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11月, 2022の投稿を表示しています

日経新聞

2,3年くらい前から 日経新聞を 定期購読してるけど、 日々 読むに値する 記事があって、 生活にハリが出る。 それもこれも、 瀧川好夫先生の 「金融経済論」の 面接授業のおかげ。 金融経済論1、2、3 と、 3度も 面接授業に行かせてもらった。 瀧川先生は、 「これは日経新聞を読めるようになるための授業」と 仰ってたけど、 ほんとその通り。 どういうところに 気をつけて 読んだらいいか、を 教えていただいたことで、 毎日日経新聞読んでも 苦にならない。 少なくとも、 これまで 継続して読めている、 ということは、 貴重な財産。

DIE HAGIUDA !

https://news.yahoo.co.jp/articles/8b107f8a4c27bb5f343858bccd149fcd90943d3c なぜとりあえず2年間なのか? 2年もしたら 日本国民は 忘れてるって言いたいんだろ? なし崩しが見え見えじゃねーか。 どうせ 2年もしたら、 「こんなに景気が悪いのに増税できない。」 でオシマイだろ? ほんとウゼーんだよ。 西田昌司も こいつも くたばれ!

ブラックフライデー

そういえば、 瀧川好夫先生が、 インタゲで、 日本で インフレが起きなかったのは、 世界中で 価格競争してるからかな? ってボソッと 言ってたね。 確かに、 アマゾンで お買い物したら、 安かったよ。 使ってるパソコンも グーグルだし。 東芝のダイナブック10年使ったけど、 最後は 挙動が遅すぎて 我慢できなくなった。 アマゾンでグーグルのノートPC買ったけど、 こんなに 安くて 大丈夫か? ってビビったよ。 ちゃんとセキュリティーもたぶん万全だし、 さくさく動いて、 気持ちいい。 ブログまで グーグルだしね。 もうプラットフォームは 何から何まで アメリカだよ。 facebookまでやってるし。 Gmailも使ってるし。

啓蒙という時代と漱石

で、どうなのよ? 面接授業受けてきて。 近世ロシア史の 授業を受けた時にも ちょっと 思ったけど、 日本にとって 一番近い 「西欧」って、 その当時は ロシアだったと思うし、 ちょっと漱石よりも 時代は早いけど、 ちょうど 時代の流れとして、 啓蒙専制君主3人組の影響は 無視できないよね。 ロシアのエカチェリーナ2世、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ、プロイセンのヴィルヘルム・フリードリッヒ2世。 この国々を、 日本はお手本にしてたんだから、 追いつけ追い越せで、 啓蒙は疑いもなく良いものだ! というノリでやってたんだろう。 その 啓蒙理性に身を投じながらも、 反発を覚えた、という筋も、あるだろう。 現実に、 その当時の 日本社会は、 劇的に 変化し続けていたのだから。

万機公論に決すべし?

https://news.yahoo.co.jp/articles/5594b04787a9bec56b8dc74727108a25c8a2f596 ヤフーコメントも、 以前は2ちゃんねるレベルだったけど、 どうやら 投稿時に ケータイ電話の番号を入力 する ことになったらしく、 (そんなアナウンスしてた) コメントの内容が だいぶ マトモになってた。 やりゃあ出来んじゃねーか。 俺は ヤフーコメントなんか 興味ないけど。 それはそうと、 都立大学の切りつけ事件、 被害者はあの 宮台真司氏だったのか。 怖い世の中だ。 中には 宮台さんがいるから 都立大に来た、 という学生も 少なからずいるだろう。

放送大学のいいところ。

案外、放送大学のほうが 本質的なことやれるんじゃないかな? 一番大きな理由は、 教える側が、 学生の 就職を気にしないで 済むところ。 現実に 就活の手助けするケースは おそらくほとんどないだろうし、 従って、 変に 単位をあげるかどうかを 気にしなくていい。 学生は学生で、 最近は 中途半端な年齢層も 散見されるけど、 就職目当てで 入ってくるやつはほとんどいない だろうし。 俺みたいに 大学卒業を目的にして 入ってくる 若いやつはいるっぽいけど。 教える側も、 予備校じゃないから、 試験に通すために 手取り足取り教える必要に 囚われないし、 専門的に 教えたいことを教えればいい。 学生のレベルも ピンキリだから、 わかんなきゃわかんないで、いいし、 中には気合の入った学生もいるから、 それなりに 専門的なことを教えられる。 それに、 各々が 好き勝手に教える、というより、 どうやら 運営側で 教える内容の擦り合せ みたいなのが あるらしいので、 無駄に 重複したことをやらないのも、いい。 かといって 無駄に 単位取得が難しいわけではなく、 放送授業ならば 通信指導をちゃんと通すために 勉強させることで、 本番で面食らう、 ということも 少なくなってきた。 面接授業は、 令和元年から レポートか試験が必須になったので、 まえよりかは 単位取得の難易度は上がっているはずだが、 そのぶん 授業の内容は 締まってきた感じがする。

近代日本内閣史@神戸大学

河島真先生の授業でした。文系がますます疎んじられる風潮の昨今、なかなか聴けない話を聴けて、大変貴重な経験でした。自分の頭のなかも、だいぶソリッドになってきたね。明治大正時代を、経済からも、政治からも見れる、というのは、大きな強味になる。翻って、森本先生のジェンダー論も、具体的な時代背景を踏まえた上で、説得力を持って感じられるようになった気がします。

政策割当の原理 (再掲)

質問:中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、とありますが、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか?あるいは、新古典派経済学では「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか? 回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。すなわち、「政策割当の原理」です。したがって、「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要となります。  本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。本来の金融政策の目標(物価の安定)と異なるため黒田日銀総裁は「異次元の金融政策」という言葉を使ったのです。このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。このシナリオどおりに進めば、もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。ただ、経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります。したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため「財政再建」が先送りになってしまいます。それゆえに、「財政再建」の政策目標の一環として消費税の引上げが考えられています。このように、「政策割当の原理」は成立しています。https://news.infoseek.co.jp/article/joseijishin_2068465/

行政法 (再掲)

質問:今年(2018年)8月21日に、菅官房長官が、記者会見で、携帯料金を4割値下げする、と発言し、auをはじめとする携帯会社の株価が一時下落しました。 要件としては、①官房長官は行政庁か②官房長官の記者会見は行政行為か③損失を被った株主の原告適格、の3つと考えられます。 一番の論点は②の官房長官の発言は行政行為か、と思われます。仮に取消訴訟で勝って、官房長官の発言が無効とされたとしても、株価が戻るかは不確実で、損害賠償もしてもらえないとなれば、わざわざ訴訟を提起するのはデメリットのほうが大きくなってしまいます。 文字数制限の都合で、論理が飛躍している部分がありますが、ご容赦ください。 ご回答:ご質問ありがとうございます。まず①との関係では、官房長官は行政庁には当たりません。行政庁とは、行政主体(ご質問との関係では国)のために意思決定を行いこれを表示する権限を有するものをいう(印刷教材45頁)のですが、携帯電話事業に対する事業認可の権限をもっているのは総務大臣でして、官房長官が料金設定についての発言をしてこれが料金設定に影響を及ぼすとしても、それはあくまでも事実上のものだからです。また、質問事項②については、行政行為とは、行政庁が法律に基づき一方的に国民や住民の権利義務の個別的・具体的な内容を直接確定する行政機関の活動形式をいう(印刷教材70頁参照)わけですが、官房長官の記者会見は、法律に基づき国民や住民の権利義務の個別的・具体的な内容を確定するものということができませんので、行政行為に該当するということができません。さらに質問事項③につきましては、原告適格以前に問題となることがあります。それは、官房長官の発言が取消訴訟の対象となる「行政庁の処分」(行訴法3条2項)の要件を満たさない、ということです。つまり、「行政庁の処分」とは、「公権力の主体たる国又は公共団体が行う行為のうち、その行為によって直接国民の権利義務を形成し又はその範囲を確定することが法律上認められているものをいう」とされている(印刷教材170頁参照)のですが、官房長官による記者会見での発言は、国民などの権利義務の個別的・具体的内容を確定するという法的な効果を発生させるものではないので、「行政庁の処分」という要件を満たしません。したがって、損失を被った株主の原告適格があるかないか、ということを問う以前に...

