2022年11月30日水曜日

日経新聞

2,3年くらい前から 日経新聞を 定期購読してるけど、 日々 読むに値する 記事があって、 生活にハリが出る。 それもこれも、 瀧川好夫先生の 「金融経済論」の 面接授業のおかげ。 金融経済論1、2、3 と、 3度も 面接授業に行かせてもらった。 瀧川先生は、 「これは日経新聞を読めるようになるための授業」と 仰ってたけど、 ほんとその通り。 どういうところに 気をつけて 読んだらいいか、を 教えていただいたことで、 毎日日経新聞読んでも 苦にならない。 少なくとも、 これまで 継続して読めている、 ということは、 貴重な財産。

DIE HAGIUDA !

https://news.yahoo.co.jp/articles/8b107f8a4c27bb5f343858bccd149fcd90943d3c なぜとりあえず2年間なのか? 2年もしたら 日本国民は 忘れてるって言いたいんだろ? なし崩しが見え見えじゃねーか。 どうせ 2年もしたら、 「こんなに景気が悪いのに増税できない。」 でオシマイだろ? ほんとウゼーんだよ。 西田昌司も こいつも くたばれ!

ブラックフライデー

そういえば、 瀧川好夫先生が、 インタゲで、 日本で インフレが起きなかったのは、 世界中で 価格競争してるからかな? ってボソッと 言ってたね。 確かに、 アマゾンで お買い物したら、 安かったよ。 使ってるパソコンも グーグルだし。 東芝のダイナブック10年使ったけど、 最後は 挙動が遅すぎて 我慢できなくなった。 アマゾンでグーグルのノートPC買ったけど、 こんなに 安くて 大丈夫か? ってビビったよ。 ちゃんとセキュリティーもたぶん万全だし、 さくさく動いて、 気持ちいい。 ブログまで グーグルだしね。 もうプラットフォームは 何から何まで アメリカだよ。 facebookまでやってるし。 Gmailも使ってるし。

2022年11月29日火曜日

啓蒙という時代と漱石

で、どうなのよ? 面接授業受けてきて。 近世ロシア史の 授業を受けた時にも ちょっと 思ったけど、 日本にとって 一番近い 「西欧」って、 その当時は ロシアだったと思うし、 ちょっと漱石よりも 時代は早いけど、 ちょうど 時代の流れとして、 啓蒙専制君主3人組の影響は 無視できないよね。 ロシアのエカチェリーナ2世、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ、プロイセンのヴィルヘルム・フリードリッヒ2世。 この国々を、 日本はお手本にしてたんだから、 追いつけ追い越せで、 啓蒙は疑いもなく良いものだ! というノリでやってたんだろう。 その 啓蒙理性に身を投じながらも、 反発を覚えた、という筋も、あるだろう。 現実に、 その当時の 日本社会は、 劇的に 変化し続けていたのだから。

万機公論に決すべし?

https://news.yahoo.co.jp/articles/5594b04787a9bec56b8dc74727108a25c8a2f596 ヤフーコメントも、 以前は2ちゃんねるレベルだったけど、 どうやら 投稿時に ケータイ電話の番号を入力 する ことになったらしく、 (そんなアナウンスしてた) コメントの内容が だいぶ マトモになってた。 やりゃあ出来んじゃねーか。 俺は ヤフーコメントなんか 興味ないけど。 それはそうと、 都立大学の切りつけ事件、 被害者はあの 宮台真司氏だったのか。 怖い世の中だ。 中には 宮台さんがいるから 都立大に来た、 という学生も 少なからずいるだろう。

放送大学のいいところ。

案外、放送大学のほうが 本質的なことやれるんじゃないかな? 一番大きな理由は、 教える側が、 学生の 就職を気にしないで 済むところ。 現実に 就活の手助けするケースは おそらくほとんどないだろうし、 従って、 変に 単位をあげるかどうかを 気にしなくていい。 学生は学生で、 最近は 中途半端な年齢層も 散見されるけど、 就職目当てで 入ってくるやつはほとんどいない だろうし。 俺みたいに 大学卒業を目的にして 入ってくる 若いやつはいるっぽいけど。 教える側も、 予備校じゃないから、 試験に通すために 手取り足取り教える必要に 囚われないし、 専門的に 教えたいことを教えればいい。 学生のレベルも ピンキリだから、 わかんなきゃわかんないで、いいし、 中には気合の入った学生もいるから、 それなりに 専門的なことを教えられる。 それに、 各々が 好き勝手に教える、というより、 どうやら 運営側で 教える内容の擦り合せ みたいなのが あるらしいので、 無駄に 重複したことをやらないのも、いい。 かといって 無駄に 単位取得が難しいわけではなく、 放送授業ならば 通信指導をちゃんと通すために 勉強させることで、 本番で面食らう、 ということも 少なくなってきた。 面接授業は、 令和元年から レポートか試験が必須になったので、 まえよりかは 単位取得の難易度は上がっているはずだが、 そのぶん 授業の内容は 締まってきた感じがする。

2022年11月28日月曜日

近代日本内閣史@神戸大学

河島真先生の授業でした。文系がますます疎んじられる風潮の昨今、なかなか聴けない話を聴けて、大変貴重な経験でした。自分の頭のなかも、だいぶソリッドになってきたね。明治大正時代を、経済からも、政治からも見れる、というのは、大きな強味になる。翻って、森本先生のジェンダー論も、具体的な時代背景を踏まえた上で、説得力を持って感じられるようになった気がします。

2022年11月25日金曜日

ヒャッハー!!

西田昌司は死ね!! 国賊なんだよ、テメーわ! なにが安倍の遺志だ、糞でも喰ってろ!! 気違いナメんな! FUCK!

政策割当の原理 (再掲)

質問:中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、とありますが、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか?あるいは、新古典派経済学では「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか? 回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。すなわち、「政策割当の原理」です。したがって、「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要となります。  本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。本来の金融政策の目標(物価の安定)と異なるため黒田日銀総裁は「異次元の金融政策」という言葉を使ったのです。このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。このシナリオどおりに進めば、もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。ただ、経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります。したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため「財政再建」が先送りになってしまいます。それゆえに、「財政再建」の政策目標の一環として消費税の引上げが考えられています。このように、「政策割当の原理」は成立しています。https://news.infoseek.co.jp/article/joseijishin_2068465/

行政法 (再掲)

質問:今年(2018年)8月21日に、菅官房長官が、記者会見で、携帯料金を4割値下げする、と発言し、auをはじめとする携帯会社の株価が一時下落しました。 要件としては、①官房長官は行政庁か②官房長官の記者会見は行政行為か③損失を被った株主の原告適格、の3つと考えられます。 一番の論点は②の官房長官の発言は行政行為か、と思われます。仮に取消訴訟で勝って、官房長官の発言が無効とされたとしても、株価が戻るかは不確実で、損害賠償もしてもらえないとなれば、わざわざ訴訟を提起するのはデメリットのほうが大きくなってしまいます。 文字数制限の都合で、論理が飛躍している部分がありますが、ご容赦ください。 ご回答:ご質問ありがとうございます。まず①との関係では、官房長官は行政庁には当たりません。行政庁とは、行政主体(ご質問との関係では国)のために意思決定を行いこれを表示する権限を有するものをいう(印刷教材45頁)のですが、携帯電話事業に対する事業認可の権限をもっているのは総務大臣でして、官房長官が料金設定についての発言をしてこれが料金設定に影響を及ぼすとしても、それはあくまでも事実上のものだからです。また、質問事項②については、行政行為とは、行政庁が法律に基づき一方的に国民や住民の権利義務の個別的・具体的な内容を直接確定する行政機関の活動形式をいう(印刷教材70頁参照)わけですが、官房長官の記者会見は、法律に基づき国民や住民の権利義務の個別的・具体的な内容を確定するものということができませんので、行政行為に該当するということができません。さらに質問事項③につきましては、原告適格以前に問題となることがあります。それは、官房長官の発言が取消訴訟の対象となる「行政庁の処分」(行訴法3条2項)の要件を満たさない、ということです。つまり、「行政庁の処分」とは、「公権力の主体たる国又は公共団体が行う行為のうち、その行為によって直接国民の権利義務を形成し又はその範囲を確定することが法律上認められているものをいう」とされている(印刷教材170頁参照)のですが、官房長官による記者会見での発言は、国民などの権利義務の個別的・具体的内容を確定するという法的な効果を発生させるものではないので、「行政庁の処分」という要件を満たしません。したがって、損失を被った株主の原告適格があるかないか、ということを問う以前に、そもそも質問にある発言は取消訴訟で争うことができる対象には当たらない、と考えられます。

2022年11月24日木曜日

せっかく書いたので。

春休みは、韓国語のスキルアップを目指します。 具体的にうまく行くかどうかはわかりませんが。 ところで、女性にありがちですけど、「具体的にどうするのか教えてください。」 という言い方ですが、”具体的に”って、具体的にどういう意味なんですか? カレンダーにスケジュールを書き込んだら「具体的」なんですか? 裏を返せば、精神障害者はそうでもしないと、観念的なことばかり考えて、「具体的に」計画、行動できない、と言いたいんですか? だから、作業所に行けば「具体的に」何か行動をした、ということになるんですか? 結局、そうやってあなた方は精神障害者を心の内では見下しているんじゃないですか? こう言えば、あなた方はこう言うでしょう。 私は自分の未来に対して無責任だ、と。 なるほど、こういう理屈ですね。 「私は具体的に物事を考えていない」 「それは私自身の未来に無責任だ」 「だから作業所に行け」 これは、無敵の三段論法ですよ。 そうやって精神障害者を追い詰めることが、あなた方がやってる全てですか? あなたは、作業所に通うことが具体的にどう市役所の就職に繋がるのかを教えてくれませんでした。 市役所が、障害者に対して具体的にどういう素質を求めているのかも、教えてくれませんでした。 「具体的に」考え、行動していないのは、むしろあなた方のほうなんじゃないですか? 措置入院を喰らってから、18年経ちました。 それでも大学に復学し、中退し、編入学し、また中退し、そして編入学。 最終的に大学を2回卒業しました。 並大抵の苦労ではありません。 引きこもり中年DV男になってても、不思議ではありません。 病院で、あるいは退院後、作業所がどういうところか、雰囲気ぐらいは知っているつもりです。 いまさらあそこに通うことが、どれほどの苦痛か、屈辱か、想像してみてください。 https://www.youtube.com/watch?v=75Qyszz3RSg

2022年11月22日火曜日

放送大学マンセー

これだけ 色んな 面接授業を 受けられる 大学は 他にない。 キリスト教哲学の歴史、 近世ロシア史、 近代日本経済史、 ソクラテスに批評精神を学ぶ。 素晴らしい。

2022年11月21日月曜日

やっこさんそう来たか。

茨城学習センターで、 来学期の シラバスをゲットして、 新設科目を 見てみたけど、 山岡龍一先生が メチャクチャ気合の入った 授業をぶちかましてくれる みたいね。 「全体主義と新自由主義のあいだ」と 来たよ。 すげー楽しみ♪ 新設科目だから、 来年の4月まで 待たなきゃいけないのが ツライところ。

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学

茨城大学つえー 今回も 大変貴重な お話が聞けました。 紀元前4世紀の人の 言ってることが、 現代の 日本人にも 通用するんだなー。 ソクラテス、プラトン、アリストテレスと 繋がる 西洋政治理論の伝統が、 キリスト教の教義と絡まりあうかたちで 生きているからこそ、 欧米ってのは 強いんだな、と再認識。 もちろん、 これは 八戸サテライトで受けた 「キリスト教哲学の歴史」とも 絡んでくることは 言うまでもない。

2022年11月17日木曜日

憲法記念日 (再掲)

質問:平成28年度2学期の放送大学東京文京キャンパスで行われた面接授業「統治機構を憲法から考える」を履修したものです。 いきなりで恐縮ですが、ひとつお伺いしたいことがあります。 日本国憲法第66条3項は「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。」と規定しています。 これはイギリス式の、議院内閣制を定めたもの、つまり、議会の信頼の上に内閣が成り立っている、と解釈できると思われます。 しかし、現況では、野党が弱く、与党議員の多くが当選2回のペーペーで内閣に到底モノを言えるような力がないなかで、内閣が暴走し、とても議会に連帯して責任を負っているとは言えない状況にあると思われます。 日本国憲法はアメリカ式と思われますが、アメリカであれば、大統領令に対しても積極的に違憲であると権力を発動しますが、日本ではそうではありません。 これは、アメリカ式の憲法を採用しながら、(戦後)イギリス式の議院内閣制を採用した日本の統治機構の構造的欠陥と言えるのでしょうか? ご多忙のことと存じますが、ご回答賜れれば幸いです。 ご回答:メールありがとうございます。  議院内閣制は、議会と政府の共同活動を前提としています。しかし、政府・内閣が暴走する場合には、議会のコントロールに服するという「責任本質説」に基づき、内閣は連帯して議会に責任を負い、議会下院は内閣に不信任の決議をすることができます。  とはいえ、議会多数派である与党議員が、政府・内閣の意向に承認ないしは追従する限り、政府・内閣は、多数議員に体現される民意に基づき、政治をリードすることになります。政府・内閣が暴走しているとして政府・内閣を抑止することができるのは、主権者である国民であり、選挙という手続きに基づき行われます。  日常的には、テレビ・新聞などのマスメディア、世論調査、SNSなどによる言論表現活動において、政府・内閣の暴走を批判することができます。しかし、政府の意見は、「政府言論」として政府の自制がない限り、たとえアジテーションであっても広く国民に広がるのが現実です。  ここまでは、ご質問の前提です。では、アメリカとイギリス、そして日本の立ち位置について考えてみます。  日本国憲法は、確かに、GHQの考え方すなわちアメリカ法思想を前提にしていますが、マッカーサーは、日本が戦前も議院内閣制の政治制度を採用したことを前提に、新日本国憲法の構想にあたっても議院内閣制の採用をすすめており、憲法改正のための帝国議会でも、違和感なく採用されています。  では、ご質問にあるように、議院内閣制において、現実的な政府の暴走は阻止できないのかという点を考えてみたいと思います。イギリスやアメリカにおける民主主義の前提は、二大政党制であると思います。対立する野党が政府与党を抑制するシステムは、現実的には、「政権交代」が国民の選挙によって起きるという事実だと思います。政府与党が一番恐れるのは、政権からの陥落であり選挙における敗北です。イギリスやアメリカでは、現実に政権交代がありますので、政治は次の選挙に勝つためという戦略的な限界あるいは制約があります。これを意識することは、反対者へ配慮として、温和な政治展開を現実的に保障することになります。  もっとも、激しい感情の発露は、「民意」にあります。主権者たる国民の感情換言すれば投票行動は、刺激に敏感で現実的生活や嗜好に左右されがちです。「ポビュリズム」が、一般大衆の感情的表現として用いられ、ポビュリズムによる政治が危険視されるのは、そのことを指摘しています。国民の感情エネルギーである民意を理性的にコントロールしないと、政治自体が暴走します。この例として、イギリスやアメリがの現状を上げるのは妥当ではないかもしれませんが、イギリスがEUから離脱し、アメリカが自国第一主義へと進路をとったことは、国民の感情的エネルギーと言えるでしょう。  一方、日本は、国民の感情的エルネギーが、国民から主体的に発散されているというよりは、政治指導者の思想や政治的判断が、国民に提案され、国民がその政治提案をよく咀嚼する前に、現実的な体制づくりが民主主義という名の下で推し進められているという傾向がありのではないでしょうか。  今から反省するとすると、政権交代を行うために、政党本位・政策本位の選挙制度構築ビジョンのもと、中選挙区から小選挙区選挙へと移行したことが、現在の強すぎる政府与党を作り上げていると思います。日本国民は、表向きは権力を尊重し権力へおもねる傾向を持つ国民であり、他人と議論することは避け、人に同じことを考え行うことを通常の判断原則としているように見受けられます。そのよう傾向持つ国民が、二大政党制に本当に馴染むか、一時の情に流されることなく、考え続けるべきかもしれません。  というわけで、日本において、政府の暴走を阻止することは、政治部門関係では、非常に困難であって、議院内閣制の制度的構造的欠陥とはいえないと思います。要はいかなる制度であっても、使用方法が大切であるということだと思います。例えば包丁と同じで、本来の使用とは別に人を殺傷するときにも使用できます。議院内閣制に関する評価も、国民の使用方法に左右されることになります。  政治部門の抑止は、お話ししましたように、権力分立に基づき、裁判所の役割となります。違憲審査権を有する裁判所が、政治部門の判断ないし活動について、どのような憲法判断を行うか、これが重要な法的課題となります。しかし、現在はこの憲法を改正とようとしているわけですので、国民の叡智の真価を問われていると言える現状です。  ご満足のいく回答となっているかどうかわかりませんが、今の考え方を述べさせていただきました。 日笠完治

