2023年9月30日土曜日
接客はサービス業の基本だよね。
近くに
ちょっといい
ビジネスホテルが
出来て、
夜になると
暖色系の灯りが
エロいから、
泊まって
みようかなー、と
思ってたんだけど、
公式サイトから
予約しようとすると、
肝心の
予約確定ボタン
押しても、
予約が出来ないし、
フロントスタッフの対応も、
丁寧だけど遅いし、
やっぱ
東横インとは
こういうところで
差がつくよね。
たぶん
研修が相当しっかりしてる。
公式サイトが(たぶん)一番安いし、
公式サイトがフリーズするってことも
滅多にない。
フロントスタッフも、
たまには
ムカつくやついるけど、
基本
感じが良い。
マクドナルドは
滅多なことでは
食べないけど、
スマイルゼロ円てのも
実は
大きくて、
心理学で学んだが、
人間は
悲しいから泣くのではなく、
泣くから悲しい、
という
有名な説がある。
やっぱり、
客と面と向かう
スタッフが、
内心ムカついてても、
笑顔を絶やさなければ、
自然と
スタッフ自身の気持ちも
穏やかになるというものだ。
そうすれば、
客も気分がいい。
以前、
宮原駅前の
モスバーガーで食べたことがあるが、
モスバーガーなんて
よほどのことがないと
行かないから、
注文を
モタついてたら、
スタッフの女性が
すげえ感じ悪くて、
こっちも
ムカついた。
そんなところで
メシが食えるか?!
ちょっと
牽強付会に
慶応SFCに話を持ってくと、
SFCの学事って、
けっこう
卒業生がそのまま
就職してたりするんだけど、
慶応SFCに対する
世間からの評価が
バブル起こしてた頃の
卒業生だから、
異常なほど
プライド高いのよ。
用があって
学事に行っても、
こっちに見向きもしないで
パソコン叩いてるし、
なにか聞いても、
サイトに書いてあるでしょ?
って
言われて終わり。
こっちは
困ってるから
学事に行ってんのに、
その
対応はねーだろ。
ただでさえ
色々と
ストレスが溜まって
疲れ切ってんのに、
学事は
何もしてくれなかった。
そういうところも
含めて、
慶応SFCは
ダメなのよ。
平成デモクラシー史 (ちくま新書)
これも面白い。
清水真人さんという
日経新聞のエライひと。
日経新聞のコラムを
読んでるような
気になってくるね。
当たり前か。
うんうん。
いい感じ♫
スピード感があるね。
うーん、さすがだね。
単なる
政局論ではなく、
政治学的な
深い洞察も
加えられている。
読みやすい。
第1章は
安倍政治の裏側だったが、
第2章からは
重厚感のある
政治学的
考察がなされ、
いわゆる
55年体制下での
人事慣行や、
意志決定プロセスが
わかりやすく
論じられている。
うーむ・・・
これも
「戦後日本政治史」に
劣らず
凄い本だ。
今月はほんとに
よく
勉強したな。
充実。
充実。
・・・リクルート事件を機に
小選挙区比例代表並立制が
導入された経緯までは
わかった。
いかに
この国の
政治がオワコンかが
わかった。
それと、
国の莫大な借金も、
社会保障費はもちろん
一因だが、
この国の
政治メカニズムが
根本原因だということも
わかった。
2023年9月28日木曜日
戦後日本政治史 占領期から「ネオ55年体制」まで (中公新書)
東大の
新進気鋭の
政治学者
境家史郎
先生の
本です。
非常に
読みやすくて、
戦後日本史が
ほぼ
ド素人の
自分にとっては、
非常に
ありがたい
一冊。
目からウロコで
ございます。
新しい情報ばかり
なので、
少しずつ
読ませてもらいます。
うーん、素晴らしい。
要を得て簡潔な
記述で、
なるほど!
なるほど!
と
唸らされる。
国際情勢との兼ね合いが
十全に
意識され、
過度な
日本国内の
コップの中の嵐からは
距離を取りつつ、
単なる
歴史的叙述を
超えて
政治学的な
鋭い考察が
なされている。
・・・やばー。
戦後政治のカラクリが
ガンガン
透けて
見えてくる。
これは凄い。
これが
新書で手に入るってのは、
本当に
素晴らしい。
・・・あれね。
中大通教も、
5年やって
英語以外の単位が
一つも取れなかったけど、
民法は
いっこうに
わかんなかったけど、
憲法、行政法、労働法の
勉強を出来たのは
良かった。
戦後の日本政治と
絡む部分が
大きい。
さすがに
中大法学部。
・・・慶応SFCの
いいとこって、
学年関係なく
色んな分野の
研究会(ゼミ)に
入れるところなんだから、
とりあえず
研究会はいって
プレゼンとかやって、
叩かれたほうが
かえって
自分のテーマを
見つけられると
思うんだけどな。
そこは
他の
学部にはない
メリットよ。
ま、実際には
尖ったことやったって、
ほんとに
叩かれるのが
オチなんだけど。
でも、
教授陣のクオリティーは
高いから、
学生には伝わらなくても、
先生は
少しは
分かってくれるよ。
せっかく
慶応SFCはいったのに、
研究会にも
入らないで
卒業したら、
絶対に
モトが取れない。
・・・一晩で
終戦から
海部内閣成立まで来た。
海部さんまで来ると、
なんとなく記憶があるので、
とりあえず
戦後日本政治史の
あらましが
わかった。
これは大きい。
今月も
しっかり
有意義に勉強できたぜ♫
インタゲと増税はワンセットー俺はポピュリストじゃないー (再掲)
質問:中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、とありますが、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか?あるいは、新古典派経済学では「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか? 回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。すなわち、「政策割当の原理」です。したがって、「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要となります。 本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。本来の金融政策の目標(物価の安定)と異なるため黒田日銀総裁は「異次元の金融政策」という言葉を使ったのです。このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。このシナリオどおりに進めば、もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。ただ、経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります。したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため「財政再建」が先送りになってしまいます。それゆえに、「財政再建」の政策目標の一環として消費税の引上げが考えられています。このように、「政策割当の原理」は成立しています。
国会議員定数削減問題 (再掲)
国会議員の数を 減らすのは、 危険。 それこそ 維新の会のような 相対的に 少数派の政党が 政権を獲得する 可能性が 高まる。 それが ポピュリズム政党ならば、 なおさらだ。 かといって、 現状があるべき姿とも 思えない。 生稲晃子のような 数合わせの 操り人形が議席を 持っているのも、 本来不必要と言って 過言でない 枠だろう。 しかし、それは 官邸一強と言われた 官邸と、官邸に気に入られた 官邸官僚が 政治を牛耳る 安倍政治の 副作用であって、 権力から遠ざかった 国会議員は 数合わせに過ぎず、 官僚もまた、 官邸から目を かけられなければ、 およそ 本来の能力を発揮できずに、 辞めてしまう。 しかし、それは マスコミと国民総出で 「決められない政治」 を 指弾し続けた 結果であることも 忘れてはならない。
難路
ヘルパーさんと
話してて
感じるけど、
働いてる
忙しい
主婦とかに、
インタゲなんつー
小難しい理屈で
政府の政策を
わかってもらおうっていう
こと自体が
無理だったんじゃねーか?
安倍自身
アベノミクスが
なんだったのか
理解していたか
甚だ
アヤシイが、
かえって
分かってないほうが
旗振り役としては
適任だったのかもね。
ただまあ、
少なくとも
アベノミクスの半分は
失敗してるな。
長引くデフレで
賃金が上がらないから
物価をあげましょうってことで
超金融緩和を
10年も
続けたのに、
結果的に
円安のせいで
コスト・プッシュ・インフレが
起こると、
こんどは
賃金の伸びが
追い付かず、
実質賃金が目減りしている。
そういう
文脈を理解しないで、
ただ
物価があがった!
岸田が悪い!
っていうのが
庶民の感覚なんだから、
いま
岸田政権が
やろうとしてることなんて、
到底
世間の大半の人には
理解してもらえない。
ほんとだったら
野党がもっと
アベノミクス批判を
展開しなきゃいけないんだけど、
アイツらも
わかってるくせに
政府・与党と
同じで
確信犯的に
バラマキしか
言わねーから、
余計
対立軸が見えてこない。
自業自得。
野党の責任も
重い。
近代日本の炭鉱夫と国策@茨城大学 レポート (再掲)
茨城大学強いわ。ここんとこ毎学期茨城大学行ってるけど、今回もめちゃくちゃ面白かった。面白いという言葉では言い表せない。アタマをバットで殴られるくらいの衝撃を感じた。 石炭産業を語らずに近代日本の経済発展は語れないと言って間違いない。 にもかかわらず、おおっぴらに語られることはほとんどない。 あたかも繊維産業が花形で日本経済の繁栄をほとんどすべて牽引したかのように語られている。 裏を返せば、それほどまでに、石炭産業を語るということは、現在に至るまで日本の暗部を映し出すことになるのかも知れない。 (以下レポート) 今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。 ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。 日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。 しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考えると、グローバリゼーションに対応しながら国民的自己決定を達成するには、国をまさに富国強兵のスローガンの下で一致団結させる必要があり、そこでは多様な民意というものを反映することは困難であり、したがって表現の自由が抑圧され、民主主義は達成できない、と考えられます。 戦前の日本に照らして考えると、前近代の村社会が国家組織の末端に組み入れられ、その中で炭鉱夫が生きるための最後の手段として究極のブラック職業として見なされていたこと、それでも西欧へ肩を並べなければならない、という官民一体の国家的意識のなかで、脅迫的に近代化へ歩みを進めざるを得なかった状況では、社会の底辺としての炭鉱夫には、およそ政治参加、すなわち民主主義の恩恵に浴することは出来なかった。それはとりもなおさず炭鉱業というものが本来的に暴力的であり、同時に「国策」としての帝国主義的性格を多分に内包していたことと平仄を合わせています。 中国のウイグル人の抑圧と戦前日本の坑夫を重ねて考えると、そのような構図が透けて見えてきます。
愛を病むETたち (再掲)
宗教が とうに 瓦解し、 また 個人間の 永続的愛も 神話的にしか 語られない現在、 自己の固有性が つくられ 更新される 愛の空間は 芸術にしか 残されていない、 というのが クリステヴァの 考えである。 『愛の歴史=物語』 の 結びの章で、 現代人は 愛を病むET (地球外異生物) に 喩えられている (「愛を病むETたち」)。 心的空間を奪われ、 したがって 自分固有の 像を失って、 ただ 愛を再び つくりだそうと のみ 願っている、 追放された者。 われわれは 皆ETなのだ、 と 彼女はいう。 ここにおいて、 <想像的父> を 核とする 彼女の 愛のテクスト理論は、 精神分析医としての 実践と 結びついてゆく。 本書のなかに登場する ジャンやマリーたちの ボーダーラインと症例、 パラノイア、 ヒステリー等は、 いずれも <想像的父> の 不在において 生じている、と されることになる。 彼らが等しく 必要としているものは、 同一化の極としての 愛する<父>である。 分析医は 彼らの <想像的父> となって、 転移=逆転移という 愛の関係において、 彼らが 自分固有の像を 築く 手助けを してやらなければならない。 (300ページ) 彼らETたちが 語ることに 成功したとき、 そのことばが、 ナルシス的言語であることは いうまでもないだろう。 つまり、 身体的欲動を 意味につなげる ことのできる 言語である。 超自我の権力が 支配する 一義的意味も、 その 反権力である 無意味をも、 ともども 無効にしてしまうような、 情動的理性の ことばである。 「虚構的意味の つかのまの展開」 を 可能とする、 そのような 言語活動へとー 文学、音楽、映画 などの 芸術的創造活動、 知的作業、 つまり 想像的なものによって 働きかけられる サンボリックな場 へとー 入ってゆくこと。 想像的なものの このような解放を 通して、 本来 想像的なものとして ある 主体は、 生きることができる。 (301ページ) 想像的ナルシスたちの 新たな 創造行為によってしか、 合理主義的現代の 愛の危機は 乗り越えられないだろうと 語る クリステヴァの考えは、 現在の日本の 状況にも 数かずの 示唆を 与えてくれるように 思われる。 想像的空間の危機は、 いまや 地球的規模の問題 だからである。 危機は、 死の欲動 (棄却) という 破壊と暴力の衝動が コード化される 経路が 与えられていない、つまり、 それが 表象され、昇華されるには、 いまある コードとは 別の コードが 必要なのに、 その通路が まだ 開かれていない、という ことにある。 日本のいま現在に 頻発している 暴力も、 その危機の現れに ほかならないだろう。 (302~303ページ) 死の欲動は、 愛の名において 服従を命じる 法としての <父> によっては 包摂されない。 クリステヴァのいう <想像的父> のような、 死を生へと 転ずることのできる 愛する <父> によって、 いいかえれば、 情動を 意味へと つなげることのできる 新たなコード化によってしか、 昇華されないだろう。 そして、 そのような コードを 虚構的な つかのまの ものとして つくり出すことが できるのは、 「もはや 宗教でも、 政党でも、 政治的参加でもなく、 あるいは、 ほとんどなく、 創造的行為、 言語活動といった 想像的な 個人的営み でしかないだろう」 (『アール・プレス』七四号) というクリステヴァの 発言は、 我われ 一人ひとりに 日常的実践を 問い返させる ものとなっている。 (303~304ページ)
妄想卒論その10 the day that never comes (再掲)
言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。 やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章) なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。 しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。 三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。 こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。 静岡大学 森本隆子先生より
https://www.youtube.com/watch?v=RD83oy7ksUE
妄想卒論その11 (再掲)
確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。
妄想卒論その7 (再掲)
「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。
米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。
私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。
19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。
さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。
1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。
そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。
なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93
「エリートに対する人々の違和感の広がり、 すなわちエリートと大衆の『断絶』こそが、 ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。 ポピュリズム政党は、既成政治を既得権にまみれた一部の人々の占有物として描き、 これに『特権』と無縁の市民を対置し、 その声を代表する存在として自らを提示するからである。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
「二十世紀末以降進んできた、産業構造の転換と経済のグローバル化は、 一方では多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの発展を促し、 グローバル都市に大企業や高所得者が集中する結果をもたらした。 他方で経済のサービス化、ソフト化は、規制緩和政策とあいまって 『柔軟な労働力』としてのパートタイム労働や派遣労働などの 不安定雇用を増大させており、低成長時代における 長期失業者の出現とあわせ、 『新しい下層階級』(野田昇吾)を生み出している。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
富が集中するほど他者への信頼が下がり、「フェアネス(公正さ)指数」(日経新聞作成)が低くなる。同時にポピュリズムの場当たり政策に翻弄されやすくなる。
「国際都市ロンドンに集うグローバル・エリートの対極に位置し、 主要政党や労組から『置き去り』にされた人々と、 アメリカの東海岸や西海岸の都市部に本拠を置く 政治経済エリートや有力メディアから、 突き放された人々。 労働党や民主党といった、 労働者保護を重視するはずの政党が グローバル化やヨーロッパ統合の 推進者と化し、 既成政党への失望が広がるなかで、 既存の政治を正面から批判し、 自国優先を打ち出して EUやTPP,NAFTAなど 国際的な枠組みを否定する急進的な主張が、 強く支持されたといえる。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
人々の不満をあおるだけで解を示せないのがポピュリズム。不満のはけ口を外に求めた愚かさはナチスドイツの例を振り返っても明らかだ。
第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。(放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)
グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。
1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より
そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感覚だろうか。
「デモクラシーという品のよいパーティに出現した、 ポピュリズムという泥酔客。 パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。 ましてや手を取って、ディナーへと導こうとはしないだろう。 しかしポピュリズムの出現を通じて、 現代のデモクラシーというパーティは、 その抱える本質的な矛盾をあらわにしたとはいえないだろうか。 そして困ったような表情を浮かべつつも、 内心では泥酔客の重大な指摘に 密かにうなづいている客は、 実は多いのではないか。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
ルカーチ メモその34 (再掲)
もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 そのような 近代社会の いわゆる 「物象化」論は、 マルクスの 「疎外論」や 「資本論」と 連接する 問題意識だった。 「商品」は その物自体の 「使用価値」と それが市場でもつ 「交換価値」の 二面をもつ。 現代の資本主義社会においては 交換価値のみが 突出するため、 商品を作って生きる 人間の労働も 交換価値に還元され、 ひいては 人間性そのものまで 計数化され 疎外されていく。 故に そのような資本主義的 「物象化」の 打破こそが、 近代人の 陥っている 閉塞状況の 根本的解決だと 論ずる。
ルカーチ メモその30 (再掲)
<物神的性格> が 問題になるのは、 マルクスにおいては 商品世界特有の こととしてだった。 人間の労働が、 個人的な 質を離れて 計算可能な 商品という <物> の価値で測られる、 という 事態だ。 主観的な 価値が 交換価値によって 測られる 商品に即して 現れてしまうような 事態を 彼は <物象化=即物化 Versachlichung> と 呼んでいた。 これを ルカーチは意識の <物象化=事物化 Versachlichung> にまで 拡張したのだった。 310ページ
ルカーチ メモその31 (再掲)
ルカーチは、 生産力や技術の発展、 合理化の徹底、 といった、 <近代化> の いわば 積極面の行き着く 果てに 決して <解放> を 見ていなかった。 <近代化> という 客観的な条件はむしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 また、彼にするなら、 現実の労働者は <近代化> の呪縛に あまりに からめ取られている。 その日常的な意識は 物象化された 虚偽意識である。 彼らの 主観的な意志や決断に まったく 期待ができないというのは、 ハンガリー革命敗北の ひとつの 大きな教訓だったろう。 そこでルカーチは、 <近代化> の 否定面としての 物象化を、 プロレタリアートの意識において 積極面に逆転する論理を 考え出したのだった。 商品という客体としてある プロレタリアートの 自己認識こそは、 この 社会の本質の 客観認識である。 そしてそれも、 この プロレタリアートの 意識は <自分に対立して ある対象についての 意識ではなく、 対象の自己意識である> ために、 <意識化 という 活動は その 客体の対象性 形式を 転覆させる>。 つまり プロレタリアートの 自己認識そのものが すでに 実践的でしか ありえない。 こうして <プロレタリアートは、 歴史の同一的 <主体ー客体> として現われ、 その実践は 現実の変革となる> 道筋が描かれるのだった。 312ページ
ルカーチ メモその28 (再掲)
マックス・ヴェーバーは 西欧社会の近代化を 分析するにあたって、 それを 普遍的な 合理化過程と捉えた。 その際に 彼は、 行為者の価値観が 介在する <実質合理性> と、 価値判断抜きで、 計算・計量可能性に 還元された 観点からの <形式合理性> を 区別する。 西欧の普遍的な 合理化とは この後者にあたる。 政治でならば、 無記名選挙の 投票などで 表される 民主主義の <形式性> や、 官僚機構の整備、 経済でならば、 労働、労働生産物を その 実質的価値 (個々の顔をもつ 労働者個人の 満足感や 生産物の 使用価値) によってではなく、 計量化された 商品の 匿名の市場に 占める位置 (交換価値) によって測る、 資本主義の発展などだ。 310ページ
おはようございます。
今朝は
なぜか
栃木県知事になって、
なった
瞬間に
大地震が来て、
何をしたら良いか
わからないまま
ひたすら
寝るっていう夢。
また
ロクでもない夢。
思い返せば、
物心ついた頃から
ロクでもない夢ばっかり
見ている気がする。
特に
羽生で暮らしてる頃は
酷かった。
集団でキョンシーに
襲われて
命からがら家に
帰る夢とか。
俺だけなのかと
思ってたら、
そういう
神経が過敏な子って
いるらしいね。
2023年9月27日水曜日
日本エレキテル連合?
