2025年1月31日金曜日
失われた30年
日本経済の停滞には
色々と
シナリオがあり得ると
考えられる。
アメリカからの外圧で
市場開放、
新自由主義的政策を
要求された
結果だとか、色々と
理屈はあると
思う。
しかし、個人的には
日本企業の体質の問題も
かなりあるんじゃないかと
考えている。
つまり、大企業が
大きくなりすぎて、
企業組織の規模の大きさの
メリットよりも、
デメリットのほうが
ウェイトが大きくなってしまったのではないか。
そして、
日本は経済大国だ、という
慢心が、
本質から目を逸らし、
対症療法的に
ズルズル来てしまった。
そのうえ、
情報通信革命や、その後の
第4次産業革命とも
言えるような
世界経済の潮流の変化に、
金融業界も
含めて、
パラダイムシフト出来なかった。
この2点が
大きいと思われる。
そして、そこに生きる人々の発想も、
大学まで行って
なるべく
大きい企業に就職したものが
勝ち、という
価値観が浸透した結果、
大学が
教育機関、研究機関としての
競争力を失ってしまった。
もちろん、人口動態の問題や、
それに
伴う
社会保障関連の問題も、
ほとんど
手つかずのまま
来てしまった。
ある意味では
日本人によくある失敗を
繰り返したのではないだろうか。
20世紀の政治理論@宇都宮大学 令和3年度
山岡龍一先生の
面接授業でした。
ハンナ・アーレントの
「人間の条件」
(ちくま学芸文庫)
を
かなり前に
読んでいて、かなり
気になっていたことなので、
授業中に
山岡先生に
聞いてみた。
神ならぬ
人間が、人間を
赦しうるのか?
と。
先生は、
「神が
人間を赦すのだから、
人間も
人間を赦すのは
当然だ。」
と
即答されました。
成績のほうは、
講義で色々な
政治理論が紹介されたものの、
全体として
話の筋が見えなかったので、
すげえ
テキトーな
レポートしか書けなかったのだが、
「日本語の文章の書き方を
学んだほうがいい。」
みたいに
ボロカスに講評されて
レポートが返ってきた
けれども、
単位はBが来た。
あくまで経験上、
山岡先生は
なんだかんだで
単位くれる。
ちゃんとレポート書いて、
授業も積極的に受ける姿勢を
見せれば。
「日本企業、系列、株式相互持ち合い、メインバンク、組織の肥大化、非効率、パラドックス」とGoogleの生成AIに打ち込んでみた。
日本企業における系列、株式相互持ち合い、メインバンク、組織の肥大化、非効率、パラドックスについて
日本の企業社会において、系列、株式相互持ち合い、メインバンクといった要素は、長らく企業統治や組織構造を特徴づけるものとして存在してきました。これらの要素は、戦後の復興期から高度成長期にかけて、日本企業の国際競争力を高める上で一定の役割を果たしてきた一方で、近年では組織の肥大化や非効率性といった問題点も指摘されています。
1. 系列(Keiretsu)
系列とは、複数の企業が緊密な関係を持ち、相互に連携する企業集団のことです。親会社を中心とした企業グループや、特定の銀行を中心とした金融グループなどが存在します。系列は、企業間の連携を強化し、資源の効率的な配分を可能にする一方で、系列内の企業間の競争を阻害し、新たな事業展開を遅らせる可能性も指摘されています。
2. 株式相互持ち合い(Cross-shareholding)
株式相互持ち合いとは、複数の企業が互いの株式を保有し合うことです。これにより、企業間の関係が安定化し、敵対的買収を防ぐ効果が期待できます。しかし、株式相互持ち合いは、企業の経営に対する株主の監視機能を弱め、経営の硬直化を招くという批判もあります。
3. メインバンク(Main Bank)
メインバンクとは、企業にとって主要な取引銀行であり、融資や決済などの金融サービスを提供するだけでなく、経営相談や事業再生支援なども行います。メインバンクは、企業にとって重要な資金調達源であり、経営の安定化に貢献してきました。しかし、メインバンク制度は、企業が特定の銀行に依存しすぎるという問題点も指摘されています。
4. 組織の肥大化(Organizational Expansion)
系列や株式相互持ち合い、メインバンク制度などは、企業規模の拡大や多角化を促進し、組織の肥大化を招く要因の一つとなってきました。組織が肥大化すると、意思決定の遅延や部門間の連携不足などが生じやすくなり、非効率性が増大する可能性があります。
5. 非効率(Inefficiency)
組織の肥大化や内部統制の不備などは、企業の非効率性を高める要因となります。また、系列や株式相互持ち合いは、企業間の競争を阻害し、技術革新を遅らせる可能性も指摘されています。
6. パラドックス(Paradox)
系列、株式相互持ち合い、メインバンクといった要素は、戦後の日本経済の復興と高度成長に貢献した一方で、近年では組織の肥大化や非効率性といった問題点も浮き彫りになっています。これは、日本の企業社会が抱えるパラドックスと言えるかもしれません。
まとめ
日本の企業社会における系列、株式相互持ち合い、メインバンクといった要素は、企業の成長と安定に貢献してきた一方で、組織の肥大化や非効率性といった問題点も抱えています。これらの要素は、日本企業の国際競争力を維持するためには、見直しが必要であるという議論も高まっています。
組織論
https://www.youtube.com/watch?v=d3e6eiYmAHQ
The video is about organizational theory. It is based on the speaker's personal experience as a patient at a large hospital in Tokyo. The speaker discusses the challenges of large organizations, particularly the difficulty of coordinating care for individual patients across different departments. They argue that while large hospitals have many advantages, such as access to specialists, they can also be inefficient and impersonal.
腹が立つ (再掲)
俺の知り合いで、 参政党支持者がいたんだが、 (もう縁切ったが。) 2つ 許せない点があった。 1つは、 俺が ロジックで説明してんのに、 感情で 返してきたこと。 2つ目は、 反知性主義で あらゆる 知的権威を否定したり、 人類の月面着陸のような 歴史的事実を疑うくせに、 参政党シンパの 京都大学の藤井聡が こう言ってる、みたいに、 自分に 都合よく 学問的権威を利用したこと。 これは 許しがたい。 どんなに 俺の個人的なこと を 悪しざまに言っても 構わないが、 議論したいなら、 最低限のマナーを守れ。 参政党の オーガニック戦略に釣られたらしく、 すげえ いい塩を舐めれば 病気が治るとか、 薬は石油から作られてるから 効くわけがないとか、 俺が 服用してる 向精神薬の名前を 教えてやったら、 こんな 薬を飲んでるから 余計 妄想がヒドくなるんだ、とか 言いたい放題 言ってた。 そのくせ、 参政党のセミナーで 得た 眉唾ものの知識、というか妄想を 振り回して、 一般人を 愚民扱いして、 学問的権威や、特に 医療関係者を 頭ガチガチだのなんだの 言って 否定してた。 ありゃ 宗教だね。
アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)
自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。
日常生活とつながる「行政法」@郡山女子大学 レポート (再掲)
行政法の概念に、 「行政指導」と呼ばれるものが存在する。 行政は、 本来「行政行為」と呼ばれる、 命令する主体としての行政と、 名宛人の市民との 主体・客体関係が ハッキリしている手段で 運営されるべきものだが、 「行政指導」という、 極めて日本的な、 主体・客体関係が不明瞭な手段が、 行政の運営上横行している。 もっとも、 行政指導それ自体が問題なのではなく、 行政指導が、 本来強制力を伴わないものであるはずなのに、 従わなければ 往々にして 市民が制裁を加えられることが、 常態化しているという現実がある。 また、それに留まらず、 行政指導が 医療のあり方に絶大な影響を与えている。 どういうことか。 日本の医療制度において、 ある一定の地域に、 十分な病床数が確保されている場合、 新規に医療業者が参入しようとするとき、 保険適用が受けられず、 自由診療で開業せざるを得ない、 という現実が、 行政指導によって正当化されている。 これは明らかに 既存の病院の権益を守り、 新規参入者を 不当に排除している。 問題はこれに留まらない。 特に精神医療において、 1950年代にフランスで 画期的な抗精神病薬が開発され、 欧米先進国では 病床数が減っていったにも関わらず、 日本では逆に病床数が増えた。 これは、 戦後、精神病患者を建前上 しっかり治療しようとの方針から、 精神病院の数が増えたからである。 そこで、戦後、精神病院が増設される際、 一定の範囲で病床数を確保してしまえば、 地域の患者を独占できてしまう、 という経済的合理性によって、 精神病院が往々にして 大規模化したことが推測される。 言わずもがな、これは行政指導によって、 いったん多くの病床数を確保してしまえば、 新規参入者を排除できることが、 精神病院の大規模化を促したと 容易に考えられる。 そして、元厚生労働大臣が、 戦後日本の医療制度を構築した 武見太郎の息子である武見敬三である現実では、 これが改められる可能性は極めて低い。
都合のいい俗説 (再掲)
国債発行 イコール 通貨発行 という俗説が あるらしいが、 金融政策の 基本が 何も わかってないね。 国債を 発行して、 買ってくれる人が いるから、 (国債を買うのは 当然のことながら 中央銀行だけではない。) そのお金が 市中に 流れるんだけど。 これ、 (国債に限らず 債券全般に対する、 中央銀行による) 買いオペとか 売りオペとか 言われる 金融政策の 常識中の常識 だけど、 そんなことも 知らずに、 ただ 国債発行すれば 自動的に 貨幣供給量が 増えると 本気で 思ってる 人が いるみたいね。 (それに、 国債だって商品だから、 本来は政府の都合で 発行した 国債を、 相場を無視した 高値で 売れると思うのが そもそも 間違ってる。 むしろ、 日本の現状として、 日銀が 市場の相場を 無視した 高値で 国債を 買い続けてることが 本質的に問題なんだけどな。) なにで 経済学 学んだんだろう? それに、 貨幣供給量を 増やす イコール 国の資産が 増える ってのも そもそも 間違い。 国の富の 源泉は 付加価値、 すなわち GDPです。 これ、 学部レベルの 経済学で 最初に 学ぶことなんだけどな。 ほんと、 誰に 刷り込まれたんだろう? ついでに 書いとくと、 赤字国債を 発行すること自体が 法律違反なんだけど、 毎年 特例法案つくって 可決して 予算作ってる。 (ちなみに、 一昔前は その種の予算を 通す通さないが 政争の具に 使われたのが、 短命政権が続いた 原因だったらしい。) それが 常態化。 それを 国民の側が 嬉々として 受け入れてる 現状が 異常。 ついでに 書いとくと、 日銀が 国債買い続けないと 国債の価格が (異常な高値を 維持できずに) 暴落して 金利が 急騰して この国 吹っ飛びますけど、 さあ この ムリゲー どうします? ちなみに 安倍ちゃんは 日銀は政府の 子会社だから いくらでも 日銀に 国債 買い取らせればいい とか ほざいてましたけど。 もう 日銀による 国債の保有比率 6割 超えましたね。
国際収支発展段階説ーGoogleの生成AIに説明させてみたー
国際収支発展段階説は、イギリスの経済学者A.K.Cairncrossによって提唱された、一国の経済発展段階と国際収支の関係性を説明する理論です。この理論では、国の経済発展を6つの段階に分け、それぞれの段階における国際収支の特徴を解説しています。
国際収支発展段階説の6つの段階
第1段階:未成熟な債務国
経済発展の初期段階にある国。
輸出が少なく、輸入が多い状態。
貿易収支は赤字になりやすい。
海外からの借入れが多く、対外純資産はマイナス。
第2段階:成熟した債務国
経済発展が進み、輸出が増加する。
貿易収支は黒字に転じるが、過去の借入れの返済により、所得収支は赤字のまま。
経常収支は依然として赤字で、対外純資産もマイナスの状態が続く。
第3段階:債務返済国
輸出がさらに増加し、貿易収支の黒字が拡大する。
所得収支も黒字に転じ、経常収支が黒字となる。
海外からの借入れを返済し、対外純資産がプラスに転じる。
第4段階:未成熟な債権国
経常収支の黒字が継続し、対外純資産が増加する。
海外への投資が増え始めるが、まだ債権国としての地位は確立されていない。
第5段階:成熟した債権国
経常収支の黒字が安定し、対外純資産が大幅に増加する。
海外からの投資収益が増え、所得収支が大きく黒字となる。
世界経済において、資金供給国としての役割を担う。
第6段階:債権回収国
対外純資産がピークに達し、その後減少に転じる段階。
国内の投資機会が減少し、海外からの投資回収が進む。
経常収支の黒字が縮小し、貿易収支も赤字になることがある。
国際収支発展段階説のポイント
経済発展段階に応じて、国際収支の構成要素(貿易収支、所得収支、経常収支、対外純資産)が変化する。
各国は、それぞれの発展段階に応じた国際収支の構造を持つ。
国際収支の均衡は、経済発展の過程において重要な課題となる。
国際収支発展段階説は、一国の経済発展と国際収支の関係性を理解する上で、有用な理論です。この理論を参考に、各国の経済状況や国際的な役割を分析することができます。
補足
国際収支発展段階説は、あくまで理論的なモデルであり、現実の経済は多様な要因によって影響を受けるため、必ずしもこの理論通りに発展するとは限りません。しかし、国際収支の長期的な動向を把握する上で、参考になる考え方です。
証券投資理論の基礎@広島大学 レジュメより (再掲)
Q:名目金利が 年8%で インフレ率 (CPI) が 年5%のとき、 実質金利は3%か? ex. 100円の債券投資 ⇛1年後:108円 100円の消費財の組み合わせ ⇛1年後:105円 のとき 1年後の108円の購買力=108/105=1.02857 (この投資の収益率:2.857%) ☆実質金利と名目金利、インフレ率 (CPI) の関係 1+実質金利=(1+名目金利)/(1+インフレ率) ex.参照せよ 式変形して、 すなわち ★実質金利=(名目金利-インフレ率)/(1+インフレ率) つまり、 デフレはマイナスのインフレ率なので、 実質金利を上げてしまう。
フィッシャー効果 (再掲)
物価上昇の予想が金利を上昇させるという効果で、フィッシャーが最初にそれを指摘したところからフィッシャー効果と呼ばれる。 ある率で物価の上昇が予想されるようになると、貸手が貸金に生じる購買力目減りの補償を求める結果として、資金貸借で成立する名目金利は物価上昇の予想がなかったときの金利(=実質金利)より、その予想物価上昇率分だけ高まる。(以下略) 有斐閣経済辞典第5版 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html
「金融と社会」質問と回答その7 (再掲)
質問:インフレ目標政策についてうかがいます。 私の実感でも、物価が上がってきたなー、と感じます。 より正確には、 通貨(円)の価値が目減りした ということだと思われますが。 あまり国民の生活が苦しくなれば、 物価の安定という意味では、 金利をあげたほうがまだマシ、 と考える家計も 増えてくるのではないかと考えます。 そうすると、なるほどこれがフィッシャー効果か、 と思われるのですが、 確かに 実質金利がさがったことで 消費者の購買意欲が増したことで 景気の底割れを防ぎ、 政府の名目上の税収も 増えていると言われています。 しかし、かといって、 国も企業も家計も借金まみれの現状では、 今さら金利を上げられるのか、 甚だ疑わしいです。 なぜなら、 金利の上昇は、確かに通貨(円)の価値を 底上げする可能性はありますが、 上述のように 政府・企業・家計が借金まみれの状態では 金利の上昇は難しいことは無論、 長期金利の上昇は、 政府の借金の利払いを増嵩させるのみならず、 日本国債の価格を低下させるため、 発行済日本国債の6割を保有すると いわれる日銀の財務状況を、 著しく危殆にさらすものと考えられるからです。 果たして、 これが当初のインフレ目標政策の 目指していた姿なのか、 甚だ疑念を感じずにはいられません。 回答: 質問文に書かれていることは、私も理解できます。 インフレ目標政策が 2013年に導入を余儀なくされた時、 当時の白川総裁には その問題点がわかっていたと思います。 日銀が2000年に インフレ目標政策について調査したレポートを リンクしておきます。 http://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2000/data/ron0006a.pdf
経常収支ことはじめ (再掲)
質問: 今般の衆議院選挙の結果を受けて、安倍政権の経済政策が信任され、結果、日銀が緩和を継続すれば、世界経済への流動性供給の源であり続けることになり、特に、金利上昇の影響を受けやすいアジアの新興市場に日本発の流動性が流れ込むだろうという指摘もあります。 ここで、松原隆一郎先生は、「経常収支と金融収支は一致する」と書いておられるわけですが、実際に物(ブツ)が輸出入される、という実物経済と、例えば日銀が金融緩和で世界にマネーを垂れ流して世界の利上げ傾向に逆行する、という国際金融の話を、同じ土俵で括るのが適切なのか、という疑問が生じました。 回答:経常収支は一国で実物取引が完結せず輸出入に差があることを表現する項目です。日本のようにそれが黒字である(輸出が輸入よりも大きい)のは商品が外国に売れて、外国に競り勝って良いことのように見えるかもしれませんが、別の見方をすれば国内で買われず売れ残ったものを外国に引き取ってもらったとも言えます。国内では生産しカネが所得として分配されていて購買力となっているのに全額使われなかったのですから、その分は貯蓄となっています。つまり実物を純輸出しているとは、同時に国内で使われなかった貯蓄も海外で使わねばならないことを意味しているのです。こちらが金融収支なので、「経常収支と金融収支が一致する」のは同じことの裏表に過ぎません。 そこでご質問は、「日銀が国債を直接引き受けたりして金融緩和し続けている。このことは経常収支・金融収支とどう関係があるのか?」ということになろうかと思われます。けれども日銀はバランスシートというストックのやりとりをしており経常収支・金融収支はフローのやりとりなので、概念としては次元が異なります(「スピード」と「距離」に相当)。すなわち、金融収支はフローであり、日銀の金融緩和はストックなので、同じ水準では扱えないのです(スピードに距離を足すことはできない)。 しかしストックとフローにも影響関係はあるのではないかという考え方も確かにあり、そもそも一国内に限ってそれを金融資産の需給(ストック)と財の需給(フロー)が金利で結ばれるという考え方を示したのがケインズの『雇用・利子・貨幣の一般理論』でした。とすればその国際経済版が成り立つのかは重要な問題ではあります。この論点は多くの研究者が気になるようで、奥田宏司「経常収支,財政収支の基本的な把握」www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/Vol.26-2/09_Okuda.pdf が論じています。参考にしてください。 https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX
旬報社 (再掲)
1990年代以降、
企業のグローバル展開が
加速していくのに合わせて、
国内では
非正規雇用への
切り替えや
賃金の削減など、
生産コスト抑制が
強まりました。
大企業は
グローバル展開と
国内での
労働条件引き下げにより、
利潤を増加させてきたのです。
しかし、
その増加した
利潤は
再びグローバル投資
(国内外のM&Aを含む)
に振り向けられます。
そして、
グローバル競争を背景にした
規制緩和によって、
M&Aが
増加していきますが、
これによって
株主配分に重点を置いた
利益処分が強まり、
所得格差の拡大が
生じています。
また、
国内の
生産コスト抑制により、
内需が縮小していきますが、
これは
企業に対して
さらなる
グローバル展開へと
駆り立てます。
このように、
現代日本経済は
国内経済の衰退と
グローバル企業の利潤拡大を
生み出していく構造になっているのです。
1990年代以降、
景気拡大や
企業収益の増大にも関わらず、
賃金の上昇や
労働条件の改善に
つながらないという
問題を
冒頭で指摘しましたが、
このような
日本経済の構造に
要因があるのです。
新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より
https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX
旬報社 (再掲)
もし、 日銀が目的としている 2%の物価上昇が 実現した場合、 国債の発行金利が 2%以上になるか、 利回りが 最低でも 2%以上になるまで 市場価格が下がります。 なぜなら、 実質金利 (名目利子率-期待インフレ率) が マイナスの (つまり保有していると 損をする) 金融商品を買う 投資家はいない からです。 国債 (10年物) の利回りは 0.1%程度 (2018年11月現在) ですが、 それが 2.1% に上昇した場合、 何が起こるでしょうか。 政府の 国債発行コストが 跳ね上がるのは もちろんですが、 より重要なことは、 国債価格が暴落し、 国債を大量に保有している 銀行に莫大な評価損が 出ることです。 「経済の論点」 旬報社 72ページより
善い人生
まったく
人を傷つけずに
生きてきた、とは
言わない。
若い頃、といっても
せいぜい
中3ぐらいまでだが、
不用意に
人を傷つけたことはある。
しかし、
両親に対しては、
特に
母親に対しては、
善い行いをしてきた、と
実感している。
父親の闘病生活を
母親とともに
支え、
母親が脳梗塞の
兆候を示したときも、
いち早く察知し、
素早く対処した。
そして、
母親が脳梗塞になった
後でも、
心身ともに
母親をサポートしてきた。
少なくとも
これらの点において、
俺は
善い行いをしてきた、と
実感している。
政策割当の原理:インタゲと増税はワンセット (再掲)
質問:中央銀行は
民間に供給される
通貨量を
コントロールしながら
物価の安定を実現させる、
とありますが、
アベノミクスの第一の矢である
2%物価上昇目標では、
インフレを起こすことにより、
デフレ脱却はもちろんのこと、
インフレによって
財政再建を同時に目指すとしていますが、
これは
「政策割り当ての原理」
に反してはいないでしょうか?
あるいは、
新古典派経済学では
「政策割り当ての原理」
は成立しないのでしょうか?
回答: オランダの経済学者で
1969年にノーベル経済学賞を受賞した
ティンバーゲンは、
「n個の政策目標を実現するためには、
n個の政策手段が必要である」
という
有名な定理を唱えています。
すなわち、
「政策割当の原理」です。
したがって、
「インフレ」と「財政再建」の
2つの政策目標を
実現するためには、
2つの政策手段が必要となります。
本来、
中央銀行の政策目標は
物価の安定ですが、
アベノミクスの第一の矢は
2%の物価上昇が政策目標でした。
本来の
金融政策の目標
(物価の安定)
と異なるため
黒田日銀総裁は
「異次元の金融政策」という
言葉を使ったのです。
この
インフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、
物価上昇によって
企業利潤が増加すると
法人税の増収、
また、
それに伴った
賃金の上昇による
所得税の増収、
すなわち
直接税の自然増収が
財政再建に繋がるシナリオを
描いていたのです。
このシナリオどおりに進めば、
もう一つの政策目標である
「財政再建」の目標に繋がります。
ただ、
経済成長なきインフレは
国民の生活レベルを引き下げる
ことになります。
したがって、
アベノミクスの第二の矢である
積極的な財政支出による
経済成長が重要になってくるため
「財政再建」
が先送りになってしまいます。
それゆえに、
「財政再建」の政策目標の一環として
消費税の引上げが考えられています。
このように、
「政策割当の原理」は
成立しています。
2025年1月30日木曜日
ハンバーgood !
