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お見事!値千金!!!

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昨日 (2023/10/24) の 日経新聞 経済教室、 名古屋大学教授の 齊藤誠先生による 寄稿は、 現在の 日本の金融経済の 置かれた状況を 明快に説明していて、 非常に 勉強になった! なんだかんだ 経済って 需要と供給なんだな。 やっぱ ケインズはすげえわ。

「魔の山」 トーマス・マン 岩波文庫 下巻末尾 

さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり)  https://www.youtube.com/watch?v=B_HSa1dEL9s

不良少年とキリスト

神サマってのは 便利でいいね。 中世の神学では、 あなたは 神の存在を感じることが 出来るはずだ、って ところからスタート するんだから。 人間はアテにならなくても、 神サマを 信じた気になれば、 少しは 慰めになるかもね。 神の存在さえ 感じちゃえば、 もう キリスト教徒としての 最初の一歩を クリアしたことになる。 なんて 便利なんだ。 それこそ世界広がるよね。 世界中のどこに居ても、 神サマさえ 信じられれば、 生きていけるんだから。 ・・・結局、俺が 「重すぎる」 んだろうな。 でも、高度成長を生きた 昭和オヤジとその家族の 矛盾を、 こんがらがった糸を、 解すような 半生だったんだろう。 そのためには、 心にきれいな水と 栄養が必要だったんだ。  https://www.youtube.com/watch?v=wllXY322K7Q

風と光と二十の私と

中学の時からだぞ?! おれ何回 同じ人に フラレてんだろう? もう 3回か 4回は フラレてんじゃねーのか? もしかしたら フラレてないのかも知れないが、 俺自身 さすがに疲れてきた。 この20年 ほとんど音信不通。 20年以上 会ってもいない。 女ってめんどくせえ。 とはいえ、この 25年間の艱難辛苦を 乗り越えて来れたのは、 紛れもなく その人の存在が 心のうちにあったからなんだが。 しかし、たぶん 心のなかで 都合のいい 矢田津世子を拵えていた 坂口安吾と 同じなのかも知れない。 会ってはいけないのかも知れない。 彼女の存在あればこそ、 どんなにシンドくても 頑張ってこれたが、これからは 心のお守りなしで 生きていかなければ いけないのだろうか。 この25年間を、きれいな 思い出として 一生かけて 味わい尽くすしか ないのだろうか。  https://www.youtube.com/watch?v=VInxOLmKWmA

市井の漱石論

夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。  「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。  夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをし...

東洋経済オンライン

かんべえさんの 寄稿。 一読の価値あり。  https://toyokeizai.net/articles/-/708462  かんべえさんの 言うことも 尤もだと 思うけど、 これまで 散々 補正予算頼みでやってきて、 今度も ここで景気が腰折れしたら マジでヤバい (それは理解できるが) から また 手厚く補正予算組みましょう、じゃ この国 このさき どーすんのよ? ほんとにもう 目先のことしか 考えられなく なってきてるじゃん。

別の面接授業のレポートネタ。

夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。もちろんフィクションではあるが。 代助は、漱石が「自然(じねん)」と名付ける、自家特有の世界に隠棲している。そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、百合の花が活けてあった花瓶の水を、暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、そこに「自然」を見出し、主客合一の境地を得ようとするが、それは理性の放擲を意味するため、肉体を具有する代助は、再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、「赤の世界」の象徴として(再び)現れる、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。それはまた、ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件はむしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも理性を手放さない、漱石の「個人主義」...

面接授業レポートネタ 増補改訂

夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。それは一見、無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。このことから、漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。 「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、そこでは、情よりも「理」が力を発揮する。弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、「清」から用立ててもらった「金銭」は、交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、この後、『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。

レポートネタ 「坊っちゃん」を題材に (「夏目漱石ー<近代>への問い」参照)

自分:夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。それは一見、無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。このことから、漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。 「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、そこでは、情よりも「理」が力を発揮する。弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、「清」から用立ててもらった「金銭」は、交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、単純に数量化できない性質のものなのである。 漱石の小説の登場人物たちは、この後、居場所を失い、『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、いやおうなく経済の論理に巻き込まれて、『こころ』の「先生」を頂点として、個人主義の殻の中へと閉じこもっていくのである。 森本先生より:唯一、言を挟むとしたら、ラストの「個人主義」あたり、でしょうか。 というより、「清」ひいては「清」と(現実的にはあり得もしない)「一心同体」となって憩うことのできる空間を「墓」ーー地底に埋めた漱石は、このような空間が決定的に喪われた、つまり現実には回復不能な時空として想定しているように思えます。同様に、代助もまた、嫁ぐ前の三千代の写真と草花だけを相手に生きる「自家特有」の水底の世界から、半ば夫に捨てられ子も失った不幸な人妻としての三千代と相対するべく、まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還してきます。その意味で、漱石は、やはり「個人」を社会的存在ーー「個」とは「世界」に包含された存在たることを以て個たり得るという...

坂口安吾 三十歳 

勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。  たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。  人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。  けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。

レッツ六道輪廻♫

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これも相当面白そうだ。 重厚感もあるし、 お堅いイメージの 吉川弘文館だが、 これは 面白い。 こういう本が 世の中にあるんだね。 今月も いいスタートを 切ったぜ♫ ・・・これは凄い!!! 面白い!!!!!!! こんな本が 吉川弘文館から出てたとは!!!!! ・・・読了。 これは凄い本だった。   戦後文学のみた<高度成長> 伊藤正直 吉川弘文館  運命の一冊といっても 過言ではないほどの 名著。 最高の気分だ。 つい3日前くらいには 煩悶としていたのが 嘘のようだ。 つっても 情緒不安定とかじゃないからね!

自公政権とは何か ──「連立」にみる強さの正体 (ちくま新書)

これも ちくま新書 らしい 本格的な内容が コンパクトに まとまっていて 素晴らしい。 すげえ 内容が濃い。 海部政権以後の 潮流から 記述がスタートしているので、 海部政権までで ストップしていた 自分にとっては ありがたい。 割りと 小刻みに 章立てされているので、 疲れずに 読めるのもいい。 タイトルからすると 局限的内容を 想像してしまうが、 実際には 裾野の広い 現代政治学の成果とも いえる 内容。 よく出来てる。 ・・・今後の勉強の 方向性が 見えてきたぜ。 やはり 経済だけ見ても 片手落ち。 現実の政治も 見ないと。 政治を俯瞰したうえで 経済も見る。 これだ。 ・・・うーん、こりゃ すげえわ。 こんなに本格的な内容が 新書で 収まっちゃうなんて、 いい時代だわ。 日本も捨てたもんじゃない。 ・・・面白かった。 最近の新書の傾向なのか、 面白い部分を先に 持ってきちゃって、 学者として、 つまんないけど 書かずに済ませられない、 というところを 後に 持ってくる 編集方針なのかなんなのか、 前半はめちゃめちゃ 面白いけど、 途中から いきなり つまんなくなるって パターンが 多い気がする。 この本も そうだった。 まあ、そのおかげで 他にも 買い込んで 何冊も 読もうという 気になるが。 それが 狙いとは言わないが、 最近の タイムパフォーマンス 重視の潮流からすると、 こういう 編集にならざるを得ないのかも しれない。

法の近代 権力と暴力をわかつもの (岩波新書)

これもかなり 面白い。 純然たる 法哲学の 本ですな。 最初の 5分の1までは 面白かったが、 急に つまんなくなった。 でもまあ 勉強にはなった。