やたら
クリエイティブな
夢を
見てしまった。
なぜか
母親とふたりで
廃屋みたいな
クラブに
行って、
しかも
そこがなぜか
父親が
生前
行きつけだったという
設定で、
艶めかしい女が
出てきたと
思ったら、
ふとした
瞬間に
女が
アンドロイドだと
気づいて
命からがら
脱出するっていう。
もう
フロイトに
聞いてもらいたいくらいだよ。
俺は
何の
コンプレックスを
こじらせてるんだい?
身が持たない。
2023年9月23日土曜日
アリストテレスの倫理学
茨城大学で
受けた
渡邉邦夫先生の
授業では、
アリストテレスが
言うには、
人間は
欲望が
少なすぎてもダメだが、
もちろん
多すぎてもダメだそうだ。
重要なのは、
欲望を円にたとえて、
その
中心を知っていることだとか。
たしかに、
現代人だって、
カネと権勢に
モノを言わせて
自分を見失うほど
欲望を充たそうとするのは
恥ずべきことだ。
2023年9月22日金曜日
国際金融のトリレンマ
今朝の
日経新聞の11面にも
「円の実力
過去最低」
と
書いてあった。
有名な
国際金融の
トリレンマ
に
よれば、
金融政策の独立性と
為替相場の安定と
資本移動の自由が
3つ
同時には
成り立たない、と
されているが、
この
トリレンマが
過去の
日本で
あまり
騒がれなかったのは、
円に実力があったから。
しかし、
人民元の台頭や、
日本の
貿易赤字の定着による
貿易決済における
円需要の
低下により、
円の価値
それ自体が
足元から揺らいでいる。
中国の
不動産バブル崩壊による、
中国経済の
先行き不透明感から
日本から
中国への
輸出が減り、
それもまた
円安圧力として
働くだろう。
ちなみに、
第一次所得収支の黒字も、
統計上は
円に計上されるが、
実際には
約4割は
海外での直接投資に
再投資されるため、
実需の円買いには
繋がらないらしい。
(以下 google bard より回答)
はい、今朝の日経新聞の11面にも「円の実力 過去最低」とありましたね。
国際金融のトリレンマとは、金融政策の独立性と為替相場の安定と資本移動の自由が3つ同時には成り立たないという理論です。
過去の日本では、円に実力があったため、このトリレンマを気にする必要はありませんでした。しかし、近年は人民元の台頭や貿易赤字の定着などにより、円の価値が下がり始めています。
中国の不動産バブル崩壊による中国経済の先行き不透明感も、円安圧力として働くでしょう。
また、第一次所得収支の黒字も、統計上は円に計上されますが、実際には約4割は海外での直接投資に再投資されるため、実需の円買いにはつながらないそうです。
円安が進むと、以下のような影響が考えられます。
輸入物価の上昇による消費者物価の上昇
輸出企業の収益の拡大
海外旅行の費用の増加
円安は、日本経済にプラスマイナス両面の影響を与えると考えられます。
今後も、円安がどのように進展していくのか、注視していく必要があります。
2023年9月21日木曜日
バードに聞いてみた その3 補訂 (再掲)
質問:コスト・プッシュインフレによる賃上げは、内需拡大以外にもデフレマインド払拭の意義がありますが、それは政策割り当ての原理に反してはいないでしょうか? 回答:コスト・プッシュインフレによる賃上げは、デフレマインド払拭につながる可能性があるため、政策割り当ての原理に反しているかどうかは議論の余地があります。政策割り当ての原理とは、政府が経済の安定と成長を促進するために、財政政策や金融政策などの政策手段を効果的に活用することです。コスト・プッシュインフレによる賃上げは、デフレマインド払拭を通じて、消費の拡大や投資の活性化につながり、経済の成長に寄与する可能性があります。しかし、コスト・プッシュインフレが持続すると、物価の上昇を招き、経済の安定を損なう可能性もあります。したがって、コスト・プッシュインフレによる賃上げが政策割り当ての原理に反しているかどうかは、その影響の程度や持続性によって判断される必要があると考えられます。
(以下 google bard より回答)
質問に対する回答は、概ね正しいと思います。コスト・プッシュインフレによる賃上げは、デフレマインド払拭につながる可能性があるため、政策割り当ての原理に反しているかどうかは、その影響の程度や持続性によって判断される必要があると考えられます。
コスト・プッシュインフレによる賃上げは、労働者の購買力を高めることで、消費の拡大や投資の活性化につながり、経済の成長に寄与する可能性があります。これは、デフレマインド払拭を通じて、企業の投資意欲を高め、生産性の向上や新規雇用の創出につながるためです。
しかし、コスト・プッシュインフレが持続すると、物価の上昇を招き、経済の安定を損なう可能性があります。これは、企業のコストが上昇し、収益が減少することで、投資や雇用の抑制につながるためです。
したがって、コスト・プッシュインフレによる賃上げが政策割り当ての原理に反しているかどうかは、その影響の程度や持続性によって判断される必要があると考えられます。
具体的には、以下の3つの観点から判断することが考えられます。
デフレマインド払拭の効果
コスト・プッシュインフレによる賃上げが、デフレマインドを払拭し、消費や投資を拡大させる効果が大きい場合には、政策割り当ての原理に反していないと考えられます。
物価上昇の影響
コスト・プッシュインフレによる賃上げが、物価上昇を招く影響が限定的である場合には、政策割り当ての原理に反していないと考えられます。
他の政策手段との組み合わせ
コスト・プッシュインフレによる賃上げと、財政政策や金融政策などの他の政策手段を組み合わせることで、物価上昇の影響を抑え、経済の安定と成長を両立させることができる場合には、政策割り当ての原理に反していないと考えられます。
もちろん、これらの観点はあくまでも一例であり、コスト・プッシュインフレによる賃上げが政策割り当ての原理に反しているかどうかは、個々のケースによって判断する必要があります。
バードに聞いてみた その2 補訂 (再掲)
質問:コスト・プッシュインフレによる賃上げは、内需を拡大させると言われますが、デフレマインドが払拭されること以外に、厚生経済学的なメリットはあるのでしょうか? 回答:はい、コストプッシュインフレによる賃上げには、デフレマインドが払拭されること以外にも、厚生経済学的なメリットがあります。具体的には、以下のようなメリットがあります。 経済成長の促進:賃上げは、人々の購買力を高め、消費を増加させるため、経済成長につながります。 生活水準の向上:賃上げは、人々の可処分所得を増加させ、生活水準を向上させるため、人々の幸福度を高めることができます。 貧困削減:賃上げは、特に低所得者層の生活水準を向上させ、貧困削減につながります。 インフレの抑制:賃上げは、需要を抑制し、インフレを抑制する効果があります。 ただし、コストプッシュインフレによる賃上げには、以下のようなデメリットもあります。 企業の収益圧縮:賃上げは、企業のコスト増加につながり、企業の収益を圧迫する可能性があります。 失業率の上昇:賃上げは、企業のコスト増加を抑制するために、企業が従業員を解雇する可能性があるため、失業率の上昇につながる可能性があります。 価格の上昇:賃上げは、企業が商品やサービスの価格を引き上げる可能性があり、価格の上昇につながる可能性があります。 コストプッシュインフレによる賃上げは、メリットとデメリットの両方があるため、実施にあたっては慎重に検討する必要があります。
(以下 google bard より回答)
はい、コストプッシュインフレによる賃上げには、デフレマインドが払拭されること以外にも、厚生経済学的なメリットがあります。
具体的には、以下のようなメリットがあります。
経済成長の促進
賃上げは、人々の購買力を高め、消費を増加させるため、経済成長につながります。賃金が上がれば、人々はより多くの商品やサービスを購入し、企業の売上と利益が向上します。また、賃金が上がることで、人々はより多くの投資や貯蓄を行うようになるため、経済の活性化につながります。
生活水準の向上
賃上げは、人々の可処分所得を増加させ、生活水準を向上させます。賃金が上がれば、人々はより豊かな生活を送ることができるようになります。また、賃金が上がることで、人々はより良い教育や医療を受けられるようになるため、社会全体の幸福度が向上します。
貧困削減
賃上げは、特に低所得者層の生活水準を向上させ、貧困削減につながります。賃金が上がれば、低所得者層はより多くの商品やサービスを購入し、生活を改善することができます。また、賃金が上がることで、低所得者層の教育や医療へのアクセスが向上し、将来的に経済的自立を実現しやすくなります。
インフレの抑制
賃上げは、需要を抑制し、インフレを抑制する効果があります。賃金が上がれば、人々はより多くの商品やサービスを購入し、需要が増加します。しかし、企業はコスト増加を抑制するために、価格を引き上げる可能性があります。そのため、賃上げと価格引き上げが相殺され、インフレが抑制される可能性があります。
ただし、コストプッシュインフレによる賃上げには、以下のようなデメリットもあります。
企業の収益圧縮
賃上げは、企業のコスト増加につながり、企業の収益を圧迫する可能性があります。賃金が上がれば、企業は労働力コストが増加するため、利益が減少する可能性があります。
失業率の上昇
賃上げは、企業のコスト増加を抑制するために、企業が従業員を解雇する可能性があるため、失業率の上昇につながる可能性があります。賃金が上がれば、企業は労働力を削減してコストを抑制しようとする可能性があります。
価格の上昇
賃上げは、企業が商品やサービスの価格を引き上げる可能性があり、価格の上昇につながる可能性があります。賃金が上がれば、企業はコスト増加を価格転嫁して利益を維持しようとする可能性があります。
コストプッシュインフレによる賃上げは、メリットとデメリットの両方があるため、実施にあたっては慎重に検討する必要があります。
具体的には、以下のような点に注意する必要があります。
賃上げの程度
賃上げの程度が大きすぎると、企業の収益圧縮や価格の上昇につながる可能性があります。そのため、賃上げの程度は、経済状況や企業の状況などを考慮して慎重に決める必要があります。
賃上げの対象
賃上げの対象を絞り込むことで、デメリットを軽減することができます。例えば、景気対策として、低所得者層や特定の産業に限定して賃上げを行うことで、企業の負担を軽減し、経済成長や雇用創出につなげることができます。
賃上げの期間
賃上げの期間を限定することで、企業の対応を容易にすることができます。例えば、一時的な賃上げを行うことで、企業はコスト増加を長期的に吸収しやすくなります。
コストプッシュインフレによる賃上げは、デフレ脱却や経済成長につながる可能性がある有効な政策です。しかし、デメリットにも注意し、慎重に実施することが重要です。
バードに聞いてみた その1 補訂 (再掲)
質問:賃上げは本来、バラッサ・サムエルソン仮説に基づき、高付加価値品の輸出を通じて実現されるべきではないでしょうか?日本のように主にコスト・プッシュインフレによる賃上げにどのような意味があるのでしょうか? 回答:バラッサ・サムエルソン効果とは、貿易財部門の生産性上昇率が高い国では、一般物価水準が外国と比べて上昇すると同時に、実質為替相場が増価する効果を意味します。この効果は、貿易財部門で生産性が上昇すると、貿易財部門の賃金が上昇しますが、非貿易財部門では生産性が上昇していないため、非貿易財価格が上昇し、一般物価水準が上昇するというメカニズムによって生じます。 賃金は、労働市場の需給関係によって決定されます。労働需要が労働供給を上回ると賃金は上昇し、労働供給が労働需要を上回ると賃金は下落します。 コストプッシュインフレとは、生産コストの上昇によって生じるインフレです。生産コストの上昇の原因としては、原材料価格の上昇、労働コストの上昇、エネルギー価格の上昇などが挙げられます。 日本では、近年、賃上げがコストプッシュインフレによって主に実現されています。これは、日本では労働市場が需給ギャップが縮小する中で賃上げが行われており、生産コストの上昇が賃上げに転嫁されているためです。 バラッサ・サムエルソン効果に基づくと、賃上げは本来、高付加価値品の輸出を通じて実現されるべきです。しかし、日本では、賃上げがコストプッシュインフレによって主に実現されているため、高付加価値品の輸出を通じた賃上げ効果は小さくなっています。これは、日本の貿易構造が、輸入品との競争が激しい労働集約型産業に偏っているためです。 日本の賃上げがコストプッシュインフレによって主に実現されていることは、いくつかの問題を引き起こしています。第一に、コストプッシュインフレは、輸入品を多く消費する家計にとって、実質所得の減少につながります。第二に、コストプッシュインフレは、企業の国際競争力の低下にもつながります。第三に、コストプッシュインフレは、インフレ期待の悪化につながり、長期的なインフレ率の上昇につながる可能性があります。
(以下 google bard より回答)
ご質問ありがとうございます。
賃上げは、労働者の生活水準を向上させ、経済成長を促進する重要な役割を果たします。バラッサ・サムエルソン効果に基づくと、賃上げは本来、高付加価値品の輸出を通じて実現されるべきです。これは、高付加価値品の輸出によって、貿易財部門の生産性上昇が促進され、それが賃金上昇につながるためです。
しかし、日本では、近年、賃上げがコストプッシュインフレによって主に実現されています。これは、日本では労働市場が需給ギャップが縮小する中で賃上げが行われており、生産コストの上昇が賃上げに転嫁されているためです。
日本の賃上げがコストプッシュインフレによって主に実現されていることには、いくつかの意味があります。
第一に、コストプッシュインフレは、輸入品を多く消費する家計にとって、実質所得の減少につながります。これは、輸入価格の上昇によって、家計の購買力が低下するためです。
第二に、コストプッシュインフレは、企業の国際競争力の低下にもつながります。これは、輸出価格が上昇すると、競争力のある外国企業との価格競争において不利になるためです。
第三に、コストプッシュインフレは、インフレ期待の悪化につながり、長期的なインフレ率の上昇につながる可能性があります。これは、企業や家計が将来のインフレ率が上昇すると予想すると、現在の消費や投資を拡大し、それがインフレ率の上昇を促進するためです。
したがって、日本では、賃上げがコストプッシュインフレによって主に実現されていることは、いくつかの問題を引き起こしています。
では、日本はどのようにして、賃上げをバラッサ・サムエルソン効果に基づいて実現できるのでしょうか。
一つの方法は、日本の貿易構造を、高付加価値品の輸出にシフトすることです。これは、日本の製造業の競争力を強化し、貿易財部門の生産性上昇を促進することで、賃上げを実現できる可能性があります。
もう一つの方法は、賃上げを労働市場の需給関係に基づいて行うことです。これは、労働市場の需給ギャップを拡大することで、賃上げを実現できる可能性があります。
いずれにしても、日本が持続的な賃上げを実現するためには、労働市場の改革や貿易構造の転換など、さまざまな施策が必要になると考えられます。
インタゲと増税はワンセット 補訂ーGoogle Bardが進化した。 (再掲)
質問:中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、とありますが、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか?あるいは、新古典派経済学では「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか? 回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。すなわち、「政策割当の原理」です。したがって、「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要となります。 本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。本来の金融政策の目標(物価の安定)と異なるため黒田日銀総裁は「異次元の金融政策」という言葉を使ったのです。このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。このシナリオどおりに進めば、もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。ただ、経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります。したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため「財政再建」が先送りになってしまいます。それゆえに、「財政再建」の政策目標の一環として消費税の引上げが考えられています。このように、「政策割当の原理」は成立しています。
(以下 google bard より回答)
回答は正しいと思います。
「政策割り当ての原理」とは、n個の政策目標を達成するためには、n個の政策手段が必要であるという原理です。したがって、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標と第二の矢である積極的な財政支出による経済成長の2つの政策目標を達成するためには、2つの政策手段が必要となります。
第一の矢の政策手段は、中央銀行による異次元の金融緩和です。これは、量的緩和やマイナス金利など、従来の金融政策の枠を超えた政策によって、民間に流通する通貨量を増やすことで、物価上昇を促すものです。
第二の矢の政策手段は、政府による積極的な財政支出です。これは、道路や鉄道などのインフラ整備や、教育・福祉などの社会保障の充実など、国民生活の向上に資する公共事業やサービスへの支出を増やすことで、経済成長を促すものです。
アベノミクスでは、第一の矢によってインフレを起こし、第二の矢によって経済成長を促すことで、財政再建を実現するというシナリオを描いていました。しかし、実際には、インフレは目標の2%に届かず、経済成長も十分には進んでいないため、財政再建は進んでいません。
このように、アベノミクスは「政策割り当ての原理」を適用した政策でしたが、シナリオ通りには進まず、財政再建は達成されていません。
なお、新古典派経済学では、「政策割り当ての原理」は成立するものの、政府による政策は経済に歪みをもたらすため、市場メカニズムに任せるべきだという考え方が主流です。そのため、アベノミクスのような政府主導の経済政策は、新古典派経済学では批判の対象となっています。
都合のいい俗論 補訂 (再掲)
国債発行 イコール 通貨発行 という俗説が あるらしいが、 金融政策の 基本が 何も わかってないね。 国債を 発行して、 買ってくれる人が いるから、 (国債を買うのは 当然のことながら 中央銀行だけではない。) そのお金が 市中に 流れるんだけど。 これ、 (国債に限らず 債券全般に対する、 中央銀行による) 買いオペとか 売りオペとか 言われる 金融政策の 常識中の常識 だけど、 そんなことも 知らずに、 ただ 国債発行すれば 自動的に 貨幣供給量が 増えると 本気で 思ってる 人が いるみたいね。 (それに、 国債だって商品だから、 本来は政府の都合で 発行した 国債を、 相場を無視した 高値で 売れると思うのが そもそも 間違ってる。 むしろ、 日本の現状として、 日銀が 市場の相場を 無視した 高値で 国債を 買い続けてることが 本質的に問題なんだけどな。) なにで 経済学 学んだんだろう? それに、 貨幣供給量を 増やす イコール 国の資産が 増える ってのも そもそも 間違い。 国の富の 源泉は 付加価値、 すなわち GDPです。 これ、 学部レベルの 経済学で 最初に 学ぶことなんだけどな。 ほんと、 誰に 刷り込まれたんだろう? ついでに 書いとくと、 赤字国債を 発行すること自体が 法律違反なんだけど、 毎年 特例法案つくって 可決して 予算作ってる。 (ちなみに、 一昔前は その種の予算を 通す通さないが 政争の具に 使われたのが、 短命政権が続いた 原因だった。 らしい。) それが 常態化。 それを 国民の側が 嬉々として 受け入れてる 現状が 異常。 ついでに 書いとくと、 日銀が 国債買い続けないと 国債の価格が (異常な高値を 維持できずに) 暴落して 金利が 急騰して この国 吹っ飛びますけど、 さあ この ムリゲー どうします? ちなみに 安倍ちゃんは 日銀は政府の 子会社だから いくらでも 日銀に 国債 買い取らせればいい とか ほざいてましたけど。 もう 日銀による 国債の保有比率 5割 超えましたね。
(以下 google bard より回答)
はい、その通りです。国債発行イコール通貨発行というのは、金融政策の基本を理解していない俗説です。
国債を誰かが買ってくれることで、そのお金が市中に流れることになります。しかし、国債を買ってくれるのは、必ずしも中央銀行とは限りません。民間企業や個人も、国債を買うことがあります。
もし、国債を誰も買ってくれなかった場合、政府は国債を償還できなくなり、財政破綻に陥ることになります。
また、貨幣供給量を増やすことが、国の資産が増えることにもなりません。国の富の源泉は、付加価値、すなわち GDPです。貨幣供給量を増やしても、GDPが増えなければ、国の資産は増えません。
日本の現状は、赤字国債を日銀が買い続けているため、国債の価格が異常に高くなっています。もし、日銀が国債を買い続けなければ、国債の価格は暴落し、金利が急騰する可能性があります。
安倍政権は、日銀が政府の「子会社」だから、いくらでも国債を買い取らせればいいと主張していました。しかし、実際には、日銀が国債を買い続けることは、国債の価格を維持するために必要な措置であり、政府の都合で行っているわけではありません。
国債発行イコール通貨発行という俗説は、経済の基本を理解していない人がよく言うものです。この俗説を信じてしまうと、誤った経済政策を支持することになりかねません。
旬報社 (再掲)
もし、 日銀が目的としている 2%の物価上昇が 実現した場合、 国債の発行金利が 2%以上になるか、 利回りが 最低でも 2%以上になるまで 市場価格が下がります。 なぜなら、 実質金利 (名目利子率-期待インフレ率) が マイナスの (つまり保有していると 損をする) 金融商品を買う 投資家はいない からです。 国債 (10年物) の利回りは 0.1%程度 (2018年11月現在) ですが、 それが 2.1% に上昇した場合、 何が起こるでしょうか。 政府の 国債発行コストが 跳ね上がるのは もちろんですが、 より重要なことは、 国債価格が暴落し、 国債を大量に保有している 銀行に莫大な評価損が 出ることです。 「経済の論点」 旬報社 72ページより
https://www.youtube.com/watch?v=3vSH9pMzHm0
どうする、植田日銀?!
