2023年3月31日金曜日
テイラー・ルール
テイラー(J.B. Tailor)
によって提唱された
金融政策運営のための
ルールで、
次のような
簡単な数式
(政策反応関数)
によって示される。
r=απ+βy
ただし、
rは
政策手段
(操作変数)
である名目短期金利から
期待物価上昇率
(インフレ率)
を
差し引いた
実質短期金利、
また
π、y
は
最終目標で
それぞれ
物価上昇率と
実質産出量の
目標値からの
乖離を表す。
この式から推定された
r
の動きと
実質のそれ
(実現値)
とがはぼ一致
したところから、
多くの
注目を
浴びるようになった。
中央銀行による
こうしたルールの
採用によって、
自由裁量的政策や
純粋・インフレーション・ターゲティング
(インフレ率目標政策)
のもつ欠点
(前者について
インフレ・バイアスの発生、
後者について
y
の大幅変動)
が
克服されると
主張されている。
有斐閣経済辞典第4版
https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/term/detail_1387.html
金融政策とルール
「平成金融史」を
読んで
思ったのは、
日本の
金融監督行政や
政治家に
対して、
国民が
信頼を
寄せている
というわけでもなく、
また
官僚機構にも
政治家にも
信頼に応えるだけの
能力も実績もない
場合、
ハイエク流の
自生的秩序の
考え方に立てば、
一握りの
裁量者に政策決定を
委ねるよりも、
何かしら
一定のルールを
設けて
それを
厳守する、
という
方式の
ほうが
いいのではないか?
と
思った。
そうでないと、
無駄な
犯人捜しを
するだけで、
同じことを
繰り返すだけだと
思う。
https://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/kobayashi/16.html
平成金融史 続
読みかけていた
新書、
かなりの分量でしたが、
最後まで
読みました。
大人の責任。
現在の状況だけみて
あーだこーだ
言えませんからね。
内容を
完全に理解したとは
言いませんが。
ただ、
筆者も
国民の
統治機構に寄せる
信頼が
カギになる、
と
述べており、
金融と信用、
という
観点では
自分自身もそんなに
トンチンカンな
ことを
言っているとは
思いませんでした。
・・・確かに
日本は
バブル期の
過剰な融資と、
甘い評価の
担保で
財務体質が
脆弱な
金融機関が
増えていたのは
事実だとは
思うが、
ちょっとでも
ヤバそうなところは
合理化せよ、
という
掛け声の下、
財務基盤の弱いと
見做された
金融機関は
容赦なく
整理・統廃合され過ぎて
しまった観がある。
結局、
大きな金融機関だけが
生き残り、
中小の金融機関が
潰され、
金融機関の
多様性が
喪われてしまった
ように
思われる。
結局その後、
マイナス金利の導入により、
ただでさえ
地方の人口減で
弱っている
地銀をイジメ、
地域の金融機関の
体力を更に
奪う結果になった
ことを
考えれば、
「勝ち組」
「負け組」の
大号令のもとに
行われた
金融再編制は、
日本の
金融システムを、
末端から
蚕食する
結果に終わったのではないか。
https://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/kobayashi/16.html
2023年3月30日木曜日
おぼっちゃまくん
東北地方とか
いわゆる
裏日本と
呼ばれる
地域に生まれた
人たちには、
自分みたいに
関東で
生まれ育って、
父親が
バブルの恩恵を
モロに享受したような
人間は
ほとんど
特権階級に
見えるんだろうけど、
そういう
特権階級の
ええしの
ボンボンが、
プレッシャーに負けて
精神病院で
隔離されてるってのも、
悲劇の一類型としては
ありがちなのかも知れないが、
なんとか
そんな
ステレオタイプからは
逃れられた。
俺の平沼
西武ライオンズの
平沼翔太
開幕1軍だ!
明日
開幕戦。
・・・よく見たら
源田と呉念庭がいない。
源田はわかるが。
2人が戻ってきたら、
弾かれちゃうかなー?
そろそろ
レギュラー獲ろうよ!
https://baseballking.jp/ns/363903
戦後日本教育史
せっかく
案件を紹介してくれたのに
断ってしまった
申し訳なさもありつつ、
今日と明日
時間があるので、
とりあえず
第3回まで
視聴。
今期
科目登録は
しなかったものの、
内容は
非常に充実していて、
さすがに
心理と教育
という
コース名の通り、
心理学のみならず
教育学の
授業も
充実している。
教育史とは
銘打ってあるが、
決して
狭い範囲ではなく、
戦後日本史と
いっても
過言ではないほど、
戦後の日本社会を
大づかみにするような
野心的で
スケールの大きな
内容です。
第4回
視聴。
なんか凄いこと
言い始めたな。
戦後日本の教育
という
難しい話に
なってきた。
・・・爆睡してから
第5回
視聴。
いい身分だこと。
戦後の教育制度改革や
道徳教育の
扱いを巡る
こまごまとした
話もあるけど、
そういう
狭い意味での
教育にとらわれず、
戦後日本社会の
空気感が
伝わって来ます。
第6回
視聴。
現在の
教職制度について
割と
こまごまとした
話でした。
第7回
視聴。
おいおい、
ぶったまげたぞ。
教育史を軸としながらも、
戦後日本の
政治・経済・社会への
目配りが
しっかりと利いていて、
戦後日本史として
十分通用する内容。
もちろん、
得るところ大なり。
握り飯くって、
タマキン洗って、
第8回
視聴。
いやあ、勉強になるなあ。
素晴らしい!
「人間にとって貧困とは何か」と
併せて拝聴すると、
戦後日本社会の
実相が
見えてくる。
1日で
よく聴いたな。
日経新聞 2022/11/4 5面より (再掲)
ブルーカラーの労働者は、朝から晩まで絶えず監視されることに慣れている。 無駄のない効率的な「リーン生産方式」を導入する工場の多くは、労働者の作業ペースをリアルタイムで監視するため生産性を測るスクリーンを作業現場などに設置している。 レストランや小売りチェーンなどサービス業に従事する低賃金の人々も同様だ。 これに対し、ホワイトカラー従業員はもっと人間的な方法で評価されてきた。 だが、今では監視資本主義によって彼らの労働も分単位で監視されるようになった。 しかし、テイラーイズムのいわばデジタル版は、将来への道筋を示すものではない。 特にテクノロジーではできない仕事の多くは、創造的思考や人間関係、チームワーク、ソフトスキルが決め手となる。 実際、職場でたまたま生まれるアイデアの交換や休憩場所での立ち話を通じた信頼関係の構築などは、まさしく管理ソフトでは追跡できない活動だ。
メモ
心理学で
学んだけど、
人間は
リラックスしてる
ときのほうが、
生産的な
アイデアが
生まれやすいらしい。
トヨタの
ものづくり
の
強みの一つとして
QCサークル、
つまり
空いた時間で
労働者たちが
こぞって
意見を出し合う、
みたいな場を
設けてるらしいけど、
それは
理に適ったものなんだね。
もっとも、
形骸化した
ただの
時間つぶしになれば
不毛だけど。
大学のサークルの
飲み会も、
本来
どうすればもっと
サッカーがうまくなるか、
とか
もっと
サークル全体が
良くなるか、
みたいな
ノリで
飲めば、
生産的なんだろうけど、
ほんとに
ただ
騒いでるだけ。
あれじゃ
金と時間の無駄。
コストパフォーマンスだの
タイムパフォーマンスだの
言う割には
そんな
ことに
資源使ってるようじゃ、
組織として
成長しない。
浄土真宗も、
開祖の
親鸞の頃は
非常にマイナーな
一派だったが、
蓮如という
布教の天才が
現れて、
信徒に
講、つまりサークルを
作ることを
奨励し、
そこで
議論させることで、
爆発的に
信徒を
増やしたとか
いう話もあるよね。
2023年3月29日水曜日
父親
最近
けっこう
夢に出てくる。
パワハラな一面も
あったけど、
少なくとも
ここだけは
偉いな、
と
思うのが、
高校受験で
慶応
受かってたのに
武蔵選んで、
結局2浪して
慶応入った
(のに中退した)
のに、
武蔵じゃなくて
慶応に
入れておけば
よかった、
みたいな
ことは
一度も
言わなかったね。
やっぱり、
人望の
ある人
だったんだろう。
ごく
小規模で
済ませるはずだった
葬儀も、
気づいたら
社葬レベルの
規模に
なったらしい。
自分は
母親の見守りで、
自宅で
待機してて、
ぜんぶ
姉に任せた。
そういうの得意だから。
そんだけ
デカい葬式なのに
長男が
出席すら
しないって
逆に
疑われるんじゃないか?
と
思ったけど。
俺はオオタニじゃない。
マネーボールっていう
ブラッド・ピット主演の
映画を思い出しました。
オークランド・アスレチックスっていう
貧乏メジャー球団が、
過小評価されてる
選手を
集めて、
ワールドシリーズまで
進出したっていう
実話。
結局
ワールドシリーズで負けるところを
ラジオで聞きながら、
負けた途端に
ブラッド・ピットが
ラジオを
ぶん投げる
シーンから
スタートするんだけど、
あそこを
映像ではなく
ラジオで
聞いてるってのが
いいね。
アメリカ人だからって、
単純に
勝つことだけ考えてるほど
浅くない。
ブラッド・ピットが
なぜ
カッコいいのかも
納得した。
ビリー・ビーンっていう
ブラッド・ピットが
演じる
たぶん実在の人物が
主役なんだけど、
野球推薦で
スタンフォード大学か
どっかに入れたのに、
スカウトには
君なら
メジャーで
活躍できる、
と
言われて
メジャーリーガーに
なったものの、
鳴かず飛ばず。
そういう
悔しい過去を
持ってる
人間が、
過小評価されてる
プレーヤーを
集めて
ワールドシリーズまで
引っ張る。
それもまた
人生。
あ〜あ〜
川の流れのよ〜に〜
弱・・・
食って
寝てる
だけの
生活なのに、
体調悪い。
何かこれは
自分には
無理なことを
やろうと
しているな。
意味深。。。
俺は
そこまでして
働きたくないのか!?
広瀬康一の
重力攻撃を受けて
いるみたいに、
体が重い。
ほんとゴメン。
今回の案件は
キャンセルさせて
いただきました。
経験上、
無理に突き進むと
大変なことになるので。
通信課題
とりあえず
「社会・集団・家族心理学」
の
通信課題を
終わらせた。
一見しただけでは
わからない
問いも
あったけど、
教科書を
読めば
容易に
解ける問い
ばかりでした。
2回も通して
視聴してればね。
科目によっては
記述式もあるけど、
択一だし。
ま、
基本的に
通信課題は
よほどの
ことがない限り
通るらしいけどね。
まだ
新学期始まっても
いないのに。
今期は
オンライン授業を
3つも
科目登録しちゃったから、
自分のペースで
全部できるわけじゃない
からね。
もちろん、
講義内容は
シラバスで公開されてるし、
担当されてる
講師の方も
知ってるけど、
なおのこと
予め
レポートを
準備しておかないと、
テンパることになる。
気合入れて
「感情・人格心理学」の
通信課題も
終わらせた。
ちょっと
頑張った。
2023年3月28日火曜日
内弁慶
急に
怖くなってきた。
大げさだけど、
通訳をする
ということに。
一般論として
というより、
自分の知識が
全然ない
分野で、
つまり
理数系の分野で
通訳をする
みたいな
シチュエーションを
想像したら。
そこは
単に
経験不足って
ところも
かなりあるんだけど、
自分と
興味関心が
重なる相手となら
いくらでも
とは
いかなくても
話の辻褄を
合わせられると
思うけど、
そんな
分野ばかりじゃないことのほうが
きっと
多いでしょ。
そういう場合は
お断りするべきなのか?
