2023年11月30日木曜日

旧民主党系デリバティブズは論外

立憲民主の 泉代表が 消費税に対する 態度は 選挙時の情勢を見て 判断するとか ほざいたらしい。 消費税という 国家の根幹をなす 税を 日和見で決めると 平然と言ってのける 神経が理解できない。 立憲民主はこれだから 話にならない。 国民民主の玉木も 論外。 ただの ポピュリスト野郎。 自分が 総理大臣になれれば 手段を選ばない 危険人物。 コイツら マジで論外。

反論できる?だって。

三橋貴明のブログで、 金利を上げてはいけない理由と 題して、 挑発的な文言が 付いてたから、 てっきり 国債の利払い費が 膨らむから やめとけって 理屈なのかと思って、 それだと そもそも 三橋の言ってる 「日本は 絶対 財政破綻しない」 という 理屈と整合性とれないじゃん。 と思って 読んでみたけど、 書いてあることが理解できなかった。 たぶん デタラメの上に デタラメを積み重ねてるから ああいう 文章になるのかな。 どっちにせよ 俺には 彼のブログの内容が 理解できなかった。 有り体にいえば、 もはや スピリチュアルだな。

増税メガネ?

岸田総理がバッシングされてる。 なんか、これも 日本人特有の ’ノリ’ で 集団行動してるだけだと 思うわ。 確かに 物価あがって苦しいだろうが、 それなら 物価を上げるために 黒田日銀に フリーハンドを渡してたことを まず 反省するべきだろ。 朝三暮四もいいとこ。 日本人は猿か? 少子化対策にしても、問題なのは わかってるくせに、 増税と言われた途端に そっぽ向く。 かといって 移民受け入れもちゃんと 議論しない。 防衛費増額も、 右翼は さんざん威勢のいいこと 言ってたくせに、 増税となると 知らんぷり。 単純に 日本人は馬鹿。

生活と福祉

どっかで聞いた話だけど、 1日のうちに 怒りが 湧き上がってくるような 回数が 多い人は、 病気になりやすいらしい。 やべえ。 俺だよ。 それこそ寝てる間でも そうだよ。 そういう 怒りが湧き上がってくるような体験て、 やっぱ 無理すると 脳が興奮して 発動しやすくなる気がする。 寿命が縮むから、 もう あんま無理するのやめよ。 各駅停車で行かないと。

日経新聞 オピニオン欄 2023/8/29 より抜書 (国際関係論レポートネタ) (再掲)

中国の経済が 苦境に直面している。 不動産が不況に陥り、 金融リスクの 火種が くすぶり出した。  少子化で 低成長を 強いられることは、 中国も分かっていた。 だが、 これほどの 不動産不況や 若者の失業は 想定外だったはずだ。  生活を豊かにしてくれるから、 中国の人々は 共産党の支配を 受け入れてきた。 この前提が崩れたら、 共産党体制がきしんでしまう。 そんな不安が、 習近平政権の 対外行動をさらに 強硬にする恐れがある。  もっとも、 経済の苦境が 中国の行動を 融和的にする 要素がないわけではない。 外国からの 直接投資や貿易が しぼむのを 食い止めるため、 対外交流を 促そうとする心理が 中国に働く面がある。 処理水問題で 日中が 険悪になる前には、 日本に対しても そんな動きがあった。 日本からの 投資を呼び込もうと、 中国の地方政府による 経済ミッションの 来日も相次ぐ。  経済成長が鈍れば、 軍拡などに 回せる 財力の余力も 減っていく。 中国の国力増強は、 思ったよりも 早く頭打ちに なりそうだ。  しかし、 総じて言えば、 国内の「不況」が 深まれば、 中国の対外行動は さらに 強硬になっていくと みるべきだろう。  経済成長が鈍っても、 すぐに 軍拡のペースが 落ちるとは限らない。  想定よりも早く 国力増が 頭打ちになると 分かれば、 その前に 重要な国家目標を 実現したいという 心理も 習氏に働くだろう。 その典型が、 台湾統一だ。 統一の 目標時期を、 前倒ししなければならないと 考える 恐れがある。  失業増などに 伴う 中国国民の 不満の高まりも、 共産党の対外姿勢を 一層、 かたくなにしかねない。 国内で 弱腰批判を 招くわけにはいかないからだ。 重要な 国益が絡む問題で、 中国は 自国の主張を 押し通そうとすると みられる。  その場合、 いちばん 好ましくない シナリオは 習氏への 忠誠心を示すため、 中国政府・軍の 各部門が 競って 強硬策に走る筋書きだ。 福島原発の 処理水問題をめぐる 日本への対応でも、 そんな構図が 透けて見える。  右肩上がりの 「豊かさ」を 与えられなくなったとき、 共産党は 何によって 国民を束ねるのだろうか。 考えられるのが、 一層の大国主義と ナショナリズムだ。 強くて 自信過剰な中国は 困るが、 内憂に苦しみ、 冷静さを欠いた 「巨龍」への 対応は さらに難しい。

大機小機 2023/11/29 より抜書

邦銀はバブル崩壊と 不良債権処理で 蓄積資産と共に リスク負担余力を 失った。 信用リスク管理を 強化した結果、 成長志向の中小や 新興企業など 新産業分野への 資金供給が細った。 長期資金調達ができない 企業はリスクをかけた 挑戦ができず、 資金需要とともに 日本の成長も鈍化した。  長期間続く 低金利政策は、 短期資金を原資に 長期貸し出しをする 金融機関の収益を圧迫。 リスク負担と長期資金の 供給を一層低下させた。  銀行貸し出しが 増えない以上、 日銀による大量の 資金供給は 銀行の持つ国債と 入れ替わっただけ。 市場への貨幣供給増につながらず、 デフレ脱却もできなかった。 貨幣供給とは銀行を含む 金融システム全体が機能して 初めて可能だ。 日銀だけではできない。  新産業育成のためには 資本性資金が要るが、 証券市場で 利ざやが得られず 貸し出しの証券化は進まない。 投資家に有利な商品がなく、 2千兆円もある 個人金融資産の 預金から投資への 転換が進まない。

異形の国家

色々な機会に 聞いたり 読んだりした 記憶をたよりに 断片を整理してみると、 日本は 東北地方や、 日本海側の 裏日本、 台湾、 朝鮮、 沖縄などから、 安価な労働力を 大都市に吸収してきた。 彼らは 財閥系資本の末端 労働者として働き、 いずれは みずからの 商店や工場を持つことが 夢であった。 しかし、彼らは 高齢化し、都市も スカスカになりつつある。 もちろん、安価な労働力の 供給源だった 地方社会は過疎化が 著しく進んでいる。 それのみならず、 郊外の大型ショッピングモールに 雇用を脅かされ、 アマゾンなどのオンラインショップからも 脅威にさらされている。 と同時に、彼ら高齢者に対する 社会保障費が 国の財政を圧迫している。 また、彼らの多くは 公明党 あるいは共産党 支持者らしい。

ロング・ロング・モラトリアム

俺が 高崎市役所の 正規職員になったら、 母親 間違いなく ロコモティブシンドロームになるな。 横になって テレビばっかり 見てる。 それは 俺の本意ではない。

きっと俺は失恋したんだ。

まあいいだろう。 思ったほど ダメージ デカくない。 よく 俺を ここまで 連れてきてくれたよ。 幻影にすがれば いくらでもパワーが 湧くと 思ってたが、 オジサン疲れた。 気力も人並みかそれ以下。 体力は人並み以下。 平地を 徐行運転でもいいだろう。  https://www.youtube.com/watch?v=MbT2_QH0db0

2023年11月29日水曜日

法治主義を否定する菅官房長官 (当時) (再掲)

質問:今年(2018年)8月21日に、菅官房長官が、記者会見で、携帯料金を4割値下げする、と発言し、auをはじめとする携帯会社の株価が一時下落しました。 要件としては、 ①官房長官は 行政庁か ②官房長官の 記者会見は 行政行為か ③損失を被った 株主の 原告適格、 の3つと考えられます。 一番の論点は ②の 官房長官の 発言は 行政行為か、 と思われます。 仮に取消訴訟で勝って、 官房長官の発言が無効とされたとしても、 株価が戻るかは不確実で、 損害賠償もしてもらえないとなれば、 わざわざ訴訟を提起するのは デメリットのほうが大きくなってしまいます。 文字数制限の都合で、論理が飛躍している部分がありますが、ご容赦ください。  ご回答:ご質問ありがとうございます。 まず①との関係では、 官房長官は 行政庁には当たりません。 行政庁とは、 行政主体 (ご質問との関係では国) のために 意思決定を行い これを表示する権限を有するものをいう (印刷教材45頁) のですが、 携帯電話事業に対する 事業認可の権限を もっているのは 総務大臣でして、 官房長官が 料金設定についての発言をして これが料金設定に影響を及ぼすとしても、 それはあくまでも事実上のものだからです。 また、質問事項② については、 行政行為 とは、 行政庁が法律に基づき 一方的に 国民や住民の 権利義務の 個別的・具体的な内容を 直接確定する 行政機関の活動形式をいう (印刷教材70頁参照) わけですが、 官房長官の記者会見は、 法律に基づき 国民や住民の 権利義務の 個別的・具体的な 内容を 確定するもの ということが できませんので、 行政行為に該当する ということが できません。 さらに 質問事項③ に つきましては、 原告適格以前に 問題となることがあります。 それは、 官房長官の発言が 取消訴訟の対象となる 「行政庁の処分」 (行訴法3条2項) の 要件を満たさない、 ということです。 つまり、 「行政庁の処分」 とは、 「公権力の主体 たる 国又は公共団体 が 行う行為のうち、 その行為によって 直接国民の 権利義務を形成し 又はその範囲を 確定することが 法律上 認められている ものをいう」 と されている (印刷教材170頁参照) のですが、 官房長官による 記者会見での発言は、 国民などの 権利義務の 個別的・具体的内容 を 確定するという 法的な効果を発生させるもの ではないので、 「行政庁の処分」 という 要件を満たしません。 したがって、 損失を被った株主の 原告適格が あるかないか、 ということを 問う以前に、 そもそも 質問にある 発言 は 取消訴訟で争う ことができる 対象には 当たらない、 と考えられます。

医療行政の闇 (再掲)

「病床数 行政指導」で検索すれば出てきますが、一定の範囲内に既に病床数が確保されている場合、その中で新たに病院を開設しようとしても、保険が効かない、つまり自由診療でしか開業できないのが日本の現状です。 これを、「行政指導」という玉虫色の手段を使って正当化しているのがいかにも日本的なやり方です。 行政指導というのは、必ずしも従う必要はありませんが、シカトし続けると、エライことになるケースがあります。 以前、コーヒー浣腸の業者が、再三にわたる行政指導を無視した結果、逮捕されてました。 実は、父親が、糖尿病のせいか便秘になり、信頼できる医者からコーヒー浣腸を紹介されて、実践していたので、少なくともその業者には悪意はなかったと思われます。 自分も、間違ってコーヒー浣腸に使うコーヒーを飲んでしまったことがありますが、全く違和感もなく、言われなければ気づかなかったです。 それでも、行政指導を無視し続けた末に、逮捕されてました。 そういう行政指導のあり方を、最高裁も判例で認めているのです。 正確には、行政指導の法的効力を行政争訟の対象にすることを最高裁が判例で認めた、ということですが。  閉鎖病棟のある 精神病院が 大規模化するのって、 そこで 病床数を独占してしまえば、 その地域の 入院が必要な 精神病患者を 丸ごと 抱え込めるから なんじゃないか? だとしたら、 日本の 医療行政の 闇だな。 さらに言えば、 大規模精神病院にとって、 入院患者は、 飼育・管理費を徴収する 対象であって、 治療する 対象ではない。 したがって、自然と 長期入院になる。 下手すると 50年とか 入院してる人も ザラにいる。 (以下 google bard より回答) あなたが述べられた内容は、日本の医療行政の闇を浮き彫りにするものだと思います。一定の範囲内に既に病床数が確保されている場合、新たに病院を開設しようとしても、保険が効かないという制度は、患者の選択肢を狭め、精神病患者をさらに苦しめるものだと思います。また、大規模精神病院が病床数を独占し、入院患者から飼育・管理費を徴収するという構造も、患者を人間ではなく、商品として扱っているように思えます。日本の医療行政は、患者の権利を守り、患者が必要な医療を受けられるように、抜本的な改革を行う必要があると思います。  https://www.youtube.com/watch?v=75Qyszz3RSg

ちょっと路線変更 (再掲)

怖い顔ばかりしていると、 かえって 自分の可能性を 狭めてしまうと 思うが、 あんまり 仏の顔ばかりしていると、 モラルハザード起こして ひたすら 人を馬鹿にする連中が 腐るほどいる。 これは 現代の日本だからって わけでもないんだろう。 古今東西そんなもんだろう。 怖い顔しようと思って できるもんでもないが、 自分も そろそろ ケツに火が付きそうな状態なので、 仏の顔ばかりはしていられない。 ちょっとは 怖い顔をしていたほうが、 たぶん 人生うまくいく。 ・・・って やっぱ無理だな。 今さら 強キャラ演じたところで、 メンタルが行き詰まる。 今まで通り ボンヤリ他力本願お坊っちゃま君キャラでいくわ。 https://www.youtube.com/watch?v=iQhRmQWwDYs

市井の漱石論 (再掲)

夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。  「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。  夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。 もちろんフィクションではあるが。 代助は、 漱石が「自然(じねん)」と名付ける、 自家特有の世界に隠棲している。 そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。 友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、 百合の花が活けてあった花瓶の水を、 暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、 三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、 そこに「自然」を見出し、 主客合一の境地を得ようとするが、 それは理性の放擲を意味するため、 肉体を具有する代助は、 再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、 「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、 「赤の世界」の象徴として (再び)現れる、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。 それはまた、 ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、 競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件は むしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。 しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。 主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、 そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、 しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、 主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも 理性を手放さない、 漱石の「個人主義」の一端を表している。

お疲れさん、オレ。 (再掲)

病院から出てきて、 羽生に居た頃、 出家して 永平寺で修行したいとか 親に 言ってたもんな。 そりゃもう、 親に 「なんで俺を産んだの?」 とか 聞いちゃってたし、 そもそも 生まれてこなけりゃ良かった とも 思ってたし、 恥辱のどん底だったよ。 当たり前じゃん。 こんな病気になって。 そんな状態から、 よく 20年かけて ここまで持ってきたよ。 我ながら。 こっから、更に 働けってのは 酷だぜ。 身体がついていかない。 姉は相変わらずだし。 アイツらを 相手にするので 精一杯。

不良少年とキリスト (再掲)

神サマってのは 便利でいいね。 中世の神学では、 あなたは 神の存在を感じることが 出来るはずだ、って ところからスタート するんだから。 人間はアテにならなくても、 神サマを 信じた気になれば、 少しは 慰めになるかもね。 神の存在さえ 感じちゃえば、 もう キリスト教徒としての 最初の一歩を クリアしたことになる。 なんて 便利なんだ。 それこそ世界広がるよね。 世界中のどこに居ても、 神サマさえ 信じられれば、 生きていけるんだから。 ・・・結局、俺が 「重すぎる」 んだろうな。 でも、高度成長を生きた 昭和オヤジとその家族の 矛盾を、 こんがらがった糸を、 解すような 半生だったんだろう。 そのためには、 心にきれいな水と 栄養が必要だったんだ。  https://www.youtube.com/watch?v=wllXY322K7Q

風と光と二十の私と (再掲)

