2025年1月18日土曜日
メシハラ
昔
東京ヤクルトスワローズに
飯原(イイハラ)という選手がいて、
たまたま
神宮球場のバックネット裏で
観戦したことがあるんだが、
飯原選手が
バッターで、
強振したときに、
バックネット裏の
観客席まで
ブンッ!って
スイング音が聞こえたね。
あれはすげえと思った。
超失礼だけど、ああ、
飯原ですら
強振したら
バックネット裏までスイング音が
聞こえるほどのスイングしてんのか。
プロってすげえな、と
思ったよ。
そんな凄い勢いでバット振って、
ボールに当てるわけだからね。
超すごくない?
自分
小学生のときに
少年野球やってて、
下手くそだったから
なおさらわかる。
普通どんなに頑張っても
バット振って音なんか出ないよ。
それが
飯原選手レベルでも
本気でバット振ったら、
10メートルぐらい
離れてても
スイング音が聞こえるってのはね。
すげえよ。
やっぱ
プロってのはすげえわ。
2025年1月17日金曜日
バラッサ・サムエルソン仮説 (再掲)
消費バスケットを構成する貿易可能財では、国際貿易を通じた裁定取引により国際的な一物一価が生じる一方、サービスなどの非貿易可能財では国際的な裁定取引が行われない。日本での非貿易可能財価格は国内の生産投入費用、特に実質賃金により決定される。 貿易可能財産業で高い労働生産性の伸び率を達成した高所得国は、その高い労働の限界生産性から国内実質賃金がすべての国内産業で高い。高所得国の非貿易可能財価格は低所得国より高くなり、同所得国の実質為替レートは増価する。 日経新聞「経済教室」2022/1/26 より https://imidas.jp/genre/detail/A-109-0085.html
https://jp.reuters.com/article/column-kazuo-momma-idJPKBN2FB0CH
不胎化されたレポートその4 (再掲)
第4節:日本の<近代化>の歴史的起源にあるのは、ロシアの脅威である。また、ロシアのいわゆる南下政策とその失敗は、ヨーロッパ大陸の情勢にも大きな影響を与えた。ここでは、日本の<近代化>を考察する上で、ロシアと日本の連関を念頭に置きながら、一旦歴史の流れに目を向ける。ロシアの南下政策の挫折と、その後の東方進出は、日本に対する脅威として現れた。クリミア戦争(1853年-1856年)とそれに続く露土戦争(1877年-1878年)など一連の出来事を教訓として、ロシアは不凍港を求めて東アジアへの進出を志向し、清朝といくつかの条約を結びながら、国境を確定させ、ユーラシア大陸を東へと進んだ。 太平天国の乱(1850年-1864年)で、列強が撤退した後もロシアは軍隊を駐留させたために、列強の警戒心を惹起するとともに、日本との緊張関係が生まれた。さらには、東清鉄道敷設権の権益を巡り、中国東北部の利権を狙う日本との緊張関係が深化した。 1894年に日清戦争が勃発し、日本が勝利すると、日本は朝鮮半島と台湾を獲得した。この結果、ロシアと日本は朝鮮半島と中国東北部で直接対峙するようになった。 インドを植民地とするイギリスはロシアの南下政策に脅威を感じ、1902年に日英同盟を締結する。この同盟は、ロシアの東アジア進出を牽制する狙いがあった。 1904年、日露戦争が勃発し、日本が勝利すると、ロシアは一時的に東アジアでのプレゼンスを低下させた。しかし、ロシアが革命によりソビエトを結成すると、日本は機会主義的な対ソビエト干渉を続け、中国東北部への進出を深めた。 1920年、尼港事件が発生し、日本とソビエト軍が衝突した。また、1925年には、大陸への野心からシベリア出兵を実施し、中国東北部への進出を図った。大正期における日本の大陸進出の動きは、ソ連の革命政権に対する機会主義的な野心の現れであったと言えよう。 一方、ヨーロッパ大陸では、ロシアの野心とドイツの野望との衝突で、バルカン半島での汎ゲルマン主義と汎スラブ主義の対立が深刻化し、三国協商と三国同盟の対立が先鋭化し、第一次世界大戦に発展した。1918年に戦争が終結すると、戦勝国はオスマン帝国を分割し、その領土を占領した。この結果、中東情勢は混乱し、現在に至る複雑な状況の遠因となった。 三国協商側に立って第一次世界大戦に参戦した日本は、中国大陸での利権を更に拡張させることを試みたが、欧米列強の警戒心を引き起こした。 1920年代には、日本と欧米列強との国際協調関係が成立したが、日本での金融恐慌の頻発や世界的な金融恐慌が引き金となり、日本が満州国を巡って国連を脱退するなど、アジア大陸への野心を顕にすると、国際協調体制は崩壊した。 スターリン指導による一党独裁体制が確立したソ連はアジア大陸で日本との緊張関係を加速させた。 以上のように、ロシアと日本は、南下政策と東方進出を巡って、19世紀末から20世紀前半にかけて、激しい対立を繰り広げた。この対立は、両国の軍事力増強や軍拡競争を招き、最終的には第二次世界大戦へとつながる大きな要因となった。
近世ロシア史がご専門の、明治大学豊川先生からお返事をいただきました。
放送大学で勉強を続けておられるとのこと、とても立派だと思います。そして、今回、レポートをお送りいただきありがとうございました。
ご自身の考えをまとめて、こういう形にするのはとても良いことだと思います。これからは、さまざまな人の考えに接して、さらに考えを伸ばしてみてはいかがでしょうか。少し専門的な次のような本を読んでみるのをお勧めします。
・麻田雅文『日露近代史』講談社現代新書、2018年
・原暉之『シベリア出兵』筑摩書房、1989年
・和田春樹『日露戦争』(上・下)岩波書店、2009・2010年
いずれもその道の専門家で、読み応えのある本です。
どうぞこれからの勉強、頑張ってください。
豊川
不胎化されたレポートその3 (再掲)
第3節:芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を題材に、人間の行為における善とはなにか、をキリスト教哲学とカントの対比から考察する。 芥川龍之介は、自殺の時点で枕元に聖書を置いていたことが知られており、 キリスト教への関心があったことは疑いない。 その上で、 「蜘蛛の糸」を読み解くとき、 天上から地獄へと 救いの糸を垂らすのは 釈尊であるという設定であるが、 ここでは キリスト教的神であると置き換えたい。 そのほうが構図が簡潔になるからである。 なぜなら、 カント哲学においては、人間は神に対して アクセスできないが、 神は人間に対してアクセス できると考えられているからである。 これを前提とした上で、 人間の倫理がいかに成り立ちうるかを 考えたとき、 2つの考え方が可能である。 1つ目は、神の意志や行為は人間には 計り知れないのだから、 人間がどんな行いをしても 神はそれを赦しもするし裁きもする、という 発想である。 2つ目は、やはりそうは言っても、 人間と神とは完全に切り離された存在ではなく、 人間は神の意志や、その行為の意味を 感じたり考えたりすることが 可能である、という 発想である。 カント哲学においては、 人間の悟性では神の行為や意志を 計り知ることはできないが、 また神の存在を否定することも 不可能である、と 捉えていた。 しかし、これは 神がすべての事象を意のままに決定しうる、 という可能性を含意しており、 ある種の決定論に陥ってしまう。 デービッド・ヒュームの懐疑論は、 因果律を否定することにより、 この決定論に風穴を開けた。 ここでカント哲学は新たな可能性に開かれる。 なぜなら、 すべてが神によって決定されているわけではない以上、 人間が自らの悟性によって 自らの倫理を考える、という 「自由」を 手に入れたからである。 そのうえで、あらためて 「蜘蛛の糸」を 考察してみよう。 神はカンダタに対して 救いの可能性を示したが、 カンダタは 自分の利得のために 他人を犠牲にしたことによって、 神から見放される。 つまり、神から人間には 救いの可能性という点で アクセスが可能なのだが、 人間(カンダタ)から 神に対しては 自らの救いの可能性を選択する余地がないのである。 それはなにゆえなのだろうか? カンダタが善なる行いを しなかったからだろうか? しかし、それでは 人間にとって 善とは何かを、人間(カンダタ)が 選択する余地はなく、 すべて神が決定していると 読めてしまう。 これが果たして人間にとって 「自由」といえるだろうか? カンダタは、自分の救済の可能性のためには、 他人を犠牲にせざるを得なかったのである。 言い換えれば、自らの生命のためには そうする他なかったのである。 ここから導き出されることは、 人間は「善き生」のためには、 みずからの生命さえも 犠牲にしなかればならない、という アリストテレス的な「善」の考え方であると考えられる。アリストテレス的善の考え方は後にまた取り上げる。
不胎化されたレポートその2 (再掲)
第2節:カントは、言わずもがな18世紀の啓蒙思想家である。彼は、自然界に法則が存在するのと同様に、人間にとっても道徳法則があるはずだ、と考えた。その内容を極めて簡潔に述べると、人が何か行いをしようとするとき、他の全員が自分と同じ行動を取ったとして、仮にそれを受け入れられる、あるいはそういう社会を容認出来るならば、その行為を行ってもいいが、そうでなければ、その行為を行うべきではない、というものである。また、彼は、仮言命法の危険性も指摘している。仮言命法とは、例えば「美味しいプレッツェルを食べたければ、南ドイツに行け。」といった、現代の日本に住む我々が常識的に行っている思考回路である。これの何が問題なのだろうか?しかし、この一見無害な発想には、人間の自由を奪う危険性が潜んでいる。例えば、昨今は理系偏重の風潮があり、就職のことも考えて、なるべく理系の大学、学部を選ぶ傾向が受験生やその保護者に見て取れる。この一見ありがちな行動はしかし、連鎖する。将来不安、就職への不安から、理系の大学、学部を選好するようになると、その方面の進学に強い高校、ひいては中学を選ぶ、ということになり、特に首都圏では、そのような中学に合格するために、小学生のうちから塾通いを始める、という結果になりうる。果たして、これが自由な生き方と言えるだろうか?これは、まさに仮言命法の発想が、いかに現代日本人を不自由にしているか、ということを示している。また、私達は、基本的に何かに縛られて、言い方を変えれば「依存して」生きている。例えば、組織、カネ、家族、地位、恋人など、挙げればキリがない。そして、これらの存在を守ることが当然であり、むしろそうすることが義務であるかのような社会通念が存在する。もちろんこれらをすべて否定するつもりはない。しかし、往々にして、これらの存在への「依存」は、やはり我々を不自由にする。こう考えると、現代日本に暮らす我々が、いかに窮屈な存在であるか、ということが見て取れる。カントの発想は、人間にも道徳法則があり、各人は自身の道徳的行いを「自ら考え、自ら選択する」ことが出来ると考えた。これは極めて強力な自由論である。この意味において、カントの道徳哲学の発想は、我々が自由に生きるとはどういうことか、を考える時、非常に強力な武器となる。また、トマス・ホッブズが予言したように、現代の資本主義社会において、人は疑似殺し合いを演じている。つまり、絶えず他人を先んじよう、出し抜こう、という脅迫観念に囚われている。そのような社会において、カントの、自らの道徳的行いを自ら考えて決断していい、という自由論は、極めて強力な理論である。
政治学へのいざない (再掲)
問われるべき問題は いかにしたら、 このようにして発達した、 所有権のような 個人の権利の意識が、 社会全体への奉仕と 一体になることで、 より 理性的で 自由な意識へと 陶冶されるかだ、 とヘーゲルは考えた。 そして、 権利と義務が衝突せず、 私的な利益と 公的な利益が 一致するような 人間共同体が形成されるならば、 その共同体のメンバーの幸福を みずからの幸福と感じ、 法や制度に従うことは 自己の欲望の否定ではなく、 自己の 理性的な本性の肯定であると 考えるような市民が 生まれると主張したのである。 国家こそ、 このような倫理的共同体における 最高次のものだと ヘーゲルは考えた。 (放送大学「政治学へのいざない」211頁より)
教養のヘーゲル (再掲)
ヘーゲルが、国家と
(市民)社会とを
区別して捉えたことが、
国家論の歴史において
画期的な意味を持つことである
ということは
すでに指摘した通りである。
その
国家と社会の分離の理由として、
ヘーゲルは、
市民社会には、
国家のはたすような
真の普遍を支える
能力がないから
ということをあげる。
そこで、
市民社会の
私的利害に対応する
だけのものである
「契約」
という概念によって、
国家の成立原理を説明する
「社会契約説」
に
厳しい批判を
浴びせることともなった。
しかし、
それだけではないはずである。
というのも、
国家と市民社会の
分離の把握
ということは、
市民社会が、
相対的にではあっても
国家から独立した
存在であることの
指摘でも
あるはずだからである。
近代国家においては、
プラトンが掲げた
理想国家におけるのとは異なって、
国家が
個人の職業選択に
干渉したりはしないし、
その他の
個人の私生活に
干渉したりはしない。
同様に、
国家が
市場原理を
廃絶あるいは抑圧するような
こともない。
そのように、
市民社会が
自分独自の原則に
したがって存在し、
機能していることが
尊重されている
ということが、
近代における
個人の解放という
観点から見て、
重要なことである
はずなのである。
それは、
ヘーゲル流の表現にしたがうならば、
一方では、
近代国家なり、近代社会なりが
「客観的必然性」
によって
構成された
体制であったとしても、
他方では、
個人の
恣意や偶然を
媒介として
成り立つにいたった
体制だからだ
ということになる。
(p.103)
(中略)
近代国家の原理は、
主観性の原理が
みずからを
人格的特殊性の自立的極に
まで
完成することを
許すと同時に、
この
主観性の原理を
実体的統一につれ戻し、
こうして
主観性の原理
そのもののうちに
この統一を
保持するという
驚嘆すべき
強さと深さを
もつのである。
【260節】
(中略)
国家が、
有機体として
高度に
分節化されるとともに、
組織化されているが
ゆえに、
個人の選択意志による
決定と行為が
保障される。
個人は、
基本的には
自分勝手に
自分の人生の方向を決め、
自分の
利害関心にしたがって
活動することが許されている。
にもかかわらず、
このシステムのなかで
「実体的統一」
へと連れ戻される。
それは
強制によるものとは
異なったものであり、
あくまで
個人は
自己決定の自由を認められて、
恣意にしたがっている
にもかかわらず、
知らず知らずのうちに
組織の原理に
したがってしまう
という
形を取るのである。
また、
個人の
自律的活動あればこそ、
社会組織の方も
活性化され、
システムとして
満足に機能しうる。
こうして、
有機的組織化と
個人の自由意志とは
相反するものであるどころか、
相互に
補い合うものとされている。
それが、
近代国家というものだと
いうのである。
(p.104)
「教養のヘーゲル」佐藤康邦 三元社
神なき時代の連帯? 森鴎外「かのように」を巡って 山岡龍一先生からのご回答 (再掲)
一つの簡単な答えは、 ヘーゲル的な意味での 統治は 不可能だ ということです。 その代替案は 複数ありえますし、 フーコーは その一つでしょう (ただし、「知と権力」の 共犯関係が いかなる統治を 具体化するのかは、 わたしには 理解しがたい 難しさが あるように思えます)。 最も わかりやすい代替案が 新自由主義の統治だといえます。 もしも これを拒絶するとすれば、 問題は、 何らかの形での ヘーゲル的な統治への回帰か、 神無き時代の連帯の 可能性の追求となります。 現代の リベラルな政治理論は だいたい 後者のさまざまな バリエーションですが、 密かに 神が導入されている 可能性があるのものが多いので、 フーコーのような議論が 流行るのだと思われます。 鴎外については、 わたしにはコメントする能力はありません。 ただ、 そのような苦悩があるとすれば、 それは鴎外が いかにヨーロッパ(ドイツ)文明に 拘束されていたのかを 示す ことになるでしょう。 ただし、 そのような苦悩を まったく抱かない (ないしは、 そのような苦悩の可能性に思い至らない) 日本人よりは、 はるかにましな 精神性をもっていると思いますが。 明治日本は、 ある意味では、 神無しで ヘーゲル的な全体性を 国家は維持できるのか、 という問いを いち早く 突きつけられていた ともいえます。 この問いへの回答の一つは、 現在でも、 「新たな神の創造」ですが、 そのような回答が、 必然的に 政治的に 悲惨なものになることは、 我々が 歴史から学んだことだといえます。 キリスト教文化圏では、 たとえ 神が死んだ時代でも、 この危険性が よく知られていますが、 はたして日本ではどうでしょうか。 考えてみてください。
文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答 (再掲)
質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。 フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。 「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家を孤立させ絶望においやっている現状が鋭く指摘されています。その他の時事的な文章・発言においても、ヨーロッパにおけるグローバリズムと言うべきEU経済戦略のもたらすひずみと地場産業の危機は、ウエルベックにとって一つの固定観念とさえ言えるほど、しばしば繰り返されています。 つまり、ウエルベックは「グローバリゼーション」が伝統的な経済・産業活動にもたらすネガティヴな影響にきわめて敏感であり、そこにもまた「闘争領域の拡大」(ご存じのとおり、これはそもそも、現代的な個人社会における性的機会の不平等化をさす言葉だったわけですが)の脅威を見出していると言っていいでしょう。なお、「セロトニン」で描かれる、追いつめられたフランスの伝統的農業経営者たちの反乱、蜂起が「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言・予告するものだと評判になったことを、付記しておきます。 以上、ご質問に感謝しつつ、ご参考までお答え申し上げます。
近代日本経済史@北九州サテライト レポート (再掲)
確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。
2025年1月16日木曜日
手に負えない
3年くらい前に、
姉から
睨みつけられながら、
「お前は
月80万円
使ってるんだ!」
と
言われたことがあるが、
使ってるわけねーだろーが!!!!!
