2025年3月31日月曜日

あんがい誤解されやすい

たぶん このブログを見ている 人は、 さぞかし この男は 裏表が激しくて、 母親に対しても 鬱積した 思いを抱えて 生きているんだ、と 思っているかも知れないが、 それは 誤解です。 母親とは 極めて良く やっています。 友達とも うまくやってるし。 たぶん 日本は財政破綻するけど、 財政破綻する、というと、 どうしても 敗戦直後のハイパーインフレを 連想してしまうだろうが、 国家が 財政破綻するなんてことは、 歴史上 いくらでもある。 そんなに珍しい現象ではない。 要するに、どういう イメージを持つかの話。 これだけ 色んな歪みが溜まりに溜まって、 それなのに 国会で 正面切って 議論できないんだから、 有り体に言えば、 こんな国は さっさと潰れたほうが、 正直に言って 手っ取り早い。 そんなわけで、割と 自分は 誤解されやすい人間だが、 別に 卑屈でもネクラでも なんでもない。 たまにブチキレることもあるが、 それだって タイミングを弁えている。 場所やタイミングを無視して 脈絡なく キレているわけではない。 ただ、父親の 強権政治の下で 隠されていた 家族の矛盾が、 一気に 露呈した、というだけのことだ。

めんどくさいから喋りました。

https://www.youtube.com/watch?v=w71fvAAKRJc

えげつない金の3連星

ホクホク( ´∀`)

一晩で 結構 捗った。 パート7の ストラテジーが 分かってきた。 今のうちに 出来ることは やっておかないとね。  

2025年3月30日日曜日

賢い人工知能は手段を選ばないらしい。

今朝の 日経新聞に そんなことが 書いてありました。 やっぱりね、 人間が 作り出したものだから、 なんていうか、 ホムンクルスみたいな もんなのかな。 賢い人工知能ってのは、 目的達成のためなら、 ほんとに 手段を選ばないらしいね。 逆に 怖いよね。 ふつうの人間だったら 絶対に 思いつかないような イカサマまでして 目的を達成しようとするって。 なんだかんだ、 良識を持った 人間の価値って、 ますます 貴重なんじゃないか、って 気がするよ。 ある意味ホッとする。 自分は 語学でしか 稼ぐアテのない 人間だけど、 なにするか わかんない 人工知能より、まともな 道徳観念もってる 人間のほうが、 よっぽど マシってことも あるだろうからね。

「違法」とは何か? メモ書き (再掲)

質問:ふと疑問に思ったのですが、刑法は全く勉強したことがないのですが、刑法上違法な行為、というのは想像がつくのですが、民法、あるいは行政法において、「違法」とはどういうことでしょうか?  K先生からのご回答:民法上の「違法」はいわゆる「不法行為」を含みます。民法709条以下です。明文に違反してなくても、他人の権利を侵害するような行為は「違法」認定されます。 行政法は・・・ 国家賠償法上の「違法」は、先の民法上の「違法」に準じた考え方で「違法」の有無が判断されることもありすが、行政争訟上の違法はこれとはまた違ってきます。刑法上の「違法」と似たところはありますけど、完全に同じではないかなぁ~  質問:例えば、道路交通法は行政法に属するかと思いますが、道路交通法に違反することは、「違法行為」でしょうか?それとも、道路交通法は刑法上の概念ともダブるのでしょうか?  K先生よりご回答:道路交通法は違反した場合、罰則を課すことが多いので、そうした場合は刑法上の違法ということになります。 行政法上の違法というのは私人からみて行政がわが公権力行使の違法を問うという文脈で「違法」が問題になります。 刑法上の「違法」は既存の刑事法令への違反のみが問題になるのに対して(ほうりに違反しなければ何をしてもかまわない)、行政の側は既存の法令に違反する場合だけでなく、法令の根拠なしに行った行政作用が「違法」なることがあります。(法律の留保)  質問:刑法というのは、 主に私人に対する制裁という ことになろうかと思いますが、 (控除説に立てば) 刑法を適用する主体も また 行政権に属するものであり、 三権分立の精神に鑑みれば、 まず思い浮かぶのは、 司法権が 行政権の濫用に 歯止めをかけることであり、 また、 立法権という観点から見れば、 国権の最高機関たる 国会において、 国民からの 信託に基づいて 代理人たる国会議員が立法行為を行う、 ということに なろうかと思いますが、 現実問題、 行政法規を 国会で議論しているとも思えず、 手っ取り早くいえば、 行政権の肥大化と、 その暴走が懸念される ところではないか、 と考えます。 そうであれば、 私人が 行政権の権限踰越に対して 抑止力を持つためには、 やはり選挙を通じて 自らの権利を保障してもらう、 という 堂々巡りになって しまいそうな気がします。  K先生からのご回答:刑事訴訟法という法律は「訴訟」という名前になっていますが、文字通りの「訴訟」のみならず、警察の犯罪捜査から、逮捕、送検、公訴提起、裁判手続き、判決、刑の執行まですべてを網羅しています。 そして、俗にいう警察(官)は「司法警察職員」とされ、一般の行政職員とは区別されています。警察職員の行動は警察官職務執行法によって規律され、家宅捜索や逮捕も裁判所が発する令状によらなければできないことになっています。 なので、「行政権」とはいっても、一般の行政とは相当に違っています。もっとも、司法によるチェックがどれだけ機能しているか、はまた別問題ですが・・・

2025年3月29日土曜日

日々反省

ここ数日、 ちゃんと 心を落ち着けて 勉強らしい 勉強を 出来ていない。 やはり、プライドが 邪魔しているのかも 知れない。 プライドがないと いつも ヘコヘコしていて 疲れてしまうものだが、 変な プライドで凝り固まっても、 やはり 物事が 見えなくなってしまう。 そこらへんの バランスを日々 自覚しながら、 卑屈にもならず、 かといって 盲目にもならず、 という 反省を日々 やっていくことが 大事なんだろう。 今回の 埼玉りそな銀行の 貸金庫についても、 別に 母親に無理強いされた ことなどないし、 ただ、 心理的に 姉と俺の 板挟みになって、 汲々とする、というような場合、 決まって 母親が 俺の気持ちを無視して 姉の立場を 擁護してきたことに、 今さらながら ムカついてきた、という 過去の話であって、 今回は そうではなく、 母親が 板挟みになりながらも、 頑張って 羽生と高崎を ひとりで 往復してくれた、という 話だった。 それは なかなか 責める性質のものでもない。 ただ単に 俺の心の中の 火薬庫に 火がついた、という だけのことだった。 いずれにせよ、プライドは 大事だが、 同時に 物事が 見えなくなる 危険性もある。

半ギレしながら言ってやった

母親に 抗議してやった。 俺は いつも 煮え湯を 飲まされてきた、と。 自覚してんのか?と。 精神錯乱してから 20年も 頑張り続けてることが どれほど 稀なことか わかってんのか?と。 人生ヤケクソになったら、 パチンコ、風俗、ギャンブル、酒、タバコ、薬物、 人生を めちゃくちゃにする なんて 簡単なんだぞ? と。

うつ病譚 (再掲)

うつ病ってのは、ツライ。 ある程度は 同情してもらえるんだが、 同情してもらったところで、 苦しいのが 治るわけでもない。 しかし、中には 同情してもらえることに しか 慰めを得られなくて、 同情してもらえることに 依存してしまうこともある。 まあ、 太宰治みたいなもんだ。 (太宰治はほとんど読んだことないが) あれはあれで ツライんだ。 結局、サークルのマイ・コメヂアンになって、 取り巻きの女と心中するのが オチなのだ。 ところで、 うつ病になるにも 色々と 理由があるものだが、 得てして、 うつ病になる原因なんてのは、 わからないものなんだ。 わかったら苦労しねえよ。 しかし、よくあるパターンが、 「やる気スイッチ」をオンに したまま 突っ走ることだ。 こんなことは、根が真面目な人間ほど、 簡単に 起きてしまうことだ。 人間、「やる気スイッチ」を オンにするなんてのは、簡単なことだ。 一度入った「やる気スイッチ」を オフにするってのは、 「やる気スイッチ」をオンにすることの 何倍も 難しい。 で、あるから、 大人として生きていくには、 「やる気スイッチ」の切り方を 習得しておく必要がある。 真面目な人間ほどそうなのだ。 しかして、うつ病というのは あまり 同情してもらえない。 同情されたところで 気休めにしかならないし、 同情されたところで 治ったりはしない。 ただ 中には 同情されることに 依存してしまうタイプもいるだろう。 あ、これ もう 書いたかもだが、たぶん 太宰治とか このパターンだろう。 ある意味で、うつ病を 患うということは、 孤独との闘いでもあるのだ。 何しろ、 周囲の人間から 理解してもらえないからな。 周囲の人間も、 一応は 同情してくれるんだが、キリがないから、 そのうち 去っていく。 そうすると、ますます 孤独になる。 すべてが 悪循環だ。 うつ病が完治するということが あるのかどうかは わからないが、 結局 マシになるには、 誰か 自分の、一番 急所というか、 自分の一番 弱い部分の扉のカギを そっと 預けられる存在が 必要なんだ。 性別はあまり関係ない。 どういう人間関係かも あまり 関係がない。 ともかく、自分の一番 急所である領域へのカギを そっと 預けることが出来て、 その人が そのカギを 誰にも知られないように 密かに 隠し持っていてくれるって ことが、 重要なんだ。 そこはもう 損得勘定抜きだ。 とにかく、 自分の生死を 預けるくらい 大変なことなんだ。 しかし、そういうケースもあるから、 人間てのは ときに 脆くても、なお一層 キレイな 存在なんだ。 もっとも、うつ病は キレイゴトばかりではない。 何しろ、 ひたすらウツな訳じゃなくて、 往々にして ハイになってしまう時期があるからだ。 そうして、ハイになっても、 結局は また ウツになる。 それを繰り返していると、 周囲の人は コイツはふざけているんじゃないか、と 思って、 疎まれる。 こうやって、ますます 孤独になる。 そう、 うつ病患者というのは 孤独なんだ。 ま、いろんなパターンがあるがな。 俺も 病院にいるとき いくつかの うつ病と思しき類型を見たが、 一類型として、 基本ウツなんだが、 ハイになったときに、 やらんでもいいことをやって、 周囲のヒンシュクを買って、 ずどーんと ウツになる、というパターンの人がいた。 まあ、その人がハイな時は、確かに 鬱陶しいんだが、 やっぱり当人はツライんだ。 そうして 同じことを繰り返すほど、どんどん 絶望的な 気持ちになってくる。 永遠にこの状態から 抜け出せないんじゃないか、と 確信が深まるからな。 だから、 たまにハイになってしまうタイプの うつ病というのは、 それはそれで 厄介なんだ。 あれは 傍から見るより、当人は 遥かに ツライんだ。 上述の例でも、風呂に入ったときに、 腰のつけ根のところに、 褥瘡の痕が出来ているのを見て、驚いた。 褥瘡というのは、 つまるところ ずっと 同じ姿勢で寝ているために、 圧迫された部分が 血流が悪くなって、 壊死してしまうんだ。 ハイなときには 鬱陶しいほど テンションがあがってる人が、 寝返りをうつ 気力も湧かないほど 眠らざるを得ない。 これが どれほどシンドイか、わかるか? うつ病は甘えだとか言うやつが たまに いるが、 そう思うなら いっぺん 褥瘡が出来るまで ひたすら 同じ姿勢で 寝てみたらどうだ? とにかく、そんなわけで、 うつ病のツラさというのは、なかなか 理解してもらえない。 そこが また 厄介なんだ。 とにかく、うつ病から抜け出すには、 何か 一つでも 問答無用で楽しいと 思えることとか、 一緒にいると なんか 楽しい人とか、 そういう存在が 絶対に必要なんだ。 そして、徹底的に 自分の 心のありようと 向き合うことが まず 必要だ。 絡まり合って ぐちゃぐちゃになった 心と、ひたすら 向き合って、 どこでどう間違えたのか、 ひたすら 考えることが必要だ。 ただし、これは これをやれば うつ病から抜け出せるって もんでもなくて、 言うなれば 「ジョジョの奇妙な冒険」の プッチ神父の ホワイトスネイクの攻撃みたいなもんで、 うつ病から 抜け出してみて 初めて 原因がわかるってことが ほぼほぼ 当てはまると思われる。 なにが原因で ウツになってるのか わかれば、そもそも うつ病には 簡単にはならない。 なんの慰めにもならないかも知れないが、 うつ病というのは 抜け出した人間にしか 対処方法が わからないんだ。 何しろ、自分の心の働きというのは、 たいてい 自分にしかわからないからな。 そういう意味では、 うつ病というのは よく知られた病いでありながら、 自分自身に 固有の病いと 言ってもいい。 とにかく、人間ひとりひとりに 個性があるのと 同じ意味で、 うつ病には 個性があるのだ。 だから、余計 難しい。 周囲の人間は理解してくれないし、 理解しようがない。 しかし、 繰り返すが、 やはり 最終的には 自分の 心のカギを そっと 預けて、そうして 誰にも 悟られることなく、 永遠に キープしてくれる 存在が必要。 そして、徹底的に 自分自身の こころのありようと 向き合い、 どうしたら うつ病に逆戻りしないか、を 徹底的に 考えることが大事。 確かに、うつ病ってのは 詳述したように、孤独だ。 しかし、だからこそ 人間というのは 他者を必要とする。 その意味で 孤独ではない。 そういう 存在だと 言える。

to live is to die

貸金庫の件が 一件落着して、 母親も 見るからに テンション高そうだね。 ずっと 寝てばっかりだったけど。 まあ、それは いいんだけどさ、 今回は 俺も 我を通したけど、 それ以前は、 姉が泣き叫べば、 問答無用で 俺が 煮え湯を飲まされるのが 恒例行事になってた。 姉が泣き叫べば、 母親が 困り果てた顔をして、 「私が こんなに苦しんでるのに、 あなたは 要求を呑んでくれないの?」 みたいな 無言の圧を かけてくる。 グロテスクな 「顔」で 訴えてくる。 だから、余計 姉が 調子に乗る。 結局、 母親は 「泣く子(姉)と 地頭(父親) には 勝てぬ」で、 いっつも 俺が 煮え湯を飲まされ 続けてきた。 何かにつけて、 俺のことを 第一に考えてる、などと 言うくせに、 実態は 真逆。 これで 勉強なんか まともに 出来るかよ?!  https://www.youtube.com/watch?v=xpNCfz18kg8

マイルストーン

最近 寝付きが良いですね。 もう 利用を中止しようとしていた、 C-PAPという デブで睡眠時無呼吸症候群の ための 睡眠補助器具も、 寝付きが良いから、 継続して 使ってますよ。 ここんとこ 悪夢も見ないし。 やっぱり、 松原隆一郎先生の 「社会経済の基礎」の 記述が、 よっぽど 自分にとっては デカかったんだろうね。 松原先生が どういう経緯で あの夏目漱石に関する 6行を 書いたのかは うかがい知る 余地はないけど、もう そんなことも どうでもよくて、 ああ、俺は これだけのことを やったんだ! と 無意識レベルで 思えるよね。 なんか、人生うまく 回りそうな 気がしてきた。

2025年3月28日金曜日

めんどくさいから喋りました。

https://www.youtube.com/watch?v=5sU4i_VRedw

ようやく

2015年 春センバツ甲子園の 優勝を飾った 敦賀気比の エースで4番の 平沼翔太、 10年かかって ようやく 埼玉西武ライオンズの 開幕1軍まで 来ました。 スタメンではないけど。 そろそろ 活躍して欲しい。 自分にとっては 年の離れた 弟のような存在。 今風にいえば、 「推し」です。

2025年3月27日木曜日

めんどくさいから喋りました。

https://www.youtube.com/watch?v=vv1e39pDCPs

「無調の哲学」

「体系は 小人たちの ためのものである。 偉大な 人間は 直観をもっている。 彼らは 心に浮かぶがままの 数字に 賭けるのだ。 ・・・・ 彼らの 直観の方が 貧乏人たちの 手間のかかる 計算法などよりも、 よほど 頼りになる。 こうした計算法は、 徹底的に 調べつくす ということが できないために、 いつもきまって 失敗に終る。」  ハインリッヒ・レギウス   「アドルノ」 岩波現代文庫 81ページより  https://www.youtube.com/watch?v=UuUTGvXNKJg  

ホッ・・・( ;∀;)

今日もまた かかりつけの メンタルクリニック行ってきました。 幸い 誰も 待ってなかったので、 すぐ 受診出来ました。 てっきり 30分くらいは 待つもんだ、と 思ってて、その間 何をどうお話しようか 考えよう、と 思っていたので、 逆に 少し 戸惑ってしまったけど、 うまく話せて、 なんか 安心した。 いやー、助かるねえ・・・

やっぱりムリぽ宣言

明日、 埼玉りそな銀行の 貸金庫の解約のために 母親が 羽生に行くことに なってて、 俺は どうやら 立ち会わなくて いいらしい、という ことになったので、 高崎の自宅に いることにしたんだけど、 母親に ひとりで 羽生と高崎を往復させるのは 酷だから、 俺も 熊谷までは 同伴することに 一旦はしたのだが、 それでも メンタルがしんどくなってきたから、 やっぱり 自分は 高崎の自宅にいることにした。 ムリなんだよ。 姉は。 俺にとっては ものすごい アレルギー源でしかない。 近寄るだけで ムリ。 会うなんてのは、 完全に拷問でしかない。 そんなわけで、明日は 自宅待機。 貸金庫の中身なんか どうでもいいから、 頼むから 俺に 関わらないでくれ!

エクスタシー・オブ・ゴールド

https://www.youtube.com/watch?v=1FYokoOzAWw  

アメイジング・グレイス

https://www.youtube.com/watch?v=AtteRD5bBNQ  

2025年3月26日水曜日

犬山大猫病院

相談専門指導員 という 長たらしい名前の、 私のような 問題を抱えた 人の生活状況を 聞きに来てくれる 方が、 久しぶりに 自宅に来てくれたが、 やはり 市役所の 障害者雇用というのは、 例えば 知的障害とかで入った ケースを 教えていただいたが、 やっぱり すげー 単純作業をやらされる らしい。 ふーむ・・・ これじゃあ やっぱり 障害者雇用で 高崎市役所ってのは ナシかなあ。 自分の語学のスキルで 生きるか? とも 思うが、それも 結構 勇気いる。 やっぱり 一度 障害者ってことで 行政からの庇護の下に 入っちゃうと、 なかなか そこから 抜け出そう、というのは 難しい。 正直なところ。

久しぶりに

なんだか よくわからないが、 ポジティブな夢を見た。 しかも かなり 大げさな。 内容はもう 忘れてしまったが。 たまには こういう 夢も見るのか。 新学期目前にして 幸先が良い。

2025年3月25日火曜日

確証はないけれど

「社会経済の基礎('25)」に、 驚くべき記述があった。 278ページ。 さすがに 出版されたばかりの 印刷教材から 抜書するほど 無神経ではないし、 ましてや 超絶天才の 松原隆一郎先生に ケンカを売るような 度胸はないので、 当然のごとく 抜書はしないが、 1ページ割いて、 日本における 「キャッチアップ型工業化論」と、 そこから 夏目漱石へと 論が展開されていて、 衝撃を受けた。 これ、まさに 私が 20余年をかけて 論証したかったこと。 松原先生は サラッと書いておられるけど、 自分にとっては ものすごいこと。 そこらへんの筋道を 手繰るのは 自分じゃ客観的には 出来ないから 他の方からの 意見を待つしかないが、 偶然にしろ何にしろ、 こうやって 経済発展と 夏目漱石を 結びつけて 論じられている、 しかも 松原隆一郎先生が、 というのは、 自分にとっては この上なく 名誉なこと。 偶然にしても 何にしても。 今日は さんざんな1日だったが、 これは救われる。  

こういうとき、精神障害者で良かった。 (再掲)

2日前の夜、 俺が 悪夢を見て うなされて 叫んだ 声が 母親にも 聞こえたらしく、 その内容が 姉に対すること だったので、 ちょっと 一悶着あった。 姉が、 埼玉りそな銀行に 預けてある 貸金庫を開けるのに、 俺の 実印とサインが 必要だ、というので、 契約書を送って来やがったが、 俺が ブチキレて 破って棄ててやったのだが、 その後 気を取り直して 実印と印鑑証明を レターパックで 姉に 送ってやった。 それから 数日して 2日前の夜に 俺が 悪夢にうなされて 叫んだわけだが、 もともと 父親の相続のときに、 姉に 強要されて 俺が 父親の財産を 相続放棄したことに なっていたのだが、 父親の 名義の貸金庫を 開けるのに、 俺の 同意が必要らしい。 つまり、 俺が 精神障害者だから、 こういう時に 問答無用で 俺の 財産が勝手に 侵害されないように、 いちいち 俺の 実印とサインが必要な ようだ。 ってかさ、 いくら入ってんのか 母親からも 教えてもらえないのに、 相続放棄しろって ほうがオカシイだろ。 常識だろ? ふっ! 姉は 上っ面の理屈さえ 通せば 何でも通ると 思ったんだろうが、 世の中 キサマが思うほど 単純じゃねーんだよ。 とんだ 見込み違いだったな。 大馬鹿野郎が。 こういう時に、精神障害者で ほんとに 良かったと思うわ。 ちなみに、腎臓移植とかも、 精神障害者は 基本的に ドナーになれないらしい。 いやー、この国 よく出来てるわ。 ちなみに、俺が 契約書を 破って棄ててやったのだが、 また 埼玉りそな銀行に 書類を作って もらわなきゃいけないんだが、 それが なかなか 進まない、と 姉が 不平不満を漏らしてるらしいが、 そらそうだわな。 そんな大事な書類を 何通も 簡単に 作成してくんねーだろ。 精神障害者の弟が 破って棄ててやった、なんて 言ったら なおさらだ。 ふっ! 馬鹿め。 自業自得なんだよ! カネの亡者が!!!!