せっかく書いたので。

春休みは、韓国語のスキルアップを目指します。 具体的にうまく行くかどうかはわかりませんが。 ところで、女性にありがちですけど、「具体的にどうするのか教えてください。」 という言い方ですが、”具体的に”って、具体的にどういう意味なんですか? カレンダーにスケジュールを書き込んだら「具体的」なんですか? 裏を返せば、精神障害者はそうでもしないと、観念的なことばかり考えて、「具体的に」計画、行動できない、と言いたいんですか? だから、作業所に行けば「具体的に」何か行動をした、ということになるんですか? 結局、そうやってあなた方は精神障害者を心の内では見下しているんじゃないですか? こう言えば、あなた方はこう言うでしょう。 私は自分の未来に対して無責任だ、と。 なるほど、こういう理屈ですね。 「私は具体的に物事を考えていない」 「それは私自身の未来に無責任だ」 「だから作業所に行け」 これは、無敵の三段論法ですよ。 そうやって精神障害者を追い詰めることが、あなた方がやってる全てですか? あなたは、作業所に通うことが具体的にどう市役所の就職に繋がるのかを教えてくれませんでした。 市役所が、障害者に対して具体的にどういう素質を求めているのかも、教えてくれませんでした。 「具体的に」考え、行動していないのは、むしろあなた方のほうなんじゃないですか? 措置入院を喰らってから、18年経ちました。 それでも大学に復学し、中退し、編入学し、また中退し、そして編入学。 最終的に大学を2回卒業しました。 並大抵の苦労ではありません。 引きこもり中年DV男になってても、不思議ではありません。 病院で、あるいは退院後、作業所がどういうところか、雰囲気ぐらいは知っているつもりです。 いまさらあそこに通うことが、どれほどの苦痛か、屈辱か、想像してみてください。 https://www.youtube.com/watch?v=75Qyszz3RSg

やっこさんそう来たか。

茨城学習センターで、 来学期の シラバスをゲットして、 新設科目を 見てみたけど、 山岡龍一先生が メチャクチャ気合の入った 授業をぶちかましてくれる みたいね。 「全体主義と新自由主義のあいだ」と 来たよ。 すげー楽しみ♪ 新設科目だから、 来年の4月まで 待たなきゃいけないのが ツライところ。

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学

茨城大学つえー 今回も 大変貴重な お話が聞けました。 紀元前4世紀の人の 言ってることが、 現代の 日本人にも 通用するんだなー。 ソクラテス、プラトン、アリストテレスと 繋がる 西洋政治理論の伝統が、 キリスト教の教義と絡まりあうかたちで 生きているからこそ、 欧米ってのは 強いんだな、と再認識。 もちろん、 これは 八戸サテライトで受けた 「キリスト教哲学の歴史」とも 絡んでくることは 言うまでもない。

憲法記念日 (再掲)

質問:平成28年度2学期の放送大学東京文京キャンパスで行われた面接授業「統治機構を憲法から考える」を履修したものです。 いきなりで恐縮ですが、ひとつお伺いしたいことがあります。 日本国憲法第66条3項は「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。」と規定しています。 これはイギリス式の、議院内閣制を定めたもの、つまり、議会の信頼の上に内閣が成り立っている、と解釈できると思われます。 しかし、現況では、野党が弱く、与党議員の多くが当選2回のペーペーで内閣に到底モノを言えるような力がないなかで、内閣が暴走し、とても議会に連帯して責任を負っているとは言えない状況にあると思われます。 日本国憲法はアメリカ式と思われますが、アメリカであれば、大統領令に対しても積極的に違憲であると権力を発動しますが、日本ではそうではありません。 これは、アメリカ式の憲法を採用しながら、(戦後)イギリス式の議院内閣制を採用した日本の統治機構の構造的欠陥と言えるのでしょうか? ご多忙のことと存じますが、ご回答賜れれば幸いです。 ご回答:メールありがとうございます。  議院内閣制は、議会と政府の共同活動を前提としています。しかし、政府・内閣が暴走する場合には、議会のコントロールに服するという「責任本質説」に基づき、内閣は連帯して議会に責任を負い、議会下院は内閣に不信任の決議をすることができます。  とはいえ、議会多数派である与党議員が、政府・内閣の意向に承認ないしは追従する限り、政府・内閣は、多数議員に体現される民意に基づき、政治をリードすることになります。政府・内閣が暴走しているとして政府・内閣を抑止することができるのは、主権者である国民であり、選挙という手続きに基づき行われます。  日常的には、テレビ・新聞などのマスメディア、世論調査、SNSなどによる言論表現活動において、政府・内閣の暴走を批判することができます。しかし、政府の意見は、「政府言論」として政府の自制がない限り、たとえアジテーションであっても広く国民に広がるのが現実です。  ここまでは、ご質問の前提です。では、アメリカとイギリス、そして日本の立ち位置について考えてみます。  日本国憲法は、確かに、GHQの考え方すなわちアメリカ法思想を前提にしていますが、マッカーサーは、日本が戦前も議院内閣制の政治制度を採用したこと...

「顔の現象学」とキャラ 渡辺靖先生の研究会で提出したレポート (再掲)

ところで、ルソーは疎外論の元祖だそうである。 「ホントウのワタシ」と「社会的仮面を被ったワタシ」の分離という中学生が本能的に感じるようなことに言及していたそうである。ここで、いわゆる『キャラ』について考えてみよう。 サークルの飲み会で、場にあわせてドンチャン騒ぎをやることに倦み果てて、トイレに逃げ込んだときに自分の顔を鏡でみるのは一種のホラーである。鏡に映る、グダグダになって油断して仮面を剥がしかけてしまった見知らぬ自分。それを自分だと思えず一瞬見遣る鏡の前の男。男は鏡に映る男が自分であることに驚き、鏡の中の男が同時に驚く。その刹那両方の視線がカチあう。俺は鏡を見ていて、その俺を見ている鏡の中に俺がいて、それをまた俺が見ている・・・という視線の無限遡行が起こって、自家中毒に陥ってしまう。 このクラクラとさせるような思考実験からは、<顔>についてわれわれが持っているイメージとは違う<顔>の性質を垣間見ることが出来るのではないか。そもそも、自分の顔は自分が一番よく知っていると誰もが思っているが、鷲田清一によれば、「われわれは自分の顔から遠く隔てられている」(「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22)という。それは、「われわれは他人の顔を思い描くことなしに、そのひとについて思いをめぐらすことはできないが、他方で、他人がそれを眺めつつ<わたし>について思いをめぐらすその顔を、よりによって当のわたしはじかに見ることができない。」(P.22)からだ。 言い換えれば、「わたしはわたし(の顔)を見つめる他者の顔、他者の視線を通じてしか自分の顔に近づけないということである。」(P.56)ゆえに、「われわれは目の前にある他者の顔を『読む』ことによって、いまの自分の顔の様態を想像するわけである。その意味では他者は文字どおり<わたし>の鏡なのである。他者の<顔>の上に何かを読み取る、あるいは「だれか」を読み取る、そういう視覚の構造を折り返したところに<わたし>が想像的に措定されるのであるから、<わたし>と他者とはそれぞれ自己へといたるためにたがいにその存在を交叉させねばならないのであり、他者の<顔>を読むことを覚えねばならないのである。」(P.56) そして、「こうした自己と他者の存在の根源的交叉(キアスム)とその反転を可能にするのが、解釈の共同的な構造である。ともに同じ意味の枠をなぞってい...

無聊を託つ (再掲)

暇だな・・・ 暇なら働きゃいいじゃん、 母親も、 何も言わず 一人で郵便局行けるほどに回復したし。 しかし、 俺が暇だから働く、 となれば、 母親はどうなる? 俺より暇じゃないのか? 暇だってそれなりに苦痛であることを 理由に、働こうかな、なんて言ってる息子が、 母親を放置していいんだろうか。 ん?でも俺って、実はそれなりに体力ついてきたんじゃないか? 連日エキサイトしてるのに、それなりに朝早く起きられるし。 睡眠の質もいいし。 ところで、最近また世間のマインドがデフレの方向に向かってる気がする。 テレビとかでも、いかに食事などを安く済ませるか、という内容が散見される。 母親も、飯尾和樹がワンコインで賢く食費を浮かせてて、偉いと言っている。 円安と資源価格高騰による コストプッシュ・インフレの影響と、 それでも企業の価格転嫁が進まずで、 結局、名目賃金が上がったとしても、 実質賃金が目減りしているから、 当然と言えば当然なんだけど、 そもそも 期待インフレ率を上げて、実質金利を下げることにより、消費を喚起することが インタゲの主眼目のはずだったのに、 これじゃ本末転倒じゃないか。 ただのスタグフレーション。 黒田日銀は、日本経済を永久凍結させる気か? 見方によっては、富の分配の偏りは、消費の低迷によって 国全体を貧しくする、ということも言えるだろう。 そもそも、少子高齢化が進めば、 老人の支出が減るのは当たり前だし、 働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、 消費を控えるのは当然だろう。 それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。 政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 ...