どっから
その数字が出てきたんだ?!
そもそも
俺と母親の生活費を管理してんのは
てめーだろーが!
ということが
あったんだが、
どういうこと?
と
思ったら、
あ、そうか
この
おバカさんは
俺が
障害年金を年80万じゃなくて
月80万もらってると
勘違いしたのか?
と
思って、萎えた。
ほんと、このバカが。。。
てめーみてーなのが
身内にいるから
こっちの
頭がオカシクなるんだよ!
って
言ってやりたい。
日経新聞
昨日、一昨日の
日経新聞から
気になった記事を
切り抜いたけど、
なんかまあ、
いよいよ
日本の
政治も経済も、
もう
遊びは終わりだ、
という
段階に入った、という
感じがしてきたね。
まさに時代は
動いてるわ。
政治家も、
もちろん有権者も、
気を引き締めないと、
これからの
日本、世界の
奔流に流されてしまう。
ますます
勉強のモチベーションが
あがる。
都合のいい俗説 (再掲)
国債発行 イコール 通貨発行 という俗説が あるらしいが、 金融政策の 基本が 何も わかってないね。 国債を 発行して、 買ってくれる人が いるから、 (国債を買うのは 当然のことながら 中央銀行だけではない。) そのお金が 市中に 流れるんだけど。 これ、 (国債に限らず 債券全般に対する、 中央銀行による) 買いオペとか 売りオペとか 言われる 金融政策の 常識中の常識 だけど、 そんなことも 知らずに、 ただ 国債発行すれば 自動的に 貨幣供給量が 増えると 本気で 思ってる 人が いるみたいね。 (それに、 国債だって商品だから、 本来は政府の都合で 発行した 国債を、 相場を無視した 高値で 売れると思うのが そもそも 間違ってる。 むしろ、 日本の現状として、 日銀が 市場の相場を 無視した 高値で 国債を 買い続けてることが 本質的に問題なんだけどな。) なにで 経済学 学んだんだろう? それに、 貨幣供給量を 増やす イコール 国の資産が 増える ってのも そもそも 間違い。 国の富の 源泉は 付加価値、 すなわち GDPです。 これ、 学部レベルの 経済学で 最初に 学ぶことなんだけどな。 ほんと、 誰に 刷り込まれたんだろう? ついでに 書いとくと、 赤字国債を 発行すること自体が 法律違反なんだけど、 毎年 特例法案つくって 可決して 予算作ってる。 (ちなみに、 一昔前は その種の予算を 通す通さないが 政争の具に 使われたのが、 短命政権が続いた 原因だったらしい。) それが 常態化。 それを 国民の側が 嬉々として 受け入れてる 現状が 異常。 ついでに 書いとくと、 日銀が 国債買い続けないと 国債の価格が (異常な高値を 維持できずに) 暴落して 金利が 急騰して この国 吹っ飛びますけど、 さあ この ムリゲー どうします? ちなみに 安倍ちゃんは 日銀は政府の 子会社だから いくらでも 日銀に 国債 買い取らせればいい とか ほざいてましたけど。 もう 日銀による 国債の保有比率 6割 超えましたね。
黄色信号 (再掲)
円安が進んでますね。 イエレンさんが、投機的な動きがある、と発言していました。 つまり、投機筋が、 円売りを仕掛ている。 なぜ円売りを仕掛ているかというと、 自国通貨が売られて通貨安になれば、 常識的には、中央銀行は、利上げをして自国通貨高に誘導しようとする。 日本に当てはめると、 日銀がイールドカーブコントロールという、馬鹿げた政策によって、 中央銀行は本来、短期金利しかコントロールできないとされているのに、 長期国債を無制限に買い入れて、 無理やり長期金利を抑え込んでいる。 つまり、日本国債の価格が異常に高い。 (裏を返せば、日本国債の利回りが異常に低い。) 投機筋は、円を売れば、 日銀は過度な円安を修正するために、 政策金利を上げざるを得ないと読んでいる。 それだけでなく、投機筋は、 日本国債売りも同時に仕掛けています。 そうすると、日銀は、金利上昇抑制のために、日本国債買い入れを余儀なくされる。 そうすると、市場に円が供給されるので、 結果、円安がますます進行する、という悪循環に陥っています。 まあ、はっきり言って自業自得としか言いようがないですが、 政府・日銀は、 日本国債を買い入れつつ、外貨準備を使って円買い介入をする、という 矛盾したことやろうとしています。 なぜ矛盾しているかというと、 国際金融のトリレンマに従えば、 「資本移動の自由」 「為替の安定」 「金融政策の独立性」 の3つは、同時にすべてを達成することは出来ないからです。 資本移動の自由は犠牲にすることは出来ません。 従って、 為替の安定と金融政策の独立性のどちらかを犠牲にせざるを得ないわけですが、 金融政策の独立性を保持するとすれば、 外貨準備を使って為替介入しなければ、 自国通貨は安定しないのです。 日銀・政府は、 大規模金融緩和を継続する一方で、為替介入をする、という”矛盾した”政策を行っているわけです。 投機筋もこれは完全に計算のうえでやっていますが、 問題は、結局のところ 日銀がどこまで無謀な大規模金融緩和を続けるか、ということです。 大規模金融緩和を続ける限り、 日銀のバランスシートに日本国債がたまり続けるだけで、 金利は上がりませんから、 今までは一般人も痛みを感じなかったので、 非難の声が上がりませんでしたが、 円安が急速に進んで、消費者物価まで上昇し始めると、 消費者からも、なにやってんだ、という声があがり始めます。 アベノミクスの3本の矢のうち、 結局、大規模金融緩和だけが継続していますが、 安倍氏の死去に伴い、 日銀に対して、大規模金融緩和を継続させる 政治的プレッシャーが弱くなったことは事実でしょう。 日本の財政から言っても、 れいわ新選組が言ってるように、 国債をどんどん発行して、 日銀に買い取らせればいい、などという、 無責任なことをやっていると、 日銀の財務状況が悪化して、円の信用が毀損されたり、 そうでなくとも、日銀が、政府の借金である国債をいくらでも買い取ってくれるから、 いくら赤字国債を発行してもいい、という モラルハザードが現実に起こっています。 岸田首相はそこらへんの事情は当然わかっているはずです。 いずれにせよ、 日銀はこれ以上、 異常な大規模金融緩和を続けることによって、 イールドカーブコントロールという 国際金融の現状からすれば異常な金融政策を維持することは、 非現実的と認識していると思われますので、 少なくとも 金利の上昇幅の拡大をこっそり容認する、 ということは、 十分予想されるところです。 しかし、加藤出さんも言っているように、 イールドカーブコントロールから抜け出すことは、 大きな混乱を伴うと予想されるので、 それこそ 投機筋の外圧がなければ いつまでも続けていたところでしょうが、 幸か不幸か、現実的ではありませんでした。 さて、焦点は、 日銀がどこまで金利の上昇幅を容認するか、 そしてそのタイミングはいつか、 ということになりそうですが、 金利の上昇幅は実務家ではないので知りませんが、 タイミングとしては、そう遠くないのではないかと思われます。 これだけ急激な円安を鑑みると、 黒田総裁の任期満了まで 待てるとは思えません。 従って、 急に金利が上がる、ということは、 十分ありえる話です。 ・・・で、何が言いたいか、というと、 金利が上がって困るのは、 超低金利を前提として 変動金利で住宅ローンを組んでいる家計です。 銀行も馬鹿ではないので、 固定金利は既に段階的に引き上げています。 それは、変動金利が上昇すれば、 固定金利に借り換える人が増えると予想しているからと言って過言ではないでしょう。 ですので、 変動金利で住宅ローンを組んでいる人は、 専門家に相談するなりして、 対策を立てたほうが良いでしょう。 自分は専門家でもなんでもないので、 この文章の内容に責任は負えません。 https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/470422.html https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/466765.html
生活習慣病
父親みてると、
いくら
仕事の性質上
仕方ない
とはいえ、
あんまり
無節操に
飲み食いするもんじゃないな、と
嫌でも思わされるよね。
父親は
戦後すぐ
生まれだから、
もちろん当時は
食糧難で
困ったという事情は
あるにせよ、
バブル真っ盛りの頃に
銀座で
飲み食いしちゃった
人だからね。
もう、そうなると
感覚狂うのは
仕方ない。
人間、欲望は
ほどほどにしないと、
どんなに
カネと権力に
モノ言わせても、
最後は
悲惨な結末になるかも
知れない、という
キツイ
教訓を得た。
肺水腫
父親は最後
肺炎で亡くなったが、
医者が
肺の血管から水が漏れている、と
言っていたのを
思い出した。
Googleの生成AIに
聞いてみたら、
やはり
末期の糖尿病と高血圧を
併発していると、
最終的には
肺の血管までもが
傷んで、
水が滲み出してしまうそうだ。
それで
肺炎になるんだから、
よっぽど
苦しかっただろうね。
可哀想だとは思うが、
これも
現世の
罪滅ぼしなのかも知れない。
それだけ
苦しんだんだから、きっと
閻魔様も
斟酌してくれるよ。
2025年1月15日水曜日
びっくりしたわ。
ロサンゼルスの山火事で、
アメリカの
親トランプの
陰謀論者
インフルエンサーが、
グローバリストの
陰謀だ、と
ツイッターに投稿して、
イーロン・マスクが
そうだ
(True.)
と
投稿した、ということが
ニュースになっていた。
グローバリスト
(Globalist)
って、
イタイ日本人だけが
使ってるのかと思ってたけど、
アメリカ人でも
使うのが意外だった。
たぶん、
イーロン・マスクも、
投稿者のことを
内心では
「コイツは馬鹿だ。」
とでも
思っているんだろうが、
お墨付きを
与えれば、
ツイッターが盛り上がって
自分の
利益になるから、
敢えて
そういう
反応したんだろうね。
この一例だけを挙げても、
イーロン・マスクという人物が
どんな人間か
透けて見えてくる。
・・・すげえビックリしたわ。
上述のストーリーを、
機械翻訳にかけて、
イギリス人と、
親トランプのアメリカ人の
知人に送ったら、
さっそく
返信が来て
(もちろん英語で)、
てっきり
親トランプのアメリカ人が
噛みついて来たのかと思いきや、
イギリス人が
ツイッター擁護、BBC批判、反移民を
展開したから、
えー、イギリスでも
こんなんなってんの?
と
ビックリしたわ。
やっぱり、人間てのは
合理性だけじゃなくて、
情念で
生きる生き物なんだなーと
思ったわ。
2025年1月14日火曜日
峠
面接授業、
近代を扱った
ものだけを
厳選すると、
楽しそうではあるが、
ちょっと
物足りなさを
感じるし、
ちょっと
前から
気になってた
確率の
勉強でもするか、
単位は
いらねーから。
と、
思ったり。
なんだろうな、
なんだか
あまり
かつてほどの
情熱を
勉強に感じられなくなってきた。
それこそ
人生を賭ける、ぐらいの。
人生の峠を
越えるまでは、
ほんとに
キツかったけど、
越えてみたら、
案外
楽だったのかな。
とりあえず
今は
そんな感じ。
・・・変に
いまさら
理系に色気出すより、
本当に
情熱を傾けられるもの、
あるいは
本当に
面白そう、と
思えるものを
現実的な範囲で
厳選してみた。
・・・結局、
最初は抵抗があったが、
近代と
戦後社会とを
ミックスする方向で
落ち着いてきた。
・・・うん。
納得のいく
オーダーが組めた。
近代も
戦後社会も
ケンカしない。
新学期が楽しみだ。
アドルノはまだ生きている (再掲)
グローバリゼーションによって、
世界の富の大きさは拡大したが、
分配に著しい偏りが生じたことは、
論を俟たない。
日本においても、
新自由主義的な政策の結果、
正規、非正規の格差など、
目に見えて格差が生じている。
そのような中で、
経済的に恵まれない層は、
ワーキングプアとも言われる状況のなかで、
自らのアイデンティティーを
脅かされる環境に置かれている。
エーリッヒ・フロムの論考を
参考にして考えれば、
旧来の中間層が、
自分たちより下に見ていた
貧困層と同じ境遇に
置かれるのは屈辱であるし、
生活も苦しくなってくると、
ドイツの場合は、
プロテスタンティズムの
マゾ的心性が、
ナチズムのサディスティックな
プロパガンダとの親和性により、
まるで
サド=マゾ関係を結んだ結果、
強力な全体主義社会が生まれた。
日本ではどうだろうか?