もうウンザリなんだよ。マジで。

せっかく 午前中 メンタルクリニックに 行って来たのに、 夕方 また 行くハメになったよ。 埼玉りそな銀行の貸金庫の件で。 あのクソヤロウが、 俺と母親が、 羽生の 埼玉りそな銀行に来て、 ハンコ押して サインしろ、と 母親に電話してきたようだ。 もうさ、いい加減にしろよ。 マジで。 もう本性むき出しだよね。 ヤバいわ。 あのクソヤロウ。 本気で 殺意芽生える。 とっくの昔からだけど。 こういう時、 ちゃんと 民法勉強しといて 良かったと思うわ。 親族編は ぜんぜん知らないんだけど。 でも、 これはもはや 脅迫だとは思う。

ムズい・・・(´;ω;`)

松原隆一郎先生の 「社会経済の基礎」 の 印刷教材、 書いてあることが 難しすぎて 理解できない。 全部が全部ではないけど。 これ、東大の 教科書か? と 言いたくなる。  

いやー、助かるわー( ;∀;)

近くに かかりつけの 精神科医がいるってのは すげえ贅沢だわ。 しかも もう付き合い長い。 ほんとに助かる。 今日も 行ってきました。 5個くらいのことを 早口で喋って、 たぶん 5分以内で終わらせた。 向こうも 生身の人間だからね。 だらだら 喋ったところで、午前最後の枠じゃ 疲れて 耳に入らないだろうから。 はあ、スッキリ♬

卒論・・・だるいわ。

誤解を招く 表現で すみません。 放送大学の学部は、 卒論書かなくても 卒業できます。 で、 卒論書いてみようか、と 思ったんですが、 だるいわ。 最低でも 2年掛かるんだけど、 2年も拘束されたくない。 さっさと 適任の先生を 選んでもらって、 口頭試問と 卒論、で よくね? どこをどう 突っ込まれるのか だいたい 想像がつくのに、今さら メタル責めされんのもさー、 めんどくせえんだよ。 それこそ 2年も拘束されたくない。 あー、俺ぜってー 会社員とか無理だわ。

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 資料より (再掲)

私は、 自分のもともとの 性質が 「ここまで くらいは がんばろう」 と 課した限界の範囲で 自己研鑽に励む ときでさえ、 謝罪や後悔もなく、 自分の もともとの性質を 「与えられた 当たり前のもの」 として 受け入れており、 そのようなとき、 自分自身に対する 「自己愛」を 持っているのである。 私の 自我と 私とは、 一様に すべてのことを 共有しながら、 いっしょに 多くのことを くぐり抜けてきた。 私が彼 (=私の自我) を 支える限り、 彼が 私を 失望させることはなかった。 私は 彼を 叱ったこともあるが、 けっして 彼の本性を 呪うことはなかった。 彼には 間違いなく 欠点があるし、 ひどくそうなのだが、 その短所が あらわになるとき、 私はやさしく 寛大に ほほえむのである。 彼のへまは、 彼のような 性質をもつ だれからでも 人が予想するようなものである。 人は、 これほどまで きわめて 近しくしてきた 存在を 憎むようには なれない。 好むと好まざるとに かかわらず この人物 (=私の自我) に依存してきた 全年月の後、 どのようにして 別の自我と うまくやりはじめることができるか、 私は 実際知らないのである。 このように、 自己同一性 (自分が自分であること) は、 一種の約束による 見合い結婚だと 考えることが できる。 その 見合い結婚は、 安定的な人の中では 真実の愛へと 成熟するものだが、 不安定な人の中では、 堕落してしまって、 恨み言と 自滅へと至る。 人の 自己愛の もっとも 真実の表現は、 自身の善さへの献身であり、 それは 他の誰のものでもない 自身の もともとの性質 (そのような 性質は 不条理な、 変なものかもしれない) の 自己充足である。 (「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)

アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)

自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。

「違法」とは何か? メモ書き (再掲)

質問:ふと疑問に思ったのですが、刑法は全く勉強したことがないのですが、刑法上違法な行為、というのは想像がつくのですが、民法、あるいは行政法において、「違法」とはどういうことでしょうか?  K先生からのご回答:民法上の「違法」はいわゆる「不法行為」を含みます。民法709条以下です。明文に違反してなくても、他人の権利を侵害するような行為は「違法」認定されます。 行政法は・・・ 国家賠償法上の「違法」は、先の民法上の「違法」に準じた考え方で「違法」の有無が判断されることもありすが、行政争訟上の違法はこれとはまた違ってきます。刑法上の「違法」と似たところはありますけど、完全に同じではないかなぁ~  質問:例えば、道路交通法は行政法に属するかと思いますが、道路交通法に違反することは、「違法行為」でしょうか?それとも、道路交通法は刑法上の概念ともダブるのでしょうか?  K先生よりご回答:道路交通法は違反した場合、罰則を課すことが多いので、そうした場合は刑法上の違法ということになります。 行政法上の違法というのは私人からみて行政がわが公権力行使の違法を問うという文脈で「違法」が問題になります。 刑法上の「違法」は既存の刑事法令への違反のみが問題になるのに対して(ほうりに違反しなければ何をしてもかまわない)、行政の側は既存の法令に違反する場合だけでなく、法令の根拠なしに行った行政作用が「違法」なることがあります。(法律の留保)  質問:刑法というのは、 主に私人に対する制裁という ことになろうかと思いますが、 (控除説に立てば) 刑法を適用する主体も また 行政権に属するものであり、 三権分立の精神に鑑みれば、 まず思い浮かぶのは、 司法権が 行政権の濫用に 歯止めをかけることであり、 また、 立法権という観点から見れば、 国権の最高機関たる 国会において、 国民からの 信託に基づいて 代理人たる国会議員が立法行為を行う、 ということに なろうかと思いますが、 現実問題、 行政法規を 国会で議論しているとも思えず、 手っ取り早くいえば、 行政権の肥大化と、 その暴走が懸念される ところではないか、 と考えます。 そうであれば、 私人が 行政権の権限踰越に対して 抑止力を持つためには、 やはり選挙を通じて 自らの権利を保障してもらう、 という 堂々巡りになって しまいそうな気がします。  K先生からのご回答:刑事訴訟法という法律は「訴訟」という名前になっていますが、文字通りの「訴訟」のみならず、警察の犯罪捜査から、逮捕、送検、公訴提起、裁判手続き、判決、刑の執行まですべてを網羅しています。 そして、俗にいう警察(官)は「司法警察職員」とされ、一般の行政職員とは区別されています。警察職員の行動は警察官職務執行法によって規律され、家宅捜索や逮捕も裁判所が発する令状によらなければできないことになっています。 なので、「行政権」とはいっても、一般の行政とは相当に違っています。もっとも、司法によるチェックがどれだけ機能しているか、はまた別問題ですが・・・

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 レジュメより (再掲)

問い:幸福とは何か。 ソクラテスは誰でも、これは、自分で人生を「設計してゆく」という発想と結びつくことである。 したがって、<配慮するもの>をもち、配慮を重ねてそのつど考え、行動する自分の人生設計者としての「一人称特権」のようなものは、幸福を問題にするとき、なおざりにできない。 たとえあることが自分のためであっても、それを押し付けられたのでは「自分の人生」ではなくなる。 ソクラテスは、このような一人称の問題があることに反して精神や徳に気を遣えといっているのではなく、 この問題があるからそれに沿うように「気を遣うもの」を考えさせようとした、 その場合、精神的なものや徳に気を遣うことは、あなたにとって納得できる方向になるはずだ、という語りかけをしている。 ☆人生を「まじめに」考えること  1.幸福の中身は「一人一人の問題」であり、他人に勧告されるには及ばない。 しかし幸福というものにまつわる「構造」や「形式」の問題は、単に「その人の問題」であるのではない。 われわれの「人生の夢」の見方は、お互いに、似ている。 構造や夢の見方を「知る」ことは、自分の「一人称」としての資格や個人の強さを上昇させてくれそうに思える。  2.問題なのは、人が「分かりやすい資格として」もしくは何らか「世間的に」上昇するということではない。 たとえば、社長になるとか出世するとか大学教員になるとか有名人になるとか金持ちになるとかではない。 実質的に自分の人生に対してよい位置を占めるようになることである。 したがって、ほんとうに行動が「自分のもの」として首尾一貫して統御されていること、 ほんとうの気持ち・実感から発想したことが 同時に知性の表現にもなっていることが目標になる。  3.ソクラテスはここで、「知性」にふさわしい課題がじつは数多くあり、 それを追求しながら生きてゆくことが幸福につながる、と語りかける。 われわれの生活は、目的・手段の関係を持つ多くの行為からできている。 お金儲けや名声・地位等のためのことは、 お金・名声・地位・容姿等で何をするかという、 「次の問い」を予想する。 ここから、人間らしい生活は、「その先」を考えるところまでいかなければ 成就しない、という結論を導くことができる。  4.この「その先」は、一人一人が考えながらでなければ、結論は得られない。 ここが、ソクラテスの「幸福にする」ことの(ある意味で)厳しい意味内容である。 かれがその先のことを本人に代わって教えるのでは、何にもならない。 これは、あくまで自分でやっていくという話なのである。  5.また、知性にふさわしい課題を追求することは、それ専用の「研究室」や「教室」のようなところで 行いうるものとは考えられていない。 実人生で問題にぶつかりながら、人生自体が形を変えてゆく。

政治学入門@三島レポートその2 (再掲)

第2節:カントは、言わずもがな18世紀の啓蒙思想家である。彼は、自然界に法則が存在するのと同様に、人間にとっても道徳法則があるはずだ、と考えた。その内容を極めて簡潔に述べると、人が何か行いをしようとするとき、他の全員が自分と同じ行動を取ったとして、仮にそれを受け入れられる、あるいはそういう社会を容認出来るならば、その行為を行ってもいいが、そうでなければ、その行為を行うべきではない、というものである。また、彼は、仮言命法の危険性も指摘している。仮言命法とは、例えば「美味しいプレッツェルを食べたければ、南ドイツに行け。」といった、現代の日本に住む我々が常識的に行っている思考回路である。これの何が問題なのだろうか?しかし、この一見無害な発想には、人間の自由を奪う危険性が潜んでいる。例えば、昨今は理系偏重の風潮があり、就職のことも考えて、なるべく理系の大学、学部を選ぶ傾向が受験生やその保護者に見て取れる。この一見ありがちな行動はしかし、連鎖する。将来不安、就職への不安から、理系の大学、学部を選好するようになると、その方面の進学に強い高校、ひいては中学を選ぶ、ということになり、特に首都圏では、そのような中学に合格するために、小学生のうちから塾通いを始める、という結果になりうる。果たして、これが自由な生き方と言えるだろうか?これは、まさに仮言命法の発想が、いかに現代日本人を不自由にしているか、ということを示している。また、私達は、基本的に何かに縛られて、言い方を変えれば「依存して」生きている。例えば、組織、カネ、家族、地位、恋人など、挙げればキリがない。そして、これらの存在を守ることが当然であり、むしろそうすることが義務であるかのような社会通念が存在する。もちろんこれらをすべて否定するつもりはない。しかし、往々にして、これらの存在への「依存」は、やはり我々を不自由にする。こう考えると、現代日本に暮らす我々が、いかに窮屈な存在であるか、ということが見て取れる。カントの発想は、人間にも道徳法則があり、各人は自身の道徳的行いを「自ら考え、自ら選択する」ことが出来ると考えた。これは極めて強力な自由論である。この意味において、カントの道徳哲学の発想は、我々が自由に生きるとはどういうことか、を考える時、非常に強力な武器となる。また、トマス・ホッブズが予言したように、現代の資本主義社会において、人は疑似殺し合いを演じている。つまり、絶えず他人を先んじよう、出し抜こう、という脅迫観念に囚われている。そのような社会において、カントの、自らの道徳的行いを自ら考えて決断していい、という自由論は、極めて強力な理論である。

若人へ

なぜ勉強するのか? そんなことに 悩むのも、まっとうなことだ。 大人は 立派な学歴は 色々と オイシイということを 知っている。 しかし君たちはそうではない。 悩めばいい。 いくらでも。

権力と知 「フーコー・コレクション6」 ちくま学芸文庫 (再掲)

前二千年紀の終わりから 前千年紀の初めの 東地中海のヨーロッパ社会では、 政治権力は いつもある種のタイプの 知の保持者でした。 権力を保持するという 事実によって、 王と王を取り巻く者たちは、 他の社会グループに伝えられない、 あるいは伝えてはならない 知を所有していました。 知と権力とは 正確に対応する、 連関し、重なり合うものだったのです。 権力のない知は ありえませんでした。 そして ある種の特殊な知の所有なしの 政治権力というのも ありえなかったのです。(62ページ) ギリシア社会の起源に、 前五世紀のギリシアの時代の起源に、 つまりは われわれの文明の起源に 到来したのは、 権力であると同時に知でも あったような 政治権力の 大いなる一体性の分解でした。 アッシリアの大帝国に存在した 魔術的―宗教的権力の この一体性を、 東方の文明に浸っていた ギリシアの僭主たちは、 自分たちのために復興しようとし、 またそれを 前六世紀から前五世紀の ソフィストたちが、 金銭で払われる授業という形で 好きなように用いていました。 われわれが立ち会っているのは、 古代ギリシアで 前五、六世紀にわたって 進行した この長い崩壊過程なのです。 そして、 古典期ギリシアが出現するとき ―ソフォクレス (注:「オイディプス王」の作者) はその最初の時代、 孵化の時点を代表しています―、 この社会が 出現するために 消滅しなければならなかったのが、 権力と知の一体性なのです。 このときから、 権力者は無知の人となります。 結局、オイディプスに起こったのは、 知りすぎていて何も知らないということです。 このときから、 オイディプスは 盲目で何も知らない権力者、 そして力余るために 知らない権力者となるのです。(62ページ) 西洋は以後、 真理は政治権力には属さず、 政治権力は盲目で、 真の知とは、神々と接触するときや、 物事を想起するとき、 偉大な永遠の太陽を見つめるとき、 あるいは 起こったことに対して 目を見開くときに、 はじめてひとが 所有するものだという 神話に支配されるようになります。 プラトンとともに 西洋の大いなる神話が始まります。 知と権力とは相容れないという神話です。 知があれば、 それは権力を諦めねばならない、と。 知と学識が 純粋な真理としてあるところには、 政治権力は もはやあってはならないのです。 この大いなる神話は清算されました。 ニーチェが、先に引いた多くのテクストで、 あらゆる知の背後、 あらゆる認識の背後で 問題になっているのは 権力闘争なのだ、 ということをを示しながら、 打ち壊し始めたのは この神話なのです。 政治権力は 知を欠いているのではなく、 権力は 知とともに織り上げられているのです。(63ページ)

2025年3月24日月曜日

もう沢山だ

人生から降りたくなってくる。

家族?なにそれ? (再掲)

慶応SFCは、 別に 入りたくて入った わけじゃない。 2回も 落ちてるし、 どうせ小論文 書けないから、 そもそも 3回も 受けたくなかった。 ほんとは 中大法学部に行きたかった。 しかし、 母親に 「お父さんが 慶応SFC 気に入ってるから」 と いうだけの理由で、 受けさせられた。 風呂桶を破壊したり、 挙句の果てには 受験票を破って棄てた。 それでも、当日 再発行してまで 受けさせられて、 受かってしまった。 受かってしまった以上、 慶応信者の父親に 逆らえるわけもなく、 入らざるを得なかった。 その 結果が、これ。 三田の慶応で合格発表を 確認した後、 SFCまで行って、 入口から続く 坂道を歩いていて、 「ここは嫌だ。」 と つぶやいたら、 母親は 視線を下にそむけて、 両目をキョロキョロさせていた。 それは紛れもなく 「そんなこと言ったら また ワタシがお父さんに 怒られちゃう。」 と 能弁に語っていた。 ちなみに、 かなり後になってから、 中大に行きたかったと 父親に なぜ 言わなかったんだ?と 姉に 詰られた。 これが 小林家。 確かに病気にはなったが、 そりゃ 病気にもなるだろ。 むしろ、 薬物に手を出さず、 もちろん 半グレにもならず、 よく やってると思うんだが? https://www.youtube.com/watch?v=VD4PYP7WUCA

教科書が届いた。

遅れていた 「社会経済の基礎」の 印刷教材が 届きました。 導入科目なのに、異常に レベル高え。 さすがは 松原隆一郎先生。 ちょっともう 俺なんかとは 頭の良さの 次元が 2つ3つ違うね。 これが 灘⇛東大か、という感じ。 ちょっとめくって見たけど、 こっちの 常識をちょいちょい 覆してくれるのが 心地いい。 (適度ならね。) 例えば、 日本の財政赤字の原因は 政府ではなく、 投資よりも貯蓄を 重視する 企業の責任だ、とか。 まあ、日経新聞にも 同じようなこと 書いてあったけどね。 これ、いちおう 経済学の初心者向けの 授業なんだけど、だいぶ ハードル高いぞ。 上述の話も、 ISバランス・アプローチが 理解できてないと 理解できないし。 放送大学レベル高すぎだろ。 まあ自分としては わかりきったことばかり 言われるより、 こっちが 自明としてることを 適度に 覆してもらったほうが 面白いに 決まってるんだけどさ。 だから、経済学は 面白い。 とにかく、松原隆一郎先生は レベチ。 1学期で単位取得しちゃったら もったいないから、 最低でも 2学期かけて ゆっくり堪能させてもらいます。  

見て見ぬふり

慶応での経験を 見て、いかに 父親が 見て見ぬふりを する人か よくわかった。 息子が錯乱して 措置入院しても、 中退させてあげよう、という 発想がない。 もちろん、俺も あそこで 立ち止まるつもりは 毛頭なかったが。 しかし、復学して、 33単位取ったら 取ったで、 もう 無理だって 言ってんのに、 ひたすら 見て見ぬふりを 決め込むのには 驚いた。 万が一、といっても ありえないことだが、 どっかの会社に就職でも しようもんなら、 本気で 自殺未遂しても、それでも 辞めさせてもらえない と 思う。 転職さえも させてもらえないと 思う。 父親の頭のなかには 転職という 文字はない。 さて、本題は、 もし俺が 就職なんかしてたら、 父親の介護だれが やるのよ?っていう話。 母親がやるしかない わけだけど、 そうしたら 母親も下手すりゃ 死んでただろうね。 実際、俺が手助けしてても 脳梗塞になったわけだし。 無理だよ。 そんで、今から思うと、 父親が 晩年あれだけ 四六時中イライラしてたのは、 身体が 不自由な腹いせで、 家族に八つ当たりしてたんだな、と 気づいて、 ほんとロクでもないヤツだったな、と 思うわ。 父親としては まあマシなほうだったけど。 カネに困らなかったし。 それにしてもまあ、 自分に都合の悪いことは ひたすら 見て見ぬふりをかまして、 気に食わないことは 家族に八つ当たりする。 ひどい父親だったよ。 今でも 生きてたら、やっぱり 株に取り憑かれてた のは 間違いない。 日々 「日経平均」と 格闘して、 毎日毎日 自分が 世間の「平均」より 上の人間であることを 確認しないでは いられない。 スーパーパラノイア人間。 唯一じゃないかも知れないが、 俺が 放送大学を卒業しても、 それでも 続けさせてくれたことだけは ありがたいと 思った。

季節の変わり目は要注意

ここんとこ、 根詰めて 小説読んだりして 疲れていたせいか、 花粉症を突然 発症したり、 とりあえず あんまり 体調良くなかったんだが、 ようやく 調子が良くなってきた。 とりあえず 英語と韓国語は ちょびっとずつで いいから、しっかり やろう。 やっぱり 季節の変わり目というのは 要注意。

2025年3月23日日曜日

「金融と社会」質問と回答その7 (再掲)