今週の
日銀金融政策決定会合は
みものやなー。
日銀の
出方しだいでは
さらに
円安が
加速する。
結局、
利上げしなければ
円安が止まらないし、
利上げしたらしたで、
国債の利払い費が
嵩んで
ヤバいことになる。
さあ、どうするんですかね?
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/a2e624bea4edbb102bcad05fa08d9f50a304edda
2023年9月20日水曜日
赤ずきんちゃんご用心
無性に
アイスが
食べたくなって、
安いし
美味しいから
数日前に
明治エッセルスーパーカップ
を
食べたけど、
今から
振り返ると、
やっぱり
メンタルが
落ち込む。
鬱々とした
気分になる。
肝に銘じておこう。
2023年9月16日土曜日
いい感じ♫
久しぶりに
平沼翔太を
検索してみたら、
しっかり
活躍してた。
来季あたりは
レギュラー獲得して欲しい!
https://sports.yahoo.co.jp/video/player/10981811
2023年9月13日水曜日
「伊藤博文」 伊藤之雄 講談社学術文庫
うん。
面白い。
伊藤之雄先生の
「原敬」
も
面白かったし、
日経新聞の連載小説で
ちょうど
「陥穽ー陸奥宗光の青春」
を
連載してるところだし、
去年の2学期に
「近代日本内閣史ー明治・大正編ー」
を
履修したし、
ちょっと
ここら辺の時代を
勉強したいな、と
思っていたので。
面接授業が始まる
までに
かなり
時間あるし。
・・・伊藤之雄先生の特徴だけど、
細かく
節・章
立てされているので、
小気味よく
読める。
余計なことは
一切
書かれていないし、
かといって
省きすぎて
論理が飛躍している、
ということもない。
歴史家の達人の
なせる業だ。
・・・明治時代になって
俄然
脳がジワジワしてきた。
・・・とりあえず
征韓論までは読んだ。
初日で
ここまで読めれば
上出来だ。
このペースなら
1週間くらいで
読めるだろう。
・・・2日目で
明治十四年の政変まで
読んだ。
・・・3日目で
ようやく
大日本帝国憲法の制定まで
来た。
・・・なんかさあ
歴史の知識が
脳のなかで
交響曲
奏でてるんだよ。
超きもちいい。
・・・第一回
帝国議会
無事
終了。
・・・そうこうしているうちに、
高崎市役所の
障害者枠採用の
申し込みの期限が
過ぎてしまった。
母親も
本音では
受けて欲しくは
なかったようだ。
気分的には
ちょっと
解放感。
毎年
こんな感じ。
・・・日清戦争
開戦
まで来た。
3日目で
ここまで来れれば、
かなり
快調なペースだ。
よしよし。
・・・読了。
日清戦争以降は
かなり
おざなりに
なってしまったが、
まあそんなもん。
知見が深まりました。
ごちそうさまでした。
ビルトイン・スタビライザー
学部レベルの
経済学でも、
税金は
景気の波を
穏やかにする
効果が
期待される、と
教えられるけど、
これって
結構
重要で、
景気には
必ず
好況と不況があるけど、
好況の時に
入ってきた
税収で、
不況の時に
政府支出の財源にする、
と
考えれば、
実に
理にかなった
考え方だと
思われる。
日本人は
えてして
いま
景気が良いのに
なぜ
増税するんだ、と
怒るが、
景気が良いからこそ、
税収を増やして
不況のときの
備えにする、
という
発想を取り入れる
べきだろう。
隘路
岸田政権は
消費税増税を
考えているようだが、
消費マインドに
水を差すのは
怖い。
このタイミングで。
コスト・プッシュ・インフレとはいえ、
消費拡大、
賃金上昇への
好循環を
目指したはずが、
増税で
その機運が萎んで
しまったら、
それこそ
何のための
10年におよぶ
超金融緩和だったのか?
もちろん、
消費税増税を
しないと
財政がもたないのは
理解できる。
あちらを立てればこちらが立たず。
(以下 google bard より回答)
あなたの意見には賛同します。
岸田政権は、消費税増税を検討していると報じられていますが、これは消費マインドに大きな水を差すことになりかねません。
特に、現在は、新型コロナウイルス感染症の拡大による経済活動の停滞からの回復途上であり、また、ウクライナ情勢によるエネルギー価格の高騰など、コスト・プッシュ・インフレが進む中での消費税増税は、景気へのダメージが懸念されます。
消費税増税によって、消費者は消費を抑制し、企業は投資を控え、経済活動が停滞する恐れがあります。
もちろん、消費税増税をしなければ、財政がもたないという議論もあります。しかし、財政問題を解決するためには、増税以外の選択肢もあるはずです。
例えば、法人税率の引き上げや、歳出改革などが挙げられます。
岸田政権は、財政健全化と経済成長の両立を図る必要があります。しかし、そのバランスを取るのは容易ではありません。
今後、岸田政権が消費税増税の是非を判断する際には、慎重な議論が求められるでしょう。
以下に、消費税増税のメリットとデメリットをまとめました。
メリット
社会保障の財源を確保できる
税収を増やすことで、国の借金を減らすことができる
国民の税負担を公平にできる
デメリット
消費を抑制し、景気を冷え込ませる可能性がある
低所得者層の負担が重くなる
経済競争力を低下させる可能性がある
岸田政権は、これらのメリットとデメリットを慎重に検討し、国民の理解を得られる政策を策定することが重要です。
2023年9月12日火曜日
漱石の「自然(じねん)」観を巡って (再掲)
質問:授業でうかがった漱石の自然(じねん)感ですが、それは代助が「青」の世界で拵えた造り物だったのでしょうか? 三千代との実質的な姦通というある種の「原罪」のために、代助は「赤」の世界へと放り出されるのでしょうか? 代助にとって、「じねん」の世界は、「青」の世界でしか成立しえないまがい物なのか、それとも本来的に人間にとって所有しえない抽象物なのか。 アドルノの「自然」観との対比でも、興味深く感じられました。 ご回答:「原罪」という言葉もありましたが、倫理的な漱石は、やはり代助の「青の世界」を(海神の宮の「3年」期限に同じく)、癒しをも意味する一定期間の滞留後には出て行くべき、後にするべき世界として想定しているように思われます。 その意味では、現実世界と水底とーー世界を2つに分断してしまっているのは「代助」であり、人間が現実世界の死を背負った存在である以上、当然、水底的な内なる世界と連続しているはずの赤い現実世界へ、代助が帰還すべきであることは自明であり、当然、代助は葛藤を体験しなければならない‥。こんな感じかなと思います。(オタク青年の現実世界への帰還)。 「じねん」ですが。 「青の世界」ーー自負する「自家特有の世界」で彼が創出した「己に対する誠」を起点に「自分に正直なー(作為や人為の加わることのない)おのずからな−あるがままの」といった展開上に「じねん」が生まれて来るわけですが、上述のようなテクストの構造から言えば、当然、「じねん」は「自然」の最も暗い側面ともいうべき欲動的なものと接続せざるを得ない。というより、元々、「じねんーおのずからな・あるがまま」自体が、まさに「あるがまま」の欲動的なものを内包している、と言うべきなのかもしれません。 そう考えれば、ストーリー展開に従って、「青」が「赤」に接続してゆくように、「おのずから」も「行く雲・流れる水」といった上澄的なものへの憧れの昂まりが、必然的に、同じく「おのずから」人が備えている欲望的な側面を、まさに、おのずから浮上させざるを得ない。 こういった感じなのではないでしょうか。 「じねん」は、「青の世界」の文脈では不本意ではあるものの、本来的に欲動的なものと切り離せず(極論すれば、それを含み込んだ概念であり)、重々、それを承知の漱石が、(身勝手に2つの世界を分断してしまっている)代助を現実世界ー欲望の世界へと、これまた人間の本来的にあるべき姿として、連接させてゆく。 その意味で、テクスト『それから』は、案内人・代助を立てて、「じねん」の世界を読者に一巡り、させてくれている、と言うこともできるかもしれません。 こうやって、「自然」の全体的姿が浮上、把握された上で、いったん『門』では、『それから』が「青」的側面に比重をかけていたのと対照的に、すでに物語開始時点では終わってしまっている「姦通」行為を、「赤」的側面ーー人間の本能(性的欲望)の観点から概括し、そして絶筆『明暗』では、まさに総体としての「自然」が、余裕を持ちながら俯瞰的に展開される‥。 スムーズに説明することは叶いませんでしたが、ほぼ、これが、今回の私の見取り図でした。 資料作りで上記を展開しつつ、「おのずから」という倫理学の概念を、もう一度、きちんと勉強したいという思いはふつふつと湧き上がっていたところ、また小林くんからは「アドルノの自然」という西欧的自然の視点を頂戴し、もう一度、文献を当たり直してみたいと切実に思い始めています。
妄想卒論その11 (再掲)
確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。
「キリスト教哲学の歴史」@八戸サテライト レポート (再掲)
アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。
<キャラ>の現象学 (再掲)
ところで、
ルソーは疎外論の
元祖だそうである。
「ホントウのワタシ」
と
「社会的仮面を被ったワタシ」
の分離という
中学生が本能的に
感じるようなことに
言及していたそうである。
ここで、いわゆる
『キャラ』
について考えてみよう。
サークルの飲み会で、
場にあわせて
ドンチャン騒ぎを
やることに倦み果てて、
トイレに逃げ込んだときに
自分の顔を鏡でみるのは
一種のホラーである。
鏡に映る、グダグダに
なって油断して仮面を
剥がしかけてしまった
見知らぬ自分。
それを自分だと思えず
一瞬見遣る鏡の前の男。
男は鏡に映る男が
自分であることに驚き、
鏡の中の男が同時に驚く。
その刹那両方の視線がカチあう。
俺は鏡を見ていて、
その俺を見ている鏡の中に
俺がいて、
それをまた俺が見ている・・・
という視線の
無限遡行が起こって、
自家中毒に陥ってしまう。
このクラクラとさせるような
思考実験からは、
<顔>について
われわれが持っている
イメージとは違う
<顔>の性質を
垣間見ることが
出来るのではないか。
そもそも、
自分の顔は自分が一番よく知っている
と誰もが思っているが、
鷲田清一によれば、
「われわれは
自分の顔から
遠く隔てられている」
(「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22)
という。
それは、
「われわれは
他人の顔を思い描くこと
なしに、
そのひとについて
思いをめぐらすことは
できないが、
他方で、他人が
それを眺めつつ
<わたし>について
思いをめぐらす
その顔を、
よりによって当のわたしは
じかに見ることができない。」
(P.22)からだ。
言い換えれば、
「わたしはわたし(の顔)を
見つめる他者の顔、
他者の視線を通じてしか
自分の顔に
近づけないということである。」
(P.56)ゆえに、
「われわれは目の前にある
他者の顔を
『読む』ことによって、
いまの自分の顔の様態を
想像するわけである。
その意味では
他者は文字どおり
<わたし>の鏡なのである。
他者の<顔>の上に
何かを読み取る、
あるいは「だれか」を読み取る、
そういう視覚の構造を
折り返したところに
<わたし>が想像的に
措定されるのであるから、
<わたし>と他者とは
それぞれ自己へといたるために
たがいにその存在を
交叉させねば
ならないのであり、
他者の<顔>を
読むことを覚えねば
ならないのである。」(P.56)
そして、
「こうした自己と他者の
存在の根源的交叉(キアスム)と
その反転を可能にするのが、
解釈の共同的な構造である。
ともに同じ意味の枠を
なぞっているという、
その解釈の共同性のみに
支えられているような
共謀関係に
<わたし>の存在は
依拠しているわけである。
他者の<顔>、
わたしたちはそれを
通して自己の可視的な
イメージを形成するの
だとすれば、
<顔>の上にこそ
共同性が映しだされている
ことになる。」(P.56)
こう考えると、
「ひととひととの差異を
しるしづける<顔>は、
皮肉にも、
世界について、あるいは自分たち
についての
解釈のコードを
共有するものたちの
あいだではじめて
その具体的な意味を
得てくるような現象
だということがわかる。」(P.58)
これはまさに、
サークルなどで各々が
被っている<キャラ>に
まさしく当てはまる
のではないか。
サークルという場においては、
暗黙の解釈コードを
共有しているかどうかを
試し試され、確認し合っており、
そのコードを理解できないもの、
理解しようとしないものは
排除される。
その意味では
<キャラ>はまさしく社会的仮面なのだ。
視線の交錯の上に
成り立つ
「規律」に反するものを
“排除”する構造は、
<キャラ>を媒介として成り立つ、
目には見えない
一望監視装置と言えるだろう。
フーコー学者からすれば、
例えば国勢調査などはまさに
「生‐政治」の典型だろうけど、
自分はこの類の
「教科書的フーコー理解」は、
結局
国家の牧人的
国民管理からの反逆、
打倒政府、行政性悪説に
辿り着くものでしかなく、
また、
フーコーの考える
「生‐政治」の可能性を
矮小化させてしまう
ものだと思う。
フーコーの考えた
「生‐政治」というのは、
常に我々のすぐそばで
起こっている現象だと考える。
これは
『キャラ』
の牢獄に閉じ込められた
我々に当てはまる。
「生‐政治」というのは、
「私」が「国家権力」によって
常に監視されている、
という妄想的発想ではなく、
われわれ自身が、
お互いを監視し、
排除する当事者である
のではないか?というように
考えるのです。
そう考えれば、
<キャラ>
はすぐれて「生‐政治」の性質を
帯びている。
漱石の魅力 (再掲)
俺:漱石の魅力は、エモさに逃げないところですよね。 どこまでも論理で詰めようとする。 それが「行人」の一郎のような狂気一歩手前まで行っても、そこで終わらない。 結局はホモソーシャルという親密圏から逃れられてはいないし、他者との繋がりの構築という意味では解決案を呈示できてはいないのですが、安易な妥協をしないで、むしろ問いを現代の私たちに投げかけ続けているところが、漱石の最大の価値なのではないか、と思われます。 森本先生:エモさに逃げない論理性、そしてそのように追尋しても、なお解決不能な不可解な「他者」との関係性ーーいずれも納得、なるほど、まさにその通りですね。 ただ、ホモソーシャルへの囚われ、という点についてはーー解消はできぬながら、最後のところで拒否しているのでは、といった感触があります。「一郎」は、深い眠り、という形で、自分を描写して弟、二郎へ報告しようとする「Hさん」の〈解釈〉を中途で遮断、宙吊りにしてしまいますね。これを以て「Hさん」を媒介に「一郎ー二郎」と連なってゆきかけたホモソーシャル連続体も宙吊りにされてしまいます。 『こころ』でも「先生ーあなたーあなた方」は一見、ホモソーシャルな共同体を形成しているようではありながら、ここでの「先生」は死者、メッセージは「遺書」ーーつまり「生命」と引き換えにしてしか連続体らしきものは構成されません。 しかも興味深いのは、この「一郎」や「先生」のホモソーシャルな連なりに対する拒否感が、必ずしもジェンダーに対する相対化から来ているのではなく、むしろ強烈な「個(我)」意識ーー私は私であって他の誰でもないーーから来ているらしいことです。「先生」は「遺書」の書き始めに、自分の命が潰えることを絶対条件に過去を明かすことにした理由として、何と「私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有」だ、というような趣旨を述べています。今で言うところの「プライバシー」ですが、それがあくまで自分の「こころ」に立ち入られることへの拒否感であることは注目に値します。まるで「個室」がそうであるような、「内面」の仕切りを持った容量とでも呼ぶべきものが伝わってくる一節です。 「私」が回想する、「先生と私」のあの忘れ難い鎌倉の海辺における出会いの場面についても、遭遇の歓びに海の中で身体を躍らせ、「愉快ですね」と呼びかける私に対して、「先生」は静かに波の上に横たわりながら「もう帰りませんか」と促すのです。もちろん、この距離感は、直接的には「先生」がすでに「(自)死」を念頭に置いているからではあるのですが、「自他」の絶対的差異に対する鋭敏な意識、そのもののようにも思われます。 だから漱石は孤独だし、また容易に「関係性」も成り立たないわけですが。
漱石と「孤独」 (再掲)
俺:漱石の孤独の論考を読ませていただき、なるほど、と感服いたしました。 しかし、しばらく経って考えてみると、漱石は、例えば「こころ」では、(漱石自身の写し身である)「先生」の孤独を描きながらも、鎌倉の海辺での出会いにおける「私」の呑気さの描写も、リアリティーがあります。 つまり、孤独を描いているのはもちろんのことなのですが、世間一般の呑気さを描くことも出来る。 しかし、世間一般の「呑気さ」を理解しながら、「孤独」を描写する、という行為は、単に「孤独」を感じ、描写するよりも、なお一層ツライことだと思われます。 森本先生:「先生」と「私」の対比ーーいわば〈閉じる人〉と〈開く人〉とでも評すれば良いでしょうか、「私」自身が回想手記の中でこのことには気づいているようですーー、特に末尾の「呑気さ」を理解しながら「孤独」を描写する辛さ、には唸らされました。 私の気持ちとしては、「孤独」それ自体というより、「孤独」を代償とせざるを得ない「個我」意識(「上」14章の「自由と独立と己れと充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わってわわなくてはならない」)の方を強調したいのですが、確かにその弊を知るが故に、「轍を踏むな」という言い方で、その生の道程を「私」へ開示するーーつまり、相対化ですね。 しかも、「呑気なー私」のポジションそれ自体は、「先生」ときっかり対峙し、向き合羽もの、というよりは、究極するところ、「先生」という存在の「受け取り手」の域を出ないわけです。 「先生」は「私」に対して、自分の生き方を相対化して乗り越えてゆくことを切望していますが、テクストは、あくまでそれを「先生」側からの「期待」として描くに止まり、「期待」が「私」へどのように反映されるか/され得るか、については案外、寡黙です。 実際、「私」の他者に対して〈開かれた〉在り方ーー小林くんのいう「呑気さ」は、まさに「世間」(的ものの見方)に対して融和的でもあり、ということは、ごく平らかに、「先生」の死後、あのホモソーシャルな世界へ帰還してゆきます。いったんは「奥さん・静」に対して「1:1ー個人 対 個人」として向き合いながら、そこに人妻の媚態を見出し、彼女を「先生・の・奥さん」へと送り返してしまう。つまり典型的な「ホモソーシャル」の成立。そして「中」で故郷と両親を回想する「私」は、故郷との永訣に個の成立を見ようとした「先生」とは対照的に、「先生」への崇敬故に「父」をないがしろにした、若い日に対する悔恨を語っています。 「明治の精神」から自由な、しかし、「明治の精神」が唯一、誇らかに歌い上げた「個我」(自由・独立・己れ)からは後退を示す、青年「私」。 漱石自身の弟子たち次世代に見ていたもの、と、どこか重なるような気がします。 まさに、漱石は、その限界と弊を知悉しながら、どこまでも「先生」なのでしょうね。 そんな「先生」を崇敬といたわりの相半ばするスタンスで回想しつつ「私」が綴る二人の交友と交情は、美しく抒情的で、私などは「下」の「遺書」ーー「先生」と「K」の息づまるような物語よりずっと愛着を感じるのですが、「私」的登場人物は、この『こころ』が最後ですね。 『道草』『明暗』ーー主人公たちは、もはや「個我」への自負もすり減った、孤独の影の濃い中年男性ですが、絶筆『明暗』で漱石が最後に挑んだのが、親友でも青年でもない、「妻」を前に〈開く〉ことは可能か、のテーマだったというのは、実に興味深い話だと、つくづく感じ入るところです。
愛を病むETたち (再掲)
