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10月, 2023の投稿を表示しています

国会中継

テレビで国会中継やってんだが、 岸田総理と蓮舫の論戦聞いてると、 テンションが急降下するね。 蓮舫が、 ひたすら物価あがって庶民は苦しい思いしてます、 どーすんですかどーすんですか?!って、 うるせーんだよ。 てめえは豪邸住んでるくせに。 議論になってない。 国会が こんな不毛なやり取りやってるようじゃ、 経済が労働生産性低いのも当然だな。 ただのパフォーマンスじゃん。 これだからテレビは見たくないんだよ。 ほんと日本の組織ってウンコだよね。 障害者枠で公務員てのも考えたけど、 時間を無駄に拘束されて その対価として 身分の安定を保障されるくらいなら、 非正規で効率よく働いたほうが よっぽどマシだ。 純粋にスキルで評価されるなら、 そのほうが遥かにいい。 ・・・俺ってほんとに やりたくないことは やらないんだな。 放送大学の面接授業でさえも、 面倒臭いと思えば、行かない。 その逆に、 昨日の日銀金融政策決定会合の内容を、 日経新聞が どう報じるかが気になって、 手に入れるまでは、 一晩中眠れない。 ことごとく 自分の都合で生きてる。 これはもう自分でも直せない。 公務員て、 仕事にならなくても 這ってでも とりあえず来いっていう 世界なんだろうから、 やっぱ俺には無理だと思う。 武蔵は、 学校来るかどうかも含めて、 自ら考えよ。 ていう学校だったね。 その結果留年しようがなんだろうが、 自分の責任だけど。

戦後日本の政党政治@岡山大学

東横インに直帰して、 まず (水を飲んでから) ビール飲んでベロベロに酔ってます。 お酒自体 ほとんど飲まないんだが、 妙に飲みたくなった。 そして、 こんなに酔うなんて 自分でもびっくりだね。 自分史上最高に酔っ払ってます。 なにか 今回の授業が 自分にとって よほどツボだったらしい。 戦後日本の政治史なんて、 なかなかちゃんと 教わる機会ないから、貴重だよね。 わざわざ岡山まで来た甲斐がある。 放送大学の面接授業が良いのは、 その場かぎりだから、 質問して目立っても、 いちいち 後腐れないことだよね。 普通の大学でこれをやると、 すぐに後ろ指指されて、 居づらくなる。 講師の先生が、 韓国の方で、日本語上手なんだけど、 大人になってから 日本に来られたようで、 つまり在日とかじゃなくて、 勉強して日本語を喋れるように なられたようなんだが、 日本語で お話されていても、 特に言葉の語順が やはり日本人とは違って、 感覚としては、 日本語みたいに 掛詞で 最後まで聞いて 初めて文章全体の意味がわかる、 ということではなくて、 ある意味 英語と同じで どんどん重要なことから 先に出していく、という感じで、 ああ、韓国語ネイティブって こういう発想なんだ、と、 その方面でも参考になった。 ・・・戦後の日本史、 とりわけ政治史ってのは、 興味なかったし、 どうせ田中角栄がどうしたとか おじいちゃんが好きそうな めんどくさい話だと思ってたから、 敬遠してた。 しかし、戦後史それ自体は それこそ 2浪して 駿台で教わった頃から、 わかんねーなーと 思っていたのだが、 1学期に 「戦後ヨーロッパの政治と社会2」@茨城大学 を 受講して、ポイントがわかったし、 この授業も、気にはなっていたから、 シラバスをチラチラ見ながら、 参考文献をアマゾンで買って読んでみて、 最低限の知識は身に付いたし、 政治史っていう 得てして ジャーナリスティックになり勝ちなテーマも、 ちゃんと 学問的な蓄積が なされていると知って、 かなり遠いけど思いきって 岡山まで来た。 得るところ大なり。 世界史年表も持ってきたので、 その中の日本史...

LOVE LOVE SHOW

高校生の時に 深刻なウツを 経験して、 やりたくないことは やらない、 でも やりたいことは 全力でやる。 という 基本方針で 今まで 生きてきたので、 これからも そうやって 生きて行きます。 でも、情報収集はもちろん ちゃんと やってます。  https://www.youtube.com/watch?v=3t3fYJyA_2k

財政学@新潟大学 後日談

俺:先週末の2日間、大変貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。 大変勉強になりました。 家に帰ってから、プライマリーバランスについて調べたのですが、少し疑問が生じたので、質問させていただきます。 「財政状況を示す指標の1つで,プライマリー・バランス均衡とは,利払費・債務償還費を除いた歳出が公債金収入以外の歳入で賄われている状態を指す。この場合,現世代の受益と負担が均衡していることになる。プライマリー・バランス均衡の状態で,金利と名目GDP成長率が等しければ,債務残高の対GDP比は一定に保たれる。 有斐閣経済辞典第4版」 とあるのですが、まずプライマリーバランスを実現しないことには、いくら名目GDP成長率が金利を上回っていても、債務残高は、長期的に見れば発散してしまうのでしょうか? 私も勉強不足で、少し曖昧な質問になってしまい恐縮ですが、ご回答たまわれれば幸いです。 新潟大学 根岸睦人先生より:小林さん 新潟大学の根岸です。先日はお疲れさまでした。 早速ですが、質問にお答えします。 >まずプライマリーバランスを実現しないことには、いくら名目GDP成長率が金利を上回っていても、債務残高は、長期的に見れば発散してしまうのでしょうか? いいえ、必ずしもそうではありません。仮にプライマリーバランス(PB)が赤字(利払い費の規模を超える債務残高の増加)でも、債務残高の増加率を上回るGDPの成長率が実現すれば、債務残高の対GDP比は低下します。 PBのバランスと、利子率と名目成長率の関係の両面で考える必要があります。 (以下 google bard より回答) 根岸先生の回答は、以下のとおりです。 プライマリーバランスが赤字でも、債務残高の対GDP比が低下する可能性がある プライマリーバランスとは、利払い費を除いた歳出が公債金収入以外の歳入で賄われている状態を指します。プライマリーバランスが赤字であれば、利払い費の規模を超える債務残高の増加となります。 しかし、仮にプライマリーバランスが赤字でも、債務残高の増加率を上回るGDPの成長率が実現すれば、債務残高の対GDP比は低下する可能性があります。 例えば、プライマリーバランスが年間100億円の赤字で、債務残高が1兆円、名目GDP成長率が5%である場合、債務残高は年間500億円増...

ドラえもんとカラマーゾフの兄弟

やっぱ 同じこと 考えた人が 他にもいるんだね。 ジャイアンなんか モロ ドミートリーだし、 スネ夫も イワンっぽいし、 のび太が アレクセイってのも ちょっと 善人過ぎるけど、 重なる部分はある。 キャラの立ち方が わかりやすいところが 似てる。  https://www.nippon.com/ja/currents/d00056/   ドラえもんを取り巻くのび太、ジャイアン、スネ夫は、まるでドフトエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の三兄弟のように、個性豊かで輪郭のはっきりした魅力ある人物像として描かれている。

まあどうでもいいんですけどね。

RECRUITの マッチングアプリか なんかの 広告だったか。 「もっと2人になっていく。」 とか 言いながら、 最後は 結婚式で祝福されてる シーンで終わるんだけど、 この2人、絶対2人だけじゃ 不安というか、 関係そのものが 不安定なんだよ。 だから、 結婚式で祝福されてる、という 場、構造、言ってみればフィクションが 必要なのだ。 もう、現実世界では 2人だけの世界は 容易に破綻することが、 うすうす分かってる。 だから、「2人だけ」という 仮構された世界を 承認してくれる 場、構造、フィクションが 必要とされる。 マッチングアプリかなんかの CMだったかな? そして、背後から祝福されて、 振り返る場面で終わっている。 具体的に 2人の背中を押して 祝福する人たちの存在は、 映像に映されない。 なぜならば、彼らを 祝福し、背中を押してくれているのは、 世間一般であるからだ。 決して 自ら新世界へと 足を踏み出すのではなく、 世間から祝福され、 決して 世間には歯向かわず、 たぶん 幸せな結婚生活 しかも 現実的でありながらも、 一抹の ユートピアを予期しながら、 それさえも 世間が包み込んでくれることを 予感させている。 結婚までのプロセスまで アプリに頼っている時点で、 ある意味 他人任せの発想だ。

証券投資理論の基礎@広島大学 レジュメより (再掲)

Q:名目金利が 年8%で インフレ率 (CPI) が 年5%のとき、 実質金利 は3%か? ex. 100円の債券投資 ⇛1年後:108円 100円の消費財の組み合わせ ⇛1年後:105円 のとき 1年後の108円の購買力=108/105=1.02857 (この投資の収益率:2.857%) ☆ 実質金利と名目金利、インフレ率 (CPI) の関係 1+ 実質金利 =(1+名目金利)/(1+インフレ率) ex.参照せよ 式変形して、 すなわち ★ 実質金利=(名目金利-インフレ率)/(1+インフレ率) つまり、 デフレはマイナスのインフレ率なので、 実質金利を上げてしまう。

フィッシャー効果 (再掲)

物価上昇の予想が 金利を上昇させる という効果で、 フィッシャーが最初に それを指摘した ところから フィッシャー効果と 呼ばれる。 ある率で 物価の上昇が 予想されるようになると、 貸手が 貸金に生じる 購買力目減りの 補償を求める 結果として、 資金貸借で成立する 名目金利は 物価上昇の予想が なかったときの金利 (=実質金利) より、 その 予想物価上昇率分 だけ高まる。 (以下略) 有斐閣経済辞典第5版  https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html

貨幣数量説 (再掲)

完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は古典派経済学の発想なので、完全雇用は常に達成されていると想定されているので、物価は貨幣量と貨幣の流通速度で決まる。 従って、貨幣量を増加させれば、物価は上がる。 「貨幣の所得流通速度が一定不変で,かつ伸縮的な価格メカニズムの作用により実質産出量(実質国民所得)の水準が長期の均衡値に一致するならば,貨幣数量の変化は国民所得の大きさや構成にはなんら影響を与えず,ただ物価水準を比例的に変化させると主張する説。」有斐閣経済辞典第4版

あてはまりにくい「貨幣数量説」 (日経新聞「やさしい経済学」〘年月日不明〙より 抜書き)大阪大学 敦賀貴之教授 (再掲)

経済活動の量が変わらなければ、 貨幣量を増加させれば 物価だけが増えると予測できます。 つまり、経済に流通する貨幣量を 機械的に増やすと、 増えた貨幣はそのまま 経済に流通し、 経済取引の総額が増えます。 しかし、 経済にお金が回っても 需要が高まるだけで、 供給は増えず、 貨幣量と同じスピードで 物価だけが上昇します。 このように、 貨幣の数量で物価が 決まるという考え方が 貨幣数量説です。 日銀は20年近くにわたり、 貨幣量を大幅に増やしましたが、 物価の上昇は期待ほどではありません。 多くの経済学者は、 短期的には 貨幣量の変化は生産量の変化につながると考えます。 さらに データ上は、 流通速度は趨勢的に 低下傾向を示し、 日本ではこの30年で 流通速度が半分に低下しました。 貨幣量が増えれば 物価は上がるという 単純な理屈は 当てはまりにくいのです。 https://www.youtube.com/watch?v=3t3fYJyA_2k

無聊を託つ (再掲)

暇だな・・・ 暇なら働きゃいいじゃん、 母親も、 何も言わず 一人で郵便局行けるほどに回復したし。 しかし、 俺が暇だから働く、 となれば、 母親はどうなる? 俺より暇じゃないのか? 暇だってそれなりに苦痛であることを 理由に、働こうかな、なんて言ってる息子が、 母親を放置していいんだろうか。 ん?でも俺って、実はそれなりに体力ついてきたんじゃないか? 連日エキサイトしてるのに、それなりに朝早く起きられるし。 睡眠の質もいいし。 ところで、最近また世間のマインドがデフレの方向に向かってる気がする。 テレビとかでも、いかに食事などを安く済ませるか、という内容が散見される。 母親も、飯尾和樹がワンコインで賢く食費を浮かせてて、偉いと言っている。 円安と資源価格高騰による コストプッシュ・インフレの影響と、 それでも企業の価格転嫁が進まずで、 結局、名目賃金が上がったとしても、 実質賃金が目減りしているから、 当然と言えば当然なんだけど、 そもそも 期待インフレ率を上げて、実質金利を下げることにより、消費を喚起することが インタゲの主眼目のはずだったのに、 これじゃ本末転倒じゃないか。 ただのスタグフレーション。 黒田日銀は、日本経済を永久凍結させる気か? 見方によっては、富の分配の偏りは、消費の低迷によって 国全体を貧しくする、ということも言えるだろう。 そもそも、少子高齢化が進めば、 老人の支出が減るのは当たり前だし、 働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、 消費を控えるのは当然だろう。 それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。 政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 ...

