2022年10月31日月曜日
こころ
母親も
強くなってきたし、
いいじゃん!
俺も
市役所目指して
頑張れるじゃん?!
なんて、
無意識のうちに
思うだけで、
また
悪夢を見てしまう。
この体質
どうにかなんないかな?
思えば、
市役所受験に関しては
ずーっと
こうだよ。
出願はすれども
一次試験すら
受けられず、
ってことが、
1度や2度じゃない。
経済情勢を鑑みれば、
そんなこと
言ってる場合じゃないんだが。
遊びの社会学 (再掲)
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93
メモ (再掲)
理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、 とアドルノは主張する。 「社会全体が体系化され、 諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、 それだけ人間そのものが 精神のおかげで創造的なものの属性である 絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、 慰めをもとめるようになるのである。」 言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、 マルクス主義的ヒューマニズムの説く 来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、 管理された世界のもつ 全体化する力の原像と解されるべきなのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 98ページ)
管理された世界
今の状態が、
実は
めちゃくちゃ
パラダイスなんだろうな。
下手に
堅気の職業に
就いて、
ちゃんとした
収入があるんだから、
クレジットカード持ちませんか?
とか
あるいは
将来的にはローンの片棒を
担がされるかもしれないし、
「勇者」
としてゲームを始めた途端に、
色々な装備を
背負わされるってのが、
果たして
幸せなのか。
俺はそんな生活を
想像するだけで、
みぞおちに
ボディーブローを喰らったように
頭がクラクラする。
今みたいに、
何もしなくても
年金もらえるほうが
よっぽど
気楽だ。
財政インフレーション 強調スニペットより
赤字財政による財政支出の急激な増大により,総需要が総供給を超過し物価水準が高騰することで,需要インフレーションの1種。 歳入の財源として政府紙幣を乱発したり,公債を中央銀行引受けで発行した場合に典型的にみられる。
ミネルバの梟は夕暮れに飛び立つ
ガクシャのやることは、
現在の現実に
応じて
過去を新たに
捉え直すことであって、
それ以上の
ことをするべきではないし、
してはいけないのではないか。
もちろん、
現在の問題に
目配せをすることは
必要だが、
何か
確定的な物言い
をするのは、
ガクシャとして
越権行為なのではないか。
これは自戒を込めて
言っておかなければ
ならない。
2022年10月30日日曜日
激アツ!!!
日本シリーズ負けた!
でも、いい試合だった。
試合が壊れそうな
ところを、
中継ぎが
よく踏ん張ってくれた。
ミスが多すぎたとはいえ、
来年に繋がる
戦い方が出来た!
とにかく、
今年のオリックスは
尋常じゃなく強かった!
特に投手陣がえげつなかった。
まあ、しゃーない。
それと、
オリックスも
ヤクルトの中村悠平の
配球を相当研究してるな、
と感じた。
そうでなかったら、
そもそも
あんなに打たれない。
ヤクルトの先発投手で、
配球云々抜きで
圧倒的に
ねじ伏せられるのは
高橋奎二くらいのもん。
あとは
みんな中村のリードだからこそ
打たれない。
それにしても、
ずーっと
控え捕手として
野球選手人生を歩んだ
中嶋聡監督が、
こんなに
監督としての
素質を持ち合わせていたことが
衝撃的。
人生、
いつどんなところで
才能を開花させるかは、
なかなか
わからないもんだ。
漱石と資本主義の時代 (再掲)
確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。
啓蒙とその時代ー漱石とアドルノ (再掲)
代助は、
百合の花を眺めながら、
部屋を掩おおう強い香かの中に、
残りなく自己を放擲ほうてきした。
彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、
三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。
その過去には離すべからざる、
わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。
彼はしばらくして、
「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。
こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。
何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。
始から何故自然に抵抗したのかと思った。
彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、
純一無雑に平和な生命を見出みいだした。
その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。
雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。
だから凡てが美しかった。
やがて、夢から覚めた。
この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、
代助の頭を冒して来た。
彼の唇は色を失った。
彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。
爪つめの甲の底に流れている血潮が、
ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。
彼は立って百合の花の傍へ行った。
唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。
彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章)
もっとも、アドルノが主観と客観との絶対的な分離に敵対的であり、
ことにその分離が主観による客観のひそかな支配を秘匿しているような場合には
いっそうそれに敵意を示したとは言っても、
それに替える彼の代案は、これら二つの概念の完全な統一だとか、
自然のなかでの原初のまどろみへの回帰だとかをもとめるものではなかった。(93ページ)
ホーマー的ギリシャの雄大な全体性という若きルカーチの幻想であれ、
今や悲劇的にも忘却されてしまっている充実した<存在>というハイデガーの概念であれ、
あるいはまた、
人類の堕落に先立つ太古においては名前と物とが一致していたというベンヤミンの信念であれ、
反省以前の統一を回復しようといういかなる試みにも、
アドルノは深い疑念をいだいていた。
『主観‐客観』は、
完全な現前性の形而上学に対する原‐脱構築主義的と言っていいような軽蔑をこめて、
あらゆる遡行的な憧憬に攻撃をくわえている。(94ページ)
言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、
結局は進歩という性格をもっていたのである。
『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、
ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、
人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。
アドルノからすれば、
人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、
そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、
それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、
きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。
というのも、
主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、
反省の能力を失うことを意味しようからである。
たしかに、
主観と客観のこの区別は、
マルクス主義的ヒューマニストや
その他の人びとを嘆かせた
あの疎外を産み出しもしたが、
それにもかかわらず
こうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ)
理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、
とアドルノは主張する。
「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、
それだけ人間そのものが精神のおかげで
創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として
高められることに、
慰めをもとめるようになるのである。」
言いかえれば、
観念論者たちのメタ主観は、
マルクス主義的ヒューマニズムの説く
来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、
管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。
ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって
一つの規範的目標として称揚された
全体性というカテゴリーが、
アドルノにとっては
「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であった
というのも、こうした理由による。
「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
こういう風に考えてみて下さい。主体化した人間は、主客未分化で混沌とした自然から離脱して自立しようとしながら、
その一方で、身体的欲望のレベルでは自然に引き付けられている。
自らの欲望を最大限に充足し、完全な快楽、不安のない状態に至ろうとしている。
それは、ある意味、自然ともう一度統合された状態と見ることができます。
母胎の中の胎児のように、主客の分離による不安を覚える必要がないわけですから。
そして、そうした完全な充足状態に到達すべく、
私たちは自らの現在の欲望を抑え、自己自身と生活環境を合理的に改造すべく、努力し続けている。
安心して寝て暮らせる状態に到達するために、
今はひたすら、勤勉に働き続け、自分を鍛え続けている。
しかし、
本当に「自己」が確立され、
各人が計算的合理性のみに従って思考し行動するだけの存在になってしまうと、
自己犠牲によって獲得しようとしてきた自然との再統合は、
最終的に不可能になってしまいます。
日本の会社人間の悲哀という形でよく聞く話ですが、
これは、ある意味、自己と環境の啓蒙を通して、「故郷」に帰還しようとする、
啓蒙化された人間全てが普遍的に抱えている問題です。
啓蒙は、そういう根源的自己矛盾を抱えているわけです。(「現代ドイツ思想講義」作品社 148ページ)
かなり抽象的な説明になっていますが、エッセンスは、先ほどお話ししたように、
自然との再統合を目指す啓蒙の過程において、
人間自身の「自然」を抑圧することになる、ということです。
啓蒙は、自然を支配し、人間の思うように利用できるようにすることで、
自然と再統合する過程だと言えます。
自然を支配するために、私たちは社会を合理的に組織化します。
工場での生産体制、都市の交通網、エネルギー供給体制、ライフスタイル等を合理化し、
各人の欲求をそれに合わせるように仕向けます。
それは、人間に本来備わっている“自然な欲求”を抑圧し、人間の精神や意識を貶めることですが、
啓蒙と共にそうした事態が進展します。
後期資本主義社会になると、その傾向が極めて顕著になるわけです。
それが、疎外とか物象化と呼ばれる現象ですが、
アドルノたちはそれを、資本主義経済に固有の現象ではなく、「主体性の原史」に既に刻印されていると見ます。(「現代ドイツ思想講義 作品社」150ページ)
アドルノについては、ポスト構造主義が大きくクローズアップされた80年代から しばらくの間、私たちでも手に取るような一般的理論書の引用、あるいは論文の 脚注で名前はよく知りながら、レポートを拝見して、初めてその具体的実像について アウトラインを教えて頂いたことになります。 理性と個人の誕生に重きを置きながらも、それが疎外を産み出さざるをえない 一種の必然に対して、それを批判しながらも反動的な主客合一論へは与しない、 むしろ代償を支払いながら手にする「反省能力」に信頼を置く…… こんな感じで理解しましたが、何より漱石との親近性に瞠目に近い思いを 抱きました。漱石の文明批評は、いうまでもなく「近代」批判なのですが、 しかしけっして、傷だらけになりながらも獲得した「個人」を手放そうとはしません でした、それが彼を果てしない葛藤に陥れたにも拘わらず。 レポートを拝見させて頂き、末尾の件り――アドルノの「疎外」批判が、 それを資本主義に固有の現象としてそこに帰させるのではなく、「主体性の歴史」 に「刻印」されたものとして把握しているとの括りに、漱石との類縁性を改めて実感 し直すと同時に、漱石論への大きな励ましのステップを頂戴する思いです。 本当に有り難う。 なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。 しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。 三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。 こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。
静岡大学 森本隆子先生より
ウツに至る路
人間って、
不思議なことに、
ちょっと
頑張り過ぎなときほど、
もっとやれる、
もっと頑張れる、
って
思っちゃうんですよね。
それが
ウツに至る路。
だから、
やけに
焦燥感に駆られるときほど、
一歩引く
ことを
心がける必要がある。
こわいこわい。
2022年10月29日土曜日
2022年10月28日金曜日
中立命題 (再掲)
財政支出を課税により現在決済しようと,国債を発行して将来に決済を延期しようと,国民の経済厚生に変化はないという命題。 いま人口が変化せず,すべての国民に同額の所得税の減税をするとともに,減税分と同額の国債を新規に発行するケースを考えよう。 この経済では,国民の保有する国債という資産の価値と,国債償還のための費用とは同率で増加するために,国民の消費の時系列は影響を受けない。 リカード(D. Ricardo)が主張し,近年,バロー(R. J. Barro)ら合理的期待学派によって,公債の中立命題として再定式化されたもの。 有斐閣経済辞典第4版
上の中立命題が示唆することは、長い目で見れば、ケインズ経済学的な財政出動は、意味がない、ということになる。 もっとも、ケインズ自身が、そんな長い目で見たら、我々はみんな死んでいる、と反駁したわけであるが。 とはいえ、確かに、戦後の日本が財政赤字を垂れ流し続けた結果がこの有り様だから、中立命題のいうことも、もっともなことだ。
消費増税反対大合唱の愚 (再掲)
質問:中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、とありますが、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか?あるいは、新古典派経済学では「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか? 回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。すなわち、「政策割当の原理」です。したがって、「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要となります。 本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。本来の金融政策の目標(物価の安定)と異なるため黒田日銀総裁は「異次元の金融政策」という言葉を使ったのです。このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。このシナリオどおりに進めば、もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。ただ、経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります。したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため「財政再建」が先送りになってしまいます。それゆえに、「財政再建」の政策目標の一環として消費税の引上げが考えられています。このように、「政策割当の原理」は成立しています。
https://news.infoseek.co.jp/article/joseijishin_2068465/
https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX
疲労回復アイテム
これ飲んで
寝れば、
バッチリ
疲れが取れる。
奥大山の天然水ね。
前はね、
ハードルは高くても、
疲れた!
といって
強引に津和野行くことも
できたけど、
今はそういうわけにはいかないからね。
津和野は
刺し身とかが
尋常じゃなく美味いんだけど、
米も美味しいし、
やっぱり
水が違うんだよね。
2022年10月27日木曜日
悦ばしき知識
「私の履歴書」で
西川きよしさんの
連載やってて、
西川さんが
いかに
社会保障に尽力されたかが
書いてあって、
ああ、
そういえば
放送大学で
社会保障の授業あったなー、と
思いつつ、
俺、生活と福祉コースじゃん。
なんて思っていたのですが、
サニチの友達で、
養鶏農家の女性がいて、
食の安全に意識が高いんだけど、
facebookで
いろいろとやり取りしているうちに、
俺も啓発されて、
ちょうど
「食の安全」っていう
生活と福祉コースの
授業があったから、
視聴してみた。
面白かった。
うちらって、
米とかからでも
普通に
カドミウム摂取してる、
と聴かされて、
愕然とした。
食の安全も勉強できるし、
社会保障も勉強できるし、
生活と福祉コースも
すげえな。
異常だな・・・
「これ電通はいってますからね」
の一言で、
ここまで叩かれる
って
なんなんだろう?
麻生太郎はどうなるんよ?
国会で100回以上
虚偽答弁した
アベちゃんは?
麻生太郎にしても、
みぞーゆー
の一言で
辞めるハメになった過去があるのに、
民意ってのは
実に
デタラメなもんだな。
アベちゃんに至っては、
漢字読めなくて
上皇上皇后ご夫妻を
侮辱するようなこと
言ってたのに、
ぜんぜん反響なかったじゃん。
八戸サテライトでの授業で触れられなかった部分を、資料を見ながらまとめてみました。
☆中世後期という時代(1)
・新しい思想的傾向の出現。ウィリアム・オッカムの唯名論
・ローマ教皇の権威の衰退。教皇の「アヴィニョン捕囚」
☆中世後期という時代(2)
・教会秩序を揺るがす異端者の出現。イギリスのウィクリフやボヘミアのフス。
☆オッカムの唯名論(1)、(2)
・普遍概念の実在を否定し、普遍概念は個物の集合につけられた名前にすぎないという「唯名論」を主張した。
・唯名論は、普遍概念の実在を否定するので、個人のみが実在するという個人主義や、個物の観察を重んじる経験科学の流れに繋がってゆく。
☆トマス・アクィナス対ウィリアム・オッカム(1)
・トマス・アクィナスは、神の知性の働きが、その意思の働きに優位するとし、神が或ることを欲するのは、それが善であることを知性で理解しているからだとした。つまり、神の意思は、その知性において成立している客観的な善悪に矛盾したことはなしえないとした。
・人間の理性はそうした神の知性にある客観的な善悪に、人間本性の内に働く「自然法」を通じて与ることができるので、人間にとっても客観的善悪に基づく普遍的倫理が存在することになる。
☆トマス・アクィナス対ウィリアム・オッカム(2)
・これに対して、オッカムは神の意思の働きが、その知性の働きに優位するとし、神の意思が欲することはそれが何であれ、善であるとした。(イサクを神に捧げるアブラハム)
・つまり、神の知性に由来する客観的な善悪などは人間にとっても存在しないことになり、ただ自分が「意志する」かどうかが重要になる。⇛トマス・ホッブズの個人主義などに繋がった。
2022年10月26日水曜日
「やさしい経済学」 大阪大学教授 堀井亮先生 より抜書き
高度経済成長期に
日本経済をリードしたのは
製造業でした。
しかし、
現在では
世界全体で製造業が
GDPに占める
割合は下がり、
サービス業の
重要性が高まっています。
つまり、
海外技術を模倣して
大量生産するという方法で
成長するのは
難しくなったのです。
燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや
メンタルはむしろ健康なんだけど、
体がついていかない。
貧弱!貧弱ゥゥゥ!
ちょっと湯治にでも
行きたい気分だ。
まだ面接授業あるから
無理だけど。
話は飛ぶけど、
慶応時代、
俺のキャラっていうか、
人格が意味不明、
みたいな扱い
さんざんされたけど、
俺がお前らのイメージ通りの
キャラでないと、
なにか
不都合でもあるのか?
と言いたかったね。
とにかく、狭い!
すべてが!!!
https://www.youtube.com/watch?v=uBbl2e-6ObA
2022年10月24日月曜日
ん?
でも、大機小機2022/9/28付け
でも、
企業が海外直接投資したカネは、
国内に還流しない、と
買いてあったが、
じゃあ、
経常収支のうち
国内資金として
国債を買い支えている
”真水”の部分は、
一体どこなんだろう?