過剰な同調圧力が
日本人の間には存在することは、
ほぼ共通認識だが、
それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、
そうでなければ、
社会から強要される
画一性への服従となって、
負のエネルギーが現れる。
そこで追究されるのが、
特に民族としての「本来性」という側面だ。
本来性という隠語は、
現代生活の疎外を否定する
というよりは
むしろ、
この疎外の
いっそう狡猾な現われに
ほかならないのである。
(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ)
グローバリゼーションが
後期資本主義における
物象化という側面を
持っているとすれば、
グローバリゼーションによる
均質化、画一化が進行するにつれ、
反動として
民族の本来性といった民族主義的、
右翼的、排外主義的な傾向が
現れるのは、
日本に限ったことではないのかもしれない。
むしろ、
アドルノの言明を素直に読めば、
資本主義が高度に発展して、
物象化が進み、
疎外が深刻になるほど、
本来性というものを
追求するのは不可避の傾向だ、
とさえ言える。
さらには、
資本主義社会が浸透し、
人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、
人々は、
自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、
理性を超えた領域に
求めるようになる。
社会全体が体系化され、
諸個人が事実上
その関数に
貶めれられるように
なればなるほど、
それだけ
人間そのものが
精神のおかげで創造的なものの属性である
絶対的支配なるものをともなった原理として
高められることに、
慰めを
もとめるようになるのである。
(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ
人間そのものが
精神のおかげで
創造的なものの属性である
絶対的支配なるものをともなった原理として
高められることに、
慰めを
もとめるようになるのである」
という言葉が
何を表しているか、
自分の考えでは、
「社会全体が体系化され、
諸個人が
事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、
(疑似)宗教のように、
この世の全体を
精神的な色彩で説明し、
現実生活では
一個の歯車でしかない自分が、
それとは
独立した
精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、
その
ヒエラルキーの階層を登っていくことに、
救いを感じるようになる、
という感じだろうか。
まるでオウム真理教のようだ。
腹が立つ
俺の知り合いで、
参政党支持者がいたんだが、
(もう縁切ったが。)
2つ
許せない点があった。
1つは、
俺が
ロジックで説明してんのに、
感情で
返してきたこと。
2つ目は、
反知性主義で
あらゆる
知的権威を否定したり、
人類の月面着陸のような
歴史的事実を疑うくせに、
参政党シンパの
京都大学の藤井聡が
こう言ってる、みたいに、
自分に
都合よく
学問的権威を利用したこと。
これは
許しがたい。
どんなに
俺の個人的なこと
を
悪しざまに言っても
構わないが、
議論したいなら、
最低限のマナーを守れ。
参政党の
オーガニック戦略に釣られたらしく、
すげえ
いい塩を舐めれば
病気が治るとか、
薬は石油から作られてるから
効くわけがないとか、
俺が
服用してる
向精神薬の名前を
教えてやったら、
こんな
薬を飲んでるから
余計
妄想がヒドくなるんだ、とか
言いたい放題
言ってた。
そのくせ、
参政党のセミナーで
得た
眉唾ものの知識、というか妄想を
振り回して、
一般人を
愚民扱いして、
学問的権威や、特に
医療関係者を
頭ガチガチだのなんだの
言って
否定してた。
ありゃ
宗教だね。
「危機の二十年」 E.H.カー 岩波文庫 より (再掲)
「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」 E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より
限界
どうやら自分は
近代を通して
現代に照らし返すってのは
出来るらしいんだが、
戦後社会の
日本や世界を
包括的に
把握するってのは、
出来ないらしい。
まったく知らないわけじゃないが。
もちろん、
来期
放送大学で
そういう面接授業の
組み方をしようと思えば
予算的にも
現実的な
範囲で組めるんだが、
俺の脳の限界を超えている。
まあ、そんなもんか。
生身の人間としての
限界としか
言い様がない。
仮に、
20年の集大成のレポートを、
山岡先生に
酷評されようが
賞賛されようが、
関係なくね。
2025年1月13日月曜日
「金融と社会」質問と回答その7 (再掲)
質問:インフレ目標政策についてうかがいます。 私の実感でも、物価が上がってきたなー、と感じます。 より正確には、 通貨(円)の価値が目減りした ということだと思われますが。 あまり国民の生活が苦しくなれば、 物価の安定という意味では、 金利をあげたほうがまだマシ、 と考える家計も 増えてくるのではないかと考えます。 そうすると、なるほどこれがフィッシャー効果か、 と思われるのですが、 確かに 実質金利がさがったことで 消費者の購買意欲が増したことで 景気の底割れを防ぎ、 政府の名目上の税収も 増えていると言われています。 しかし、かといって、 国も企業も家計も借金まみれの現状では、 今さら金利を上げられるのか、 甚だ疑わしいです。 なぜなら、 金利の上昇は、確かに通貨(円)の価値を 底上げする可能性はありますが、 上述のように 政府・企業・家計が借金まみれの状態では 金利の上昇は難しいことは無論、 長期金利の上昇は、 政府の借金の利払いを増嵩させるのみならず、 日本国債の価格を低下させるため、 発行済日本国債の6割を保有すると いわれる日銀の財務状況を、 著しく危殆にさらすものと考えられるからです。 果たして、 これが当初のインフレ目標政策の 目指していた姿なのか、 甚だ疑念を感じずにはいられません。 回答: 質問文に書かれていることは、私も理解できます。 インフレ目標政策が 2013年に導入を余儀なくされた時、 当時の白川総裁には その問題点がわかっていたと思います。 日銀が2000年に インフレ目標政策について調査したレポートを リンクしておきます。 http://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2000/data/ron0006a.pdf
時代
ヘルパーさんと
会話してると、
もちろん
金銭感覚を
教えてもらうってことも
あるんだが、
こっちも
何かしら
してあげられることもある。
ヘルパーさんに、
ガソリン高いですか?と
聞くと、
高いです、と
返ってきたりとか、
あるいは
逆に
俺が
水木しげるの
昭和史をテーマにした
学習マンガを
貸してあげたりすると、
自分(ヘルパーさん)が
同時代で
生きてきたのに、
全然知らないことばかり
だった、とか。
あるいは、最近、
コンビニで
買い物してると、なんか
異様に
高いな、と
感じるんだが、あ、そうか
値上げの波が
もう
来てるんだな、と
思ったり。
まあ、円安なんだな。
じゃあ
アメリカは安泰なのか、と
いえば、
確かに
全体として見れば
一人勝ちだが、
エリートばかりが
金持ちになって、
いわゆるラストベルトみたいに
取り残された人たちが
いるから、
その
不満を掬い上げる形で
トランプさんが
当選したわけだし、
ああ、
時代って
変わって行ってるんだなあ、と
つくづく
感じる。
だからこそ、勉強するのが
なお一層
楽しくなる。
日本も、いまや
安泰の時代ではなく、
荒波に揉まれていく時代に
突入したんだろう。
2025年1月12日日曜日
キリスト教哲学の歴史@八戸サテライト レポート (再掲)
アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。
カント「実践理性批判」を読む@大宮 レポート (再掲)
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を題材に、人間の行為における善とはなにか、を考察する。 芥川龍之介は、自殺の時点で枕元に聖書を置いていたことが知られており、 キリスト教への関心があったことは疑いない。 その上で、 「蜘蛛の糸」を読み解くとき、 天上から地獄へと 救いの糸を垂らすのは 釈尊であるという設定であるが、 ここでは キリスト教的神であると置き換えたい。 そのほうが構図が簡潔になるからである。 なぜなら、 カント哲学においては、人間は神に対して アクセスできないが、 神は人間に対してアクセス できると考えられているからである。 これを前提とした上で、 人間の倫理がいかに成り立ちうるかを 考えたとき、 2つの考え方が可能である。 1つ目は、神の意志や行為は人間には 計り知れないのだから、 人間がどんな行いをしても 神はそれを赦しもするし裁きもする、という 発想である。 2つ目は、やはりそうは言っても、 人間と神とは完全に切り離された存在ではなく、 人間は神の意志や、その行為の意味を 感じたり考えたりすることが 可能である、という 発想である。 カント哲学においては、 人間の悟性では神の行為や意志を 計り知ることはできないが、 また神の存在を否定することも 不可能である、と 捉えていた。 しかし、これは 神がすべての事象を意のままに決定しうる、 という可能性を含意しており、 ある種の決定論に陥ってしまう。 デービッド・ヒュームの懐疑論は、 因果律を否定することにより、 この決定論に風穴を開けた。 ここでカント哲学は新たな可能性に開かれる。 なぜなら、 すべてが神によって決定されているわけではない以上、 人間が自らの悟性によって 自らの倫理を考える、という 「自由」を 手に入れたからである。 そのうえで、あらためて 「蜘蛛の糸」を 考察してみよう。 神はカンダタに対して 救いの可能性を示したが、 カンダタは 自分の利得のために 他人を犠牲にしたことによって、 神から見放される。 つまり、神から人間には 救いの可能性という点で アクセスが可能なのだが、 人間(カンダタ)から 神に対しては 自らの救いの可能性を選択する余地がないのである。 それはなにゆえなのだろうか? カンダタが善なる行いを しなかったからだろうか? しかし、それでは 人間にとって 善とは何かを、人間(カンダタ)が 選択する余地はなく、 すべて神が決定していると 読めてしまう。 これが果たして人間にとって 「自由」といえるだろうか? カンダタは、自分の救済の可能性のためには、 他人を犠牲にせざるを得なかったのである。 言い換えれば、自らの生命のためには そうする他なかったのである。 ここから導き出されることは、 人間は「善き生」のためには、 みずからの生命さえも 犠牲にしなかればならない、という アリストテレス的な「善」の考え方であると考えられる。
明治資料館@沼津 (再掲)
せっかく 三島で面接授業なので、 お隣の 沼津の 明治資料館にも 行ってきました。 もっとデカい公園みたいに なっているのか、と 思いきや、 国道1号沿いに、 古い洋館が 建っていて、 言われなければ 絶対に わからない感じでした。 明治期の偉人、江原素六に ゆかりのある資料館らしく、 幕末から明治期にかけての 資料などが 展示されていて、楽しかったです。 (ちなみに、江原素六という人は、 東洋英和や麻布(←いわゆる「御三家」の麻布) の 創設者ということで、 知る人ぞ知る、といったところでしょうが、 世間的にはあまり 有名ではありません。 しかし、歴史的に有名になることと その人の 偉大さとは また 別次元。) ともかく、一応しつこく勉強してきた 時期の展示物などなので、 結構 気持ちよかったです。 これ、中年の特権なのかもだけど、 もう 脳のキャパとか年齢的な脳の構造の 問題かもだけど、 今さら 新しい分野の勉強を するってのは、無理がある。 むしろ、知ってる分野のことなら 脳が活性化して 気持ちよくなれるなら、 そんな 贅沢な話はないだろう。 自分は 結局 行政におんぶにだっこの 人間に なってしまったので、 あとは そうやって 生きていくのが、なんだかんだ ベターなんだろう。 民法のことも まったく知らないわけじゃないが、 勉強して どうこうというのも、 それは ちょっと 無理がある。 いずれにせよ、山岡先生という ラスボスに、 20年かけて こさえた 我が子同然のレポートを 提出したら、もう なんか 別に いいや、と いい具合に脱力しました。 ここまでやれば、 もう 文句は言えない。 あと、JR沼津駅の改札に、 サンマルクカフェかなにかが 併設されていて、 結構なお値段はするものの、 しっかり 濃くて、なにより 店内が ほどよく空いていて、かといって もちろん ガラガラでもなく、 ゆったりとした喫茶店のムードが 漂っていました。 東京の 利益至上主義の キツキツな感じとは無縁で、 ああ、これが 文化資本というものか、と 感心しました。 あと、 東海地方特有?の バス網とか。 モーニング喫茶といえば名古屋ですが、 沼津まで来ると その文化が 浸透しているのかな、と 思いました。 これ、「マツコの知らない世界」で 見た 情報ですが、あれ バカに出来ないね。 なかなかの 教養バラエティー番組だと 思うよ。 TBSは嫌いだけど、 バラエティーはたまに面白い。
「魔の山」 トーマス・マン 岩波文庫 下巻 末尾より (再掲)
さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり)
アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)
自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。
ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 レジュメより (再掲)
問い:幸福とは何か。
ソクラテスは誰でも、これは、自分で人生を「設計してゆく」という発想と結びつくことである。
したがって、<配慮するもの>をもち、配慮を重ねてそのつど考え、行動する自分の人生設計者としての「一人称特権」のようなものは、幸福を問題にするとき、なおざりにできない。
たとえあることが自分のためであっても、それを押し付けられたのでは「自分の人生」ではなくなる。
ソクラテスは、このような一人称の問題があることに反して精神や徳に気を遣えといっているのではなく、
この問題があるからそれに沿うように「気を遣うもの」を考えさせようとした、
その場合、精神的なものや徳に気を遣うことは、あなたにとって納得できる方向になるはずだ、という語りかけをしている。
☆人生を「まじめに」考えること
1.幸福の中身は「一人一人の問題」であり、他人に勧告されるには及ばない。
しかし幸福というものにまつわる「構造」や「形式」の問題は、単に「その人の問題」であるのではない。
われわれの「人生の夢」の見方は、お互いに、似ている。
構造や夢の見方を「知る」ことは、自分の「一人称」としての資格や個人の強さを上昇させてくれそうに思える。
2.問題なのは、人が「分かりやすい資格として」もしくは何らか「世間的に」上昇するということではない。
たとえば、社長になるとか出世するとか大学教員になるとか有名人になるとか金持ちになるとかではない。
実質的に自分の人生に対してよい位置を占めるようになることである。
したがって、ほんとうに行動が「自分のもの」として首尾一貫して統御されていること、
ほんとうの気持ち・実感から発想したことが
同時に知性の表現にもなっていることが目標になる。
3.ソクラテスはここで、「知性」にふさわしい課題がじつは数多くあり、
それを追求しながら生きてゆくことが幸福につながる、と語りかける。
われわれの生活は、目的・手段の関係を持つ多くの行為からできている。
お金儲けや名声・地位等のためのことは、
お金・名声・地位・容姿等で何をするかという、
「次の問い」を予想する。
ここから、人間らしい生活は、「その先」を考えるところまでいかなければ
成就しない、という結論を導くことができる。
4.この「その先」は、一人一人が考えながらでなければ、結論は得られない。
