2023年10月11日水曜日
別の面接授業のレポートネタ。
夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。
貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。もちろんフィクションではあるが。
代助は、漱石が「自然(じねん)」と名付ける、自家特有の世界に隠棲している。そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。
しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、百合の花が活けてあった花瓶の水を、暑いと言って飲み干してしまう。
代助は、百合の花の強烈な香りの中に、三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、そこに「自然」を見出し、主客合一の境地を得ようとするが、それは理性の放擲を意味するため、肉体を具有する代助は、再び我に返る。
代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、「青の世界」と「赤の世界」として対比される。
一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、「赤の世界」の象徴として(再び)現れる、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。それはまた、ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。
経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件はむしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。
もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。
『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。
傷だらけになりながらも理性を手放さない、漱石の「個人主義」の一端を表している。
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