これはもう、
日々新聞を注視していくしかないな。
とはいえ、
野間先生からのご回答を
注意深く読むと、
海外直接投資は
「金融収支」の黒字であって、
「経常収支」の黒字ではない、
と書いてあるから、
国の経常収支の統計への理解が、
もしかしたら
日経新聞のほうが
間違っている、ということだろうか?
もし、野間先生が正しいということならば。
あるいは、海外直接投資、海外間接投資の
区別の(俺の)理解が間違っている、ということだろうか?
いずれにせよ、経常収支の黒字をキープしていくことは
国債の安定的消化の意味でも
大事、だということだろう。
・・・引き出しの中から、
大機小機2022/9/28のコラムを
引っ張り出したら、
こう書いてあった。
「再投資収益は直接投資にかかわる収益として
経常収支のフロー上は
第一次所得収支に計上されるが、
実際には国内には還流しない。」
https://www.mof.go.jp/policy/international_policy/reference/balance_of_payments/term.htm#:~:text=%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E6%89%80%E5%BE%97%E5%8F%8E%E6%94%AF%20%E5%AF%BE%E5%A4%96%E9%87%91%E8%9E%8D%E5%82%B5%E6%A8%A9%E3%83%BB%E5%82%B5%E5%8B%99%E3%81%8B%E3%82%89,%E3%81%AE%E5%8F%8E%E6%94%AF%E7%8A%B6%E6%B3%81%E3%82%92%E7%A4%BA%E3%81%99%E3%80%82&text=%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E6%89%80%E5%BE%97%E5%8F%8E%E6%94%AF%20%E5%B1%85%E4%BD%8F%E8%80%85%E3%81%A8%E9%9D%9E%E5%B1%85%E4%BD%8F,%E5%8F%97%E6%89%95%E7%AD%89%E3%82%92%E8%A8%88%E4%B8%8A%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%82
財務省のリンクの冒頭にも書いてあるが、
第一次所得収支に
金融収支は入らないらしい。
基準はよくわからないが。
とにかく、
そういうことならば、
経常収支は額面通りに受け取って
いいわけだ。
少なくとも
財政と国際収支の関係において。
「金融と社会」回答その4
まず、私からの回答を読み間違えているようなので、その修正から。海外の国債や株式への投資は「金融収支」の黒字であり、「経常収支」黒字ではありません。将来、利子配当収入が増えれば、第一次所得収支の形で「将来の」「経常収支」黒字が期待されますが。
2022年上半期、貿易収支の赤字が大幅拡大し、経常収支黒字は縮小しています。しかしまだ黒字を保ってますので、国債消化に支障をきたすほどではないと理解しています。海外の利子率が上がると第一次所得収支が増加しますので、経常収支黒字を維持する方向に働くと考えられます。
「金融と社会」質問その4
1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より
つまり、日本の内需の縮小と労働市場の貧困化は、企業の海外進出と表裏一体であり、その見返りとしての、海外からの利子・配当などの、いわゆる第一次所得収支の恩恵として現れます。 https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX
円安バイアスが語られる文脈で、家計は資産を国際投資に振り向けることが推奨される傾向にありますが(2022/8/29 日経新聞15面)、放送大学「金融と社会」を担当されている、同志社大学教授の野間敏克先生に質問箱を通しておうかがいしたところ、家計が海外に投資したマネーは、経常収支の上では、黒字に計上される、との回答を頂戴しました。
しかし、そうすると、財政と経常収支の関係から見た場合、仮に経常収支が黒字でも、それで(フローで見た場合)、民間部門の貯蓄が政府部門の赤字をファイナンスできない虞があるのではないでしょうか?
あるいは、既に日本は、国債発行にあたり、海外資本を導入せざるを得ない状況なのでしょうか?また、その場合、今後の日本国債の安定的消化という観点から見ると、財政は持続可能なのでしょうか?
とはいえ、2022/9/21 日経新聞8面 によれば、物価上昇でも日本人は現預金志向が強く、円
資産の海外フライトは、思ったほど強くは起こらなかったようですが。
以下、「金融と社会」ご担当の野間先生との質疑応答です。
質問:2022年6月28日付け日経新聞朝刊に、 「家計資産、脱『預金』の兆し」と題して、 末尾に、 「いくら運用手段を充実させても、 企業の競争力が海外より劣っていれば家計の資金が海外に逃避する『キャピタルフライト』を招いて国力低下につながる。 (以下略)」 としてありましたが、 このような家計部門の海外への移転は、 経常収支の統計上どのように現れるのでしょうか?
回答:国連にあわせて、2014年に国際収支関連統計の大幅改訂がありましたので、統計上の扱いが大きく変わりました。 それ以前は、海外の国債や株式を買うと、日本のお金が出ていくから資本収支赤字とされ、お金が逃げていく「キャピタルフライト」のイメージでした。 でも、海外の国債や株式を買うのは、今後利子配当が期待できる金融資産が増えたことを意味しますので、いまは金融収支で「黒字」とされています。 海外での資産運用は、キャピタルフライトではなく、今後の収入を保証してくれる金融収支黒字要素と扱われています。 成長する海外企業に投資するのは良いことです。
モーニングショー
玉川さんがいないと、
羽鳥さんに
負担かかりすぎだな。
司会っていうより、
MC化してるよ。
早朝からあんな
テンションじゃ、
羽鳥さん
そのうち倒れちゃうよ。
内容もなんか
茶話話みたいだし、
羽鳥さんが
頑張るほど、
ぐるナイみたいになってきてるし。
玉川さんがいかに
大きな存在だったか
思い知らされるね。
2022年10月23日日曜日
近世ロシア史@東京文京(茗荷谷)
帰宅。
得るところ大なり。
ピョートル大帝の近代化のやり方が、
幕末明治の日本と同じなんだよね。
ああ、近代化って
こうやってやるのね、
っていう、
ひな形を見せてもらった感じ。
日本より
100年くらい時代が早いけど。
ちょうど、後継者の、
啓蒙専制君主として知られる
エカチェリーナ2世
が、時代としては
幕末期にあたる。
その「啓蒙」っていう
世界的な
時代精神を感じさせるね。
思わぬところで
近代化とはなにか?
に対する
一つの答えを見せてもらいました。
良かった!
(以下レポート。過去ログより。)
三浦雅士さんが「身体の零度」で論じた、戦争のための画一的で清潔な身体と、アドルノの記述した、個人の精神の物象化的同一性というのも、戦争がまた反面では工場における画一的かつ大量の生産体制を要求するものであることを考えれば、繋がりが見えてくる。 更には、核家族の中のエディプス三角形による去勢によって、労働・生産へのパラノイア的偏執への矯正もまた、〈近代〉の特徴であると言いうるのではないか。 漱石が愛に拘ったのも、それが資本主義に対する橋頭堡だと感じていたからではないか。しかし、「それから」において観念的抽象的な愛から、性愛的な肉感的な、具象的な感覚に投降した後においては、一層、資本主義化した社会の、歯車として生きていかざるを得ない我が身において、物象化を免れ得ない自身から抜け出よう、という足掻きに苦しんでいたのではないか。
2022年10月22日土曜日
2022年10月21日金曜日
癒やしの音楽
日本では、医師としてノーベル平和賞を受賞した
ことで知られるシュヴァイツァーですが、
優れたオルガン奏者としても
知られた存在らしく、
授業中に流された
ヨハン・セバスチャン・バッハの
「トッカータとフーガ」の演奏に感銘を受けて、
購入しました。
神の国に誘われますね・・・
うーん・・・効くねー。。。
脳髄から緊張がほぐれる感じだよ。
たぶん世界のどんなリゾート地に行くよりも
癒やされる。
https://kotobank.jp/word/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%8F%A4%E5%85%B8%E4%B8%BB%E7%BE%A9-102961
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%8F%A4%E5%85%B8%E4%B8%BB%E7%BE%A9
旬報社 (再掲)
1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より つまり、日本の内需の縮小と労働市場の貧困化は、企業の海外進出と表裏一体であり、その見返りとしての、海外からの利子・配当などの、いわゆる第一次所得収支の恩恵として現れる。 https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX
経常収支と財政 (再掲)
「もっとも、巨額の財政赤字を抱える日本経済の現状を前提とすれば、経常赤字への基調的な転落は回避しなければならない。前出の(C式)「経常収支=民間純貯蓄+財政収支」から明らかなとおり、経常赤字に転落するということは、国内の民間資金余剰では財政赤字を賄えなくなり、海外からの資金調達が必要になることを意味するからである。国債の消化の多くを海外投資家に依存するようになれば、長期金利が上昇し、利払い費の増嵩から更なる財政赤字の拡大に繋がるという形で、「財政の持続可能性」を保つことが極端に難しくなるだろう。日本の場合には、経常収支の赤字転落を回避しつつ、財政再建を着実に進めていく手だてが不可欠なものになっていると言える。」 https://www.shinnihon.or.jp/shinnihon-library/publications/issue/eyi/knowledge/ec/2014-05-20.html
そもそも経常収支とは? (再掲)
質問: 今般の衆議院選挙の結果を受けて、安倍政権の経済政策が信任され、結果、日銀が緩和を継続すれば、世界経済への流動性供給の源であり続けることになり、特に、金利上昇の影響を受けやすいアジアの新興市場に日本発の流動性が流れ込むだろうという指摘もあります。 ここで、松原隆一郎先生は、「経常収支と金融収支は一致する」と書いておられるわけですが、実際に物(ブツ)が輸出入される、という実物経済と、例えば日銀が金融緩和で世界にマネーを垂れ流して世界の利上げ傾向に逆行する、という国際金融の話を、同じ土俵で括るのが適切なのか、という疑問が生じました。 回答:経常収支は一国で実物取引が完結せず輸出入に差があることを表現する項目です。 日本のようにそれが黒字である(輸出が輸入よりも大きい)のは商品が外国に売れて、外国に競り勝って良いことのように見えるかもしれませんが、別の見方をすれば国内で買われず売れ残ったものを外国に引き取ってもらったとも言えます。 国内では生産しカネが所得として分配されていて購買力となっているのに全額使われなかったのですから、その分は貯蓄となっています。 つまり実物を純輸出しているとは、同時に国内で使われなかった貯蓄も海外で使わねばならないことを意味しているのです。 こちらが金融収支なので、「経常収支と金融収支が一致する」のは同じことの裏表に過ぎません。 そこでご質問は、「日銀が国債を直接引き受けたりして金融緩和し続けている。 このことは経常収支・金融収支とどう関係があるのか?」ということになろうかと思われます。 けれども日銀はバランスシートというストックのやりとりをしており経常収支・金融収支はフローのやりとりなので、概念としては次元が異なります(「スピード」と「距離」に相当)。 すなわち、金融収支はフローであり、日銀の金融緩和はストックなので、同じ水準では扱えないのです(スピードに距離を足すことはできない)。 しかしストックとフローにも影響関係はあるのではないかという考え方も確かにあり、そもそも一国内に限ってそれを金融資産の需給(ストック)と財の需給(フロー)が金利で結ばれるという考え方を示したのがケインズの『雇用・利子・貨幣の一般理論』でした。 とすればその国際経済版が成り立つのかは重要な問題ではあります。 この論点は多くの研究者が気になるようで、奥田宏司「経常収支,財政収支の基本的な把握」www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/Vol.26-2/09_Okuda.pdf が論じています。 参考にしてください。 https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX
「金融と社会」質問と回答その3 (再掲)
質問:2022年6月28日付け日経新聞朝刊に、 「家計資産、脱『預金』の兆し」と題して、 末尾に、 「いくら運用手段を充実させても、 企業の競争力が海外より劣っていれば家計の資金が海外に逃避する『キャピタルフライト』を招いて国力低下につながる。 (以下略)」 としてありましたが、 このような家計部門の海外への移転は、 経常収支の統計上どのように現れるのでしょうか? 回答:国連にあわせて、2014年に国際収支関連統計の大幅改訂がありましたので、統計上の扱いが大きく変わりました。 それ以前は、海外の国債や株式を買うと、日本のお金が出ていくから資本収支赤字とされ、お金が逃げていく「キャピタルフライト」のイメージでした。 でも、海外の国債や株式を買うのは、今後利子配当が期待できる金融資産が増えたことを意味しますので、いまは金融収支で「黒字」とされています。 海外での資産運用は、キャピタルフライトではなく、今後の収入を保証してくれる金融収支黒字要素と扱われています。 成長する海外企業に投資するのは良いことです。
「金融と社会」回答その1(再掲)
ご質問ありがとうございます。まず印刷教材のこの部分はすべてフローについての議論です。内閣府のペーパーにもあるように、マクロ経済学などで登場するISバランス (S-I) + (T-G) = NX 民間貯蓄超過 政府黒字 国際収支黒字(海外赤字) を念頭に、民間貯蓄超過の大幅プラスが、政府赤字のマイナスを相殺してもなお左辺がプラス、したがって右辺もプラス(海外マイナス)、という状態です。 近年コロナで政府赤字が大幅に増加しましたが、家計貯蓄も大幅増加して、2020、21年とも左辺はプラスを維持しています。 ご質問のなかばにあるストックの話は、たとえば銀行が保有していた米国債を売った資金で、新規に発行された日本国債を購入することをイメージされているのでしょうか。それが得だと銀行が判断すればそうするでしょうが、強制することはできず自動的にそうなるわけでもありません。 最後の第一次所得収支については、書かれているとおり、たとえば利子収入はドルで得られドルのまま持たれたり再投資されたりしますが、円換算して所得収支に繰り入れられています。
「金融と社会」質問その1(再掲)
内閣府のペーパー(https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html) によると、フローで見れば、経常収支の黒字が、政府部門の赤字をファイナンスしていることになりますが、経常収支の黒字が、対外純資産としてストック面で蓄積されていると考えられます。 この場合、もちろん、経常収支が赤字に基調的に転落すれば、フローで見た場合、政府部門の赤字をファイナンスするために、海外資本を呼び込む必要性に迫られ、それは今よりも高金利であることが要請されるので危険だ、という意見もあります。 ここで、フローで見れば確かにそうですが、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たすことはないのでしょうか? 仮に、そのような事態になった場合、具体的にどのようなスキームで、対外純資産を政府部門の赤字をファイナンスの用に供するのでしょうか? また、経常収支黒字の源泉である、企業部門の第一次所得収支についてですが、最近は、企業も資金を更なる海外投資、M&Aに投資するべく、資金を円ではなく、ドルで保有しているとされますが、それは、第一次所得収支に、円換算して勘定されているのでしょうか? (https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX)
大機小機 2022/9/28 (再掲)
今日のコラムは、 企業が海外直接投資で 稼いだ カネは、 再び 海外での投資に向けられる。 そうして得られた利益 その残高(昨年末時点)が 46兆円。 一応 経常収支(のうちの第一次所得収支)には計上されるが、 国内に還流することはない 張り子の虎、 とのことでした。 コラムでは、 その カネを国内に還流させれば、 株高ぐらいは 演出できるし、 円安の歯止めにも 一役買うのでは、 という苦しい理屈でした。
I want to break free.