質問:インフレ目標政策についてうかがいます。 私の実感でも、物価が上がってきたなー、と感じます。 より正確には、 通貨(円)の価値が目減りした ということだと思われますが。 あまり国民の生活が苦しくなれば、 物価の安定という意味では、 金利をあげたほうがまだマシ、 と考える家計も 増えてくるのではないかと考えます。 そうすると、なるほどこれがフィッシャー効果か、 と思われるのですが、 確かに 実質金利がさがったことで 消費者の購買意欲が増したことで 景気の底割れを防ぎ、 政府の名目上の税収も 増えていると言われています。 しかし、かといって、 国も企業も家計も借金まみれの現状では、 今さら金利を上げられるのか、 甚だ疑わしいです。 なぜなら、 金利の上昇は、確かに通貨(円)の価値を 底上げする可能性はありますが、 上述のように 政府・企業・家計が借金まみれの状態では 金利の上昇は難しいことは無論、 長期金利の上昇は、 政府の借金の利払いを増嵩させるのみならず、 日本国債の価格を低下させるため、 発行済日本国債の6割を保有すると いわれる日銀の財務状況を、 著しく危殆にさらすものと考えられるからです。 果たして、 これが当初のインフレ目標政策の 目指していた姿なのか、 甚だ疑念を感じずにはいられません。  回答: 質問文に書かれていることは、私も理解できます。 インフレ目標政策が 2013年に導入を余儀なくされた時、 当時の白川総裁には その問題点がわかっていたと思います。 日銀が2000年に インフレ目標政策について調査したレポートを リンクしておきます。    http://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2000/data/ron0006a.pdf

都合のいい俗説 (再掲)

国債発行 イコール 通貨発行 という俗説が あるらしいが、 金融政策の 基本が 何も わかってないね。 国債を 発行して、 買ってくれる人が いるから、 (国債を買うのは 当然のことながら 中央銀行だけではない。) そのお金が 市中に 流れるんだけど。 これ、 (国債に限らず 債券全般に対する、 中央銀行による) 買いオペとか 売りオペとか 言われる 金融政策の 常識中の常識 だけど、 そんなことも 知らずに、 ただ 国債発行すれば 自動的に 貨幣供給量が 増えると 本気で 思ってる 人が いるみたいね。 (それに、 国債だって商品だから、 本来は政府の都合で 発行した 国債を、 相場を無視した 高値で 売れると思うのが そもそも 間違ってる。 むしろ、 日本の現状として、 日銀が 市場の相場を 無視した 高値で 国債を 買い続けてることが 本質的に問題なんだけどな。) なにで 経済学 学んだんだろう? それに、 貨幣供給量を 増やす イコール 国の資産が 増える ってのも そもそも 間違い。 国の富の 源泉は 付加価値、 すなわち GDPです。 これ、 学部レベルの 経済学で 最初に 学ぶことなんだけどな。 ほんと、 誰に 刷り込まれたんだろう? ついでに 書いとくと、 赤字国債を 発行すること自体が 法律違反なんだけど、 毎年 特例法案つくって 可決して 予算作ってる。 (ちなみに、 一昔前は その種の予算を 通す通さないが 政争の具に 使われたのが、 短命政権が続いた 原因だったらしい。) それが 常態化。 それを 国民の側が 嬉々として 受け入れてる 現状が 異常。 ついでに 書いとくと、 日銀が 国債買い続けないと 国債の価格が (異常な高値を 維持できずに) 暴落して 金利が 急騰して この国 吹っ飛びますけど、 さあ この ムリゲー どうします? ちなみに 安倍ちゃんは 日銀は政府の 子会社だから いくらでも 日銀に 国債 買い取らせればいい とか ほざいてましたけど。 もう 日銀による 国債の保有比率 6割 超えましたね。

あてはまりにくい「貨幣数量説」 (日経新聞「やさしい経済学」〘年月日不明〙より 抜書き)大阪大学 敦賀貴之教授 (再掲)

経済活動の量が変わらなければ、 貨幣量を増加させれば 物価だけが増えると予測できます。 つまり、経済に流通する貨幣量を 機械的に増やすと、 増えた貨幣はそのまま 経済に流通し、 経済取引の総額が増えます。 しかし、 経済にお金が回っても 需要が高まるだけで、 供給は増えず、 貨幣量と同じスピードで 物価だけが上昇します。 このように、 貨幣の数量で物価が 決まるという考え方が 貨幣数量説です。 日銀は20年近くにわたり、 貨幣量を大幅に増やしましたが、 物価の上昇は期待ほどではありません。 多くの経済学者は、 短期的には 貨幣量の変化は生産量の変化につながると考えます。 さらに データ上は、 流通速度は趨勢的に 低下傾向を示し、 日本ではこの30年で 流通速度が半分に低下しました。 貨幣量が増えれば 物価は上がるという 単純な理屈は 当てはまりにくいのです。

貨幣数量説 (再掲)

完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は古典派経済学の発想なので、完全雇用は常に達成されていると想定されているので、物価は貨幣量と貨幣の流通速度で決まる。 従って、貨幣量を増加させれば、物価は上がる。 「貨幣の所得流通速度が一定不変で,かつ伸縮的な価格メカニズムの作用により実質産出量(実質国民所得)の水準が長期の均衡値に一致するならば,貨幣数量の変化は国民所得の大きさや構成にはなんら影響を与えず,ただ物価水準を比例的に変化させると主張する説。」有斐閣経済辞典第4版

レポートネタ 参照:妄想卒論その7 (再掲)

2011年の「ウォール街を占拠せよ」 運動に端を発する 反格差デモは世界中に広がり、 格差拡大の加速を象徴した。 アメリカでは、 上位10%の所得層が 2021年に総所得の46%を 占めるまでになった。 これは 1920年代に匹敵する 富の集中であり、 当時の 革命運動の再来を想起させる。 共産主義は、私有財産を奪う 究極の反格差運動と言える。 1917年のロシア革命後、 第3インターナショナルが設立され、 反資本主義の機運が高まった。 当時のグローバル化は ロシアにも経済成長をもたらしたが、 格差を拡大させ、 日露戦争や第一次世界大戦による 困窮も重なり、革命へと繋がった。 ソ連成立後、 富の集中度は大幅に低下した。 現代では、 ポピュリズムが 人々の怒りの受け皿となっている。 トランプ大統領やオルバン首相のように、 国際協調に背を向ける姿勢が 支持を集めている。 人々が刹那的な主張になびくのは、 他者への信頼が 失われているからだ。 世界価値観調査では、 北欧諸国に比べて アメリカや日本では 他者への信頼度が低い。 信用は本来、 合理的な裏付けを超えるものであり、 リスクを伴う。 資本主義の発達により、 血縁や地縁の関係が希薄化し、リスクが増大したため、 契約の発達や信用の合理化が進んだ。 しかし、 信用の合理化が進みすぎると、 客観的な指標で算定された信用こそが 全てであるかのような 逆転現象が起こる。 ポピュリズム政党は、 既成政治を一部の特権階級の 占有物として描き、 大衆の声を代表する存在として 現れる。 グローバル化は、 一部の富裕層に富を集中させる一方で、 不安定雇用を増大させ、 新たな下層階級を生み出している。 富が集中するほど 他者への信頼が下がり、 「フェアネス指数」が低下し、 ポピュリズムに翻弄されやすくなる。 グローバル化は世界の富を拡大したが、 分配の偏りを生み出した。 日本でも新自由主義的な政策により 格差が拡大している。 大企業は グローバル展開と 国内労働条件の引き下げにより 利潤を増加させてきたが、 その利潤は 再びグローバル投資に振り向けられ、 株主配分に重点を置いた 利益処分が強まり、 所得格差を拡大させている。 経済的に恵まれない層は、 ワーキングプアとも言われる状況で アイデンティティーを脅かされている。 旧来の中間層が 貧困層と同じ境遇に置かれることは屈辱であり、 生活苦も重なる。 過剰な同調圧力の中で、 人々は民族の 「本来性」 を求め、 排外主義的な傾向を強める。 グローバル化による 均質化、画一化が進むにつれて、 反動として 民族主義的な傾向が現れるのは 必然的なのかもしれない。 資本主義が高度に発展し、 物象化が進み、疎外が深刻になるほど、 人々は本来性を追求する。 社会が体系化され、 個人が歯車と化したとき、 人々は精神的な領域に救いを求め、 ヒエラルキーに組み込まれることに慰めを見出す。 ポピュリズムは、 現代のデモクラシーが抱える 矛盾を露呈させた。 多くの人々は ポピュリズムを歓迎しないが、 その指摘に内心頷いている。

インタゲと増税はワンセット (再掲)

自分が 経済学が 好きであると 同時に 文学や哲学が 好きなのは、 どっちとも 現世の人間が 対象だから。 経済学というと、 学者として 身を立てるには 複雑な数理モデルを 駆使しなきゃいけないんだが、 自分は 経済学っぽい 哲学に逃げてるんだけど、 でも、 結局は 経済学も、文学や哲学と 同様に、 現世を生きる 人間を扱っている。 つまり、経済学 というと、難しく 感じるけれど、 経済学が想定しているのは、 そこそこ 合理的だけれども、 本来は 経済学なんて全く知らない人が どういう (ある程度合理的な) 行動を取るか、っていうことだ。 だからこそ、 経済学はいまだに 文学や哲学と 繋がりが深い。 それで、と ここからは 少しだけ 専門的な話になるけど、 インフレになれば 賃金があがる、という 前提で インフレーション・ターゲティング政策を やったわけだが、 現実問題 インフレにはなったが、 名目賃金の伸びは 追いついていない。 ここらへんは 議論が錯綜するところだが、 そもそも インフレになったから 賃金があがる保障なんて、 根拠が薄い。 いま日本全体が 名目賃金をあげるって 大号令かけてるけど、 いくら企業が 従業員の賃金をあげた ところで、それは 単純に 三面等価の原則でいうところの 分配の話であって、 言い換えれば 所得の再分配をしているだけなのだ。 つまり、 経済成長していないのに、 所得の再分配をしただけでは、 あまり意味がない。 結局は、 バラッサ・サムエルソン仮説が 提唱するように、 付加価値が高い 財を輸出することで、 だんだんと 労働者全体の 賃金があがる、というのが 経済学的にいえば 本筋なのだ。 つまり、経済学に 魔法の杖はなくて、 経済成長をすれば、自然と 賃金があがる、という ある意味 常識的なことが 導き出される。 もう少し敷衍すると、 インタゲをやって、実際に インフレになったら、 (それが経済成長を伴わない場合、) 生活が苦しくなったぶんだけ、 減税やら 政府支出を増やすなり せざるを得なくて、 そうすると、財政が悪化するから、 最終的には 増税せざるを得ないって 話になるんだ。 つまり、結論としては 誰かが甘い汁を吸ってるとか ましてや 財務省が悪い、なんて 話では まったくなく、 日本は経済成長を まず 目指すのが、本筋である。

財政学@新潟大学 後日談 改訂 (再掲)

俺:先週末の2日間、 大変貴重なお話を聞かせていただき、 ありがとうございました。 大変勉強になりました。 家に帰ってから、 プライマリーバランスについて 調べたのですが、 少し疑問が生じたので、 質問させていただきます。 「財政状況を示す指標の1つで, プライマリー・バランス均衡とは, 利払費・債務償還費を 除いた 歳出が 公債金収入以外の歳入で 賄われている状態を指す。 この場合, 現世代の 受益と負担が 均衡していることになる。 プライマリー・バランス均衡の状態で, 金利と名目GDP成長率が 等しければ, 債務残高の対GDP比は 一定に保たれる。 有斐閣経済辞典第4版」 とあるのですが、 まずプライマリーバランスを実現しないことには、 いくら 名目GDP成長率が金利を上回っていても、 債務残高は、 長期的に見れば 発散してしまうのでしょうか? 私も勉強不足で、 少し曖昧な質問に なってしまい恐縮ですが、 ご回答たまわれれば幸いです。  新潟大学 根岸睦人先生より: 小林さん 新潟大学の根岸です。 先日はお疲れさまでした。 早速ですが、質問にお答えします。 >まずプライマリーバランスを実現しないことには、 いくら 名目GDP成長率が 金利を上回っていても、 債務残高は、 長期的に見れば 発散してしまうのでしょうか?  いいえ、必ずしもそうではありません。 仮に プライマリーバランス(PB)が 赤字 (利払い費の規模を超える 債務残高の増加) でも、 債務残高の増加率を 上回る GDPの成長率が実現すれば、 債務残高の対GDP比は 低下します。 PBのバランスと、 利子率と名目成長率の関係の 両面で考える必要があります。

マリアナ海溝 (再掲)

2浪が決まった時の 父親からの 無言の圧も、 ハンパなかった。 晩飯のときだったが、 ここは マリアナ海溝の底ですか? っていうくらいの 無言の圧 かけられた。 いちおうメシは 食うには 食ってたが、 とても 食ってる気なんか するわけがない。  https://www.youtube.com/watch?v=oSzUiC8BVAE

おこげ (再掲)

昨日で、母親が脳梗塞を発症してちょうど1年経つんだけど、大きな後遺症もなく、むしろ病気になる以前より健康的になって、良かった。 1年前、買い物に行く前に焼きそばを作っていて、味付けがまだらになっているのみならず、母親が最も忌み嫌うおこげが出来ているのが、そのまま出てきたから、これは何かおかしい!と思って、買い物に付いていって、買い方がやっぱりおかしいから、問答無用で救急車呼んだ。 ずーっと無理し続けて、絶対いつかはおかしくなると思ってたから、そこを逃さず捉えられたのは良かった。 病前より自分の健康を過信せず、健康的な生活してるから、かえってリスクは低減したかも。

心が折れそうになった。 (再掲)

2ヶ月入れられてた 病院から ようやく 退院したとき、 記帳をする 姉のペンの握り方を見て、 衝撃を受けた。 中指と薬指の間から ボールペンが 突き出ている。 20年近く前の ことだから 正確ではないかもしれないが、 よくその握り方で 字が書けるな、と 逆に関心してしまうような 握り方だった。 と、同時に、 俺は この先の人生 誰を頼りにして 生きていけばいいんだ? と マジで 心が折れそうになった。

2025年3月22日土曜日

「違法」とは何か? メモ書き (再掲)

質問:ふと疑問に思ったのですが、刑法は全く勉強したことがないのですが、刑法上違法な行為、というのは想像がつくのですが、民法、あるいは行政法において、「違法」とはどういうことでしょうか?  K先生からのご回答:民法上の「違法」はいわゆる「不法行為」を含みます。民法709条以下です。明文に違反してなくても、他人の権利を侵害するような行為は「違法」認定されます。 行政法は・・・ 国家賠償法上の「違法」は、先の民法上の「違法」に準じた考え方で「違法」の有無が判断されることもありすが、行政争訟上の違法はこれとはまた違ってきます。刑法上の「違法」と似たところはありますけど、完全に同じではないかなぁ~  質問:例えば、道路交通法は行政法に属するかと思いますが、道路交通法に違反することは、「違法行為」でしょうか?それとも、道路交通法は刑法上の概念ともダブるのでしょうか?  K先生よりご回答:道路交通法は違反した場合、罰則を課すことが多いので、そうした場合は刑法上の違法ということになります。 行政法上の違法というのは私人からみて行政がわが公権力行使の違法を問うという文脈で「違法」が問題になります。 刑法上の「違法」は既存の刑事法令への違反のみが問題になるのに対して(ほうりに違反しなければ何をしてもかまわない)、行政の側は既存の法令に違反する場合だけでなく、法令の根拠なしに行った行政作用が「違法」なることがあります。(法律の留保)  質問:刑法というのは、 主に私人に対する制裁という ことになろうかと思いますが、 (控除説に立てば) 刑法を適用する主体も また 行政権に属するものであり、 三権分立の精神に鑑みれば、 まず思い浮かぶのは、 司法権が 行政権の濫用に 歯止めをかけることであり、 また、 立法権という観点から見れば、 国権の最高機関たる 国会において、 国民からの 信託に基づいて 代理人たる国会議員が立法行為を行う、 ということに なろうかと思いますが、 現実問題、 行政法規を 国会で議論しているとも思えず、 手っ取り早くいえば、 行政権の肥大化と、 その暴走が懸念される ところではないか、 と考えます。 そうであれば、 私人が 行政権の権限踰越に対して 抑止力を持つためには、 やはり選挙を通じて 自らの権利を保障してもらう、 という 堂々巡りになって しまいそうな気がします。  K先生からのご回答:刑事訴訟法という法律は「訴訟」という名前になっていますが、文字通りの「訴訟」のみならず、警察の犯罪捜査から、逮捕、送検、公訴提起、裁判手続き、判決、刑の執行まですべてを網羅しています。 そして、俗にいう警察(官)は「司法警察職員」とされ、一般の行政職員とは区別されています。警察職員の行動は警察官職務執行法によって規律され、家宅捜索や逮捕も裁判所が発する令状によらなければできないことになっています。 なので、「行政権」とはいっても、一般の行政とは相当に違っています。もっとも、司法によるチェックがどれだけ機能しているか、はまた別問題ですが・・・

せっかくのブログなのに・・・

友人が 超人的すぎて、 俺が 愚痴ってたりなんか したら、 それこそ 最終的に 相手にされなくなる、と 思って 我慢はしてたけど、 やっぱり 心の内に溜め込んだものって、 相当なもんだよね。 そうじゃなきゃ、そんな 簡単に 精神病になんかならないよ。 ってことで、もう 時効だから 過去のことを 吐き出させてもらいます。 そうしないと、 また 薬を飲まなきゃならなく なるからね。 ・・・で、また 姉のことなんだけどさ、 ズルズルと慶応生を続けていた頃、 戸塚のアパートに 姉と二人で暮らしていた時期が あったんだけど、 思い出すとチョーうぜえこと ばっかりだったな。 と、いっても、それは 姉からすれば ただの気まぐれでしかないんだけど。  ある日、どこからともなく 「シャー」って音が聞こえてきて、 なんだろう? と 思っていたんだが、40分ぐらい経って まだ 「シャー」って聞こえるから、 風呂場いったら、姉が シャワー出しっぱなしにして、 うずくまってんだよね。  どういうことかというと、 俺が 精神病だから、精神病患者の症状でも ネットで調べて、 あわよくば自分も精神病ブリたい ってことだよね。 ほんっと何もわかってないよね。 精神病になるってことが、どれほど ツライことか、なんて 微塵も考えずに、 ワタシも「弱い由佳ちゃん」を 演じたいっていうところがね。 ほんっとコイツのそういうところ ビョーキだと思うわ。 まあね、ある意味では ネバーランドの住人だったわけだけど、 大泉学園に 一戸建て買って 子どもも育ててりゃ、いい加減 ネバーランドの住人じゃ いられないわな。 ざまあみろ。 はあ。 スッキリした。

2025年3月21日金曜日

ジョン・デューイの政治思想 (再掲)

貨幣文化の出現は 伝統的な個人主義が 人々の行動のエトスとして 機能しえなくなっていることを意味した。 「かつて諸個人をとらえ、 彼らに人生観の支え、 方向、そして統一を与えた 忠誠心がまったく消失した。 その結果、 諸個人は混乱し、当惑している」。 デューイはこのように 個人が 「かつて是認されていた 社会的諸価値から 切り離されることによって、 自己を喪失している」 状態を 「個性の喪失」と呼び、 そこに貨幣文化の 深刻な問題を見出した。 個性は 金儲けの競争において 勝ち抜く能力に 引きつけられて考えられるようになり、 「物質主義、 そして拝金主義や享楽主義」 の価値体系と行動様式が 瀰漫してきた。 その結果、 個性の 本来的なあり方が 歪められるようになったのである。 「個性の安定と統合は 明確な 社会的諸関係や 公然と是認された 機能遂行によって作り出される」。 しかし、 貨幣文化は 個性の本来的なあり方に含まれる このような他者との交流や連帯、 あるいは 社会との繋がりの側面を 希薄させる。 というのは 人々が 金儲けのため 他人との競争に駆り立てられるからである。 その結果 彼らは 内面的にバラバラの孤立感、 そして 焦燥感や空虚感に陥る 傾向が生じてくる。 だが、外面的には、 その心理的な不安感の代償を求めるかのように 生活様式における画一化、量化、機械化の傾向が顕著になる。 利潤獲得をめざす 大企業体制による 大量生産と大量流通がこれらを刺激し、 支えるという 客観的条件も存在する。 個性の喪失とは このような 二つの側面を併せ持っており、 そこには 人々の多様な生活が それぞれに 固有の意味や質を持っているとする 考え方が後退してゆく 傾向が見いだされるのである。 かくしてデューイは、 「信念の確固たる対象がなく、 行動の是認された目標が 見失われている時代は 歴史上これまでなかったと 言えるであろう」 と述べて、 貨幣文化における 意味喪失状況の深刻さを 指摘している。 (「ジョン・デューイの政治思想」小西中和著 北樹出版 p.243~244)