お見事!値千金!!!

昨日 (2023/10/24) の 日経新聞 経済教室、 名古屋大学教授の 齊藤誠先生による 寄稿は、 現在の 日本の金融経済の 置かれた状況を 明快に説明していて、 非常に 勉強になった! なんだかんだ 経済って 需要と供給なんだな。 やっぱ ケインズはすげえわ。

遺書

去年の夏だったか、 母親に、 財産どーすんの?て 聞いたら、 俺の生活費を 姉に管理してもらうつもり、 などと言ったもんだから、 俺が  ふ・ざ・け・ん・な !  とばかりに 発狂しそうになって、 救急車呼んで 病院で半日静養したら、 ようやく 遺産は半々で、って ことで 一筆したためてもらった。 そういう 母親の 無駄な 宥和政策が 姉の モラルハザードを増長させ、 結果的に 俺の 精神的苦痛を増嵩させてきた。 母親には それに対する自覚が あまりにも 低い。 結局 ゴネ得じゃねーか! 泣き叫んだもん勝ちかよ!

アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)

自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに...

100分 de 名著

伊集院光ってすげえな。 たまたま Eテレで アリストテレスの 「ニコマコス倫理学」 を 取り上げてて、 俺も 茨城大学で 「アリストテレスの倫理学」 受講したから、 だいたいは わかってるつもりだけど、 伊集院光は、 もちろん 専門家とのやり取りも 交えてなんだけど、 高校野球の話とか、 古典落語のネタとかから、 視聴者が 聞いて わかりやすく納得できるような コメントを どんどん 繰り出していく。 俺には 到底まね出来ない。 彼すげえわ。 やっぱり 古典落語っていう ベースが大きいんだろうな。 やっぱ古典って大事だよね。 小澤太郎先生も 言ってたけど、 古典を勉強してください、と。 若者は大抵そんなもんかも知れないけど、 古典を馬鹿にするよね。 SFCが際立ってるかどうかは わからないけど、 私達は最先端をやってるから 古典など必要ない、と 言わんばかりの態度だったなあ。 古典の価値が わかんないうちは 学問の敷居すら跨いでないよ。

報道の自由?

額賀さんが ミスって 天皇陛下に 失礼なことをした お詫びをしたってんだが、 安倍ちゃんが 漢字読めなくて 上皇上皇后陛下を ディスったときに、 マスゴミちゃんと 騒いだっけ?  https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/77fab8ab22d3b2802305100d37b0248c7e9f5995

ラジオ体操

ピアノ演奏が 細貝柊さんという方で ふと思い出した。 父親の 勤続30周年とかで、 会社から 旅行してこい と 言われたらしく、 京都の 柊っていう 超高級旅館に泊まったんだが、 そんときも 姉が 些細なことで 泣き叫んで、 こんなところに来てまで これか。 と 心底ウンザリした。 そんなんばっか。 家族で旅行すると ほぼ 間違いなく 姉が 泣き叫んでた 記憶しかない。 ある意味 羨ましいよね。 ああやって 恥ずかしげもなく 感情を 垂れ流せる神経が。 それで どんだけ こっちが 迷惑したと 思ってんだか。  https://www.youtube.com/watch?v=oSzUiC8BVAE

お疲れさん、オレ。

病院から出てきて、 羽生に居た頃、 出家して 永平寺で修行したいとか 親に 言ってたもんな。 そりゃもう、 親に 「なんで俺を産んだの?」 とか 聞いちゃってたし、 そもそも 生まれてこなけりゃ良かった とも 思ってたし、 恥辱のどん底だったよ。 当たり前じゃん。 こんな病気になって。 そんな状態から、 よく 20年かけて ここまで持ってきたよ。 我ながら。 こっから、更に 働けってのは 酷だぜ。 身体がついていかない。 姉は相変わらずだし。 アイツらを 相手にするので 精一杯。

経済教室 (再掲)

8月5日の デール・コープランド、 バージニア大学教授の寄稿と、 今日 8月15日の 牧野邦昭 慶応大学教授の寄稿を ざっくりまとめてみると、 現在の中国は、 貿易依存度が 高いという点で、 1930年代の日本に似ており、 下手に 貿易面での 過度の制裁を加えると、 戦前の日本のように 暴走する可能性があるので、 中国を 追い詰めすぎるのは 得策ではないこと、 中国が 台湾侵攻を自重しているのは、 もしそれをすれば アメリカを中心とした 経済圏から 締め付けを喰らうことを 意識しているからだ、 とのこと。

日経新聞 オピニオン欄 2023/8/29 より抜書 (国際関係論レポートネタ) (再掲)

中国の経済が 苦境に直面している。 不動産が不況に陥り、 金融リスクの 火種が くすぶり出した。  少子化で 低成長を 強いられることは、 中国も分かっていた。 だが、 これほどの 不動産不況や 若者の失業は 想定外だったはずだ。  生活を豊かにしてくれるから、 中国の人々は 共産党の支配を 受け入れてきた。 この前提が崩れたら、 共産党体制がきしんでしまう。 そんな不安が、 習近平政権の 対外行動をさらに 強硬にする恐れがある。  もっとも、 経済の苦境が 中国の行動を 融和的にする 要素がないわけではない。 外国からの 直接投資や貿易が しぼむのを 食い止めるため、 対外交流を 促そうとする心理が 中国に働く面がある。 処理水問題で 日中が 険悪になる前には、 日本に対しても そんな動きがあった。 日本からの 投資を呼び込もうと、 中国の地方政府による 経済ミッションの 来日も相次ぐ。  経済成長が鈍れば、 軍拡などに 回せる 財力の余力も 減っていく。 中国の国力増強は、 思ったよりも 早く頭打ちに なりそうだ。  しかし、 総じて言えば、 国内の「不況」が 深まれば、 中国の対外行動は さらに 強硬になっていくと みるべきだろう。  経済成長が鈍っても、 すぐに 軍拡のペースが 落ちるとは限らない。  想定よりも早く 国力増が 頭打ちになると 分かれば、 その前に 重要な国家目標を 実現したいという 心理も 習氏に働くだろう。 その典型が、 台湾統一だ。 統一の 目標時期を、 前倒ししなければならないと 考える 恐れがある。  失業増などに 伴う 中国国民の 不満の高まりも、 共産党の対外姿勢を 一層、 かたくなにしかねない。 国内で 弱腰批判を 招くわけにはいかないからだ。 重要な 国益が絡む問題で、 中国は 自国の主張を 押し通そうとすると みられる。  その場合、 いちばん 好ましくない シナリオは 習氏への 忠誠心を示すため、 中国政府・軍の 各部門が 競って 強硬策に走る筋書きだ。 福島原発の 処理水問題をめぐる 日本への対応でも、 そんな構図が 透けて見える。  右肩上がりの 「豊かさ」を 与えられなくなったとき、 共産党は 何によって 国民を束ねるのだろうか。 考えられるのが、 一層の大国主義と ナショナリズムだ。 強くて 自信過剰な中国は 困...

知らなきゃ良かった

昨日の日経新聞の コラムで、 パレスチナ紛争で アメリカが 中東政策の 見直しを迫られ、 アジア太平洋に 割ける 防衛資源が限られてくる中、 日本の役割の 重要性も 増してくる、と 書いてあった。 そっかー、やっぱ 中国と北朝鮮は 戦争する気マンマンなんだね。 ちょっと誇張した 書き方かも知れないが、 台湾問題は 決して対岸の火事ではない。 でも、あんま 危機感煽って 防衛費のための増税を 正当化しようとしたり、 ましてや 言論封殺に走ったりしない 岸田さんは まともだと 思うがな。 こりゃあ いよいよ 今日の補欠選挙が 大事になってきた。

補欠選挙

明日 (10/22) は 高知と徳島だっけ? の 衆院補欠選挙。 地味に大事だよね。 この 補欠選挙の結果次第で 岸田政権に 暗雲が垂れこめる。 この 補欠選挙の直前に (時限的) 所得減税を発表してるだけに、 これで 負けるようだと、 印象は悪い。 結果次第では 積極財政派 (安倍派) が 勢いづくようだと、 日本の財政は いよいよ ヤバい。 (以下 google bard より回答) はい、明日は高知と徳島の衆院補欠選挙です。 地味に大事というのは、その通りだと思います。補欠選挙は、通常選挙と比べて投票率が低いことが多く、与党が勝利する傾向にあります。しかし、今回の補欠選挙は、岸田政権の支持率が低下している中で行われるため、与党が敗北する可能性は十分にあります。 もし与党が敗北した場合、岸田政権に対する不信感が高まるとともに、積極財政派の勢いが強まる可能性があります。積極財政派は、財政赤字を拡大させてでも、経済対策を積極的に実施すべきという主張をしています。もし積極財政派が政権を握った場合、日本の財政はさらに悪化する可能性があります。 もちろん、補欠選挙の結果は、あくまでも一つの指標に過ぎません。しかし、岸田政権の今後の政権運営や日本の財政の行方を占う上で、重要な意味を持つことは間違いありません。 明日の投票日、有権者の一人ひとりが、自分の意思で投票に参加し、その結果をしっかりと受け止めることが重要だと思います。  俺:Tomorrow, the two complementary elections at Kohchi and Tokushima will be held. Critically important to outlook the destiny of not only Kishida cabinet but also Japan’s fiscal. ジョンさん:Good luck to him. He seems ok to an outsider. 俺:I suppose little attention has been paid to this election from abroad. Quite understandable. ジョンさん:Palestine ,of...