https://www.youtube.com/watch?v=f4Mc-NYPHaQ
最悪な夢を見た日の朝でも、
サクサク動けるな。
今までの俺とは一味違うぜ。
上半身裸のフレディが
エガちゃんに見えてきた。
2022年10月18日火曜日
ウケた。
放送大学の財政学の先生に、
10月になって
2学期始まってすぐに、
質問箱を
通して質問を投稿したのですが、
なかなか返事こねーなー、
と思ってたら、
「催促する」っていう
アイコンが現れてて、
すげーなー放送大学。
と思わずにいられなかった。
確かに、
まえ「グローバル経済史」の
授業の先生に質問したときに、
やたらお返事が遅いなー、と
思ってたら、
海外出張してらした、
ってときがあったからね。
面接授業ならともかく、
放送授業受け持っちゃうと、
本務校が別にある先生でも、
ちゃんと責任持たされるんだね。
いやー放送大学良心的だわ。
黄色信号(再掲)
円安が進んでますね。 イエレンさんが、投機的な動きがある、と発言していました。 つまり、投機筋が、 円売りを仕掛ている。 なぜ円売りを仕掛ているかというと、 自国通貨が売られて通貨安になれば、 常識的には、中央銀行は、利上げをして自国通貨高に誘導しようとする。 日本に当てはめると、 日銀がイールドカーブコントロールという、馬鹿げた政策によって、 中央銀行は本来、短期金利しかコントロールできないとされているのに、 長期国債を無制限に買い入れて、 無理やり長期金利を抑え込んでいる。 つまり、日本国債の価格が異常に高い。 (裏を返せば、日本国債の利回りが異常に低い。) 投機筋は、円を売れば、 日銀は過度な円安を修正するために、 政策金利を上げざるを得ないと読んでいる。 それだけでなく、投機筋は、 日本国債売りも同時に仕掛けています。 そうすると、日銀は、金利上昇抑制のために、日本国債買い入れを余儀なくされる。 そうすると、市場に円が供給されるので、 結果、円安がますます進行する、という悪循環に陥っています。 まあ、はっきり言って自業自得としか言いようがないですが、 政府・日銀は、 日本国債を買い入れつつ、外貨準備を使って円買い介入をする、という 矛盾したことやろうとしています。 なぜ矛盾しているかというと、 国際金融のトリレンマに従えば、 「資本移動の自由」 「為替の安定」 「金融政策の独立性」 の3つは、同時にすべてを達成することは出来ないからです。 資本移動の自由は犠牲にすることは出来ません。 従って、 為替の安定と金融政策の独立性のどちらかを犠牲にせざるを得ないわけですが、 金融政策の独立性を保持するとすれば、 外貨準備を使って為替介入しなければ、 自国通貨は安定しないのです。 日銀・政府は、 大規模金融緩和を継続する一方で、為替介入をする、という”矛盾した”政策を行っているわけです。 投機筋もこれは完全に計算のうえでやっていますが、 問題は、結局のところ 日銀がどこまで無謀な大規模金融緩和を続けるか、ということです。 大規模金融緩和を続ける限り、 日銀のバランスシートに日本国債がたまり続けるだけで、 金利は上がりませんから、 今までは一般人も痛みを感じなかったので、 非難の声が上がりませんでしたが、 円安が急速に進んで、消費者物価まで上昇し始めると、 消費者からも、なにやってんだ、という声があがり始めます。 アベノミクスの3本の矢のうち、 結局、大規模金融緩和だけが継続していますが、 安倍氏の死去に伴い、 日銀に対して、大規模金融緩和を継続させる 政治的プレッシャーが弱くなったことは事実でしょう。 日本の財政から言っても、 れいわ新選組が言ってるように、 国債をどんどん発行して、 日銀に買い取らせればいい、などという、 無責任なことをやっていると、 日銀の財務状況が悪化して、円の信用が毀損されたり、 そうでなくとも、日銀が、政府の借金である国債をいくらでも買い取ってくれるから、 いくら赤字国債を発行してもいい、という モラルハザードが現実に起こっています。 岸田首相はそこらへんの事情は当然わかっているはずです。 いずれにせよ、 日銀はこれ以上、 異常な大規模金融緩和を続けることによって、 イールドカーブコントロールという 国際金融の現状からすれば異常な金融政策を維持することは、 非現実的と認識していると思われますので、 少なくとも 金利の上昇幅の拡大をこっそり容認する、 ということは、 十分予想されるところです。 しかし、加藤出さんも言っているように、 イールドカーブコントロールから抜け出すことは、 大きな混乱を伴うと予想されるので、 それこそ 投機筋の外圧がなければ いつまでも続けていたところでしょうが、 幸か不幸か、現実的ではありませんでした。 さて、焦点は、 日銀がどこまで金利の上昇幅を容認するか、 そしてそのタイミングはいつか、 ということになりそうですが、 金利の上昇幅は実務家ではないので知りませんが、 タイミングとしては、そう遠くないのではないかと思われます。 これだけ急激な円安を鑑みると、 黒田総裁の任期満了まで 待てるとは思えません。 従って、 急に金利が上がる、ということは、 十分ありえる話です。 ・・・で、何が言いたいか、というと、 金利が上がって困るのは、 超低金利を前提として 変動金利で住宅ローンを組んでいる家計です。 銀行も馬鹿ではないので、 固定金利は既に段階的に引き上げています。 それは、変動金利が上昇すれば、 固定金利に借り換える人が増えると予想しているからと言って過言ではないでしょう。 ですので、 変動金利で住宅ローンを組んでいる人は、 専門家に相談するなりして、 対策を立てたほうが良いでしょう。 自分は専門家でもなんでもないので、 この文章の内容に責任は負えません。 https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/470422.html https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/466765.html
2022年10月17日月曜日
民意ってなんだ?
旧統一教会への
解散請求がどうのこうのとか
国会で議論になっているが、
一時の激情に駆られて、
いち宗教団体に、
政治がマジメに
解散がどうのこうのなどと
議論していることに、
危機感を覚えずにいられない。
信教の自由はどこへ行った?
公権力と私人、という関係性において、
私人の側から、
一時の勢いで、
コイツラは間違っているから潰せ!
と圧力をかけ、
野党政治家がそれを政治利用していることに、
そもそも
民衆の側から自分たちの基本的人権を放棄しようとしている
ムーヴメントすら感じる。
表現の自由についても、
下手すれば、
玉川徹さんの発言を容認することで、
テレビ朝日は偏向報道をしていることを
認めたのも同然だから、
放映権を剥奪せよ!
言い出しかねない。
これがどれほど恐ろしいことか、
理解できないのだろうか?
繰り返すが、
民衆の側から自分たちの基本的人権を放棄しようとしている。
これはもう、
エーリッヒ・フロムのいう「自由からの逃走」とも
言える状況なのではないか。
私の履歴書
西川きよしの
「私の履歴書」は
面白いなー。
戦後日本社会の
空気感が
すごく
伝わってくる。
ほんと
文章うまいと思うよ。
技巧を凝らしているわけでは
決してないのに、
すごく伝わってくるものがある。
もぱようございます。
うん。
いいね。
力がみなぎってくるような感じだ。
メンタルが完全にガス欠だったのに、
思わぬところで
補給できた感じ。
放送大学素晴らしすぎ!
世界史を学ぶとは
いかに面白いことか!
浪人1年目で
受験世界史のレジェンドの
武井正教先生に
ご指導いただいたのは
大きかった。
もう鬼籍に入られたようだが。
昨日授業中に
アルベルト・シュヴァイツァー演奏による
バッハを聴かせていただいたけど、
琴線に触れるものがあるね。
https://www.youtube.com/watch?v=q5cR44WxHio
2022年10月16日日曜日
キリスト教哲学の歴史@八戸サテライト
帰宅。
あれ、オレ信仰に目覚めちゃった?
それはともかく、
あんな学識がある先生が、
辺境の私立大学で
冷遇されているのは、
いかにも惜しい。
単純に文系というだけで
冷や飯を喰わされる時代、
哲学で、さらにキリスト教
となれば、
かなり奉職されるのに苦労されたとか。
カントもヘーゲルも、キリスト教がわかってないと、
ほんとは理解できないってことは、理解した。
アツいやり取りしちゃったよ。
こっちがこんだけサーブ打ち込んで、
あんだけ瞬時にビシバシ返してくれる先生って、
なかなかいらっしゃらない。
まあ、ほんとにいい話を聴かせていただきました。
今学期の初っ端がこんだけ
デカい場外ホームランだと、
これから先どうなっちゃうのよ?
って感じだけど。
新幹線の八戸駅は、
八戸の中心市街地ではないようだけど、
寂しくなるほど辺鄙なところではなく、
かといって
ウザいほど都市化されてるわけでもなく、
しかも
駅周辺ですべて事足りてしまう、
という、
出無精のオレにとっては理想的なロケーションだね。
サテライトキャンパスも、駅に隣接してるし。
空気も美味いし、
高崎から距離はあるはずなのに、
3時間くらいで着いちゃうし、
保養地としては最高。
メシも美味いし。
つっても、
食べたのは唐揚げだけで、
海鮮に手を出す余裕はなかった。
もったいない、とは思うけど、
予想はしてた。
別にグルメ旅しに行ってるわけじゃないし。
脱スマホ依存のススメ
なんで俺最近こんな疲れてるんだろう?と思ったら、スマホのせいだな。スマホそれ自体は確かに便利なんだけど、情報過多なんだよね。例えばツイッターでバズったものをニュースに流して買わせようとしたり。一番タチが悪いのは、ヤフーコメントだね。見るだけにせよ、あんなもので政治的アンガージュマンした気になるのは間違いだし、疲れるだけ。あれは、煽ってアクセス数稼ごうとする低劣な商業主義。観照的態度に徹したほうがいい。そうじゃないと、自分が苦しくなる。
2022年10月14日金曜日
方向性
とりあえず、
母親のクオリティー・オブ・ライフを
最大限高めて、
なるべく
長生きしてもらうっていうことで
いいと思うんだけど。
俺は俺で
楽しみ方を知ってるし。
その後のことは
そのとき考えればいい。
それにしても、
食べる順番ダイエットすげえな。
単純に
タンパク質を先に食べて、
5分待って
炭水化物を食べるっていうだけなのに、
この10年くらいで見たことない数値まで体重落ちた。
食費も浮くし、素晴らしいね。
また小ネタを挟んで申し訳ないけど、
ドイツの家庭料理で、
名前はわからないけど、
キャベツと豚肉をミルフィーユ状にして煮込む料理があるけど、
あれは、それくらい貧しかったから、らしい。
「神聖ローマ帝国の歴史」@山梨大学で聞いた。
なぜ貧しかったか、というと、
30年戦争で、女子供見境なく殺されて、
深刻なデフレになったから、とのこと。
確かに、
あの戦争のあと丸1世紀は世界史の表舞台に出てこないね。
帝国クライスっていう、現在の集団安全保障のもととなるスキームは生まれたけど、
受験世界史ではそこまで出ない。
2022年10月13日木曜日
だぜぇ
今日は母親の病院付き添い。
結果が良好で良かった。
明日から
怒涛の面接授業ラッシュ!
おりんぽ、イキまーす!
https://www.youtube.com/watch?v=oZW5hbKieDU
下痢
牛乳飲みすぎて下痢。
お茶も、自分でも
ヤバいんじゃないか?
っていうくらい飲んでる。
脇腹がやたら攣る。
これ多分けっこうヤバい。
しかも、
一睡も出来なかった。
まーた無意識のうちに
自分に追い込み漁かけちまったかな?
なるようにしかならん。
就職の話はしばらく勘弁してくれ。
こう見えてけっこう繊細に出来てんのよ。
https://www.youtube.com/watch?v=qIqmd1g8GMQ
2022年10月12日水曜日
権力と知 「フーコー・コレクション6」 ちくま学芸文庫 (再掲)
前二千年紀の終わりから前千年紀の初めの東地中海のヨーロッパ社会では、政治権力はいつもある種のタイプの知の保持者でした。権力を保持するという事実によって、王と王を取り巻く者たちは、他の社会グループに伝えられない、あるいは伝えてはならない知を所有していました。知と権力とは正確に対応する、連関し、重なり合うものだったのです。権力のない知はありえませんでした。そしてある種の特殊な知の所有なしの政治権力というのもありえなかったのです。(62ページ) ギリシア社会の起源に、前五世紀のギリシアの時代の起源に、つまりはわれわれの文明の起源に到来したのは、権力であると同時に知でもあったような政治権力の大いなる一体性の分解でした。アッシリアの大帝国に存在した魔術的―宗教的権力のこの一体性を、東方の文明に浸っていたギリシアの僭主たちは、自分たちのために復興しようとし、またそれを前六世紀から前五世紀のソフィストたちが、金銭で払われる授業という形で好きなように用いていました。われわれが立ち会っているのは、古代ギリシアで前五、六世紀にわたって進行したこの長い崩壊過程なのです。そして、古典期ギリシアが出現するとき―ソフォクレス(注:「オイディプス王」の作者)はその最初の時代、孵化の時点を代表しています―、この社会が出現するために消滅しなければならなかったのが、権力と知の一体性なのです。このときから、権力者は無知の人となります。結局、オイディプスに起こったのは、知りすぎていて何も知らないということです。このときから、オイディプスは盲目で何も知らない権力者、そして力余るために知らない権力者となるのです。(62ページ) 西洋は以後、真理は政治権力には属さず、政治権力は盲目で、真の知とは、神々と接触するときや、物事を想起するとき、偉大な永遠の太陽を見つめるとき、あるいは起こったことに対して目を見開くときに、はじめてひとが所有するものだという神話に支配されるようになります。プラトンとともに西洋の大いなる神話が始まります。知と権力とは相容れないという神話です。知があれば、それは権力を諦めねばならない、と。知と学識が純粋な真理としてあるところには、政治権力はもはやあってはならないのです。 この大いなる神話は清算されました。ニーチェが、先に引いた多くのテクストで、あらゆる知の背後、あらゆる認識の背後で問題になっているのは権力闘争なのだ、ということをを示しながら、打ち壊し始めたのはこの神話なのです。政治権力は知を欠いているのではなく、権力は知とともに織り上げられているのです。(63ページ)
報道と演出
玉川徹さんの発言で、
報道の作成段階で、
演出する側の意図が入る、
みたいな発言して、
それがケシカラン!と
ネットで批判が渦巻いているが、
そもそも
報道に完全にバイアスの掛からない
あり方って、
根本的に無理だと思うんだけど。
それは、
何を報道するか、報道しないか、の選択の段階で
すでに
”演出”は入りこんでいる。
例えば
現在、世界最悪の人道危機が発生しているとされている
イエメン内戦にしても、
日本のマスメディアで、
映像として流しているところは
ほとんどないだろう。
それは、
映像を撮ってくること自体が危険ということもあるだろうが、
対立構造が、
単純にどっちが悪で、どっちが正義、
という
二元論が成り立ちにくい、という性質も起因しているだろう。
もっと簡単な例で言えば、
イラク戦争で、
サダム・フセインの立像が、
多くの民衆によってなぎ倒され、
蹴飛ばされる映像がよく流されるが、
あれを、ちょっとズームを退いて見ると、
じつはせいぜい百人ぐらいの人数しか集まっていない。
つまり、
ちょっとした映像の撮り方次第で、
”事実”は一変してしまうのだ。
自然科学ならともかく、
社会科学とは根本的にそういうものだ。
完全に偏向や”演出”から自由な報道など、
原理的に存在しない。
JAM
なんか、どうも
中国と北朝鮮は、
日本は
自民党に支配されているほうが
好都合だ、
とでも思っているんじゃないか?
日中国交正常化の記念日(だっけ?)の
ときも、
向こうから手を差し伸べて来たし、
その
直後に北朝鮮が
弾道ミサイル撃って、
Jアラート発したし。
これって、
自民党がさすがにちょっとヤバいんじゃないか?
っていうタイミングだったんだよね。
上記のようなことが起こると、
どうしたって、
やっぱり自民党が政権を担っていてくれないと!
っていう発想になるよね。
なんかなー、出来すぎてる感じがして仕方がない。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221011/k10013855221000.html
俺:I have a supposition. It seems both China and North Korea prefer Japan, which is ruled by the LDP. In the midst of the LDP’s political foundation is at stake, China literally reached out its hands and North Korea launched a missile. Both benefited the LDP, threatening the Japanese people into believing the legitimacy of the rule by the LDP.
ジョンさん:For domestic political consumption both communist countries prefer LDP-ruled Japan as the LDP more closely conforms to the 1931-45 stereotype of Militaristic Japan. Anti-Japanese political points can then be scored by the communist governments to strengthen their own hold on power as the people of both nations are still very suspicious of Japan. South Korea does this as well. Of course LDP and it’s love affair with Yasukuni Jinja and denial of Nanjing Massacre and Comfort Women plays right into the hands of Its communist neighbors as well as South Korea. So both LDP and the Reds benefit.
LDP, as you correctly say, benefits politically from provoking China and Korea. And they benefit politically from standing tall against LDP perennial provocations like Dokdo island dispute.
It is a mutually beneficial symbiotic relationship between LDP and China/Two Koreas. They need each other.
