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テイラー・ルール

テイラー(J.B. Tailor) によって提唱された 金融政策運営のための ルールで、 次のような 簡単な数式 (政策反応関数) によって示される。 r=απ+βy ただし、 rは 政策手段 (操作変数) である名目短期金利から 期待物価上昇率 (インフレ率) を 差し引いた 実質短期金利、 また π、y は 最終目標で それぞれ 物価上昇率と 実質産出量の 目標値からの 乖離を表す。 この式から推定された r の動きと 実質のそれ (実現値) とがはぼ一致 したところから、 多くの 注目を 浴びるようになった。 中央銀行による こうしたルールの 採用によって、 自由裁量的政策や 純粋・インフレーション・ターゲティング (インフレ率目標政策) のもつ欠点 (前者について インフレ・バイアスの発生、 後者について y の大幅変動) が 克服されると 主張されている。  有斐閣経済辞典第4版 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/term/detail_1387.html

金融政策とルール

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「平成金融史」を 読んで 思ったのは、 日本の 金融監督行政や 政治家に 対して、 国民が 信頼を 寄せている というわけでもなく、 また 官僚機構にも 政治家にも 信頼に応えるだけの 能力も実績もない 場合、 ハイエク流の 自生的秩序の 考え方に立てば、 一握りの 裁量者に政策決定を 委ねるよりも、 何かしら 一定のルールを 設けて それを 厳守する、 という 方式の ほうが いいのではないか? と 思った。 そうでないと、 無駄な 犯人捜しを するだけで、 同じことを 繰り返すだけだと 思う。 https://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/kobayashi/16.html

平成金融史 続

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読みかけていた 新書、 かなりの分量でしたが、 最後まで 読みました。 大人の責任。 現在の状況だけみて あーだこーだ 言えませんからね。 内容を 完全に理解したとは 言いませんが。 ただ、 筆者も 国民の 統治機構に寄せる 信頼が カギになる、 と 述べており、 金融と信用、 という 観点では 自分自身もそんなに トンチンカンな ことを 言っているとは 思いませんでした。 ・・・確かに 日本は バブル期の 過剰な融資と、 甘い評価の 担保で 財務体質が 脆弱な 金融機関が 増えていたのは 事実だとは 思うが、 ちょっとでも ヤバそうなところは 合理化せよ、 という 掛け声の下、 財務基盤の弱いと 見做された 金融機関は 容赦なく 整理・統廃合され過ぎて しまった観がある。 結局、 大きな金融機関だけが 生き残り、 中小の金融機関が 潰され、 金融機関の 多様性が 喪われてしまった ように 思われる。 結局その後、 マイナス金利の導入により、 ただでさえ 地方の人口減で 弱っている 地銀をイジメ、 地域の金融機関の 体力を更に 奪う結果になった ことを 考えれば、 「勝ち組」 「負け組」の 大号令のもとに 行われた 金融再編制は、 日本の 金融システムを、 末端から 蚕食する 結果に終わったのではないか。 https://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/kobayashi/16.html

日本が喪ったもの

「敗戦にいたるまで国土に固有の曲率を与えていたのは天皇の存在であった。だが、天皇が『われ 神にあらず』と表明したときから、天皇の像は国土に曲率を与える重力の中心からゆっくりと落下していく。重い力は天皇から無言の死者たちに移動する。聖なるものはむしろ死者たちであり、天皇もこの死者たちの前に額ずかねばならない。この死者たちはその痛ましいまなざしによってしか力をもたないとしてもである。それゆえ戦後社会が天皇とともに超越的なものを失ってしまったというのは正しくない。そこには報われぬ死者たちというひそかな超越があり、天皇は皇祖神を祀るだけでなく、この無名の超越者を慰霊する司祭として、ゆるやかな超越性を帯びるからである。」137ページ 国土論 内田隆三 筑摩書房