妄想卒論その11 (再掲)

確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

政治学レポートネタ (再掲)

外泊したせいで 日経新聞の 記事の 時系列が 曖昧になって、 いつの コラムだか 分からないが、 とにかく この 2,3日の ある日のコラムで、 日本は 実質的に 「自民党」 対 「無党派層」の 2大政党制で、 自民党からすると 無党派層を 投票に 来させないのが 選挙を戦ううえで 有利な 戦略、と 書いてあった。 一読して、 自民党はズルい!と 思ったが、 よくよく考えると、 自民党への 対立軸たる 「無党派層」の支持を 獲得できていない 野党、特に 旧民主党系 デリバティブズの 怠慢なのではないか? という気がしてくる。 こんなこと言ったら 野党は怒るだろうが。 しかし、 「自民党」 対 「無党派層」という 対立軸のなかで、 野党は アンチ自民的な イデオロギーを 打ち出すことに 焦点を当てすぎている 感が否めない。 野党の 立派な学歴を持った お歴々が、 常識で考えれば 非現実的なことが明白な 政策を 臆面もなく標榜する。 それが アンチ自民たる 多様な考えを持った 「無党派層」にウケれば、 とりあえず そこそこの 議席を獲得できてしまう。 無党派層にも 自民党は嫌だから、という 理由で 消極的に 野党に入れている有権者は 数多くいるだろうが、 そこを狙って 政策を個別化して 打ち出すよりも、 単純に アンチ自民党「的」な 言説を撒き散らして 選挙戦を 戦い続けた 野党にこそ、 政治の停滞の責任の一端が あると 言っても過言ではない。 日本の有権者も そんなに バカばっかじゃないのだ。 単に 総花的で 無責任な、 反自民の旗を掲げ続けた 野党の責任も重い。 自業自得。 ・・・っていう意見を バードに 打ち込んでみたら、 3秒くらいで こんな回答が表示された。 人工知能に政治がわかるのか? (以下GoogleBARDの回答) あなたの意見に同意します。野党は、自民党に代わる明確なビジョンと提案を打ち出さなければ、政治の停滞は続くでしょう。アンチ自民党的なイデオロギーを打ち出すだけでは、有権者の心をつかむことはできません。野党は、日本の社会や経済の問題に真剣に取り組ん...

cool down

ちょっと ここんとこ 脳の回転率が 上がりすぎてたな。 2割くらい 下げないと。 ある程度 余裕がないと、 逆に シンドくなる。 ・・・おはようございます。 爽やかな朝だ。 よく寝た。 最近、根つめて勉強したり しなければ、 規則正しく起きられるように なってきたね。 素晴らしい。 うんうん。 実りの秋ですよ。  https://www.youtube.com/watch?v=9HZ_tx8aWuA

漱石の魅力 (再掲)

俺:漱石の魅力は、エモさに逃げないところですよね。 どこまでも論理で詰めようとする。 それが「行人」の一郎のような狂気一歩手前まで行っても、そこで終わらない。 結局はホモソーシャルという親密圏から逃れられてはいないし、他者との繋がりの構築という意味では解決案を呈示できてはいないのですが、安易な妥協をしないで、むしろ問いを現代の私たちに投げかけ続けているところが、漱石の最大の価値なのではないか、と思われます。 森本先生:エモさに逃げない論理性、そしてそのように追尋しても、なお解決不能な不可解な「他者」との関係性ーーいずれも納得、なるほど、まさにその通りですね。 ただ、ホモソーシャルへの囚われ、という点についてはーー解消はできぬながら、最後のところで拒否しているのでは、といった感触があります。「一郎」は、深い眠り、という形で、自分を描写して弟、二郎へ報告しようとする「Hさん」の〈解釈〉を中途で遮断、宙吊りにしてしまいますね。これを以て「Hさん」を媒介に「一郎ー二郎」と連なってゆきかけたホモソーシャル連続体も宙吊りにされてしまいます。 『こころ』でも「先生ーあなたーあなた方」は一見、ホモソーシャルな共同体を形成しているようではありながら、ここでの「先生」は死者、メッセージは「遺書」ーーつまり「生命」と引き換えにしてしか連続体らしきものは構成されません。 しかも興味深いのは、この「一郎」や「先生」のホモソーシャルな連なりに対する拒否感が、必ずしもジェンダーに対する相対化から来ているのではなく、むしろ強烈な「個(我)」意識ーー私は私であって他の誰でもないーーから来ているらしいことです。「先生」は「遺書」の書き始めに、自分の命が潰えることを絶対条件に過去を明かすことにした理由として、何と「私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有」だ、というような趣旨を述べています。今で言うところの「プライバシー」ですが、それがあくまで自分の「こころ」に立ち入られることへの拒否感であることは注目に値します。まるで「個室」がそうであるような、「内面」の仕切りを持った容量とでも呼ぶべきものが伝わってくる一節です。 「私」が回想する、「先生と私」のあの忘れ難い鎌倉の海辺における出会いの場面についても、遭遇の歓びに海の中で身体を躍らせ、「愉快ですね」と呼びかける私に対して、「先生」は静かに波の上に横た...

漱石と「孤独」 (再掲)

俺:漱石の孤独の論考を読ませていただき、なるほど、と感服いたしました。 しかし、しばらく経って考えてみると、漱石は、例えば「こころ」では、(漱石自身の写し身である)「先生」の孤独を描きながらも、鎌倉の海辺での出会いにおける「私」の呑気さの描写も、リアリティーがあります。 つまり、孤独を描いているのはもちろんのことなのですが、世間一般の呑気さを描くことも出来る。 しかし、世間一般の「呑気さ」を理解しながら、「孤独」を描写する、という行為は、単に「孤独」を感じ、描写するよりも、なお一層ツライことだと思われます。 森本先生:「先生」と「私」の対比ーーいわば〈閉じる人〉と〈開く人〉とでも評すれば良いでしょうか、「私」自身が回想手記の中でこのことには気づいているようですーー、特に末尾の「呑気さ」を理解しながら「孤独」を描写する辛さ、には唸らされました。 私の気持ちとしては、「孤独」それ自体というより、「孤独」を代償とせざるを得ない「個我」意識(「上」14章の「自由と独立と己れと充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わってわわなくてはならない」)の方を強調したいのですが、確かにその弊を知るが故に、「轍を踏むな」という言い方で、その生の道程を「私」へ開示するーーつまり、相対化ですね。 しかも、「呑気なー私」のポジションそれ自体は、「先生」ときっかり対峙し、向き合羽もの、というよりは、究極するところ、「先生」という存在の「受け取り手」の域を出ないわけです。 「先生」は「私」に対して、自分の生き方を相対化して乗り越えてゆくことを切望していますが、テクストは、あくまでそれを「先生」側からの「期待」として描くに止まり、「期待」が「私」へどのように反映されるか/され得るか、については案外、寡黙です。 実際、「私」の他者に対して〈開かれた〉在り方ーー小林くんのいう「呑気さ」は、まさに「世間」(的ものの見方)に対して融和的でもあり、ということは、ごく平らかに、「先生」の死後、あのホモソーシャルな世界へ帰還してゆきます。いったんは「奥さん・静」に対して「1:1ー個人 対 個人」として向き合いながら、そこに人妻の媚態を見出し、彼女を「先生・の・奥さん」へと送り返してしまう。つまり典型的な「ホモソーシャル」の成立。そして「中」で故郷と両親を回想する「私」は、故郷との永訣に個の...

「魔の山」 トーマス・マン 岩波文庫 下巻末尾 

さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり)  https://www.youtube.com/watch?v=B_HSa1dEL9s

自動車免許の更新に行ってきました。

いつかやらなきゃ、と 思っているうちに 日が経って、 昨日 服が届いたから、 さっそく 着用して 高崎問屋町にある 免許センターに 行ってきた。 最初ここだと思ってた場所と違って、 眼の前まで来たんだが、 交通量の多い 幹線道路の反対側で、 しかも 電話で問い合わせたら、午後3時に 閉まるってんで、 あと7分くらいしかなくて 焦った。 正味1時間くらい かかったけど、無事に 免許更新。 新しく届いた ウェアの性能に関心しながらも、 疲れた。 風邪ひきそうだ。 あれね、ストレス感じると、 どうしても 過食になったりして 結局カネ遣うから、 年金みたいに なんもしなくても お金がもらえるってのは、 額面以上の価値があるよ。 てゆーか それ以前に 完全なペーパードライバーで、 自分で運転したこと 1度もないんだけどね。 誰だって 苦手なことの 1つや2つはある。 講習の時間に、配られた 用紙を見ながら、実地で 行政法の勉強が出来た。 行政法のほうが先に 勉強が進んだけど、 やっぱり 民法ってのは大事だね。 時効とか 行政法にも モロに絡んでくるから。 ・・・免許センターみたいな ところに行くと、 なんていうか、 自分がいかに 浮世離れした生活してるか 思い知らされるね。 ある意味 カルチャーショックだわ。 近くに レクサスのショールームがあって、 中古で 600万円以上の値がついてて、 それにも 驚いたけど。 でも、中古とはいえ レクサスでも 650万とかか、 海外の金持ちからすれば 安いんじゃね? とか 思っちゃった。

不良少年とキリスト

神サマってのは 便利でいいね。 中世の神学では、 あなたは 神の存在を感じることが 出来るはずだ、って ところからスタート するんだから。 人間はアテにならなくても、 神サマを 信じた気になれば、 少しは 慰めになるかもね。 神の存在さえ 感じちゃえば、 もう キリスト教徒としての 最初の一歩を クリアしたことになる。 なんて 便利なんだ。 それこそ世界広がるよね。 世界中のどこに居ても、 神サマさえ 信じられれば、 生きていけるんだから。 ・・・結局、俺が 「重すぎる」 んだろうな。 でも、高度成長を生きた 昭和オヤジとその家族の 矛盾を、 こんがらがった糸を、 解すような 半生だったんだろう。 そのためには、 心にきれいな水と 栄養が必要だったんだ。  https://www.youtube.com/watch?v=wllXY322K7Q

風と光と二十の私と

中学の時からだぞ?! おれ何回 同じ人に フラレてんだろう? もう 3回か 4回は フラレてんじゃねーのか? もしかしたら フラレてないのかも知れないが、 俺自身 さすがに疲れてきた。 この20年 ほとんど音信不通。 20年以上 会ってもいない。 女ってめんどくせえ。 とはいえ、この 25年間の艱難辛苦を 乗り越えて来れたのは、 紛れもなく その人の存在が 心のうちにあったからなんだが。 しかし、たぶん 心のなかで 都合のいい 矢田津世子を拵えていた 坂口安吾と 同じなのかも知れない。 会ってはいけないのかも知れない。 彼女の存在あればこそ、 どんなにシンドくても 頑張ってこれたが、これからは 心のお守りなしで 生きていかなければ いけないのだろうか。 この25年間を、きれいな 思い出として 一生かけて 味わい尽くすしか ないのだろうか。  https://www.youtube.com/watch?v=VInxOLmKWmA

市井の漱石論

夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。  「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。  夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをし...

