと しても、 大局的に見て 金融危機は 繰り返す、 ということは わかりました。 https://www.youtube.com/watch?v=qUqSXeRjoX0

旬報社 (再掲)

もし、 日銀が 目的としている 2% の 物価上昇が 実現した場合、 国債の発行金利が 2% 以上になるか、 利回りが 最低でも 2% 以上に なるまで市場価格が 下がります。 なぜなら、 実質金利 (名目利子率-期待インフレ率) がマイナスの (つまり保有していると損をする) 金融商品を買う 投資家は いないからです。 国債 (10年物) の 利回りは 0.1% 程度 (2018年11月現在) ですが、 それが 2.1% に 上昇した場合、 何が起こるでしょうか。 政府の 国債発行コスト が 跳ね上がるのは もちろんですが、 より重要なことは、 国債価格が暴落し、 国債を 大量に保有している 銀行に 莫大な 評価損が 出ることです。 経済の論点 旬報社 72ページより

日本の金融・財政の現状

https://www.jri.co.jp/MediaLibrary/file/report/other/pdf/14051.pdf

貨幣発行自由化論より 抜書

金融政策は 不況を 解決するどころか 引き起こしている 可能性が 高いのであり、 このことをよく 理解しなければならない。 なぜ 不況を 引き起こすのかと 言えば、 金融緩和を 求める声に 屈してしまうほうが 容易だからである。 だが それは生産を まちがった 方向に ねじ曲げ、 後日必ず 反動が 起きることになる。 経済活動が 何らかの分野に 偏ったとしても、 金融政策は 経済自体による 自己修復を 助けるだけでよい。 市場経済が 過去に 不安定化したのは、 市場の メカニズム の 最も重要な 自動調節装置 である 貨幣が、 市場によって 調節されていないことの 当然の 結果なのである。

2023年4月2日日曜日

貨幣発行自由化論  改訂版――競争通貨の理論と実行に関する分析 Kindle版

最初の 数%しか 読んでませんが、 まあ 日銀や政府には 耳の痛い話だね。 この まさに 正鵠を射た 洞察が、 何十年も前に ハイエクによって なされていた、 というのは 指摘するに値する。 いま 政府・日銀は 手に負えないほどの 政策課題に 直面しているが、 もしかしたら そのほぼ すべてが、 円の価値を 恣意的に 保護しようと している 帰結なのかも 知れない。 ・・・自分自身、 ハイエクが 言ってることが 劇薬すぎて、 少しずつしか 読み進められない。 ただ、 それくらい 刺激的。 ・・・通貨の価値 を 守るということが 政府にとって 最優先の課題となり、 それが 結果的に 想像を絶する ムダを 産んでいる、という ハイエクの指摘は、 それ(通貨)を 得るために 汲々としている (自分自身も含めて) 人々を 見るにつけ、 なにやら 壮大な 喜劇を 観ているような 気すら してくる。 ・・・なんかもう 今の 日本政府・日銀に 向かって 書いたんじゃないか? と 言いたくなる。 ・・・確かに、 ハイエクが 言うように 市中銀行に 独自通貨を発行する 権利を 認めれば、 銀行同士の 競争も激しくなるし、 場合によっては 円よりも 魅力的な 通貨を 生み出すことで、 日銀、政府の 政策にも より 魅力的な 円の価値を 維持するような 競争を 生み出すのではないか、 という 気はする。 そうすれば、 裁量者の 独断で 金融機関を 強引に 統廃合するような 結末に ならなかったのではないか? まあ、 あの当時 そんなことを 考える人は いなかっただろうが。 ・・・確かに ハイエクの提案する 代替案が 非現実的だとしても、 国家が 通貨の価値を 恣意的に 保護することが 壮大な ムダ、歪みを 生み出す、という 指摘は 正しいと 思われる。 ・・・人工知能によって 最適な価格付けが 瞬時に行われるのであれば、 国内に 多様な 通貨が流通していても、 実は それほど 混乱は起きないという 空想をすることは 可能だ。 むしろ 円の価値を 政府・日銀が 無理やり 保護することのほうが、 気づかない間に 甚大な 歪みを 経済に与えていることは 注意するべきだ。 https://jp.reuters.com/article/markets-bitcoin-breakingviews-idJPKBN1F40GJ  https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E7%B5%8CBP%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E8%B2%A8%E5%B9%A3%E7%99%BA%E8%A1%8C%E8%87%AA%E7%94%B1%E5%8C%96%E8%AB%96-%E6%94%B9%E8%A8%82%E7%89%88%E2%80%95%E2%80%95%E7%AB%B6%E4%BA%89%E9%80%9A%E8%B2%A8%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96%E3%81%A8%E5%AE%9F%E8%A1%8C%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E5%88%86%E6%9E%90-%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%AF-Friedrich/dp/4822288846  https://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/kobayashi/16.html