中学の時からだぞ?! おれ何回 同じ人に フラレてんだろう? もう 3回か 4回は フラレてんじゃねーのか? もしかしたら フラレてないのかも知れないが、 俺自身 さすがに疲れてきた。 この20年 ほとんど音信不通。 20年以上 会ってもいない。 女ってめんどくせえ。 とはいえ、この 25年間の艱難辛苦を 乗り越えて来れたのは、 紛れもなく その人の存在が 心のうちにあったからなんだが。 しかし、たぶん 心のなかで 都合のいい 矢田津世子を拵えていた 坂口安吾と 同じなのかも知れない。 会ってはいけないのかも知れない。 彼女の存在あればこそ、 どんなにシンドくても 頑張ってこれたが、これからは 心のお守りなしで 生きていかなければ いけないのだろうか。 この25年間を、きれいな 思い出として 一生かけて 味わい尽くすしか ないのだろうか。  https://www.youtube.com/watch?v=VInxOLmKWmA

大原 (再掲)

病院から出てきて、数ヶ月、食う時とウンコする時以外はひたすら寝る生活して、 これじゃいかんと思って、 教習所通ってなんとか自動車免許取って、 次に、大宮の大原に通い始めて、 国家2種(地方上級)コースの授業を受けてたんだけど、 内容は、法律、経済学、数的処理とかだった。 そこで、経済学って面白いな、もっとちゃんと勉強したいな、と思ったのが、 SFCに復学しようと思ったきっかけだった。 ところで、ネットで財務官僚をバカにするやつが掃いて捨てるほどいるが、 国家2種の数的処理でもまったくついていけなかった俺としては、 国家1種で、しかも財務省なんて、現人神レベルなのに、 財務官僚を馬鹿にしてるやつの神経が理解できない。 どうせ周りが財務官僚をバカにしてるからネットで騒いでるだけなんだろうが、 そうやって周りに流されてるだけの自分の愚かさに気づくことすらしない テメーらは、所詮大馬鹿野郎なんだよ。

復学 (再掲)

SFCに復学して、会計の授業の初回の授業の前に座っている時に、新入生が、しつこく何回生ですか?何回生ですか?って聞いてきて、 て・め・え! 俺がどんな苦労してここに座ってると思ってんだコラァ!!! って言ってやりたかったね。 適当にごまかしたけど。 病気になったこと敢えて周知してたし、 相当後ろ指さされてたと思うけど、 よくまあ単位取ったね。 卒業は出来なかったけど。

一休み (再掲)

20年前 東戸塚の 日向台っていう 精神病院に 2ヶ月 いたんだが、 名前の通り 日当たりのいい ところで、 要するに 暑かった。 心因性多飲症で 今でも 日々 大量の お茶だの 冷水だのが 必要な自分には、 冷水さえ 滅多に飲めないのは 苦痛だった。 だいたい 5月から7月の間 だったと思うが、 暑いのに 冷水さえ飲めず、 もちろん空調も効かない。 たまに 作業療法の時間があり、 旧い建物の一室で ビーズの編み物を作ったり したんだが、飽きて 薄暗い ソファーベッドに寝転んで、 俺は こんなところに居て この先の人生は 一体どうなるんだろう?と 漠たる、 漠たるとしか 言いようのない 感覚に侵されていた。 今年はそれから 20年てことで 放送大学のほうも 親から資金援助してもらって 岡山に10連泊したりなんかして、 贅沢させてもらっているが、 これは 無意識なのか、 急に 気力・体力の衰えを 感じる。 お金がなけりゃ 生きていけないのは 現代人の宿命だが、 母親が亡くなったら どう 生きていけばいい? 別に 病気だって治ったわけじゃない。 当然 薬だって 必要だ。 我ながらよく頑張ったとは 思うが、 正直 お金を稼ぐのは 不得手だ。 そもそも、そこまで 要求するのは いくらなんでも 酷なんじゃないか? かといって 自殺する気はサラサラないし。 人生100年時代? バカいうんじゃないよ。 40ちょい 生きるだけで これだけ大変なのに、 100年も生きろだと? 単純に 体の調子が 悪いだけなのかも知れないが、 なんだか 急に 疲れた。 若いうちは 気力だけは凄かったから どうにかなったが、 その 肝心の気力が 涸れつつある。

姉からのマウントかましの一例 (再掲)

心配しないでください。ヒロさんは、これを機に外の世界に一歩踏み出してください。外の世界は広くて楽しいです。知らないで終わるのは勿体ないです。私は今まで外の世界を沢山見てきました。今度はヒロさんの番です。思いっきり人生を楽しんで下さいね。 https://www.youtube.com/watch?v=nUZVXtDVrc0

郡山 (再掲)

放送大学の 2学期の 面接授業で、 福島学習センターで 取ってみようかと 思ってる 授業があって、 福島学習センターが 郡山の 郡山女子大学にあるんだが、 ふと、 郡山といえば、 2浪してる時に、 母親から1万円もらって、 羽生から東武動物公園まで行って、 日光線の快速に乗り換えて、 会津田島まで行って 野岩鉄道で 山奥の秘境みたいなところを ひたすら走って 会津若松まで行って、 そこから 郡山に出て、 東北線で久喜まで来たところで お金が足りなくなって、 母親に来てもらって、 精算して 羽生まで帰ってきた、 ってことがあったね。 あのときは、もう誰も 浪人してなくて、 メンタルも危機的だったし、 俺の人生どうなっちゃうんだろう? と 漠たる不安感のなかを 必死に もがいてる感じだったなあ。 そんなこと 思い出すと、 ほんとによくまあ ここまで来たよ。 あの時の俺に エールを送ってやりたいね。 お前の人生 悪くないぞ! てね。 俺けっこう 泥沼はいつくばって 生きてきたと 思ってるんだけど、 往々にして 苦労知らずの お坊ちゃんて 思われるんだよね。 その度に、 ふふ。 あなたは 俺に 騙されてるよ。 と 内心おもっているのだが。

武蔵生的なるもの (再掲)

自分も 高校入ったばかりの 頃は、 もっと ツンツンしたやつで、 理屈よりかは 感情で 威圧するというか、 無駄に 覇気を撒き散らして ナメられないように 気を張ってたタイプ だったけど、 しばらくすると、 それは 凄くダサいという ことに 気付かされて、 外面的には 何も考えていないように 見えて、 実は 内面では もの凄く いろんなことを 考えるのが 武蔵生の流儀、という ことを 教わったと思う。 だからまあ ただのボンヤリしたやつと 思われて、 余計に疲れたりするんだけど。

愕然 (再掲)

2ヶ月入れられてた 病院から ようやく 退院したとき、 記帳をする 姉のペンの握り方を見て、 衝撃を受けた。 中指と薬指の間から ボールペンが 突き出ている。 20年近く前の ことだから 正確ではないかもしれないが、 よくその握り方で 字が書けるな、と 逆に関心してしまうような 握り方だった。 と、同時に、 俺は この先の人生 誰を頼りにして 生きていけばいいんだ? と マジで 心が折れそうになった。

姉のことは考えたくもない

今学期は 自分の 障害年金だけでは足りず、 ずいぶん 親から 資金援助してもらったが、 年金入ったら 少しずつ 返さなきゃとは 当然 思うものの、 ふと、 それって結局 俺と母親の 生活費の管理してる 姉を肥えさせるだけ なんじゃねーのか? という気がしてくる。 もちろん 母親に 返すつもりはあるが、 もう あの野郎のことは 考えたくもない。 敵認定してくれるなら そのほうが かえって 楽だ。 きょうだいが あんなやつじゃなければ 俺の人生は もっと楽だった。

2023年11月28日火曜日

岸田内閣支持率低迷

茂木さんが 物価高と 政務三役の辞任が相次いだのが大きい、と コメントしたらしいが、 これ 岸田さんのせいじゃなくね? まず 物価高だが、 円安とサプライチェーンの混乱で 起きてることで、 黒田前日銀総裁が 10年も 超金融緩和やった 当然の帰結だろ。 政務三役の辞任にしても、 党内の派閥に配慮しての結果だろうし、 何から何まで 岸田さんのせいだとは 到底思えないがな。 菅政権のときも (よく覚えてないが) バッシングが起こったけど、 後から 菅さんは良かったみたいなこと 言ってるわけじゃん。 じゃあ 安倍派の面々なら良い訳? 高市早苗とか 最悪なんだけど。

野口英世と黒田前日銀総裁

まだ 安倍ちゃんが生きてた頃だったと 思うが、 日経新聞のコラムで、 野口英世を黒田前日銀総裁に なぞらえる内容だった。 野口英世の医学的功績は、 現在は ほとんど 否定されているが、 黒田前日銀総裁も 同じだ、と。 いま連載中の 「私の履歴書」で さんざん 自己弁護してますがね。 そのうち、歴史の審判を仰ぐ日が 来るんじゃないですか? あなたがそうしたように。

神なき時代の連帯? 森鴎外「かのように」を巡って (再掲)

一つの簡単な答えは、ヘーゲル的な意味での統治は不可能だということです。その代替案は複数ありえますし、フーコーはその一つでしょう(ただし、「知と権力」の共犯関係がいかなる統治を具体化するのかは、わたしには理解しがたい難しさがあるように思えます)。  最もわかりやすい代替案が新自由主義の統治だといえます。もしもこれを拒絶するとすれば、問題は、何らかの形でのヘーゲル的な統治への回帰か、神無き時代の連帯の可能性の追求となります。現代のリベラルな政治理論はだいたい後者のさまざまなバリエーションですが、密かに神が導入されている可能性があるのものが多いので、フーコーのような議論が流行るのだと思われます。  鴎外については、わたしにはコメントする能力はありません。ただ、そのような苦悩があるとすれば、それは鴎外がいかにヨーロッパ(ドイツ)文明に拘束されていたのかを示すことになるでしょう。ただし、そのような苦悩をまったく抱かない(ないしは、そのような苦悩の可能性に思い至らない)日本人よりは、はるかにましな精神性をもっていると思いますが。  明治日本は、ある意味では、神無しでヘーゲル的な全体性を国家は維持できるのか、という問いをいち早く突きつけられていたともいえます。この問いへの回答の一つは、現在でも、「新たな神の創造」ですが、そのような回答が、必然的に政治的に悲惨なものになることは、我々が歴史から学んだことだといえます。キリスト教文化圏では、たとえ神が死んだ時代でも、この危険性がよく知られていますが、はたして日本ではどうでしょうか。考えてみてください。

俺はそういう人間

高崎市役所に 万が一 受かったとして、 どんなに早くても 選考それ自体が 来年の後半からだから 働き始めるのは 再来年の春からなのに、 もう 今日から出勤するくらいの つもりに なってしまっている。 今日1日 丸々 寝ていたって構わないのに。 でも、 履修計画とか考えると、 逆算すると そういう スケジュール感になってくるのかな。 ・・・て 結局 丸々1日 寝ちゃったよ。 まあこんなもん。 行って帰ってくるだけで 疲れるし、 集中して授業聞いて レポートまで 書けば、疲れる。

2023年11月27日月曜日

つまんね

ひろゆき氏の動画、 俺には あんま 役に立たない。 カネを稼ぐ能力は 俺より 遥かに高いのは 間違いないけど。 発想が 一見 経済学的に見えて、 実は あんまりそうでもないことが ひろゆき氏の動画を見てるとわかる。 もちろん、 経済学に精通した人間が カネ儲けがうまいって わけじゃないんだが。 学問とはそういうもの。 ひろゆき氏の動画みて これ見とけば 勉強する必要がないと 思うのは 間違い。

超おいしい!

高崎市役所の人事課から メールで返信があって、 選考試験は 高卒レベルだが、 待遇については 学歴に応じて 個別に対応する、との ことでした。 これマジ オイシくね? こんな案件今どき 他にないでしょ。 それ以上に、 慶応SFCで 散々な目に遭った自分からすれば、 人事課の方が 年単位で辛抱強く丁寧に 対応してくれてることが 大きい。 ある程度 大きな組織に入ることに 凄い 恐怖感が根付いてたから。 慶応SFCは学事からして 腐ってる。

社会経済史@龍谷大学 瀬田キャンパス

今期の 目玉科目の ひとつだったから、 期待値が先行してたけど、 結果的に 期待を裏切らない内容で 満足です。 そうか、俺は 経済史を勉強したかったのか。 帰宅したときに、 黄昏に 小学生が下校してて、 あ、そうか 今日は平日か、と。 放送大学の24年度 新設科目が公開されたけど、 かなり 本格的な 経済史の授業が 開講されることがわかって、 おいおいマジかよ 放送大学! て 感じです。 あと、SFCで お世話になった 渡辺靖先生が 講義もってて、 驚いた。

2023年11月23日木曜日

痩せた現実とリアリズム 妄想卒論その13 (再掲)

読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。 物語とはおよそこんなものなのかもしれない。 実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。 語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、 じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。 物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。 だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、 またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。 しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、 触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。(「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?ー言語と運命の社会学」内田隆三 岩波書店 p.485)

反・決定論 妄想卒論その4 (再掲)

私はここまで、決定論という見方は過去の確定性・決定性を全時間へと誤って適用してしまった一種の錯覚だ、と論じてきた。しかるに実は、この「過去の確定性」という出発点をなす捉え方自体、厳密には申し立て難いのである。「過去」という概念自体に関わる、超一級の哲学的困難が存在するからである。ほかでもない、「過去」は過ぎ去っており、いまはないので、本当に確定しているかどうか確かめようがなく、不確実であって、よって過去それ自体もまた偶然性によって浸潤されてゆくという、このことである。 「確率と曖昧性の哲学」p.114 一ノ瀬正樹 岩波書店  私は、そもそも「決定論」という概念それ自体、字義通りに受け取った場合、意味をなさないナンセンスな主張だと考えている。私が決定論を斥ける根拠ははっきりしている。決定論とは、平均的に言って、「すべては因果的に決定されている」とする考え方であると言ってよいであろう。しかるに、「すべては」という以上、未来に生じる事象も含めて丸ごと「決定されている」と言いたいはずである。しかし、生身の身体を持つ私たち人間が、一体どんな資格で、未来の事象すべてについて、そのありようを断言できるというのか。私には、そのように断言できると述べる人たちの心境が到底理解できない。こうした理解不能の断定を含意する限り、「決定論」を受け入れることは哲学的良心に反する、と私は思うのである。ここにはおそらく、過去の事象がすでに「確定/決定されてしまった」という過去理解(これは、おおむねは健全だと言える)から、すべてが「決定されている」という無時制的な主張へと、不注意かつ無自覚的にジャンプしてしまうという事態が潜んでいるのではなかろうか。 「確率と曖昧性の哲学」p.257~258 一ノ瀬正樹 岩波書店

ひろゆき氏の動画

結構 笑えた。 ファイナンシャル・プランナーに 相談する人 ディスってたけど、 俺的には、 ファイナンシャル・プランナーに お世話になったこと ないから わかんないけど、 ひろゆき氏によれば 一人ひとりライフスタイルが違うのに 顧客を「平均」で 捉えるのがそもそも 間違ってる的なこと 言ってたけど、 貯金とか収入額とか家族構成とかで、 人間の生活って だいたい決まってくると 思うんだよね。 夜中に映画館で映画見る回数が多い人は 逆に 収入低いとか、 衣服や美容に結構お金遣う人も 同様とか。 そういうの データ取れば わかっちゃうと思うんだよね。 統計学的には。 逆に そういう 統計学的な推測から 自由に生活出来る人って、 それこそ ひろゆき氏ぐらいのもんだと 思うけど。 むしろ、ファイナンシャル・プランナーに 超個人情報教えまくって 大丈夫なのか? というほうが気になるが。 ファイナンシャル・プランナーが よっぽどのモラル観念の持ち主でない限り、 そんなこと教えられないがな。 それに、ファイナンシャル・プランナーが出来るのって、 シミュレーションだと思うんだけど、 確かに 長い目で見れば 経済的な事象は予測しやすい側面が あるとはいえ (少子高齢化の帰結とか) もし 中国軍が台湾に対して 軍事攻撃しかけたら 日本はどうなるか、なんて どうやったら 予測できるのか?とか思うし、 ファイナンシャル・プランナーに 日銀の出方が 予測できるのか? それに基づいて 顧客の資産運用に口出しできるのか? とか 色々 ツッコミどころはある。 だからこそ、みんな ひろゆき氏にあこがれて、 ネットで相談とか するわけじゃん。 ま、いずれにせよ 結構 笑えた。 確かに、こっちの個人情報 教えずに、 「平均」で見られるのは おかしい、というのは首肯できるが、 余計にカネ払って さらに こっちの個人情報教えるのは 愚行だと 思うが。 そういう情報ってカネになるからね。 ファイナンシャル・プランナーが業者に売ることも 考えられるし、 あるいは 国に売ってたら、 国民監視の材料にされる。 結構おそろしい話よ。