日常生活とつながる「行政法」@郡山女子大学 レポート (再掲)

行政法の概念に、 「行政指導」と呼ばれるものが存在する。 行政は、 本来「行政行為」と呼ばれる、 命令する主体としての行政と、 名宛人の市民との 主体・客体関係が ハッキリしている手段で 運営されるべきものだが、 「行政指導」という、 極めて日本的な、 主体・客体関係が不明瞭な手段が、 行政の運営上横行している。 もっとも、 行政指導それ自体が問題なのではなく、 行政指導が、 本来強制力を伴わないものであるはずなのに、 従わなければ 往々にして 市民が制裁を加えられることが、 常態化しているという現実がある。 また、それに留まらず、 行政指導が 医療のあり方に絶大な影響を与えている。 どういうことか。 日本の医療制度において、 ある一定の地域に、 十分な病床数が確保されている場合、 新規に医療業者が参入しようとするとき、 保険適用が受けられず、 自由診療で開業せざるを得ない、 という現実が、 行政指導によって正当化されている。 これは明らかに 既存の病院の権益を守り、 新規参入者を 不当に排除している。 問題はこれに留まらない。 特に精神医療において、 1950年代にフランスで 画期的な抗精神病薬が開発され、 欧米先進国では 病床数が減っていったにも関わらず、 日本では逆に病床数が増えた。 これは、 戦後、精神病患者を建前上 しっかり治療しようとの方針から、 精神病院の数が増えたからである。 そこで、戦後、精神病院が増設される際、 一定の範囲で病床数を確保してしまえば、 地域の患者を独占できてしまう、 という経済的合理性によって、 精神病院が往々にして 大規模化したことが推測される。 言わずもがな、これは行政指導によって、 いったん多くの病床数を確保してしまえば、 新規参入者を排除できることが、 精神病院の大規模化を促したと 容易に考えられる。 そして、元厚生労働大臣が、 戦後日本の医療制度を構築した 武見太郎の息子である武見敬三である現実では、 これが改められる可能性は極めて低い。

レポートネタ (再掲)

近代化・文明化の過程で社会的に周辺化された人々の意識は、社会秩序からの抑圧により、深層意識に抑圧された負のエネルギーを蓄積する。このエネルギーは、社会の矛盾や不正義に対して、時には世界を根底から覆しかねないほどの潜在的な力を秘めている。 社会的に周辺化された人々とは、具体的には、身体的、精神的、あるいは社会的な理由で「疎外」された人々を指す。例えば、身体的な障害を持つ人々、精神的な問題を抱える人々、あるいは社会的な偏見や差別に苦しむ人々などが挙げられる。これらの人々は、社会の主流から外れ、しばしば自己の存在意義や価値を見失いがちになる。 しかし、このような状況下でも、彼らの意識は社会との相互作用を通じて、特有のエネルギーを蓄積する。社会的な疎外や抑圧は、彼らにとって否定的な経験ではあるが、同時に社会の現実を深く洞察する機会ともなる。彼らは、社会の矛盾や不正義を敏感に感じ取り、それに対する抵抗や変革への願望を内面に育む。 このような意識は、日常生活の中では必ずしも表面化しない。社会的な規範や圧力の下で、彼らは自己の感情や思考を抑制し、社会的な役割を演じることに努める。しかし、深層心理では、抑圧された感情や思考がエネルギーとして蓄積され、それが時には夢や芸術、あるいは社会的な抗議活動として表出することがある。 重要なのは、このエネルギーが単なる否定的な感情や思考の集積ではなく、社会変革の潜在的な力となり得る点である。社会的に周辺化された人々の意識は、社会の主流とは異なる視点や価値観を提供し、社会全体の意識を豊かにする可能性がある。彼らが自己の経験を通じて得た洞察や感情は、社会の多様性を促進し、より包括的で公正な社会の実現に貢献するかもしれない。 例えば、芸術や文学の世界では、社会的に周辺化された人々の視点から生まれた作品が、社会に新たな光を投げかけることがある。彼らの作品は、社会の暗部や矛盾を浮き彫りにし、見る者に新たな気づきや感情を喚起する。また、社会運動や政治の分野でも、彼らの声は社会変革の原動力となり得る。社会的に疎外された人々が自己の権利や尊厳を主張する時、それは社会全体の意識を高め、より公正な社会の実現に向けた動きを加速させる。 このように、社会的に周辺化された人々の意識は、社会の深層に蓄積されたエネルギーであり、時には社会を根底から覆しかねないほどの力を持つ。このエネルギーは、社会の矛盾や不正義に対する抵抗の源泉となり、社会変革の潜在的な力となる。したがって、彼らの意識を理解し、その声を社会に反映させることは、より公正で包括的な社会を築く上で不可欠である。

レポートネタ 参照:妄想卒論その7 (再掲)

2011年の「ウォール街を占拠せよ」 運動に端を発する 反格差デモは世界中に広がり、 格差拡大の加速を象徴した。 アメリカでは、 上位10%の所得層が 2021年に総所得の46%を 占めるまでになった。 これは 1920年代に匹敵する 富の集中であり、 当時の 革命運動の再来を想起させる。 共産主義は、私有財産を奪う 究極の反格差運動と言える。 1917年のロシア革命後、 第3インターナショナルが設立され、 反資本主義の機運が高まった。 当時のグローバル化は ロシアにも経済成長をもたらしたが、 格差を拡大させ、 日露戦争や第一次世界大戦による 困窮も重なり、革命へと繋がった。 ソ連成立後、 富の集中度は大幅に低下した。 現代では、 ポピュリズムが 人々の怒りの受け皿となっている。 トランプ大統領やオルバン首相のように、 国際協調に背を向ける姿勢が 支持を集めている。 人々が刹那的な主張になびくのは、 他者への信頼が 失われているからだ。 世界価値観調査では、 北欧諸国に比べて アメリカや日本では 他者への信頼度が低い。 信用は本来、 合理的な裏付けを超えるものであり、 リスクを伴う。 資本主義の発達により、 血縁や地縁の関係が希薄化し、リスクが増大したため、 契約の発達や信用の合理化が進んだ。 しかし、 信用の合理化が進みすぎると、 客観的な指標で算定された信用こそが 全てであるかのような 逆転現象が起こる。 ポピュリズム政党は、 既成政治を一部の特権階級の 占有物として描き、 大衆の声を代表する存在として 現れる。 グローバル化は、 一部の富裕層に富を集中させる一方で、 不安定雇用を増大させ、 新たな下層階級を生み出している。 富が集中するほど 他者への信頼が下がり、 「フェアネス指数」が低下し、 ポピュリズムに翻弄されやすくなる。 グローバル化は世界の富を拡大したが、 分配の偏りを生み出した。 日本でも新自由主義的な政策により 格差が拡大している。 大企業は グローバル展開と 国内労働条件の引き下げにより 利潤を増加させてきたが、 その利潤は 再びグローバル投資に振り向けられ、 株主配分に重点を置いた 利益処分が強まり、 所得格差を拡大させている。 経済的に恵まれない層は、 ワーキングプアとも言われる状況で アイデンティティーを脅かされている。 旧来の中間層が 貧困層と同じ境遇に置かれることは屈辱であり、 生活苦も重なる。 過剰な同調圧力の中で、 人々は民族の 「本来性」 を求め、 排外主義的な傾向を強める。 グローバル化による 均質化、画一化が進むにつれて、 反動として 民族主義的な傾向が現れるのは 必然的なのかもしれない。 資本主義が高度に発展し、 物象化が進み、疎外が深刻になるほど、 人々は本来性を追求する。 社会が体系化され、 個人が歯車と化したとき、 人々は精神的な領域に救いを求め、 ヒエラルキーに組み込まれることに慰めを見出す。 ポピュリズムは、 現代のデモクラシーが抱える 矛盾を露呈させた。 多くの人々は ポピュリズムを歓迎しないが、 その指摘に内心頷いている。

やさしい経済学ー産業政策の意図せざる結果ー 島本実 一橋大学教授 (再掲)

木曜日から始まった コラムも 素晴らしい! 土日は このコラムは休みだから、 週明けの連載が じつに 楽しみだ♬ 最近 日経新聞も頑張ってる。 全10回の連載 すべて 読みました。 いやー、素晴らしい内容だったね。 戦中の 革新官僚の統制経済体制が 戦後も続いた、という 観点から出発して、 さまざまなケースを 例に挙げながら、 戦後の日本経済が 決して 官の保護主義的な 産業政策だけで うまくいった わけではない、ということが よくわかった。 貴重な情報でした。 ありがとうございました。 この「やさしい経済学」の 連載は、最近 アタリが多いね。 他の記事がぜんぶ つまんなくても、これが 面白ければ それで結構 満足できる。

ビジネスと経済学@茨城大学 (再掲)

小山台高校の生徒が、シンドラー社製のエレベーターに挟まれて死亡した事件があったけど、あれは、マンションの管理組合がメンテナンス代をケチって、他の業者に委託したのが発端らしい。 あんまり詳しく書くと、面倒なことになりそうだから、これくらいにしとくけど、シンドラー社製のエレベーターに欠陥があったというより、エレベーター本体の価格は低く抑えて、メンテナンス代で儲ける仕組みが災いしたのかも。 本体価格を低く抑えて、付属品などで儲ける商品の典型が、プリンター。 プリンター本体の価格は低く抑えて、インク代で儲けてる。 しかし、ここにもシンドラー社製エレベーターと同じ構造があって、高いインク代に目をつけて、第三者企業が代替インクを低価格で販売し始めて、それに対してプリンター会社が対抗策を講じたりとか。 とにかく、二日間で面白い話がたくさん聞けました。

近代日本の炭鉱夫と国策@茨城大学 レポート (再掲)

茨城大学強いわ。ここんとこ毎学期茨城大学行ってるけど、今回もめちゃくちゃ面白かった。面白いという言葉では言い表せない。アタマをバットで殴られるくらいの衝撃を感じた。 石炭産業を語らずに近代日本の経済発展は語れないと言って間違いない。 にもかかわらず、おおっぴらに語られることはほとんどない。 あたかも繊維産業が花形で日本経済の繁栄をほとんどすべて牽引したかのように語られている。 裏を返せば、それほどまでに、石炭産業を語るということは、現在に至るまで日本の暗部を映し出すことになるのかも知れない。 (以下レポート) 今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。   ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。   日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。   しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考えると、グローバリゼーションに対応しながら国民的自己決定を達成するには、国をまさに富国強兵のスローガンの下で一致団結させる必要があり、そこでは多様な民意というものを反映することは困難であり、したがって表現の自由が抑圧され、民主主義は達成できない、と考えられます。   戦前の日本に照らして考えると、前近代の村社会が国家組織の末端に組み入れられ、その中で炭鉱夫が生きるための最後の手段として究極のブラック職業として見なされていたこと、それでも西欧へ肩を並べなければならない、という官民一体の国家的意識のなかで、脅迫的に近代化へ歩みを進めざるを得なかった状況では、社会の底辺としての炭鉱夫には、およそ政治参加、すなわち民主主義の恩恵に浴することは出来なかった。それはとりもなおさず炭鉱業というものが本来的に暴力的であり、同時に「国策」としての帝国主義的性格を多分に内包していたことと平仄を合わせています。   中国のウイグル人の抑圧と戦前日本の坑夫を重ねて考えると、そのような構図が透けて見えてきます。

近代日本経済史@北九州サテライト レポート (再掲)

確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

漱石の「自然(じねん)」観を巡って (再掲)

質問:授業でうかがった漱石の自然(じねん)感ですが、それは代助が「青」の世界で拵えた造り物だったのでしょうか? 三千代との実質的な姦通というある種の「原罪」のために、代助は「赤」の世界へと放り出されるのでしょうか? 代助にとって、「じねん」の世界は、「青」の世界でしか成立しえないまがい物なのか、それとも本来的に人間にとって所有しえない抽象物なのか。 アドルノの「自然」観との対比でも、興味深く感じられました。 ご回答:「原罪」という言葉もありましたが、倫理的な漱石は、やはり代助の「青の世界」を(海神の宮の「3年」期限に同じく)、癒しをも意味する一定期間の滞留後には出て行くべき、後にするべき世界として想定しているように思われます。 その意味では、現実世界と水底とーー世界を2つに分断してしまっているのは「代助」であり、人間が現実世界の死を背負った存在である以上、当然、水底的な内なる世界と連続しているはずの赤い現実世界へ、代助が帰還すべきであることは自明であり、当然、代助は葛藤を体験しなければならない‥。こんな感じかなと思います。(オタク青年の現実世界への帰還)。 「じねん」ですが。 「青の世界」ーー自負する「自家特有の世界」で彼が創出した「己に対する誠」を起点に「自分に正直なー(作為や人為の加わることのない)おのずからな−あるがままの」といった展開上に「じねん」が生まれて来るわけですが、上述のようなテクストの構造から言えば、当然、「じねん」は「自然」の最も暗い側面ともいうべき欲動的なものと接続せざるを得ない。というより、元々、「じねんーおのずからな・あるがまま」自体が、まさに「あるがまま」の欲動的なものを内包している、と言うべきなのかもしれません。 そう考えれば、ストーリー展開に従って、「青」が「赤」に接続してゆくように、「おのずから」も「行く雲・流れる水」といった上澄的なものへの憧れの昂まりが、必然的に、同じく「おのずから」人が備えている欲望的な側面を、まさに、おのずから浮上させざるを得ない。 こういった感じなのではないでしょうか。 「じねん」は、「青の世界」の文脈では不本意ではあるものの、本来的に欲動的なものと切り離せず(極論すれば、それを含み込んだ概念であり)、重々、それを承知の漱石が、(身勝手に2つの世界を分断してしまっている)代助を現実世界ー欲望の世界へと、これまた人間の本来的にあるべき姿として、連接させてゆく。 その意味で、テクスト『それから』は、案内人・代助を立てて、「じねん」の世界を読者に一巡り、させてくれている、と言うこともできるかもしれません。 こうやって、「自然」の全体的姿が浮上、把握された上で、いったん『門』では、『それから』が「青」的側面に比重をかけていたのと対照的に、すでに物語開始時点では終わってしまっている「姦通」行為を、「赤」的側面ーー人間の本能(性的欲望)の観点から概括し、そして絶筆『明暗』では、まさに総体としての「自然」が、余裕を持ちながら俯瞰的に展開される‥。 スムーズに説明することは叶いませんでしたが、ほぼ、これが、今回の私の見取り図でした。 資料作りで上記を展開しつつ、「おのずから」という倫理学の概念を、もう一度、きちんと勉強したいという思いはふつふつと湧き上がっていたところ、また小林くんからは「アドルノの自然」という西欧的自然の視点を頂戴し、もう一度、文献を当たり直してみたいと切実に思い始めています。

<近代>と周縁化 (再掲)

後期資本主義批判を アドルノから荻野先生の社会学、 ゲーテを経て 漱石まで展開した動画を有り難う。 アドルノの後期資本主義批判は しばしば読ませてもらっていたところですが、 今回は 荻野氏の「詐欺」論へ 連接させることで、 論がひときわ具体性を増し、 鮮やかな像を結んだように思います。 不確定性に賭ける「詐欺師」とは、 計量と数値化を旨とする 近代合理主義社会の、 いわば虚をつく存在。  資本主義社会の到達点ともいえる 「管理社会」への 批判的メタファーなのですね。 それが足を置く場は、 まさに 資本主義社会の 「市場」の余白とでも表すべき領域。 とすれば、小林くん講話の 後半部のキーワードともいうべき 「自然」が、 まさに 商品の 等価交換から成り立つ 「市場」の〈外部〉であることと きれいに響き合っていることに、 つくづく感心しました。 そして、近代作家とは、 まさにその〈疎外〉感を以て、 同じく 近代が周縁化してしまった 〈自然〉 へ魅かれ、耽溺する者であるわけですね。 日本近代の場合、 より〈自然〉に親和的なのが自然主義作家で、 これをまさに 〈じねん〉 にみられるような 概念化への苦闘を経ることで、 欲望的な世界から 帰還してくるのが漱石、 ということになるでしょうか。 「ファウスト」こそ詐欺師では、 との小林くんの呟きにクスリとしながら つい頷いてもいるのですが、 その葛藤が 〈魂の救済〉 なるもので終結するのは、 やはりなんといっても キリスト教文化圏ならではの展開でしょう。 かの有名な 「疾風怒濤」期に 端的に現れる ゲーテの自然観 (近代的「自然」の発見)は、 日本の場合、 漱石よりも、北村透谷を経た 自然主義文学への影響の方が大きそうです。 いささか余談ですが、 ゲーテも、漱石も、そして ほとんどすべての男性・近代作家の描く異性愛の対象 ーー 〈女性〉 もまた 〈近代〉 が周縁化した存在なので、 なるほどテクストというものは 論理的かつ時代精神を おのずから反映したものだ、 と改めてつくづく納得した次第です。 いつものことながら、感謝です。誠に有り難う。 今回、頂戴した小林くん講話に これまで頂戴している 論考から得た知識を総合すれば、 資本主義-市民社会がもたらす 疎外、物象化に対する 苦悩という名の 徹底的相対化、 これこそが 漱石の文明批評の基盤であることが、 まさに 鮮明に図式化されて見えてくる感じです。 今回は 「ブログのハッシュタグ参照」とのことで、 アドルノとの関係への言及は省略されていましたが、 ここから展開してゆくのが、 何度か拝見させてもらった、 アドルノを援用した小林くんの 「それから」 論ですね。 主客分離から生じる疎外を批判し、 人間の自然 および身体の抑圧を論じながら、 原初的まどろみへの回帰は 徹底的に封じた アドルノの論理展開が、 何と代助の解読に有効であるか、 は、つねづね痛感するところです。

政治学入門@三島レポートその10 (再掲)

第10節:日本の<近代化>における状況について、夏目漱石の小説『それから』を題材にして考察する。経済が豊かになると、自家特有の世界に耽溺する余裕が産まれつつも、最終的には経済の論理に絡め取られていく。テオドール・W・アドルノによれば、社会が理性によって徹底的に合理化されるほど、人々は逆に精神世界での非合理的なヒエラルキーに慰めを求めるようになるのである。「それから」の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。 もちろんフィクションではあるが。 代助は、 漱石が「自然(じねん)」と名付ける、 自家特有の世界に隠棲している。 そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。 友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、 百合の花が活けてあった花瓶の水を、 暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、 三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、 そこに「自然」を見出し、 主客合一の境地を得ようとするが、 それは理性の放擲を意味するため、 肉体を具有する代助は、 再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、 「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、 「赤の世界」の象徴として (再び)現れる三千代は、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。 それはまた、 ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、 競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件は むしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。 しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。 主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、 そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、 しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、 主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも 理性を手放さない、 漱石の「個人主義」の一端を表している。このように、夏目漱石は、経済の合理性の論理と、自家特有の世界との板挟みに遭いながらも、理性を放棄し、主観と客観との区別の放棄への道は採らずに、理性的な近代的個人に拘るのである。

「アドルノ」 岩波現代文庫より 抜書 (再掲)