とにかく、
自分が
まったくわからない
分野で
通訳をする、
なんて
絵空事を想像したら、
急に
怖くなってきてしまった。
・・・友達に相談したら、
丁寧に
教えてくれた。
やっぱり、
経験値が違うね。
人生の先輩だわ。
経験は大事。
自分も
こう見えて
完璧主義なところが
あるから、
ちょっとでも
わからん、
てところがあると、
不安になってしまう。
2023年3月27日月曜日
振り返ればヤツがいる
最後に
織田裕二さんが
西村雅彦さんに
刺されるシーンですね。
見てましたよ。
振り返るのが
異常に遅い。
時代の違いを
感じます。
それはともかく、
織田裕二さん、
あの頃から
数えても
かれこれ
30年くらいに
なるでしょうか。
ずっと
一線を走り続けているのは
凄いですね。
正直、
昔はなんでか
わからなかったですが、
今思うのは、
織田裕二さん、
演技上手いよね。
損保会社のCMでの
ドアップの表情の演技も
上手だし、
だいたいどの
番組みても、
といっても
たまたまですが、
ちゃんと
番組に入り込んでますよね。
ただいるだけ、て
ことがない。
アツすぎると
揶揄される
世界陸上にしても、
おそらく
大方の視聴者よりも
遥かに
勉強して臨んでますよね。
あれだけの
熱量を
つねに出し続けられるのは、
正直凄いです。
そりゃあ、
使う側としては
ありがたいし、
観るほうだって、
この人アツいなー、と
思いつつ、
興味なさそうに仏頂面されてたら、
飽きてしまうだろう。
やっぱり、
俳優という
浮き沈みの激しい
世界で
長く活躍できる人ってのは
見えないところで
凄い努力されてるんだろうな、
と
思います。
2周目
4月まで
あと
一週間弱。
「都市から見るヨーロッパ史」
再び
のんびりと
視聴しています。
とても
刺激的。
とりあえず
第3回まで
視聴。
大学受験の世界史
では
すっぽり
抜け落ちているところだけど、
とても
大事。
第5回まで視聴。
通信課題からして
エグいが、
知識を総動員すれば
なんとかなるかも知れない。
単位認定試験も
記述で、
過去問見たけど、
エグい。
・・・熟睡して、
薬を調達してから、
再開。
第6回視聴。
面白い。
第7回視聴。
なんかもう
単位とかいいや。
・・・飽きた。
よし。
これで
新学期を
万全の構えで
迎えられるぜ。
いい春休みだった。
2023年3月26日日曜日
功利主義批判序説その2 (再掲)
「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。
米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。
私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。
19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。
さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。
1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。
そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。
なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93
「エリートに対する人々の違和感の広がり、 すなわちエリートと大衆の『断絶』こそが、 ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。 ポピュリズム政党は、既成政治を既得権にまみれた一部の人々の占有物として描き、 これに『特権』と無縁の市民を対置し、 その声を代表する存在として自らを提示するからである。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
「二十世紀末以降進んできた、産業構造の転換と経済のグローバル化は、 一方では多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの発展を促し、 グローバル都市に大企業や高所得者が集中する結果をもたらした。 他方で経済のサービス化、ソフト化は、規制緩和政策とあいまって 『柔軟な労働力』としてのパートタイム労働や派遣労働などの 不安定雇用を増大させており、低成長時代における 長期失業者の出現とあわせ、 『新しい下層階級』(野田昇吾)を生み出している。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
富が集中するほど他者への信頼が下がり、「フェアネス(公正さ)指数」(日経新聞作成)が低くなる。同時にポピュリズムの場当たり政策に翻弄されやすくなる。
「国際都市ロンドンに集うグローバル・エリートの対極に位置し、 主要政党や労組から『置き去り』にされた人々と、 アメリカの東海岸や西海岸の都市部に本拠を置く 政治経済エリートや有力メディアから、 突き放された人々。 労働党や民主党といった、 労働者保護を重視するはずの政党が グローバル化やヨーロッパ統合の 推進者と化し、 既成政党への失望が広がるなかで、 既存の政治を正面から批判し、 自国優先を打ち出して EUやTPP,NAFTAなど 国際的な枠組みを否定する急進的な主張が、 強く支持されたといえる。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
人々の不満をあおるだけで解を示せないのがポピュリズム。不満のはけ口を外に求めた愚かさはナチスドイツの例を振り返っても明らかだ。
第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。(放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)
グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。
1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より
そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感覚だろうか。
「デモクラシーという品のよいパーティに出現した、 ポピュリズムという泥酔客。 パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。 ましてや手を取って、ディナーへと導こうとはしないだろう。 しかしポピュリズムの出現を通じて、 現代のデモクラシーというパーティは、 その抱える本質的な矛盾をあらわにしたとはいえないだろうか。 そして困ったような表情を浮かべつつも、 内心では泥酔客の重大な指摘に 密かにうなづいている客は、 実は多いのではないか。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
功利主義批判序説その1
功利主義の根底にある条件は、例えばミカンとリンゴの個数のトレードオフ関係のように、効用曲線が原点に向かって凸であることが想定されている。
しかし、その個々人の効用曲線の総和としての、社会全体の効用曲線を推定して政府が政策を決定する、というアイデアは、現代社会の実態にそぐわないのではないか。
人々の(少なくとも経済的な)需要、あるいは好みと言い換えれば、効用は、極めて多様化しており、総体としての効用曲線を想定することの意義は薄れていると思われる。
菅直人元首相が「最小不幸社会」という用語を用いたのは、功利主義的な立場からは正当だろう。
しかし、それは社会から支持を得られたとは言い難い。
例えばスマートフォンで、初期設定の状態ならば、自分に興味のある記事も、逆に全く関心のない記事も、一緒くたに表示される。
しかし、閲覧履歴や、さらに記事への肯定的、あるいは否定的なフィードバックをすることによって、提供される情報は、個々人によって大きく異なってくる。
しかも、個々人は、自分の見ている世界が、自分にパーソナライズドされたものだと気づかずに、あたかもそれが他の人々が見ている世界と共通のものだと錯覚しやすい。
そのような状況にあって、社会全体としてある統一的な嗜好の傾向を導き出す意義は薄れていると言えないだろうか。
しかし、これは必ずしも肯定的な面ばかりとは言えない。
「私の目に浮かぶのは、
数え切れないほど多くの似通って平等な人々が
矮小で俗っぽい快楽を胸いっぱいに思い描き、
これを得ようと休みなく動きまわる光景である。
誰もが自分にひきこもり、他のすべての人々の運命にほとんど関わりをもたない。
彼にとっては
子供たちと特別の友人だけが人類のすべてである。
残りの同胞市民はというと、彼はたしかにその側にいるが、
彼らを見ることはない。
人々と接触しても、その存在を感じない。
自分自身の中だけ、自分のためにのみ存在し、家族はまだあるとしても、祖国はもはやないといってよい。」
「アメリカのデモクラシー」 岩波文庫 アレクシス・ド・トクヴィル 第二巻下2596ページ
人々は、金銭稼得能力の程度によって、自らの肯定感やその逆に否定的な感覚を抱きがちであるが、しかし、世界的な中産階級の縮小に伴い、人々の金銭稼得能力に対する見方も、両面的になっていると思われる。
貨幣文化の出現は伝統的な個人主義が人々の行動のエトスとして機能しえなくなっていることを意味した。「かつて諸個人をとらえ、彼らに人生観の支え、方向、そして統一を与えた忠誠心がまったく消失した。その結果、諸個人は混乱し、当惑している」。デューイはこのように個人が「かつて是認されていた社会的諸価値から切り離されることによって、自己を喪失している」状態を「個性の喪失」と呼び、そこに貨幣文化の深刻な問題を見出した。個性は金儲けの競争において勝ち抜く能力に引きつけられて考えられるようになり、「物質主義、そして拝金主義や享楽主義」の価値体系と行動様式が瀰漫してきた。その結果、個性の本来的なあり方が歪められるようになったのである。 「個性の安定と統合は明確な社会的諸関係や公然と是認された機能遂行によって作り出される」。しかし、貨幣文化は個性の本来的なあり方に含まれるこのような他者との交流や連帯、あるいは社会との繋がりの側面を希薄させる。というのは人々が金儲けのため他人との競争に駆り立てられるからである。その結果彼らは内面的にバラバラの孤立感、そして焦燥感や空虚感に陥る傾向が生じてくる。だが、外面的には、その心理的な不安感の代償を求めるかのように生活様式における画一化、量化、機械化の傾向が顕著になる。利潤獲得をめざす大企業体制による大量生産と大量流通がこれらを刺激し、支えるという客観的条件も存在する。個性の喪失とはこのような二つの側面を併せ持っており、そこには人々の多様な生活がそれぞれに固有の意味や質を持っているとする考え方が後退してゆく傾向が見いだされるのである。かくしてデューイは、「信念の確固たる対象がなく、行動の是認された目標が見失われている時代は歴史上これまでなかったと言えるであろう」と述べて、貨幣文化における意味喪失状況の深刻さを指摘している。(「ジョン・デューイの政治思想」小西中和著 北樹出版 p.243~244)
最近の若年層は、敢えて都会に出るよりも、地元ですべてを済ませてしまう傾向があるという。
それはそれで、彼らなりの貨幣文化(ジョン・デューイ)への対抗策なのだろう。
しかし、それも結局はトクヴィルが指摘したような、自らとその仲間たちだけの狭い空間に、彼らの存在領域を限定してしまう。
それはまさに「青春アミーゴ」の世界である。
それを象徴するのが、コムドットというユーチューバーの存在である。
私は視聴したことはないが、彼らの「地元ノリ」が、ウケているのだという。
ローカルな「地元最高」のノリが、ユーチューブとして多くの関係のない人々にウケる、というねじれ構造が見て取れる。
Google検索で、何でもわかると言われる時代になったが、逆に自分が何を知りたいかがわからないから、かえって使いにくい、という意見も聞こえる。
確かに、Google検索でカバーできる領域のすべてのカテゴリーを、余すことなく使いこなしている人を想像するのは難しい。
セブンイレブンに行けば、欲しいものは大体手に入る。
アマゾンカードを購入すれば、なおのこと手に入らないものはない。
以下日経新聞2023/1/20より
一部の大企業は自社の
プラットフォームを有料で公開することを決めた。
例えばアマゾンは自社の通販サイトを運用する
ために
独自の社内IT(情報技術)プラットフォームを
開発したが、
その技術を「切り売り」する
決断を下し、アマゾン・ウェブ・サービス(AWS)を
打ち出した。
これを
契機にクラウドサービス業界が
出現することになる。
このような事態は、もはや企業の需要探索能力が、政府のそれを遥かに上回っている世界の到来を告げていると言っていいだろう。
つまり、政府が必然的に企業の協力を仰がなければならない事態だ。
ここにおいては、官僚機構が消費者の需要に追いつくには余りにも遅すぎることは容易に想像できる。
政治家においては、個々の政策の実効性や、実現可能性を語るよりも、「大きな物語」を語るほうが圧倒的に有利になる。
つまり、ポピュリズム政治が台頭する現実と整合的である。
杏仁豆腐
セブンイレブンで
売ってる
杏仁豆腐が
美味かった。
チョコレートほど
バカ高くないし、
ああ、
日本は
いい国だ、
なんていう
意味不明な
感慨に
浸ってしまいました。
ぶっちゃけ
心理学の
授業の内容が
良かった。
既にもう
役に立ってる。
自分自身の
内面を
考察するのに。
充実した
春休み
だった。
conversation in English
俺:Noriko Ishigaki from Rikken Minshu accused PM Kishida, who had just been to Ukraine, of his giving Syamoji engraved "victory" to Ukraine as inappropriate. Extremely absurd.
ジョンさん:Every trip political leaders take abroad is largely for domestic political underlying reasons. Western leaders go to Ukraine to win domestic political points. Kishida seems no different. If that is Noriko Chan’s objection to his visit, she has a point. He seems to be posturing politically by giving an engraved rice spoon to Zelensky.This seems an especially inappropriate gesture since Tokyo hadn’t given Ukraine any military supplies had it??If Japan were sending weapons I would understand the gesture. But it would still be political grandstanding.
俺:Noriko Ishigaki’s absurdity lies in that she accused PM Kishida not of his visit to Ukraine itself but the engraved letter “victory”. She claimed Japan shall aim at a peaceful resolution.She argues "victory" sounds aggressive.
ジョンさん:She is from the Left so it is consistent with her political views to want a peaceful resolution. That’s what she should say isn’t it?She is not being hypocritical.On the other hand, since Japan isn’t doing anything of a military nature to help Ukraine, isn’t it hypocritical fir your friend Kishida to pretend to be a military contributor with a term such as “victory?”He made a major gaffe in my opinion. He is pretending to be a military leader to placate the extreme Right of LDP.He appears to be trying to make political points only.Even Biden doesn’t talk of “victory” when he visits Ukraine. Kishida is merely talking tough for Japanese right wing supporters who want to change the Constitution and send troops abroad.Anyway, you like Kishida so you want to see good in his actions. But as an outsider, I see his “victory” posturing as a mere political gesture designed to garner right wing LDP support. He wants to placate the anti-Russian Jiminto hard liners.
俺:Hiroshima' souvenir big syamoji without "victory" is nothing but big useless syamoji. Noriko Ishigaki just made hard effort to find fault with PM Kishida.The domestic political situation, Sanae Takaichi is in the center of turmoil concerning the past pledged utterance during Abe regime, in which she tried to modify the interpretation of the broadcasting law into the more strict regulation to TVs.Japanese Uyoku is far weaker than used to be. Their foremost concern is if PM Kishida continues Abenomics (if it is ostensible) , so they never care if the souvenir had a word such as victory or not.For Japanese Uyoku, Takaichi is almost the last fortress.
ジョンさん:It is still a completely empty political gesture. It doesn’t help Japan at all and makes Kishida look like Biden’s puppet. Tokyo appears unable or unwilling to have an independent foreign policy. Japan looks like an American colony.If Kishida had guts he would go to Taiwan or Seoul and say “victory”. That would have real meaning. That would cement Japan’s role as a regional power and true partner with Korea and Taiwan.Going to Ukraine only pushes China and Russia closer together and does not benefit Japan, Korea or Taiwan.
俺:Indeed. But I don't believe Abe or any other statesman could have done better.After all, Japan benefits from keeping an ally of US both security and economy.Japan learned the lesson that Japan might as well be a Herod as a Zealot.
2023年3月25日土曜日
conversation in English
ジョンさん:“Sushi terror” is in BBC news feed today. Such a horrible trend! I’m shocked young Japanese can do such a thing. Kaitenzushi is such a famous feature of society. I feel ashamed.
俺:Japan's future is doomed.They are pampered, not knowing they have to owe the tremendous amount of fiscal debt their ancestors have been making.To such extent, Japanese, especially the young guys are lack of sense of moral.
Indifference to the order of the society easily turns to a blind worship to an icon who tends to destroy the society.
ジョンさん:It really is completely “un-Japanese” behaviour. It shocks, angers and saddens me. If this is the future of Japan, you truly are doomed. Such miscreants must be severely punished and shunned from normal society or else they will continue their evil doings.I hope your PM has the guts to do it.
俺:There are many more evil spirited persons. So called aori-driving.Aori means swaying.
ジョンさん:Aori unten= reckless driving. Every country has them.
俺:I didn't know that.The criminals who are making you upset turned out to be socially impoverished guys , with few places to live on, where they have to live without not only financially but also strong social ties. They are living in an excluded community and they can't imagine the outside world. The problem is, social poverty.
ジョンさん:The sushi terrorists are simply criminals. Poverty has nothing to do with it. They are born anti-social personality types who would be criminals even if they were born to wealth. Rich and poor both commit anti-social crimes. In the “nature vs nurture” argument, I am 1000000% in the nurture camp.In the past the yakuza took such miscreants off the streets and gave them a structure to commit their crimes in a controlled world. In the USA, anti-social youths often get into the military. In Russia, the military recruits in prisons to find cannon fodder for Ukraine. Perhaps such sushi terrorists should be given choice between prison or the JSDF.Society cannot reform such anti-social types. They can only be jailed.
俺:I agree with you in that the yakuza used to work as a deterrence to such criminals from wrong doings.
ジョンさん:The miscreant’s parents will be made to pay damages I heard.
俺:In Japanese civil law, it would happen. In this case, it may suit.I have heard such a case that a car driving the aori-driving against the cargo running slowly on the highway made it stop suddenly by sudden speed-down in front of the cargo. Of course the cargo had the visual record and, it was transporting priceless delicate machines that were damaged by the sudden stop. This damage incurred a tremendous amount of financial penalty to the aori-driving car, and it made the driver insolvent. But he couldn't escape from the financial responsibility to redeem because the Japanese civil law didn't let it. And the fool driver killed himself.
ジョンさん:In USA thefts under $1,000 are not punished in certain liberal Democratic Party controlled cities! Of course, this results in anarchy in such cities. I prefer Japanese system!We must have law and order to survive.
悔しいです!
韓国語能力試験Ⅱの
過去問解いて
みたけど、
リスニングに関しては、
せいぜい
3級受かるかどうか
って
レベルですね。
20年
韓国語勉強して
この程度か。
ちなみに、
韓国語能力試験の場合、
1から6級まで
段階が分かれていて、
数字が大きくなるほど
レベルが上がる。
3級というのは
中級の
下。
2級は取得済み。
2023年3月24日金曜日
マッジくだらねえ。
バカバカしいにも程がある。
命がけでウクライナ行ってきた
岸田首相に
余りにも
失礼だろ。
野党として
他にやること
ねーのか!?
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/394944?display=1
2023年3月23日木曜日
うほほほほーい
通訳ボランティア、
今さら
またやりたいです、
とは
言えねーよなー、
と
思っていたら、
2日ある
研修日の
どちらかでも
参加
出来ないか、
打診が
ありました。
研修日に
どちらか
参加できるなら、
ボランティアにも
是非
参加して
欲しい、とのこと。
即返信させて
いただきました。
https://www.google.com/search?q=%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%94%E3%83%BC+%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%9B%B2&rlz=1CAJFMC_enJP1026&oq=%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%94%E3%83%BC%E3%80%80%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%9E&aqs=chrome.1.69i57j0i512l2j0i8i30i625.7356j0j15&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&vld=cid:41d7101e,vid:cy3eznufCKE
キリスト教的宇宙観
八戸サテライトで
聞いた話だけど、
古代ギリシャの
宇宙観では、
宇宙には
始まりも
終わりも
なく、
永劫回帰する、
と
考えられていたけど、
ヘブライズム、
つまり
キリスト教のもととなる
ユダヤ教の
宇宙観では、
宇宙には
始まりと終わりがある、
と
されているらしい。
その発想でいけば、
最後の審判という
考え方とも
整合性があるし、
どんなに困難でも
その日まで
頑張らなくちゃ、
という
発想になるのも
頷ける。
さて、
自分は一体
何を
目指して
歩いているのやら。
2023年3月22日水曜日
「魔の山」 岩波文庫 (再掲)
さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり)
https://www.youtube.com/watch?v=wJmcs-ax30Q
スワローズファン
WBC優勝。
スワローズファンとしては、
最後の
アメリカ戦
中村悠平が
リードしてくれた
ってのが
嬉しいね。
村上も
いい経験になったし。
中村が
世界に通用する
という
自信を深めてくれただろうし、
村上も
どうなることかと
思ったけど、
今シーズンも
活躍してくれそう。
結果オーライ。
あ、山田哲人もいたな。
面白くなってきたぜ♪
時間にだいぶ
ゆとりが
出てきたから、
あー、
通訳ボランティア
断るんじゃ
なかったかなー?
なんて
思ったけど、
ま、
2回も
断っておいて
今さら
また、やりたいです、
なんて言えないけど、
ちょっと
想像してみて、
そんな
うまくいくとは
思えないけど、
今回の案件を
こなして、
「次」が
あるとすればだけど、
その先を
連想すると、
ツラくなってしまう。
キャリア形成を
本気で
望んでいるのか
不明だが、
あんまり
ステップアップしたいとも
思わない。
日々
ささやかな
楽しみがあれば
それで
十分。
新聞の記事が
面白かったとか。
心理学が
役に立つことが
わかって、
お!
これなら
心理と教育コースも
卒業できちゃうんじゃないの?
なんて
思うと、
楽しくなってくるね。
いずれにせよ、
自分は
母親の
ウェル・ビーイングに
コミットするだけです。
2023年3月20日月曜日
ふう・・・
この一週間
頑張ったな。
得るものも
大きかった。
とりあえず
放送授業については
心理学の
2つの
授業は
心配ない。
やるべきことが
終わると、
ホッとして
便通が良くなるね。
きっと
まぐれではない。
今学期は
オンライン授業を
3つも
科目登録しちゃって、
初めてだから
やってみないと
わからない上に、
配信の
時間の枠に
縛られるから
こっちの
ペースで
勝手に進められないだけ、
余計に
出来ることは
今のうちに、
という
感じだった。
やはり、
心理学の授業を
科目登録するのは
初めてだったから、
放送授業を
選ぶだけでも
かなり
労力を
要したし、
新学期が
始まるまでに
2回
視聴するとなると、
いきおい
なかなか
忙しい
春休みだった。
やるべきことが
終わって、
一安心。
これで
準備万端
新学期を
迎えられる。
2023年3月19日日曜日
日本が喪ったもの
「敗戦にいたるまで国土に固有の曲率を与えていたのは天皇の存在であった。だが、天皇が『われ 神にあらず』と表明したときから、天皇の像は国土に曲率を与える重力の中心からゆっくりと落下していく。重い力は天皇から無言の死者たちに移動する。聖なるものはむしろ死者たちであり、天皇もこの死者たちの前に額ずかねばならない。この死者たちはその痛ましいまなざしによってしか力をもたないとしてもである。それゆえ戦後社会が天皇とともに超越的なものを失ってしまったというのは正しくない。そこには報われぬ死者たちというひそかな超越があり、天皇は皇祖神を祀るだけでなく、この無名の超越者を慰霊する司祭として、ゆるやかな超越性を帯びるからである。」137ページ 国土論 内田隆三 筑摩書房
人生も2周目
感情・人格心理学。
第4回まで
拝聴。
やはり
2回目だと
理解の深さが違ってくる。
なんというか、
心理学を
勉強してると
自分自身も
変わっていく気がする。
なんか
5年くらいは
トシを喰った
感覚。
あるいは、それは
自分の記憶に
埋もれた
過去の経験が
受肉して
外の
人格へと
表出する
現れなのかも知れない。
いつか
僕らも
大人になり
老けてゆく
make you free
永久にあおく
yeah !