テンションあがるー

数日前に 村上龍の カンブリア宮殿だったかな? で ミズノの服やってて、 佐川急便の 制服とかに 採用されてるってんで、 これから 面接授業のシーズンだし、 何かと 体温調節の難しい 時季だから、と 思って、 年金も入ったことだし、 アマゾンで 4Lサイズのウェア(上)を 注文したけど、 着てみたら、 採寸したわけでもないのに ぴったりフィットして、 我ながら 全然デブって感じじゃなく、 むしろ 屈強なラガーマンみたいで、 いいじゃん! と 気分いいです。 オフィスカジュアルとしても 使えるし。 森本先生からも レポートへのお返事いただいたし、 いやー マジ テンションあがるわー (それにしても、もはや 服までアマゾンか。) ・・・またしても アマゾンで、ついにサカゼンの ジャージ上下買った。 デブ御用達だから、たっぷり感は 半端ない。 丈もそんなに長すぎないし、快適。 下はともかく、上は外で着ても そんなに心配なさそう。 ちょっとチーマーみたいだけど。 お腹がハミ出る心配はないのが うれしい。 ・・・うん。 さすがデブ御用達のサカゼン。 デザインも洗練されてるし、 たっぷり感はあるけど、 全然だらしなくない。 着てるうちに 身体にフィットしてきて、 ずっと 着ていたくなる。 ぽっこりお腹も でっかいケツも 隠れるし、 外に出ても恥ずかしくない。

陰口じゃないよ。陰口じゃないからね。

いま、高崎市の 福祉センターの方が 自宅に来て お話したんだけど、 久しぶりに 疲れた。 もう 何回もお会いしてるし、 アラフォーの女性だし、 決して 悪い人じゃないんだけど。 猛烈に疲れた。 なんだろう、やっぱ 市役所(の正規職員ではないらしいけど)、 の人って、あんな感じなのかな? て 気がしてきた。 基本いい人で、 かつ神経が すごくタフな人たちなんだろう、 という気がしてきた。 俺には 到底無理。 ただでさえ 神経が薄造りなうえに、 もうそろそろ 話を切り上げません? て 顔に出すことも出来ない。 どんどん メンタルが削られていく。 ごめんね。 ちょっと 市役所って選択肢は、ないな。 俺の 住める場所じゃない。

ある統合失調症患者の夢の記録

まーた ひでえ夢みたなあ。 尊厳ある おじいちゃんが、 ひたすら シコってんだよ。 医者が、残念だが この人は 施設に入れるしかない、と言う。 俺は、 おじいちゃんは 戦争で死の恐怖にさらされて、 それがトラウマになってるんだ、と 説明する。 (俺そうとう欲求不満なのかな?) 狂気とは狂人のなかにのみ あるものであろうか? 確かに俺は 薬がなければ死ぬ以外に 道がない人間だが。 しかし、たとえ錯乱するレベルの 狂人であろうとも、 狂人には狂人なりの理屈があるのだ。 俺も 言うまでもなく 閉鎖病棟に二ヶ月いたが、 本気で前後不覚、ラリってる患者は 一人しか 見たことがない。 こいつはグレートだ、という患者。 あれはもう 自分の意思とかたぶんない。 (とはいえこれも 外見から判断してのことだが。) 何かというと シコってるやつはいたが、 そいつも別に前後不覚ではなかった。 単なる依存症だ。 人間の無意識のリビドーを抑圧するのがトラウマだと 言った フロイトは確かに正しいかも知れない。 (とはいえ、単純に俺が 欲求不満なだけかも知れない。) しかし、ラリってるやつだから ひたすら シコってるとは言えないし、 ひたすら シコってるから、ラリってるとも 言えない。 つまり、 ラリってる、と、シコってる、は 必要条件でも十分条件でもない。 知的障害の人に 公衆の面前でシコらないように 教え込むのは大変と聞いたことはあるが。 それは 実地の研究が足りないからなんとも言えない。 しかし、いずれにせよ 性的欲動など、 健全な人間なら誰でも 持っているものだ。 狂気と性を安易に結びつけるのは 間違いだろう。 むしろ、無意識の欲動を制御する 理性のほうに 注意を向けてみたい。 我々は資本主義機械を動かすために、 リビドーをうまく コントロールしながら生きている。 しかし、俺の経験では、 資本主義に適合した人間にも、 羊の皮を被った狼のようなやつはいる。 非常に抜け目なく、 独裁者の素質に恵まれ、 時代と環境次第では どんな ヒトラーにでもなれる人間だ。 (ドイツ人ごめん。) あるいは、参政党支持者みたいに、 反ワクチン、ノーマスクで...

東洋経済オンライン

かんべえさんの 寄稿。 一読の価値あり。  https://toyokeizai.net/articles/-/708462  かんべえさんの 言うことも 尤もだと 思うけど、 これまで 散々 補正予算頼みでやってきて、 今度も ここで景気が腰折れしたら マジでヤバい (それは理解できるが) から また 手厚く補正予算組みましょう、じゃ この国 このさき どーすんのよ? ほんとにもう 目先のことしか 考えられなく なってきてるじゃん。

思いつきー人工知能も面白いこと言うね。

幼稚園とか 小学校の 運動会でやる 玉入れ競争ってのは、 数を数える っていうことを 身体を通して 覚え込ませる 競技 なんじゃないかと 思うね。 たまに 1たす1が なぜ2なのか わからない子供がいるらしいが、 実は 数学では なぜ 1たす1が2なのかは 深遠な問いらしいが、 俺には 皆目見当がつかない。 学校の教育というのは、 そういう 深遠な問いを感じる 感性を むしろ 殺すことで 社会に 適応できる人間を 再生産し続けている とも 言えるだろう。 (以下 google bard より回答) はい、その通りだと思います。玉入れ競争は、数を数えるという概念を子どもたちに体感的に理解させるための良い方法だと思います。子どもたちは、玉を投げてカゴに入れることに集中することで、自然と1から10までの数字を覚えていきます。また、玉を投げることで、手や目、身体の動きが連動して、数と動きの関連性を理解するようになります。 1+1=2という式は、日常生活の中で当たり前のように使われていますが、実はその意味を深く考えてみると、とても奥深い問いであることがわかります。なぜ1+1=2なのか、なぜ2個のものが1個になるのか、その理由を説明するのは簡単ではありません。 学校の教育は、子どもたちに社会に適応するための知識やスキルを身につけさせるためのものです。そのため、時には子どもたちの好奇心や探究心を抑制して、社会のルールや常識を教え込むこともあります。その結果、子どもたちの中には、1+1=2という式の意味を深く考えようとしない人も少なくありません。 しかし、子どもたちの中には、1+1=2という式の意味を深く考えることで、数学や科学の面白さに気づく人もいます。そのような子どもたちは、自ら考え、探求する力を身につけることで、社会の変化に柔軟に対応できる人材に成長していくでしょう。 玉入れ競争は、子どもたちに数を数えるという基本的な概念を身につけさせるだけでなく、数学や科学の面白さに気づくきっかけにもなるのではないでしょうか。

ゲンダイさんは、主張はわかりやすい。

日銀が物価見通しを大幅に引き上げる方向だ。2023年度の消費者物価上昇率の見通しについて、7月に示した前年度比2.5%から3%近くに上方修正する検討に入った。共同通信が10日にスクープし、今月30、31日の金融政策決定会合で決定すると伝えた。   https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/money/330434  岸田総理のバラマキ発言と どこまで 連携とってるのかは 皆目わからないが、 日銀からすれば、 物価見通しを 引き上げる、ということは、 利上げをほのめかすことに 等しいから、 政治への 牽制の意味はあるだろう。 利上げしたら 国債の利払い費 増えるのわかってるよな? て。   共同通信は10日、日銀が2023年度の消費者物価上昇率の見通しを、7月に示した前年度比2.5%から3%近くに上方修正する検討に入ったと報じ、金融株の動向に注目が集まっている。 市川氏は「仮に日本の長期金利が上昇すれば銀行株が買われる可能性はある。  https://jp.reuters.com/markets/japan/funds/C2ENIXWOARPBHGL2EFDCGT3JSM-2023-10-10/#:~:text=%E5%85%B1%E5%90%8C%E9%80%9A%E4%BF%A1%E3%81%AF%EF%BC%91%EF%BC%90%E6%97%A5,%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7%E3%81%AF%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82  (以下 google bard より回答)  2023年10月13日現在、日銀は2023年度の消費者物価上昇率の見通しを、7月に示した前年度比2.5%から3%近くに上方修正する検討に入ったと報じられています。 この報道を受け、金融株の動向に注目が集まっています。仮に日本の長期金利が上昇すれば、銀行株が買われる可能性があるためです。   日銀が物価見通しを引き上げるということは、利上げをほのめかすことに等しいため、政治への牽制の意味もあると指摘されています。  以下に、日銀が物価見通しを引き上げる背景と、金融株の動向への影響について解説します。...

迷宮入り? (人工知能もそれっぽいことを言うようになったね。)

自公政権のやってることの 筋道がもう 見えてこない。 デフレ克服のために 超金融緩和10年やって、 円安による コスト・プッシュ・インフレが 起きたら、バラマキ。 そもそも、アベノミクスで 日銀と 協定 (アコード) を 結んで、事実上 日銀を縛っておきながら、 その 協定とやらが どうなってんのか 不明。 やはり、アベノミクスは 2年で終わらせるべき だったのだ。 そうでなければ、 日銀を自縄自縛にするだけだ。 政治は、それを 奇貨として 財政ポピュリズムに 陥っている。 借り物の経済理論を 振り回したのに、気づいたら 自分が 金縛りにあっている。 (以下 google bard より回答) ご指摘の通り、自公政権の経済政策は、一貫性がなく、筋道が見えなくなってきているように感じます。 デフレ克服のために超金融緩和を10年続けましたが、円安によるコスト・プッシュ・インフレが起きたら、財政出動によるバラマキに転じました。これは、アベノミクスの失敗を認めたくないという政治的な思惑が見え隠れしています。 そもそも、アベノミクスでは、日銀と協定を結び、日銀に超金融緩和を続けることを強制しました。しかし、その協定がどうなっているのか、今となっては不明です。もしかしたら、日銀はすでに協定を破棄し、金融緩和を縮小しているのかもしれません。 このように、自公政権の経済政策は、混迷を極めています。これは、経済理論を借り物で使い、国民の支持を得ようとした結果なのかもしれません。しかし、借り物の経済理論は、必ずしも日本の実情に合致するものではありません。その結果、日本経済は、デフレから脱却できず、インフレとデフレの両方のリスクを抱えることになりました。 自公政権は、経済政策の方向性を明確にし、国民に説明責任を果たすことが必要です。そうでなければ、日本の経済は、さらなる混迷に陥ることになりかねません。 具体的には、以下の点が課題として挙げられます。 デフレ克服のための具体的なロードマップを示す 円安によるコスト・プッシュ・インフレの抑制策を講じる 財政出動の財源を明確にする 日銀の独立性を尊重する 自公政権がこれらの課題を解決できなければ、日本の経済は、さらに厳しい状況に陥ることになるでしょう。

