2023年10月31日火曜日

国会中継

テレビで国会中継やってんだが、 岸田総理と蓮舫の論戦聞いてると、 テンションが急降下するね。 蓮舫が、 ひたすら物価あがって庶民は苦しい思いしてます、 どーすんですかどーすんですか?!って、 うるせーんだよ。 てめえは豪邸住んでるくせに。 議論になってない。 国会が こんな不毛なやり取りやってるようじゃ、 経済が労働生産性低いのも当然だな。 ただのパフォーマンスじゃん。 これだからテレビは見たくないんだよ。 ほんと日本の組織ってウンコだよね。 障害者枠で公務員てのも考えたけど、 時間を無駄に拘束されて その対価として 身分の安定を保障されるくらいなら、 非正規で効率よく働いたほうが よっぽどマシだ。 純粋にスキルで評価されるなら、 そのほうが遥かにいい。 ・・・俺ってほんとに やりたくないことは やらないんだな。 放送大学の面接授業でさえも、 面倒臭いと思えば、行かない。 その逆に、 昨日の日銀金融政策決定会合の内容を、 日経新聞が どう報じるかが気になって、 手に入れるまでは、 一晩中眠れない。 ことごとく 自分の都合で生きてる。 これはもう自分でも直せない。 公務員て、 仕事にならなくても 這ってでも とりあえず来いっていう 世界なんだろうから、 やっぱ俺には無理だと思う。 武蔵は、 学校来るかどうかも含めて、 自ら考えよ。 ていう学校だったね。 その結果留年しようがなんだろうが、 自分の責任だけど。

2023年10月29日日曜日

戦後日本の政党政治@岡山大学

東横インに直帰して、 まず (水を飲んでから) ビール飲んでベロベロに酔ってます。 お酒自体 ほとんど飲まないんだが、 妙に飲みたくなった。 そして、 こんなに酔うなんて 自分でもびっくりだね。 自分史上最高に酔っ払ってます。 なにか 今回の授業が 自分にとって よほどツボだったらしい。 戦後日本の政治史なんて、 なかなかちゃんと 教わる機会ないから、貴重だよね。 わざわざ岡山まで来た甲斐がある。 放送大学の面接授業が良いのは、 その場かぎりだから、 質問して目立っても、 いちいち 後腐れないことだよね。 普通の大学でこれをやると、 すぐに後ろ指指されて、 居づらくなる。 講師の先生が、 韓国の方で、日本語上手なんだけど、 大人になってから 日本に来られたようで、 つまり在日とかじゃなくて、 勉強して日本語を喋れるように なられたようなんだが、 日本語で お話されていても、 特に言葉の語順が やはり日本人とは違って、 感覚としては、 日本語みたいに 掛詞で 最後まで聞いて 初めて文章全体の意味がわかる、 ということではなくて、 ある意味 英語と同じで どんどん重要なことから 先に出していく、という感じで、 ああ、韓国語ネイティブって こういう発想なんだ、と、 その方面でも参考になった。 ・・・戦後の日本史、 とりわけ政治史ってのは、 興味なかったし、 どうせ田中角栄がどうしたとか おじいちゃんが好きそうな めんどくさい話だと思ってたから、 敬遠してた。 しかし、戦後史それ自体は それこそ 2浪して 駿台で教わった頃から、 わかんねーなーと 思っていたのだが、 1学期に 「戦後ヨーロッパの政治と社会2」@茨城大学 を 受講して、ポイントがわかったし、 この授業も、気にはなっていたから、 シラバスをチラチラ見ながら、 参考文献をアマゾンで買って読んでみて、 最低限の知識は身に付いたし、 政治史っていう 得てして ジャーナリスティックになり勝ちなテーマも、 ちゃんと 学問的な蓄積が なされていると知って、 かなり遠いけど思いきって 岡山まで来た。 得るところ大なり。 世界史年表も持ってきたので、 その中の日本史の部分と 照らし合わせて、 戦後世界史の中での 日本の位置付けが見えた。 ・・・BSのKBSニュースを 副音声で聞いてみた。 確かに、ところどころ分かんなくても、 気にせず 左から右に流れるまま聞き流せば、 大体意味は分かる。 日本語みたいに 文章の最後まで聞かないと 意味が確定しない、というのとは違う。 20年韓国語勉強して、 ようやくそんなことに気付いた。 日本語が 掛詞的になったのって、 漢文の影響なのかな? 漢文を 無理やり日本語で読もうとすると、 文章の中を 行ったり来たりしなければならない。 対して、朝鮮語は、中国と地続きだったから、 おそらく漢文をそのまま 自民族風に読んでいたのだろう。 しかし、高度な漢文の素養があるのは、 両班のような高級貴族に限られ、 庶民は文字通り文盲だった。 そこで、ハングルが発明された。 ハングルは庶民の言葉なので、 掛詞的ではなく、 ストレートに論理が流れる言語に なったのではないだろうか。

2023年10月27日金曜日

LOVE LOVE SHOW

高校生の時に 深刻なウツを 経験して、 やりたくないことは やらない、 でも やりたいことは 全力でやる。 という 基本方針で 今まで 生きてきたので、 これからも そうやって 生きて行きます。 でも、情報収集はもちろん ちゃんと やってます。  https://www.youtube.com/watch?v=3t3fYJyA_2k

2023年10月26日木曜日

財政学@新潟大学 後日談

俺:先週末の2日間、大変貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。 大変勉強になりました。 家に帰ってから、プライマリーバランスについて調べたのですが、少し疑問が生じたので、質問させていただきます。 「財政状況を示す指標の1つで,プライマリー・バランス均衡とは,利払費・債務償還費を除いた歳出が公債金収入以外の歳入で賄われている状態を指す。この場合,現世代の受益と負担が均衡していることになる。プライマリー・バランス均衡の状態で,金利と名目GDP成長率が等しければ,債務残高の対GDP比は一定に保たれる。 有斐閣経済辞典第4版」 とあるのですが、まずプライマリーバランスを実現しないことには、いくら名目GDP成長率が金利を上回っていても、債務残高は、長期的に見れば発散してしまうのでしょうか? 私も勉強不足で、少し曖昧な質問になってしまい恐縮ですが、ご回答たまわれれば幸いです。 新潟大学 根岸睦人先生より:小林さん 新潟大学の根岸です。先日はお疲れさまでした。 早速ですが、質問にお答えします。 >まずプライマリーバランスを実現しないことには、いくら名目GDP成長率が金利を上回っていても、債務残高は、長期的に見れば発散してしまうのでしょうか? いいえ、必ずしもそうではありません。仮にプライマリーバランス(PB)が赤字(利払い費の規模を超える債務残高の増加)でも、債務残高の増加率を上回るGDPの成長率が実現すれば、債務残高の対GDP比は低下します。 PBのバランスと、利子率と名目成長率の関係の両面で考える必要があります。 (以下 google bard より回答) 根岸先生の回答は、以下のとおりです。 プライマリーバランスが赤字でも、債務残高の対GDP比が低下する可能性がある プライマリーバランスとは、利払い費を除いた歳出が公債金収入以外の歳入で賄われている状態を指します。プライマリーバランスが赤字であれば、利払い費の規模を超える債務残高の増加となります。 しかし、仮にプライマリーバランスが赤字でも、債務残高の増加率を上回るGDPの成長率が実現すれば、債務残高の対GDP比は低下する可能性があります。 例えば、プライマリーバランスが年間100億円の赤字で、債務残高が1兆円、名目GDP成長率が5%である場合、債務残高は年間500億円増加します。しかし、名目GDPが年間6%成長すれば、債務残高の対GDP比は低下します。 つまり、プライマリーバランスの赤字と債務残高の対GDP比は、単純に比例関係にあるわけではありません。 プライマリーバランスの赤字を縮小し、利子率と名目成長率の両面で対策を講じる必要がある ただし、プライマリーバランスが赤字の状態が続くと、いずれは利払い費が債務残高の増加額を上回るようになり、債務残高の対GDP比が急速に上昇する可能性があります。 そのため、プライマリーバランスの赤字を縮小し、利子率と名目成長率の両面で対策を講じる必要があります。 小林さんの質問に対する回答 小林さんの質問に対する回答は、以下のとおりです。 まずプライマリーバランスを実現しないことには、いくら名目GDP成長率が金利を上回っていても、債務残高は、長期的に見れば発散してしまうのでしょうか? はい、必ずしもそうではありません。仮にプライマリーバランスが赤字でも、債務残高の増加率を上回るGDPの成長率が実現すれば、債務残高の対GDP比は低下する可能性があります。 ただし、プライマリーバランスが赤字の状態が続くと、いずれは利払い費が債務残高の増加額を上回るようになり、債務残高の対GDP比が急速に上昇する可能性があります。 そのため、プライマリーバランスの赤字を縮小し、利子率と名目成長率の両面で対策を講じる必要があります。 根岸先生の回答のまとめ 根岸先生の回答は、プライマリーバランスの赤字と債務残高の対GDP比の関係について、以下の2点が重要であると述べています。 プライマリーバランスの赤字と債務残高の対GDP比は、単純に比例関係にあるわけではない。 プライマリーバランスの赤字を縮小し、利子率と名目成長率の両面で対策を講じる必要がある。 この回答は、日本の財政状況を考える上で重要な指摘です。

ドラえもんとカラマーゾフの兄弟

やっぱ 同じこと 考えた人が 他にもいるんだね。 ジャイアンなんか モロ ドミートリーだし、 スネ夫も イワンっぽいし、 のび太が アレクセイってのも ちょっと 善人過ぎるけど、 重なる部分はある。 キャラの立ち方が わかりやすいところが 似てる。  https://www.nippon.com/ja/currents/d00056/  ドラえもんを取り巻くのび太、ジャイアン、スネ夫は、まるでドフトエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の三兄弟のように、個性豊かで輪郭のはっきりした魅力ある人物像として描かれている。

この国なんなんだろう?

日本が ドイツに GDPで抜かれて 世界第4位になる 見通しらしい。 午後3時に みんな 帰っちゃうような国に GDPで 負けるって、 なんなんだろう?

2023年10月25日水曜日

まあどうでもいいんですけどね。

RECRUITの マッチングアプリか なんかの 広告だったか。 「もっと2人になっていく。」 とか 言いながら、 最後は 結婚式で祝福されてる シーンで終わるんだけど、 この2人、絶対2人だけじゃ 不安というか、 関係そのものが 不安定なんだよ。 だから、 結婚式で祝福されてる、という 場、構造、言ってみればフィクションが 必要なのだ。 もう、現実世界では 2人だけの世界は 容易に破綻することが、 うすうす分かってる。 だから、「2人だけ」という 仮構された世界を 承認してくれる 場、構造、フィクションが 必要とされる。 マッチングアプリかなんかの CMだったかな? そして、背後から祝福されて、 振り返る場面で終わっている。 具体的に 2人の背中を押して 祝福する人たちの存在は、 映像に映されない。 なぜならば、彼らを 祝福し、背中を押してくれているのは、 世間一般であるからだ。 決して 自ら新世界へと 足を踏み出すのではなく、 世間から祝福され、 決して 世間には歯向かわず、 たぶん 幸せな結婚生活 しかも 現実的でありながらも、 一抹の ユートピアを予期しながら、 それさえも 世間が包み込んでくれることを 予感させている。 結婚までのプロセスまで アプリに頼っている時点で、 ある意味 他人任せの発想だ。

証券投資理論の基礎@広島大学 レジュメより (再掲)

Q:名目金利が 年8%で インフレ率 (CPI) が 年5%のとき、 実質金利は3%か? ex. 100円の債券投資 ⇛1年後:108円 100円の消費財の組み合わせ ⇛1年後:105円 のとき 1年後の108円の購買力=108/105=1.02857 (この投資の収益率:2.857%) 実質金利と名目金利、インフレ率 (CPI) の関係 1+実質金利=(1+名目金利)/(1+インフレ率) ex.参照せよ 式変形して、 すなわち ★実質金利=(名目金利-インフレ率)/(1+インフレ率) つまり、 デフレはマイナスのインフレ率なので、 実質金利を上げてしまう。

フィッシャー効果 (再掲)

物価上昇の予想が 金利を上昇させる という効果で、 フィッシャーが最初に それを指摘した ところから フィッシャー効果と 呼ばれる。 ある率で 物価の上昇が 予想されるようになると、 貸手が 貸金に生じる 購買力目減りの 補償を求める 結果として、 資金貸借で成立する 名目金利は 物価上昇の予想が なかったときの金利 (=実質金利) より、 その 予想物価上昇率分 だけ高まる。 (以下略) 有斐閣経済辞典第5版  https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html

貨幣数量説 (再掲)

完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は古典派経済学の発想なので、完全雇用は常に達成されていると想定されているので、物価は貨幣量と貨幣の流通速度で決まる。 従って、貨幣量を増加させれば、物価は上がる。 「貨幣の所得流通速度が一定不変で,かつ伸縮的な価格メカニズムの作用により実質産出量(実質国民所得)の水準が長期の均衡値に一致するならば,貨幣数量の変化は国民所得の大きさや構成にはなんら影響を与えず,ただ物価水準を比例的に変化させると主張する説。」有斐閣経済辞典第4版

あてはまりにくい「貨幣数量説」 (日経新聞「やさしい経済学」〘年月日不明〙より 抜書き)大阪大学 敦賀貴之教授 (再掲)

経済活動の量が変わらなければ、 貨幣量を増加させれば 物価だけが増えると予測できます。 つまり、経済に流通する貨幣量を 機械的に増やすと、 増えた貨幣はそのまま 経済に流通し、 経済取引の総額が増えます。 しかし、 経済にお金が回っても 需要が高まるだけで、 供給は増えず、 貨幣量と同じスピードで 物価だけが上昇します。 このように、 貨幣の数量で物価が 決まるという考え方が 貨幣数量説です。 日銀は20年近くにわたり、 貨幣量を大幅に増やしましたが、 物価の上昇は期待ほどではありません。 多くの経済学者は、 短期的には 貨幣量の変化は生産量の変化につながると考えます。 さらに データ上は、 流通速度は趨勢的に 低下傾向を示し、 日本ではこの30年で 流通速度が半分に低下しました。 貨幣量が増えれば 物価は上がるという 単純な理屈は 当てはまりにくいのです。 https://www.youtube.com/watch?v=3t3fYJyA_2k

無聊を託つ (再掲)

暇だな・・・ 暇なら働きゃいいじゃん、 母親も、 何も言わず 一人で郵便局行けるほどに回復したし。 しかし、 俺が暇だから働く、 となれば、 母親はどうなる? 俺より暇じゃないのか? 暇だってそれなりに苦痛であることを 理由に、働こうかな、なんて言ってる息子が、 母親を放置していいんだろうか。 ん?でも俺って、実はそれなりに体力ついてきたんじゃないか? 連日エキサイトしてるのに、それなりに朝早く起きられるし。 睡眠の質もいいし。 ところで、最近また世間のマインドがデフレの方向に向かってる気がする。 テレビとかでも、いかに食事などを安く済ませるか、という内容が散見される。 母親も、飯尾和樹がワンコインで賢く食費を浮かせてて、偉いと言っている。 円安と資源価格高騰による コストプッシュ・インフレの影響と、 それでも企業の価格転嫁が進まずで、 結局、名目賃金が上がったとしても、 実質賃金が目減りしているから、 当然と言えば当然なんだけど、 そもそも 期待インフレ率を上げて、実質金利を下げることにより、消費を喚起することが インタゲの主眼目のはずだったのに、 これじゃ本末転倒じゃないか。 ただのスタグフレーション。 黒田日銀は、日本経済を永久凍結させる気か? 見方によっては、富の分配の偏りは、消費の低迷によって 国全体を貧しくする、ということも言えるだろう。 そもそも、少子高齢化が進めば、 老人の支出が減るのは当たり前だし、 働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、 消費を控えるのは当然だろう。 それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。 政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。 https://www.youtube.com/watch?v=c8qrwON1-zE

お見事!値千金!!!