ここが、ソクラテスの「幸福にする」ことの(ある意味で)厳しい意味内容である。
かれがその先のことを本人に代わって教えるのでは、何にもならない。
これは、あくまで自分でやっていくという話なのである。
5.また、知性にふさわしい課題を追求することは、それ専用の「研究室」や「教室」のようなところで
行いうるものとは考えられていない。
実人生で問題にぶつかりながら、人生自体が形を変えてゆく。
ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 資料より (再掲)
私は、 自分のもともとの 性質が 「ここまで くらいは がんばろう」 と 課した限界の範囲で 自己研鑽に励む ときでさえ、 謝罪や後悔もなく、 自分の もともとの性質を 「与えられた 当たり前のもの」 として 受け入れており、 そのようなとき、 自分自身に対する 「自己愛」を 持っているのである。 私の 自我と 私とは、 一様に すべてのことを 共有しながら、 いっしょに 多くのことを くぐり抜けてきた。 私が彼 (=私の自我) を 支える限り、 彼が 私を 失望させることはなかった。 私は 彼を 叱ったこともあるが、 けっして 彼の本性を 呪うことはなかった。 彼には 間違いなく 欠点があるし、 ひどくそうなのだが、 その短所が あらわになるとき、 私はやさしく 寛大に ほほえむのである。 彼のへまは、 彼のような 性質をもつ だれからでも 人が予想するようなものである。 人は、 これほどまで きわめて 近しくしてきた 存在を 憎むようには なれない。 好むと好まざるとに かかわらず この人物 (=私の自我) に依存してきた 全年月の後、 どのようにして 別の自我と うまくやりはじめることができるか、 私は 実際知らないのである。 このように、 自己同一性 (自分が自分であること) は、 一種の約束による 見合い結婚だと 考えることが できる。 その 見合い結婚は、 安定的な人の中では 真実の愛へと 成熟するものだが、 不安定な人の中では、 堕落してしまって、 恨み言と 自滅へと至る。 人の 自己愛の もっとも 真実の表現は、 自身の善さへの献身であり、 それは 他の誰のものでもない 自身の もともとの性質 (そのような 性質は 不条理な、 変なものかもしれない) の 自己充足である。 (「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)
おこげ (再掲)
昨日で、母親が脳梗塞を発症してちょうど1年経つんだけど、大きな後遺症もなく、むしろ病気になる以前より健康的になって、良かった。 1年前、買い物に行く前に焼きそばを作っていて、味付けがまだらになっているのみならず、母親が最も忌み嫌うおこげが出来ているのが、そのまま出てきたから、これは何かおかしい!と思って、買い物に付いていって、買い方がやっぱりおかしいから、問答無用で救急車呼んだ。 ずーっと無理し続けて、絶対いつかはおかしくなると思ってたから、そこを逃さず捉えられたのは良かった。 病前より自分の健康を過信せず、健康的な生活してるから、かえってリスクは低減したかも。
化城 (再掲)
母親も 要介護3で、 俺も 精神障害者2級で、 介護保険と 傷害保険で ヘルパーさんが 毎日来て 飯つくってくれて 掃除もしてくれるんだが、 正直 本人たちは どう見ても そんなに重症ではない。 確かに、 母親も脳梗塞を発症したとはいえ、 (俺が) 早期発見したから、 症状は軽い。 俺自身、いかに 20年前に 措置入院を食らったとはいえ、 薬は確かに 必需品だが、 至ってヘルシーだ。 しかし、思い返してみれば、 幼少期から、 小林家というのは 毎日が 非常事態、 とても 安らぎの場所ではなかった。 むしろ 針のむしろだった。 母親も外面がいいから 傍目から見れば 恵まれた家庭だっただろうが、 母親が 心を閉ざしているから、 父親がいくら 稼いでも、 それを相殺して余りあるほど、 小林家というのは 毎日が非常事態だったのだ。 ここ最近は、ほんとに お互い心安らかに暮らしているが、 こうやって完全に 平穏な暮らしを出来るまでには、 本当に 長い道のりだった。 母親は、 息子(俺)が 働いてお金を稼ぐことよりも、 勉強して 学問のある人間になることのほうが、 遥かに嬉しいのだ。 俺自身、勉強は好きだ。 (理数系はまったくワカランが。) それは、母親自身 都立日比谷高校出身というのも 影響している。 姉は姉で、一緒に暮らしていた頃は モラルハザードが酷いものだったが、 いまは 結婚して出て行って、子供も出来たから、 じぃじばぁば 愛してる、なんていう どの口が言ってんだ?と 突っ込みたくなるような おべんちゃらを言っている。 とにかく、いまの小林家は 平和だ。 この平和に至るまでに 俺自身、他人には想像を絶するほどの 苦労をしながら 貢献してきたのだ。 だから、立派に 今の 安閑たる生活を享受して 許されるのだ。
うんかい
糖尿病はヤバい。 父親が糖尿病と高血圧を 併発していたんだが、 腎臓がダメになって 腎臓が駄目になるってことは、 体内の水分を コントロール出来なくなるし、 老廃物も 排出できなくなる、ということなので、 どうしても 人工透析せざるを得ない。 で、まあ 父親も 人工透析治療を受けていたんだが、 (ちなみに父親はもう亡くなっている。) まあ凄かった。 糖尿病のせいなのか、便通もコントロール出来なくなって、 透析治療中に 便意をもよおすと、 母親が 父親のところへ 車椅子もって すっ飛んでって、 父親を乗っけて トイレに猛ダッシュする。 で、トイレに着くと、 基本漏らしてて、パンツを脱がすと ウンコまみれになっている。 その状態なのに父親は 仕事を続けていて、下が ウンコまみれのまま ケータイで電話しながら、 ハイ!ハイ!と 通話していた。 もちろん、電話の相手は まさか 父親が透析治療中だということは まったく知らない。 あれは 凄かった。 それでも タバコ吸うんだから、大したもんだよ。
ドラえもん手袋 (再掲)
父親も、 脚こそ 切らないで 亡くなったけど、 糖尿病で ヤバいもの 一通り 引っ掛かったよね。 腎臓がダメになり、 人工透析の末 母親から 腎臓移植、 目もレーザー、 心臓の血管に ステント、 インプラント、 脳卒中。 最後は 肺炎。 腎臓移植しても 仕事続けて、 平気でタバコ吸ってたしね。 脳卒中になって ようやく仕事 リタイアしたけど、 その後も 株にハマって 毎日エキサイトしてた。 最後の半年くらいは ほんとに大変だった。 本人も、家族も まだまだ 生きるもんだと思ってたけど。 朝は、 脚をつって あああああーーーーっ!!!! いててててててて!!!!!! おかぁさあーん!!!! で 始まる。 日中は株。 夕方はテレビ。 夜中の2時まで起きてて、 真夜中は夜間採尿。 父親が 布団をはいだ瞬間に 俺が し尿瓶を差し出す。 そんな滅茶苦茶な生活をしてた。 最後は コロナで隔離されてる病院に、 かかりつけの医者がいるからってんで、 無理やりねじ込んでもらったが、 そのほうが 家族にとっては 楽だったかもしれない。 本人はサイアクだっただろうけどね。 間違いなく 家族が泊まり込みで 24時間 アテンドしてただろうから。 抜管防止手袋っていう、 ドラえもんみたいな手袋 ハメられただけで、 一晩中 叫んじゃうからね。 おかぁさーん!!!!!! ヒロくーん!!!!!!! 助けてよぉーーーーーー!!!!!!!って。
株狂い (再掲)
70過ぎて、 社会的地位もある 男性が 自分を否定されるのが 耐えられないのは まったく理解できるけど、 引退したあとの 父親の株狂いも 凄かった。 朝も規則正しく起きて、 脳卒中で 手が動かないんだよー!!! って 大げさに左手をスイングしながら メシ食って、 タブレットで 場が始まる前の 値動き確認して、 今日は駄目だとか 良さそうだ、とか 独り言ちて、 9時になれば タブレットに 齧りついて まめまめしく メモして、 前場が終われば 昼メシ食って、 後場が開けたら また タブレットに齧りついて、 さんざん エキサイトして 3時に 終わると、 日経平均が こんだけ上がったのに うちの株は!!!! とか 「平均」と 無意味な 勝負をして (その姿は ドン・キホーテの ようでもある) 刑事ドラマ観て、 そのうち 先物が動き始めると、 また タブレットに齧りついて、 晩メシ食って、 つまんねーつまんねー 言いながら テレビ観て、 夜になれば 情報番組ハシゴして 何一つ理解してないのに 勉強した気になって、 夜中の2時まで 深夜番組と 先物の値に 執心したあとに、 ようやく寝る。 そして また次の朝も 同じルーティーン。 ちょうど 引退してから アベノミクス景気と、 さらに 新型コロナで 株が乱高下しまくってた 時期が 重なったから、 さぞかし 楽しかっただろうけど、 新聞も読まないで 漫然と 情報番組ハシゴしてるだけなのに、 他人より 勉強した気になって、 毎日 日経平均と 無意味な 格闘を 繰り返していた。 資産残高が 乱高下を 繰り返したあと、 めぐり合わせで たまたま 資産価格がピークに達したから、 俺が 「売れ!!!!!!!!」って ブチ切れたのに、 ポカーン?って とぼけてた。 その後 暴落。 こっちとしちゃ そんなマネーゲームに 有り金ぜんぶ 注ぎ込まれたら、 怖くて 仕方がない。 ある日の朝、 悔しい!悔しい! って 父親が 呻いたときには、 この人 死ぬまで 株やめられないだろうな、と 思ったよ。 結局 元の木阿弥になっただけで 済んだけど。 タブレットに齧りついて メモするのを 「努力」と 勘違いして 努力してるのに 報われない とか 言われてもね・・・ 生活リズムが不規則な 自分からすれば、 引退したのに 毎日規則正しく 無意味な行動を 繰り返す 父親には ある種の 敬意を感じたのは 確かだが。 ちなみに 最晩年は 超夜間頻尿で 毎晩7、8回くらい 小便で起きるんだけど、 俺が 一晩中観察して 父親が 毛布をはぐ度に し尿瓶を差し出して、 採尿してた。 ああいう生活を 「幸せ」 というんだろうか?
クリティカル・ヒット (再掲)
父親の致命傷は、糖尿病と高血圧だった。 ちょうど同世代の定年退職するおじさん達が、 糖尿病で大量にヤバいことになり始めるころ。 医療の世界も、 糖尿病ビジネスに火がつき始め、 各種の啓発本が世に出回り始めていた。 母親が、 父親に泣いて頼んで、 頼むから病院に行ってくれ、と懇願して、 東京の糖尿病専門の病院に行くことになったんだが、 父親は、 どうせ検査だけだと言って、何百万も取るんだ! とブチキレながら車を運転していたが、 その時助手席に座らされた俺は、 まだ精神病院から出てきて 半年も経っていない頃。 正直、なんでこの人は自分の息子にこんな酷い仕打ちをするんだろう?と思った。 もちろん、 その後治療費に掛かったカネは、数百万では済まなかったはずだ。 まあ、それぐらいの仕事人間じゃなかったら、 ごく身内だけで済ませるはずだった葬儀が、 あんなデカくなるわきゃねーわな。 母親が脳梗塞になってから半年も経ってなかったから、 自分は母親見守りで、 全部ねーちゃんに丸投げしたから、 話を聞いただけだけど。
ウザい
父親は 最終的に 肺炎で亡くなったんだが、 亡くなる前日に、 そろそろ ヤバいってことで、 病院から呼ばれて、 姉と母親と俺とヘルパーさんとで (コロナで隔離されていた) 病院へ向かった。 待合室で 俺が ガラホを見ながらニヤニヤしていると、 姉が 俺の ガラホをパッと取り上げて、 画面を睨みつけながら、 読み上げ始めた。 あえて ヘルパーさんの前で。 いかにも、この男は 不謹慎な人間です、と ヘルパーさんに 誇示するように。 俺がなぜニヤニヤしていたかというと、 父親がいよいよヤバい、ということに なる前までは、 俺が 父親の病状を盛って話していると 思っていたかも知れない 友人が、 豹変して 丁寧な文面でメールを送ってきて くれたので、 そのギャップに少し 笑ってしまったのだ。 そこを 敢えて捕まえて、 よりにもよって ヘルパーさんの 眼の前で 読み上げ始める 姉。 果てしなくウザい。 ほんとに ぶん殴ってやりたい。
糖尿病 (再掲)
糖尿病はヤバい。 父親が糖尿病と高血圧を 併発していたんだが、 腎臓がダメになって 腎臓が駄目になるってことは、 体内の水分を コントロール出来なくなるし、 老廃物も 排出できなくなる、ということなので、 どうしても 人工透析せざるを得ない。 で、まあ 父親も 人工透析治療を受けていたんだが、 (ちなみに父親はもう亡くなっている。) まあ凄かった。 糖尿病のせいなのか、便通もコントロール出来なくなって、 透析治療中に 便意をもよおすと、 母親が 父親のところへ 車椅子もって すっ飛んでって、 父親を乗っけて トイレに猛ダッシュする。 で、トイレに着くと、 基本漏らしてて、パンツを脱がすと ウンコまみれになっている。 その状態なのに父親は 仕事を続けていて、下が ウンコまみれのまま ケータイで電話しながら、 ハイ!ハイ!と 通話していた。 もちろん、電話の相手は まさか 父親が透析治療中だということは まったく知らない。 あれは 凄かった。 それでも タバコ吸うんだから、大したもんだよ。
回顧録 (再掲)
今はたぶん だいぶ 違うんだろうが、自分が入った頃の武蔵は、権威主義的な 空気がまだ 漂っていた。 もちろん、学問的な、という意味だが。 しかし、その埃っぽさが、自分には耐えられないくらい 窮屈で 仕方がなかった。 武蔵は、学問の自由とか言いながら、肝心なことは教えてくれないし、しかも、ほこりっぽいアカデミズム、言い換えれば、 学問的権威主義の空気が横溢していて、そういうところはほんとにイヤだった。 ただ、そういう権威主義に対するカウンターカルチャーというか、 真面目くさった合理主義に対するアンチテーゼとしての 道化を演じる精神は根付いていたし、 学校側も、そういうところはかなり懐は深かった。 自分が武蔵を辞めずに済んだのは、 一緒に道化を演じてくれる友人や、 学校側の懐の深さによるものだと思う。 武蔵っていう場所は、 言い訳の効かない 「お前、自分の頭で考えろよ?」 っていう 場面を、必ず一度は突きつけられる場所だと思う。 別に武蔵じゃなくてもいいんだけど、 ぶっちゃけ サニチだったら、少なくとも勉強に関しては いくらでも 逃げられる。 「自分の頭で考える」と言えば、そら誰だって自分の頭で考えてるだろ、と思うだろうが、 実際には、逃げ場がある、言い訳が効く環境では、なかなか身につくもんじゃない。 それは、 教師が頑張ってどうこう出来るもんじゃなく、 カルチャーを含めて、武蔵という学校の環境だと思う。 単に大学受験のことだけ考えれば、武蔵よりサニチのほうが遥かにいい環境だろう。 お山の大将でいられるし。 しかし、武蔵は逃げを許してくれない。 現に今だって、 下手なことを書けば、 え、それはどういうことなの? と厳しいツッコミが友達から容赦なく飛んでくるのは覚悟してる。 そういうツッコミを、 自分の中で想定していること、 つまり、自分が表明することに対してどのような批判があり得るか、を考える思考回路を 内製化できていることが、 自分の強みでもある。 山川賞とった 大澤くんみたいなのが 部活の後輩にいるとね、 大学生にもなって 自分の研究テーマを持ってないってのは、凄く恥ずかしい、と思ってたよ。多くの大学生の意識はそうでもないってことに しばらくしてから気付いたけど。そこらへんが、武蔵がアカデミズム重視の学校と 言われるゆえんだろうね。 会報で、大昔のOBの回顧録で、中1で同級生に初めてかけられた言葉が、「ご専門はなんですか?」だった、なんて話も載ってた。もともとそういう学校なんだね。つっても、自分みたいなザコは高校の現国でレポート書けなくて、教師にキレられたり、小論文が書けなくてSFC2回も落ちたり、SFC入ったら入ったで、レポート書けなくて四苦八苦したり。今みたいに守備範囲内だったら書ける、というレベルになるまでは、相当な労力と時間がかかったよ。贅沢な話だけどね。でも、高校入ってからずーっと劣等感抱えて生きてきた。 自分が高校受験に邁進してた1年間は、 ちょうど父親が地方に単身赴任してて、 だからこそ、高校受験にあれほど 時間とカネをつぎ込めたんだろうけど、 父親が 東京に戻ってきて、 後楽園に近い社宅で 4人で暮らしていた頃は、 つまんなかった。 最寄り駅は飯田橋で、 地下鉄有楽町線で 新桜台まで直通で、 武蔵まで行けたんだが、 当時は西武線に直通する本数が少なくて、 結構遅刻もした。 新桜台という駅は地下の駅で、 名前はおしゃれだが、 ほこりっぽくて無機質で、 まったくテンションのあがらない駅だった。 