・・・第6回まで
視聴。
自分自身の
歴史を語る
と
いうことは、
同時に
過去の記憶の
隠蔽だったり、
改竄でも
あるのかも知れない。
それは、
無意識のうちに
理性の働きで
自分自身を
統御していると
いって
よいだろう。
つまり、
自分自身のアイデンティですら
過去の
感情の記憶であったり
あるいは
事実認識そのもの
でもあるかも知れないが、
それらを
自分に
都合のいいように
恣意的に
解釈している
可能性もある。
それを
掘り起こし、
暴き出すことは、
スリリングでもあり、
また
自分のアイデンティを
揺るがす
危険な行為
であると
言っても
いいだろう。
それでもやはり、
人間の
<欲望>の
源泉として
過去の問い直しは
<需要>の
掘り起こしとして、
繰り返し
問われる
だろう。
・・・第8回
視聴。
感情のパートは
終わった。
次回から
人格のパート。
1度
すべて通して
視聴しているので、
あとは
想像がつく。
第10回目まで
視聴。
いよいよ
佳境に入ってきた。
単位認定試験の
過去問も見てみたけど、
2回聴けば
さすがに
単位は取れそう。
誰かに何かをアピール
するわけじゃないが、
一応
心理学のこういう
領域について
最低限の
知識を
有していますよ、
という
証明にはなる。
・・・第12回まで
視聴。
講師の方の話が
面白いから
苦もなく
聴いていられる。
これも
1度聴くだけじゃ
もったいない。
なんせ
感情・人格心理学だから、
自らを問い直し、
見つめ直すのに
非常に
手助けになる。
残り
3回。
とりあえず
一休み。
・・・第13回
拝聴。
山場は超えた。
心理学って
役に立つんだなー。
第14回
視聴。
少し眠い。
いよいよ
ラストワン!
たった今
印刷教材と
通信課題が
届いた。
加藤くんと植松くん (再掲)
2008年だっけ? 秋葉原で無差別殺傷した 加藤くんが 死刑執行されちゃったらしいね。 犯罪の量刑としては当然 なんだろうけど、 なんか哀れなやつだったな、という気もする。 39歳ってことだったから、 事件当時25歳とかそんなもんでしょ? 25歳で人生投げちゃったのかなー? 人生投げちゃうことと、 繁華街でリア充してる、かのように見える人を無差別殺傷することの 繋がりがイマイチ見えてこないんだけど、 俺は不幸だ!て思い込みすぎると、 リア充を皆殺しにしたくなるのかな? よくわかんねーわ。 彼がもうこの世にはいないことを考えれば。 でも、なんかな、 我々も時としてそうだけど、 決めつけすぎは怖いと思うんだよね。 未来の、あるいは過去の不確定性をもっと受け入れないと、 必ずこうだ! と決めつけ過ぎたら、 一旦人生投げちゃった人にとっては、 誰彼構わずリア充は殺してやる、なぜなら、俺の人生にはこの先なんもいいことないから! て結論に至るのは、論理的にはある程度整合性があるんじゃないかな? もっとさ、 社会が不確定性を受け入れて欲しいと思うのよ。 不景気だからこそ、安全牌を選びたくなるのは当然だと思うんだけど、 その傾向が強くなりすぎると、 一度失敗した人間には不幸な人生しか待ってない、 って風潮になっちゃうかもしれないけどさ、 社会に対して不満を述べたてたいなら、 今だったらYou Tubeとかあるし、 なんなら政見放送で 卑猥な発言したって、 逮捕されるわけでもないし、 あるいは、 ハードル高いけど、 ウーマン村本みたいに、 堂々と言いたいこと言う機会だって、無いわけじゃない。 あれは相当な度胸が必要だけどね。 相模原の施設で19人だっけ? 殺傷した植松くんにも言いたいけど、 なんか主張したいなら、 合法的にやればいいじゃん。 それこそネットで発信することだって出来たわけじゃん。 いかに公序良俗に違反するとしても。 自分が主張する手段として 人を殺すってのは、道理に合わない。 意思疎通の出来ない人は社会に有害だから殺すべきだ、というなら、 おそらく君が死刑になるのも、同じ理由(社会に有害だ)からではないのか? 有害にも色々な性質があるだろうが、君が社会にとって有害であるその性質が、意思疎通の出来ない障害者を生かしておくのが有害である性質よりも、より”マシ”だ、という根拠はなんだい? 戦争なんかになったら特にそうだろうが、 人間の心理的バイアスとして、 自国民の命と、敵国民の命との軽重を、 同等に扱える、というのはレアなケースではないか? そういう意味では、 我々だって、植松くんと同じバイアスを抱えているわけだが。 だったらさ、 せめて同じ国に住んでる人間の命の軽重を、 そんなに簡単に決めつけなくたって、いいじゃないか。 つまり、加藤くんと植松くんに共通するのは、「決めつけ」であって、それは我々も同じだ、ということだ。 しかし、我々はなぜ、「決めつけ」てしまうのだろうか。 それは、そのほうが何かと都合がいいし、 宙ブラリんは気持ちが悪いからだ。 新型コロナにしても、 第1波や第2波の頃は、 何か得体の知れない人類史上最悪の病原菌がやってきた、という恐怖感に囚われていたが、 しばらくすると、 疫学的な知見や、 スペイン風邪の例を挙げて、 また、ワクチンが開発されたこともあり、 なんとなく安心しているが、 それは飽くまで事後的な一種の「こじつけ」であって、それをすることによって、 また決定論に安住してしまうのである。 東日本大震災における東電福島第一原発訴訟にしてもそうだが、 過去に遡って決定論を振り回すのは、狂気としか思えない。
則天去私
この四語を見ると、
いかにも
私を滅却して
天に従え、
みたいな
堅苦しい
イメージを
持ってしまう
ひとは
多いのではないかと
思ってしまうが、
実は
そういう意味ではない
と
思っている。
やるだけやったら、
あとは
野となれ山となれ、
自分で
全部
どうにかこうにか
出来る、
などと
思うのは
傲慢だ、
そんな
メッセージに聞こえる。
ある意味では、
ガチガチの
決定論から、
偶然へと
自らの運命を
托す、
そんな風にも
感じる。
「こころ」は、
すべての
状況を
まるで
実験室のように
ガチガチに
設定して、
ほんのわずかな
エゴの一突きが、
まるで
ビリヤードのように
全員を不幸にする、
といった
体だが、
遺作となった
「明暗」(未完)では、
明確な筋立ては
ないものの、
漱石自身が
ストーリーの成り行きに
身を委ねている、
そんな印象が強い。
少なくとも、
「こころ」とは
全く違う作品だ。
ごめん。
やっぱ無理だわ。
神経がもたない。
通訳自体は
全然問題ないし、
そんな
たいそうな事を
求められるとも
思わないけど、
この
どーしょもない
自分が普段
訳知り顔で
あーだこーだ
言ってる
日本の
労働市場に
身一つで
飛び込むには、
余りにも
手遅れ。
ここで
踏ん張らないと。
橋頭堡を築かなければ!
足がかりを掴まなければ!
と
思ったけど、
ちょっと
限界だった。
まことに
申し訳ない。
m(_ _)m
https://www.youtube.com/watch?v=oLU7v1JJvc8
2023年3月18日土曜日
ピーターパン症候群
通訳ボランティア。
せっかく
こんないい
案件紹介してくれて、
しかも
選考通ってるのに
キャンセルするなんて、
ほんと
何言ってんだ?
と
思われるのは
尤もです。
ただ、
メールで返信が
返ってきて、
こちらから
翻意すれば
ぜんぜん
大丈夫っぽい
ノリではある。
放送大学の
授業を
予め
視聴するのも、
もっと
時間かかる
かと
思ったけど、
あっさり
終わった。
じゃあ
やっぱり
やります
メール送れば
いいだけなんだけど、
面接授業と
研修の日が
被るってのも
あるけど、
それ以上に
働くという現実を
見たくない、
働くということは
外界とのチャンネル、
すなわち
現実世界に
放り込まれるという
ことだから、
その現実を
見たくないだけなのかも知れない。
ボランティアそのものは
全然大したことじゃないんだけど、
外界の現実世界に
一歩足を踏み入れると、
色んなことを
想定しなければならなくなる。
単に
想像が連鎖するってだけなんだけど。
やっぱり
まだ
ネバーランドの
住人でいたい
気もする。
https://www.google.com/search?q=%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB+%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%A2%E3%83%B3&rlz=1CAJFMC_enJP1026&sxsrf=AJOqlzVGq-nLI8Dcnrc0q5yXhFcKlRYDfA%3A1679129131517&ei=K3oVZOiZH9OL-AbI5pjQCg&ved=0ahUKEwio26m7i-X9AhXTBd4KHUgzBqoQ4dUDCA8&uact=5&oq=%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB+%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%A2%E3%83%B3&gs_lcp=Cgxnd3Mtd2l6LXNlcnAQAzIFCAAQgAQyBggAEAcQHjIGCAAQBxAeMgUIABCABDIECAAQHjIGCAAQBRAeMgYIABAIEB4yBggAEAgQHjoHCAAQHhCwAzoECCMQJzoICAAQsQMQgwE6BQgAELEDOgcIABAEEIAEOgYIABAEEB46CAgAEAQQHhAPOggIABAFEAQQHjoICAAQCBAEEB5KBAhBGAFQ4AVYpxtg8CBoAXAAeACAAeABiAHyDJIBBTEuOS4ymAEAoAEByAEBwAEB&sclient=gws-wiz-serp#fpstate=ive&vld=cid:d546463e,vid:oC0wLyfgPDc
「人間にとって貧困とは何か」より 抜書
作田啓一は、R・ベネディクトの『菊と刀』を批判的に読み解きながら、自らの良心に照らして内面的に自覚される罪とともに、所属集団への不充分な帰属がもたらす恥もまた、普遍的な規範意識のあり方であり行為を方向づける意識状態であるとした(作田 1972)。
やはり、西洋は罪が、日本では恥が、人々を内面から律しているなどといった対比はあまりにも単純に過ぎる。だが、それはそれとして、恥の感情は、近代以降の日本において、「世間」あるいは国家を前にした人々の統制メカニズムにおける構成要素として特別の意味をもったと考えられる。作田は、ベネディクトの観察を引きつつ、家族主義的といわれながらも日本の家族の防衛機能がヨーロッパの家族よりもはるかに脆弱であると述べている。子供が「世間」から非難されたとしても、日本の家庭は子どもにとっての防御壁とはならない。日本の家族は、たちまち「世間」に同化して、「世間」とともに子どもを責めるのである。つまり、日本の家族は、独自性や自律性が弱い。
(84,85ページ)
戸籍において、人は、あくまでも戸という集団の一員として把握される。だが、家の家父長主義は戸籍制度においても温存され、男性戸主の権威性と国家に対する責任は強化された。こうした戸籍制度における家族と個人のあり方は、すでに述べてきた日本の近代家族の特質ともよく合致している(つまり、日本の近代家族は、明治政府の掌中において成立した家族の様式ということになる)。家族成員の「不始末」に対して戸主が「申し訳ない」と謝る、国家に対し無抵抗で「世間」からの落差を恥とするこの集団は、国家的な動員に実に適合しているといわねばならない。
(85,86ページ)
戸籍制度が内包する国家観・社会観は、子どもの不始末を「世間」に対して詫びる親や入籍をもって結婚とみなす結婚観のように、個人化が徹底しつつあるように見える今日にあっても、「そうすることになっているからそうする」強固な準拠枠として機能し続けている。
(86ページ)
この窓から高崎観音は永遠に見えない
冗談です。
でも、
母親も
高崎観音のような
穏やかな
顔つきになってきて、
いい感じ♪
自分の中の
母親の
イメージが
いい意味で
塗り替えられつつある。
https://www.google.com/search?rlz=1CAJFMC_enJP1026&tbm=vid&sxsrf=AJOqlzWoYC71-IZf6cNPxymbR3UAzQi7Rw:1679119587014&q=%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3+your+song+%E6%AD%8C%E8%A9%9E+%E5%92%8C%E8%A8%B3&sa=X&ved=2ahUKEwj0sZP05-T9AhWDsVYBHQC6CC0Q8ccDegQIOhAF&biw=1536&bih=742&dpr=1.25#fpstate=ive&vld=cid:c16becd3,vid:LPUpdXMteMA
2023年3月17日金曜日
尾崎豊と戦後社会 (再掲)
愛という感情が日本の歴史上にも古くから存在していたことは、源氏物語にも書かれていることで、わかる。 しかし、日本の宗教観念には、愛を裏打ちするものがない。 曾根崎心中は、男が女郎をカネで身受けしようとするが、心中する、という悲劇である。 物語上で彼らが悲劇的な最期を遂げざるを得ないのは、男が、女郎を身受けすれば、男は商人として大阪から追放される運命にあったからでもある。 貴穀賎金という言葉があるように、江戸時代の日本では、カネは汚いものという観念があった。 見方によっては、曾根崎心中において示されたのは、カネと愛は両立しえない、もし純愛を遂げようとすれば、命を犠牲にせざるを得ない、という当時の観念を表現していたとも言える。 六部殺しの伝承のように、カネには罪に穢されているいる、という感覚もあるだろう。 曾根崎心中は、むしろ、カネという原罪を担保に、愛を成就させようとする文学的効果があると言えるかもしれない。 尾崎豊の歌に「僕が僕であるために」という楽曲があるが、現代日本においては、男は、曾根崎心中の男のように、社会に抗いながらも、純愛を遂げられない。 「僕が僕であるために、勝ち続けなければならない」のに、女に対しては、非自発的に別れを告げなければならない。 夏目漱石の「それから」の代助が百合の香りにむせぶシーンのように、純愛を遂げようとすれば、それは理性を放擲せざるを得ないような、不可能な冒険なのだ。 それは、漱石という作家の文脈では、日本人はイエを存続させるために、純粋な異性愛を犠牲にしなければならない、という明白な義務と、近代の西洋的ラヴという観念が、齟齬をきたしているのである。 「こころ」においては、「先生」は、妻をめぐって、非自発的に友人を殺してしまった、という原罪を設定することで、純粋な異性愛に漸近しようと試みる。 しかし、その試みは、「先生」は、その友人の死という残虐劇を、明治という時代に殉死する、というように、国家への忠誠心にすり替えてしまう。 現代日本という社会においては、愛は成就しないものなのだろうか? 尾崎以降、ありとあらゆる純愛の歌が唄われてきたが、結局むき出しの愛は破綻せざるを得ないことを、社会そのものが証明しているのではないだろうか? 尾崎が愛を謳いながらも、成就できないのは、現代日本社会の特質なのだろうか? その姿は、社会の中での生存場所を犠牲にする代わりに、自らの命を犠牲にした曾根崎心中の男と似てはいるが、そこに純愛は成就されない。 なぜなら、「僕が僕であるために、勝ち続けなけれならない」からである。 たとえ異性愛に殉死しても、それは社会に敗北しているからである。 曾根崎心中の男女のように、純愛に殉死することで、社会に勝っていない。 その意味で、江戸時代と現代日本は、やはり異なる社会ということになるだろう。 「三島は紛うことなく戦後社会の外部に立とうとした。だが、戦後社会は自分の外部があることを許容しない。この拒否は生の哲学という全面的な肯定の所作において行われているためほとんど意識されない。どんな精神のかたちにせよ、それが生命の形式であるかぎりー体制派も、全共闘運動もふくめてー戦後的な生の哲学はそれを是認しうるのである。三島は死に遅れたものとして、戦後社会とのそのような共犯性、あるいは戦後社会の総体性にたいして潔癖ともいえる反発の意思を隠そうとしなかった。三島の精神による抵抗に意味があるとすれば、それが生の哲学の軌跡に回収されないことであり、死を如実にはらんでいる限りにおいてであった。三島は自分の精神を思想的な形象でみたしたが、そうした彩りはただ死の線分に接続する限りにおいてのみ精神の形象でありえたにすぎなかった。」(395ページ) 国土論 内田隆三 筑摩書房 上皇上皇后ご夫妻の結婚が体現した、愛の成就のカタチは、性愛に基づく核家族という生のあり方を提示したが、それは、三島のように自らの命を死の線分に接続し続けることによってしか、社会の外部に立てないことをも呈示した。 尾崎豊もまた、悲劇的な死という形象によってのみ、社会に「勝った」のである。
モダンにおける自己ー「フーコー・コレクション6」 ちくま学芸文庫 より (再掲)
ボードレールにとって、現代的な人間とは、自己自身の発見、自らの秘密および自らの隠された真理の発見へと向かう人間ではない。 現代的な人間とは、自分自身を自ら創出する人間のことなのだ。 現代性は、「人間をその固有の存在へと解き放つことはない」。 現代性は、人間を、自分自身を作り上げるという使命に縛り付けるのである。 (379ページ) (中略) <現在>のこうしたアイロニカルな英雄化、現実的なものを 変容させるために現実的なものと取り結ぶ自由の戯れ、 自己の禁欲的な練り上げ、 ボードレールはそれらが社会自体のなかで、 あるいは政治体のなかで 成立しうる、 とは考えていない。 それは、他の場所でしか起こりえないのであり、 その場所こそ、 ボードレールが 芸術と呼ぶものなのである。 (380ページ)
近代日本の炭坑夫と国策@茨城大学 レポート (再掲)
茨城大学強いわ。ここんとこ毎学期茨城大学行ってるけど、今回もめちゃくちゃ面白かった。面白いという言葉では言い表せない。アタマをバットで殴られるくらいの衝撃を感じた。 石炭産業を語らずに近代日本の経済発展は語れないと言って間違いない。 にもかかわらず、おおっぴらに語られることはほとんどない。 あたかも繊維産業が花形で日本経済の繁栄をほとんどすべて牽引したかのように語られている。 裏を返せば、それほどまでに、石炭産業を語るということは、現在に至るまで日本の暗部を映し出すことになるのかも知れない。 (以下レポート) 今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。 ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。 日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。 しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考えると、グローバリゼーションに対応しながら国民的自己決定を達成するには、国をまさに富国強兵のスローガンの下で一致団結させる必要があり、そこでは多様な民意というものを反映することは困難であり、したがって表現の自由が抑圧され、民主主義は達成できない、と考えられます。 戦前の日本に照らして考えると、前近代の村社会が国家組織の末端に組み入れられ、その中で炭鉱夫が生きるための最後の手段として究極のブラック職業として見なされていたこと、それでも西欧へ肩を並べなければならない、という官民一体の国家的意識のなかで、脅迫的に近代化へ歩みを進めざるを得なかった状況では、社会の底辺としての炭鉱夫には、およそ政治参加、すなわち民主主義の恩恵に浴することは出来なかった。それはとりもなおさず炭鉱業というものが本来的に暴力的であり、同時に「国策」としての帝国主義的性格を多分に内包していたことと平仄を合わせています。 中国のウイグル人の抑圧と戦前日本の坑夫を重ねて考えると、そのような構図が透けて見えてきます。