昨日 (2023/10/24) の 日経新聞 経済教室、 名古屋大学教授の 齊藤誠先生による 寄稿は、 現在の 日本の金融経済の 置かれた状況を 明快に説明していて、 非常に 勉強になった! なんだかんだ 経済って 需要と供給なんだな。 やっぱ ケインズはすげえわ。

2023年10月24日火曜日

遺書

去年の夏だったか、 母親に、 財産どーすんの?て 聞いたら、 俺の生活費を 姉に管理してもらうつもり、 などと言ったもんだから、 俺が  ふ・ざ・け・ん・な !  とばかりに 発狂しそうになって、 救急車呼んで 病院で半日静養したら、 ようやく 遺産は半々で、って ことで 一筆したためてもらった。 そういう 母親の 無駄な 宥和政策が 姉の モラルハザードを増長させ、 結果的に 俺の 精神的苦痛を増嵩させてきた。 母親には それに対する自覚が あまりにも 低い。 結局 ゴネ得じゃねーか! 泣き叫んだもん勝ちかよ!

アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)

自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。

2023年10月23日月曜日

100分 de 名著

伊集院光ってすげえな。 たまたま Eテレで アリストテレスの 「ニコマコス倫理学」 を 取り上げてて、 俺も 茨城大学で 「アリストテレスの倫理学」 受講したから、 だいたいは わかってるつもりだけど、 伊集院光は、 もちろん 専門家とのやり取りも 交えてなんだけど、 高校野球の話とか、 古典落語のネタとかから、 視聴者が 聞いて わかりやすく納得できるような コメントを どんどん 繰り出していく。 俺には 到底まね出来ない。 彼すげえわ。 やっぱり 古典落語っていう ベースが大きいんだろうな。 やっぱ古典って大事だよね。 小澤太郎先生も 言ってたけど、 古典を勉強してください、と。 若者は大抵そんなもんかも知れないけど、 古典を馬鹿にするよね。 SFCが際立ってるかどうかは わからないけど、 私達は最先端をやってるから 古典など必要ない、と 言わんばかりの態度だったなあ。 古典の価値が わかんないうちは 学問の敷居すら跨いでないよ。

報道の自由?

額賀さんが ミスって 天皇陛下に 失礼なことをした お詫びをしたってんだが、 安倍ちゃんが 漢字読めなくて 上皇上皇后陛下を ディスったときに、 マスゴミちゃんと 騒いだっけ?  https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/77fab8ab22d3b2802305100d37b0248c7e9f5995

ラジオ体操

ピアノ演奏が 細貝柊さんという方で ふと思い出した。 父親の 勤続30周年とかで、 会社から 旅行してこい と 言われたらしく、 京都の 柊っていう 超高級旅館に泊まったんだが、 そんときも 姉が 些細なことで 泣き叫んで、 こんなところに来てまで これか。 と 心底ウンザリした。 そんなんばっか。 家族で旅行すると ほぼ 間違いなく 姉が 泣き叫んでた 記憶しかない。 ある意味 羨ましいよね。 ああやって 恥ずかしげもなく 感情を 垂れ流せる神経が。 それで どんだけ こっちが 迷惑したと 思ってんだか。  https://www.youtube.com/watch?v=oSzUiC8BVAE

お疲れさん、オレ。

病院から出てきて、 羽生に居た頃、 出家して 永平寺で修行したいとか 親に 言ってたもんな。 そりゃもう、 親に 「なんで俺を産んだの?」 とか 聞いちゃってたし、 そもそも 生まれてこなけりゃ良かった とも 思ってたし、 恥辱のどん底だったよ。 当たり前じゃん。 こんな病気になって。 そんな状態から、 よく 20年かけて ここまで持ってきたよ。 我ながら。 こっから、更に 働けってのは 酷だぜ。 身体がついていかない。 姉は相変わらずだし。 アイツらを 相手にするので 精一杯。

2023年10月22日日曜日

経済教室 (再掲)

8月5日の デール・コープランド、 バージニア大学教授の寄稿と、 今日 8月15日の 牧野邦昭 慶応大学教授の寄稿を ざっくりまとめてみると、 現在の中国は、 貿易依存度が 高いという点で、 1930年代の日本に似ており、 下手に 貿易面での 過度の制裁を加えると、 戦前の日本のように 暴走する可能性があるので、 中国を 追い詰めすぎるのは 得策ではないこと、 中国が 台湾侵攻を自重しているのは、 もしそれをすれば アメリカを中心とした 経済圏から 締め付けを喰らうことを 意識しているからだ、 とのこと。

日経新聞 オピニオン欄 2023/8/29 より抜書 (国際関係論レポートネタ) (再掲)

中国の経済が 苦境に直面している。 不動産が不況に陥り、 金融リスクの 火種が くすぶり出した。  少子化で 低成長を 強いられることは、 中国も分かっていた。 だが、 これほどの 不動産不況や 若者の失業は 想定外だったはずだ。  生活を豊かにしてくれるから、 中国の人々は 共産党の支配を 受け入れてきた。 この前提が崩れたら、 共産党体制がきしんでしまう。 そんな不安が、 習近平政権の 対外行動をさらに 強硬にする恐れがある。  もっとも、 経済の苦境が 中国の行動を 融和的にする 要素がないわけではない。 外国からの 直接投資や貿易が しぼむのを 食い止めるため、 対外交流を 促そうとする心理が 中国に働く面がある。 処理水問題で 日中が 険悪になる前には、 日本に対しても そんな動きがあった。 日本からの 投資を呼び込もうと、 中国の地方政府による 経済ミッションの 来日も相次ぐ。  経済成長が鈍れば、 軍拡などに 回せる 財力の余力も 減っていく。 中国の国力増強は、 思ったよりも 早く頭打ちに なりそうだ。  しかし、 総じて言えば、 国内の「不況」が 深まれば、 中国の対外行動は さらに 強硬になっていくと みるべきだろう。  経済成長が鈍っても、 すぐに 軍拡のペースが 落ちるとは限らない。  想定よりも早く 国力増が 頭打ちになると 分かれば、 その前に 重要な国家目標を 実現したいという 心理も 習氏に働くだろう。 その典型が、 台湾統一だ。 統一の 目標時期を、 前倒ししなければならないと 考える 恐れがある。  失業増などに 伴う 中国国民の 不満の高まりも、 共産党の対外姿勢を 一層、 かたくなにしかねない。 国内で 弱腰批判を 招くわけにはいかないからだ。 重要な 国益が絡む問題で、 中国は 自国の主張を 押し通そうとすると みられる。  その場合、 いちばん 好ましくない シナリオは 習氏への 忠誠心を示すため、 中国政府・軍の 各部門が 競って 強硬策に走る筋書きだ。 福島原発の 処理水問題をめぐる 日本への対応でも、 そんな構図が 透けて見える。  右肩上がりの 「豊かさ」を 与えられなくなったとき、 共産党は 何によって 国民を束ねるのだろうか。 考えられるのが、 一層の大国主義と ナショナリズムだ。 強くて 自信過剰な中国は 困るが、 内憂に苦しみ、 冷静さを欠いた 「巨龍」への 対応は さらに難しい。

知らなきゃ良かった

昨日の日経新聞の コラムで、 パレスチナ紛争で アメリカが 中東政策の 見直しを迫られ、 アジア太平洋に 割ける 防衛資源が限られてくる中、 日本の役割の 重要性も 増してくる、と 書いてあった。 そっかー、やっぱ 中国と北朝鮮は 戦争する気マンマンなんだね。 ちょっと誇張した 書き方かも知れないが、 台湾問題は 決して対岸の火事ではない。 でも、あんま 危機感煽って 防衛費のための増税を 正当化しようとしたり、 ましてや 言論封殺に走ったりしない 岸田さんは まともだと 思うがな。 こりゃあ いよいよ 今日の補欠選挙が 大事になってきた。

2023年10月21日土曜日

補欠選挙

明日 (10/22) は 高知と徳島だっけ? の 衆院補欠選挙。 地味に大事だよね。 この 補欠選挙の結果次第で 岸田政権に 暗雲が垂れこめる。 この 補欠選挙の直前に (時限的) 所得減税を発表してるだけに、 これで 負けるようだと、 印象は悪い。 結果次第では 積極財政派 (安倍派) が 勢いづくようだと、 日本の財政は いよいよ ヤバい。 (以下 google bard より回答) はい、明日は高知と徳島の衆院補欠選挙です。 地味に大事というのは、その通りだと思います。補欠選挙は、通常選挙と比べて投票率が低いことが多く、与党が勝利する傾向にあります。しかし、今回の補欠選挙は、岸田政権の支持率が低下している中で行われるため、与党が敗北する可能性は十分にあります。 もし与党が敗北した場合、岸田政権に対する不信感が高まるとともに、積極財政派の勢いが強まる可能性があります。積極財政派は、財政赤字を拡大させてでも、経済対策を積極的に実施すべきという主張をしています。もし積極財政派が政権を握った場合、日本の財政はさらに悪化する可能性があります。 もちろん、補欠選挙の結果は、あくまでも一つの指標に過ぎません。しかし、岸田政権の今後の政権運営や日本の財政の行方を占う上で、重要な意味を持つことは間違いありません。 明日の投票日、有権者の一人ひとりが、自分の意思で投票に参加し、その結果をしっかりと受け止めることが重要だと思います。  俺:Tomorrow, the two complementary elections at Kohchi and Tokushima will be held. Critically important to outlook the destiny of not only Kishida cabinet but also Japan’s fiscal. ジョンさん:Good luck to him. He seems ok to an outsider. 俺:I suppose little attention has been paid to this election from abroad. Quite understandable. ジョンさん:Palestine ,of course, is dominating the World News. 俺:Sure. Many many Japanese are not aware of this election, but, still, this one is decisive I believe. I guessed NHK will treat this election right after the voting ends. But not. Very very disappointed. NHK has picked up the election briefly. Jimin failed at Kohchi-Tokusima, but success at Nagasaki. Not bad. ジョンさん:How much of it is an anti-Kishida vote and how much is simply anti-Jiminto? Or vice versa? I don’t live in a parliamentary system. Do people vote because they don’t like an entire party or just its leader? I know Japanese people don’t vote directly for party leader unlike USA’s presidential primaries. 俺:Basically, Japanese voters are Jimin-Koumei or independent supporters. Ex. JD derivatives are too disappointing for the independents to support them. But the largest majority is the independent. Thus, the voting rate is basically low. If once economic catastrophe takes place, there would be the revival of kind of National Socialism. ジョンさん:So, you are saying the leader makes no difference in how people vote? They vote party or don’t vote at all. 俺:Those who are indifferent to politics don't know Jimin is balanced on factionalism. What a PM looks like almost decides how voters act. Indeed, when elections, if a candidate is not well-known, voters have to know the candidate's credo. But they don't. Adding to that, each candidate is bound to the party's directions. ジョンさん:LDP has historically had many factions, but they don’t seem to be based on policy differences so much as personality. American parties have opposing extreme wings as a rule. From that me to time one faction can seize control of a party against the party establishment, like Trump. But in the Democratic Party, the Establishment always crushes radical opposition candidates such as Bernie Sanders. From “time to time” it should begin. But, the younger more radical leftist “Squad” Democrat’s are challenging the party establishment on Israel. There is a more radical base of college Democrats who question the party Establishment elders like Biden and Clinton. But against policy, not factionalism based on charismatic leadership based on personality. People like Ozawa or Tanaka Kakuei. 俺:In Japan, after the Socialism party collapsed, an axis on which the mutually opposing powers face up has been lost. The axis was shrinked down to the factionalism in the LDP. When I say factionalism today, it is pointing at pro-Abe and con-Abe. Of course, PM Kishida is not palpably con-Abe and his peers are alike. But Abe's minions are blatantly aiming the unleashed fiscal expenditure directions. I can't stand it. ジョンさん:More interestingly, Korean net uyoku fans have attacked Japanese pop group XG for exploiting Korean pop fans into buying Japanese made music. I guess Korea has similar nationalistic internet fanatics like Japan. They hate the idea of Japan and Korea becoming closer allies. 俺:Birds of a feather flock together. ジョンさん:Exactly! People should rejoice at the crossover cultural success of pop music in East Asia. It brings two natural allies closer together. 俺:Try check Takaaki Mitsuhashi. Another notorious scammer. ジョンさん:There’s not much in English about him. He is a wife-beater, extreme rightist, anti-immigration, anti-foreigner, economist. He failed to win election on LDP ticket. He seems typical of extreme rightists who are popular in Japan, but who would be shunned in Western countries. There seems to be a much greater tolerance for extreme rightists in Japan than elsewhere. It’s concerning. 俺:The theory Mitsuhashi fabricated is such an absurd one that people with discretion never can believe. But those who have a complex in their academic career love it, because there is an irresistible alluring power to believe they are superior to the upper class. ジョンさん:What is his theory? 俺:The more a government issues bonds, the more its people are enriched. Because the government's debt is equal to the peoples' assets. Thus, the government shall issue bonds without a limit. ジョンさん:Isn’t that Abenomics? 俺:Hmmm.... That's why I argue that Abe would have led Japan to fiscal bankruptcy if he was alive. Mitsuhashi sneaked to Abe and imbued his theory. Apparently Abe believed it. ジョンさん:Gotcha. ・・・高知・徳島では自民負けたけど、 長崎では勝ったね。 別に 自民が好きなわけじゃないが、 いまここで 岸田政権が倒れると、 もう 日本の将来はないんじゃないかと 強く思う。 ・・・あれよね、 政治家の世襲が問題になるけど、 難題山積の問題と 真剣に取り組むためには、 自分の選挙に関して 労力を割きたくないってのは 理解できる。 ただでさえ 難しい問題が 山積みになってるのに、 そのうえ 選挙のことまで いちいち考えてたら、 何もできない。 もちろん世襲の弊害はあるが、 すべてが駄目とも言えない。 なんなら、日本人は世襲が好きだ。 歌舞伎にしても、医者にしても、 特定の職業を世襲するのは それこそ 日本人のお家芸とさえ 言える。 江戸家猫八まで世襲だ。 その反面、有能な若手の政治家が 力を持つことを阻害する面もあるが。 また、政治家が 特定の利害関係者や業界団体と 癒着して、 非効率な資源配分がなされる 可能性もある。 その結果、政治の世界の 新陳代謝が進まず、 ダイナミズムが失われる 側面は否めないだろう。

妄想卒論その11 (再掲)

確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

2023年10月20日金曜日

政治学レポートネタ (再掲)