「金融抑圧」でググってみた。

https://www.camri.or.jp/files/libs/614/201703291709043717.pdf もう、日本終わってるね。 規模ありきで 巨額の補正予算組んでるけど、 それは 国債の消化のために 家計の貯蓄が 使われるから、 景気の浮揚には 一向に 役に立たない。 ただ、 政治家の「やってる感」を 演出することだけは出来る。 デフレマインドが復活すれば、 家計はますます 現預金を貯め込み、 それが 国債を買い支える原資となる。 そして、 政治に対しては 積極財政と、 相変わらずの 大規模金融緩和を求める。 すべてが 終わっているが、 大方の国民には その自覚すらない。 どんなに蓄財したところで、 最後は 国税庁に全部搾り取られる。 あの、 安倍のケツ舐めて 長官に栄転した 佐川宣寿がトップやってたところに。 ヤッてらんねーわな。 そういや、 最近国税庁の職員 詐欺で逮捕されてなかったっけ? 官僚の劣化も酷いわな。 この国はもう 何から何まで 腐っている。

授業で聞いた話

植民地支配を受けた国は、 支配を受けている間、 原材料製造ばかりさせられて、 宗主国から 完成品ばかりを 輸入させられるから、 植民地支配から 独立しても、 簡単には 経済発展できない、 とのことでした。 これは 朝鮮半島に限らず、 世界各国の 植民地支配を受けた国に 共通して言えることだそうです。

中年の発想

若い頃は、 楽しんでる時が楽しい、 って 思うけど、 中年になると、 そのとき楽しかった、 というより、 思い出して ああ、 楽しかったな、 という 感覚のほうが強くなる気がする。 脳がボケてきて、 記憶があまり鮮明でなく、 むしろ 過去の出来事を 自分に都合よく 編集・加工して 思い出すからかも知れない。 若い頃は、 刺激をそのままイメージ化して、 記憶に留めることができるけど、 中年になると、 刺激を ストーリーに仕立てたり、 物語化しないと、 記憶に留めておくことが 出来なくなってくる。 つまり、 刺激そのものを消費するよりも、 物語を味わう、 という変化が生まれてくる。 うなぎ料理にしても、 単純に美味しかった、 というより、 あの時は 地方に面接授業に行って、 こんな内容で、 その時に友達が紹介してくれた、 あの店で、 疎遠になりかけた 親類に 結構値の張る贈り物をした、 等。 つまり、モノ消費から、コト消費へと、 消費の意味づけが変わってくる。 選択行動を発する当の本人でさえ、自分が選んだのはモノではなく、背後のコトだということを意識しているとはかぎらない。経済学者たちに「xとyのうちいずれを選ぶか」と問われたとき、「わたしはそのモノがほしい」ということで選んでしまったが、本当は「わたしがそのモノをもつ」というコトの意味を十分考えるべきだったと後悔するかもしれない。本人でさえも、背後にあるコトの選択は無意識に行ってしまうのだから、社会が人々の選択したモノから、人々の背後にある選択されたコトを抽出するのは容易ではない。たとえ選択行動は同一でも、選んだ人にはいろいろな「思惑」があり、それを、行動が一致しているということから、社会が「万人は同意見だ」とするのは明らかにおかしい。わたしたちが本当に選んだり、訴えたり、要求したりしているコトは、訴えている一つの事例の中で要求している内容の即時的満足ではないのである。 わたしたちは選ぶという行為を通して、自分が正しいと思うコトや、自分が良いと思うコトを、他人の正しいと思っているコトや、良いと思っているコトとつきあわせてみようとしているのである。 〈私が選ぶ〉という行為は、私の志向と他者の志向を突き合わせ、つまりはコミットし...

モーニングサテライト

パックンの投資語録、 めちゃくちゃ 英語の勉強になるから、 本にまとめて 出版してくれないかなー? 投資の話はそこそこでいいから。 あれ、 短い文だけど、 ちゃんと 韻を踏んだりしていて、 さっすが ハーバード! って感服しちゃうんだよなー。

近代日本経済史@北九州サテライト

はるばる九州まで行ってきました。 お金はかかったけど、 その価値が十分にある授業内容でした。 九州大学の鷲崎俊太郎先生の授業。 本来ならば 九州大学にいないと受けられない授業を、 2日間で濃縮して 講義を受けさせてもらいました。 夏目漱石を、 フランクフルト学派を代表する 思想家である アドルノから見る、ということを テーマとしている自分としては、 当時の時代背景を知ることは、マストです。 「近代日本経済史」という授業ですが、 放送大学入ってすぐの頃に 一度静岡で、静岡大学の日向祥子先生の 面接授業を受けているので、 そうすると、規定上 同じ名前の面接授業は 5年間受講出来ないのですが、 確か、2年前にも 鷲崎先生の「近代日本経済史」の 授業も開講予定だったのですが、 コロナで閉講されてしまい、 今期あらためて 開講されました。 そういう意味では、この授業だけに関して言えば、 コロナのおかげで 受けられました。 いちど同じ時代の同じテーマの授業を 受けているからこそ、 余計知りたくなる。 また、 佐賀出身の義兄にも 悦んでもらえそうな 銘品もお歳暮に贈ることが出来て、 たいへん良かったです。 地域クーポン券が使いにくかったこと 以外は、ほぼほぼパーフェクトな旅でした!

An euphoria has come over me!

明日から面接授業なので、地方都市にいますが、全国割と地域クーポン券で、だいぶお得感があります。 だけど、これって、キャンペーンが終わったら、かえって元の価格が割高に感じる、つまり、期待インフレ率を、政府自ら率先して引き下げてるのと同じじゃないのか? 日銀が、10年かけて、甚大な弊害を抱えながら、どうにかこうにか引き上げた期待インフレ率を、政府自らが一瞬でブチ壊すって、一体なにやってんだろう?という疑念を拭えない。 なによりヤバいのは、自民党という政党は、国民から叩かれるほど、国民に飴玉をばらまく、と国民が学習してしまうこと。 ちょっとこれはもう飴玉を通り越して、国民に麻薬飲ませてるのと同じじゃないのか? かといって、野党に政権を担う能力はないし、野党は野党で、ばらまくことしか考えてない。 もう、これは浦島太郎と一緒。 俺自身、酒も飲んでないのに、よくわからないeuphoriaに陥っている。 なんだこりゃ?

ゆたぼん

国民の3大義務って、 たしか 教育、勤労、納税 だったと思うけど、 結局これは、 教育を受けて、 働くスキルを身につけ、 そして 納税しろ、 という、国家本位の発想だよね。 自分としては、 教育を受けるも受けないも、 本人の自由でいいと思う。 一般論としては 国のために国民は義務を負うべきだと思うが、 ジョン・ロックの抵抗権の発想からすれば、 国民の信託に応えない政府に対しては、 国民は反抗する権利を持っている。 少なくとも、公立の小学校で、 いじめなどを放置している限り、 そこに 子供を通わせる義務があるとは思えない。 それに、 自分の経験から言って、 公立の小学校の教育が、 それほど 学力を身につけるのに効率的か、 と言われれば、 そんなでもないと思う。 もっと効率のいい勉強のやり方は、いくらでもある。 6年間もかけるならば、 やれることはもっと沢山ある。 ゆたぼんのユーチューブを視たことはないが、 貴重な経験をしてるんじゃないかと思う。 小学生で、 あれだけ世間の耳目を集めて、 資金を調達したり、 批判を浴びたりして、 普通に小学校に通っていては経験できないことを、 沢山積んでいる。 ホリエモンが、彼は若いだけで注目されている、 と語っているが、 ホリエモンからいち小学生がコメントされること自体が、 すでに凄いことなんじゃないのか? しかも批判的に。 ホリエモンというインフルエンサーから批判されて、 それを我が事として受け入れ、 考える、ということは、 ふつうの小学生ではまずありえない。 ひろゆき氏は、 ゆたぼんを真似するバカが増えるというが、 小学生にとって、 小学校に通う以外の選択肢がある、 ということを知るだけでも、 希望の光だと思う。 それに、 学校の教育だけが教育ではないことはすでに述べた。 何しろ、 義務教育というのは、 最終的に納税するためにあるのだから。 もう、 そんな時代じゃなく、 国ではなく、自分のために学べばいい。 そうすれば、 勉強すること自体が、もっと楽しくなる。

黙ってられない。

三橋貴明にしても、 あんなデタラメな 経済学を冒涜する理論を 売り物にして、 金儲けするだけでは 飽き足らず、 国政選挙にまで 出馬するってのは、 ほんとに 神経を疑うとしか言いようがないんだが、 こんなやつを 党の公認候補にしちゃう 自民党も マジでどうかと思う。

俺には公務員は無理なのか?

杉田水脈だけど、 もし 安倍がずっと生きてたら、 安倍の機嫌さえ 取っていれば、 杉田水脈みたいなやつが、 比例名簿の上位に載り続けて、 しかも 安倍のお膝元の中国ブロックで、 比例単独で まともに 選挙活動もせずに 当選し続けていたのかと思うと、 怖気がするわ。 公務員は政治的な活動をしちゃいけないってのが お約束なのは知っているが、 このレベルの表現の自由も認められないなら、 俺は公務員にはなれない。

監視社会と自由

放送大学の大学院の授業 (大学院の授業までネットで視聴できる。) 山岡龍一先生の 講義聴いたけど、 すでに 一度聴いて わかったつもりで もう一度聴いたけど、 重い。深い。 ラジオ講義だし、 一度聴いたはずなのに、 あらためて聴くと、 めちゃくちゃヘヴィー。 知らなかった、という意味では 「身近な統計」のほうが 大変なはずなのに、 やっぱりそこは 大学院の授業と、 学部の基盤科目の差なのか? ヘビー級のプロボクサーに 殴られるぐらいの 衝撃がある。

漱石と資本主義 (再掲)

確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

「身近な統計」第8回

正規分布。グレート。ビビったぞ。かなり本格的な統計学の授業じゃねーか。こんなんが基盤科目でいいのか?後半はニッセイ基礎研究所の社長さんの話で、すげー納得した。自分みたいに、働きもしないで、年金も納めず、しかも障害年金もらってる奴って、はっきり言ってメチャクチャ迷惑なんだろうな。言い方は酷いけど、事実。そら自治体だって血眼になって就労支援するわけだ。

次の金融危機?