宗教が とうに 瓦解し、 また 個人間の 永続的愛も 神話的にしか 語られない現在、 自己の固有性が つくられ 更新される 愛の空間は 芸術にしか 残されていない、 というのが クリステヴァの 考えである。 『愛の歴史=物語』 の 結びの章で、 現代人は 愛を病むET (地球外異生物) に 喩えられている (「愛を病むETたち」)。 心的空間を奪われ、 したがって 自分固有の 像を失って、 ただ 愛を再び つくりだそうと のみ 願っている、 追放された者。 われわれは 皆ETなのだ、 と 彼女はいう。 ここにおいて、 <想像的父> を 核とする 彼女の 愛のテクスト理論は、 精神分析医としての 実践と 結びついてゆく。 本書のなかに登場する ジャンやマリーたちの ボーダーラインと症例、 パラノイア、 ヒステリー等は、 いずれも <想像的父> の 不在において 生じている、と されることになる。 彼らが等しく 必要としているものは、 同一化の極としての 愛する<父>である。 分析医は 彼らの <想像的父> となって、 転移=逆転移という 愛の関係において、 彼らが 自分固有の像を 築く 手助けを してやらなければならない。 (300ページ) 彼らETたちが 語ることに 成功したとき、 そのことばが、 ナルシス的言語であることは いうまでもないだろう。 つまり、 身体的欲動を 意味につなげる ことのできる 言語である。 超自我の権力が 支配する 一義的意味も、 その 反権力である 無意味をも、 ともども 無効にしてしまうような、 情動的理性の ことばである。 「虚構的意味の つかのまの展開」 を 可能とする、 そのような 言語活動へとー 文学、音楽、映画 などの 芸術的創造活動、 知的作業、 つまり 想像的なものによって 働きかけられる サンボリックな場 へとー 入ってゆくこと。 想像的なものの このような解放を 通して、 本来 想像的なものとして ある 主体は、 生きることができる。 (301ページ) 想像的ナルシスたちの 新たな 創造行為によってしか、 合理主義的現代の 愛の危機は 乗り越えられないだろうと 語る クリステヴァの考えは、 現在の日本の 状況にも 数かずの 示唆を 与えてくれるように 思われる。 想像的空間の危機は、 いまや 地球的規模の問題 だからである。 危機は、 死の欲動 (棄却) という 破壊と暴力の衝動が コード化される 経路が 与えられていない、つまり、 それが 表象され、昇華されるには、 いまある コードとは 別の コードが 必要なのに、 その通路が まだ 開かれていない、という ことにある。 日本のいま現在に 頻発している 暴力も、 その危機の現れに ほかならないだろう。 (302~303ページ) 死の欲動は、 愛の名において 服従を命じる 法としての <父> によっては 包摂されない。 クリステヴァのいう <想像的父> のような、 死を生へと 転ずることのできる 愛する <父> によって、 いいかえれば、 情動を 意味へと つなげることのできる 新たなコード化によってしか、 昇華されないだろう。 そして、 そのような コードを 虚構的な つかのまの ものとして つくり出すことが できるのは、 「もはや 宗教でも、 政党でも、 政治的参加でもなく、 あるいは、 ほとんどなく、 創造的行為、 言語活動といった 想像的な 個人的営み でしかないだろう」 (『アール・プレス』七四号) というクリステヴァの 発言は、 我われ 一人ひとりに 日常的実践を 問い返させる ものとなっている。 (303~304ページ)
文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答 (再掲)
質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。 フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。 「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家を孤立させ絶望においやっている現状が鋭く指摘されています。その他の時事的な文章・発言においても、ヨーロッパにおけるグローバリズムと言うべきEU経済戦略のもたらすひずみと地場産業の危機は、ウエルベックにとって一つの固定観念とさえ言えるほど、しばしば繰り返されています。 つまり、ウエルベックは「グローバリゼーション」が伝統的な経済・産業活動にもたらすネガティヴな影響にきわめて敏感であり、そこにもまた「闘争領域の拡大」(ご存じのとおり、これはそもそも、現代的な個人社会における性的機会の不平等化をさす言葉だったわけですが)の脅威を見出していると言っていいでしょう。なお、「セロトニン」で描かれる、追いつめられたフランスの伝統的農業経営者たちの反乱、蜂起が「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言・予告するものだと評判になったことを、付記しておきます。 以上、ご質問に感謝しつつ、ご参考までお答え申し上げます。
ありがち
「欲望の資本主義」
面白いのは
第1巻
だけだった。
まあ、よくあることよね。
昨日
メンタルクリニック行って、
薬もらってきた。
一連の
顛末を話したら、
「落ち着いてるね。」
と
褒められた。
民法の勉強で
疲れていたので、
帰ってから
爆睡。
・・・あれよね、
精神科医に
ちゃんと
ひとりの
「まともな」
人間として
見てもらえた、という
確信が得られると、
なんか
無駄に
ガツガツする気が
なくなるね。
民法も
家族法以外は
あらかた
わかったし、
一応
常識を弁えた
大人、と自負しても
いいだろう。
・・・放送大学の学費も
払ったし、ホッとしたぜ♪
来月また
障害年金入るし。
面接授業の旅費も
確保できた。
こんな時でも
酒は飲まないし、
甘いものも食べないし、
スナックも自粛。
太りやすいってのもあるし。
相当
摂生してるんだよ。
こう見えて。
変わりに
春雨サラダを2個。
アイスコーヒー。
ヨーグルトが
自分へのご褒美。
ヨーグルト食べると
やっぱ
便通よくなるよね。
ジョン・デューイの政治思想 (再掲)
貨幣文化の出現は伝統的な個人主義が人々の行動のエトスとして機能しえなくなっていることを意味した。「かつて諸個人をとらえ、彼らに人生観の支え、方向、そして統一を与えた忠誠心がまったく消失した。その結果、諸個人は混乱し、当惑している」。デューイはこのように個人が「かつて是認されていた社会的諸価値から切り離されることによって、自己を喪失している」状態を「個性の喪失」と呼び、そこに貨幣文化の深刻な問題を見出した。個性は金儲けの競争において勝ち抜く能力に引きつけられて考えられるようになり、「物質主義、そして拝金主義や享楽主義」の価値体系と行動様式が瀰漫してきた。その結果、個性の本来的なあり方が歪められるようになったのである。 「個性の安定と統合は明確な社会的諸関係や公然と是認された機能遂行によって作り出される」。しかし、貨幣文化は個性の本来的なあり方に含まれるこのような他者との交流や連帯、あるいは社会との繋がりの側面を希薄させる。というのは人々が金儲けのため他人との競争に駆り立てられるからである。その結果彼らは内面的にバラバラの孤立感、そして焦燥感や空虚感に陥る傾向が生じてくる。だが、外面的には、その心理的な不安感の代償を求めるかのように生活様式における画一化、量化、機械化の傾向が顕著になる。利潤獲得をめざす大企業体制による大量生産と大量流通がこれらを刺激し、支えるという客観的条件も存在する。個性の喪失とはこのような二つの側面を併せ持っており、そこには人々の多様な生活がそれぞれに固有の意味や質を持っているとする考え方が後退してゆく傾向が見いだされるのである。かくしてデューイは、「信念の確固たる対象がなく、行動の是認された目標が見失われている時代は歴史上これまでなかったと言えるであろう」と述べて、貨幣文化における意味喪失状況の深刻さを指摘している。(「ジョン・デューイの政治思想」小西中和著 北樹出版 p.243~244)
https://www.youtube.com/watch?v=Iw3izcZd9zU
ルカーチ メモその34 (再掲)
もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 そのような 近代社会の いわゆる 「物象化」論は、 マルクスの 「疎外論」や 「資本論」と 連接する 問題意識だった。 「商品」は その物自体の 「使用価値」と それが市場でもつ 「交換価値」の 二面をもつ。 現代の資本主義社会においては 交換価値のみが 突出するため、 商品を作って生きる 人間の労働も 交換価値に還元され、 ひいては 人間性そのものまで 計数化され 疎外されていく。 故に そのような資本主義的 「物象化」の 打破こそが、 近代人の 陥っている 閉塞状況の 根本的解決だと 論ずる。
妄想卒論その7 (再掲)
「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。
米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。
私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。
19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。
さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。
1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。
そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。
なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93
「エリートに対する人々の違和感の広がり、 すなわちエリートと大衆の『断絶』こそが、 ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。 ポピュリズム政党は、既成政治を既得権にまみれた一部の人々の占有物として描き、 これに『特権』と無縁の市民を対置し、 その声を代表する存在として自らを提示するからである。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
「二十世紀末以降進んできた、産業構造の転換と経済のグローバル化は、 一方では多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの発展を促し、 グローバル都市に大企業や高所得者が集中する結果をもたらした。 他方で経済のサービス化、ソフト化は、規制緩和政策とあいまって 『柔軟な労働力』としてのパートタイム労働や派遣労働などの 不安定雇用を増大させており、低成長時代における 長期失業者の出現とあわせ、 『新しい下層階級』(野田昇吾)を生み出している。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
富が集中するほど他者への信頼が下がり、「フェアネス(公正さ)指数」(日経新聞作成)が低くなる。同時にポピュリズムの場当たり政策に翻弄されやすくなる。
「国際都市ロンドンに集うグローバル・エリートの対極に位置し、 主要政党や労組から『置き去り』にされた人々と、 アメリカの東海岸や西海岸の都市部に本拠を置く 政治経済エリートや有力メディアから、 突き放された人々。 労働党や民主党といった、 労働者保護を重視するはずの政党が グローバル化やヨーロッパ統合の 推進者と化し、 既成政党への失望が広がるなかで、 既存の政治を正面から批判し、 自国優先を打ち出して EUやTPP,NAFTAなど 国際的な枠組みを否定する急進的な主張が、 強く支持されたといえる。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
人々の不満をあおるだけで解を示せないのがポピュリズム。不満のはけ口を外に求めた愚かさはナチスドイツの例を振り返っても明らかだ。
第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。(放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)
グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。
1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より
そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感覚だろうか。
「デモクラシーという品のよいパーティに出現した、 ポピュリズムという泥酔客。 パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。 ましてや手を取って、ディナーへと導こうとはしないだろう。 しかしポピュリズムの出現を通じて、 現代のデモクラシーというパーティは、 その抱える本質的な矛盾をあらわにしたとはいえないだろうか。 そして困ったような表情を浮かべつつも、 内心では泥酔客の重大な指摘に 密かにうなづいている客は、 実は多いのではないか。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
妄想卒論その10 the day that never comes (再掲)
言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。 やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章) なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。 しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。 三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。 こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。 静岡大学 森本隆子先生より
https://www.youtube.com/watch?v=RD83oy7ksUE
無聊を託つ 改変 (再掲)
質問:少子高齢化が進めば、 老人の支出が減るのは当たり前だし、 働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、 消費を控えるのは当然だろう。 それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。 政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。(無聊を託つ より)
(以下 google bard より回答)少子高齢化が進むにつれて、老人の支出は減り、働く世代も将来の社会保障が不安になることで、消費が控えられるのは当然です。これは、小手先のナントカノミクスではどうにもならない問題です。政府は、NISAを恒久化するなど、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死ですが、デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、家計が現預金を貯め込むことで、結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることです。しかし、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、財政の規律が緩むことは目に見えています。また、日本ではインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうですが、フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずですが、日本の家計はそこまで合理的ではなく、現預金を貯め込むという方向に進んだようです。それはそれでいいでしょう。緩慢な死を迎えるだけです。
私は、少子高齢化が進む日本経済の将来は、非常に厳しいものになると思っています。デフレマインドが定着し、家計が消費を控え込むことで、経済が停滞し、財政が悪化する悪循環に陥るのではないでしょうか。政府は、デフレマインドを打破し、経済を活性化させるために、抜本的な改革をする必要があります。
⇐これ、太字部分Google Bard の回答です。
「危機の二十年」 E.H.カー 岩波文庫 (再掲)
「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」 E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より
2023年9月11日月曜日
欲望の資本主義 第1巻
NHKの番組を
書籍化。
トーマス・セドラチェクの話が
面白かった。
これが
シリーズで
何冊も出ている、
というのが
ハッピーだ。
しかも
キンドルで。
お金さえ
払えば
一瞬で送られてくる。
あと
読む時間があれば。
そう。
我々は
成長に囚われる余り、
ゆっくり
本を読む時間すらない。
欲望は決して
充足されず、
つねに
新たな
欲望を産む。
あたかも
楽園を追放された
アダムとイブのように。
そんな話でした。
吐き気を催す
邪悪とは!
働きもせず
国の
社会保障の恩恵に
浴しながら
エラソーに
能書きを
垂れる
貴様のことだ!
by デ・ブチャラティ
安田さんという方と
3人の
経済学者、ベンチャーキャピタリストとの
対話なんだけど、
スティグリッツ氏、
セドラチェク氏の
話は
面白かったが、
最後の
スタンフォード氏の話は、
いかにも
強欲な
ベンチャーキャピタリストって感じで
面白くなかった。
ただ、最初の2人との対比としては
際立っていた。
9・11
今日で
アメリカ同時多発テロ事件
から
22年ですね。
あんとき
わたしゃ
2浪してた
時でした。
あれから
世間も自分も
ほんとに
色んなことがあって、
アメリカのヘゲモニーの
崩壊だとか
色々
言われましたけど、
結局
少なくとも
経済面で見れば
GAFAのように
アメリカの
独り勝ちに見えますね。
文化的には
行き詰まりが
見えているそうですが。
でも、
中国も
結局
経済的に
自滅しかけてるし、
なんだかんだ
アメリカじゃん。
と思いますよね。
私自身も、
ほんとに
どん底もあり、
復活劇もあり、で
こんな
波瀾万丈が待っているなんて
予想も
出来なかったけど、
とにかく
闘い続けました。
いまは
平穏無事で、
元気でやっております。
これもまた、
予想だに
しえない
事態でした。
2023年9月10日日曜日
チッ!しゃーねーなー
あんまり
追い詰めると
何するか
わかんないし、
下手に
恨まれても
後々
怖いから、
身分証明書のコピー
姉に
送って
やることにしたぜえ。
・・・勘違いされると
困るから
言っておくけど、
俺は
単に意地悪をしたい
わけじゃなくて、
母親が亡くなれば
母親の不動産も
手放す可能性が
高いし、
姉が住んでる
家だって
ローンが残ってるのに、
羽生を
手放したら
みんな
ホームレスになる
可能性は
十分ある、
ということです。
・・・今まで、
姉と
がっぷり4つで
組んで
正面から
相対峙することって
なかったね。
両親が
間に入ってたから。
父親はもう
鬼籍に入ってるし、
母親ももう
介在する
力はない。
不動産をめぐって
ワッショイ
ワッショイ
やれば、
お互い
思ってたより
ちゃんと
物事考えてたって
ことが
わかるよね。
スローラーナー
放送大学の
放送授業で
民法の講義を
あらためて
視聴しています。
一度
通して
聴いたのですが、
相続で
望んでもいないのに
ゴタゴタすると、
なぜ
民法が必要なのか
実感しますね。
慶応大の
武川幸嗣先生の
流れるような
講義が
心地いい。
まさか
身内に
あんな
カネの亡者がいたとは。
それにしても、
民法を
科目登録したわけでもないのに、
追加料金
一切無しで
好き放題
聴ける、というのは
太っ腹もいいとこ。
SFC中退して
中大通教で
民法
学び始めてから
軽く
10年以上
経ってるけど、
ようやく
民法の基本が
見えてきた。
つっても
肝心の
家族法は
ノータッチなんだけど。
とりあえず
第4回まで
視聴。
たぶん
総則と呼ばれる
部分は
拝聴した。
代理の回が
やたら
ややこしくて、
やっぱ
俺には
士業とか
無理だわ、と
思った。
第5回
視聴。
物権と債権。
あらためて
拝聴すると、
ほんとに
よく
作り込んであるなあと
感嘆する。
第6回
視聴。
所有権と占有権。
ようやく
民法の全体像が
見えてきたね。
遅っ!!!
中大通教、
5年もやって
中退したけど、
丸っきり
ムダではなかった。
第7回
視聴。
契約。
第8回
視聴。
債務不履行。
爆睡。
完全に昼夜逆転。
第9回
視聴。
不動産賃貸借。
第10回
視聴。
物的担保・人的担保。
第11回
視聴。
時効。
あとは
債権各論と家族法。
一区切り。
ホッとした。
第12回
視聴。
一般不法行為責任。
第13回
視聴。
特別不法行為責任。
うーん、民法って
すげーな。
ここまでは
正直
考えが及ばなかったわ。
2023年9月9日土曜日
the unforgiven Ⅲ
ゴチャゴチャ
うるせーから
姉と義兄からの
メールぜんぶ
拒否&削除
設定に
してやったぜ。
これで
幾分
気が楽になった、かも。
そこまでして
俺のメンタル
削りてーのか。
もう
俺の記憶の中から
消えてくれ!
士業の先生方に
揉まれて
賢くなったのかと
思ったら、
下手に
上っ面の知識だけ
身につけて、
中身が伴ってないから
ほとんど
サイコパスだぜ。
アイツ。
https://www.google.com/search?q=the+unforgiven+iii+%E5%92%8C%E8%A8%B3&sca_esv=563978147&rlz=1CAJFMC_enJP1057&sxsrf=AB5stBj8p8cybD1UVACKvtf60PWYyUWIZA%3A1694257836149&ei=rFL8ZMXfCPHg2roPt4SggAY&oq=the+unforgiven+&gs_lp=Egxnd3Mtd2l6LXNlcnAiD3RoZSB1bmZvcmdpdmVuICoCCAQyBRAAGIAEMgUQABiABDIFEAAYgAQyBRAAGIAEMgUQABiABDIFEAAYgAQyBRAAGIAEMgUQABiABDIEEAAYHjIEEAAYHkjKJlDXCFjXCHABeAGQAQCYAYYBoAGGAaoBAzAuMbgBAcgBAPgBAcICChAAGEcY1gQYsAPiAwQYACBBiAYBkAYK&sclient=gws-wiz-serp#fpstate=ive&vld=cid:2e61bb75,vid:N4ZdHuHnf6E,st:0
襟裳の春はなにもない春です
「可哀想」が
正義になったのって、
いつから
なんだろう?