今日は、母親の
(一個しかない)
腎臓の検査の日でした。
だから、
朝っぱらから
ナーバスになってたんだね。
気持ちはわかる。
結果的に
値が超良好で、
お互い
心底ホッとした。
腎臓って、一度ダメになると
回復しないらしいからね。
(でもなんか値が
めちゃくちゃ
良くなってた。)
(´;ω;`)
脅迫的懇願
久しぶりに
母親に
<顔>で
訴えられたわ。
母親の
常套手段。
そんなに
カネ使う余裕ない、って。
母親が
脳梗塞になって以来
初めてじゃないかな?
「アンチ・オイディプス」を
持ち出すのは
大げさだけど、
子供に
対して
資本主義に適合するような
人間に
枠を嵌めるのも、
ある種
「親」の
役割ではある。
ただ、それは
往々にして
「子」の
メンタリティを
過度に
規制する。
一種の
パラノイア人間に
加工する。
ほんとは
もっと
カネ使わなくても
生きていけるのに、
<加工>
されることにより
もっともっと
稼がないと、
満足に暮らせない、と
「親」が「子」に
刷り込む。
これが
一種の
資本主義パラノイア。
そうやって、
溜め込めば
溜め込むほど、
生きにくくなる。
これもまた
金持ち特有の病気。
「姉」は
ある意味では
<小林家>という
強度の
パラノイア機械からの
逸脱者ではある。
母親は
重度の資本主義的パラノイア。
もっともっとと
欲しがるくせに、
なお一層
心が
渇いていく。
まったく
そんな人間の
一生は
不幸なものだ。
渡る世間は鬼ばかり
まあ、姉は姉で、
ああ見えて
単純な人間なのだ。
いかにも
小市民的でありながら、
世渡りが上手いわけでもなく、
努力も
しないくせに
やたらめったら
嫉妬ばかりして、
ちょっとばかり難点を
見つければ、
それで
勝ち誇った気分に浸れる、という
ご都合主義者でもある。
かといって、
徹頭徹尾うらむということも
知らず、
要するに、
単純で
幼稚で
浅はかなのだ。
それは
主に
世間を知らなさすぎるが
ゆえに、
世間をナメていたからだ。
いつも
最後は
母親に泣きついた挙げ句、
逃げて
止めてしまうものだから、
結局は
切羽詰まる、ということが
今まで
ほとんど
無かったのだ。
しかし、さすがに
東京に
一戸建てを建てて、
こどもを育てる、と
なれば、
否が応でも
「世間」というものと
向き合わざるを得ない。
つまり、ようやく
「世間」というものに
船出をしたのだ。
とはいえ、さすがに
48年間も
生きてきたのだから、
それなりに
男を見る目はあったようだ。
あれだけ
穏やかで
従順な
義兄を見つけてきた、というのは
なかなかの
美徳なのだ。
だから、俺は
もう
会いたくもないし、しばらく
会ってもいないが、
どこか
少し
姉のことを、
愚かだが
憎みきれないヤツだと
思っている。
なぜかといえば、
アイツは
完全に心を閉ざして
うわべだけの
知性で
世渡りできるほどには
賢くはないからだ。
2025年1月29日水曜日
姉からのマウントかましの一例 (再掲)
心配しないでください。ヒロさんは、これを機に外の世界に一歩踏み出してください。外の世界は広くて楽しいです。知らないで終わるのは勿体ないです。私は今まで外の世界を沢山見てきました。今度はヒロさんの番です。思いっきり人生を楽しんで下さいね。
https://www.youtube.com/watch?v=nUZVXtDVrc0
もう絶縁したけど (再掲)
姉もなー 私は世界広い、 お前は 世界狭い、て マウント かましてくるくせに、 年齢相応の常識すら ねーからな。 高いカネ出して お見合いクラブ 入ったのに、 プロフィール欄の 尊敬する 歴史上の人物 に 明石家さんま て 書いちゃうんだからな。 そら、 どんなに顔面偏差値 高くても、 まともな男は 寄って来ないよ。 私はバカです って 言ってるようなもんじゃん。 お前のいう 世界広いって なんなんだよ? もうアホすぎて 付き合いきれねえんだよ。 父親が 生きてた時に、 株が終わって 生活費を近くの コンビニで おろすのを頼まれた時、 コンビニのATMで 小林家 一ヶ月分の カネ引き出してんのに、 3歳の息子が どこ行くか わからないから 帰るのが 何時間後になるか わからない、とか ふざけた こと言ってて、 ほんと コイツの頭は どうなってんだ?! と 思ったわ。
愕然 (再掲)
2ヶ月入れられてた 病院から ようやく 退院したとき、 記帳をする 姉のペンの握り方を見て、 衝撃を受けた。 中指と薬指の間から ボールペンが 突き出ている。 20年近く前の ことだから 正確ではないかもしれないが、 よくその握り方で 字が書けるな、と 逆に関心してしまうような 握り方だった。 と、同時に、 俺は この先の人生 誰を頼りにして 生きていけばいいんだ? と マジで 心が折れそうになった。
「蛇でつながる世界 十選」 京都精華大学特任教授 稲賀繁美
日経新聞の
終面に、
「蛇でつながる世界」
と
題して、
古今東西の
蛇にまつわる
美術品を
通して、
その寓意を探る、
という
連載をやっていて、
頭の中で
放送大学の
「原典で読む日本の思想」
(賴住光子)
の中の記紀神話と、
「精神分析とユング心理学」
(吉川眞理、田中健夫)の
「集合的無意識」が
バチッと
繋がった。
日経新聞は
こういうちょっとした
カラクリがあるから、
高いけど
やめられない。
2025年1月28日火曜日
危なかった(;´∀`)
3年くらい前だったか、
母親に、
聞きにくいが
遺産をどうするのか
聞いたら、
俺の生活費を
姉に
管理させるつもり、だと
言うから、
危うく
発狂しそうになって、
救急車
呼んだ。
漠たる (再掲)
20年前 東戸塚の 日向台っていう 精神病院に 2ヶ月 いたんだが、 名前の通り 日当たりのいい ところで、 要するに 暑かった。 心因性多飲症で 今でも 日々 大量の お茶だの 冷水だのが 必要な自分には、 冷水さえ 滅多に飲めないのは 苦痛だった。 だいたい 5月から7月の間 だったと思うが、 暑いのに 冷水さえ飲めず、 もちろん空調も効かない。 たまに 作業療法の時間があり、 旧い建物の一室で ビーズの編み物を作ったり したんだが、飽きて 薄暗い ソファーベッドに寝転んで、 俺は こんなところに居て この先の人生は 一体どうなるんだろう?と 漠たる、 漠たるとしか 言いようのない 感覚に侵されていた。 今年はそれから 20年てことで 放送大学のほうも 親から資金援助してもらって 岡山に10連泊したりなんかして、 贅沢させてもらっているが、 これは 無意識なのか、 急に 気力・体力の衰えを 感じる。 お金がなけりゃ 生きていけないのは 現代人の宿命だが、 母親が亡くなったら どう 生きていけばいい? 別に 病気だって治ったわけじゃない。 当然 薬だって 必要だ。 我ながらよく頑張ったとは 思うが、 正直 お金を稼ぐのは 不得手だ。 そもそも、そこまで 要求するのは いくらなんでも 酷なんじゃないか? かといって 自殺する気はサラサラないし。 人生100年時代? バカいうんじゃないよ。 40ちょい 生きるだけで これだけ大変なのに、 100年も生きろだと? 単純に 体の調子が 悪いだけなのかも知れないが、 なんだか 急に 疲れた。 若いうちは 気力だけは凄かったから どうにかなったが、 その 肝心の気力が 涸れつつある。
うざい
無駄に
慶應生を続けていた頃、
どういう訳か
戸塚のアパートで
姉と
暮らしていた時期があった。
ある日、
姉が
「ウフ♪」と
呟いたから、ああ、また
人を馬鹿にする練習でも
してんのか、と
思って、
「なに?」と
聞いたら?
「わかる?
この
バカにしてる
感じ?」と
言ったから、
ああ、練習してんのね、と
やり過ごしたが、
後から考えると、
あれは、
慶応を辞めることすら出来ず、
かといって
大学に行くでもなく、
無駄に
時間とカネを使ってる
俺を
馬鹿にしてるんだな、と
気づいて、
心の底から
コイツは
クソ野郎だ、と
思った。
ビジネスと経済学@茨城大学 で聞いた話
一時期
家電量販店が
「他店より
1円でも
安く」
と
キャンペーンを張っていたが、
あれは
家電量販店が
意図していなくても、
結果的に
価格カルテルになるため、
アメリカでは
そういう手段は
独占禁止法に
抵触するらしい。
2025年1月26日日曜日
新世界の幕開け The dawn of the perfectly new world.
https://www.youtube.com/watch?v=xYEV3SnuTm8
The video is about the impact of Donald Trump's presidency on the Japanese economy. The speaker believes that Trump's policies will lead to significant changes in Japan, including a decrease in the country's credit rating and an increase in interest rates. This will have a negative impact on the Japanese economy, as it will increase the cost of borrowing for the government and businesses. The speaker also believes that Trump's policies will force Japanese companies to become more competitive. This will be a positive development for the Japanese economy in the long run, but it will also lead to short-term pain for many companies and workers.
2025年1月25日土曜日
法治主義を否定する菅官房長官 (当時) (再掲)
質問:今年(2018年)8月21日に、菅官房長官が、記者会見で、携帯料金を4割値下げする、と発言し、auをはじめとする携帯会社の株価が一時下落しました。 要件としては、 ①官房長官は 行政庁か ②官房長官の 記者会見は 行政行為か ③損失を被った 株主の 原告適格、 の3つと考えられます。 一番の論点は ②の 官房長官の 発言は 行政行為か、 と思われます。 仮に取消訴訟で勝って、 官房長官の発言が無効とされたとしても、 株価が戻るかは不確実で、 損害賠償もしてもらえないとなれば、 わざわざ訴訟を提起するのは デメリットのほうが大きくなってしまいます。 文字数制限の都合で、論理が飛躍している部分がありますが、ご容赦ください。 ご回答:ご質問ありがとうございます。 まず①との関係では、 官房長官は 行政庁には当たりません。 行政庁とは、 行政主体 (ご質問との関係では国) のために 意思決定を行い これを表示する権限を有するものをいう (印刷教材45頁) のですが、 携帯電話事業に対する 事業認可の権限を もっているのは 総務大臣でして、 官房長官が 料金設定についての発言をして これが料金設定に影響を及ぼすとしても、 それはあくまでも事実上のものだからです。 また、質問事項② については、 行政行為 とは、 行政庁が法律に基づき 一方的に 国民や住民の 権利義務の 個別的・具体的な内容を 直接確定する 行政機関の活動形式をいう (印刷教材70頁参照) わけですが、 官房長官の記者会見は、 法律に基づき 国民や住民の 権利義務の 個別的・具体的な 内容を 確定するもの ということが できませんので、 行政行為に該当する ということが できません。 さらに 質問事項③ に つきましては、 原告適格以前に 問題となることがあります。 それは、 官房長官の発言が 取消訴訟の対象となる 「行政庁の処分」 (行訴法3条2項) の 要件を満たさない、 ということです。 つまり、 「行政庁の処分」 とは、 「公権力の主体 たる 国又は公共団体 が 行う行為のうち、 その行為によって 直接国民の 権利義務を形成し 又はその範囲を 確定することが 法律上 認められている ものをいう」 と されている (印刷教材170頁参照) のですが、 官房長官による 記者会見での発言は、 国民などの 権利義務の 個別的・具体的内容 を 確定するという 法的な効果を発生させるもの ではないので、 「行政庁の処分」 という 要件を満たしません。 したがって、 損失を被った株主の 原告適格が あるかないか、 ということを 問う以前に、 そもそも 質問にある 発言 は 取消訴訟で争う ことができる 対象には 当たらない、 と考えられます。
2025年1月24日金曜日
行政は万能ではない。
今年で
阪神・淡路大震災から
30年ということらしいが、
あの時は
たぶん
小学生ぐらいで、
遠い
関係のないところだ、と
なかば
他人事だったが、
(小学生の発想
なんてそんなもの。
それが問題だというなら、
台湾で
大地震が起きた時、
どれだけの日本人が
本気で
心を痛めたというのか?)
それはさておき、
あの震災のときに、
役人が、
被災した住民から
要請を受けたが
ハンコがなくて
拒否した、という
ほんとかどうか
知らないが、
そんな
話があった。
あれでまた
とにかく行政はダメだ、という
大合唱が
鳴ったのは覚えている。
こういうのって、
いつも
思うんだが、
行政って万能じゃないからね。
役人は
ターミネーターじゃないから。
身分を確認できない人に対して、
軽々しく
戸籍をいじるようなことを
許して良いの?
そりゃあ、賛否両論あるだろうが、
これだから
行政はダメだ、と
一方的に決めつけるのは、
明らかにおかしい。
身分を特定できない人に対して、
軽々しく
戸籍をいじるようなことを
許せば、
簡単に
戸籍が入れ替わっちゃう。
本気で
それでいいと思いますか?
松本清張の「砂の器」って
そういう話だよ。
もちろん、主題は
ハンセン病への差別だけど。
2025年1月23日木曜日
財政学@新潟大学 後日談ー改訂
俺:先週末の2日間、
大変貴重なお話を聞かせていただき、
ありがとうございました。
大変勉強になりました。
家に帰ってから、
プライマリーバランスについて調べたのですが、
少し疑問が生じたので、
質問させていただきます。
「財政状況を示す指標の1つで,
プライマリー・バランス均衡とは,
利払費・債務償還費
を
除いた歳出が
公債金収入以外の
歳入で
賄われている状態を指す。
この場合,
現世代の
受益と負担が
均衡していることになる。
プライマリー・バランス均衡の状態で,
金利と名目GDP成長率が等しければ,
債務残高の対GDP比は
一定に保たれる。
有斐閣経済辞典第4版」
とあるのですが、
まず
プライマリーバランスを実現しないことには、
いくら
名目GDP成長率が金利を上回っていても、
債務残高は、
長期的に見れば
発散してしまうのでしょうか?
私も勉強不足で、
少し曖昧な質問になってしまい恐縮ですが、
ご回答たまわれれば幸いです。
新潟大学 根岸睦人先生より:
小林さん
新潟大学の根岸です。
先日はお疲れさまでした。
早速ですが、質問にお答えします。
>まずプライマリーバランスを実現しないことには、
いくら
名目GDP成長率が金利を上回っていても、
債務残高は、
長期的に見れば
発散してしまうのでしょうか?
いいえ、必ずしもそうではありません。
仮にプライマリーバランス
(PB)
が赤字
(利払い費の規模を超える債務残高の増加)
でも、
債務残高の増加率を上回る
GDPの成長率が実現すれば、
債務残高の対GDP比は低下します。
PBのバランスと、
利子率と
名目成長率の
関係の
両面で考える必要があります。
(以下 Google Gemini より)
根岸先生の回答に対する補足と更なる考察
根岸先生の回答の要約
根岸先生のご回答、大変分かりやすく、小林さんの疑問に対して的確な回答となっています。要約すると、以下のようになります。
プライマリーバランスが赤字でも、名目GDP成長率が十分に高ければ、債務残高の対GDP比は低下する可能性がある。
債務残高の動向は、プライマリーバランスと、利子率と名目GDP成長率の関係の両方に影響される。
さらに掘り下げて考えてみましょう
根岸先生の回答を踏まえ、もう少し深く考えてみましょう。
1. プライマリーバランスと債務残高の関係
プライマリーバランスが赤字の場合: 政府は新しい借金をして、既存の借金の利払いや新規の支出を賄います。つまり、債務残高は増加します。
プライマリーバランスが黒字の場合: 政府は税収等で得た収入から、利払いを超過する部分を債務の返済に充てることができます。つまり、債務残高は減少します。
2. 名目GDP成長率と債務残高の関係
名目GDP成長率が高い場合: 経済全体が成長し、税収が増加する傾向にあります。また、債務残高は名目GDPで割って計算されるため、名目GDPが成長すれば、債務残高の対GDP比は低下する可能性が高まります。
3. 利子率と債務残高の関係
利子率が高い場合: 政府が支払う利払いが増え、財政状況を悪化させます。結果として、債務残高が増加する可能性が高まります。
結論
債務残高の動向は、プライマリーバランス、名目GDP成長率、そして利子率という3つの要素が複雑に絡み合って決まります。
プライマリーバランスの改善: 債務残高を減らすために最も直接的な方法です。
名目GDP成長率の維持・向上: 経済成長は、税収を増やし、債務残高の対GDP比を低下させる上で非常に重要です。
利子率の抑制: 利子率の上昇は、財政状況を悪化させます。中央銀行などの政策によって、利子率を安定的に保つことが求められます。
具体的な数値例
より具体的にイメージするために、数値例を考えてみましょう。
年度 プライマリーバランス (GDP比) 名目GDP成長率 利子率 債務残高の対GDP比
1年目 -2% 5% 2% 200%
2年目 -1% 4% 2% 198%
Google スプレッドシートにエクスポート
この例では、プライマリーバランスは赤字ですが、名目GDP成長率が利子率を上回っているため、債務残高の対GDP比は減少しています。
まとめ
小林さんの質問は、財政学の非常に重要なテーマです。根岸先生の回答を参考に、さらに深く勉強を進めていくことで、より深い理解を得られるでしょう。
もし、さらに詳しい説明が必要な場合は、お気軽にご質問ください。
補足として、以下のような点についても考えてみると良いかもしれません。
潜在成長率: 長期的に持続可能な経済成長率のことです。潜在成長率を超える成長は、一時的なものであり、持続可能性に疑問が残ります。
財政政策と金融政策: 政府の財政政策と中央銀行の金融政策は、密接な関係にあります。両方の政策を効果的に組み合わせることで、経済の安定と成長を実現することができます。
世代間の公平性: 現在の世代が将来世代に負債を残すことの問題は、重要な社会問題です。財政政策を考える際には、世代間の公平性を考慮する必要があります。
ご自身の興味のある分野を深堀りして、より深い理解を目指しましょう。
日常生活とつながる「行政法」@郡山女子大学 レポート (再掲)
行政法の概念に、 「行政指導」と呼ばれるものが存在する。 行政は、 本来「行政行為」と呼ばれる、 命令する主体としての行政と、 名宛人の市民との 主体・客体関係が ハッキリしている手段で 運営されるべきものだが、 「行政指導」という、 極めて日本的な、 主体・客体関係が不明瞭な手段が、 行政の運営上横行している。 もっとも、 行政指導それ自体が問題なのではなく、 行政指導が、 本来強制力を伴わないものであるはずなのに、 従わなければ 往々にして 市民が制裁を加えられることが、 常態化しているという現実がある。 また、それに留まらず、 行政指導が 医療のあり方に絶大な影響を与えている。 どういうことか。 日本の医療制度において、 ある一定の地域に、 十分な病床数が確保されている場合、 新規に医療業者が参入しようとするとき、 保険適用が受けられず、 自由診療で開業せざるを得ない、 という現実が、 行政指導によって正当化されている。 これは明らかに 既存の病院の権益を守り、 新規参入者を 不当に排除している。 問題はこれに留まらない。 特に精神医療において、 1950年代にフランスで 画期的な抗精神病薬が開発され、 欧米先進国では 病床数が減っていったにも関わらず、 日本では逆に病床数が増えた。 これは、 戦後、精神病患者を建前上 しっかり治療しようとの方針から、 精神病院の数が増えたからである。 そこで、戦後、精神病院が増設される際、 一定の範囲で病床数を確保してしまえば、 地域の患者を独占できてしまう、 という経済的合理性によって、 精神病院が往々にして 大規模化したことが推測される。 言わずもがな、これは行政指導によって、 いったん多くの病床数を確保してしまえば、 新規参入者を排除できることが、 精神病院の大規模化を促したと 容易に考えられる。 そして、元厚生労働大臣が、 戦後日本の医療制度を構築した 武見太郎の息子である武見敬三である現実では、 これが改められる可能性は極めて低い。
踊る阿呆に見る阿呆 (再掲)
もう若い世代は 知らないだろうが、 坂口力 厚生労働大臣(当時)が 豚熱か何かの 対応に 追われてて、 そのうえ 鳥インフルエンザと 牛の口蹄疫か 何かまで 発生して、 「モウ、ケッコウ。」 と 発言してたのを マスコミが騒いで けしからん けしからん て 騒いでたな。 くだらねー。 柳澤伯夫 厚生労働大臣(当時) だったかな? 「女性は産む機械」 なんて 発言しちゃって、 なんで そんなこと言っちゃったかな? と 思うんだけど、 今から思えば、 既に 手遅れ感の色濃い 少子化対策を考えれば、 あの時 あんな 片言隻句に囚われて 大騒ぎしてる 場合じゃなかったんじゃ ないのか? メディアも国民も、 危機意識が まったく なかった。 結局 政治家がどうにかしてくれる と 思ってるくせに、 とりあえず 政治家と官僚を 叩いとけ、 という空気が 蔓延してた。 あの頃は まだ ネット社会じゃなかったけどな。 ネット社会になって 日本の政治やマスコミ報道の 質が 上がったかというと、 逆に 劣化してるようにしか 見えないが。 あれだけ DX DX 騒いで、 マイナンバーカード すら 普及させられない。 労働生産性を 高める 効果的な 施策のはずが。 確かに 行政不信も 行き過ぎた 行政性悪説も 感覚としては わからなくもないが、 巡り巡って 国民一人ひとりに 恩恵が 来るものを、 なにか イチャモンつけて 拒否する。 この国は いっぺん ポシャらないと、 何も 変わらない。
<キャラ>の分析 (再掲) ー行政性悪説を排すー
ところで、
ルソーは疎外論の
元祖だそうである。
「ホントウのワタシ」
と
「社会的仮面を被ったワタシ」
の分離という
中学生が本能的に
感じるようなことに
言及していたそうである。
ここで、いわゆる
『キャラ』
について考えてみよう。
サークルの飲み会で、
場にあわせて
ドンチャン騒ぎを
やることに倦み果てて、
トイレに逃げ込んだときに
自分の顔を鏡でみるのは
一種のホラーである。
鏡に映る、グダグダに
なって油断して仮面を
剥がしかけてしまった
見知らぬ自分。
それを自分だと思えず
一瞬見遣る鏡の前の男。
男は鏡に映る男が
自分であることに驚き、
鏡の中の男が同時に驚く。
その刹那両方の視線がカチあう。
俺は鏡を見ていて、
その俺を見ている鏡の中に
俺がいて、
それをまた俺が見ている・・・
という視線の
無限遡行が起こって、
自家中毒に陥ってしまう。
このクラクラとさせるような
思考実験からは、
<顔>について
われわれが持っている
イメージとは違う
<顔>の性質を
垣間見ることが
出来るのではないか。
そもそも、
自分の顔は自分が一番よく知っている
と誰もが思っているが、
鷲田清一によれば、
「われわれは
自分の顔から
遠く隔てられている」
(「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22)
という。
それは、
「われわれは
他人の顔を思い描くこと
なしに、
そのひとについて
思いをめぐらすことは
できないが、
他方で、他人が
それを眺めつつ
<わたし>について
思いをめぐらす
その顔を、
よりによって当のわたしは
じかに見ることができない。」
(P.22)からだ。
言い換えれば、
「わたしはわたし(の顔)を
見つめる他者の顔、
他者の視線を通じてしか
自分の顔に
近づけないということである。」
(P.56)ゆえに、
「われわれは目の前にある
他者の顔を
『読む』ことによって、
いまの自分の顔の様態を
想像するわけである。
その意味では
他者は文字どおり
<わたし>の鏡なのである。
他者の<顔>の上に
何かを読み取る、
あるいは「だれか」を読み取る、
そういう視覚の構造を
折り返したところに
<わたし>が想像的に
措定されるのであるから、
<わたし>と他者とは
それぞれ自己へといたるために
たがいにその存在を
交叉させねば
ならないのであり、
他者の<顔>を
読むことを覚えねば
ならないのである。」(P.56)
そして、
「こうした自己と他者の
存在の根源的交叉(キアスム)と
その反転を可能にするのが、
解釈の共同的な構造である。
ともに同じ意味の枠を
なぞっているという、
その解釈の共同性のみに
支えられているような
共謀関係に
<わたし>の存在は
依拠しているわけである。
他者の<顔>、
わたしたちはそれを
通して自己の可視的な
イメージを形成するの
だとすれば、
<顔>の上にこそ
共同性が映しだされている
ことになる。」(P.56)
こう考えると、
「ひととひととの差異を
しるしづける<顔>は、
皮肉にも、
世界について、あるいは自分たち
についての
解釈のコードを
共有するものたちの
あいだではじめて
その具体的な意味を
得てくるような現象
だということがわかる。」(P.58)
これはまさに、
サークルなどで各々が
被っている<キャラ>に
まさしく当てはまる
のではないか。
サークルという場においては、
暗黙の解釈コードを
共有しているかどうかを
試し試され、確認し合っており、
そのコードを理解できないもの、
理解しようとしないものは
排除される。
その意味では
<キャラ>はまさしく社会的仮面なのだ。
視線の交錯の上に
成り立つ
「規律」に反するものを
“排除”する構造は、
<キャラ>を媒介として成り立つ、
目には見えない
一望監視装置と言えるだろう。
フーコー学者からすれば、
例えば国勢調査などはまさに
「生‐政治」の典型だろうけど、
自分はこの類の
「教科書的フーコー理解」は、
結局
国家の牧人的
国民管理からの反逆、
打倒政府、行政性悪説に
辿り着くものでしかなく、
また、
フーコーの考える
「生‐政治」の可能性を
矮小化させてしまう
ものだと思う。
フーコーの考えた
「生‐政治」というのは、
常に我々のすぐそばで
起こっている現象だと考える。
これは
『キャラ』
の牢獄に閉じ込められた
我々に当てはまる。
「生‐政治」というのは、
「私」が「国家権力」によって
常に監視されている、
という妄想的発想ではなく、
われわれ自身が、
お互いを監視し、
排除する当事者である
のではないか?というように
考えるのです。
そう考えれば、
<キャラ>
はすぐれて「生‐政治」の性質を
帯びている。
「松平定信、米本位主義、朱子学、田沼意次、否定」とGoogleの生成AIに打ち込んでみた。
ご質問ありがとうございます。 松平定信、米本位主義、朱子学、そして田沼意次というキーワードを組み合わせ、さらに「否定」という要素を加えたご質問は、江戸時代の政治経済、思想、そして異なる人物の対比といった、非常に興味深いテーマですね。
これらのキーワードを軸に、以下の点について詳しく見ていきましょう。
1. 松平定信と寛政の改革
米本位主義の導入: 田沼意次の重商主義政策からの転換として、米を経済の中心におく政策を推進しました。これは、天明の大飢饉を教訓とし、農業の振興と幕府財政の安定化を目指したものです。
朱子学の重視: 儒学の一派である朱子学を重視し、道徳的な規範として社会秩序の維持を図りました。これは、田沼時代の自由な風潮に対する反動でもありました。
田沼意次の政策否定: 田沼意次の重商主義や奢侈な政治風潮を批判し、質素倹約を奨励しました。
2. 田沼意次と重商主義
重商主義の推進: 商工業を振興し、海外貿易を奨励することで幕府財政の強化を図りました。
朱子学よりも実学重視: 朱子学よりも、蘭学など実学の導入を推進し、西洋の技術や知識を取り入れようとする姿勢を示しました。
松平定信の政策との対比: 松平定信は、田沼の政策を否定し、農業を重視する政策へと転換しました。
3. 米本位主義と朱子学の関係
米本位主義と農業: 米本位主義は、農業を経済の基礎とし、農民の生活安定を図る政策でした。
朱子学と農本主義: 朱子学は、農業を重視する思想的な背景も持っていたため、米本位主義との整合性が見られます。
社会秩序の維持: 朱子学は、身分制度や儒教的な道徳観に基づいた社会秩序の維持を重視しており、米本位主義もまた、安定した社会秩序を前提としていました。
4. 「否定」の意味合い
政策の転換: 松平定信は、田沼意次の政策を否定し、新たな政策を打ち出しました。
思想の対立: 朱子学と重商主義は、異なる思想に基づいた政策であり、相互に否定的な関係にある側面もありました。
歴史評価の変化: 歴史学において、田沼意次や松平定信の評価は時代や研究者によって変化しており、一概に肯定・否定することは難しいです。
より詳しく知りたいことや、別の視点からの考察をご希望でしたら、お気軽にご質問ください。
例えば、以下の点についてさらに深堀りすることができます。
寛政の改革の成果と失敗: 寛政の改革が幕府財政に与えた影響や、社会にどのような変化をもたらしたのか。
米本位主義の長期的な影響: 米本位主義が日本の経済構造に与えた長期的な影響や、現代の日本経済との関連性。
朱子学の衰退と近代思想の興隆: 江戸時代後期以降、朱子学が衰退し、近代的な思想が台頭してきた背景。
田沼意次と松平定信、どちらの政策がより効果的だったのか: 両者の政策を比較し、それぞれのメリット・デメリットを考察。
これらのテーマについて、歴史学の研究成果や様々な資料を参考にしながら、多角的な視点から考察していくことが可能です。
どのような点に興味をお持ちでしょうか? お気軽にご質問ください。
「元文の改鋳 インフレ」とGoogleの生成AIに打ち込んでみた。
元文の改鋳とは?