俺:仮説なんだけどさ。中国も北朝鮮も、自民党が支配する日本を好んでいるようです。自民党の政治基盤が危うい中で、中国は文字通り手を伸ばし、北朝鮮はミサイルを発射した。どちらも自民党を利し、日本国民を脅して自民党支配の正当性を信じ込ませた。ジョンさん:国内の政治的消費のために、共産主義国はどちらも自民党支配の日本を好む。自民党は1931-45年の軍国主義日本というステレオタイプにより近いからだ。そうすれば、共産主義政府は反日的な政治的ポイントを獲得し、自国の権力を強化することができる。両国の国民はいまだに日本に対して強い疑念を抱いているからだ。韓国も同様である。もちろん、自民党は靖国神社を愛し、南京大虐殺と慰安婦を否定しているので、韓国と同様に共産主義的な隣国の手のひらに乗っているのだ。つまり、自民党と赤軍の両方が利益を得ているのです。自民党は、あなたが正しく言うように、中国と韓国を刺激することで政治的な利益を得ています。そして、独島問題のような自民党の度重なる挑発に対抗することで、政治的に利益を得ているのです。自民党と中国・朝鮮半島の間には、相互に利益のある共生関係があるのです。彼らはお互いを必要としている。
www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。
https://www.youtube.com/watch?v=xv55yyNxCuE
貴重なデータ
JAXAの國中均さんのおかげで、
武蔵といえば太陽観測部(略してタイカン)
が象徴的存在というか、
武蔵の広告塔になってるみたいだけど、
オタクだらけの
武蔵において、
タイカンも割と
オタク度強めで、
理科棟の屋上にある
タイカンのパラボラアンテナに、
メタさんが
テニスボール投げつけて遊んでたら、
怒って出てきた
タイカン部員が、
「我々は貴重なデータを収集しているのだぞ!」
と叫んで、
それ以来そいつのあだ名が
「貴重なデータ」
になった。
らしい。
三国志?!
周瑜という中国籍の男が、
銭湯で万引きをしたとかで
逮捕されたらしい。
呉はどんな策略を巡らせたんだ?
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022101200606&g=soc
2022年10月11日火曜日
共有地の悲劇とグローバル社会
経済学で、多くの人の利己的な行動によって共有資源が枯渇すること。 山林や漁場などの共有地( 入会地 いりあいち )において、各自が適量を採取すれば存続できる資源も、自己利益のために濫伐・乱獲する者が増えれば枯渇し、共有地全体の荒廃を招くことから。コモンズの悲劇。(強調スニペットより)
グローバル社会と、ある程度閉じた系の地域社会とでは、行動規範が異なってくるのではないか。
グローバル社会ならば、自己の利益を追求することさえ考えれば良く、そのリスク管理は数値化されたデータと、情報工学に基づいて行われていた。
しかし、ある程度閉じた系では、情けは人の為ならず、で、他人へ利益を譲ることが、巡り巡って自分のタメになる、という論理も成り立つだろう。
サバルタン
めぐり合わせもあるけど、
たぶん今が人生の黄金期なんだろうな。
今日、高崎市のサポートセンターの方が来てくれて、
お話をうかがったけど、
A型だのB型だの
作業所みたいなのがあるらしいが、
自分は割と
知的障害者の方とはそんなに違和感なく
付き合えそうだけど、
養護学校系を卒業?した方、まあざっくり言って
知能がそれほど発達していない、
と言ったら失礼だし偏見なんだろうけど、
クッソ頑張って東京の難関進学校でて、
2浪もして慶応入って、
9年間もいて卒業できず、
その後
大学生生活を通算15年も続けて
ようやく卒業して、
いま2回目の卒業を果たしたのに、
たどり着く先がそこっすか?!
と、正直言いたくなる。
精神障害者というだけで、
十把一絡げに、
そういうところでしか働けないのか?
まあ、
現実には
隠して働きゃいいだけで、
一応実質半年とはいえ塾講師やった経験もあるし、
社会が精神障害者にとって働けない仕組みになってるわけじゃないが、
なんかもう、ほんとに
そっからっすか?!
と言いたくなる。
まあでもね、
この世知辛いご時世で、
障害年金を始めとして
さまざまな特権を得てんだから、
それ相応なのかな、とは思うけど。
とはいえ、この俺の見方にも、
無意識に刷り込まれた偏見が入り込んでいるのだろう。
つまり、養護学校系の学校と、東京の難関進学校、という対比、
そこに浮かび上がるヒエラルキー構造、
そこでかつて勝者だった自分。
そして、
そもそもそのヒエラルキーに乗ることすらできない
サバルタンとしての
知的障害者、という存在設定。
もちろん、
そこには
知的障害者は無垢で心がキレイだ、だから、
イイ人の俺は彼らとは付き合える、という、捏造された神話の存在。
こうした、重層的な、偏見と、隠された優越意識が、透けて見える。
https://www.youtube.com/watch?v=75Qyszz3RSg
(メタリカのライブ。どんだけカロリー使ってんだよ。。。)
まあ、自分が見て見ぬ振りしてきた
自分自身の精神構造に気づけたのは良かった。
まずはこれが第一歩。
食べる順番ダイエット
NHKでやってたけど、
タンパク質を先に食べてから、
炭水化物を
食べると、
炭水化物を食べる量が減るらしい。
GLP-1とかいうホルモンが分泌されて、
脳の満腹中枢を刺激し、
胃腸の働きも穏やかになって、
食欲が満たされるとのこと。
ここ1周間くらいやってるけど、
確かに、
タンパク質を食べてから、
タイマーで5分測って、
3分くらいすると、
もうご飯はいいかな、
という気になってくる。
不思議だ。
体重は変わってないけど、
食事量は減ったし、
体も少し締まって来たかな?
という気がする。
調子に乗って
炭水化物摂取する量を極端に減らすのも
ダメだけどね。
雑感
機械翻訳使う機会が多くて、
最近感じるのは、
人工知能という言い方が
正しいのかは
よくわからないが、
使いこなせる
ヤツは
賢くなるし、
なんでもかんでも
人工知能に
丸投げするヤツは、
少なくとも
その分野に関しては
バカになる。
という気がする。
そういう意味では、
政治家はいらねー、
人工知能でいい、
最終決定は
猫とかゴキブリでいい、
という論は、
国民を果てしなく
バカにすると思う。
結局その
しっぺ返しを喰らうのは、
国民だ。
2022年10月10日月曜日
秋の夜長に
「フードシステムと日本農業」
ちょっと試しに聴いてみたけど、
3日もあれば
全部聴けるか、なんて
思っていたが、
とんでもない。
講師の方の
ひたすらテンション低めの
喋りが逆に心地よく、
第一回の授業を視聴し終えたが、
すごい濃厚な内容で、
かなりヘビーだった。
これは本腰を入れないと。
第二回視聴。
第一回とは別の方の授業。
明るく、第一回ほど早口ではなく、
そのヘビーさは比較的軽かったが、
非常に面白い話でした。
なんでいきなり農業経済学?
と我ながら思うんだけど、
思えば
円安やらロシアのウクライナ侵攻やらで、
今まで当たり前と思ってきた
食料供給が、
実は根底から動揺させられているのではないか?
ということは、
うすうす感じてたからね。
今年開講された科目だから、やっぱり
タイムリーな内容だね。
第三回視聴。
第一回が総論的な内容を詰めての話だったから
ヘビーだったけど、
各論に入れば、
そんなに難しい話ではなく、
かつ
タメになる話がたくさん聞けた。
第四回視聴。
これはなかなか名講義だな。
情緒を排して、
ミクロ経済学の手法を用いて
なぜ
日本の農業が苦しいのか、を
経済学的に論じている。
自分も一応ミクロ経済学そのものは
学んだが、
今まで
応用する場面に出くわさなかったが、
こうやって使うのか!と
目から鱗が落ちる思いです。
いい授業でした。
今日はこのへんで。
ミクロ経済学レベルで、
いかに消費者が
安い価格を追い求めるか、
という
日本人のデフレマインドの構造が
あぶり出されてきたね。
結構大きな話になってきた。
やべっ
新聞読むつもりで、
その前にトイレ行ったら
何をするつもりだったか忘れた。
しかも、
今朝の新聞をすでに読んでいたことすら
忘れていた。
切り抜きまでしたのに。
トシとると忘れっぽくなる
ってほんとだなー。
人の名前とか
いつまで経っても覚えられん。
それはともかく、
ふと放送大学に
天気の授業あったなーと思って、
すぐに
探してみたら、
「はじめての気象学」という
放送授業があった。
こんなものまであるのか。
ブラタモリの影響かな?
子供の頃は、
天気なんてものは
分析したところでどうこうなるものじゃない、
と思ってたけど、
気候変動が明らかにその姿を明瞭にするなか、
そもそも
気候ってなんだろう?
と
頭の片隅で気にはなっていたし、
ブラタモリの影響で、
社会科学や人文系だけではなく、
自然科学の面から
世界を見るのも
面白いだろう、
という気はしていた。
どうせ
面接授業終わったら、
下手すると
4月まで何もすることがないから、
どうしようかと思っていたので、
ハマれば面白い。
授業のクオリティーも高そうだし、
これだけの授業内容を、
いっさい課金ナシで
視聴できるってのは、
ほとんど民業圧迫だぜ。
風見鶏
やっぱり安倍の国葬なんかやるんじゃなかったね。
国葬という既成事実を作っておいて、
それを「負債観念」として植え付けられ、
それをテコにして
改憲しよう、なんて魂胆が透けてくると、
本気で嫌になる。
「一刻も早い改憲こそ安倍氏への最良の供養だ。」
とのこと。
ふざけんじゃねーよ!
2022年10月9日日曜日
キターッ!!!!
パ・リーグCS第2戦、
2番サード平沼翔太スタメン!
昨日は出番なかったけど、
大一番で
辻監督の信頼をうかがわせる。
今シーズンで
辻監督が退任してしまうのが惜しい。
第一打席は見逃し三振。
だけど、
やっぱりセンスあるね。
2球続けてインハイのまっすぐだったけど、
カットして逃げることも出来るだろうけど、
初回だから、
下手に手を出すよりも、
今のはギリギリのコースを突かれた、
っていう印象を
相手ピッチャーに与えるってのは、
すごく大事。
そうすると、
相手ピッチャーも苦しくなるし、
審判も人間だから、
いわゆる「ストライクゾーンが狭く」なる。
上位にこういう選手がいるってのは、
相手からすれば
ものすごい厄介。
素晴らしい。
西武先発の今井は、
イライラを隠そうともしないようじゃ、
話にならない。
直球主体で行くのか、
変化球主体で行くのか、
そもそものスタイルを決めたほうがいい。
今井にエンス投手並みのメンタルがあれば、
かなり違うんだろうけどな。
この程度の投手が
CSの第2戦で先発するようじゃ、
西武が優勝できないのは当然。
別に西武のファンでも何でもないからいいけど。
平沼が見たいだけ。
内角の厳しいコース
突かれ始めたから、
シーズンオフにそこを改善すれば、
もっと厄介なバッターになれる。
https://www.youtube.com/watch?v=ZW12JIxFRE8
2022年10月8日土曜日
古典をナメてはいけない
世界卓球の中継をしている。
解説の水谷隼さん、
初めて見た時、
過去の経験から、
かなりいけ好かない人なのかと
思い込んでた。
なぜかというと、
SFCで、
俺が病気になる直前だけど、
サッカーサークルに
新入生として
入ってきたクソガキに顔が似てるから。
水谷隼さんは素晴らしい人だけど、
水谷さんに似てるそのクソガキは、
会って数時間で
俺に対して
「生理的に受け付けない」とか
ほざきやがって、
デカい口ばっかり利いてた。
全くの素人のくせに。
つってもワタシ模範人間
殴ったりするのは
ノーセンキュー♪
ところで、
お前みたいな軽薄で、
キレなさそうなヤツは
年上だろうとなんだろうと、
踏み台にする人間がいたとしよう。
そこで、
周りの人間がお前のようなヤツばかりだとしたら、どうする?
一つの現実的な安全策としては、
紳士協定を結んで、
それ以外の
スケープゴートを設定して、
いじめる、という方法だろう。
これは確かにありそうなことだ。
では、もし仮に
社会の全員がお前のようなヤツだとしたらどうする?
それはもう、
いくら紳士協定を結んだところで、
果てしない猜疑心に悩まされて、
ついにはお互いを殺戮し始めるだろう。
これが、まさに
トマス・ホッブズが言うところの、
「万人による万人に対する闘争」であり、
「自然状態」と呼ばれるものだ。
そのような悲惨な状態を解決する手段として
ホッブズが導き出したのが、「リヴァイアサン」だ。
社会の構成員が、自らの、生存権以外の権利を、
一斉にリヴァイアサンに預けることによって、
社会の秩序を構成する、という発想が、
社会契約論のそもそもの始まりだ。
この話を、山岡龍一先生の面接授業で
何回も聴いた。
https://www.youtube.com/watch?v=8zSODUOoE8w
素晴らしすぎる!!!!
「金融と社会」を今年の1学期に
科目登録して、
1科目につき
質問は6回まで、
と制限があって、
1学期に
その回数を使い切って、
もう
質問は
来年に科目登録して
授業料払わないと
出来ないんだろうな、
と思ってた。
質問するためだけに、
敢えて単位は取らないでいたのだが。
科目登録して2学期経って
単位が取れなければ、
また
授業料払って
科目登録することになる。
そのつもりでいた。
ところで、
卒業して再入学して、
1学期に科目登録して、
2学期に持ち越されてるのかな?
と頭の片隅にはあったが、
気にしなかった。
それで、
仮に
2学期に繰り越されていたとしても、
いずれにせよ
質問箱は使えないんだろう、
と思い込んでいた。
そこで、
財政と経常収支の関係について
突っ込んだ質問を、
財政学の
質問箱にぶつけてみたんだが、
一週間経っても返事が来なくて、
焦れたので、
試しに
「金融と社会」の
質問箱を使ってみたら、
なんと
質問できるじゃあ〜りませんか?!!!
もう
質疑応答を繰り返してる先生だし、
レスも早い方なので、
気分ウッキウキ♪
どんなご回答を頂戴できるか、
楽しみで仕方がない。
もう放送大学、太っ腹すぎ!
https://www.youtube.com/watch?v=-zKOhVSERS8
衰退途上国
ネットで玉川さんをテレビに出すな、
とか騒いでる連中は、
そもそも
玉川さんが
テレビでコメントしてることの
ありがたみが全くわかってないんじゃないか?
それはもう、
豚に真珠、猫に小判だよ。
国が貧しくなるってこういうことか。
自分ではリスク取らずに安全にリターンを得ようとしてるくせに、
玉川さんとか狩野英孝とか太田光みたいに、
すげえリスクかけて盛り上げようとしてる人を
ディスってんじゃねえよ!
まずはテメーがリスクとれ!
ま、えーこーちゃんはリスクとってる自覚すらないだろうけど。
そこがまた面白い。
https://www.youtube.com/watch?v=md3B3I7Nmvw
2022年10月7日金曜日
your song
自分の頭の中身がだいぶ仕上がってきたってのもあるけど、
母親も、父親が生きてる間は、
つねにオトウサンオトウサンだったし、
生きることは尽くすことと見つけたり、
みたいな感じだったから、
つねに他人のことばかりで、
自分自身をないがしろにする人生で、
どっかで距離のある感覚だったけど、
それがようやく
呪縛から解放されて、
こうやって親子らしく時間を過ごせるってのも、
すごい貴重な時間なんだろうな、と思うよ。
メシは全部ヘルパーさんがやってくれるし、
俺も障害年金で自動的にお小遣い入るし。
いい人生じゃないか。
https://www.youtube.com/watch?v=GlPlfCy1urI
原発は必要
今日の日経の記事(7面)によると、
ポスト新自由主義、
脱グローバル化の
流れで、
アメリカでは
むしろ
製造業、
しかも
中規模株式非公開企業が
復権しつつあるとのこと。
日本は特に
中京地域で
ナントカ精機とかが強いらしいが、
ようやく
モノづくり、という
日本が強みを持ってる分野に
焦点が当たり始めたのに、
電力供給が不安定というのは
国際競争力の面から見ても、
あまりにもったいない。
冬だから太陽光発電できません、
では話にならない。
原油価格高騰と円安で、
火力発電も
コストかかるし。
ですって、次郎さん!
まえ、
芝大門の港区役所に行った帰りだったか、
山手線に乗っていて、
たしか
田町かどこかから乗ってきた
30代前半くらいの
サラリーマンのことだが、
昼時で、
電車に乗り込むとき、
数人の中年女性グループが、
緩慢に
電車に乗り込むものだから、
そのサラリーマンが
無理やり押しのけて
乗車したんだが、
女性グループに
逆ギレされて、
出てきた言葉が、
「だって!」
だった。
まるで子供みたいで、面白かった。
俺からすれば、
田町あたりで乗ってくる
30代のサラリーマンなんて、
働けなくて、
たぶん障害者手帳(しかも精神)か何かの更新とかで
区役所まで行ってきたのに、
彼は
雲の上のさらに上の存在なのに、
その人が、
おばさんグループに、
子供みたいな言葉を吐いてるんだから、
あまりに滑稽で、記憶に残った。
それはともかく、
昼時の浜松町といえば、
超肥満のサラリーマンが
平気で闊歩していて、
喫煙所なども設置してあり、
父親を見てきた自分としては、
あなたたち
生活習慣あらためないと、
エライことになるよ!