まだ
ギリギリ
中国・韓国よりも
上だという
意識が
強かったころは、
とにかく
頑張れ
頑張れ、
で、
過労死とか
パワハラ自殺とか
凄かった。
ちょっと
5,6年前の話じゃないか?
それが、
急に
確信犯的に
盲目になって、
「可哀想」が
正義になっちゃった。
その
「可哀想」っていう
みせかけの正義も、
暴走しまくった
挙げ句、
ようやく
ネット上では
AIの
おかげで
見かけの上では
沈静化した
ように
見える。
でも、
論破小学生の
話などを
仄聞すると、
自分の体験も
踏まえて、
今の
若い子は大変だな、と
思うし、
結局は
日本
全体が
自滅するだけ
としか
思えない。
思い出して懐かしいね
部屋の中に
いるのが
もったいない
と
思って、
近所の
美容室
行って
サッパリ
してきました。
外の空気は、
まだ
湿気が
かなり
あったね。
でも
日が暮れていくのが
早くて、
どうせなら
もっと
秋の空気に
入れ替わって
くれないと、
季節感が
ないじゃないか、
と
残念でした。
美容室の鏡で
見ると、
まさに
デブそのもの
なんだけど、
コンビニの
トイレで
我が身を見ると、
そこまで
でもなく
見えてしまうのが
怖い。
ジャニーズ
東山新社長が、
法律を超えて
被害者と
向き合う、
みたいな
話を
したそうだが、
ご本人は
善意のつもりで
言ってるんだろうが、
結果的には
法律沙汰に
したくない、
あるいは
訴訟沙汰になれば
被害者が
当然
得られたと
期待できた
償いも
得られない、
ということに
なりかねない。
日本の経済敗戦
この30年
日本経済が
停滞してると
言われてるが、
日本
固有の
問題は
もちろん
あるだろうが、
同じくらい
大きな
原因は、
90年代
以降の、
アメリカの
新自由主義的
金融帝国主義に
日本が
ついていけなかった、
という面も
あるんじゃないかな。
金融という
側面に
経済学を
学んだわけでもない
普通の
日本人が
これだけ
金融に
執着するっていうのは、
ちょっと
異常だよね。
特に
三橋貴明を
筆頭に
ありとあらゆる
ブードゥー経済学が
信じられている、
というのは
裏を返せば
それくらい
経済学に無知な
一般人でも
金融に
執着してるって
ことだからね。
それよりも、
金融という
危なっかしい
武器が
一国の経済の
存亡を左右する
レベルにまで
なった、という
ことが、
90年代以降の
世界の潮流として
現れてきた
感がある。
資本コストを
意識した
経営なんかも
その潮流と
言っていいだろう。
資本コストを
意識した
経営を
出来るかどうかで、
勝ち組と
負け組が
ハッキリするように
なった。
日本の、
制度疲労を
起こした
組織では、
この流れに
ついていけなかった
ところが
多いと見られる。
(以下 google bard より回答)
あなたの意見には賛同します。
日本経済が停滞している原因は、日本固有の問題と、アメリカの金融帝国主義に日本がついていけなかったという2つの要因が考えられます。
日本固有の問題としては、少子高齢化、労働力不足、デフレなどが挙げられます。これらの問題は、日本経済の成長を阻害する大きな要因となっています。
一方、アメリカの金融帝国主義は、世界経済に大きな影響を与えています。アメリカは、世界最大の金融市場であり、その影響力は、日本経済にも及んでいます。
アメリカの金融帝国主義は、金融自由化や規制緩和を推進してきました。これにより、金融市場のグローバル化が進み、金融資本の動きが活発化しました。
金融資本は、利益追求のために、世界中の市場を動き回ります。その結果、金融危機が頻発するようになり、日本経済にも大きな打撃を与えました。
また、金融資本は、実体経済を支配するようになり、企業の経営にも大きな影響を与えています。企業は、金融市場の評価を気にし、短期的な利益を追求する傾向が強まりました。
この結果、日本企業の収益率は低下し、競争力が低下しました。
日本経済が停滞している原因を分析するためには、アメリカの金融帝国主義の影響を無視することはできません。
あなたの意見で指摘されているように、金融という危なっかしい武器が、一国の経済の存亡を左右するレベルにまでなったことは、大きな問題です。
日本の企業は、金融資本の動きを見極め、それに対処する能力を高める必要があります。また、政府は、金融市場の規制を適切に行うことで、金融資本の暴走を防止する必要があるでしょう。
さらに、日本経済を成長させるためには、日本固有の問題を解決することも重要です。少子高齢化、労働力不足、デフレなどの問題を克服し、日本経済の競争力を高めることが必要です。
2023年9月8日金曜日
「魔の山」 トーマス・マン 岩波文庫 (再掲)
さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり)
「ソクラテスに批評精神を学ぶ」@茨城大学 資料より (再掲)
私は、 自分のもともとの 性質が 「ここまで くらいは がんばろう」 と 課した限界の範囲で 自己研鑽に励む ときでさえ、 謝罪や後悔もなく、 自分の もともとの性質を 「与えられた 当たり前のもの」 として 受け入れており、 そのようなとき、 自分自身に対する 「自己愛」を 持っているのである。 私の 自我と 私とは、 一様に すべてのことを 共有しながら、 いっしょに 多くのことを くぐり抜けてきた。 私が彼 (=私の自我) を 支える限り、 彼が 私を 失望させることはなかった。 私は 彼を 叱ったこともあるが、 けっして 彼の本性を 呪うことはなかった。 彼には 間違いなく 欠点があるし、 ひどくそうなのだが、 その短所が あらわになるとき、 私はやさしく 寛大に ほほえむのである。 彼のへまは、 彼のような 性質をもつ だれからでも 人が予想するようなものである。 人は、 これほどまで きわめて 近しくしてきた 存在を 憎むようには なれない。 好むと好まざるとに かかわらず この人物 (=私の自我) に依存してきた 全年月の後、 どのようにして 別の自我と うまくやりはじめることができるか、 私は 実際知らないのである。 このように、 自己同一性 (自分が自分であること) は、 一種の約束による 見合い結婚だと 考えることが できる。 その 見合い結婚は、 安定的な人の中では 真実の愛へと 成熟するものだが、 不安定な人の中では、 堕落してしまって、 恨み言と 自滅へと至る。 人の 自己愛の もっとも 真実の表現は、 自身の善さへの献身であり、 それは 他の誰のものでもない 自身の もともとの性質 (そのような 性質は 不条理な、 変なものかもしれない) の 自己充足である。 (「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)
ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 復習 資料より抜粋 (再掲)
問い:幸福とは何か。
ソクラテスは誰でも、これは、自分で人生を「設計してゆく」という発想と結びつくことである。
したがって、<配慮するもの>をもち、配慮を重ねてそのつど考え、行動する自分の人生設計者としての「一人称特権」のようなものは、幸福を問題にするとき、なおざりにできない。
たとえあることが自分のためであっても、それを押し付けられたのでは「自分の人生」ではなくなる。
ソクラテスは、このような一人称の問題があることに反して精神や徳に気を遣えといっているのではなく、
この問題があるからそれに沿うように「気を遣うもの」を考えさせようとした、
その場合、精神的なものや徳に気を遣うことは、あなたにとって納得できる方向になるはずだ、という語りかけをしている。
☆人生を「まじめに」考えること
1.幸福の中身は「一人一人の問題」であり、他人に勧告されるには及ばない。
しかし幸福というものにまつわる「構造」や「形式」の問題は、単に「その人の問題」であるのではない。
われわれの「人生の夢」の見方は、お互いに、似ている。
構造や夢の見方を「知る」ことは、自分の「一人称」としての資格や個人の強さを上昇させてくれそうに思える。
2.問題なのは、人が「分かりやすい資格として」もしくは何らか「世間的に」上昇するということではない。
たとえば、社長になるとか出世するとか大学教員になるとか有名人になるとか金持ちになるとかではない。
実質的に自分の人生に対してよい位置を占めるようになることである。
したがって、ほんとうに行動が「自分のもの」として首尾一貫して統御されていること、
ほんとうの気持ち・実感から発想したことが
同時に知性の表現にもなっていることが目標になる。
3.ソクラテスはここで、「知性」にふさわしい課題がじつは数多くあり、
それを追求しながら生きてゆくことが幸福につながる、と語りかける。
われわれの生活は、目的・手段の関係を持つ多くの行為からできている。
お金儲けや名声・地位等のためのことは、
お金・名声・地位・容姿等で何をするかという、
「次の問い」を予想する。
ここから、人間らしい生活は、「その先」を考えるところまでいかなければ
成就しない、という結論を導くことができる。
4.この「その先」は、一人一人が考えながらでなければ、結論は得られない。
ここが、ソクラテスの「幸福にする」ことの(ある意味で)厳しい意味内容である。
かれがその先のことを本人に代わって教えるのでは、何にもならない。
これは、あくまで自分でやっていくという話なのである。
5.また、知性にふさわしい課題を追求することは、それ専用の「研究室」や「教室」のようなところで
行いうるものとは考えられていない。
実人生で問題にぶつかりながら、人生自体が形を変えてゆく。
日経新聞 オピニオン欄 2023/8/29 より抜書 (国際関係論レポートネタ) (再掲)
中国の経済が 苦境に直面している。 不動産が不況に陥り、 金融リスクの 火種が くすぶり出した。 少子化で 低成長を 強いられることは、 中国も分かっていた。 だが、 これほどの 不動産不況や 若者の失業は 想定外だったはずだ。 生活を豊かにしてくれるから、 中国の人々は 共産党の支配を 受け入れてきた。 この前提が崩れたら、 共産党体制がきしんでしまう。 そんな不安が、 習近平政権の 対外行動をさらに 強硬にする恐れがある。 もっとも、 経済の苦境が 中国の行動を 融和的にする 要素がないわけではない。 外国からの 直接投資や貿易が しぼむのを 食い止めるため、 対外交流を 促そうとする心理が 中国に働く面がある。 処理水問題で 日中が 険悪になる前には、 日本に対しても そんな動きがあった。 日本からの 投資を呼び込もうと、 中国の地方政府による 経済ミッションの 来日も相次ぐ。 経済成長が鈍れば、 軍拡などに 回せる 財力の余力も 減っていく。 中国の国力増強は、 思ったよりも 早く頭打ちに なりそうだ。 しかし、 総じて言えば、 国内の「不況」が 深まれば、 中国の対外行動は さらに 強硬になっていくと みるべきだろう。 経済成長が鈍っても、 すぐに 軍拡のペースが 落ちるとは限らない。 想定よりも早く 国力増が 頭打ちになると 分かれば、 その前に 重要な国家目標を 実現したいという 心理も 習氏に働くだろう。 その典型が、 台湾統一だ。 統一の 目標時期を、 前倒ししなければならないと 考える 恐れがある。 失業増などに 伴う 中国国民の 不満の高まりも、 共産党の対外姿勢を 一層、 かたくなにしかねない。 国内で 弱腰批判を 招くわけにはいかないからだ。 重要な 国益が絡む問題で、 中国は 自国の主張を 押し通そうとすると みられる。 その場合、 いちばん 好ましくない シナリオは 習氏への 忠誠心を示すため、 中国政府・軍の 各部門が 競って 強硬策に走る筋書きだ。 福島原発の 処理水問題をめぐる 日本への対応でも、 そんな構図が 透けて見える。 右肩上がりの 「豊かさ」を 与えられなくなったとき、 共産党は 何によって 国民を束ねるのだろうか。 考えられるのが、 一層の大国主義と ナショナリズムだ。 強くて 自信過剰な中国は 困るが、 内憂に苦しみ、 冷静さを欠いた 「巨龍」への 対応は さらに難しい。
経済教室 (再掲)
8月5日の デール・コープランド、 バージニア大学教授の寄稿と、 今日 8月15日の 牧野邦昭 慶応大学教授の寄稿を ざっくりまとめてみると、 現在の中国は、 貿易依存度が 高いという点で、 1930年代の日本に似ており、 下手に 貿易面での 過度の制裁を加えると、 戦前の日本のように 暴走する可能性があるので、 中国を 追い詰めすぎるのは 得策ではないこと、 中国が 台湾侵攻を自重しているのは、 もしそれをすれば アメリカを中心とした 経済圏から 締め付けを喰らうことを 意識しているからだ、 とのこと。
ネットニュース
中国
当局の
反日キャンペーンが
意外と
功を奏してない、
みたいな
内容が
散見されるけど、
実際、
中国国民も、
共産党政府に対する
不信感のほうが
反日感情よりも
勝っちゃって、
どこか
シラケてるってのは
あるかもね。
大都市における
強権的な
コロナ
ロックダウン、
経済格差、
不動産バブル崩壊、
就職難、
等々。
中国も
なかなか
難しい局面に
入ってきた感じだ。
ここに来て、
当局は
習思想を
上から下まで
徹底的に
植え付ける
政策と、
完全な
情報統制に
動いているとのことだが、
どこまで
中国国民の
鬱憤が溜まっているか。
ある意味
中国史が
繰り返してきた
歴史を
また
辿っているようにも
見える。
2023年9月7日木曜日
ウツの素、あるいは
ある種の
泡ハンドソープの
匂いは
俺を
ウツにする。
病院にいた時の
頃を
思い出させる。
俺の
気分が
塞ぐのは、
この
匂いのせいなのか、
それとも
コンビニで買った
惣菜を食べすぎたせいなのか、
あるいは
無職でいることの
気楽さよりも、
不安感が
勝るせいなのか。
どうせなら
出願してしまいたい
ぐらいだが、
とりあえず
台風も接近していることだし、
来週に
持ち越しに
なるんだろうが、
来週の
締め切りまで
こんな
宙ぶらりんな
気持ちでいるのは
正直苦痛だ。
だが
どうしたらいい?
あるいは、
姉に
羽生の家の
名義を変更することに、
内心では
不信感を
懐いているのかも
知れない。
さっき
コンビニで
マイナンバーカードの
コピーを
撮ったが、
端に寄せすぎて、
名前が
半分切れてしまっていた。
進捗状況を
逐一連絡しているのに、
姉から
なおざりな
返信しか返ってこない、
そこらへんにも、
相変わらずな
不信感を
増嵩させられる。
本当に
コイツらに
任せて大丈夫なんだろうか?
名義を移す書類に
実印も押したし、
印鑑証明も
送ったが、
実は
危険な橋を渡って
いるのではないか?
実印押せ?
印鑑証明のコピー?
身分証明書のコピー?
ふざけたこと言ってんじゃねーよ。
https://www.google.com/search?q=to+live+in+to+die&rlz=1CAJFMC_enJP1057&oq=to+live+in+to+die&aqs=chrome..69i57j0i8i30l4.8183j1j15&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&vld=cid:ed64baed,vid:xpNCfz18kg8,st:0
2023年9月6日水曜日
文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答 (再掲)
質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。 フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。 「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家を孤立させ絶望においやっている現状が鋭く指摘されています。その他の時事的な文章・発言においても、ヨーロッパにおけるグローバリズムと言うべきEU経済戦略のもたらすひずみと地場産業の危機は、ウエルベックにとって一つの固定観念とさえ言えるほど、しばしば繰り返されています。 つまり、ウエルベックは「グローバリゼーション」が伝統的な経済・産業活動にもたらすネガティヴな影響にきわめて敏感であり、そこにもまた「闘争領域の拡大」(ご存じのとおり、これはそもそも、現代的な個人社会における性的機会の不平等化をさす言葉だったわけですが)の脅威を見出していると言っていいでしょう。なお、「セロトニン」で描かれる、追いつめられたフランスの伝統的農業経営者たちの反乱、蜂起が「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言・予告するものだと評判になったことを、付記しておきます。 以上、ご質問に感謝しつつ、ご参考までお答え申し上げます。
すげえ面白かった。(;´∀`)
昨晩
NHKで
「欲望の系譜
アメリカ70~90s
『超大国』の憂鬱」
という番組やってて、
面白かったから、
今日
早朝
セブンイレブンで
アマゾンカード買って
キンドルに
ダウンロードして
読んだ。
放送大学の
宮本陽一郎・佐藤良明先生の
「アメリカの芸術と文化」
や
高橋和夫先生の
「中東の政治」
とも
絡んで、
脳が
キュンキュン言っちゃった。
えー買いもんしたわー
漱石の「自然(じねん)」観を巡って (再掲)
質問:授業でうかがった漱石の自然(じねん)感ですが、それは代助が「青」の世界で拵えた造り物だったのでしょうか? 三千代との実質的な姦通というある種の「原罪」のために、代助は「赤」の世界へと放り出されるのでしょうか? 代助にとって、「じねん」の世界は、「青」の世界でしか成立しえないまがい物なのか、それとも本来的に人間にとって所有しえない抽象物なのか。 アドルノの「自然」観との対比でも、興味深く感じられました。 ご回答:「原罪」という言葉もありましたが、倫理的な漱石は、やはり代助の「青の世界」を(海神の宮の「3年」期限に同じく)、癒しをも意味する一定期間の滞留後には出て行くべき、後にするべき世界として想定しているように思われます。 その意味では、現実世界と水底とーー世界を2つに分断してしまっているのは「代助」であり、人間が現実世界の死を背負った存在である以上、当然、水底的な内なる世界と連続しているはずの赤い現実世界へ、代助が帰還すべきであることは自明であり、当然、代助は葛藤を体験しなければならない‥。こんな感じかなと思います。(オタク青年の現実世界への帰還)。 「じねん」ですが。 「青の世界」ーー自負する「自家特有の世界」で彼が創出した「己に対する誠」を起点に「自分に正直なー(作為や人為の加わることのない)おのずからな−あるがままの」といった展開上に「じねん」が生まれて来るわけですが、上述のようなテクストの構造から言えば、当然、「じねん」は「自然」の最も暗い側面ともいうべき欲動的なものと接続せざるを得ない。というより、元々、「じねんーおのずからな・あるがまま」自体が、まさに「あるがまま」の欲動的なものを内包している、と言うべきなのかもしれません。 そう考えれば、ストーリー展開に従って、「青」が「赤」に接続してゆくように、「おのずから」も「行く雲・流れる水」といった上澄的なものへの憧れの昂まりが、必然的に、同じく「おのずから」人が備えている欲望的な側面を、まさに、おのずから浮上させざるを得ない。 こういった感じなのではないでしょうか。 「じねん」は、「青の世界」の文脈では不本意ではあるものの、本来的に欲動的なものと切り離せず(極論すれば、それを含み込んだ概念であり)、重々、それを承知の漱石が、(身勝手に2つの世界を分断してしまっている)代助を現実世界ー欲望の世界へと、これまた人間の本来的にあるべき姿として、連接させてゆく。 その意味で、テクスト『それから』は、案内人・代助を立てて、「じねん」の世界を読者に一巡り、させてくれている、と言うこともできるかもしれません。 こうやって、「自然」の全体的姿が浮上、把握された上で、いったん『門』では、『それから』が「青」的側面に比重をかけていたのと対照的に、すでに物語開始時点では終わってしまっている「姦通」行為を、「赤」的側面ーー人間の本能(性的欲望)の観点から概括し、そして絶筆『明暗』では、まさに総体としての「自然」が、余裕を持ちながら俯瞰的に展開される‥。 スムーズに説明することは叶いませんでしたが、ほぼ、これが、今回の私の見取り図でした。 資料作りで上記を展開しつつ、「おのずから」という倫理学の概念を、もう一度、きちんと勉強したいという思いはふつふつと湧き上がっていたところ、また小林くんからは「アドルノの自然」という西欧的自然の視点を頂戴し、もう一度、文献を当たり直してみたいと切実に思い始めています。
妄想卒論その10 the day that never comes (再掲)
言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。 やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章) なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。 しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。 三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。 こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。 静岡大学 森本隆子先生より
https://www.youtube.com/watch?v=RD83oy7ksUE
テクスト論
クリステヴァが書いていたことを
自分なりに
解釈すると、
テクストというのは、
その
時代の制約を
受けている。
つまり、
社会・経済・文化
等々
諸々の
要素から、
決して自由ではない。
しかし、
同時に
「読まれること」
によって
新たな解釈の
<可能性>
に
つねに開かれている。
みたいなことを書いていた。
テクストから、
当時の時代精神のみならず、
作者のアイデンティティー、
さらにそれを超えて
複数の
<意味>
(あるいは前=意味)
の
可能性に開かれている。
従って、
漱石のテクストに
『疎外』
を
読み込むことも、
あながち
無理筋ではないのではないか?