外泊したせいで 日経新聞の 記事の 時系列が 曖昧になって、 いつの コラムだか 分からないが、 とにかく この 2,3日の ある日のコラムで、 日本は 実質的に 「自民党」 対 「無党派層」の 2大政党制で、 自民党からすると 無党派層を 投票に 来させないのが 選挙を戦ううえで 有利な 戦略、と 書いてあった。 一読して、 自民党はズルい!と 思ったが、 よくよく考えると、 自民党への 対立軸たる 「無党派層」の支持を 獲得できていない 野党、特に 旧民主党系 デリバティブズの 怠慢なのではないか? という気がしてくる。 こんなこと言ったら 野党は怒るだろうが。 しかし、 「自民党」 対 「無党派層」という 対立軸のなかで、 野党は アンチ自民的な イデオロギーを 打ち出すことに 焦点を当てすぎている 感が否めない。 野党の 立派な学歴を持った お歴々が、 常識で考えれば 非現実的なことが明白な 政策を 臆面もなく標榜する。 それが アンチ自民たる 多様な考えを持った 「無党派層」にウケれば、 とりあえず そこそこの 議席を獲得できてしまう。 無党派層にも 自民党は嫌だから、という 理由で 消極的に 野党に入れている有権者は 数多くいるだろうが、 そこを狙って 政策を個別化して 打ち出すよりも、 単純に アンチ自民党「的」な 言説を撒き散らして 選挙戦を 戦い続けた 野党にこそ、 政治の停滞の責任の一端が あると 言っても過言ではない。 日本の有権者も そんなに バカばっかじゃないのだ。 単に 総花的で 無責任な、 反自民の旗を掲げ続けた 野党の責任も重い。 自業自得。 ・・・っていう意見を バードに 打ち込んでみたら、 3秒くらいで こんな回答が表示された。 人工知能に政治がわかるのか? (以下GoogleBARDの回答) あなたの意見に同意します。野党は、自民党に代わる明確なビジョンと提案を打ち出さなければ、政治の停滞は続くでしょう。アンチ自民党的なイデオロギーを打ち出すだけでは、有権者の心をつかむことはできません。野党は、日本の社会や経済の問題に真剣に取り組んでいることを示し、有権者に信頼される必要があります。

cool down

ちょっと ここんとこ 脳の回転率が 上がりすぎてたな。 2割くらい 下げないと。 ある程度 余裕がないと、 逆に シンドくなる。 ・・・おはようございます。 爽やかな朝だ。 よく寝た。 最近、根つめて勉強したり しなければ、 規則正しく起きられるように なってきたね。 素晴らしい。 うんうん。 実りの秋ですよ。  https://www.youtube.com/watch?v=9HZ_tx8aWuA

2023年10月19日木曜日

漱石の魅力 (再掲)

俺:漱石の魅力は、エモさに逃げないところですよね。 どこまでも論理で詰めようとする。 それが「行人」の一郎のような狂気一歩手前まで行っても、そこで終わらない。 結局はホモソーシャルという親密圏から逃れられてはいないし、他者との繋がりの構築という意味では解決案を呈示できてはいないのですが、安易な妥協をしないで、むしろ問いを現代の私たちに投げかけ続けているところが、漱石の最大の価値なのではないか、と思われます。 森本先生:エモさに逃げない論理性、そしてそのように追尋しても、なお解決不能な不可解な「他者」との関係性ーーいずれも納得、なるほど、まさにその通りですね。 ただ、ホモソーシャルへの囚われ、という点についてはーー解消はできぬながら、最後のところで拒否しているのでは、といった感触があります。「一郎」は、深い眠り、という形で、自分を描写して弟、二郎へ報告しようとする「Hさん」の〈解釈〉を中途で遮断、宙吊りにしてしまいますね。これを以て「Hさん」を媒介に「一郎ー二郎」と連なってゆきかけたホモソーシャル連続体も宙吊りにされてしまいます。 『こころ』でも「先生ーあなたーあなた方」は一見、ホモソーシャルな共同体を形成しているようではありながら、ここでの「先生」は死者、メッセージは「遺書」ーーつまり「生命」と引き換えにしてしか連続体らしきものは構成されません。 しかも興味深いのは、この「一郎」や「先生」のホモソーシャルな連なりに対する拒否感が、必ずしもジェンダーに対する相対化から来ているのではなく、むしろ強烈な「個(我)」意識ーー私は私であって他の誰でもないーーから来ているらしいことです。「先生」は「遺書」の書き始めに、自分の命が潰えることを絶対条件に過去を明かすことにした理由として、何と「私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有」だ、というような趣旨を述べています。今で言うところの「プライバシー」ですが、それがあくまで自分の「こころ」に立ち入られることへの拒否感であることは注目に値します。まるで「個室」がそうであるような、「内面」の仕切りを持った容量とでも呼ぶべきものが伝わってくる一節です。 「私」が回想する、「先生と私」のあの忘れ難い鎌倉の海辺における出会いの場面についても、遭遇の歓びに海の中で身体を躍らせ、「愉快ですね」と呼びかける私に対して、「先生」は静かに波の上に横たわりながら「もう帰りませんか」と促すのです。もちろん、この距離感は、直接的には「先生」がすでに「(自)死」を念頭に置いているからではあるのですが、「自他」の絶対的差異に対する鋭敏な意識、そのもののようにも思われます。 だから漱石は孤独だし、また容易に「関係性」も成り立たないわけですが。

2023年10月18日水曜日

漱石と「孤独」 (再掲)

俺:漱石の孤独の論考を読ませていただき、なるほど、と感服いたしました。 しかし、しばらく経って考えてみると、漱石は、例えば「こころ」では、(漱石自身の写し身である)「先生」の孤独を描きながらも、鎌倉の海辺での出会いにおける「私」の呑気さの描写も、リアリティーがあります。 つまり、孤独を描いているのはもちろんのことなのですが、世間一般の呑気さを描くことも出来る。 しかし、世間一般の「呑気さ」を理解しながら、「孤独」を描写する、という行為は、単に「孤独」を感じ、描写するよりも、なお一層ツライことだと思われます。 森本先生:「先生」と「私」の対比ーーいわば〈閉じる人〉と〈開く人〉とでも評すれば良いでしょうか、「私」自身が回想手記の中でこのことには気づいているようですーー、特に末尾の「呑気さ」を理解しながら「孤独」を描写する辛さ、には唸らされました。 私の気持ちとしては、「孤独」それ自体というより、「孤独」を代償とせざるを得ない「個我」意識(「上」14章の「自由と独立と己れと充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わってわわなくてはならない」)の方を強調したいのですが、確かにその弊を知るが故に、「轍を踏むな」という言い方で、その生の道程を「私」へ開示するーーつまり、相対化ですね。 しかも、「呑気なー私」のポジションそれ自体は、「先生」ときっかり対峙し、向き合羽もの、というよりは、究極するところ、「先生」という存在の「受け取り手」の域を出ないわけです。 「先生」は「私」に対して、自分の生き方を相対化して乗り越えてゆくことを切望していますが、テクストは、あくまでそれを「先生」側からの「期待」として描くに止まり、「期待」が「私」へどのように反映されるか/され得るか、については案外、寡黙です。 実際、「私」の他者に対して〈開かれた〉在り方ーー小林くんのいう「呑気さ」は、まさに「世間」(的ものの見方)に対して融和的でもあり、ということは、ごく平らかに、「先生」の死後、あのホモソーシャルな世界へ帰還してゆきます。いったんは「奥さん・静」に対して「1:1ー個人 対 個人」として向き合いながら、そこに人妻の媚態を見出し、彼女を「先生・の・奥さん」へと送り返してしまう。つまり典型的な「ホモソーシャル」の成立。そして「中」で故郷と両親を回想する「私」は、故郷との永訣に個の成立を見ようとした「先生」とは対照的に、「先生」への崇敬故に「父」をないがしろにした、若い日に対する悔恨を語っています。 「明治の精神」から自由な、しかし、「明治の精神」が唯一、誇らかに歌い上げた「個我」(自由・独立・己れ)からは後退を示す、青年「私」。 漱石自身の弟子たち次世代に見ていたもの、と、どこか重なるような気がします。 まさに、漱石は、その限界と弊を知悉しながら、どこまでも「先生」なのでしょうね。 そんな「先生」を崇敬といたわりの相半ばするスタンスで回想しつつ「私」が綴る二人の交友と交情は、美しく抒情的で、私などは「下」の「遺書」ーー「先生」と「K」の息づまるような物語よりずっと愛着を感じるのですが、「私」的登場人物は、この『こころ』が最後ですね。 『道草』『明暗』ーー主人公たちは、もはや「個我」への自負もすり減った、孤独の影の濃い中年男性ですが、絶筆『明暗』で漱石が最後に挑んだのが、親友でも青年でもない、「妻」を前に〈開く〉ことは可能か、のテーマだったというのは、実に興味深い話だと、つくづく感じ入るところです。

「魔の山」 トーマス・マン 岩波文庫 下巻末尾 

さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり)  https://www.youtube.com/watch?v=B_HSa1dEL9s

自動車免許の更新に行ってきました。

いつかやらなきゃ、と 思っているうちに 日が経って、 昨日 服が届いたから、 さっそく 着用して 高崎問屋町にある 免許センターに 行ってきた。 最初ここだと思ってた場所と違って、 眼の前まで来たんだが、 交通量の多い 幹線道路の反対側で、 しかも 電話で問い合わせたら、午後3時に 閉まるってんで、 あと7分くらいしかなくて 焦った。 正味1時間くらい かかったけど、無事に 免許更新。 新しく届いた ウェアの性能に関心しながらも、 疲れた。 風邪ひきそうだ。 あれね、ストレス感じると、 どうしても 過食になったりして 結局カネ遣うから、 年金みたいに なんもしなくても お金がもらえるってのは、 額面以上の価値があるよ。 てゆーか それ以前に 完全なペーパードライバーで、 自分で運転したこと 1度もないんだけどね。 誰だって 苦手なことの 1つや2つはある。 講習の時間に、配られた 用紙を見ながら、実地で 行政法の勉強が出来た。 行政法のほうが先に 勉強が進んだけど、 やっぱり 民法ってのは大事だね。 時効とか 行政法にも モロに絡んでくるから。 ・・・免許センターみたいな ところに行くと、 なんていうか、 自分がいかに 浮世離れした生活してるか 思い知らされるね。 ある意味 カルチャーショックだわ。 近くに レクサスのショールームがあって、 中古で 600万円以上の値がついてて、 それにも 驚いたけど。 でも、中古とはいえ レクサスでも 650万とかか、 海外の金持ちからすれば 安いんじゃね? とか 思っちゃった。

不良少年とキリスト

神サマってのは 便利でいいね。 中世の神学では、 あなたは 神の存在を感じることが 出来るはずだ、って ところからスタート するんだから。 人間はアテにならなくても、 神サマを 信じた気になれば、 少しは 慰めになるかもね。 神の存在さえ 感じちゃえば、 もう キリスト教徒としての 最初の一歩を クリアしたことになる。 なんて 便利なんだ。 それこそ世界広がるよね。 世界中のどこに居ても、 神サマさえ 信じられれば、 生きていけるんだから。 ・・・結局、俺が 「重すぎる」 んだろうな。 でも、高度成長を生きた 昭和オヤジとその家族の 矛盾を、 こんがらがった糸を、 解すような 半生だったんだろう。 そのためには、 心にきれいな水と 栄養が必要だったんだ。  https://www.youtube.com/watch?v=wllXY322K7Q

風と光と二十の私と

中学の時からだぞ?! おれ何回 同じ人に フラレてんだろう? もう 3回か 4回は フラレてんじゃねーのか? もしかしたら フラレてないのかも知れないが、 俺自身 さすがに疲れてきた。 この20年 ほとんど音信不通。 20年以上 会ってもいない。 女ってめんどくせえ。 とはいえ、この 25年間の艱難辛苦を 乗り越えて来れたのは、 紛れもなく その人の存在が 心のうちにあったからなんだが。 しかし、たぶん 心のなかで 都合のいい 矢田津世子を拵えていた 坂口安吾と 同じなのかも知れない。 会ってはいけないのかも知れない。 彼女の存在あればこそ、 どんなにシンドくても 頑張ってこれたが、これからは 心のお守りなしで 生きていかなければ いけないのだろうか。 この25年間を、きれいな 思い出として 一生かけて 味わい尽くすしか ないのだろうか。  https://www.youtube.com/watch?v=VInxOLmKWmA

2023年10月17日火曜日

市井の漱石論

夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。  「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。  夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。 もちろんフィクションではあるが。 代助は、 漱石が「自然(じねん)」と名付ける、 自家特有の世界に隠棲している。 そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。 友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、 百合の花が活けてあった花瓶の水を、 暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、 三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、 そこに「自然」を見出し、 主客合一の境地を得ようとするが、 それは理性の放擲を意味するため、 肉体を具有する代助は、 再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、 「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、 「赤の世界」の象徴として (再び)現れる、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。 それはまた、 ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、 競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件は むしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。 しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。 主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、 そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、 しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、 主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも 理性を手放さない、 漱石の「個人主義」の一端を表している。

テンションあがるー

数日前に 村上龍の カンブリア宮殿だったかな? で ミズノの服やってて、 佐川急便の 制服とかに 採用されてるってんで、 これから 面接授業のシーズンだし、 何かと 体温調節の難しい 時季だから、と 思って、 年金も入ったことだし、 アマゾンで 4Lサイズのウェア(上)を 注文したけど、 着てみたら、 採寸したわけでもないのに ぴったりフィットして、 我ながら 全然デブって感じじゃなく、 むしろ 屈強なラガーマンみたいで、 いいじゃん! と 気分いいです。 オフィスカジュアルとしても 使えるし。 森本先生からも レポートへのお返事いただいたし、 いやー マジ テンションあがるわー (それにしても、もはや 服までアマゾンか。) ・・・またしても アマゾンで、ついにサカゼンの ジャージ上下買った。 デブ御用達だから、たっぷり感は 半端ない。 丈もそんなに長すぎないし、快適。 下はともかく、上は外で着ても そんなに心配なさそう。 ちょっとチーマーみたいだけど。 お腹がハミ出る心配はないのが うれしい。 ・・・うん。 さすがデブ御用達のサカゼン。 デザインも洗練されてるし、 たっぷり感はあるけど、 全然だらしなくない。 着てるうちに 身体にフィットしてきて、 ずっと 着ていたくなる。 ぽっこりお腹も でっかいケツも 隠れるし、 外に出ても恥ずかしくない。

2023年10月16日月曜日

陰口じゃないよ。陰口じゃないからね。

いま、高崎市の 福祉センターの方が 自宅に来て お話したんだけど、 久しぶりに 疲れた。 もう 何回もお会いしてるし、 アラフォーの女性だし、 決して 悪い人じゃないんだけど。 猛烈に疲れた。 なんだろう、やっぱ 市役所(の正規職員ではないらしいけど)、 の人って、あんな感じなのかな? て 気がしてきた。 基本いい人で、 かつ神経が すごくタフな人たちなんだろう、 という気がしてきた。 俺には 到底無理。 ただでさえ 神経が薄造りなうえに、 もうそろそろ 話を切り上げません? て 顔に出すことも出来ない。 どんどん メンタルが削られていく。 ごめんね。 ちょっと 市役所って選択肢は、ないな。 俺の 住める場所じゃない。