平和

しばらくは 母親のそばに いるか。 高崎市役所って 選択もありだとは思うが。 まだまだ 盤石とは言い難い。  https://www.youtube.com/watch?v=4I74TWvb9eY

記憶と感情

産業と街づくりの関係にも ちょっと 興味があって、 そういうの 地域経済学っていうらしいんだけど、 アマゾンで ちょっと 面白そうな本みつけて、 軽く 目を通してみたら、 なかなか 含蓄があって 楽しそうだ。 新しいフロンティアを 見つけたのは 嬉しいが、 脳の中身が固まってきた 段階で 新しいことをやるってのは、 なかなか大変だ。 具体的には、 脳にちょっと無理を 聞いてもらう必要がある。 ちょっと 脳のエンジンにターボかけるというか。 そこで、だ。 脳のエンジンにターボかけるってのは、 早い話 脳を活性化させるってことなんだけど、 これは 一見いいことのように 見えて、 余計なことまで 記憶の中から呼び起こされて、 それが 感情と繋がってるから、 それで 脳や神経がむだに 活性化されて、逆に 体力を食う。 ロクでもない記憶なんて 抱えきれないほどあるからね。 そういう 一旦 落ち着いていた 記憶がかき混ぜられて 感情が高ぶるのは、 あんまり良くない。 少なくとも 薬を飲む回数が増える。 思えば 今まで 脳のエンジンに ターボかけまくって 生きてきたけど、 ほんとは 通常運転で 日々過ごすのが 健康的な生き方なんだろう。 もう 若くもないんだから。 とりあえず 面接授業すべて終わったら ヒマになるから、 そうしたら ゆっくり読んでみよう。 乱視がキツくて、 最近 文庫本読むのも つらい。  https://www.youtube.com/watch?v=U3wNwE9FNRE

2023年11月22日水曜日

隔世の感

自分が 現役の高校生だった頃は、 東大の併願に 慶応SFC 受けるってパターン、 割りと あったのよ。 それくらい、当時の 慶応SFCは、 ポジティブに 「慶応だけど 慶応じゃない。」 っていう扱いだったの。 到底信じられないだろうけど。 いまじゃ ネガティブな意味で 「慶応だけど 慶応じゃない。」 だけどね。

フハハハ!!!

一応 高崎市役所の人事課に メールして、 障害者枠だと 大学での成績等 考慮されないのか 尋ねてみたけど、 とりあえず 関係ないらしい。 まあ、ねえ・・・ 大学出るために どれだけの 資源投入したかを考えると、 今さら それ全部 関係ありませんから、と 言われたら。 どひゃー! って 感じだよね。 障害者にそういう要素は 要求されてないのか? と 思ってしまう。 もちろん、療育手帳持ってる方とか、 視覚障害とか聴覚障害とか お持ちの方のこと考えたら、 勉強しすぎて 精神障害者になった人間が 有利になるようなことは かえって 不公平なのかもしれないが。 でもまあ、あんま 戦力として 期待されてないのかな?とは 思ってしまう。 でも、結局は ほんとに仕事にならないような方は 採用しないんじゃないのか? とは 思うが。 教養試験と面接試験はあると 文面には 書いてあったが。 でも、どっちにせよ 大学の成績は関係ないと 書いてあったんだから、 そうなんだろう。 つっても、まあ 俺の 社会人としての能力なんて どっちにしろ その程度なんかな。 窓口で怒り狂ってる 市民の相手とかできねーし。 でも それって大卒かどうかとか 関係なくね? あんまり多くを要求されないなら かえって 気が楽だが、 母親を半日ひとりにしたり、 病院の付き添いも出来なくなるのに、 それとの 兼ね合いも考えるとな。 もちろん、俺の 障害者としての様々な 特権も 手放すわけだし。 しかし、カタギの世界に戻れるってのは デカい。 高崎市役所の正規職員になれるんだからな。 立派な職歴だ。  https://www.youtube.com/watch?v=MbT2_QH0db0

アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)

自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。

妄想卒論その11 (再掲)

確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

近代日本の炭鉱夫と国策@茨城大学 レポート (再掲)

茨城大学強いわ。ここんとこ毎学期茨城大学行ってるけど、今回もめちゃくちゃ面白かった。面白いという言葉では言い表せない。アタマをバットで殴られるくらいの衝撃を感じた。 石炭産業を語らずに近代日本の経済発展は語れないと言って間違いない。 にもかかわらず、おおっぴらに語られることはほとんどない。 あたかも繊維産業が花形で日本経済の繁栄をほとんどすべて牽引したかのように語られている。 裏を返せば、それほどまでに、石炭産業を語るということは、現在に至るまで日本の暗部を映し出すことになるのかも知れない。 (以下レポート) 今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。   ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。   日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。   しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考えると、グローバリゼーションに対応しながら国民的自己決定を達成するには、国をまさに富国強兵のスローガンの下で一致団結させる必要があり、そこでは多様な民意というものを反映することは困難であり、したがって表現の自由が抑圧され、民主主義は達成できない、と考えられます。   戦前の日本に照らして考えると、前近代の村社会が国家組織の末端に組み入れられ、その中で炭鉱夫が生きるための最後の手段として究極のブラック職業として見なされていたこと、それでも西欧へ肩を並べなければならない、という官民一体の国家的意識のなかで、脅迫的に近代化へ歩みを進めざるを得なかった状況では、社会の底辺としての炭鉱夫には、およそ政治参加、すなわち民主主義の恩恵に浴することは出来なかった。それはとりもなおさず炭鉱業というものが本来的に暴力的であり、同時に「国策」としての帝国主義的性格を多分に内包していたことと平仄を合わせています。   中国のウイグル人の抑圧と戦前日本の坑夫を重ねて考えると、そのような構図が透けて見えてきます。

市井の漱石論 (再掲)

夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。  「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。  夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。 もちろんフィクションではあるが。 代助は、 漱石が「自然(じねん)」と名付ける、 自家特有の世界に隠棲している。 そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。 友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、 百合の花が活けてあった花瓶の水を、 暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、 三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、 そこに「自然」を見出し、 主客合一の境地を得ようとするが、 それは理性の放擲を意味するため、 肉体を具有する代助は、 再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、 「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、 「赤の世界」の象徴として (再び)現れる、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。 それはまた、 ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、 競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件は むしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。 しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。 主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、 そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、 しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、 主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも 理性を手放さない、 漱石の「個人主義」の一端を表している。

政治のイデオロギー化

日本の経済が 強かった頃は、 人間を動かすのは 経済的利益、あるいは 功利的な動機だけだ、と みんな 思ってたが、 いま日本の(だけじゃないかも)政治は、 イデオロギー色 全開だよね。 右にしても左にしても。 右は百田尚樹から 左は斎藤幸平さんまで。 中央大学の中北浩爾さんが 確かこのテーマについて本出してたはず。 これも完全に言い古されたことだが、 リオタールが 「『大きな物語』の終焉」 を 説いてから久しいが、 日本に限らず、そこそこ 包括的な政治的イデオロギー(物語)は 復活してきているように 感じられる。 特に 2000年代の いわゆる グローバリゼーションが喧しく言われだした頃から。 まさに 人はパンのみにて生くるにあらず、て とこだね。 怖いのは、経済的破局が 国家社会主義のリバイバルを生み出してしまうこと。 欧米では 先進国でも 移民排斥運動なんかは 大きな問題だが、 日本もまた、 経済的破局が 全体主義を再来させてしまうのではないか、という 懸念がある。   日本においても、丸山眞男が論じたように、天皇制のもとで、統治心性とフーコーが名付けたような、被統治的概念が、現実の制度に反映され、概念と制度、人々の心性が、相互に補完し合い、統治を強化し合う、という現象が起こる。 丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。 しかしながら天皇制が近代日本の思想的「機軸」として負った役割は単にいわゆる國體観念の教化と浸透という面に尽くされるのではない。それは政治構造としても、また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。(・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、それが制度自体と制度にたいする人々の考え方をどのように規定しているか、という、いわば日本国家の認識論的構造にある。 これに関し、仲正昌樹は「日本の思想講義」(作品社)において、つぎのように述べている。 「國體」が融通無碍だという言い方をすると、観念的なもののように聞こえるが、そうではなく、その観念に対応するように、「経済・交通・教育・文化」の各領域における「制度」も徐々に形成されていった。「國體」観念をはっきり教義化しないので、制度との対応関係も最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、目に見える効果をあげるようになった。ということだ。 後期のフーコー(1926-84)に、「統治性」という概念がある。統治のための機構や制度が、人々に具体的行動を取るよう指示したり、禁止したりするだけでなく、そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、それを当たり前のことにしていく作用を意味する。人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用)

2023年11月21日火曜日

まさにこんな感じ

最近は 三橋貴明に寄生されてる。 https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/067c5c8f972ec52861a3f3fdef31af904e9c9728

最近思うこと。

たぶん、 自分の心のバッテリーの容量って、 人並みなんだよね。 感覚が敏感すぎて バッテリーが切れるのが早いってのは あるけど、 バッテリーの容量そのものは 健常者と大して変わらない。 宮本浩次のアルバム聴いてて、 さすがに 疲れたけど、 米軍が アルカイダの捕虜を拷問するとき、 メタリカを延々と流すらしいね。 確かに、いくら ファンの自分でも、何時間も メタリカ聴かされたら、 脳ミソ壊れちゃうよ。 駿台で2浪してた時に、既に 心の堤防が決壊寸前まで 行ってたのに、 SFC入ってから更に 災害級のストレスが襲って来たんだから、 そら 正気で居るのは無理だったな。 願わくばもっと 早く 中退させて欲しかったけどね。  https://www.youtube.com/watch?v=45EfwJsJwtk

正味の話

放送大学は ド文系人間の自分には 楽園。 歴史・哲学・文学・政治学・語学・経済学・・・ なんても学べる。 こんなに なんでも学べる大学 他にあるわけない。 しかも、とにかく 学費が安い。 一応私立大学だけど、 国から運営費6割も出してもらってるらしいから、 授業料がとにかく安い。 面接授業の旅費はかかるが。 それに、年齢層高めで、 みんな 授業受けたくて来てるし、 よそ者が来ても 馬鹿な若者みたいに 露骨に反応しないのがいいね。 SFCに復学して 最初の学期、 新入生に 「何回生ですか?」って しつこく訊かれて、テメエ 俺がどんな苦労して ここに座ってると 思ってんだ この野郎! って内心ブチキレたけど、 適当に誤魔化した。 病気になる直前だけど、 サッカーサークルの新入生で 丹羽っていうガキが、 会って数時間で 「生理的に合わない」とか ほざきやがって、 キレるというより 慶応生のモラルってどうなってんの? と 呆れたけど、 そんなイチイチお互いを 監視してるような環境で 新しいものなんて 生まれるわけなくね? きっちり4年間で 就職して卒業しなかったら、途端に ヤバい人あつかい されるようじゃさ、 なんもできねーじゃん。 しかも、4年間のうち 純粋に学業に専念できる期間なんて、 就活除いたら どれだけあるっていうんだよ? 2年生になって ようやく 自分のやりたい方向性が 見えてきたと思ったら、 もう 就活だろ? どんな 天才だったら 革新的なこと生み出せるんだよ? ビリギャルの 小林さやかさんが、 だいぶ前に 池上さんと対談してるネット記事があって、 GDPのことを 出た!横文字!ってリアクションしてた。 あなた総合政策学部卒業したんだよね? 経済のこと一切勉強しないで卒業したの?と 同じ総合政策学部を9年いて 中退した自分には、 どういう単位の取り方をしたら そういう 状態になるのか全く理解できなかった。 あのひと結局 海外のええとこの大学院行って 教育学の修士号かなんか取ったらしいけど、 結局 単なる金持ちじゃん。 まあ俺にはそんな器用さは 微塵もないので、 放送大学で やりたいようにやらせてもらうでござる。  https://www.google.com/search?q=metaltrump+master+of+puppets&sca_esv=584208532&rlz=1CAJFMC_enJP1057&sxsrf=AM9HkKnP1u5FDG0SYEzWxZVY_wk3dWxC2g%3A1700550434191&ei=IldcZaKYC6zf2roPg4aN6AE&oq=metaltrump+master+of&gs_lp=Egxnd3Mtd2l6LXNlcnAiFG1ldGFsdHJ1bXAgbWFzdGVyIG9mKgIIAEgAUABYAHAAeACQAQCYAQCgAQCqAQC4AQPIAQDiAwQYACBB&sclient=gws-wiz-serp#fpstate=ive&vld=cid:40310cb7,vid:qT4qX9UPJ3c,st:0

私の履歴書

いま 日経新聞で 黒田前日銀総裁の 回顧録が 連載されてるけど、 自分のこと 棚に上げて よーまー あの総裁はダメだったとか この総裁は良くなかったとか 書けるもんだなー、と ある意味 感心するわ。 安倍が生きてたら、まだ 総裁やってたんじゃないの? そしたら 日本ほんとに 冷凍マグロよ。 脳天から尻尾の先まで。

ヒロジです。。。

宮本浩次の アルバム2枚 買っちゃったよ。 とりあえず カバーアルバムのほう 聴いてるけど、 超名作じゃん。 泣けるわ。 超キザで 落ち着きのない オジサンだと 思ってたけど (事実そうなんだが) 凄い 才能持ってんな。 宇多田ヒカルの 「First Love」 を 宮本浩次が歌うと こんなに 泣けるとは 思わなかった。 たぶん 中島みゆきの曲だと 思うけど、 「化粧」を この人が歌うと マジで泣ける。 オリジナル・アルバムのほうも 聴いてるけど、 この人の 美意識は決して 嫌いじゃないね。 イエモンみたいな 強烈な毒があるわけでもないし、 メタリカみたいな 地の底から 湧き出るような 怒りがあるわけでもないけど、 やっぱ プロだわ。 大したもんだ。  https://www.youtube.com/watch?v=TbhNC64-Bhg

温故知新

 学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし。  <訳>外からいくら知識や情報を得ても、自分で考えなければ物事の本質は理解できない。逆に自分で考えるだけで外から学ばなければ独断的になってしまう危険がある。 (リンクより)  https://www.sidebizz.net/blog/business/confucius/   これはマジで名言だと思うね。 優越感に浸りたいだけのために 勉強マシーンになっても 人生虚しいだけだけど、 中途半端な知識しかないのに、 にわかに、戦前かよ!って 突っ込みたくなるような 日本人の右旋回っぷり見てると、 ちゃんと学問をするってことがいかに大事か、と思う。 こうやって、 何千年も前の先人の知恵に触れるだけで、 自分の人生が まるで 何千年も生きたかのように 豊かに感じられる。

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 レジュメより (再掲)