ベンヤミンと貧困 (再掲)
ベンヤミンは、「手」にもとづく認識の成果としての技術の巨大な発展が全く新しい貧困状態をもたらしたと指摘している。 「技術の巨大な発展とともに、まったく新しい貧困が人類に襲いかかってきたのである。」(「貧困と経験」『著作集』第1巻) 技術は不断の発明・発見によって次々に新しいものを作り出しては古いものを破壊していく「創造的破壊」(creative destruction)(シュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』)をもたらす。 機械は急速に進化していき、不断に「倫理的摩滅」にさらされている。(『資本論』第1巻、P.528参照)それとともに人間の生活を支えている周囲の事物はことごとく変化してしまうならば、人間はもはや自らの過去の経験を頼りにすることができず、つねに最初から新たにやり直すしかなくなってしまう。 「まだ鉄道馬車で学校へかよったことのあるひとつの世代が、いま、青空に浮かぶ雲のほかは何もかも変貌してしまった風景のなかに立っていた。破壊的な力と力がぶつかりあい、爆発をつづけているただなかに、ちっぽけなよわよわしい人間が立っていた。・・・これはそのまま、一種の新しい野蛮状態を意味する。野蛮?そのとおりである。・・・経験の貧困に直面した野蛮人には、最初からやりなおしをするほかはない。あらたにはじめるのである。」(「経験と貧困」)これは、1933年の「経験」状況である。 ベンヤミンは、人生における経験がゆっくりと時間をかけてつくられていくような「完成する時間」に対して、「永劫回帰」する時間を対置する。「・・・完成する時間・・・は、着手したものを完成することを許されないひとびとが住む地獄の時間と対をなしている。」(「ボードレールのいくつかのモチーフについて」『著作集』第6巻)
うぅ、深いなあ・・・(´;ω;`)
3月末日をもって
放送が
終了してしまう
「人間にとって貧困とは何か」
(西澤晃彦先生)
の
放送授業を
再び
聞いております。
いやー、深いね。
色々勉強したあとで
聴くと、
ほんとに
深い。
(もちろん
単位には
関係ないんだけどね。)
・・・とりあえず
第3回まで
視聴。
今晩中に
第5回
くらいまでは
聴いておきたい。
腹が減っては
戦が出来ぬ、で
握り飯くって
再開するぞ。
・・・頑張って
第5回まで
視聴。
超絶濃厚!
仏恥義理!
心理学、歴史学、経済学、社会学・・・
色んな
学問の知見が
総動員されて、
凄いことになってる。
すげえ。
1度
聴いて終りじゃ、
もったいない。
頑張って
第6回視聴。
すげえなあ。
西澤先生
相当色んなこと
勉強されたんだね。
自分も、
近代日本経済史と、
近代日本内閣史、
日本近現代史などで
知識があるから
あらためて
聴くと
想像が膨らんで
より
理解が出来るようになった。
とにかく
濃厚。
・・・頑張って
第7回も視聴。
家族に依存する国家
と同時に、
国家に従属させられる家族
という視点は斬新。
・・・牛乳飲んで、
頑張って第8回まで
視聴。
一晩でよく聴いたな。
でも、
風呂にでも入ってから
あともう一踏ん張りしよう。
第9回視聴。
一晩でよく頑張った。
とりあえず一区切り。
https://www.youtube.com/watch?v=RD83oy7ksUE
ダルビッシュ投手
大人になったよなー。
いい歳のとり方してるわ。
大谷が
異次元の
活躍しても、
自分を見失わない
のが
素晴らしい。
ダルビッシュがいてこそ
今の
日本代表は
強いんだろうな。
イチローも
そうだったけど、
ひとり
こういう
ベテランで
重みのある
選手が
いると、
組織は
強くなるんだろうなー。
2023年3月15日水曜日
2周目
4月になったら
忙しくなるから、
今のうちに
一度
通して
視聴した
放送授業を
もう
一度
見るなり。
社会・集団・家族心理学。
あらためて
見ると、
面白いね。
心理学なんて
今まで
一切勉強して
こなかったから、
初めて
視聴した時には
気づかなかったこと、
重要な論点が、
少し
時間を置いて
見返すと、
より
見えてくる。
・・・理解が
深まると、
面白いね。
でも
やっぱ
根詰めて
勉強するのは
疲れる。
3月中旬は
ちょっと
ダレ気味だったけど、
少し
頑張ってる。
この講義、
初めて通して
視聴したときは、
まあまあ
面白いかな、
とは
思っていたけど、
2回目だと、
より深く理解できる
と
同時に、
色々と
深く
考えさせられる
ものがある。
・・・第9回まで視聴。
やっぱり
2回見ると
理解が
全然
違うね。
大方の話について、
自分自身も
含めて、
あるある
と
自分の事として
感じられる。
・・・第11回まで
視聴。
とりあえず
一区切り。
2日間で
ここまで
視聴できたのは
嬉しい誤算。
面白かった。
(「・ω・)「ガオー
高崎の
Gメッセで
開かれる
国際会議?
の
通訳ボランティア、
選考
通ったぜ!
知らないけど
応募したひと
全員
通ってんじゃないか?
とにかく、
ようやく
ほんとの
社会復帰の
第一歩だ!!!
・・・ごめん。
面接授業と
研修日が
重なるから、
キャンセルしたわ。
申し訳ない。
と、いうか
縛られるのが
いや。
・・・爆睡。
世の中の
勤め人で
住宅ローン組んで
マイホームと
奥さんと子供
が
いる人って、
マジで
すげえわ。
俺には
絶対
マネできない。
ある日突然
会社
辞めそう。
飽きた、
とかいって。
フットサル
やってたときだって、
ドタキャンとか
平気で
やってたし。
まあ、
そんなに
自分自身を
怠け者だとは
思わないけど、
他人のペースで
自分のタイムスケジュールを
決められるのは
いやだね。
外界との
とりあえずの
チャンネルは
築けたから、
それは良かった。
2023年3月14日火曜日
痩せた現実とリアリズム (再掲) 妄想卒論その13
読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。 物語とはおよそこんなものなのかもしれない。 実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。 語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、 じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。 物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。 だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、 またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。 しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、 触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。(「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?ー言語と運命の社会学」内田隆三 岩波書店 p.485)
abject(再掲) 妄想卒論その12
「abjectは、subjectあるいはobjectをもじった造語です。 ab-という接頭辞は、『離脱』という意味があります。 母胎の原初の混沌、 闇に由来し、 subject/object の二項対立に収まり切らなかったもの、 それを排除しないと 秩序や合理性が成り立たないので、 抑圧され、ないことに されてしまう要素を abject と言います。」 「ゲーテ『ファウスト』を深読みする」(仲正昌樹 明月堂書店 p.164)より
漱石と資本主義 (再掲) 妄想卒論その11
確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。
the day that never comes(再掲) 妄想卒論その10
言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。 やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章) なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。 しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。 三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。 こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。 静岡大学 森本隆子先生より https://www.youtube.com/watch?v=RD83oy7ksUE
おまけ (再掲) 妄想卒論その9
ところで、ルソーは疎外論の元祖だそうである。 「ホントウのワタシ」と「社会的仮面を被ったワタシ」の分離という中学生が本能的に感じるようなことに言及していたそうである。ここで、いわゆる『キャラ』について考えてみよう。 サークルの飲み会で、場にあわせてドンチャン騒ぎをやることに倦み果てて、トイレに逃げ込んだときに自分の顔を鏡でみるのは一種のホラーである。鏡に映る、グダグダになって油断して仮面を剥がしかけてしまった見知らぬ自分。それを自分だと思えず一瞬見遣る鏡の前の男。男は鏡に映る男が自分であることに驚き、鏡の中の男が同時に驚く。その刹那両方の視線がカチあう。俺は鏡を見ていて、その俺を見ている鏡の中に俺がいて、それをまた俺が見ている・・・という視線の無限遡行が起こって、自家中毒に陥ってしまう。 このクラクラとさせるような思考実験からは、<顔>についてわれわれが持っているイメージとは違う<顔>の性質を垣間見ることが出来るのではないか。そもそも、自分の顔は自分が一番よく知っていると誰もが思っているが、鷲田清一によれば、「われわれは自分の顔から遠く隔てられている」(「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22)という。それは、「われわれは他人の顔を思い描くことなしに、そのひとについて思いをめぐらすことはできないが、他方で、他人がそれを眺めつつ<わたし>について思いをめぐらすその顔を、よりによって当のわたしはじかに見ることができない。」(P.22)からだ。 言い換えれば、「わたしはわたし(の顔)を見つめる他者の顔、他者の視線を通じてしか自分の顔に近づけないということである。」(P.56)ゆえに、「われわれは目の前にある他者の顔を『読む』ことによって、いまの自分の顔の様態を想像するわけである。その意味では他者は文字どおり<わたし>の鏡なのである。他者の<顔>の上に何かを読み取る、あるいは「だれか」を読み取る、そういう視覚の構造を折り返したところに<わたし>が想像的に措定されるのであるから、<わたし>と他者とはそれぞれ自己へといたるためにたがいにその存在を交叉させねばならないのであり、他者の<顔>を読むことを覚えねばならないのである。」(P.56) そして、「こうした自己と他者の存在の根源的交叉(キアスム)とその反転を可能にするのが、解釈の共同的な構造である。ともに同じ意味の枠をなぞっているという、その解釈の共同性のみに支えられているような共謀関係に<わたし>の存在は依拠しているわけである。他者の<顔>、わたしたちはそれを通して自己の可視的なイメージを形成するのだとすれば、<顔>の上にこそ共同性が映しだされていることになる。」(P.56) こう考えると、「ひととひととの差異をしるしづける<顔>は、皮肉にも、世界について、あるいは自分たちについての解釈のコードを共有するものたちのあいだではじめてその具体的な意味を得てくるような現象だということがわかる。」(P.58)これはまさに、サークルなどで各々が被っている<キャラ>にまさしく当てはまるのではないか。サークルという場においては、暗黙の解釈コードを共有しているかどうかを試し試され、確認し合っており、そのコードを理解できないもの、理解しようとしないものは排除される。その意味では<キャラ>はまさしく社会的仮面なのだ。
「世界の共同主観的存在構造」 廣松渉 岩波文庫 より (再掲) 妄想卒論その8
われわれは、現に、時計の音を「カチカチ」と聞き、鶏の啼く声を「コケコッコー」と聞く。英語の知識をもたぬ者が、それを「チックタック」とか「コッカドゥドゥルドゥー」とか聞きとるということは殆んど不可能であろう。この一事を以ってしても判る通り、音の聞こえかたといった次元においてすら、所与をetwasとして意識する仕方が共同主観化されており、この共同主観化されたetwas以外の相で所与を意識するということは、殆んど、不可能なほどになっているのが実態である。(59ページ) しかるに、このetwasは、しばしば、”物象化”されて意識される。われわれ自身、先には、このものの”肉化”を云々することによって、物象化的意識に半ば迎合したのであったが、この「形式」を純粋に取出そうと試みるとき、かの「イデアール」な存在性格を呈し、”経験的認識”に対するプリオリテートを要求する。このため、当のetwasは「本質直感」といった特別な直感の対象として思念されたり、純粋な知性によって認識される形而上学的な実在として思念されたりすることになる。(67ページ) 第三に、この音は「カチカチ」と聞こえるが、チックタックetc.ならざるこの聞こえかたは、一定の文化的環境のなかで、他人たちとの言語的交通を経験することによって確立したものである。それゆえ、現在共存する他人というわけではないにせよ、ともあれ文化的環境、他人たちによってもこの音は規制される。(いま時計が人工の所産だという点は措くが、この他人たちは言語的交通という聯関で問題になるのであり、彼らの生理的過程や”意識”が介入する!)この限りでは、音は、文化的環境、他人たちにも”属する”と云う方が至当である。(70ページ) 一般には、同一の語彙で表される対象(ないし観念)群は、わけても”概念語”の場合、同一の性質をもつと思念されている。この一対一的な対応性は、しかも、単なる並行現象ではなく、同一の性質をもつ(原因)が故に同一の語彙で表現される(結果)という因果的な関係で考えられている。しかしながら、実際には、むしろそれと逆ではないであろうか?共同主観的に同一の語彙で呼ばれること(原因)から、同一の性質をもつ筈だという思念マイヌング(結果)が生じているのではないのか?(109ページ) 第二段は、共同主観的な価値意識、そしてそれの”物象化”ということが、一体いかにして成立するか?この問題の解明に懸る。因みに、貨幣のもつ価値(経済価値)は、人びとが共同主観的に一致してそれに価値を認めることにおいて存立するのだ、と言ってみたところで(これはわれわれの第一段落の議論に類するわけだが)、このことそれ自体がいかに真実であるにせよ、まだ何事をも説明したことにはならない。問題は、当の価値の内実を究明してみせることであり、また、何故如何にしてそのような共同主観的な一致が成立するかを説明してみせることである。この第二段の作業課題は、個々の価値形象について、歴史的・具体的に、実証的に試みる必要がある。(164~165ページ) (以下熊野純彦氏による解説より) 『資本論』のマルクスは、「抽象的人間労働」などというものがこの地上のどこにも存在しないことを知っている。存在しないものがゼリーのように「凝結」して価値を形成するはずがないことも知っていた。要するに『資本論』のマルクスはもはや疎外論者ではすこしもないのだ、と廣松はみる。 労働生産物は交換の内部においてはじめて価値となる。とすれば、交換という社会的関係そのものにこそ商品のフェティシズムの秘密があることになるだろう。関係が、謎の背後にある。つまり、関係がものとしてあらわれてしまうところに謎を解くカギがある。商品の「価値性格」がただ「他の商品にたいする固有の関係をつうじて」あらわれることに注目しなければならない。商品として交換されることそれ自体によって、「労働の社会的性格」が「労働生産物そのものの対象的性格」としてあらわれ、つまりは「社会的な関係」、ひととひとのあいだの関係が「物と物との関係」としてあらわれる(『資本論』第1巻)。ものは<他者との関係>において、したがって人間と人間との関係にあって価値をもち、商品となる。(533~534ページ)
ポピュリズムレポート予備 (再掲) 妄想卒論その7
「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。
米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。
私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。
19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。
さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。
1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。
そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。
なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93
「エリートに対する人々の違和感の広がり、 すなわちエリートと大衆の『断絶』こそが、 ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。 ポピュリズム政党は、既成政治を既得権にまみれた一部の人々の占有物として描き、 これに『特権』と無縁の市民を対置し、 その声を代表する存在として自らを提示するからである。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
「二十世紀末以降進んできた、産業構造の転換と経済のグローバル化は、 一方では多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの発展を促し、 グローバル都市に大企業や高所得者が集中する結果をもたらした。 他方で経済のサービス化、ソフト化は、規制緩和政策とあいまって 『柔軟な労働力』としてのパートタイム労働や派遣労働などの 不安定雇用を増大させており、低成長時代における 長期失業者の出現とあわせ、 『新しい下層階級』(野田昇吾)を生み出している。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