「顔の現象学」とキャラ 渡辺靖先生の研究会で提出したレポート (再掲)

ところで、ルソーは疎外論の元祖だそうである。 「ホントウのワタシ」と「社会的仮面を被ったワタシ」の分離という中学生が本能的に感じるようなことに言及していたそうである。ここで、いわゆる『キャラ』について考えてみよう。 サークルの飲み会で、場にあわせてドンチャン騒ぎをやることに倦み果てて、トイレに逃げ込んだときに自分の顔を鏡でみるのは一種のホラーである。鏡に映る、グダグダになって油断して仮面を剥がしかけてしまった見知らぬ自分。それを自分だと思えず一瞬見遣る鏡の前の男。男は鏡に映る男が自分であることに驚き、鏡の中の男が同時に驚く。その刹那両方の視線がカチあう。俺は鏡を見ていて、その俺を見ている鏡の中に俺がいて、それをまた俺が見ている・・・という視線の無限遡行が起こって、自家中毒に陥ってしまう。 このクラクラとさせるような思考実験からは、<顔>についてわれわれが持っているイメージとは違う<顔>の性質を垣間見ることが出来るのではないか。そもそも、自分の顔は自分が一番よく知っていると誰もが思っているが、鷲田清一によれば、「われわれは自分の顔から遠く隔てられている」(「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22)という。それは、「われわれは他人の顔を思い描くことなしに、そのひとについて思いをめぐらすことはできないが、他方で、他人がそれを眺めつつ<わたし>について思いをめぐらすその顔を、よりによって当のわたしはじかに見ることができない。」(P.22)からだ。 言い換えれば、「わたしはわたし(の顔)を見つめる他者の顔、他者の視線を通じてしか自分の顔に近づけないということである。」(P.56)ゆえに、「われわれは目の前にある他者の顔を『読む』ことによって、いまの自分の顔の様態を想像するわけである。その意味では他者は文字どおり<わたし>の鏡なのである。他者の<顔>の上に何かを読み取る、あるいは「だれか」を読み取る、そういう視覚の構造を折り返したところに<わたし>が想像的に措定されるのであるから、<わたし>と他者とはそれぞれ自己へといたるためにたがいにその存在を交叉させねばならないのであり、他者の<顔>を読むことを覚えねばならないのである。」(P.56) そして、「こうした自己と他者の存在の根源的交叉(キアスム)とその反転を可能にするのが、解釈の共同的な構造である。ともに同じ意味の枠をなぞっているという、その解釈の共同性のみに支えられているような共謀関係に<わたし>の存在は依拠しているわけである。他者の<顔>、わたしたちはそれを通して自己の可視的なイメージを形成するのだとすれば、<顔>の上にこそ共同性が映しだされていることになる。」(P.56) こう考えると、「ひととひととの差異をしるしづける<顔>は、皮肉にも、世界について、あるいは自分たちについての解釈のコードを共有するものたちのあいだではじめてその具体的な意味を得てくるような現象だということがわかる。」(P.58)これはまさに、サークルなどで各々が被っている<キャラ>にまさしく当てはまるのではないか。サークルという場においては、暗黙の解釈コードを共有しているかどうかを試し試され、確認し合っており、そのコードを理解できないもの、理解しようとしないものは排除される。その意味では<キャラ>はまさしく社会的仮面なのだ。

2022年11月16日水曜日

無聊を託つ (再掲)

暇だな・・・ 暇なら働きゃいいじゃん、 母親も、 何も言わず 一人で郵便局行けるほどに回復したし。 しかし、 俺が暇だから働く、 となれば、 母親はどうなる? 俺より暇じゃないのか? 暇だってそれなりに苦痛であることを 理由に、働こうかな、なんて言ってる息子が、 母親を放置していいんだろうか。 ん?でも俺って、実はそれなりに体力ついてきたんじゃないか? 連日エキサイトしてるのに、それなりに朝早く起きられるし。 睡眠の質もいいし。 ところで、最近また世間のマインドがデフレの方向に向かってる気がする。 テレビとかでも、いかに食事などを安く済ませるか、という内容が散見される。 母親も、飯尾和樹がワンコインで賢く食費を浮かせてて、偉いと言っている。 円安と資源価格高騰による コストプッシュ・インフレの影響と、 それでも企業の価格転嫁が進まずで、 結局、名目賃金が上がったとしても、 実質賃金が目減りしているから、 当然と言えば当然なんだけど、 そもそも 期待インフレ率を上げて、実質金利を下げることにより、消費を喚起することが インタゲの主眼目のはずだったのに、 これじゃ本末転倒じゃないか。 ただのスタグフレーション。 黒田日銀は、日本経済を永久凍結させる気か? 見方によっては、富の分配の偏りは、消費の低迷によって 国全体を貧しくする、ということも言えるだろう。 そもそも、少子高齢化が進めば、 老人の支出が減るのは当たり前だし、 働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、 消費を控えるのは当然だろう。 それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。 政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。 https://www.youtube.com/watch?v=c8qrwON1-zE

「金融抑圧」でググってみた。

https://www.camri.or.jp/files/libs/614/201703291709043717.pdf もう、日本終わってるね。 規模ありきで 巨額の補正予算組んでるけど、 それは 国債の消化のために 家計の貯蓄が 使われるから、 景気の浮揚には 一向に 役に立たない。 ただ、 政治家の「やってる感」を 演出することだけは出来る。 デフレマインドが復活すれば、 家計はますます 現預金を貯め込み、 それが 国債を買い支える原資となる。 そして、 政治に対しては 積極財政と、 相変わらずの 大規模金融緩和を求める。 すべてが 終わっているが、 大方の国民には その自覚すらない。 どんなに蓄財したところで、 最後は 国税庁に全部搾り取られる。 あの、 安倍のケツ舐めて 長官に栄転した 佐川宣寿がトップやってたところに。 ヤッてらんねーわな。 そういや、 最近国税庁の職員 詐欺で逮捕されてなかったっけ? 官僚の劣化も酷いわな。 この国はもう 何から何まで 腐っている。

授業で聞いた話

植民地支配を受けた国は、 支配を受けている間、 原材料製造ばかりさせられて、 宗主国から 完成品ばかりを 輸入させられるから、 植民地支配から 独立しても、 簡単には 経済発展できない、 とのことでした。 これは 朝鮮半島に限らず、 世界各国の 植民地支配を受けた国に 共通して言えることだそうです。

2022年11月15日火曜日

中年の発想

若い頃は、 楽しんでる時が楽しい、 って 思うけど、 中年になると、 そのとき楽しかった、 というより、 思い出して ああ、 楽しかったな、 という 感覚のほうが強くなる気がする。 脳がボケてきて、 記憶があまり鮮明でなく、 むしろ 過去の出来事を 自分に都合よく 編集・加工して 思い出すからかも知れない。 若い頃は、 刺激をそのままイメージ化して、 記憶に留めることができるけど、 中年になると、 刺激を ストーリーに仕立てたり、 物語化しないと、 記憶に留めておくことが 出来なくなってくる。 つまり、 刺激そのものを消費するよりも、 物語を味わう、 という変化が生まれてくる。 うなぎ料理にしても、 単純に美味しかった、 というより、 あの時は 地方に面接授業に行って、 こんな内容で、 その時に友達が紹介してくれた、 あの店で、 疎遠になりかけた 親類に 結構値の張る贈り物をした、 等。 つまり、モノ消費から、コト消費へと、 消費の意味づけが変わってくる。 選択行動を発する当の本人でさえ、自分が選んだのはモノではなく、背後のコトだということを意識しているとはかぎらない。経済学者たちに「xとyのうちいずれを選ぶか」と問われたとき、「わたしはそのモノがほしい」ということで選んでしまったが、本当は「わたしがそのモノをもつ」というコトの意味を十分考えるべきだったと後悔するかもしれない。本人でさえも、背後にあるコトの選択は無意識に行ってしまうのだから、社会が人々の選択したモノから、人々の背後にある選択されたコトを抽出するのは容易ではない。たとえ選択行動は同一でも、選んだ人にはいろいろな「思惑」があり、それを、行動が一致しているということから、社会が「万人は同意見だ」とするのは明らかにおかしい。わたしたちが本当に選んだり、訴えたり、要求したりしているコトは、訴えている一つの事例の中で要求している内容の即時的満足ではないのである。わたしたちは選ぶという行為を通して、自分が正しいと思うコトや、自分が良いと思うコトを、他人の正しいと思っているコトや、良いと思っているコトとつきあわせてみようとしているのである。 〈私が選ぶ〉という行為は、私の志向と他者の志向を突き合わせ、つまりはコミットしようとする対話性を内包している。 まさに人はパンのみにて生くるものにあらずーー他者との関係性の上に展開するストーリー(人生の物語)抜きに生きるということはあり得ない。

モーニングサテライト

パックンの投資語録、 めちゃくちゃ 英語の勉強になるから、 本にまとめて 出版してくれないかなー? 投資の話はそこそこでいいから。 あれ、 短い文だけど、 ちゃんと 韻を踏んだりしていて、 さっすが ハーバード! って感服しちゃうんだよなー。

2022年11月14日月曜日

近代日本経済史@北九州サテライト

はるばる九州まで行ってきました。 お金はかかったけど、 その価値が十分にある授業内容でした。 九州大学の鷲崎俊太郎先生の授業。 本来ならば 九州大学にいないと受けられない授業を、 2日間で濃縮して 講義を受けさせてもらいました。 夏目漱石を、 フランクフルト学派を代表する 思想家である アドルノから見る、ということを テーマとしている自分としては、 当時の時代背景を知ることは、マストです。 「近代日本経済史」という授業ですが、 放送大学入ってすぐの頃に 一度静岡で、静岡大学の日向祥子先生の 面接授業を受けているので、 そうすると、規定上 同じ名前の面接授業は 5年間受講出来ないのですが、 確か、2年前にも 鷲崎先生の「近代日本経済史」の 授業も開講予定だったのですが、 コロナで閉講されてしまい、 今期あらためて 開講されました。 そういう意味では、この授業だけに関して言えば、 コロナのおかげで 受けられました。 いちど同じ時代の同じテーマの授業を 受けているからこそ、 余計知りたくなる。 また、 佐賀出身の義兄にも 悦んでもらえそうな 銘品もお歳暮に贈ることが出来て、 たいへん良かったです。 地域クーポン券が使いにくかったこと 以外は、ほぼほぼパーフェクトな旅でした!

2022年11月11日金曜日

An euphoria has come over me!

明日から面接授業なので、地方都市にいますが、全国割と地域クーポン券で、だいぶお得感があります。 だけど、これって、キャンペーンが終わったら、かえって元の価格が割高に感じる、つまり、期待インフレ率を、政府自ら率先して引き下げてるのと同じじゃないのか? 日銀が、10年かけて、甚大な弊害を抱えながら、どうにかこうにか引き上げた期待インフレ率を、政府自らが一瞬でブチ壊すって、一体なにやってんだろう?という疑念を拭えない。 なによりヤバいのは、自民党という政党は、国民から叩かれるほど、国民に飴玉をばらまく、と国民が学習してしまうこと。 ちょっとこれはもう飴玉を通り越して、国民に麻薬飲ませてるのと同じじゃないのか? かといって、野党に政権を担う能力はないし、野党は野党で、ばらまくことしか考えてない。 もう、これは浦島太郎と一緒。 俺自身、酒も飲んでないのに、よくわからないeuphoriaに陥っている。 なんだこりゃ?

ゆたぼん

国民の3大義務って、 たしか 教育、勤労、納税 だったと思うけど、 結局これは、 教育を受けて、 働くスキルを身につけ、 そして 納税しろ、 という、国家本位の発想だよね。 自分としては、 教育を受けるも受けないも、 本人の自由でいいと思う。 一般論としては 国のために国民は義務を負うべきだと思うが、 ジョン・ロックの抵抗権の発想からすれば、 国民の信託に応えない政府に対しては、 国民は反抗する権利を持っている。 少なくとも、公立の小学校で、 いじめなどを放置している限り、 そこに 子供を通わせる義務があるとは思えない。 それに、 自分の経験から言って、 公立の小学校の教育が、 それほど 学力を身につけるのに効率的か、 と言われれば、 そんなでもないと思う。 もっと効率のいい勉強のやり方は、いくらでもある。 6年間もかけるならば、 やれることはもっと沢山ある。 ゆたぼんのユーチューブを視たことはないが、 貴重な経験をしてるんじゃないかと思う。 小学生で、 あれだけ世間の耳目を集めて、 資金を調達したり、 批判を浴びたりして、 普通に小学校に通っていては経験できないことを、 沢山積んでいる。 ホリエモンが、彼は若いだけで注目されている、 と語っているが、 ホリエモンからいち小学生がコメントされること自体が、 すでに凄いことなんじゃないのか? しかも批判的に。 ホリエモンというインフルエンサーから批判されて、 それを我が事として受け入れ、 考える、ということは、 ふつうの小学生ではまずありえない。 ひろゆき氏は、 ゆたぼんを真似するバカが増えるというが、 小学生にとって、 小学校に通う以外の選択肢がある、 ということを知るだけでも、 希望の光だと思う。 それに、 学校の教育だけが教育ではないことはすでに述べた。 何しろ、 義務教育というのは、 最終的に納税するためにあるのだから。 もう、 そんな時代じゃなく、 国ではなく、自分のために学べばいい。 そうすれば、 勉強すること自体が、もっと楽しくなる。

2022年11月10日木曜日

黙ってられない。

三橋貴明にしても、 あんなデタラメな 経済学を冒涜する理論を 売り物にして、 金儲けするだけでは 飽き足らず、 国政選挙にまで 出馬するってのは、 ほんとに 神経を疑うとしか言いようがないんだが、 こんなやつを 党の公認候補にしちゃう 自民党も マジでどうかと思う。

俺には公務員は無理なのか?