今朝の日経新聞に、 為替レートは ファンダメンタルズだけでは 説明できない、 投機筋が 絡んでくると、 現実に近くなる、 と書いてありました。 また、 別の記事では、 リーマンショック以降、 銀行や証券会社への 当局の規制は厳しくなったものの、 当局の規制の及ばない、 「影」の資本がうごめいており、 不気味だ、 みたいなことが書いてありましたね。 まあ、 経済っていつもこうですよね。 イタチごっこというか。 そこが面白いところだけど。 でも、 そういう投機筋の動きがなければ、 日本みたいに モラルハザード起こしてる国が フリーランチに与るのを 誰も 止められないですからね。 それと、 日本の上半期の経常収支黒字が、 対前年比?で 6割弱減だとか。 どうなっちまうんだか。

「身近な統計」第7回

確率ってそういうことか!やっとわかったわ!今まで騙されてた!エウレカ!エウレカ!高校数学の確率の教え方オカシイよ!真面目に考えれば考えるほどわからなくなるのも、当然だ!たったこれだけのことを知るのに、今までどんだけ無駄にカネ払ったと思ってんだ?!カネ返せ!!!!!

「人間の条件」 ハンナ・アーレント ちくま学芸文庫 より (再掲)

近代の経済学の根本にあるのはこれと同一の画一主義である。 つまり、近代の経済学は、人間は行動するのであって、お互い同士活動するのではないと仮定している。 実際、近代の経済学は社会の勃興と時を同じくして誕生し、その主要な技術的道具である統計学とともに、すぐれて社会の科学となった。 経済学は、近代に至るまで、倫理学と政治学のあまり重要でない一部分であって、人間は他の分野と同様に、経済行動の分野においても活動するという仮定にもとづいていた。 この経済学が科学的性格を帯びるようになったのは、ようやく人間が社会的存在となり、一致して一定の行動パターンに従い、そのため、規則を守らない人たちが非社会的あるいは異常とみなされるようになってからである。(65~66ページ) (中略) しかし、多数を扱う場合に統計学の法則が完全に有効である以上、人口が増大するごとにその有効性が増し、それだけ「逸脱」が激減するのは明らかである。 政治の次元でいうと、このことは、一定の政治体で人口が殖えれば殖えるほど、公的領域を構成するものが、政治的なるものよりは、むしろ社会的なるものに次第に変わってゆくということである。(66ページ) (中略) 行動主義とその「法則」は、不幸にも、有効であり、真実を含んでいる。 人びとが多くなればなるほど、彼らはいっそう行動するように思われ、いっそう非行動に耐えられなくなるように思われるからである。 統計学の面でみれば、このことは偏差がなくなり、標準化が進むことを意味する。 現実においては、偉業は、行動の波を防ぎとめるチャンスをますます失い、出来事は、その重要性、つまり歴史的時間を明らかにする能力を失うだろう。 統計学的な画一性はけっして無害の科学的理想などではない。 社会は型にはまった日常生活の中にどっぷり浸って、社会の存在そのものに固有の科学的外見と仲よく共存しているが、むしろ、統計学的な画一性とは、このような社会の隠れもない政治的理想なのである。(67ページ) (中略) 大衆社会の出現とともに、社会的なるものの領域は、数世紀の発展の後に、大いに拡大された。 そして、今や、社会的領域は、一定の共同体の成員をすべて、平等に、かつ平等の力で、抱擁し、統制するに至っている。 しかも、社会はどんな環境のもとでも均一化する。 だから、現代世界で平等が勝利したというのは、社会が公...

身近な統計

脳にかなり 空き容量が生まれたから、 放送大学の 「身近な統計」 の 授業を視聴してみました。 ただでさえ 数学が苦手なのに、 慶応で データ分析の授業が 自分の性に合わず、 データ分析とは 無縁の勉強を 続けてきたのですが、 一度 アタマをクリアにして 虚心坦懐に 放送授業を受けてみると、 基盤科目として、 柔道における データ分析活用例などを 通して、 全くの初心者だからこそ、 納得しやすい 授業内容となっていました。 自分が かなり 文系寄りの人間なのは 皆さんご存知のことですが、 内田隆三先生の 「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される? 言語と運命の社会学」(岩波書店)を 読んでから、 確率、あるいは運命というものに 興味が湧いてきて、 さらには アマゾンやセブンイレブンなど、 現代のビジネスでは 情報が大事、 と言いながら、 具体的な中身について わかっていないこと、 さらには、 現代の市場型間接金融は 大量の個人データを 利用して 運用されている、 という ことは知りつつも、 具体的な スキームについて 何一つわかっていないことを 自覚し、 さらには、 井上俊先生の説く 「信用」と情報の関係性など、 自分がやってきた分野と あながち無縁でもなく、 一度ちゃんと 統計を勉強したいな、 と思っていたところでした。 この 「身近な統計」の 放送授業も、 何度も 視聴してみたものの、 途中で嫌気が差して 見るのを止めてしまった、 ということが 何回もあったのですが、 第一回の講義を 視聴して、 全くの素人の自分でも ついていけるように 工夫されているな、 と感じました。 今後 統計を 深く学べればいいな、 と思います。

来年こそは

障害者枠で 高崎市役所 受けよ。 人生の後半戦 を 戦うのに、 まともな 職歴がなかったら 始まらない。 今朝の日経新聞の 「やさしい経済学」で 「企業はビジネス環境が少し変化するたびに価格変更するのではなく、中長期的な先行きを見通して、必要な場合に価格を変更します。」 って書いてあったけど、 それは今納得した。 人生も同じ。 なんの 展望もなく 今の行動を決めるやつは ただの馬鹿。 https://www.youtube.com/watch?v=vFW6YvV7Et4

金融経済論で聞いた話

うちらの親世代は、 子供、つまり うちら世代に 財を残すことが 出来て、 そこで ある程度 世代間ギャップを 埋めることも 出来たけど、 うちら世代が 子供に 同じこと出来るか、 って言ったら、 そこまで 出来る人は、 ごくごく一部 だよね。 だから、 若い人見ると、 覇気がねーな、と 感じることも あるけど、 親に頼れないんだから、 リスク取れないのも 仕方ないかな、 という気もする。

WBC

はっきり言って、 迷惑なんだよね。 ついさっきまで 日本シリーズまで 戦ってた 選手を、 シーズンオフで 使われたら。 本来なら ゆっくり 休養して 来シーズンに向けて 準備する期間を、 こういう形で 使われるのは、 はっきり言って、 迷惑以外の 何物でもない。 落合さんが 言ってた ことが よく分かるわ。 レギュラーシーズンで 出番がなくて くすぶって ウズウズしてる 選手を 使うなら わかるが。 人選考えろよ。 野球選手だって 生身の人間 なんだよ! 落合さんの 「野球選手は個人事業主」って 言葉も、 実は 選手個々人に対する 最大限の 愛情であって、 ファンとスポンサーの エゴから 選手を 守るためには、 その言葉が 一番 強力。 普段対戦しないような 海外の選手と 対戦できるから、いい、 というかも知れないが、 修学旅行じゃねえんだよ! 村上が来シーズン 絶不調になったり、 最悪ケガしたら、 誰がどう 責任とって くれるんだよ? そもそも、 北朝鮮が 米韓の合同軍事演習に 反発して ミサイルバンバン発射してる、 中国は台湾併合の意志を公言してる、 そんな中で、 韓国とか台湾の選手が シーズンオフに ガチで 野球なんかやると思うか? アメリカにしたって、 分断社会と言われるなかで、 選挙が控えてるし、 ロシアのウクライナ侵攻で ギクシャクしてる中で、 のうのうと 野球やってる選手なんか、 単純に 自分の 就活以上のことは 考えてないだろ。 日本人は こういうところが バカなんだよ!

なんだかなー

YOSHIが事故って 亡くなったらしい。 サンジャポに 出てた頃は、 この調子乗ってる ガキは 将来どうなるんだろう? と思ったけど、 こんなあっさり・・・ もしかしたら 大バケするのかな? なんて かすかに 思ってたけど。。。 あまりに 呆気ない。 なんだかなー 何も 答えが 出てない じゃないか!