と言ってあげたいくらいだった。
あの界隈は、サラリーマンの聖地らしく、
おそらく中華料理屋もあるんだろうが、
それも霞むくらい、
エキゾチックで、思わず
食欲と好奇心をかきたてられるような、
しかも
リーズナブルな価格の飲食店が多い。
自分はいつもドトールぐらいにしか寄らないが。
なぜなら、そういう店で食事をすると、
自分も肥満が加速することを知っているから。
https://www.youtube.com/watch?v=CLXN-zeqHgs
2022年10月6日木曜日
僕KとかWには負けないから!
まえ、面接授業で滋賀にいたとき、
たまたま
ハトさんが仕事で大阪にいて、
京都の
けっこういい店で、
メシご馳走してくれたんだけど、
本当に美味いものって、
食べるのゆっくりになるよね。
びっくりした。
超早食いの俺が、
こんなに食べるのが遅くなるなんて!
しかも、
大して食べてないのに、
お腹いっぱいになっちゃうの。
2度びっくりした。
そのあと京都でラーメン食べようって
誘われたけど、
断った。
ごちそうさまでした。
育ちのいい政治家、
安倍とか麻生とか。
アイツラいいもんばっか
食べてっから
体型もスマートなんじゃないか?
って、勘繰りたくなる。
それにしても、
俺には京都という街は大きすぎる。
どこがどうなってんのかサッパリわからん。
津和野のほうがいい。
それにしても、
ハトさんは
適当に地図を見ながら、
なんの迷いもなくズンズン突き進んでいって、
目的の料理屋のみならず、
閑散とした
夜の京都の観光名所を、
容赦なくガイドしてくれて、
まあ、ぶっちゃけ
院生の時バイトで
はとバスのガイドやってたから
ネットの上ではハトさんと書いてるだけだけど、
ああいう、
知らない街だろうがなんだろうが
ガンガン突き進む能力は、
見倣いたいところだけど、
俺には一生無理なことは十分わかっている。
メタさんにしても、
難関国家試験を突破する能力それ自体が凄いだけでなく、
英語が特別できるわけでもないのに、
家族を連れて
渡米して
もう何年もアメリカで仕事してるんだから、
それも
俺には真似できない。
俺なんて、
コツコツやる能力はあると思うけど、
ほんとにただランダムウォークしてるだけで、
放送大学にたどり着かなかったら、
なんの結果も残せなかったし、
今でも全くカネ稼げない
微塵もバイタリティーのない
凡人以下の
行きあたりばったりの
凡人でしかない。
英語こんだけ勉強して、
英語圏行ったことすらないし、
それ以前に、20年前に
これもハトさんに連れられて
韓国に
1泊2日の海外旅行しかしたことない。
しかも、
その帰りに
関釜フェリーのなかで、
山陰本線に乗って帰りたいという俺に、
ハトさんが時刻表を手渡してくれたんだけど、
読み方が全くわからず、
キレられた。
でも、
小郡(現新山口)から
特急に乗れば、
サンライズで帰れると教えてくれて、
その上、
サンライズが岡山で停車しているときに、
ホームで出迎えてくれた。
俺は高校からだから逆に武蔵入れたけど、
中学からは無理だっただろうな。
今から思えば、
こういう人たちが
武蔵中に受かるのか、
俺には無理だ、と実感するもん。
サニチにいた時は、ほんとに自惚れた
お山の大将だったけど、
ほんとに
圧倒的に自分は何も出来ない、
と思い知らされないと、
努力なんかしないし、
そうでなければ
個性なんて語る資格はない。
そんなものは、ただほったらかしにしてれば
自然に発露されるという類いのものではない。
俺はといえば、
彼らを名前で呼び捨てにしたり、
無論のこと、
陰口を叩いたりしたことは、
一度もないと断言できる、
という
律儀さだけが取り柄。
と言っても、それは
いつまで経っても外様意識が抜けない
裏返しでもあるのだが。
最近ようやくそうでもなくなってきたけど。
20代半ばから
10年くらい、
ひたすら
働け!と、
ありとあらゆる角度から
メタル責めされたけど、
彼らはどんな時でも誠実で、
屁理屈を弄んで
俺を馬鹿にする、
ということはなかった。
そこは慶応の連中とは
根本的に違う。
無聊を託つ
暇だな・・・
暇なら働きゃいいじゃん、
母親も、
何も言わず
一人で郵便局行けるほどに回復したし。
しかし、
俺が暇だから働く、
となれば、
母親はどうなる?
俺より暇じゃないのか?
暇だってそれなりに苦痛であることを
理由に、働こうかな、なんて言ってる息子が、
母親を放置していいんだろうか。
ん?でも俺って、実はそれなりに体力ついてきたんじゃないか?
連日エキサイトしてるのに、それなりに朝早く起きられるし。
睡眠の質もいいし。
ところで、最近また世間のマインドがデフレの方向に向かってる気がする。
テレビとかでも、いかに食事などを安く済ませるか、という内容が散見される。
母親も、飯尾和樹がワンコインで賢く食費を浮かせてて、偉いと言っている。
円安と資源価格高騰による
コストプッシュ・インフレの影響と、
それでも企業の価格転嫁が進まずで、
結局、名目賃金が上がったとしても、
実質賃金が目減りしているから、
当然と言えば当然なんだけど、
そもそも
期待インフレ率を上げて、実質金利を下げることにより、消費を喚起することが
インタゲの主眼目のはずだったのに、
これじゃ本末転倒じゃないか。
ただのスタグフレーション。
黒田日銀は、日本経済を永久凍結させる気か?
見方によっては、富の分配の偏りは、消費の低迷によって
国全体を貧しくする、ということも言えるだろう。
そもそも、少子高齢化が進めば、
老人の支出が減るのは当たり前だし、
働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、
消費を控えるのは当然だろう。
それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。
政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。
デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、
家計が現預金を貯め込むことで、
結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。
尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、
財政の規律が緩むことは目に見えているが。
目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、
フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、
物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、
日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、
その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、
日本の家計はそこまで合理的ではなく、
現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。
それはそれでいいだろう。
緩慢な死を迎えるだけだ。
https://www.youtube.com/watch?v=c8qrwON1-zE
言い訳でもないけど
さんざんSFCディスってますけどね、
自分なりに総合政策学とは何か?
その具体的な姿
を追究してるだけのつもりなんですよ。
https://www.youtube.com/watch?v=thGpKa0MGa4
漱石とアドルノー「それから」を題材に (再掲)
代助は、
百合の花を眺めながら、
部屋を掩おおう強い香かの中に、
残りなく自己を放擲ほうてきした。
彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、
三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。
その過去には離すべからざる、
わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。
彼はしばらくして、
「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。
こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。
何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。
始から何故自然に抵抗したのかと思った。
彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、
純一無雑に平和な生命を見出みいだした。
その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。
雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。
だから凡てが美しかった。
やがて、夢から覚めた。
この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、
代助の頭を冒して来た。
彼の唇は色を失った。
彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。
爪つめの甲の底に流れている血潮が、
ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。
彼は立って百合の花の傍へ行った。
唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。
彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章)
もっとも、アドルノが主観と客観との絶対的な分離に敵対的であり、
ことにその分離が主観による客観のひそかな支配を秘匿しているような場合には
いっそうそれに敵意を示したとは言っても、
それに替える彼の代案は、これら二つの概念の完全な統一だとか、
自然のなかでの原初のまどろみへの回帰だとかをもとめるものではなかった。(93ページ)
ホーマー的ギリシャの雄大な全体性という若きルカーチの幻想であれ、
今や悲劇的にも忘却されてしまっている充実した<存在>というハイデガーの概念であれ、
あるいはまた、
人類の堕落に先立つ太古においては名前と物とが一致していたというベンヤミンの信念であれ、
反省以前の統一を回復しようといういかなる試みにも、
アドルノは深い疑念をいだいていた。
『主観‐客観』は、
完全な現前性の形而上学に対する原‐脱構築主義的と言っていいような軽蔑をこめて、
あらゆる遡行的な憧憬に攻撃をくわえている。(94ページ)
言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、
結局は進歩という性格をもっていたのである。
『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、
ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、
人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。
アドルノからすれば、
人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、
そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、
それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、
きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。
というのも、
主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、
反省の能力を失うことを意味しようからである。
たしかに、
主観と客観のこの区別は、
マルクス主義的ヒューマニストや
その他の人びとを嘆かせた
あの疎外を産み出しもしたが、
それにもかかわらず
こうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ)
理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、
とアドルノは主張する。
「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、
それだけ人間そのものが精神のおかげで
創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として
高められることに、
慰めをもとめるようになるのである。」
言いかえれば、
観念論者たちのメタ主観は、
マルクス主義的ヒューマニズムの説く
来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、
管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。
ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって
一つの規範的目標として称揚された
全体性というカテゴリーが、
アドルノにとっては
「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であった
というのも、こうした理由による。
「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
こういう風に考えてみて下さい。主体化した人間は、主客未分化で混沌とした自然から離脱して自立しようとしながら、
その一方で、身体的欲望のレベルでは自然に引き付けられている。
自らの欲望を最大限に充足し、完全な快楽、不安のない状態に至ろうとしている。
それは、ある意味、自然ともう一度統合された状態と見ることができます。
母胎の中の胎児のように、主客の分離による不安を覚える必要がないわけですから。
そして、そうした完全な充足状態に到達すべく、
私たちは自らの現在の欲望を抑え、自己自身と生活環境を合理的に改造すべく、努力し続けている。
安心して寝て暮らせる状態に到達するために、
今はひたすら、勤勉に働き続け、自分を鍛え続けている。
しかし、
本当に「自己」が確立され、
各人が計算的合理性のみに従って思考し行動するだけの存在になってしまうと、
自己犠牲によって獲得しようとしてきた自然との再統合は、
最終的に不可能になってしまいます。
日本の会社人間の悲哀という形でよく聞く話ですが、
これは、ある意味、自己と環境の啓蒙を通して、「故郷」に帰還しようとする、
啓蒙化された人間全てが普遍的に抱えている問題です。
啓蒙は、そういう根源的自己矛盾を抱えているわけです。(「現代ドイツ思想講義」作品社 148ページ)
かなり抽象的な説明になっていますが、エッセンスは、先ほどお話ししたように、
自然との再統合を目指す啓蒙の過程において、
人間自身の「自然」を抑圧することになる、ということです。
啓蒙は、自然を支配し、人間の思うように利用できるようにすることで、
自然と再統合する過程だと言えます。
自然を支配するために、私たちは社会を合理的に組織化します。
工場での生産体制、都市の交通網、エネルギー供給体制、ライフスタイル等を合理化し、
各人の欲求をそれに合わせるように仕向けます。
それは、人間に本来備わっている“自然な欲求”を抑圧し、人間の精神や意識を貶めることですが、
啓蒙と共にそうした事態が進展します。
後期資本主義社会になると、その傾向が極めて顕著になるわけです。
それが、疎外とか物象化と呼ばれる現象ですが、
アドルノたちはそれを、資本主義経済に固有の現象ではなく、「主体性の原史」に既に刻印されていると見ます。(「現代ドイツ思想講義 作品社」150ページ)
アドルノについては、ポスト構造主義が大きくクローズアップされた80年代から しばらくの間、私たちでも手に取るような一般的理論書の引用、あるいは論文の 脚注で名前はよく知りながら、レポートを拝見して、初めてその具体的実像について アウトラインを教えて頂いたことになります。 理性と個人の誕生に重きを置きながらも、それが疎外を産み出さざるをえない 一種の必然に対して、それを批判しながらも反動的な主客合一論へは与しない、 むしろ代償を支払いながら手にする「反省能力」に信頼を置く…… こんな感じで理解しましたが、何より漱石との親近性に瞠目に近い思いを 抱きました。漱石の文明批評は、いうまでもなく「近代」批判なのですが、 しかしけっして、傷だらけになりながらも獲得した「個人」を手放そうとはしません でした、それが彼を果てしない葛藤に陥れたにも拘わらず。 レポートを拝見させて頂き、末尾の件り――アドルノの「疎外」批判が、 それを資本主義に固有の現象としてそこに帰させるのではなく、「主体性の歴史」 に「刻印」されたものとして把握しているとの括りに、漱石との類縁性を改めて実感 し直すと同時に、漱石論への大きな励ましのステップを頂戴する思いです。 本当に有り難う。 なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。 しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。 三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。 こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。
静岡大学 森本隆子先生より
効くねー
気休めだと思って、
市販の眼にいいサプリ飲んでるんだけど、
寝る前に飲んで、
しっかり眠ると、
凄い効く。
あながちバカに出来ない。
視力が回復してるかどうかまではわからないが、
ボヤけが緩和されるし、楽になる。
とうとうメガネか、と思っていたが、まだ大丈夫。
私の履歴書
西川きよしさんの連載だけど、
そっかー、そんなことがあったんだなー、と、
不覚にも目が少し潤んでしまう。
それのみならず、
その当時の
政治・経済・社会のことが散りばめられていて、
戦後の日本の空気感が伝わってきて、
すごく勉強になる。
変に政治史で
どの政治家がどこの国と
国交回復しただの、
条約調印しただの、
何派がどうしただの、
なんて話より、
よっぽどタメになる。
西川さん自身が国会議員だった時期もあるから、
真面目な西川さんのことだから、
ちゃんと社会へ眼差しが向けられてるんだろうね。
何より、文章が凄く上手い。
技巧を凝らしている訳では決してないが、
限られた文字数の中で、非常に簡潔かつ要点を押さえた文章になっている。
「私の履歴書」を切り抜きするなんてのは初めてのことだが、
幸いにも第一回の連載分から入手できたので、
切り抜いて保存することにした。
非常に貴重な資料。
2022年10月5日水曜日
ボードレール 「フーコー・コレクション6」 ちくま学芸文庫 より (再掲)
ボードレールにとって、現代的な人間とは、自己自身の発見、自らの秘密および自らの隠された真理の発見へと向かう人間ではない。 現代的な人間とは、自分自身を自ら創出する人間のことなのだ。 現代性は、「人間をその固有の存在へと解き放つことはない」。 現代性は、人間を、自分自身を作り上げるという使命に縛り付けるのである。 (379ページ) (中略) <現在>のこうしたアイロニカルな英雄化、現実的なものを 変容させるために現実的なものと取り結ぶ自由の戯れ、 自己の禁欲的な練り上げ、 ボードレールはそれらが社会自体のなかで、 あるいは政治体のなかで 成立しうる、 とは考えていない。 それは、他の場所でしか起こりえないのであり、 その場所こそ、 ボードレールが 芸術と呼ぶものなのである。 (380ページ)
シーシュポスの神話
なぜ英語を勉強するか?
この、人間が万物の尺度と化した世界で、
登るべき山が存在する、ということそれ自体が、素晴らしい、と思いませんか?
山があるなら、もう登るべき理由もへったくれもないでしょう。
ただそこに山があるから、登る。
それだけですよ。
第二外語(インテンシブ)
SFCで、最初に色んな
オリエンテーリングやるんだけど、
そんなかったりーもん出るわけねーだろ!
ってなわけで、
当然の如くシカトしたんだけど、
まさか
第二外語(インテンシブ、通称インテン)の
初回の授業に出ないとそもそも履修できない、
ということを知らずに、
朝鮮語の2回目の授業に出席したら、
教員も含めてクラスの全員にシカトされて、
あれ、オカシイな?って感じだった。
まさか週に4日も第二外語の授業があるとは夢にも思わなかった。
最初からそんなんだよ。
英語にしても、
入っていきなり半強制でTOEIC受けさせられて、
400いかなかった。
これじゃ話にならん、と思って、
自分でもうちょっと勉強してからじゃないと、
授業受けたくない、と思ってるうちに、
今度はTOEICじゃなくてTOEFLが必須要件とかになって、
そんな急に方向転換できるわけねーだろ?!
って感じだった。
英語で単位稼ごうとしても、
巧妙に履修制限が設けられてて、
英語と小論文で入学したやつが
英語で単位稼げないような仕組みになってた。
ほんと、どこまで意地が悪いんだ。
ま、SFCなんかに頼らなくても、英語上達したけどね!