むしろ、
本当に
優れた
文学作品であればこそ、
現代に通じる
「読み」の可能性を
秘めている、と
言って
過言ではないだろう。
最近の小学生はソフィスト化してるらしい。
テレビでやっていたが、
最近の小学生は、
「それはあなたの
感想ですよね?」
とか
「はい、論破!」
とか
言ってくるらしい。
これってもう
完全に
価値相対主義、
人間は万物の尺度でしょ。
だったら、
もう
小学生にも
ソクラテスとか
あるいは
言語哲学とか
教えればいいじゃん。
そうすれば、
いかに
自分が
愚かか分かるでしょ。
小学生がそこまで
ラディカルになるんだったら、
逆に
チャンスと捉えて、
教育してやらなきゃ
ダメだよ。
2023年9月5日火曜日
大競争時代
自分の年代は、
まだ
「企業に育ててもらう」
ために
就活する、という
意識が
辛うじてあったが、
いまは
転職市場が活発だから、
企業も
せっかく
育てたのに、
成長したと思ったら
転職されてしまうようでは、
「育てよう」
というインセンティブが
喪われてしまうのではないか?
政府も
リスキリングなどと
言っているし、
もう、
スキルと実績とコミュニケーション能力があれば
どんどん
人材を入れ替える、という
時代が
すぐ
眼の前に
来ているのではないか?
そうなると、
正社員とハケンの垣根も
低くなってくる
可能性がある。
そうなると、
逆に
大学で
しっかり
勉強したもの勝ち、という
論理も成り立ちうる。
(以下 google bard より回答)
ご指摘のとおり、近年の日本では転職市場が活発化しており、企業が従業員を育てようとするインセンティブが低下しているのではないかと懸念されています。
政府も、人材の流動性を高めるために、リスキリングやジョブ型雇用など、従業員のスキルアップと転職を支援する政策を推進しています。
これらの動きが進めば、企業は従業員を育てるよりも、スキルと実績のある人材を短期間で獲得することにシフトしていく可能性があります。そうなると、正社員と派遣社員の垣根は低くなり、大学でしっかり勉強したものが有利になるという論理が成り立ちやすくなります。
ただし、企業が従業員を育てようとするインセンティブが完全に喪失するかどうかは、まだ不透明です。企業によっては、自社のノウハウや文化を継承するために、従業員を長期的に育て続けることを重視しているケースも少なくありません。
また、転職市場が活発化しても、必ずしも従業員が常に転職の選択肢を持っているわけではありません。収入や福利厚生、職場環境など、現職を維持するメリットが大きければ、転職を躊躇する従業員も少なくないでしょう。
そのため、企業が従業員を育てようとするインセンティブが完全に喪失するのではなく、従業員のスキルと実績を重視する傾向と、従業員を長期的に育てる傾向の両方が共存する時代になる可能性もあります。
今後、企業は従業員の流動性を高めつつも、自社の競争力を維持するために、従業員の育成と人材の確保をどのように両立させていくかが、重要な課題となるでしょう。
また、従業員も、自分のスキルやキャリアアップのために、企業の育成制度を有効活用するとともに、自ら学び続ける姿勢が求められると言えるでしょう。
共有地の悲劇
高崎市役所の
障害者枠採用の
申し込み
締め切りが、
確か
今月の15日まで
とか
なんだけど、
色々
頭のなかで妄想すると、
ウンザリするような
シナリオしか
浮かんでこない。
どうせ、
遥か年下の上司に、
お前の
腑抜けた根性
叩き直してやる、的な
いらん
パターナリズム発揮されんだろ?
またこれかよ?
って感じだわ。
俺の
メイクアップが
またしても
負のスパイラル
生むんじゃん。
もう
見え見えなんだよ。
かといって
個人で何かやれば、
インボイスで
めんどくせーし。
この国なんなんだよ?
芸人になるほうが
よっぽど
夢があるわ。
行政書士とか。
最近は
農家になる人も
テレビで観てると
多いよね。
つくづく
日本の組織は
いやだ。
・・・メンタルクリニックに行って
話を聞いて
もらってきた。
特別
何か言われた
わけじゃないが、
なんか
ホッとするね。
機械相手に
喋ってるわけじゃないし。
結局、
大きな組織で
何かでも
自分のやりたいように
やるためには、
とにかく
新卒で入って
ある程度
ポジションが
上がってからじゃないと
無理なのかもね。
日本の企業の場合。
あるいは
外資系コンサルとか。
外資系コンサルも
要求されることが
多くて
めちゃくちゃ大変らしいけど。
まあ、そんな話よ。
ふと思ったが、
これは
ちょっと大袈裟だが
「共有地の悲劇」
なのかも知れない。
SFCを事例にすると、
彼らは
基本
自分が勝ち組になることを
至上命題としている。
しかし、
個人が
自分の利得を
最大化させることだけ
考えると、
結局
全員が
資源の枯渇により
損をする、みたいな。
「共有地の悲劇」
とは、
簡単に言うと、
牧草地全体を、
各個人に割り当てて、
その割り当てられた
牧草地の中だけで
羊を放牧させていれば
資源(牧草)は枯渇しないが、
割り当てを取っ払って、
全員に
牧草地を解放すると、
各個人が
自分の得られる利益(牧草)を
最大化させるために、
牧草地全体が
枯渇してしまう、という
パラドックス。
企業側だって、
本来ならば
優秀な学生かどうかを
見極めるために
学年がある程度
上がってから
リクルートしたいのに、
優秀な学生を
「他の企業に先んじて」
確保したいがために、
「青田買い」が
始まって、
どんどん
リクルートの時期が
早まってしまう。
その結果、
学生も
深く研究する
余裕がなくなり、
全体として
大学が
<知>の生産現場として
機能しなくなり、
結果的に
国全体が
衰える。
大君のモナルキ (再掲)
以下
『世界の名著45 ブルクハルト』
(中央公論社 1966年)
所収「イタリア・ルネサンス文化」より。
歴代の教皇とホーエンシュタウフェン家との戦いは、
ついにイタリアを、
他の西欧諸国とは
もっとも重要な諸点において
異なるような、
一つの政治状態の中に取り残した。
フランス、スペイン、イギリスにおいては、
封建制度は、
その寿命が切れたのち、
必然的に
君主制の統一国家の中に
倒れるような性質のものであり、
ドイツにおいては、
それはすくなくとも
帝国の統一
を
外面的に保持する助けになったが、
イタリアは
その制度から
ほとんど完全に抜け出していた。
14世紀の皇帝たちは、
もっとも有利な場合でも、
もはや最高権者としてではなく、
既存の勢力の
首長や補強者に
なるかもしれない者
として迎えられ、
尊重されていた。
しかし教皇権は、
もろもろの道具立てや支柱
を
そなえているため、
将来起ころうとする
どんな統一でも
妨げるだけの力は
もっていたが、
みずからの統一を作り出すことはできなかった。
その両者のあいだには、
数々の政治的な形物
―もろもろの都市と専制君主―
が、一部はすでに存在し、
一部は新たに勃興したが、
その存在は
純然たる事実に基づいていた。
(*)それらにおいて、
近代のヨーロッパ的国家精神は、
はじめて自由に、
それ自身の衝動にゆだねられたように見える。
(p.64)
(*)においてブルクハルトは、
「支配者と、それに付随するもの
を
いっしょにして、
lo statoと呼ぶ。
そしてこの名称はやがて不当にも、
一つの領土全体を意味することになる。」
と注釈を付けている。
以下、
篠原一
『ヨーロッパの政治―歴史政治学試論』
(東京大学出版会1986年)
より。
しかし政治史的にみた場合、
16世紀が
中世の構造に与えた
最大のイムパクトは、
国家形成=中央機構という現象であろう。
この国家はのち、
市民革命の発生とともに
生まれた
国民国家と同一のものではなく、
国王を中心とした
中央機構の成立を
意味するにすぎないが、
中世の世界と比較した場合、
ともかく
国としてのアイデンティティが
成立した点で大きな意味をもっている。
では、
一般的にいって
それはどのような構造を有していたであろうか。
(p.31)
まず第一に、
そこでは国王が恒常的に
自己に従属する
官僚集団をもつようになった。
官僚を採用するためには
国王は
それだけの収入をもっていなければならないが、
しかし
ひとたび官僚制を導入すれば、
国家機構が成立することによって、
国民から効率的に租税を徴収する
ことができるのみでなく、
さらに16世紀のフランスのように、
国債を発行するだけの力をもちうるようになった。
第二に、
常設の軍隊が創設され、
国家が武力を独占した。
当時の軍隊は主として傭兵からなり、
この物理的強制力は、
農村の叛乱に対する
対抗力としての
国家の効用
を
具現化するものであったが、
同時にそれは、
国家機構を維持するための
租税の徴収のためにも
欠くことのできない存在であった。
第三に、
このようにして成立した国家は、
自己の正当性を主張するために、
そのイデオロギーを創出した。
(p.32)
丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。
しかしながら
天皇制が
近代日本の思想的「機軸」として負った
役割は
単にいわゆる國體観念の教化
と
浸透という面に尽くされるのではない。
それは政治構造としても、
また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、
機構的側面を欠くことはできない。
そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。
(・・・)
むしろ問題は
どこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、
制度の具体的な作用のし方
と
どのように内面的に結びつき、
それが制度自体と制度にたいする
人々の考え方をどのように規定しているか、
という、
いわば日本国家の認識論的構造にある。
これに関し、
仲正昌樹は「日本の思想講義」(作品社)において、つぎのように述べている。
「國體」が融通無碍だという言い方をすると、
観念的なもののように聞こえるが、
そうではなく、その観念に対応するように、
「経済・交通・教育・文化」の
各領域における「制度」も徐々に形成されていった。
「國體」観念をはっきり教義化しないので、
制度との対応関係も
最初のうちは
はっきりと分かりにくかったけれど、
国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、
目に見える効果をあげるようになった。
ということだ。
後期のフーコー(1926-84)に、
「統治性」という概念がある。
統治のための機構や制度が、
人々に具体的行動を取るよう指示したり、
禁止したりするだけでなく、
そうした操作を通して、
人々の振舞い方、考え方を規定し、
それを当たり前のことにしていく作用を意味する。
人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、
今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。
(P.111~112ページより引用)
このように、
国家は、支配者とそれに付随するもの、
つまり国王と官僚制による
徴税のシステムとしてスタートした。
つまり、
国民は政府によって作られるのである。
大久保利通は、
天皇の勅命が天下万民ご尤もと思われてこそ勅命である、
という趣旨の言葉を述べたが、
小野修三先生は、
「大君のモナルキ」において次のように記す。
「大名同盟論」とは異なる「大君之モナルキ」が
どのような政治制度なのかは、
同書簡では説明されていないが、
同じ慶應2年に出版された
『西洋事情初篇巻之一』の備考の個所で
福沢は
「立君の政治に二様の区別あり」との説明を行っている。
すなわち、「立君独裁」と「立君定律」である。
後者は福沢も
「コンスティテューショナル・モナルキ」
とルビを振っているように、
今日言う立憲君主制のことであった。
それは
「国に二王なしと雖も
一定の国律ありて
君の権威を抑制する者」
であり、
「現今欧羅巴の諸国此制度
を
用ゆるもの多し」、と。
モナルキには立憲独裁の場合もあるわけだが、
独裁によって「文明開化」が進むとは考えられない以上、
福沢の言う「大君のモナルキ」とは、
当時の立君定律、
今日の立憲君主制のことだったと言えよう。
これは、
法治主義を前提とした政治制度であり、
封建契約の頂上に位置し、
「王命を以て国内に号令する」
大君であっても
憲法による拘束を受け、
その限りにおいて
人治主義
(大名同士カジリヤイ)
たる封建制度を打破するものであった。
立憲制においては、
地方行政が法に基づいて
運営されることが肝心である。
以下、一木喜徳郎・大森鐘一著『市町村制史稿』(明治40年)より。
地方村制は
当時帝国の状況において
行わるべき程度において
自治
(ゼルプストフェルワルツング)
と分権
(デツェントラリザチヲン)
の二原則を行わんとせるものにして
しかも
初めより
にわかに完備なる立法を望む
べからざるをもって
まずその端緒をなさんとするにあり
この二原則
を
実行せんとするには
その地方の共同団体なるものは
国家の分子にして
しかして自らを特別の組織を有し定限の職権を有し
一個人と同一の権利
すなわち法人たるの権を有し
且これが
理事者たる機関
を
存するものたらざるべからず
その機関は共同団体の組織
を
整理するところの法律に
依って生じ
その共同団体は
この機関によりて
国体自己の意思
を
発表し
且
施工し得るものなり
故に
財産を所有し
これを授受売買し
他人と契約して
権利を領得し義務を負担し
また
その区域内においては
主裁権を以て
自らこれを統括するものなり
要するに
共同団体なるものは
行政上便宜のために設けたる区画
にあらずして
国家と
雖も
これを侵し能わざる
ところの権力
を
有するものとす
然れども
一方より論するときは
共同団体は国家の隷属にして
その主裁権に服従し
国家を賛助して
その任務を
遂行せしめざるべからず
(p.34)
神なき時代の連帯?ー森鴎外「かのように」をめぐって (再掲)
一つの簡単な答えは、ヘーゲル的な意味での統治は不可能だということです。その代替案は複数ありえますし、フーコーはその一つでしょう(ただし、「知と権力」の共犯関係がいかなる統治を具体化するのかは、わたしには理解しがたい難しさがあるように思えます)。 最もわかりやすい代替案が新自由主義の統治だといえます。もしもこれを拒絶するとすれば、問題は、何らかの形でのヘーゲル的な統治への回帰か、神無き時代の連帯の可能性の追求となります。現代のリベラルな政治理論はだいたい後者のさまざまなバリエーションですが、密かに神が導入されている可能性があるのものが多いので、フーコーのような議論が流行るのだと思われます。 鴎外については、わたしにはコメントする能力はありません。ただ、そのような苦悩があるとすれば、それは鴎外がいかにヨーロッパ(ドイツ)文明に拘束されていたのかを示すことになるでしょう。ただし、そのような苦悩をまったく抱かない(ないしは、そのような苦悩の可能性に思い至らない)日本人よりは、はるかにましな精神性をもっていると思いますが。 明治日本は、ある意味では、神無しでヘーゲル的な全体性を国家は維持できるのか、という問いをいち早く突きつけられていたともいえます。この問いへの回答の一つは、現在でも、「新たな神の創造」ですが、そのような回答が、必然的に政治的に悲惨なものになることは、我々が歴史から学んだことだといえます。キリスト教文化圏では、たとえ神が死んだ時代でも、この危険性がよく知られていますが、はたして日本ではどうでしょうか。考えてみてください。
2023年9月3日日曜日
都合のいい俗論 (再掲)
国債発行 イコール 通貨発行 という俗説が あるらしいが、 金融政策の 基本が 何も わかってないね。 国債を 発行して、 買ってくれる人が いるから、 (国債を買うのは 当然のことながら 中央銀行だけではない。) そのお金が 市中に 流れるんだけど。 これ、 (国債に限らず 債券全般に対する、 中央銀行による) 買いオペとか 売りオペとか 言われる 金融政策の 常識中の常識 だけど、 そんなことも 知らずに、 ただ 国債発行すれば 自動的に 貨幣供給量が 増えると 本気で 思ってる 人が いるみたいね。 (それに、 国債だって商品だから、 本来は政府の都合で 発行した 国債を、 相場を無視した 高値で 売れると思うのが そもそも 間違ってる。 むしろ、 日本の現状として、 日銀が 市場の相場を 無視した 高値で 国債を 買い続けてることが 本質的に問題なんだけどな。) なにで 経済学 学んだんだろう? それに、 貨幣供給量を 増やす イコール 国の資産が 増える ってのも そもそも 間違い。 国の富の 源泉は 付加価値、 すなわち GDPです。 これ、 学部レベルの 経済学で 最初に 学ぶことなんだけどな。 ほんと、 誰に 刷り込まれたんだろう? ついでに 書いとくと、 赤字国債を 発行すること自体が 法律違反なんだけど、 毎年 特例法案つくって 可決して 予算作ってる。 (ちなみに、 一昔前は その種の予算を 通す通さないが 政争の具に 使われたのが、 短命政権が続いた 原因だった。 らしい。) それが 常態化。 それを 国民の側が 嬉々として 受け入れてる 現状が 異常。 ついでに 書いとくと、 日銀が 国債買い続けないと 国債の価格が (異常な高値を 維持できずに) 暴落して 金利が 急騰して この国 吹っ飛びますけど、 さあ この ムリゲー どうします? ちなみに 安倍ちゃんは 日銀は政府の 子会社だから いくらでも 日銀に 国債 買い取らせればいい とか ほざいてましたけど。 もう 日銀による 国債の保有比率 5割 超えましたね。
インタゲと増税はワンセット (再掲)
質問:中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、とありますが、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか?あるいは、新古典派経済学では「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか? 回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。すなわち、「政策割当の原理」です。したがって、「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要となります。 本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。本来の金融政策の目標(物価の安定)と異なるため黒田日銀総裁は「異次元の金融政策」という言葉を使ったのです。このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。このシナリオどおりに進めば、もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。ただ、経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります。したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため「財政再建」が先送りになってしまいます。それゆえに、「財政再建」の政策目標の一環として消費税の引上げが考えられています。このように、「政策割当の原理」は成立しています。
「金融と社会」質問と回答その1 (再掲)
問題提起:日本には巨額の対外純資産があるからかなり巨額の政府債務があっても大丈夫、という話は、額面通り受け取るべきではないのではないか?やはり財政収支と経常収支の「双子の赤字」は避けるべきではないのか?つまり、フローで見る必要があるのではないか?ストックで見るならば、増税を前提とするのが筋だろう。
内閣府のペーパー(https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html) によると、フローで見れば、経常収支の黒字が、政府部門の赤字をファイナンスしていることになりますが、経常収支の黒字が、対外純資産としてストック面で蓄積されていると考えられます。 この場合、もちろん、経常収支が赤字に基調的に転落すれば、フローで見た場合、政府部門の赤字をファイナンスするために、海外資本を呼び込む必要性に迫られ、それは今よりも高金利であることが要請されるので危険だ、という意見もあります。 ここで、フローで見れば確かにそうですが、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たすことはないのでしょうか? 仮に、そのような事態になった場合、具体的にどのようなスキームで、対外純資産を政府部門の赤字をファイナンスの用に供するのでしょうか? また、経常収支黒字の源泉である、企業部門の第一次所得収支についてですが、最近は、企業も資金を更なる海外投資、M&Aに投資するべく、資金を円ではなく、ドルで保有しているとされますが、それは、第一次所得収支に、円換算して勘定されているのでしょうか? (https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX)