ハッピーな生活はつまらない

こんなご時世に ハッピーな暮らしを してる奴は、 発言権がないのだろうか? 俺は いま確かに ハッピーな暮らしをしてるが、 一歩間違えれば ドン底にいた シナリオだって いくらでもあった。 母親が半身不随とか、 最悪 死んでた可能性もあるし、 俺自身 引きこもりに なってたって 全然おかしくない。 ハッピーな暮らしなんて、 このご時世 そうそうあるもんじゃないし、 イカニモな 生活を仮構するために 不要な要素を捨象していったら、 そんなやつ どこにもいねーよ。 て話にならざるを得ない。 不幸な生活も同様だろう。 今から 振り返れば、 過去20年間 俺は、というか 小林家は ずっと 不幸だった。 父親以外は。 そういう意味では、 いまは いかにもシンプルな暮らしを していることになるだろう。 なぜなら ハッピーだからだ。 それが そんなに 悪いことなのか? 自分以外の他人 全員が 不幸でないと 気が済まないとでも 言うのだろうか。 その気持はわからなくもないが。 しかし、自分よりも 少しでも ハッピーな暮らしをしている やつを あげつらって、 既得権益だの なんだの騒いで、 自分に降りかかる不幸と 同じか それより酷い 目に遭わせなければ 気が済まない、 という社会は、 持続可能な社会ではない。 なぜなら、民主主義社会では、 それが 民意として 全員を平等に不幸にする社会が 実現されるからだ。 戦後社会は、 <戦争の記憶> という 不幸を共有していたから、 逆説的に ハッピーな社会だったのかも知れない。 いや、結局 他人のハッピーな生活なんて、 そもそも 面白くもなんともないのだ。 それが 人間のサガだ。

無聊を託つ 再改変 (増補)

質問:少子高齢化が進めば、 老人の支出が減るのは当たり前だし、 働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、 消費を控えるのは当然だろう。 それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。 政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。(無聊を託つ より) (以下 google bard より回答) 少子高齢化が進むにつれて、老人の支出は減り、働く世代も将来の社会保障が不安になることで、消費が控えられるのは当然です。これは、小手先のナントカノミクスではどうにもならない問題です。政府は、NISAを恒久化するなど、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死ですが、デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、家計が現預金を貯め込むことで、結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることです。しかし、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、財政の規律が緩むことは目に見えています。また、日本ではインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうですが、フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずですが、日本の家計はそこまで合理的ではなく、現預金を貯め込むという方向に進んだようです。それはそれでいいでしょう。緩慢な死を迎えるだけです。 私は、少子高齢...

テレ朝

大阪?で 男が たこ焼き屋さんを フルボッコしてる 映像が流れてる。 いま 午前6:40だぞ?! こんな 朝っぱらから 神経を逆なでするような 映像を 平気で流す 神経が理解できない。 しかも CMまたぎで。 ちょっと 感覚がオカシイ。 最近、日本の伝統芸能の 存在価値が 少しわかってきた。 能とか歌舞伎とか。 ただの芸能じゃねーか。 と思ってたけど。 やっぱり、繊細な所作とか 身のこなし方とか、 奥深い感情表現とか、 こんな 文化が劣化しまくった 現在の日本だからこそ、 その価値が 重みを増してるんだな。 何言ってるか さっぱりわかんないけどね。

conversation in English

俺:Reviving Imperialismistic history, Naoki Hyakuta has shamelessly founded Nihon Hosyu party. There are many fools who are so touched by his aggressive perspectives that on twitter the party has gained many many followers. I don't believe it could grasp the ruling power, but it has already gained support from those who dream of the revival of Abe-like politics. They should know better than to commit the same mistake as WW2 when Japanese people were too blinded to reflect on themselves. ジョンさん:My impression is that the average person is indifferent to politics and unaware of Japan’s militaristic and imperialist modern history. My guess is that Japanese students don’t really learn about the negative legacy of their recent past and are thus easily convinced to embrace such Abe-esque parties. I haven’t yet researched this party. I will when I have a chance. I can then comment more. What political ideology is Sankei Shimbun? 俺:Right wing I guess. But Sankei Shimbun is one of the nati...

ひと仕事終えた。

我ながら ぶっ飛んだレポート 書けたぜ。 もう これで 市役所でもどこでも 働けるじゃん! て 思ったんだけど、 メンタルは大丈夫だけど、 身体がついていかない。 体力はあるんだけど。 ある程度の年齢になれば、 想像すれば、 自分の身体がどう反応するか、とか 結構わかるもんだよね。 で、想像してみたら、 不安とかじゃないんだけど、 動悸がしてきて、 脳も軽く失神しそうになった。 (つまり、動悸がするということは、 脳疾患のリスクも高まる。) まーなー、たぶん 今の生活のほうが、 案外カネも貯まるかもだしなー。 ちょっともう 無理はできんわ。 塾講師とかも やってみたいけど 報われないし。 やればやるほど ストレス解消で赤字になるの 知ってるし。 障害年金もらえる 立場を放棄するのに 見合わない。 それ以前に、 この国に未来あんのかよ?

別の面接授業のレポートネタ。

夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。もちろんフィクションではあるが。 代助は、漱石が「自然(じねん)」と名付ける、自家特有の世界に隠棲している。そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、百合の花が活けてあった花瓶の水を、暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、そこに「自然」を見出し、主客合一の境地を得ようとするが、それは理性の放擲を意味するため、肉体を具有する代助は、再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、「赤の世界」の象徴として(再び)現れる、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。それはまた、ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件はむしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも理性を手放さない、漱石の「個人主義」...

テレビ

物心ついた頃から 当然テレビ見てるわけだから、 評論家でもないし、 自分の感覚だけだけど、 最近ほんと テレビを見るのが シンドくなってきた。 一番 楽なのは 真夜中の通販とかね。 あるいは ジャパネットたかたとか。 ああいうのは、とにかく 感情を逆撫でするような ところがないから、 安心して 見てられる。 それ以外は、 雑味、えぐ味が キツ過ぎて まともに見てられない。 くだらないお笑い芸人とかは 論外だけど、 朝っぱらから ゾンビ 平気で出すとか 理解し難い。 制作してるスタッフが どんどん イマドキになってるから、 そういう感覚で作ってるんだろうけど、 まあ俺には 正直ついてけないわ。

「危機の二十年」 岩波文庫 増補

「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」  E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より  今の日本人の間には、「財政破綻しなければいいな。」が「財政破綻するはずがない。」に転化し、それを正当化する屁理屈が蔓延している。 (以下 google bard より回答) E.H.カーの引用は、ある見解が正しいかどうかは、その見解が現実に実現されるかどうかとは別の問題であることを指摘しています。 現在の日本では、財政破綻のリスクについて、以下のような見解が主張されています。 日本の財政は、自国通貨建ての国債を発行しており、財政破綻することはない。 日本の財政は、人口減少や少子高齢化によって悪化しているものの、経済成長によってカバーできる。 日銀が国債を買い支えているため、財政破綻することはない。 これらの見解は、いずれも財政破綻を否定するもので、その主張には一定の根拠があります。しかし、それらの見解が正しいかどうかは、まだ誰にもわかりません。 財政破綻のリスクを判断するためには、以下の要素を考慮する必要があります。 財政赤字の規模と推移 国債の残高と利払い負担 経済成長の見通し 金融市場の状況 これらの要素を総合的に判断した結果、財政破綻のリスクが低いと判断される場合もあるでしょう。しかし、リスクがゼロであるとは断言できません。 「財政破綻しなければいいな。」が「財政破綻するはずがない。」に転化し、それを正当化する屁理屈が蔓延しているのは、財政破綻のリスクを過小評価する傾向が国民の間にあることを示しています。 財政破綻は、日本経済に壊滅的な打撃を与える可能性があります。財政破綻のリスクを軽視せず、適切な対応を検討することが重要です。 具体的には、以下の対策が考えられます。 財政赤字を縮小するための財政再建策を実施する。 国債の残高を削減するための改革を進める。 経済成長を促進するための政策を実施する。 これらの対策を講じることで、財政破綻のリスクを低減し、日本の経済を健全化させることが期待できます。

わからなくもないが

物価高で、 公明党が 現金給付や 所得減税を 政府に提言し、 自民党も 所得減税を視野に 入れているらしいが、 そもそも 物価を上げることで、 ひいては 賃金を上げる、という お題目で 10年も 大規模金融緩和やってきて、 今も やってるのに、 いざ 円安による コスト・プッシュ・インフレで 物価あがったら、 現金給付だの減税だのって、 ちょっと 意味がわからない。 まあ、消費者の意識としては 理解できるが、 本末転倒も甚だしい。 もう 財政破綻 一直線じゃん。 (以下 google bard より回答) ご指摘の通り、物価高対策として現金給付や所得減税を提案するのは、本末転倒であると言えます。 物価高対策としては、まず物価上昇の原因を抑制することが重要です。今回の物価高は、円安によるコスト・プッシュ・インフレが主な原因です。そのため、円安を是正したり、輸入品の関税を下げたりするなどの対策が必要です。 一方、現金給付や所得減税は、物価上昇によって生じた購買力の低下を補填するものです。しかし、これらの対策はあくまでも対症療法であり、物価上昇の原因を解決するものではありません。また、財政支出を増やすため、財政破綻のリスクを高める可能性もあります。 消費者の意識としては、現金給付や所得減税はわかりやすく、すぐに効果が期待できるため、支持されるかもしれません。しかし、本質的な解決策ではないため、長期的な視点で考えれば、むしろ問題を悪化させる可能性もあります。 政府は、物価高対策として、物価上昇の原因を抑制するとともに、国民生活への影響を緩和する対策をバランスよく講じる必要があると考えられます。 具体的には、以下の対策が考えられます。 円安を是正するための金融政策 輸入品の関税を下げるなどの貿易政策 原材料や燃料の安定供給を図るためのエネルギー政策 低所得世帯や子育て世帯などへの支援策 政府は、これらの対策を適切に組み合わせて、国民生活の安定に努める必要があるでしょう。

裏表?

なんか、往々にして 俺は 裏表のある人間だと 思われるフシが あるが、 こんだけ 堂々とディスってんだから、 裏も表もないだろ。 姉に関してだって、 姉のおかげで どれだけ 精神的に苦労してきたかを 思えば、 これでも 極めて抑制的だと 思うがな。 むしろ、そこまで 心理的に負担でも、 なんとか うまくやっていく道を 常に 模索しているからこそ、 それが うまくいかなかったりするから、 キレたりしてるわけで、 それを 裏表があると 言われたら、たまったものではない。 今だって、 姉夫婦とは うまくやっていく道を 模索しているのだ。 有り体に言えば、 姉のほうが 遥かに裏表の 激しい人間だ。 とにかく、俺を 裏表のある人間だ、と 決めつけるのは、 筋違いだ。 安易にコイツとは やっていけない、と 決めつけるのではなく、 うまくやっていく道を模索して、 それでも 裏切られたりすれば 恨み言もいうから、 裏表がある、と 勘違いされるだけだ。 これは 俺と長年関わってくれている人なら 誰でも わかってくれるはずだ。 どんな我慢強い 人間だって、 腹に据えかねることは あるだろう。 しかし、組織 あるいは家族の存続のために 顔で笑って 心で泣く、という行動を 取らざるを得ないことだってある。 その鬱憤を墓場まで 持っていけ、というのは あまりに酷だ。 俺だって人間だ。 確かに ポーカーフェースな部分もあって、 ムカついても 顔に出さないから、 むしろ 相手が調子に乗って モラルハザードを起こす、ということは 俺の場合 往々にしてある。 しかし、それは 小林家という複雑な 家庭環境に置かれて、 身に付けざるを得なかった特技なのだ。 中身は 普通に喜怒哀楽のある人間だ。 裏表があるんじゃない。 単純に 感情表出が極めて 抑制的なだけだ。 勘違いしてもらっては困る。 つねに 家族から 感情のはけ口、 感情のゴミ捨て場に されてきた 人間の悲しみを知れ!