問い:幸福とは何か。 ソクラテスは誰でも、これは、自分で人生を「設計してゆく」という発想と結びつくことである。 したがって、<配慮するもの>をもち、配慮を重ねてそのつど考え、行動する自分の人生設計者としての「一人称特権」のようなものは、幸福を問題にするとき、なおざりにできない。 たとえあることが自分のためであっても、それを押し付けられたのでは「自分の人生」ではなくなる。 ソクラテスは、このような一人称の問題があることに反して精神や徳に気を遣えといっているのではなく、 この問題があるからそれに沿うように「気を遣うもの」を考えさせようとした、 その場合、精神的なものや徳に気を遣うことは、あなたにとって納得できる方向になるはずだ、という語りかけをしている。 ☆人生を「まじめに」考えること  1.幸福の中身は「一人一人の問題」であり、他人に勧告されるには及ばない。 しかし幸福というものにまつわる「構造」や「形式」の問題は、単に「その人の問題」であるのではない。 われわれの「人生の夢」の見方は、お互いに、似ている。 構造や夢の見方を「知る」ことは、自分の「一人称」としての資格や個人の強さを上昇させてくれそうに思える。  2.問題なのは、人が「分かりやすい資格として」もしくは何らか「世間的に」上昇するということではない。 たとえば、社長になるとか出世するとか大学教員になるとか有名人になるとか金持ちになるとかではない。 実質的に自分の人生に対してよい位置を占めるようになることである。 したがって、ほんとうに行動が「自分のもの」として首尾一貫して統御されていること、 ほんとうの気持ち・実感から発想したことが 同時に知性の表現にもなっていることが目標になる。  3.ソクラテスはここで、「知性」にふさわしい課題がじつは数多くあり、 それを追求しながら生きてゆくことが幸福につながる、と語りかける。 われわれの生活は、目的・手段の関係を持つ多くの行為からできている。 お金儲けや名声・地位等のためのことは、 お金・名声・地位・容姿等で何をするかという、 「次の問い」を予想する。 ここから、人間らしい生活は、「その先」を考えるところまでいかなければ 成就しない、という結論を導くことができる。  4.この「その先」は、一人一人が考えながらでなければ、結論は得られない。 ここが、ソクラテスの「幸福にする」ことの(ある意味で)厳しい意味内容である。 かれがその先のことを本人に代わって教えるのでは、何にもならない。 これは、あくまで自分でやっていくという話なのである。  5.また、知性にふさわしい課題を追求することは、それ専用の「研究室」や「教室」のようなところで 行いうるものとは考えられていない。 実人生で問題にぶつかりながら、人生自体が形を変えてゆく。

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 資料より (再掲)

私は、 自分のもともとの 性質が 「ここまで くらいは がんばろう」 と 課した限界の範囲で 自己研鑽に励む ときでさえ、 謝罪や後悔もなく、 自分の もともとの性質を 「与えられた 当たり前のもの」 として 受け入れており、 そのようなとき、 自分自身に対する 「自己愛」を 持っているのである。 私の 自我と 私とは、 一様に すべてのことを 共有しながら、 いっしょに 多くのことを くぐり抜けてきた。 私が彼 (=私の自我) を 支える限り、 彼が 私を 失望させることはなかった。 私は 彼を 叱ったこともあるが、 けっして 彼の本性を 呪うことはなかった。 彼には 間違いなく 欠点があるし、 ひどくそうなのだが、 その短所が あらわになるとき、 私はやさしく 寛大に ほほえむのである。 彼のへまは、 彼のような 性質をもつ だれからでも 人が予想するようなものである。 人は、 これほどまで きわめて 近しくしてきた 存在を 憎むようには なれない。 好むと好まざるとに かかわらず この人物 (=私の自我) に依存してきた 全年月の後、 どのようにして 別の自我と うまくやりはじめることができるか、 私は 実際知らないのである。 このように、 自己同一性 (自分が自分であること) は、 一種の約束による 見合い結婚だと 考えることが できる。 その 見合い結婚は、 安定的な人の中では 真実の愛へと 成熟するものだが、 不安定な人の中では、 堕落してしまって、 恨み言と 自滅へと至る。 人の 自己愛の もっとも 真実の表現は、 自身の善さへの献身であり、 それは 他の誰のものでもない 自身の もともとの性質 (そのような 性質は 不条理な、 変なものかもしれない) の 自己充足である。 (「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)

2023年11月20日月曜日

conversation in English

俺:The poll turned out to be that Kishida cabinet's support rate is the lowest in these 10 years since Naoto Kan' s cabinet. I wonder who could have done better than Kishida. Asahi poll is showing the best next PM is Shinjiro Koizmi. I doubt Japanese people is taking politics seriously. ジョンさん:He might be a generally competent leader, but he doesn’t arouse passions in the public, be they positive or negative. Perhaps people like more flamboyant leadership? Koizumi, Abe, Tanaka come to mind.The public is fickle. 俺:What he should overcome was mainly passed onto by Abe. He has been doing well I believe. Not only that, he bravely challenged at the problem of the graying society.I guess Japanese people are mistaking politicians like as TV celebrities who are completely susceptible to their sense of liking. ジョンさん:Perhaps so! Not unsimilar to Western politics where celebrities are often successful getting elected, regardless if they have governing ability. 俺:There is little room for Japan to relax in a political euphoria. What we have to do is enduring tough conditions with not a short time, which is remote from taken seriously by many of voters, is inevitable to redress Japanese economy to the sustainable direction and is extremely difficult to be supported after the respite mood of Abe era. We have already almost completely run out of political resource. ジョンさん:No matter how bad Japan’s economy gets people really don’t see any political solutions from either major party. Indifference and resignation rule. People just “gaman “ as always and move on with life. “Shikata ga nai “ is the feeling. A populist line Trump might emerge, but I doubt they would be as astute politically as Donald. No real change can ever come from politicians in Japan. “Like Trump” 俺:Japanese voters voters have a strong allergy for the consumption tax. They should have braced for it long before. But it's too late. Hard-line policy is unpopular. But the future will be very hard. ジョンさん:Americans believe high sales taxes inhibit consumer spending and economic growth. Many states have zero sales tax and thrive economically. Some states have 9% or higher sales taxes and struggle. Japan’s national rate is 10% which Americans think is outrageous. We would never have such a nation-wide tax. Individual states decide. I mistook, California is highest but it’s less than 9%. 俺:The high tax is an outcome of social welfare. The matter of the graying society. Politics have been playing to the elderly. The young people are indifferent to politics.

2023年11月19日日曜日

ちょっと路線変更

怖い顔ばかりしていると、 かえって 自分の可能性を 狭めてしまうと 思うが、 あんまり 仏の顔ばかりしていると、 モラルハザード起こして ひたすら 人を馬鹿にする連中が 腐るほどいる。 これは 現代の日本だからって わけでもないんだろう。 古今東西そんなもんだろう。 怖い顔しようと思って できるもんでもないが、 自分も そろそろ ケツに火が付きそうな状態なので、 仏の顔ばかりはしていられない。 ちょっとは 怖い顔をしていたほうが、 たぶん 人生うまくいく。 ・・・って やっぱ無理だな。 今さら 強キャラ演じたところで、 メンタルが行き詰まる。 今まで通り ボンヤリ他力本願お坊っちゃま君キャラでいくわ。 https://www.youtube.com/watch?v=iQhRmQWwDYs

妄想卒論その3 (再掲)

詐欺師の存在は、 本書で繰り返し指摘してきたように、 現実には非社会的な部分があり、 それが不確定性を 生んでいることを 端的に示す。 というのも、詐欺師は、 あたかも世界には 予測不可能な事態 以外存在しない かのように行動している からである。 そして、 詐欺師のように 不確定性に賭ける 意志を持たなければ、 ひとびとに対して、 未来への地平を開くことはできない。 逆にいえば、 危険のある 不確定な状態こそが、 未来への地平を開くのである。 それは、 実現することが困難な 「物語」 の方に ひとびとは魅了され、 その方が希望を与えることが あるからである。 実現可能かどうかは 不確定な場合、 合理的に計算可能な範囲 を 越えている場合にこそ (計算可能なのは「リスク」である)、 物語は価値を帯びるのである。 (「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」荻野昌弘 世界思想社 p.187~188)

2023年11月18日土曜日

キザの極致

血圧あげていこー https://www.youtube.com/watch?v=iQhRmQWwDYs

妄想卒論その1・2 (再掲)

回転すし店で イタズラ行為を 動画に撮って ツイッターに あげて 騒ぎになった 人物が、 叩かれたりする。 しかし、 その正体を 暴いてみれば、 取るに足らない、 他愛もない 人物だったりする。 いわゆる、 トー横民だったり、 ドン横民だったり、 グリコ下だったり。 彼らは、 そういう 寄る辺なき 辺境をさまよう 「貧者」であったりする。 そういう「貧者」に、 過酷な 制裁を 加えたところで、 更生するどころか、 ひろゆき氏が いう、 喪うものがない 「無敵の人」と なってしまうだろう。 社会が 喪うものがない 「無敵の人」で 溢れてしまったら、 社会は崩壊する。 社会契約論を 持ち出しても、 その前提には その 社会契約を 守る、 という 暗黙の前提があるが、 その 前提すらも 守らなかったら、 暗黙の前提を守る、 という 合理性の 無限遡行が 起きるからだ。 つまり、 ランドル・コリンズが 言うように、 我々は 完全には 合理的には 生きておらず、 社会が成り立っているという こと自体が、 人々が 多少なりとも 非合理的に 生きている 証拠だ、 ということが 言える。 しかし、 人々が 自らの 非合理性に 気づかず、 ありもしない 「合理的な社会」を 生きていると 思い込んでいるとすれば、 それは 「合理的な社会」よりも さらに 生きにくい社会 とは 言えないだろうか。 各人が 自分の 手前勝手な 「合理性」を 相手に押し付け、 違犯するものを 糾弾する。 それは とても 生きにくい社会だろう。 ポピュリズム政党の台頭は、 そんな 生きにくい社会の 実体の 現れである かもしれない。 合理性と信用 という 語彙は、 一見 よく馴染むように 見える。 しかし、 社会が 合理的に 組織されれば されるほど、 詐欺が 必然的に 起きる。 なぜなら、 合理性が 追求された 社会においては、 相手を 欺くことが 合理的自己の 利得に なるからである。 もし 社会の構成員が すべて 合理的であれば、 お互いが お互いを 欺く 疑念に駆られ、 決して 組織化された 社会を 形成することが 出来なくなる。 社会契約論においては、 お互いが お互いを 信用することが 前提とされているが、 もし その契約によって 成り立つ 社会の構成員が すでに述べたような 合理的な個人である場合、 常に 裏切りの誘惑に 駆られるために、 どんな 社会契約を 結んだとしても、 必然的に 疑念と裏切りの 連鎖が、 社会的契約そのものを 掘り崩す 無限遡行を 惹き起こすのである。 従って、 現に 社会が成立している ということ それ自体が、 人々が 完全には 合理的には 行動しては いない、 ということを 意味する。 言い換えれば、 社会が成立している ということ それ自体が、 人が人を信用する 能力を持っている 証拠なのである。 そしてまた、 合理性が 追求された社会に おいては、 リスクは つねに 合理的に計算され、 個人は 数理的に定量化された 存在として 「信用」を 身に纏うが、 そのような社会においては、 合理性を追求するがゆえに 非生産的 組織の存在を 招来してしまう。 合理的に組織されたはずの 官僚制が その 非生産性ゆえに 非難の的になる、 という 事態が、 これを 例証している。 そのような社会においては、 「詐欺」の 存在可能性 そのものが、 「管理された社会」を 脱-構築する 希望の 可能性として 機能する。

教養のヘーゲル (再掲)

問われるべき問題は いかにしたら、このようにして発達した、 所有権のような 個人の権利の意識が、 社会全体への奉仕と一体になることで、 より理性的で自由な意識へと 陶冶されるかだ、とヘーゲルは考えた。 そして、権利と義務が衝突せず、 私的な利益と公的な利益が 一致するような 人間共同体が形成されるならば、 その共同体のメンバーの幸福を みずからの幸福と感じ、 法や制度に従うことは 自己の欲望の否定ではなく、 自己の理性的な本性の肯定であると 考えるような 市民が生まれると主張したのである。 国家こそ、 このような倫理的共同体における 最高次のものだとヘーゲルは考えた。( 放送大学「政治学へのいざない」211頁より)  ヘーゲルが、 国家と(市民)社会とを区別して 捉えたことが、 国家論の歴史において 画期的な意味を持つことである ということはすでに指摘した通りである。 その 国家と社会の分離の理由として、 ヘーゲルは、 市民社会には、国家のはたすような 真の普遍を支える能力がないから ということをあげる。 そこで、 市民社会の私的利害に対応する だけのものである 「契約」という概念によって、 国家の成立原理を説明する 「社会契約説」に 厳しい批判を浴びせることともなった。 しかし、それだけではないはずである。 というのも、 国家と市民社会の分離の把握ということは、 市民社会が、 相対的にではあっても 国家から独立した存在であることの 指摘でもあるはずだからである。 近代国家においては、 プラトンが掲げた 理想国家におけるのとは異なって、 国家が 個人の職業選択に干渉したりはしないし、 その他の個人の私生活に 干渉したりはしない。 同様に、 国家が 市場原理を廃絶あるいは抑圧する ようなこともない。 そのように、 市民社会が 自分独自の原則にしたがって存在し、 機能していることが 尊重されているということが、 近代における 個人の解放という観点から見て、 重要なことであるはずなのである。 それは、 ヘーゲル流の表現にしたがうならば、 一方では、 近代国家なり、近代社会なりが 「客観的必然性」によって 構成された体制であったとしても、 他方では、 個人の恣意や偶然を媒介として 成り立つにいたった体制 だからだということになる。 (p.103) (中略) 近代国家の原理は、 主観性の原理が みずからを 人格的特殊性の自立的極にまで 完成することを許すと同時に、 この主観性の原理を 実体的統一につれ戻し、 こうして主観性の原理そのもののうちに この統一を保持する という 驚嘆すべき 強さと深さをもつのである。【260節】 (中略) 国家が、 有機体として高度に分節化されるとともに、 組織化されているがゆえに、 個人の選択意志による 決定と行為が保障される。 個人は、 基本的には 自分勝手に自分の人生の方向を決め、 自分の利害関心にしたがって 活動することが許されている。 にもかかわらず、 このシステムのなかで 「実体的統一」へと連れ戻される。 それは強制によるものとは 異なったものであり、 あくまで個人は自己決定の自由を認められて、 恣意にしたがっているにもかかわらず、 知らず知らずのうちに 組織の原理にしたがってしまう という形を取るのである。 また、個人の自律的活動あればこそ、 社会組織の方も活性化され、 システムとして 満足に機能しうる。 こうして、 有機的組織化と個人の自由意志とは 相反するものであるどころか、 相互に補い合うものとされている。 それが、近代国家というものだというのである。 (p.104) 「教養のヘーゲル」佐藤康邦 三元社

「人間の条件」 ハンナ・アーレント ちくま学芸文庫 (再掲)