もっとも、 アドルノが 主観と客観との 絶対的な分離に敵対的であり、 ことに その分離が 主観による 客観のひそかな 支配を秘匿している ような場合には いっそう それに敵意を 示したとは言っても、 それに替える彼の代案は、 これら 二つの概念の完全な統一だとか、 自然のなかでの 原初の まどろみへの回帰だとか を もとめるものではなかった。 (93ページ) ホーマー的ギリシャの 雄大な全体性という 若きルカーチの幻想であれ、 今や 悲劇的にも忘却されてしまっている 充実した <存在> というハイデガーの概念であれ、 あるいはまた、 人類の堕落に先立つ 太古においては 名前と物とが一致していたという ベンヤミンの信念であれ、 反省以前の統一を 回復しようという いかなる試みにも、 アドルノは 深い疑念をいだいていた。  『主観‐客観』は、 完全な現前性の 形而上学に対する 原‐脱構築主義的と 言っていいような軽蔑をこめて、 あらゆる 遡行的な憧憬に攻撃をくわえている。 (94ページ) 言いかえれば、 人間の旅立ちは、 自然との原初の統一を 放棄するという 犠牲を払いはしたけれど、 結局は 進歩という性格を もっていたのである。 『主観‐客観』は、 この点を指摘することによって、 ヘーゲル主義的マルクス主義をも 含めて、 人間と世界との 完全な一体性を 希求するような哲学を 弾劾してもいたのだ。 アドルノからすれば、 人類と世界との全体性という 起源が失われたことを嘆いたり、 そうした全体性の 将来における実現を ユートピアと同一視したりするような哲学は、 それがいかなるものであれ、 ただ誤っているというだけではなく、 きわめて 有害なものになる可能性さえ 秘めているのである。 というのも、 主観と客観の区別を 抹殺することは、 事実上、 反省の能力を失うことを 意味しようからである。 たしかに、 主観と客観のこの区別は、 マルクス主義的ヒューマニストや その他の人びとを 嘆かせた あの 疎外を産み出しもしたが、 それにもかかわらず こうした反省能力を 産み出しもしたのだ。 (「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とは もともとイデオロギー的なものなのだ、 と アドルノは主張する。 「社会全体が体系化され、 諸個人が 事実上 その関数に貶めれられるように なればなるほど、 それだけ 人間そのものが 精神のおかげで 創造的なものの属性である 絶対的支配なるものを ともなった原理として 高められることに、 慰めをもとめるようになるのである。」  言いかえれば、 観念論者たちの メタ主観は、 マルクス主義的ヒューマニズムの説く 来たるべき集合的主観なるものの 先取りとしてよりもむしろ、 管理された世界の もつ 全体化する力の原像と 解されるべきなのである。 ルカーチや 他の西欧マルクス主義者たちによって 一つの 規範的目標として 称揚された 全体性というカテゴリーが、 アドルノにとっては 「肯定的なカテゴリーではなく、 むしろ 一つの批判的カテゴリー」 であったというのも、 こうした理由による。 「・・・解放された人類が、 一つの全体性となることなど 決してないであろう。」 (「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)  アドルノからすれば、 人類と世界との 全体性という 起源が 失われたことを嘆いたり、 そうした全体性の 将来における 実現を ユートピアと同一視したり するような哲学は、 それがいかなるものであれ、 ただ誤っているというだけではなく、 きわめて有害なものになる 可能性さえ秘めているのである。  というのも、 主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上、 反省の能力を失うことを 意味しようからである。 たしかに、 主観と客観のこの区別は、 マルクス主義的ヒューマニストや その他の人びとを 嘆かせた あの疎外を産み出しもしたが、 それにもかかわらず こうした反省能力を 産み出しもしたのだ。 (「アドルノ」岩波現代文庫95ページ)

「金融と社会」質問と回答その7 (再掲)

質問:インフレ目標政策についてうかがいます。 私の実感でも、物価が上がってきたなー、と感じます。 より正確には、 通貨(円)の価値が目減りした ということだと思われますが。 あまり国民の生活が苦しくなれば、 物価の安定という意味では、 金利をあげたほうがまだマシ、 と考える家計も 増えてくるのではないかと考えます。 そうすると、なるほどこれがフィッシャー効果か、 と思われるのですが、 確かに 実質金利がさがったことで 消費者の購買意欲が増したことで 景気の底割れを防ぎ、 政府の名目上の税収も 増えていると言われています。 しかし、かといって、 国も企業も家計も借金まみれの現状では、 今さら金利を上げられるのか、 甚だ疑わしいです。 なぜなら、 金利の上昇は、確かに通貨(円)の価値を 底上げする可能性はありますが、 上述のように 政府・企業・家計が借金まみれの状態では 金利の上昇は難しいことは無論、 長期金利の上昇は、 政府の借金の利払いを増嵩させるのみならず、 日本国債の価格を低下させるため、 発行済日本国債の6割を保有すると いわれる日銀の財務状況を、 著しく危殆にさらすものと考えられるからです。 果たして、 これが当初のインフレ目標政策の 目指していた姿なのか、 甚だ疑念を感じずにはいられません。  回答: 質問文に書かれていることは、私も理解できます。 インフレ目標政策が 2013年に導入を余儀なくされた時、 当時の白川総裁には その問題点がわかっていたと思います。 日銀が2000年に インフレ目標政策について調査したレポートを リンクしておきます。 http://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2000/data/ron0006a.pdf

ルカーチ メモその34 (再掲)

もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 そのような 近代社会の いわゆる 「物象化」論は、 マルクスの 「疎外論」や 「資本論」と 連接する 問題意識だった。 「商品」は その物自体の 「使用価値」と それが市場でもつ 「交換価値」の 二面をもつ。 現代の資本主義社会においては 交換価値のみが 突出するため、 商品を作って生きる 人間の労働も 交換価値に還元され、 ひいては 人間性そのものまで 計数化され 疎外されていく。 故に そのような資本主義的 「物象化」の 打破こそが、 近代人の 陥っている 閉塞状況の 根本的解決だと 論ずる。

経常収支ことはじめ (再掲)

質問: 今般の衆議院選挙の結果を受けて、 安倍政権の経済政策が信任され、 結果、 日銀が緩和を継続すれば、 世界経済への 流動性供給の 源であり続けることになり、 特に、 金利上昇の影響を受けやすい アジアの新興市場に 日本発の流動性が流れ込む だろうという指摘もあります。 ここで、松原隆一郎先生は、 「経常収支と 金融収支は一致する」 と書いておられる わけですが、 実際に 物(ブツ)が輸出入される、 という実物経済と、 例えば日銀が 金融緩和で 世界にマネーを 垂れ流して 世界の利上げ傾向に逆行する、 という国際金融の話を、 同じ土俵で括るのが適切なのか、 という疑問が生じました。 回答: 経常収支は 一国で 実物取引が完結せず 輸出入に差がある ことを表現する項目です。 日本のように それが黒字である (輸出が輸入よりも大きい)のは 商品が外国に売れて、 外国に競り勝って 良いことのように 見えるかもしれませんが、 別の見方をすれば 国内で買われず 売れ残ったものを 外国に引き取ってもらった とも言えます。 国内では 生産し カネが所得として 分配されていて 購買力となっているのに 全額使われなかったのですから、 その分は貯蓄となっています。 つまり実物を純輸出しているとは、 同時に国内で使われなかった 貯蓄も 海外で 使わねばならないことを 意味しているのです。 こちらが金融収支なので、 「経常収支と 金融収支が一致する」 のは同じことの裏表に過ぎません。 そこでご質問は、 「日銀が国債を 直接引き受けたりして 金融緩和し続けている。 このことは 経常収支・金融収支と どう関係があるのか?」 ということになろうかと思われます。 けれども日銀は バランスシートという ストックのやりとりをしており 経常収支・金融収支は フローのやりとりなので、 概念としては次元が異なります (「スピード」と「距離」に相当)。 すなわち、 金融収支はフローであり、 日銀の金融緩和はストックなので、 同じ水準では扱えないのです (スピードに距離を足すことはできない)。 しかし ストックとフローにも 影響関係はあるのではないか という考え方も確かにあり、 そもそも 一国内に限って それを金融資産の需給 (ストック) と 財の需給 (フロー) が金利で結ばれるという 考え方を示したのが ケインズの 『雇用・利子・貨幣の一般理論』でした。 とすれば その国際経済版が 成り立つのかは 重要な問題ではあります。 この論点は 多くの研究者が気になるようで、 奥田宏司「経常収支,財政収支の基本的な把握」 www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/Vol.26-2/09_Okuda.pdf が論じています。 参考にしてください。  https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX

「やさしい経済学」ー金融が支配する世界ー 中央大学准教授 小倉将志郎 増補 (再掲)

今 連載中の 小倉将志郎 中央大学准教授の 「金融が支配する世界」 は 素晴らしい。 そう、そこ! と 膝を打ちたくなる。 以下、連載第4回より 「一方、家計の 経済活動以外の側面は、 主に 欧米で研究が進展しており、 日常生活にも 『金融的計算』が 組み込まれているとされます。 金融的計算という表現に 定まった 定義はありませんが、筆者は キャッシュフローを生み出す 取引可能な存在を、 量的に評価・把握し、 最適な状態に管理 しようとする姿勢と 捉えます。 その直接・間接の対象は 教育、文化、余暇など多岐にわたり、 社会の あらゆる対象が 市場価格を持つことが 前提とされるのです。」

旬報社 (再掲)

1990年代以降、 企業のグローバル展開が 加速していくのに合わせて、 国内では 非正規雇用への 切り替えや 賃金の削減など、 生産コスト抑制が 強まりました。 大企業は グローバル展開と 国内での労働条件引き下げにより、 利潤を増加させてきたのです。 しかし、 その増加した利潤は 再びグローバル投資 (国内外のM&Aを含む) に振り向けられます。 そして、 グローバル競争を背景にした 規制緩和によって、 M&Aが増加していきますが、 これによって 株主配分に重点を置いた 利益処分が強まり、 所得格差の拡大が 生じています。 また、 国内の生産コスト抑制により、 内需が縮小していきますが、 これは企業に対して さらなるグローバル展開へと 駆り立てます。 このように、 現代日本経済は 国内経済の衰退と グローバル企業の利潤拡大を 生み出していく構造に なっているのです。 1990年代以降、 景気拡大や 企業収益の増大にも関わらず、 賃金の上昇や 労働条件の改善に つながらないという問題を 冒頭で指摘しましたが、 このような 日本経済の構造に 要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX

「現代の国際政治」 第5回 まとめ (再掲)

あ〜あ、思い出せるだけ〜思い出して、あそびたぁぁぁぁい! てなわけで、 放送大学「現代の国際政治」第5回の放送授業内容を、出来る限り思い出しながら、要点をまとめてみたいと思います。 まず、第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。 ま、こんなとこかな。 地域間経済協定については割愛した。 https://www.homemate-research.com/useful/18249_shopp_010/

ユーミンとシルクロード (再掲)

2021年の大河ドラマは、渋沢栄一を扱っていたが、蚕を飼って桑の葉を食べさせているシーンがあったが、蚕を飼うということは、最終的に絹を作って、輸出するということだから、既に世界的な市場と繋がっていて、本を辿れば、あの時代に既に農家も貨幣経済に部分的に組み入れられていたということ。 つまり、生活するのにカネが必要になるということ。 それ以前は、綿花を作っていた。その時代は、塩と綿の苗だけはカネで買ったけれど、それ以外はカネを使わなかった。 つまり、養蚕業が日本の原風景というイメージは、違う。 綿花を作っていた頃は、綿を作って、紡績業者に委託して織物にしてもらって、それを藍染にしていた。 桐生などが代表的だが、綿花を紡績する織機産業が日本のプロト工業化の役割を担った。 大河の描写では、渋沢家は養蚕と藍染を両方やっていた。 横浜が開港して、八王子との間に交通が整備されると、山梨や長野からの絹が八王子に集積され、横浜港から世界に輸出され、第二次大戦まで、日本の外貨獲得の最大の資金源となり、横浜と八王子を結ぶラインは、シルクロードと呼ばれた。 戦後は、横浜からの舶来文化の流入で、在日米軍への、音楽などの文化的サービスが生まれ、花街も賑わった。 八王子を代表するシンガーソングライターに、松任谷由実がいるが、彼女も、八王子の絹呉服店に生まれ、子供のころから、米軍関係者に歌を披露していたそうだ。

グローバル化と金融@金沢 まとめ (再掲)

現代のグローバル資本主義の構造的問題は、 世界的なカネ余り状態である。 まず、1960年代に、 企業の海外進出に伴い、 銀行が国際展開を 急激に拡大したことにより、 どこからも規制を受けない 「ユーロ市場」 が登場した。 次に、1970年代に、 オイル・ショックによる オイルマネーの流入と 金融技術革新により、 米国の銀行による 「ユーロ・バンキング」 が活発化する。 変動相場制への移行により、 銀行は アセット・ライアビリティ・マネジメント (ALM) を導入。 これは、 ドル建ての資産と ドル建ての負債を 同額保有することにより 為替リスクを相殺する方法である。 たとえば、 ドル建て資産を1万ドル保有していた場合、 円高ドル安になれば 資産は減価し、 円安ドル高になれば資産は増価する。 逆に、 ドル建て負債を 1万ドル保有していた場合、 円高ドル安になれば負債は減価し、 円安ドル高になれば負債は増価する。 こうして為替リスクを相殺する。 1970年代のオイルマネーの増大と、 インフラ投資額の高騰により、 特定の一つだけの銀行だけでは 融資の実行が困難になり、 シンジケート・ローンが発展した。 シンジケート・ローンとは、 幹事引受銀行が ローンを組成し、 参加銀行に分売することで、 複数の銀行による 信用リスクの分散化を 図るものである。 しかし、シンジケート・ローンにより、 信用リスクは分散したが、 信用リスクそのものが 低下したわけではない。 この後の 資産の証券化の流れのなかで、 ALMの発展により リスク管理手段が多様化し、 デリバティブが登場し、急速に拡大した。

理解しがたい

自民党の石破さんの 件だが、 新人議員が 自民党のボスから ポケットマネーで 商品券もらっておいて、 それを 結果的に 意趣返しして、 ボスの首まで飛びかねないのに、 それを お詫びもしないのかね? やくざだったら 殺されてるぞ? そういう感覚が 欠落しているのが 理解しがたい。

2025年3月20日木曜日

「違法」とは何か? メモ書き

質問:ふと疑問に思ったのですが、刑法は全く勉強したことがないのですが、刑法上違法な行為、というのは想像がつくのですが、民法、あるいは行政法において、「違法」とはどういうことでしょうか?  K先生からのご回答:民法上の「違法」はいわゆる「不法行為」を含みます。民法709条以下です。明文に違反してなくても、他人の権利を侵害するような行為は「違法」認定されます。 行政法は・・・ 国家賠償法上の「違法」は、先の民法上の「違法」に準じた考え方で「違法」の有無が判断されることもありすが、行政争訟上の違法はこれとはまた違ってきます。刑法上の「違法」と似たところはありますけど、完全に同じではないかなぁ~  質問:例えば、道路交通法は行政法に属するかと思いますが、道路交通法に違反することは、「違法行為」でしょうか?それとも、道路交通法は刑法上の概念ともダブるのでしょうか?  K先生よりご回答:道路交通法は違反した場合、罰則を課すことが多いので、そうした場合は刑法上の違法ということになります。 行政法上の違法というのは私人からみて行政がわが公権力行使の違法を問うという文脈で「違法」が問題になります。 刑法上の「違法」は既存の刑事法令への違反のみが問題になるのに対して(ほうりに違反しなければ何をしてもかまわない)、行政の側は既存の法令に違反する場合だけでなく、法令の根拠なしに行った行政作用が「違法」なることがあります。(法律の留保)  質問:刑法というのは、 主に私人に対する制裁という ことになろうかと思いますが、 (控除説に立てば) 刑法を適用する主体も また 行政権に属するものであり、 三権分立の精神に鑑みれば、 まず思い浮かぶのは、 司法権が 行政権の濫用に 歯止めをかけることであり、 また、 立法権という観点から見れば、 国権の最高機関たる 国会において、 国民からの 信託に基づいて 代理人たる国会議員が立法行為を行う、 ということに なろうかと思いますが、 現実問題、 行政法規を 国会で議論しているとも思えず、 手っ取り早くいえば、 行政権の肥大化と、 その暴走が懸念される ところではないか、 と考えます。 そうであれば、 私人が 行政権の権限踰越に対して 抑止力を持つためには、 やはり選挙を通じて 自らの権利を保障してもらう、 という 堂々巡りになって しまいそうな気がします。  K先生からのご回答:刑事訴訟法という法律は「訴訟」という名前になっていますが、文字通りの「訴訟」のみならず、警察の犯罪捜査から、逮捕、送検、公訴提起、裁判手続き、判決、刑の執行まですべてを網羅しています。 そして、俗にいう警察(官)は「司法警察職員」とされ、一般の行政職員とは区別されています。警察職員の行動は警察官職務執行法によって規律され、家宅捜索や逮捕も裁判所が発する令状によらなければできないことになっています。 なので、「行政権」とはいっても、一般の行政とは相当に違っています。もっとも、司法によるチェックがどれだけ機能しているか、はまた別問題ですが・・・

臨在感

今日 (2025/3/20) で オウム真理教が 起こしたとされる 地下鉄サリン事件から 30年ということらしいです。 これも 陳腐な表現だが、 ついこの間のこと だったように 感じる。 それはさておき、 あの事件以来、 ますます 自然科学崇拝が強まって、 自然科学で 実証できないものは すべて否定されるべき、 という 空気が蔓延したように 感じる。 しかし、理性が支配する世界は 人間には あまりにも酷である、ということは、 アドルノもまた 警鐘を鳴らし続けたことだ。 「臨在感」にしても、 すべて 否定しさって済ませていいのだろうか。 エマニュエル・レヴィナスが 論じたように 「イリヤの夜」の ように、 「なにかがいる、ある」という 感覚から出発する 倫理学もある。 実際、ちくま新書から出ている 熊野純彦氏の 「レヴィナス入門」は そういう書き方をしている。 その意味でも、 「臨在感」そのものまでも、 自然科学で立証できない、というだけの 理由で、 否定して 捨て去ってしまっては、 それを崇拝するのと 同じように 同じ轍を踏む ことになるのではないか。

2025年3月19日水曜日

バラッサ・サムエルソン仮説 (再掲)

消費バスケットを構成する貿易可能財では、国際貿易を通じた裁定取引により国際的な一物一価が生じる一方、サービスなどの非貿易可能財では国際的な裁定取引が行われない。日本での非貿易可能財価格は国内の生産投入費用、特に実質賃金により決定される。 貿易可能財産業で高い労働生産性の伸び率を達成した高所得国は、その高い労働の限界生産性から国内実質賃金がすべての国内産業で高い。高所得国の非貿易可能財価格は低所得国より高くなり、同所得国の実質為替レートは増価する。 日経新聞「経済教室」2022/1/26 より https://imidas.jp/genre/detail/A-109-0085.html https://jp.reuters.com/article/column-kazuo-momma-idJPKBN2FB0CH

文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答 (再掲)

質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。  フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。  「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家を孤立させ絶望においやっている現状が鋭く指摘されています。その他の時事的な文章・発言においても、ヨーロッパにおけるグローバリズムと言うべきEU経済戦略のもたらすひずみと地場産業の危機は、ウエルベックにとって一つの固定観念とさえ言えるほど、しばしば繰り返されています。 つまり、ウエルベックは「グローバリゼーション」が伝統的な経済・産業活動にもたらすネガティヴな影響にきわめて敏感であり、そこにもまた「闘争領域の拡大」(ご存じのとおり、これはそもそも、現代的な個人社会における性的機会の不平等化をさす言葉だったわけですが)の脅威を見出していると言っていいでしょう。なお、「セロトニン」で描かれる、追いつめられたフランスの伝統的農業経営者たちの反乱、蜂起が「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言・予告するものだと評判になったことを、付記しておきます。 以上、ご質問に感謝しつつ、ご参考までお答え申し上げます。

<近代>と周縁化 (再掲)

後期資本主義批判を アドルノから荻野先生の社会学、 ゲーテを経て 漱石まで展開した動画を有り難う。 アドルノの後期資本主義批判は しばしば読ませてもらっていたところですが、 今回は 荻野氏の「詐欺」論へ 連接させることで、 論がひときわ具体性を増し、 鮮やかな像を結んだように思います。 不確定性に賭ける「詐欺師」とは、 計量と数値化を旨とする 近代合理主義社会の、 いわば虚をつく存在。  資本主義社会の到達点ともいえる 「管理社会」への 批判的メタファーなのですね。 それが足を置く場は、 まさに 資本主義社会の 「市場」の余白とでも表すべき領域。 とすれば、小林くん講話の 後半部のキーワードともいうべき 「自然」が、 まさに 商品の 等価交換から成り立つ 「市場」の〈外部〉であることと きれいに響き合っていることに、 つくづく感心しました。 そして、近代作家とは、 まさにその〈疎外〉感を以て、 同じく 近代が周縁化してしまった 〈自然〉 へ魅かれ、耽溺する者であるわけですね。 日本近代の場合、 より〈自然〉に親和的なのが自然主義作家で、 これをまさに 〈じねん〉 にみられるような 概念化への苦闘を経ることで、 欲望的な世界から 帰還してくるのが漱石、 ということになるでしょうか。 「ファウスト」こそ詐欺師では、 との小林くんの呟きにクスリとしながら つい頷いてもいるのですが、 その葛藤が 〈魂の救済〉 なるもので終結するのは、 やはりなんといっても キリスト教文化圏ならではの展開でしょう。 かの有名な 「疾風怒濤」期に 端的に現れる ゲーテの自然観 (近代的「自然」の発見)は、 日本の場合、 漱石よりも、北村透谷を経た 自然主義文学への影響の方が大きそうです。 いささか余談ですが、 ゲーテも、漱石も、そして ほとんどすべての男性・近代作家の描く異性愛の対象 ーー 〈女性〉 もまた 〈近代〉 が周縁化した存在なので、 なるほどテクストというものは 論理的かつ時代精神を おのずから反映したものだ、 と改めてつくづく納得した次第です。 いつものことながら、感謝です。誠に有り難う。 今回、頂戴した小林くん講話に これまで頂戴している 論考から得た知識を総合すれば、 資本主義-市民社会がもたらす 疎外、物象化に対する 苦悩という名の 徹底的相対化、 これこそが 漱石の文明批評の基盤であることが、 まさに 鮮明に図式化されて見えてくる感じです。 今回は 「ブログのハッシュタグ参照」とのことで、 アドルノとの関係への言及は省略されていましたが、 ここから展開してゆくのが、 何度か拝見させてもらった、 アドルノを援用した小林くんの 「それから」 論ですね。 主客分離から生じる疎外を批判し、 人間の自然 および身体の抑圧を論じながら、 原初的まどろみへの回帰は 徹底的に封じた アドルノの論理展開が、 何と代助の解読に有効であるか、 は、つねづね痛感するところです。