スカッドさわやか

メンタルクリニック 行ってきたぜえ。 話したいことは とりあえずほぼ 話した。 多分 正味1分くらいだったけどね。 話は手短に。 待合室で 3回くらい 話す内容を シミュレーションした。 早朝は肌寒かったけど、 少し 汗ばむ陽気。 ・・・ようやく 姉の軛から解放された。 いや、場合によっちゃ、 生まれて初めて 姉に対して アドバンテージを握れる、 かもしれない。 診察が終わってから 妙な体調だったから、 どっか おかしいのかと思ったが、 やはり 心理面での変化は 直に 身体に現れる。 ・・・つっても、 自分が上手を取れる カードを握ってたとしても、 その 発現機会を虎視眈々と うかがうってのは、 現実には それだけで 体力を喰うな。 あんまり ロクでもないことは 考えない方がいい。 ・・・過ぎたるは及ばざるが如しって 言葉もあるけど、 バカで性悪なのは 疲れるけど、 恨むには こっちも疲れるから、 まあ、いっか。 て 気にならないこともない。 しかし、賢いくせに 根性がネジ曲がってるやつは、 遥かに タチが悪い。 くだらないロジックで 喧嘩売ってくるから、 つい こっちもしつこく根に持ってしまう。

ルカーチ メモその31 (再掲)

ルカーチは、 生産力や技術の発展、 合理化の徹底、 といった、 <近代化> の いわば 積極面の行き着く 果てに 決して <解放> を 見ていなかった。 <近代化> という 客観的な条件はむしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。  また、彼にするなら、 現実の労働者は <近代化> の呪縛に あまりに からめ取られている。 その日常的な意識は 物象化された 虚偽意識である。 彼らの 主観的な意志や決断に まったく 期待ができないというのは、 ハンガリー革命敗北の ひとつの 大きな教訓だったろう。  そこでルカーチは、 <近代化> の 否定面としての 物象化を、 プロレタリアートの意識において 積極面に逆転する論理を 考え出したのだった。 商品という客体としてある プロレタリアートの 自己認識こそは、 この 社会の本質の 客観認識である。 そしてそれも、 この プロレタリアートの 意識は <自分に対立して ある対象についての 意識ではなく、 対象の自己意識である> ために、 <意識化 という 活動は その 客体の対象性 形式を 転覆させる>。 つまり プロレタリアートの 自己認識そのものが すでに 実践的でしか ありえない。 こうして <プロレタリアートは、 歴史の同一的 <主体ー客体> として現われ、 その実践は 現実の変革となる> 道筋が描かれるのだった。 312ページ

妄想卒論その1・2 (再掲)

回転すし店で イタズラ行為を 動画に撮って ツイッターに あげて 騒ぎになった 人物が、 叩かれたりする。 しかし、 その正体を 暴いてみれば、 取るに足らない、 他愛もない 人物だったりする。 いわゆる、 トー横民だったり、 ドン横民だったり、 グリコ下だったり。 彼らは、 そういう 寄る辺なき 辺境をさまよう 「貧者」であったりする。 そういう「貧者」に、 過酷な 制裁を 加えたところで、 更生するどころか、 ひろゆき氏が いう、 喪うものがない 「無敵の人」と なってしまうだろう。 社会が 喪うものがない 「無敵の人」で 溢れてしまったら、 社会は崩壊する。 社会契約論を 持ち出しても、 その前提には その 社会契約を 守る、 という 暗黙の前提があるが、 その 前提すらも 守らなかったら、 暗黙の前提を守る、 という 合理性の 無限遡行が 起きるからだ。 つまり、 ランドル・コリンズが 言うように、 我々は 完全には 合理的には 生きておらず、 社会が成り立っているという こと自体が、 人々が 多少なりとも 非合理的に 生きている 証拠だ、 ということが 言える。 しかし、 人々が 自らの 非合理性に 気づかず、 ありもしない 「合理的な社会」を 生きていると 思い込んでいるとすれば、 それは 「合理的な社会」よりも さらに 生きにくい社会 とは 言えないだろうか。 各人が 自分の 手前勝手な 「合理性」を 相手に押し付け、 違犯するものを 糾弾する。 それは とても 生きにくい社会だろう。 ポピュリズム政党の台頭は、 そんな 生きにくい社会の 実体の 現れである かもしれない。 合理性と信用 という 語彙は、 一見 よく馴染むように 見える。 しかし、 社会が 合理的に 組織されれば されるほど、 詐欺が 必然的に 起きる。 なぜなら、 合理性が 追求された 社会においては、 相手を 欺くことが 合理的自己の 利得に なるからである。 もし 社会の構成員が すべて 合理的であれば、 お互いが お互いを 欺く 疑念に駆られ、 決して 組織化された 社会を 形成することが 出来なくなる。 社会契約論においては、 お互いが お互いを 信用することが 前提とされているが、 もし その契約によって 成り立つ 社会の構成員が すでに述べたような 合理的な個人である場合...

面接授業レポートネタ 増補改訂

夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。それは一見、無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。このことから、漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。 「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、そこでは、情よりも「理」が力を発揮する。弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、「清」から用立ててもらった「金銭」は、交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、この後、『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。

ルカーチ メモその34 (再掲)

もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 そのような 近代社会の いわゆる 「物象化」論は、 マルクスの 「疎外論」や 「資本論」と 連接する 問題意識だった。 「商品」は その物自体の 「使用価値」と それが市場でもつ 「交換価値」の 二面をもつ。 現代の資本主義社会においては 交換価値のみが 突出するため、 商品を作って生きる 人間の労働も 交換価値に還元され、 ひいては 人間性そのものまで 計数化され 疎外されていく。 故に そのような資本主義的 「物象化」の 打破こそが、 近代人の 陥っている 閉塞状況の 根本的解決だと 論ずる。

レポートネタ 「坊っちゃん」を題材に (「夏目漱石ー<近代>への問い」参照)

自分:夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。それは一見、無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。このことから、漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。 「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、そこでは、情よりも「理」が力を発揮する。弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、「清」から用立ててもらった「金銭」は、交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、単純に数量化できない性質のものなのである。 漱石の小説の登場人物たちは、この後、居場所を失い、『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、いやおうなく経済の論理に巻き込まれて、『こころ』の「先生」を頂点として、個人主義の殻の中へと閉じこもっていくのである。 森本先生より:唯一、言を挟むとしたら、ラストの「個人主義」あたり、でしょうか。 というより、「清」ひいては「清」と(現実的にはあり得もしない)「一心同体」となって憩うことのできる空間を「墓」ーー地底に埋めた漱石は、このような空間が決定的に喪われた、つまり現実には回復不能な時空として想定しているように思えます。同様に、代助もまた、嫁ぐ前の三千代の写真と草花だけを相手に生きる「自家特有」の水底の世界から、半ば夫に捨てられ子も失った不幸な人妻としての三千代と相対するべく、まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還してきます。その意味で、漱石は、やはり「個人」を社会的存在ーー「個」とは「世界」に包含された存在たることを以て個たり得るという...

テレビは見ててツラくなる。

徳光和夫の 路線バスの旅、 今日の ゲストは 大御所演歌歌手とその弟子なんだけど、 態度が 横柄で、 見ててツラくなる。 田中律子も いつもはハツラツとしてるのに、 肩身狭そうだなー、と 感じちゃったり。 もうね、過敏なのよ。 そういうの。 こんなに神経細かったら、 働くにしても 選択肢 限られてくるよね。 テレビは見たくない。

妄想卒論その10 the day that never comes (再掲)

言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)   代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中...

代助とアドルノ

自分:「それから」における代助の描写ですが、アドルノとの親和性は確かにありつつ、私としては、経済発展に伴う「疎外」をそこに見出したかったのですが、先生がお返事してくださったように、「姦通へのスプリングボード」と解釈したほうが、より人間の営みとして普遍性が強く、また、アドルノとの親和性も毀損されない、と思い至るようになりました。 先生:『それから』とアドルノについては、例の百合の場面をめぐって、主に読むべきが所謂主格一体の成立にあるかどうか議論したのは懐かしい記憶ながら、小林くんが教えてくれたアドルノの「疎外」論については、まさに『それから』全編、というより「長井代助」という人間の根本を侵している時代現象として、学ぶところ大いに大、また本格的に論じる機会のある時には心して論の基本に置かなければ、と誠に感謝している次第です。

<キャラ>の現象学 (再掲)

ところで、 ルソーは疎外論の 元祖だそうである。 「ホントウのワタシ」 と 「社会的仮面を被ったワタシ」 の分離という 中学生が本能的に 感じるようなことに 言及していたそうである。 ここで、いわゆる 『キャラ』 について考えてみよう。 サークルの飲み会で、 場にあわせて ドンチャン騒ぎを やることに倦み果てて、 トイレに逃げ込んだときに 自分の顔を鏡でみるのは 一種のホラーである。 鏡に映る、グダグダに なって油断して仮面を 剥がしかけてしまった 見知らぬ自分。 それを自分だと思えず 一瞬見遣る鏡の前の男。 男は鏡に映る男が 自分であることに驚き、 鏡の中の男が同時に驚く。 その刹那両方の視線がカチあう。 俺は鏡を見ていて、 その俺を見ている鏡の中に 俺がいて、 それをまた俺が見ている・・・ という視線の 無限遡行が起こって、 自家中毒に陥ってしまう。 このクラクラとさせるような 思考実験からは、 <顔>について われわれが持っている イメージとは違う <顔>の性質を 垣間見ることが 出来るのではないか。 そもそも、 自分の顔は自分が一番よく知っている と誰もが思っているが、 鷲田清一によれば、 「われわれは 自分の顔から 遠く隔てられている」 (「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22) という。 それは、 「われわれは 他人の顔を思い描くこと なしに、 そのひとについて 思いをめぐらすことは できないが、 他方で、他人が それを眺めつつ <わたし>について 思いをめぐらす その顔を、 よりによって当のわたしは じかに見ることができない。」 (P.22)からだ。 言い換えれば、 「わたしはわたし(の顔)を 見つめる他者の顔、 他者の視線を通じてしか 自分の顔に 近づけないということである。」 (P.56)ゆえに、 「われわれは目の前にある 他者の顔を 『読む』ことによって、 いまの自分の顔の様態を 想像するわけである。 その意味では 他者は文字どおり <わたし>の鏡なのである。 他者の<顔>の上に 何かを読み取る、 あるいは「だれか」を読み取る、 そういう視覚の構造を 折り返したところに...

実は陰キャ?