富が集中するほど他者への信頼が下がり、「フェアネス(公正さ)指数」(日経新聞作成)が低くなる。同時にポピュリズムの場当たり政策に翻弄されやすくなる。
「国際都市ロンドンに集うグローバル・エリートの対極に位置し、 主要政党や労組から『置き去り』にされた人々と、 アメリカの東海岸や西海岸の都市部に本拠を置く 政治経済エリートや有力メディアから、 突き放された人々。 労働党や民主党といった、 労働者保護を重視するはずの政党が グローバル化やヨーロッパ統合の 推進者と化し、 既成政党への失望が広がるなかで、 既存の政治を正面から批判し、 自国優先を打ち出して EUやTPP,NAFTAなど 国際的な枠組みを否定する急進的な主張が、 強く支持されたといえる。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
人々の不満をあおるだけで解を示せないのがポピュリズム。不満のはけ口を外に求めた愚かさはナチスドイツの例を振り返っても明らかだ。
第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。(放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)
グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。
1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より
そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感覚だろうか。
「デモクラシーという品のよいパーティに出現した、 ポピュリズムという泥酔客。 パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。 ましてや手を取って、ディナーへと導こうとはしないだろう。 しかしポピュリズムの出現を通じて、 現代のデモクラシーというパーティは、 その抱える本質的な矛盾をあらわにしたとはいえないだろうか。 そして困ったような表情を浮かべつつも、 内心では泥酔客の重大な指摘に 密かにうなづいている客は、 実は多いのではないか。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
生きられる社会 (再掲) 妄想卒論その6
だいたいやりたいことやり尽くして
ふと自分の人生を振り返るとき
どうしても
合理的な筋書き
というものを作りたくなるのは自然のサガなんだけど、
あんまり合理的、
言い換えれば
理性的な筋書きを
仕立てなくても
いいんじゃないか。
どこかに不合理な部分を
残しておいたほうが、
かえって健全なんじゃないか。
人間も社会も。
井上俊が
「詐欺が成り立ち得ないところでは、社会もまた成り立ち得ない。」(遊びの社会学)
と言ったように、
社会も、どこかに余白を残しておいたほうが、
かえって
健全なんじゃないか。
赤塚不二夫のレレレのおじさんのように、
おそらく知的障害を
持っているような
おじさんが
朝っぱらから
ホウキで道を
掃除していても、
いいのではないか。
日本の山岳信仰で
男根に似た
巨石を崇める
という風習は
よく見られるが、
あれはただの巨石だ、
と、
自然界をアレゴリーで
捉える考え方を排除したのが
近代という時代の精神だった。
それはどことなく
地中海の怪物たちを
狡知で倒していく
オデュッセウスに
繋がるようにも
見られる。
それは紛れもなく
理性の暴力性
という
アドルノが
主題とした
テーマである。
理性が
近代的個人の立脚点
でありながらも、
その限界に焦点を当てている。
ハイデガーは、
個人が共同現存在のまどろみから覚醒して、
ドイツ民族としての使命に目覚めなければならない、
と説いたわけであるが、
それが、
かつての神聖ローマ帝国という誇張を含んだ憧憬の土地を回復する、
というドイツ民族の「使命」を掲げるナチスのプロパガンダと共鳴してしまった。
アドルノは、
そもそもの共同現存在からの個人としての覚醒が、
集団的暴走と親和性があったことを念頭に置きながらも、
集団に埋没しない理性的な個人としての人間を提示した。
理性の暴力性に警鐘を鳴らしながらも、
主体性の原史に既に刻印されている理性から逃れる道は、
再び集団的暴走への道であると考えた。
計算的理性が近代的個人を産み出した源泉であるとしても、
理性から逃走し、
始源のまどろみへと回帰することはなお危険であると説いたのである。
もっとも、
アドルノが主観と客観との絶対的な分離に敵対的であり、
ことにその分離が主観による客観のひそかな支配を秘匿しているような場合には
いっそうそれに敵意を示したとは言っても、
それに替える彼の代案は、
これら二つの概念の完全な統一だとか、
自然のなかでの原初のまどろみへの回帰だとかをもとめるものではなかった。(「アドルノ」 岩波現代文庫 93ページ)
理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、
とアドルノは主張する。
「社会全体が体系化され、
諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、
それだけ人間そのものが
精神のおかげで創造的なものの属性である
絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、
慰めをもとめるようになるのである。」
言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、
マルクス主義的ヒューマニズムの説く
来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、
管理された世界のもつ
全体化する力の原像と解されるべきなのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 98ページ)
ここで、管理された世界のもつ全体化する力
というキーワード
を導きとして、
以下の丸山眞男の論考を
考えてみたい。
丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。
しかしながら天皇制が
近代日本の思想的「機軸」として
負った役割は
単にいわゆる
國體観念の教化と浸透という面に
尽くされるのではない。
それは政治構造としても、
また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、
機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。
(・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、
制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、
それが
制度自体と制度にたいする
人々の考え方をどのように規定しているか、
という、
いわば日本国家の認識論的構造にある。
これに関し、仲正昌樹は
「日本の思想講義」(作品社)において、
つぎのように述べている。
「國體」が融通無碍だという言い方をすると、
観念的なもののように聞こえるが、
そうではなく、
その観念に対応するように、
「経済・交通・教育・文化」の各領域における
「制度」も徐々に形成されていった。
「國體」観念をはっきり教義化しないので、
制度との対応関係も
最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、
国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、
目に見える効果をあげるようになった。
ということだ。
後期のフーコー(1926-84)に、
「統治性」という概念がある。
統治のための機構や制度が、
人々に具体的行動を取るよう指示したり、
禁止したりするだけでなく、
そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、
それを当たり前のことにしていく作用を意味する。
人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、
今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用)
社会全体が体系化され、
諸個人が事実上
その関数に貶めれられるようになればなるほど、
それだけ
人間そのものが
精神のおかげで
創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として
高められることに、
慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」
という言葉が何を表しているか、
自分の考えでは、
「社会全体が体系化され、
諸個人が事実上
その関数に
貶めれられるようになればなるほど」、
(疑似)宗教のように、
この世の全体を精神的な色彩で説明し、
現実生活では一個の歯車でしかない自分が、
それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、
そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、
救いを感じるようになる、という感じでしょうか。
まるでオウム真理教のようですね。
現代の市場型間接金融においては、
情報に基づいた信用こそが、
ある意味ではその人そのものである、
というのは、まさにその通りである、と思われる。
情報に基づいて、個人をランク付けし、
世界中の貸し手と借り手を結びつけた、
金融の実現されたユートピアだったはずが、
崩壊する時には一気に崩壊するシステミック・リスクも抱えている。
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より)
私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、
直観や好き嫌いによって信・不信を決める。
だが、信用とは本来そうしたものではないのか。
客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。
そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。
信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。
それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、
ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。
(略)
しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、
信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。
とくに、
資本主義が発達して、
血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、
広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、
リスクはますます大きくなるので、
リスク軽減の必要性が高まる。
そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、
他方では信用の〈合理化〉が進む。
(略)
リスク軽減のもうひとつの方向は、
信用の〈合理化〉としてあらわれる。
信用の合理化とは、
直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、
より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。
こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。
つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。
信用は、
個人の人格にかかわるものというより、
その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、
そのかぎりにおいて合理化され客観化される。
(略)
しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、
〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、
とくに経済生活の領域で、
信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。
その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、
さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。
と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、
まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93
ところで、
現実の問題として、
自立した個人から成る世界がすぐに出現するわけではない。
他者は、他者を認知する者にとって異質な存在である。
これは他者を「差異」であるということが同定された限りにおいてである。
差異は同一性の下でしか正当性を持ちえない。
同一性に吸収されない差異=他者は、排除される。
それを可能にしていたのが、祖先の存在であり、また神であった。
たとえ、異なる地位にあって、
通常は口を聞くことも、顔を見ることさえ許されなくとも、
共通の神を持っているという認識の下に、
異なる地位にある者同士が共同体を維持する。
地位を与えるのは神であり、
それに対してほとんどの者は疑問さえ抱かなかったのである。(p.177~178)
(中略)
カースト制は、総体として、閉鎖的で完結的な世界を築く。
そこでは、ウェーバーが「デミウルギー」と呼んだ、
手工業者が村に定住し、無報酬で奉仕する代わりに、
土地や収穫の分け前を受け取る制度が敷かれている。
このような制度では、商品経済が発達する可能性はほとんどない。
したがって、他者としての商人が、
共同体内によそものとして現れる可能性は低い。
これに対して、市場論理が浸透した世界では、
他者が他者として認知される。
それは、
複数の世界に属することを可能にする
包含の論理によって律せられている世界である。
このような世界が可能であるためには、
共同体の外部に位置する他者の明確なイメージが築かれる。
その推進者となるのが、商人であり、貨幣である。
それでは、なぜ貨幣が推進者となるのか。
それは、貨幣を通じて、
共同体の外部に存在するモノを手に入れ、
みずから生産するモノを売却することが可能になるからである。
共同体の外部が忌避すべき闇の空間でしかない状態から、
共同体の内と外に明確な境界が引かれ、
ある特定の共同体に属しながらも、
その外部にも同時に存在することを可能にするのが、
貨幣なのである。
他者が、貨幣と交換可能なモノ、つまり商品を売買したいという希望を掲げていれば、
それによって他者のイメージは固定され、
他者の不透明性を払拭できる。
こうして、貨幣は、共同体外部への関心を誘発していく。
そして、カースト制のような閉鎖的な社会とは大きく異なり、
ふたつの異なる世界において、
同一性を築こうとするのである。
もちろん、誰もが商人になるこのような世界がすぐに出現するわけではない。
そのためには、まず貨幣が複数の共同体のあいだで認知されなければならない。
そして、マルクスが注視したように、多くの者が賃金労働者として「労働力」を売るような状況が必要である。
そして、そうした状況が実際に現れてくるのが、マルクス自身が観察した通り、
一九世紀のイギリスなのである。
単独の世界に帰属することも、複数の世界に関わることも認める世界は、
労働が労働力として商品になり、
賃労働が普及する資本主義の世界においてである。(p.180~181) 「零度の社会」荻野昌弘著 世界思想社
ある共同体において、
共通の神を信じているということが、
その成員を共通の成員として成り立たしめるのであれば、
その共同体の外部に存在する異質な存在と、
その共同体を繋ぐのが、貨幣である。
なぜなら、
貨幣はある共同体においても、その外部においても通用する、
包含関係における共通要素だからである。(荻野昌弘)
だからこそ、
貨幣は経済の相互依存を通して平和をもたらす可能性を秘めている。(デービッド・ヒューム)
しかし、貨幣は、ある社会における間主観性(フッサール)を、他の社会にも押し付ける、侵食するような暴力性も秘めている。
ある社会における間主観性とは、
例えばミカンをある集合とみなせば、その要素、つまりその集合の要素としての一つ一つのミカンは、何千個、何万個あっても、すべて一つずつミカンとして数えることになる。
これは、物心のついていない子供や、狂人以外ならば、
その社会の決まりごととして受け入れられるからだ。
その一つ一つの計量可能性が、理性の暴力的な側面として現れる。(アドルノ)
理性の働きを物心のついていない子供や、狂人と対比させるならば、
「オデュッセイア」において、
ポリュペーモスの問いに対しウーティス(何者でもない)と答えるのは、
自らの自己同一性を偽る狡知であり、
セイレーンの性的誘惑から逃れるのも、
また理性の狡知である。
つまり、人間の理性の狡知は、複数のアイデンティティーを使い分けたり、性的欲望をコントロールする、といった、現代人が社会において暮らすうえで、必要な能力なのである。しかし、アドルノはその理性の狡知に、自己同一性の揺らぎや性的欲動といった、ニーチェ的欲動との相克を見て取るのである。
グローバリゼーションによって、
世界の富の大きさは拡大したが、
分配に著しい偏りが生じたことは、
論を俟たない。
日本においても、
新自由主義的な政策の結果、
正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。
そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、
自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。
エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、
旧来の中間層が、
自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、
生活も苦しくなってくると、
ドイツの場合は、
プロテスタンティズムのマゾ的心性が、
ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、
まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。
日本ではどうだろうか?