江戸時代中期、元文年間(1736年~1741年)に行われた貨幣の改鋳が、元文の改鋳です。これは、流通していた貨幣を回収し、新しい貨幣に作り替えることで、貨幣の価値を安定させ、財政を立て直そうとした政策でした。
しかし、この改鋳は、意図した効果とは裏腹に、深刻なインフレを引き起こし、庶民の生活を苦しめる結果となりました。
なぜインフレが発生したのか?
元文の改鋳でインフレが発生した主な原因は、以下の通りです。
貨幣量の増加: 新しい貨幣を大量に発行したことで、市場に流通する貨幣の量が増加しました。
貨幣の品位の低下: 新しい貨幣の金含有量を減らすなど、貨幣の品位が低下しました。
物価の上昇: 貨幣の価値が下がる一方で、物価は上昇し、人々は同じ金額で以前より少ない量の物しか購入できなくなりました。
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元文の改鋳とインフレの関係を図で示す
インフレがもたらした影響
元文の改鋳によるインフレは、庶民の生活に大きな影響を与えました。
物価の高騰: 日常品や食料品などの価格が上昇し、庶民は生活必需品を十分に購入できなくなりました。
経済の混乱: 商工業活動が停滞し、社会不安が増大しました。
社会問題の発生: 打ちこわしなどの社会問題が多発しました。
元文の改鋳が与えた教訓
元文の改鋳は、貨幣政策の重要性を示す歴史的な事件です。安易な貨幣発行は、インフレを引き起こし、経済社会に大きな混乱をもたらすことを教訓として、現代の経済政策にも活かされています。
まとめ
元文の改鋳は、貨幣の安定化を目的とした政策でしたが、結果的にはインフレを引き起こし、庶民の生活を苦しめることになりました。この歴史的な教訓は、現代においても、物価の安定と経済の健全な発展のために、適切な貨幣政策を行うことの重要性を示しています。
さらに詳しく知りたい方へ
歴史書: 江戸時代経済史に関する書籍
経済学の専門書: インフレーションに関する書籍
博物館: 貨幣博物館など
これらの資料を参考に、より深く元文の改鋳について学ぶことができます。
何か他に知りたいことがあれば、お気軽にご質問ください。
関連キーワード:
元文の改鋳
貨幣改悪
インフレーション
江戸時代経済
貨幣政策
ご自身で調べてみたい場合は、これらのキーワードで検索してみてください。
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is2.sss.fukushima-u.ac.jp
江戸時代の市の様子
(※当時のインフレの様子を想像するためのイメージです)
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ja.wikipedia.org
元文小判
(※元文の改鋳で発行された小判のイメージです)
これらの画像は、元文の改鋳の背景をより深く理解する上で役立つでしょう。
「元文の改鋳 徳川吉宗 米安諸色高 新田開発 矛盾」とGoogleの生成AIに打ち込んでみた。
元文の改鋳、徳川吉宗、米安諸色高、新田開発、そしてその矛盾について
元文の改鋳、徳川吉宗、米安諸色高、新田開発といったキーワードは、江戸時代の経済や政治、特に享保の改革と深く関わっています。これらの要素は、一見矛盾するように思われる部分もありますが、それぞれが複雑に絡み合い、当時の社会状況を形作っていました。
各キーワードの解説
元文の改鋳: 徳川吉宗の時代に実施された貨幣改鋳のことです。古い貨幣を回収し、新しい貨幣を発行することで、財政再建を図ろうとした政策でした。しかし、この政策は物価の上昇を招き、かえって民衆の生活を苦しめる結果となりました。
徳川吉宗: 8代将軍。享保の改革を推進し、幕府財政の立て直しに尽力しました。新田開発や倹約令など、様々な政策を実施しましたが、その中には矛盾や失敗も含まれていました。
米安諸色高: 米の価格が下落し、他の物価が上昇する現象のことです。新田開発による米の増産が原因の一つとされています。
新田開発: 新しい耕地を開墾すること。徳川吉宗は新田開発を奨励し、米の増産を図りました。
矛盾点と背景
これらのキーワードが矛盾するように見えるのは、以下のような点が考えられます。
新田開発と米安: 新田開発は米の増産を目的としていましたが、結果として米価が下落し、米安諸色高を引き起こしました。これは、需要と供給のバランスが崩れたためです。
元文の改鋳と物価上昇: 財政再建のために実施された元文の改鋳は、物価の上昇を招き、民衆の生活を圧迫しました。
倹約令と経済活性化: 徳川吉宗は倹約令を推進しましたが、一方で新田開発や産業振興も進めました。倹約と経済活性化は一見矛盾する政策ですが、吉宗は財政再建と経済の活性化を両立させようとしていました。
矛盾が生じた背景
これらの矛盾が生じた背景には、以下の要因が考えられます。
貨幣経済の発展: 江戸時代中期には貨幣経済が発達し、物価が変動しやすくなっていました。
人口増加: 人口が増加し、食料の需要も増加していました。
新田開発の限界: 新田開発は限界に近づき、新たな食料増産が困難になっていました。
まとめ
元文の改鋳、徳川吉宗、米安諸色高、新田開発といったキーワードは、江戸時代の複雑な社会状況を表しています。これらの要素は、一見矛盾するように見えますが、それぞれの政策が相互に影響し合い、当時の社会を形作っていました。徳川吉宗は、財政再建と経済の活性化という難しい課題に直面し、様々な政策を打ち出しましたが、その中には成功と失敗が混在していました。
さらに詳しく知りたい方へ
より深く知りたい場合は、以下のキーワードで検索してみてください。
享保の改革
徳川吉宗の経済政策
米安諸色高の原因
元文の改鋳の影響
何か他に知りたいことがあれば、お気軽にご質問ください。
例えば、以下の質問はいかがでしょうか?
享保の改革の他の政策について教えてください。
米安諸色高は、農民や武士の生活にどのような影響を与えたのでしょうか?
元文の改鋳は、幕府の財政にどのような影響を与えたのでしょうか?
これらの質問に対する回答を通して、より深く江戸時代の経済や政治について理解を深めることができるでしょう。
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2025年1月22日水曜日
「江戸時代 擬似資本主義 貴穀賤金 米 蓄財 田沼意次 株仲間」とGoogleの生成AIに打ち込んでみた。
江戸時代の擬似資本主義:貴穀賤金、米、蓄財、田沼意次、株仲間
江戸時代は、封建社会を基盤としつつも、商工業が活発化し、独自の経済システムが形成された時代です。この経済システムは、現代の資本主義とは異なる点が多々ありながら、その中に資本主義的な要素も見ることができます。この点から、江戸時代を「擬似資本主義」と捉える歴史学者もいます。
貴穀賤金と米の重要性
江戸時代の経済において、米は最も重要な商品でした。農民は年貢として米を納め、町人は米を買い求め、生活を営んでいました。このため、米の価格変動は、人々の生活に大きな影響を与えました。「貴穀賤金」という言葉は、この時代の経済状況を端的に表しており、「米が高く、金が安い」という意味です。つまり、米の価値が非常に高く、貨幣の価値が相対的に低かったことを示しています。
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core.kyoto3.jp
江戸時代の米相場
蓄財と富の蓄積
江戸時代の人々は、将来に備えて米を蓄える習慣がありました。これは、現代の貯蓄行為に似たもので、不測の事態に備え、生活の安定を図るための手段でした。また、富裕層は、土地や蔵などを購入し、財産を増やすことも行っていました。
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www.cyclowired.jp
江戸時代の蔵
田沼意次と経済政策
田沼意次は、江戸幕府の老中として、経済政策に力を入れた人物です。彼は、株仲間を奨励し、商業を振興することで、幕府の財政を潤わせようと考えました。株仲間とは、同業者で組織された組合のようなもので、田沼は株仲間に特権を与え、独占的な地位を認めることで、幕府への納金を増やそうとしました。
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ja.wikipedia.org
田沼意次
株仲間と商業の活性化
株仲間は、江戸時代の経済において重要な役割を果たしました。株仲間は、品質の安定化、価格の安定化、情報の共有化など、様々なメリットをもたらしました。しかし、一方で、新規の参入を制限することで、競争を阻害し、消費者の選択肢を狭めるというデメリットもありました。
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cleanup.jp
江戸時代の市
擬似資本主義としての江戸経済
江戸時代の経済は、現代の資本主義と比較すると、以下のような特徴を持っていました。
土地の私有制の制限: 土地は原則として幕府のものとされ、私有化は制限されていました。
金利の規制: 高利貸しは厳しく禁止されており、金利は低く抑えられていました。
商業の制限: 商業は、幕府の規制下に置かれ、自由な競争は制限されていました。
これらの特徴から、江戸時代の経済は、現代の資本主義とは異なる独自のシステムであったと言えるでしょう。しかし、一方で、株仲間の設立や、富の蓄積など、資本主義的な要素も見られます。
まとめ
江戸時代の経済は、米を中心とした自給自足的な農業と、活発な商業が共存する複雑なものでした。田沼意次のような人物が登場し、経済政策が積極的に行われることで、江戸経済は大きく変貌を遂げました。現代の資本主義と比較しながら、江戸時代の経済を学ぶことは、日本の歴史を深く理解するための重要な鍵となります。
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ジョン・デューイの政治思想 (再掲)
貨幣文化の出現は伝統的な個人主義が人々の行動のエトスとして機能しえなくなっていることを意味した。「かつて諸個人をとらえ、彼らに人生観の支え、方向、そして統一を与えた忠誠心がまったく消失した。その結果、諸個人は混乱し、当惑している」。デューイはこのように個人が「かつて是認されていた社会的諸価値から切り離されることによって、自己を喪失している」状態を「個性の喪失」と呼び、そこに貨幣文化の深刻な問題を見出した。個性は金儲けの競争において勝ち抜く能力に引きつけられて考えられるようになり、「物質主義、そして拝金主義や享楽主義」の価値体系と行動様式が瀰漫してきた。その結果、個性の本来的なあり方が歪められるようになったのである。 「個性の安定と統合は明確な社会的諸関係や公然と是認された機能遂行によって作り出される」。しかし、貨幣文化は個性の本来的なあり方に含まれるこのような他者との交流や連帯、あるいは社会との繋がりの側面を希薄させる。というのは人々が金儲けのため他人との競争に駆り立てられるからである。その結果彼らは内面的にバラバラの孤立感、そして焦燥感や空虚感に陥る傾向が生じてくる。だが、外面的には、その心理的な不安感の代償を求めるかのように生活様式における画一化、量化、機械化の傾向が顕著になる。利潤獲得をめざす大企業体制による大量生産と大量流通がこれらを刺激し、支えるという客観的条件も存在する。個性の喪失とはこのような二つの側面を併せ持っており、そこには人々の多様な生活がそれぞれに固有の意味や質を持っているとする考え方が後退してゆく傾向が見いだされるのである。かくしてデューイは、「信念の確固たる対象がなく、行動の是認された目標が見失われている時代は歴史上これまでなかったと言えるであろう」と述べて、貨幣文化における意味喪失状況の深刻さを指摘している。(「ジョン・デューイの政治思想」小西中和著 北樹出版 p.243~244)
2025年1月20日月曜日
2025年1月19日日曜日
単位認定試験
今期
唯一の
放送大学の試験。
「金融と社会」の
単位認定試験。
言うなれば、期末テストですな。
ふぃ〜、結構難しかったぜ。
(;´∀`)
久し振りに緊張した。
「金融と社会」は、
自分にとっては
ある意味
質問箱みたいなものだったから、
単位取得しちゃうと
それが
出来なくなるのは
困る、と
思いつつ、
せっかく
自分の
大学の成績表に、
「金融と社会」と
印字される機会を
逃してはならない、と
緊張したけど
頑張りました。
単位はさすがに来ると
思うけど、
これで
「金融と社会」と
行政法@郡山女子大学の
面接授業の
単位は
来るだろうから、
とりあえずまあ
こんなところですかね。
あとは
政治学入門@三島の
単位が来たら、
万々歳。
いずれにせよ、今期の
イベントはすべて終了!
あとは
成績が公開されるのを
待つのみ!
放送大学が素晴らしいと思うのは、
これでもう
来月の13日には
ウェブ上に
今期の成績が公開されるところだね。
早い。
やっぱり
絶対評価だからかな?
相対評価だと
優劣つけるの難しそうだけど、
絶対評価で
択一とかだったら、
回答を提出した瞬間に
成績評価できちゃうもんね。
・・・もんね!って
響の長友思い出すな。
セーラー服コスプレの。
最近見ないのはなぜだろう?
結構面白いのに。
2025年1月18日土曜日
いいよね〜( ´∀`)
細かい疑問点を、
ちょくちょく
放送大学
群馬学習センターに電話して
問い合わせるんだけど、
基本
いやがらずに
教えてくれるのが
ありがたい。
たまに、
それは
冊子に書いてあります、みたいな
塩対応の時もあるけど、
それは
結構レア。
こっちが調べればわかることでも、
基本
丁寧に対応してくれる。
いいね〜、この
懐の深さ。
安心するよね。
やっぱ
運営費の6割が
国から出されているだけあって、
普通の私立大学ではない。
実際、
群馬学習センターは、これは
図書館か?
というくらい立派な建物で、
中も
広々としています。
で、慶応SFCの学事のことを
思い出すけど、
アイツらは
とにかく酷い。
何を聞いても、
「ネットに書いてあるでしょ?」
で
門前払いされる。
こっちとしちゃーさー
わかんねーから
聞いてんだろーが!
って
言いたくなる。
窓口まで
直に出向いても、
パソコン叩いてるだけで、
こっちを
見ようともしない。
あそこはほんとに
学事からして冷血だよ。
絶望感と徒労感に
打ちひしがれる。
慶応SFCの学事って、
卒業生がそのまま
就職したりするから、
(今はどうか分からないが)
慶応SFC特有の、
能無しのくせに
思い上がった
選民思想に凝り固まった
連中だからね。
あれはヤバい。
よほど
神経が図太い人間じゃないと
慶応SFCでは
生きていけない。
知り合いの彼女なんか、
ウェブ上で
履修申告してんのに、
学事がミスって
あれ?
こんな授業申し込んでないのに、って
ことが
実際にあったからね。
ほんと
ふざけてるよ。
大学3年目の
5月に
錯乱して
措置入院くらって
1年半休学したのに、
よくまた
あんな
ストレスフルな環境に戻って、
そっから
33単位取ったよね。
ちょっと
我ながら
信じられない。
・・・ちょっとまた
蒸し返しになっちゃうけど、
下手に
単位取ったから、
親が
塩漬けモードに
突入して、
もう
これ以上
単位取れねーって
言ってんのに、
見て見ぬふりして、
無駄に
除籍寸前まで行って
ようやく
中退した。
あの頃は
ほんとに心臓マヒ
起こすんじゃないか?
っていうくらい
酷い悪夢を
ほぼ毎日見ていた。
そっから
さらに
中大通教を5年やって、
(ちなみに、その時
慶応SFCで取った91単位が
中大で40単位に
換算された。
切ない。
(´;ω;`)
)
英語以外の単位が1つも取れず、
もういい!って
言ってんのに、親が
大卒に拘って、
(神もホトケもない!)
放送大学入って
ようやく
負の連鎖から
抜け出した。
自分で書いてて
気が遠くなる。
イイハラ→メシハラ→メッシ
昔
東京ヤクルトスワローズに
飯原(イイハラ)という選手がいて、
たまたま
神宮球場のバックネット裏で
観戦したことがあるんだが、
飯原選手が
バッターで、
強振したときに、
バックネット裏の
観客席まで
ブンッ!って
スイング音が聞こえたね。
あれはすげえと思った。
超失礼だけど、ああ、
飯原ですら
強振したら
バックネット裏までスイング音が
聞こえるほどのスイングしてんのか。
プロってすげえな、と
思ったよ。
そんな凄い勢いでバット振って、
ボールに当てるわけだからね。
超すごくない?