ある統合失調症患者の夢の記録

まーた ひでえ夢みたなあ。 尊厳ある おじいちゃんが、 ひたすら シコってんだよ。 医者が、残念だが この人は 施設に入れるしかない、と言う。 俺は、 おじいちゃんは 戦争で死の恐怖にさらされて、 それがトラウマになってるんだ、と 説明する。 (俺そうとう欲求不満なのかな?) 狂気とは狂人のなかにのみ あるものであろうか? 確かに俺は 薬がなければ死ぬ以外に 道がない人間だが。 しかし、たとえ錯乱するレベルの 狂人であろうとも、 狂人には狂人なりの理屈があるのだ。 俺も 言うまでもなく 閉鎖病棟に二ヶ月いたが、 本気で前後不覚、ラリってる患者は 一人しか 見たことがない。 こいつはグレートだ、という患者。 あれはもう 自分の意思とかたぶんない。 (とはいえこれも 外見から判断してのことだが。) 何かというと シコってるやつはいたが、 そいつも別に前後不覚ではなかった。 単なる依存症だ。 人間の無意識のリビドーを抑圧するのがトラウマだと 言った フロイトは確かに正しいかも知れない。 (とはいえ、単純に俺が 欲求不満なだけかも知れない。) しかし、ラリってるやつだから ひたすら シコってるとは言えないし、 ひたすら シコってるから、ラリってるとも 言えない。 つまり、 ラリってる、と、シコってる、は 必要条件でも十分条件でもない。 知的障害の人に 公衆の面前でシコらないように 教え込むのは大変と聞いたことはあるが。 それは 実地の研究が足りないからなんとも言えない。 しかし、いずれにせよ 性的欲動など、 健全な人間なら誰でも 持っているものだ。 狂気と性を安易に結びつけるのは 間違いだろう。 むしろ、無意識の欲動を制御する 理性のほうに 注意を向けてみたい。 我々は資本主義機械を動かすために、 リビドーをうまく コントロールしながら生きている。 しかし、俺の経験では、 資本主義に適合した人間にも、 羊の皮を被った狼のようなやつはいる。 非常に抜け目なく、 独裁者の素質に恵まれ、 時代と環境次第では どんな ヒトラーにでもなれる人間だ。 (ドイツ人ごめん。) あるいは、参政党支持者みたいに、 反ワクチン、ノーマスクで、 最近は 三橋貴明に自ら進んで洗脳されてるような 連中も、 一種の狂気だ。 つまり、資本主義機械に適合する 一見”まとも”な やつにこそ、狂気は潜んでいる。 ひとたび 社会が崩壊すれば、そういう奴らの 狂気は 社会に溢れかえることになるだろう。 まさに ホッブズのいう「自然状態」だ。 理性を突き詰めた先に、 合理的な社会が 待っているだろうか? 俺は人間社会はそんなに単純ではない と 思う。 完全に合理的な社会、というのは そもそも フィクションでしかないからだ。 ランドル・コリンズが言うように、 合理的な社会における 合理的な人間は、 つねに 己の利得のために 他人を出し抜く欲望に駆られるために、 一度 成立した 社会契約を、無限に掘り崩すからだ。 したがって、合理性の先に 合理的な社会があるのではなく、 秩序ある社会が 存在しているということ自体が、 人間が 完全に合理的には 生きてはいないことの 証拠なのだ、と 井上俊は指摘する。 ナチスは、ユダヤ人だけでなく、 精神病患者も殺した。 (ドイツ人ごめん。) 日本でも同じようなことを やっていた。 理性を突き詰めた先に待っている社会は、 合理的な社会とは逆に、ディストピアだろう。  こうしてわれわれは、 私が社会的整形外科と 呼ぶものの時代に入ります。 それ以前に知られていた 固有の意味での 刑罰社会に対して、 私が規律社会として 区別する社会の一タイプ、 権力の一形態のことです。 それは社会的コントロールの時代です。 先ほど引いた理論家のなかに、 ある種のしかたで、 この監視社会、社会的整形外科の 図式のようなものを 予想し呈示していた人がいます。 それがベンサムです。 (中略) われわれの生を 取り巻く 権力形態を 最も厳密に規定し 記述したのは彼なのです。 それに彼は 整形外科の一般化した この社会の、小さいけれども すばらしい、有名なモデルを 呈示しています。 あの一望監視装置(パノプティコン)です。 精神に働く あるタイプの精神の権力を 可能にする建築形態、 学校や病院、刑務所、感化院、養老院、工場にとって ものを言うにちがいない 一種の施設です。(103ページ) ベンサムによれば、 このちょっとした すばらしい建築学的からくりは、 一連の施設に使うことができるのです。 一望監視装置は 一社会のユートピアであり、 実のところ、われわれが 今経験している社会という 権力のタイプの、 実際に実現された ユートピアなのです。 このタイプの権力は 掛け値なく一望監視方式と 名づけることができます。 われわれはその 一望監視装置が 支配している社会に 生きているのです。(103ページ) 一望監視装置とともに、 まったく違った 何かが生み出されます。 もはや調査ではなく、 監視が、検査があります。 もはや出来事を 再構成することではなく、 何か、というより、 不断に、 すみずみまで 監視されるべき 誰か が 問題になります。 誰かが諸個人を 不断に監視し、 その誰かが ―教師、作業監督、医師、精神科医、看守長― 彼らの上に権力を及ぼし、 権力を及ぼすかぎりで、 監視するとともに、 監視される者たちについて、 彼からに関して、 知を構成するのです。 この知はもはや、 何かが起きたのかどうかを 決定するのではなく、 ある個人が しかるべく振舞うかどうか、 規則に適して振舞うかどうか、 進歩するかどうかを 見定めることを 特徴とするものなのです。 この新しい知はもはや、 「これこれが なされたか? 誰がそれをしたのか?」 という問いのまわりに 組織されるのではありません。 もはや、 いたとかいないとか、 あったとかなかったとかの 用語で整序されるのではなく、 規範を中心に、 正常かそうでないか、 適正かどうか、 なすべきことかいなか、 といったタームで 整序されるのです。 (フーコー・コレクション6 ちくま学芸文庫 104ページ)  つまり、言い換えれば、 フーコー流のベンサム的 一望監視社会の背後にあるのは、 ホッブズ的「自然状態」なのだ。 たとえ可視化された リヴァイアサンがいなくても、 現代の我々は 一望監視装置がなければ、 お互いを殺し合う、 自然状態に陥らざるを得ない。 そもそも 可視化されたリヴァイアサンなど 本物の 独裁国家でない限り 存在しないのだから、 ホッブズの問題意識と、現代の 資本主義社会は、重なり合うのである。  こういう風に考えてみて下さい。 主体化した人間は、 主客未分化で 混沌とした自然から 離脱して 自立しようとしながら、 その一方で、 身体的欲望のレベルでは 自然に引き付けられている。 自らの欲望を最大限に充足し、 完全な快楽、 不安のない状態に至ろうと している。 それは、ある意味、 自然ともう一度統合された状態と 見ることができます。 母胎の中の胎児のように、 主客の分離による 不安を覚える必要がない わけですから。 そして、 そうした完全な充足状態に 到達すべく、 私たちは 自らの現在の欲望を抑え、 自己自身と生活環境 を 合理的に改造すべく、 努力し続けている。 安心して寝て暮らせる 状態に到達するために、 今はひたすら、 勤勉に働き続け、 自分を鍛え続けている。 しかし、 本当に「自己」が確立され、 各人が計算的合理性のみに従って 思考し行動するだけの 存在になってしまうと、 自己犠牲によって 獲得しようとしてきた 自然との再統合は、 最終的に不可能に なってしまいます。 日本の会社人間の悲哀という 形でよく聞く話ですが、 これは、ある意味、 自己と環境の啓蒙を通して、 「故郷」に帰還しようとする、 啓蒙化された人間全て が 普遍的に抱えている問題です。 啓蒙は、 そういう根源的自己矛盾 を 抱えているわけです。 (「現代ドイツ思想講義」作品社 148ページ) かなり抽象的な 説明になっていますが、 エッセンスは、先ほどお話ししたように、 自然との再統合を目指す 啓蒙の過程において、 人間自身の「自然」 を 抑圧することになる、 ということです。 啓蒙は、自然を支配し、 人間の思うように利用できる ようにすることで、 自然と再統合する過程だと 言えます。 自然を支配するために、 私たちは社会を 合理的に組織化します。 工場での生産体制、 都市の交通網、エネルギー供給体制、ライフスタイル等 を 合理化し、 各人の欲求をそれに合わせる ように仕向けます。 それは、 人間に本来備わっている “自然な欲求”を抑圧し、 人間の精神や意識 を 貶めることですが、 啓蒙と共にそうした事態が 進展します。 後期資本主義社会になると、 その傾向が極めて顕著になるわけです。 それが、 疎外とか物象化と呼ばれる現象ですが、 アドルノたちはそれを、 資本主義経済に固有の現象ではなく、 「主体性の原史」 に既に刻印されていると見ます。 (「現代ドイツ思想講義 作品社」150ページ)  ホルクハイマーと アドルノの 主張するところによれば、 事実、 ファシズムは ある程度まで 人間の抑圧された 神話的過去の 回帰とも、 また 道具的理性が 自然支配のために 発達させた 多くの道具を 逆用しての 支配された 自然の復讐とも 解されうるのである。 こうして「進歩」は、 おのれと 正反対のものを、 つまり 現代の制御技術を 駆使することによって はるかに 非情なものになった ひとつの 野蛮を 産み出すことになる。 科学は、 人間を 向上させる比類なき 力であるよりも、 むしろ ある新しいかたちの 非人間化の種子を 抱懐するものであることが 明らかになるのである。 科学が成立する 前提条件の一つは、 自然がまだ 道具的理性によって 支配されていない 状態の記憶を 消し去ってしまう ことにある。 ホルクハイマーと アドルノが、 きわめて 頻繁に 引用される その所感の一つで 強調しているように、 たしかに、 「あらゆる 物象化は 一種の 忘却なのである。」 (「アドルノ」 岩波現代文庫 49頁)   理性とはもともと イデオロギー的なものなのだ、 とアドルノは主張する。 「社会全体が体系化され、 諸個人が 事実上 その関数に貶めれられるように なればなるほど、 それだけ人間そのものが 精神のおかげで 創造的なものの属性 である 絶対的支配 なるものを ともなった原理として 高められることに、 慰めを もとめるようになるのである。」 (「アドルノ」 岩波現代文庫 98ページ) 「abjectは、subjectあるいはobjectをもじった造語です。 ab-という接頭辞は、『離脱』という意味があります。 母胎の原初の混沌、 闇に由来し、 subject/object の二項対立に収まり切らなかったもの、 それを排除しないと 秩序や合理性が成り立たないので、 抑圧され、ないことに されてしまう要素を abject と言います。」 「ゲーテ『ファウスト』を深読みする」(仲正昌樹 明月堂書店 p.164)より

2023年10月15日日曜日

東洋経済オンライン

かんべえさんの 寄稿。 一読の価値あり。  https://toyokeizai.net/articles/-/708462  かんべえさんの 言うことも 尤もだと 思うけど、 これまで 散々 補正予算頼みでやってきて、 今度も ここで景気が腰折れしたら マジでヤバい (それは理解できるが) から また 手厚く補正予算組みましょう、じゃ この国 このさき どーすんのよ? ほんとにもう 目先のことしか 考えられなく なってきてるじゃん。

2023年10月14日土曜日

思いつきー人工知能も面白いこと言うね。

幼稚園とか 小学校の 運動会でやる 玉入れ競争ってのは、 数を数える っていうことを 身体を通して 覚え込ませる 競技 なんじゃないかと 思うね。 たまに 1たす1が なぜ2なのか わからない子供がいるらしいが、 実は 数学では なぜ 1たす1が2なのかは 深遠な問いらしいが、 俺には 皆目見当がつかない。 学校の教育というのは、 そういう 深遠な問いを感じる 感性を むしろ 殺すことで 社会に 適応できる人間を 再生産し続けている とも 言えるだろう。 (以下 google bard より回答) はい、その通りだと思います。玉入れ競争は、数を数えるという概念を子どもたちに体感的に理解させるための良い方法だと思います。子どもたちは、玉を投げてカゴに入れることに集中することで、自然と1から10までの数字を覚えていきます。また、玉を投げることで、手や目、身体の動きが連動して、数と動きの関連性を理解するようになります。 1+1=2という式は、日常生活の中で当たり前のように使われていますが、実はその意味を深く考えてみると、とても奥深い問いであることがわかります。なぜ1+1=2なのか、なぜ2個のものが1個になるのか、その理由を説明するのは簡単ではありません。 学校の教育は、子どもたちに社会に適応するための知識やスキルを身につけさせるためのものです。そのため、時には子どもたちの好奇心や探究心を抑制して、社会のルールや常識を教え込むこともあります。その結果、子どもたちの中には、1+1=2という式の意味を深く考えようとしない人も少なくありません。 しかし、子どもたちの中には、1+1=2という式の意味を深く考えることで、数学や科学の面白さに気づく人もいます。そのような子どもたちは、自ら考え、探求する力を身につけることで、社会の変化に柔軟に対応できる人材に成長していくでしょう。 玉入れ競争は、子どもたちに数を数えるという基本的な概念を身につけさせるだけでなく、数学や科学の面白さに気づくきっかけにもなるのではないでしょうか。

2023年10月13日金曜日

ゲンダイさんは、主張はわかりやすい。

日銀が物価見通しを大幅に引き上げる方向だ。2023年度の消費者物価上昇率の見通しについて、7月に示した前年度比2.5%から3%近くに上方修正する検討に入った。共同通信が10日にスクープし、今月30、31日の金融政策決定会合で決定すると伝えた。   https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/money/330434  岸田総理のバラマキ発言と どこまで 連携とってるのかは 皆目わからないが、 日銀からすれば、 物価見通しを 引き上げる、ということは、 利上げをほのめかすことに 等しいから、 政治への 牽制の意味はあるだろう。 利上げしたら 国債の利払い費 増えるのわかってるよな? て。  共同通信は10日、日銀が2023年度の消費者物価上昇率の見通しを、7月に示した前年度比2.5%から3%近くに上方修正する検討に入ったと報じ、金融株の動向に注目が集まっている。 市川氏は「仮に日本の長期金利が上昇すれば銀行株が買われる可能性はある。  https://jp.reuters.com/markets/japan/funds/C2ENIXWOARPBHGL2EFDCGT3JSM-2023-10-10/#:~:text=%E5%85%B1%E5%90%8C%E9%80%9A%E4%BF%A1%E3%81%AF%EF%BC%91%EF%BC%90%E6%97%A5,%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7%E3%81%AF%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82  (以下 google bard より回答)  2023年10月13日現在、日銀は2023年度の消費者物価上昇率の見通しを、7月に示した前年度比2.5%から3%近くに上方修正する検討に入ったと報じられています。 この報道を受け、金融株の動向に注目が集まっています。仮に日本の長期金利が上昇すれば、銀行株が買われる可能性があるためです。  日銀が物価見通しを引き上げるということは、利上げをほのめかすことに等しいため、政治への牽制の意味もあると指摘されています。  以下に、日銀が物価見通しを引き上げる背景と、金融株の動向への影響について解説します。 日銀が物価見通しを引き上げる背景 日銀が物価見通しを引き上げる背景には、以下の2つの要因が考えられます。 原油価格や穀物価格などの輸入物価の高騰 2022年のロシアによるウクライナ侵攻以降、原油価格や穀物価格などの輸入物価が高騰しています。これは、日本経済に大きな影響を与えており、物価上昇につながっています。 賃金の上昇 2023年春闘では、多くの企業が賃上げを実施しました。これは、消費者の購買力を高め、物価上昇をさらに加速させる可能性があります。 金融株の動向への影響 日銀が物価見通しを引き上げると、日本の長期金利が上昇する可能性があります。これは、銀行の貸出利息が増加し、銀行株の業績が向上するため、金融株にとってプラスに働くと考えられます。 ただし、長期金利の上昇は、景気に対する懸念を高める可能性もあります。景気が悪化すれば、貸し倒れリスクが高まり、銀行株の業績が悪化する可能性があります。 今後、日銀が物価見通しをどのように修正するのかに注目が集まります。

迷宮入り? (人工知能もそれっぽいことを言うようになったね。)