父親も、 会社が合併したために全くテリトリーの違う土壌に乗り込んだが、 うまく馴染めず、かなり精神的にも堪えたらしい。 そのせいか、 東京の社宅にいた頃は、 夜食事をするにも、 家族団欒であるはずの場が、父親にとっては、単純にタダで酒が飲めて接待もしてもらえるクラブと化していた。 父親も、そういう形以外での家族との接し方がわからなかったんだろう。 俺も、そのころだんだんと気持ちが塞いで、頭もボンヤリするようになっていった。 ・・・おおたとしまささんの 新書を読んでみた。 非常に読みやすいので、 2、3時間くらいで 読めてしまった。 特に そこは違うだろ! とか ツッコミたいところもなかったし、 内容も 決して薄くはなかった。 教育学的な視点による 裏付けもしっかりしていたと思う。 単純に 「都会の頭のいい学校に通っている生徒は、 塾漬けで 勉強が出来るだけのバカ」 っていうほど 白黒ハッキリした 単純なストーリーでもなかった。 それだけに、 何か 一種の勧善懲悪的な 痛快な読み物、というわけではない。 かといって、 歴史に残るような名著、というほどではないが。 ただ、 読む価値は十分あると思う。 難しいテーマだから、 何か結論めいたことを言うのは 簡単ではない。 塾は塾。 学校は学校。 何か割り切れないものは残るが、 新書一冊で片付けるのは、 土台無理なテーマだ。 ただし、 著者が 日本のエリート教育に対して 抱く懸念は伝わってくる。 代々木に 鉄緑会、という まさに この本がターゲットとしている、 都会の高校生なら 知らぬものが居ないほどの 悪名高い?塾が存在するのだが、 都庁で夜景を眺めながら、 鉄緑会を指さして、 「○○くん今あそこにいるのかな? ミサイル撃ち込みたいよね。」 とか メタさんが言っていたのを思い出した。 メタさんは 高校生のころ (本人曰く) メタルに狂い過ぎて 勉強が疎かになっていたが、 今では 誰も文句のつけようがない 立派な 社会人。 もちろん 鳩さんも。 ふたりとも、 俺が 武蔵に絶望して、 学校を途中でバックレて 電車でどこかに逃避するようになったころ、 放課後一緒に 江ノ島やら逗子やら、 いろいろなところに 日常的に 連れて行ってくれるようになった。 新宿の高層ビル群は、 ほとんど庭と言っても過言ではない。 センターと言えば、 センター試験ではなく、 センタービルのこと。 夜景ソムリエの鳩さんが、 いつも先導してくれて、 今光ったのがどこそこの 灯台だとか、 いま 羽田空港の 新C滑走路に 飛行機が降りるところ、 とか 解説してくれた。 メタさんと鳩さんの会話を聴きながら、 自分は弁論術を学んだと言っても過言ではない。 学問に対する姿勢は、 生物部の後輩の大澤くんに学んだ。 たぶん、 自分の心のバッテリーの容量って、 人並みなんだよね。 感覚が敏感すぎて バッテリーが切れるのが早いってのは あるけど、 バッテリーの容量そのものは 健常者と大して変わらない。 宮本浩次のアルバム聴いてて、 さすがに 疲れたけど、 米軍が アルカイダの捕虜を拷問するとき、 メタリカを延々と流すらしいね。 確かに、いくら ファンの自分でも、何時間も メタリカ聴かされたら、 脳ミソ壊れちゃうよ。 駿台で2浪してた時に、既に 心の堤防が決壊寸前まで 行ってたのに、 SFC入ってから更に 災害級のストレスが襲って来たんだから、 そら 正気で居るのは無理だったな。 自分が子供の頃の中国って言ったら、 真冬のクッソ寒い朝でも、 みんな人民服着て、 チャリで大移動ってイメージだったけど、 まさかここまで巨大になるとは。 自分が小学生の頃なんて、 冬は霜柱立ってて、それをザクザク踏みしめながら 登校したもんだけど。 今の子供は、北海道とかならともかく、 霜柱なんか知らんでしょ? ま、そんなことは置いといて、 慶応の研究会で、 生協で見つけた末廣昭先生の「キャッチアップ型工業化論」(名古屋大学出版会) を、パクってパワポ作ってプレゼンしたんだけど、 まるっきりそのまんまじゃ つまんないから、 よせばいいのに 経済発展の過程で労働からの疎外が起きる、なんて ぶったもんだから、集中砲火されて、 しかも、今では無惨に色あせた、グローバリゼーションてコトバが当時流行ってて、 これも生協で見つけた 伊豫谷登士翁の本に感化されたりして、 俺の頭もオカシクなった。 ま、振り返れば簡単な話のように聞こえるけど、 我ながらよくここまでやったわ。 願わくばもっと 早く 中退させて欲しかったけどね。 2ヶ月入れられてた病院から ようやく退院したとき、記帳をする 姉のペンの握り方を見て、衝撃を受けた。 中指と薬指の間からボールペンが 突き出ている。 20年近く前のことだから正確ではないかもしれないが、 よくその握り方で字が書けるな、と 逆に関心してしまうような握り方だった。 と、同時に、俺は この先の人生 誰を頼りにして生きていけばいいんだ? と、マジで心が折れそうになった。 20年前 東戸塚の 日向台っていう 精神病院に 2ヶ月 いたんだが、 名前の通り 日当たりのいい ところで、 要するに 暑かった。 心因性多飲症で 今でも 日々 大量の お茶だの 冷水だのが 必要な自分には、 冷水さえ 滅多に飲めないのは 苦痛だった。 だいたい 5月から7月の間 だったと思うが、 暑いのに 冷水さえ飲めず、 もちろん空調も効かない。 たまに 作業療法の時間があり、 旧い建物の一室で ビーズの編み物を作ったり したんだが、飽きて 薄暗い ソファーベッドに寝転んで、 俺は こんなところに居て この先の人生は 一体どうなるんだろう?と 漠たる、 漠たるとしか 言いようのない 感覚に侵されていた。 今年はそれから 20年てことで 放送大学のほうも 親から資金援助してもらって 岡山に10連泊したりなんかして、 贅沢させてもらっているが、 これは 無意識なのか、 急に 気力・体力の衰えを 感じる。 お金がなけりゃ 生きていけないのは 現代人の宿命だが、 母親が亡くなったら どう 生きていけばいい? 別に 病気だって治ったわけじゃない。 当然 薬だって 必要だ。 我ながらよく頑張ったとは 思うが、 正直 お金を稼ぐのは 不得手だ。 そもそも、そこまで 要求するのは いくらなんでも 酷なんじゃないか? かといって 自殺する気はサラサラないし。 人生100年時代? バカいうんじゃないよ。 40ちょい 生きるだけで これだけ大変なのに、 100年も生きろだと? 単純に 体の調子が 悪いだけなのかも知れないが、 なんだか 急に 疲れた。 若いうちは 気力だけは凄かったから どうにかなったが、 その 肝心の気力が 涸れつつある。 母親も 要介護3で、 俺も 精神障害者2級で、 介護保険と 傷害保険で ヘルパーさんが 毎日来て 飯つくってくれて 掃除もしてくれるんだが、 正直 本人たちは どう見ても そんなに重症ではない。 確かに、 母親も脳梗塞を発症したとはいえ、 (俺が) 早期発見したから、 症状は軽い。 俺自身、いかに 20年前に 措置入院を食らったとはいえ、 薬は確かに 必需品だが、 至ってヘルシーだ。 しかし、思い返してみれば、 幼少期から、 小林家というのは 毎日が 非常事態、 とても 安らぎの場所ではなかった。 むしろ 針のむしろだった。 母親も外面がいいから 傍目から見れば 恵まれた家庭だっただろうが、 母親が 心を閉ざしているから、 父親がいくら 稼いでも、 それを相殺して余りあるほど、 小林家というのは 毎日が非常事態だったのだ。 ここ最近は、ほんとに お互い心安らかに暮らしているが、 こうやって完全に 平穏な暮らしを出来るまでには、 本当に 長い道のりだった。 母親は、 息子(俺)が 働いてお金を稼ぐことよりも、 勉強して 学問のある人間になることのほうが、 遥かに嬉しいのだ。 俺自身、勉強は好きだ。 (理数系はまったくワカランが。) それは、母親自身 都立日比谷高校出身というのも 影響している。 姉は姉で、一緒に暮らしていた頃は モラルハザードが酷いものだったが、 いまは 結婚して出て行って、子供も出来たから、 じぃじばぁば 愛してる、なんていう どの口が言ってんだ?と 突っ込みたくなるような おべんちゃらを言っている。 とにかく、いまの小林家は 平和だ。 この平和に至るまでに 俺自身、他人には想像を絶するほどの 苦労をしながら 貢献してきたのだ。 だから、立派に 今の 安閑たる生活を享受して 許されるのだ。 放送大学の 2学期の 面接授業で、 福島学習センターで 取ってみようかと 思ってる 授業があって、 福島学習センターが 郡山の 郡山女子大学にあるんだが、 ふと、 郡山といえば、 2浪してる時に、 母親から1万円もらって、 羽生から東武動物公園まで行って、 日光線の快速に乗り換えて、 会津田島まで行って 野岩鉄道で 山奥の秘境みたいなところを ひたすら走って 会津若松まで行って、 そこから 郡山に出て、 東北線で久喜まで来たところで お金が足りなくなって、 母親に来てもらって、 精算して 羽生まで帰ってきた、 ってことがあったね。 あのときは、もう誰も 浪人してなくて、 メンタルも危機的だったし、 俺の人生どうなっちゃうんだろう? と 漠たる不安感のなかを 必死に もがいてる感じだったなあ。 そんなこと 思い出すと、 ほんとによくまあ ここまで来たよ。 あの時の俺に エールを送ってやりたいね。 お前の人生 悪くないぞ! てね。 俺けっこう 泥沼はいつくばって 生きてきたと 思ってるんだけど、 往々にして 苦労知らずの お坊ちゃんて 思われるんだよね。 その度に、 ふふ。 あなたは 俺に 騙されてるよ。 と 内心おもっているのだが。 教科書的に自分の歴史を振り返れば、20代から30代後半まで、友達から、働け、ってメタル責めされてたのは事実だけど、 あちこちドライブに連れてってもらった楽しい思い出もたくさんあるし、 それこそ彼らが地方に転勤してるときに、遊びに行ったときの楽しい思い出もたくさんあるし、無理に省略しようとすると、 「暗黒時代」かのような歴史観になりかねないけど、 ディティールを無視するのは、怖いよね。 いずれにせよ、 彼らはいつも自分に誠実に接してくれたし、説教してくれるのも、親身に考えてくれてることの裏返しだし。 (以下 坂口安吾「三十歳」より) 勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。 たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。 人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。 けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。
漠たる (再掲)
20年前 東戸塚の 日向台っていう 精神病院に 2ヶ月 いたんだが、 名前の通り 日当たりのいい ところで、 要するに 暑かった。 心因性多飲症で 今でも 日々 大量の お茶だの 冷水だのが 必要な自分には、 冷水さえ 滅多に飲めないのは 苦痛だった。 だいたい 5月から7月の間 だったと思うが、 暑いのに 冷水さえ飲めず、 もちろん空調も効かない。 たまに 作業療法の時間があり、 旧い建物の一室で ビーズの編み物を作ったり したんだが、飽きて 薄暗い ソファーベッドに寝転んで、 俺は こんなところに居て この先の人生は 一体どうなるんだろう?と 漠たる、 漠たるとしか 言いようのない 感覚に侵されていた。 今年はそれから 20年てことで 放送大学のほうも 親から資金援助してもらって 岡山に10連泊したりなんかして、 贅沢させてもらっているが、 これは 無意識なのか、 急に 気力・体力の衰えを 感じる。 お金がなけりゃ 生きていけないのは 現代人の宿命だが、 母親が亡くなったら どう 生きていけばいい? 別に 病気だって治ったわけじゃない。 当然 薬だって 必要だ。 我ながらよく頑張ったとは 思うが、 正直 お金を稼ぐのは 不得手だ。 そもそも、そこまで 要求するのは いくらなんでも 酷なんじゃないか? かといって 自殺する気はサラサラないし。 人生100年時代? バカいうんじゃないよ。 40ちょい 生きるだけで これだけ大変なのに、 100年も生きろだと? 単純に 体の調子が 悪いだけなのかも知れないが、 なんだか 急に 疲れた。 若いうちは 気力だけは凄かったから どうにかなったが、 その 肝心の気力が 涸れつつある。
高校受験 (再掲)
今からすれば、 高校受験して 武蔵に 入ってよかった と 思うけど、 高校はいって 割とすぐ 思ったのは、 英数国3科目 頑張って勉強したけど、 特に 数学は 東急池上線の久が原にある 塚本数学クラブっていう 個人塾で徹底的に 鍛えられたけど、 入試が終わってみると、 全然 賢くなった気がしないし、 ましてや 人間として 成長した、なんていう 実感など 微塵も湧いてこなかったね。 まあ、単純に 数学に向いてないって ことなんだろうけど。 にも関わらず、 世間から 畏敬の目で見られることが 余計に 虚しかったね。 つまり、 以前書いたように 武蔵に絶望した、というより、 なんちゃって武蔵生をやってる 現実に絶望したのかもね。 しかも、これから 大学受験に向けて 数学勉強しなくちゃいけないのか、 と 思うと、 暗澹たる気持ちになった。 つっても、 自分の拙い経験から言っても、 数学が専門の人って、 頭はいいけど 人間として 疑問符をつけたくなる ような 人って、 案外多いよね。 メタさんも、 武蔵の数学教師 を 反面教師として、 理系進学を 諦めた、って 言ってたし。
青春の後ろ姿 (再掲)
別に 父親に 高校受験しろ と 言われた訳 じゃなくて、 むしろ 父親が 地方に転勤で いなかったから、 あんな 無茶な 塾通いが出来た。 中2の終わりに 羽生駅前の 三光堂っていう 書店で 慶應志木の過去問みて、 まったく わからず、 佐日では お山の大将だった 自分は 衝撃を受けて、 母親に泣きついた。 だから、 最初は 慶應志木に受かったら 夢物語だ と 思っていた。 しかし 母親は もともと 都会人だし、 武蔵が どんな 学校かも知っていたから、 違和感はなかった。 自分は 高校受験を志したころは 武蔵の 存在自体知らなかった。 そして、 新聞広告に 載っていた 「塚本数学クラブ」 に 通い始めて、 本格的に 高校受験が スタートした。 ま、 今さらだけど 佐日から 慶應志木と塾高と武蔵に 受かるなんて、 ミラクルだよね。 合格した時、 親戚からは 慶応にしとけ、と 言われたらしいが、 都会人の母親は 武蔵を知っているという ことと、 父親も 武蔵を知らないながらも ネームバリューに 目がくらんで 武蔵に入ることになった。
姉からのマウントかましの一例 (再掲)
心配しないでください。ヒロさんは、これを機に外の世界に一歩踏み出してください。外の世界は広くて楽しいです。知らないで終わるのは勿体ないです。私は今まで外の世界を沢山見てきました。今度はヒロさんの番です。思いっきり人生を楽しんで下さいね。
https://www.youtube.com/watch?v=nUZVXtDVrc0
うぇるかめ (再掲)
もう年末ですね。 父親が健在だったころは、 大晦日には 小林家が一同に会する わけですが、 いつものごとく 姉が泣き叫んで、 いつの間にか 母親と姉が 廊下で雑魚寝して 新年があける、 なんてことが 2、3回 あった。 やっぱ おかしいわ。 この家族。 上述の話は、 高崎に住むようになってからのことだが、 羽生に住んでいた頃は、 たしか 姉が28歳くらいのことだったと 記憶しているが、 姉が 地元の同級生と 深夜まで 飲み会やって、 俺は 不眠症だから、 真夜中に 玄関で嗚咽する声が聞こえるから、 何かと思って 見に行ったら、 ウミガメ(姉)が卵 産んでた。 28で青春ですか。 いい気なもんだ。 人が 大変なことになってんのに、 なんてことも あったね。 あれ、たぶん 俺が 病気になって、退院してきて まだ 復学するまえで ひたすら 食って寝てウンコしてた頃だね。 姉とは 5歳差だから、確かにそんなもんだ。
もう絶縁したけど (再掲)
姉もなー 私は世界広い、 お前は 世界狭い、て マウント かましてくるくせに、 年齢相応の常識すら ねーからな。 高いカネ出して お見合いクラブ 入ったのに、 プロフィール欄の 尊敬する 歴史上の人物 に 明石家さんま て 書いちゃうんだからな。 そら、 どんなに顔面偏差値 高くても、 まともな男は 寄って来ないよ。 私はバカです って 言ってるようなもんじゃん。 お前のいう 世界広いって なんなんだよ? もうアホすぎて 付き合いきれねえんだよ。 父親が 生きてた時に、 株が終わって 生活費を近くの コンビニで おろすのを頼まれた時、 コンビニのATMで 小林家 一ヶ月分の カネ引き出してんのに、 3歳の息子が どこ行くか わからないから 帰るのが 何時間後になるか わからない、とか ふざけた こと言ってて、 ほんと コイツの頭は どうなってんだ?! と 思ったわ。