過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、
それは、
安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、
そうでなければ、
社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。
そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。
本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ)
グローバリゼーションが
後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、
グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、
反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、
日本に限ったことではないのかもしれない。
むしろ、
アドルノの言明を素直に読めば、
資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、
本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。
さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、
人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。
社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
ちびまる子ちゃん (再掲) 妄想卒論その5
どういうわけか 最近 母親が ちびまる子ちゃんの 再放送を見てるんだが、 昨日の放送だと、 ノグチさん?とかいう、 見た瞬間に 陰キャと判定できる、 しかもひねくれた女の子が、 お菓子目当てで、 他の いつもの連中と ちびまる子ちゃんの家に集まってるんだけど、 そこに、 ちびまる子ちゃんの母親はもちろん、 おじいさん、 (もしかしたらおばあさんも?) まで 集まって、 そのノグチさん?の 繰り出す 卑屈なクイズに付き合ってあげてるんだよね。 ちびまる子ちゃんって、 他にも 玉ねぎ頭のナガサワくん?だっけ? みたいな ほぼつねに ひねくれてる キャラが出てくるけど、 そういう日陰者にも、 漫画の中でとは言え、 居場所があったんだな、と思うわ。 もしかしたら、 現代の日本は、 効率性の美名のもとに、 そういう日陰者に対して、 お前は陰キャだ! ひねくれ者だ! そして それはお前のせいだ! 自己責任だ! と、 ネガティブな心性を内面化させ、 社会から居場所を排除した社会なのかも知れない。
反・決定論 (再掲) 妄想卒論その4
私はここまで、決定論という見方は過去の確定性・決定性を全時間へと誤って適用してしまった一種の錯覚だ、論じてきた。しかるに実は、この「過去の確定性」という出発点をなす捉え方自体、厳密には申し立て難いのである。「過去」という概念自体に関わる、超一級の哲学的困難が存在するからである。ほかでもない、「過去」は過ぎ去っており、いまはないので、本当に確定しているかどうか確かめようがなく、不確実であって、よって過去それ自体もまた偶然性によって浸潤されてゆくという、このことである。 「確率と曖昧性の哲学」p.114 一ノ瀬正樹 岩波書店 私は、そもそも「決定論」という概念それ自体、字義通りに受け取った場合、意味をなさないナンセンスな主張だと考えている。私が決定論を斥ける根拠ははっきりしている。決定論とは、平均的に言って、「すべては因果的に決定されている」とする考え方であると言ってよいであろう。しかるに、「すべては」という以上、未来に生じる事象も含めて丸ごと「決定されている」と言いたいはずである。しかし、生身の身体を持つ私たち人間が、一体どんな資格で、未来の事象すべてについて、そのありようを断言できるというのか。私には、そのように断言できると述べる人たちの心境が到底理解できない。こうした理解不能の断定を含意する限り、「決定論」を受け入れることは哲学的良心に反する、と私は思うのである。ここにはおそらく、過去の事象がすでに「確定/決定されてしまった」という過去理解(これは、おおむねは健全だと言える)から、すべてが「決定されている」という無時制的な主張へと、不注意かつ無自覚的にジャンプしてしまうという事態が潜んでいるのではなかろうか。 「確率と曖昧性の哲学」p.257~258 一ノ瀬正樹 岩波書店
詐欺と贈与の社会学 (再掲) 妄想卒論その3
詐欺師の存在は、本書で繰り返し指摘してきたように、現実には非社会的な部分があり、それが不確定性を生んでいることを端的に示す。 というのも、詐欺師は、あたかも世界には予測不可能な事態以外存在しないかのように行動しているからである。 そして、詐欺師のように不確定性に賭ける意志を持たなければ、ひとびとに対して、未来への地平を開くことはできない。 逆にいえば、危険のある不確定な状態こそが、未来への地平を開くのである。 それは、実現することが困難な「物語」の方にひとびとは魅了され、その方が希望を与えることがあるからである。 実現可能かどうかは不確定な場合、合理的に計算可能な範囲を越えている場合にこそ(計算可能なのは「リスク」である)、 物語は価値を帯びるのである。(「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」荻野昌弘 世界思想社 p.187~188)
合理性と信用 メモ (再掲) 妄想卒論その2
合理性と信用 という 語彙は、 一見 よく馴染むように 見える。 しかし、 社会が 合理的に 組織されれば されるほど、 詐欺が 必然的に 起きる。 なぜなら、 合理性が 追求された 社会においては、 相手を 欺くことが 合理的自己の 利得に なるからである。 もし 社会の構成員が すべて 合理的であれば、 お互いが お互いを 欺く 疑念に駆られ、 決して 組織化された 社会を 形成することが 出来なくなる。 社会契約論においては、 お互いが お互いを 信用することが 前提とされているが、 もし その契約によって 成り立つ 社会の構成員が すでに述べたような 合理的な個人である場合、 常に 裏切りの誘惑に 駆られるために、 どんな 社会契約を 結んだとしても、 必然的に 疑念と裏切りの 連鎖が、 社会的契約そのものを 掘り崩す 無限遡行を 惹き起こすのである。 従って、 現に 社会が成立している ということ それ自体が、 人々が 完全には 合理的には 行動しては いない、 ということを 意味する。 言い換えれば、 社会が成立している ということ それ自体が、 人が人を信用する 能力を持っている 証拠なのである。 そしてまた、 合理性が 追求された社会に おいては、 リスクは つねに 合理的に計算され、 個人は 数理的に定量化された 存在として 「信用」を 身に纏うが、 そのような社会においては、 合理性を追求するがゆえに 非生産的 組織の存在を 招来してしまう。 合理的に組織されたはずの 官僚制が その 非生産性ゆえに 非難の的になる、 という 事態が、 これを 例証している。 そのような社会においては、 「詐欺」の 存在可能性 そのものが、 「管理された社会」を 脱-構築する 希望の 可能性として 機能する。
生きにくい社会 妄想卒論その1
回転すし店で
イタズラ行為を
動画に撮って
ツイッターに
あげて
騒ぎになった
人物が、
叩かれたりする。
しかし、
その正体を
暴いてみれば、
取るに足らない、
他愛もない
人物だったりする。
いわゆる、
トー横民だったり、
ドン横民だったり、
グリコ上だったり。
彼らは、
そういう
寄る辺なき
辺境をさまよう
「貧者」であったりする。
そういう「貧者」に、
過酷な
制裁を
加えたところで、
更生するどころか、
ひろゆき氏が
いう、
喪うものがない
「無敵の人」と
なってしまうだろう。
社会が
喪うものがない
「無敵の人」で
溢れてしまったら、
社会は崩壊する。
社会契約論を
持ち出しても、
その前提には
その
社会契約を
守る、
という
暗黙の前提があるが、
その
前提すらも
守らなかったら、
暗黙の前提を守る、
という
合理性の
無限遡行が
起きるからだ。
つまり、
ランドル・コリンズが
言うように、
我々は
完全には
合理的には
生きておらず、
社会が成り立っているという
こと自体が、
人々が
多少なりとも
非合理的に
生きている
証拠だ、
ということが
言える。
しかし、
人々が
自らの
非合理性に
気づかず、
ありもしない
「合理的な社会」を
生きていると
思い込んでいるとすれば、
それは
「合理的な社会」よりも
さらに
生きにくい社会
とは
言えないだろうか。
各人が
自分の
手前勝手な
「合理性」を
相手に押し付け、
違犯するものを
糾弾する。
それは
とても
生きにくい社会だろう。
ポピュリズム政党の台頭は、
そんな
生きにくい社会の
実体の
現れである
かもしれない。
韓国語能力試験Ⅱ
中級と上級が
一緒に
出題される
んだけど、
分けて
くれないかなー?
中級レベルなら
ちょっと
慣れれば
解けると
思うんだけど。
以前は
中級と上級で
別れてたのに、
数年前に
合わせて
出題される
ようになった。
中級レベルなら
解けるんだが。
上級レベルも
一緒だと、
疲れる。
問題ごとに
これは
中級ですよ
これは
上級ですよ、
と
分かるように
してくれれば
まだ
いいのに。
わからないと
慌てるよね。
特に
リスニングとか
時間との
戦いだし。
いつか
また
別々に
出題してくれる
ことを
願う。
・・・とある
韓国語教室に
問い合わせたら、
教えてくれた。
中級狙いなら、
途中まで
解けば
いいらしい。
それなら
なんとかなる。
https://www.kref.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2022/04/kankokudm_web0425.pdf
大谷と村上
バットスイングの
スピードが
圧倒的に
違うよね。
見た目でも、
少なくとも
1・5倍
くらいは
違う。
村上の場合は
バットに
乗っけて運ぶ
って
感じだけど、
大谷は
一気に叩くって
感じ。
必ずしも
村上が劣ってる
わけじゃないし、
バッティングの個性
だと
思うけど、
メジャー級の
スピードボールやら
微妙に動く
球に対応するには、
明らかに
大谷に
分がある。
しかも、
初見の相手のボールを
捉えるには、
問答無用で
叩ける
くらいの
技術が必要。
村上が
そういうレベルに
到達するには、
松井秀喜
が
苦労したくらいの
工夫が必要。
あるいは
吉田正尚が
メジャーで
通用すれば、
それを
お手本にする
、のもいいだろう!
いずれにせよ、
国際大会の舞台で、
前の
バッターが大谷で
4番を
村上が打つってのは、
無理がある。
プレッシャーで
潰される。
どうしても
大谷を3番で
打たせたいなら、
4番は
吉田正尚で
いいと思う。
ヤフコメ民は馬鹿ばっか
https://news.yahoo.co.jp/articles/dcb30fe8d8eca3b0cdaca71043e16dce35a38f52
高市自身が、
文書の内容が
正しかったら
議員辞職する
とまで
啖呵切ってんだから、
官僚が
政治家の首
飛ばす
ような
答弁するわけねーだろ。
ちょっとは
考えろ。
「可能性が高い」
と
言ってるだけでも
相当
踏み込んでるぞ。
それが
わかんない奴は
政治
に
ついて
あまりにも
無知。
2023年3月13日月曜日
歴史的転換点
イランとサウジアラビアが
中国の仲介によって
和解。
中東に
化石燃料を
依存し、
天然ガスを
ロシアに
依存する
日本は
どうするのか?
中国にも
ロシアにも
逆らえなくなるんじゃないか?
アメリカに
頼るしか
ないだろう。
アメリカも
シェールガスで
潤沢な
石油資源の
保有国だから。
問題は
イスラエルだな。
反・中露陣営は
半導体を
中心とした
ハイテク製品の
供給を制限することで
中露に対抗しているが、
イスラエルの
ハイテク企業は
今後の
中東情勢で
どう
動くのか?
法治主義を否定する官房長官 (再掲)
質問:今年(2018年)8月21日に、菅官房長官が、記者会見で、携帯料金を4割値下げする、と発言し、auをはじめとする携帯会社の株価が一時下落しました。 要件としては、 ①官房長官は 行政庁か ②官房長官の 記者会見は 行政行為か ③損失を被った 株主の 原告適格、 の3つと考えられます。 一番の論点は ②の 官房長官の 発言は 行政行為か、 と思われます。 仮に取消訴訟で勝って、 官房長官の発言が無効とされたとしても、 株価が戻るかは不確実で、 損害賠償もしてもらえないとなれば、 わざわざ訴訟を提起するのは デメリットのほうが大きくなってしまいます。 文字数制限の都合で、論理が飛躍している部分がありますが、ご容赦ください。 ご回答:ご質問ありがとうございます。 まず①との関係では、 官房長官は 行政庁には当たりません。 行政庁とは、 行政主体 (ご質問との関係では国) のために 意思決定を行い これを表示する権限を有するものをいう (印刷教材45頁) のですが、 携帯電話事業に対する 事業認可の権限を もっているのは 総務大臣でして、 官房長官が 料金設定についての発言をして これが料金設定に影響を及ぼすとしても、 それはあくまでも事実上のものだからです。 また、質問事項② については、 行政行為 とは、 行政庁が法律に基づき 一方的に 国民や住民の 権利義務の 個別的・具体的な内容を 直接確定する 行政機関の活動形式をいう (印刷教材70頁参照) わけですが、 官房長官の記者会見は、 法律に基づき 国民や住民の 権利義務の 個別的・具体的な 内容を 確定するもの ということが できませんので、 行政行為に該当する ということが できません。 さらに 質問事項③ に つきましては、 原告適格以前に 問題となることがあります。 それは、 官房長官の発言が 取消訴訟の対象となる 「行政庁の処分」 (行訴法3条2項) の 要件を満たさない、 ということです。 つまり、 「行政庁の処分」 とは、 「公権力の主体 たる 国又は公共団体 が 行う行為のうち、 その行為によって 直接国民の 権利義務を形成し 又はその範囲を 確定することが 法律上 認められている ものをいう」 と されている (印刷教材170頁参照) のですが、 官房長官による 記者会見での発言は、 国民などの 権利義務の 個別的・具体的内容 を 確定するという 法的な効果を発生させるもの ではないので、 「行政庁の処分」 という 要件を満たしません。 したがって、 損失を被った株主の 原告適格が あるかないか、 ということを 問う以前に、 そもそも 質問にある 発言 は 取消訴訟で争う ことができる 対象には 当たらない、 と考えられます。
2023年3月12日日曜日
わかりにくい
との
ご指摘を
受けたので、
弁明しておくと、
ある記事を
掲載した後に、
関連する記事を
主に
過去の投稿の中から
拾ってきて
続けて連投するので、
自然と(再掲)と
タイトルに含まれている
記事が多くなり、
混乱を来たしますが、
例えて言えば
遺伝子のように、
ここからここまでは
ひとまとまりで
何か言いたいのだな、
と
解釈していただければ、
少しわかりやすいかも知れません。
また、
一時期「生活と福祉」ラベルを
多用していましたが、
卒論のネタにしようかと
目論んでいたこともあり、
「生活と福祉」ラベルならば
あまり
込み入った話は避け、
常識で理解できる話を
「生活と福祉」に
ラベリングしているつもりなので、
このブログの
最大公約数的なものは
「生活と福祉」カテゴリーで
ご覧になっていただければ
コアの部分は
多少見えてくるのではないか、
と
思われます。
ただ、
それでも
最近は
健康やメンタルヘルスなどの
雑多な記事も
「生活と福祉」カテゴリーに
ラベリングされているので、
まとまりが悪いのですが。
平にご容赦。
平成金融史
非常に面白い。
これ、基本的に様々な記録に基づく
ドキュメンタリーだけど、
公的記録っていうのは、
後の時代から
過去を振り返って
検証する時に
必要不可欠な
ものなのに、
そういう類の
記録を、
閣僚経験者が
平気で
捏造だとか
不正確だとか
言ってのける
神経っていうか
感覚というのは、
ほんと
ヤバい。
それにね、
行政法上では、
行政が犯した
ミスについて
責任を問われるのは、
個々の官僚ではなく、
行政庁たる
(この場合)
所管大臣なわけですよ。
ぶっちゃけて言えば、
高市氏が
総務大臣の時に
総務省の行政文書が
捏造されたならば、
その責任は
当時の
行政庁たる
高市元総務相が
負うんですよ。
国会でも
追及されてましたけど。
でも、
たまに、
法律ってのは
よく出来てるなーと
思うのは、
こういうことが
起こった場合、
個々の官僚が
責任を取らされたら、
結局
政治家が
トカゲの尻尾切り
する
モラルハザードを
引き起こすのが
目に見えているから、
なるほど、
こういう事態を
想定すれば、
行政の責任は
個々の官僚ではなく
行政庁が
取る、
という
仕組みになってるのか、
と
納得できる。
それはともかく、
この本が
扱ってる時代が、
ちょうど
自分が
物心ついた頃からの話
だから、
ああ、なるほど
自分があんな感じの
子供だった頃、
政治の裏舞台は
こうなってたのか、
と
腑に落ちる感が
あります。
・・・すごい
情報量だ。
まだ
半分しか
読み終えていない。
新書でこれだけ
情報量が豊富
なのは、
久しく記憶にない。
これで
1000円切る(税抜き)のは、
衝撃的だ。
ともあれ、
平成という時代は
日本の
金融が
坂道を転げ落ちた時代
だったのだ
と
知った。
ちょうど
自分が
生きてきた
時代と重なる。
灯台下暗しで、
歴史というのは
自分自身に
近いほど
見えにくいものだが、
これは
非常に
優れた
現代史として
読むに値する。
・・・ちょうど
自分が
高校生くらいの頃の話
だけど、
日本は
こんな
大変な
金融危機の真っ只中にいたのか。
知らなかった。
大蔵官僚とか
日銀の職員てのも、
分相応に
大変なんだな。
読んでて
胃が痛くなった。
こりゃあ
並の神経じゃ
つとまらないわ。
エリートはエリートで
大変だ。
これじゃ
東大卒が
官僚になりたがらない
のも
無理はない。
・・・読んでると
暗澹たる気持ちに
なってくるね。
日本が没落したのは
ここ最近に
始まった話じゃ
なかったんだ。
平成時代に
まるまる
坂を
転がり落ちていって
いたのだった。
2023年3月11日土曜日
相変わらずTBSは脇が甘いなー
報道特集で、
安倍、高市、磯崎
の
3人で
放送行政を
歪めようとした、
と
突っ込んで、
お、やるじゃん。
って
思ったんだけど、
最後の
締めの
コメントで、
亡くなった
赤木俊夫さんの話を
持ち出しながら、
浮遊する
赤木さんの
写真を全面的に
映しながらの、
アクロバティックなカメラワークで
コメントが
語られるわけなんだけど、
それじゃ
視聴者にとっては、
赤木さんの
写真の方に
気を取られて、
いわば
サブリミナル・マインド効果的に
コメントを
脳内に
刷り込ませてるようで、
かえって
その
脇の甘さを、
右傾政治家とか
ネトウヨに
突っ込まれるんだよなあ。
ほんっと
相変わらず
学習しねえわ。
この局。
あの
カメラワークやめて、
純粋に
コメントだけで
良かったのに。
脱常識の社会学
画期的な一冊だ。
組織で生きる
コツが書かれている。
それはすなわち、
組織に
コミットする
姿勢を
顕にする、
ということだ。
一見
自明なことだが、
その
「当たり前」を
分析するのが
社会学の
神髄。
あー、でも
思い出した。
SFCのサークルで、
コミットメントする
姿勢を
全面的に出したのに、
その
姿勢に
完全につけ込まれて、
利用されまくった
挙げ句、
俺が
プッツンしちゃったんだったなー。
俺だって
最初から
組織にコミットする
意志がないほど
ひねくれた
人間じゃなかったんだよなー。
ただ、
こっちが
コミットメントしようと
すればするほど、
そこに
つけこむ奴らが
現実にいるっていうことを、
苦い教訓として
学んじゃったんだよね。
それと、
たかが
10人程度の
サークルのなかで
権力を掌握する
輩が居たわけだけど、
プレイヤーとしての
巧拙は関係なく、
単に
名目上代表であることを
超えて、
他チームとの
交渉上の
駆け引きを
排他的に
握っている、
もしくは
サークルのメンバーに
そう
思わせる
ことによって、
サークルの運営に関する
「不確実な要素」の
決定権を
握っている、
ということが、
あの輩が
権力を掌握できた
秘訣だったのだ。
とはいえ、
組織には
意思決定に関して
不確実な要素
というのは
どんな組織、時代
においても
必ず
ついてまわる
のだから、
権力が
各人に
平等に
割り当てられる、
ということは
決してないのだ。
そして、
権力の臭いに
敏感な
やつは
どんな時代にも
いるのだから、
平等を
装う組織に
おいてこそ、
独裁的な
人物が
現れるのも、
これまた
必然という
ことなのだろう。
従って、
権力というのは
えてして
特定の
人物、小集団に
集中するから、
それを
監視・抑止する
必要がある、
という
当たり前の結論
が
導き出される。
「脱常識」と
銘打ちながらも、
常識を疑い、
その
見えづらい
存立基盤を
明快にする、
という
ことなのだろう。
これが
社会学の神髄
と
いうことだろう。
三谷太一郎氏の
分析によれば、
江戸幕府体制
というのは、
決して
将軍独裁の政治
ではなく、
将軍も含めて、
トップから末端まで、
極めて
相互監視・相互抑止
が効いた
社会だったそうだ。
明治日本が
有司専制と
いわれながらも
難局を乗り越え、
アジアで
いち早く
西欧政治体制を
実現できたのも、
江戸幕府の
相互監視・相互抑制
の
精神が
身について
いたからだ、
と
考える。
2023年3月10日金曜日
遊びの社会学 (再掲)
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93
wbc(再掲)
はっきり言って、 迷惑なんだよね。 ついさっきまで 日本シリーズまで 戦ってた 選手を、 シーズンオフで 使われたら。 本来なら ゆっくり 休養して 来シーズンに向けて 準備する期間を、 こういう形で 使われるのは、 はっきり言って、 迷惑以外の 何物でもない。 落合さんが 言ってた ことが よく分かるわ。 レギュラーシーズンで 出番がなくて くすぶって ウズウズしてる 選手を 使うなら わかるが。 人選考えろよ。 野球選手だって 生身の人間 なんだよ! 落合さんの 「野球選手は個人事業主」って 言葉も、 実は 選手個々人に対する 最大限の 愛情であって、 ファンとスポンサーの エゴから 選手を 守るためには、 その言葉が 一番 強力。 普段対戦しないような 海外の選手と 対戦できるから、いい、 というかも知れないが、 修学旅行じゃねえんだよ! 村上が来シーズン 絶不調になったり、 最悪ケガしたら、 誰がどう 責任とって くれるんだよ? そもそも、 北朝鮮が 米韓の合同軍事演習に 反発して ミサイルバンバン発射してる、 中国は台湾併合の意志を公言してる、 そんな中で、 韓国とか台湾の選手が シーズンオフに ガチで 野球なんかやると思うか? アメリカにしたって、 分断社会と言われるなかで、 選挙が控えてるし、 ロシアのウクライナ侵攻で ギクシャクしてる中で、 のうのうと 野球やってる選手なんか、 単純に 自分の 就活以上のことは 考えてないだろ。 日本人は こういうところが バカなんだよ!