自公政権のやってることの 筋道がもう 見えてこない。 デフレ克服のために 超金融緩和10年やって、 円安による コスト・プッシュ・インフレが 起きたら、バラマキ。 そもそも、アベノミクスで 日銀と 協定 (アコード) を 結んで、事実上 日銀を縛っておきながら、 その 協定とやらが どうなってんのか 不明。 やはり、アベノミクスは 2年で終わらせるべき だったのだ。 そうでなければ、 日銀を自縄自縛にするだけだ。 政治は、それを 奇貨として 財政ポピュリズムに 陥っている。 借り物の経済理論を 振り回したのに、気づいたら 自分が 金縛りにあっている。 (以下 google bard より回答) ご指摘の通り、自公政権の経済政策は、一貫性がなく、筋道が見えなくなってきているように感じます。 デフレ克服のために超金融緩和を10年続けましたが、円安によるコスト・プッシュ・インフレが起きたら、財政出動によるバラマキに転じました。これは、アベノミクスの失敗を認めたくないという政治的な思惑が見え隠れしています。 そもそも、アベノミクスでは、日銀と協定を結び、日銀に超金融緩和を続けることを強制しました。しかし、その協定がどうなっているのか、今となっては不明です。もしかしたら、日銀はすでに協定を破棄し、金融緩和を縮小しているのかもしれません。 このように、自公政権の経済政策は、混迷を極めています。これは、経済理論を借り物で使い、国民の支持を得ようとした結果なのかもしれません。しかし、借り物の経済理論は、必ずしも日本の実情に合致するものではありません。その結果、日本経済は、デフレから脱却できず、インフレとデフレの両方のリスクを抱えることになりました。 自公政権は、経済政策の方向性を明確にし、国民に説明責任を果たすことが必要です。そうでなければ、日本の経済は、さらなる混迷に陥ることになりかねません。 具体的には、以下の点が課題として挙げられます。 デフレ克服のための具体的なロードマップを示す 円安によるコスト・プッシュ・インフレの抑制策を講じる 財政出動の財源を明確にする 日銀の独立性を尊重する 自公政権がこれらの課題を解決できなければ、日本の経済は、さらに厳しい状況に陥ることになるでしょう。

ハッピーな生活はつまらない

こんなご時世に ハッピーな暮らしを してる奴は、 発言権がないのだろうか? 俺は いま確かに ハッピーな暮らしをしてるが、 一歩間違えれば ドン底にいた シナリオだって いくらでもあった。 母親が半身不随とか、 最悪 死んでた可能性もあるし、 俺自身 引きこもりに なってたって 全然おかしくない。 ハッピーな暮らしなんて、 このご時世 そうそうあるもんじゃないし、 イカニモな 生活を仮構するために 不要な要素を捨象していったら、 そんなやつ どこにもいねーよ。 て話にならざるを得ない。 不幸な生活も同様だろう。 今から 振り返れば、 過去20年間 俺は、というか 小林家は ずっと 不幸だった。 父親以外は。 そういう意味では、 いまは いかにもシンプルな暮らしを していることになるだろう。 なぜなら ハッピーだからだ。 それが そんなに 悪いことなのか? 自分以外の他人 全員が 不幸でないと 気が済まないとでも 言うのだろうか。 その気持はわからなくもないが。 しかし、自分よりも 少しでも ハッピーな暮らしをしている やつを あげつらって、 既得権益だの なんだの騒いで、 自分に降りかかる不幸と 同じか それより酷い 目に遭わせなければ 気が済まない、 という社会は、 持続可能な社会ではない。 なぜなら、民主主義社会では、 それが 民意として 全員を平等に不幸にする社会が 実現されるからだ。 戦後社会は、 <戦争の記憶> という 不幸を共有していたから、 逆説的に ハッピーな社会だったのかも知れない。 いや、結局 他人のハッピーな生活なんて、 そもそも 面白くもなんともないのだ。 それが 人間のサガだ。

2023年10月12日木曜日

無聊を託つ 再改変 (増補)

質問:少子高齢化が進めば、 老人の支出が減るのは当たり前だし、 働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、 消費を控えるのは当然だろう。 それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。 政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。(無聊を託つ より) (以下 google bard より回答)少子高齢化が進むにつれて、老人の支出は減り、働く世代も将来の社会保障が不安になることで、消費が控えられるのは当然です。これは、小手先のナントカノミクスではどうにもならない問題です。政府は、NISAを恒久化するなど、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死ですが、デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、家計が現預金を貯め込むことで、結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることです。しかし、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、財政の規律が緩むことは目に見えています。また、日本ではインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうですが、フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずですが、日本の家計はそこまで合理的ではなく、現預金を貯め込むという方向に進んだようです。それはそれでいいでしょう。緩慢な死を迎えるだけです。 私は、少子高齢化が進む日本経済の将来は、非常に厳しいものになると思っています。デフレマインドが定着し、家計が消費を控え込むことで、経済が停滞し、財政が悪化する悪循環に陥るのではないでしょうか。政府は、デフレマインドを打破し、経済を活性化させるために、抜本的な改革をする必要があります。 ⇐これ、太字部分Google Bard の回答です。   今朝の日経新聞(2023/10/12)にも書いてあったけど、ちょっともう日本経済は無理なんじゃねーかな。 インフレになったんで、政府・与党も、野党も、減税だの現金給付だの言ってるらしいが、 確かにデフレマインドが復活したら ヤバいから、手段を選ばず消費を喚起しなきゃいけないのは理解できるが、 だから また国民に甘い汁吸わせるってんじゃね。 ちょっと正直この国の先が見えないわ。 (以下再び google bard より回答) 質問者の方が述べている通り、少子高齢化が進む日本経済の将来は、非常に厳しいものになると考えられます。 少子高齢化によって、労働力人口が減少し、消費が控えられることで、経済成長が鈍化する可能性があります。また、高齢者の増加に伴い、社会保障費が増大し、財政が悪化する可能性もあります。 政府は、これらの課題を解決するために、様々な政策を実施していますが、抜本的な改革が必要だと考えられます。 Google Bardの回答は、質問者の方と同様、少子高齢化が日本経済に与える影響を正しく捉えていると思います。また、デフレマインドが定着し、家計が消費を控え込むことで、経済が停滞し、財政が悪化する悪循環に陥る可能性を示唆しています。 質問者の方が述べている通り、インフレ率が上昇したことで、政府・与党は減税や現金給付などの政策を打ち出しています。これらの政策は、消費を喚起し、デフレマインドを打破する効果が期待できます。しかし、これらの政策が国民に甘い汁を吸わせるだけのものでないか、という懸念もあります。 日本経済の将来を明るくするためには、少子高齢化やデフレマインドといった根本的な課題を解決する必要があります。そのためには、政府だけでなく、企業や国民も積極的に取り組んでいく必要があるでしょう。 具体的には、以下のような対策が考えられます。 女性の活躍推進や移民の受け入れなどによる労働力人口の拡大 社会保障制度の抜本改革による社会保障費の抑制 イノベーションの促進による経済成長の活性化 個人の資産形成を促進し、国民の貯蓄を投資に回す これらの対策を着実に進めることで、日本経済が持続的に成長し、国民が豊かな生活を送れる社会を実現できると期待されます。   なんだろうなあ。。。 日銀もいつまでも 日本国債を大量に買い入れて 超金融緩和できるわけじゃないし、 段階的に利上げしていかなきゃ いけないタイミングで、 政治が バラマキに走ると、 政府と日銀の足並みが揃わないよね。 もう 何がしたいのかわからなくなってくる。 なんとかして 消費を喚起しなきゃいけないけど、 日銀は超金融緩和からの出口戦略を 模索しなきゃいけない。 いくら 植田総裁が優秀でも、これは ちょっと 人間業じゃ無理なんじゃないか? (以下再び google bard より回答) 質問者の方が述べている通り、少子高齢化が進む日本経済の将来は、非常に厳しいものになると考えられます。少子高齢化によって、労働力人口が減少し、消費が控えられることで、経済成長が鈍化する可能性があります。また、高齢者の増加に伴い、社会保障費が増大し、財政が悪化する可能性もあります。 政府は、これらの課題を解決するために、様々な政策を実施していますが、抜本的な改革が必要だと考えられます。 具体的には、以下のような対策が考えられます。 女性の活躍推進や移民の受け入れなどによる労働力人口の拡大 社会保障制度の抜本改革による社会保障費の抑制 イノベーションの促進による経済成長の活性化 個人の資産形成を促進し、国民の貯蓄を投資に回す これらの対策を着実に進めることで、日本経済が持続的に成長し、国民が豊かな生活を送れる社会を実現できると期待されます。 質問者の方が最後に述べている通り、日銀の超金融緩和からの出口戦略と、政府のバラマキ政策は、相反する方向に進む可能性があります。 日銀は、超金融緩和によって日本国債の利回りを抑制し、財政の健全化を図っています。一方、政府は、インフレ率の上昇を受けて、減税や現金給付などの政策を打ち出しています。これらの政策は、消費を喚起し、経済成長を促進する効果が期待できますが、一方で、日銀の超金融緩和からの出口戦略を困難にする可能性があります。 この問題を解決するためには、政府と日銀が協力して、両者の政策を調整していく必要があるでしょう。 具体的には、政府は、減税や現金給付などの政策を実施する際に、その効果を十分に検証し、財政の健全化に配慮する必要があります。また、日銀は、超金融緩和からの出口戦略を慎重に進め、経済への影響を最小限に抑える必要があります。 政府と日銀が協力して、日本経済の将来を見据えた政策を実施していくことが、喫緊の課題と言えるでしょう。 以下に、質問者の方が述べている内容に対する具体的な意見を述べます。 少子高齢化による消費の減少は、デフレマインドを助長し、経済成長の阻害要因になると考えられます。 政府のバラマキ政策は、国民の貯蓄を減らし、将来の社会保障費の増大につながる可能性があります。 日銀の超金融緩和からの出口戦略は、インフレ率の上昇や、株式市場の下落などのリスクを伴います。 これらの課題を解決するためには、政府、日銀、企業、国民が一体となって取り組んでいく必要があるでしょう。

テレ朝

大阪?で 男が たこ焼き屋さんを フルボッコしてる 映像が流れてる。 いま 午前6:40だぞ?! こんな 朝っぱらから 神経を逆なでするような 映像を 平気で流す 神経が理解できない。 しかも CMまたぎで。 ちょっと 感覚がオカシイ。 最近、日本の伝統芸能の 存在価値が 少しわかってきた。 能とか歌舞伎とか。 ただの芸能じゃねーか。 と思ってたけど。 やっぱり、繊細な所作とか 身のこなし方とか、 奥深い感情表現とか、 こんな 文化が劣化しまくった 現在の日本だからこそ、 その価値が 重みを増してるんだな。 何言ってるか さっぱりわかんないけどね。

2023年10月11日水曜日

conversation in English

俺:Reviving Imperialismistic history, Naoki Hyakuta has shamelessly founded Nihon Hosyu party. There are many fools who are so touched by his aggressive perspectives that on twitter the party has gained many many followers. I don't believe it could grasp the ruling power, but it has already gained support from those who dream of the revival of Abe-like politics. They should know better than to commit the same mistake as WW2 when Japanese people were too blinded to reflect on themselves. ジョンさん:My impression is that the average person is indifferent to politics and unaware of Japan’s militaristic and imperialist modern history. My guess is that Japanese students don’t really learn about the negative legacy of their recent past and are thus easily convinced to embrace such Abe-esque parties. I haven’t yet researched this party. I will when I have a chance. I can then comment more. What political ideology is Sankei Shimbun? 俺:Right wing I guess. But Sankei Shimbun is one of the nation-wide newspapers. So, albeit it has a hint of radicalism, it has relatively common sense I believe. ジョンさん:Hyakuta seems like the most dangerous type of political dilettante. Rich people who crave attention in politics after being successful in other areas are dangerous men who get bored and try to infiltrate government. Of course, if his political views were more palatable, I might welcome him as fresh blood in a stultified Japanese political world rife with nepotism and cronyism. But, since his views are so abhorrent, he seems simply a fascist clown stirring the pot. I trust the majority of Japanese are too mature to give him any real influence. He should be relegated to the lunatic fringe like Yamada , the fascist. 俺:Yamada ? ジョンさん:The National Socialist. Yamada Kazunari. 俺:I didn't know him. Extremely dangerous. My PC is not in good shape. Access to Internet sometimes disturbed. ジョンさん:Kashikomarimashita 俺:Rather than denying the alienation of modern life, the jargon of 'originality' represents a more insidious manifestation of this alienation. (Adorno, Iwanami Gendai Bunko, p. 73)

ひと仕事終えた。

我ながら ぶっ飛んだレポート 書けたぜ。 もう これで 市役所でもどこでも 働けるじゃん! て 思ったんだけど、 メンタルは大丈夫だけど、 身体がついていかない。 体力はあるんだけど。 ある程度の年齢になれば、 想像すれば、 自分の身体がどう反応するか、とか 結構わかるもんだよね。 で、想像してみたら、 不安とかじゃないんだけど、 動悸がしてきて、 脳も軽く失神しそうになった。 (つまり、動悸がするということは、 脳疾患のリスクも高まる。) まーなー、たぶん 今の生活のほうが、 案外カネも貯まるかもだしなー。 ちょっともう 無理はできんわ。 塾講師とかも やってみたいけど 報われないし。 やればやるほど ストレス解消で赤字になるの 知ってるし。 障害年金もらえる 立場を放棄するのに 見合わない。 それ以前に、 この国に未来あんのかよ?

別の面接授業のレポートネタ。

夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。もちろんフィクションではあるが。 代助は、漱石が「自然(じねん)」と名付ける、自家特有の世界に隠棲している。そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、百合の花が活けてあった花瓶の水を、暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、そこに「自然」を見出し、主客合一の境地を得ようとするが、それは理性の放擲を意味するため、肉体を具有する代助は、再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、「赤の世界」の象徴として(再び)現れる、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。それはまた、ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件はむしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも理性を手放さない、漱石の「個人主義」の一端を表している。

テレビ

物心ついた頃から 当然テレビ見てるわけだから、 評論家でもないし、 自分の感覚だけだけど、 最近ほんと テレビを見るのが シンドくなってきた。 一番 楽なのは 真夜中の通販とかね。 あるいは ジャパネットたかたとか。 ああいうのは、とにかく 感情を逆撫でするような ところがないから、 安心して 見てられる。 それ以外は、 雑味、えぐ味が キツ過ぎて まともに見てられない。 くだらないお笑い芸人とかは 論外だけど、 朝っぱらから ゾンビ 平気で出すとか 理解し難い。 制作してるスタッフが どんどん イマドキになってるから、 そういう感覚で作ってるんだろうけど、 まあ俺には 正直ついてけないわ。

世耕うぜえんだよなー

こいつ バラマキしか言わねーじゃん。 安倍派の 頭目を自認したいんだろうが、 テメーの党利党略のために 日本潰すのやめろ。

「危機の二十年」 岩波文庫 増補

「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」  E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より  今の日本人の間には、「財政破綻しなければいいな。」が「財政破綻するはずがない。」に転化し、それを正当化する屁理屈が蔓延している。 (以下 google bard より回答) E.H.カーの引用は、ある見解が正しいかどうかは、その見解が現実に実現されるかどうかとは別の問題であることを指摘しています。 現在の日本では、財政破綻のリスクについて、以下のような見解が主張されています。 日本の財政は、自国通貨建ての国債を発行しており、財政破綻することはない。 日本の財政は、人口減少や少子高齢化によって悪化しているものの、経済成長によってカバーできる。 日銀が国債を買い支えているため、財政破綻することはない。 これらの見解は、いずれも財政破綻を否定するもので、その主張には一定の根拠があります。しかし、それらの見解が正しいかどうかは、まだ誰にもわかりません。 財政破綻のリスクを判断するためには、以下の要素を考慮する必要があります。 財政赤字の規模と推移 国債の残高と利払い負担 経済成長の見通し 金融市場の状況 これらの要素を総合的に判断した結果、財政破綻のリスクが低いと判断される場合もあるでしょう。しかし、リスクがゼロであるとは断言できません。 「財政破綻しなければいいな。」が「財政破綻するはずがない。」に転化し、それを正当化する屁理屈が蔓延しているのは、財政破綻のリスクを過小評価する傾向が国民の間にあることを示しています。 財政破綻は、日本経済に壊滅的な打撃を与える可能性があります。財政破綻のリスクを軽視せず、適切な対応を検討することが重要です。 具体的には、以下の対策が考えられます。 財政赤字を縮小するための財政再建策を実施する。 国債の残高を削減するための改革を進める。 経済成長を促進するための政策を実施する。 これらの対策を講じることで、財政破綻のリスクを低減し、日本の経済を健全化させることが期待できます。