杉田水脈だけど、 もし 安倍がずっと生きてたら、 安倍の機嫌さえ 取っていれば、 杉田水脈みたいなやつが、 比例名簿の上位に載り続けて、 しかも 安倍のお膝元の中国ブロックで、 比例単独で まともに 選挙活動もせずに 当選し続けていたのかと思うと、 怖気がするわ。 公務員は政治的な活動をしちゃいけないってのが お約束なのは知っているが、 このレベルの表現の自由も認められないなら、 俺は公務員にはなれない。

2022年11月9日水曜日

監視社会と自由

放送大学の大学院の授業 (大学院の授業までネットで視聴できる。) 山岡龍一先生の 講義聴いたけど、 すでに 一度聴いて わかったつもりで もう一度聴いたけど、 重い。深い。 ラジオ講義だし、 一度聴いたはずなのに、 あらためて聴くと、 めちゃくちゃヘヴィー。 知らなかった、という意味では 「身近な統計」のほうが 大変なはずなのに、 やっぱりそこは 大学院の授業と、 学部の基盤科目の差なのか? ヘビー級のプロボクサーに 殴られるぐらいの 衝撃がある。

センガッコリ ットオルゴイッチャナー

ちょっと 暇つぶしの つもりで 統計学に手を出したら、 自分のやってきた ことと 縁遠いどころか、 めちゃくちゃ 濃密に 絡み合ってる じゃないか! ゴールだと思ったら スタート地点に 立ってた。

漱石と資本主義 (再掲)

確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

「身近な統計」第8回

正規分布。グレート。ビビったぞ。かなり本格的な統計学の授業じゃねーか。こんなんが基盤科目でいいのか?後半はニッセイ基礎研究所の社長さんの話で、すげー納得した。自分みたいに、働きもしないで、年金も納めず、しかも障害年金もらってる奴って、はっきり言ってメチャクチャ迷惑なんだろうな。言い方は酷いけど、事実。そら自治体だって血眼になって就労支援するわけだ。

次の金融危機?

今朝の日経新聞に、 為替レートは ファンダメンタルズだけでは 説明できない、 投機筋が 絡んでくると、 現実に近くなる、 と書いてありました。 また、 別の記事では、 リーマンショック以降、 銀行や証券会社への 当局の規制は厳しくなったものの、 当局の規制の及ばない、 「影」の資本がうごめいており、 不気味だ、 みたいなことが書いてありましたね。 まあ、 経済っていつもこうですよね。 イタチごっこというか。 そこが面白いところだけど。 でも、 そういう投機筋の動きがなければ、 日本みたいに モラルハザード起こしてる国が フリーランチに与るのを 誰も 止められないですからね。 それと、 日本の上半期の経常収支黒字が、 対前年比?で 6割弱減だとか。 どうなっちまうんだか。

「身近な統計」第7回

確率ってそういうことか!やっとわかったわ!今まで騙されてた!エウレカ!エウレカ!高校数学の確率の教え方オカシイよ!真面目に考えれば考えるほどわからなくなるのも、当然だ!たったこれだけのことを知るのに、今までどんだけ無駄にカネ払ったと思ってんだ?!カネ返せ!!!!!

「人間の条件」 ハンナ・アーレント ちくま学芸文庫 より (再掲)

近代の経済学の根本にあるのはこれと同一の画一主義である。 つまり、近代の経済学は、人間は行動するのであって、お互い同士活動するのではないと仮定している。 実際、近代の経済学は社会の勃興と時を同じくして誕生し、その主要な技術的道具である統計学とともに、すぐれて社会の科学となった。 経済学は、近代に至るまで、倫理学と政治学のあまり重要でない一部分であって、人間は他の分野と同様に、経済行動の分野においても活動するという仮定にもとづいていた。 この経済学が科学的性格を帯びるようになったのは、ようやく人間が社会的存在となり、一致して一定の行動パターンに従い、そのため、規則を守らない人たちが非社会的あるいは異常とみなされるようになってからである。(65~66ページ) (中略) しかし、多数を扱う場合に統計学の法則が完全に有効である以上、人口が増大するごとにその有効性が増し、それだけ「逸脱」が激減するのは明らかである。 政治の次元でいうと、このことは、一定の政治体で人口が殖えれば殖えるほど、公的領域を構成するものが、政治的なるものよりは、むしろ社会的なるものに次第に変わってゆくということである。(66ページ) (中略) 行動主義とその「法則」は、不幸にも、有効であり、真実を含んでいる。 人びとが多くなればなるほど、彼らはいっそう行動するように思われ、いっそう非行動に耐えられなくなるように思われるからである。 統計学の面でみれば、このことは偏差がなくなり、標準化が進むことを意味する。 現実においては、偉業は、行動の波を防ぎとめるチャンスをますます失い、出来事は、その重要性、つまり歴史的時間を明らかにする能力を失うだろう。 統計学的な画一性はけっして無害の科学的理想などではない。 社会は型にはまった日常生活の中にどっぷり浸って、社会の存在そのものに固有の科学的外見と仲よく共存しているが、むしろ、統計学的な画一性とは、このような社会の隠れもない政治的理想なのである。(67ページ) (中略) 大衆社会の出現とともに、社会的なるものの領域は、数世紀の発展の後に、大いに拡大された。 そして、今や、社会的領域は、一定の共同体の成員をすべて、平等に、かつ平等の力で、抱擁し、統制するに至っている。 しかも、社会はどんな環境のもとでも均一化する。 だから、現代世界で平等が勝利したというのは、社会が公的領域を征服し、その結果、区別と差異が個人の私的問題になったという事実を政治的、法的に承認したということにすぎない。(64ページ) 「人間の条件」ハンナ・アーレント ちくま学芸文庫

2022年11月8日火曜日

身近な統計

脳にかなり 空き容量が生まれたから、 放送大学の 「身近な統計」 の 授業を視聴してみました。 ただでさえ 数学が苦手なのに、 慶応で データ分析の授業が 自分の性に合わず、 データ分析とは 無縁の勉強を 続けてきたのですが、 一度 アタマをクリアにして 虚心坦懐に 放送授業を受けてみると、 基盤科目として、 柔道における データ分析活用例などを 通して、 全くの初心者だからこそ、 納得しやすい 授業内容となっていました。 自分が かなり 文系寄りの人間なのは 皆さんご存知のことですが、 内田隆三先生の 「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される? 言語と運命の社会学」(岩波書店)を 読んでから、 確率、あるいは運命というものに 興味が湧いてきて、 さらには アマゾンやセブンイレブンなど、 現代のビジネスでは 情報が大事、 と言いながら、 具体的な中身について わかっていないこと、 さらには、 現代の市場型間接金融は 大量の個人データを 利用して 運用されている、 という ことは知りつつも、 具体的な スキームについて 何一つわかっていないことを 自覚し、 さらには、 井上俊先生の説く 「信用」と情報の関係性など、 自分がやってきた分野と あながち無縁でもなく、 一度ちゃんと 統計を勉強したいな、 と思っていたところでした。 この 「身近な統計」の 放送授業も、 何度も 視聴してみたものの、 途中で嫌気が差して 見るのを止めてしまった、 ということが 何回もあったのですが、 第一回の講義を 視聴して、 全くの素人の自分でも ついていけるように 工夫されているな、 と感じました。 今後 統計を 深く学べればいいな、 と思います。

2022年11月7日月曜日

来年こそは

障害者枠で 高崎市役所 受けよ。 人生の後半戦 を 戦うのに、 まともな 職歴がなかったら 始まらない。 今朝の日経新聞の 「やさしい経済学」で 「企業はビジネス環境が少し変化するたびに価格変更するのではなく、中長期的な先行きを見通して、必要な場合に価格を変更します。」 って書いてあったけど、 それは今納得した。 人生も同じ。 なんの 展望もなく 今の行動を決めるやつは ただの馬鹿。 https://www.youtube.com/watch?v=vFW6YvV7Et4

2022年11月6日日曜日

金融経済論で聞いた話

うちらの親世代は、 子供、つまり うちら世代に 財を残すことが 出来て、 そこで ある程度 世代間ギャップを 埋めることも 出来たけど、 うちら世代が 子供に 同じこと出来るか、 って言ったら、 そこまで 出来る人は、 ごくごく一部 だよね。 だから、 若い人見ると、 覇気がねーな、と 感じることも あるけど、 親に頼れないんだから、 リスク取れないのも 仕方ないかな、 という気もする。

WBC

はっきり言って、 迷惑なんだよね。 ついさっきまで 日本シリーズまで 戦ってた 選手を、 シーズンオフで 使われたら。 本来なら ゆっくり 休養して 来シーズンに向けて 準備する期間を、 こういう形で 使われるのは、 はっきり言って、 迷惑以外の 何物でもない。 落合さんが 言ってた ことが よく分かるわ。 レギュラーシーズンで 出番がなくて くすぶって ウズウズしてる 選手を 使うなら わかるが。 人選考えろよ。 野球選手だって 生身の人間 なんだよ! 落合さんの 「野球選手は個人事業主」って 言葉も、 実は 選手個々人に対する 最大限の 愛情であって、 ファンとスポンサーの エゴから 選手を 守るためには、 その言葉が 一番 強力。 普段対戦しないような 海外の選手と 対戦できるから、いい、 というかも知れないが、 修学旅行じゃねえんだよ! 村上が来シーズン 絶不調になったり、 最悪ケガしたら、 誰がどう 責任とって くれるんだよ? そもそも、 北朝鮮が 米韓の合同軍事演習に 反発して ミサイルバンバン発射してる、 中国は台湾併合の意志を公言してる、 そんな中で、 韓国とか台湾の選手が シーズンオフに ガチで 野球なんかやると思うか? アメリカにしたって、 分断社会と言われるなかで、 選挙が控えてるし、 ロシアのウクライナ侵攻で ギクシャクしてる中で、 のうのうと 野球やってる選手なんか、 単純に 自分の 就活以上のことは 考えてないだろ。 日本人は こういうところが バカなんだよ!

なんだかなー

YOSHIが事故って 亡くなったらしい。 サンジャポに 出てた頃は、 この調子乗ってる ガキは 将来どうなるんだろう? と思ったけど、 こんなあっさり・・・ もしかしたら 大バケするのかな? なんて かすかに 思ってたけど。。。 あまりに 呆気ない。 なんだかなー 何も 答えが 出てない じゃないか!

坂口安吾 三十歳 

勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。  たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。  人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。  けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。

言いたかないけど!

頑張ったよ! この20年 めちゃくちゃ 頑張ったよ! アタマが ほどけて バラバラに なりそうだよ!

2022年11月5日土曜日

「魔の山」 下巻 トーマス・マン 岩波文庫 末尾より

さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり)

ウツに至る路ーその2

自分の スイッチを オンにするのって、 意外と簡単なんだよね。 むしろ、 スイッチをオフにするほうが 難しい。 ありがちなのが、 スイッチがオンに なりっぱなしの まま 突き進んでしまうとき。 こうなると、 いくらでも 無理が利く気になって、 無理がたたって ウツになる。 自分の スイッチをオフ にする 術を心得ておく ことも、 生きる上で 必須のテクニック。 スイッチをオフにするために、 酒、女、ギャンブルに嵌ると、 人生破滅する。

接客態度

東横インが すげえと 思うのは、 こんだけ ヘビーに 使ってるのに、 接客態度で ムカついたことが ほとんど 記憶にない。 高崎市から 商品券届いたから、 ねーちゃんに 高島屋で お歳暮送ったんだけど、 接客態度が ムカついた。 母親に言わせれば、 高島屋は ちょっと 傲慢らしい。 そんなんじゃ オーパに負けるぞ! てか、 高崎市から 商品券5000円来たから、 それで 支払おうとしたのに、 贈答品売り場では 使えない、 と言われて、 近くの金券ショップも 閉まってて、 しょうがないから コンビニで おろして 再び 売り場に 出向いたのに、 歓待の様子も 見せずに、 女性特有と言ったら失礼だが、 高級デパートとしては ありえない 事務的な態度で、 ちょっと ムカついた。

2022年11月4日金曜日

レポート下ごしらえその4 (再掲)

そもそも、人間の人間たる理由はなんなのか? それは、”善さ(good)”とは何か?ということだろう。 以前、あるニュースで、人工知能に”善さ(good)”とは何か?と繰り返し聞いたら、人工知能が怒り出した、という。 昨今、公共哲学界隈では、古代ギリシャに遡る徳倫理学が復権しつつあるそうだが、上述したような状況も無関係ではないだろう。 徳倫理学の代表選手はアリストテレスだが、日本人に馴染みのあるのは、その祖先と言ってもいい、ソクラテスを想像すればいいだろう。 モノの消費とコトの消費の対比でも考えたが、単純に選択肢の中から何かを選ぶ、ということと、それがどういう思想信条の表明であるか、というのは、次元の違う話なのではないか? つまり、単純にどういう結果を選択したか、というより、その結果を選択した根拠が再び問われる事態が起こっていると言ってよいだろう。 しかし、単に選択肢の中からチョイスをするということが、その人の思想信条の表明と全く無関係ということがあり得るだろうか? 〈私が選ぶ〉という行為は、私の志向と他者の志向を突き合わせ、つまりはコミットしようとする対話性を内包している。 まさに人はパンのみにて生くるものにあらずーー他者との関係性の上に展開するストーリー(人生の物語)抜きに生きるということはあり得ない。

レポート下ごしらえその3 (再掲)