あてはまりにくい「貨幣数量説」 (日経新聞「やさしい経済学」〘年月日不明〙より 抜書き)大阪大学 敦賀貴之教授 (再掲)

経済活動の量が変わらなければ、 貨幣量を増加させれば 物価だけが増えると予測できます。 つまり、経済に流通する貨幣量を 機械的に増やすと、 増えた貨幣はそのまま 経済に流通し、 経済取引の総額が増えます。 しかし、 経済にお金が回っても 需要が高まるだけで、 供給は増えず、 貨幣量と同じスピードで 物価だけが上昇します。 このように、 貨幣の数量で物価が 決まるという考え方が 貨幣数量説です。 日銀は20年近くにわたり、 貨幣量を大幅に増やしましたが、 物価の上昇は期待ほどではありません。 多くの経済学者は、 短期的には 貨幣量の変化は生産量の変化につながると考えます。 さらに データ上は、 流通速度は趨勢的に 低下傾向を示し、 日本ではこの30年で 流通速度が半分に低下しました。 貨幣量が増えれば 物価は上がるという 単純な理屈は 当てはまりにくいのです。

貨幣数量説 (再掲)

完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は古典派経済学の発想なので、完全雇用は常に達成されていると想定されているので、物価は貨幣量と貨幣の流通速度で決まる。 従って、貨幣量を増加させれば、物価は上がる。 「貨幣の所得流通速度が一定不変で,かつ伸縮的な価格メカニズムの作用により実質産出量(実質国民所得)の水準が長期の均衡値に一致するならば,貨幣数量の変化は国民所得の大きさや構成にはなんら影響を与えず,ただ物価水準を比例的に変化させると主張する説。」有斐閣経済辞典第4版

日経新聞1面より

インフレ率や GDPギャップ などから 適正な 政策金利水準を 導く 「テイラー・ルール」が 示唆する 水準は7・8%だ。 野村の 小清水直和氏は 「経済全体では 実質的に 緩和的な 金融環境が 続いているような 状態で、 現状の 金利水準では 景気を 抑える 効果が 限られる」 と 指摘する。

整いました!

4月になって、 気が抜けて 丸1日半 爆睡して ようやく 眠気が 取れました。 春休みだってのに かなり 頑張って 勉強しとった からな。 とりあえず 水曜日10時 から オンライン授業が 始まるけど、 それまでは 徐行運転。 ちょうどいい。

2023年4月1日土曜日

4月1日

相変わらず 昼夜逆転生活。 「人間にとって貧困とは何か」の 最終回を 視聴しながら、 4月になった 途端 ストリーミングが 終了するのかと 思ったけど、 そのまま 流れ続けていたので、 少し驚いたけど、 中断して 科目一覧を 見たら、 もう 消滅してましたね。 しかし、 今期新設科目の 放映は まだ スタートしていない ようです。 おそらく 朝になれば 始まるのでしょう。 いや、 でも 「人間にとって貧困とは何か」の 面白かった回は すべて 2回ずつ 視聴できたので、 大満足。 貴重な講義を ありがとう ございました。

妄想卒論その7 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」 を 合言葉に 米国で 反格差のデモが広がったのは 2011年。 怒りが新興国に伝播し、 米国では 富の集中がさらに進んだ。 米国の 所得10%の人々が得た 所得は 21年に全体の46%に達した。 40年で11ポイント高まり、 ...