旬報社 (再掲)

1990年代以降、 企業のグローバル展開が 加速していくのに合わせて、 国内では 非正規雇用への 切り替えや 賃金の削減など、 生産コスト抑制が 強まりました。 大企業は グローバル展開と 国内での労働条件引き下げにより、 利潤を増加させてきたのです。 しかし、 その増加した利潤は 再びグローバル投資 (国内外のM&Aを含む) に振り向けられます。 そして、 グローバル競争を背景にした 規制緩和によって、 M&Aが増加していきますが、 これによって 株主配分に重点を置いた 利益処分が強まり、 所得格差の拡大が 生じています。 また、 国内の生産コスト抑制により、 内需が縮小していきますが、 これは企業に対して さらなるグローバル展開へと 駆り立てます。 このように、 現代日本経済は 国内経済の衰退と グローバル企業の利潤拡大を 生み出していく構造に なっているのです。 1990年代以降、 景気拡大や 企業収益の増大にも関わらず、 賃金の上昇や 労働条件の改善に つながらないという問題を 冒頭で指摘しましたが、 このような 日本経済の構造に 要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX

経常収支ことはじめ (再掲)

質問: 今般の衆議院選挙の結果を受けて、 安倍政権の経済政策が信任され、 結果、 日銀が緩和を継続すれば、 世界経済への 流動性供給の 源であり続けることになり、 特に、 金利上昇の影響を受けやすい アジアの新興市場に 日本発の流動性が流れ込む だろうという指摘もあります。 ここで、松原隆一郎先生は、 「経常収支と 金融収支は一致する」 と書いておられる わけですが、 実際に 物(ブツ)が輸出入される、 という実物経済と、 例えば日銀が 金融緩和で 世界にマネーを 垂れ流して 世界の利上げ傾向に逆行する、 という国際金融の話を、 同じ土俵で括るのが適切なのか、 という疑問が生じました。 回答: 経常収支は 一国で 実物取引が完結せず 輸出入に差がある ことを表現する項目です。 日本のように それが黒字である (輸出が輸入よりも大きい)のは 商品が外国に売れて、 外国に競り勝って 良いことのように 見えるかもしれませんが、 別の見方をすれば 国内で買われず 売れ残ったものを 外国に引き取ってもらった とも言えます。 国内では 生産し カネが所得として 分配されていて 購買力となっているのに 全額使われなかったのですから、 その分は貯蓄となっています。 つまり実物を純輸出しているとは、 同時に国内で使われなかった 貯蓄も 海外で 使わねばならないことを 意味しているのです。 こちらが金融収支なので、 「経常収支と 金融収支が一致する」 のは同じことの裏表に過ぎません。 そこでご質問は、 「日銀が国債を 直接引き受けたりして 金融緩和し続けている。 このことは 経常収支・金融収支と どう関係があるのか?」 ということになろうかと思われます。 けれども日銀は バランスシートという ストックのやりとりをしており 経常収支・金融収支は フローのやりとりなので、 概念としては次元が異なります (「スピード」と「距離」に相当)。 すなわち、 金融収支はフローであり、 日銀の金融緩和はストックなので、 同じ水準では扱えないのです (スピードに距離を足すことはできない)。 しかし ストックとフローにも 影響関係はあるのではないか という考え方も確かにあり、 そもそも 一国内に限って それを金融資産の需給 (ストック) と 財の需給 (フロー) が金利で結ばれるという 考え方を示したのが ケインズの 『雇用・利子・貨幣の一般理論』でした。 とすれば その国際経済版が 成り立つのかは 重要な問題ではあります。 この論点は 多くの研究者が気になるようで、 奥田宏司「経常収支,財政収支の基本的な把握」 www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/Vol.26-2/09_Okuda.pdf が論じています。 参考にしてください。  https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX

黄色信号 (再掲)

円安が進んでますね。 イエレンさんが、投機的な動きがある、と発言していました。 つまり、投機筋が、 円売りを仕掛ている。 なぜ円売りを仕掛ているかというと、 自国通貨が売られて通貨安になれば、 常識的には、中央銀行は、利上げをして自国通貨高に誘導しようとする。 日本に当てはめると、 日銀がイールドカーブコントロールという、馬鹿げた政策によって、 中央銀行は本来、短期金利しかコントロールできないとされているのに、 長期国債を無制限に買い入れて、 無理やり長期金利を抑え込んでいる。 つまり、日本国債の価格が異常に高い。 (裏を返せば、日本国債の利回りが異常に低い。) 投機筋は、円を売れば、 日銀は過度な円安を修正するために、 政策金利を上げざるを得ないと読んでいる。 それだけでなく、投機筋は、 日本国債売りも同時に仕掛けています。 そうすると、日銀は、金利上昇抑制のために、日本国債買い入れを余儀なくされる。 そうすると、市場に円が供給されるので、 結果、円安がますます進行する、という悪循環に陥っています。 まあ、はっきり言って自業自得としか言いようがないですが、 政府・日銀は、 日本国債を買い入れつつ、外貨準備を使って円買い介入をする、という 矛盾したことやろうとしています。 なぜ矛盾しているかというと、 国際金融のトリレンマに従えば、 「資本移動の自由」 「為替の安定」 「金融政策の独立性」 の3つは、同時にすべてを達成することは出来ないからです。 資本移動の自由は犠牲にすることは出来ません。 従って、 為替の安定と金融政策の独立性のどちらかを犠牲にせざるを得ないわけですが、 金融政策の独立性を保持するとすれば、 外貨準備を使って為替介入しなければ、 自国通貨は安定しないのです。 日銀・政府は、 大規模金融緩和を継続する一方で、為替介入をする、という”矛盾した”政策を行っているわけです。 投機筋もこれは完全に計算のうえでやっていますが、 問題は、結局のところ 日銀がどこまで無謀な大規模金融緩和を続けるか、ということです。 大規模金融緩和を続ける限り、 日銀のバランスシートに日本国債がたまり続けるだけで、 金利は上がりませんから、 今までは一般人も痛みを感じなかったので、 非難の声が上がりませんでしたが、 円安が急速に進んで、消費者物価まで上昇し始めると、 消費者からも、なにやってんだ、という声があがり始めます。 アベノミクスの3本の矢のうち、 結局、大規模金融緩和だけが継続していますが、 安倍氏の死去に伴い、 日銀に対して、大規模金融緩和を継続させる 政治的プレッシャーが弱くなったことは事実でしょう。 日本の財政から言っても、 れいわ新選組が言ってるように、 国債をどんどん発行して、 日銀に買い取らせればいい、などという、 無責任なことをやっていると、 日銀の財務状況が悪化して、円の信用が毀損されたり、 そうでなくとも、日銀が、政府の借金である国債をいくらでも買い取ってくれるから、 いくら赤字国債を発行してもいい、という モラルハザードが現実に起こっています。 岸田首相はそこらへんの事情は当然わかっているはずです。 いずれにせよ、 日銀はこれ以上、 異常な大規模金融緩和を続けることによって、 イールドカーブコントロールという 国際金融の現状からすれば異常な金融政策を維持することは、 非現実的と認識していると思われますので、 少なくとも 金利の上昇幅の拡大をこっそり容認する、 ということは、 十分予想されるところです。 しかし、加藤出さんも言っているように、 イールドカーブコントロールから抜け出すことは、 大きな混乱を伴うと予想されるので、 それこそ 投機筋の外圧がなければ いつまでも続けていたところでしょうが、 幸か不幸か、現実的ではありませんでした。 さて、焦点は、 日銀がどこまで金利の上昇幅を容認するか、 そしてそのタイミングはいつか、 ということになりそうですが、 金利の上昇幅は実務家ではないので知りませんが、 タイミングとしては、そう遠くないのではないかと思われます。 これだけ急激な円安を鑑みると、 黒田総裁の任期満了まで 待てるとは思えません。 従って、 急に金利が上がる、ということは、 十分ありえる話です。 ・・・で、何が言いたいか、というと、 金利が上がって困るのは、 超低金利を前提として 変動金利で住宅ローンを組んでいる家計です。 銀行も馬鹿ではないので、 固定金利は既に段階的に引き上げています。 それは、変動金利が上昇すれば、 固定金利に借り換える人が増えると予想しているからと言って過言ではないでしょう。 ですので、 変動金利で住宅ローンを組んでいる人は、 専門家に相談するなりして、 対策を立てたほうが良いでしょう。 自分は専門家でもなんでもないので、 この文章の内容に責任は負えません。

アドルノはまだ生きている (再掲)

グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。 そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか。 自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感じでしょうか。 まるでオウム真理教のようですね。

都合のいい俗説 (再掲)

国債発行 イコール 通貨発行 という俗説が あるらしいが、 金融政策の 基本が 何も わかってないね。 国債を 発行して、 買ってくれる人が いるから、 (国債を買うのは 当然のことながら 中央銀行だけではない。) そのお金が 市中に 流れるんだけど。 これ、 (国債に限らず 債券全般に対する、 中央銀行による) 買いオペとか 売りオペとか 言われる 金融政策の 常識中の常識 だけど、 そんなことも 知らずに、 ただ 国債発行すれば 自動的に 貨幣供給量が 増えると 本気で 思ってる 人が いるみたいね。 (それに、 国債だって商品だから、 本来は政府の都合で 発行した 国債を、 相場を無視した 高値で 売れると思うのが そもそも 間違ってる。 むしろ、 日本の現状として、 日銀が 市場の相場を 無視した 高値で 国債を 買い続けてることが 本質的に問題なんだけどな。) なにで 経済学 学んだんだろう? それに、 貨幣供給量を 増やす イコール 国の資産が 増える ってのも そもそも 間違い。 国の富の 源泉は 付加価値、 すなわち GDPです。 これ、 学部レベルの 経済学で 最初に 学ぶことなんだけどな。 ほんと、 誰に 刷り込まれたんだろう? ついでに 書いとくと、 赤字国債を 発行すること自体が 法律違反なんだけど、 毎年 特例法案つくって 可決して 予算作ってる。 (ちなみに、 一昔前は その種の予算を 通す通さないが 政争の具に 使われたのが、 短命政権が続いた 原因だったらしい。) それが 常態化。 それを 国民の側が 嬉々として 受け入れてる 現状が 異常。 ついでに 書いとくと、 日銀が 国債買い続けないと 国債の価格が (異常な高値を 維持できずに) 暴落して 金利が 急騰して この国 吹っ飛びますけど、 さあ この ムリゲー どうします? ちなみに 安倍ちゃんは 日銀は政府の 子会社だから いくらでも 日銀に 国債 買い取らせればいい とか ほざいてましたけど。 もう 日銀による 国債の保有比率 6割 超えましたね。

証券投資理論の基礎@広島大学 レジュメより (再掲)

Q:名目金利が年8%でインフレ率(CPI)が年5%のとき、実質金利は3%か? ex. 100円の債券投資→1年後:108円 100円の消費財の組み合わせ→1年後:105円 のとき 1年後の108円の購買力=108/105=1.02857 (この投資の収益率:2.857%) ☆実質金利と名目金利、インフレ率(CPI)の関係 1+実質金利=(1+名目金利)/(1+インフレ率) ex.参照せよ 式変形して、すなわち ★実質金利=(名目金利-インフレ率)/(1+インフレ率) つまり、デフレはマイナスのインフレ率なので、実質金利を上げてしまう。

フィッシャー効果 (再掲)

物価上昇の予想が金利を上昇させるという効果で、フィッシャーが最初にそれを指摘したところからフィッシャー効果と呼ばれる。 ある率で物価の上昇が予想されるようになると、貸手が貸金に生じる購買力目減りの補償を求める結果として、資金貸借で成立する名目金利は物価上昇の予想がなかったときの金利(=実質金利)より、その予想物価上昇率分だけ高まる。(以下略) 有斐閣経済辞典第5版 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html

「金融と社会」質問と回答その7 (再掲)

質問:インフレ目標政策についてうかがいます。 私の実感でも、物価が上がってきたなー、と感じます。 より正確には、 通貨(円)の価値が目減りした ということだと思われますが。 あまり国民の生活が苦しくなれば、 物価の安定という意味では、 金利をあげたほうがまだマシ、 と考える家計も 増えてくるのではないかと考えます。 そうすると、なるほどこれがフィッシャー効果か、 と思われるのですが、 確かに 実質金利がさがったことで 消費者の購買意欲が増したことで 景気の底割れを防ぎ、 政府の名目上の税収も 増えていると言われています。 しかし、かといって、 国も企業も家計も借金まみれの現状では、 今さら金利を上げられるのか、 甚だ疑わしいです。 なぜなら、 金利の上昇は、確かに通貨(円)の価値を 底上げする可能性はありますが、 上述のように 政府・企業・家計が借金まみれの状態では 金利の上昇は難しいことは無論、 長期金利の上昇は、 政府の借金の利払いを増嵩させるのみならず、 日本国債の価格を低下させるため、 発行済日本国債の6割を保有すると いわれる日銀の財務状況を、 著しく危殆にさらすものと考えられるからです。 果たして、 これが当初のインフレ目標政策の 目指していた姿なのか、 甚だ疑念を感じずにはいられません。  回答: 質問文に書かれていることは、私も理解できます。 インフレ目標政策が 2013年に導入を余儀なくされた時、 当時の白川総裁には その問題点がわかっていたと思います。 日銀が2000年に インフレ目標政策について調査したレポートを リンクしておきます。    http://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2000/data/ron0006a.pdf

旬報社 (再掲)

もし、日銀が目的としている2%の物価上昇が実現した場合、国債の発行金利が2%以上になるか、利回りが最低でも2%以上になるまで市場価格が下がります。なぜなら、実質金利(名目利子率-期待インフレ率)がマイナスの(つまり保有していると損をする)金融商品を買う投資家はいないからです。国債(10年物)の利回りは0.1%程度(2018年11月現在)ですが、それが2.1%に上昇した場合、何が起こるでしょうか。政府の国債発行コストが跳ね上がるのはもちろんですが、より重要なことは、国債価格が暴落し、国債を大量に保有している銀行に莫大な評価損が出ることです。 経済の論点 旬報社 72ページより

「アドルノ」 岩波現代文庫より 抜書 (再掲)

もっとも、 アドルノが 主観と客観との 絶対的な分離に敵対的であり、 ことに その分離が 主観による 客観のひそかな 支配を秘匿している ような場合には いっそう それに敵意を 示したとは言っても、 それに替える彼の代案は、 これら 二つの概念の完全な統一だとか、 自然のなかでの 原初の まどろみへの回帰だとか を もとめるものではなかった。 (93ページ) ホーマー的ギリシャの 雄大な全体性という 若きルカーチの幻想であれ、 今や 悲劇的にも忘却されてしまっている 充実した <存在> というハイデガーの概念であれ、 あるいはまた、 人類の堕落に先立つ 太古においては 名前と物とが一致していたという ベンヤミンの信念であれ、 反省以前の統一を 回復しようという いかなる試みにも、 アドルノは 深い疑念をいだいていた。  『主観‐客観』は、 完全な現前性の 形而上学に対する 原‐脱構築主義的と 言っていいような軽蔑をこめて、 あらゆる 遡行的な憧憬に攻撃をくわえている。 (94ページ) 言いかえれば、 人間の旅立ちは、 自然との原初の統一を 放棄するという 犠牲を払いはしたけれど、 結局は 進歩という性格を もっていたのである。 『主観‐客観』は、 この点を指摘することによって、 ヘーゲル主義的マルクス主義をも 含めて、 人間と世界との 完全な一体性を 希求するような哲学を 弾劾してもいたのだ。 アドルノからすれば、 人類と世界との全体性という 起源が失われたことを嘆いたり、 そうした全体性の 将来における実現を ユートピアと同一視したりするような哲学は、 それがいかなるものであれ、 ただ誤っているというだけではなく、 きわめて 有害なものになる可能性さえ 秘めているのである。 というのも、 主観と客観の区別を 抹殺することは、 事実上、 反省の能力を失うことを 意味しようからである。 たしかに、 主観と客観のこの区別は、 マルクス主義的ヒューマニストや その他の人びとを 嘆かせた あの 疎外を産み出しもしたが、 それにもかかわらず こうした反省能力を 産み出しもしたのだ。 (「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とは もともとイデオロギー的なものなのだ、 と アドルノは主張する。 「社会全体が体系化され、 諸個人が 事実上 その関数に貶めれられるように なればなるほど、 それだけ 人間そのものが 精神のおかげで 創造的なものの属性である 絶対的支配なるものを ともなった原理として 高められることに、 慰めをもとめるようになるのである。」  言いかえれば、 観念論者たちの メタ主観は、 マルクス主義的ヒューマニズムの説く 来たるべき集合的主観なるものの 先取りとしてよりもむしろ、 管理された世界の もつ 全体化する力の原像と 解されるべきなのである。 ルカーチや 他の西欧マルクス主義者たちによって 一つの 規範的目標として 称揚された 全体性というカテゴリーが、 アドルノにとっては 「肯定的なカテゴリーではなく、 むしろ 一つの批判的カテゴリー」 であったというのも、 こうした理由による。 「・・・解放された人類が、 一つの全体性となることなど 決してないであろう。」 (「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)  アドルノからすれば、 人類と世界との 全体性という 起源が 失われたことを嘆いたり、 そうした全体性の 将来における 実現を ユートピアと同一視したり するような哲学は、 それがいかなるものであれ、 ただ誤っているというだけではなく、 きわめて有害なものになる 可能性さえ秘めているのである。  というのも、 主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上、 反省の能力を失うことを 意味しようからである。 たしかに、 主観と客観のこの区別は、 マルクス主義的ヒューマニストや その他の人びとを 嘆かせた あの疎外を産み出しもしたが、 それにもかかわらず こうした反省能力を 産み出しもしたのだ。 (「アドルノ」岩波現代文庫95ページ)

レポートネタ (再掲) 参照:妄想卒論その7

2011年の「ウォール街を占拠せよ」 運動に端を発する 反格差デモは世界中に広がり、 格差拡大の加速を象徴した。 アメリカでは、 上位10%の所得層が 2021年に総所得の46%を 占めるまでになった。 これは 1920年代に匹敵する 富の集中であり、 当時の 革命運動の再来を想起させる。 共産主義は、私有財産を奪う 究極の反格差運動と言える。 1917年のロシア革命後、 第3インターナショナルが設立され、 反資本主義の機運が高まった。 当時のグローバル化は ロシアにも経済成長をもたらしたが、 格差を拡大させ、 日露戦争や第一次世界大戦による 困窮も重なり、革命へと繋がった。 ソ連成立後、 富の集中度は大幅に低下した。 現代では、 ポピュリズムが 人々の怒りの受け皿となっている。 トランプ大統領やオルバン首相のように、 国際協調に背を向ける姿勢が 支持を集めている。 人々が刹那的な主張になびくのは、 他者への信頼が 失われているからだ。 世界価値観調査では、 北欧諸国に比べて アメリカや日本では 他者への信頼度が低い。 信用は本来、 合理的な裏付けを超えるものであり、 リスクを伴う。 資本主義の発達により、 血縁や地縁の関係が希薄化し、リスクが増大したため、 契約の発達や信用の合理化が進んだ。 しかし、 信用の合理化が進みすぎると、 客観的な指標で算定された信用こそが 全てであるかのような 逆転現象が起こる。 ポピュリズム政党は、 既成政治を一部の特権階級の 占有物として描き、 大衆の声を代表する存在として 現れる。 グローバル化は、 一部の富裕層に富を集中させる一方で、 不安定雇用を増大させ、 新たな下層階級を生み出している。 富が集中するほど 他者への信頼が下がり、 「フェアネス指数」が低下し、 ポピュリズムに翻弄されやすくなる。 グローバル化は世界の富を拡大したが、 分配の偏りを生み出した。 日本でも新自由主義的な政策により 格差が拡大している。 大企業は グローバル展開と 国内労働条件の引き下げにより 利潤を増加させてきたが、 その利潤は 再びグローバル投資に振り向けられ、 株主配分に重点を置いた 利益処分が強まり、 所得格差を拡大させている。 経済的に恵まれない層は、 ワーキングプアとも言われる状況で アイデンティティーを脅かされている。 旧来の中間層が 貧困層と同じ境遇に置かれることは屈辱であり、 生活苦も重なる。 過剰な同調圧力の中で、 人々は民族の 「本来性」 を求め、 排外主義的な傾向を強める。 グローバル化による 均質化、画一化が進むにつれて、 反動として 民族主義的な傾向が現れるのは 必然的なのかもしれない。 資本主義が高度に発展し、 物象化が進み、疎外が深刻になるほど、 人々は本来性を追求する。 社会が体系化され、 個人が歯車と化したとき、 人々は精神的な領域に救いを求め、 ヒエラルキーに組み込まれることに慰めを見出す。 ポピュリズムは、 現代のデモクラシーが抱える 矛盾を露呈させた。 多くの人々は ポピュリズムを歓迎しないが、 その指摘に内心頷いている。

