2023年10月9日月曜日

レポートネタ 「坊っちゃん」を題材に (「夏目漱石ー<近代>への問い」参照)

自分:夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。それは一見、無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。このことから、漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。 「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、そこでは、情よりも「理」が力を発揮する。弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、「清」から用立ててもらった「金銭」は、交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、単純に数量化できない性質のものなのである。 漱石の小説の登場人物たちは、この後、居場所を失い、『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、いやおうなく経済の論理に巻き込まれて、『こころ』の「先生」を頂点として、個人主義の殻の中へと閉じこもっていくのである。 森本先生より:唯一、言を挟むとしたら、ラストの「個人主義」あたり、でしょうか。 というより、「清」ひいては「清」と(現実的にはあり得もしない)「一心同体」となって憩うことのできる空間を「墓」ーー地底に埋めた漱石は、このような空間が決定的に喪われた、つまり現実には回復不能な時空として想定しているように思えます。同様に、代助もまた、嫁ぐ前の三千代の写真と草花だけを相手に生きる「自家特有」の水底の世界から、半ば夫に捨てられ子も失った不幸な人妻としての三千代と相対するべく、まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還してきます。その意味で、漱石は、やはり「個人」を社会的存在ーー「個」とは「世界」に包含された存在たることを以て個たり得るという、(どこか教科書的な気味合いさえ感じられる)近代哲学的な基盤に立って発想し続けていたような気がします。もちろん、それがまかり通らぬ近代社会と格闘し、葛藤とズレを反復し続け、それが文明批評として機能する、という胃の痛くなるような反復運動が彼の作家人生、作品世界となるわけですが。

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