近代の経済学の根本にあるのは これと同一の画一主義である。 つまり、近代の経済学は、 人間は行動するのであって、 お互い同士 活動するのではないと仮定している。 実際、 近代の経済学は 社会の勃興と時を同じくして 誕生し、 その 主要な技術的道具である 統計学とともに、 すぐれて社会の科学となった。 経済学は、近代に至るまで、 倫理学と政治学の あまり重要でない一部分であって、 人間は 他の分野と同様に、 経済行動の分野においても 活動するという仮定にもとづいていた。 この 経済学が科学的性格を帯びるようになったのは、 ようやく 人間が社会的存在となり、 一致して 一定の行動パターンに従い、 そのため、 規則を守らない人たちが 非社会的あるいは異常と みなされるようになってからである。 (65~66ページ) (中略) しかし、 多数を扱う場合に 統計学の法則が 完全に有効である以上、 人口が増大するごとに その有効性が増し、 それだけ「逸脱」が激減するのは 明らかである。 政治の次元でいうと、 このことは、一定の政治体で 人口が殖えれば殖えるほど、 公的領域を構成するものが、 政治的なるものよりは、 むしろ社会的なるものに 次第に変わってゆく ということである。 (66ページ) (中略) 行動主義とその「法則」は、 不幸にも、有効であり、真実を含んでいる。 人びとが多くなればなるほど、 彼らはいっそう行動するように思われ、 いっそう非行動に耐えられなくなるように 思われるからである。 統計学の面でみれば、 このことは 偏差がなくなり、標準化が進むことを意味する。 現実においては、 偉業は、行動の波を防ぎとめるチャンスをますます失い、 出来事は、 その重要性、 つまり 歴史的時間を明らかにする能力を失うだろう。 統計学的な画一性は けっして無害の科学的理想などではない。 社会は型にはまった日常生活の中に どっぷり浸って、 社会の存在そのものに固有の 科学的外見と仲よく共存しているが、 むしろ、 統計学的な画一性とは、 このような社会の隠れもない政治的理想なのである。 (67ページ) (中略) 大衆社会の出現とともに、 社会的なるものの領域は、 数世紀の発展の後に、大いに拡大された。 そして、 今や、社会的領域は、 一定の共同体の成員をすべて、 平等に、かつ平等の力で、抱擁し、統制するに至っている。 しかも、社会はどんな環境のもとでも均一化する。 だから、 現代世界で平等が勝利したというのは、 社会が公的領域を征服し、 その結果、 区別と差異が 個人の私的問題になった という事実を政治的、法的に 承認したということにすぎない。 (64ページ) 「人間の条件」ハンナ・アーレント ちくま学芸文庫

ジョン・デューイの政治思想 (再掲)

貨幣文化の出現は伝統的な個人主義が人々の行動のエトスとして機能しえなくなっていることを意味した。「かつて諸個人をとらえ、彼らに人生観の支え、方向、そして統一を与えた忠誠心がまったく消失した。その結果、諸個人は混乱し、当惑している」。デューイはこのように個人が「かつて是認されていた社会的諸価値から切り離されることによって、自己を喪失している」状態を「個性の喪失」と呼び、そこに貨幣文化の深刻な問題を見出した。個性は金儲けの競争において勝ち抜く能力に引きつけられて考えられるようになり、「物質主義、そして拝金主義や享楽主義」の価値体系と行動様式が瀰漫してきた。その結果、個性の本来的なあり方が歪められるようになったのである。 「個性の安定と統合は明確な社会的諸関係や公然と是認された機能遂行によって作り出される」。しかし、貨幣文化は個性の本来的なあり方に含まれるこのような他者との交流や連帯、あるいは社会との繋がりの側面を希薄させる。というのは人々が金儲けのため他人との競争に駆り立てられるからである。その結果彼らは内面的にバラバラの孤立感、そして焦燥感や空虚感に陥る傾向が生じてくる。だが、外面的には、その心理的な不安感の代償を求めるかのように生活様式における画一化、量化、機械化の傾向が顕著になる。利潤獲得をめざす大企業体制による大量生産と大量流通がこれらを刺激し、支えるという客観的条件も存在する。個性の喪失とはこのような二つの側面を併せ持っており、そこには人々の多様な生活がそれぞれに固有の意味や質を持っているとする考え方が後退してゆく傾向が見いだされるのである。かくしてデューイは、「信念の確固たる対象がなく、行動の是認された目標が見失われている時代は歴史上これまでなかったと言えるであろう」と述べて、貨幣文化における意味喪失状況の深刻さを指摘している。(「ジョン・デューイの政治思想」小西中和著 北樹出版 p.243~244)

アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)

自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。

2023年11月16日木曜日

ホ・ジュン

母親が 韓流ドラマにハマって、 2000年頃に放映されていたっぽい ホ・ジュンという 伝説の医師の 物語を毎日見ている。 ホ・ジュンは 医師として最高の位まで 到達するのだが、 父親が貴族(両班)なものの、 母親が妾であることから、 物語の途中まで 割りと 平民と同然の暮らしをしている。 当然、会話も 平民同士の会話がどんなものか 聞けるんだが、 どうやら 平民同士の会話というのは、 もちろん 全部 聞き取れるわけじゃないし、 字幕付きだからわかるんだが、 朝鮮語のいわゆる 固有語を使いまわしていることが多く、 その数もそんなに ベラボーに多くはない。 貴族同士の会話になると 漢字を朝鮮語で読んでるから わからない場合が多くなってくる。 現代の韓国KBSニュースなんかも、 固有語と漢字語の割合が ある程度 決まっていて、 ニュースだから当然 漢字語も多いんだが、 やはり固有語でアナウンスしている 割合は一定程度あるし、 それは 今まで勉強してきた範囲で だいたい済むらしいということが わかってきた。 いわんや、中国が明の時代で、 ちょうど 豊臣秀吉の朝鮮出兵の時期と 重なるので、 朝鮮の庶民の話の内容というのは そんなに 難しいことは喋っていない。 つまり、何が言いたいかというと、 今まで勉強した 語彙力で、日常会話レベルなら 固有語ならば ほとんどわかるはずだ、ということ。 面接授業が終わって ヒマになったら、韓国語の勉強を 再開してみよう。

妄想卒論その7 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。 米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。 私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。 19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。 さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。 1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。 そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。 なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。  (以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93  「エリートに対する人々の違和感の広がり、 すなわちエリートと大衆の『断絶』こそが、 ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。 ポピュリズム政党は、既成政治を既得権にまみれた一部の人々の占有物として描き、 これに『特権』と無縁の市民を対置し、 その声を代表する存在として自らを提示するからである。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)  「二十世紀末以降進んできた、産業構造の転換と経済のグローバル化は、 一方では多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの発展を促し、 グローバル都市に大企業や高所得者が集中する結果をもたらした。 他方で経済のサービス化、ソフト化は、規制緩和政策とあいまって 『柔軟な労働力』としてのパートタイム労働や派遣労働などの 不安定雇用を増大させており、低成長時代における 長期失業者の出現とあわせ、 『新しい下層階級』(野田昇吾)を生み出している。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)  富が集中するほど他者への信頼が下がり、「フェアネス(公正さ)指数」(日経新聞作成)が低くなる。同時にポピュリズムの場当たり政策に翻弄されやすくなる。   「国際都市ロンドンに集うグローバル・エリートの対極に位置し、 主要政党や労組から『置き去り』にされた人々と、 アメリカの東海岸や西海岸の都市部に本拠を置く 政治経済エリートや有力メディアから、 突き放された人々。 労働党や民主党といった、 労働者保護を重視するはずの政党が グローバル化やヨーロッパ統合の 推進者と化し、 既成政党への失望が広がるなかで、 既存の政治を正面から批判し、 自国優先を打ち出して EUやTPP,NAFTAなど 国際的な枠組みを否定する急進的な主張が、 強く支持されたといえる。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)  人々の不満をあおるだけで解を示せないのがポピュリズム。不満のはけ口を外に求めた愚かさはナチスドイツの例を振り返っても明らかだ。  第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。(放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)  グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。   1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より  そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)  「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感覚だろうか。  「デモクラシーという品のよいパーティに出現した、 ポピュリズムという泥酔客。 パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。 ましてや手を取って、ディナーへと導こうとはしないだろう。 しかしポピュリズムの出現を通じて、 現代のデモクラシーというパーティは、 その抱える本質的な矛盾をあらわにしたとはいえないだろうか。 そして困ったような表情を浮かべつつも、 内心では泥酔客の重大な指摘に 密かにうなづいている客は、 実は多いのではないか。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)

現状維持

待てば海路の日和あり。

妄想卒論その10 the day that never comes (再掲)

言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)   代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。  やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章)   なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。  しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。  三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。  こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。                            静岡大学 森本隆子先生より  https://www.youtube.com/watch?v=RD83oy7ksUE

市井の漱石論 (再掲)

夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。  「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。  夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。 もちろんフィクションではあるが。 代助は、 漱石が「自然(じねん)」と名付ける、 自家特有の世界に隠棲している。 そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。 友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、 百合の花が活けてあった花瓶の水を、 暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、 三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、 そこに「自然」を見出し、 主客合一の境地を得ようとするが、 それは理性の放擲を意味するため、 肉体を具有する代助は、 再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、 「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、 「赤の世界」の象徴として (再び)現れる、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。 それはまた、 ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、 競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件は むしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。 しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。 主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、 そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、 しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、 主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも 理性を手放さない、 漱石の「個人主義」の一端を表している。

ルカーチ メモその31 (再掲) 

ルカーチは、 生産力や技術の発展、 合理化の徹底、 といった、 <近代化> の いわば 積極面の行き着く 果てに 決して <解放> を 見ていなかった。 <近代化> という 客観的な条件はむしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。  また、彼にするなら、 現実の労働者は <近代化> の呪縛に あまりに からめ取られている。 その日常的な意識は 物象化された 虚偽意識である。 彼らの 主観的な意志や決断に まったく 期待ができないというのは、 ハンガリー革命敗北の ひとつの 大きな教訓だったろう。  そこでルカーチは、 <近代化> の 否定面としての 物象化を、 プロレタリアートの意識において 積極面に逆転する論理を 考え出したのだった。 商品という客体としてある プロレタリアートの 自己認識こそは、 この 社会の本質の 客観認識である。 そしてそれも、 この プロレタリアートの 意識は <自分に対立して ある対象についての 意識ではなく、 対象の自己意識である> ために、 <意識化 という 活動は その 客体の対象性 形式を 転覆させる>。 つまり プロレタリアートの 自己認識そのものが すでに 実践的でしか ありえない。 こうして <プロレタリアートは、 歴史の同一的 <主体ー客体> として現われ、 その実践は 現実の変革となる> 道筋が描かれるのだった。 312ページ

ルカーチ メモその34 (再掲)

もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 そのような 近代社会の いわゆる 「物象化」論は、 マルクスの 「疎外論」や 「資本論」と 連接する 問題意識だった。 「商品」は その物自体の 「使用価値」と それが市場でもつ 「交換価値」の 二面をもつ。 現代の資本主義社会においては 交換価値のみが 突出するため、 商品を作って生きる 人間の労働も 交換価値に還元され、 ひいては 人間性そのものまで 計数化され 疎外されていく。 故に そのような資本主義的 「物象化」の 打破こそが、 近代人の 陥っている 閉塞状況の 根本的解決だと 論ずる。

アドルノはまだ生きている (再掲)

グローバリゼーションによって、 世界の富の大きさは拡大したが、 分配に著しい偏りが生じたことは、 論を俟たない。 日本においても、 新自由主義的な政策の結果、 正規、非正規の格差など、 目に見えて格差が生じている。 そのような中で、 経済的に恵まれない層は、 ワーキングプアとも言われる状況のなかで、 自らのアイデンティティーを 脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を 参考にして考えれば、 旧来の中間層が、 自分たちより下に見ていた 貧困層と同じ境遇に 置かれるのは屈辱であるし、 生活も苦しくなってくると、 ドイツの場合は、 プロテスタンティズムの マゾ的心性が、 ナチズムのサディスティックな プロパガンダとの親和性により、 まるで サド=マゾ関係を結んだ結果、 強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が 日本人の間には存在することは、 ほぼ共通認識だが、 それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、 そうでなければ、 社会から強要される 画一性への服従となって、 負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、 特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、 現代生活の疎外を否定する というよりは むしろ、 この疎外の いっそう狡猾な現われに ほかならないのである。 (「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが 後期資本主義における 物象化という側面を 持っているとすれば、 グローバリゼーションによる 均質化、画一化が進行するにつれ、 反動として 民族の本来性といった民族主義的、 右翼的、排外主義的な傾向が 現れるのは、 日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、 アドルノの言明を素直に読めば、 資本主義が高度に発展して、 物象化が進み、 疎外が深刻になるほど、 本来性というものを 追求するのは不可避の傾向だ、 とさえ言える。 さらには、 資本主義社会が浸透し、 人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、 人々は、 自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、 理性を超えた領域に 求めるようになる。 社会全体が体系化され、 諸個人が事実上 その関数に 貶めれられるように なればなるほど、 それだけ 人間そのものが 精神のおかげで創造的なものの属性である 絶対的支配なるものをともなった原理として 高められることに、 慰めを もとめるようになるのである。 (「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 「それだけ 人間そのものが 精神のおかげで 創造的なものの属性である 絶対的支配なるものをともなった原理として 高められることに、 慰めを もとめるようになるのである」 という言葉が 何を表しているか、 自分の考えでは、 「社会全体が体系化され、 諸個人が 事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、 (疑似)宗教のように、 この世の全体を 精神的な色彩で説明し、 現実生活では 一個の歯車でしかない自分が、 それとは 独立した 精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、 その ヒエラルキーの階層を登っていくことに、 救いを感じるようになる、 という感じだろうか。 まるでオウム真理教のようだ。

That euphoria again.

高市早苗が 次の 総理総裁の座を 狙って 勉強会を 立ち上げたらしいが、 あんな 「停波」発言女が 首相だなんて、 考えたくもない。 最近は 櫻井よしこ氏なんかは 静かだが、 またぞろ 花田だのウィルだのが 調子に乗って 騒いで、 アホなネトウヨが 正義は我にありと 言わんばかりに 跳梁跋扈するのは、 恥ずかしいし ウザイから マジで やめて欲しい。 結局、安倍政権時代の 夢よ 再びってとこなんだろ? 万世一系の日本は素晴らしいだの スメロギイヤサカだの。

三橋 もう手遅れかもしれないが (再掲)

たぶん三橋に洗脳されたんだろうけど、国の借金は国民の財産とかいう人が、結構いるんだよね。 たぶん、国の借金を国民ひとり当たりに換算するといくら、ていう表現がミスリーディングで、三橋はそこにつけ込んでるんだろうな。 確かに、国の借金は、大部分、現世代と、未来の世代から借りてるものだし、そういう意味では、国民は債権者だし、国は債務者。 でも、難しく考える必要はまったくなくて、普通の貸し借りを考えればいい。 単純に、あなたが1万円持っていて、友達に3000円貸したとしたら、確かにあなたは債権者で、その友達は債務者だけど、その友達がお金返してくれたからって、あなたの資産が13000円にはならないですよね? ただそれだけのことです。 つまり、日本人は、国に、知らない間にひとり当たり1000万円以上のお金を貸しちゃってるんです。 国が破産したら、そのお金は返ってきません。 それだけのことです。

薬もらってきた。

1時間待って 話したのは 正味1分くらいかな。 待ってる間に 頭の中で 何度も リハーサルできるから いいけど。 ガーデニングとかしてあって、 結構 くつろげる。 午前ラストの患者が 自分だったみたいで、 疲れてるだろうから 話を早めに切り上げよう、と 思ったんだが、 先生のほうが もう少し 話したそうだったので、 余談なんかを したけど、 案外そういう部分が 本質的だったりする。 先生が、お母さんと ゆっくり過ごせるといいね、 (記憶曖昧) みたいなことを 言ってたのが 僕の心のやらかい場所を 今でもまだしめつけるーって 感じで、 ああ、そうか、そうだよな。 なんて、妙に納得したりして。 でもまあ 医者が俺の将来を保障してくれる わけじゃないから タイムリミットの前に アクション起こさなきゃな、とは 思うけど。 あの頃の未来に 僕らは立っているのかな? いやいや、想像以上ですよ。