「人間にとって貧困とは何か」より 抜書

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作田啓一は、R・ベネディクトの『菊と刀』を批判的に読み解きながら、自らの良心に照らして内面的に自覚される罪とともに、所属集団への不充分な帰属がもたらす恥もまた、普遍的な規範意識のあり方であり行為を方向づける意識状態であるとした(作田 1972)。 やはり、西洋は罪が、日本では恥が、人々を内面から律しているなどといった対比はあまりにも単純に過ぎる。だが、それはそれとして、恥の感情は、近代以降の日本において、「世間」あるいは国家を前にした人々の統制メカニズムにおける構成要素として特別の意味をもったと考えられる。作田は、ベネディクトの観察を引きつつ、家族主義的といわれながらも日本の家族の防衛機能がヨーロッパの家族よりもはるかに脆弱であると述べている。子供が「世間」から非難されたとしても、日本の家庭は子どもにとっての防御壁とはならない。日本の家族は、たちまち「世間」に同化して、「世間」とともに子どもを責めるのである。つまり、日本の家族は、独自性や自律性が弱い。 (84,85ページ) 戸籍において、人は、あくまでも戸という集団の一員として把握される。だが、家の家父長主義は戸籍制度においても温存され、男性戸主の権威性と国家に対する責任は強化された。こうした戸籍制度における家族と個人のあり方は、すでに述べてきた日本の近代家族の特質ともよく合致している(つまり、日本の近代家族は、明治政府の掌中において成立した家族の様式ということになる)。家族成員の「不始末」に対して戸主が「申し訳ない」と謝る、国家に対し無抵抗で「世間」からの落差を恥とするこの集団は、国家的な動員に実に適合しているといわねばならない。 (85,86ページ) 戸籍制度が内包する国家観・社会観は、子どもの不始末を「世間」に対して詫びる親や入籍をもって結婚とみなす結婚観のように、個人化が徹底しつつあるように見える今日にあっても、「そうすることになっているからそうする」強固な準拠枠として機能し続けている。 (86ページ)

うぅ、深いなあ・・・(´;ω;`)

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3月末日をもって 放送が 終了してしまう 「人間にとって貧困とは何か」 (西澤晃彦先生) の 放送授業を 再び 聞いております。 いやー、深いね。 色々勉強したあとで 聴くと、 ほんとに 深い。 (もちろん 単位には 関係ないんだけどね。) ・・・とりあえず 第3回まで 視聴。 今晩中に 第5回 くらいまでは 聴いておきたい。 腹が減っては 戦が出来ぬ、で 握り飯くって 再開するぞ。 ・・・頑張って 第5回まで 視聴。 超絶濃厚! 仏恥義理! 心理学、歴史学、経済学、社会学・・・ 色んな 学問の知見が 総動員されて、 凄いことになってる。 すげえ。 1度 聴いて終りじゃ、 もったいない。 頑張って 第6回視聴。 すげえなあ。 西澤先生 相当色んなこと 勉強されたんだね。 自分も、 近代日本経済史と、 近代日本内閣史、 日本近現代史などで 知識があるから あらためて 聴くと 想像が膨らんで より 理解が出来るようになった。 とにかく 濃厚。 ・・・頑張って 第7回も視聴。 家族に依存する国家 と同時に、 国家に従属させられる家族 という視点は斬新。 ・・・牛乳飲んで、 頑張って第8回まで 視聴。 一晩でよく聴いたな。 でも、 風呂にでも入ってから あともう一踏ん張りしよう。 第9回視聴。 一晩でよく頑張った。 とりあえず一区切り。 https://www.youtube.com/watch?v=RD83oy7ksUE

生きにくい社会 妄想卒論その1

回転すし店で イタズラ行為を 動画に撮って ツイッターに あげて 騒ぎになった 人物が、 叩かれたりする。 しかし、 その正体を 暴いてみれば、 取るに足らない、 他愛もない 人物だったりする。 いわゆる、 トー横民だったり、 ドン横民だったり、 グリコ上だったり。 彼らは、 そういう 寄る辺なき 辺境をさまよう 「貧者」であったりする。 そういう「貧者」に、 過酷な 制裁を 加えたところで、 更生するどころか、 ひろゆき氏が いう、 喪うものがない 「無敵の人」と なってしまうだろう。 社会が 喪うものがない 「無敵の人」で 溢れてしまったら、 社会は崩壊する。 社会契約論を 持ち出しても、 その前提には その 社会契約を 守る、 という 暗黙の前提があるが、 その 前提すらも 守らなかったら、 暗黙の前提を守る、 という 合理性の 無限遡行が 起きるからだ。 つまり、 ランドル・コリンズが 言うように、 我々は 完全には 合理的には 生きておらず、 社会が成り立っているという こと自体が、 人々が 多少なりとも 非合理的に 生きている 証拠だ、 ということが 言える。 しかし、 人々が 自らの 非合理性に 気づかず、 ありもしない 「合理的な社会」を 生きていると 思い込んでいるとすれば、 それは 「合理的な社会」よりも さらに 生きにくい社会 とは 言えないだろうか。 各人が 自分の 手前勝手な 「合理性」を 相手に押し付け、 違犯するものを 糾弾する。 それは とても 生きにくい社会だろう。 ポピュリズム政党の台頭は、 そんな 生きにくい社会の 実体の 現れである かもしれない。

