2022年10月23日日曜日

近世ロシア史@東京文京(茗荷谷)

帰宅。 得るところ大なり。 ピョートル大帝の近代化のやり方が、 幕末明治の日本と同じなんだよね。 ああ、近代化って こうやってやるのね、 っていう、 ひな形を見せてもらった感じ。 日本より 100年くらい時代が早いけど。 ちょうど、後継者の、 啓蒙専制君主として知られる エカチェリーナ2世 が、時代としては 幕末期にあたる。 その「啓蒙」っていう 世界的な 時代精神を感じさせるね。 思わぬところで 近代化とはなにか? に対する 一つの答えを見せてもらいました。 良かった! (以下レポート。過去ログより。) 三浦雅士さんが「身体の零度」で論じた、戦争のための画一的で清潔な身体と、アドルノの記述した、個人の精神の物象化的同一性というのも、戦争がまた反面では工場における画一的かつ大量の生産体制を要求するものであることを考えれば、繋がりが見えてくる。 更には、核家族の中のエディプス三角形による去勢によって、労働・生産へのパラノイア的偏執への矯正もまた、〈近代〉の特徴であると言いうるのではないか。 漱石が愛に拘ったのも、それが資本主義に対する橋頭堡だと感じていたからではないか。しかし、「それから」において観念的抽象的な愛から、性愛的な肉感的な、具象的な感覚に投降した後においては、一層、資本主義化した社会の、歯車として生きていかざるを得ない我が身において、物象化を免れ得ない自身から抜け出よう、という足掻きに苦しんでいたのではないか。

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曽根崎心中 (再掲)

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