わからなくもないが

物価高で、 公明党が 現金給付や 所得減税を 政府に提言し、 自民党も 所得減税を視野に 入れているらしいが、 そもそも 物価を上げることで、 ひいては 賃金を上げる、という お題目で 10年も 大規模金融緩和やってきて、 今も やってるのに、 いざ 円安による コスト・プッシュ・インフレで 物価あがったら、 現金給付だの減税だのって、 ちょっと 意味がわからない。 まあ、消費者の意識としては 理解できるが、 本末転倒も甚だしい。 もう 財政破綻 一直線じゃん。 (以下 google bard より回答) ご指摘の通り、物価高対策として現金給付や所得減税を提案するのは、本末転倒であると言えます。 物価高対策としては、まず物価上昇の原因を抑制することが重要です。今回の物価高は、円安によるコスト・プッシュ・インフレが主な原因です。そのため、円安を是正したり、輸入品の関税を下げたりするなどの対策が必要です。 一方、現金給付や所得減税は、物価上昇によって生じた購買力の低下を補填するものです。しかし、これらの対策はあくまでも対症療法であり、物価上昇の原因を解決するものではありません。また、財政支出を増やすため、財政破綻のリスクを高める可能性もあります。 消費者の意識としては、現金給付や所得減税はわかりやすく、すぐに効果が期待できるため、支持されるかもしれません。しかし、本質的な解決策ではないため、長期的な視点で考えれば、むしろ問題を悪化させる可能性もあります。 政府は、物価高対策として、物価上昇の原因を抑制するとともに、国民生活への影響を緩和する対策をバランスよく講じる必要があると考えられます。 具体的には、以下の対策が考えられます。 円安を是正するための金融政策 輸入品の関税を下げるなどの貿易政策 原材料や燃料の安定供給を図るためのエネルギー政策 低所得世帯や子育て世帯などへの支援策 政府は、これらの対策を適切に組み合わせて、国民生活の安定に努める必要があるでしょう。

裏表?

なんか、往々にして 俺は 裏表のある人間だと 思われるフシが あるが、 こんだけ 堂々とディスってんだから、 裏も表もないだろ。 姉に関してだって、 姉のおかげで どれだけ 精神的に苦労してきたかを 思えば、 これでも 極めて抑制的だと 思うがな。 むしろ、そこまで 心理的に負担でも、 なんとか うまくやっていく道を 常に 模索しているからこそ、 それが うまくいかなかったりするから、 キレたりしてるわけで、 それを 裏表があると 言われたら、たまったものではない。 今だって、 姉夫婦とは うまくやっていく道を 模索しているのだ。 有り体に言えば、 姉のほうが 遥かに裏表の 激しい人間だ。 とにかく、俺を 裏表のある人間だ、と 決めつけるのは、 筋違いだ。 安易にコイツとは やっていけない、と 決めつけるのではなく、 うまくやっていく道を模索して、 それでも 裏切られたりすれば 恨み言もいうから、 裏表がある、と 勘違いされるだけだ。 これは 俺と長年関わってくれている人なら 誰でも わかってくれるはずだ。 どんな我慢強い 人間だって、 腹に据えかねることは あるだろう。 しかし、組織 あるいは家族の存続のために 顔で笑って 心で泣く、という行動を 取らざるを得ないことだってある。 その鬱憤を墓場まで 持っていけ、というのは あまりに酷だ。 俺だって人間だ。 確かに ポーカーフェースな部分もあって、 ムカついても 顔に出さないから、 むしろ 相手が調子に乗って モラルハザードを起こす、ということは 俺の場合 往々にしてある。 しかし、それは 小林家という複雑な 家庭環境に置かれて、 身に付けざるを得なかった特技なのだ。 中身は 普通に喜怒哀楽のある人間だ。 裏表があるんじゃない。 単純に 感情表出が極めて 抑制的なだけだ。 勘違いしてもらっては困る。 つねに 家族から 感情のはけ口、 感情のゴミ捨て場に されてきた 人間の悲しみを知れ!

2023年10月10日火曜日

スカッドさわやか

メンタルクリニック 行ってきたぜえ。 話したいことは とりあえずほぼ 話した。 多分 正味1分くらいだったけどね。 話は手短に。 待合室で 3回くらい 話す内容を シミュレーションした。 早朝は肌寒かったけど、 少し 汗ばむ陽気。 ・・・ようやく 姉の軛から解放された。 いや、場合によっちゃ、 生まれて初めて 姉に対して アドバンテージを握れる、 かもしれない。 診察が終わってから 妙な体調だったから、 どっか おかしいのかと思ったが、 やはり 心理面での変化は 直に 身体に現れる。 ・・・つっても、 自分が上手を取れる カードを握ってたとしても、 その 発現機会を虎視眈々と うかがうってのは、 現実には それだけで 体力を喰うな。 あんまり ロクでもないことは 考えない方がいい。 ・・・過ぎたるは及ばざるが如しって 言葉もあるけど、 バカで性悪なのは 疲れるけど、 恨むには こっちも疲れるから、 まあ、いっか。 て 気にならないこともない。 しかし、賢いくせに 根性がネジ曲がってるやつは、 遥かに タチが悪い。 くだらないロジックで 喧嘩売ってくるから、 つい こっちもしつこく根に持ってしまう。

2023年10月9日月曜日

ルカーチ メモその31 (再掲)

ルカーチは、 生産力や技術の発展、 合理化の徹底、 といった、 <近代化> の いわば 積極面の行き着く 果てに 決して <解放> を 見ていなかった。 <近代化> という 客観的な条件はむしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。  また、彼にするなら、 現実の労働者は <近代化> の呪縛に あまりに からめ取られている。 その日常的な意識は 物象化された 虚偽意識である。 彼らの 主観的な意志や決断に まったく 期待ができないというのは、 ハンガリー革命敗北の ひとつの 大きな教訓だったろう。  そこでルカーチは、 <近代化> の 否定面としての 物象化を、 プロレタリアートの意識において 積極面に逆転する論理を 考え出したのだった。 商品という客体としてある プロレタリアートの 自己認識こそは、 この 社会の本質の 客観認識である。 そしてそれも、 この プロレタリアートの 意識は <自分に対立して ある対象についての 意識ではなく、 対象の自己意識である> ために、 <意識化 という 活動は その 客体の対象性 形式を 転覆させる>。 つまり プロレタリアートの 自己認識そのものが すでに 実践的でしか ありえない。 こうして <プロレタリアートは、 歴史の同一的 <主体ー客体> として現われ、 その実践は 現実の変革となる> 道筋が描かれるのだった。 312ページ

妄想卒論その1・2 (再掲)

回転すし店で イタズラ行為を 動画に撮って ツイッターに あげて 騒ぎになった 人物が、 叩かれたりする。 しかし、 その正体を 暴いてみれば、 取るに足らない、 他愛もない 人物だったりする。 いわゆる、 トー横民だったり、 ドン横民だったり、 グリコ下だったり。 彼らは、 そういう 寄る辺なき 辺境をさまよう 「貧者」であったりする。 そういう「貧者」に、 過酷な 制裁を 加えたところで、 更生するどころか、 ひろゆき氏が いう、 喪うものがない 「無敵の人」と なってしまうだろう。 社会が 喪うものがない 「無敵の人」で 溢れてしまったら、 社会は崩壊する。 社会契約論を 持ち出しても、 その前提には その 社会契約を 守る、 という 暗黙の前提があるが、 その 前提すらも 守らなかったら、 暗黙の前提を守る、 という 合理性の 無限遡行が 起きるからだ。 つまり、 ランドル・コリンズが 言うように、 我々は 完全には 合理的には 生きておらず、 社会が成り立っているという こと自体が、 人々が 多少なりとも 非合理的に 生きている 証拠だ、 ということが 言える。 しかし、 人々が 自らの 非合理性に 気づかず、 ありもしない 「合理的な社会」を 生きていると 思い込んでいるとすれば、 それは 「合理的な社会」よりも さらに 生きにくい社会 とは 言えないだろうか。 各人が 自分の 手前勝手な 「合理性」を 相手に押し付け、 違犯するものを 糾弾する。 それは とても 生きにくい社会だろう。 ポピュリズム政党の台頭は、 そんな 生きにくい社会の 実体の 現れである かもしれない。 合理性と信用 という 語彙は、 一見 よく馴染むように 見える。 しかし、 社会が 合理的に 組織されれば されるほど、 詐欺が 必然的に 起きる。 なぜなら、 合理性が 追求された 社会においては、 相手を 欺くことが 合理的自己の 利得に なるからである。 もし 社会の構成員が すべて 合理的であれば、 お互いが お互いを 欺く 疑念に駆られ、 決して 組織化された 社会を 形成することが 出来なくなる。 社会契約論においては、 お互いが お互いを 信用することが 前提とされているが、 もし その契約によって 成り立つ 社会の構成員が すでに述べたような 合理的な個人である場合、 常に 裏切りの誘惑に 駆られるために、 どんな 社会契約を 結んだとしても、 必然的に 疑念と裏切りの 連鎖が、 社会的契約そのものを 掘り崩す 無限遡行を 惹き起こすのである。 従って、 現に 社会が成立している ということ それ自体が、 人々が 完全には 合理的には 行動しては いない、 ということを 意味する。 言い換えれば、 社会が成立している ということ それ自体が、 人が人を信用する 能力を持っている 証拠なのである。 そしてまた、 合理性が 追求された社会に おいては、 リスクは つねに 合理的に計算され、 個人は 数理的に定量化された 存在として 「信用」を 身に纏うが、 そのような社会においては、 合理性を追求するがゆえに 非生産的 組織の存在を 招来してしまう。 合理的に組織されたはずの 官僚制が その 非生産性ゆえに 非難の的になる、 という 事態が、 これを 例証している。 そのような社会においては、 「詐欺」の 存在可能性 そのものが、 「管理された社会」を 脱-構築する 希望の 可能性として 機能する。

面接授業レポートネタ 増補改訂

夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。それは一見、無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。このことから、漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。 「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、そこでは、情よりも「理」が力を発揮する。弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、「清」から用立ててもらった「金銭」は、交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、この後、『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。

ルカーチ メモその34 (再掲)

もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 そのような 近代社会の いわゆる 「物象化」論は、 マルクスの 「疎外論」や 「資本論」と 連接する 問題意識だった。 「商品」は その物自体の 「使用価値」と それが市場でもつ 「交換価値」の 二面をもつ。 現代の資本主義社会においては 交換価値のみが 突出するため、 商品を作って生きる 人間の労働も 交換価値に還元され、 ひいては 人間性そのものまで 計数化され 疎外されていく。 故に そのような資本主義的 「物象化」の 打破こそが、 近代人の 陥っている 閉塞状況の 根本的解決だと 論ずる。

レポートネタ 「坊っちゃん」を題材に (「夏目漱石ー<近代>への問い」参照)

自分:夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。それは一見、無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。このことから、漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。 「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、そこでは、情よりも「理」が力を発揮する。弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、「清」から用立ててもらった「金銭」は、交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、単純に数量化できない性質のものなのである。 漱石の小説の登場人物たちは、この後、居場所を失い、『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、いやおうなく経済の論理に巻き込まれて、『こころ』の「先生」を頂点として、個人主義の殻の中へと閉じこもっていくのである。 森本先生より:唯一、言を挟むとしたら、ラストの「個人主義」あたり、でしょうか。 というより、「清」ひいては「清」と(現実的にはあり得もしない)「一心同体」となって憩うことのできる空間を「墓」ーー地底に埋めた漱石は、このような空間が決定的に喪われた、つまり現実には回復不能な時空として想定しているように思えます。同様に、代助もまた、嫁ぐ前の三千代の写真と草花だけを相手に生きる「自家特有」の水底の世界から、半ば夫に捨てられ子も失った不幸な人妻としての三千代と相対するべく、まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還してきます。その意味で、漱石は、やはり「個人」を社会的存在ーー「個」とは「世界」に包含された存在たることを以て個たり得るという、(どこか教科書的な気味合いさえ感じられる)近代哲学的な基盤に立って発想し続けていたような気がします。もちろん、それがまかり通らぬ近代社会と格闘し、葛藤とズレを反復し続け、それが文明批評として機能する、という胃の痛くなるような反復運動が彼の作家人生、作品世界となるわけですが。

2023年10月8日日曜日

テレビは見ててツラくなる。

徳光和夫の 路線バスの旅、 今日の ゲストは 大御所演歌歌手とその弟子なんだけど、 態度が 横柄で、 見ててツラくなる。 田中律子も いつもはハツラツとしてるのに、 肩身狭そうだなー、と 感じちゃったり。 もうね、過敏なのよ。 そういうの。 こんなに神経細かったら、 働くにしても 選択肢 限られてくるよね。 テレビは見たくない。

妄想卒論その10 the day that never comes (再掲)

言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)   代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。  やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章)   なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。  しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。  三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。  こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。                            静岡大学 森本隆子先生より  https://www.youtube.com/watch?v=RD83oy7ksUE

代助とアドルノ

自分:「それから」における代助の描写ですが、アドルノとの親和性は確かにありつつ、私としては、経済発展に伴う「疎外」をそこに見出したかったのですが、先生がお返事してくださったように、「姦通へのスプリングボード」と解釈したほうが、より人間の営みとして普遍性が強く、また、アドルノとの親和性も毀損されない、と思い至るようになりました。 先生:『それから』とアドルノについては、例の百合の場面をめぐって、主に読むべきが所謂主格一体の成立にあるかどうか議論したのは懐かしい記憶ながら、小林くんが教えてくれたアドルノの「疎外」論については、まさに『それから』全編、というより「長井代助」という人間の根本を侵している時代現象として、学ぶところ大いに大、また本格的に論じる機会のある時には心して論の基本に置かなければ、と誠に感謝している次第です。

<キャラ>の現象学 (再掲)