坂口安吾 三十歳 

勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。  たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。  人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。  けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。

「魔の山」 下巻 トーマス・マン 岩波文庫 末尾より

さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり)

ウツに至る路ーその2

自分の スイッチを オンにするのって、 意外と簡単なんだよね。 むしろ、 スイッチをオフにするほうが 難しい。 ありがちなのが、 スイッチがオンに なりっぱなしの まま 突き進んでしまうとき。 こうなると、 いくらでも 無理が利く気になって、 無理がたたって ウツになる。 自分の スイッチをオフ にする 術を心得ておく ことも、 生きる上で 必須のテクニック。 スイッチをオフにするために、 酒、女、ギャンブルに嵌ると、 人生破滅する。

接客態度

東横インが すげえと 思うのは、 こんだけ ヘビーに 使ってるのに、 接客態度で ムカついたことが ほとんど 記憶にない。 高崎市から 商品券届いたから、 ねーちゃんに 高島屋で お歳暮送ったんだけど、 接客態度が ムカついた。 母親に言わせれば、 高島屋は ちょっと 傲慢らしい。 そんなんじゃ オーパに負けるぞ! てか、 高崎市から 商品券5000円来たから、 それで 支払おうとしたのに、 贈答品売り場では 使えない、 と言われて、 近くの金券ショップも 閉まってて、 しょうがないから コンビニで おろして 再び 売り場に 出向いたのに、 歓待の様子も 見せずに、 女性特有と言ったら失礼だが、 高級デパートとしては ありえない 事務的な態度で、 ちょっと ムカついた。

レポート下ごしらえその4 (再掲)

そもそも、人間の人間たる理由はなんなのか? それは、”善さ(good)”とは何か?ということだろう。 以前、あるニュースで、人工知能に”善さ(good)”とは何か?と繰り返し聞いたら、人工知能が怒り出した、という。 昨今、公共哲学界隈では、古代ギリシャに遡る徳倫理学が復権しつつあるそうだが、上述したような状況も無関係ではないだろう。 徳倫理学の代表選手はアリストテレスだが、日本人に馴染みのあるのは、その祖先と言ってもいい、ソクラテスを想像すればいいだろう。 モノの消費とコトの消費の対比でも考えたが、単純に選択肢の中から何かを選ぶ、ということと、それがどういう思想信条の表明であるか、というのは、次元の違う話なのではないか? つまり、単純にどういう結果を選択したか、というより、その結果を選択した根拠が再び問われる事態が起こっていると言ってよいだろう。 しかし、単に選択肢の中からチョイスをするということが、その人の思想信条の表明と全く無関係ということがあり得るだろうか? 〈私が選ぶ〉という行為は、私の志向と他者の志向を突き合わせ、つまりはコミットしようとする対話性を内包している。 まさに人はパンのみにて生くるものにあらずーー他者との関係性の上に展開するストーリー(人生の物語)抜きに生きるということはあり得ない。

レポート下ごしらえその3 (再掲)

選択行動を発する当の本人でさえ、自分が選んだのはモノではなく、背後のコトだということを意識しているとはかぎらない。経済学者たちに「xとyのうちいずれを選ぶか」と問われたとき、「わたしはそのモノがほしい」ということで選んでしまったが、本当は「わたしがそのモノをもつ」というコトの意味を十分考えるべきだったと後悔するかもしれない。本人でさえも、背後にあるコトの選択は無意識に行ってしまうのだから、社会が人々の選択したモノから、人々の背後にある選択されたコトを抽出するのは容易ではない。たとえ選択行動は同一でも、選んだ人にはいろいろな「思惑」があり、それを、行動が一致しているということから、社会が「万人は同意見だ」とするのは明らかにおかしい。わたしたちが本当に選んだり、訴えたり、要求したりしているコトは、訴えている一つの事例の中で要求している内容の即時的満足ではないのである。 わたしたちは選ぶという行為を通して、自分が正しいと思うコトや、自分が良いと思うコトを、他人の正しいと思っているコトや、良いと思っているコトとつきあわせてみようとしているのである。

レポート下ごしらえーその2 日経新聞 2022/11/4 5面より

ブルーカラーの労働者は、朝から晩まで絶えず監視されることに慣れている。 無駄のない効率的な「リーン生産方式」を導入する工場の多くは、労働者の作業ペースをリアルタイムで監視するため生産性を測るスクリーンを作業現場などに設置している。 レストランや小売りチェーンなどサービス業に従事する低賃金の人々も同様だ。 これに対し、ホワイトカラー従業員はもっと人間的な方法で評価されてきた。 だが、今では監視資本主義によって彼らの労働も分単位で監視されるようになった。 しかし、テイラーイズムのいわばデジタル版は、将来への道筋を示すものではない。 特にテクノロジーではできない仕事の多くは、創造的思考や人間関係、チームワーク、ソフトスキルが決め手となる。 実際、職場でたまたま生まれるアイデアの交換や休憩場所での立ち話を通じた信頼関係の構築などは、まさしく管理ソフトでは追跡できない活動だ。

レポート下ごしらえーその1 2022/11/3 日経新聞7面より

韓国のサムスン電子は、2027年、髪の毛の太さの60万分の1に相当する1・4ナノメートルの回路線幅を持つ半導体を量産するという。今より3世代先の技術であり、実現すればもちろん世界初だ。 だが、1・4ナノはスマホの性能によほどの不連続な進化でも起きない限り、過剰なスペック(仕様)になる。 では、1・4ナノの半導体は何に使われるのだろうか。 間違いなく、データセンターや人工知能、量子コンピュータの周辺機器など「高性能コンピューティング」と呼ばれる領域になる。 データセンターはもはや人類共有の巨大コンピュータといっていい。 車の開発やコンビニエンスストアの日々の運営など、大量のデータを瞬時に処理し、新サービス開発などにつなげていく。 そうしたクラウドコンピューティングは今後も需要が拡大し、高性能の半導体を求め続ける。 半導体の技術革新は、個人が使いこなせる能力をはるかに超越する、という意味では人間と機械の逆転を示す一種の「シンギュラリティー」と呼べる節目かもしれない。

今朝の日経5面

面白い記事でした。 下手に 従業員を 監視しまくっても、 かえって 逆効果ですよ。 って話でした。 管理職は 社員を監視するよりも、 自分が 無駄な 会議とか 開いてないか 自問せよ、 って内容。

武蔵

武蔵に高校から入る、 というのは、 受験それ自体よりも、 むしろ 入ってから 適応するのが 難しいのです。 何しろ、 栃木の田舎 の 日大付属中から、 誰も 知り合いのいない 環境に 放り込まれるわけですから。 下手に スカした態度してると、 「標的」にされます。 それはあたかも ジョジョの奇妙な冒険 で ジョルノ・ジョバーナが パッショーネの 一員になるために 様々な試練を 乗り越える必要があるのと 同じです。 自分は どうにかこうにか くぐり抜けました。 勉強では敵わないので、 体育の授業でしか 見せ場を 作れませんでしたが、 「ここでこのシュートを 止めなければ 俺は ここで ずっと 日陰者になる!」 という危機感で、 自分でも信じられないような ファインセーブを 出来たこともあります。 あるいは、 バスケの授業で、 信じがたいような スーパーシュートを 決めて、 おお、お前すげーな。 と、 認められたこともあります。 そうやって、 武蔵での 存在感を獲得していったのです。 単に 勉強が出来る、 というだけで リスペクトされる 世界ではありません。 もちろん、 数学オリンピックで 金メダルを取る レベルになれば 話は違いますが。 武蔵には、 ヒエラルキーというものの 代わりに、 教室単位よりも むしろ 部活を中心とした アメーバのような コミュニティーの 集まりのような 人間関係が 存在していますが、 とりあえず どこかしらの コミュニティーに入っていれば、 そんなに クラス全体から いじめられる、 というのは 考えにくいです。 そもそも クラス単位で 何かをやる、 という意識が希薄なので。 と、いっても 自分の感覚では 2年に1人くらいは 自殺の話を聞きます。 理由は知りません。 そりゃ当然でしょ。 あるいは、 高校から入って、 適応できずに (たぶん)辞めていったやつも います。 下手すれば 自分も辞めてました。 多感なお年頃の 男子ばかりの 学校というのは、 そんなもんじゃないですか? 別に 極楽浄土というつもりは ありませんが、 伝統ある男...

NIRVANA

やっと 心の平穏を取り戻した。 学問の世界に生きる というのは、 なんという愉悦だろう! 学者じゃないけどね。 頼むから 俺に 働け というのは やめてくれ。 こっちも さんざん 考えてんだよ! お前は 錯乱するまで 自分を追い込んだ ことあんのかよ? ねーだろ? だったら こっちのことに ごちゃごちゃ 言うんじゃねーよ!