平成金融史

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非常に面白い。 これ、基本的に様々な記録に基づく ドキュメンタリーだけど、 公的記録っていうのは、 後の時代から 過去を振り返って 検証する時に 必要不可欠な ものなのに、 そういう類の 記録を、 閣僚経験者が 平気で 捏造だとか 不正確だとか 言ってのける 神経っていうか 感覚というのは、 ほんと ヤバい。 それにね、 行政法上では、 行政が犯した ミスについて 責任を問われるのは、 個々の官僚ではなく、 行政庁たる (この場合) 所管大臣なわけですよ。 ぶっちゃけて言えば、 高市氏が 総務大臣の時に 総務省の行政文書が 捏造されたならば、 その責任は 当時の 行政庁たる 高市元総務相が 負うんですよ。 国会でも 追及されてましたけど。 でも、 たまに、 法律ってのは よく出来てるなーと 思うのは、 こういうことが 起こった場合、 個々の官僚が 責任を取らされたら、 結局 政治家が トカゲの尻尾切り する モラルハザードを 引き起こすのが 目に見えているから、 なるほど、 こういう事態を 想定すれば、 行政の責任は 個々の官僚ではなく 行政庁が 取る、 という 仕組みになってるのか、 と 納得できる。 それはともかく、 この本が 扱ってる時代が、 ちょうど 自分が 物心ついた頃からの話 だから、 ああ、なるほど 自分があんな感じの 子供だった頃、 政治の裏舞台は こうなってたのか、 と 腑に落ちる感が あります。 ・・・すごい 情報量だ。 まだ 半分しか 読み終えていない。 新書でこれだけ 情報量が豊富 なのは、 久しく記憶にない。 これで 1000円切る(税抜き)のは、 衝撃的だ。 ともあれ、 平成という時代は 日本の 金融が 坂道を転げ落ちた時代 だったのだ と 知った。 ちょうど 自分が 生きてきた 時代と重なる。 灯台下暗しで、 歴史というのは 自分自身に 近いほど 見えにくいものだが、 これは 非常に 優れた 現代史として 読むに値する。 ・・・ちょうど 自分が 高校生くらいの頃の話 だけど、 日本は こんな 大...

合理性と信用メモ

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合理性と信用 という 語彙は、 一見 よく馴染むように 見える。 しかし、 社会が 合理的に 組織されれば されるほど、 詐欺が 必然的に 起きる。 なぜなら、 合理性が 追求された 社会においては、 相手を 欺くことが 合理的自己の 利得に なるからである。 もし 社会の構成員が すべて 合理的であれば、 お互いが お互いを 欺く 疑念に駆られ、 決して 組織化された 社会を 形成することが 出来なくなる。 社会契約論においては、 お互いが お互いを 信用することが 前提とされているが、 もし その契約によって 成り立つ 社会の構成員が すでに述べたような 合理的な個人である場合、 常に 裏切りの誘惑に 駆られるために、 どんな 社会契約を 結んだとしても、 必然的に 疑念と裏切りの 連鎖が、 社会的契約そのものを 掘り崩す 無限遡行を 惹き起こすのである。 従って、 現に 社会が成立している ということ それ自体が、 人々が 完全には 合理的には 行動しては いない、 ということを 意味する。 言い換えれば、 社会が成立している ということ それ自体が、 人が人を信用する 能力を持っている 証拠なのである。 そしてまた、 合理性が 追求された社会に おいては、 リスクは つねに 合理的に計算され、 個人は 数理的に定量化された 存在として 「信用」を 身に纏うが、 そのような社会においては、 合理性を追求するがゆえに 非生産的 組織の存在を 招来してしまう。 合理的に組織されたはずの 官僚制が その 非生産性ゆえに 非難の的になる、 という 事態が、 これを 例証している。 そのような社会においては、 「詐欺」の 存在可能性 そのものが、 「管理された社会」を 脱-構築する 希望の 可能性として 機能する。