投稿

6月, 2022の投稿を表示しています

「金融と社会」質問と回答その3

質問 :2022年6月28日付け日経新聞朝刊に、 「家計資産、脱『預金』の兆し」と題して、 末尾に、 「いくら運用手段を充実させても、 企業の競争力が海外より劣っていれば家計の資金が海外に逃避する『キャピタルフライト』を招いて国力低下につながる。 (以下略)」 としてありましたが、 このような家計部門の海外への移転は、 経常収支の統計上どのように現れるのでしょうか? 回答 :国連にあわせて、2014年に国際収支関連統計の大幅改訂がありましたので、統計上の扱いが大きく変わりました。 それ以前は、海外の国債や株式を買うと、日本のお金が出ていくから資本収支赤字とされ、お金が逃げていく「キャピタルフライト」のイメージでした。 でも、海外の国債や株式を買うのは、今後利子配当が期待できる金融資産が増えたことを意味しますので、いまは金融収支で「黒字」とされています。 海外での資産運用は、キャピタルフライトではなく、今後の収入を保証してくれる金融収支黒字要素と扱われています。 成長する海外企業に投資するのは良いことです。

贈る言葉

ベンヤミンは、「手」にもとづく認識の成果としての技術の巨大な発展が全く新しい貧困状態をもたらしたと指摘している。 「技術の巨大な発展とともに、まったく新しい貧困が人類に襲いかかってきたのである。」(「貧困と経験」『著作集』第1巻) 技術は不断の発明・発見によって次々に新しいものを作り出しては古いものを破壊していく「創造的破壊」(creative destruction)(シュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』)をもたらす。 機械は急速に進化していき、不断に「倫理的摩滅」にさらされている。(『資本論』第1巻、P.528参照) それとともに人間の生活を支えている周囲の事物はことごとく変化してしまうならば、 人間はもはや自らの過去の経験を頼りにすることができず、つねに最初から新たにやり直すしかなくなってしまう。 「まだ鉄道馬車で学校へかよったことのあるひとつの世代が、いま、青空に浮かぶ雲のほかは何もかも変貌してしまった風景のなかに立っていた。破壊的な力と力がぶつかりあい、爆発をつづけているただなかに、ちっぽけなよわよわしい人間が立っていた。・・・これはそのまま、一種の新しい野蛮状態を意味する。 野蛮? そのとおりである。 ・・・経験の貧困に直面した野蛮人には、最初からやりなおしをするほかはない。あらたにはじめるのである。」(「経験と貧困」) これは、1933年の「経験」状況である。 ベンヤミンは、人生における経験がゆっくりと時間をかけてつくられていくような「完成する時間」に対して、「永劫回帰」する時間を対置する。 「・・・完成する時間・・・は、着手したものを完成することを許されないひとびとが住む地獄の時間と対をなしている。」(「ボードレールのいくつかのモチーフについて」『著作集』第6巻)

「人間の条件」ハンナ・アーレント

近代の経済学の根本にあるのはこれと同一の画一主義である。 つまり、近代の経済学は、人間は行動するのであって、お互い同士活動するのではないと仮定している。 実際、近代の経済学は社会の勃興と時を同じくして誕生し、その主要な技術的道具である統計学とともに、すぐれて社会の科学となった。 経済学は、近代に至るまで、倫理学と政治学のあまり重要でない一部分であって、人間は他の分野と同様に、経済行動の分野においても活動するという仮定にもとづいていた。 この経済学が科学的性格を帯びるようになったのは、ようやく人間が社会的存在となり、一致して一定の行動パターンに従い、そのため、規則を守らない人たちが非社会的あるいは異常とみなされるようになってからである。(65~66ページ) (中略) しかし、多数を扱う場合に統計学の法則が完全に有効である以上、人口が増大するごとにその有効性が増し、それだけ「逸脱」が激減するのは明らかである。 政治の次元でいうと、このことは、一定の政治体で人口が殖えれば殖えるほど、公的領域を構成するものが、政治的なるものよりは、むしろ社会的なるものに次第に変わってゆくということである。(66ページ) (中略) 行動主義とその「法則」は、不幸にも、有効であり、真実を含んでいる。 人びとが多くなればなるほど、彼らはいっそう行動するように思われ、いっそう非行動に耐えられなくなるように思われるからである。 統計学の面でみれば、このことは偏差がなくなり、標準化が進むことを意味する。 現実においては、偉業は、行動の波を防ぎとめるチャンスをますます失い、出来事は、その重要性、つまり歴史的時間を明らかにする能力を失うだろう。 統計学的な画一性はけっして無害の科学的理想などではない。 社会は型にはまった日常生活の中にどっぷり浸って、社会の存在そのものに固有の科学的外見と仲よく共存しているが、むしろ、統計学的な画一性とは、このような社会の隠れもない政治的理想なのである。(67ページ) (中略) 大衆社会の出現とともに、社会的なるものの領域は、数世紀の発展の後に、大いに拡大された。 そして、今や、社会的領域は、一定の共同体の成員をすべて、平等に、かつ平等の力で、抱擁し、統制するに至っている。 しかも、社会はどんな環境のもとでも均一化する。 だから、現...