ところで、 ルソーは疎外論の 元祖だそうである。 「ホントウのワタシ」 と 「社会的仮面を被ったワタシ」 の分離という 中学生が本能的に 感じるようなことに 言及していたそうである。 ここで、いわゆる 『キャラ』 について考えてみよう。 サークルの飲み会で、 場にあわせて ドンチャン騒ぎを やることに倦み果てて、 トイレに逃げ込んだときに 自分の顔を鏡でみるのは 一種のホラーである。 鏡に映る、グダグダに なって油断して仮面を 剥がしかけてしまった 見知らぬ自分。 それを自分だと思えず 一瞬見遣る鏡の前の男。 男は鏡に映る男が 自分であることに驚き、 鏡の中の男が同時に驚く。 その刹那両方の視線がカチあう。 俺は鏡を見ていて、 その俺を見ている鏡の中に 俺がいて、 それをまた俺が見ている・・・ という視線の 無限遡行が起こって、 自家中毒に陥ってしまう。 このクラクラとさせるような 思考実験からは、 <顔>について われわれが持っている イメージとは違う <顔>の性質を 垣間見ることが 出来るのではないか。 そもそも、 自分の顔は自分が一番よく知っている と誰もが思っているが、 鷲田清一によれば、 「われわれは 自分の顔から 遠く隔てられている」 (「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22) という。 それは、 「われわれは 他人の顔を思い描くこと なしに、 そのひとについて 思いをめぐらすことは できないが、 他方で、他人が それを眺めつつ <わたし>について 思いをめぐらす その顔を、 よりによって当のわたしは じかに見ることができない。」 (P.22)からだ。 言い換えれば、 「わたしはわたし(の顔)を 見つめる他者の顔、 他者の視線を通じてしか 自分の顔に 近づけないということである。」 (P.56)ゆえに、 「われわれは目の前にある 他者の顔を 『読む』ことによって、 いまの自分の顔の様態を 想像するわけである。 その意味では 他者は文字どおり <わたし>の鏡なのである。 他者の<顔>の上に 何かを読み取る、 あるいは「だれか」を読み取る、 そういう視覚の構造を 折り返したところに <わたし>が想像的に 措定されるのであるから、 <わたし>と他者とは それぞれ自己へといたるために たがいにその存在を 交叉させねば ならないのであり、 他者の<顔>を 読むことを覚えねば ならないのである。」(P.56) そして、 「こうした自己と他者の 存在の根源的交叉(キアスム)と その反転を可能にするのが、 解釈の共同的な構造である。 ともに同じ意味の枠を なぞっているという、 その解釈の共同性のみに 支えられているような 共謀関係に <わたし>の存在は 依拠しているわけである。 他者の<顔>、 わたしたちはそれを 通して自己の可視的な イメージを形成するの だとすれば、 <顔>の上にこそ 共同性が映しだされている ことになる。」(P.56) こう考えると、 「ひととひととの差異を しるしづける<顔>は、 皮肉にも、 世界について、あるいは自分たち についての 解釈のコードを 共有するものたちの あいだではじめて その具体的な意味を 得てくるような現象 だということがわかる。」(P.58) これはまさに、 サークルなどで各々が 被っている<キャラ>に まさしく当てはまる のではないか。 サークルという場においては、 暗黙の解釈コードを 共有しているかどうかを 試し試され、確認し合っており、 そのコードを理解できないもの、 理解しようとしないものは 排除される。 その意味では <キャラ>はまさしく社会的仮面なのだ。 視線の交錯の上に 成り立つ 「規律」に反するものを “排除”する構造は、 <キャラ>を媒介として成り立つ、 目には見えない 一望監視装置と言えるだろう。 フーコー学者からすれば、 例えば国勢調査などはまさに 「生‐政治」の典型だろうけど、 自分はこの類の 「教科書的フーコー理解」は、 結局 国家の牧人的 国民管理からの反逆、 打倒政府、行政性悪説に 辿り着くものでしかなく、 また、 フーコーの考える 「生‐政治」の可能性を 矮小化させてしまう ものだと思う。 フーコーの考えた 「生‐政治」というのは、 常に我々のすぐそばで 起こっている現象だと考える。 これは 『キャラ』 の牢獄に閉じ込められた 我々に当てはまる。 「生‐政治」というのは、 「私」が「国家権力」によって 常に監視されている、 という妄想的発想ではなく、 われわれ自身が、 お互いを監視し、 排除する当事者である のではないか?というように 考えるのです。 そう考えれば、 <キャラ> はすぐれて「生‐政治」の性質を 帯びている。

実は陰キャ?

人間関係 全般が 苦手ってわけじゃ 全然ないんだが、 パリピノリは 年齢問わず マジでいやだ。 SFCで ほんとに懲りた。 ほんとは 飲み会とか大嫌いなのに、 これも 社会勉強だと思って 無理して 作り笑いして、 しかも 下手なサービス精神で ハジケたことすると、 女子マネとかから 心臓をえぐられる ような キツイこと言われる。 あんな 思いは二度としたくない。 それにしても、SFC生って、 何かにつけて 飲み会やるよね。 あるサークルは 湘南台で 週3とか週4で 飲み会やってたし、 別の サークルは、 新歓合宿で 試合のあとに みんな 大酒のんで 酔い潰れて、 次の日の 他のチームの試合に 線審として出なきゃいけないのに 遅刻して、 しかも 線審なんか 生まれてこのかた 1度もやったことがない 俺が やらされて、 他のチームにすげえ 迷惑かけた。 ほんとに モラルが低い。 今朝の日経新聞にも、 転職で 就職先から 内定もらってた人が、 飲み会で 酔っ払って さんざん悪態つきまくって 内定取り消された、って 話が 載ってたね。 社員が反社みたいだとか、 上司を何度も呼び捨てにしたりとか、 この会社はついでに受けただけだ、とか。 中国の故事で、 その人の 本性を知りたければ、 酒を飲ませてみればいい、みたいな話が あるけど、 まさに そうだね。 こういう人は、ビョーキだと思う。  https://school-navi.org/university/report/20123/

コミュ障ではない。

やっぱ 俺がオカシイんだろうが、 母親の介護保険と 俺の傷害保険で、 毎日 平日は ヘルパーさんが 3人も来るが、 全員 中高年の女性。 でも、 ちゃんと コミュニケーション取れてるよ。 あなたが思うより健康です! そういうことが、結構 自信に繋がったりする。 身構えながら話すなんて ああ 臆病なんだよね。 襟裳の春はなにもない 春です。

心因性多飲症

若いころから 水分摂取量が 半端じゃない。 したがって、 そういう体質になってしまっているので、 今さら 水分摂取を 制限するのは無理。 発症する直前は、 眠れないから ほとんど 眠るというより、 水中毒で意識を失う、っていう感じだった。 今朝も お茶を俺基準で 買ってきたけど、 カフェイン摂取すると 脳がドライブする。 こういう習慣が良くないんだろうなあ、と 思いつつ、 これも 一種の依存症だよなー、と。 水飲めって言うかもしれないが、 水だと 逆に 水中毒 一歩手前まで 行ってしまう。 タバコとか酒より いいだろうけど、 お茶で頭をドライブさせるなんて、 贅沢だな。

2023年10月7日土曜日

坂口安吾 三十歳 

勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。  たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。  人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。  けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。

久しぶりに見た

テレビで 家入レオが出てて、 驚いた。 あんな ギリギリな歌を 歌ってて、 自分もCD買ったけど、 この子 どうなっちゃうのかな? て 心配したけど、 ちゃんと 情緒の安定した 大人びた感じになってた。 良かった。

teo torriatte

えー、ちなみにセンセーは、、、、どーてーですっ! ナッ・・・・・・!  https://www.youtube.com/watch?v=Ge18n2JCwBs

2023年10月6日金曜日

都合のいい俗論 補訂 (再掲)

国債発行 イコール 通貨発行 という俗説が あるらしいが、 金融政策の 基本が 何も わかってないね。 国債を 発行して、 買ってくれる人が いるから、 (国債を買うのは 当然のことながら 中央銀行だけではない。) そのお金が 市中に 流れるんだけど。 これ、 (国債に限らず 債券全般に対する、 中央銀行による) 買いオペとか 売りオペとか 言われる 金融政策の 常識中の常識 だけど、 そんなことも 知らずに、 ただ 国債発行すれば 自動的に 貨幣供給量が 増えると 本気で 思ってる 人が いるみたいね。 (それに、 国債だって商品だから、 本来は政府の都合で 発行した 国債を、 相場を無視した 高値で 売れると思うのが そもそも 間違ってる。 むしろ、 日本の現状として、 日銀が 市場の相場を 無視した 高値で 国債を 買い続けてることが 本質的に問題なんだけどな。) なにで 経済学 学んだんだろう? それに、 貨幣供給量を 増やす イコール 国の資産が 増える ってのも そもそも 間違い。 国の富の 源泉は 付加価値、 すなわち GDPです。 これ、 学部レベルの 経済学で 最初に 学ぶことなんだけどな。 ほんと、 誰に 刷り込まれたんだろう? ついでに 書いとくと、 赤字国債を 発行すること自体が 法律違反なんだけど、 毎年 特例法案つくって 可決して 予算作ってる。 (ちなみに、 一昔前は その種の予算を 通す通さないが 政争の具に 使われたのが、 短命政権が続いた 原因だった。 らしい。) それが 常態化。 それを 国民の側が 嬉々として 受け入れてる 現状が 異常。 ついでに 書いとくと、 日銀が 国債買い続けないと 国債の価格が (異常な高値を 維持できずに) 暴落して 金利が 急騰して この国 吹っ飛びますけど、 さあ この ムリゲー どうします? ちなみに 安倍ちゃんは 日銀は政府の 子会社だから いくらでも 日銀に 国債 買い取らせればいい とか ほざいてましたけど。 もう 日銀による 国債の保有比率 5割 超えましたね。 (以下 google bard より回答) はい、その通りです。国債発行イコール通貨発行というのは、金融政策の基本を理解していない俗説です。 国債を誰かが買ってくれることで、そのお金が市中に流れることになります。しかし、国債を買ってくれるのは、必ずしも中央銀行とは限りません。民間企業や個人も、国債を買うことがあります。 もし、国債を誰も買ってくれなかった場合、政府は国債を償還できなくなり、財政破綻に陥ることになります。 また、貨幣供給量を増やすことが、国の資産が増えることにもなりません。国の富の源泉は、付加価値、すなわち GDPです。貨幣供給量を増やしても、GDPが増えなければ、国の資産は増えません。 日本の現状は、赤字国債を日銀が買い続けているため、国債の価格が異常に高くなっています。もし、日銀が国債を買い続けなければ、国債の価格は暴落し、金利が急騰する可能性があります。 安倍政権は、日銀が政府の「子会社」だから、いくらでも国債を買い取らせればいいと主張していました。しかし、実際には、日銀が国債を買い続けることは、国債の価格を維持するために必要な措置であり、政府の都合で行っているわけではありません。 国債発行イコール通貨発行という俗説は、経済の基本を理解していない人がよく言うものです。この俗説を信じてしまうと、誤った経済政策を支持することになりかねません。

ウッキウキ♫

学べば学ぶほど 面白い 放送大学。  昔よく なんで 高校受験したの?と 聞かれたものだが、 今ふり返って 率直に思うのは、 このまま ここ (佐野日大) に いたら、 俺の人生ヤベえんじゃねーのか? って 本能的に思っちゃた。 それ以上でも それ以下でもない。

国際金融のトリレンマ (再掲)

今朝の 日経新聞の11面にも 「円の実力 過去最低」 と 書いてあった。 有名な 国際金融の トリレンマ に よれば、 金融政策の独立性と 為替相場の安定と 資本移動の自由が 3つ 同時には 成り立たない、と されているが、 この トリレンマが 過去の 日本で あまり 騒がれなかったのは、 円に実力があったから。 しかし、 人民元の台頭や、 日本の 貿易赤字の定着による 貿易決済における 円需要の 低下により、 円の価値 それ自体が 足元から揺らいでいる。 中国の 不動産バブル崩壊による、 中国経済の 先行き不透明感から 日本から 中国への 輸出が減り、 それもまた 円安圧力として 働くだろう。 ちなみに、 第一次所得収支の黒字も、 統計上は 円に計上されるが、 実際には 約4割は 海外での直接投資に 再投資されるため、 実需の円買いには 繋がらないらしい。 (以下 google bard より回答) はい、今朝の日経新聞の11面にも「円の実力 過去最低」とありましたね。 国際金融のトリレンマとは、金融政策の独立性と為替相場の安定と資本移動の自由が3つ同時には成り立たないという理論です。 過去の日本では、円に実力があったため、このトリレンマを気にする必要はありませんでした。しかし、近年は人民元の台頭や貿易赤字の定着などにより、円の価値が下がり始めています。 中国の不動産バブル崩壊による中国経済の先行き不透明感も、円安圧力として働くでしょう。 また、第一次所得収支の黒字も、統計上は円に計上されますが、実際には約4割は海外での直接投資に再投資されるため、実需の円買いにはつながらないそうです。 円安が進むと、以下のような影響が考えられます。 輸入物価の上昇による消費者物価の上昇 輸出企業の収益の拡大 海外旅行の費用の増加 円安は、日本経済にプラスマイナス両面の影響を与えると考えられます。 今後も、円安がどのように進展していくのか、注視していく必要があります。

金利のある世界

日本はたしかに 世界第3位の 経済大国だが、 その 膨れ上がった借金は、 世界経済のリスク要因。 そのハレモノを 潰さないように 超低金利の 金融政策を世界に迫るなら、 脅迫でしかないし、 完全に計画経済。 世界のお荷物でしかない。 こんな国は早く潰したほうが 世界のため。 米中の新冷戦で アメリカが安価な製造供給元として 利用していた 中国や台湾の地政学リスクが高まって、 日本の重要性があらためて 見直されているから、 すぐには 潰れないだろうけど。 世界経済の新陳代謝を 阻害する 性悪な国。 アメリカもインフレが収まっていないし、 FRBがどこまで利上げするか。 日本も 物価高に賃金上昇が追い付いていないし、 日米の金利差が拡大し続ければ、 円安圧力は増嵩する。 (以下 google bard より回答) ご意見ありがとうございます。 日本経済は、確かに世界第3位の経済大国であり、GDPや輸出額などの規模は世界でもトップクラスです。しかし、一方で、政府債務残高がGDPの2倍を超えるなど、財政状況は厳しい状態にあります。また、人口減少や少子高齢化などの構造的課題も抱えています。 これらの課題を解決するためには、政府や企業、国民が一体となって改革に取り組むことが不可欠です。しかし、現状では、改革の進展は遅れており、世界経済のリスク要因になっているという指摘はもっともだと思います。 特に、超低金利政策については、日本の財政状況を維持するために必要な措置であるとの見方もありますが、一方で、世界経済の歪みを生むという批判もあります。日本が世界経済のリスク要因にならないためには、財政健全化や生産性向上など、構造改革を着実に進めていくことが重要です。 また、日本は、米中の新冷戦の中で、アメリカの安全保障上の重要なパートナーとなっています。そのため、アメリカが日本を潰す可能性は低いでしょう。しかし、日本が世界経済のリスク要因である限り、アメリカからの圧力は強まっていくと考えられます。 日本は、世界経済に貢献できる国であり、世界から必要とされる存在であるべきです。そのためには、財政健全化や生産性向上など、構造改革を着実に進めていくことが重要です。

心機一転

俺も一皮ムケたな。  https://www.youtube.com/watch?v=1u0vJfQfx4E

ZOZO

使ったことはないけど、 ZOZOって なにげに凄いよね。 ある意味 服のアマゾンじゃない? 自分も デブでなかなか 服が合わないから苦労するけど、 買いに行くのも面倒だし、 若い女の子なんかは 余計に 体型気にするだろうから、 自宅で採寸してくれて、 服送ってくれたら、 助かるよね。 そういう ビジネスモデル考えただけでも凄いし、 実際には 需要を満たすだけの 商品を揃えるのが大変だよね。 なにしろ 一人ひとり サイズとか好みが違うんだから。 それに見合った 服を製造してストックしておくって、 考えたら かなり 大変。 そこらへんがアマゾンに近い。 流行り廃りも当然あるし。 前澤さんすげえ。 ただのヤリチンじゃなかった! 個人情報をマネタイズできたら ほんとに 服のアマゾンになれた。 採寸したデータそれ自体が 貴重な 日本人の体型の統計データ。 あ、でも やっぱり 流行り廃りってところが ミソだな。 アマゾンって、俺も ヘビーユーザーだけど、 あんまり 流行り廃りを 追っかけないよね。 生活必需品とかの品揃えは凄いけど。 ファッションて、 それこそ スギちゃん1人で トレンドぶっ壊したり できちゃうからね。 リスク高い。