自分
小学生のときに
少年野球やってて、
下手くそだったから
なおさらわかる。
普通どんなに頑張っても
バット振って音なんか出ないよ。
それが
飯原選手レベルでも
本気でバット振ったら、
10メートルぐらい
離れてても
スイング音が聞こえるってのはね。
すげえよ。
やっぱ
プロってのはすげえわ。
2025年1月17日金曜日
バラッサ・サムエルソン仮説 (再掲)
消費バスケットを構成する貿易可能財では、国際貿易を通じた裁定取引により国際的な一物一価が生じる一方、サービスなどの非貿易可能財では国際的な裁定取引が行われない。日本での非貿易可能財価格は国内の生産投入費用、特に実質賃金により決定される。 貿易可能財産業で高い労働生産性の伸び率を達成した高所得国は、その高い労働の限界生産性から国内実質賃金がすべての国内産業で高い。高所得国の非貿易可能財価格は低所得国より高くなり、同所得国の実質為替レートは増価する。 日経新聞「経済教室」2022/1/26 より https://imidas.jp/genre/detail/A-109-0085.html
https://jp.reuters.com/article/column-kazuo-momma-idJPKBN2FB0CH
不胎化されたレポートその4 (再掲)
第4節:日本の<近代化>の歴史的起源にあるのは、ロシアの脅威である。また、ロシアのいわゆる南下政策とその失敗は、ヨーロッパ大陸の情勢にも大きな影響を与えた。ここでは、日本の<近代化>を考察する上で、ロシアと日本の連関を念頭に置きながら、一旦歴史の流れに目を向ける。ロシアの南下政策の挫折と、その後の東方進出は、日本に対する脅威として現れた。クリミア戦争(1853年-1856年)とそれに続く露土戦争(1877年-1878年)など一連の出来事を教訓として、ロシアは不凍港を求めて東アジアへの進出を志向し、清朝といくつかの条約を結びながら、国境を確定させ、ユーラシア大陸を東へと進んだ。 太平天国の乱(1850年-1864年)で、列強が撤退した後もロシアは軍隊を駐留させたために、列強の警戒心を惹起するとともに、日本との緊張関係が生まれた。さらには、東清鉄道敷設権の権益を巡り、中国東北部の利権を狙う日本との緊張関係が深化した。 1894年に日清戦争が勃発し、日本が勝利すると、日本は朝鮮半島と台湾を獲得した。この結果、ロシアと日本は朝鮮半島と中国東北部で直接対峙するようになった。 インドを植民地とするイギリスはロシアの南下政策に脅威を感じ、1902年に日英同盟を締結する。この同盟は、ロシアの東アジア進出を牽制する狙いがあった。 1904年、日露戦争が勃発し、日本が勝利すると、ロシアは一時的に東アジアでのプレゼンスを低下させた。しかし、ロシアが革命によりソビエトを結成すると、日本は機会主義的な対ソビエト干渉を続け、中国東北部への進出を深めた。 1920年、尼港事件が発生し、日本とソビエト軍が衝突した。また、1925年には、大陸への野心からシベリア出兵を実施し、中国東北部への進出を図った。大正期における日本の大陸進出の動きは、ソ連の革命政権に対する機会主義的な野心の現れであったと言えよう。 一方、ヨーロッパ大陸では、ロシアの野心とドイツの野望との衝突で、バルカン半島での汎ゲルマン主義と汎スラブ主義の対立が深刻化し、三国協商と三国同盟の対立が先鋭化し、第一次世界大戦に発展した。1918年に戦争が終結すると、戦勝国はオスマン帝国を分割し、その領土を占領した。この結果、中東情勢は混乱し、現在に至る複雑な状況の遠因となった。 三国協商側に立って第一次世界大戦に参戦した日本は、中国大陸での利権を更に拡張させることを試みたが、欧米列強の警戒心を引き起こした。 1920年代には、日本と欧米列強との国際協調関係が成立したが、日本での金融恐慌の頻発や世界的な金融恐慌が引き金となり、日本が満州国を巡って国連を脱退するなど、アジア大陸への野心を顕にすると、国際協調体制は崩壊した。 スターリン指導による一党独裁体制が確立したソ連はアジア大陸で日本との緊張関係を加速させた。 以上のように、ロシアと日本は、南下政策と東方進出を巡って、19世紀末から20世紀前半にかけて、激しい対立を繰り広げた。この対立は、両国の軍事力増強や軍拡競争を招き、最終的には第二次世界大戦へとつながる大きな要因となった。
近世ロシア史がご専門の、明治大学豊川先生からお返事をいただきました。
放送大学で勉強を続けておられるとのこと、とても立派だと思います。そして、今回、レポートをお送りいただきありがとうございました。
ご自身の考えをまとめて、こういう形にするのはとても良いことだと思います。これからは、さまざまな人の考えに接して、さらに考えを伸ばしてみてはいかがでしょうか。少し専門的な次のような本を読んでみるのをお勧めします。
・麻田雅文『日露近代史』講談社現代新書、2018年
・原暉之『シベリア出兵』筑摩書房、1989年
・和田春樹『日露戦争』(上・下)岩波書店、2009・2010年
いずれもその道の専門家で、読み応えのある本です。
どうぞこれからの勉強、頑張ってください。
豊川
不胎化されたレポートその3 (再掲)
第3節:芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を題材に、人間の行為における善とはなにか、をキリスト教哲学とカントの対比から考察する。 芥川龍之介は、自殺の時点で枕元に聖書を置いていたことが知られており、 キリスト教への関心があったことは疑いない。 その上で、 「蜘蛛の糸」を読み解くとき、 天上から地獄へと 救いの糸を垂らすのは 釈尊であるという設定であるが、 ここでは キリスト教的神であると置き換えたい。 そのほうが構図が簡潔になるからである。 なぜなら、 カント哲学においては、人間は神に対して アクセスできないが、 神は人間に対してアクセス できると考えられているからである。 これを前提とした上で、 人間の倫理がいかに成り立ちうるかを 考えたとき、 2つの考え方が可能である。 1つ目は、神の意志や行為は人間には 計り知れないのだから、 人間がどんな行いをしても 神はそれを赦しもするし裁きもする、という 発想である。 2つ目は、やはりそうは言っても、 人間と神とは完全に切り離された存在ではなく、 人間は神の意志や、その行為の意味を 感じたり考えたりすることが 可能である、という 発想である。 カント哲学においては、 人間の悟性では神の行為や意志を 計り知ることはできないが、 また神の存在を否定することも 不可能である、と 捉えていた。 しかし、これは 神がすべての事象を意のままに決定しうる、 という可能性を含意しており、 ある種の決定論に陥ってしまう。 デービッド・ヒュームの懐疑論は、 因果律を否定することにより、 この決定論に風穴を開けた。 ここでカント哲学は新たな可能性に開かれる。 なぜなら、 すべてが神によって決定されているわけではない以上、 人間が自らの悟性によって 自らの倫理を考える、という 「自由」を 手に入れたからである。 そのうえで、あらためて 「蜘蛛の糸」を 考察してみよう。 神はカンダタに対して 救いの可能性を示したが、 カンダタは 自分の利得のために 他人を犠牲にしたことによって、 神から見放される。 つまり、神から人間には 救いの可能性という点で アクセスが可能なのだが、 人間(カンダタ)から 神に対しては 自らの救いの可能性を選択する余地がないのである。 それはなにゆえなのだろうか? カンダタが善なる行いを しなかったからだろうか? しかし、それでは 人間にとって 善とは何かを、人間(カンダタ)が 選択する余地はなく、 すべて神が決定していると 読めてしまう。 これが果たして人間にとって 「自由」といえるだろうか? カンダタは、自分の救済の可能性のためには、 他人を犠牲にせざるを得なかったのである。 言い換えれば、自らの生命のためには そうする他なかったのである。 ここから導き出されることは、 人間は「善き生」のためには、 みずからの生命さえも 犠牲にしなかればならない、という アリストテレス的な「善」の考え方であると考えられる。アリストテレス的善の考え方は後にまた取り上げる。
不胎化されたレポートその2 (再掲)
第2節:カントは、言わずもがな18世紀の啓蒙思想家である。彼は、自然界に法則が存在するのと同様に、人間にとっても道徳法則があるはずだ、と考えた。その内容を極めて簡潔に述べると、人が何か行いをしようとするとき、他の全員が自分と同じ行動を取ったとして、仮にそれを受け入れられる、あるいはそういう社会を容認出来るならば、その行為を行ってもいいが、そうでなければ、その行為を行うべきではない、というものである。また、彼は、仮言命法の危険性も指摘している。仮言命法とは、例えば「美味しいプレッツェルを食べたければ、南ドイツに行け。」といった、現代の日本に住む我々が常識的に行っている思考回路である。これの何が問題なのだろうか?しかし、この一見無害な発想には、人間の自由を奪う危険性が潜んでいる。例えば、昨今は理系偏重の風潮があり、就職のことも考えて、なるべく理系の大学、学部を選ぶ傾向が受験生やその保護者に見て取れる。この一見ありがちな行動はしかし、連鎖する。将来不安、就職への不安から、理系の大学、学部を選好するようになると、その方面の進学に強い高校、ひいては中学を選ぶ、ということになり、特に首都圏では、そのような中学に合格するために、小学生のうちから塾通いを始める、という結果になりうる。果たして、これが自由な生き方と言えるだろうか?これは、まさに仮言命法の発想が、いかに現代日本人を不自由にしているか、ということを示している。また、私達は、基本的に何かに縛られて、言い方を変えれば「依存して」生きている。例えば、組織、カネ、家族、地位、恋人など、挙げればキリがない。そして、これらの存在を守ることが当然であり、むしろそうすることが義務であるかのような社会通念が存在する。もちろんこれらをすべて否定するつもりはない。しかし、往々にして、これらの存在への「依存」は、やはり我々を不自由にする。こう考えると、現代日本に暮らす我々が、いかに窮屈な存在であるか、ということが見て取れる。カントの発想は、人間にも道徳法則があり、各人は自身の道徳的行いを「自ら考え、自ら選択する」ことが出来ると考えた。これは極めて強力な自由論である。この意味において、カントの道徳哲学の発想は、我々が自由に生きるとはどういうことか、を考える時、非常に強力な武器となる。また、トマス・ホッブズが予言したように、現代の資本主義社会において、人は疑似殺し合いを演じている。つまり、絶えず他人を先んじよう、出し抜こう、という脅迫観念に囚われている。そのような社会において、カントの、自らの道徳的行いを自ら考えて決断していい、という自由論は、極めて強力な理論である。
政治学へのいざない (再掲)
問われるべき問題は いかにしたら、 このようにして発達した、 所有権のような 個人の権利の意識が、 社会全体への奉仕と 一体になることで、 より 理性的で 自由な意識へと 陶冶されるかだ、 とヘーゲルは考えた。 そして、 権利と義務が衝突せず、 私的な利益と 公的な利益が 一致するような 人間共同体が形成されるならば、 その共同体のメンバーの幸福を みずからの幸福と感じ、 法や制度に従うことは 自己の欲望の否定ではなく、 自己の 理性的な本性の肯定であると 考えるような市民が 生まれると主張したのである。 国家こそ、 このような倫理的共同体における 最高次のものだと ヘーゲルは考えた。 (放送大学「政治学へのいざない」211頁より)
教養のヘーゲル (再掲)
ヘーゲルが、国家と
(市民)社会とを
区別して捉えたことが、
国家論の歴史において
画期的な意味を持つことである
ということは
すでに指摘した通りである。
その
国家と社会の分離の理由として、
ヘーゲルは、
市民社会には、
国家のはたすような
真の普遍を支える
能力がないから
ということをあげる。
そこで、
市民社会の
私的利害に対応する
だけのものである
「契約」
という概念によって、
国家の成立原理を説明する
「社会契約説」
に
厳しい批判を
浴びせることともなった。
しかし、
それだけではないはずである。
というのも、
国家と市民社会の
分離の把握
ということは、
市民社会が、
相対的にではあっても
国家から独立した
存在であることの
指摘でも
あるはずだからである。
近代国家においては、
プラトンが掲げた
理想国家におけるのとは異なって、
国家が
個人の職業選択に
干渉したりはしないし、
その他の
個人の私生活に
干渉したりはしない。
同様に、
国家が
市場原理を
廃絶あるいは抑圧するような
こともない。
そのように、
市民社会が
自分独自の原則に
したがって存在し、
機能していることが
尊重されている
ということが、
近代における
個人の解放という
観点から見て、
重要なことである
はずなのである。
それは、
ヘーゲル流の表現にしたがうならば、
一方では、
近代国家なり、近代社会なりが
「客観的必然性」
によって
構成された
体制であったとしても、
他方では、
個人の
恣意や偶然を
媒介として
成り立つにいたった
体制だからだ
ということになる。
(p.103)
(中略)
近代国家の原理は、
主観性の原理が
みずからを
人格的特殊性の自立的極に
まで
完成することを
許すと同時に、
この
主観性の原理を
実体的統一につれ戻し、
こうして
主観性の原理
そのもののうちに
この統一を
保持するという
驚嘆すべき
強さと深さを
もつのである。
【260節】
(中略)
国家が、
有機体として
高度に
分節化されるとともに、
組織化されているが
ゆえに、
個人の選択意志による
決定と行為が
保障される。
個人は、
基本的には
自分勝手に
自分の人生の方向を決め、
自分の
利害関心にしたがって
活動することが許されている。
にもかかわらず、
このシステムのなかで
「実体的統一」
へと連れ戻される。
それは
強制によるものとは
異なったものであり、
あくまで
個人は
自己決定の自由を認められて、
恣意にしたがっている
にもかかわらず、
知らず知らずのうちに
組織の原理に
したがってしまう
という
形を取るのである。
また、
個人の
自律的活動あればこそ、
社会組織の方も
活性化され、
システムとして
満足に機能しうる。
こうして、
有機的組織化と
個人の自由意志とは
相反するものであるどころか、
相互に
補い合うものとされている。
それが、
近代国家というものだと
いうのである。
(p.104)
「教養のヘーゲル」佐藤康邦 三元社
神なき時代の連帯? 森鴎外「かのように」を巡って 山岡龍一先生からのご回答 (再掲)
一つの簡単な答えは、 ヘーゲル的な意味での 統治は 不可能だ ということです。 その代替案は 複数ありえますし、 フーコーは その一つでしょう (ただし、「知と権力」の 共犯関係が いかなる統治を 具体化するのかは、 わたしには 理解しがたい 難しさが あるように思えます)。 最も わかりやすい代替案が 新自由主義の統治だといえます。 もしも これを拒絶するとすれば、 問題は、 何らかの形での ヘーゲル的な統治への回帰か、 神無き時代の連帯の 可能性の追求となります。 現代の リベラルな政治理論は だいたい 後者のさまざまな バリエーションですが、 密かに 神が導入されている 可能性があるのものが多いので、 フーコーのような議論が 流行るのだと思われます。 鴎外については、 わたしにはコメントする能力はありません。 ただ、 そのような苦悩があるとすれば、 それは鴎外が いかにヨーロッパ(ドイツ)文明に 拘束されていたのかを 示す ことになるでしょう。 ただし、 そのような苦悩を まったく抱かない (ないしは、 そのような苦悩の可能性に思い至らない) 日本人よりは、 はるかにましな 精神性をもっていると思いますが。 明治日本は、 ある意味では、 神無しで ヘーゲル的な全体性を 国家は維持できるのか、 という問いを いち早く 突きつけられていた ともいえます。 この問いへの回答の一つは、 現在でも、 「新たな神の創造」ですが、 そのような回答が、 必然的に 政治的に 悲惨なものになることは、 我々が 歴史から学んだことだといえます。 キリスト教文化圏では、 たとえ 神が死んだ時代でも、 この危険性が よく知られていますが、 はたして日本ではどうでしょうか。 考えてみてください。
文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答 (再掲)
質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。 フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。 「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家を孤立させ絶望においやっている現状が鋭く指摘されています。その他の時事的な文章・発言においても、ヨーロッパにおけるグローバリズムと言うべきEU経済戦略のもたらすひずみと地場産業の危機は、ウエルベックにとって一つの固定観念とさえ言えるほど、しばしば繰り返されています。 つまり、ウエルベックは「グローバリゼーション」が伝統的な経済・産業活動にもたらすネガティヴな影響にきわめて敏感であり、そこにもまた「闘争領域の拡大」(ご存じのとおり、これはそもそも、現代的な個人社会における性的機会の不平等化をさす言葉だったわけですが)の脅威を見出していると言っていいでしょう。なお、「セロトニン」で描かれる、追いつめられたフランスの伝統的農業経営者たちの反乱、蜂起が「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言・予告するものだと評判になったことを、付記しておきます。 以上、ご質問に感謝しつつ、ご参考までお答え申し上げます。
近代日本経済史@北九州サテライト レポート (再掲)
確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。
2025年1月16日木曜日
手に負えない
3年くらい前に、
姉から
睨みつけられながら、
「お前は
月80万円
使ってるんだ!」
と
言われたことがあるが、
使ってるわけねーだろーが!!!!!
どっから
その数字が出てきたんだ?!
そもそも
俺と母親の生活費を管理してんのは
てめーだろーが!
ということが
あったんだが、
どういうこと?
と
思ったら、
あ、そうか
この
おバカさんは
俺が
障害年金を年80万じゃなくて
月80万もらってると
勘違いしたのか?
と
思って、萎えた。
ほんと、このバカが。。。
てめーみてーなのが
身内にいるから
こっちの
頭がオカシクなるんだよ!
って
言ってやりたい。
日経新聞
昨日、一昨日の
日経新聞から
気になった記事を
切り抜いたけど、
なんかまあ、
いよいよ
日本の
政治も経済も、
もう
遊びは終わりだ、
という
段階に入った、という
感じがしてきたね。
まさに時代は
動いてるわ。
政治家も、
もちろん有権者も、
気を引き締めないと、
これからの
日本、世界の
奔流に流されてしまう。
ますます
勉強のモチベーションが
あがる。
都合のいい俗説 (再掲)
国債発行 イコール 通貨発行 という俗説が あるらしいが、 金融政策の 基本が 何も わかってないね。 国債を 発行して、 買ってくれる人が いるから、 (国債を買うのは 当然のことながら 中央銀行だけではない。) そのお金が 市中に 流れるんだけど。 これ、 (国債に限らず 債券全般に対する、 中央銀行による) 買いオペとか 売りオペとか 言われる 金融政策の 常識中の常識 だけど、 そんなことも 知らずに、 ただ 国債発行すれば 自動的に 貨幣供給量が 増えると 本気で 思ってる 人が いるみたいね。 (それに、 国債だって商品だから、 本来は政府の都合で 発行した 国債を、 相場を無視した 高値で 売れると思うのが そもそも 間違ってる。 むしろ、 日本の現状として、 日銀が 市場の相場を 無視した 高値で 国債を 買い続けてることが 本質的に問題なんだけどな。) なにで 経済学 学んだんだろう? それに、 貨幣供給量を 増やす イコール 国の資産が 増える ってのも そもそも 間違い。 国の富の 源泉は 付加価値、 すなわち GDPです。 これ、 学部レベルの 経済学で 最初に 学ぶことなんだけどな。 ほんと、 誰に 刷り込まれたんだろう? ついでに 書いとくと、 赤字国債を 発行すること自体が 法律違反なんだけど、 毎年 特例法案つくって 可決して 予算作ってる。 (ちなみに、 一昔前は その種の予算を 通す通さないが 政争の具に 使われたのが、 短命政権が続いた 原因だったらしい。) それが 常態化。 それを 国民の側が 嬉々として 受け入れてる 現状が 異常。 ついでに 書いとくと、 日銀が 国債買い続けないと 国債の価格が (異常な高値を 維持できずに) 暴落して 金利が 急騰して この国 吹っ飛びますけど、 さあ この ムリゲー どうします? ちなみに 安倍ちゃんは 日銀は政府の 子会社だから いくらでも 日銀に 国債 買い取らせればいい とか ほざいてましたけど。 もう 日銀による 国債の保有比率 6割 超えましたね。
黄色信号 (再掲)
円安が進んでますね。 イエレンさんが、投機的な動きがある、と発言していました。 つまり、投機筋が、 円売りを仕掛ている。 なぜ円売りを仕掛ているかというと、 自国通貨が売られて通貨安になれば、 常識的には、中央銀行は、利上げをして自国通貨高に誘導しようとする。 日本に当てはめると、 日銀がイールドカーブコントロールという、馬鹿げた政策によって、 中央銀行は本来、短期金利しかコントロールできないとされているのに、 長期国債を無制限に買い入れて、 無理やり長期金利を抑え込んでいる。 つまり、日本国債の価格が異常に高い。 (裏を返せば、日本国債の利回りが異常に低い。) 投機筋は、円を売れば、 日銀は過度な円安を修正するために、 政策金利を上げざるを得ないと読んでいる。 それだけでなく、投機筋は、 日本国債売りも同時に仕掛けています。 そうすると、日銀は、金利上昇抑制のために、日本国債買い入れを余儀なくされる。 そうすると、市場に円が供給されるので、 結果、円安がますます進行する、という悪循環に陥っています。 まあ、はっきり言って自業自得としか言いようがないですが、 政府・日銀は、 日本国債を買い入れつつ、外貨準備を使って円買い介入をする、という 矛盾したことやろうとしています。 なぜ矛盾しているかというと、 国際金融のトリレンマに従えば、 「資本移動の自由」 「為替の安定」 「金融政策の独立性」 の3つは、同時にすべてを達成することは出来ないからです。 資本移動の自由は犠牲にすることは出来ません。 従って、 為替の安定と金融政策の独立性のどちらかを犠牲にせざるを得ないわけですが、 金融政策の独立性を保持するとすれば、 外貨準備を使って為替介入しなければ、 自国通貨は安定しないのです。 日銀・政府は、 大規模金融緩和を継続する一方で、為替介入をする、という”矛盾した”政策を行っているわけです。 投機筋もこれは完全に計算のうえでやっていますが、 問題は、結局のところ 日銀がどこまで無謀な大規模金融緩和を続けるか、ということです。 大規模金融緩和を続ける限り、 日銀のバランスシートに日本国債がたまり続けるだけで、 金利は上がりませんから、 今までは一般人も痛みを感じなかったので、 非難の声が上がりませんでしたが、 円安が急速に進んで、消費者物価まで上昇し始めると、 消費者からも、なにやってんだ、という声があがり始めます。 アベノミクスの3本の矢のうち、 結局、大規模金融緩和だけが継続していますが、 安倍氏の死去に伴い、 日銀に対して、大規模金融緩和を継続させる 政治的プレッシャーが弱くなったことは事実でしょう。 日本の財政から言っても、 れいわ新選組が言ってるように、 国債をどんどん発行して、 日銀に買い取らせればいい、などという、 無責任なことをやっていると、 日銀の財務状況が悪化して、円の信用が毀損されたり、 そうでなくとも、日銀が、政府の借金である国債をいくらでも買い取ってくれるから、 いくら赤字国債を発行してもいい、という モラルハザードが現実に起こっています。 岸田首相はそこらへんの事情は当然わかっているはずです。 いずれにせよ、 日銀はこれ以上、 異常な大規模金融緩和を続けることによって、 イールドカーブコントロールという 国際金融の現状からすれば異常な金融政策を維持することは、 非現実的と認識していると思われますので、 少なくとも 金利の上昇幅の拡大をこっそり容認する、 ということは、 十分予想されるところです。 しかし、加藤出さんも言っているように、 イールドカーブコントロールから抜け出すことは、 大きな混乱を伴うと予想されるので、 それこそ 投機筋の外圧がなければ いつまでも続けていたところでしょうが、 幸か不幸か、現実的ではありませんでした。 さて、焦点は、 日銀がどこまで金利の上昇幅を容認するか、 そしてそのタイミングはいつか、 ということになりそうですが、 金利の上昇幅は実務家ではないので知りませんが、 タイミングとしては、そう遠くないのではないかと思われます。 これだけ急激な円安を鑑みると、 黒田総裁の任期満了まで 待てるとは思えません。 従って、 急に金利が上がる、ということは、 十分ありえる話です。 ・・・で、何が言いたいか、というと、 金利が上がって困るのは、 超低金利を前提として 変動金利で住宅ローンを組んでいる家計です。 銀行も馬鹿ではないので、 固定金利は既に段階的に引き上げています。 それは、変動金利が上昇すれば、 固定金利に借り換える人が増えると予想しているからと言って過言ではないでしょう。 ですので、 変動金利で住宅ローンを組んでいる人は、 専門家に相談するなりして、 対策を立てたほうが良いでしょう。 自分は専門家でもなんでもないので、 この文章の内容に責任は負えません。 https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/470422.html https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/466765.html
生活習慣病
父親みてると、
いくら
仕事の性質上
仕方ない
とはいえ、
あんまり
無節操に
飲み食いするもんじゃないな、と
嫌でも思わされるよね。
父親は
戦後すぐ
生まれだから、
もちろん当時は
食糧難で
困ったという事情は
あるにせよ、
バブル真っ盛りの頃に
銀座で
飲み食いしちゃった
人だからね。
もう、そうなると
感覚狂うのは
仕方ない。
人間、欲望は
ほどほどにしないと、
どんなに
カネと権力に
モノ言わせても、
最後は
悲惨な結末になるかも
知れない、という
キツイ
教訓を得た。
肺水腫
父親は最後
肺炎で亡くなったが、
医者が
肺の血管から水が漏れている、と
言っていたのを
思い出した。
Googleの生成AIに
聞いてみたら、
やはり
末期の糖尿病と高血圧を
併発していると、
最終的には
肺の血管までもが
傷んで、
水が滲み出してしまうそうだ。
それで
肺炎になるんだから、
よっぽど
苦しかっただろうね。
可哀想だとは思うが、
これも
現世の
罪滅ぼしなのかも知れない。
それだけ
苦しんだんだから、きっと
閻魔様も
斟酌してくれるよ。
2025年1月15日水曜日
びっくりしたわ。
ロサンゼルスの山火事で、
アメリカの
親トランプの
陰謀論者
インフルエンサーが、
グローバリストの
陰謀だ、と
ツイッターに投稿して、
イーロン・マスクが
そうだ
(True.)