2023年3月9日木曜日
反・決定論 (再掲)
私はここまで、決定論という見方は過去の確定性・決定性を全時間へと誤って適用してしまった一種の錯覚だ、論じてきた。しかるに実は、この「過去の確定性」という出発点をなす捉え方自体、厳密には申し立て難いのである。「過去」という概念自体に関わる、超一級の哲学的困難が存在するからである。ほかでもない、「過去」は過ぎ去っており、いまはないので、本当に確定しているかどうか確かめようがなく、不確実であって、よって過去それ自体もまた偶然性によって浸潤されてゆくという、このことである。 「確率と曖昧性の哲学」p.114 一ノ瀬正樹 岩波書店 私は、そもそも「決定論」という概念それ自体、字義通りに受け取った場合、意味をなさないナンセンスな主張だと考えている。私が決定論を斥ける根拠ははっきりしている。決定論とは、平均的に言って、「すべては因果的に決定されている」とする考え方であると言ってよいであろう。しかるに、「すべては」という以上、未来に生じる事象も含めて丸ごと「決定されている」と言いたいはずである。しかし、生身の身体を持つ私たち人間が、一体どんな資格で、未来の事象すべてについて、そのありようを断言できるというのか。私には、そのように断言できると述べる人たちの心境が到底理解できない。こうした理解不能の断定を含意する限り、「決定論」を受け入れることは哲学的良心に反する、と私は思うのである。ここにはおそらく、過去の事象がすでに「確定/決定されてしまった」という過去理解(これは、おおむねは健全だと言える)から、すべてが「決定されている」という無時制的な主張へと、不注意かつ無自覚的にジャンプしてしまうという事態が潜んでいるのではなかろうか。 「確率と曖昧性の哲学」p.257~258 一ノ瀬正樹 岩波書店
詐欺と贈与の社会学 (再掲)
詐欺師の存在は、本書で繰り返し指摘してきたように、現実には非社会的な部分があり、それが不確定性を生んでいることを端的に示す。 というのも、詐欺師は、あたかも世界には予測不可能な事態以外存在しないかのように行動しているからである。 そして、詐欺師のように不確定性に賭ける意志を持たなければ、ひとびとに対して、未来への地平を開くことはできない。 逆にいえば、危険のある不確定な状態こそが、未来への地平を開くのである。 それは、実現することが困難な「物語」の方にひとびとは魅了され、その方が希望を与えることがあるからである。 実現可能かどうかは不確定な場合、合理的に計算可能な範囲を越えている場合にこそ(計算可能なのは「リスク」である)、 物語は価値を帯びるのである。(「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」荻野昌弘 世界思想社 p.187~188)
人間不信と金融 (再掲)
「華麗なる一族」は本当に勉強になる。 まだ途中だけど、 万俵鉄平は可哀想だな。 特殊鋼業界初の高炉建設の夢をたぎらせながら、 一本気な技術者として邁進しているのに、 父親が頭取である 阪神銀行からの融資を渋られたり、 たぶん陰で嫌がらせされている。 それは、一重に、 鉄平が自分の実の子ではなく、 父親が妊ませた子なのではないか、 という不信感から来る。 人間、なんで他人にカネを貸すか?って言ったら、 相手が利子付けて還してくれるのはもちろんのこと、 根本的には、 カネを貸す相手を信用するからだよね。 カネを貸した瞬間に還って来るわけではない以上、 そこに不確定な時間上のズレが生じざるを得ない。 そこには当然、リスクが生まれる。 そのリスクが金利という形で現れるわけだが、 貸したカネが還ってくる可能性が低いほど、 金利が高くなる、 また、返済までの時間上のズレが長くなるほど、 金利が高くなる、 というのが道理だろう。 カネを借りるほうは借りるほうで、 あらん限りの知恵を絞って、綿密に事業計画を立て、返済計画を立てるだろう。 しかし、 どんなに良心的な借り手が、あらん限りの精緻さで事業計画を立てたところで、 未来の事象には、本来的に不確定性がつき纏う。 その分だけ、 リスク・プレミアムとして更に金利が高くもなるだろう。 しかし、 未来とは本来的に不確定なのだ。 直近の事例にしたって、 まさか安倍氏が突然あんな最期を遂げると誰が予測し得ただろうか? 日銀がいくら超金融緩和を継続し、 イールド・カーブ・コントロール政策を強行して、 金利の上で未来の不確定性のリスクを低くしたところで、 未来とはやはり不確定なのだ。 では、終極的になぜ人は他人にカネを貸すか?といえば、 結局は、 騙されてもいいからちょっとやらせてみるか。 という発想だろう。 それこそ井上俊が言ったように、 「詐欺が成り立ち得ないところでは、社会もまた成り立ち得ない」 のである。 人が騙されるということは、裏を返せば人を信じる能力があるということの証左である。 これも、井上俊が言ったことだ。 ちょっと、 今の日本の空気は、1億総人間不信なのではないか? 社会全体が他人に対して不信感で凝り固まっていたら、 日銀がいくら頑張ったところで、限界があるのは自明のことだ。 ちょっと騙されたな、ま、しょうがないか!というくらいの心積もりがなければ、 景気なんか良くなるはずがない。 https://www.sankeibiz.jp/business/news/190726/bse1907260650001-n1.htm
合理性と信用メモ
合理性と信用
という
語彙は、
一見
よく馴染むように
見える。
しかし、
社会が
合理的に
組織されれば
されるほど、
詐欺が
必然的に
起きる。
なぜなら、
合理性が
追求された
社会においては、
相手を
欺くことが
合理的自己の
利得に
なるからである。
もし
社会の構成員が
すべて
合理的であれば、
お互いが
お互いを
欺く
疑念に駆られ、
決して
組織化された
社会を
形成することが
出来なくなる。
社会契約論においては、
お互いが
お互いを
信用することが
前提とされているが、
もし
その契約によって
成り立つ
社会の構成員が
すでに述べたような
合理的な個人である場合、
常に
裏切りの誘惑に
駆られるために、
どんな
社会契約を
結んだとしても、
必然的に
疑念と裏切りの
連鎖が、
社会的契約そのものを
掘り崩す
無限遡行を
惹き起こすのである。
従って、
現に
社会が成立している
ということ
それ自体が、
人々が
完全には
合理的には
行動しては
いない、
ということを
意味する。
言い換えれば、
社会が成立している
ということ
それ自体が、
人が人を信用する
能力を持っている
証拠なのである。
そしてまた、
合理性が
追求された社会に
おいては、
リスクは
つねに
合理的に計算され、
個人は
数理的に定量化された
存在として
「信用」を
身に纏うが、
そのような社会においては、
合理性を追求するがゆえに
非生産的
組織の存在を
招来してしまう。
合理的に組織されたはずの
官僚制が
その
非生産性ゆえに
非難の的になる、
という
事態が、
これを
例証している。
そのような社会においては、
「詐欺」の
存在可能性
そのものが、
「管理された社会」を
脱-構築する
希望の
可能性として
機能する。
2023年3月8日水曜日
バカバカしい
WBCだけど、
大谷みたいなのと
一緒にやったら、
否が応でも
ハッスルしちゃうでしょ。
そりゃ
刺激になると
言えば
確かに
そうだけど、
本来なら
シーズンオフで
体を休めたり
あるいは
次の
シーズンに向けて
調整する時期に、
しかも
まだ
予選リーグですらない
壮行試合で
こんな
マジになって、
今年1年
体が保つのかね?
だから、
迷惑なんだよ。
一安心
高崎の眼科で
円錐角膜という
病気と診断されて、
しかも、
怖い病気ですよ、
なんて
脅すもんだから、
ひぃ
って
感じだったけど、
紹介された
円錐角膜の
治療を
専門的に行っている
前橋の
眼科に行ったら、
軽度、
と
言われました。
言うよねー
(「・ω・)「
ただ、
そろそろ
メガネは必要かもしれない。
新しいメガネデブの誕生。
ひどい
放送大学の
面接授業の
当落が
発表されて、
落としたくない
授業は
ぜんぶ
受かったから
良かったんだけど、
学費の
合計金額を
筆算で
割り出そうとしたら、
2ケタの
簡単な
掛け算も
出来なくなってた。
どんだけー!!!
よっぽど
数学のセンスが
ないんだね。
失笑。
英単語は
いくらでも
ってほどでもないけど、
覚えられるのに。
よく考えたら、
実家の
文字通り目の前に
そろばん教室があって、
物心ついた
頃には
やってたのにね。
それでこの
お粗末な
計算能力じゃね。
( ´,_ゝ`)プッ
2023年3月7日火曜日
conversation in English
ジョンさん:Korean government will pay Ianfu mondai survivors instead of Japan. This is causing great anger in Korea. Survivors will reject the money from Seoul government. But Seoul hopes Japan will make next move and contribute money if Korea does so first. I don’t think Japan will ever pay, either Tokyo Govt or private companies. I think Seoul is mistaken. 俺:No doubt there must be political remuneration. But I cannot figure out it. Korean Presidency is always embroiled in accusing whatever kind of political drawbacks. Mr. Yun is alike. I don't think it is fruitful. ジョンさん:I think Korea is making the first major overture to improve relations with Japan to counter Chinese aggression. It is very unpopular in Korea so he is taking a big risk. If Japan doesn’t stifle its extreme Rightists and reciprocate the Korean Good will gesture, the US should tilt completely in Korea’s favor and shun Japan as an unreliable ally. It’s time for the LDP to abandon its extreme parochial nationalism and finally join hands with its natural non-communist Asian allies. 俺:If the Kishida cabinet could do, it would be a great achievement. But it will cost his political life. ジョンさん:Japan’s biggest mistake was trying to destroy Sho Kaiseki’s anti-communist regime and thereby ensuring a Red takeover of China. Not cementing ties with South Korea fir petty political reasons means Jimintou is unworthy of leading Japan. Sometimes doing the right thing is more important than doing the politically expedient thing. It is what JFK called a political “Profile in Courage.” He wrote a book on it. LDP pols should read it. I hope Kishida has political courage. 俺:You might get upset. But Kishida could be another Jimmy Carter. I read an article on him, arguing he has been underestimated. ジョンさん:Carter did excellent free-lance diplomatic work after his presidency, he went to North Korea, for example and spoke honestly about Palestine. But he was a failure as president. 俺:He is not popular in US I guess. ジョンさん:He was very popular after his presidency. The most popular ex-president because he worked very hard his whole life. But like I said, his actual presidency is seen as a disaster. Even Camp David is a huge failure because it left the Palestinian problem untouched. He should have put it in the middle of negotiations. 俺:You mean Teheran captivation? ジョンさん:No, that was horrible as well. I mean the Egyptian Israel Peace Accord didn’t touch the real middle eastern problem: a Palestinian homeland. Until Palestine is free, there is no peace. 俺:Israel technology is helping himself get closer with the Arab. ジョンさん:Wealthy Arab oil producing nations are selling out the Palestininians at an alarming rate. Money talks. Business with Israel takes precedence over Palestinian justice. Carter at least wrote a book highlighting the Palestinian’s struggle. 俺:Did he ? After all Japanese people shall get more matured. Yes. Money talks. Korea is rich and Japan has been getting poorer. It is difficult to ask the frustrated people for a good will especially in the international diplomacy. ジョンさん:If people don’t want to accept historical truth they have to face the consequences. If Japan doesn’t want to make amends with Korea, it will face the consequences. Like I said, the US will rightfully tilt towards Korea in all regional disputes. The Japanese public keeps voting for Rightists so I guess they don’t care either. When China completely dominates Asia, it will be too late for Japan to cosy up to Korea. 俺:Historicaly, Japan is always bad at diplomacy. Politicians care only about the domestic peoples. ジョンさん:If you read Profiles in Courage you will discover politicians who chose the right path despite domestic political repercussions. Maybe LDP politicians don’t have that same courage. 俺:No. ジョンさん:Yes, diplomacy is a weak point for Japan. Especially with its neighbors. De Gaulle had tremendous political courage extricating France from Algeria. I don’t know any Japanese leader like that. Nixon had great courage ending the Vietnam War. 俺:Even the invasions of Mongol in the middle ages are the outcome of lack of Bakufu diplomacy sense. ジョンさん:JFK had great courage accepting responsibility for the Bay of Pigs disaster. 俺:Japanese education shall pay more attention to teach the students on the uncomfortable truths. I mean, the negative side of our own country. ジョンさん:JSDF General tamogami would argue just the opposite, that all history teaching harps on negative things, forced on Japanese by MacArthur. He wants history whitewashed to inspire ultra nationalism. Like Abe. Korean PM Yoon has shown great political courage. If Kishida doesn’t reciprocate, he should resign. Korea shouldn’t ever try to deal with Japan after that, until Tokyo reciprocates. 俺:Luckily, the representative of foreign affairs Yoshimasa Hayashi is one of the best lawmakers. If he (and Kishida) couldn't show courtesy to Korea, nobody could do it. ジョンさん:Time will tell! 俺:I am now just reading NIKKEI shimbun, saying Japan-Korea relationship is proceding to normal directions. I hope so.