人間関係 全般が 苦手ってわけじゃ 全然ないんだが、 パリピノリは 年齢問わず マジでいやだ。 SFCで ほんとに懲りた。 ほんとは 飲み会とか大嫌いなのに、 これも 社会勉強だと思って 無理して 作り笑いして、 しかも 下手なサービス精神で ハジケたことすると、 女子マネとかから 心臓をえぐられる ような キツイこと言われる。 あんな 思いは二度としたくない。 それにしても、SFC生って、 何かにつけて 飲み会やるよね。 あるサークルは 湘南台で 週3とか週4で 飲み会やってたし、 別の サークルは、 新歓合宿で 試合のあとに みんな 大酒のんで 酔い潰れて、 次の日の 他のチームの試合に 線審として出なきゃいけないのに 遅刻して、 しかも 線審なんか 生まれてこのかた 1度もやったことがない 俺が やらされて、 他のチームにすげえ 迷惑かけた。 ほんとに モラルが低い。 今朝の日経新聞にも、 転職で 就職先から 内定もらってた人が、 飲み会で 酔っ払って さんざん悪態つきまくって 内定取り消された、って 話が 載ってたね。 社員が反社みたいだとか、 上司を何度も呼び捨てにしたりとか、 この会社はついでに受けただけだ、とか。 中国の故事で、 その人の 本性を知りたければ、 酒を飲ませてみればいい、みたいな話が あるけど、 まさに そうだね。 こういう人は、ビョーキだと思う。  https://school-navi.org/university/report/20123/

コミュ障ではない。

やっぱ 俺がオカシイんだろうが、 母親の介護保険と 俺の傷害保険で、 毎日 平日は ヘルパーさんが 3人も来るが、 全員 中高年の女性。 でも、 ちゃんと コミュニケーション取れてるよ。 あなたが思うより健康です! そういうことが、結構 自信に繋がったりする。 身構えながら話すなんて ああ 臆病なんだよね。 襟裳の春はなにもない 春です。

心因性多飲症

若いころから 水分摂取量が 半端じゃない。 したがって、 そういう体質になってしまっているので、 今さら 水分摂取を 制限するのは無理。 発症する直前は、 眠れないから ほとんど 眠るというより、 水中毒で意識を失う、っていう感じだった。 今朝も お茶を俺基準で 買ってきたけど、 カフェイン摂取すると 脳がドライブする。 こういう習慣が良くないんだろうなあ、と 思いつつ、 これも 一種の依存症だよなー、と。 水飲めって言うかもしれないが、 水だと 逆に 水中毒 一歩手前まで 行ってしまう。 タバコとか酒より いいだろうけど、 お茶で頭をドライブさせるなんて、 贅沢だな。

坂口安吾 三十歳 

勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。  たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。  人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。  けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。

久しぶりに見た

テレビで 家入レオが出てて、 驚いた。 あんな ギリギリな歌を 歌ってて、 自分もCD買ったけど、 この子 どうなっちゃうのかな? て 心配したけど、 ちゃんと 情緒の安定した 大人びた感じになってた。 良かった。

teo torriatte

えー、ちなみにセンセーは、、、、どーてーですっ! ナッ・・・・・・!  https://www.youtube.com/watch?v=Ge18n2JCwBs

都合のいい俗論 補訂 (再掲)

国債発行 イコール 通貨発行 という俗説が あるらしいが、 金融政策の 基本が 何も わかってないね。 国債を 発行して、 買ってくれる人が いるから、 (国債を買うのは 当然のことながら 中央銀行だけではない。) そのお金が 市中に 流れるんだけど。 これ、 (国債に限らず 債券全般に対する、 中央銀行による) 買いオペとか 売りオペとか 言われる 金融政策の 常識中の常識 だけど、 そんなことも 知らずに、 ただ 国債発行すれば 自動的に 貨幣供給量が 増えると 本気で 思ってる 人が いるみたいね。 (それに、 国債だって商品だから、 本来は政府の都合で 発行した 国債を、 相場を無視した 高値で 売れると思うのが そもそも 間違ってる。 むしろ、 日本の現状として、 日銀が 市場の相場を 無視した 高値で 国債を 買い続けてることが 本質的に問題なんだけどな。) なにで 経済学 学んだんだろう? それに、 貨幣供給量を 増やす イコール 国の資産が 増える ってのも そもそも 間違い。 国の富の 源泉は 付加価値、 すなわち GDPです。 これ、 学部レベルの 経済学で 最初に 学ぶことなんだけどな。 ほんと、 誰に 刷り込まれたんだろう? ついでに 書いとくと、 赤字国債を 発行すること自体が 法律違反なんだけど、 毎年 特例法案つくって 可決して 予算作ってる。 (ちなみに、 一昔前は その種の予算を 通す通さないが 政争の具に 使われたのが、 短命政権が続いた 原因だった。 らしい。) それが 常態化。 それを 国民の側が 嬉々として 受け入れてる 現状が 異常。 ついでに 書いとくと、 日銀が 国債買い続けないと 国債の価格が (異常な高値を 維持できずに) 暴落して 金利が 急騰して この国 吹っ飛びますけど、 さあ この ムリゲー どうします? ちなみに 安倍ちゃんは 日銀は政府の 子会社だから いくらでも 日銀に 国債 買い取らせればいい とか ほざいてましたけど。 もう 日銀による 国債の保有比率 5割 超えましたね。 (以下 google bard より回答) はい、その通りです。国債発行イコール通貨発行というのは、金融政策の基本を理解していない俗説です。 国債を誰かが買ってくれることで、そのお金が市中に流れることになります。しかし、国債を...

ウッキウキ♫

学べば学ぶほど 面白い 放送大学。  昔よく なんで 高校受験したの?と 聞かれたものだが、 今ふり返って 率直に思うのは、 このまま ここ (佐野日大) に いたら、 俺の人生ヤベえんじゃねーのか? って 本能的に思っちゃた。 それ以上でも それ以下でもない。

国際金融のトリレンマ (再掲)

今朝の 日経新聞の11面にも 「円の実力 過去最低」 と 書いてあった。 有名な 国際金融の トリレンマ に よれば、 金融政策の独立性と 為替相場の安定と 資本移動の自由が 3つ 同時には 成り立たない、と されているが、 この トリレンマが 過去の 日本で あまり 騒がれなかったのは、 円に実力があったから。 しかし、 人民元の台頭や、 日本の 貿易赤字の定着による 貿易決済における 円需要の 低下により、 円の価値 それ自体が 足元から揺らいでいる。 中国の 不動産バブル崩壊による、 中国経済の 先行き不透明感から 日本から 中国への 輸出が減り、 それもまた 円安圧力として 働くだろう。 ちなみに、 第一次所得収支の黒字も、 統計上は 円に計上されるが、 実際には 約4割は 海外での直接投資に 再投資されるため、 実需の円買いには 繋がらないらしい。 (以下 google bard より回答) はい、今朝の日経新聞の11面にも「円の実力 過去最低」とありましたね。 国際金融のトリレンマとは、金融政策の独立性と為替相場の安定と資本移動の自由が3つ同時には成り立たないという理論です。 過去の日本では、円に実力があったため、このトリレンマを気にする必要はありませんでした。しかし、近年は人民元の台頭や貿易赤字の定着などにより、円の価値が下がり始めています。 中国の不動産バブル崩壊による中国経済の先行き不透明感も、円安圧力として働くでしょう。 また、第一次所得収支の黒字も、統計上は円に計上されますが、実際には約4割は海外での直接投資に再投資されるため、実需の円買いにはつながらないそうです。 円安が進むと、以下のような影響が考えられます。 輸入物価の上昇による消費者物価の上昇 輸出企業の収益の拡大 海外旅行の費用の増加 円安は、日本経済にプラスマイナス両面の影響を与えると考えられます。 今後も、円安がどのように進展していくのか、注視していく必要があります。

金利のある世界

日本はたしかに 世界第3位の 経済大国だが、 その 膨れ上がった借金は、 世界経済のリスク要因。 そのハレモノを 潰さないように 超低金利の 金融政策を世界に迫るなら、 脅迫でしかないし、 完全に計画経済。 世界のお荷物でしかない。 こんな国は早く潰したほうが 世界のため。 米中の新冷戦で アメリカが安価な製造供給元として 利用していた 中国や台湾の地政学リスクが高まって、 日本の重要性があらためて 見直されているから、 すぐには 潰れないだろうけど。 世界経済の新陳代謝を 阻害する 性悪な国。 アメリカもインフレが収まっていないし、 FRBがどこまで利上げするか。 日本も 物価高に賃金上昇が追い付いていないし、 日米の金利差が拡大し続ければ、 円安圧力は増嵩する。 (以下 google bard より回答) ご意見ありがとうございます。 日本経済は、確かに世界第3位の経済大国であり、GDPや輸出額などの規模は世界でもトップクラスです。しかし、一方で、政府債務残高がGDPの2倍を超えるなど、財政状況は厳しい状態にあります。また、人口減少や少子高齢化などの構造的課題も抱えています。 これらの課題を解決するためには、政府や企業、国民が一体となって改革に取り組むことが不可欠です。しかし、現状では、改革の進展は遅れており、世界経済のリスク要因になっているという指摘はもっともだと思います。 特に、超低金利政策については、日本の財政状況を維持するために必要な措置であるとの見方もありますが、一方で、世界経済の歪みを生むという批判もあります。日本が世界経済のリスク要因にならないためには、財政健全化や生産性向上など、構造改革を着実に進めていくことが重要です。 また、日本は、米中の新冷戦の中で、アメリカの安全保障上の重要なパートナーとなっています。そのため、アメリカが日本を潰す可能性は低いでしょう。しかし、日本が世界経済のリスク要因である限り、アメリカからの圧力は強まっていくと考えられます。 日本は、世界経済に貢献できる国であり、世界から必要とされる存在であるべきです。そのためには、財政健全化や生産性向上など、構造改革を着実に進めていくことが重要です。

ZOZO

使ったことはないけど、 ZOZOって なにげに凄いよね。 ある意味 服のアマゾンじゃない? 自分も デブでなかなか 服が合わないから苦労するけど、 買いに行くのも面倒だし、 若い女の子なんかは 余計に 体型気にするだろうから、 自宅で採寸してくれて、 服送ってくれたら、 助かるよね。 そういう ビジネスモデル考えただけでも凄いし、 実際には 需要を満たすだけの 商品を揃えるのが大変だよね。 なにしろ 一人ひとり サイズとか好みが違うんだから。 それに見合った 服を製造してストックしておくって、 考えたら かなり 大変。 そこらへんがアマゾンに近い。 流行り廃りも当然あるし。 前澤さんすげえ。 ただのヤリチンじゃなかった! 個人情報をマネタイズできたら ほんとに 服のアマゾンになれた。 採寸したデータそれ自体が 貴重な 日本人の体型の統計データ。 あ、でも やっぱり 流行り廃りってところが ミソだな。 アマゾンって、俺も ヘビーユーザーだけど、 あんまり 流行り廃りを 追っかけないよね。 生活必需品とかの品揃えは凄いけど。 ファッションて、 それこそ スギちゃん1人で トレンドぶっ壊したり できちゃうからね。 リスク高い。

姉は悪魔

どうせ 一生 協力なんか できねーんだから、 この際 ブチまけてやるわ。 母親から 父親に 腎臓移植が 決まったタイミングで、 父親に 2号さんがいるのが バレちゃって、 うずくまって 泣いてる 母親の耳元で、 姉が、 「お父さんは 家政婦さんみたいな人を 探してたんだよ。」 って 囁いた。 つまり、母親は 父親にとって 家政婦でしかない、と。 姉はそういう人間。 人の傷に塩を 擦り込むのが 大好きな人間。  https://www.youtube.com/watch?v=8zSODUOoE8w