「金融と社会」回答その2

国債だけに話をしぼると、空売りを仕掛けているとみるのがよいでしょう。 今は日銀が国債を買い支えており、国債価格は高く(金利は低く)維持されています。 しかしいずれ日銀も政策転換し、国債価格の低下(金利上昇)を容認するようになるかもしれません。 そちらに賭けた投機筋は、今国債が高いうちに売って、将来安くなってから買い戻すことによって、その差額が利益となることを期待します。

「金融と社会」質問その2

2022年6月23日の日経新聞朝刊に、「円安、国債の売りと連鎖 海外投機筋 日銀の動き見透かす」と題した記事がありました。 自分なりに簡単にまとめると、金利差拡大による円安⇛(海外投機筋が) 円売りを仕掛ける ⇛輸入物価高騰によるインフレ⇛インフレ抑制のために、日銀が金融緩和修正⇛金融緩和修正による日本国債価格の低下を見越して、(海外投機筋が) 日本国債売りを仕掛ける ⇛日銀が日本国債を買い支える⇛金利差拡大による円安(最初に戻る) ということになるかと思うのですが、投機筋は、円売りと日本国債売りを仕掛けることによって、どのようにして利益を得るのでしょうか? 日本経済の安定性にとって極めて危険でありつつも、印刷教材の第15章で説かれていたような、日本政府・日銀の矛盾点を突いているのは理解できるのですが。

貨幣数量説

完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は古典派経済学の発想なので、完全雇用は常に達成されていると想定されているので、物価は貨幣量と貨幣の流通速度で決まる。 従って、貨幣量を増加させれば、物価は上がる。 「貨幣の所得流通速度が一定不変で,かつ伸縮的な価格メカニズムの作用により実質産出量(実質国民所得)の水準が長期の均衡値に一致するならば,貨幣数量の変化は国民所得の大きさや構成にはなんら影響を与えず,ただ物価水準を比例的に変化させると主張する説。」有斐閣経済辞典第4版

「金融と社会」より抜書き 31ページ

家計がどのようなタイプなのかによって、消費貯蓄の選択は左右される。今消費するよりも将来消費することを楽しみに思う人ならば、今の消費を控え貯蓄するだろうが、今すぐの消費を将来の消費よりも重視する人は貯蓄せず消費するだろう。そして、今消費したいものが今の所得でまかなえないなら、マイナスの貯蓄である借金が選択されることもある。 現金以外の金融資産を保有すると、利子などの上乗せが期待される。そのため、消費貯蓄選択には理論上利子率が影響を与えることが予想される。けれど利子率の上昇が貯蓄を増やすか減らすかについては、決めきれない部分がある。利子率が上昇すると、利子が付く貯蓄の方が有利だと考えて貯蓄を増加させるという影響がまず思い浮かぶ。しかしそれだけでなく、利子所得が増えて将来所得が増加するなら、それを期待して今から消費を増やすかもしれず、その場合は貯蓄が減る可能性もあるからである。前者を代替効果、後者を所得効果と呼んでおり、前者の方が大きければ利子率が上昇したとき貯蓄は増加する。