悪魔 (再掲)
どうせ 一生 協力なんか できねーんだから、 この際 ブチまけてやるわ。 母親から 父親に 腎臓移植が 決まったタイミングで、 父親に 2号さんがいるのが バレちゃって、 うずくまって 泣いてる 母親の耳元で、 姉が、 「お父さんは 家政婦さんみたいな人を 探してたんだよ。」 って 囁いた。 つまり、母親は 父親にとって 家政婦でしかない、と。 姉はそういう人間。 人の傷に塩を 擦り込むのが 大好きな人間。
愕然 (再掲)
2ヶ月入れられてた 病院から ようやく 退院したとき、 記帳をする 姉のペンの握り方を見て、 衝撃を受けた。 中指と薬指の間から ボールペンが 突き出ている。 20年近く前の ことだから 正確ではないかもしれないが、 よくその握り方で 字が書けるな、と 逆に関心してしまうような 握り方だった。 と、同時に、 俺は この先の人生 誰を頼りにして 生きていけばいいんだ? と マジで 心が折れそうになった。
機能不全家族 (再掲)
今さら 母親 見捨てられるかよ。 ずーっと 寝不足で、 しかも しょっちゅう うなされてて、 3日に 一度は 寝言で叫んでるから、 俺が 声をかける なんてことは 日常茶飯事。 俺自身 不眠症。 父親は 仕事と 2号さんの ことしか 考えてない。 姉は なにかあると 「なんで 私だけ 家族の犠牲に されなきゃ いけないの?!」 って 泣き叫ぶ。 こんな めちゃくちゃだった 家族が、 父親が亡くなり、 姉も 結婚して子供も出来て 出て行ってくれて、 母親も 脳梗塞を経て やっとのことで 心身ともに マトモになった。 今じゃ 菩薩のようだ。 尽くすことでしか 自分の存在意義を 見いだせなかった 母親が、 ようやく 心安らかに 暮らしているのに、 放置は できねーよ。
ホッと一息
ようやく、ようやく、
母親も
俺のことを
まじめに
考えてくれるように
なったな。
泣く子と地頭には勝てぬ
とは
いうが、
泣く子(姉)と
地頭(父親)の
ことばっかり見て、
どう
考えても
俺の心情なんか
まともに
見てもくれてなかったからな。
父親も亡くなり、
姉も
母親とズブズブの関係から
切れて、
というか俺が
断ち切って、
ようやくのこと
俺の
気持ちをマジメに
考えてくれるようになった。
やっとだよ。
もう、ほんと
めんどくさいにも
程があるんだよ。
小林家は。
2025年1月11日土曜日
「隷従への道」 フリードリヒ・ハイエク 日経BP p.190~191 (再掲)
経済活動を 完全に 中央主導にする という 発想には、 やはり たじろぐ人が多い。 単に それが 途方もなく 困難だから ではなく、 たった一つの 中央当局なるものが 万事を 指示する ことに恐怖を 覚えるからだ。 それでも なお 私たちが そこへ向かって 急速に進んでいるのは、 完全な個人の競争 と 中央管理との間 に 「中庸」 が あるだろうと、 大半の人が いまだに 信じている せいである。 めざす目標は 自由競争による 極端な分権化でもなければ、 単一の計画に基づく 完全な中央集権化でもなく、 両者の いいとこどりをした 体制だと 考えるのは、 合理的な 人々にとって 実に魅力的であり、 さも実現可能にも見える。 だが このような問題に関しては、 常識は当てにならない。
2025年1月7日火曜日
うつ病譚
うつ病ってのは、ツライ。
ある程度は
同情してもらえるんだが、
同情してもらったところで、
苦しいのが
治るわけでもない。
しかし、中には
同情してもらえることに
しか
慰めを得られなくて、
同情してもらえることに
依存してしまうこともある。
まあ、
太宰治みたいなもんだ。
(太宰治はほとんど読んだことないが)
あれはあれで
ツライんだ。
結局、サークルのマイ・コメヂアンになって、
取り巻きの女と心中するのが
オチなのだ。
ところで、
うつ病になるにも
色々と
理由があるものだが、
得てして、
うつ病になる原因なんてのは、
わからないものなんだ。
わかったら苦労しねえよ。
しかし、よくあるパターンが、
「やる気スイッチ」をオンに
したまま
突っ走ることだ。
こんなことは、根が真面目な人間ほど、
簡単に
起きてしまうことだ。
人間、「やる気スイッチ」を
オンにするなんてのは、簡単なことだ。
一度入った「やる気スイッチ」を
オフにするってのは、
「やる気スイッチ」をオンにすることの
何倍も
難しい。
で、あるから、
大人として生きていくには、
「やる気スイッチ」の切り方を
習得しておく必要がある。
真面目な人間ほどそうなのだ。
しかして、うつ病というのは
あまり
同情してもらえない。
同情されたところで
気休めにしかならないし、
同情されたところで
治ったりはしない。
ただ
中には
同情されることに
依存してしまうタイプもいるだろう。
あ、これ
もう
書いたかもだが、たぶん
太宰治とか
このパターンだろう。
ある意味で、うつ病を
患うということは、
孤独との闘いでもあるのだ。
何しろ、
周囲の人間から
理解してもらえないからな。
周囲の人間も、
一応は
同情してくれるんだが、キリがないから、
そのうち
去っていく。
そうすると、ますます
孤独になる。
すべてが
悪循環だ。
うつ病が完治するということが
あるのかどうかは
わからないが、
結局
マシになるには、
誰か
自分の、一番
急所というか、
自分の一番
弱い部分の扉のカギを
そっと
預けられる存在が
必要なんだ。
性別はあまり関係ない。
どういう人間関係かも
あまり
関係がない。
ともかく、自分の一番
急所である領域へのカギを
そっと
預けることが出来て、
その人が
そのカギを
誰にも知られないように
密かに
隠し持っていてくれるって
ことが、
重要なんだ。
そこはもう
損得勘定抜きだ。
とにかく、
自分の生死を
預けるくらい
大変なことなんだ。
しかし、そういうケースもあるから、
人間てのは
ときに
脆くても、なお一層
キレイな
存在なんだ。
もっとも、うつ病は
キレイゴトばかりではない。
何しろ、
ひたすらウツな訳じゃなくて、
往々にして
ハイになってしまう時期があるからだ。
そうして、ハイになっても、
結局は
また
ウツになる。
それを繰り返していると、
周囲の人は
コイツはふざけているんじゃないか、と
思って、
疎まれる。
こうやって、ますます
孤独になる。
そう、
うつ病患者というのは
孤独なんだ。
ま、いろんなパターンがあるがな。
俺も
病院にいるとき
いくつかの
うつ病と思しき類型を見たが、
一類型として、
基本ウツなんだが、
ハイになったときに、
やらんでもいいことをやって、
周囲のヒンシュクを買って、
ずどーんと
ウツになる、というパターンの人がいた。
まあ、その人がハイな時は、確かに
鬱陶しいんだが、
やっぱり当人はツライんだ。
そうして
同じことを繰り返すほど、どんどん
絶望的な
気持ちになってくる。
永遠にこの状態から
抜け出せないんじゃないか、と
確信が深まるからな。
だから、
たまにハイになってしまうタイプの
うつ病というのは、
それはそれで
厄介なんだ。
あれは
傍から見るより、当人は
遥かに
ツライんだ。
上述の例でも、風呂に入ったときに、
腰のつけ根のところに、
褥瘡の痕が出来ているのを見て、驚いた。
褥瘡というのは、
つまるところ
ずっと
同じ姿勢で寝ているために、
圧迫された部分が
血流が悪くなって、
壊死してしまうんだ。
ハイなときには
鬱陶しいほど
テンションがあがってる人が、
寝返りをうつ
気力も湧かないほど
眠らざるを得ない。
これが
どれほどシンドイか、わかるか?
うつ病は甘えだとか言うやつが
たまに
いるが、
そう思うなら
いっぺん
褥瘡が出来るまで
ひたすら
同じ姿勢で
寝てみたらどうだ?
とにかく、そんなわけで、
うつ病のツラさというのは、なかなか
理解してもらえない。
そこが
また
厄介なんだ。
とにかく、うつ病から抜け出すには、
何か
一つでも
問答無用で楽しいと
思えることとか、
一緒にいると
なんか
楽しい人とか、
そういう存在が
絶対に必要なんだ。
そして、徹底的に
自分の
心のありようと
向き合うことが
まず
必要だ。
絡まり合って
ぐちゃぐちゃになった
心と、ひたすら
向き合って、
どこでどう間違えたのか、
ひたすら
考えることが必要だ。
ただし、これは
これをやれば
うつ病から抜け出せるって
もんでもなくて、
言うなれば
「ジョジョの奇妙な冒険」の
プッチ神父の
ホワイトスネイクの攻撃みたいなもんで、
うつ病から
抜け出してみて
初めて
原因がわかるってことが
ほぼほぼ
当てはまると思われる。
なにが原因で
ウツになってるのか
わかれば、そもそも
うつ病には
簡単にはならない。
なんの慰めにもならないかも知れないが、
うつ病というのは
抜け出した人間にしか
対処方法が
わからないんだ。
何しろ、自分の心の働きというのは、
たいてい
自分にしかわからないからな。
そういう意味では、
うつ病というのは
よく知られた病いでありながら、
自分自身に
固有の病いと
言ってもいい。
とにかく、人間ひとりひとりに
個性があるのと
同じ意味で、
うつ病には
個性があるのだ。
だから、余計
難しい。
周囲の人間は理解してくれないし、
理解しようがない。
しかし、
繰り返すが、
やはり
最終的には
自分の
心のカギを
そっと
預けて、そうして
誰にも
悟られることなく、
永遠に
キープしてくれる
存在が必要。
そして、徹底的に
自分自身の
こころのありようと
向き合い、
どうしたら
うつ病に逆戻りしないか、を
徹底的に
考えることが大事。
確かに、うつ病ってのは
詳述したように、孤独だ。
しかし、だからこそ
人間というのは
他者を必要とする。
その意味で
孤独ではない。
そういう
存在だと
言える。
2025年1月6日月曜日
<近代>と周縁化 (再掲)
後期資本主義批判を アドルノから荻野先生の社会学、 ゲーテを経て 漱石まで展開した動画を有り難う。 アドルノの後期資本主義批判は しばしば読ませてもらっていたところですが、 今回は 荻野氏の「詐欺」論へ 連接させることで、 論がひときわ具体性を増し、 鮮やかな像を結んだように思います。 不確定性に賭ける「詐欺師」とは、 計量と数値化を旨とする 近代合理主義社会の、 いわば虚をつく存在。 資本主義社会の到達点ともいえる 「管理社会」への 批判的メタファーなのですね。 それが足を置く場は、 まさに 資本主義社会の 「市場」の余白とでも表すべき領域。 とすれば、小林くん講話の 後半部のキーワードともいうべき 「自然」が、 まさに 商品の 等価交換から成り立つ 「市場」の〈外部〉であることと きれいに響き合っていることに、 つくづく感心しました。 そして、近代作家とは、 まさにその〈疎外〉感を以て、 同じく 近代が周縁化してしまった 〈自然〉 へ魅かれ、耽溺する者であるわけですね。 日本近代の場合、 より〈自然〉に親和的なのが自然主義作家で、 これをまさに 〈じねん〉 にみられるような 概念化への苦闘を経ることで、 欲望的な世界から 帰還してくるのが漱石、 ということになるでしょうか。 「ファウスト」こそ詐欺師では、 との小林くんの呟きにクスリとしながら つい頷いてもいるのですが、 その葛藤が 〈魂の救済〉 なるもので終結するのは、 やはりなんといっても キリスト教文化圏ならではの展開でしょう。 かの有名な 「疾風怒濤」期に 端的に現れる ゲーテの自然観 (近代的「自然」の発見)は、 日本の場合、 漱石よりも、北村透谷を経た 自然主義文学への影響の方が大きそうです。 いささか余談ですが、 ゲーテも、漱石も、そして ほとんどすべての男性・近代作家の描く異性愛の対象 ーー 〈女性〉 もまた 〈近代〉 が周縁化した存在なので、 なるほどテクストというものは 論理的かつ時代精神を おのずから反映したものだ、 と改めてつくづく納得した次第です。 いつものことながら、感謝です。誠に有り難う。 今回、頂戴した小林くん講話に これまで頂戴している 論考から得た知識を総合すれば、 資本主義-市民社会がもたらす 疎外、物象化に対する 苦悩という名の 徹底的相対化、 これこそが 漱石の文明批評の基盤であることが、 まさに 鮮明に図式化されて見えてくる感じです。 今回は 「ブログのハッシュタグ参照」とのことで、 アドルノとの関係への言及は省略されていましたが、 ここから展開してゆくのが、 何度か拝見させてもらった、 アドルノを援用した小林くんの 「それから」 論ですね。 主客分離から生じる疎外を批判し、 人間の自然 および身体の抑圧を論じながら、 原初的まどろみへの回帰は 徹底的に封じた アドルノの論理展開が、 何と代助の解読に有効であるか、 は、つねづね痛感するところです。
2025年1月5日日曜日
描写が凄い。
マルセル・プルーストの
「失われた時を求めて」
(光文社)
の
第1巻を
読んでるんだけど、
すごいなあ、と
つくづく
驚かされる。
やっぱ
フランス文学ってのは
すげえわ。
なんつーか、ああ
そういえば
子供の頃
こんなこと
考えたり
感じたり
したな、とか、
あるいは
大人になっても、
他人には
言えないけど
密かに
こんなこと
考えてる時って
あるよね、
みたいな。
そういう
秘めた
感覚を、ほとんど
百科事典なみに
描写している。
しかも
ひたすら
優雅に。
まさに
「失われた時を求めて」
という
タイトルが
ぴったり。
かといって、
決して
露悪趣味ではないし、
読んでいて
懐かしい気持ちになったり、
ギクリとしたり。
いやはや、確かに
これは
文学史に名を残す
傑作だ。
「世界の共同主観的存在構造」 廣松渉 岩波文庫 (再掲)
われわれは、現に、
時計の音を「カチカチ」と聞き、
鶏の啼く声を
「コケコッコー」と聞く。
英語の知識をもたぬ者が、
それを
「チックタック」とか
「コッカドゥドゥルドゥー」とか
聞きとるということは
殆んど不可能であろう。
この
一事を以ってしても判る通り、
音の聞こえかたといった
次元においてすら、
所与を
etwasとして
意識する仕方が
共同主観化されており、
この
共同主観化された
etwas以外の相で
所与を意識するということは、
殆んど、
不可能なほどになっているのが
実態である。
(59ページ)
しかるに、
このetwasは、
しばしば、
”物象化”
されて意識される。
われわれ自身、
先には、
このものの
”肉化”
を
云々することによって、
物象化的意識に
半ば迎合したのであったが、
この
「形式」
を純粋に
取出そうと試みるとき、
かの
「イデアール」な
存在性格を呈し、
”経験的認識”
に対する
プリオリテートを要求する。
このため、
当の
etwasは
「本質直感」
といった
特別な
直感の対象として
思念されたり、
純粋な知性によって
認識される
形而上学的な実在として
思念されたりすることになる。
(67ページ)
第三に、
この音は
「カチカチ」
と聞こえるが、
チックタックetc.ならざる
この聞こえかたは、
一定の
文化的環境のなかで、
他人たちとの言語的交通を
経験することによって
確立したものである。
それゆえ、
現在共存する
他人というわけではないにせよ、
ともあれ
文化的環境、
他人たちによっても
この音は規制される。
(いま時計が
人工の所産だという点は措くが、
この他人たちは
言語的交通という聯関で
問題になるのであり、
彼らの
生理的過程や
”意識”
が介入する!)
この限りでは、
音は、
文化的環境、
他人たちにも
”属する”
と云う方が至当である。
(70ページ)
一般には、
同一の語彙で表される対象
(ないし観念)群は、
わけても
”概念語”
の場合、
同一の性質をもつと
思念されている。
この一対一的な対応性は、
しかも、
単なる並行現象ではなく、
同一の性質をもつ
(原因)
が故に
同一の語彙で表現される
(結果)
という
因果的な関係で
考えられている。
しかしながら、
実際には、むしろ
それと逆ではないであろうか?
共同主観的に
同一の語彙で呼ばれること
(原因)
から、
同一の性質をもつ
筈だという思念マイヌング
(結果)
が生じているのではないのか?
(109ページ)
第二段は、
共同主観的な価値意識、
そしてそれの
”物象化”
ということが、
一体いかにして成立するか?