「やさしい経済学」ー金融が支配する世界ー 増補 (再掲)

今 連載中の 小倉将志郎 中央大学准教授の 「金融が支配する世界」 は 素晴らしい。 そう、そこ! と 膝を打ちたくなる。 以下、連載第4回より 「一方、家計の 経済活動以外の側面は、 主に 欧米で研究が進展しており、 日常生活にも 『金融的計算』が 組み込まれているとされます。 金融的計算という表現に 定まった 定義はありませんが、筆者は キャッシュフローを生み出す 取引可能な存在を、 量的に評価・把握し、 最適な状態に管理 しようとする姿勢と 捉えます。 その直接・間接の対象は 教育、文化、余暇など多岐にわたり、 社会の あらゆる対象が 市場価格を持つことが 前提とされるのです。」

「世界の共同主観的存在構造」 廣松渉 岩波文庫 (再掲)

われわれは、現に、 時計の音を「カチカチ」と聞き、 鶏の啼く声を 「コケコッコー」と聞く。 英語の知識をもたぬ者が、 それを 「チックタック」とか 「コッカドゥドゥルドゥー」とか 聞きとるということは 殆んど不可能であろう。 この 一事を以ってしても判る通り、 音の聞こえかたといった 次元においてすら、 所与を etwasとして 意識する仕方が 共同主観化されており、 この 共同主観化された etwas以外の相で 所与を意識するということは、 殆んど、 不可能なほどになっているのが 実態である。 (59ページ) しかるに、 このetwasは、 しばしば、 ”物象化” されて意識される。 われわれ自身、 先には、 このものの ”肉化” を 云々することによって、 物象化的意識に 半ば迎合したのであったが、 この 「形式」 を純粋に 取出そうと試みるとき、 かの 「イデアール」な 存在性格を呈し、 ”経験的認識” に対する プリオリテートを要求する。 このため、 当の etwasは 「本質直感」 といった 特別な 直感の対象として 思念されたり、 純粋な知性によって 認識される 形而上学的な実在として 思念されたりすることになる。 (67ページ) 第三に、 この音は 「カチカチ」 と聞こえるが、 チックタックetc.ならざる この聞こえかたは、 一定の 文化的環境のなかで、 他人たちとの言語的交通を 経験することによって 確立したものである。 それゆえ、 現在共存する 他人というわけではないにせよ、 ともあれ 文化的環境、 他人たちによっても この音は規制される。 (いま時計が 人工の所産だという点は措くが、 この他人たちは 言語的交通という聯関で 問題になるのであり、 彼らの 生理的過程や ”意識” が介入する!) この限りでは、 音は、 文化的環境、 他人たちにも ”属する” と云う方が至当である。 (70ページ) 一般には、 同一の語彙で表される対象 (ないし観念)群は、 わけても ”概念語” の場合、 同一の性質をもつと 思念されている。 この一対一的な対応性は、 しかも、 単なる並行現象ではなく、 同一の性質をもつ (原因) が故に 同一の語彙で表現される (結果) という 因果的な関係で 考えられている。 しかしながら、 実際には、むしろ それと逆ではないであろうか? 共同主観的に 同一の語彙で呼ばれること (原因) から、 同一の性質をもつ 筈だという思念マイヌング (結果) が生じているのではないのか? (109ページ) 第二段は、 共同主観的な価値意識、 そしてそれの ”物象化” ということが、 一体いかにして成立するか? この問題の解明に懸る。 因みに、 貨幣のもつ価値(経済価値)は、 人びとが 共同主観的に 一致して それに価値を認めることにおいて 存立するのだ、 と 言ってみたところで (これは われわれの第一段落の 議論に類するわけだが)、 このこと それ自体が いかに真実であるにせよ、 まだ何事をも説明したことにはならない。 問題は、 当の価値の内実を 究明してみせることであり、 また、 何故 如何にして そのような 共同主観的な一致が 成立するかを 説明してみせることである。 この 第二段の作業課題は、 個々の価値形象について、 歴史的・具体的に、実証的に 試みる必要がある。 (164~165ページ) (以下熊野純彦氏による解説より) 『資本論』のマルクスは、 「抽象的人間労働」 などというものが この地上の どこにも存在しないことを 知っている。 存在しないものが ゼリーのように 「凝結」 して 価値を形成するはずがないことも 知っていた。 要するに 『資本論』 のマルクスは もはや 疎外論者では すこしもないのだ、 と廣松はみる。 労働生産物は 交換の内部において はじめて価値となる。 とすれば、 交換という 社会的関係そのものにこそ 商品の フェティシズムの秘密があることになるだろう。 関係が、 謎の背後にある。 つまり、 関係がものとして あらわれてしまうところに 謎を解くカギがある。 商品の 「価値性格」が ただ 「他の商品にたいする 固有の関係をつうじて」 あらわれることに 注目しなければならない。 商品として交換されること それ自体によって、 「労働の社会的性格」が 「労働生産物そのものの対象的性格」 としてあらわれ、 つまりは 「社会的な関係」、 ひととひとのあいだの関係が 「物と物との関係」としてあらわれる (『資本論』第1巻)。 ものは <他者との関係> において、 したがって 人間と人間との関係にあって 価値をもち、 商品となる。 (533~534ページ)

ルカーチ メモその34 (再掲)

もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 そのような 近代社会の いわゆる 「物象化」論は、 マルクスの 「疎外論」や 「資本論」と 連接する 問題意識だった。 「商品」は その物自体の 「使用価値」と それが市場でもつ 「交換価値」の 二面をもつ。 現代の資本主義社会においては 交換価値のみが 突出するため、 商品を作って生きる 人間の労働も 交換価値に還元され、 ひいては 人間性そのものまで 計数化され 疎外されていく。 故に そのような資本主義的 「物象化」の 打破こそが、 近代人の 陥っている 閉塞状況の 根本的解決だと 論ずる。

よく寝た。

よく考えたら、 夏目漱石とアドルノの 親近性については 自分と森本先生の間では 共通認識だったが、 山岡先生からすれば、 いきなり それを前提に 論を進められても、 いや 知らんがな。 て 話だよな。 そりゃそうだ。 ある意味では、先行研究が まったくないところで 勝手に 論考を進めてしまった わけだからな。 12月の山岡先生の面接授業のまえに 11月に滋賀の龍谷大学で 滋賀大学の三ッ石先生に同じ レポート見てもらって、 三ッ石先生のリアクション見て、 これはいける! と 思っちゃったけど、 三ッ石先生は 経済思想史がご専門だからな。 三ッ石先生のリアクション見て、 いける!と 思っちゃったんだよね。 当然のごとく、山岡先生からすれば、 先行研究が なにもないところに、 いきなり 夏目漱石とアドルノの 親近性を前提に 論を進められても、 いや 知らんがな、と なるのは 当然といえば当然。 でも、そっから 論証するとなると、 もう 卒論書くしかねーな。 めんどくさいから やりたくないけど。

2025年3月18日火曜日

多様性と同質性 (再掲)

今朝(2021/12/20)の日経新聞の5面、 経営の視点、 というコラムで、 市場規模としては同じ約11兆円なのに、 コンビニが大手3社の寡占状態であるのに、 スーパーは およそ270社存在する、とし、その違いを、「多様性と同質性」に求める。 あまり実証的な論考とは言えないが、 スーパーの経営理念が、 SDGsという言葉が存在する前から、 地域との共存、奉仕、恕の精神、誠実さ などの 持続的な考えを理念として、 御用聞き、配達、つけ払いなどの 一見旧態依然とした やり方で生き残ってきた、 と論じている。

2024年に読んで、面白かった本 (再掲)

 宮崎成人さんの「強い通貨、弱い通貨」ハヤカワ新書が 見つけられなかった。 これも 極めて 重要な一冊だ。  
 素晴らしい本だから、アマゾンで買いなおした。

「海と帝国ー明清時代」 上田信 講談社学術文庫

去年読んで めちゃめちゃ 面白かった本のひとつ。  

2025年3月17日月曜日

スンビャラシエール

これはいいね。 1日1題 やるだけでも、 ぐんぐん 力がつく。 これ一冊やったら 凄いことになるぞ。  

レポートネタ (再掲)

近代化・文明化の過程で社会的に周辺化された人々の意識は、社会秩序からの抑圧により、深層意識に抑圧された負のエネルギーを蓄積する。このエネルギーは、社会の矛盾や不正義に対して、時には世界を根底から覆しかねないほどの潜在的な力を秘めている。 社会的に周辺化された人々とは、具体的には、身体的、精神的、あるいは社会的な理由で「疎外」された人々を指す。例えば、身体的な障害を持つ人々、精神的な問題を抱える人々、あるいは社会的な偏見や差別に苦しむ人々などが挙げられる。これらの人々は、社会の主流から外れ、しばしば自己の存在意義や価値を見失いがちになる。 しかし、このような状況下でも、彼らの意識は社会との相互作用を通じて、特有のエネルギーを蓄積する。社会的な疎外や抑圧は、彼らにとって否定的な経験ではあるが、同時に社会の現実を深く洞察する機会ともなる。彼らは、社会の矛盾や不正義を敏感に感じ取り、それに対する抵抗や変革への願望を内面に育む。 このような意識は、日常生活の中では必ずしも表面化しない。社会的な規範や圧力の下で、彼らは自己の感情や思考を抑制し、社会的な役割を演じることに努める。しかし、深層心理では、抑圧された感情や思考がエネルギーとして蓄積され、それが時には夢や芸術、あるいは社会的な抗議活動として表出することがある。 重要なのは、このエネルギーが単なる否定的な感情や思考の集積ではなく、社会変革の潜在的な力となり得る点である。社会的に周辺化された人々の意識は、社会の主流とは異なる視点や価値観を提供し、社会全体の意識を豊かにする可能性がある。彼らが自己の経験を通じて得た洞察や感情は、社会の多様性を促進し、より包括的で公正な社会の実現に貢献するかもしれない。 例えば、芸術や文学の世界では、社会的に周辺化された人々の視点から生まれた作品が、社会に新たな光を投げかけることがある。彼らの作品は、社会の暗部や矛盾を浮き彫りにし、見る者に新たな気づきや感情を喚起する。また、社会運動や政治の分野でも、彼らの声は社会変革の原動力となり得る。社会的に疎外された人々が自己の権利や尊厳を主張する時、それは社会全体の意識を高め、より公正な社会の実現に向けた動きを加速させる。 このように、社会的に周辺化された人々の意識は、社会の深層に蓄積されたエネルギーであり、時には社会を根底から覆しかねないほどの力を持つ。このエネルギーは、社会の矛盾や不正義に対する抵抗の源泉となり、社会変革の潜在的な力となる。したがって、彼らの意識を理解し、その声を社会に反映させることは、より公正で包括的な社会を築く上で不可欠である。

レポートネタ (再掲)

2011年の「ウォール街を占拠せよ」 運動に端を発する 反格差デモは世界中に広がり、 格差拡大の加速を象徴した。 アメリカでは、 上位10%の所得層が 2021年に総所得の46%を 占めるまでになった。 これは 1920年代に匹敵する 富の集中であり、 当時の 革命運動の再来を想起させる。 共産主義は、私有財産を奪う 究極の反格差運動と言える。 1917年のロシア革命後、 第3インターナショナルが設立され、 反資本主義の機運が高まった。 当時のグローバル化は ロシアにも経済成長をもたらしたが、 格差を拡大させ、 日露戦争や第一次世界大戦による 困窮も重なり、革命へと繋がった。 ソ連成立後、 富の集中度は大幅に低下した。 現代では、 ポピュリズムが 人々の怒りの受け皿となっている。 トランプ大統領やオルバン首相のように、 国際協調に背を向ける姿勢が 支持を集めている。 人々が刹那的な主張になびくのは、 他者への信頼が 失われているからだ。 世界価値観調査では、 北欧諸国に比べて アメリカや日本では 他者への信頼度が低い。 信用は本来、 合理的な裏付けを超えるものであり、 リスクを伴う。 資本主義の発達により、 血縁や地縁の関係が希薄化し、リスクが増大したため、 契約の発達や信用の合理化が進んだ。 しかし、 信用の合理化が進みすぎると、 客観的な指標で算定された信用こそが 全てであるかのような 逆転現象が起こる。 ポピュリズム政党は、 既成政治を一部の特権階級の 占有物として描き、 大衆の声を代表する存在として 現れる。 グローバル化は、 一部の富裕層に富を集中させる一方で、 不安定雇用を増大させ、 新たな下層階級を生み出している。 富が集中するほど 他者への信頼が下がり、 「フェアネス指数」が低下し、 ポピュリズムに翻弄されやすくなる。 グローバル化は世界の富を拡大したが、 分配の偏りを生み出した。 日本でも新自由主義的な政策により 格差が拡大している。 大企業は グローバル展開と 国内労働条件の引き下げにより 利潤を増加させてきたが、 その利潤は 再びグローバル投資に振り向けられ、 株主配分に重点を置いた 利益処分が強まり、 所得格差を拡大させている。 経済的に恵まれない層は、 ワーキングプアとも言われる状況で アイデンティティーを脅かされている。 旧来の中間層が 貧困層と同じ境遇に置かれることは屈辱であり、 生活苦も重なる。 過剰な同調圧力の中で、 人々は民族の 「本来性」 を求め、 排外主義的な傾向を強める。 グローバル化による 均質化、画一化が進むにつれて、 反動として 民族主義的な傾向が現れるのは 必然的なのかもしれない。 資本主義が高度に発展し、 物象化が進み、疎外が深刻になるほど、 人々は本来性を追求する。 社会が体系化され、 個人が歯車と化したとき、 人々は精神的な領域に救いを求め、 ヒエラルキーに組み込まれることに慰めを見出す。 ポピュリズムは、 現代のデモクラシーが抱える 矛盾を露呈させた。 多くの人々は ポピュリズムを歓迎しないが、 その指摘に内心頷いている。

「金融と社会」質問と回答その7 (再掲)

質問:インフレ目標政策についてうかがいます。 私の実感でも、物価が上がってきたなー、と感じます。 より正確には、 通貨(円)の価値が目減りした ということだと思われますが。 あまり国民の生活が苦しくなれば、 物価の安定という意味では、 金利をあげたほうがまだマシ、 と考える家計も 増えてくるのではないかと考えます。 そうすると、なるほどこれがフィッシャー効果か、 と思われるのですが、 確かに 実質金利がさがったことで 消費者の購買意欲が増したことで 景気の底割れを防ぎ、 政府の名目上の税収も 増えていると言われています。 しかし、かといって、 国も企業も家計も借金まみれの現状では、 今さら金利を上げられるのか、 甚だ疑わしいです。 なぜなら、 金利の上昇は、確かに通貨(円)の価値を 底上げする可能性はありますが、 上述のように 政府・企業・家計が借金まみれの状態では 金利の上昇は難しいことは無論、 長期金利の上昇は、 政府の借金の利払いを増嵩させるのみならず、 日本国債の価格を低下させるため、 発行済日本国債の6割を保有すると いわれる日銀の財務状況を、 著しく危殆にさらすものと考えられるからです。 果たして、 これが当初のインフレ目標政策の 目指していた姿なのか、 甚だ疑念を感じずにはいられません。  回答: 質問文に書かれていることは、私も理解できます。 インフレ目標政策が 2013年に導入を余儀なくされた時、 当時の白川総裁には その問題点がわかっていたと思います。 日銀が2000年に インフレ目標政策について調査したレポートを リンクしておきます。    http://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2000/data/ron0006a.pdf

2025年3月16日日曜日

インタゲと増税はワンセット (再掲)

自分が 経済学が 好きであると 同時に 文学や哲学が 好きなのは、 どっちとも 現世の人間が 対象だから。 経済学というと、 学者として 身を立てるには 複雑な数理モデルを 駆使しなきゃいけないんだが、 自分は 経済学っぽい 哲学に逃げてるんだけど、 でも、 結局は 経済学も、文学や哲学と 同様に、 現世を生きる 人間を扱っている。 つまり、経済学 というと、難しく 感じるけれど、 経済学が想定しているのは、 そこそこ 合理的だけれども、 本来は 経済学なんて全く知らない人が どういう (ある程度合理的な) 行動を取るか、っていうことだ。 だからこそ、 経済学はいまだに 文学や哲学と 繋がりが深い。 それで、と ここからは 少しだけ 専門的な話になるけど、 インフレになれば 賃金があがる、という 前提で インフレーション・ターゲティング政策を やったわけだが、 現実問題 インフレにはなったが、 名目賃金の伸びは 追いついていない。 ここらへんは 議論が錯綜するところだが、 そもそも インフレになったから 賃金があがる保障なんて、 根拠が薄い。 いま日本全体が 名目賃金をあげるって 大号令かけてるけど、 いくら企業が 従業員の賃金をあげた ところで、それは 単純に 三面等価の原則でいうところの 分配の話であって、 言い換えれば 所得の再分配をしているだけなのだ。 つまり、 経済成長していないのに、 所得の再分配をしただけでは、 あまり意味がない。 結局は、 バラッサ・サムエルソン仮説が 提唱するように、 付加価値が高い 財を輸出することで、 だんだんと 労働者全体の 賃金があがる、というのが 経済学的にいえば 本筋なのだ。 つまり、経済学に 魔法の杖はなくて、 経済成長をすれば、自然と 賃金があがる、という ある意味 常識的なことが 導き出される。 もう少し敷衍すると、 インタゲをやって、実際に インフレになったら、 (それが経済成長を伴わない場合、) 生活が苦しくなったぶんだけ、 減税やら 政府支出を増やすなり せざるを得なくて、 そうすると、財政が悪化するから、 最終的には 増税せざるを得ないって 話になるんだ。 つまり、結論としては 誰かが甘い汁を吸ってるとか ましてや 財務省が悪い、なんて 話では まったくなく、 日本は経済成長を まず 目指すのが、本筋である。

インタゲと増税はワンセット (再掲)

質問:中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、とありますが、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか?あるいは、新古典派経済学では「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか? 回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。すなわち、「政策割当の原理」です。したがって、「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要となります。  本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。本来の金融政策の目標(物価の安定)と異なるため黒田日銀総裁は「異次元の金融政策」という言葉を使ったのです。このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。このシナリオどおりに進めば、もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。ただ、経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります。したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため「財政再建」が先送りになってしまいます。それゆえに、「財政再建」の政策目標の一環として消費税の引上げが考えられています。このように、「政策割当の原理」は成立しています。

2025年3月15日土曜日

まーじ助かるわ。

きょうだいに 姉みたいな カネの亡者がいるとさ、 マジで 苦労するんだけどさ、 幸か不幸か 精神障害者になったおかげで、 というか 姉みたいなのが きょうだいに いるから 精神障害者なんかになるんだが、 いずれにせよ、 いざって時に、 姉がどんな 策を練っても、 こっちが何もしなくても 財産権を侵害されないってのは、 ほんっと助かるよね。 それはマジでありがたい。 この国よく出来てるわ。

「戦後世界経済史」 猪木武徳 中公新書 

を読み始めました。 そろそろ乱視がキツくなってきた。 非常に読みやすいです。 内容もしっかりしている。 こういう類の本って、 良書がなかなかない。 ざっくりと 戦後世界の経済史を 把握する、というだけでも 相当の力量が必要。 だから、得てして 史実を列挙しただけの無味乾燥な 話になるか、あるいは 眉唾ものの 煽り本になったりしてしまうのだが、 これは 著者の猪木武徳氏が その 力量をいかんなく発揮されている。 素晴らしい。 まだ読み始めただけですが、 これ一冊読み通したら、 かなり 力がつくと思う。 ・・・すげえ。 これは面白い。 淡々と叙述されてはいるが、 もの凄いことだ。 歴史的名著とさえ言える。 この 猪木武徳氏も、あまり知られた 存在ではないけど、 経歴はダテじゃない。 1945年生まれ。 京大経済学部卒、 MITで博士号。 現在 大阪大学名誉教授。 ・・・これは凄いわ。 ほんと凄い。 ビビるわ、マジで。 これが税抜きで 1,000円切るんだからね。 (本体価格 940円) 日本の出版業界も 捨てたもんじゃない。 ・・・ほんっとビビるわ。 細かいエピソードが ちらほら散りばめられているんだが、 よくまあそんなこと 知ってんな、と ほんと脱帽せざるを得ない。 ・・・これは凄い。 ほんとうに凄い。 こんな本があったのか?! というレベル。 ・・・とりあえず 読み終えた。 正味2日間で、一気読み。 飛ばしたところも多々あるが、 押さえておいて欲しい 論点は、すべて 漏らさず記載されていた。 大満足。 ( ´∀`)  