所得効果

消費者行動の分析において,任意の財の価格下落はより高い無差別曲線の実現をもたらす。高次の無差別曲線の実現は,価格を一定にして貨幣所得が増大しても可能であり,そのように仮説的に考えられた貨幣所得の増大による当該財の需要量の変化を,その財の価格下落に伴う所得効果という。普通には所得効果はプラスと考えられるが,それがマイナスであるような財は下級財と呼ばれる。 有斐閣経済辞典第4版

代替効果

消費者選択の理論において,ある財の価格の変化が他財の需要量に与える効果から所得効果の分を差し引いたもの。具体的には,同一の無差別曲線上の動きをいう。すなわち,消費者は相対的に高くなった消費財より相対的に安くなった消費財に選択を代える。 有斐閣経済辞典第4版

「グローバル経済史」質問と回答

質問:イギリス産の石炭は、近くに大きな市場が存在していたのでしょうか?と、言いますのは石炭は酸化しやすいために、良質な石炭であっても、市場が近くに存在し、かつ大きな需要がないと、不利だと思われるからです。むしろ、石炭を輸出するよりも、自国の蒸気船の燃料として使用していたのでしょうか?よろしくお願いいたします。 回答:「イギリス産の石炭は、近くに大きな市場が存在していたのでしょうか?」というご質問ですが、端的に答えますと、おっしゃる通りです。イギリス炭の大部分はイギリス国内で消費されていました。イギリス国内の工場や機関車など、蒸気機関を回すためにイギリス炭が使用されていたのです。一部が海外に輸出されており、さらにその一部が世界各地の港で蒸気船用にストックされていたにすぎません。 なお、イギリス炭の輸出割合については以下の学術論文をご参考ください。 https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202911690368 「機関リポジトリ」をクイックし、次の関西大学の画面から当該論文のPDFが入手できます。そして、この論文の表1に輸出割合が示されております。 島田竜登

「それから」論

代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。  やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章) もっとも、アドルノが主観と客観との絶対的な分離に敵対的であり、ことにその分離が主観による客観のひそかな支配を秘匿しているような場合にはいっそうそれに敵意を示したとは言っても、それに替える彼の代案は、これら二つの概念の完全な統一だとか、自然のなかでの原初のまどろみへの回帰だとかをもとめるものではなかった。(93ページ) ホーマー的ギリシャの雄大な全体性という若きルカーチの幻想であれ、今や悲劇的にも忘却されてしまっている充実した<存在>というハイデガーの概念であれ、あるいはまた、人類の堕落に先立つ太古においては名前と物とが一致していたというベンヤミンの信念であれ、反省以前の統一を回復しようといういかなる試みにも、アドルノは深い疑念をいだいていた。『主観‐客観』は、完全な現前性の形而上学に対する原‐脱構築主義的と言っていいような軽蔑をこめて、あらゆる遡行的な憧憬に攻撃をくわえている。(94ページ) 言いかえれば、...

漱石とアドルノ(私信ー応答)

確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

漱石とアドルノ(私信ー問い)

自分:先日レポートを送らせていただいたのは、内容としては、もちろん漱石の生きた時代の背景を知りたかった、ということなのですが、自分としては、少なくとも「それから」の時点において、漱石がどれくらい資本主義的な世界への警戒感を持っていたか、を明らかにしておきたいという理由なのです。 それは、とりもなおさず漱石とアドルノの距離感に関わってくるものなので。 炭鉱業の話を聞いて、明治の経済成長著しいロマンチックな話だけではなく、鉱夫という、一歩道を踏み間違えれば、地獄そのものの生活があり得たということ、そして、経済成長という国家的意志の下で、特に知的エリートがどのような感覚を抱いていたか、ということ、そういったことが炙り出されてきました。 まさに、国家対個人と言ってもいいような、そういう相克を漱石が抱いていたのではないか、ということが確認できました。 そのなかにおいて、漱石とアドルノの類縁性というものが見えてくると思われました。