この問題の解明に懸る。
因みに、
貨幣のもつ価値(経済価値)は、
人びとが
共同主観的に
一致して
それに価値を認めることにおいて
存立するのだ、
と
言ってみたところで
(これは
われわれの第一段落の
議論に類するわけだが)、
このこと
それ自体が
いかに真実であるにせよ、
まだ何事をも説明したことにはならない。
問題は、
当の価値の内実を
究明してみせることであり、
また、
何故
如何にして
そのような
共同主観的な一致が
成立するかを
説明してみせることである。
この
第二段の作業課題は、
個々の価値形象について、
歴史的・具体的に、実証的に
試みる必要がある。
(164~165ページ)
(以下熊野純彦氏による解説より)
『資本論』のマルクスは、
「抽象的人間労働」
などというものが
この地上の
どこにも存在しないことを
知っている。
存在しないものが
ゼリーのように
「凝結」
して
価値を形成するはずがないことも
知っていた。
要するに
『資本論』
のマルクスは
もはや
疎外論者では
すこしもないのだ、
と廣松はみる。
労働生産物は
交換の内部において
はじめて価値となる。
とすれば、
交換という
社会的関係そのものにこそ
商品の
フェティシズムの秘密があることになるだろう。
関係が、
謎の背後にある。
つまり、
関係がものとして
あらわれてしまうところに
謎を解くカギがある。
商品の
「価値性格」が
ただ
「他の商品にたいする
固有の関係をつうじて」
あらわれることに
注目しなければならない。
商品として交換されること
それ自体によって、
「労働の社会的性格」が
「労働生産物そのものの対象的性格」
としてあらわれ、
つまりは
「社会的な関係」、
ひととひとのあいだの関係が
「物と物との関係」としてあらわれる
(『資本論』第1巻)。
ものは
<他者との関係>
において、
したがって
人間と人間との関係にあって
価値をもち、
商品となる。
(533~534ページ)
文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答 (再掲)
質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。 フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。 「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家を孤立させ絶望においやっている現状が鋭く指摘されています。その他の時事的な文章・発言においても、ヨーロッパにおけるグローバリズムと言うべきEU経済戦略のもたらすひずみと地場産業の危機は、ウエルベックにとって一つの固定観念とさえ言えるほど、しばしば繰り返されています。 つまり、ウエルベックは「グローバリゼーション」が伝統的な経済・産業活動にもたらすネガティヴな影響にきわめて敏感であり、そこにもまた「闘争領域の拡大」(ご存じのとおり、これはそもそも、現代的な個人社会における性的機会の不平等化をさす言葉だったわけですが)の脅威を見出していると言っていいでしょう。なお、「セロトニン」で描かれる、追いつめられたフランスの伝統的農業経営者たちの反乱、蜂起が「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言・予告するものだと評判になったことを、付記しておきます。 以上、ご質問に感謝しつつ、ご参考までお答え申し上げます。
明治資料館@沼津 (再掲)
せっかく 三島で面接授業なので、 お隣の 沼津の 明治資料館にも 行ってきました。 もっとデカい公園みたいに なっているのか、と 思いきや、 国道1号沿いに、 古い洋館が 建っていて、 言われなければ 絶対に わからない感じでした。 明治期の偉人、江原素六に ゆかりのある資料館らしく、 幕末から明治期にかけての 資料などが 展示されていて、楽しかったです。 (ちなみに、江原素六という人は、 東洋英和や麻布(←いわゆる「御三家」の麻布) の 創設者ということで、 知る人ぞ知る、といったところでしょうが、 世間的にはあまり 有名ではありません。 しかし、歴史的に有名になることと その人の 偉大さとは また 別次元。) ともかく、一応しつこく勉強してきた 時期の展示物などなので、 結構 気持ちよかったです。 これ、中年の特権なのかもだけど、 もう 脳のキャパとか年齢的な脳の構造の 問題かもだけど、 今さら 新しい分野の勉強を するってのは、無理がある。 むしろ、知ってる分野のことなら 脳が活性化して 気持ちよくなれるなら、 そんな 贅沢な話はないだろう。 自分は 結局 行政におんぶにだっこの 人間に なってしまったので、 あとは そうやって 生きていくのが、なんだかんだ ベターなんだろう。 民法のことも まったく知らないわけじゃないが、 勉強して どうこうというのも、 それは ちょっと 無理がある。 いずれにせよ、山岡先生という ラスボスに、 20年かけて こさえた 我が子同然のレポートを 提出したら、もう なんか 別に いいや、と いい具合に脱力しました。 ここまでやれば、 もう 文句は言えない。 あと、JR沼津駅の改札に、 サンマルクカフェかなにかが 併設されていて、 結構なお値段はするものの、 しっかり 濃くて、なにより 店内が ほどよく空いていて、かといって もちろん ガラガラでもなく、 ゆったりとした喫茶店のムードが 漂っていました。 東京の 利益至上主義の キツキツな感じとは無縁で、 ああ、これが 文化資本というものか、と 感心しました。 あと、 東海地方特有?の バス網とか。 モーニング喫茶といえば名古屋ですが、 沼津まで来ると その文化が 浸透しているのかな、と 思いました。 これ、「マツコの知らない世界」で 見た 情報ですが、あれ バカに出来ないね。 なかなかの 教養バラエティー番組だと 思うよ。 TBSは嫌いだけど、 バラエティーはたまに面白い。
近代日本経済史@北九州サテライト レポート (再掲)
確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。
「金融と社会」質問と回答その7 (再掲)
質問:インフレ目標政策についてうかがいます。 私の実感でも、物価が上がってきたなー、と感じます。 より正確には、 通貨(円)の価値が目減りした ということだと思われますが。 あまり国民の生活が苦しくなれば、 物価の安定という意味では、 金利をあげたほうがまだマシ、 と考える家計も 増えてくるのではないかと考えます。 そうすると、なるほどこれがフィッシャー効果か、 と思われるのですが、 確かに 実質金利がさがったことで 消費者の購買意欲が増したことで 景気の底割れを防ぎ、 政府の名目上の税収も 増えていると言われています。 しかし、かといって、 国も企業も家計も借金まみれの現状では、 今さら金利を上げられるのか、 甚だ疑わしいです。 なぜなら、 金利の上昇は、確かに通貨(円)の価値を 底上げする可能性はありますが、 上述のように 政府・企業・家計が借金まみれの状態では 金利の上昇は難しいことは無論、 長期金利の上昇は、 政府の借金の利払いを増嵩させるのみならず、 日本国債の価格を低下させるため、 発行済日本国債の6割を保有すると いわれる日銀の財務状況を、 著しく危殆にさらすものと考えられるからです。 果たして、 これが当初のインフレ目標政策の 目指していた姿なのか、 甚だ疑念を感じずにはいられません。 回答: 質問文に書かれていることは、私も理解できます。 インフレ目標政策が 2013年に導入を余儀なくされた時、 当時の白川総裁には その問題点がわかっていたと思います。 日銀が2000年に インフレ目標政策について調査したレポートを リンクしておきます。 http://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2000/data/ron0006a.pdf
日常生活とつながる「行政法」@郡山女子大学 レポート (再掲)
行政法の概念に、 「行政指導」と呼ばれるものが存在する。 行政は、 本来「行政行為」と呼ばれる、 命令する主体としての行政と、 名宛人の市民との 主体・客体関係が ハッキリしている手段で 運営されるべきものだが、 「行政指導」という、 極めて日本的な、 主体・客体関係が不明瞭な手段が、 行政の運営上横行している。 もっとも、 行政指導それ自体が問題なのではなく、 行政指導が、 本来強制力を伴わないものであるはずなのに、 従わなければ 往々にして 市民が制裁を加えられることが、 常態化しているという現実がある。 また、それに留まらず、 行政指導が 医療のあり方に絶大な影響を与えている。 どういうことか。 日本の医療制度において、 ある一定の地域に、 十分な病床数が確保されている場合、 新規に医療業者が参入しようとするとき、 保険適用が受けられず、 自由診療で開業せざるを得ない、 という現実が、 行政指導によって正当化されている。 これは明らかに 既存の病院の権益を守り、 新規参入者を 不当に排除している。 問題はこれに留まらない。 特に精神医療において、 1950年代にフランスで 画期的な抗精神病薬が開発され、 欧米先進国では 病床数が減っていったにも関わらず、 日本では逆に病床数が増えた。 これは、 戦後、精神病患者を建前上 しっかり治療しようとの方針から、 精神病院の数が増えたからである。 そこで、戦後、精神病院が増設される際、 一定の範囲で病床数を確保してしまえば、 地域の患者を独占できてしまう、 という経済的合理性によって、 精神病院が往々にして 大規模化したことが推測される。 言わずもがな、これは行政指導によって、 いったん多くの病床数を確保してしまえば、 新規参入者を排除できることが、 精神病院の大規模化を促したと 容易に考えられる。 そして、元厚生労働大臣が、 戦後日本の医療制度を構築した 武見太郎の息子である武見敬三である現実では、 これが改められる可能性は極めて低い。
キリスト教哲学の歴史@八戸サテライト レポート (再掲)
アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。
カント「実践理性批判」を読む@大宮 レポート (再掲)
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を題材に、人間の行為における善とはなにか、を考察する。 芥川龍之介は、自殺の時点で枕元に聖書を置いていたことが知られており、 キリスト教への関心があったことは疑いない。 その上で、 「蜘蛛の糸」を読み解くとき、 天上から地獄へと 救いの糸を垂らすのは 釈尊であるという設定であるが、 ここでは キリスト教的神であると置き換えたい。 そのほうが構図が簡潔になるからである。 なぜなら、 カント哲学においては、人間は神に対して アクセスできないが、 神は人間に対してアクセス できると考えられているからである。 これを前提とした上で、 人間の倫理がいかに成り立ちうるかを 考えたとき、 2つの考え方が可能である。 1つ目は、神の意志や行為は人間には 計り知れないのだから、 人間がどんな行いをしても 神はそれを赦しもするし裁きもする、という 発想である。 2つ目は、やはりそうは言っても、 人間と神とは完全に切り離された存在ではなく、 人間は神の意志や、その行為の意味を 感じたり考えたりすることが 可能である、という 発想である。 カント哲学においては、 人間の悟性では神の行為や意志を 計り知ることはできないが、 また神の存在を否定することも 不可能である、と 捉えていた。 しかし、これは 神がすべての事象を意のままに決定しうる、 という可能性を含意しており、 ある種の決定論に陥ってしまう。 デービッド・ヒュームの懐疑論は、 因果律を否定することにより、 この決定論に風穴を開けた。 ここでカント哲学は新たな可能性に開かれる。 なぜなら、 すべてが神によって決定されているわけではない以上、 人間が自らの悟性によって 自らの倫理を考える、という 「自由」を 手に入れたからである。 そのうえで、あらためて 「蜘蛛の糸」を 考察してみよう。 神はカンダタに対して 救いの可能性を示したが、 カンダタは 自分の利得のために 他人を犠牲にしたことによって、 神から見放される。 つまり、神から人間には 救いの可能性という点で アクセスが可能なのだが、 人間(カンダタ)から 神に対しては 自らの救いの可能性を選択する余地がないのである。 それはなにゆえなのだろうか? カンダタが善なる行いを しなかったからだろうか? しかし、それでは 人間にとって 善とは何かを、人間(カンダタ)が 選択する余地はなく、 すべて神が決定していると 読めてしまう。 これが果たして人間にとって 「自由」といえるだろうか? カンダタは、自分の救済の可能性のためには、 他人を犠牲にせざるを得なかったのである。 言い換えれば、自らの生命のためには そうする他なかったのである。 ここから導き出されることは、 人間は「善き生」のためには、 みずからの生命さえも 犠牲にしなかればならない、という アリストテレス的な「善」の考え方であると考えられる。
ビジネスと経済学@茨城大学 (再掲)
小山台高校の生徒が、シンドラー社製のエレベーターに挟まれて死亡した事件があったけど、あれは、マンションの管理組合がメンテナンス代をケチって、他の業者に委託したのが発端らしい。 あんまり詳しく書くと、面倒なことになりそうだから、これくらいにしとくけど、シンドラー社製のエレベーターに欠陥があったというより、エレベーター本体の価格は低く抑えて、メンテナンス代で儲ける仕組みが災いしたのかも。 本体価格を低く抑えて、付属品などで儲ける商品の典型が、プリンター。 プリンター本体の価格は低く抑えて、インク代で儲けてる。 しかし、ここにもシンドラー社製エレベーターと同じ構造があって、高いインク代に目をつけて、第三者企業が代替インクを低価格で販売し始めて、それに対してプリンター会社が対抗策を講じたりとか。 とにかく、二日間で面白い話がたくさん聞けました。
アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)
自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。
ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 レジュメより (再掲)
問い:幸福とは何か。
ソクラテスは誰でも、これは、自分で人生を「設計してゆく」という発想と結びつくことである。
したがって、<配慮するもの>をもち、配慮を重ねてそのつど考え、行動する自分の人生設計者としての「一人称特権」のようなものは、幸福を問題にするとき、なおざりにできない。
たとえあることが自分のためであっても、それを押し付けられたのでは「自分の人生」ではなくなる。
ソクラテスは、このような一人称の問題があることに反して精神や徳に気を遣えといっているのではなく、
この問題があるからそれに沿うように「気を遣うもの」を考えさせようとした、
その場合、精神的なものや徳に気を遣うことは、あなたにとって納得できる方向になるはずだ、という語りかけをしている。
☆人生を「まじめに」考えること
1.幸福の中身は「一人一人の問題」であり、他人に勧告されるには及ばない。
しかし幸福というものにまつわる「構造」や「形式」の問題は、単に「その人の問題」であるのではない。
われわれの「人生の夢」の見方は、お互いに、似ている。
構造や夢の見方を「知る」ことは、自分の「一人称」としての資格や個人の強さを上昇させてくれそうに思える。
2.問題なのは、人が「分かりやすい資格として」もしくは何らか「世間的に」上昇するということではない。
たとえば、社長になるとか出世するとか大学教員になるとか有名人になるとか金持ちになるとかではない。
実質的に自分の人生に対してよい位置を占めるようになることである。
したがって、ほんとうに行動が「自分のもの」として首尾一貫して統御されていること、
ほんとうの気持ち・実感から発想したことが
同時に知性の表現にもなっていることが目標になる。
3.ソクラテスはここで、「知性」にふさわしい課題がじつは数多くあり、
それを追求しながら生きてゆくことが幸福につながる、と語りかける。
われわれの生活は、目的・手段の関係を持つ多くの行為からできている。
お金儲けや名声・地位等のためのことは、
お金・名声・地位・容姿等で何をするかという、
「次の問い」を予想する。
ここから、人間らしい生活は、「その先」を考えるところまでいかなければ
成就しない、という結論を導くことができる。
4.この「その先」は、一人一人が考えながらでなければ、結論は得られない。
ここが、ソクラテスの「幸福にする」ことの(ある意味で)厳しい意味内容である。
かれがその先のことを本人に代わって教えるのでは、何にもならない。
これは、あくまで自分でやっていくという話なのである。
5.また、知性にふさわしい課題を追求することは、それ専用の「研究室」や「教室」のようなところで
行いうるものとは考えられていない。
実人生で問題にぶつかりながら、人生自体が形を変えてゆく。
2025年1月4日土曜日
近代日本の炭鉱夫と国策@茨城大学 レポート (再掲)