放送大学はいいよ。
そんなケチなこと言わねーし、
ちゃんと身になる内容の授業あるもん。
「英語で読む大統領演説」とかね。
素晴らしいよ。
https://www.youtube.com/watch?v=3vSH9pMzHm0
危機の二十年 岩波文庫 (再掲)
「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」 E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より
日常
昨日
余計なこと思い出して
ムカついて、
今日は
高崎市の障害者サポートの方が来る予定
だったんだけど、
いま下手に仕事が
どーのこーの
言われると、
マジギレしてしまいかねないので、
キャンセルして、
しかも
昼間新しくシフトに入ってくれた
ヘルパーさんの態度にムカついて、
事業所と相談して変えてもらって、
あー、今日も疲れたなー、
なんて思ってたんだけど、
夕方のヘルパーさんが、
大ベテランで、
気も合うし、話も弾んじゃって、
母親と大して年齢変わらないのに、
思わず、おばあちゃん!って言いたくなっちゃうような感じで、
テンションあがったわー。
玉川さん謹慎処分
自民党が心の底から嫌いになった。
今後選挙があっても、
誰が候補だろうと
自民党にだけは絶対に票入れない。
そもそも、
問題の本筋は、
国民の民意の発露であるはずの
選挙において、
果たして
実質的に
自分の意志で票を入れたと
言えるのかどうか
疑うような
やり方で、
長年自民党が
選挙で勝ってきたのに、
それを
どう考えるか?であって、
テレビのコメンテーターが
ちょっとミスったからどうこう、
という話に
いつの間にかすり替わっている。
みんな自民党の手のひらで転がされてる。
ふと思ったんだが、
お笑いが浸透しすぎて、
自分がウケたかウケなかったか、
で、物事判断してないか?
自分がウケたら、それは正義、
自分がウケなかったら、それは悪。
そんな基準で政治を
価値判断してるんだったら、
この国に未来はない。
頼むから放送大学はいって、
山岡先生の講義を聞いてくれ!
基本的に
全部ラジオで世間に公開されてるから、
聴け!
オラオラ(再掲)
グーグルブログに広告乗っけるのって、 意外と難易度高いらしいから、 乗っけることにした。 鬱陶しいし、どうせカネにもならないんだけど、 マトモなサイトであるとグーグルが判断した 証拠にもなるので。 特に、カネに関する内容の記事は、 厳しく審査されるらしい。 https://www.iscle.com/web-it/g-drive/adsense/no-diary.html
メタリカ!メタリカ!メタリカ!メタリカを聴け!!!!
ハトさん曰く「武蔵はカルト。」
メタさん曰く「息子が武蔵受けたいって言ったら、お前自分が何言ってるのかわかってるのか?って言う。」
https://www.youtube.com/watch?v=xjlgUx7_aN0
Take a look to the sky just before you die !
https://www.youtube.com/watch?v=B_HSa1dEL9s
2人とも、朝っぱらから水球部の部室に
キ・ラァ〜クイイイン♪とか言いながら
爆竹投げ込んだり、
冬には屋上から
氷の張ったプールに
実験と称して
椅子を投げ込んだりしてたのに。
かくいう俺は、
キムチ食いすぎて
屋上に潜伏する
クサイ氏。
2022年10月4日火曜日
食事はバランスよく
数日前に
NHKで
ダイエット番組やってて、
まず
タンパク質を先に食べて、
5分くらい経ってから
炭水化物食べるようにすると、
ホルモンの働きで、
脳の満腹中枢が刺激されて、
しかも
胃腸の動きが穏やかになって
そんなに
炭水化物食べなくても
大丈夫になる
っていうのやってて、
実践してみた。
確かに、
効果はあると思う。
だけど、
やっぱり
米はある程度ちゃんと食べないと、
神経が落ち着かない。
幸福感も得られない。
やっぱり
日本人としては、
米を食わずに済ますってのは、無理よ。
反動でドカ食いするとかじゃないから、
もしかしたら
体重減るかもとは思うけど。
ちなみに、
海藻のことを英語では
seaweed
つまり海の雑草と呼ぶらしい。
なぜなら、
海藻を消化できる酵素を持っているのは日本人だけ?
だからだそうで。
つまり、
海藻を食べられない人からすれば、
それは
海の雑草でしかない。
そういう意味での日本人ね。
で、
酒もたまには飲みたいときあるけど、
それは
半年に一度とかでも全然余裕だけど、
なんなら
中性脂肪は敢えてでも
摂取しないと
落ち着かない時もある。
酒にしても、
自分は基本緊張しいだから、
どんなに親しい人と飲んでも、
ほとんど酔えなくて、
むしろ
飲み会とかで飲まざるを得ないのに、
全然酔えなくて
かえって困ったことが多かったから、
酒なんて料理の時以外は
この世に存在しなくていい、
ぐらいに思ってたけど、
たまに
東横インで気分いい時に
飲んだりなんかすると、
超うまい
ってことに気付いちゃった。
やっぱ
あの旨さは格別よ。
だから、
やっぱり
半年に一度は飲みたい。
でも、
アルコールって、
思った以上に残るのね。
びっくりしたよ。
下手に
面接授業の前の晩なんかに飲むと、
授業中眠くなる。
それは勿体ないから、
やっぱりよほどタイミング良くないと、
飲めない。
時効だから言うけど、
大学入って、
飲み会で騒いでる連中見て、
なんで出会って3日くらいしか経ってないのに、
酒飲んだってだけで
あんなに
ハメ外せるのか、
不思議で仕方がなかった。
なんなら、羨ましいくらいだった。
どんなに酒飲んでも酔えない俺がどんな
仏頂面してたのか知らないが、
看護医療学部の女学生に、
「いい加減自分のことばっかり考えるの止めたら?」
とか言われて、
トボけたふりしたけど、
ただでさえ
気が狂いそうなのを必死に堪えてるのに、
未来の看護師がそんなこと言わなくたっていいじゃないか?!
と思ったよ。
ほんと、家帰ってドア閉めたら、
気が狂いそうになったよ。
ほんと、
2浪して心身ともに限界ギリギリまで頑張って
やっと大学入ったのに、
なんでこんな思いをしなけりゃならないのか?!
ほんと
惨めな生活だったよ。
不条理だよ!不条理!
メタルアップすんぞてめえ!
https://www.youtube.com/watch?v=DU_ggFovJNo
あんなゲロみたいな生活してて、
よくここまで来れたな、って
我ながら感心するわ。
もう頼むから気安く、働けなんて言わないでくれ!!!!
ここまでやれば、もういいだろ!
https://www.youtube.com/watch?v=2lgGJRWUIvM
・・・って、母親の見守りもあることだし、
どうせ時間があるなら、
生活と福祉コースの卒業でも目指してみるか。
卒論書いてみたい。
学部レベルの卒論なら書ける気がする。
https://www.youtube.com/watch?v=9HZ_tx8aWuA
今日、前橋の群馬学習センターに行って、
新しい学生証、
人間と文化コースの卒業証書、
学割をもらって来たのよ。
まさかね、あんだけ単位を取るのに苦労した自分が、
まさか大学を2回も卒業できるとは夢にも思わなかったよ。
太田
https://news.yahoo.co.jp/articles/f8d45fffae16b58b944c18bbbb865bb6167bd5c9?page=1
まあ、デーブさんが怒るのも、
オウム真理教のときの
マスコミの対応が
結果として
まずかった
ってことを知ってるから当然だとは思う。
しかし、
政治が宗教と癒着してて、
手が打てないから、
マスコミがどうこうしよう、というのは、
越権行為だし、傲慢以外の何物でもないんじゃないか?
それこそ、朝日新聞の正義だよ。
両方のバランスを取りつつ、だけど、
一方的にどちらが白か黒かをハッキリさせるのも、危険な匂いがする。
有田さんにしても
鈴木さんにしても、
テレビに限らず
今は
色んな媒体、
それこそ
You Tubeとかあるんだから、
そこで
言いたい放題言えばいいじゃないか。
とはいえ、
父親が生きてた頃は
自分もサンジャポ見てて、
一時期の、
太田がなんか人生語ってて、
それをゲストが
神妙に聴いてるっていう
画が正直ウザかったけど、
それは
局の編成の問題であって、
要するに
なんでMC(太田)が自己実現する場になってんだ?!
ってのはあるよね。
でも、
バカじゃないから
使い続けるうちに、
もっと
面白いやつになるんじゃないか?
って期待はするけどね。
実は、
MCって
関口宏みたいなやり方が
正解だったりするのかも。
北朝鮮のミサイル発射
前から
薄々
思ってたけど、
北朝鮮て、
自民党
アシストしてない?
今回も、
安倍ちゃんの国葬が終わって、
でもまだ
世間の空気がモヤモヤしてるところに、
こんなミサイル発射したら、
やっぱ
自民党じゃなきゃダメだ、
って話になるし、
ひいては
やっぱり安倍ちゃんが正しかったって
空気にならざるを得ないじゃん。
今までもそうだったけど、
北朝鮮がミサイル撃つタイミングが、
たいてい
自民党がちょっとは窮地の時なんだよね。
中国になんか言われてんのか?
とまで言いたくなる。
「近代日本の炭鉱夫と国策」@茨城大学 レポート (再掲)
今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。 ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。 日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。 しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考えると、グローバリゼーションに対応しながら国民的自己決定を達成するには、国をまさに富国強兵のスローガンの下で一致団結させる必要があり、そこでは多様な民意というものを反映することは困難であり、したがって表現の自由が抑圧され、民主主義は達成できない、と考えられます。 戦前の日本に照らして考えると、前近代の村社会が国家組織の末端に組み入れられ、その中で炭鉱夫が生きるための最後の手段として究極のブラック職業として見なされていたこと、それでも西欧へ肩を並べなければならない、という官民一体の国家的意識のなかで、脅迫的に近代化へ歩みを進めざるを得なかった状況では、社会の底辺としての炭鉱夫には、およそ政治参加、すなわち民主主義の恩恵に浴することは出来なかった。それはとりもなおさず炭鉱業というものが本来的に暴力的であり、同時に「国策」としての帝国主義的性格を多分に内包していたことと平仄を合わせています。 中国のウイグル人の抑圧と戦前日本の坑夫を重ねて考えると、そのような構図が透けて見えてきます。
「それから」(再掲)
確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。
顔の現象学(再掲)
ところで、ルソーは疎外論の元祖だそうである。 「ホントウのワタシ」と「社会的仮面を被ったワタシ」の分離という中学生が本能的に感じるようなことに言及していたそうである。ここで、いわゆる『キャラ』について考えてみよう。 サークルの飲み会で、場にあわせてドンチャン騒ぎをやることに倦み果てて、トイレに逃げ込んだときに自分の顔を鏡でみるのは一種のホラーである。鏡に映る、グダグダになって油断して仮面を剥がしかけてしまった見知らぬ自分。それを自分だと思えず一瞬見遣る鏡の前の男。男は鏡に映る男が自分であることに驚き、鏡の中の男が同時に驚く。その刹那両方の視線がカチあう。俺は鏡を見ていて、その俺を見ている鏡の中に俺がいて、それをまた俺が見ている・・・という視線の無限遡行が起こって、自家中毒に陥ってしまう。 このクラクラとさせるような思考実験からは、<顔>についてわれわれが持っているイメージとは違う<顔>の性質を垣間見ることが出来るのではないか。そもそも、自分の顔は自分が一番よく知っていると誰もが思っているが、鷲田清一によれば、「われわれは自分の顔から遠く隔てられている」(「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22)という。それは、「われわれは他人の顔を思い描くことなしに、そのひとについて思いをめぐらすことはできないが、他方で、他人がそれを眺めつつ<わたし>について思いをめぐらすその顔を、よりによって当のわたしはじかに見ることができない。」(P.22)からだ。 言い換えれば、「わたしはわたし(の顔)を見つめる他者の顔、他者の視線を通じてしか自分の顔に近づけないということである。」(P.56)ゆえに、「われわれは目の前にある他者の顔を『読む』ことによって、いまの自分の顔の様態を想像するわけである。その意味では他者は文字どおり<わたし>の鏡なのである。他者の<顔>の上に何かを読み取る、あるいは「だれか」を読み取る、そういう視覚の構造を折り返したところに<わたし>が想像的に措定されるのであるから、<わたし>と他者とはそれぞれ自己へといたるためにたがいにその存在を交叉させねばならないのであり、他者の<顔>を読むことを覚えねばならないのである。」(P.56) そして、「こうした自己と他者の存在の根源的交叉(キアスム)とその反転を可能にするのが、解釈の共同的な構造である。ともに同じ意味の枠をなぞっているという、その解釈の共同性のみに支えられているような共謀関係に<わたし>の存在は依拠しているわけである。他者の<顔>、わたしたちはそれを通して自己の可視的なイメージを形成するのだとすれば、<顔>の上にこそ共同性が映しだされていることになる。」(P.56) こう考えると、「ひととひととの差異をしるしづける<顔>は、皮肉にも、世界について、あるいは自分たちについての解釈のコードを共有するものたちのあいだではじめてその具体的な意味を得てくるような現象だということがわかる。」(P.58)これはまさに、サークルなどで各々が被っている<キャラ>にまさしく当てはまるのではないか。サークルという場においては、暗黙の解釈コードを共有しているかどうかを試し試され、確認し合っており、そのコードを理解できないもの、理解しようとしないものは排除される。その意味では<キャラ>はまさしく社会的仮面なのだ。
「世界の共同主観的存在構造」廣松渉 岩波文庫 より (再掲)
われわれは、現に、時計の音を「カチカチ」と聞き、鶏の啼く声を「コケコッコー」と聞く。英語の知識をもたぬ者が、それを「チックタック」とか「コッカドゥドゥルドゥー」とか聞きとるということは殆んど不可能であろう。この一事を以ってしても判る通り、音の聞こえかたといった次元においてすら、所与をetwasとして意識する仕方が共同主観化されており、この共同主観化されたetwas以外の相で所与を意識するということは、殆んど、不可能なほどになっているのが実態である。(59ページ) しかるに、このetwasは、しばしば、”物象化”されて意識される。われわれ自身、先には、このものの”肉化”を云々することによって、物象化的意識に半ば迎合したのであったが、この「形式」を純粋に取出そうと試みるとき、かの「イデアール」な存在性格を呈し、”経験的認識”に対するプリオリテートを要求する。このため、当のetwasは「本質直感」といった特別な直感の対象として思念されたり、純粋な知性によって認識される形而上学的な実在として思念されたりすることになる。(67ページ) 第三に、この音は「カチカチ」と聞こえるが、チックタックetc.ならざるこの聞こえかたは、一定の文化的環境のなかで、他人たちとの言語的交通を経験することによって確立したものである。それゆえ、現在共存する他人というわけではないにせよ、ともあれ文化的環境、他人たちによってもこの音は規制される。(いま時計が人工の所産だという点は措くが、この他人たちは言語的交通という聯関で問題になるのであり、彼らの生理的過程や”意識”が介入する!)この限りでは、音は、文化的環境、他人たちにも”属する”と云う方が至当である。(70ページ) 一般には、同一の語彙で表される対象(ないし観念)群は、わけても”概念語”の場合、同一の性質をもつと思念されている。この一対一的な対応性は、しかも、単なる並行現象ではなく、同一の性質をもつ(原因)が故に同一の語彙で表現される(結果)という因果的な関係で考えられている。しかしながら、実際には、むしろそれと逆ではないであろうか?共同主観的に同一の語彙で呼ばれること(原因)から、同一の性質をもつ筈だという思念マイヌング(結果)が生じているのではないのか?(109ページ) 第二段は、共同主観的な価値意識、そしてそれの”物象化”ということが、一体いかにして成立するか?この問題の解明に懸る。因みに、貨幣のもつ価値(経済価値)は、人びとが共同主観的に一致してそれに価値を認めることにおいて存立するのだ、と言ってみたところで(これはわれわれの第一段落の議論に類するわけだが)、このことそれ自体がいかに真実であるにせよ、まだ何事をも説明したことにはならない。問題は、当の価値の内実を究明してみせることであり、また、何故如何にしてそのような共同主観的な一致が成立するかを説明してみせることである。この第二段の作業課題は、個々の価値形象について、歴史的・具体的に、実証的に試みる必要がある。(164~165ページ) (以下熊野純彦氏による解説より) 『資本論』のマルクスは、「抽象的人間労働」などというものがこの地上のどこにも存在しないことを知っている。存在しないものがゼリーのように「凝結」して価値を形成するはずがないことも知っていた。要するに『資本論』のマルクスはもはや疎外論者ではすこしもないのだ、と廣松はみる。 労働生産物は交換の内部においてはじめて価値となる。とすれば、交換という社会的関係そのものにこそ商品のフェティシズムの秘密があることになるだろう。関係が、謎の背後にある。つまり、関係がものとしてあらわれてしまうところに謎を解くカギがある。商品の「価値性格」がただ「他の商品にたいする固有の関係をつうじて」あらわれることに注目しなければならない。商品として交換されることそれ自体によって、「労働の社会的性格」が「労働生産物そのものの対象的性格」としてあらわれ、つまりは「社会的な関係」、ひととひとのあいだの関係が「物と物との関係」としてあらわれる(『資本論』第1巻)。ものは<他者との関係>において、したがって人間と人間との関係にあって価値をもち、商品となる。(533~534ページ)
生きられる社会(再掲)
だいたいやりたいことやり尽くして
ふと自分の人生を振り返るとき
どうしても
合理的な筋書き
というものを作りたくなるのは自然のサガなんだけど、
あんまり合理的、
言い換えれば
理性的な筋書きを
仕立てなくても
いいんじゃないか。
どこかに不合理な部分を
残しておいたほうが、
かえって健全なんじゃないか。
人間も社会も。
井上俊が
「詐欺が成り立ち得ないところでは、社会もまた成り立ち得ない。」(遊びの社会学)
と言ったように、
社会も、どこかに余白を残しておいたほうが、
かえって
健全なんじゃないか。
赤塚不二夫のレレレのおじさんのように、
おそらく知的障害を
持っているような
おじさんが
朝っぱらから
ホウキで道を
掃除していても、
いいのではないか。
日本の山岳信仰で
男根に似た
巨石を崇める
という風習は
よく見られるが、
あれはただの巨石だ、
と、
自然界をアレゴリーで
捉える考え方を排除したのが
近代という時代の精神だった。
それはどことなく
地中海の怪物たちを
狡知で倒していく
オデュッセウスに
繋がるようにも
見られる。
それは紛れもなく
理性の暴力性
という
アドルノが
主題とした
テーマである。
理性が
近代的個人の立脚点
でありながらも、
その限界に焦点を当てている。
ハイデガーは、
個人が共同現存在のまどろみから覚醒して、
ドイツ民族としての使命に目覚めなければならない、
と説いたわけであるが、
それが、
かつての神聖ローマ帝国という誇張を含んだ憧憬の土地を回復する、
というドイツ民族の「使命」を掲げるナチスのプロパガンダと共鳴してしまった。
アドルノは、
そもそもの共同現存在からの個人としての覚醒が、
集団的暴走と親和性があったことを念頭に置きながらも、
集団に埋没しない理性的な個人としての人間を提示した。
理性の暴力性に警鐘を鳴らしながらも、
主体性の原史に既に刻印されている理性から逃れる道は、
再び集団的暴走への道であると考えた。
計算的理性が近代的個人を産み出した源泉であるとしても、
理性から逃走し、
始源のまどろみへと回帰することはなお危険であると説いたのである。
もっとも、
アドルノが主観と客観との絶対的な分離に敵対的であり、
ことにその分離が主観による客観のひそかな支配を秘匿しているような場合には
いっそうそれに敵意を示したとは言っても、
それに替える彼の代案は、
これら二つの概念の完全な統一だとか、
自然のなかでの原初のまどろみへの回帰だとかをもとめるものではなかった。(「アドルノ」 岩波現代文庫 93ページ)
理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、