と
投稿した、ということが
ニュースになっていた。
グローバリスト
(Globalist)
って、
イタイ日本人だけが
使ってるのかと思ってたけど、
アメリカ人でも
使うのが意外だった。
たぶん、
イーロン・マスクも、
投稿者のことを
内心では
「コイツは馬鹿だ。」
とでも
思っているんだろうが、
お墨付きを
与えれば、
ツイッターが盛り上がって
自分の
利益になるから、
敢えて
そういう
反応したんだろうね。
この一例だけを挙げても、
イーロン・マスクという人物が
どんな人間か
透けて見えてくる。
・・・すげえビックリしたわ。
上述のストーリーを、
機械翻訳にかけて、
イギリス人と、
親トランプのアメリカ人の
知人に送ったら、
さっそく
返信が来て
(もちろん英語で)、
てっきり
親トランプのアメリカ人が
噛みついて来たのかと思いきや、
イギリス人が
ツイッター擁護、BBC批判、反移民を
展開したから、
えー、イギリスでも
こんなんなってんの?
と
ビックリしたわ。
やっぱり、人間てのは
合理性だけじゃなくて、
情念で
生きる生き物なんだなーと
思ったわ。
2025年1月14日火曜日
峠
面接授業、
近代を扱った
ものだけを
厳選すると、
楽しそうではあるが、
ちょっと
物足りなさを
感じるし、
ちょっと
前から
気になってた
確率の
勉強でもするか、
単位は
いらねーから。
と、
思ったり。
なんだろうな、
なんだか
あまり
かつてほどの
情熱を
勉強に感じられなくなってきた。
それこそ
人生を賭ける、ぐらいの。
人生の峠を
越えるまでは、
ほんとに
キツかったけど、
越えてみたら、
案外
楽だったのかな。
とりあえず
今は
そんな感じ。
・・・変に
いまさら
理系に色気出すより、
本当に
情熱を傾けられるもの、
あるいは
本当に
面白そう、と
思えるものを
現実的な範囲で
厳選してみた。
・・・結局、
最初は抵抗があったが、
近代と
戦後社会とを
ミックスする方向で
落ち着いてきた。
・・・うん。
納得のいく
オーダーが組めた。
近代も
戦後社会も
ケンカしない。
新学期が楽しみだ。
アドルノはまだ生きている (再掲)
グローバリゼーションによって、
世界の富の大きさは拡大したが、
分配に著しい偏りが生じたことは、
論を俟たない。
日本においても、
新自由主義的な政策の結果、
正規、非正規の格差など、
目に見えて格差が生じている。
そのような中で、
経済的に恵まれない層は、
ワーキングプアとも言われる状況のなかで、
自らのアイデンティティーを
脅かされる環境に置かれている。
エーリッヒ・フロムの論考を
参考にして考えれば、
旧来の中間層が、
自分たちより下に見ていた
貧困層と同じ境遇に
置かれるのは屈辱であるし、
生活も苦しくなってくると、
ドイツの場合は、
プロテスタンティズムの
マゾ的心性が、
ナチズムのサディスティックな
プロパガンダとの親和性により、
まるで
サド=マゾ関係を結んだ結果、
強力な全体主義社会が生まれた。
日本ではどうだろうか?
過剰な同調圧力が
日本人の間には存在することは、
ほぼ共通認識だが、
それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、
そうでなければ、
社会から強要される
画一性への服従となって、
負のエネルギーが現れる。
そこで追究されるのが、
特に民族としての「本来性」という側面だ。
本来性という隠語は、
現代生活の疎外を否定する
というよりは
むしろ、
この疎外の
いっそう狡猾な現われに
ほかならないのである。
(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ)
グローバリゼーションが
後期資本主義における
物象化という側面を
持っているとすれば、
グローバリゼーションによる
均質化、画一化が進行するにつれ、
反動として
民族の本来性といった民族主義的、
右翼的、排外主義的な傾向が
現れるのは、
日本に限ったことではないのかもしれない。
むしろ、
アドルノの言明を素直に読めば、
資本主義が高度に発展して、
物象化が進み、
疎外が深刻になるほど、
本来性というものを
追求するのは不可避の傾向だ、
とさえ言える。
さらには、
資本主義社会が浸透し、
人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、
人々は、
自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、
理性を超えた領域に
求めるようになる。
社会全体が体系化され、
諸個人が事実上
その関数に
貶めれられるように
なればなるほど、
それだけ
人間そのものが
精神のおかげで創造的なものの属性である
絶対的支配なるものをともなった原理として
高められることに、
慰めを
もとめるようになるのである。
(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ
人間そのものが
精神のおかげで
創造的なものの属性である
絶対的支配なるものをともなった原理として
高められることに、
慰めを
もとめるようになるのである」
という言葉が
何を表しているか、
自分の考えでは、
「社会全体が体系化され、
諸個人が
事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、
(疑似)宗教のように、
この世の全体を
精神的な色彩で説明し、
現実生活では
一個の歯車でしかない自分が、
それとは
独立した
精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、
その
ヒエラルキーの階層を登っていくことに、
救いを感じるようになる、
という感じだろうか。
まるでオウム真理教のようだ。
腹が立つ
俺の知り合いで、
参政党支持者がいたんだが、
(もう縁切ったが。)
2つ
許せない点があった。
1つは、
俺が
ロジックで説明してんのに、
感情で
返してきたこと。
2つ目は、
反知性主義で
あらゆる
知的権威を否定したり、
人類の月面着陸のような
歴史的事実を疑うくせに、
参政党シンパの
京都大学の藤井聡が
こう言ってる、みたいに、
自分に
都合よく
学問的権威を利用したこと。
これは
許しがたい。
どんなに
俺の個人的なこと
を
悪しざまに言っても
構わないが、
議論したいなら、
最低限のマナーを守れ。
参政党の
オーガニック戦略に釣られたらしく、
すげえ
いい塩を舐めれば
病気が治るとか、
薬は石油から作られてるから
効くわけがないとか、
俺が
服用してる
向精神薬の名前を
教えてやったら、
こんな
薬を飲んでるから
余計
妄想がヒドくなるんだ、とか
言いたい放題
言ってた。
そのくせ、
参政党のセミナーで
得た
眉唾ものの知識、というか妄想を
振り回して、
一般人を
愚民扱いして、
学問的権威や、特に
医療関係者を
頭ガチガチだのなんだの
言って
否定してた。
ありゃ
宗教だね。
「危機の二十年」 E.H.カー 岩波文庫 より (再掲)
「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」 E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より
限界
どうやら自分は
近代を通して
現代に照らし返すってのは
出来るらしいんだが、
戦後社会の
日本や世界を
包括的に
把握するってのは、
出来ないらしい。
まったく知らないわけじゃないが。
もちろん、
来期
放送大学で
そういう面接授業の
組み方をしようと思えば
予算的にも
現実的な
範囲で組めるんだが、
俺の脳の限界を超えている。
まあ、そんなもんか。
生身の人間としての
限界としか
言い様がない。
仮に、
20年の集大成のレポートを、
山岡先生に
酷評されようが
賞賛されようが、
関係なくね。
2025年1月13日月曜日
「金融と社会」質問と回答その7 (再掲)
質問:インフレ目標政策についてうかがいます。 私の実感でも、物価が上がってきたなー、と感じます。 より正確には、 通貨(円)の価値が目減りした ということだと思われますが。 あまり国民の生活が苦しくなれば、 物価の安定という意味では、 金利をあげたほうがまだマシ、 と考える家計も 増えてくるのではないかと考えます。 そうすると、なるほどこれがフィッシャー効果か、 と思われるのですが、 確かに 実質金利がさがったことで 消費者の購買意欲が増したことで 景気の底割れを防ぎ、 政府の名目上の税収も 増えていると言われています。 しかし、かといって、 国も企業も家計も借金まみれの現状では、 今さら金利を上げられるのか、 甚だ疑わしいです。 なぜなら、 金利の上昇は、確かに通貨(円)の価値を 底上げする可能性はありますが、 上述のように 政府・企業・家計が借金まみれの状態では 金利の上昇は難しいことは無論、 長期金利の上昇は、 政府の借金の利払いを増嵩させるのみならず、 日本国債の価格を低下させるため、 発行済日本国債の6割を保有すると いわれる日銀の財務状況を、 著しく危殆にさらすものと考えられるからです。 果たして、 これが当初のインフレ目標政策の 目指していた姿なのか、 甚だ疑念を感じずにはいられません。 回答: 質問文に書かれていることは、私も理解できます。 インフレ目標政策が 2013年に導入を余儀なくされた時、 当時の白川総裁には その問題点がわかっていたと思います。 日銀が2000年に インフレ目標政策について調査したレポートを リンクしておきます。 http://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2000/data/ron0006a.pdf
時代
ヘルパーさんと
会話してると、
もちろん
金銭感覚を
教えてもらうってことも
あるんだが、
こっちも
何かしら
してあげられることもある。
ヘルパーさんに、
ガソリン高いですか?と
聞くと、
高いです、と
返ってきたりとか、
あるいは
逆に
俺が
水木しげるの
昭和史をテーマにした
学習マンガを
貸してあげたりすると、
自分(ヘルパーさん)が
同時代で
生きてきたのに、
全然知らないことばかり
だった、とか。
あるいは、最近、
コンビニで
買い物してると、なんか
異様に
高いな、と
感じるんだが、あ、そうか
値上げの波が
もう
来てるんだな、と
思ったり。
まあ、円安なんだな。
じゃあ
アメリカは安泰なのか、と
いえば、
確かに
全体として見れば
一人勝ちだが、
エリートばかりが
金持ちになって、
いわゆるラストベルトみたいに
取り残された人たちが
いるから、
その
不満を掬い上げる形で
トランプさんが
当選したわけだし、
ああ、
時代って
変わって行ってるんだなあ、と
つくづく
感じる。
だからこそ、勉強するのが
なお一層
楽しくなる。
日本も、いまや
安泰の時代ではなく、
荒波に揉まれていく時代に
突入したんだろう。
2025年1月12日日曜日
キリスト教哲学の歴史@八戸サテライト レポート (再掲)
アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。
カント「実践理性批判」を読む@大宮 レポート (再掲)
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を題材に、人間の行為における善とはなにか、を考察する。 芥川龍之介は、自殺の時点で枕元に聖書を置いていたことが知られており、 キリスト教への関心があったことは疑いない。 その上で、 「蜘蛛の糸」を読み解くとき、 天上から地獄へと 救いの糸を垂らすのは 釈尊であるという設定であるが、 ここでは キリスト教的神であると置き換えたい。 そのほうが構図が簡潔になるからである。 なぜなら、 カント哲学においては、人間は神に対して アクセスできないが、 神は人間に対してアクセス できると考えられているからである。 これを前提とした上で、 人間の倫理がいかに成り立ちうるかを 考えたとき、 2つの考え方が可能である。 1つ目は、神の意志や行為は人間には 計り知れないのだから、 人間がどんな行いをしても 神はそれを赦しもするし裁きもする、という 発想である。 2つ目は、やはりそうは言っても、 人間と神とは完全に切り離された存在ではなく、 人間は神の意志や、その行為の意味を 感じたり考えたりすることが 可能である、という 発想である。 カント哲学においては、 人間の悟性では神の行為や意志を 計り知ることはできないが、 また神の存在を否定することも 不可能である、と 捉えていた。 しかし、これは 神がすべての事象を意のままに決定しうる、 という可能性を含意しており、 ある種の決定論に陥ってしまう。 デービッド・ヒュームの懐疑論は、 因果律を否定することにより、 この決定論に風穴を開けた。 ここでカント哲学は新たな可能性に開かれる。 なぜなら、 すべてが神によって決定されているわけではない以上、 人間が自らの悟性によって 自らの倫理を考える、という 「自由」を 手に入れたからである。 そのうえで、あらためて 「蜘蛛の糸」を 考察してみよう。 神はカンダタに対して 救いの可能性を示したが、 カンダタは 自分の利得のために 他人を犠牲にしたことによって、 神から見放される。 つまり、神から人間には 救いの可能性という点で アクセスが可能なのだが、 人間(カンダタ)から 神に対しては 自らの救いの可能性を選択する余地がないのである。 それはなにゆえなのだろうか? カンダタが善なる行いを しなかったからだろうか? しかし、それでは 人間にとって 善とは何かを、人間(カンダタ)が 選択する余地はなく、 すべて神が決定していると 読めてしまう。 これが果たして人間にとって 「自由」といえるだろうか? カンダタは、自分の救済の可能性のためには、 他人を犠牲にせざるを得なかったのである。 言い換えれば、自らの生命のためには そうする他なかったのである。 ここから導き出されることは、 人間は「善き生」のためには、 みずからの生命さえも 犠牲にしなかればならない、という アリストテレス的な「善」の考え方であると考えられる。
明治資料館@沼津 (再掲)
せっかく 三島で面接授業なので、 お隣の 沼津の 明治資料館にも 行ってきました。 もっとデカい公園みたいに なっているのか、と 思いきや、 国道1号沿いに、 古い洋館が 建っていて、 言われなければ 絶対に わからない感じでした。 明治期の偉人、江原素六に ゆかりのある資料館らしく、 幕末から明治期にかけての 資料などが 展示されていて、楽しかったです。 (ちなみに、江原素六という人は、 東洋英和や麻布(←いわゆる「御三家」の麻布) の 創設者ということで、 知る人ぞ知る、といったところでしょうが、 世間的にはあまり 有名ではありません。 しかし、歴史的に有名になることと その人の 偉大さとは また 別次元。) ともかく、一応しつこく勉強してきた 時期の展示物などなので、 結構 気持ちよかったです。 これ、中年の特権なのかもだけど、 もう 脳のキャパとか年齢的な脳の構造の 問題かもだけど、 今さら 新しい分野の勉強を するってのは、無理がある。 むしろ、知ってる分野のことなら 脳が活性化して 気持ちよくなれるなら、 そんな 贅沢な話はないだろう。 自分は 結局 行政におんぶにだっこの 人間に なってしまったので、 あとは そうやって 生きていくのが、なんだかんだ ベターなんだろう。 民法のことも まったく知らないわけじゃないが、 勉強して どうこうというのも、 それは ちょっと 無理がある。 いずれにせよ、山岡先生という ラスボスに、 20年かけて こさえた 我が子同然のレポートを 提出したら、もう なんか 別に いいや、と いい具合に脱力しました。 ここまでやれば、 もう 文句は言えない。 あと、JR沼津駅の改札に、 サンマルクカフェかなにかが 併設されていて、 結構なお値段はするものの、 しっかり 濃くて、なにより 店内が ほどよく空いていて、かといって もちろん ガラガラでもなく、 ゆったりとした喫茶店のムードが 漂っていました。 東京の 利益至上主義の キツキツな感じとは無縁で、 ああ、これが 文化資本というものか、と 感心しました。 あと、 東海地方特有?の バス網とか。 モーニング喫茶といえば名古屋ですが、 沼津まで来ると その文化が 浸透しているのかな、と 思いました。 これ、「マツコの知らない世界」で 見た 情報ですが、あれ バカに出来ないね。 なかなかの 教養バラエティー番組だと 思うよ。 TBSは嫌いだけど、 バラエティーはたまに面白い。
「魔の山」 トーマス・マン 岩波文庫 下巻 末尾より (再掲)
さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり)
アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)
自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。
ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 レジュメより (再掲)
問い:幸福とは何か。
ソクラテスは誰でも、これは、自分で人生を「設計してゆく」という発想と結びつくことである。
したがって、<配慮するもの>をもち、配慮を重ねてそのつど考え、行動する自分の人生設計者としての「一人称特権」のようなものは、幸福を問題にするとき、なおざりにできない。
たとえあることが自分のためであっても、それを押し付けられたのでは「自分の人生」ではなくなる。
ソクラテスは、このような一人称の問題があることに反して精神や徳に気を遣えといっているのではなく、
この問題があるからそれに沿うように「気を遣うもの」を考えさせようとした、
その場合、精神的なものや徳に気を遣うことは、あなたにとって納得できる方向になるはずだ、という語りかけをしている。
☆人生を「まじめに」考えること
1.幸福の中身は「一人一人の問題」であり、他人に勧告されるには及ばない。
しかし幸福というものにまつわる「構造」や「形式」の問題は、単に「その人の問題」であるのではない。
われわれの「人生の夢」の見方は、お互いに、似ている。
構造や夢の見方を「知る」ことは、自分の「一人称」としての資格や個人の強さを上昇させてくれそうに思える。
2.問題なのは、人が「分かりやすい資格として」もしくは何らか「世間的に」上昇するということではない。
たとえば、社長になるとか出世するとか大学教員になるとか有名人になるとか金持ちになるとかではない。
実質的に自分の人生に対してよい位置を占めるようになることである。
したがって、ほんとうに行動が「自分のもの」として首尾一貫して統御されていること、
ほんとうの気持ち・実感から発想したことが
同時に知性の表現にもなっていることが目標になる。
3.ソクラテスはここで、「知性」にふさわしい課題がじつは数多くあり、
それを追求しながら生きてゆくことが幸福につながる、と語りかける。
われわれの生活は、目的・手段の関係を持つ多くの行為からできている。
お金儲けや名声・地位等のためのことは、
お金・名声・地位・容姿等で何をするかという、
「次の問い」を予想する。
ここから、人間らしい生活は、「その先」を考えるところまでいかなければ
成就しない、という結論を導くことができる。
4.この「その先」は、一人一人が考えながらでなければ、結論は得られない。
ここが、ソクラテスの「幸福にする」ことの(ある意味で)厳しい意味内容である。
かれがその先のことを本人に代わって教えるのでは、何にもならない。
これは、あくまで自分でやっていくという話なのである。
5.また、知性にふさわしい課題を追求することは、それ専用の「研究室」や「教室」のようなところで
行いうるものとは考えられていない。
実人生で問題にぶつかりながら、人生自体が形を変えてゆく。
ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 資料より (再掲)
私は、 自分のもともとの 性質が 「ここまで くらいは がんばろう」 と 課した限界の範囲で 自己研鑽に励む ときでさえ、 謝罪や後悔もなく、 自分の もともとの性質を 「与えられた 当たり前のもの」 として 受け入れており、 そのようなとき、 自分自身に対する 「自己愛」を 持っているのである。 私の 自我と 私とは、 一様に すべてのことを 共有しながら、 いっしょに 多くのことを くぐり抜けてきた。 私が彼 (=私の自我) を 支える限り、 彼が 私を 失望させることはなかった。 私は 彼を 叱ったこともあるが、 けっして 彼の本性を 呪うことはなかった。 彼には 間違いなく 欠点があるし、 ひどくそうなのだが、 その短所が あらわになるとき、 私はやさしく 寛大に ほほえむのである。 彼のへまは、 彼のような 性質をもつ だれからでも 人が予想するようなものである。 人は、 これほどまで きわめて 近しくしてきた 存在を 憎むようには なれない。 好むと好まざるとに かかわらず この人物 (=私の自我) に依存してきた 全年月の後、 どのようにして 別の自我と うまくやりはじめることができるか、 私は 実際知らないのである。 このように、 自己同一性 (自分が自分であること) は、 一種の約束による 見合い結婚だと 考えることが できる。 その 見合い結婚は、 安定的な人の中では 真実の愛へと 成熟するものだが、 不安定な人の中では、 堕落してしまって、 恨み言と 自滅へと至る。 人の 自己愛の もっとも 真実の表現は、 自身の善さへの献身であり、 それは 他の誰のものでもない 自身の もともとの性質 (そのような 性質は 不条理な、 変なものかもしれない) の 自己充足である。 (「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)
おこげ (再掲)
昨日で、母親が脳梗塞を発症してちょうど1年経つんだけど、大きな後遺症もなく、むしろ病気になる以前より健康的になって、良かった。 1年前、買い物に行く前に焼きそばを作っていて、味付けがまだらになっているのみならず、母親が最も忌み嫌うおこげが出来ているのが、そのまま出てきたから、これは何かおかしい!と思って、買い物に付いていって、買い方がやっぱりおかしいから、問答無用で救急車呼んだ。 ずーっと無理し続けて、絶対いつかはおかしくなると思ってたから、そこを逃さず捉えられたのは良かった。 病前より自分の健康を過信せず、健康的な生活してるから、かえってリスクは低減したかも。
化城 (再掲)
母親も 要介護3で、 俺も 精神障害者2級で、 介護保険と 傷害保険で ヘルパーさんが 毎日来て 飯つくってくれて 掃除もしてくれるんだが、 正直 本人たちは どう見ても そんなに重症ではない。 確かに、 母親も脳梗塞を発症したとはいえ、 (俺が) 早期発見したから、 症状は軽い。 俺自身、いかに 20年前に 措置入院を食らったとはいえ、 薬は確かに 必需品だが、 至ってヘルシーだ。 しかし、思い返してみれば、 幼少期から、 小林家というのは 毎日が 非常事態、 とても 安らぎの場所ではなかった。 むしろ 針のむしろだった。 母親も外面がいいから 傍目から見れば 恵まれた家庭だっただろうが、 母親が 心を閉ざしているから、 父親がいくら 稼いでも、 それを相殺して余りあるほど、 小林家というのは 毎日が非常事態だったのだ。 ここ最近は、ほんとに お互い心安らかに暮らしているが、 こうやって完全に 平穏な暮らしを出来るまでには、 本当に 長い道のりだった。 母親は、 息子(俺)が 働いてお金を稼ぐことよりも、 勉強して 学問のある人間になることのほうが、 遥かに嬉しいのだ。 俺自身、勉強は好きだ。 (理数系はまったくワカランが。) それは、母親自身 都立日比谷高校出身というのも 影響している。 姉は姉で、一緒に暮らしていた頃は モラルハザードが酷いものだったが、 いまは 結婚して出て行って、子供も出来たから、 じぃじばぁば 愛してる、なんていう どの口が言ってんだ?と 突っ込みたくなるような おべんちゃらを言っている。 とにかく、いまの小林家は 平和だ。 この平和に至るまでに 俺自身、他人には想像を絶するほどの 苦労をしながら 貢献してきたのだ。 だから、立派に 今の 安閑たる生活を享受して 許されるのだ。
うんかい
糖尿病はヤバい。 父親が糖尿病と高血圧を 併発していたんだが、 腎臓がダメになって 腎臓が駄目になるってことは、 体内の水分を コントロール出来なくなるし、 老廃物も 排出できなくなる、ということなので、 どうしても 人工透析せざるを得ない。 で、まあ 父親も 人工透析治療を受けていたんだが、 (ちなみに父親はもう亡くなっている。) まあ凄かった。 糖尿病のせいなのか、便通もコントロール出来なくなって、 透析治療中に 便意をもよおすと、 母親が 父親のところへ 車椅子もって すっ飛んでって、 父親を乗っけて トイレに猛ダッシュする。 で、トイレに着くと、 基本漏らしてて、パンツを脱がすと ウンコまみれになっている。 その状態なのに父親は 仕事を続けていて、下が ウンコまみれのまま ケータイで電話しながら、 ハイ!ハイ!と 通話していた。 もちろん、電話の相手は まさか 父親が透析治療中だということは まったく知らない。 あれは 凄かった。 それでも タバコ吸うんだから、大したもんだよ。
ドラえもん手袋 (再掲)
父親も、 脚こそ 切らないで 亡くなったけど、 糖尿病で ヤバいもの 一通り 引っ掛かったよね。 腎臓がダメになり、 人工透析の末 母親から 腎臓移植、 目もレーザー、 心臓の血管に ステント、 インプラント、 脳卒中。 最後は 肺炎。 腎臓移植しても 仕事続けて、 平気でタバコ吸ってたしね。 脳卒中になって ようやく仕事 リタイアしたけど、 その後も 株にハマって 毎日エキサイトしてた。 最後の半年くらいは ほんとに大変だった。 本人も、家族も まだまだ 生きるもんだと思ってたけど。 朝は、 脚をつって あああああーーーーっ!!!! いててててててて!!!!!! おかぁさあーん!!!! で 始まる。 日中は株。 夕方はテレビ。 夜中の2時まで起きてて、 真夜中は夜間採尿。 父親が 布団をはいだ瞬間に 俺が し尿瓶を差し出す。 そんな滅茶苦茶な生活をしてた。 最後は コロナで隔離されてる病院に、 かかりつけの医者がいるからってんで、 無理やりねじ込んでもらったが、 そのほうが 家族にとっては 楽だったかもしれない。 本人はサイアクだっただろうけどね。 間違いなく 家族が泊まり込みで 24時間 アテンドしてただろうから。 抜管防止手袋っていう、 ドラえもんみたいな手袋 ハメられただけで、 一晩中 叫んじゃうからね。 おかぁさーん!!!!!! ヒロくーん!!!!!!! 助けてよぉーーーーーー!!!!!!!って。
株狂い (再掲)
70過ぎて、 社会的地位もある 男性が 自分を否定されるのが 耐えられないのは まったく理解できるけど、 引退したあとの 父親の株狂いも 凄かった。 朝も規則正しく起きて、 脳卒中で 手が動かないんだよー!!! って 大げさに左手をスイングしながら メシ食って、 タブレットで 場が始まる前の 値動き確認して、 今日は駄目だとか 良さそうだ、とか 独り言ちて、 9時になれば タブレットに 齧りついて まめまめしく メモして、 前場が終われば 昼メシ食って、 後場が開けたら また タブレットに齧りついて、 さんざん エキサイトして 3時に 終わると、 日経平均が こんだけ上がったのに うちの株は!!!! とか 「平均」と 無意味な 勝負をして (その姿は ドン・キホーテの ようでもある) 刑事ドラマ観て、 そのうち 先物が動き始めると、 また タブレットに齧りついて、 晩メシ食って、 つまんねーつまんねー 言いながら テレビ観て、 夜になれば 情報番組ハシゴして 何一つ理解してないのに 勉強した気になって、 夜中の2時まで 深夜番組と 先物の値に 執心したあとに、 ようやく寝る。 そして また次の朝も 同じルーティーン。 ちょうど 引退してから アベノミクス景気と、 さらに 新型コロナで 株が乱高下しまくってた 時期が 重なったから、 さぞかし 楽しかっただろうけど、 新聞も読まないで 漫然と 情報番組ハシゴしてるだけなのに、 他人より 勉強した気になって、 毎日 日経平均と 無意味な 格闘を 繰り返していた。 資産残高が 乱高下を 繰り返したあと、 めぐり合わせで たまたま 資産価格がピークに達したから、 俺が 「売れ!!!!!!!!」って ブチ切れたのに、 ポカーン?って とぼけてた。 その後 暴落。 こっちとしちゃ そんなマネーゲームに 有り金ぜんぶ 注ぎ込まれたら、 怖くて 仕方がない。 ある日の朝、 悔しい!悔しい! って 父親が 呻いたときには、 この人 死ぬまで 株やめられないだろうな、と 思ったよ。 結局 元の木阿弥になっただけで 済んだけど。 タブレットに齧りついて メモするのを 「努力」と 勘違いして 努力してるのに 報われない とか 言われてもね・・・ 生活リズムが不規則な 自分からすれば、 引退したのに 毎日規則正しく 無意味な行動を 繰り返す 父親には ある種の 敬意を感じたのは 確かだが。 ちなみに 最晩年は 超夜間頻尿で 毎晩7、8回くらい 小便で起きるんだけど、 俺が 一晩中観察して 父親が 毛布をはぐ度に し尿瓶を差し出して、 採尿してた。 ああいう生活を 「幸せ」 というんだろうか?