青空文庫ー「かのように」 森鴎外 (再掲)

かのように 森鴎外  朝小間使の雪が火鉢ひばちに火を入れに来た時、奥さんが不安らしい顔をして、「秀麿ひでまろの部屋にはゆうべも又電気が附いていたね」と云った。 「おや。さようでございましたか。先さっき瓦斯煖炉ガスだんろに火を附けにまいりました時は、明りはお消しになって、お床の中で煙草たばこを召し上がっていらっしゃいました。」  雪はこの返事をしながら、戸を開けて自分が這入はいった時、大きい葉巻の火が、暗い部屋の、しんとしている中で、ぼうっと明るくなっては、又微かすかになっていた事を思い出して、折々あることではあるが、今朝もはっと思って、「おや」と口に出そうであったのを呑のみ込んだ、その瞬間の事を思い浮べていた。 「そうかい」と云って、奥さんは雪が火を活いけて、大きい枠わく火鉢の中の、真っ白い灰を綺麗きれいに、盛り上げたようにして置いて、起たって行くのを、やはり不安な顔をして、見送っていた。邸やしきでは瓦斯が勝手にまで使ってあるのに、奥さんは逆上のぼせると云って、炭火に当っているのである。  電燈は邸やしきではどの寝間にも夜どおし附いている。しかし秀麿は寝る時必ず消して寝る習慣を持っているので、それが附いていれば、又徹夜して本を読んでいたと云うことが分かる。それで奥さんは手水ちょうずに起きる度たびに、廊下から見て、秀麿のいる洋室の窓の隙すきから、火の光の漏れるのを気にしているのである。      ――――――――――――――――  秀麿は学習院から文科大学に這入って、歴史科で立派に卒業した。卒業論文には、国史は自分が畢生ひっせいの事業として研究する積りでいるのだから、苛いやしくも筆を著つけたくないと云って、古代印度インド史の中から、「迦膩色迦王かにしかおうと仏典結集ぶってんけつじゅう」と云う題を選んだ。これは阿輸迦王あそかおうの事はこれまで問題になっていて、この王の事がまだ研究してなかったからである。しかしこれまで特別にそう云う方面の研究をしていたのでないから、秀麿は一歩一歩非常な困難に撞著どうちゃくして、どうしてもこれはサンスクリットをまるで知らないでは、正確な判断は下されないと考えて、急に高楠博士たかくすはくしの所へ駈かけ附けて、梵語ぼんご研究の手ほどきをして貰った。しかしこう云う学問はなかなか急拵きゅうごしらえに出来る筈はずのものでないから、少しずつ分...

神なき時代の連帯? (再掲)

一つの簡単な答えは、ヘーゲル的な意味での統治は不可能だということです。その代替案は複数ありえますし、フーコーはその一つでしょう(ただし、「知と権力」の共犯関係がいかなる統治を具体化するのかは、わたしには理解しがたい難しさがあるように思えます)。  最もわかりやすい代替案が新自由主義の統治だといえます。もしもこれを拒絶するとすれば、問題は、何らかの形でのヘーゲル的な統治への回帰か、神無き時代の連帯の可能性の追求となります。現代のリベラルな政治理論はだいたい後者のさまざまなバリエーションですが、密かに神が導入されている可能性があるのものが多いので、フーコーのような議論が流行るのだと思われます。  鴎外については、わたしにはコメントする能力はありません。ただ、そのような苦悩があるとすれば、それは鴎外がいかにヨーロッパ(ドイツ)文明に拘束されていたのかを示すことになるでしょう。ただし、そのような苦悩をまったく抱かない(ないしは、そのような苦悩の可能性に思い至らない)日本人よりは、はるかにましな精神性をもっていると思いますが。  明治日本は、ある意味では、神無しでヘーゲル的な全体性を国家は維持できるのか、という問いをいち早く突きつけられていたともいえます。この問いへの回答の一つは、現在でも、「新たな神の創造」ですが、そのような回答が、必然的に政治的に悲惨なものになることは、我々が歴史から学んだことだといえます。キリスト教文化圏では、たとえ神が死んだ時代でも、この危険性がよく知られていますが、はたして日本ではどうでしょうか。考えてみてください。

教養のヘーゲル (再掲)

問われるべき問題はいかにしたら、このようにして発達した、所有権のような個人の権利の意識が、社会全体への奉仕と一体になることで、より理性的で自由な意識へと陶冶されるかだ、とヘーゲルは考えた。そして、権利と義務が衝突せず、私的な利益と公的な利益が一致するような人間共同体が形成されるならば、その共同体のメンバーの幸福をみずからの幸福と感じ、法や制度に従うことは自己の欲望の否定ではなく、自己の理性的な本性の肯定であると考えるような市民が生まれると主張したのである。国家こそ、このような倫理的共同体における最高次のものだとヘーゲルは考えた。(放送大学「政治学へのいざない」211頁より) ヘーゲルが、国家と(市民)社会とを区別して捉えたことが、国家論の歴史において画期的な意味を持つことであるということはすでに指摘した通りである。その国家と社会の分離の理由として、ヘーゲルは、市民社会には、国家のはたすような真の普遍を支える能力がないからということをあげる。そこで、市民社会の私的利害に対応するだけのものである「契約」という概念によって、国家の成立原理を説明する「社会契約説」に厳しい批判を浴びせることともなった。しかし、それだけではないはずである。というのも、国家と市民社会の分離の把握ということは、市民社会が、相対的にではあっても国家から独立した存在であることの指摘でもあるはずだからである。近代国家においては、プラトンが掲げた理想国家におけるのとは異なって、国家が個人の職業選択に干渉したりはしないし、その他の個人の私生活に干渉したりはしない。同様に、国家が市場原理を廃絶あるいは抑圧するようなこともない。そのように、市民社会が自分独自の原則にしたがって存在し、機能していることが尊重されているということが、近代における個人の解放という観点から見て、重要なことであるはずなのである。それは、ヘーゲル流の表現にしたがうならば、一方では、近代国家なり、近代社会なりが「客観的必然性」によって構成された体制であったとしても、他方では、個人の恣意や偶然を媒介として成り立つにいたった体制だからだということになる。(p.103) (中略) 近代国家の原理は、主観性の原理がみずからを人格的特殊性の自立的極にまで完成することを許すと同時に、この主観性の原理を実体的統一につれ戻し、こうして主観性の原理そのもの...

国土論ー三島由紀夫 (再掲)

「三島は紛うことなく戦後社会の外部に立とうとした。だが、戦後社会は自分の外部があることを許容しない。この拒否は生の哲学という全面的な肯定の所作において行われているためほとんど意識されない。どんな精神のかたちにせよ、それが生命の形式であるかぎりー体制派も、全共闘運動もふくめてー戦後的な生の哲学はそれを是認しうるのである。三島は死に遅れたものとして、戦後社会とのそのような共犯性、あるいは戦後社会の総体性にたいして潔癖ともいえる反発の意思を隠そうとしなかった。三島の精神による抵抗に意味があるとすれば、それが生の哲学の軌跡に回収されないことであり、死を如実にはらんでいる限りにおいてであった。三島は自分の精神を思想的な形象でみたしたが、そうした彩りはただ死の線分に接続する限りにおいてのみ精神の形象でありえたにすぎなかった。」(395ページ) 国土論 内田隆三 筑摩書房

国土論ー報われぬ死者たちのまなざし (再掲)

「敗戦にいたるまで国土に固有の曲率を与えていたのは天皇の存在であった。だが、天皇が『われ 神にあらず』と表明したときから、天皇の像は国土に曲率を与える重力の中心からゆっくりと落下していく。重い力は天皇から無言の死者たちに移動する。聖なるものはむしろ死者たちであり、天皇もこの死者たちの前に額ずかねはならない。この死者たちはその痛ましいまなざしによってしか力をもたないとしてもである。それゆえ戦後社会が天皇とともに超越的なものを失ってしまったというのは正しくない。そこには報われぬ死者たちというひそかな超越があり、天皇は皇祖神を祀るだけでなく、この無名の超越者を慰霊する司祭として、ゆるやかな超越性を帯びるからである。」137ページ 国土論 内田隆三 筑摩書房

丸山眞男 (再掲)

丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。 しかしながら天皇制が近代日本の思想的「機軸」として負った役割は単にいわゆる國體観念の教化と浸透という面に尽くされるのではない。それは政治構造としても、また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。(・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、それが制度自体と制度にたいする人々の考え方をどのように規定しているか、という、いわば日本国家の認識論的構造にある。 これに関し、仲正昌樹は「日本の思想講義」(作品社)において、つぎのように述べている。 「國體」が融通無碍だという言い方をすると、観念的なもののように聞こえるが、そうではなく、その観念に対応するように、「経済・交通・教育・文化」の各領域における「制度」も徐々に形成されていった。「國體」観念をはっきり教義化しないので、制度との対応関係も最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、目に見える効果をあげるようになった。ということだ。 後期のフーコー(1926-84)に、「統治性」という概念がある。統治のための機構や制度が、人々に具体的行動を取るよう指示したり、禁止したりするだけでなく、そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、それを当たり前のことにしていく作用を意味する。人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用)