2025年3月14日金曜日

政治学入門@三島レポートその2 (再掲)

第2節:カントは、言わずもがな18世紀の啓蒙思想家である。彼は、自然界に法則が存在するのと同様に、人間にとっても道徳法則があるはずだ、と考えた。その内容を極めて簡潔に述べると、人が何か行いをしようとするとき、他の全員が自分と同じ行動を取ったとして、仮にそれを受け入れられる、あるいはそういう社会を容認出来るならば、その行為を行ってもいいが、そうでなければ、その行為を行うべきではない、というものである。また、彼は、仮言命法の危険性も指摘している。仮言命法とは、例えば「美味しいプレッツェルを食べたければ、南ドイツに行け。」といった、現代の日本に住む我々が常識的に行っている思考回路である。これの何が問題なのだろうか?しかし、この一見無害な発想には、人間の自由を奪う危険性が潜んでいる。例えば、昨今は理系偏重の風潮があり、就職のことも考えて、なるべく理系の大学、学部を選ぶ傾向が受験生やその保護者に見て取れる。この一見ありがちな行動はしかし、連鎖する。将来不安、就職への不安から、理系の大学、学部を選好するようになると、その方面の進学に強い高校、ひいては中学を選ぶ、ということになり、特に首都圏では、そのような中学に合格するために、小学生のうちから塾通いを始める、という結果になりうる。果たして、これが自由な生き方と言えるだろうか?これは、まさに仮言命法の発想が、いかに現代日本人を不自由にしているか、ということを示している。また、私達は、基本的に何かに縛られて、言い方を変えれば「依存して」生きている。例えば、組織、カネ、家族、地位、恋人など、挙げればキリがない。そして、これらの存在を守ることが当然であり、むしろそうすることが義務であるかのような社会通念が存在する。もちろんこれらをすべて否定するつもりはない。しかし、往々にして、これらの存在への「依存」は、やはり我々を不自由にする。こう考えると、現代日本に暮らす我々が、いかに窮屈な存在であるか、ということが見て取れる。カントの発想は、人間にも道徳法則があり、各人は自身の道徳的行いを「自ら考え、自ら選択する」ことが出来ると考えた。これは極めて強力な自由論である。この意味において、カントの道徳哲学の発想は、我々が自由に生きるとはどういうことか、を考える時、非常に強力な武器となる。また、トマス・ホッブズが予言したように、現代の資本主義社会において、人は疑似殺し合いを演じている。つまり、絶えず他人を先んじよう、出し抜こう、という脅迫観念に囚われている。そのような社会において、カントの、自らの道徳的行いを自ら考えて決断していい、という自由論は、極めて強力な理論である。

「キャッチャー・イン・ザ・ライ」 J.D.サリンジャー 村上春樹訳 白水社

読み終えた。 素晴らしい作品だった。 いま悩んでる 現役の 中高生でもいいし、 あるいは 子育てに悩んでる 親御さんでもいいし、 とにかく 思春期の難しさに 手こずっている すべての人に 読んで欲しい作品です。 自分自身、内面ではこれくらい 危なっかしい時期もあったなー、と 感慨深いです。 文学ってのは いいもんだ。 なんといっても、我々ひとりひとりが 生身の人間なんだからね。 こうやって 懐かしくも 過去のこととして語れる、というのは 難しい時期を乗り越えた 大人の特権なんだろうな、と思う。 https://www.youtube.com/watch?v=y4vzWSzNqZ0  

政治学入門@三島

去年の12月に 三島で 山岡龍一先生の 「政治学入門」を 受講してきたわけだけどさ、 あんな 正面から 「政治学」を 論じた 授業って、少なくとも 日本の高等教育で そう 滅多に受けられるもんじゃないよね。 あの2日間の面接授業を 聞かせていただいて、 しかも 自分の集大成とも言える レポートも 読んでもらって、 場合によっては 大学の正式の単位として もらえる、って それで 6,000円は激安だよ。 それこそ ドン・キホーテもびっくりの。 まあ、自分は レポートに気合入れすぎて 単位は来なかったけどね。 でも、素晴らしい 経験だったよ。 とにかく、あれほど 「政治学」というものを 正面から 論じた 授業なんて、そうそう 受けられるもんじゃない。 それは間違いない。

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 レジュメより (再掲)

問い:幸福とは何か。 ソクラテスは誰でも、これは、自分で人生を「設計してゆく」という発想と結びつくことである。 したがって、<配慮するもの>をもち、配慮を重ねてそのつど考え、行動する自分の人生設計者としての「一人称特権」のようなものは、幸福を問題にするとき、なおざりにできない。 たとえあることが自分のためであっても、それを押し付けられたのでは「自分の人生」ではなくなる。 ソクラテスは、このような一人称の問題があることに反して精神や徳に気を遣えといっているのではなく、 この問題があるからそれに沿うように「気を遣うもの」を考えさせようとした、 その場合、精神的なものや徳に気を遣うことは、あなたにとって納得できる方向になるはずだ、という語りかけをしている。 ☆人生を「まじめに」考えること  1.幸福の中身は「一人一人の問題」であり、他人に勧告されるには及ばない。 しかし幸福というものにまつわる「構造」や「形式」の問題は、単に「その人の問題」であるのではない。 われわれの「人生の夢」の見方は、お互いに、似ている。 構造や夢の見方を「知る」ことは、自分の「一人称」としての資格や個人の強さを上昇させてくれそうに思える。  2.問題なのは、人が「分かりやすい資格として」もしくは何らか「世間的に」上昇するということではない。 たとえば、社長になるとか出世するとか大学教員になるとか有名人になるとか金持ちになるとかではない。 実質的に自分の人生に対してよい位置を占めるようになることである。 したがって、ほんとうに行動が「自分のもの」として首尾一貫して統御されていること、 ほんとうの気持ち・実感から発想したことが 同時に知性の表現にもなっていることが目標になる。  3.ソクラテスはここで、「知性」にふさわしい課題がじつは数多くあり、 それを追求しながら生きてゆくことが幸福につながる、と語りかける。 われわれの生活は、目的・手段の関係を持つ多くの行為からできている。 お金儲けや名声・地位等のためのことは、 お金・名声・地位・容姿等で何をするかという、 「次の問い」を予想する。 ここから、人間らしい生活は、「その先」を考えるところまでいかなければ 成就しない、という結論を導くことができる。  4.この「その先」は、一人一人が考えながらでなければ、結論は得られない。 ここが、ソクラテスの「幸福にする」ことの(ある意味で)厳しい意味内容である。 かれがその先のことを本人に代わって教えるのでは、何にもならない。 これは、あくまで自分でやっていくという話なのである。  5.また、知性にふさわしい課題を追求することは、それ専用の「研究室」や「教室」のようなところで 行いうるものとは考えられていない。 実人生で問題にぶつかりながら、人生自体が形を変えてゆく。

「キャッチャー・イン・ザ・ライ」 J.D.サリンジャー 村上春樹訳 白水社 

まだ全部は 読んでないけど、 野球で言えば 9回の表くらいまでは 来たかな。 ほんと、いい物語だった。 半分ぐれーてる 武蔵生とかに 読ませたい。 あるいは、子育てに 悩んでる 親御さんとか。 俺も、高校生の頃 内面はこれくらい 危なっかしかったなー、なんて 思うわ。  

思うに

夏の参院選を前に、 何としてでも 石破さんを おろしたい連中が いるんだろうね。 今回の件でも、裏で 反石破勢力が 絡んでるとしか思えない。 こんなん、 国家安康 君臣豊楽 で いちゃもんつけた 徳川家康なみの 屁理屈じゃん。 ま、どうなるかは 国民次第だけど、 最近の若いのは (っていかにも オジサン発言だけど) 芸能人と政治家の区別すら アヤシイからな。 いずれにしても、 参院選を前にして ナーバスになってる連中が 色々 策動してるんだろうな。 今の 参議院議員は、 政治とカネのスキャンダルの 後、 まだ 国民からの審判うけてねーからな。 むしろ、そういうヤツのほうが 叩けば いくらでも ホコリが出てくるんじゃねーの?

バカバカしすぎて腰が抜ける

石破さんが ポケットマネーで 新人議員15人に 一人10万円 計150万円あげたら、 返されたって話なんだけどさ、 こっからは ちょっとよくわかんないけど、 あのさー、 新人議員が 所属する団体の ボスの顔を平気で 潰すっていう発想が 頭おかしいよね。 ちょっとそこはマジで 理解できないよね。 しかもそれをネットに自ら 上げるっていう。 ほんっと理解できないわ。 言ってみればさー、 大企業の新入社員が 社長とか会長の顔にドロを 塗るようなもんじゃん。 しかもそれをネットにあげるっていう。 どこまで馬鹿なのかな? ほんと幼稚園から やり直せよ。 バカなんじゃねーの? 常識が完全に欠落しているとしか 思えない。

政治学入門@三島レポートその8 (再掲)

第8節:詐欺師の存在は、本書で繰り返し指摘してきたように、現実には非社会的な部分があり、それが不確定性を生んでいることを端的に示す。 というのも、詐欺師は、あたかも世界には予測不可能な事態以外存在しないかのように行動しているからである。 そして、詐欺師のように不確定性に賭ける意志を持たなければ、ひとびとに対して、未来への地平を開くことはできない。 逆にいえば、危険のある不確定な状態こそが、未来への地平を開くのである。 それは、実現することが困難な「物語」の方にひとびとは魅了され、その方が希望を与えることがあるからである。 実現可能かどうかは不確定な場合、合理的に計算可能な範囲を越えている場合にこそ(計算可能なのは「リスク」である)、 物語は価値を帯びるのである。(「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」荻野昌弘 世界思想社 p.187~188) 

「やさしい経済学」ー金融が支配する世界ー 増補

今 連載中の 小倉将志郎 中央大学准教授の 「金融が支配する世界」 は 素晴らしい。 そう、そこ! と 膝を打ちたくなる。 以下、連載第4回より 「一方、家計の 経済活動以外の側面は、 主に 欧米で研究が進展しており、 日常生活にも 『金融的計算』が 組み込まれているとされます。 金融的計算という表現に 定まった 定義はありませんが、筆者は キャッシュフローを生み出す 取引可能な存在を、 量的に評価・把握し、 最適な状態に管理 しようとする姿勢と 捉えます。 その直接・間接の対象は 教育、文化、余暇など多岐にわたり、 社会の あらゆる対象が 市場価格を持つことが 前提とされるのです。」

メタモルフォーゼ (再掲)

「グレート・ギャツビー」 スコット・フィッツジェラルド 村上春樹訳 中央公論新社 末尾より (再掲)

ギャツビーは 緑の灯火を信じていた。 年を追うごとに 我々の前から どんどん 遠のいていく、 陶酔に満ちた未来を。 それは あのとき我々の手から すり抜けていった。 でも まだ大丈夫。 明日はもっと 速く走ろう。 両腕をもっと 先まで差し出そう。 ・・・そうすれば ある晴れた朝にー  だからこそ 我々は、前へ前へと 進み続けるのだ。 流れに立ち向かうボートのように、 絶え間なく 過去へと 押し戻されながらも。  

空想 (再掲)

金遣い 荒いくせにさ、 けっこう 憧れちゃうんだよね。 つましい生活ってやつに。 つましい生活が どんなもんかって、 実際は やったことないから こんなことを 書くこと自体が 侮辱的なのかも 知れないけどさ。 なんか、やなんだよね、 ほら、俺は こんなにカネ稼いでるよ、って ドヤるのが。 いうなれば、性格が 結構 守りにはいるほうなんだ。 もちろん、攻めるときは 攻めるんだけど、 とにかく オラつくのが 自分自身たえられない。 せっかく 精神障害者になってさ、 行きたいときに かかりつけの メンタルクリニックに行けて、 しかも 激安の料金で済むっていうのに、 あえて それを放棄するなんて、 バカらしいじゃないか。 それだけでも、 今更、どうせ たいして稼げもしないのに、 俺は こんなに稼いでる、っていう 気になるのって、 イヤなんだ。 マジで。 もちろん、本も読みたいし SNSも続けたいし、 メシも食いたいし、 お茶も飲みたいし、 なにより 新聞を読みたい。 ほら、こうやって、 挙げていけば キリがないほど、 欲望にまみれているのに、 矛盾してるよね。 でも、俺って 結構 ストイックなところがあって、 もう 25年も 音信不通の女の子のことが、 いまだに 忘れられなくて、 それで これまでの人生で いちども キスはおろか、女の子と 手を握ったことすらないんだ。 冗談じゃないよ。 確かに このトシになるまでは 地獄の苦しみだったけど、 それでも 結果的に なんとかなったし、 やっぱり 今でも その女の子のことが 好きなんだな。 だから、自分は 一応 我慢強いほうだと 思うし、 お金も、ないならないなりに、 と、いっても そんな生活したことないんだけど、 どうにかこうにか 出来ないことは ないんじゃないか、って 思ったりしてるんだ。 だから、若い頃から 経済的に 大変苦しい思いをしながら、 それでも 後ろ暗いところがなく 80近くなっても 働き続けてる 女性の ヘルパーさんは、 心から尊敬する。 マジで。 勘違いしないで欲しいのは、 その ご高齢の女性ヘルパーさんが、 頭が悪いってことじゃないんだ。 決して。 話していてわかるが、 非常に聡明だし、 もとはといえば 経営者だったから、 ほんとうに 経済の感覚が 鋭いんだ。 でも、 身内の裏切りにあったりして、 時代も時代で、 かなり 大変だったんだと思う。 それでも 陰気な感じが ぜんぜんしなくて、 だから、 なおさら 尊敬するんだ。 教育っていうのは 自分自身への投資でも あるから、 さすがに 普通のひとの 何倍も 長い間 教育を受けていれば、 それで 一生 かなり 心豊かに 暮らせるんじゃないか、って 思ったりする。 とにかく、最低限 メシを食えて、 新聞を読めれば、 なんとかなる 気がする。 わかんないけど。

やさしい経済学ー産業政策の意図せざる結果ー 島本実 一橋大学教授 (再掲)

木曜日から始まった コラムも 素晴らしい! 土日は このコラムは休みだから、 週明けの連載が じつに 楽しみだ♬ 最近 日経新聞も頑張ってる。 全10回の連載 すべて 読みました。 いやー、素晴らしい内容だったね。 戦中の 革新官僚の統制経済体制が 戦後も続いた、という 観点から出発して、 さまざまなケースを 例に挙げながら、 戦後の日本経済が 決して 官の保護主義的な 産業政策だけで うまくいった わけではない、ということが よくわかった。 貴重な情報でした。 ありがとうございました。 この「やさしい経済学」の 連載は、最近 アタリが多いね。 他の記事がぜんぶ つまんなくても、これが 面白ければ それで結構 満足できる。

武蔵というところ (再掲)

今はたぶん だいぶ 違うんだろうが、自分が入った頃の武蔵は、権威主義的な 空気がまだ 漂っていた。 もちろん、学問的な、という意味だが。 しかし、その埃っぽさが、自分には耐えられないくらい 窮屈で 仕方がなかった。 武蔵は、学問の自由とか言いながら、肝心なことは教えてくれないし、しかも、ほこりっぽいアカデミズム、言い換えれば、 学問的権威主義の空気が横溢していて、そういうところはほんとにイヤだった。 ただ、そういう権威主義に対するカウンターカルチャーというか、 真面目くさった合理主義に対するアンチテーゼとしての 道化を演じる精神は根付いていたし、 学校側も、そういうところはかなり懐は深かった。 自分が武蔵を辞めずに済んだのは、 一緒に道化を演じてくれる友人や、 学校側の懐の深さによるものだと思う。  武蔵っていう場所は、 言い訳の効かない 「お前、自分の頭で考えろよ?」 っていう 場面を、必ず一度は突きつけられる場所だと思う。 別に武蔵じゃなくてもいいんだけど、 ぶっちゃけ サニチだったら、少なくとも勉強に関しては いくらでも 逃げられる。 「自分の頭で考える」と言えば、そら誰だって自分の頭で考えてるだろ、と思うだろうが、 実際には、逃げ場がある、言い訳が効く環境では、なかなか身につくもんじゃない。 それは、 教師が頑張ってどうこう出来るもんじゃなく、 カルチャーを含めて、武蔵という学校の環境だと思う。 単に大学受験のことだけ考えれば、武蔵よりサニチのほうが遥かにいい環境だろう。 お山の大将でいられるし。 しかし、武蔵は逃げを許してくれない。 現に今だって、 下手なことを書けば、 え、それはどういうことなの? と厳しいツッコミが友達から容赦なく飛んでくるのは覚悟してる。 そういうツッコミを、 自分の中で想定していること、 つまり、自分が表明することに対してどのような批判があり得るか、を考える思考回路を 内製化できていることが、 自分の強みでもある。  山川賞とった 大澤くんみたいなのが 部活の後輩にいるとね、 大学生にもなって 自分の研究テーマを持ってないってのは、凄く恥ずかしい、と思ってたよ。多くの大学生の意識はそうでもないってことに しばらくしてから気付いたけど。そこらへんが、武蔵がアカデミズム重視の学校と 言われるゆえんだろうね。 会報で、大昔のOBの回顧録で、中1で同級生に初めてかけられた言葉が、「ご専門はなんですか?」だった、なんて話も載ってた。もともとそういう学校なんだね。つっても、自分みたいなザコは高校の現国でレポート書けなくて、教師にキレられたり、小論文が書けなくてSFC2回も落ちたり、SFC入ったら入ったで、レポート書けなくて四苦八苦したり。今みたいに守備範囲内だったら書ける、というレベルになるまでは、相当な労力と時間がかかったよ。贅沢な話だけどね。でも、高校入ってからずーっと劣等感抱えて生きてきた。

2025年3月13日木曜日

安倍のミニオンども

テレ朝の ニュースで 「石破おろし」って 出てたけど、 参院選を危惧しての ことらしい。 そういえば、 参議院の連中は 裏金疑惑の後 国政選挙で 国民からの 審判うけてねーからな。 しっかし、てめーの 身の可愛さに、また 首相の首を すげ替えようってか? バカバカしい。 もう お遊びは終わりなんだよ。 今の 自民党の 参議院議員の連中なんてのは、 基本 安倍のための 数合わせでしかないからな。 そりゃあ 国政選挙は 不安だろうよ。

政治学入門@三島レポートその13 (再掲)

第13節:読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。 物語とはおよそこんなものなのかもしれない。 実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。 語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、 じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。 物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。 だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、 またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。 しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、 触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。(「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?ー言語と運命の社会学」内田隆三 岩波書店 p.485)

政治学入門@三島レポートその5 (再掲)

第5節:夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、「俺」を、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。  「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。 

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 資料より (再掲)

私は、 自分のもともとの 性質が 「ここまで くらいは がんばろう」 と 課した限界の範囲で 自己研鑽に励む ときでさえ、 謝罪や後悔もなく、 自分の もともとの性質を 「与えられた 当たり前のもの」 として 受け入れており、 そのようなとき、 自分自身に対する 「自己愛」を 持っているのである。 私の 自我と 私とは、 一様に すべてのことを 共有しながら、 いっしょに 多くのことを くぐり抜けてきた。 私が彼 (=私の自我) を 支える限り、 彼が 私を 失望させることはなかった。 私は 彼を 叱ったこともあるが、 けっして 彼の本性を 呪うことはなかった。 彼には 間違いなく 欠点があるし、 ひどくそうなのだが、 その短所が あらわになるとき、 私はやさしく 寛大に ほほえむのである。 彼のへまは、 彼のような 性質をもつ だれからでも 人が予想するようなものである。 人は、 これほどまで きわめて 近しくしてきた 存在を 憎むようには なれない。 好むと好まざるとに かかわらず この人物 (=私の自我) に依存してきた 全年月の後、 どのようにして 別の自我と うまくやりはじめることができるか、 私は 実際知らないのである。 このように、 自己同一性 (自分が自分であること) は、 一種の約束による 見合い結婚だと 考えることが できる。 その 見合い結婚は、 安定的な人の中では 真実の愛へと 成熟するものだが、 不安定な人の中では、 堕落してしまって、 恨み言と 自滅へと至る。 人の 自己愛の もっとも 真実の表現は、 自身の善さへの献身であり、 それは 他の誰のものでもない 自身の もともとの性質 (そのような 性質は 不条理な、 変なものかもしれない) の 自己充足である。 (「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)

日本政治外交史(’25)

日本政治外交史は 2回 単位を取得しているが、 今回 改めて 開設された 日本政治外交史も 実に 面白い。 今期は 科目登録していないが、 来季は 科目登録しようかな。