茨城大学強いわ。ここんとこ毎学期茨城大学行ってるけど、今回もめちゃくちゃ面白かった。面白いという言葉では言い表せない。アタマをバットで殴られるくらいの衝撃を感じた。 石炭産業を語らずに近代日本の経済発展は語れないと言って間違いない。 にもかかわらず、おおっぴらに語られることはほとんどない。 あたかも繊維産業が花形で日本経済の繁栄をほとんどすべて牽引したかのように語られている。 裏を返せば、それほどまでに、石炭産業を語るということは、現在に至るまで日本の暗部を映し出すことになるのかも知れない。 (以下レポート) 今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。 ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。 日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。 しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考えると、グローバリゼーションに対応しながら国民的自己決定を達成するには、国をまさに富国強兵のスローガンの下で一致団結させる必要があり、そこでは多様な民意というものを反映することは困難であり、したがって表現の自由が抑圧され、民主主義は達成できない、と考えられます。 戦前の日本に照らして考えると、前近代の村社会が国家組織の末端に組み入れられ、その中で炭鉱夫が生きるための最後の手段として究極のブラック職業として見なされていたこと、それでも西欧へ肩を並べなければならない、という官民一体の国家的意識のなかで、脅迫的に近代化へ歩みを進めざるを得なかった状況では、社会の底辺としての炭鉱夫には、およそ政治参加、すなわち民主主義の恩恵に浴することは出来なかった。それはとりもなおさず炭鉱業というものが本来的に暴力的であり、同時に「国策」としての帝国主義的性格を多分に内包していたことと平仄を合わせています。 中国のウイグル人の抑圧と戦前日本の坑夫を重ねて考えると、そのような構図が透けて見えてきます。
「グローバル経済史」質問と回答 (再掲)
質問:イギリス産の石炭は、近くに大きな市場が存在していたのでしょうか?と、言いますのは石炭は酸化しやすいために、良質な石炭であっても、市場が近くに存在し、かつ大きな需要がないと、不利だと思われるからです。むしろ、石炭を輸出するよりも、自国の蒸気船の燃料として使用していたのでしょうか?よろしくお願いいたします。 回答:「イギリス産の石炭は、近くに大きな市場が存在していたのでしょうか?」というご質問ですが、端的に答えますと、おっしゃる通りです。イギリス炭の大部分はイギリス国内で消費されていました。イギリス国内の工場や機関車など、蒸気機関を回すためにイギリス炭が使用されていたのです。一部が海外に輸出されており、さらにその一部が世界各地の港で蒸気船用にストックされていたにすぎません。 なお、イギリス炭の輸出割合については以下の学術論文をご参考ください。 https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202911690368 「機関リポジトリ」をクイックし、次の関西大学の画面から当該論文のPDFが入手できます。そして、この論文の表1に輸出割合が示されております。 島田竜登
「近現代ヨーロッパの歴史」質問と回答 (再掲)
質問:いわゆる人権宣言のなかで、経済活動の自由化とともに、ギルドなどの中間団体(社団)の廃止の改革が矢継ぎ早に実施された、とあるのですが、これは、当時のイギリスに対抗する措置として捉えればよろしいのでしょうか?ギルドというのは、それほどまでに、当時、非効率・閉鎖的で、かつ政治権力も有していたということでしょか?それをイギリスに対抗すべく、近代的な大量生産体制へと変貌させようという意図があったと考えてよろしいのでしょうか? 回答:フランス革命中の1791年3月に制定されたアラルド法により同業組合が禁止され、同年6月のル=シャプリエ法により組合組織の結成やストライキが禁止されました。これらの法令は、個人間の自由な契約のみが社会の基礎であり、個人の自由を束縛する社団は廃止されるべきであるという考え方に基づくものです。その意味で、社団(中間団体)の廃止は、貴族制の廃止(身分制の廃止)と同列のものでした(山崎耕一『フランス革命』刀水書房、2018年、92~93頁参照)。したがって、これらの法令はイギリスに対する対抗というよりは、フランス革命の理念そのものに基づくものであったと考えた方がよいでしょう。また、革命直前のギルドが閉鎖的で非効率なものとなっていたことはあるとしても、それほど大きな政治権力をもっていたとは言えません。さらに、ギルドの廃止によって「近代的な大量生産体制に変貌」させるという意図があったとは言えないでしょう。
まぼろしー
石丸伸二さんとか
斎藤元彦さんて、
地方自治体の
首長だから
務まるけど、
正直
国会議員になって
果ては
総理大臣ってのは、
無理だと思う。
石丸さんとか斎藤さんが
斬新に映るのは、
地方自治体の
首長という、
意思決定プロセスの構造としては
内閣総理大臣よりも
遥かに
権限が強いから、
議会議員の’既得権’を
暴露して
モロ
対決姿勢とって、それに
キモチヨサを
覚える人たちから
拍手喝采浴びるけど、
国会議員て、
基本
選挙区で言うことと
いざ
当選して
国会で主張することって、
どうしても
違ってくる。
つまり、あんまり
カッコつけられない。
でも、
これは
国会議員という
政治アクターの宿命だから、
それを
ダブルスタンダードとか言うのは、
子ども染みてる。
つまり、
石丸さんや斎藤元彦さんみたいに
地方の
首長として
議会と対決して
カッコよく見せる手法は、
国政では
ムリ。
意思決定のプロセス自体が
そういう
構造になってない。
内閣ってのは
合議体だから、
単純に
内閣総理大臣てだけで
なんでもかんでも
キレイに
決められない。
そういう意味では、
地方公共団体の首長みたいに
カッコよく
なれない。
それが
わかんない人が、
石丸さんや斎藤元彦さんだったら
日本を変えられる、と
勘違いする。
繰り返すが、
日本の国政レベルの意思決定の
構造は、そんなに
カッコつけられるような
建て付けになってない。
言い換えれば、
内閣総理大臣というのは
そんなに
独断で決められない。
内閣はあくまで
合議体だから。
そこが
国政の難しさ。
ただし、2024年の
12月に
日経新聞の
「私の履歴書」に
寄稿してた
ジェラルド・カーティス
米コロンビア大学名誉教授
によれば、
選挙制度が
小選挙区制度になったせいで、
小泉さんや安倍さんみたいな
タイプの政治家が
首相になれば、
強い
権限を持てる、とも
書いていた。
実際、小泉元首相は
カーティス氏と
会食する際、
小選挙区制度という
選挙システムは
首相には最高だが
ヒラの議員には最悪だ、と
たびたび
口にしていたそうだ。
・・・つまり、何が言いたいかっていうと、
政治的メシアニズムは
ヤバいだけだから
やめとけ、ってこと。
国レベルの政治に
そんなに
夢を見るべきではない。
それは
歴史を勉強すれば
わかる。
・・・なんだかんだ
垣見先生の
行政法と、
山岡龍一先生の
政治学入門の
内容を
我ながら
ちゃんと
理解して
活用できてるな。
政治学入門は
単位来るか
わからないけど、
授業の内容自体は
すげえ
身になってる。
あの
三島での2日間の
面接授業は、正直
山岡先生の
愛だと思う。
もちろん、
垣見先生の
行政法も
素晴らしかったが。
政治を見る目が
身についた。
2025年1月3日金曜日
なんてこった・・・泣きたくなる
日経新聞も
つまんねーし、
テレビに
絶望したから、
もう
ストレートニュースは
NHKのラジオで
聴けばいいや、と
思ったんだが、
確かに
決まった時間に
ストレートニュースは
流すが、
あんまり
面白くない。
しかも、
ストレートニュースが
終わった途端に、
ロリコンコンテンツが流れる。
これじゃ
聴いてられない。
ふと
思い出して、
FENなら
英語で情報仕入れられるんじゃないか、と
思って
調べたが、
もう
FENは
普通のラジオでは聴けない。。。
・・・そしたら、
韓国KBSラジオしかねーじゃん。
なんてこった・・・
ストレートニュースも
エンタメも
韓国のラジオに
頼る日が来たのか。
情けない。
情けない。
情けない。
日本は
ここまで
堕ちたか。
・・・ちくしょう、
韓国KBSラジオ
やっぱり
いいコンテンツ
流してんだよ。
まさか
こんなことになるとは。
こんな
つもりで
韓国語勉強してた
わけじゃないのに。
TBSはいよいよ本気で頭オカシイ
モニタリングって番組の
番宣してたが、
仕掛け人が
木村拓哉で、
ドームに5万人
集めて
3代目Jナントカを
騙して、
それを
撮影した動画を
全国に
流すらしい。
・・・正気か?
新年3日目で
やることが
これか?
本気で
頭オカシイとしか
思えない。
いよいよ
釜の底が抜けたな。
醜い生活保護受給者叩き
ふと思ったんだが、
生活保護受給者叩きも、
没落した
元
中流階級が
自分より
下が
いる、と
確認したいだけ
なんだろうな。
なるほど、まさに
エーリッヒ・フロムが
看破した通りだ。
ここに
「強いリーダーシップ」が
現れると、
政治が
ますます
暴走する。
まさに
「自由からの逃走」だ。
こうなると、もう
止まんないよね。
自分より
ちょっとでも
いい暮らしをしてる
奴は、
自分と同じレベルまで
貶めないと
気が済まないんだから。
ドラゴン桜にしても
ビリギャルにしても
そうじゃん。
結局
「けーおー」
も
「とーだい」
も、
もしかしたら
自分でも手が届くかも
っていう
レベルまで
落としたいだけでしょ?
あんな
くだらないコンテンツに
すがってる
時点で、
もう
ヤバい。
とにかく
自分より
ちょっとでも
優れた存在が
許せないんだから、
そら
もう
どん底へ
まっしぐらよ。
そこへ、
「強い
政治家」が
現れる。
歴史は
繰り返さないが、
韻を踏む。
Googleの生成AIの回答
MMT理論と世界の金融システムについての深い考察、ありがとうございます。
ご指摘のように、MMT理論は、特に自国通貨発行権を持つ国において、財政政策の柔軟性を強調し、国境を超えた資金循環の重要性を説いています。しかし、ご指摘のように、この理論にはいくつかの重要な前提とリスクが伴います。
MMT理論の限界とリスク
インフレリスク: MMT理論は、インフレが起きない限り、財政赤字を拡大しても問題ないと主張しますが、過度な財政支出はインフレを誘発する可能性があります。歴史的に見ても、インフレは経済の安定を脅かす深刻な問題です。
通貨の信認: MMT理論が前提とするのは、自国通貨に対する国民の信認が極めて高い状態です。しかし、過度な財政赤字やインフレは、通貨の信認を損ない、結果として経済の混乱を招く可能性があります。
国際的な金融システムとの関係: MMT理論は、閉鎖的な経済ではなく、グローバルな金融システムの中で機能する経済を想定しています。しかし、国際的な金融市場は複雑であり、各国の政策決定は相互に影響を与え合います。ある一国の政策が、他の国の経済に悪影響を与える可能性は常に存在します。
政治的なリスク: MMT理論の政策実行は、政治的な決定に左右されます。政治家たちは、短期的な人気取りのために、MMT理論を過度に利用しようとする可能性があります。
サブプライムローン・ショックとの比較
ご指摘のように、サブプライムローン・ショックは、MMT理論が抱えるリスクを端的に示す事例と言えるでしょう。アメリカが、世界に過剰な量の資金を供給し、その結果として生じたバブルが崩壊したという経緯は、MMT理論が描く楽観的なシナリオとは対照的なものです。
アメリカの役割と今後の展望
アメリカは、世界経済において重要な役割を担ってきましたが、その役割は変化しつつあります。トランプ政権下では、「アメリカ・ファースト」の政策が打ち出され、多国間主義からの転換が試みられました。しかし、バイデン政権下では、国際協調の重要性が再認識されつつあります。
日本の課題と今後の展望
日本は、少子高齢化や財政赤字という深刻な問題を抱えています。MMT理論は、これらの問題に対する一つの解決策として注目を集めていますが、その有効性については慎重な検討が必要です。日本は、財政健全化と経済成長の両立という難しい課題に直面しており、その解決のためには、長期的な視点に立った政策の立案と実行が求められます。
まとめ
MMT理論は、従来の経済学とは異なる視点から、財政政策のあり方を問い直すものであり、議論を深める上で重要な意味を持ちます。しかし、MMT理論が万能の解決策であるとは考えられません。MMT理論のメリットとデメリットを十分に理解し、それぞれの国の状況に合わせて、適切な政策を選択していくことが重要です。
ご自身の考えを深めるために、以下の点について検討してみてはいかがでしょうか。
MMT理論の具体的な政策例とその効果
他の経済学理論との比較
日本におけるMMT理論の実現可能性
世界の金融システムの将来展望
この議論は、非常に複雑かつ重要なテーマであり、今後も様々な角度からの検討が続けられると思われます。
もし、特定の点についてさらに詳しく知りたい場合は、お気軽にご質問ください。
例えば、以下のような質問はいかがでしょうか。
MMT理論の創始者や代表的な経済学者は誰ですか?
MMT理論が実際に導入されている国はありますか?
MMT理論に対する批判的な意見にはどのようなものがありますか?
ご自身の興味のある点に合わせて、質問をしてみてください。
MMT理論
たぶん
MMT理論が言いたいのは、
世界の金融システムが
完全に
流動的で、国境も
関係ない
フラットな世界だったら、
コロナ禍のときに
FRBが
そうしたように、
いざとなったら
アメリカがいくらでも
ドルを供給してくれるから、
日本が
いくら
借金垂れ流そうが、
最終的には
グローバルな資金循環のなかで
解消されるから
関係ない、って
ことなんだろうけど、
それって
サブプライムローン・ショックの
理屈と同じだよね。
アメリカが、
もう
日本みたいな
モラルハザード起こした国には
潰れてもらう、と
思ったら、
即終了。
かくいうアメリカも
ドル安志向で
世界市場にドルを
垂れ流す傾向にあったわけだが、
それが
いつまでも
続く保証は
どこにもない。
ニクソン・ショックみたいに、
突然
方向転換するのが
アメリカ。
基本的に
アメリカ・ファースト。
アメリカの見せかけの善意を
いつまでも
信用するのは
間違い。
とはいえ、アメリカはアメリカで、
第二次大戦の惨禍を
教訓として
世界秩序の安定に
貢献してきたわけだが、
それを
突然
放棄する可能性は
十分ある。
トランプさんは
そういう人。
日本は腐ったリンゴ。
モラルハザードが酷すぎる。
国土論 (再掲)
「敗戦にいたるまで国土に固有の曲率を与えていたのは天皇の存在であった。だが、天皇が『われ 神にあらず』と表明したときから、天皇の像は国土に曲率を与える重力の中心からゆっくりと落下していく。重い力は天皇から無言の死者たちに移動する。聖なるものはむしろ死者たちであり、天皇もこの死者たちの前に額ずかねはならない。この死者たちはその痛ましいまなざしによってしか力をもたないとしてもである。それゆえ戦後社会が天皇とともに超越的なものを失ってしまったというのは正しくない。そこには報われぬ死者たちというひそかな超越があり、天皇は皇祖神を祀るだけでなく、この無名の超越者を慰霊する司祭として、ゆるやかな超越性を帯びるからである。」137ページ 国土論 内田隆三 筑摩書房
韓国KBSラジオ放送
まだ
語彙も文法も
仕上がったわけじゃないが、
ある程度
自信がつくと、
不思議に
今まで
聴き取れなかった
韓国KBSラジオ放送が
聴き取れるように
なってきた。
もちろん
完璧にではないが。
韓国KBSって
日本でいえば
たぶん
NHKみたいなもんなんだろうけど、
結構
面白いね。
K-POPとかも
流してて、
聴き取れると
超面白い。
景気が良かったころの
日本の
お台場みたいな感じ。
なんつーか、ああ
これじゃ
日本が韓国に
負けるのも
当然だな、と
思うわ。
日本て、もう
芸能も政治も
素人とか、下手すりゃ
ガーシーみたいな
筋金入りの
バカが
やれるものに
なっちゃったわけじゃん。
時事ニュースにしても、
北朝鮮とモロ接してる
韓国のほうが
遥かに
危機感持ってるよね。
こりゃ負けるわ。
実際、一人当たりGDPで
韓国に
抜かされたしね。
エンタメにしても、
正月早々
ドラゴン桜とか
くだらねー
コンテンツ
流してるようじゃ、話しに
なんねーよ。
あんな
くだらない
クソコンテンツいつまでも
ありがたがってるようじゃ、
そりゃあ
勝てねーよ。
ビリギャルとかね。
論外。
2025年1月1日水曜日
ヤバくない?
日経新聞が
つまんない。
ふと思ったんだが、
これって
団塊の世代が
みんな
リタイアしたからかな?
だとしたら、
他の
日本企業も
みんな
そうじゃん。
だとしたら、もう
日本沈没だよ。
日本企業全体が
ことごとく
クソな
コンテンツしか
作れないって、
ヤバすぎでしょ。
なるほど、これが
2025年問題か。
確かに
恐ろしいわ。
正直
日本は終わった
と
思う。
今度は
リタイアした
団塊の世代を
社会保障で支えなければ
いけないというのに、
次世代が
育ってなくて、
さらに
子供の数が
どんどん
減ってく?
話しにならない。
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