八戸サテライトで聞いた話+α

古代ギリシャでは 宇宙は無限と考えられていたが、 ユダヤ教や、 初期キリスト教では、 ヘブライズムの考え方で、 宇宙は 有限である、 なぜなら、 始めが あるものには 終わりがあるから、 という理屈で、 キリスト教神学と 古代ギリシャ哲学が 融合する過程で、 ヘブライズム的な 発想が 優位に立ったらしい。 日本人も、 今は 普通に 宇宙には 始めと 終わりが あると信じている。 ニーチェの 永劫回帰の思想は、 これを否定するものだが。 日本人の時間観念も、 明治以降 作り直されたものだろう。 それは、 原武史先生が 指摘するように、 明治天皇が、 時刻通りに 運行される 鉄道に乗って 行幸啓されたことや、 定刻通りに 行われる 軍事演習を 拝覧されることなどによって、 植え付けられたものだという。 夏目漱石の 「三四郎」でも、 運動会で、 野々宮さんが ストップウォッチで 時間を測るのを、 主人公が 忌避する 場面が ある、らしい。 そもそも、 運動会という 行事自体が、 「正しい」 体の使い方を 刷り込ませる 国の政策だった、と 言われている。

「本当は、ずっと愚かで、はるかに使えるAI」 山田誠二 日刊工業新聞社 (再掲)

なんだ、AIってのはこんなもんか。 世間が煽り過ぎの側面は多分にありそうだな。 実際には、企業がAIを導入したはいいが、さんざん失敗した事例があるが、表沙汰になかなかならないだけで、そういうことは山ほどあるらしい。 そーだよね。 なんか2040年にシンギュラリティーがどうのこうのとか言って脅してくるが、なんか今の段階でAIが目覚ましい成果を挙げたという事例が、意外と少ないな、 とは思っていたが。 翻訳ひとつとっても、通訳だの翻訳だのは、近いうちに完全にAIにとって代わられる、と情報の専門家から聞いていたものだから、 てっきり俺の英語学習はすべて無駄だったのか・・・と思っていたが、案外そうでもないっぽい。 むしろ、日本語と英語は文の構造が全く違うので、Deepl翻訳を使うときでも、日本語をそのままDeepl翻訳につっこめば、自然な英語が自動的に出てくる、ということは、むしろ少ない。 もとの日本語を人間がいじってやる必要がある。 著者が主張するのは、AIが得意なこと、人間が得意なこと、をしっかり理解して、共存共栄を期することのようだ。 いいじゃないか! 新井紀子さんの著書とあわせて読むと、より納得がいく。 お二人とも多分同僚だから。 よく、研究者が、複数の自動車を模した模型たちが、自律的に動き回っているのを見せて、 はい、現実の世界もいずれこうなります、みたいなデモンストレーションを行ったりするが、 モデル化された実験室の中と、現実に自動車が行き交う世界というのは、少なくともAIにとっては次元の違う話らしい。 それが可能だと思えるのは、むしろ人間が、生育する中で、自然と身につける、自覚すらしない「常識」を身につけているが、 AIはそういう「常識」がまったく欠けていて、プログラマーがいちいちプログラミングしないと、 AIはそういう当たり前の常識がまったくわからない、ということのようだ。 この話を聞いて、 自分はもしAIが自動運転する自動車が開発されたとしても、怖くて乗れないと思った。 アマゾンの物流倉庫で、 商品を積んだ輸送マシーンが自由自在に動き回っている映像を見る機会が増えてきたが、 それは、 AIの特性をよく理解している、ということではないか。 日本のように、むやみやたらになんでもAIに任せようとして失敗している、ということは、ザラにあるらしい。 AIに職を奪われる...

遊びの社会学 (再掲)

以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93

美人投票 (再掲)

https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=61511?site=nli なかなか含蓄が深い。 これも、単純に選択肢の中からチョイスをする、ということが、 モノの選択である以上に、コトの選択である、 つまり、価値判断の表明である好例だろう。 当然、美人投票の例においては、「美人」の基準が個人の価値判断に基づいており、多様だからだ。 しかも、単に美人投票をするだけでなく、 投票をする人どうしが、そもそも「美人」とはどういう性質のものであるか、議論をし始めたら、 もっとややこしい話になるだろう。 こんなパラドックスを考えついたケインズはやはり偉人だ。 しかも、リンクの中では、近似解を得るために、 投票の対象を「美人」ではなく、数字に置き換えてしまっているが、 これは、ケインズの意図を換骨奪胎してしまっている。 牽強付会だが、ふたたび新日本風土記の話に引き寄せると、 無料紹介所のお兄さんと客は、実はとんでもなく複雑なゲームをしている、ということになりはしないだろうか? 昔の人が偉いな、と思うのは、実は数理的にめちゃくちゃ複雑なことでも、 普通のひとにわかるように言葉で説明してたことだよね。 昨今の日本の風潮だと、わからないのはお前の頭が悪いせいだ、と言わんばかりだからね。 研究者が数理モデルを使うのは当然だが、 社会科学者って、複雑な数理モデルがわかんない人にも、自分の主張をわかってもらえるように、言葉で説明する必要があると思うんだよね。 それをしないで、俺の考えてることは複雑過ぎてお前にはわからない、というのは、社会科学をやる人間としては傲慢でしかない。

ベンヤミン (再掲)

ベンヤミンは、「手」にもとづく認識の成果としての技術の巨大な発展が全く新しい貧困状態をもたらしたと指摘している。 「技術の巨大な発展とともに、まったく新しい貧困が人類に襲いかかってきたのである。」(「貧困と経験」『著作集』第1巻) 技術は不断の発明・発見によって次々に新しいものを作り出しては古いものを破壊していく「創造的破壊」(creative destruction)(シュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』)をもたらす。 機械は急速に進化していき、不断に「倫理的摩滅」にさらされている。(『資本論』第1巻、P.528参照)それとともに人間の生活を支えている周囲の事物はことごとく変化してしまうならば、人間はもはや自らの過去の経験を頼りにすることができず、つねに最初から新たにやり直すしかなくなってしまう。 「まだ鉄道馬車で学校へかよったことのあるひとつの世代が、いま、青空に浮かぶ雲のほかは何もかも変貌してしまった風景のなかに立っていた。破壊的な力と力がぶつかりあい、爆発をつづけているただなかに、ちっぽけなよわよわしい人間が立っていた。・・・これはそのまま、一種の新しい野蛮状態を意味する。野蛮?そのとおりである。・・・経験の貧困に直面した野蛮人には、最初からやりなおしをするほかはない。あらたにはじめるのである。」(「経験と貧困」)これは、1933年の「経験」状況である。 ベンヤミンは、人生における経験がゆっくりと時間をかけてつくられていくような「完成する時間」に対して、「永劫回帰」する時間を対置する。「・・・完成する時間・・・は、着手したものを完成することを許されないひとびとが住む地獄の時間と対をなしている。」(「ボードレールのいくつかのモチーフについて」『著作集』第6巻)

徳倫理学への回帰と社会的選択 (再掲)

https://www.chuo-u.ac.jp/research/institutes/science/center/ 自分としては、情報技術でも代替できないような人間の生存可能領域の条件を確保したいのに、こんな研究されたらたまらんな。 価値判断は人工知能にはできない、と書いたが、価値判断ができないで、ただただマジョリティーに追随しているだけの人間も少なからずいるだろう。 とはいえ、それもある種の価値判断だというパラドックスもあるだろうが。 あるいは、人間の価値判断のモデルを人工知能にパターン学習させて、人間っぽく価値判断をしてるフリをさせることも出来るだろう。 それでは、人間の人間たる理由はなんなのか? それは、”善さ(good)”とは何か?ということだろう。 以前、あるニュースで、人工知能に”善さ(good)”とは何か?と繰り返し聞いたら、人工知能が怒り出した、という。 昨今、公共哲学界隈では、古代ギリシャに遡る徳倫理学が復権しつつあるそうだが、上述したような状況も無関係ではないだろう。 徳倫理学の代表選手はアリストテレスだが、日本人に馴染みのあるのは、その祖先と言ってもいい、ソクラテスを想像すればいいだろう。 モノの消費とコトの消費の対比でも考えたが、単純に選択肢の中から何かを選ぶ、ということと、それがどういう思想信条の表明であるか、というのは、次元の違う話なのではないか? つまり、単純にどういう結果を選択したか、というより、その結果を選択した根拠が再び問われる事態が起こっていると言ってよいだろう。 しかし、単に選択肢の中からチョイスをするということが、その人の思想信条の表明と全く無関係ということがあり得るだろうか? (以下森本先生からのフィードバックより) 〈私が選ぶ〉という行為は、私の志向と他者の志向を突き合わせ、つまりはコミットしようとする対話性を内包している、ということですね。 小林くんのご論のマクラに、モノ的発想とコト的発想の対比もありましたが、まさに人はパンのみにて生くるものにあらずーー他者との関係性の上に展開するストーリー(人生の物語)抜きに生きるということはあり得ない…。 ふと気付いたが、森本先生のコメントにある、 〈私が選ぶ〉という行為は、私の志向と他者の志向を突き合わせ、つまりはコミットしようとする対話性を...