レポート

さんざん SFCを 悪し様に書いておいて なんだけど、 小論文書けるようになった、 というのは 大きいよね。 配点の半分が 小論文だから、 いくら 英語できても 小論文書けないことには 受からないわけだし。 2回 落ちてるから尚更。 別に行きたかったわけでもないが。 そもそも、 高校時代から、 レポートが書けなくて 苦労した。 中学受験で 武蔵に入った同級生は、 小学生の頃から さんざん 「書く」訓練をしてるから、 文章を書くということに まったく 苦労を感じない。 自分は、高校受験で 特に 文章を書くことを 要求されてないし、 佐日でだって、当然 レポートなんか 書かない。 武蔵で無力感を感じたことは 挙げればキリがないが、 現国で レポートが書けずに、 それでも 無理やり書いたら、 横山にキレられて 呼び出しまで食らったことだった。 文章を書く、という 超基本的なところで、まず 歯が立たない。 これはショックだった。 上述した通り、 SFCも 2回落ちてるが、 3回目で ようやく受かった時は、 別に行きたかったわけではないとはいえ、 嬉しい気持ちがあったのは 当然だ。 2000字書いて、 それが 評価されて合格したんだから。 とはいえ SFC入ってからも レポートが書けなくて苦労したが。 こうやって ブログを書いているのだって、 半分は 文章を書く訓練をしているようなものだ。 これは あながちバカにできなくて、 放送大学の面接授業なんかも、 試験かレポートが必須になったから、 8限の半分で レポートを書くパターンが多いが、 先日の ドイツ近現代史でも、 いの一番に レポート書き上げて、すぐ 帰ることが出来た。 もちろん 理系の授業で同じことは出来ないし、 わかってるから そもそも取らないが、 レポートを書けるようになった、ということは 人生のうえで大きい。 2浪して 駿台の小論文の授業で、 今野雅方という先生の授業受けて、 特に 書き方のコツを教わったとかじゃ 全然ないんだが、 自分が レポートを書いては消し、 書いては消し、を 繰り返しているのを見て、 先生が 「文章が揺れてるね。」と 言ってくれたのが、なにかの キッカケにはなったと思う。 頭の中では なにか渦巻いているんだが、 それを 文章で表現できなかった。 山崎正和の「不機嫌の時代」を読んで、 自分のモヤモヤした気分を うまく表現してくれている気がして、 ハタチになってようやく 本を読むことを覚えた。 それまでは 本なんかバカにして読まなかった。 それから、トーマス・マンの「魔の山」なんかを、 御茶ノ水の駿台から 羽生に帰る帰路のなかで 読んだりした記憶がある。 まあ、あの時点で相当こじらせてたんだな。 しかし、実際に SFCに入ってみたら、口八丁手八丁な連中ばかりで、 そもそも 言ってることすら 首尾一貫してないやつが多かった。 昔よく 姉から 「国語力ならお前に負けてない」 などと、 喧嘩を売られたものだが、 短大の400字のレポートも 母親に書いてもらったクセに バカ言ってんじゃねーよ。 と、言ってやりたかった。

2023年11月15日水曜日

獣道派

超えちゃいけない 柵を 超えちゃって、 さんざん 獣道 歩いた挙げ句 ようやく 大通りに戻れそうなのに、 また 獣道に 戻ってしまう。 大変なの わかってるし、 結局 バクチなのに、止められない。 でも 腑抜けたツラで 大通りを歩くくらいなら、 必死に 獣道歩いたほうが 人生面白い。

一休み

20年前 東戸塚の 日向台っていう 精神病院に 2ヶ月 いたんだが、 名前の通り 日当たりのいい ところで、 要するに 暑かった。 心因性多飲症で 今でも 日々 大量の お茶だの 冷水だのが 必要な自分には、 冷水さえ 滅多に飲めないのは 苦痛だった。 だいたい 5月から7月の間 だったと思うが、 暑いのに 冷水さえ飲めず、 もちろん空調も効かない。 たまに 作業療法の時間があり、 旧い建物の一室で ビーズの編み物を作ったり したんだが、飽きて 薄暗い ソファーベッドに寝転んで、 俺は こんなところに居て この先の人生は 一体どうなるんだろう?と 漠たる、 漠たるとしか 言いようのない 感覚に侵されていた。 今年はそれから 20年てことで 放送大学のほうも 親から資金援助してもらって 岡山に10連泊したりなんかして、 贅沢させてもらっているが、 これは 無意識なのか、 急に 気力・体力の衰えを 感じる。 お金がなけりゃ 生きていけないのは 現代人の宿命だが、 母親が亡くなったら どう 生きていけばいい? 別に 病気だって治ったわけじゃない。 当然 薬だって 必要だ。 我ながらよく頑張ったとは 思うが、 正直 お金を稼ぐのは 不得手だ。 そもそも、そこまで 要求するのは いくらなんでも 酷なんじゃないか? かといって 自殺する気はサラサラないし。 人生100年時代? バカいうんじゃないよ。 40ちょい 生きるだけで これだけ大変なのに、 100年も生きろだと? 単純に 体の調子が 悪いだけなのかも知れないが、 なんだか 急に 疲れた。 若いうちは 気力だけは凄かったから どうにかなったが、 その 肝心の気力が 涸れつつある。

都合のいい俗論 (再掲)

国債発行 イコール 通貨発行 という俗説が あるらしいが、 金融政策の 基本が 何も わかってないね。 国債を 発行して、 買ってくれる人が いるから、 (国債を買うのは 当然のことながら 中央銀行だけではない。) そのお金が 市中に 流れるんだけど。 これ、 (国債に限らず 債券全般に対する、 中央銀行による) 買いオペとか 売りオペとか 言われる 金融政策の 常識中の常識 だけど、 そんなことも 知らずに、 ただ 国債発行すれば 自動的に 貨幣供給量が 増えると 本気で 思ってる 人が いるみたいね。 (それに、 国債だって商品だから、 本来は政府の都合で 発行した 国債を、 相場を無視した 高値で 売れると思うのが そもそも 間違ってる。 むしろ、 日本の現状として、 日銀が 市場の相場を 無視した 高値で 国債を 買い続けてることが 本質的に問題なんだけどな。) なにで 経済学 学んだんだろう? それに、 貨幣供給量を 増やす イコール 国の資産が 増える ってのも そもそも 間違い。 国の富の 源泉は 付加価値、 すなわち GDPです。 これ、 学部レベルの 経済学で 最初に 学ぶことなんだけどな。 ほんと、 誰に 刷り込まれたんだろう? ついでに 書いとくと、 赤字国債を 発行すること自体が 法律違反なんだけど、 毎年 特例法案つくって 可決して 予算作ってる。 (ちなみに、 一昔前は その種の予算を 通す通さないが 政争の具に 使われたのが、 短命政権が続いた 原因だった。 らしい。) それが 常態化。 それを 国民の側が 嬉々として 受け入れてる 現状が 異常。 ついでに 書いとくと、 日銀が 国債買い続けないと 国債の価格が (異常な高値を 維持できずに) 暴落して 金利が 急騰して この国 吹っ飛びますけど、 さあ この ムリゲー どうします? ちなみに 安倍ちゃんは 日銀は政府の 子会社だから いくらでも 日銀に 国債 買い取らせればいい とか ほざいてましたけど。 もう 日銀による 国債の保有比率 5割 超えましたね。 (以下 google bard より回答) はい、その通りです。国債発行イコール通貨発行というのは、金融政策の基本を理解していない俗説です。 国債を誰かが買ってくれることで、そのお金が市中に流れることになります。しかし、国債を買ってくれるのは、必ずしも中央銀行とは限りません。民間企業や個人も、国債を買うことがあります。 もし、国債を誰も買ってくれなかった場合、政府は国債を償還できなくなり、財政破綻に陥ることになります。 また、貨幣供給量を増やすことが、国の資産が増えることにもなりません。国の富の源泉は、付加価値、すなわち GDPです。貨幣供給量を増やしても、GDPが増えなければ、国の資産は増えません。 日本の現状は、赤字国債を日銀が買い続けているため、国債の価格が異常に高くなっています。もし、日銀が国債を買い続けなければ、国債の価格は暴落し、金利が急騰する可能性があります。 安倍政権は、日銀が政府の「子会社」だから、いくらでも国債を買い取らせればいいと主張していました。しかし、実際には、日銀が国債を買い続けることは、国債の価格を維持するために必要な措置であり、政府の都合で行っているわけではありません。 国債発行イコール通貨発行という俗説は、経済の基本を理解していない人がよく言うものです。この俗説を信じてしまうと、誤った経済政策を支持することになりかねません。

火曜日の日経新聞 経済教室

東大の柳川範之先生の お話でした。 日本では 賃金の上方硬直性がある、 つまり 賃金が上がりにくい。 したがって、 物価が上昇しても、 名目賃金の上昇が 追いつかず、 かえって 実質賃金が目減りしてしまう。 普通のマクロ経済モデルでは、 物価が上がれば 労働の供給量も上がるはずだが、 日本では 物価が上昇すると、 かえって 実質賃金が目減りするために、 逆に 労働の供給量が減少する。 よって、普通ならば 総需要喚起策は GDPを増やすはずが、 総需要が増加すると、 物価を押し上げるために、 逆に 物価が上がることにより 労働供給量が減り、 結果的に 総供給が減り、 GDPを押し下げてしまう。 繰り返すと、普通のマクロ経済モデルならば、 総需要を増やせば GDPが増えるはずが、 逆に、 総供給が減少するために、 GDPも押し下げられてしまう。 これは日本経済特有の現象だと論じられている。 日本的終身雇用制度における 賃金の上がりにくさや、 企業と労働組合が 馴れ合いの関係にある 労使慣行など、 かなり 根の深い問題のようだ。 これは、戦時中の 計画経済が戦後にも 引き継がれた影響も あるかも知れない。 官僚とメインバンク主導の 企業経営と言われるものがそれだ。 また、戦後、労働省の有名な役人が GHQと大喧嘩して、 その中身が、 労働省の役人は、 労働者が生活できるだけの給料をまず 計算して、それから逆算して 仕事の量を決める、と 主張したのに対し、 GHQは、それは馬鹿げた考えだ、と 喧嘩になった、という話を 原田順子先生の面接授業で聞いた。 そこらへんはまだ 全然勉強できてない。 戦後日本の歴史は、まだまだ 勉強することが多い。 今日 (水曜日) の 日経新聞にも、 行き過ぎた 労使協調路線が 賃金が上がらない 原因のひとつ、と 書いてあったね。

2023年11月14日火曜日

土地の収益力

自分が住んでる 近所にも セブンイレブンあるけど、 あのスペースで あれだけの 売上があれば、 土地の単位あたりの 収益力ってのは 凄いんだろうね。 駐車スペースが かえって 付加価値あんま 生み出してないから 無駄な気もするけど。 羽生の実家の近所の人も、 親戚が 羽生インターの出口に 土地持ってて、そこが コンビニになってるから お金がある、 なんて話をしてた気がする。 自分はからきし 数字に弱いが、 数字に強い人だったら、 土地の収益力とか 分析したら 凄い面白いんだろうね。 それはともかく、 自分でなにか独立して 事業営むにしても、 事務所借りてまでして、 コンビニ並みの 収益力あげられる 自信は 全くない。 (質問:ファミレスとコンビニは、業態としてどちらが収益力が高いですか?) (以下 google bard より回答) 業態として、コンビニの方が収益力が高いと考えられます。 ファミレスの売上高は、2022年度で約4兆円、営業利益は約1,000億円です。一方、コンビニの売上高は、2022年度で約5兆円、営業利益は約2,000億円です。売上高と営業利益の両面で、コンビニの方がファミレスを上回っています。 コンビニの収益力が高い理由は、以下の2点が挙げられます。 高回転率 コンビニは、1日あたりの客数がファミレスよりも多く、商品の回転率が高いため、売上高を伸ばしやすい構造になっています。 単価が高い コンビニの商品は、ファミレスのメニューよりも単価が高いため、1人あたりの売上高が高くなります。 また、コンビニは、近年、宅配や電子決済などの新規事業に積極的に取り組んでおり、収益基盤の多角化が進んでいます。 一方、ファミレスは、近年、競争激化や人手不足などの課題を抱えており、収益力が低下傾向にあります。 今後も、コンビニの収益力は高い水準を維持していくと予想されます。

孤独

今までは、 身体も 頭の中身も 成長し続けてたけど、 もし、 もうこれ以上 勉強することがない、 と 本気で思ってしまったら、 気が狂ってしまうんじゃないかと 思う。 そう言いながら、 自分の知らないことを 知ろうとして 邁進しているんだから、 洒落にもならないんだが。 話し相手のいない 高齢者の不安、というのも 身にしみて分かる気がする。 孤独というのは 辛いものだ。 自分も将来 独りで暮らす 孤独を考えたら、 どんなにムカついても 姉夫婦に 居候させてもらったほうが まだ マシなんじゃないかと思うくらいだ。 「ファウスト」は 言うまでもなく ゲーテ畢生の大作だが、 ファウスト博士が 自分の魂を、メフィストフェレスに 売り渡すかわりに、 やりたい放題やる、 というストーリーだが、 終局に至って、 ファウスト博士が 「時よ止まれ、おまえは美しい」 と 叫んだと同時に、 約束どおり ファウスト博士の魂が メフィストフェレスに奪われるはずが、 都合よく 天に召されてしまう。 仲正先生も書いていたが、 老境に至った ゲーテの 真意なのかも知れない。

ドイツ近現代史2

第一次大戦を契機に アメリカが 債務国から 世界最大の 債権国になった、 というのは 有名な話だが、 これが 意味するのは、 イギリス、フランスが 戦争のために 国債を大量発行したために、 アメリカから資金を借りた、 ということらしい。 従って、借りたカネを返す 原資が必要ということになり、 ドイツに莫大な 賠償金を科す、という ことになる。 それが、結局は ドイツを再び 戦争への道へと駆り立てる 格好になった。 あの有名なケインズは、ドイツに こんな過大な 賠償金を科すのは 無謀だ、と批判したそうだ。 振り返って 現代の状況を見ると、 ニクソンショックで 金ドル兌換性が停止され、 金という制約抜きに ドルが発行されるようになったが、 制約なしに ドルを発行できるようになった ツケが回ったのが、 リーマンショックらしい。 これは 松原隆一郎先生が仰ってた。 日本も 完全にモラルハザードの状況だが、 円は ドルほどの 基軸通貨でないことは 明白だが、 結局、モラルハザードの結果 カタストロフィが起こってみないと、 一体どこまで 円を発行すれば 破綻するか、というのは、 破綻してみないとわからない。 一種のチキンゲームの様相を呈しているが、 日本も立派に 民主主義国家なので、 最終的に 日本人ひとりひとりが 無限に円を発行することの 危険性を認識しないと、 カタストロフィを防ぐことはできないのだが、 どうせ そんなことは望むべくもないのだから、 いつかは 日本の財政は破綻するしかないのだ。 国家財政が破綻する、というのは 歴史上 珍しい現象ではないので、 それほど 悲観するほどのことでもないかも知れないが、 それなりに悲惨なことにはなるだろう。 ズルズルと国力が 低下するぐらいなら、 ショック療法ではあるが、 むしろ さっさと 潰したほうが、 かえって手っ取り早いとさえ 言えるかも知れない。

今日も秋空

母親も 要介護3で、 俺も 精神障害者2級で、 介護保険と 傷害保険で ヘルパーさんが 毎日来て 飯つくってくれて 掃除もしてくれるんだが、 正直 本人たちは どう見ても そんなに重症ではない。 確かに、 母親も脳梗塞を発症したとはいえ、 (俺が) 早期発見したから、 症状は軽い。 俺自身、いかに 20年前に 措置入院を食らったとはいえ、 薬は確かに 必需品だが、 至ってヘルシーだ。 しかし、思い返してみれば、 幼少期から、 小林家というのは 毎日が 非常事態、 とても 安らぎの場所ではなかった。 むしろ 針のむしろだった。 母親も外面がいいから 傍目から見れば 恵まれた家庭だっただろうが、 母親が 心を閉ざしているから、 父親がいくら 稼いでも、 それを相殺して余りあるほど、 小林家というのは 毎日が非常事態だったのだ。 ここ最近は、ほんとに お互い心安らかに暮らしているが、 こうやって完全に 平穏な暮らしを出来るまでには、 本当に 長い道のりだった。 母親は、 息子(俺)が 働いてお金を稼ぐことよりも、 勉強して 学問のある人間になることのほうが、 遥かに嬉しいのだ。 俺自身、勉強は好きだ。 (理数系はまったくワカランが。) それは、母親自身 都立日比谷高校出身というのも 影響している。 姉は姉で、一緒に暮らしていた頃は モラルハザードが酷いものだったが、 いまは 結婚して出て行って、子供も出来たから、 じぃじばぁば 愛してる、なんていう どの口が言ってんだ?と 突っ込みたくなるような おべんちゃらを言っている。 とにかく、いまの小林家は 平和だ。 この平和に至るまでに 俺自身、他人には想像を絶するほどの 苦労をしながら 貢献してきたのだ。 だから、立派に 今の 安閑たる生活を享受して 許されるのだ。