クリティカル・ヒット (再掲)
父親の致命傷は、糖尿病と高血圧だった。 ちょうど同世代の定年退職するおじさん達が、 糖尿病で大量にヤバいことになり始めるころ。 医療の世界も、 糖尿病ビジネスに火がつき始め、 各種の啓発本が世に出回り始めていた。 母親が、 父親に泣いて頼んで、 頼むから病院に行ってくれ、と懇願して、 東京の糖尿病専門の病院に行くことになったんだが、 父親は、 どうせ検査だけだと言って、何百万も取るんだ! とブチキレながら車を運転していたが、 その時助手席に座らされた俺は、 まだ精神病院から出てきて 半年も経っていない頃。 正直、なんでこの人は自分の息子にこんな酷い仕打ちをするんだろう?と思った。 もちろん、 その後治療費に掛かったカネは、数百万では済まなかったはずだ。 まあ、それぐらいの仕事人間じゃなかったら、 ごく身内だけで済ませるはずだった葬儀が、 あんなデカくなるわきゃねーわな。 母親が脳梗塞になってから半年も経ってなかったから、 自分は母親見守りで、 全部ねーちゃんに丸投げしたから、 話を聞いただけだけど。
ウザい
父親は 最終的に 肺炎で亡くなったんだが、 亡くなる前日に、 そろそろ ヤバいってことで、 病院から呼ばれて、 姉と母親と俺とヘルパーさんとで (コロナで隔離されていた) 病院へ向かった。 待合室で 俺が ガラホを見ながらニヤニヤしていると、 姉が 俺の ガラホをパッと取り上げて、 画面を睨みつけながら、 読み上げ始めた。 あえて ヘルパーさんの前で。 いかにも、この男は 不謹慎な人間です、と ヘルパーさんに 誇示するように。 俺がなぜニヤニヤしていたかというと、 父親がいよいよヤバい、ということに なる前までは、 俺が 父親の病状を盛って話していると 思っていたかも知れない 友人が、 豹変して 丁寧な文面でメールを送ってきて くれたので、 そのギャップに少し 笑ってしまったのだ。 そこを 敢えて捕まえて、 よりにもよって ヘルパーさんの 眼の前で 読み上げ始める 姉。 果てしなくウザい。 ほんとに ぶん殴ってやりたい。
糖尿病 (再掲)
糖尿病はヤバい。 父親が糖尿病と高血圧を 併発していたんだが、 腎臓がダメになって 腎臓が駄目になるってことは、 体内の水分を コントロール出来なくなるし、 老廃物も 排出できなくなる、ということなので、 どうしても 人工透析せざるを得ない。 で、まあ 父親も 人工透析治療を受けていたんだが、 (ちなみに父親はもう亡くなっている。) まあ凄かった。 糖尿病のせいなのか、便通もコントロール出来なくなって、 透析治療中に 便意をもよおすと、 母親が 父親のところへ 車椅子もって すっ飛んでって、 父親を乗っけて トイレに猛ダッシュする。 で、トイレに着くと、 基本漏らしてて、パンツを脱がすと ウンコまみれになっている。 その状態なのに父親は 仕事を続けていて、下が ウンコまみれのまま ケータイで電話しながら、 ハイ!ハイ!と 通話していた。 もちろん、電話の相手は まさか 父親が透析治療中だということは まったく知らない。 あれは 凄かった。 それでも タバコ吸うんだから、大したもんだよ。
回顧録 (再掲)
今はたぶん だいぶ 違うんだろうが、自分が入った頃の武蔵は、権威主義的な 空気がまだ 漂っていた。 もちろん、学問的な、という意味だが。 しかし、その埃っぽさが、自分には耐えられないくらい 窮屈で 仕方がなかった。 武蔵は、学問の自由とか言いながら、肝心なことは教えてくれないし、しかも、ほこりっぽいアカデミズム、言い換えれば、 学問的権威主義の空気が横溢していて、そういうところはほんとにイヤだった。 ただ、そういう権威主義に対するカウンターカルチャーというか、 真面目くさった合理主義に対するアンチテーゼとしての 道化を演じる精神は根付いていたし、 学校側も、そういうところはかなり懐は深かった。 自分が武蔵を辞めずに済んだのは、 一緒に道化を演じてくれる友人や、 学校側の懐の深さによるものだと思う。 武蔵っていう場所は、 言い訳の効かない 「お前、自分の頭で考えろよ?」 っていう 場面を、必ず一度は突きつけられる場所だと思う。 別に武蔵じゃなくてもいいんだけど、 ぶっちゃけ サニチだったら、少なくとも勉強に関しては いくらでも 逃げられる。 「自分の頭で考える」と言えば、そら誰だって自分の頭で考えてるだろ、と思うだろうが、 実際には、逃げ場がある、言い訳が効く環境では、なかなか身につくもんじゃない。 それは、 教師が頑張ってどうこう出来るもんじゃなく、 カルチャーを含めて、武蔵という学校の環境だと思う。 単に大学受験のことだけ考えれば、武蔵よりサニチのほうが遥かにいい環境だろう。 お山の大将でいられるし。 しかし、武蔵は逃げを許してくれない。 現に今だって、 下手なことを書けば、 え、それはどういうことなの? と厳しいツッコミが友達から容赦なく飛んでくるのは覚悟してる。 そういうツッコミを、 自分の中で想定していること、 つまり、自分が表明することに対してどのような批判があり得るか、を考える思考回路を 内製化できていることが、 自分の強みでもある。 山川賞とった 大澤くんみたいなのが 部活の後輩にいるとね、 大学生にもなって 自分の研究テーマを持ってないってのは、凄く恥ずかしい、と思ってたよ。多くの大学生の意識はそうでもないってことに しばらくしてから気付いたけど。そこらへんが、武蔵がアカデミズム重視の学校と 言われるゆえんだろうね。 会報で、大昔のOBの回顧録で、中1で同級生に初めてかけられた言葉が、「ご専門はなんですか?」だった、なんて話も載ってた。もともとそういう学校なんだね。つっても、自分みたいなザコは高校の現国でレポート書けなくて、教師にキレられたり、小論文が書けなくてSFC2回も落ちたり、SFC入ったら入ったで、レポート書けなくて四苦八苦したり。今みたいに守備範囲内だったら書ける、というレベルになるまでは、相当な労力と時間がかかったよ。贅沢な話だけどね。でも、高校入ってからずーっと劣等感抱えて生きてきた。 自分が高校受験に邁進してた1年間は、 ちょうど父親が地方に単身赴任してて、 だからこそ、高校受験にあれほど 時間とカネをつぎ込めたんだろうけど、 父親が 東京に戻ってきて、 後楽園に近い社宅で 4人で暮らしていた頃は、 つまんなかった。 最寄り駅は飯田橋で、 地下鉄有楽町線で 新桜台まで直通で、 武蔵まで行けたんだが、 当時は西武線に直通する本数が少なくて、 結構遅刻もした。 新桜台という駅は地下の駅で、 名前はおしゃれだが、 ほこりっぽくて無機質で、 まったくテンションのあがらない駅だった。 父親も、 会社が合併したために全くテリトリーの違う土壌に乗り込んだが、 うまく馴染めず、かなり精神的にも堪えたらしい。 そのせいか、 東京の社宅にいた頃は、 夜食事をするにも、 家族団欒であるはずの場が、父親にとっては、単純にタダで酒が飲めて接待もしてもらえるクラブと化していた。 父親も、そういう形以外での家族との接し方がわからなかったんだろう。 俺も、そのころだんだんと気持ちが塞いで、頭もボンヤリするようになっていった。 ・・・おおたとしまささんの 新書を読んでみた。 非常に読みやすいので、 2、3時間くらいで 読めてしまった。 特に そこは違うだろ! とか ツッコミたいところもなかったし、 内容も 決して薄くはなかった。 教育学的な視点による 裏付けもしっかりしていたと思う。 単純に 「都会の頭のいい学校に通っている生徒は、 塾漬けで 勉強が出来るだけのバカ」 っていうほど 白黒ハッキリした 単純なストーリーでもなかった。 それだけに、 何か 一種の勧善懲悪的な 痛快な読み物、というわけではない。 かといって、 歴史に残るような名著、というほどではないが。 ただ、 読む価値は十分あると思う。 難しいテーマだから、 何か結論めいたことを言うのは 簡単ではない。 塾は塾。 学校は学校。 何か割り切れないものは残るが、 新書一冊で片付けるのは、 土台無理なテーマだ。 ただし、 著者が 日本のエリート教育に対して 抱く懸念は伝わってくる。 代々木に 鉄緑会、という まさに この本がターゲットとしている、 都会の高校生なら 知らぬものが居ないほどの 悪名高い?塾が存在するのだが、 都庁で夜景を眺めながら、 鉄緑会を指さして、 「○○くん今あそこにいるのかな? ミサイル撃ち込みたいよね。」 とか メタさんが言っていたのを思い出した。 メタさんは 高校生のころ (本人曰く) メタルに狂い過ぎて 勉強が疎かになっていたが、 今では 誰も文句のつけようがない 立派な 社会人。 もちろん 鳩さんも。 ふたりとも、 俺が 武蔵に絶望して、 学校を途中でバックレて 電車でどこかに逃避するようになったころ、 放課後一緒に 江ノ島やら逗子やら、 いろいろなところに 日常的に 連れて行ってくれるようになった。 新宿の高層ビル群は、 ほとんど庭と言っても過言ではない。 センターと言えば、 センター試験ではなく、 センタービルのこと。 夜景ソムリエの鳩さんが、 いつも先導してくれて、 今光ったのがどこそこの 灯台だとか、 いま 羽田空港の 新C滑走路に 飛行機が降りるところ、 とか 解説してくれた。 メタさんと鳩さんの会話を聴きながら、 自分は弁論術を学んだと言っても過言ではない。 学問に対する姿勢は、 生物部の後輩の大澤くんに学んだ。 たぶん、 自分の心のバッテリーの容量って、 人並みなんだよね。 感覚が敏感すぎて バッテリーが切れるのが早いってのは あるけど、 バッテリーの容量そのものは 健常者と大して変わらない。 宮本浩次のアルバム聴いてて、 さすがに 疲れたけど、 米軍が アルカイダの捕虜を拷問するとき、 メタリカを延々と流すらしいね。 確かに、いくら ファンの自分でも、何時間も メタリカ聴かされたら、 脳ミソ壊れちゃうよ。 駿台で2浪してた時に、既に 心の堤防が決壊寸前まで 行ってたのに、 SFC入ってから更に 災害級のストレスが襲って来たんだから、 そら 正気で居るのは無理だったな。 自分が子供の頃の中国って言ったら、 真冬のクッソ寒い朝でも、 みんな人民服着て、 チャリで大移動ってイメージだったけど、 まさかここまで巨大になるとは。 自分が小学生の頃なんて、 冬は霜柱立ってて、それをザクザク踏みしめながら 登校したもんだけど。 今の子供は、北海道とかならともかく、 霜柱なんか知らんでしょ? ま、そんなことは置いといて、 慶応の研究会で、 生協で見つけた末廣昭先生の「キャッチアップ型工業化論」(名古屋大学出版会) を、パクってパワポ作ってプレゼンしたんだけど、 まるっきりそのまんまじゃ つまんないから、 よせばいいのに 経済発展の過程で労働からの疎外が起きる、なんて ぶったもんだから、集中砲火されて、 しかも、今では無惨に色あせた、グローバリゼーションてコトバが当時流行ってて、 これも生協で見つけた 伊豫谷登士翁の本に感化されたりして、 俺の頭もオカシクなった。 ま、振り返れば簡単な話のように聞こえるけど、 我ながらよくここまでやったわ。 願わくばもっと 早く 中退させて欲しかったけどね。 2ヶ月入れられてた病院から ようやく退院したとき、記帳をする 姉のペンの握り方を見て、衝撃を受けた。 中指と薬指の間からボールペンが 突き出ている。 20年近く前のことだから正確ではないかもしれないが、 よくその握り方で字が書けるな、と 逆に関心してしまうような握り方だった。 と、同時に、俺は この先の人生 誰を頼りにして生きていけばいいんだ? と、マジで心が折れそうになった。 20年前 東戸塚の 日向台っていう 精神病院に 2ヶ月 いたんだが、 名前の通り 日当たりのいい ところで、 要するに 暑かった。 心因性多飲症で 今でも 日々 大量の お茶だの 冷水だのが 必要な自分には、 冷水さえ 滅多に飲めないのは 苦痛だった。 だいたい 5月から7月の間 だったと思うが、 暑いのに 冷水さえ飲めず、 もちろん空調も効かない。 たまに 作業療法の時間があり、 旧い建物の一室で ビーズの編み物を作ったり したんだが、飽きて 薄暗い ソファーベッドに寝転んで、 俺は こんなところに居て この先の人生は 一体どうなるんだろう?と 漠たる、 漠たるとしか 言いようのない 感覚に侵されていた。 今年はそれから 20年てことで 放送大学のほうも 親から資金援助してもらって 岡山に10連泊したりなんかして、 贅沢させてもらっているが、 これは 無意識なのか、 急に 気力・体力の衰えを 感じる。 お金がなけりゃ 生きていけないのは 現代人の宿命だが、 母親が亡くなったら どう 生きていけばいい? 別に 病気だって治ったわけじゃない。 当然 薬だって 必要だ。 我ながらよく頑張ったとは 思うが、 正直 お金を稼ぐのは 不得手だ。 そもそも、そこまで 要求するのは いくらなんでも 酷なんじゃないか? かといって 自殺する気はサラサラないし。 人生100年時代? バカいうんじゃないよ。 40ちょい 生きるだけで これだけ大変なのに、 100年も生きろだと? 単純に 体の調子が 悪いだけなのかも知れないが、 なんだか 急に 疲れた。 若いうちは 気力だけは凄かったから どうにかなったが、 その 肝心の気力が 涸れつつある。 母親も 要介護3で、 俺も 精神障害者2級で、 介護保険と 傷害保険で ヘルパーさんが 毎日来て 飯つくってくれて 掃除もしてくれるんだが、 正直 本人たちは どう見ても そんなに重症ではない。 確かに、 母親も脳梗塞を発症したとはいえ、 (俺が) 早期発見したから、 症状は軽い。 俺自身、いかに 20年前に 措置入院を食らったとはいえ、 薬は確かに 必需品だが、 至ってヘルシーだ。 しかし、思い返してみれば、 幼少期から、 小林家というのは 毎日が 非常事態、 とても 安らぎの場所ではなかった。 むしろ 針のむしろだった。 母親も外面がいいから 傍目から見れば 恵まれた家庭だっただろうが、 母親が 心を閉ざしているから、 父親がいくら 稼いでも、 それを相殺して余りあるほど、 小林家というのは 毎日が非常事態だったのだ。 ここ最近は、ほんとに お互い心安らかに暮らしているが、 こうやって完全に 平穏な暮らしを出来るまでには、 本当に 長い道のりだった。 母親は、 息子(俺)が 働いてお金を稼ぐことよりも、 勉強して 学問のある人間になることのほうが、 遥かに嬉しいのだ。 俺自身、勉強は好きだ。 (理数系はまったくワカランが。) それは、母親自身 都立日比谷高校出身というのも 影響している。 姉は姉で、一緒に暮らしていた頃は モラルハザードが酷いものだったが、 いまは 結婚して出て行って、子供も出来たから、 じぃじばぁば 愛してる、なんていう どの口が言ってんだ?と 突っ込みたくなるような おべんちゃらを言っている。 とにかく、いまの小林家は 平和だ。 この平和に至るまでに 俺自身、他人には想像を絶するほどの 苦労をしながら 貢献してきたのだ。 だから、立派に 今の 安閑たる生活を享受して 許されるのだ。 放送大学の 2学期の 面接授業で、 福島学習センターで 取ってみようかと 思ってる 授業があって、 福島学習センターが 郡山の 郡山女子大学にあるんだが、 ふと、 郡山といえば、 2浪してる時に、 母親から1万円もらって、 羽生から東武動物公園まで行って、 日光線の快速に乗り換えて、 会津田島まで行って 野岩鉄道で 山奥の秘境みたいなところを ひたすら走って 会津若松まで行って、 そこから 郡山に出て、 東北線で久喜まで来たところで お金が足りなくなって、 母親に来てもらって、 精算して 羽生まで帰ってきた、 ってことがあったね。 あのときは、もう誰も 浪人してなくて、 メンタルも危機的だったし、 俺の人生どうなっちゃうんだろう? と 漠たる不安感のなかを 必死に もがいてる感じだったなあ。 そんなこと 思い出すと、 ほんとによくまあ ここまで来たよ。 あの時の俺に エールを送ってやりたいね。 お前の人生 悪くないぞ! てね。 俺けっこう 泥沼はいつくばって 生きてきたと 思ってるんだけど、 往々にして 苦労知らずの お坊ちゃんて 思われるんだよね。 その度に、 ふふ。 あなたは 俺に 騙されてるよ。 と 内心おもっているのだが。 教科書的に自分の歴史を振り返れば、20代から30代後半まで、友達から、働け、ってメタル責めされてたのは事実だけど、 あちこちドライブに連れてってもらった楽しい思い出もたくさんあるし、 それこそ彼らが地方に転勤してるときに、遊びに行ったときの楽しい思い出もたくさんあるし、無理に省略しようとすると、 「暗黒時代」かのような歴史観になりかねないけど、 ディティールを無視するのは、怖いよね。 いずれにせよ、 彼らはいつも自分に誠実に接してくれたし、説教してくれるのも、親身に考えてくれてることの裏返しだし。 (以下 坂口安吾「三十歳」より) 勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。 たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。 人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。 けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。
漠たる (再掲)
20年前 東戸塚の 日向台っていう 精神病院に 2ヶ月 いたんだが、 名前の通り 日当たりのいい ところで、 要するに 暑かった。 心因性多飲症で 今でも 日々 大量の お茶だの 冷水だのが 必要な自分には、 冷水さえ 滅多に飲めないのは 苦痛だった。 だいたい 5月から7月の間 だったと思うが、 暑いのに 冷水さえ飲めず、 もちろん空調も効かない。 たまに 作業療法の時間があり、 旧い建物の一室で ビーズの編み物を作ったり したんだが、飽きて 薄暗い ソファーベッドに寝転んで、 俺は こんなところに居て この先の人生は 一体どうなるんだろう?と 漠たる、 漠たるとしか 言いようのない 感覚に侵されていた。 今年はそれから 20年てことで 放送大学のほうも 親から資金援助してもらって 岡山に10連泊したりなんかして、 贅沢させてもらっているが、 これは 無意識なのか、 急に 気力・体力の衰えを 感じる。 お金がなけりゃ 生きていけないのは 現代人の宿命だが、 母親が亡くなったら どう 生きていけばいい? 別に 病気だって治ったわけじゃない。 当然 薬だって 必要だ。 我ながらよく頑張ったとは 思うが、 正直 お金を稼ぐのは 不得手だ。 そもそも、そこまで 要求するのは いくらなんでも 酷なんじゃないか? かといって 自殺する気はサラサラないし。 人生100年時代? バカいうんじゃないよ。 40ちょい 生きるだけで これだけ大変なのに、 100年も生きろだと? 単純に 体の調子が 悪いだけなのかも知れないが、 なんだか 急に 疲れた。 若いうちは 気力だけは凄かったから どうにかなったが、 その 肝心の気力が 涸れつつある。
高校受験 (再掲)
今からすれば、 高校受験して 武蔵に 入ってよかった と 思うけど、 高校はいって 割とすぐ 思ったのは、 英数国3科目 頑張って勉強したけど、 特に 数学は 東急池上線の久が原にある 塚本数学クラブっていう 個人塾で徹底的に 鍛えられたけど、 入試が終わってみると、 全然 賢くなった気がしないし、 ましてや 人間として 成長した、なんていう 実感など 微塵も湧いてこなかったね。 まあ、単純に 数学に向いてないって ことなんだろうけど。 にも関わらず、 世間から 畏敬の目で見られることが 余計に 虚しかったね。 つまり、 以前書いたように 武蔵に絶望した、というより、 なんちゃって武蔵生をやってる 現実に絶望したのかもね。 しかも、これから 大学受験に向けて 数学勉強しなくちゃいけないのか、 と 思うと、 暗澹たる気持ちになった。 つっても、 自分の拙い経験から言っても、 数学が専門の人って、 頭はいいけど 人間として 疑問符をつけたくなる ような 人って、 案外多いよね。 メタさんも、 武蔵の数学教師 を 反面教師として、 理系進学を 諦めた、って 言ってたし。