2023年3月6日月曜日
レポート下ごしらえその4 (再掲)
そもそも、人間の人間たる理由はなんなのか? それは、”善さ(good)”とは何か?ということだろう。 以前、あるニュースで、人工知能に”善さ(good)”とは何か?と繰り返し聞いたら、人工知能が怒り出した、という。 昨今、公共哲学界隈では、古代ギリシャに遡る徳倫理学が復権しつつあるそうだが、上述したような状況も無関係ではないだろう。 徳倫理学の代表選手はアリストテレスだが、日本人に馴染みのあるのは、その祖先と言ってもいい、ソクラテスを想像すればいいだろう。 モノの消費とコトの消費の対比でも考えたが、単純に選択肢の中から何かを選ぶ、ということと、それがどういう思想信条の表明であるか、というのは、次元の違う話なのではないか? つまり、単純にどういう結果を選択したか、というより、その結果を選択した根拠が再び問われる事態が起こっていると言ってよいだろう。 しかし、単に選択肢の中からチョイスをするということが、その人の思想信条の表明と全く無関係ということがあり得るだろうか? 〈私が選ぶ〉という行為は、私の志向と他者の志向を突き合わせ、つまりはコミットしようとする対話性を内包している。 まさに人はパンのみにて生くるものにあらずーー他者との関係性の上に展開するストーリー(人生の物語)抜きに生きるということはあり得ない。
レポート下ごしらえその3 (再掲)
選択行動を発する当の本人でさえ、自分が選んだのはモノではなく、背後のコトだということを意識しているとはかぎらない。経済学者たちに「xとyのうちいずれを選ぶか」と問われたとき、「わたしはそのモノがほしい」ということで選んでしまったが、本当は「わたしがそのモノをもつ」というコトの意味を十分考えるべきだったと後悔するかもしれない。本人でさえも、背後にあるコトの選択は無意識に行ってしまうのだから、社会が人々の選択したモノから、人々の背後にある選択されたコトを抽出するのは容易ではない。たとえ選択行動は同一でも、選んだ人にはいろいろな「思惑」があり、それを、行動が一致しているということから、社会が「万人は同意見だ」とするのは明らかにおかしい。わたしたちが本当に選んだり、訴えたり、要求したりしているコトは、訴えている一つの事例の中で要求している内容の即時的満足ではないのである。わたしたちは選ぶという行為を通して、自分が正しいと思うコトや、自分が良いと思うコトを、他人の正しいと思っているコトや、良いと思っているコトとつきあわせてみようとしているのである。
「『きめ方』の論理」 ちくま学芸文庫 佐伯胖 より
レポート下ごしらえその2 日経新聞 2022/11/4 5面より(再掲)
ブルーカラーの労働者は、朝から晩まで絶えず監視されることに慣れている。 無駄のない効率的な「リーン生産方式」を導入する工場の多くは、労働者の作業ペースをリアルタイムで監視するため生産性を測るスクリーンを作業現場などに設置している。 レストランや小売りチェーンなどサービス業に従事する低賃金の人々も同様だ。 これに対し、ホワイトカラー従業員はもっと人間的な方法で評価されてきた。 だが、今では監視資本主義によって彼らの労働も分単位で監視されるようになった。 しかし、テイラーイズムのいわばデジタル版は、将来への道筋を示すものではない。 特にテクノロジーではできない仕事の多くは、創造的思考や人間関係、チームワーク、ソフトスキルが決め手となる。 実際、職場でたまたま生まれるアイデアの交換や休憩場所での立ち話を通じた信頼関係の構築などは、まさしく管理ソフトでは追跡できない活動だ。
近代日本の炭坑夫と国策@茨城大学 レポート (再掲)
茨城大学強いわ。ここんとこ毎学期茨城大学行ってるけど、今回もめちゃくちゃ面白かった。面白いという言葉では言い表せない。アタマをバットで殴られるくらいの衝撃を感じた。 石炭産業を語らずに近代日本の経済発展は語れないと言って間違いない。 にもかかわらず、おおっぴらに語られることはほとんどない。 あたかも繊維産業が花形で日本経済の繁栄をほとんどすべて牽引したかのように語られている。 裏を返せば、それほどまでに、石炭産業を語るということは、現在に至るまで日本の暗部を映し出すことになるのかも知れない。 (以下レポート) 今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。 ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。 日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。 しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考えると、グローバリゼーションに対応しながら国民的自己決定を達成するには、国をまさに富国強兵のスローガンの下で一致団結させる必要があり、そこでは多様な民意というものを反映することは困難であり、したがって表現の自由が抑圧され、民主主義は達成できない、と考えられます。 戦前の日本に照らして考えると、前近代の村社会が国家組織の末端に組み入れられ、その中で炭鉱夫が生きるための最後の手段として究極のブラック職業として見なされていたこと、それでも西欧へ肩を並べなければならない、という官民一体の国家的意識のなかで、脅迫的に近代化へ歩みを進めざるを得なかった状況では、社会の底辺としての炭鉱夫には、およそ政治参加、すなわち民主主義の恩恵に浴することは出来なかった。それはとりもなおさず炭鉱業というものが本来的に暴力的であり、同時に「国策」としての帝国主義的性格を多分に内包していたことと平仄を合わせています。 中国のウイグル人の抑圧と戦前日本の坑夫を重ねて考えると、そのような構図が透けて見えてきます。
おまけ2 (再掲)
ところで、ルソーは疎外論の元祖だそうである。 「ホントウのワタシ」と「社会的仮面を被ったワタシ」の分離という中学生が本能的に感じるようなことに言及していたそうである。ここで、いわゆる『キャラ』について考えてみよう。 サークルの飲み会で、場にあわせてドンチャン騒ぎをやることに倦み果てて、トイレに逃げ込んだときに自分の顔を鏡でみるのは一種のホラーである。鏡に映る、グダグダになって油断して仮面を剥がしかけてしまった見知らぬ自分。それを自分だと思えず一瞬見遣る鏡の前の男。男は鏡に映る男が自分であることに驚き、鏡の中の男が同時に驚く。その刹那両方の視線がカチあう。俺は鏡を見ていて、その俺を見ている鏡の中に俺がいて、それをまた俺が見ている・・・という視線の無限遡行が起こって、自家中毒に陥ってしまう。 このクラクラとさせるような思考実験からは、<顔>についてわれわれが持っているイメージとは違う<顔>の性質を垣間見ることが出来るのではないか。そもそも、自分の顔は自分が一番よく知っていると誰もが思っているが、鷲田清一によれば、「われわれは自分の顔から遠く隔てられている」(「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22)という。それは、「われわれは他人の顔を思い描くことなしに、そのひとについて思いをめぐらすことはできないが、他方で、他人がそれを眺めつつ<わたし>について思いをめぐらすその顔を、よりによって当のわたしはじかに見ることができない。」(P.22)からだ。 言い換えれば、「わたしはわたし(の顔)を見つめる他者の顔、他者の視線を通じてしか自分の顔に近づけないということである。」(P.56)ゆえに、「われわれは目の前にある他者の顔を『読む』ことによって、いまの自分の顔の様態を想像するわけである。その意味では他者は文字どおり<わたし>の鏡なのである。他者の<顔>の上に何かを読み取る、あるいは「だれか」を読み取る、そういう視覚の構造を折り返したところに<わたし>が想像的に措定されるのであるから、<わたし>と他者とはそれぞれ自己へといたるためにたがいにその存在を交叉させねばならないのであり、他者の<顔>を読むことを覚えねばならないのである。」(P.56) そして、「こうした自己と他者の存在の根源的交叉(キアスム)とその反転を可能にするのが、解釈の共同的な構造である。ともに同じ意味の枠をなぞっているという、その解釈の共同性のみに支えられているような共謀関係に<わたし>の存在は依拠しているわけである。他者の<顔>、わたしたちはそれを通して自己の可視的なイメージを形成するのだとすれば、<顔>の上にこそ共同性が映しだされていることになる。」(P.56) こう考えると、「ひととひととの差異をしるしづける<顔>は、皮肉にも、世界について、あるいは自分たちについての解釈のコードを共有するものたちのあいだではじめてその具体的な意味を得てくるような現象だということがわかる。」(P.58)これはまさに、サークルなどで各々が被っている<キャラ>にまさしく当てはまるのではないか。サークルという場においては、暗黙の解釈コードを共有しているかどうかを試し試され、確認し合っており、そのコードを理解できないもの、理解しようとしないものは排除される。その意味では<キャラ>はまさしく社会的仮面なのだ。
漱石と資本主義 (再掲)
確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。
abject 「ファウスト」を深読みする 明月堂書店 (再掲)
「abjectは、subjectあるいはobjectをもじった造語です。 ab-という接頭辞は、『離脱』という意味があります。 母胎の原初の混沌、 闇に由来し、 subject/object の二項対立に収まり切らなかったもの、 それを排除しないと 秩序や合理性が成り立たないので、 抑圧され、ないことに されてしまう要素を abject と言います。」 「ゲーテ『ファウスト』を深読みする」(仲正昌樹 明月堂書店 p.164)より
the day that never comes (再掲)
言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。 やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章) なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。 しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。 三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。 こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。 静岡大学 森本隆子先生より https://www.youtube.com/watch?v=RD83oy7ksUE
ポピュリズムレポート予備 (再掲)
「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。
米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。
私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。
19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。
さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。
1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。
そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。
なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93
「エリートに対する人々の違和感の広がり、 すなわちエリートと大衆の『断絶』こそが、 ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。 ポピュリズム政党は、既成政治を既得権にまみれた一部の人々の占有物として描き、 これに『特権』と無縁の市民を対置し、 その声を代表する存在として自らを提示するからである。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
「二十世紀末以降進んできた、産業構造の転換と経済のグローバル化は、 一方では多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの発展を促し、 グローバル都市に大企業や高所得者が集中する結果をもたらした。 他方で経済のサービス化、ソフト化は、規制緩和政策とあいまって 『柔軟な労働力』としてのパートタイム労働や派遣労働などの 不安定雇用を増大させており、低成長時代における 長期失業者の出現とあわせ、 『新しい下層階級』(野田昇吾)を生み出している。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
富が集中するほど他者への信頼が下がり、「フェアネス(公正さ)指数」(日経新聞作成)が低くなる。同時にポピュリズムの場当たり政策に翻弄されやすくなる。
「国際都市ロンドンに集うグローバル・エリートの対極に位置し、 主要政党や労組から『置き去り』にされた人々と、 アメリカの東海岸や西海岸の都市部に本拠を置く 政治経済エリートや有力メディアから、 突き放された人々。 労働党や民主党といった、 労働者保護を重視するはずの政党が グローバル化やヨーロッパ統合の 推進者と化し、 既成政党への失望が広がるなかで、 既存の政治を正面から批判し、 自国優先を打ち出して EUやTPP,NAFTAなど 国際的な枠組みを否定する急進的な主張が、 強く支持されたといえる。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
人々の不満をあおるだけで解を示せないのがポピュリズム。不満のはけ口を外に求めた愚かさはナチスドイツの例を振り返っても明らかだ。
第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。(放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)
グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。
1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より
そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感覚だろうか。
「デモクラシーという品のよいパーティに出現した、 ポピュリズムという泥酔客。 パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。 ましてや手を取って、ディナーへと導こうとはしないだろう。 しかしポピュリズムの出現を通じて、 現代のデモクラシーというパーティは、 その抱える本質的な矛盾をあらわにしたとはいえないだろうか。 そして困ったような表情を浮かべつつも、 内心では泥酔客の重大な指摘に 密かにうなづいている客は、 実は多いのではないか。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
ヨーヨーマッ
https://www.jiji.com/jc/article?k=2023030500252&g=pol
アベノミクスなんて
もはや
時代遅れの
プロパガンダでしかねえんだよ。
そんなものに
しがみついてる
世耕の
底の浅さが
覗い知れる。
それよりも、
そんな
くだらない
プロパガンダに
財政・金融政策が
縛られるのは、
実に
滑稽な話だ。
野党も含めてだが、
植田(たぶん)次期総裁の
もとで
超金融緩和から
脱却するには、
日銀だけじゃなくて、
政治が
野放図な
財政政策を
改めないことには、
いくら
植田新総裁が
有能だとしても、
無理なんだよ。
それが
自覚できない、
あるいは
知ってて
財政支出拡大を
唱えるなら、
与野党問わず
今すぐ
国会議員辞めた
ほうがいい。
https://manga-tei.com/jojo-part-6-netabare-83/
「世界の共同主観的存在構造」 廣松渉 岩波文庫 (再掲)
われわれは、現に、時計の音を「カチカチ」と聞き、鶏の啼く声を「コケコッコー」と聞く。英語の知識をもたぬ者が、それを「チックタック」とか「コッカドゥドゥルドゥー」とか聞きとるということは殆んど不可能であろう。この一事を以ってしても判る通り、音の聞こえかたといった次元においてすら、所与をetwasとして意識する仕方が共同主観化されており、この共同主観化されたetwas以外の相で所与を意識するということは、殆んど、不可能なほどになっているのが実態である。(59ページ) しかるに、このetwasは、しばしば、”物象化”されて意識される。われわれ自身、先には、このものの”肉化”を云々することによって、物象化的意識に半ば迎合したのであったが、この「形式」を純粋に取出そうと試みるとき、かの「イデアール」な存在性格を呈し、”経験的認識”に対するプリオリテートを要求する。このため、当のetwasは「本質直感」といった特別な直感の対象として思念されたり、純粋な知性によって認識される形而上学的な実在として思念されたりすることになる。(67ページ) 第三に、この音は「カチカチ」と聞こえるが、チックタックetc.ならざるこの聞こえかたは、一定の文化的環境のなかで、他人たちとの言語的交通を経験することによって確立したものである。それゆえ、現在共存する他人というわけではないにせよ、ともあれ文化的環境、他人たちによってもこの音は規制される。(いま時計が人工の所産だという点は措くが、この他人たちは言語的交通という聯関で問題になるのであり、彼らの生理的過程や”意識”が介入する!)この限りでは、音は、文化的環境、他人たちにも”属する”と云う方が至当である。(70ページ) 一般には、同一の語彙で表される対象(ないし観念)群は、わけても”概念語”の場合、同一の性質をもつと思念されている。この一対一的な対応性は、しかも、単なる並行現象ではなく、同一の性質をもつ(原因)が故に同一の語彙で表現される(結果)という因果的な関係で考えられている。しかしながら、実際には、むしろそれと逆ではないであろうか?共同主観的に同一の語彙で呼ばれること(原因)から、同一の性質をもつ筈だという思念マイヌング(結果)が生じているのではないのか?(109ページ) 第二段は、共同主観的な価値意識、そしてそれの”物象化”ということが、一体いかにして成立するか?この問題の解明に懸る。因みに、貨幣のもつ価値(経済価値)は、人びとが共同主観的に一致してそれに価値を認めることにおいて存立するのだ、と言ってみたところで(これはわれわれの第一段落の議論に類するわけだが)、このことそれ自体がいかに真実であるにせよ、まだ何事をも説明したことにはならない。問題は、当の価値の内実を究明してみせることであり、また、何故如何にしてそのような共同主観的な一致が成立するかを説明してみせることである。この第二段の作業課題は、個々の価値形象について、歴史的・具体的に、実証的に試みる必要がある。(164~165ページ) (以下熊野純彦氏による解説より) 『資本論』のマルクスは、「抽象的人間労働」などというものがこの地上のどこにも存在しないことを知っている。存在しないものがゼリーのように「凝結」して価値を形成するはずがないことも知っていた。要するに『資本論』のマルクスはもはや疎外論者ではすこしもないのだ、と廣松はみる。 労働生産物は交換の内部においてはじめて価値となる。とすれば、交換という社会的関係そのものにこそ商品のフェティシズムの秘密があることになるだろう。関係が、謎の背後にある。つまり、関係がものとしてあらわれてしまうところに謎を解くカギがある。商品の「価値性格」がただ「他の商品にたいする固有の関係をつうじて」あらわれることに注目しなければならない。商品として交換されることそれ自体によって、「労働の社会的性格」が「労働生産物そのものの対象的性格」としてあらわれ、つまりは「社会的な関係」、ひととひとのあいだの関係が「物と物との関係」としてあらわれる(『資本論』第1巻)。ものは<他者との関係>において、したがって人間と人間との関係にあって価値をもち、商品となる。(533~534ページ)
文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答より (再掲)
質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。 フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。 「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家を孤立させ絶望においやっている現状が鋭く指摘されています。その他の時事的な文章・発言においても、ヨーロッパにおけるグローバリズムと言うべきEU経済戦略のもたらすひずみと地場産業の危機は、ウエルベックにとって一つの固定観念とさえ言えるほど、しばしば繰り返されています。 つまり、ウエルベックは「グローバリゼーション」が伝統的な経済・産業活動にもたらすネガティヴな影響にきわめて敏感であり、そこにもまた「闘争領域の拡大」(ご存じのとおり、これはそもそも、現代的な個人社会における性的機会の不平等化をさす言葉だったわけですが)の脅威を見出していると言っていいでしょう。なお、「セロトニン」で描かれる、追いつめられたフランスの伝統的農業経営者たちの反乱、蜂起が「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言・予告するものだと評判になったことを、付記しておきます。 以上、ご質問に感謝しつつ、ご参考までお答え申し上げます。
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妄想卒論その7 (再掲)
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