選択行動を発する当の本人でさえ、自分が選んだのはモノではなく、背後のコトだということを意識しているとはかぎらない。経済学者たちに「xとyのうちいずれを選ぶか」と問われたとき、「わたしはそのモノがほしい」ということで選んでしまったが、本当は「わたしがそのモノをもつ」というコトの意味を十分考えるべきだったと後悔するかもしれない。本人でさえも、背後にあるコトの選択は無意識に行ってしまうのだから、社会が人々の選択したモノから、人々の背後にある選択されたコトを抽出するのは容易ではない。たとえ選択行動は同一でも、選んだ人にはいろいろな「思惑」があり、それを、行動が一致しているということから、社会が「万人は同意見だ」とするのは明らかにおかしい。わたしたちが本当に選んだり、訴えたり、要求したりしているコトは、訴えている一つの事例の中で要求している内容の即時的満足ではないのである。わたしたちは選ぶという行為を通して、自分が正しいと思うコトや、自分が良いと思うコトを、他人の正しいと思っているコトや、良いと思っているコトとつきあわせてみようとしているのである。

レポート下ごしらえーその2 日経新聞 2022/11/4 5面より

ブルーカラーの労働者は、朝から晩まで絶えず監視されることに慣れている。 無駄のない効率的な「リーン生産方式」を導入する工場の多くは、労働者の作業ペースをリアルタイムで監視するため生産性を測るスクリーンを作業現場などに設置している。 レストランや小売りチェーンなどサービス業に従事する低賃金の人々も同様だ。 これに対し、ホワイトカラー従業員はもっと人間的な方法で評価されてきた。 だが、今では監視資本主義によって彼らの労働も分単位で監視されるようになった。 しかし、テイラーイズムのいわばデジタル版は、将来への道筋を示すものではない。 特にテクノロジーではできない仕事の多くは、創造的思考や人間関係、チームワーク、ソフトスキルが決め手となる。 実際、職場でたまたま生まれるアイデアの交換や休憩場所での立ち話を通じた信頼関係の構築などは、まさしく管理ソフトでは追跡できない活動だ。

レポート下ごしらえーその1 2022/11/3 日経新聞7面より

韓国のサムスン電子は、2027年、髪の毛の太さの60万分の1に相当する1・4ナノメートルの回路線幅を持つ半導体を量産するという。今より3世代先の技術であり、実現すればもちろん世界初だ。 だが、1・4ナノはスマホの性能によほどの不連続な進化でも起きない限り、過剰なスペック(仕様)になる。 では、1・4ナノの半導体は何に使われるのだろうか。 間違いなく、データセンターや人工知能、量子コンピュータの周辺機器など「高性能コンピューティング」と呼ばれる領域になる。 データセンターはもはや人類共有の巨大コンピュータといっていい。 車の開発やコンビニエンスストアの日々の運営など、大量のデータを瞬時に処理し、新サービス開発などにつなげていく。 そうしたクラウドコンピューティングは今後も需要が拡大し、高性能の半導体を求め続ける。 半導体の技術革新は、個人が使いこなせる能力をはるかに超越する、という意味では人間と機械の逆転を示す一種の「シンギュラリティー」と呼べる節目かもしれない。

今朝の日経5面

面白い記事でした。 下手に 従業員を 監視しまくっても、 かえって 逆効果ですよ。 って話でした。 管理職は 社員を監視するよりも、 自分が 無駄な 会議とか 開いてないか 自問せよ、 って内容。

武蔵

武蔵に高校から入る、 というのは、 受験それ自体よりも、 むしろ 入ってから 適応するのが 難しいのです。 何しろ、 栃木の田舎 の 日大付属中から、 誰も 知り合いのいない 環境に 放り込まれるわけですから。 下手に スカした態度してると、 「標的」にされます。 それはあたかも ジョジョの奇妙な冒険 で ジョルノ・ジョバーナが パッショーネの 一員になるために 様々な試練を 乗り越える必要があるのと 同じです。 自分は どうにかこうにか くぐり抜けました。 勉強では敵わないので、 体育の授業でしか 見せ場を 作れませんでしたが、 「ここでこのシュートを 止めなければ 俺は ここで ずっと 日陰者になる!」 という危機感で、 自分でも信じられないような ファインセーブを 出来たこともあります。 あるいは、 バスケの授業で、 信じがたいような スーパーシュートを 決めて、 おお、お前すげーな。 と、 認められたこともあります。 そうやって、 武蔵での 存在感を獲得していったのです。 単に 勉強が出来る、 というだけで リスペクトされる 世界ではありません。 もちろん、 数学オリンピックで 金メダルを取る レベルになれば 話は違いますが。 武蔵には、 ヒエラルキーというものの 代わりに、 教室単位よりも むしろ 部活を中心とした アメーバのような コミュニティーの 集まりのような 人間関係が 存在していますが、 とりあえず どこかしらの コミュニティーに入っていれば、 そんなに クラス全体から いじめられる、 というのは 考えにくいです。 そもそも クラス単位で 何かをやる、 という意識が希薄なので。 と、いっても 自分の感覚では 2年に1人くらいは 自殺の話を聞きます。 理由は知りません。 そりゃ当然でしょ。 あるいは、 高校から入って、 適応できずに (たぶん)辞めていったやつも います。 下手すれば 自分も辞めてました。 多感なお年頃の 男子ばかりの 学校というのは、 そんなもんじゃないですか? 別に 極楽浄土というつもりは ありませんが、 伝統ある男子校なんて、 そんなもんじゃないですか? 色々問題を抱えつつも、 教員も 完全に放置でもなく、 かといって 過剰に 干渉するでもなく、 かといって 突き放すでもなく、 そうやって、 脈々と 受け継がれてきた 包容力が、 武蔵という 学校の魅力だと思います。 そうして、 常識のぶっ飛んだ 実に 面白い連中が 揃ってるのも、 また 武蔵の 大きな魅力の一つです。

NIRVANA

やっと 心の平穏を取り戻した。 学問の世界に生きる というのは、 なんという愉悦だろう! 学者じゃないけどね。 頼むから 俺に 働け というのは やめてくれ。 こっちも さんざん 考えてんだよ! お前は 錯乱するまで 自分を追い込んだ ことあんのかよ? ねーだろ? だったら こっちのことに ごちゃごちゃ 言うんじゃねーよ!

2022年11月3日木曜日

青空文庫ー「かのように」 森鴎外 (再掲)