姉は悪魔

どうせ 一生 協力なんか できねーんだから、 この際 ブチまけてやるわ。 母親から 父親に 腎臓移植が 決まったタイミングで、 父親に 2号さんがいるのが バレちゃって、 うずくまって 泣いてる 母親の耳元で、 姉が、 「お父さんは 家政婦さんみたいな人を 探してたんだよ。」 って 囁いた。 つまり、母親は 父親にとって 家政婦でしかない、と。 姉はそういう人間。 人の傷に塩を 擦り込むのが 大好きな人間。  https://www.youtube.com/watch?v=8zSODUOoE8w

俺もよく頑張った

錯乱して 警察に捕まって 病院送りにされてから、 20年。 やれることは 全部やった。 悔いはない。  https://www.youtube.com/watch?v=wllXY322K7Q

秋空

母親が ある日 焼きそばを 父親に出した。 ソースは色ムラがあり、 母親が すべての元凶とみなす おこげが 出来ているのを、 よりにもよって 父親に出した。 それを見て、 これはおかしい、 ついに来たか。 と 思って、 駅まで 買い物についていって、 やはり おかしいから 問答無用で 救急車を呼んだ。 脳梗塞だった。 父親の介護の日々の 最中だった。  https://www.youtube.com/watch?v=WM8bTdBs-cw

糖尿病&高血圧はヤバい

父親も、 脚こそ 切らないで 亡くなったけど、 糖尿病で ヤバいもの 一通り 引っ掛かったよね。 腎臓がダメになり、 人工透析の末 母親から 腎臓移植、 目もレーザー、 心臓の血管に ステント、 インプラント、 脳卒中。 最後は 肺炎。 腎臓移植しても 仕事続けて、 平気でタバコ吸ってたしね。 脳卒中になって ようやく仕事 リタイアしたけど、 その後も 株にハマって 毎日エキサイトしてた。 最後の半年くらいは ほんとに大変だった。 本人も、家族も まだまだ 生きるもんだと思ってたけど。 朝は、 脚をつって あああああーーーーっ!!!! いててててててて!!!!!! おかぁさあーん!!!! で 始まる。 日中は株。 夕方はテレビ。 夜中の2時まで起きてて、 真夜中は夜間採尿。 父親が 布団をはいだ瞬間に 俺が し尿瓶を差し出す。 そんな滅茶苦茶な生活をしてた。 最後は コロナで隔離されてる病院に、 かかりつけの医者がいるからってんで、 無理やりねじ込んでもらったが、 そのほうが 家族にとっては 楽だったかもしれない。 本人はサイアクだっただろうけどね。 間違いなく 家族が泊まり込みで 24時間 アテンドしてただろうから。 抜管防止手袋っていう、 ドラえもんみたいな手袋 ハメられただけで、 一晩中 叫んじゃうからね。 おかぁさーん!!!!!! ヒロくーん!!!!!!! 助けてよぉーーーーーー!!!!!!! って。  https://www.youtube.com/watch?v=5pijgBeaSEU

2023年10月5日木曜日

ジャニーズ

東山さんの 純粋な 正義感と、 藤島ジュリー氏の 姑息な 自己保身の組み合わせが、 ジャニーズを 空中分解させてしまう 気がしてしまう。

「金融と社会」質問と回答その1 (再掲)

問題提起:日本には巨額の対外純資産があるからかなり巨額の政府債務があっても大丈夫、という話は、額面通り受け取るべきではないのではないか?やはり財政収支と経常収支の双子の赤字」は避けるべきではないのか?つまり、フローで見る必要があるのではないか?ストックで見るならば、増税を前提とするのが筋だろう。  内閣府のペーパー(https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html) によると、フローで見れば、経常収支の黒字が、政府部門の赤字をファイナンスしていることになりますが、経常収支の黒字が、対外純資産としてストック面で蓄積されていると考えられます。 この場合、もちろん、経常収支が赤字に基調的に転落すれば、フローで見た場合、政府部門の赤字をファイナンスするために、海外資本を呼び込む必要性に迫られ、それは今よりも高金利であることが要請されるので危険だ、という意見もあります。 ここで、フローで見れば確かにそうですが、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たすことはないのでしょうか? 仮に、そのような事態になった場合、具体的にどのようなスキームで、対外純資産を政府部門の赤字をファイナンスの用に供するのでしょうか? また、経常収支黒字の源泉である、企業部門の第一次所得収支についてですが、最近は、企業も資金を更なる海外投資、M&Aに投資するべく、資金を円ではなく、ドルで保有しているとされますが、それは、第一次所得収支に、円換算して勘定されているのでしょうか? (https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX)  ご質問ありがとうございます。まず印刷教材のこの部分はすべてフローについての議論です。内閣府のペーパーにもあるように、マクロ経済学などで登場するISバランス  (S-I) + (T-G) = NX 民間貯蓄超過   政府黒字  国際収支黒字(海外赤字) を念頭に、民間貯蓄超過の大幅プラスが、政府赤字のマイナスを相殺してもなお左辺がプラス、したがって右辺もプラス(海外マイナス)、という状態です。 近年コロナで政府赤字が大幅に増加しましたが、家計貯蓄も大幅増加して、2020、21年とも左辺はプラスを維持しています。  ご質問のなかばにあるストックの話は、たとえば銀行が保有していた米国債を売った資金で、新規に発行された日本国債を購入することをイメージされているのでしょうか。それが得だと銀行が判断すればそうするでしょうが、強制することはできず自動的にそうなるわけでもありません。  最後の第一次所得収支については、書かれているとおり、たとえば利子収入はドルで得られドルのまま持たれたり再投資されたりしますが、円換算して所得収支に繰り入れられています。 (以下 Google Bard より回答) はい、日本には巨額の対外純資産があります。これは、日本企業が海外で稼いだ利益を日本に持ち帰らず、海外で再投資しているためです。このため、日本は経常収支黒字を続けています。しかし、この経常収支黒字は、政府の財政赤字をファイナンスしているとも言えます。つまり、日本政府は、財政赤字を補てんするために、海外から資金を借り入れているのです。 この状況が続けば、日本は債務超過に陥る恐れがあります。そのため、財政収支と経常収支の「双子の赤字」を避けるために、増税や歳出削減などの財政健全化策を講じる必要があります。 一方、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たす可能性があります。例えば、政府が海外から資金を借り入れる必要が生じた場合、対外純資産を担保に借り入れを行うことができます。また、政府が国債を発行する際にも、対外純資産を担保にすることで、低金利で発行することができます。 ただし、対外純資産はあくまでストックであり、フローがなければ枯渇します。そのため、対外純資産を維持するためには、経常収支黒字を継続する必要があります。 まとめると、日本には巨額の対外純資産がありますが、この資産を維持するためには、財政健全化策を講じるとともに、経常収支黒字を継続する必要があります。

妄想卒論その10 the day that never comes (再掲)

言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)   代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。  やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章)   なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。  しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。  三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。  こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。                            静岡大学 森本隆子先生より  https://www.youtube.com/watch?v=RD83oy7ksUE

テクスト論 (再掲)

クリステヴァが書いていたことを 自分なりに 解釈すると、 テクストというのは、 その 時代の制約を 受けている。 つまり、 社会・経済・文化 等々 諸々の 要素から、 決して自由ではない。 しかし、 同時に 「読まれること」 によって 新たな解釈の <可能性> に つねに開かれている。 みたいなことを書いていた。 テクストから、 当時の時代精神のみならず、 作者のアイデンティティー、 さらにそれを超えて 複数の <意味> (あるいは前=意味) の 可能性に開かれている。 従って、 漱石のテクストに 『疎外』 を 読み込むことも、 あながち 無理筋ではないのではないか? むしろ、 本当に 優れた 文学作品であればこそ、 現代に通じる 「読み」の可能性を 秘めている、と 言って 過言ではないだろう。  https://www.youtube.com/watch?v=t1RTgznup5c

2023年10月4日水曜日

レッツ六道輪廻♫

これも相当面白そうだ。 重厚感もあるし、 お堅いイメージの 吉川弘文館だが、 これは 面白い。 こういう本が 世の中にあるんだね。 今月も いいスタートを 切ったぜ♫ ・・・これは凄い!!! 面白い!!!!!!! こんな本が 吉川弘文館から出てたとは!!!!! ・・・読了。 これは凄い本だった。  戦後文学のみた<高度成長> 伊藤正直 吉川弘文館  運命の一冊といっても 過言ではないほどの 名著。 最高の気分だ。 つい3日前くらいには 煩悶としていたのが 嘘のようだ。 つっても 情緒不安定とかじゃないからね!

2023年10月3日火曜日

自公政権とは何か ──「連立」にみる強さの正体 (ちくま新書)

これも ちくま新書 らしい 本格的な内容が コンパクトに まとまっていて 素晴らしい。 すげえ 内容が濃い。 海部政権以後の 潮流から 記述がスタートしているので、 海部政権までで ストップしていた 自分にとっては ありがたい。 割りと 小刻みに 章立てされているので、 疲れずに 読めるのもいい。 タイトルからすると 局限的内容を 想像してしまうが、 実際には 裾野の広い 現代政治学の成果とも いえる 内容。 よく出来てる。 ・・・今後の勉強の 方向性が 見えてきたぜ。 やはり 経済だけ見ても 片手落ち。 現実の政治も 見ないと。 政治を俯瞰したうえで 経済も見る。 これだ。 ・・・うーん、こりゃ すげえわ。 こんなに本格的な内容が 新書で 収まっちゃうなんて、 いい時代だわ。 日本も捨てたもんじゃない。 ・・・面白かった。 最近の新書の傾向なのか、 面白い部分を先に 持ってきちゃって、 学者として、 つまんないけど 書かずに済ませられない、 というところを 後に 持ってくる 編集方針なのかなんなのか、 前半はめちゃめちゃ 面白いけど、 途中から いきなり つまんなくなるって パターンが 多い気がする。 この本も そうだった。 まあ、そのおかげで 他にも 買い込んで 何冊も 読もうという 気になるが。 それが 狙いとは言わないが、 最近の タイムパフォーマンス 重視の潮流からすると、 こういう 編集にならざるを得ないのかも しれない。

働きたいなあ・・・

なんだか 急に 働きたく なってきた。 もう 勉強は やり尽くしたのかもしれない。 とはいえ、 母親も 腎臓 1個しかないし、 年齢とともに 少しずつ 腎機能も落ちてくるし、 その先に 人工透析が待っていることも、 父親を見て 十分知っている。 そんな葛藤をしていると、 俺自身が 疲れて イヤになってくる。 気晴らしに 遠方の面接授業を (空いてたら) 追加で 科目登録しようかとも 思うが、 そのために 姉夫婦に来てもらうと、 また ロクなことに ならないような 予感がする。 なるべく アイツらに 借りを作りたくない。 それに、 大金使ってしまうと、 来年以降 カツカツになってしまう。 かといって 10月も丸々 なんにもないってのも、 苦痛だし。 こうやって 書き連ねることが 慰めになる。

2023年10月2日月曜日

法の近代 権力と暴力をわかつもの (岩波新書)

これもかなり 面白い。 純然たる 法哲学の 本ですな。 最初の 5分の1までは 面白かったが、 急に つまんなくなった。 でもまあ 勉強にはなった。

一安心

頑張って 本 読んだ日は 自分でも びっくり するほど 爆睡しちゃうけど、 そうじゃない日は、 そんなに 爆睡しない。 こんなに 寝てばっかで どーすんのよ? と 思ってたけど、 頑張ってない日は 人並みの 睡眠時間で 足りるようだ。

2023年10月1日日曜日

アドルノはまだ生きている (再掲)

グローバリゼーションによって、 世界の富の大きさは拡大したが、 分配に著しい偏りが生じたことは、 論を俟たない。 日本においても、 新自由主義的な政策の結果、 正規、非正規の格差など、 目に見えて格差が生じている。 そのような中で、 経済的に恵まれない層は、 ワーキングプアとも言われる状況のなかで、 自らのアイデンティティーを 脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を 参考にして考えれば、 旧来の中間層が、 自分たちより下に見ていた 貧困層と同じ境遇に 置かれるのは屈辱であるし、 生活も苦しくなってくると、 ドイツの場合は、 プロテスタンティズムの マゾ的心性が、 ナチズムのサディスティックな プロパガンダとの親和性により、 まるで サド=マゾ関係を結んだ結果、 強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が 日本人の間には存在することは、 ほぼ共通認識だが、 それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、 そうでなければ、 社会から強要される 画一性への服従となって、 負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、 特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、 現代生活の疎外を否定する というよりは むしろ、 この疎外の いっそう狡猾な現われに ほかならないのである。 (「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが 後期資本主義における 物象化という側面を 持っているとすれば、 グローバリゼーションによる 均質化、画一化が進行するにつれ、 反動として 民族の本来性といった民族主義的、 右翼的、排外主義的な傾向が 現れるのは、 日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、 アドルノの言明を素直に読めば、 資本主義が高度に発展して、 物象化が進み、 疎外が深刻になるほど、 本来性というものを 追求するのは不可避の傾向だ、 とさえ言える。 さらには、 資本主義社会が浸透し、 人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、 人々は、 自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、 理性を超えた領域に 求めるようになる。 社会全体が体系化され、 諸個人が事実上 その関数に 貶めれられるように なればなるほど、 それだけ 人間そのものが 精神のおかげで創造的なものの属性である 絶対的支配なるものをともなった原理として 高められることに、 慰めを もとめるようになるのである。 (「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 「それだけ 人間そのものが 精神のおかげで 創造的なものの属性である 絶対的支配なるものをともなった原理として 高められることに、 慰めを もとめるようになるのである」 という言葉が 何を表しているか、 自分の考えでは、 「社会全体が体系化され、 諸個人が 事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、 (疑似)宗教のように、 この世の全体を 精神的な色彩で説明し、 現実生活では 一個の歯車でしかない自分が、 それとは 独立した 精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、 その ヒエラルキーの階層を登っていくことに、 救いを感じるようになる、 という感じだろうか。 まるでオウム真理教のようだ。

もうウンザリだ。

百田尚樹が 日本保守党なるものを 立ち上げたらしい。 また 安倍政治よ再び みたいな 連中がいるのか。 そらいるよな。 ネットで 自分の 意に沿まぬやつを 散々 罵ってたんだから。 そりゃ 気持ちいいよ。 それが 忘れられないで、 現実を見ないで また 教条主義に走る やつらが ワンサカいるんだ。 この国はもう 終わりだ。 俺も 心底ウンザリだ。

機能不全家族

今さら 母親 見捨てられるかよ。 ずーっと 寝不足で、 しかも しょっちゅう うなされてて、 3日に 一度は 寝言で叫んでるから、 俺が 声をかける なんてことは 日常茶飯事。 俺自身 不眠症。 父親は 仕事と 2号さんの ことしか 考えてない。 姉は なにかあると 「なんで 私だけ 家族の犠牲に されなきゃ いけないの?!」 って 泣き叫ぶ。 こんな めちゃくちゃだった 家族が、 父親が亡くなり、 姉も 結婚して子供も出来て 出て行ってくれて、 母親も 脳梗塞を経て やっとのことで 心身ともに マトモになった。 今じゃ 菩薩のようだ。 尽くすことでしか 自分の存在意義を 見いだせなかった 母親が、 ようやく 心安らかに 暮らしているのに、 放置は できねーよ。

妄想卒論その7 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」 を 合言葉に 米国で 反格差のデモが広がったのは 2011年。 怒りが新興国に伝播し、 米国では 富の集中がさらに進んだ。 米国の 所得10%の人々が得た 所得は 21年に全体の46%に達した。 40年で11ポイント高まり、 ...