青春の後ろ姿 (再掲)
別に 父親に 高校受験しろ と 言われた訳 じゃなくて、 むしろ 父親が 地方に転勤で いなかったから、 あんな 無茶な 塾通いが出来た。 中2の終わりに 羽生駅前の 三光堂っていう 書店で 慶應志木の過去問みて、 まったく わからず、 佐日では お山の大将だった 自分は 衝撃を受けて、 母親に泣きついた。 だから、 最初は 慶應志木に受かったら 夢物語だ と 思っていた。 しかし 母親は もともと 都会人だし、 武蔵が どんな 学校かも知っていたから、 違和感はなかった。 自分は 高校受験を志したころは 武蔵の 存在自体知らなかった。 そして、 新聞広告に 載っていた 「塚本数学クラブ」 に 通い始めて、 本格的に 高校受験が スタートした。 ま、 今さらだけど 佐日から 慶應志木と塾高と武蔵に 受かるなんて、 ミラクルだよね。 合格した時、 親戚からは 慶応にしとけ、と 言われたらしいが、 都会人の母親は 武蔵を知っているという ことと、 父親も 武蔵を知らないながらも ネームバリューに 目がくらんで 武蔵に入ることになった。
姉からのマウントかましの一例 (再掲)
心配しないでください。ヒロさんは、これを機に外の世界に一歩踏み出してください。外の世界は広くて楽しいです。知らないで終わるのは勿体ないです。私は今まで外の世界を沢山見てきました。今度はヒロさんの番です。思いっきり人生を楽しんで下さいね。
https://www.youtube.com/watch?v=nUZVXtDVrc0
うぇるかめ (再掲)
もう年末ですね。 父親が健在だったころは、 大晦日には 小林家が一同に会する わけですが、 いつものごとく 姉が泣き叫んで、 いつの間にか 母親と姉が 廊下で雑魚寝して 新年があける、 なんてことが 2、3回 あった。 やっぱ おかしいわ。 この家族。 上述の話は、 高崎に住むようになってからのことだが、 羽生に住んでいた頃は、 たしか 姉が28歳くらいのことだったと 記憶しているが、 姉が 地元の同級生と 深夜まで 飲み会やって、 俺は 不眠症だから、 真夜中に 玄関で嗚咽する声が聞こえるから、 何かと思って 見に行ったら、 ウミガメ(姉)が卵 産んでた。 28で青春ですか。 いい気なもんだ。 人が 大変なことになってんのに、 なんてことも あったね。 あれ、たぶん 俺が 病気になって、退院してきて まだ 復学するまえで ひたすら 食って寝てウンコしてた頃だね。 姉とは 5歳差だから、確かにそんなもんだ。
もう絶縁したけど (再掲)
姉もなー 私は世界広い、 お前は 世界狭い、て マウント かましてくるくせに、 年齢相応の常識すら ねーからな。 高いカネ出して お見合いクラブ 入ったのに、 プロフィール欄の 尊敬する 歴史上の人物 に 明石家さんま て 書いちゃうんだからな。 そら、 どんなに顔面偏差値 高くても、 まともな男は 寄って来ないよ。 私はバカです って 言ってるようなもんじゃん。 お前のいう 世界広いって なんなんだよ? もうアホすぎて 付き合いきれねえんだよ。 父親が 生きてた時に、 株が終わって 生活費を近くの コンビニで おろすのを頼まれた時、 コンビニのATMで 小林家 一ヶ月分の カネ引き出してんのに、 3歳の息子が どこ行くか わからないから 帰るのが 何時間後になるか わからない、とか ふざけた こと言ってて、 ほんと コイツの頭は どうなってんだ?! と 思ったわ。
悪魔 (再掲)
どうせ 一生 協力なんか できねーんだから、 この際 ブチまけてやるわ。 母親から 父親に 腎臓移植が 決まったタイミングで、 父親に 2号さんがいるのが バレちゃって、 うずくまって 泣いてる 母親の耳元で、 姉が、 「お父さんは 家政婦さんみたいな人を 探してたんだよ。」 って 囁いた。 つまり、母親は 父親にとって 家政婦でしかない、と。 姉はそういう人間。 人の傷に塩を 擦り込むのが 大好きな人間。
愕然 (再掲)
2ヶ月入れられてた 病院から ようやく 退院したとき、 記帳をする 姉のペンの握り方を見て、 衝撃を受けた。 中指と薬指の間から ボールペンが 突き出ている。 20年近く前の ことだから 正確ではないかもしれないが、 よくその握り方で 字が書けるな、と 逆に関心してしまうような 握り方だった。 と、同時に、 俺は この先の人生 誰を頼りにして 生きていけばいいんだ? と マジで 心が折れそうになった。
機能不全家族 (再掲)
今さら 母親 見捨てられるかよ。 ずーっと 寝不足で、 しかも しょっちゅう うなされてて、 3日に 一度は 寝言で叫んでるから、 俺が 声をかける なんてことは 日常茶飯事。 俺自身 不眠症。 父親は 仕事と 2号さんの ことしか 考えてない。 姉は なにかあると 「なんで 私だけ 家族の犠牲に されなきゃ いけないの?!」 って 泣き叫ぶ。 こんな めちゃくちゃだった 家族が、 父親が亡くなり、 姉も 結婚して子供も出来て 出て行ってくれて、 母親も 脳梗塞を経て やっとのことで 心身ともに マトモになった。 今じゃ 菩薩のようだ。 尽くすことでしか 自分の存在意義を 見いだせなかった 母親が、 ようやく 心安らかに 暮らしているのに、 放置は できねーよ。
ホッと一息
ようやく、ようやく、
母親も
俺のことを
まじめに
考えてくれるように
なったな。
泣く子と地頭には勝てぬ
とは
いうが、
泣く子(姉)と
地頭(父親)の
ことばっかり見て、
どう
考えても
俺の心情なんか
まともに
見てもくれてなかったからな。
父親も亡くなり、
姉も
母親とズブズブの関係から
切れて、
というか俺が
断ち切って、
ようやくのこと
俺の
気持ちをマジメに
考えてくれるようになった。
やっとだよ。
もう、ほんと
めんどくさいにも
程があるんだよ。
小林家は。
2025年1月11日土曜日
「隷従への道」 フリードリヒ・ハイエク 日経BP p.190~191 (再掲)
経済活動を 完全に 中央主導にする という 発想には、 やはり たじろぐ人が多い。 単に それが 途方もなく 困難だから ではなく、 たった一つの 中央当局なるものが 万事を 指示する ことに恐怖を 覚えるからだ。 それでも なお 私たちが そこへ向かって 急速に進んでいるのは、 完全な個人の競争 と 中央管理との間 に 「中庸」 が あるだろうと、 大半の人が いまだに 信じている せいである。 めざす目標は 自由競争による 極端な分権化でもなければ、 単一の計画に基づく 完全な中央集権化でもなく、 両者の いいとこどりをした 体制だと 考えるのは、 合理的な 人々にとって 実に魅力的であり、 さも実現可能にも見える。 だが このような問題に関しては、 常識は当てにならない。
2025年1月7日火曜日
うつ病譚
うつ病ってのは、ツライ。
ある程度は
同情してもらえるんだが、
同情してもらったところで、
苦しいのが
治るわけでもない。
しかし、中には
同情してもらえることに
しか
慰めを得られなくて、
同情してもらえることに
依存してしまうこともある。
まあ、
太宰治みたいなもんだ。
(太宰治はほとんど読んだことないが)
あれはあれで
ツライんだ。
結局、サークルのマイ・コメヂアンになって、
取り巻きの女と心中するのが
オチなのだ。
ところで、
うつ病になるにも
色々と
理由があるものだが、
得てして、
うつ病になる原因なんてのは、
わからないものなんだ。
わかったら苦労しねえよ。
しかし、よくあるパターンが、
「やる気スイッチ」をオンに
したまま
突っ走ることだ。
こんなことは、根が真面目な人間ほど、
簡単に
起きてしまうことだ。
人間、「やる気スイッチ」を
オンにするなんてのは、簡単なことだ。
一度入った「やる気スイッチ」を
オフにするってのは、
「やる気スイッチ」をオンにすることの
何倍も
難しい。
で、あるから、
大人として生きていくには、
「やる気スイッチ」の切り方を
習得しておく必要がある。
真面目な人間ほどそうなのだ。
しかして、うつ病というのは
あまり
同情してもらえない。
同情されたところで
気休めにしかならないし、
同情されたところで
治ったりはしない。
ただ
中には
同情されることに
依存してしまうタイプもいるだろう。
あ、これ
もう
書いたかもだが、たぶん
太宰治とか
このパターンだろう。
ある意味で、うつ病を
患うということは、
孤独との闘いでもあるのだ。
何しろ、
周囲の人間から
理解してもらえないからな。
周囲の人間も、
一応は
同情してくれるんだが、キリがないから、
そのうち
去っていく。
そうすると、ますます
孤独になる。
すべてが
悪循環だ。
うつ病が完治するということが
あるのかどうかは
わからないが、
結局
マシになるには、
誰か
自分の、一番
急所というか、
自分の一番
弱い部分の扉のカギを
そっと
預けられる存在が
必要なんだ。
性別はあまり関係ない。
どういう人間関係かも
あまり
関係がない。
ともかく、自分の一番
急所である領域へのカギを
そっと
預けることが出来て、
その人が
そのカギを
誰にも知られないように
密かに
隠し持っていてくれるって
ことが、
重要なんだ。
そこはもう
損得勘定抜きだ。
とにかく、
自分の生死を
預けるくらい
大変なことなんだ。
しかし、そういうケースもあるから、
人間てのは
ときに
脆くても、なお一層
キレイな
存在なんだ。
もっとも、うつ病は
キレイゴトばかりではない。
何しろ、
ひたすらウツな訳じゃなくて、
往々にして
ハイになってしまう時期があるからだ。
そうして、ハイになっても、
結局は
また
ウツになる。
それを繰り返していると、
周囲の人は
コイツはふざけているんじゃないか、と
思って、
疎まれる。
こうやって、ますます
孤独になる。
そう、
うつ病患者というのは
孤独なんだ。
ま、いろんなパターンがあるがな。
俺も
病院にいるとき
いくつかの
うつ病と思しき類型を見たが、
一類型として、
基本ウツなんだが、
ハイになったときに、
やらんでもいいことをやって、
周囲のヒンシュクを買って、
ずどーんと
ウツになる、というパターンの人がいた。
まあ、その人がハイな時は、確かに
鬱陶しいんだが、
やっぱり当人はツライんだ。
そうして
同じことを繰り返すほど、どんどん
絶望的な
気持ちになってくる。
永遠にこの状態から
抜け出せないんじゃないか、と
確信が深まるからな。
だから、
たまにハイになってしまうタイプの
うつ病というのは、
それはそれで
厄介なんだ。
あれは
傍から見るより、当人は
遥かに
ツライんだ。
上述の例でも、風呂に入ったときに、
腰のつけ根のところに、
褥瘡の痕が出来ているのを見て、驚いた。
褥瘡というのは、
つまるところ
ずっと
同じ姿勢で寝ているために、
圧迫された部分が
血流が悪くなって、
壊死してしまうんだ。
ハイなときには
鬱陶しいほど
テンションがあがってる人が、
寝返りをうつ
気力も湧かないほど
眠らざるを得ない。
これが
どれほどシンドイか、わかるか?
うつ病は甘えだとか言うやつが
たまに
いるが、
そう思うなら
いっぺん
褥瘡が出来るまで
ひたすら
同じ姿勢で
寝てみたらどうだ?
とにかく、そんなわけで、
うつ病のツラさというのは、なかなか
理解してもらえない。
そこが
また
厄介なんだ。
とにかく、うつ病から抜け出すには、
何か
一つでも
問答無用で楽しいと
思えることとか、
一緒にいると
なんか
楽しい人とか、
そういう存在が
絶対に必要なんだ。
そして、徹底的に
自分の
心のありようと
向き合うことが
まず
必要だ。
絡まり合って
ぐちゃぐちゃになった
心と、ひたすら
向き合って、
どこでどう間違えたのか、
ひたすら
考えることが必要だ。
ただし、これは
これをやれば
うつ病から抜け出せるって
もんでもなくて、
言うなれば
「ジョジョの奇妙な冒険」の
プッチ神父の
ホワイトスネイクの攻撃みたいなもんで、
うつ病から
抜け出してみて
初めて
原因がわかるってことが
ほぼほぼ
当てはまると思われる。
なにが原因で
ウツになってるのか
わかれば、そもそも
うつ病には
簡単にはならない。
なんの慰めにもならないかも知れないが、
うつ病というのは
抜け出した人間にしか
対処方法が
わからないんだ。
何しろ、自分の心の働きというのは、
たいてい
自分にしかわからないからな。
そういう意味では、
うつ病というのは
よく知られた病いでありながら、
自分自身に
固有の病いと
言ってもいい。
とにかく、人間ひとりひとりに
個性があるのと
同じ意味で、
うつ病には
個性があるのだ。
だから、余計
難しい。
周囲の人間は理解してくれないし、
理解しようがない。
しかし、
繰り返すが、
やはり
最終的には
自分の
心のカギを
そっと
預けて、そうして
誰にも
悟られることなく、
永遠に
キープしてくれる
存在が必要。
そして、徹底的に
自分自身の
こころのありようと
向き合い、
どうしたら
うつ病に逆戻りしないか、を
徹底的に
考えることが大事。
確かに、うつ病ってのは
詳述したように、孤独だ。
しかし、だからこそ
人間というのは
他者を必要とする。
その意味で
孤独ではない。
そういう
存在だと
言える。
2025年1月6日月曜日
<近代>と周縁化 (再掲)
後期資本主義批判を アドルノから荻野先生の社会学、 ゲーテを経て 漱石まで展開した動画を有り難う。 アドルノの後期資本主義批判は しばしば読ませてもらっていたところですが、 今回は 荻野氏の「詐欺」論へ 連接させることで、 論がひときわ具体性を増し、 鮮やかな像を結んだように思います。 不確定性に賭ける「詐欺師」とは、 計量と数値化を旨とする 近代合理主義社会の、 いわば虚をつく存在。 資本主義社会の到達点ともいえる 「管理社会」への 批判的メタファーなのですね。 それが足を置く場は、 まさに 資本主義社会の 「市場」の余白とでも表すべき領域。 とすれば、小林くん講話の 後半部のキーワードともいうべき 「自然」が、 まさに 商品の 等価交換から成り立つ 「市場」の〈外部〉であることと きれいに響き合っていることに、 つくづく感心しました。 そして、近代作家とは、 まさにその〈疎外〉感を以て、 同じく 近代が周縁化してしまった 〈自然〉 へ魅かれ、耽溺する者であるわけですね。 日本近代の場合、 より〈自然〉に親和的なのが自然主義作家で、 これをまさに 〈じねん〉 にみられるような 概念化への苦闘を経ることで、 欲望的な世界から 帰還してくるのが漱石、 ということになるでしょうか。 「ファウスト」こそ詐欺師では、 との小林くんの呟きにクスリとしながら つい頷いてもいるのですが、 その葛藤が 〈魂の救済〉 なるもので終結するのは、 やはりなんといっても キリスト教文化圏ならではの展開でしょう。 かの有名な 「疾風怒濤」期に 端的に現れる ゲーテの自然観 (近代的「自然」の発見)は、 日本の場合、 漱石よりも、北村透谷を経た 自然主義文学への影響の方が大きそうです。 いささか余談ですが、 ゲーテも、漱石も、そして ほとんどすべての男性・近代作家の描く異性愛の対象 ーー 〈女性〉 もまた 〈近代〉 が周縁化した存在なので、 なるほどテクストというものは 論理的かつ時代精神を おのずから反映したものだ、 と改めてつくづく納得した次第です。 いつものことながら、感謝です。誠に有り難う。 今回、頂戴した小林くん講話に これまで頂戴している 論考から得た知識を総合すれば、 資本主義-市民社会がもたらす 疎外、物象化に対する 苦悩という名の 徹底的相対化、 これこそが 漱石の文明批評の基盤であることが、 まさに 鮮明に図式化されて見えてくる感じです。 今回は 「ブログのハッシュタグ参照」とのことで、 アドルノとの関係への言及は省略されていましたが、 ここから展開してゆくのが、 何度か拝見させてもらった、 アドルノを援用した小林くんの 「それから」 論ですね。 主客分離から生じる疎外を批判し、 人間の自然 および身体の抑圧を論じながら、 原初的まどろみへの回帰は 徹底的に封じた アドルノの論理展開が、 何と代助の解読に有効であるか、 は、つねづね痛感するところです。
2025年1月5日日曜日
描写が凄い。
マルセル・プルーストの
「失われた時を求めて」
(光文社)
の
第1巻を
読んでるんだけど、
すごいなあ、と
つくづく
驚かされる。
やっぱ
フランス文学ってのは
すげえわ。
なんつーか、ああ
そういえば
子供の頃
こんなこと
考えたり
感じたり
したな、とか、
あるいは
大人になっても、
他人には
言えないけど
密かに
こんなこと
考えてる時って
あるよね、
みたいな。
そういう
秘めた
感覚を、ほとんど
百科事典なみに
描写している。
しかも
ひたすら
優雅に。
まさに
「失われた時を求めて」
という
タイトルが
ぴったり。
かといって、
決して
露悪趣味ではないし、
読んでいて
懐かしい気持ちになったり、
ギクリとしたり。
いやはや、確かに
これは
文学史に名を残す
傑作だ。
「世界の共同主観的存在構造」 廣松渉 岩波文庫 (再掲)
われわれは、現に、
時計の音を「カチカチ」と聞き、
鶏の啼く声を
「コケコッコー」と聞く。
英語の知識をもたぬ者が、
それを
「チックタック」とか
「コッカドゥドゥルドゥー」とか
聞きとるということは
殆んど不可能であろう。
この
一事を以ってしても判る通り、
音の聞こえかたといった
次元においてすら、
所与を
etwasとして
意識する仕方が
共同主観化されており、
この
共同主観化された
etwas以外の相で
所与を意識するということは、
殆んど、
不可能なほどになっているのが
実態である。
(59ページ)
しかるに、
このetwasは、
しばしば、
”物象化”
されて意識される。
われわれ自身、
先には、
このものの
”肉化”
を
云々することによって、
物象化的意識に
半ば迎合したのであったが、
この
「形式」
を純粋に
取出そうと試みるとき、
かの
「イデアール」な
存在性格を呈し、
”経験的認識”
に対する
プリオリテートを要求する。
このため、
当の
etwasは
「本質直感」
といった
特別な
直感の対象として
思念されたり、
純粋な知性によって
認識される
形而上学的な実在として
思念されたりすることになる。
(67ページ)
第三に、
この音は
「カチカチ」
と聞こえるが、
チックタックetc.ならざる
この聞こえかたは、
一定の
文化的環境のなかで、
他人たちとの言語的交通を
経験することによって
確立したものである。
それゆえ、
現在共存する
他人というわけではないにせよ、
ともあれ
文化的環境、
他人たちによっても
この音は規制される。
(いま時計が
人工の所産だという点は措くが、
この他人たちは
言語的交通という聯関で
問題になるのであり、
彼らの
生理的過程や
”意識”
が介入する!)
この限りでは、
音は、
文化的環境、
他人たちにも
”属する”
と云う方が至当である。
(70ページ)
一般には、
同一の語彙で表される対象
(ないし観念)群は、
わけても
”概念語”
の場合、
同一の性質をもつと
思念されている。
この一対一的な対応性は、
しかも、
単なる並行現象ではなく、
同一の性質をもつ
(原因)
が故に
同一の語彙で表現される
(結果)
という
因果的な関係で
考えられている。
しかしながら、
実際には、むしろ
それと逆ではないであろうか?