秋空

母親が ある日 焼きそばを 父親に出した。 ソースは色ムラがあり、 母親が すべての元凶とみなす おこげが 出来ているのを、 よりにもよって 父親に出した。 それを見て、 これはおかしい、 ついに来たか。 と 思って、 駅まで 買い物についていって、 やはり おかしいから 問答無用で 救急車を呼んだ。 脳梗塞だった。 父親の介護の日々の 最中だった。  https://www.youtube.com/watch?v=WM8bTdBs-cw

糖尿病&高血圧はヤバい

父親も、 脚こそ 切らないで 亡くなったけど、 糖尿病で ヤバいもの 一通り 引っ掛かったよね。 腎臓がダメになり、 人工透析の末 母親から 腎臓移植、 目もレーザー、 心臓の血管に ステント、 インプラント、 脳卒中。 最後は 肺炎。 腎臓移植しても 仕事続けて、 平気でタバコ吸ってたしね。 脳卒中になって ようやく仕事 リタイアしたけど、 その後も 株にハマって 毎日エキサイトしてた。 最後の半年くらいは ほんとに大変だった。 本人も、家族も まだまだ 生きるもんだと思ってたけど。 朝は、 脚をつって あああああーーーーっ!!!! いててててててて!!!!!! おかぁさあーん!!!! で 始まる。 日中は株。 夕方はテレビ。 夜中の2時まで起きてて、 真夜中は夜間採尿。 父親が 布団をはいだ瞬間に 俺が し尿瓶を差し出す。 そんな滅茶苦茶な生活をしてた。 最後は コロナで隔離されてる病院に、 かかりつけの医者がいるからってんで、 無理やりねじ込んでもらったが、 そのほうが 家族にとっては 楽だったかもしれない。 本人はサイアクだっただろうけどね。 間違いなく 家族が泊まり込みで 24時間 アテンドしてただろうから。 抜管防止手袋っていう、 ドラえもんみたいな手袋 ハメられただけで、 一晩中 叫んじゃうからね。 おかぁさーん!!!!!! ヒロくーん!!!!!!! 助けてよぉーーーーーー!!!!!!! って。  https://www.youtube.com/watch?v=5pijgBeaSEU

「金融と社会」質問と回答その1 (再掲)

問題提起:日本には巨額の対外純資産があるからかなり巨額の政府債務があっても大丈夫、という話は、額面通り受け取るべきではないのではないか?やはり財政収支と経常収支の 「 双子の 赤字」 は避けるべきではないのか?つまり、フローで見る必要があるのではないか?ストックで見るならば、増税を前提とするのが筋だろう。   内閣府のペーパー(https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html) によると、フローで見れば、経常収支の黒字が、政府部門の赤字をファイナンスしていることになりますが、経常収支の黒字が、対外純資産としてストック面で蓄積されていると考えられます。 この場合、もちろん、経常収支が赤字に基調的に転落すれば、フローで見た場合、政府部門の赤字をファイナンスするために、海外資本を呼び込む必要性に迫られ、それは今よりも高金利であることが要請されるので危険だ、という意見もあります。 ここで、フローで見れば確かにそうですが、 ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たすことはないのでしょうか? 仮に、そのような事態になった場合、具体的にどのようなスキームで、対外純資産を政府部門の赤字をファイナンスの用に供するのでしょうか? また、経常収支黒字の源泉である、企業部門の第一次所得収支についてですが、最近は、企業も資金を更なる海外投資、M&Aに投資するべく、資金を円ではなく、ドルで保有しているとされますが、それは、第一次所得収支に、円換算して勘定されているのでしょうか? (https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX)  ご質問ありがとうございます。まず印刷教材のこの部分はすべてフローについての議論です。内閣府のペーパーにもあるように、マクロ経済学などで登場するISバランス  (S-I) + (T-G) = NX 民間貯蓄超過   政府黒字  国際収支黒字(海外赤字) を念頭に、民間貯蓄超過の大幅プラスが、政府赤字のマイナスを相殺してもなお左辺がプラス、したがって右辺もプラス(海外マイナス)、という状態です。 近年コロナで政府赤字が大幅...

妄想卒論その10 the day that never comes (再掲)

言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)   代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中...

テクスト論 (再掲)

クリステヴァが書いていたことを 自分なりに 解釈すると、 テクストというのは、 その 時代の制約を 受けている。 つまり、 社会・経済・文化 等々 諸々の 要素から、 決して自由ではない。 しかし、 同時に 「読まれること」 によって 新たな解釈の <可能性> に つねに開かれている。 みたいなことを書いていた。 テクストから、 当時の時代精神のみならず、 作者のアイデンティティー、 さらにそれを超えて 複数の <意味> (あるいは前=意味) の 可能性に開かれている。 従って、 漱石のテクストに 『疎外』 を 読み込むことも、 あながち 無理筋ではないのではないか? むしろ、 本当に 優れた 文学作品であればこそ、 現代に通じる 「読み」の可能性を 秘めている、と 言って 過言ではないだろう。  https://www.youtube.com/watch?v=t1RTgznup5c

レッツ六道輪廻♫

これも相当面白そうだ。 重厚感もあるし、 お堅いイメージの 吉川弘文館だが、 これは 面白い。 こういう本が 世の中にあるんだね。 今月も いいスタートを 切ったぜ♫ ・・・これは凄い!!! 面白い!!!!!!! こんな本が 吉川弘文館から出てたとは!!!!! ・・・読了。 これは凄い本だった。   戦後文学のみた<高度成長> 伊藤正直 吉川弘文館  運命の一冊といっても 過言ではないほどの 名著。 最高の気分だ。 つい3日前くらいには 煩悶としていたのが 嘘のようだ。 つっても 情緒不安定とかじゃないからね!

自公政権とは何か ──「連立」にみる強さの正体 (ちくま新書)

これも ちくま新書 らしい 本格的な内容が コンパクトに まとまっていて 素晴らしい。 すげえ 内容が濃い。 海部政権以後の 潮流から 記述がスタートしているので、 海部政権までで ストップしていた 自分にとっては ありがたい。 割りと 小刻みに 章立てされているので、 疲れずに 読めるのもいい。 タイトルからすると 局限的内容を 想像してしまうが、 実際には 裾野の広い 現代政治学の成果とも いえる 内容。 よく出来てる。 ・・・今後の勉強の 方向性が 見えてきたぜ。 やはり 経済だけ見ても 片手落ち。 現実の政治も 見ないと。 政治を俯瞰したうえで 経済も見る。 これだ。 ・・・うーん、こりゃ すげえわ。 こんなに本格的な内容が 新書で 収まっちゃうなんて、 いい時代だわ。 日本も捨てたもんじゃない。 ・・・面白かった。 最近の新書の傾向なのか、 面白い部分を先に 持ってきちゃって、 学者として、 つまんないけど 書かずに済ませられない、 というところを 後に 持ってくる 編集方針なのかなんなのか、 前半はめちゃめちゃ 面白いけど、 途中から いきなり つまんなくなるって パターンが 多い気がする。 この本も そうだった。 まあ、そのおかげで 他にも 買い込んで 何冊も 読もうという 気になるが。 それが 狙いとは言わないが、 最近の タイムパフォーマンス 重視の潮流からすると、 こういう 編集にならざるを得ないのかも しれない。

働きたいなあ・・・

なんだか 急に 働きたく なってきた。 もう 勉強は やり尽くしたのかもしれない。 とはいえ、 母親も 腎臓 1個しかないし、 年齢とともに 少しずつ 腎機能も落ちてくるし、 その先に 人工透析が待っていることも、 父親を見て 十分知っている。 そんな葛藤をしていると、 俺自身が 疲れて イヤになってくる。 気晴らしに 遠方の面接授業を (空いてたら) 追加で 科目登録しようかとも 思うが、 そのために 姉夫婦に来てもらうと、 また ロクなことに ならないような 予感がする。 なるべく アイツらに 借りを作りたくない。 それに、 大金使ってしまうと、 来年以降 カツカツになってしまう。 かといって 10月も丸々 なんにもないってのも、 苦痛だし。 こうやって 書き連ねることが 慰めになる。

一安心

頑張って 本 読んだ日は 自分でも びっくり するほど 爆睡しちゃうけど、 そうじゃない日は、 そんなに 爆睡しない。 こんなに 寝てばっかで どーすんのよ? と 思ってたけど、 頑張ってない日は 人並みの 睡眠時間で 足りるようだ。

アドルノはまだ生きている (再掲)

グローバリゼーションによって、 世界の富の大きさは拡大したが、 分配に著しい偏りが生じたことは、 論を俟たない。 日本においても、 新自由主義的な政策の結果、 正規、非正規の格差など、 目に見えて格差が生じている。 そのような中で、 経済的に恵まれない層は、 ワーキングプアとも言われる状況のなかで、 自らのアイデンティティーを 脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を 参考にして考えれば、 旧来の中間層が、 自分たちより下に見ていた 貧困層と同じ境遇に 置かれるのは屈辱であるし、 生活も苦しくなってくると、 ドイツの場合は、 プロテスタンティズムの マゾ的心性が、 ナチズムのサディスティックな プロパガンダとの親和性により、 まるで サド=マゾ関係を結んだ結果、 強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が 日本人の間には存在することは、 ほぼ共通認識だが、 それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、 そうでなければ、 社会から強要される 画一性への服従となって、 負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、 特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、 現代生活の疎外を否定する というよりは むしろ、 この疎外の いっそう狡猾な現われに ほかならないのである。 (「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが 後期資本主義における 物象化という側面を 持っているとすれば、 グローバリゼーションによる 均質化、画一化が進行するにつれ、 反動として 民族の本来性といった民族主義的、 右翼的、排外主義的な傾向が 現れるのは、 日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、 アドルノの言明を素直に読めば、 資本主義が高度に発展して、 物象化が進み、 疎外が深刻になるほど、 本来性というものを 追求するのは不可避の傾向だ、 とさえ言える。 さらには、 資本主義社会が浸透し、 人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、 人々は、 自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、 ...

もうウンザリだ。

百田尚樹が 日本保守党なるものを 立ち上げたらしい。 また 安倍政治よ再び みたいな 連中がいるのか。 そらいるよな。 ネットで 自分の 意に沿まぬやつを 散々 罵ってたんだから。 そりゃ 気持ちいいよ。 それが 忘れられないで、 現実を見ないで また 教条主義に走る やつらが ワンサカいるんだ。 この国はもう 終わりだ。 俺も 心底ウンザリだ。

機能不全家族

今さら 母親 見捨てられるかよ。 ずーっと 寝不足で、 しかも しょっちゅう うなされてて、 3日に 一度は 寝言で叫んでるから、 俺が 声をかける なんてことは 日常茶飯事。 俺自身 不眠症。 父親は 仕事と 2号さんの ことしか 考えてない。 姉は なにかあると 「なんで 私だけ 家族の犠牲に されなきゃ いけないの?!」 って 泣き叫ぶ。 こんな めちゃくちゃだった 家族が、 父親が亡くなり、 姉も 結婚して子供も出来て 出て行ってくれて、 母親も 脳梗塞を経て やっとのことで 心身ともに マトモになった。 今じゃ 菩薩のようだ。 尽くすことでしか 自分の存在意義を 見いだせなかった 母親が、 ようやく 心安らかに 暮らしているのに、 放置は できねーよ。