かのように 森鴎外  朝小間使の雪が火鉢ひばちに火を入れに来た時、奥さんが不安らしい顔をして、「秀麿ひでまろの部屋にはゆうべも又電気が附いていたね」と云った。 「おや。さようでございましたか。先さっき瓦斯煖炉ガスだんろに火を附けにまいりました時は、明りはお消しになって、お床の中で煙草たばこを召し上がっていらっしゃいました。」  雪はこの返事をしながら、戸を開けて自分が這入はいった時、大きい葉巻の火が、暗い部屋の、しんとしている中で、ぼうっと明るくなっては、又微かすかになっていた事を思い出して、折々あることではあるが、今朝もはっと思って、「おや」と口に出そうであったのを呑のみ込んだ、その瞬間の事を思い浮べていた。 「そうかい」と云って、奥さんは雪が火を活いけて、大きい枠わく火鉢の中の、真っ白い灰を綺麗きれいに、盛り上げたようにして置いて、起たって行くのを、やはり不安な顔をして、見送っていた。邸やしきでは瓦斯が勝手にまで使ってあるのに、奥さんは逆上のぼせると云って、炭火に当っているのである。  電燈は邸やしきではどの寝間にも夜どおし附いている。しかし秀麿は寝る時必ず消して寝る習慣を持っているので、それが附いていれば、又徹夜して本を読んでいたと云うことが分かる。それで奥さんは手水ちょうずに起きる度たびに、廊下から見て、秀麿のいる洋室の窓の隙すきから、火の光の漏れるのを気にしているのである。      ――――――――――――――――  秀麿は学習院から文科大学に這入って、歴史科で立派に卒業した。卒業論文には、国史は自分が畢生ひっせいの事業として研究する積りでいるのだから、苛いやしくも筆を著つけたくないと云って、古代印度インド史の中から、「迦膩色迦王かにしかおうと仏典結集ぶってんけつじゅう」と云う題を選んだ。これは阿輸迦王あそかおうの事はこれまで問題になっていて、この王の事がまだ研究してなかったからである。しかしこれまで特別にそう云う方面の研究をしていたのでないから、秀麿は一歩一歩非常な困難に撞著どうちゃくして、どうしてもこれはサンスクリットをまるで知らないでは、正確な判断は下されないと考えて、急に高楠博士たかくすはくしの所へ駈かけ附けて、梵語ぼんご研究の手ほどきをして貰った。しかしこう云う学問はなかなか急拵きゅうごしらえに出来る筈はずのものでないから、少しずつ分かって来れば来る程、困難を増すばかりであった。それでも屈せずに、選んだ問題だけは、どうにかこうにか解決を附けた。自分ではひどく不満足に思っているが、率直な、一切の修飾を却しりぞけた秀麿の記述は、これまでの卒業論文には余り類がないと云うことであった。  丁度この卒業論文問題の起った頃からである。秀麿は別に病気はないのに、元気がなくなって、顔色が蒼あおく、目が異様に赫かがやいて、これまでも多く人に交際をしない男が、一層社交に遠ざかって来た。五条家では、奥さんを始として、ひどく心配して、医者に見せようとしたが、「わたくしは病気なんぞはありません」と云って、どうしても聴かない。奥さんは内証ないしょうで青山博士が来た時尋ねてみた。青山博士は意外な事を問われたと云うような顔をしてこう云った。 「秀麿さんですか。診察しなくちゃ、なんとも云われませんね。ふん。そうですか。病気はないから、医者には見せないと云うのでしたっけ。そうかも知れません。わたくしなんぞは学生を大勢見ているのですが、少し物の出来る奴が卒業する前後には、皆あんな顔をしていますよ。毎年卒業式の時、側そばで見ていますが、お時計を頂戴ちょうだいしに出て来る優等生は、大抵秀麿さんのような顔をしていて、卒倒でもしなければ好いと思う位です。も少しで神経衰弱になると云うところで、ならずに済んでいるのです。卒業さえしてしまえば直ります。」  奥さんもなる程そうかと思って、強しいて心配を押さえ附けて、今に直るだろう、今に直るだろうと、自分で自分に暗示を与えるように努めていた。秀麿が目の前にいない時は、青山博士の言った事を、一句一句繰り返して味ってみて、「なる程そうだ、なんの秀麿に病気があるものか、大丈夫だ、今に直る」と思ってみる。そこへ秀麿が蒼い顔をして出て来て、何か上うわの空そらで言って、跡は黙り込んでしまう。こっちから何か話し掛けると、実みの入いっていないような、責せめを塞ふさぐような返事を、詞ことばの調子だけ優しくしてする。なんだか、こっちの詞は、子供が銅像に吹矢を射掛けたように、皮膚から弾はじき戻されてしまうような心持がする。それを見ると、切角青山博士の詞を基礎にして築き上げた楼閣ろうかくが、覚束おぼつかなくぐらついて来るので、奥さんは又心配をし出すのであった。      ――――――――――――――――  秀麿は卒業後直ただちに洋行した。秀麿と大した点数の懸隔もなくて、優等生として銀時計を頂戴した同科の新学士は、文部省から派遣せられる筈だのに、現にヨオロッパにいる一人が帰らなくては、経費が出ないので、それを待っているうちに、秀麿の方は当主の五条子爵が先へ立たせてしまった。子爵は財政が割合に豊かなので、嫡子ちゃくしに外国で学生並の生活をさせる位の事には、さ程困難を感ぜないからである。  洋行すると云うことになってから、余程元気附いて来た秀麿が、途中からよこした手紙も、ベルリンに著ついてからのも、総すべての周囲の物に興味を持っていて書いたものらしく見えた。印度インドの港で魚うおのように波の底に潜くぐって、銀銭を拾う黒ん坊の子供の事や、ポルトセエドで上陸して見たと云う、ステレオチイプな笑顔の女芸人が種々の楽器を奏する国際的団体の事や、マルセイユで始て西洋の町を散歩して、嘘と云うものを衝つかぬ店で、掛値と云うもののない品物を買って、それを持って帰ろうとして、紳士がそんな物をぶら下げてお歩きにならなくても、こちらからお宿へ届けると云われ、頼んで置いて帰ってみると、品物が先へ届いていた事や、それからパリイに滞在していて、或る同族の若殿に案内せられてオペラを見に行った時、フォアイエエで立派な貴夫人が来て何なんか云うと、若殿がつっけんどんに、わたし共はフランス語は話しませんと云って置いて、自分が呆あきれた顔をしたのを見て女に聞えたかと思う程大きい声をして、「Toutツウ ceシヨ quiキイ brilleブリユ, n'estネエ pas orパアゾオル」と云ったので、始てなる程と悟った事や、それからベルリンに著いた当時の印象を瑣細ささいな事まで書いてあって、子爵夫婦を面白がらせた。子爵は奥さんに三省堂の世界地図を一枚買って渡して、電報や手紙が来る度に、鉛筆で点を打ったり線を引いたりして、秀麿はここに著いたのだ、ここを通っているのだと言って聞かせた。  ヨオロッパではベルリンに三年いた。その三年目がエエリヒ・シュミット総長の下もとに、大学の三百年祭をする年に当ったので、秀麿も鍔つばの嵌はまった松明たいまつを手に持って、松明行列の仲間に這入って、ベルリンの町を練って歩いた。大学にいる間、秀麿はこの期にはこれこれの講義を聴くと云うことを、精くわしく子爵の所へ知らせてよこしたが、その中にはイタリア復興時代だとか、宗教革新の起原だとか云うような、歴史その物の講義と、史的研究の原理と云うような、抽象的な史学の講義とがあるかと思うと、民族心理学やら神話成立やらがある。プラグマチスムスの哲学史上の地位と云うのがある。或る助教授の受け持っているフリイドリヒ・ヘッベルと云う文芸史方面のものがある。ずっと飛び離れて、神学科の寺院史や教義史がある。学期ごとにこんな風で、専門の学問に手を出した事のない子爵には、どんな物だか見当の附かぬ学科さえあるが、とにかく随分雑駁ざっぱくな学問のしようをしているらしいと云う事だけは判断が出来た。しかし子爵はそれを苦にもしない。息子を大学に入れたり、洋行をさせたりしたのは、何も専門の職業がさせたいからの事ではない。追って家督相続をさせた後に、恐多いが皇室の藩屏はんぺいになって、身分相応な働きをして行くのに、基礎になる見識があってくれれば好い。その為ために普通教育より一段上の教育を受けさせて置こうとした。だから本人の気の向く学科を、勝手に選んでさせて置いて好いと思っているのであった。  ベルリンにいる間、秀麿が学者の噂うわさをしてよこした中に、エエリヒ・シュミットの文才や弁説も度々褒ほめてあったが、それよりも神学者アドルフ・ハルナックの事業や勢力がどんなものだと云うことを、繰り返してお父うさんに書いてよこしたのが、どうも特別な意味のある事らしく、帰って顔を見て、土産話みやげばなしにするのが待ち遠いので、手紙でお父うさんに飲み込ませたいとでも云うような熱心が文章の間に見えていた。殊ことに大学の三百年祭の事を知らせてよこした時なんぞは、秀麿はハルナックをこの目覚ましい祭の中心人物として書いて、ウィルヘルム第二世とハルナックとの君臣の間柄は、人主が学者を信用し、学者が献身的態度を以もって学術界に貢献しながら、同時に君国の用をなすと云う方面から見ると、模範的だと云って、ハルナックが事業の根柢こんていをはっきりさせる為めに、とうとう父テオドジウスの事にまで溯さかのぼって、精くわしく新教神学発展の跡を辿たどって述べていた。自分の専門だと云っている歴史の事に就いても、こんなに力を入れて書いてよこしたことはないのに、どうしてハルナックの事ばかりを、特別に言ってよこすのだろうと子爵は不審に思って、この手紙だけ念を入れて、度々読み返して見た。そしてその手紙の要点を掴つかまえようと努力した。手紙の内容を約つづめて見れば、こうである。政治は多数を相手にした為事しごとである。それだから政治をするには、今でも多数を動かしている宗教に重きを置かなくてはならない。ドイツは内治の上では、全く宗教を異ことにしている北と南とを擣つきくるめて、人心の帰嚮きこうを繰あやつって行かなくてはならないし、外交の上でも、いかに勢力を失墜しているとは云え、まだ深い根柢を持っているロオマ法王を計算の外に置くことは出来ない。それだからドイツの政治は、旧教の南ドイツを逆さからわないように抑おさえていて、北ドイツの新教の精神で、文化の進歩を謀はかって行かなくてはならない。それには君主が宗教上の、しっかりした基礎を持っていなくてはならない。その基礎が新教神学に置いてある。その新教神学を現に代表している学者はハルナックである。そう云う意味のある地位に置かれたハルナックが、少しでも政治の都合の好いように、神学上の意見を曲げているかと云うに、そんな事はしていない。君主もそんな事をさせようとはしていない。そこにドイツの強みがある。それでドイツは世界に羽をのして、息張いばっていることが出来る。それで今のような、社会民政党の跋扈ばっこしている時代になっても、ウィルヘルム第二世は護衛兵も連れずに、侍従武官と自動車に相乗をして、ぷっぷと喇叭らっぱを吹かせてベルリン中を駈け歩いて、出し抜に展覧会を見物しに行ったり、店へ買物をしに行ったりすることが出来るのである。ロシアとでも比べて見るが好い。グレシア正教の寺院を沈滞のままに委まかせて、上辺うわべを真綿にくるむようにして、そっとして置いて、黔首けんしゅを愚ぐにするとでも云いたい政治をしている。その愚にせられた黔首が少しでも目を醒さますと、極端な無政府主義者になる。だからツアアルは平服を著きた警察官が垣を結ったように立っている間でなくては歩かれないのである。一体宗教を信ずるには神学はいらない。ドイツでも、神学を修めるのは、牧師になる為めで、ちょっと思うと、宗教界に籍を置かないものには神学は不用なように見える。しかし学問なぞをしない、智力の発展していない多数に不用なのである。学問をしたものには、それが有用になって来る。原来がんらい学問をしたものには、宗教家の謂いう「信仰」は無い。そう云う人、即すなわち教育があって、信仰のない人に、単に神を尊敬しろ、福音ふくいんを尊敬しろと云っても、それは出来ない。そこで信仰しないと同時に、宗教の必要をも認めなくなる。そう云う人は危険思想家である。中には実際は危険思想家になっていながら、信仰のないのに信仰のある真似をしたり、宗教の必要を認めないのに、認めている真似をしている。実際この真似をしている人は随分多い。そこでドイツの新教神学のような、教義や寺院の歴史をしっかり調べたものが出来ていると、教育のあるものは、志さえあれば、専門家の綺麗に洗い上げた、滓かすのこびり付いていない教義をも覗のぞいて見ることが出来る。それを覗いて見ると、信仰はしないまでも、宗教の必要だけは認めるようになる。そこで穏健な思想家が出来る。ドイツにはこう云う立脚地を有している人の数がなかなか多い。ドイツの強みが神学に基づいていると云うのは、ここにある。秀麿はこう云う意味で、ハルナックの人物を称讃しょうさんしている。子爵にも手紙の趣意はおおよそ呑のみ込めた。  西洋事情や輿地誌略よちしりゃくの盛んに行われていた時代に人となって、翻訳書で当用を弁ずることが出来、華族仲間で口が利かれる程度に、自分を養成しただけの子爵は、精神上の事には、朱子しゅしの註ちゅうに拠よって論語を講釈するのを聞いたより外、なんの智識もないのだが、頭の好い人なので、これを読んだ後に内々ないない自ら省かえりみて見た。倅せがれの手紙にある宗教と云うのはクリスト教で、神と云うのはクリスト教の神である。そんな物は自分とは全く没交渉である。自分の家には昔から菩提所ぼだいしょに定さだまっている寺があった。それを維新の時、先代が殆ど縁を切ったようにして、家の葬祭を神官に任せてしまった。それからは仏と云うものとも、全く没交渉になって、今は祖先の神霊と云うものより外、認めていない。現に邸内ていないにも祖先を祭った神社だけはあって、鄭重ていちょうな祭をしている。ところが、その祖先の神霊が存在していると、自分は信じているだろうか。祭をする度に、祭るに在いますが如くすと云う論語の句が頭に浮ぶ。しかしそれは祖先が存在していられるように思って、お祭をしなくてはならないと云う意味で、自分を顧みて見るに、実際存在していられると思うのではないらしい。いられるように思うのでもないかも知れない。いられるように思おうと努力するに過ぎない位ではあるまいか。そうして見ると、倅の謂いう、信仰がなくて、宗教の必要だけを認めると云う人の部類に、自分は這入っているものと見える。いやいや。そうではない。倅の謂うのは、神学でも覗いて見て、これだけの教義は、信仰しないまでも、必要を認めなくてはならぬと、理性で判断した上で認めることである。自分は神道の書物なぞを覗いて見たことはない。又自分の覗いて見られるような書物があるか、どうだか、それさえ知らずにいる。そんならと云って、教育のない、信仰のある人が、直覚的に神霊の存在を信じて、その間になんの疑をも挿さしはさまないのとも違うから、自分の祭をしているのは形式だけで、内容がない。よしや、在いますが如く思おうと努力していても、それは空虚な努力である。いやいや。空虚な努力と云うものはありようがない。そんな事は不可能である。そうして見ると、教育のない人の信仰が遺伝して、微かすかに残っているとでも思わなくてはなるまい。しかしこれは倅の考えるように、教育が信仰を破壊すると云うことを認めた上の話である。果してそうであろうか。どうもそうかも知れない。今の教育を受けて神話と歴史とを一つにして考えていることは出来まい。世界がどうして出来て、どうして発展したか、人類がどうして出来て、どうして発展したかと云うことを、学問に手を出せば、どんな浅い学問の為方しかたをしても、何かの端々はしはしで考えさせられる。そしてその考える事は、神話を事実として見させては置かない。神話と歴史とをはっきり考え分けると同時に、先祖その外ほかの神霊の存在は疑問になって来るのである。そうなった前途には恐ろしい危険が横よこたわっていはすまいか。一体世間の人はこんな問題をどう考えているだろう。昔の人が真実だと思っていた、神霊の存在を、今の人が嘘だと思っているのを、世間の人は当り前だとして、平気でいるのではあるまいか。随したがってあらゆる祭やなんぞが皆内容のない形式になってしまっているのも、同じく当り前だとしているのではあるまいか。又子供に神話を歴史として教えるのも、同じく当り前だとしているのではあるまいか。そして誰たれも誰も、自分は神話と歴史とをはっきり別にして考えていながら、それをわざと擣つき交まぜて子供に教えて、怪まずにいるのではあるまいか。自分は神霊の存在なんぞは少しも信仰せずに、唯俗に従って聊復爾いささかまたしかり位の考で糊塗ことして遣やっていて、その風俗、即ち昔神霊の存在を信じた世に出来て、今神霊の存在を信ぜない世に残っている風俗が、いつまで現状を維持していようが、いつになったら滅亡してしまおうが、そんな事には頓著とんちゃくしないのではあるまいか。自分が信ぜない事を、信じているらしく行って、虚偽だと思って疚やましがりもせず、それを子供に教えて、子供の心理状態がどうなろうと云うことさえ考えてもみないのではあるまいか。倅は信仰はなくても、宗教の必要を認めると云うことを言っている。その必要を認めなくてはならないと云うこと、その必要を認める必要を、世間の人は思っても見ないから、どうしたら神話を歴史だと思わず、神霊の存在を信ぜずに、宗教の必要が現在に於おいて認めていられるか、未来に於いて認めて行かれるかと云うことなんぞを思って見ようもなく、一切無頓著でいるのではあるまいか。どうも世間の教育を受けた人の多数は、こんな物ではないかと推察せられる。無論この多数の外に立って、現今の頽勢たいせいを挽回ばんかいしようとしている人はある。そう云う人は、倅の謂う、単に神を信仰しろ、福音を信仰しろと云う類たぐいである。又それに雷同している人はある。それは倅の謂う、真似をしている人である。これが頼みになろうか。更に反対の方面を見ると、信仰もなくしてしまい、宗教の必要をも認めなくなってしまって、それを正直に告白している人のあることも、或る種類の人の言論に徴ちょうして知ることが出来る。倅はそう云う人は危険思想家だと云っているが、危険思想家を嗅かぎ出すことに骨を折っている人も、こっちでは存外そこまでは気が附いていないらしい。実際こっちでは、治安妨害とか、風俗壊乱とか云う名目みょうもくの下もとに、そんな人を羅致らちした実例を見たことがない。しかしこう云うことを洗立あらいだてをして見た所が、確しかとした結果を得ることはむずかしくはあるまいか。それは人間の力の及ばぬ事ではあるまいか。若もしそうだと、その洗立をするのが、世間の無頓著よりは危険ではあるまいか。倅もその危険な事に頭を衝つっ込んでいるのではあるまいか。倅は専門の学問をしているうちに、ふとそう云う問題に触れて、自分も不安になったので、己に手紙をよこしたかも知れぬ。それともこの問題にひどく重きを置いているのだろうか。  五条子爵は秀麿の手紙を読んでから、自己を反省したり、世間を見渡したりして、ざっとこれだけの事を考えた。しかしそれに就いて倅と往復を重ねた所で、自分の満足するだけの解決が出来そうにもなく、倅の帰って来る時期も近づいているので、それまで待っても好いと思って、返信は別に宗教問題なんぞに立ち入らずに、只委細承知した、どうぞなるべく穏健な思想を養って、国家の用に立つ人物になって帰ってくれとしか云って遣らなかった。そこで秀麿の方でも、お父うさんにどれだけ自分の言った事が分かったか知らずにいた。  秀麿は平生丁度その時思っている事を、人に話して見たり、手紙で言って遣って見たりするが、それをその人に是非十分飲み込ませようともせず、人を自説に転ぜさせよう、服させようともしない。それよりは話す間、手紙を書く間に、自分で自分の思想をはっきりさせて見て、そこに満足を感ずる。そして自分の思想は、又新しい刺戟しげきを受けて、別な方面へ移って行く。だからあの時子爵が精しい返事を遣ったところで、秀麿はもう同じ問題の上で、お父うさんの満足するような事を言ってはよこさなかったかも知れない。      ――――――――――――――――  洋行をさせる時健康を気遣った秀麿が、旅に出ると元気になったらしく、筆まめに書いてよこす手紙にも生々した様子が見え、ドイツで秀麿と親しくしたと云って、帰ってから尋ねて来る同族の人も、秀麿は随分勉強をしているが、玉も衝けば氷滑こおりすべりもすると云う風で、上流の人を相手にして開いている、某夫人のパンジオナアトでは、若い男女の寄宿人が、芝居の初興行をでも見に行くとき、ヴィコント五条が一しょでなくては面白くないと云う程だと話して聞せるので、子爵夫婦は喜んで、早く丈夫な男になって帰って来るのを見たいと思っていた。  秀麿は去年の暮に、書物をむやみに沢山持って、帰って来た。洋行前にはまだどこやら少年らしい所のあったのが、三年の間にすっかり男らしくなって、血色も好くなり、肉も少し附いている。しかし待ち構えていた奥さんが気を附けて様子を見ると、どうも物の言振いいぶりが面白くないように思われた。それは大学を卒業した頃から、西洋へ立つ時までの、何か物を案じていて、好い加減に人に応対していると云うような、沈黙勝な会話振が、定めてすっかり直って帰ったことと思っていたのに、帰った今もやはり立つ前と同じように思われたのである。  新橋へ著ついた日の事であった。出迎をした親類や心安い人の中うちには、邸まで附いて来たのもあって、五条家ではそう云う人達に、一寸ちょっとした肴さかなで酒を出した。それが済んだ跡で、子爵と秀麿との間に、こんな対話があった。  子爵は袴はかまを着けて据わって、刻煙草きざみたばこを煙管きせるで飲んでいたが、痩やせた顔の目の縁に、皺しわを沢山寄せて、嬉しげに息子をじっと見て、只一言「どうだ」と云った。 「はい」と父の顔を見返しながら秀麿は云ったが、傍そばで見ている奥さんには、その立派な洋服姿が、どうも先さっき客の前で勤めていた時と変らないように、少しも寛くつろいだ様子がないように思われて、それが気に掛かった。  子爵は息子がまだ何か云うだろうと思って、暫しばらく黙っていたが、それきりなんとも云わないので、詞ことばを続ついだ。「書物を沢山持って帰ったそうだね。」 「こっちで為事しごとをするのに差支えないようにと思って、中には読んで見る方の本でない、物を捜し出す方の本も買って帰ったものですから、嵩かさが大きくなりました。」 「ふん。早く為事に掛かりたかろうなあ。」  秀麿は少し返事に躊躇ちゅうちょするらしく見えた。「それは舟の中でも色々考えてみましたが、どうも当分手が著つけられそうもないのです。」こう云って、何か考えるような顔をしている。 「急ぐ事はない。お前のは売らなくてはならんと云うのでもなし、学位が欲しいと云うのでもないからな。」一旦いったんこうは云ったが、子爵は更に、「学位は貰っても悪くはないが」と言い足して笑った。  ここまで傍聴していた奥さんが、待ち兼ねたように、いろいろな話をし掛けると、秀麿は優しく受答をしていた。この時奥さんは、どうも秀麿の話は気乗がしていない、附合つきあいに物を言っているようだと云う第一印象を受けたのであった。  それで秀麿が座を立った跡で、奥さんが子爵に言った。「体は大層好くなりましたが、なんだかこう控え目に、考え考え物を言うようではございませんか。」 「それは大人おとなになったからだ。男と云うものは、奥さんのように口から出任せに物を言ってはいけないのだ。」 「まあ。」奥さんは目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった。四十代が半分過ぎているのに、まだぱっちりした、可哀かわいらしい目をしている女である。 「おこってはいけない。」 「おこりなんかしませんわ。」と云って、奥さんはちょいと笑ったが、秀麿の返事より、この笑の方が附合らしかった。      ――――――――――――――――  その時からもう一年近く立っている。久し振の新年も迎えた。秀麿は位階があるので、お父う様程忙しくはないが、幾分か儀式らしい事もしなくてはならない。新調させた礼服を著て、不精らしい顔をせずに、それを済ませた。「西洋のお正月はどんなだったえ」とお母あ様が問うと、秀麿は愛想好く笑う。「一向駄目ですね。学生は料理屋へ大晦日おおみそかの晩から行っていまして、ボオレと云って、シャンパンに葡萄酒ぶどうしゅに砂糖に炭酸水と云うように、いろいろ交ぜて温めて、レモンを輪切にして入れた酒を拵こしらえて夜なかになるのを待っています。そして十二時の時計が鳴り始めると同時に、さあ新年だと云うので、その酒を注ついだ杯さかずきをてんでんに持って、こつこつ打ち附けて、プロジット・ノイヤアルと大声で呼んで飲むのです。それからふざけながら町を歩いて帰ると、元日には寝ていて、午ひるまで起きはしません。町でも家うちは大抵戸を締めて、ひっそりしています。まあ、クリスマスにお祭らしい事はしてしまって、新年の方はお留守になっているようなわけです」と云う。「でもお上かみのお儀式はあるだろうね。」「それはございますそうです。拝賀が午後二時だとか云うことでした。」こんな風に、何事につけても人が問えば、ヨオロッパの話もするが、自分から進んで話すことはない。  二三月の一番寒い頃も過ぎた。お母あ様が「向うはこんな事ではあるまいね」と尋ねて見た。「それはグラットアイスと云って、寒い盛りに一寸ちょっと温かい晩があって、積った雪が上融うわどけをして、それが朝氷っていることがあります。木の枝は硝子ガラスで包んだようになっています。ベルリンのウンテル・デン・リンデンと云う大通りの人道が、少し凸凹でこぼこのある鏡のようになっていて、滑って歩くことが出来ないので、人足が沙すなを入れた籠かごを腋わきに抱えて、蒔まいて歩いています。そう云う時が一番寒いのですが、それでもロシアのように、町を歩いていて鼻が腐るような事はありません。煖炉のない家もないし、毛皮を著ない人もない位ですから、寒さが体には徹こたえません。こちらでは夏座敷に住んで、夏の支度をして、寒がっているようなものですね。」秀麿はこんな話をした。  桜の咲く春も過ぎた。お母あ様に桜の事を問われて、秀麿は云った。「ドイツのような寒い国では、春が一どきに来て、どの花も一しょに咲きます。美しい五月と云う詞があります。桜の花もないことはありませんが、あっちの人は桜と云う木は桜ん坊のなる木だとばかり思っていますから、花見はいたしません。ベルリンから半道はんみちばかりの、ストララウと云う村に、スプレエ川の岸で、桜の沢山植えてある所があります。そこへ日本から行っている学生が揃そろって、花見に行ったことがありましたよ。絨緞じゅうたんを織る工場の女工なんぞが通り掛かって、あの人達は木の下で何をしているのだろうと云って、驚いて見ていました。」  暑い夏も過ぎた。秀麿はお母あ様に、「ベルリンではこんな日にどうしているの」と問われて、暫く頭を傾けていたが、とうとう笑いながら、こう云った。「一番つまらない季節ですね。誰も彼も旅行してしまいます。若い娘なんぞがスウィッツルに行って、高い山に登ります。跡に残っている人は為方しかたがないので、公園内の飲食店で催す演奏会へでも往いって、夜なかまで涼みます。だいぶ北極が近くなっている国ですから、そんなにして遊んで帰って、夜なかを過ぎて寝ようとすると、もう窓が明るくなり掛かっています。」  かれこれするうちに秋になった。「ヨオロッパでは寒さが早く来ますから、こんな秋日和あきびよりの味は味うことが出来ませんね」と、秀麿は云って、お母あ様に対して、ちょっと愉快げな笑顔をして見せる。大抵こんな話をするのは食事の時位で、その外の時間には、秀麿は自分の居間になっている洋室に籠こもっている。西洋から持って来た書物が多いので、本箱なんぞでは間に合わなくなって、この一間だけ壁に悉ことごとく棚たなを取り附けさせて、それへ一ぱい書物を詰め込んだ。棚の前には薄い緑色の幕を引かせたので、一種の装飾にはなったが、壁がこれまでの倍以上の厚さになったと同じわけだから、室内が余程暗くなって、それと同時に、一間が外より物音の聞えない、しんとした所になってしまった。小春の空が快く晴れて、誰も彼も出歩く頃になっても、秀麿はこのしんとした所に籠って、卓テエブルの傍を離れずに本を読んでいる。窓の明りが左手から斜ななめに差し込んで、緑の羅紗らしゃの張ってある上を半分明るくしている卓である。      ――――――――――――――――  この秋は暖い暖いと云っているうちに、稀まれに降る雨がいつか時雨しぐれめいて来て、もう二三日前から、秀麿の部屋のフウベン形の瓦斯煖炉ガスだんろにも、小間使の雪が来て点火することになっている。  