ご質問ありがとうございます。まず印刷教材のこの部分はすべてフローについての議論です。内閣府のペーパーにもあるように、マクロ経済学などで登場するISバランス (S-I) + (T-G) = NX 民間貯蓄超過 政府黒字 国際収支黒字(海外赤字) を念頭に、民間貯蓄超過の大幅プラスが、政府赤字のマイナスを相殺してもなお左辺がプラス、したがって右辺もプラス(海外マイナス)、という状態です。 近年コロナで政府赤字が大幅に増加しましたが、家計貯蓄も大幅増加して、2020、21年とも左辺はプラスを維持しています。 ご質問のなかばにあるストックの話は、たとえば銀行が保有していた米国債を売った資金で、新規に発行された日本国債を購入することをイメージされているのでしょうか。それが得だと銀行が判断すればそうするでしょうが、強制することはできず自動的にそうなるわけでもありません。 最後の第一次所得収支については、書かれているとおり、たとえば利子収入はドルで得られドルのまま持たれたり再投資されたりしますが、円換算して所得収支に繰り入れられています。
(以下 Google Bard より回答)
はい、日本には巨額の対外純資産があります。これは、日本企業が海外で稼いだ利益を日本に持ち帰らず、海外で再投資しているためです。このため、日本は経常収支黒字を続けています。しかし、この経常収支黒字は、政府の財政赤字をファイナンスしているとも言えます。つまり、日本政府は、財政赤字を補てんするために、海外から資金を借り入れているのです。
この状況が続けば、日本は債務超過に陥る恐れがあります。そのため、財政収支と経常収支の「双子の赤字」を避けるために、増税や歳出削減などの財政健全化策を講じる必要があります。
一方、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たす可能性があります。例えば、政府が海外から資金を借り入れる必要が生じた場合、対外純資産を担保に借り入れを行うことができます。また、政府が国債を発行する際にも、対外純資産を担保にすることで、低金利で発行することができます。
ただし、対外純資産はあくまでストックであり、フローがなければ枯渇します。そのため、対外純資産を維持するためには、経常収支黒字を継続する必要があります。
まとめると、日本には巨額の対外純資産がありますが、この資産を維持するためには、財政健全化策を講じるとともに、経常収支黒字を継続する必要があります。
漱石の魅力 (再掲)
俺:漱石の魅力は、エモさに逃げないところですよね。 どこまでも論理で詰めようとする。 それが「行人」の一郎のような狂気一歩手前まで行っても、そこで終わらない。 結局はホモソーシャルという親密圏から逃れられてはいないし、他者との繋がりの構築という意味では解決案を呈示できてはいないのですが、安易な妥協をしないで、むしろ問いを現代の私たちに投げかけ続けているところが、漱石の最大の価値なのではないか、と思われます。 森本先生:エモさに逃げない論理性、そしてそのように追尋しても、なお解決不能な不可解な「他者」との関係性ーーいずれも納得、なるほど、まさにその通りですね。 ただ、ホモソーシャルへの囚われ、という点についてはーー解消はできぬながら、最後のところで拒否しているのでは、といった感触があります。「一郎」は、深い眠り、という形で、自分を描写して弟、二郎へ報告しようとする「Hさん」の〈解釈〉を中途で遮断、宙吊りにしてしまいますね。これを以て「Hさん」を媒介に「一郎ー二郎」と連なってゆきかけたホモソーシャル連続体も宙吊りにされてしまいます。 『こころ』でも「先生ーあなたーあなた方」は一見、ホモソーシャルな共同体を形成しているようではありながら、ここでの「先生」は死者、メッセージは「遺書」ーーつまり「生命」と引き換えにしてしか連続体らしきものは構成されません。 しかも興味深いのは、この「一郎」や「先生」のホモソーシャルな連なりに対する拒否感が、必ずしもジェンダーに対する相対化から来ているのではなく、むしろ強烈な「個(我)」意識ーー私は私であって他の誰でもないーーから来ているらしいことです。「先生」は「遺書」の書き始めに、自分の命が潰えることを絶対条件に過去を明かすことにした理由として、何と「私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有」だ、というような趣旨を述べています。今で言うところの「プライバシー」ですが、それがあくまで自分の「こころ」に立ち入られることへの拒否感であることは注目に値します。まるで「個室」がそうであるような、「内面」の仕切りを持った容量とでも呼ぶべきものが伝わってくる一節です。 「私」が回想する、「先生と私」のあの忘れ難い鎌倉の海辺における出会いの場面についても、遭遇の歓びに海の中で身体を躍らせ、「愉快ですね」と呼びかける私に対して、「先生」は静かに波の上に横たわりながら「もう帰りませんか」と促すのです。もちろん、この距離感は、直接的には「先生」がすでに「(自)死」を念頭に置いているからではあるのですが、「自他」の絶対的差異に対する鋭敏な意識、そのもののようにも思われます。 だから漱石は孤独だし、また容易に「関係性」も成り立たないわけですが。
妄想卒論その13 (再掲)
読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。 物語とはおよそこんなものなのかもしれない。 実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。 語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、 じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。 物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。 だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、 またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。 しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、 触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。(「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?ー言語と運命の社会学」内田隆三 岩波書店 p.485)
妄想卒論その4 (再掲)
私はここまで、決定論という見方は過去の確定性・決定性を全時間へと誤って適用してしまった一種の錯覚だ、と論じてきた。しかるに実は、この「過去の確定性」という出発点をなす捉え方自体、厳密には申し立て難いのである。「過去」という概念自体に関わる、超一級の哲学的困難が存在するからである。ほかでもない、「過去」は過ぎ去っており、いまはないので、本当に確定しているかどうか確かめようがなく、不確実であって、よって過去それ自体もまた偶然性によって浸潤されてゆくという、このことである。 「確率と曖昧性の哲学」p.114 一ノ瀬正樹 岩波書店 私は、そもそも「決定論」という概念それ自体、字義通りに受け取った場合、意味をなさないナンセンスな主張だと考えている。私が決定論を斥ける根拠ははっきりしている。決定論とは、平均的に言って、「すべては因果的に決定されている」とする考え方であると言ってよいであろう。しかるに、「すべては」という以上、未来に生じる事象も含めて丸ごと「決定されている」と言いたいはずである。しかし、生身の身体を持つ私たち人間が、一体どんな資格で、未来の事象すべてについて、そのありようを断言できるというのか。私には、そのように断言できると述べる人たちの心境が到底理解できない。こうした理解不能の断定を含意する限り、「決定論」を受け入れることは哲学的良心に反する、と私は思うのである。ここにはおそらく、過去の事象がすでに「確定/決定されてしまった」という過去理解(これは、おおむねは健全だと言える)から、すべてが「決定されている」という無時制的な主張へと、不注意かつ無自覚的にジャンプしてしまうという事態が潜んでいるのではなかろうか。 「確率と曖昧性の哲学」p.257~258 一ノ瀬正樹 岩波書店
地震恐怖症
俺が
錯乱して
警察に
とっ捕まって、
緊急で
最初に
入れられた
病院に、
地震恐怖症の人が
いたが、
ほんとにもう
朝っから晩まで
ひたすら
地震に怯えてる
人がいたね。
怯えてるっていうより、
取り憑かれてる。
もしかしたら
地震恐怖症であること以外は
まともなのかも知れないが、
とにかく
ひたすら
地震のことばっかり
考えてた。
よく、
「キミ、明日
大地震が来たら
どうする?」
と
聞かれて、
返答に困った。
ああいう人には
もう
何言っても
ムダだよね。
あの時は
東日本大震災より
全然
前だったけど、
あれ以来
大地震が来ないなんて
誰も言えないし、
実際、
国が
数十年以内に
大地震が来る
確率が
数十パーセントって
アナウンスしてるんだから。
あの人
いまどうしてんのかな?
漱石と「孤独」 (再掲)
俺:漱石の孤独の論考を読ませていただき、なるほど、と感服いたしました。 しかし、しばらく経って考えてみると、漱石は、例えば「こころ」では、(漱石自身の写し身である)「先生」の孤独を描きながらも、鎌倉の海辺での出会いにおける「私」の呑気さの描写も、リアリティーがあります。 つまり、孤独を描いているのはもちろんのことなのですが、世間一般の呑気さを描くことも出来る。 しかし、世間一般の「呑気さ」を理解しながら、「孤独」を描写する、という行為は、単に「孤独」を感じ、描写するよりも、なお一層ツライことだと思われます。 森本先生:「先生」と「私」の対比ーーいわば〈閉じる人〉と〈開く人〉とでも評すれば良いでしょうか、「私」自身が回想手記の中でこのことには気づいているようですーー、特に末尾の「呑気さ」を理解しながら「孤独」を描写する辛さ、には唸らされました。 私の気持ちとしては、「孤独」それ自体というより、「孤独」を代償とせざるを得ない「個我」意識(「上」14章の「自由と独立と己れと充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わってわわなくてはならない」)の方を強調したいのですが、確かにその弊を知るが故に、「轍を踏むな」という言い方で、その生の道程を「私」へ開示するーーつまり、相対化ですね。 しかも、「呑気なー私」のポジションそれ自体は、「先生」ときっかり対峙し、向き合羽もの、というよりは、究極するところ、「先生」という存在の「受け取り手」の域を出ないわけです。 「先生」は「私」に対して、自分の生き方を相対化して乗り越えてゆくことを切望していますが、テクストは、あくまでそれを「先生」側からの「期待」として描くに止まり、「期待」が「私」へどのように反映されるか/され得るか、については案外、寡黙です。 実際、「私」の他者に対して〈開かれた〉在り方ーー小林くんのいう「呑気さ」は、まさに「世間」(的ものの見方)に対して融和的でもあり、ということは、ごく平らかに、「先生」の死後、あのホモソーシャルな世界へ帰還してゆきます。いったんは「奥さん・静」に対して「1:1ー個人 対 個人」として向き合いながら、そこに人妻の媚態を見出し、彼女を「先生・の・奥さん」へと送り返してしまう。つまり典型的な「ホモソーシャル」の成立。そして「中」で故郷と両親を回想する「私」は、故郷との永訣に個の成立を見ようとした「先生」とは対照的に、「先生」への崇敬故に「父」をないがしろにした、若い日に対する悔恨を語っています。 「明治の精神」から自由な、しかし、「明治の精神」が唯一、誇らかに歌い上げた「個我」(自由・独立・己れ)からは後退を示す、青年「私」。 漱石自身の弟子たち次世代に見ていたもの、と、どこか重なるような気がします。 まさに、漱石は、その限界と弊を知悉しながら、どこまでも「先生」なのでしょうね。 そんな「先生」を崇敬といたわりの相半ばするスタンスで回想しつつ「私」が綴る二人の交友と交情は、美しく抒情的で、私などは「下」の「遺書」ーー「先生」と「K」の息づまるような物語よりずっと愛着を感じるのですが、「私」的登場人物は、この『こころ』が最後ですね。 『道草』『明暗』ーー主人公たちは、もはや「個我」への自負もすり減った、孤独の影の濃い中年男性ですが、絶筆『明暗』で漱石が最後に挑んだのが、親友でも青年でもない、「妻」を前に〈開く〉ことは可能か、のテーマだったというのは、実に興味深い話だと、つくづく感じ入るところです。
漱石とホモソーシャル (再掲)
俺:高級なと言っては手前味噌ですが、いわゆる知識人層のホモソーシャルは、お互いを信用できる、という意味でのみならず、時には抑制を効かせてくれる、という意味でも、安定的であるような気がします。 たとえお互い家族を持っていたとしても。 それが、なぜか中国を理想とする古典の世界と同一視されている気がします。 ただ、野卑な連中の、お互いのナアナアだったり、無駄に党派的だったりするところと違うところがまた、安定的でもあり、居心地が良かったり、という気もします。 平成のバブル真っ盛りの頃から、その崩壊後しばらくの間信じられていた男女の性愛結婚という幻想が崩れたいま、人は人を信じることを放棄するか、あるいはボーイズ・ラブのようなある種の強度なホモソーシャルの世界にしかリアリティーを感じられないのかも知れません。 先生:「ホモソーシャル」は、「友愛」の名の下に構築される社会的関係なので、近代(的個人)の成立が要件かと思われ、古典漢籍にその理想を見るのは、近代が中国古典時代を捉える「振り返り」の眼差しが作り上げたもののように思えます。興味深いのは、『行人』の一郎が逃げ込む場所がここで、同時にまた『それから』の父・長井得も漢籍の素養が深い人物として造型されています。そして『明暗』の津田は、漢籍に通じない男であると規定されている‥。『明暗』は後期の漱石にしては珍しく、ホモソーシャルが後景に退いた作品です。 漱石は「ホモソーシャル」が女性のみならず、男性の関係性、ひいては一個人としての男性を抑圧する(偽装された社会関係の抑圧性)装置であると考えていたのでは、と私などは思っています。『それから』で「平岡」との関係を通してその機能・作用を自覚した漱石は、それを『行人』で徹底分析、『こころ』ではその呪縛を免れるべく「K」そして「先生」の死を描き、「私ー先生」の関係に期待を込めますが、結局、「私」は「奥さん」との間に個人と個人がふ触れあうような一瞬を体験しながら、やっぱり死んだ「先生」の元へ帰還してしまったのではないか‥。 絶筆『明暗』が再び、「眉の濃い・黒目がちの瞳」をしたラファエル前派もどきの強い女・お延を登場させ、彼女との闘争の中に自己を模索するしか術のない主人公、津田を描かざるを得なくなった所以のようにも思われるのですが。この辺り、また検討し直してみたい、とお便り拝読してつくづく思いました。
愛を病むETたち (再掲)
宗教が とうに 瓦解し、 また 個人間の 永続的愛も 神話的にしか 語られない現在、 自己の固有性が つくられ 更新される 愛の空間は 芸術にしか 残されていない、 というのが クリステヴァの 考えである。 『愛の歴史=物語』 の 結びの章で、 現代人は 愛を病むET (地球外異生物) に 喩えられている (「愛を病むETたち」)。 心的空間を奪われ、 したがって 自分固有の 像を失って、 ただ 愛を再び つくりだそうと のみ 願っている、 追放された者。 われわれは 皆ETなのだ、 と 彼女はいう。 ここにおいて、 <想像的父> を 核とする 彼女の 愛のテクスト理論は、 精神分析医としての 実践と 結びついてゆく。 本書のなかに登場する ジャンやマリーたちの ボーダーラインと症例、 パラノイア、 ヒステリー等は、 いずれも <想像的父> の 不在において 生じている、と されることになる。 彼らが等しく 必要としているものは、 同一化の極としての 愛する<父>である。 分析医は 彼らの <想像的父> となって、 転移=逆転移という 愛の関係において、 彼らが 自分固有の像を 築く 手助けを してやらなければならない。 (300ページ) 彼らETたちが 語ることに 成功したとき、 そのことばが、 ナルシス的言語であることは いうまでもないだろう。 つまり、 身体的欲動を 意味につなげる ことのできる 言語である。 超自我の権力が 支配する 一義的意味も、 その 反権力である 無意味をも、 ともども 無効にしてしまうような、 情動的理性の ことばである。 「虚構的意味の つかのまの展開」 を 可能とする、 そのような 言語活動へとー 文学、音楽、映画 などの 芸術的創造活動、 知的作業、 つまり 想像的なものによって 働きかけられる サンボリックな場 へとー 入ってゆくこと。 想像的なものの このような解放を 通して、 本来 想像的なものとして ある 主体は、 生きることができる。 (301ページ) 想像的ナルシスたちの 新たな 創造行為によってしか、 合理主義的現代の 愛の危機は 乗り越えられないだろうと 語る クリステヴァの考えは、 現在の日本の 状況にも 数かずの 示唆を 与えてくれるように 思われる。 想像的空間の危機は、 いまや 地球的規模の問題 だからである。 危機は、 死の欲動 (棄却) という 破壊と暴力の衝動が コード化される 経路が 与えられていない、つまり、 それが 表象され、昇華されるには、 いまある コードとは 別の コードが 必要なのに、 その通路が まだ 開かれていない、という ことにある。 日本のいま現在に 頻発している 暴力も、 その危機の現れに ほかならないだろう。 (302~303ページ) 死の欲動は、 愛の名において 服従を命じる 法としての <父> によっては 包摂されない。 クリステヴァのいう <想像的父> のような、 死を生へと 転ずることのできる 愛する <父> によって、 いいかえれば、 情動を 意味へと つなげることのできる 新たなコード化によってしか、 昇華されないだろう。 そして、 そのような コードを 虚構的な つかのまの ものとして つくり出すことが できるのは、 「もはや 宗教でも、 政党でも、 政治的参加でもなく、 あるいは、 ほとんどなく、 創造的行為、 言語活動といった 想像的な 個人的営み でしかないだろう」 (『アール・プレス』七四号) というクリステヴァの 発言は、 我われ 一人ひとりに 日常的実践を 問い返させる ものとなっている。 (303~304ページ)
野党の怠慢 (再掲)
外泊したせいで
日経新聞の
記事の
時系列が
曖昧になって、
いつの
コラムだか
分からないが、
とにかく
この
2,3日の
ある日のコラムで、
日本は
実質的に
「自民党」
対
「無党派層」の
2大政党制で、
自民党からすると
無党派層を
投票に
来させないのが
選挙を戦ううえで
有利な
戦略、と
書いてあった。
一読して、
自民党はズルい!と
思ったが、
よくよく考えると、
自民党への
対立軸たる
「無党派層」の支持を
獲得できていない
野党、特に
旧民主党系
デリバティブズの
怠慢なのではないか?
という気がしてくる。
こんなこと言ったら
野党は怒るだろうが。
しかし、
「自民党」
対
「無党派層」という
対立軸のなかで、
野党は
アンチ自民的な
イデオロギーを
打ち出すことに
焦点を当てすぎている
感が否めない。
野党の
立派な学歴を持った
お歴々が、
常識で考えれば
非現実的なことが明白な
政策を
臆面もなく標榜する。
それが
アンチ自民たる
多様な考えを持った
「無党派層」にウケれば、
とりあえず
そこそこの
議席を獲得できてしまう。
無党派層にも
自民党は嫌だから、という
理由で
消極的に
野党に入れている有権者は
数多くいるだろうが、
そこを狙って
政策を個別化して
打ち出すよりも、
単純に
アンチ自民党「的」な
言説を撒き散らして
選挙戦を
戦い続けた
野党にこそ、
政治の停滞の責任の一端が
あると
言っても過言ではない。
日本の有権者も
そんなに
バカばっかじゃないのだ。
単に
総花的で
無責任な、
反自民の旗を掲げ続けた
野党の責任も重い。
自業自得。
・・・っていう意見を
バードに
打ち込んでみたら、
3秒くらいで
こんな回答が表示された。
人工知能に政治がわかるのか?