ジョン・デューイの政治思想 (再掲)

貨幣文化の出現は伝統的な個人主義が人々の行動のエトスとして機能しえなくなっていることを意味した。「かつて諸個人をとらえ、彼らに人生観の支え、方向、そして統一を与えた忠誠心がまったく消失した。その結果、諸個人は混乱し、当惑している」。デューイはこのように個人が「かつて是認されていた社会的諸価値から切り離されることによって、自己を喪失している」状態を「個性の喪失」と呼び、そこに貨幣文化の深刻な問題を見出した。個性は金儲けの競争において勝ち抜く能力に引きつけられて考えられるようになり、「物質主義、そして拝金主義や享楽主義」の価値体系と行動様式が瀰漫してきた。その結果、個性の本来的なあり方が歪められるようになったのである。 「個性の安定と統合は明確な社会的諸関係や公然と是認された機能遂行によって作り出される」。しかし、貨幣文化は個性の本来的なあり方に含まれるこのような他者との交流や連帯、あるいは社会との繋がりの側面を希薄させる。というのは人々が金儲けのため他人との競争に駆り立てられるからである。その結果彼らは内面的にバラバラの孤立感、そして焦燥感や空虚感に陥る傾向が生じてくる。だが、外面的には、その心理的な不安感の代償を求めるかのように生活様式における画一化、量化、機械化の傾向が顕著になる。利潤獲得をめざす大企業体制による大量生産と大量流通がこれらを刺激し、支えるという客観的条件も存在する。個性の喪失とはこのような二つの側面を併せ持っており、そこには人々の多様な生活がそれぞれに固有の意味や質を持っているとする考え方が後退してゆく傾向が見いだされるのである。かくしてデューイは、「信念の確固たる対象がなく、行動の是認された目標が見失われている時代は歴史上これまでなかったと言えるであろう」と述べて、貨幣文化における意味喪失状況の深刻さを指摘している。(「ジョン・デューイの政治思想」小西中和著 北樹出版

ちびまる子ちゃん (再掲)

どういうわけか 最近 母親が ちびまる子ちゃんの 再放送を見てるんだが、 昨日の放送だと、 ノグチさん?とかいう、 見た瞬間に 陰キャと判定できる、 しかもひねくれた女の子が、 お菓子目当てで、 他の いつもの連中と ちびまる子ちゃんの家に集まってるんだけど、 そこに、 ちびまる子ちゃんの母親はもちろん、 おじいさん、 (もしかしたらおばあさんも?) まで 集まって、 そのノグチさん?の 繰り出す 卑屈なクイズに付き合ってあげてるんだよね。 ちびまる子ちゃんって、 他にも 玉ねぎ頭のナガサワくん?だっけ? みたいな ほぼつねに ひねくれてる キャラが出てくるけど、 そういう日陰者にも、 漫画の中でとは言え、 居場所があったんだな、と思うわ。 もしかしたら、 現代の日本は、 効率性の美名のもとに、 そういう日陰者に対して、 お前は陰キャだ! ひねくれ者だ! そして それはお前のせいだ! 自己責任だ! と、 ネガティブな心性を内面化させ、 社会から居場所を排除した社会なのかも知れない。

反・決定論 (再掲)

私はここまで、決定論という見方は過去の確定性・決定性を全時間へと誤って適用してしまった一種の錯覚だ、論じてきた。しかるに実は、この「過去の確定性」という出発点をなす捉え方自体、厳密には申し立て難いのである。「過去」という概念自体に関わる、超一級の哲学的困難が存在するからである。ほかでもない、「過去」は過ぎ去っており、いまはないので、本当に確定しているかどうか確かめようがなく、不確実であって、よって過去それ自体もまた偶然性によって浸潤されてゆくという、このことである。 「確率と曖昧性の哲学」p.114 一ノ瀬正樹 岩波書店 私は、そもそも「決定論」という概念それ自体、字義通りに受け取った場合、意味をなさないナンセンスな主張だと考えている。私が決定論を斥ける根拠ははっきりしている。決定論とは、平均的に言って、「すべては因果的に決定されている」とする考え方であると言ってよいであろう。しかるに、「すべては」という以上、未来に生じる事象も含めて丸ごと「決定されている」と言いたいはずである。しかし、生身の身体を持つ私たち人間が、一体どんな資格で、未来の事象すべてについて、そのありようを断言できるというのか。私には、そのように断言できると述べる人たちの心境が到底理解できない。こうした理解不能の断定を含意する限り、「決定論」を受け入れることは哲学的良心に反する、と私は思うのである。ここにはおそらく、過去の事象がすでに「確定/決定されてしまった」という過去理解(これは、おおむねは健全だと言える)から、すべてが「決定されている」という無時制的な主張へと、不注意かつ無自覚的にジャンプしてしまうという事態が潜んでいるのではなかろうか。 「確率と曖昧性の哲学」p.257~258 一ノ瀬正樹 岩波書店

ボードレール 「フーコー・コレクション6」 ちくま学芸文庫 より (再掲)

ボードレールにとって、現代的な人間とは、自己自身の発見、自らの秘密および自らの隠された真理の発見へと向かう人間ではない。 現代的な人間とは、自分自身を自ら創出する人間のことなのだ。 現代性は、「人間をその固有の存在へと解き放つことはない」。 現代性は、人間を、自分自身を作り上げるという使命に縛り付けるのである。 (379ページ) (中略) <現在>のこうしたアイロニカルな英雄化、現実的なものを 変容させるために現実的なものと取り結ぶ自由の戯れ、 自己の禁欲的な練り上げ、 ボードレールはそれらが社会自体のなかで、 あるいは政治体のなかで 成立しうる、 とは考えていない。 それは、他の場所でしか起こりえないのであり、 その場所こそ、 ボードレールが 芸術と呼ぶものなのである。 (380ページ)

メガロマニアック?

今朝の日経7面の記事だけど、 サムスンが 超微細な 回路線幅を持つ 半導体で、 ゆくゆくは データセンターや、 人工知能、 量子コンピュータなど、 人知の及ばない 「シンギュラリティー」 の世界に到達する、 みたいなことが書いてあったんだけど、 ちょっと 技術経営の面からだけの 青写真で 未来を予測するには、 抵抗を感じざるを得ない。 特に、 この20年、 後世から見れば 間違いなく 歴史的な 20年と呼べるほどの 情報革命を 体験してきた 世代から言えば、 情報技術が発展したからと言って、 それで 人間社会が ハッピーになる、 というのは 楽観的すぎる としか思えない。 夢があるのはわかるが。 そのような、 情報技術ですべてが 管理された世界では、 人間の行動はどうなるだろうか? モラルハザード、 無責任、 怠情、 ありとあらゆる 人間の性悪なところが 極致に達するのではないか。 そういう、 自分が何かをやってもやらなくても、 すべてが決定されている、 という 決定論 は、 パンドラの箱を 開けてしまうのと 同じ危険性を孕んでいると思われる。

仮定法のキモー和文英訳十二講 p.166~167 洛陽社 より

例文: あの列車に乗れたのなら、もう今時分は着く頃だが。 考え方:過去の事柄に関する仮想だから If he had caught the train と過去完了形を使い、それに合わせて he would have arrived here by now とするのはどうか。 そうまで固苦しくしなくても he is not here as yet を he would be here by now に換えさえすればいい。 If he had caught the train, he would be here by now.

気の毒にね

岸田さんも、 「新しい」かどうかは 別として、 色々 試行錯誤してるのは 感じるんだけどね。 海外直接投資してる 企業の 収益に課税しようとしたりとか、 原発を新規に開発しようとしたりとか、 まあ 色々頑張ってるとは 思うけど、 世論に理解されないね。 もっと 安倍なみにとは言わないが、 ずうずうしく 俺はこんだけ やってます、 ってアピールするには 常識人すぎるしね。 まあ、 可哀想だな、と思うよ。

「金融と社会」質問と回答その5

質問 日経新聞朝刊2022/9/21の記事8面に、物価上昇でも現預金志向、と題して、米国では高インフレで預金から他の金融機関にマネーを移す動きがある。日本も株式投資や外貨預金を始める人が増えているが、多くは円預金や現金として滞留している。物価上昇が長引いたとしても、SMBC日興証券の丸山義正チーフマーケットエコノミストは「日本人は節約志向が強いので、物価が上がりそうだから早めに使うという考えにはなりづらい」と指摘しています。 ここで、私は以下のように考えました。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。                             以上の見立ては、間違っているでしょうか? 回答 日銀が名目金利を抑えている点、にもかかわらず日本の家計が株や海外投資に向かわず預貯金へ、という点はそうだと思います。

近代日本の炭鉱夫と国策@茨城大学 レポート (再掲)

茨城大学強いわ。ここんとこ毎学期茨城大学行ってるけど、今回もめちゃくちゃ面白かった。面白いという言葉では言い表せない。アタマをバットで殴られるくらいの衝撃を感じた。 石炭産業を語らずに近代日本の経済発展は語れないと言って間違いない。 にもかかわらず、おおっぴらに語られることはほとんどない。 あたかも繊維産業が花形で日本経済の繁栄をほとんどすべて牽引したかのように語られている。 裏を返せば、それほどまでに、石炭産業を語るということは、現在に至るまで日本の暗部を映し出すことになるのかも知れない。 (以下レポート) 今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。   ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。   日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。   しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考え...