朝起きて、庭の方へ築つき出してある小さいヴェランダへ出て見ると、庭には一面に、大きい黄いろい梧桐ごとうの葉と、小さい赤い山もみじの葉とが散らばって、ヴェランダから庭へ降りる石段の上まで、殆ど隙間もなく彩いろどっている。石垣に沿うて、露に濡ぬれた、老緑ろうりょくの広葉を茂らせている八角全盛やつでが、所々に白い茎を、枝のある燭台しょくだいのように抽ぬき出して、白い花を咲かせている上に、薄曇の空から日光が少し漏れて、雀すずめが二三羽鳴きながら飛び交わしている。  秀麿は暫く眺めていて、両手を力なく垂れたままで、背を反そらせて伸びをして、深い息を衝いた。それから部屋に這入はいって、洗面卓たくの傍そばへ行って、雪が取って置いた湯を使って、背広の服を引っ掛けた。洋行して帰ってからは、いつも洋服を著きているのである。  そこへお母あ様が這入って来た。「きょうは日曜だから、お父う様は少しゆっくりしていらっしゃるのだが、わたしはもう御飯を戴いただくから、お前もおいででないか。」こう云って、息子の顔を横から覗のぞくように見て、詞を続けた。「ゆうべも大層遅くまで起きていましたね。いつも同じ事を言うようですが、西洋から帰ってお出いでの時は、あんなに体が好かったのに、余り勉強ばかりして、段々顔色を悪くしておしまいなのね。」 「なに。体はどうもありません。外へ出ないでいるから、日に焼けないのでしょう。」笑いながら云って、一しょに洋室を出た。  しかし奥さんにはその笑声が胸を刺すように感ぜられた。秀麿が心からでなく、人に目潰めつぶしに何か投げ附けるように笑声をあびせ掛ける習癖を、自分も意識せずに、いつの間にか養成しているのを、奥さんは本能的に知っているのである。  食事をしまって帰った時は、明方に薄曇のしていた空がすっかり晴れて、日光が色々に邪魔をする物のある秀麿の室へやを、物見高い心から、依怙地えこじに覗こうとするように、窓帷まどかけのへりや書棚のふちを彩って、卓テエブルの上に幅の広い、明るい帯をなして、インク壺つぼを光らせたり、床に敷いてある絨氈じゅうたんの空想的な花模様に、刹那せつなの性命を与えたりしている。そんな風に、日光の差し込んでいる処ところの空気は、黄いろに染まり掛かった青葉のような色をして、その中には細かい塵ちりが躍っている。  室内の温度の余り高いのを喜ばない秀麿は、煖炉のコックを三分一程閉じて、葉巻を銜くわえて、運動椅子に身を投げ掛けた。  秀麿の心理状態を簡単に説明すれば、無聊ぶりょうに苦んでいると云うより外はない。それも何事もすることの出来ない、低い刺戟に饑うえている人の感ずる退屈とは違う。内に眠っている事業に圧迫せられるような心持である。潜勢力の苦痛である。三国時代の英雄は髀ひに肉を生じたのを見て歎たんじた。それと同じように、余所目よそめには痩せて血色の悪い秀麿が、自己の力を知覚していて、脳髄が医者の謂いう無動作性萎縮いしゅくに陥いらねば好いがと憂えている。そして思量の体操をする積りで、哲学の本なんぞを読み耽ふけっているのである。お母あ様程には、秀麿の健康状態に就いて悲観していない父の子爵が、いつだったか食事の時息子を顧みて、「一肚皮いちとひ時宜じぎに合わずかな」と云って、意味ありげに笑った。秀麿は例の笑を顔に湛たたえて、「僕は不平家ではありません」と答えた。どうもお父う様はこっちが極端な自由思想をでも持っていはしないかと疑っているらしい。それは誤解である。しかしさすが男親だけにお母あ様よりは、切実に少くもこっちの心理状態の一面を解していてくれるようだと、秀麿は思った。  秀麿は父の詞ことばを一つ思い出したのが機縁になって、今一つの父の詞を思い出した。それは又或る日食事をしている時の事で「どうも人間が猿から出来たなんぞと思っていられては困るからな」と云った。秀麿はぎくりとした。秀麿だって、ヘッケルのアントロポゲニイに連署して、それを自分の告白にしても好いとは思っていない。しかしお父う様のこの詞の奥には、こっちの思想と相容あいいれない何物かが潜んでいるらしい。まさかお父う様だって、草昧そうまいの世に一国民の造った神話を、そのまま歴史だと信じてはいられまいが、うかと神話が歴史でないと云うことを言明しては、人生の重大な物の一角が崩れ始めて、船底の穴から水の這入るように物質的思想が這入って来て、船を沈没させずには置かないと思っていられるのではあるまいか。そう思って知らず識しらず、頑冥がんめいな人物や、仮面を被かむった思想家と同じ穴に陥いっていられるのではあるまいかと、秀麿は思った。  こう思うので、秀麿は父の誤解を打ち破ろうとして進むことを躊躇している。秀麿が為めには、神話が歴史でないと云うことを言明することは、良心の命ずるところである。それを言明しても、果物が堅実な核さねを蔵しているように、神話の包んでいる人生の重要な物は、保護して行かれると思っている。彼を承認して置いて、此これを維持して行くのが、学者の務つとめだと云うばかりではなく、人間の務だと思っている。  そこで秀麿は父と自分との間に、狭くて深い谷があるように感ずる。それと同時に、父が自分と話をする時、危険な物の這入っている疑のある箱の蓋ふたを、そっと開けて見ようとしては、その手を又引っ込めてしまうような態度に出るのを見て、歯痒はがゆいようにも思い、又気の毒だから、いたわって、手を出させずに置かなくてはならないようにも思う。父が箱の蓋を取って見て、白昼に鬼を見て、毒でもなんでもない物を毒だと思って怖おそれるよりは、箱の内容を疑わせて置くのが、まだしもの事かと思う。  秀麿のこう思うのも無理は無い。明敏な父の子爵は秀麿がハルナックの事を書いた手紙を見て、それに対する返信を控えて置いた後に、寝られぬ夜よなどには度々宗教問題を頭の中で繰り返して見た。そして思えば思う程、この問題は手の附けられぬものだと云う意見に傾いて、随したがってそれに手を著けるのを危険だとみるようになった。そこでとにかく倅せがれにそんな問題に深入をさせたくない。なろう事なら、倅の思想が他の方面に向くようにしたい。そう思うので、自分からは宗教問題の事などは決して言い出さない。そしてこの問題が倅の頭にどれだけの根を卸しているかとあやぶんで、窃ひそかに様子を覗うかがうようにしているのである。  秀麿と父との対話が、ヨオロッパから帰って、もう一年にもなるのに、とかく対陣している両軍が、双方から斥候せっこうを出して、その斥候が敵の影を認める度に、遠方から射撃して還かえるように、はかばかしい衝突もせぬ代りに、平和に打ち明けることもなくているのは、こう云うわけである。  秀麿の銜くわえている葉巻の白い灰が、だいぶ長くなって持っていたのが、とうとう折れて、運動椅子に倚より掛かっている秀麿のチョッキの上に、細い鱗うろこのような破片を留とめて、絨緞じゅうたんの上に落ちて砕けた。今のように何もせずにいると、秀麿はいつも内には事業の圧迫と云うような物を受け、外には家庭の空気の或る緊張を覚えて、不快である。  秀麿は「又本を読むかな」と思った。兼ねて生涯の事業にしようと企てた本国の歴史を書くことは、どうも神話と歴史との限界をはっきりさせずには手が著けられない。寧むしろ先まず神話の結成を学問上に綺麗に洗い上げて、それに伴う信仰を、教義史体にはっきり書き、その信仰を司祭的に取り扱った機関を寺院史体にはっきり書く方が好さそうだ。そうしたってプロテスタント教がその教義史と寺院史とで毀損きそんせられないと同じ事で、祖先崇拝の教義や機関も、特にそのために危害を受ける筈はずはない。これだけの事を完成するのは、極きわめて容易だと思うと、もうその平明な、小ざっぱりした記載を目の前に見るような気がする。それが済んだら、安心して歴史に取り掛られるだろう。しかしそれを敢あえてする事、その目に見えている物を手に取る事を、どうしても周囲の事情が許しそうにないと云う認識は、ベルリンでそろそろ故郷へ帰る支度に手を著け始めた頃から、段々に、或る液体の中に浮んだ一点の塵ちりを中心にして、結晶が出来て、それが大きくなるように、秀麿の意識の上に形づくられた。これが秀麿の脳髄の中に蟠結はんけつしている暗黒な塊で、秀麿の企てている事業は、この塊に礙さまたげられて、どうしても発展させるわけにいかないのである。それで秀麿は製作的方面の脈管を総て塞ふさいで、思量の体操として本だけ読んでいる。本を読み出すと、秀麿は不思議に精神をそこに集注することが出来て、事業の圧迫を感ぜず、家庭の空気の緊張をも感ぜないでいる。それで本ばかり読んでいることになるのである。 「又本を読むかな」と秀麿は思った。そして運動椅子から身を起した。  丁度その時こつこつと戸を叩いて、秀麿の返事をするのを待って、雪が這入って来た。小さい顔に、くりくりした、漆のように黒い目を光らして、小さくて鋭く高い鼻が少し仰向あおむいているのが、ひどく可哀らしい。秀麿が帰った当座、雪はまだ西洋室で用をしたことがなかったので、開けた戸を、内からしゃがんで締めて、絨緞の上に手を衝いて物を言った。秀麿は驚いて、笑顔をして西洋室での行儀を教えて遣った。なんでも一度言って聞せると、しっかり覚えて、その次の度たびからは慣れたもののようにするのである。  煖炉を背にして立って、戸口を這入った雪を見た秀麿の顔は晴やかになった。エロチックの方面の生活のまるで瞑ねむっている秀麿が、平和ではあっても陰気なこの家で、心から爽快そうかいを覚えるのは、この小さい小間使を見る時ばかりだと云っても好い位である。 「綾小路あやこうじさんがいらっしゃいました」と、雪は籠かごの中の小鳥が人を見るように、くりくりした目の瞳ひとみを秀麿の顔に向けて云った。雪は若檀那わかだんな様に物を言う機会が生ずる度に、胸の中で凱歌がいかの声が起る程、無意味に、何の欲望もなく、秀麿を崇拝しているのである。  この時雪の締めて置いた戸を、廊下の方からあらあらしく開けて、茶の天鵞絨びろうどの服を着た、秀麿と同年位の男が、駆け込むように這入って来て、いきなり雪の肩を、太った赤い手で押えた。「おい、雪。若檀那の顔ばかり見ていて、取次をするのを忘れては困るじゃないか。」  雪の顔は真っ赤になった。そして逃げるように、黙って部屋を出て行った。綾小路の方は振り返ってもみなかったのである。  秀麿の眉間みけんには、注意して見なくては見えない程の皺しわが寄ったが、それが又注意して見ても見えない程早く消えて、顔の表情は極真面目ごくまじめになっている。「君つまらない笑談じょうだんは、僕の所でだけはよしてくれ給え。」 「劈頭へきとう第一に小言を食わせるなんぞは驚いたね。気持の好い天気だぜ。君の内の親玉なんぞは、秋晴しゅうせいとかなんとか云うのだろう。尤もっともセゾンはもう冬かも知れないが、過渡時代には、冬の日になったり、秋の日になったりするのだ。きょうはまだ秋だとして置くね。どこか底の方に、ぴりっとした冬の分子が潜んでいて、夕日が沈み掛かって、かっと照るような、悲哀を帯びて爽快な処がある。まあ、年増としまの美人のようなものだね。こんな日に※(「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1-94-84)鼠もぐらもちのようになって、内に引っ込んで、本を読んでいるのは、世界は広いが、先ず君位なものだろう。それでも机の上に俯ふさっていなかっただけを、僕は褒ほめて置くね。」  秀麿は真面目ではあるが、厭いやがりもしないらしい顔をして、盛んに饒舌しゃべり立てている綾小路の様子を見ている。簡単に言えば、この男には餓鬼がき大将と云う表情がある。額際ひたいぎわから顱頂ろちょうへ掛けて、少し長めに刈った髪を真っ直に背後うしろへ向けて掻かき上げたのが、日本画にかく野猪いのししの毛のように逆立っている。細い目のちょいと下がった目尻めじりに、嘲笑ちょうしょう的な微笑を湛えて、幅広く広げた口を囲むように、左右の頬に大きい括弧かっこに似た、深い皺を寄せている。  綾小路はまだ饒舌る。「そんなに僕の顔ばかし見給うな。心中大いに僕を軽侮しているのだろう。好いじゃないか。君がロアで、僕がブッフォンか。ドイツ語でホオフナルと云うのだ。陛下の倡優しょうゆうを以もって遇する所か。」  秀麿は覚えず噴き出した。「僕がそんな侮辱的な考をするものか。」 「そんなら頭からけんつくなんぞを食わせないが好い。」 「うん。僕が悪かった。」秀麿は葉巻の箱の蓋を開けて勧めながら、独語ひとりごとのようにつぶやいた。「僕は人の空想に毒を注つぎ込むように感じるものだから。」 「それがサンチマンタルなのだよ」と云いながら、綾小路は葉巻を取った。秀麿はマッチを摩すった。 「メルシイ」と云って綾小路が吸い附けた。 「暖かい所が好かろう」と云って、秀麿は椅子を一つ煖炉の前に押し遣った。  綾小路は椅背きはいに手を掛けたが、すぐに据わらずに、あたりを見廻して、卓テエブルの上にゆうべから開けたままになっている、厚い、仮綴かりとじの洋書に目を着けた。傍かたわらには幅の広い篦へらのような形をした、鼈甲べっこうの紙切小刀かみきりこがたなが置いてある。「又何か大きな物にかじり附いているね。」こう云って秀麿の顔を見ながら、腰を卸した。      ――――――――――――――――  綾小路は学習院を秀麿と同期で通過した男である。秀麿は大学に行くのに、綾小路は画かきになると云って、溜池ためいけの洋画研究所へ通い始めた。それから秀麿がまだ文科にいるうちに、綾小路は先へ洋行して、パリイにいた。秀麿がマルセイユから上陸して、ベルリンへ行く途中で、二三日パリイに滞在していた時には、親切に世話を焼いて、シャン・ゼリゼェの散歩やら、テアアトル・フランセェとジムナアズ・ドラマチックとの芝居見物やら、時間を吝おしまずに案内をして歩いて、ベルリンへ行ってから著きる服まで誂あつらえさせてくれた。  綾小路は目と耳とばかりで生活しているような男で、芸術をさえ余り真面目には取り扱っていないが、明敏な頭脳がいつも何物にか饑うえている。それで故郷へ帰って以来引き籠り勝にしている秀麿の方からは、尋ねても行かぬのに、折々遊びに来て、秀麿の読んでいる本の話を、口ではちゃかしながら、真面目に聞いて考えても見るのである。  綾小路は卓の所へ歩いて行って、開けてある本の表紙を引っ繰り返して見た。「ジイ・フィロゾフィイ・デス・アルス・オップか。妙な標題だなあ。」  そこへ雪が橢円形だえんけいのニッケル盆に香茶こうちゃの道具を載せて持って来た。そして小さい卓を煖炉の前へ運んで、その上に盆を置いて、綾小路の方を見ぬようにしてちょいと見て、そっと部屋を出て行った。何か言われはしないだろうか。言えば又恥かしいような事を言うだろう。どんな事を言うだろう。言わせて聞いても見たいと云うような心持で雪はいたが、こん度は綾小路が黙っていた。  秀麿は伏せてあるタッスを起して茶を注いだ。そして「牛乳を入れるのだろうな」と云って、綾小路を顧みた。 「こないだのように沢山入れないでくれ給え。一体アルス・オップとはなんだい。」こう云いながら、綾小路は煖炉の前の椅子に掛けた。 「コム・シィさ。かのようにとでも云ったら好いのだろう。妙な所を押さえて、考を押し広めて行ったものだが、不思議に僕の立場そのままを説明してくれるようで、愉快でたまらないから、とうとうゆうべは三時まで読んでいた。」 「三時まで。」綾小路は目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった。「どうして、どこが君の立場そのままなのだ。」 「そう」と云って、秀麿は暫く考えていた。千ペエジ近い本を六七分通り読んだのだから、どんな風に要点を撮つまんで話したものかと考えたのである。「先ず本当だと云う詞ことばからして考えて掛からなくてはならないね。裁判所で証拠立てをして拵こしらえた判決文を事実だと云って、それを本当だとするのが、普通の意味の本当だろう。ところが、そう云う意味の事実と云うものは存在しない。事実だと云っても、人間の写象を通過した以上は、物質論者のランゲの謂いう湊合そうごうが加わっている。意識せずに詩にしている。嘘になっている。そこで今一つの意味の本当と云うものを立てなくてはならなくなる。小説は事実を本当とする意味に於おいては嘘だ。しかしこれは最初から事実がらないで、嘘と意識して作って、通用させている。そしてその中うちに性命がある。価値がある。尊い神話も同じように出来て、通用して来たのだが、あれは最初事実がっただけ違う。君のかく画も、どれ程写生したところで、実物ではない。嘘の積りでかいている。人生の性命あり、価値あるものは、皆この意識した嘘だ。第二の意味の本当はこれより外には求められない。こう云う風に本当を二つに見ることは、カントが元祖で、近頃プラグマチスムなんぞで、余程卑俗にして繰り返しているのも同じ事だ。これだけの事は一寸ちょっと云って置かなくては、話が出来ないのだがね。」 「宜よろしい。詞はどうでも好い。その位な事は僕にも分かっている。僕のかく画だって、実物ではないが、今年も展覧会で一枚売れたから、慥たしかに多少の価値がある。だから僕の画を本当だとするには、異議はない。そこでコム・シィはどうなるのだ。」 「まあ待ち給え。そこで人間のあらゆる智識、あらゆる学問の根本を調べてみるのだね。一番正確だとしてある数学方面で、点だの線だのと云うものがある。どんなに細かくぽつんと打ったって点にはならない。どんなに細くすうっと引いたって線にはならない。どんなに好く削った板の縁ふちも線にはなっていない。角かども点にはなっていない。点と線は存在しない。例の意識した嘘だ。しかし点と線があるかのように考えなくては、幾何学は成り立たない。あるかのようにだね。コム・シィだね。自然科学はどうだ。物質と云うものでからが存在はしない。物質が元子から組み立てられていると云う。その元子も存在はしない。しかし物質があって、元子から組み立ててあるかのように考えなくては、元子量の勘定が出来ないから、化学は成り立たない。精神学の方面はどうだ。自由だの、霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。その無いものを有るかのように考えなくては、倫理は成り立たない。理想と云っているものはそれだ。法律の自由意志と云うものの存在しないのも、疾とっくに分かっている。しかし自由意志があるかのように考えなくては、刑法が全部無意味になる。どんな哲学者も、近世になっては大低世界を相待そうたいに見て、絶待ぜったいの存在しないことを認めてはいるが、それでも絶待があるかのように考えている。宗教でも、もうだいぶ古くシュライエルマッヘルが神を父であるかのように考えると云っている。孔子こうしもずっと古く祭るに在いますが如くすと云っている。先祖の霊があるかのように祭るのだ。そうして見ると、人間の智識、学問はさて置き、宗教でもなんでも、その根本を調べて見ると、事実として証拠立てられない或る物を建立こんりゅうしている。即ちかのようにが土台に横よこたわっているのだね。」 「まあ一寸待ってくれ給え。君は僕の事を饒舌しゃべる饒舌ると云うが、君が饒舌り出して来ると、駆足になるから、附いて行かれない。その、かのようにと云う怪物の正体も、少し見え掛っては来たが、まあ、茶でももう一杯飲んで考えて見なくては、はっきりしないね。」 「もうぬるくなっただろう。」 「なに。好いよ。雪と云う、証拠立てられる事実が間へ這入はいって来ると、考えがこんがらかって来るからね。そうすると、つまり事実と事実がごろごろ転がっていてもしようがない。それを結び附けて考えようとすると、厭いやでも或る物を土台にしなくてはならない。その土台が例のかのようにだと云うのだね。宜しい。ところが、僕はそんな怪物の事は考えずに置く。考えても言わずに置く。」綾小路は生温なまぬるい香茶をぐっと飲んで、決然と言い放った。  秀麿は顔を蹙しかめた。「それは僕も言わずにいる。しかし君は画だけかいて、言わずにいられようが、僕は言う為めに学問をしたのだ。考えずには無論いられない。考えてそれを真直ぐに言わずにいるには、黙ってしまうか、別に嘘を拵こしらえて言わなくてはならない。それでは僕の立場がなくなってしまうのだ。」 「しかしね、君、その君が言う為めに学問したと云うのは、歴史を書くことだろう。僕が画をかくように、怪物が土台になっていても好いから、構わずにずんずん書けば好いじゃないか。」 「そうはいかないよ。書き始めるには、どうしても神話を別にしなくてはならないのだ。別にすると、なぜ別にする、なぜごちゃごちゃにして置かないかと云う疑問が起る。どうしても歴史は、画のように一刹那を捉とらえて遣っているわけにはいかないのだ。」 「それでは僕のかく画には怪物が隠れているから好い。君の書く歴史には怪物が現れて来るからいけないと云うのだね。」 「まあ、そうだ。」 「意気地がないねえ。現れたら、どうなるのだ。」 「危険思想だと云われる。それも世間がかれこれ云うだけなら、奮闘もしよう。第一父が承知しないだろうと思うのだ。」 「いよいよ意気地がないねえ。そんな葛藤かっとうなら、僕はもう疾とっくに解決してしまっている。僕は画かきになる時、親爺おやじが見限ってしまって、現に高等遊民として取扱っているのだ。君は歴史家になると云うのをお父うさんが喜んで承知した。そこで大学も卒業した。洋行も僕のように無理をしないで、気楽にした。君は今まで葛藤の繰延くりのべをしていたのだ。僕の五六年前に解決した事を、君は今解決して、好きなように歴史を書くが好いじゃないか。已やむを得んじゃないか。」 「しかし僕はそんな葛藤を起さずに遣っていかれる筈だと思っている。平和な解決がつい目の前に見えている。手に取られるように見えている。それを下手へたに手に取ろうとして失敗をすることなんぞは、避けたいと思っている。それでぐずぐずしていて、君にまで意気地がないと云われるのだ。」秀麿は溜息ためいきを衝いた。 「ふん、どうしてお父うさんを納得させようと云うのだ。」 「僕の思想が危険思想でもなんでもないと云うことを言って聞せさえすれば好いのだが。」 「どう言って聞せるね。僕がお父うさんだと思って、そこで一つ言って見給え。」 「困るなあ」と云って、秀麿は立って、室内をあちこち歩き出した。  ※(「日/(「咎」の「人」に代えて「卜」)」、第3水準1-85-32)ひかげはもうヴェランダの檐のきを越して、屋根の上に移ってしまった。真まっ蒼さおに澄み切った、まだ秋らしい空の色がヴェランダの硝子戸を青玉せいぎょくのように染めたのが、窓越しに少し翳かすんで見えている。山の手の日曜日の寂しさが、だいぶ広いこの邸やしきの庭に、田舎の別荘めいた感じを与える。突然自動車が一台煉瓦塀れんがべいの外をけたたましく過ぎて、跡は又元の寂しさに戻った。  秀麿は語を続ついだ。「まあ、こうだ。君がさっきから怪物々々と云っている、その、かのようにだがね。あれは決して怪物ではない。かのようにがなくては、学問もなければ、芸術もない、宗教もない。人生のあらゆる価値のあるものは、かのようにを中心にしている。昔の人が人格のある単数の神や、複数の神の存在を信じて、その前に頭を屈かがめたように、僕はかのようにの前に敬虔けいけんに頭を屈める。その尊敬の情は熱烈ではないが、澄み切った、純潔な感情なのだ。道徳だってそうだ。義務が事実として証拠立てられるものでないと云うことだけ分かって、怪物扱い、幽霊扱いにするイブセンの芝居なんぞを見る度に、僕は憤懣ふんまんに堪えない。破壊は免るべからざる破壊かも知れない。しかしその跡には果してなんにもないのか。手に取られない、微かすかなような外観のものではあるが、底にはかのようにが儼乎げんことして存立している。人間は飽くまでも義務があるかのように行わなくてはならない。僕はそう行って行く積りだ。人間が猿から出来たと云うのは、あれは事実問題で、事実として証明しようと掛かっているのだから、ヒポテジスであって、かのようにではないが、進化の根本思想はやはりかのようにだ。生類は進化するかのようにしか考えられない。僕は人間の前途に光明を見て進んで行く。祖先の霊があるかのように背後うしろを顧みて、祖先崇拝をして、義務があるかのように、徳義の道を踏んで、前途に光明を見て進んで行く。そうして見れば、僕は事実上極蒙昧ごくもうまいなな、極従順な、山の中の百姓と、なんの択えらぶ所もない。只頭がぼんやりしていないだけだ。極頑固な、極篤実な、敬神家や道学先生と、なんの択ぶところもない。只頭がごつごつしていないだけだ。ねえ、君、この位安全な、危険でない思想はないじゃないか。神が事実でない。義務が事実でない。これはどうしても今日になって認めずにはいられないが、それを認めたのを手柄にして、神を涜けがす。義務を蹂躙じゅうりんする。そこに危険は始て生じる。行為は勿論もちろん、思想まで、そう云う危険な事は十分撲滅しようとするが好い。しかしそんな奴の出て来たのを見て、天国を信ずる昔に戻そう、地球が動かずにいて、太陽が巡回していると思う昔に戻そうとしたって、それは不可能だ。そうするには大学も何も潰つぶしてしまって、世間をくら闇にしなくてはならない。黔首けんしゅを愚ぐにしなくてはならない。それは不可能だ。どうしても、かのようにを尊敬する、僕の立場より外に、立場はない。」  これまで例の口の端はたの括弧かっこを二重三重ふたえみえにして、妙な微笑を顔に湛たたえて、葉巻の烟けむりを吹きながら聞いていた綾小路は、煙草の灰を灰皿に叩き落して、身を起しながら、「駄目だ」と、簡単に一言云って、煖炉を背にして立った。そしてめまぐろしく歩き廻りながら饒舌っている秀麿を、冷やかに見ている。  秀麿は綾小路の正面に立ち止まって相手の顔を見詰めた。蒼い顔の目の縁がぽっと赤くなって、その目の奥にはファナチスムの火に似た、一種の光がある。「なぜ。なぜ駄目だ。」 「なぜって知れているじゃないか。人に君のような考になれと云ったって、誰がなるものか。百姓はシの字を書いた三角の物を額へ当てて、先祖の幽霊が盆にのこのこ歩いて来ると思っている。道学先生は義務の発電所のようなものが、天の上かどこかにあって、自分の教おすわった師匠がその電気を取り続ついで、自分に掛けてくれて、そのお蔭かげで自分が生涯ぴりぴりと動いているように思っている。みんな手応てごたえのあるものを向うに見ているから、崇拝も出来れば、遵奉じゅんぽうも出来るのだ。人に僕のかいた裸体画を一枚遣って、女房を持たずにいろ、けしからん所へ往いかずにいろ、これを生きた女であるかのように思えと云ったって、聴くものか。君のかのようにはそれだ。」 「そんなら君はどうしている。幽霊がのこのこ歩いて来ると思うのか。電気を掛けられていると思うのか。」 「そんな事はない。」 「そんならどう思う。」 「どうも思わずにいる。」 「思わずにいられるか。」 「そうさね。まるで思わない事もない。しかしなるたけ思わないようにしている。極きめずに置く。画をかくには極めなくても好いからね。」 「そんなら君が仮に僕の地位に立って、歴史を書かなくてはならないとなったら、どうする。」 「僕は歴史を書かなくてはならないような地位には立たない。御免を蒙こうむる。」綾小路の顔からは微笑の影がいつか消えて、平気な、殆ほとんど不愛想な表情になっている。  秀麿は気抜けがしたように、両手を力なく垂れて、こん度は自分が寂しく微笑ほほえんだ。「そうだね。てんでに自分の職業を遣って、そんな問題はそっとして置くのだろう。僕は職業の選びようが悪かった。ぼんやりして遣ったり、嘘を衝いてやれば造做ぞうさはないが、正直に、真面目に遣ろうとすると、八方塞ふさがりになる職業を、僕は不幸にして選んだのだ。」  綾小路の目は一刹那せつな鋼鉄の様に光った。「八方塞がりになったら、突貫して行く積りで、なぜ遣らない。」  秀麿は又目の縁を赤くした。そして殆ど大人の前に出た子供のような口吻こうふんで、声低く云った。「所詮しょせん父と妥協して遣る望はあるまいかね。」 「駄目、駄目」と綾小路は云った。  綾小路は背をあぶるように、煖炉に太った体を近づけて、両手を腰のうしろに廻して、少し前屈みになって立ち、秀麿はその二三歩前に、痩せた、しなやかな体を、まだこれから延びようとする今年竹ことしだけのように、真っ直にして立ち、二人は目と目を見合わせて、良やや久しく黙っている。山の手の日曜日の寂しさが、二人の周囲を依然支配している。 底本:「阿部一族・舞姫」新潮文庫、新潮社    1968(昭和43)年4月20日発行    1985(昭和60)年5月20日36刷改版 入力:高橋真也 校正:湯地光弘 1999年9月23日公開 2006年4月27日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。