とアドルノは主張する。
「社会全体が体系化され、
諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、
それだけ人間そのものが
精神のおかげで創造的なものの属性である
絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、
慰めをもとめるようになるのである。」
言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、
マルクス主義的ヒューマニズムの説く
来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、
管理された世界のもつ
全体化する力の原像と解されるべきなのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 98ページ)
ここで、管理された世界のもつ全体化する力
というキーワード
を導きとして、
以下の丸山眞男の論考を
考えてみたい。
丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。
しかしながら天皇制が
近代日本の思想的「機軸」として
負った役割は
単にいわゆる
國體観念の教化と浸透という面に
尽くされるのではない。
それは政治構造としても、
また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、
機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。
(・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、
制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、
それが
制度自体と制度にたいする
人々の考え方をどのように規定しているか、
という、
いわば日本国家の認識論的構造にある。
これに関し、仲正昌樹は
「日本の思想講義」(作品社)において、
つぎのように述べている。
「國體」が融通無碍だという言い方をすると、
観念的なもののように聞こえるが、
そうではなく、
その観念に対応するように、
「経済・交通・教育・文化」の各領域における
「制度」も徐々に形成されていった。
「國體」観念をはっきり教義化しないので、
制度との対応関係も
最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、
国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、
目に見える効果をあげるようになった。
ということだ。
後期のフーコー(1926-84)に、
「統治性」という概念がある。
統治のための機構や制度が、
人々に具体的行動を取るよう指示したり、
禁止したりするだけでなく、
そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、
それを当たり前のことにしていく作用を意味する。
人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、
今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用)
社会全体が体系化され、
諸個人が事実上
その関数に貶めれられるようになればなるほど、
それだけ
人間そのものが
精神のおかげで
創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として
高められることに、
慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」
という言葉が何を表しているか、
自分の考えでは、
「社会全体が体系化され、
諸個人が事実上
その関数に
貶めれられるようになればなるほど」、
(疑似)宗教のように、
この世の全体を精神的な色彩で説明し、
現実生活では一個の歯車でしかない自分が、
それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、
そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、
救いを感じるようになる、という感じでしょうか。
まるでオウム真理教のようですね。
現代の市場型間接金融においては、
情報に基づいた信用こそが、
ある意味ではその人そのものである、
というのは、まさにその通りである、と思われる。
情報に基づいて、個人をランク付けし、
世界中の貸し手と借り手を結びつけた、
金融の実現されたユートピアだったはずが、
崩壊する時には一気に崩壊するシステミック・リスクも抱えている。
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より)
私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、
直観や好き嫌いによって信・不信を決める。
だが、信用とは本来そうしたものではないのか。
客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。
そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。
信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。
それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、
ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。
(略)
しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、
信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。
とくに、
資本主義が発達して、
血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、
広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、
リスクはますます大きくなるので、
リスク軽減の必要性が高まる。
そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、
他方では信用の〈合理化〉が進む。
(略)
リスク軽減のもうひとつの方向は、
信用の〈合理化〉としてあらわれる。
信用の合理化とは、
直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、
より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。
こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。
つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。
信用は、
個人の人格にかかわるものというより、
その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、
そのかぎりにおいて合理化され客観化される。
(略)
しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、
〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、
とくに経済生活の領域で、
信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。
その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、
さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。
と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、
まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93
ところで、
現実の問題として、
自立した個人から成る世界がすぐに出現するわけではない。
他者は、他者を認知する者にとって異質な存在である。
これは他者を「差異」であるということが同定された限りにおいてである。
差異は同一性の下でしか正当性を持ちえない。
同一性に吸収されない差異=他者は、排除される。
それを可能にしていたのが、祖先の存在であり、また神であった。
たとえ、異なる地位にあって、
通常は口を聞くことも、顔を見ることさえ許されなくとも、
共通の神を持っているという認識の下に、
異なる地位にある者同士が共同体を維持する。
地位を与えるのは神であり、
それに対してほとんどの者は疑問さえ抱かなかったのである。(p.177~178)
(中略)
カースト制は、総体として、閉鎖的で完結的な世界を築く。
そこでは、ウェーバーが「デミウルギー」と呼んだ、
手工業者が村に定住し、無報酬で奉仕する代わりに、
土地や収穫の分け前を受け取る制度が敷かれている。
このような制度では、商品経済が発達する可能性はほとんどない。
したがって、他者としての商人が、
共同体内によそものとして現れる可能性は低い。
これに対して、市場論理が浸透した世界では、
他者が他者として認知される。
それは、
複数の世界に属することを可能にする
包含の論理によって律せられている世界である。
このような世界が可能であるためには、
共同体の外部に位置する他者の明確なイメージが築かれる。
その推進者となるのが、商人であり、貨幣である。
それでは、なぜ貨幣が推進者となるのか。
それは、貨幣を通じて、
共同体の外部に存在するモノを手に入れ、
みずから生産するモノを売却することが可能になるからである。
共同体の外部が忌避すべき闇の空間でしかない状態から、
共同体の内と外に明確な境界が引かれ、
ある特定の共同体に属しながらも、
その外部にも同時に存在することを可能にするのが、
貨幣なのである。
他者が、貨幣と交換可能なモノ、つまり商品を売買したいという希望を掲げていれば、
それによって他者のイメージは固定され、
他者の不透明性を払拭できる。
こうして、貨幣は、共同体外部への関心を誘発していく。
そして、カースト制のような閉鎖的な社会とは大きく異なり、
ふたつの異なる世界において、
同一性を築こうとするのである。
もちろん、誰もが商人になるこのような世界がすぐに出現するわけではない。
そのためには、まず貨幣が複数の共同体のあいだで認知されなければならない。
そして、マルクスが注視したように、多くの者が賃金労働者として「労働力」を売るような状況が必要である。
そして、そうした状況が実際に現れてくるのが、マルクス自身が観察した通り、
一九世紀のイギリスなのである。
単独の世界に帰属することも、複数の世界に関わることも認める世界は、
労働が労働力として商品になり、
賃労働が普及する資本主義の世界においてである。(p.180~181) 「零度の社会」荻野昌弘著 世界思想社
ある共同体において、
共通の神を信じているということが、
その成員を共通の成員として成り立たしめるのであれば、
その共同体の外部に存在する異質な存在と、
その共同体を繋ぐのが、貨幣である。
なぜなら、
貨幣はある共同体においても、その外部においても通用する、
包含関係における共通要素だからである。(荻野昌弘)
だからこそ、
貨幣は経済の相互依存を通して平和をもたらす可能性を秘めている。(デービッド・ヒューム)
しかし、貨幣は、ある社会における間主観性(フッサール)を、他の社会にも押し付ける、侵食するような暴力性も秘めている。
ある社会における間主観性とは、
例えばミカンをある集合とみなせば、その要素、つまりその集合の要素としての一つ一つのミカンは、何千個、何万個あっても、すべて一つずつミカンとして数えることになる。
これは、物心のついていない子供や、狂人以外ならば、
その社会の決まりごととして受け入れられるからだ。
その一つ一つの計量可能性が、理性の暴力的な側面として現れる。(アドルノ)
理性の働きを物心のついていない子供や、狂人と対比させるならば、
「オデュッセイア」において、
ポリュペーモスの問いに対しウーティス(何者でもない)と答えるのは、
自らの自己同一性を偽る狡知であり、
セイレーンの性的誘惑から逃れるのも、
また理性の狡知である。
つまり、人間の理性の狡知は、複数のアイデンティティーを使い分けたり、性的欲望をコントロールする、といった、現代人が社会において暮らすうえで、必要な能力なのである。しかし、アドルノはその理性の狡知に、自己同一性の揺らぎや性的欲動といった、ニーチェ的欲動との相克を見て取るのである。
グローバリゼーションによって、
世界の富の大きさは拡大したが、
分配に著しい偏りが生じたことは、
論を俟たない。
日本においても、
新自由主義的な政策の結果、
正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。
そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、
自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。
エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、
旧来の中間層が、
自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、
生活も苦しくなってくると、
ドイツの場合は、
プロテスタンティズムのマゾ的心性が、
ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、
まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。
日本ではどうだろうか?
過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、
それは、
安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、
そうでなければ、
社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。
そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。
本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ)
グローバリゼーションが
後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、
グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、
反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、
日本に限ったことではないのかもしれない。
むしろ、
アドルノの言明を素直に読めば、
資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、
本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。
さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、
人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。
社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
昭和史発掘ー貧困(再掲)
松本清張の「昭和史発掘」の内容を 思い返すと、 昭和のテロに走った 青年将校とか、 それを先導した 思想家たちってのは、 邪悪な人たちでは 決してなく、 ある意味では 純粋すぎるほど純粋な 人たちだった、という印象が強い。 財閥が支配する 日本経済に対する憤怒 特に、 搾取され続ける 東北地方を始めとした 貧しい農家、 このような 社会の矛盾に対して それこそ 身を賭して 「悪」を成敗してやろう、 という純粋な人たちだった。 財閥は財閥で、 確かに えげつないこと 散々やってて、 なんなら 戦争を敢えて起こすことで 儲けよう、 なんて考えてる連中であったことも また事実なんだけど。 大正デモクラシーといえば、 明るくて自由な 思想が花開いた時期、 と一般に認識されているが、 拡大する貧富の格差は、 多様な思想の中に、 危険な国粋思想をも抱え込んでいた。 また、これは 日本に限った話ではなく、 ドイツにおいても、 ファシズムというのは、 共産主義に対抗する 選択肢の一つとして、 ポジティブに見られていた時期もあった。 このように、貧困というのは、 社会が無視しておくには あまりに 危険な問題なのだ。
貧困(再掲)
貧困が真にヤバいのは、 それが結果的に政治的な「服従」を生み出す傾向があるということではないだろうか。 貧困は誰かのせい、あるいは、構造のせい、となれば、 それを排除したり、矯正したりする政治団体に、 盲目的と言えるほど、服従してしまう。 小泉も安倍もそうだった。 それが裏切られると、手のひらを返したように、やり玉に挙げられる。 貧困というのは、まさに政治学的な問題なのだ。 現代の日本社会のように、 成熟した社会を、 劇的に変えるような政策は、 どのようなものであれ、 やってはいけないと思われる。 アベノミクスもそのような外観を帯びていたが、 左翼がヤバいのは、 自分たちの正当性を 疑うことをせずに、 社会を 劇的に変えようとする 発想であり、行動力だ。
ちびまる子ちゃん
どういうわけか
最近
母親が
ちびまる子ちゃんの
再放送を見てるんだが、
昨日の放送だと、
ノグチさん?とかいう、
見た瞬間に
陰キャと判定できる、
しかもひねくれた女の子が、
お菓子目当てで、
他の
いつもの連中と
ちびまる子ちゃんの家に集まってるんだけど、
そこに、
ちびまる子ちゃんの母親はもちろん、
おじいさん、
(もしかしたらおばあさんも?)
まで
集まって、
そのノグチさん?の
繰り出す
卑屈なクイズに付き合ってあげてるんだよね。
ちびまる子ちゃんって、
他にも
玉ねぎ頭のナガサワくん?だっけ?
みたいな
ほぼつねに
ひねくれてる
キャラが出てくるけど、
そういう日陰者にも、
漫画の中でとは言え、
居場所があったんだな、と思うわ。
もしかしたら、
現代の日本は、
効率性の美名のもとに、
そういう日陰者に対して、
お前は陰キャだ!
ひねくれ者だ!
そして
それはお前のせいだ!
自己責任だ!
と、
ネガティブな心性を内面化させ、
社会から居場所を排除した社会なのかも知れない。
2022年10月3日月曜日
菅さんの弔辞
まあ、亡くなった人に対して
ロジックで詰めて
責めきれないってのも、
日本人の
最後の美徳かもね。
それも無くなったら、終わりだよ。
そのくせ、ネット上で平気でリンチするけど。
まあ、そう考えりゃ、
国葬にしちゃった
自民党は巧いってことなんだろう。
この「死者にムチ打てない日本人」っていう発想も、
別に俺のオリジナルじゃなくて、
井沢元彦さんが「逆説の日本史」で書いてた。
第9巻までは読む価値あると思う。
やっぱさ、
歴史って、その民族の本質を教えてくれるようなものじゃないと、
意味ないっていうか、使えないと思うんだよね。
正当の歴史学者からは
相変わらず無視され続けてるみたいだけど、
彼の仕事の意義は大きいと思うよ。
あてはまりにくい「貨幣数量説」 大阪大学 敦賀貴之教授 (再掲)
経済活動の量が変わらなければ、 貨幣量を増加させれば 物価だけが増えると予測できます。 つまり、経済に流通する貨幣量を 機械的に増やすと、 増えた貨幣はそのまま 経済に流通し、 経済取引の総額が増えます。 しかし、 経済にお金が回っても 需要が高まるだけで、 供給は増えず、 貨幣量と同じスピードで 物価だけが上昇します。 このように、 貨幣の数量で物価が 決まるという考え方が 貨幣数量説です。 日銀は20年近くにわたり、 貨幣量を大幅に増やしましたが、 物価の上昇は期待ほどではありません。 多くの経済学者は、 短期的には 貨幣量の変化は生産量の変化につながると考えます。 さらに データ上は、 流通速度は趨勢的に 低下傾向を示し、 日本ではこの30年で 流通速度が半分に低下しました。 貨幣量が増えれば 物価は上がるという 単純な理屈は 当てはまりにくいのです。
貨幣数量説(再掲)ーなぜ貨幣供給量を増やすと物価が上がるのか?