(以下GoogleBARDの回答)
あなたの意見に同意します。野党は、自民党に代わる明確なビジョンと提案を打ち出さなければ、政治の停滞は続くでしょう。アンチ自民党的なイデオロギーを打ち出すだけでは、有権者の心をつかむことはできません。野党は、日本の社会や経済の問題に真剣に取り組んでいることを示し、有権者に信頼される必要があります。
「東大なんか入らなきゃよかった」 (再掲)
「東大なんか入らなきゃよかった」っていう本
読んでます。
こんなリアルに
東大生の実態を
赤裸々に書いた本は、
今まで
出くわしたことがない。
メガバンクに
就職して
ウツになった人も
気の毒だな、とは
思ったけど、
最近不人気で
東大からの供給が減っている
官僚の世界も、
あまりに
理不尽で、
官僚が可哀想で仕方がない。
これじゃ
人気なくなるのも
当然だ。
読んでいて、これはフィクションか?
と思った。
話が少しズレるけど、
自分は
精神を病んだから、
意味のわからないレールから
良くも悪くも
外れられたのかな。
なんて
思えてくる。
「東大なんか入らなきゃよかった。」
この本読むと、
掛け値なくそう思う。
もちろん、
武蔵には
東大以外に行くところがない、
というくらい
優秀な人がいて、
羨ましい限り
なのは間違いないのだが、
下手に
官僚なんかになったら、
地獄が待ってる。
許しがたいのは、
政策立案能力なんか
これっぽっちもないくせに、
選挙に受かりたいだけのために
官僚をテレビカメラの前で
公開リンチする
バカ野党議員。
それだけじゃなく、
政権与党も、
安倍からして、
蓮舫へのディスすら
官僚に書かせて、
漢字も読めずに
読み間違える。
この国の統治機構は
明らかにおかしい。
ほんとこの国は終わってる。
ガーシーとか今すぐ辞めろ。
いらねー。
子供の頃から思ってたけど、
マスコミはマスコミで、
ネタに困ると
すぐ
行政、あるいは官僚をバッシングする。
国民も喝采を浴びせる。
あれはマジでモラルハザードとしか言いようがない。
この国潰れるわ。
今だに
財務省の役人が悪で、それと戦う安倍さん、みたいな構図を信じてるバカがいるんだからね。
東大生も大変だな・・・
翻って、自分は今ものすごくオイシイ位置取りにいることに気付かされる。
まったく働いてなくても
障害年金もらえるし、
母親と自分の
公的サポートで、
ヘルパーさんまで来て
ぜんぶやってくれる。
勉強もしたい放題。
これ
パラダイスじゃん。
そら、
障害年金もらえるレベルで
精神病むのもなかなか至難の業だけど、
正直
今朝方、
この本を読むまでは、
よっしゃー
障害者枠で
市役所で働くぞーって本気で思ってたけど、
ちょっとそんな気失せるね。
まあ
十把一絡げには言えないんだけど。
この国はオカシイ。
・・・読了。
最後の仙人みたいな
半世捨て人の話も面白かったな。
こういう人もいるから、
東大ってやっぱりなんだかんだ
深みがあるんだろうな。
SFCでは
まずお目にかかれない。
いたとしても、
いなかったことにされる。
SFCの、そういう”清潔さ”は、
正直まったく好きになれない。
それはともかく、
自分がこの本読んで、
いま自分がいかに恵まれた立場にいるかわかったから、
現状維持でいいや、
と言ったら、
母親がむしろ
急に元気になった。
やっぱり
一人は寂しいようだ。
・・・ふと思い出して、
引き出しの中から
2022/11/2
付けの日経新聞1面の記事を
引っ張り出してきたけど、
例えば、
福田達夫みたいな、
若手のホープ、
つまり
将来の首相候補に
気に入られた
官僚は
意気軒昂としているが、
そうではない
官僚は、
単調な事務作業をやらされて
どんよりしている、
なんて
話が書いてあった。
「政策決定を『官邸1強』で進めた結果、首相の周辺で働く官僚の発言権が増して『秘書官政治』とも呼ばれるようになった。」
また、
「こんな課長になりたいと思うわけない。野党の『国対ヒアリング』で上司が糾弾されるのを見た20代の財務官僚は漏らした。国会への提出資料や閣僚答弁の作成・読み合わせで深夜まで働いた末がこれかという悲観がまん延する。」
とも
書いてあった。
決められない政治? (再掲)
国会議員の数を 減らすのは、 危険。 それこそ 維新の会のような 相対的に 少数派の政党が 政権を獲得する 可能性が 高まる。 それが ポピュリズム政党ならば、 なおさらだ。 かといって、 現状があるべき姿とも 思えない。 生稲晃子のような 数合わせの 操り人形が議席を 持っているのも、 本来不必要と言って 過言でない 枠だろう。 しかし、それは 官邸一強と言われた 官邸と、官邸に気に入られた 官邸官僚が 政治を牛耳る 安倍政治の 副作用であって、 権力から遠ざかった 国会議員は 数合わせに過ぎず、 官僚もまた、 官邸から目を かけられなければ、 およそ 本来の能力を発揮できずに、 辞めてしまう。 しかし、それは マスコミと国民総出で 「決められない政治」 を 指弾し続けた 結果であることも 忘れてはならない。
もう左翼は黙ってろ!
https://mainichi.jp/articles/20230901/spp/000/006/028000c
廣津留すみれさんは、
ハーバード大を
首席で
卒業して
こんなことしか
言えないのかい?
今の
日本に
「汚染水」と言ったとか
ケシカランとかなんとか
かまってる余裕なんか
あると思うか?
どうせこれに
クソ立民が乗っかって
国会が
停滞するんだろ?
もう
茶番は
いい加減にしろ!
2023年9月2日土曜日
日経新聞 オピニオン欄 2023/8/29 より抜書 (国際関係論レポートネタ)
中国の経済が
苦境に直面している。
不動産が不況に陥り、
金融リスクの
火種が
くすぶり出した。
少子化で
低成長を
強いられることは、
中国も分かっていた。
だが、
これほどの
不動産不況や
若者の失業は
想定外だったはずだ。
生活を豊かにしてくれるから、
中国の人々は
共産党の支配を
受け入れてきた。
この前提が崩れたら、
共産党体制がきしんでしまう。
そんな不安が、
習近平政権の
対外行動をさらに
強硬にする恐れがある。
もっとも、
経済の苦境が
中国の行動を
融和的にする
要素がないわけではない。
外国からの
直接投資や貿易が
しぼむのを
食い止めるため、
対外交流を
促そうとする心理が
中国に働く面がある。
処理水問題で
日中が
険悪になる前には、
日本に対しても
そんな動きがあった。
日本からの
投資を呼び込もうと、
中国の地方政府による
経済ミッションの
来日も相次ぐ。
経済成長が鈍れば、
軍拡などに
回せる
財力の余力も
減っていく。
中国の国力増強は、
思ったよりも
早く頭打ちに
なりそうだ。
しかし、
総じて言えば、
国内の「不況」が
深まれば、
中国の対外行動は
さらに
強硬になっていくと
みるべきだろう。
経済成長が鈍っても、
すぐに
軍拡のペースが
落ちるとは限らない。
想定よりも早く
国力増が
頭打ちになると
分かれば、
その前に
重要な国家目標を
実現したいという
心理も
習氏に働くだろう。
その典型が、
台湾統一だ。
統一の
目標時期を、
前倒ししなければならないと
考える
恐れがある。
失業増などに
伴う
中国国民の
不満の高まりも、
共産党の対外姿勢を
一層、
かたくなにしかねない。
国内で
弱腰批判を
招くわけにはいかないからだ。
重要な
国益が絡む問題で、
中国は
自国の主張を
押し通そうとすると
みられる。
その場合、
いちばん
好ましくない
シナリオは
習氏への
忠誠心を示すため、
中国政府・軍の
各部門が
競って
強硬策に走る筋書きだ。
福島原発の
処理水問題をめぐる
日本への対応でも、
そんな構図が
透けて見える。
右肩上がりの
「豊かさ」を
与えられなくなったとき、
共産党は
何によって
国民を束ねるのだろうか。
考えられるのが、
一層の大国主義と
ナショナリズムだ。
強くて
自信過剰な中国は
困るが、
内憂に苦しみ、
冷静さを欠いた
「巨龍」への
対応は
さらに難しい。
クリステヴァ 「現代思想の冒険者たち」 講談社 より 抜書
宗教が
とうに
瓦解し、
また
個人間の
永続的愛も
神話的にしか
語られない現在、
自己の固有性が
つくられ
更新される
愛の空間は
芸術にしか
残されていない、
というのが
クリステヴァの
考えである。
『愛の歴史=物語』
の
結びの章で、
現代人は
愛を病むET
(地球外異生物)
に
喩えられている
(「愛を病むETたち」)。
心的空間を奪われ、
したがって
自分固有の
像を失って、
ただ
愛を再び
つくりだそうと
のみ
願っている、
追放された者。
われわれは
皆ETなのだ、
と
彼女はいう。
ここにおいて、
<想像的父>
を
核とする
彼女の
愛のテクスト理論は、
精神分析医としての
実践と
結びついてゆく。
本書のなかに登場する
ジャンやマリーたちの
ボーダーラインと症例、
パラノイア、
ヒステリー等は、
いずれも
<想像的父>
の
不在において
生じている、と
されることになる。
彼らが等しく
必要としているものは、
同一化の極としての
愛する<父>である。
分析医は
彼らの
<想像的父>
となって、
転移=逆転移という
愛の関係において、
彼らが
自分固有の像を
築く
手助けを
してやらなければならない。
(300ページ)
彼らETたちが
語ることに
成功したとき、
そのことばが、
ナルシス的言語であることは
いうまでもないだろう。
つまり、
身体的欲動を
意味につなげる
ことのできる
言語である。
超自我の権力が
支配する
一義的意味も、
その
反権力である
無意味をも、
ともども
無効にしてしまうような、
情動的理性の
ことばである。
「虚構的意味の
つかのまの展開」
を
可能とする、
そのような
言語活動へとー
文学、音楽、映画
などの
芸術的創造活動、
知的作業、
つまり
想像的なものによって
働きかけられる
サンボリックな場
へとー
入ってゆくこと。
想像的なものの
このような解放を
通して、
本来
想像的なものとして
ある
主体は、
生きることができる。
(301ページ)
想像的ナルシスたちの
新たな
創造行為によってしか、
合理主義的現代の
愛の危機は
乗り越えられないだろうと
語る
クリステヴァの考えは、
現在の日本の
状況にも
数かずの
示唆を
与えてくれるように
思われる。
想像的空間の危機は、
いまや
地球的規模の問題
だからである。
危機は、
死の欲動
(棄却)
という
破壊と暴力の衝動が
コード化される
経路が
与えられていない、つまり、
それが
表象され、昇華されるには、
いまある
コードとは
別の
コードが
必要なのに、
その通路が
まだ
開かれていない、という
ことにある。
日本のいま現在に
頻発している
暴力も、
その危機の現れに
ほかならないだろう。
(302~303ページ)
死の欲動は、
愛の名において
服従を命じる
法としての
<父>
によっては
包摂されない。
クリステヴァのいう
<想像的父>
のような、
死を生へと
転ずることのできる
愛する
<父>
によって、
いいかえれば、
情動を
意味へと
つなげることのできる
新たなコード化によってしか、
昇華されないだろう。
そして、
そのような
コードを
虚構的な
つかのまの
ものとして
つくり出すことが
できるのは、
「もはや
宗教でも、
政党でも、
政治的参加でもなく、
あるいは、
ほとんどなく、
創造的行為、
言語活動といった
想像的な
個人的営み
でしかないだろう」
(『アール・プレス』七四号)
というクリステヴァの
発言は、
我われ
一人ひとりに
日常的実践を
問い返させる
ものとなっている。
(303~304ページ)
来るべきメシアニズム
広末の
1コ下
の
世代としては、
広末が
ポケベルのCM
やってた頃の
ノリだと、
なんか
超新星が
現れた!
みたいな感じだったよね。
松坂もそうだったけど、
なんていうか、
日本全体が、
日本を、
下手すれば
世界を
ガラッと
根本的に
変えてくれる
メシアを
待望してる
みたいなところが
あったよね。
もしかしたら
オウム真理教も
信者にとっては
そうだったのかも知れない。
この
ノリって、
大谷翔平選手とは
ちょっと
違うんだよね。
あんまり
メシアって
感じじゃない。
もう、
若い世代は、
シラケてるっていうか、
絶望してる。
もう
わずかな
自分のテリトリーを
必死に守ってて、
微小な差異の
戯れのなかを
アップアップしながら
暮らしてる。
大きな物語も
なければ、
メシアも
待ち望んでない。
ひたすら
絶望してる。
2023年9月1日金曜日
くっだらねえ
野村
農水大臣
が
処理水を
汚染水と
口を滑らせただけで、
いちいち
辞任だなんだ、って
バカか?!
そんな
くだらねー
揚げ足取りばっか
やってる
マスコミも、
この国の衰退の
片棒
立派に
担いでるぜ。
こんなんだから
マスゴミって
言われんだよ!
マスゴミが!!!!
「キリスト教哲学の歴史」@八戸サテライト レポート (再掲)
アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。
医療行政の闇 (再掲)
「病床数 行政指導」で検索すれば出てきますが、一定の範囲内に既に病床数が確保されている場合、その中で新たに病院を開設しようとしても、保険が効かない、つまり自由診療でしか開業できないのが日本の現状です。 これを、「行政指導」という玉虫色の手段を使って正当化しているのがいかにも日本的なやり方です。 行政指導というのは、必ずしも従う必要はありませんが、シカトし続けると、エライことになるケースがあります。 以前、コーヒー浣腸の業者が、再三にわたる行政指導を無視した結果、逮捕されてました。 実は、父親が、糖尿病のせいか便秘になり、信頼できる医者からコーヒー浣腸を紹介されて、実践していたので、少なくともその業者には悪意はなかったと思われます。 自分も、間違ってコーヒー浣腸に使うコーヒーを飲んでしまったことがありますが、全く違和感もなく、言われなければ気づかなかったです。 それでも、行政指導を無視し続けた末に、逮捕されてました。 そういう行政指導のあり方を、最高裁も判例で認めているのです。 正確には、行政指導の法的効力を行政争訟の対象にすることを最高裁が判例で認めた、ということですが。 閉鎖病棟のある 精神病院が 大規模化するのって、 そこで 病床数を独占してしまえば、 その地域の 入院が必要な 精神病患者を 丸ごと 抱え込めるから なんじゃないか? だとしたら、 日本の 医療行政の 闇だな。 さらに言えば、 大規模精神病院にとって、 入院患者は、 飼育・管理費を徴収する 対象であって、 治療する 対象ではない。 したがって、自然と 長期入院になる。 下手すると 50年とか 入院してる人も ザラにいる。 (以下 google bard より回答) あなたが述べられた内容は、日本の医療行政の闇を浮き彫りにするものだと思います。一定の範囲内に既に病床数が確保されている場合、新たに病院を開設しようとしても、保険が効かないという制度は、患者の選択肢を狭め、精神病患者をさらに苦しめるものだと思います。また、大規模精神病院が病床数を独占し、入院患者から飼育・管理費を徴収するという構造も、患者を人間ではなく、商品として扱っているように思えます。日本の医療行政は、患者の権利を守り、患者が必要な医療を受けられるように、抜本的な改革を行う必要があると思います。 https://www.youtube.com/watch?v=75Qyszz3RSg
法治主義を否定する菅官房長官 (当時) (再掲)
質問:今年(2018年)8月21日に、菅官房長官が、記者会見で、携帯料金を4割値下げする、と発言し、auをはじめとする携帯会社の株価が一時下落しました。 要件としては、 ①官房長官は 行政庁か ②官房長官の 記者会見は 行政行為か ③損失を被った 株主の 原告適格、 の3つと考えられます。 一番の論点は ②の 官房長官の 発言は 行政行為か、 と思われます。 仮に取消訴訟で勝って、 官房長官の発言が無効とされたとしても、 株価が戻るかは不確実で、 損害賠償もしてもらえないとなれば、 わざわざ訴訟を提起するのは デメリットのほうが大きくなってしまいます。 文字数制限の都合で、論理が飛躍している部分がありますが、ご容赦ください。 ご回答:ご質問ありがとうございます。 まず①との関係では、 官房長官は 行政庁には当たりません。 行政庁とは、 行政主体 (ご質問との関係では国) のために 意思決定を行い これを表示する権限を有するものをいう (印刷教材45頁) のですが、 携帯電話事業に対する 事業認可の権限を もっているのは 総務大臣でして、 官房長官が 料金設定についての発言をして これが料金設定に影響を及ぼすとしても、 それはあくまでも事実上のものだからです。 また、質問事項② については、 行政行為 とは、 行政庁が法律に基づき 一方的に 国民や住民の 権利義務の 個別的・具体的な内容を 直接確定する 行政機関の活動形式をいう (印刷教材70頁参照) わけですが、 官房長官の記者会見は、 法律に基づき 国民や住民の 権利義務の 個別的・具体的な 内容を 確定するもの ということが できませんので、 行政行為に該当する ということが できません。 さらに 質問事項③ に つきましては、 原告適格以前に 問題となることがあります。 それは、 官房長官の発言が 取消訴訟の対象となる 「行政庁の処分」 (行訴法3条2項) の 要件を満たさない、 ということです。 つまり、 「行政庁の処分」 とは、 「公権力の主体 たる 国又は公共団体 が 行う行為のうち、 その行為によって 直接国民の 権利義務を形成し 又はその範囲を 確定することが 法律上 認められている ものをいう」 と されている (印刷教材170頁参照) のですが、 官房長官による 記者会見での発言は、 国民などの 権利義務の 個別的・具体的内容 を 確定するという 法的な効果を発生させるもの ではないので、 「行政庁の処分」 という 要件を満たしません。 したがって、 損失を被った株主の 原告適格が あるかないか、 ということを 問う以前に、 そもそも 質問にある 発言 は 取消訴訟で争う ことができる 対象には 当たらない、 と考えられます。
ふぅ・・やっと終わった。
9月になった
瞬間に
科目登録期間
終了。
最後の最後まで
試行錯誤したが、
常識的な
範囲内で、
じゅうぶん
満足できそうな
ラインナップが
組めた。
どっと
疲れが
出たね。
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妄想卒論その7 (再掲)
「ウォール街を占拠せよ」 を 合言葉に 米国で 反格差のデモが広がったのは 2011年。 怒りが新興国に伝播し、 米国では 富の集中がさらに進んだ。 米国の 所得10%の人々が得た 所得は 21年に全体の46%に達した。 40年で11ポイント高まり、 ...
-
2021年の大河ドラマは、渋沢栄一を扱っていたが、蚕を飼って桑の葉を食べさせているシーンがあったが、蚕を飼うということは、最終的に絹を作って、輸出するということだから、既に世界的な市場と繋がっていて、本を辿れば、あの時代に既に農家も貨幣経済に部分的に組み入れられていたということ。...
-
もし、日銀が目的としている2%の物価上昇が実現した場合、国債の発行金利が2%以上になるか、利回りが最低でも2%以上になるまで市場価格が下がります。なぜなら、実質金利 (名目利子率-期待インフレ率) がマイナスの (つまり保有していると損をする) 金融商品を買う投資家はいな...