神なき時代の連帯? (再掲)

一つの簡単な答えは、ヘーゲル的な意味での統治は不可能だということです。その代替案は複数ありえますし、フーコーはその一つでしょう(ただし、「知と権力」の共犯関係がいかなる統治を具体化するのかは、わたしには理解しがたい難しさがあるように思えます)。  最もわかりやすい代替案が新自由主義の統治だといえます。もしもこれを拒絶するとすれば、問題は、何らかの形でのヘーゲル的な統治への回帰か、神無き時代の連帯の可能性の追求となります。現代のリベラルな政治理論はだいたい後者のさまざまなバリエーションですが、密かに神が導入されている可能性があるのものが多いので、フーコーのような議論が流行るのだと思われます。  鴎外については、わたしにはコメントする能力はありません。ただ、そのような苦悩があるとすれば、それは鴎外がいかにヨーロッパ(ドイツ)文明に拘束されていたのかを示すことになるでしょう。ただし、そのような苦悩をまったく抱かない(ないしは、そのような苦悩の可能性に思い至らない)日本人よりは、はるかにましな精神性をもっていると思いますが。  明治日本は、ある意味では、神無しでヘーゲル的な全体性を国家は維持できるのか、という問いをいち早く突きつけられていたともいえます。この問いへの回答の一つは、現在でも、「新たな神の創造」ですが、そのような回答が、必然的に政治的に悲惨なものになることは、我々が歴史から学んだことだといえます。キリスト教文化圏では、たとえ神が死んだ時代でも、この危険性がよく知られていますが、はたして日本ではどうでしょうか。考えてみてください。