完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は古典派経済学の発想なので、完全雇用は常に達成されていると想定されているので、物価は貨幣量と貨幣の流通速度で決まる。 従って、貨幣量を増加させれば、物価は上がる。 「貨幣の所得流通速度が一定不変で,かつ伸縮的な価格メカニズムの作用により実質産出量(実質国民所得)の水準が長期の均衡値に一致するならば,貨幣数量の変化は国民所得の大きさや構成にはなんら影響を与えず,ただ物価水準を比例的に変化させると主張する説。」有斐閣経済辞典第4版
なぜデフレではダメなのか?(再掲)
Q:名目金利が年8%でインフレ率(CPI)が年5%のとき、実質金利は3%か? ex. 100円の債券投資→1年後:108円 100円の消費財の組み合わせ→1年後:105円 のとき 1年後の108円の購買力=108/105=1.02857 (この投資の収益率:2.857%) ☆実質金利と名目金利、インフレ率(CPI)の関係 1+実質金利=(1+名目金利)/(1+インフレ率) ex.参照せよ 式変形して、すなわち ★実質金利=(名目金利-インフレ率)/(1+インフレ率) つまり、デフレはマイナスのインフレ率なので、実質金利を上げてしまう。 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html
フィッシャー効果(再掲)
物価上昇の予想が金利を上昇させるという効果で、フィッシャーが最初にそれを指摘したところからフィッシャー効果と呼ばれる。 ある率で物価の上昇が予想されるようになると、貸手が貸金に生じる購買力目減りの補償を求める結果として、資金貸借で成立する名目金利は物価上昇の予想がなかったときの金利(=実質金利)より、その予想物価上昇率分だけ高まる。(以下略) 有斐閣経済辞典第5版 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html
旬報社(再掲)ーなぜ日銀は金利をあげられないのか?
もし、日銀が目的としている2%の物価上昇が実現した場合、国債の発行金利が2%以上になるか、利回りが最低でも2%以上になるまで市場価格が下がります。なぜなら、実質金利(名目利子率-期待インフレ率)がマイナスの(つまり保有していると損をする)金融商品を買う投資家はいないからです。国債(10年物)の利回りは0.1%程度(2018年11月現在)ですが、それが2.1%に上昇した場合、何が起こるでしょうか。政府の国債発行コストが跳ね上がるのはもちろんですが、より重要なことは、国債価格が暴落し、国債を大量に保有している銀行に莫大な評価損が出ることです。 経済の論点 旬報社 72ページより
政策割当の原理(再掲ー何回目だよ?!)
質問:中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、とありますが、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか?あるいは、新古典派経済学では「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか? 回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。すなわち、「政策割当の原理」です。したがって、「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要となります。 本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。本来の金融政策の目標(物価の安定)と異なるため黒田日銀総裁は「異次元の金融政策」という言葉を使ったのです。このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。このシナリオどおりに進めば、もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。ただ、経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります。したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため「財政再建」が先送りになってしまいます。それゆえに、「財政再建」の政策目標の一環として消費税の引上げが考えられています。このように、「政策割当の原理」は成立しています。https://news.infoseek.co.jp/article/joseijishin_2068465/
ガックリ。
https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20220930/pol/00m/010/011000c
ヒゲさんだったら
こう言うよ。
もーたのむから死んでくれ!!!!!!
どいつもこいつもバカばっか!!!!!!!!!!!!!
もうどーでもえーわ。
原武史先生の授業で聴いたけど、
太平洋戦争で
絶対防衛ラインが
破られたとき、
昭和天皇の
弟である
秩父宮が、
戦争を止めろ!
と
主張して、
昭和天皇と大喧嘩したらしい。
しかし、
二人の母親である
貞明皇后(大正天皇后)
が、
勝てないのは
お祈りが足りないからだ、
とかいう
完全に宗教モード入っちゃって、
昭和天皇のご意見など歯牙にもかけず、
昭和天皇は
ただ
弟と母親の板挟みになるだけだったとか。
しかも、
軍人も、
昭和天皇をすっ飛ばして
貞明皇后からダイレクトに
下賜品なんかもらい出す始末。
もう
今の状況も
どーしょもなさ加減が
同じレベルになってきたな。
どーしょもねーなー。逆にウケるわ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7469482bbbb513c0f182acee19cc51f8e9b255c9
お前ら
そこまでして
日本を財政破綻させたいのか。
ただでさえ
防衛費倍増とかいってんのに、
支持率さがったら
補正予算組みます、
って
バカのひとつ覚えじゃねーか。
話にならんわ。
岸田さんなら
なんとか
財政危機に向かわないようにしてくれるんじゃないか?
なんて
微かな希望を持っていたが、
それも吹っ飛んだわ。
この記事の内容が本当なら。
2022年10月2日日曜日
私の履歴書
昨日から
西川きよしさんの
連載が始まった。
一見特に
レトリックが上手い
ようにも感じないが、
なぜか
引き寄せられるものがある。
私の履歴書といえば、
漫画家の
里中満智子さんも
面白かった。
あれは
やっぱり作家だから、
いかに
読ませるかは、
プロだね。
逆に、
高級官僚だの大企業のトップだの
ってのは、
最初から最後まで
自慢話がたいていで、
読んでても
微塵も面白くない。
ただ、
ノーベル化学賞を
受賞された
吉野彰さんの話は、
理数系がまったくダメな自分でも、
面白かった。
ああいう方と知己を得られたら、
実に面白いだろうな、と思った。
経営者でも、
島精機製作所の創業者の方の話なんかも、
スリリングで面白かった。
それこそ、
期限までにお金を調達できないと、
手形の不渡りを出して、
そうなったら
電車に飛び込むことになる、と
本気で考えていたところで、
寸でのところで
篤志家が
出資してくれて、
九死に一生を得た、とか。
ナニワ金融道みたいな話で、面白かった。
ビビった。
群馬テレビで
YAPPY CONSCIENCE
のトップが法話してた。
字幕付きで。
法話っていうより、
生活の役に立つ
落語って感じだったね。
確かに
これなら
敷居は低そうだ。
森進一みたいな声。
あと、
ひろゆき氏が
太田光の
旧統一教会擁護?発言
に関して、
なぜサンジャポが
訴えられないのか?
と問題提起したらしいが、
俺の拙い法律知識では、
民法上
損害賠償の責任が発生するのは、
誰かの損害を補償するためだ、
(つまり、誰かを罰するためではない)
と
放送大学の授業で聴いたが、
誰が誰を訴えるのかよくわからないが、
太田光の発言で、
誰がどう具体的に損害を被ったというのか?
ひろゆき氏自身が、
2ちゃんねるで
散々赤の他人の尊厳や名誉を傷つけるのを放置して、
事実
損害賠償責任から逃れているくせに、
何を言っているのか?
それは
ひろゆき氏自身が一番よくわかっているはずだが。
あと、
上述の法話で、
国の税収が過去最高だったって話をしてて、
自分の党の政策と絡めたいのかは知らんが、
国の統計が信用を失うってのは、
恐ろしいことだな、と実感した。
これだけでも、
安倍の罪は重い。
最低限テメーの国葬にいくらかかったのか
くらいは
ちゃんと詳らかにして欲しいものだ。
2022年10月1日土曜日
民主主義の危機
https://news.yahoo.co.jp/articles/e42253f43a385da21c705e57a1b8791a9ead80d8?page=1
マスコミは100%
正しいことを
言わなきゃいけない
なんて
話になったら、
何も言えないだろ。
それこそ
言論封殺以外の何物でもない。
これに
政治家が乗っかって
謝れ、
なんて
言い出したら、
日本の民主主義は崩壊する。
非常に
恐ろしい事態だ。
菅さんの弔事に心打たれちゃった人たちが、
玉川さんに
冷水を浴びせられて感情的になっているのだとしたら、
あまりにも
幼稚な発想だ。
この国は
もっと
政治というものを
教えたほうがいい。
いや、
教えなきゃ駄目だ。
政治に関する見方が
あまりにも
ナイーブすぎる。
こうやって
玉川さんを叩くことが、
まさに
政府の思惑通りに、
国葬にお墨付きを与え、
ひいては安倍を美化している
ことに気づかないのだろうか?
https://news.yahoo.co.jp/articles/d906f3560319aeef9396b61287ecb3dcaf42062a
ほら来たよ。
こういう手合いがね。
最近の輿論の徴候として感じるのは、 生まれた時から マンガ漬けの生き方をしてきた層が、 そのまま 大人になっちゃった、って気がする。 結論から言えば、 善悪の区別の基準が、 マンガで教わった価値観なんだよね。 マンガの社会学なんか知らんが、 自分だって 生まれた時から マンガに囲まれて生きてきた世代だけどさ、 昔のマンガって、 もっと善悪がハッキリつくようなもんじゃなかったし、 それ以前に、 マンガそのものがそこまで価値のあるものと 認識されてなかったと思うんだよね。 ところが、 今の若い日本人は、 今のマンガ的価値観でしか、 物事を判断できない。 それ以外の基準を持ってないから、それしかわからない。 これは本当に怖い。 学校でも、 基本みんないい子って前提で育ってるから、 悪だと認定したものは 全力で殲滅しようとするし、 そういう行動に出てる自分に なにか非がある、 なんてことは、 微塵も考えない。 これはもう ある種の宗教戦争っていうくらい、 ヤバい。 幼児に鬼滅の刃とか 映画館で平気で見せる親は、 マジでヤバい。 そんな子供が大人になっていく 日本社会を考えると、 本当に この国から 脱出したくなる。
バカバカしい
高橋洋一が言ってる、
財務官僚は
会計と金融工学が
わからないから
駄目だ、
っていう理屈だけど、
会計はともかく、
金融工学は、
クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)の
話をしてるのか?
CDSが今日低いからって、
一週間後どうなってるかなんて、
ぜんぜんアテになるわけないだろ。
俺は自分でCDS割り出せるけど、
財務官僚は出来ないから
駄目だ、
なんてのは、
ほとんどビョーキ。
負債観念(再掲)
「負債」の観念を抱かせることが、社会全体を構成し、安定的に維持するための手段であるわけで、交換とか経済的利益は副次的な意味しかないわけです。先ほどお話ししたように、儀式に際して各自の欲望機械を一点集中的に活性化させますが、この強烈な体験を「負債」と記憶させて、大地に縛り付けることが社会の維持に必要なわけです。現代社会にも通過儀礼のようなものがありますし、教育の一環として意味の分からない、理不尽に感じることさえある躾を受けることがありますが、それは、この「負債」の刻印と同根だということのようです。「負債」の刻印が本質だとすると、むしろ下手に合理的な理由をつけずに、感覚が強制的に動員される、残酷劇の方がいい、ということになりそうですね。 <アンチ・オイディプス>入門講義 仲正昌樹 作品社 p.255
キリスト教と負債観念
キリスト教は、
イエスの受難という
残酷劇を
負債観念として
人々に
植え付ける
と同時に、
終末思想とのコンビネーションで、
繰り返し
緊張感を喚起することで、
結果として
社会の秩序を保つことに貢献してきたと言えるかも知れない。
こんなこと考えた
アンチ・オイディプスの
著者はすげーな。
やっぱ
フランス哲学は筋金入りだわ。
宗教にも平気でケンカ売る。
日本経済再生策(再掲)
1番手っ取り早い手段のひとつは、 移民に 選挙権を与えることではないだろうか。 さんざん搾取ばかりして、 地方自治体の選挙権すら 与えない、 というのでは、 もはや 日本が経済大国ではなくなった 現在においては、 自らの首を締めるだけではないだろうか。 どっちしろ 移民を受け入れずに ほったらかしにしておけば、 日本の人口は絶望的に 縮小していくのだから、 移民の目から見て、 日本に行っても、 搾取されるだけで、 なんの憧れもない、 というのでは、 どうやったって 移民なんか来てくれないだろう。 そうであれば、 いま日本に住んでいる 移民には、 最低限 地方自治体の選挙権ぐらい 与えて然るべきだと思われる。 日本人と結婚して 同化しなければ、 日本において政治に参画することすら許さない、 という態度では、 経済が弱体化する現在において、 日本は 全く魅力に欠ける国と言わざるを得ないだろう。 とにかく、 日本の教育は、 歴史的に、もちろん今現在も含めて、 「貧困」 という問題から目を背け続けている。 明治維新以来の 経済発展にしたって、 台湾、朝鮮半島を植民地化し、 どれほど 多くの 台湾人、朝鮮人を 半強制的に 過酷な低賃金労働で 搾取し続けて来たか、 ということが、 全く語られていない。 そのくせ ナショナリズムに煽られて 排外主義に走るのは、 ひとえに 教育の問題による無知が大きい。 もちろん、 日本人のうちでも、 「2級国民」とでも言うような、 目に見えない 搾取に虐げられる 人びとがいるのだが。 どうせ 「アイツら」に 選挙権を与えたところで 権利ばかり 主張して 財政負担が 増えるだけだ、 というなら、 結局 日本人も含めて 経済格差が拡がり、 貧困問題が 日本社会全体に しっぺ返しを 喰らわせるだけだろう。 経済が振るわないときほど ナショナリズムは高揚しやすいが、 冷静に考えれば、 むしろ 逆の発想をすることが必要だ。 グローバリゼーションによって 誰もが 貧困状態に陥る危険性がある社会だからこそ、 誰に対しても 社会への参画を 可能にするべきだ。 日本人の 「2級国民」は、 そもそも 貧困者のメンタリティーを 社会から 内面化させられ、 自主的に 政治に参画する意欲を奪われているのだ。 なぜなら、 「貧困」は、 社会によって 巧妙に 不可視化されており、 隠蔽され、 彼らは、 ”いない”ことに されており、 従って 日本に 貧困問題は あたかも存在しないかのように 認識されているからだ。 しかし、 繰り返せば、 グローバリゼーション下の現代社会においては、 誰もが 貧者に陥る危険性と 隣り合わせだということを 強調したい。
山本一太やるじゃないか。見直したぞ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/a5d82ca856372566445643a17d06f6a47fa62fc0
ほんとね、
日本は教育がおかしいよ。
都合の悪いこと、耳障りなことは、
なかったことにするからね。
朝鮮半島、
台湾、
沖縄。
これらの地域以外でも、
ベトナムやらフィリピンやら、
雇用の調整弁として
安価で過酷な労働に
さんざん
従事させておきながら、
ロクに権利も与えない。
その事実すら教えない。
そのうち強烈なしっぺ返し喰らうぞ。
このぐらいの措置は当然だろう。
どんだけー
世間てのは実にいい加減なもんだな。
安倍の国葬での
弔事が好評で、
菅さんの
評価がうなぎ登りらしいけど、
コロナの時は
悪の親玉扱いしてたじゃねーか。
それこそ、
菅さんのせいでコロナに罹ったとでも言わんばかりに。
確かに、
安倍に丸投げされたコロナ処理を、
嫌な顔せず
引き受けた上に、
あんな弔事読めるんだから、
人格者なのは間違いない。
手のひら返しー
ドイツ語むずい
ドイツ語に憧れて、
大学入って
ドイツ語履修したけど、
意味わからんかった。
SFCのカリキュラムの問題じゃなくて。
単語がやたら長いうえに、
名詞に性別(男性・中性・女性)があって、
しかも
その性別を決める根拠がまったくわからず、
そのうえ
4つの格変化があって、
その組み合わせで
冠詞も形容詞も
変化しまくる、っていう、
もうマジで意味わかんなかった。
サカキすげーわ。
東京外国語大学ドイツ語科入って、
教授に
君にはもう何も教えるものがない、
と言わしめて、
ドイツに留学して
向こうで医者になったって話だからね。
どういうこっちゃ。
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