共同主観的に
同一の語彙で呼ばれること
(原因)
から、
同一の性質をもつ
筈だという思念マイヌング
(結果)
が生じているのではないのか?
(109ページ)
第二段は、
共同主観的な価値意識、
そしてそれの
”物象化”
ということが、
一体いかにして成立するか?
この問題の解明に懸る。
因みに、
貨幣のもつ価値(経済価値)は、
人びとが
共同主観的に
一致して
それに価値を認めることにおいて
存立するのだ、
と
言ってみたところで
(これは
われわれの第一段落の
議論に類するわけだが)、
このこと
それ自体が
いかに真実であるにせよ、
まだ何事をも説明したことにはならない。
問題は、
当の価値の内実を
究明してみせることであり、
また、
何故
如何にして
そのような
共同主観的な一致が
成立するかを
説明してみせることである。
この
第二段の作業課題は、
個々の価値形象について、
歴史的・具体的に、実証的に
試みる必要がある。
(164~165ページ)
(以下熊野純彦氏による解説より)
『資本論』のマルクスは、
「抽象的人間労働」
などというものが
この地上の
どこにも存在しないことを
知っている。
存在しないものが
ゼリーのように
「凝結」
して
価値を形成するはずがないことも
知っていた。
要するに
『資本論』
のマルクスは
もはや
疎外論者では
すこしもないのだ、
と廣松はみる。
労働生産物は
交換の内部において
はじめて価値となる。
とすれば、
交換という
社会的関係そのものにこそ
商品の
フェティシズムの秘密があることになるだろう。
関係が、
謎の背後にある。
つまり、
関係がものとして
あらわれてしまうところに
謎を解くカギがある。
商品の
「価値性格」が
ただ
「他の商品にたいする
固有の関係をつうじて」
あらわれることに
注目しなければならない。
商品として交換されること
それ自体によって、
「労働の社会的性格」が
「労働生産物そのものの対象的性格」
としてあらわれ、
つまりは
「社会的な関係」、
ひととひとのあいだの関係が
「物と物との関係」としてあらわれる
(『資本論』第1巻)。
ものは
<他者との関係>
において、
したがって
人間と人間との関係にあって
価値をもち、
商品となる。
(533~534ページ)
文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答 (再掲)
質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。 フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。 「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家を孤立させ絶望においやっている現状が鋭く指摘されています。その他の時事的な文章・発言においても、ヨーロッパにおけるグローバリズムと言うべきEU経済戦略のもたらすひずみと地場産業の危機は、ウエルベックにとって一つの固定観念とさえ言えるほど、しばしば繰り返されています。 つまり、ウエルベックは「グローバリゼーション」が伝統的な経済・産業活動にもたらすネガティヴな影響にきわめて敏感であり、そこにもまた「闘争領域の拡大」(ご存じのとおり、これはそもそも、現代的な個人社会における性的機会の不平等化をさす言葉だったわけですが)の脅威を見出していると言っていいでしょう。なお、「セロトニン」で描かれる、追いつめられたフランスの伝統的農業経営者たちの反乱、蜂起が「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言・予告するものだと評判になったことを、付記しておきます。 以上、ご質問に感謝しつつ、ご参考までお答え申し上げます。
明治資料館@沼津 (再掲)
せっかく 三島で面接授業なので、 お隣の 沼津の 明治資料館にも 行ってきました。 もっとデカい公園みたいに なっているのか、と 思いきや、 国道1号沿いに、 古い洋館が 建っていて、 言われなければ 絶対に わからない感じでした。 明治期の偉人、江原素六に ゆかりのある資料館らしく、 幕末から明治期にかけての 資料などが 展示されていて、楽しかったです。 (ちなみに、江原素六という人は、 東洋英和や麻布(←いわゆる「御三家」の麻布) の 創設者ということで、 知る人ぞ知る、といったところでしょうが、 世間的にはあまり 有名ではありません。 しかし、歴史的に有名になることと その人の 偉大さとは また 別次元。) ともかく、一応しつこく勉強してきた 時期の展示物などなので、 結構 気持ちよかったです。 これ、中年の特権なのかもだけど、 もう 脳のキャパとか年齢的な脳の構造の 問題かもだけど、 今さら 新しい分野の勉強を するってのは、無理がある。 むしろ、知ってる分野のことなら 脳が活性化して 気持ちよくなれるなら、 そんな 贅沢な話はないだろう。 自分は 結局 行政におんぶにだっこの 人間に なってしまったので、 あとは そうやって 生きていくのが、なんだかんだ ベターなんだろう。 民法のことも まったく知らないわけじゃないが、 勉強して どうこうというのも、 それは ちょっと 無理がある。 いずれにせよ、山岡先生という ラスボスに、 20年かけて こさえた 我が子同然のレポートを 提出したら、もう なんか 別に いいや、と いい具合に脱力しました。 ここまでやれば、 もう 文句は言えない。 あと、JR沼津駅の改札に、 サンマルクカフェかなにかが 併設されていて、 結構なお値段はするものの、 しっかり 濃くて、なにより 店内が ほどよく空いていて、かといって もちろん ガラガラでもなく、 ゆったりとした喫茶店のムードが 漂っていました。 東京の 利益至上主義の キツキツな感じとは無縁で、 ああ、これが 文化資本というものか、と 感心しました。 あと、 東海地方特有?の バス網とか。 モーニング喫茶といえば名古屋ですが、 沼津まで来ると その文化が 浸透しているのかな、と 思いました。 これ、「マツコの知らない世界」で 見た 情報ですが、あれ バカに出来ないね。 なかなかの 教養バラエティー番組だと 思うよ。 TBSは嫌いだけど、 バラエティーはたまに面白い。
近代日本経済史@北九州サテライト レポート (再掲)
確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。
「金融と社会」質問と回答その7 (再掲)
質問:インフレ目標政策についてうかがいます。 私の実感でも、物価が上がってきたなー、と感じます。 より正確には、 通貨(円)の価値が目減りした ということだと思われますが。 あまり国民の生活が苦しくなれば、 物価の安定という意味では、 金利をあげたほうがまだマシ、 と考える家計も 増えてくるのではないかと考えます。 そうすると、なるほどこれがフィッシャー効果か、 と思われるのですが、 確かに 実質金利がさがったことで 消費者の購買意欲が増したことで 景気の底割れを防ぎ、 政府の名目上の税収も 増えていると言われています。 しかし、かといって、 国も企業も家計も借金まみれの現状では、 今さら金利を上げられるのか、 甚だ疑わしいです。 なぜなら、 金利の上昇は、確かに通貨(円)の価値を 底上げする可能性はありますが、 上述のように 政府・企業・家計が借金まみれの状態では 金利の上昇は難しいことは無論、 長期金利の上昇は、 政府の借金の利払いを増嵩させるのみならず、 日本国債の価格を低下させるため、 発行済日本国債の6割を保有すると いわれる日銀の財務状況を、 著しく危殆にさらすものと考えられるからです。 果たして、 これが当初のインフレ目標政策の 目指していた姿なのか、 甚だ疑念を感じずにはいられません。 回答: 質問文に書かれていることは、私も理解できます。 インフレ目標政策が 2013年に導入を余儀なくされた時、 当時の白川総裁には その問題点がわかっていたと思います。 日銀が2000年に インフレ目標政策について調査したレポートを リンクしておきます。 http://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2000/data/ron0006a.pdf
日常生活とつながる「行政法」@郡山女子大学 レポート (再掲)
行政法の概念に、 「行政指導」と呼ばれるものが存在する。 行政は、 本来「行政行為」と呼ばれる、 命令する主体としての行政と、 名宛人の市民との 主体・客体関係が ハッキリしている手段で 運営されるべきものだが、 「行政指導」という、 極めて日本的な、 主体・客体関係が不明瞭な手段が、 行政の運営上横行している。 もっとも、 行政指導それ自体が問題なのではなく、 行政指導が、 本来強制力を伴わないものであるはずなのに、 従わなければ 往々にして 市民が制裁を加えられることが、 常態化しているという現実がある。 また、それに留まらず、 行政指導が 医療のあり方に絶大な影響を与えている。 どういうことか。 日本の医療制度において、 ある一定の地域に、 十分な病床数が確保されている場合、 新規に医療業者が参入しようとするとき、 保険適用が受けられず、 自由診療で開業せざるを得ない、 という現実が、 行政指導によって正当化されている。 これは明らかに 既存の病院の権益を守り、 新規参入者を 不当に排除している。 問題はこれに留まらない。 特に精神医療において、 1950年代にフランスで 画期的な抗精神病薬が開発され、 欧米先進国では 病床数が減っていったにも関わらず、 日本では逆に病床数が増えた。 これは、 戦後、精神病患者を建前上 しっかり治療しようとの方針から、 精神病院の数が増えたからである。 そこで、戦後、精神病院が増設される際、 一定の範囲で病床数を確保してしまえば、 地域の患者を独占できてしまう、 という経済的合理性によって、 精神病院が往々にして 大規模化したことが推測される。 言わずもがな、これは行政指導によって、 いったん多くの病床数を確保してしまえば、 新規参入者を排除できることが、 精神病院の大規模化を促したと 容易に考えられる。 そして、元厚生労働大臣が、 戦後日本の医療制度を構築した 武見太郎の息子である武見敬三である現実では、 これが改められる可能性は極めて低い。
キリスト教哲学の歴史@八戸サテライト レポート (再掲)
アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。
カント「実践理性批判」を読む@大宮 レポート (再掲)
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を題材に、人間の行為における善とはなにか、を考察する。 芥川龍之介は、自殺の時点で枕元に聖書を置いていたことが知られており、 キリスト教への関心があったことは疑いない。 その上で、 「蜘蛛の糸」を読み解くとき、 天上から地獄へと 救いの糸を垂らすのは 釈尊であるという設定であるが、 ここでは キリスト教的神であると置き換えたい。 そのほうが構図が簡潔になるからである。 なぜなら、 カント哲学においては、人間は神に対して アクセスできないが、 神は人間に対してアクセス できると考えられているからである。 これを前提とした上で、 人間の倫理がいかに成り立ちうるかを 考えたとき、 2つの考え方が可能である。 1つ目は、神の意志や行為は人間には 計り知れないのだから、 人間がどんな行いをしても 神はそれを赦しもするし裁きもする、という 発想である。 2つ目は、やはりそうは言っても、 人間と神とは完全に切り離された存在ではなく、 人間は神の意志や、その行為の意味を 感じたり考えたりすることが 可能である、という 発想である。 カント哲学においては、 人間の悟性では神の行為や意志を 計り知ることはできないが、 また神の存在を否定することも 不可能である、と 捉えていた。 しかし、これは 神がすべての事象を意のままに決定しうる、 という可能性を含意しており、 ある種の決定論に陥ってしまう。 デービッド・ヒュームの懐疑論は、 因果律を否定することにより、 この決定論に風穴を開けた。 ここでカント哲学は新たな可能性に開かれる。 なぜなら、 すべてが神によって決定されているわけではない以上、 人間が自らの悟性によって 自らの倫理を考える、という 「自由」を 手に入れたからである。 そのうえで、あらためて 「蜘蛛の糸」を 考察してみよう。 神はカンダタに対して 救いの可能性を示したが、 カンダタは 自分の利得のために 他人を犠牲にしたことによって、 神から見放される。 つまり、神から人間には 救いの可能性という点で アクセスが可能なのだが、 人間(カンダタ)から 神に対しては 自らの救いの可能性を選択する余地がないのである。 それはなにゆえなのだろうか? カンダタが善なる行いを しなかったからだろうか? しかし、それでは 人間にとって 善とは何かを、人間(カンダタ)が 選択する余地はなく、 すべて神が決定していると 読めてしまう。 これが果たして人間にとって 「自由」といえるだろうか? カンダタは、自分の救済の可能性のためには、 他人を犠牲にせざるを得なかったのである。 言い換えれば、自らの生命のためには そうする他なかったのである。 ここから導き出されることは、 人間は「善き生」のためには、 みずからの生命さえも 犠牲にしなかればならない、という アリストテレス的な「善」の考え方であると考えられる。
ビジネスと経済学@茨城大学 (再掲)
小山台高校の生徒が、シンドラー社製のエレベーターに挟まれて死亡した事件があったけど、あれは、マンションの管理組合がメンテナンス代をケチって、他の業者に委託したのが発端らしい。 あんまり詳しく書くと、面倒なことになりそうだから、これくらいにしとくけど、シンドラー社製のエレベーターに欠陥があったというより、エレベーター本体の価格は低く抑えて、メンテナンス代で儲ける仕組みが災いしたのかも。 本体価格を低く抑えて、付属品などで儲ける商品の典型が、プリンター。 プリンター本体の価格は低く抑えて、インク代で儲けてる。 しかし、ここにもシンドラー社製エレベーターと同じ構造があって、高いインク代に目をつけて、第三者企業が代替インクを低価格で販売し始めて、それに対してプリンター会社が対抗策を講じたりとか。 とにかく、二日間で面白い話がたくさん聞けました。
アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)
自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。
ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 レジュメより (再掲)
問い:幸福とは何か。
ソクラテスは誰でも、これは、自分で人生を「設計してゆく」という発想と結びつくことである。
したがって、<配慮するもの>をもち、配慮を重ねてそのつど考え、行動する自分の人生設計者としての「一人称特権」のようなものは、幸福を問題にするとき、なおざりにできない。
たとえあることが自分のためであっても、それを押し付けられたのでは「自分の人生」ではなくなる。
ソクラテスは、このような一人称の問題があることに反して精神や徳に気を遣えといっているのではなく、
この問題があるからそれに沿うように「気を遣うもの」を考えさせようとした、
その場合、精神的なものや徳に気を遣うことは、あなたにとって納得できる方向になるはずだ、という語りかけをしている。
☆人生を「まじめに」考えること
1.幸福の中身は「一人一人の問題」であり、他人に勧告されるには及ばない。
しかし幸福というものにまつわる「構造」や「形式」の問題は、単に「その人の問題」であるのではない。
われわれの「人生の夢」の見方は、お互いに、似ている。
構造や夢の見方を「知る」ことは、自分の「一人称」としての資格や個人の強さを上昇させてくれそうに思える。
2.問題なのは、人が「分かりやすい資格として」もしくは何らか「世間的に」上昇するということではない。
たとえば、社長になるとか出世するとか大学教員になるとか有名人になるとか金持ちになるとかではない。
実質的に自分の人生に対してよい位置を占めるようになることである。
したがって、ほんとうに行動が「自分のもの」として首尾一貫して統御されていること、
ほんとうの気持ち・実感から発想したことが
同時に知性の表現にもなっていることが目標になる。
3.ソクラテスはここで、「知性」にふさわしい課題がじつは数多くあり、
それを追求しながら生きてゆくことが幸福につながる、と語りかける。
われわれの生活は、目的・手段の関係を持つ多くの行為からできている。
お金儲けや名声・地位等のためのことは、
お金・名声・地位・容姿等で何をするかという、
「次の問い」を予想する。
ここから、人間らしい生活は、「その先」を考えるところまでいかなければ
成就しない、という結論を導くことができる。
4.この「その先」は、一人一人が考えながらでなければ、結論は得られない。
ここが、ソクラテスの「幸福にする」ことの(ある意味で)厳しい意味内容である。
かれがその先のことを本人に代わって教えるのでは、何にもならない。
これは、あくまで自分でやっていくという話なのである。
5.また、知性にふさわしい課題を追求することは、それ専用の「研究室」や「教室」のようなところで
行いうるものとは考えられていない。
実人生で問題にぶつかりながら、人生自体が形を変えてゆく。
2025年1月4日土曜日
近代日本の炭鉱夫と国策@茨城大学 レポート (再掲)
茨城大学強いわ。ここんとこ毎学期茨城大学行ってるけど、今回もめちゃくちゃ面白かった。面白いという言葉では言い表せない。アタマをバットで殴られるくらいの衝撃を感じた。 石炭産業を語らずに近代日本の経済発展は語れないと言って間違いない。 にもかかわらず、おおっぴらに語られることはほとんどない。 あたかも繊維産業が花形で日本経済の繁栄をほとんどすべて牽引したかのように語られている。 裏を返せば、それほどまでに、石炭産業を語るということは、現在に至るまで日本の暗部を映し出すことになるのかも知れない。 (以下レポート) 今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。 ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。 日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。 しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考えると、グローバリゼーションに対応しながら国民的自己決定を達成するには、国をまさに富国強兵のスローガンの下で一致団結させる必要があり、そこでは多様な民意というものを反映することは困難であり、したがって表現の自由が抑圧され、民主主義は達成できない、と考えられます。 戦前の日本に照らして考えると、前近代の村社会が国家組織の末端に組み入れられ、その中で炭鉱夫が生きるための最後の手段として究極のブラック職業として見なされていたこと、それでも西欧へ肩を並べなければならない、という官民一体の国家的意識のなかで、脅迫的に近代化へ歩みを進めざるを得なかった状況では、社会の底辺としての炭鉱夫には、およそ政治参加、すなわち民主主義の恩恵に浴することは出来なかった。それはとりもなおさず炭鉱業というものが本来的に暴力的であり、同時に「国策」としての帝国主義的性格を多分に内包していたことと平仄を合わせています。 中国のウイグル人の抑圧と戦前日本の坑夫を重ねて考えると、そのような構図が透けて見えてきます。
「グローバル経済史」質問と回答 (再掲)
質問:イギリス産の石炭は、近くに大きな市場が存在していたのでしょうか?と、言いますのは石炭は酸化しやすいために、良質な石炭であっても、市場が近くに存在し、かつ大きな需要がないと、不利だと思われるからです。むしろ、石炭を輸出するよりも、自国の蒸気船の燃料として使用していたのでしょうか?よろしくお願いいたします。 回答:「イギリス産の石炭は、近くに大きな市場が存在していたのでしょうか?」というご質問ですが、端的に答えますと、おっしゃる通りです。イギリス炭の大部分はイギリス国内で消費されていました。イギリス国内の工場や機関車など、蒸気機関を回すためにイギリス炭が使用されていたのです。一部が海外に輸出されており、さらにその一部が世界各地の港で蒸気船用にストックされていたにすぎません。 なお、イギリス炭の輸出割合については以下の学術論文をご参考ください。 https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202911690368 「機関リポジトリ」をクイックし、次の関西大学の画面から当該論文のPDFが入手できます。そして、この論文の表1に輸出割合が示されております。 島田竜登
「近現代ヨーロッパの歴史」質問と回答 (再掲)
質問:いわゆる人権宣言のなかで、経済活動の自由化とともに、ギルドなどの中間団体(社団)の廃止の改革が矢継ぎ早に実施された、とあるのですが、これは、当時のイギリスに対抗する措置として捉えればよろしいのでしょうか?ギルドというのは、それほどまでに、当時、非効率・閉鎖的で、かつ政治権力も有していたということでしょか?それをイギリスに対抗すべく、近代的な大量生産体制へと変貌させようという意図があったと考えてよろしいのでしょうか? 回答:フランス革命中の1791年3月に制定されたアラルド法により同業組合が禁止され、同年6月のル=シャプリエ法により組合組織の結成やストライキが禁止されました。これらの法令は、個人間の自由な契約のみが社会の基礎であり、個人の自由を束縛する社団は廃止されるべきであるという考え方に基づくものです。その意味で、社団(中間団体)の廃止は、貴族制の廃止(身分制の廃止)と同列のものでした(山崎耕一『フランス革命』刀水書房、2018年、92~93頁参照)。したがって、これらの法令はイギリスに対する対抗というよりは、フランス革命の理念そのものに基づくものであったと考えた方がよいでしょう。また、革命直前のギルドが閉鎖的で非効率なものとなっていたことはあるとしても、それほど大きな政治権力をもっていたとは言えません。さらに、ギルドの廃止によって「近代的な大量生産体制に変貌」させるという意図があったとは言えないでしょう。
まぼろしー
石丸伸二さんとか
斎藤元彦さんて、
地方自治体の
首長だから
務まるけど、
正直
国会議員になって
果ては
総理大臣ってのは、
無理だと思う。
石丸さんとか斎藤さんが
斬新に映るのは、
地方自治体の
首長という、
意思決定プロセスの構造としては
内閣総理大臣よりも
遥かに
権限が強いから、
議会議員の’既得権’を
暴露して
モロ
対決姿勢とって、それに
キモチヨサを
覚える人たちから
拍手喝采浴びるけど、
国会議員て、
基本
選挙区で言うことと
いざ
当選して
国会で主張することって、
どうしても
違ってくる。
つまり、あんまり
カッコつけられない。
でも、
これは
国会議員という
政治アクターの宿命だから、
それを
ダブルスタンダードとか言うのは、
子ども染みてる。
つまり、
石丸さんや斎藤元彦さんみたいに
地方の
首長として
議会と対決して
カッコよく見せる手法は、
国政では
ムリ。
意思決定のプロセス自体が
そういう
構造になってない。
内閣ってのは
合議体だから、
単純に
内閣総理大臣てだけで
なんでもかんでも
キレイに
決められない。
そういう意味では、
地方公共団体の首長みたいに
カッコよく
なれない。
それが
わかんない人が、
石丸さんや斎藤元彦さんだったら
日本を変えられる、と
勘違いする。
繰り返すが、
日本の国政レベルの意思決定の
構造は、そんなに
カッコつけられるような
建て付けになってない。
言い換えれば、
内閣総理大臣というのは
そんなに
独断で決められない。
内閣はあくまで
合議体だから。
そこが
国政の難しさ。
ただし、2024年の
12月に
日経新聞の
「私の履歴書」に
寄稿してた
ジェラルド・カーティス
米コロンビア大学名誉教授
によれば、
選挙制度が
小選挙区制度になったせいで、
小泉さんや安倍さんみたいな
タイプの政治家が
首相になれば、
強い
権限を持てる、とも
書いていた。
実際、小泉元首相は
カーティス氏と
会食する際、
小選挙区制度という
選挙システムは
首相には最高だが
ヒラの議員には最悪だ、と
たびたび
口にしていたそうだ。
・・・つまり、何が言いたいかっていうと、
政治的メシアニズムは
ヤバいだけだから
やめとけ、ってこと。
国レベルの政治に
そんなに
夢を見るべきではない。
それは
歴史を勉強すれば
わかる。
・・・なんだかんだ
垣見先生の
行政法と、
山岡龍一先生の
政治学入門の
内容を
我ながら
ちゃんと
理解して
活用できてるな。
政治学入門は
単位来るか
わからないけど、
授業の内容自体は
すげえ
身になってる。
あの
三島での2日間の
面接授業は、正直
山岡先生の
愛だと思う。
もちろん、
垣見先生の
行政法も
素晴らしかったが。
政治を見る目が
身についた。
2025年1月3日金曜日
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たぶん
思うに、 俺は 調子に乗っていたんだ。 折に触れて あの 政治学入門@三島の レポートは やっぱり ああいう内容に なるのが 必然だ、とは 思うが、 しかし、 俺は この世の中の 政治・経済を すべて 語ろうとした、あるいは 語った気になってい...
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