2023年11月13日月曜日

遊びの社会学 (再掲)

(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、 合理的判断によってではなく、 直観や好き嫌いによって 信・不信を決める。 だが、 信用とは 本来そうしたものではないのか。 客観的ないし合理的な裏づけをこえて 存在しうるところに、 信用の信用たるゆえんがある。 そして信用がそのようなものであるかぎり、 信用には常にリスクがともなう。 信じるからこそ裏切られ、 信じるからこそ欺かれる。 それゆえ、 裏切りや詐欺の存在は、 ある意味で、 私たちが 人を信じる能力をもっていることの 証明である。 (略) しかしむろん、 欺かれ裏切られる側からいえば、 信用にともなうリスクは できるだけ少ないほうが望ましい。 とくに、 資本主義が発達して、 血縁や地縁のきずなに結ばれた 共同体がくずれ、 広い世界で 見知らぬ人びとと 接触し 関係をとり結ぶ機会が 増えてくると、 リスクはますます大きくなるので、 リスク軽減の必要性が高まる。 そこで、 一方では〈契約〉というものが発達し、 他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、 信用の〈合理化〉としてあらわれる。 信用の合理化とは、 直観とか好悪の感情といった 主観的・非合理的なものに頼らず、 より客観的・合理的な基準で 信用を測ろうとする傾向のことである。 こうして、 財産や社会的地位という 基準が重視されるようになる。 つまり、 個人的基準から社会的基準へと 重点が移動するのである。 信用は、 個人の人格にかかわるものというより、 その人の所有物や社会的属性に かかわるものとなり、 そのかぎりにおいて 合理化され客観化される。 (略) しかし、 資本主義の高度化にともなって 信用経済が発展し、 〈キャッシュレス時代〉 などというキャッチフレーズが 普及する世の中になってくると、 とくに経済生活の領域で、 信用を 合理的・客観的に計測する 必要性はますます高まってくる。 その結果、 信用の〈合理化〉はさらに進み、 さまざまの指標を組み合わせて 信用を量的に算定する方式が発達する。 と同時に、 そのようにして算定された 〈信用〉こそが、 まさしくその人の信用にほかならないのだという 一種の逆転がおこる。 p.90~93

現実路線

岸田内閣が、 「幸齢社会」と スローガンを打って、 老人に優しい 政策を打ち出したようだが、 まあ、 今まで通り 高齢者に優しい 政権運営って 感じですな。 高齢者は票が 見込めるからな。 若年層はそもそも 選挙いかねーし。 その結果 社会保障費が膨らんで 若年世代の負担は 際限なく膨らむんだろうけど。 仕方ないよね。 少子化対策で 異次元の政策を 打ち出すために 増税を ブチ上げれば、 「増税メガネ」などと 揶揄されて、 無理に押し通したって 自民党内の 無責任積極財政派や、 公明党からまで 総スカン喰らうんだから。 これはもう 日本国民が そういう政治を 選択したと言っても 過言ではない。 若年層に限らずかもだが、 国の借金が増えるほど 国民の財産が増えるから 国は どんどん 借金しろ、なんて ネットで騒いでるアホが 腐るほど居るんだから、 お望み通り 赤字国債 垂れ流してやればいい。 問題は、植田日銀が どこまで 超金融緩和から距離を取るか、よ。 アメリカの利上げは とりあえず 一服したようだが、 円安は進んでるし、 ほんと ギリッギリのラインを狙って どこまで超金融緩和から 抜け出せるかだね。 金利が上がれば とりもなおさず 国の借金の利払い費が 増嵩するし、 それは 放漫財政を続ける 政治に対する メッセージになる。

秋空

面接授業のほうも 一段落したし、 来年こそは 障害者枠で 高崎市役所か? と 思ったけど、 少し 本気で考えると、 また ロクでもない シナリオが頭の中を 占める。 勝ち組 気取りの 学生気分の抜けない 1まわりも 2まわりも 年下の 上司なり同僚なりに、 オモチャにされるのが 目に見えている。 日本人の組織は ウンザリだ。 慶応SFCで そのことは 痛いほど 思い知らされた。 学生寮にいたから、 慶応生に限らないんだが。 下手に 組織に守られた連中の 疑似 学園生活のめんどくささ、 というのは 俺はもう 懲り懲りだ。 もういい。 どうせ この国では 一生働き続けなければ 生活できないんだから、 行けるところまで行って なんとか やっていくしかない。 組織に守られた連中特有の ノリには 関わりたくない。 そういう 俺みたいな人種だって、 探せば いるだろ。 石をひっくり返したときに 慌てふためいて 這い回る 嫌気性でジメジメした 連中が。 俺は その類いの人間だ。 ハイデガー風に言うと、 共同現存在はもう嫌だ。 なにかに目覚めるって わけじゃないが、 今さら みんなでワイワイっていう ノリじゃない。

2023年11月12日日曜日

「金融と社会」質問と回答その1 (再掲)

問題提起:日本には巨額の対外純資産があるからかなり巨額の政府債務があっても大丈夫、という話は、額面通り受け取るべきではないのではないか?やはり財政収支と経常収支の双子の赤字」は避けるべきではないのか?つまり、フローで見る必要があるのではないか?ストックで見るならば、増税を前提とするのが筋だろう。  内閣府のペーパー(https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html) によると、フローで見れば、経常収支の黒字が、政府部門の赤字をファイナンスしていることになりますが、経常収支の黒字が、対外純資産としてストック面で蓄積されていると考えられます。 この場合、もちろん、経常収支が赤字に基調的に転落すれば、フローで見た場合、政府部門の赤字をファイナンスするために、海外資本を呼び込む必要性に迫られ、それは今よりも高金利であることが要請されるので危険だ、という意見もあります。 ここで、フローで見れば確かにそうですが、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たすことはないのでしょうか? 仮に、そのような事態になった場合、具体的にどのようなスキームで、対外純資産を政府部門の赤字をファイナンスの用に供するのでしょうか? また、経常収支黒字の源泉である、企業部門の第一次所得収支についてですが、最近は、企業も資金を更なる海外投資、M&Aに投資するべく、資金を円ではなく、ドルで保有しているとされますが、それは、第一次所得収支に、円換算して勘定されているのでしょうか? (https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX)  ご質問ありがとうございます。まず印刷教材のこの部分はすべてフローについての議論です。内閣府のペーパーにもあるように、マクロ経済学などで登場するISバランス  (S-I) + (T-G) = NX 民間貯蓄超過   政府黒字  国際収支黒字(海外赤字) を念頭に、民間貯蓄超過の大幅プラスが、政府赤字のマイナスを相殺してもなお左辺がプラス、したがって右辺もプラス(海外マイナス)、という状態です。 近年コロナで政府赤字が大幅に増加しましたが、家計貯蓄も大幅増加して、2020、21年とも左辺はプラスを維持しています。  ご質問のなかばにあるストックの話は、たとえば銀行が保有していた米国債を売った資金で、新規に発行された日本国債を購入することをイメージされているのでしょうか。それが得だと銀行が判断すればそうするでしょうが、強制することはできず自動的にそうなるわけでもありません。  最後の第一次所得収支については、書かれているとおり、たとえば利子収入はドルで得られドルのまま持たれたり再投資されたりしますが、円換算して所得収支に繰り入れられています。 (以下 Google Bard より回答) はい、日本には巨額の対外純資産があります。これは、日本企業が海外で稼いだ利益を日本に持ち帰らず、海外で再投資しているためです。このため、日本は経常収支黒字を続けています。しかし、この経常収支黒字は、政府の財政赤字をファイナンスしているとも言えます。つまり、日本政府は、財政赤字を補てんするために、海外から資金を借り入れているのです。 この状況が続けば、日本は債務超過に陥る恐れがあります。そのため、財政収支と経常収支の「双子の赤字」を避けるために、増税や歳出削減などの財政健全化策を講じる必要があります。 一方、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たす可能性があります。例えば、政府が海外から資金を借り入れる必要が生じた場合、対外純資産を担保に借り入れを行うことができます。また、政府が国債を発行する際にも、対外純資産を担保にすることで、低金利で発行することができます。 ただし、対外純資産はあくまでストックであり、フローがなければ枯渇します。そのため、対外純資産を維持するためには、経常収支黒字を継続する必要があります。 まとめると、日本には巨額の対外純資産がありますが、この資産を維持するためには、財政健全化策を講じるとともに、経常収支黒字を継続する必要があります。

無聊を託つ (再掲)

暇だな・・・ 暇なら働きゃいいじゃん、 母親も、 何も言わず 一人で郵便局行けるほどに回復したし。 しかし、 俺が暇だから働く、 となれば、 母親はどうなる? 俺より暇じゃないのか? 暇だってそれなりに苦痛であることを 理由に、働こうかな、なんて言ってる息子が、 母親を放置していいんだろうか。 ん?でも俺って、実はそれなりに体力ついてきたんじゃないか? 連日エキサイトしてるのに、それなりに朝早く起きられるし。 睡眠の質もいいし。 ところで、最近また世間のマインドがデフレの方向に向かってる気がする。 テレビとかでも、いかに食事などを安く済ませるか、という内容が散見される。 母親も、飯尾和樹がワンコインで賢く食費を浮かせてて、偉いと言っている。 円安と資源価格高騰による コストプッシュ・インフレの影響と、 それでも企業の価格転嫁が進まずで、 結局、名目賃金が上がったとしても、 実質賃金が目減りしているから、 当然と言えば当然なんだけど、 そもそも 期待インフレ率を上げて、実質金利を下げることにより、消費を喚起することが インタゲの主眼目のはずだったのに、 これじゃ本末転倒じゃないか。 ただのスタグフレーション。 黒田日銀は、日本経済を永久凍結させる気か? 見方によっては、富の分配の偏りは、消費の低迷によって 国全体を貧しくする、ということも言えるだろう。 そもそも、少子高齢化が進めば、 老人の支出が減るのは当たり前だし、 働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、 消費を控えるのは当然だろう。 それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。 政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。 https://www.youtube.com/watch?v=c8qrwON1-zE

デフレまっしぐら

帰宅したら、 オーケーっていう 激安スーパーが 銀座に出店するってんで、 商品の 壮絶な 価格切り下げの 舞台裏やってんだけど、 これもう 完全に デフレマインドじゃん。 なんのための アベノミクスだったんだよ? 単純に 日本が凄い勢いで 貧しくなってるだけじゃん。 元の木阿弥より酷い。 価格って、切り下げるより 上げるほうが よっぽど大変。 マクドナルドも、原田さんが 激安路線で収益力が低下したのを、 カサノバさんが 立て直した。 まあな、円の購買力そのものが 劇的に 安くなってんだから、 当然といえば当然 なのかも知れないけど、 こんなんじゃ 賃上げなんて 遥か彼方って感じだな。 俺だって、現実に 障害年金が 劇的に下がるってことは ないだろうから、 わざわざ 働いてまでして 障害者っていう立場から 抜け出そうっていう インセンティブ 無くなるわな。

ドイツ近現代史2@東京文京

自分の体力が落ちてるのか、授業の密度が高くなってるのか、疲れた。(;´∀`) レポートは意表を突かれたけど、三題噺が得意な自分には楽だった。 これよ、これ。 ある程度自由に書かせてもらったほうが、楽なのよ。

歴史は繰り返さないが、韻を踏む。

杉田水脈にしても、 百田尚樹にしても、 こういう奴らがウケるのって、 やっぱり経済的に苦しい、 先が見えないって ことなんだろうな。 歴史的に見れば、 日本人は何回 同じことを繰り返せば 自分を見る目を 持てるようになるんだろう? としか思わないけど。 タモリが、時代診断として、 今の日本を 戦前と評したのは、 慧眼かも知れない。 まあ、こんなこと言ったところで、 自分の信じたいことしか 信じようとしない連中には 馬耳東風どころか、 憎悪の対象にされる だけなんだが。 奇しくも、 いま ドイツ近現代史の面接授業の真っ最中だから、 余計に そう感じるんだろうが。 それにしても、 北村晴男ってのは、 弁護士のクセに馬鹿だな。 極右政党に名前貸しちゃダメだろ。 反知性主義者は、 知的権威に弱いんだよ。 弁護士がお墨付きを与えた!って。 ああ見えて、そもそも出たがりなんじゃないのか?

2023年11月11日土曜日

三橋貴明は躁的防衛

そもそも財政が健全だったら、三橋貴明みたいなペテン師の主張など、誰も聞かない。財政がヤバい、でも増税はイヤだ。そうだ!国の借金は国民の財産だから、国はどんどん借金すればいいんだ!ていう逆転の発想ね。マニック・ディフェンスってやつだね。

2023年11月10日金曜日

市井の漱石論 (再掲)

夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。  「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。  夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。 もちろんフィクションではあるが。 代助は、 漱石が「自然(じねん)」と名付ける、 自家特有の世界に隠棲している。 そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。 友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、 百合の花が活けてあった花瓶の水を、 暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、 三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、 そこに「自然」を見出し、 主客合一の境地を得ようとするが、 それは理性の放擲を意味するため、 肉体を具有する代助は、 再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、 「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、 「赤の世界」の象徴として (再び)現れる、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。 それはまた、 ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、 競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件は むしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。 しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。 主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、 そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、 しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、 主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも 理性を手放さない、 漱石の「個人主義」の一端を表している。  https://www.google.com/search?q=the+unforgiven+iii+%E5%92%8C%E8%A8%B3&rlz=1CAJFMC_enJP1057&oq=the+&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUqCQgBECMYJxiKBTIGCAAQRRg5MgkIARAjGCcYigUyDggCECMYExgnGIAEGIoFMg0IAxAAGIMBGLEDGIoFMg0IBBAAGIMBGLEDGIAEMg0IBRAAGIMBGLEDGIAEMg0IBhAAGIMBGLEDGIoFMgcIBxAAGIAEMg0ICBAAGIMBGLEDGIoFMgoICRAAGLEDGIAE0gEKMTA1NjBqMGoxNagCALACAA&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&vld=cid:2e61bb75,vid:N4ZdHuHnf6E,st:0

ルカーチ メモその34 (再掲)

もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 そのような 近代社会の いわゆる 「物象化」論は、 マルクスの 「疎外論」や 「資本論」と 連接する 問題意識だった。 「商品」は その物自体の 「使用価値」と それが市場でもつ 「交換価値」の 二面をもつ。 現代の資本主義社会においては 交換価値のみが 突出するため、 商品を作って生きる 人間の労働も 交換価値に還元され、 ひいては 人間性そのものまで 計数化され 疎外されていく。 故に そのような資本主義的 「物象化」の 打破こそが、 近代人の 陥っている 閉塞状況の 根本的解決だと 論ずる。

妄想卒論その10 the day that never comes (再掲)

言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)   代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。  やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章)   なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。  しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。  三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。  こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。                            静岡大学 森本隆子先生より  https://www.youtube.com/watch?v=RD83oy7ksUE

オラオラ (再掲)

グーグルブログに広告乗っけるのって、 意外と難易度高いらしいから、 乗っけることにした。 鬱陶しいし、どうせカネにもならないんだけど、 マトモなサイトであるとグーグルが判断した 証拠にもなるので。 特に、カネに関する内容の記事は、 厳しく審査されるらしい。 https://www.iscle.com/web-it/g-drive/adsense/no-diary.html

2023年11月9日木曜日

俺は頑張った。

母親も 心身ともに 健康になったよな。 腎臓が1個しかないから 腎機能は低いけど。 だけど、 メンタリティーは 劇的にマトモになったよ。 昔の母親を知ってる人だったら、 ほとんど 別人だと思うだろう。 脳梗塞の早期発見にしても そうだけど、 俺が 母親のQOLのために、 どれほどの貢献をしてきたか、 語り尽くせないほどの ことをしてきた。 これだけでも 俺は この世に生を受けた存在として、 責任を果たしたとさえ 思う。 もう十分だ。  https://www.youtube.com/watch?v=U0rSMHpFPK8

短気なのは悪いことなのか?

気が短いのは 欠点だと 思われがちだが、 裏を返せば、 気が短くても 愛してもらえる という 自信があるという ことなのではないだろうか? 誰から愛されるか、といえば、 やはり 親兄弟だろう。 我慢強い人は、 もしかしたら 自分が怒ったら 愛してもらえないのではないか、 家族が崩壊してしまうのではないか、 と 考えて、感情を 押し殺してしまう 癖が身についている、 ということは ないだろうか。

バラッサ・サムエルソン仮説 (再掲)

消費バスケットを 構成する 貿易可能財では、 国際貿易を 通じた 裁定取引 により 国際的な 一物一価が 生じる一方、 サービスなどの 非貿易可能財 では 国際的な 裁定取引が 行われない。 日本での 非貿易可能財価格 は 国内の 生産投入費用、 特に 実質賃金により 決定される。 貿易可能財産業 で 高い 労働生産性の 伸び率 を 達成した 高所得国は、 その 高い 労働の 限界生産性から 国内実質賃金が すべての 国内産業で高い。 高所得国の 非貿易可能財価格は 低所得国より 高くなり、 同所得国の 実質為替レート は 増価する。 日経新聞「経済教室」2022/1/26 より  https://imidas.jp/genre/detail/A-109-0085.html  https://jp.reuters.com/article/column-kazuo-momma-idJPKBN2FB0CH

やさしい経済学 インフレを再考する③ 大阪経済大学教授 高橋亘 より抜書

インフレや賃金上昇は 本来、 景気回復の後に 生じる 遅行関係にあります。 インフレによって 景気が 回復するのでなく、 景気回復の結果として インフレは生じ、 景気過熱を放置すれば インフレは加速します。 このため 金融政策では、 景気過熱を抑制することで インフレを制御し 景気回復を 持続させること、 そして、 インフレ抑制には 時間を要するので、 それを 見越した 早めの対応が 重要だと 考えられてきました。 先に インフレを起こして 景気を回復させ、 賃金を上昇させるとの考えは、 こうした 先行・遅行関係を 逆転させた 不自然なものといえます。

大機小機 2023/11/8 より抜書

日本では 戦時中の国家総動員法による 配当規制で 企業から資本家が去り、 軍事国家が 主導する形で バンクガバナンスの 基礎が固まった。 戦後は 官庁とメインバンクが 企業を 監督・指導する、 極めて特殊な 企業統治の形態が 長く続いてきた。 近年、我が国でも ようやく 株主主権のガバナンスを 機能させる 機運が高まってきたが、 道半ばである。

姉は悪魔 (再掲)

どうせ 一生 協力なんか できねーんだから、 この際 ブチまけてやるわ。 母親から 父親に 腎臓移植が 決まったタイミングで、 父親に 2号さんがいるのが バレちゃって、 うずくまって 泣いてる 母親の耳元で、 姉が、 「お父さんは 家政婦さんみたいな人を 探してたんだよ。」 って 囁いた。 つまり、母親は 父親にとって 家政婦でしかない、と。 姉はそういう人間。 人の傷に塩を 擦り込むのが 大好きな人間。  https://www.youtube.com/watch?v=8zSODUOoE8w

姉からのマウントかましの一例 (再掲)

心配しないでください。ヒロさんは、これを機に外の世界に一歩踏み出してください。外の世界は広くて楽しいです。知らないで終わるのは勿体ないです。私は今まで外の世界を沢山見てきました。今度はヒロさんの番です。思いっきり人生を楽しんで下さいね。 https://www.youtube.com/watch?v=nUZVXtDVrc0

膿を出し切った。

もう疲れたわ。 ユカさんとは関わりたくない。 小林家という忌まわしい構造が、 今までどれだけ 私を苦しめて来たか、 誰もわかってない。 もちろん、あなたも。 泣き叫んだ方だけ 甘い飴を与えるのは、 もういい加減止めてください。 私の精神的苦痛、 あなたに想像出来ますか? 全然見えてないじゃないですか。 自殺しててもおかしくないですよ?

2023年11月8日水曜日

アドルノはまだ生きている (再掲)

グローバリゼーションによって、 世界の富の大きさは拡大したが、 分配に著しい偏りが生じたことは、 論を俟たない。 日本においても、 新自由主義的な政策の結果、 正規、非正規の格差など、 目に見えて格差が生じている。 そのような中で、 経済的に恵まれない層は、 ワーキングプアとも言われる状況のなかで、 自らのアイデンティティーを 脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を 参考にして考えれば、 旧来の中間層が、 自分たちより下に見ていた 貧困層と同じ境遇に 置かれるのは屈辱であるし、 生活も苦しくなってくると、 ドイツの場合は、 プロテスタンティズムの マゾ的心性が、 ナチズムのサディスティックな プロパガンダとの親和性により、 まるで サド=マゾ関係を結んだ結果、 強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が 日本人の間には存在することは、 ほぼ共通認識だが、 それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、 そうでなければ、 社会から強要される 画一性への服従となって、 負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、 特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、 現代生活の疎外を否定する というよりは むしろ、 この疎外の いっそう狡猾な現われに ほかならないのである。 (「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが 後期資本主義における 物象化という側面を 持っているとすれば、 グローバリゼーションによる 均質化、画一化が進行するにつれ、 反動として 民族の本来性といった民族主義的、 右翼的、排外主義的な傾向が 現れるのは、 日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、 アドルノの言明を素直に読めば、 資本主義が高度に発展して、 物象化が進み、 疎外が深刻になるほど、 本来性というものを 追求するのは不可避の傾向だ、 とさえ言える。 さらには、 資本主義社会が浸透し、 人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、 人々は、 自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、 理性を超えた領域に 求めるようになる。 社会全体が体系化され、 諸個人が事実上 その関数に 貶めれられるように なればなるほど、 それだけ 人間そのものが 精神のおかげで創造的なものの属性である 絶対的支配なるものをともなった原理として 高められることに、 慰めを もとめるようになるのである。 (「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 「それだけ 人間そのものが 精神のおかげで 創造的なものの属性である 絶対的支配なるものをともなった原理として 高められることに、 慰めを もとめるようになるのである」 という言葉が 何を表しているか、 自分の考えでは、 「社会全体が体系化され、 諸個人が 事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、 (疑似)宗教のように、 この世の全体を 精神的な色彩で説明し、 現実生活では 一個の歯車でしかない自分が、 それとは 独立した 精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、 その ヒエラルキーの階層を登っていくことに、 救いを感じるようになる、 という感じだろうか。 まるでオウム真理教のようだ。

市井の漱石論 (再掲)

夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。  「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。  夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。 もちろんフィクションではあるが。 代助は、 漱石が「自然(じねん)」と名付ける、 自家特有の世界に隠棲している。 そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。 友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、 百合の花が活けてあった花瓶の水を、 暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、 三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、 そこに「自然」を見出し、 主客合一の境地を得ようとするが、 それは理性の放擲を意味するため、 肉体を具有する代助は、 再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、 「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、 「赤の世界」の象徴として (再び)現れる、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。 それはまた、 ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、 競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件は むしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。 しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。 主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、 そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、 しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、 主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも 理性を手放さない、 漱石の「個人主義」の一端を表している。

妄想卒論その11 (再掲)

確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

鉄鉱石 (再掲)

俺:授業で拝聴した通り、日本が良質な炭鉱に恵まれたのは理解できたのですが、鉄鉱石はどこから調達したのでしょうか? 特に、官営八幡製鉄所で鉄を生産する際、石炭は筑豊炭田が近くにあったことは授業でも触れられていましたが、鉄鉱石はどこから調達したのでしょうか? 残念なことに理数系の知識が欠落している私には、そもそも鉄鉱石とは何なのか、ということすらよくわからないのですが、可能性としては中国のカンヤヒョウコンスかな、と思われるのですが、日露戦争前に既に中国東北部を実効支配、あるいは経済的統制の下に置いていたのでしょうか? 長くなり恐縮ですが、お答えいただければ幸甚です。 先生:小林さん お久しぶりです。 鉄鉱石は、明治初期には、朝鮮、中国東北部(満州)から輸入してたと 思います。日本の産業革命が一応の成果を得た時期、日清戦争から 日露戦争前後までの10数年間で、近代化の基盤となる鉄鋼業を官営にて はじめた八幡製鉄所の大規模な製鉄業のために、「満州」から鉄鉱石を 輸入するようになります。このことも一因となり、日本政府・軍の満州への 侵略が一層促されていきます。 この問題について、たしか『日本の満州支配』という本があったと思います。 金光男 俺:お返事ありがとうございます。 google bardに聞いてみたら、自信満々でオーストラリアと回答してきたので、やはり生成AIに頼るのは危険ですね。 こういうご時世だからこそ、専門家の存在意義は大きいと思われます。 ありがとうございました。

2023年11月6日月曜日

近代東アジア経済と日本@岡山大学 途中リタイア

台湾、朝鮮半島、中国東北部 (満州) に対する、 日本の植民地支配を、 実証的に論じる授業でした。 情報量が多すぎて、 疲れて2日目の途中でリタイア。 でも、 広い意味で 近代日本経済史とも言える内容で、 タメになりました。 迷ったら夢のある方へ。 それが私のモットーです。 ・・・救済措置で 昨日までに レポート提出すれば 評価はしてくれる、という ことだったんだが、 普通に 難しくて、書かないまま 期日を過ぎてしまった。 出題されてる側からすれば こんなの簡単だろ? 授業で喋ったし レジュメにも書いてあるじゃん。 て とこなんだろうけど、 俺 データから 何かを読み解くとか 全然できない人間なのよね。 割りと 自由なお題なら かえって 答えやすいんだけど、 出題者から見て 答えが 一義的にしか 出てこないタイプの 設問は苦手だ。 それにしても 気分は浦島太郎だね。 岡山の東横インに 10連泊もすれば。 東横インの朝食が タダなんだけど、 こんな美味しくてバランスの取れた 朝食タダで出しちゃって、 経営大丈夫なのかな?と かえって 不安になる。 生野菜もあるし、 タンパク質もあるし、 特に オクラの胡麻和えとか あったのは嬉しい。 そういうのって、なかなか 市中に売ってないんだよね。 毎朝 オクラの胡麻和え 大量に食べてた。 生野菜も欠かさず。 おかげで 10連泊しても 体調を崩さなかった。 ・・・ウツだ。 岡山に10連泊もして 2週連続で 面接授業いれたのに、 レポート書けなかった。 悪口を言う積りはないんだが、 レポートはもっと 自由に書かせて欲しかった。 国立大学の入試問題のような 試験は 苦手だ。 自分も ネタが尽きて レポートの使いまわしみたいに なってただろうけど、 何かしら 面白いレポートは 書けたと思う。 授業聞いて、レジュメの資料から 読み取れば 一義的に 解答が得られる、という ような レポートは苦手だ。 もっと自由に書かせて欲しかった。 ・・・振り返ってみれば、 満州はよく語られるから 普通に 世界史勉強した人なら 知ってるし、 ああ、満州ね、て 感じだけど、 日本による 朝鮮半島、ましてや台湾の 植民地支配の実態など なかなか 聞ける話ではないので、 単位取れなかったとはいえ、 貴重な話を聞けました。 ・・・そうだそうだ。 台湾からは とりわけ 砂糖、 朝鮮半島からは 米を 日本に移出 (輸出) してたって話だったな。 中国東北部では カンヤヒョウコンスで 鉄鉱石を確保してたって 話だったな。 茨城大学で受けた授業で 日本は 石炭に恵まれていたが、 鉄鉱石はどうしていたのか、 講師の金光男先生に お聞きしたが、 やはり カンヤヒョウコンスからだ、と 仰っていたと 記憶している。 レジュメを見返したら、 中国東北部に 在華紡という日系の 綿紡績業が進出して、 綿製品を輸出してたって話だった。 これが 帝国主義でなくてなんなのか? とても 欧米を批判できるような 有様じゃないだろ。 ・・・話が繋がった。 行ってきた甲斐がある。

2023年11月3日金曜日

読売新聞のネット記事

鹿児島大学の教授が、 熟慮が足りない人ほど 陰謀論を信じやすい、 という 心理学の論文を 発表したらしい。 確かに、と思い当たるフシはある。 熟慮が足りない人ほど、 自分に都合のいいことしか 信じない傾向がある というのは首肯できるし、 時に そういう傾向の負の側面が目につく、 ということもある。 例えば、 関東大震災の時に、自警団が朝鮮人や、 あるいは朝鮮人と誤認した 日本人を虐殺した事件などだ。 確かに、 そういう時こそ熟慮が必要、 というのはわかる。 しかし、 世の中が熟慮に富む人間だらけだったら、 これもまた 不具合があるのではないか。 「人が人を信じる」ということは、 時には熟慮を欠いた状況、 あるいは熟慮を欠いた性向を持った人間が 必要なのではないか? 熟慮を欠いた人間ばかりでは 世の中が混乱するが、 時には 迂闊に他人を信じてしまう人間がいるからこそ、 社会が成り立つ、 あるいは根元的に「人が人を信じる」ということが 起こり得るのではないだろうか。 そして、 この側面は、 人々の間で 秘かに秘められており、 おおっぴらにはされない。 従って、見逃されがちだ。 しかし、 社会を成り立たせる上で 欠かせない要素と 思われる。 https://www.yomiuri.co.jp/national/20231101-OYT1T50199/

2023年11月2日木曜日

デジタル敗戦

日本で、 一番かどうかまでは知らないが、 よく使われるのが アメブロだと思うが、 三橋貴明みたいな デマゴーグの道具に使われてる時点で、 グーグルブログに完全に負けてる。 手前味噌だけど、 あの三橋のアメブロの内容を グーグルブログに載っけて、 アドセンスを取得できるとは 到底思えない。 もし万が一 アドセンス取得したら、 ちょっとは信用する気にはなるかも知れないが、 あんなデタラメなインチキばかりを 垂れ流すツールに使われてるのを 野放しにしているアメブロは、 全く無責任極まりない。 せっかくのデジタル技術も、 こういうところでも 完全にグーグルに負けてる。 三橋貴明はまず アメブロじゃなくて グーグルブログで自説を開陳して、 それでアドセンス取得してから モノを言え!! 要するに、 アベノミクスという麻薬が切れて、 禁断症状が出始めたんだろうな。 だから、もっと財政出動しろ、もっと金融緩和しろ、減税しろ、と騒ぐ。 もうこうなったら 民主主義社会では 誰も止められない。 三橋貴明にしても、 ハーメルンの笛吹男以外の何者でもない。

妄想卒論その7 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」 を 合言葉に 米国で 反格差のデモが広がったのは 2011年。 怒りが新興国に伝播し、 米国では 富の集中がさらに進んだ。 米国の 所得10%の人々が得た 所得は 21年に全体の46%に達した。 40年で11ポイント高まり、 ...