教養のヘーゲル (再掲)

問われるべき問題はいかにしたら、このようにして発達した、所有権のような個人の権利の意識が、社会全体への奉仕と一体になることで、より理性的で自由な意識へと陶冶されるかだ、とヘーゲルは考えた。そして、権利と義務が衝突せず、私的な利益と公的な利益が一致するような人間共同体が形成されるならば、その共同体のメンバーの幸福をみずからの幸福と感じ、法や制度に従うことは自己の欲望の否定ではなく、自己の理性的な本性の肯定であると考えるような市民が生まれると主張したのである。国家こそ、このような倫理的共同体における最高次のものだとヘーゲルは考えた。(放送大学「政治学へのいざない」211頁より) ヘーゲルが、国家と(市民)社会とを区別して捉えたことが、国家論の歴史において画期的な意味を持つことであるということはすでに指摘した通りである。その国家と社会の分離の理由として、ヘーゲルは、市民社会には、国家のはたすような真の普遍を支える能力がないからということをあげる。そこで、市民社会の私的利害に対応するだけのものである「契約」という概念によって、国家の成立原理を説明する「社会契約説」に厳しい批判を浴びせることともなった。しかし、それだけではないはずである。というのも、国家と市民社会の分離の把握ということは、市民社会が、相対的にではあっても国家から独立した存在であることの指摘でもあるはずだからである。近代国家においては、プラトンが掲げた理想国家におけるのとは異なって、国家が個人の職業選択に干渉したりはしないし、その他の個人の私生活に干渉したりはしない。同様に、国家が市場原理を廃絶あるいは抑圧するようなこともない。そのように、市民社会が自分独自の原則にしたがって存在し、機能していることが尊重されているということが、近代における個人の解放という観点から見て、重要なことであるはずなのである。それは、ヘーゲル流の表現にしたがうならば、一方では、近代国家なり、近代社会なりが「客観的必然性」によって構成された体制であったとしても、他方では、個人の恣意や偶然を媒介として成り立つにいたった体制だからだということになる。(p.103) (中略) 近代国家の原理は、主観性の原理がみずからを人格的特殊性の自立的極にまで完成することを許すと同時に、この主観性の原理を実体的統一につれ戻し、こうして主観性の原理そのもののうちにこの統一を保持するという驚嘆すべき強さと深さをもつのである。【260節】 (中略) 国家が、有機体として高度に分節化されるとともに、組織化されているがゆえに、個人の選択意志による決定と行為が保障される。個人は、基本的には自分勝手に自分の人生の方向を決め、自分の利害関心にしたがって活動することが許されている。にもかかわらず、このシステムのなかで「実体的統一」へと連れ戻される。それは強制によるものとは異なったものであり、あくまで個人は自己決定の自由を認められて、恣意にしたがっているにもかかわらず、知らず知らずのうちに組織の原理にしたがってしまうという形を取るのである。また、個人の自律的活動あればこそ、社会組織の方も活性化され、システムとして満足に機能しうる。こうして、有機的組織化と個人の自由意志とは相反するものであるどころか、相互に補い合うものとされている。それが、近代国家というものだというのである。(p.104) 「教養のヘーゲル」佐藤康邦 三元社

国土論ー三島由紀夫 (再掲)

「三島は紛うことなく戦後社会の外部に立とうとした。だが、戦後社会は自分の外部があることを許容しない。この拒否は生の哲学という全面的な肯定の所作において行われているためほとんど意識されない。どんな精神のかたちにせよ、それが生命の形式であるかぎりー体制派も、全共闘運動もふくめてー戦後的な生の哲学はそれを是認しうるのである。三島は死に遅れたものとして、戦後社会とのそのような共犯性、あるいは戦後社会の総体性にたいして潔癖ともいえる反発の意思を隠そうとしなかった。三島の精神による抵抗に意味があるとすれば、それが生の哲学の軌跡に回収されないことであり、死を如実にはらんでいる限りにおいてであった。三島は自分の精神を思想的な形象でみたしたが、そうした彩りはただ死の線分に接続する限りにおいてのみ精神の形象でありえたにすぎなかった。」(395ページ) 国土論 内田隆三 筑摩書房

国土論ー報われぬ死者たちのまなざし (再掲)

「敗戦にいたるまで国土に固有の曲率を与えていたのは天皇の存在であった。だが、天皇が『われ 神にあらず』と表明したときから、天皇の像は国土に曲率を与える重力の中心からゆっくりと落下していく。重い力は天皇から無言の死者たちに移動する。聖なるものはむしろ死者たちであり、天皇もこの死者たちの前に額ずかねはならない。この死者たちはその痛ましいまなざしによってしか力をもたないとしてもである。それゆえ戦後社会が天皇とともに超越的なものを失ってしまったというのは正しくない。そこには報われぬ死者たちというひそかな超越があり、天皇は皇祖神を祀るだけでなく、この無名の超越者を慰霊する司祭として、ゆるやかな超越性を帯びるからである。」137ページ 国土論 内田隆三 筑摩書房

丸山眞男 (再掲)

丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。 しかしながら天皇制が近代日本の思想的「機軸」として負った役割は単にいわゆる國體観念の教化と浸透という面に尽くされるのではない。それは政治構造としても、また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。(・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、それが制度自体と制度にたいする人々の考え方をどのように規定しているか、という、いわば日本国家の認識論的構造にある。 これに関し、仲正昌樹は「日本の思想講義」(作品社)において、つぎのように述べている。 「國體」が融通無碍だという言い方をすると、観念的なもののように聞こえるが、そうではなく、その観念に対応するように、「経済・交通・教育・文化」の各領域における「制度」も徐々に形成されていった。「國體」観念をはっきり教義化しないので、制度との対応関係も最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、目に見える効果をあげるようになった。ということだ。 後期のフーコー(1926-84)に、「統治性」という概念がある。統治のための機構や制度が、人々に具体的行動を取るよう指示したり、禁止したりするだけでなく、そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、それを当たり前のことにしていく作用を意味する。人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用)

八戸サテライトで聞いた話+α

古代ギリシャでは 宇宙は無限と考えられていたが、 ユダヤ教や、 初期キリスト教では、 ヘブライズムの考え方で、 宇宙は 有限である、 なぜなら、 始めが あるものには 終わりがあるから、 という理屈で、 キリスト教神学と 古代ギリシャ哲学が 融合する過程で、 ヘブライズム的な 発想が 優位に立ったらしい。 日本人も、 今は 普通に 宇宙には 始めと 終わりが あると信じている。 ニーチェの 永劫回帰の思想は、 これを否定するものだが。 日本人の時間観念も、 明治以降 作り直されたものだろう。 それは、 原武史先生が 指摘するように、 明治天皇が、 時刻通りに 運行される 鉄道に乗って 行幸啓されたことや、 定刻通りに 行われる 軍事演習を 拝覧されることなどによって、 植え付けられたものだという。 夏目漱石の 「三四郎」でも、 運動会で、 野々宮さんが ストップウォッチで 時間を測るのを、 主人公が 忌避する 場面が ある、らしい。 そもそも、 運動会という 行事自体が、 「正しい」 体の使い方を 刷り込ませる 国の政策だった、と 言われている。

「本当は、ずっと愚かで、はるかに使えるAI」 山田誠二 日刊工業新聞社 (再掲)

なんだ、AIってのはこんなもんか。 世間が煽り過ぎの側面は多分にありそうだな。 実際には、企業がAIを導入したはいいが、さんざん失敗した事例があるが、表沙汰になかなかならないだけで、そういうことは山ほどあるらしい。 そーだよね。 なんか2040年にシンギュラリティーがどうのこうのとか言って脅してくるが、なんか今の段階でAIが目覚ましい成果を挙げたという事例が、意外と少ないな、 とは思っていたが。 翻訳ひとつとっても、通訳だの翻訳だのは、近いうちに完全にAIにとって代わられる、と情報の専門家から聞いていたものだから、 てっきり俺の英語学習はすべて無駄だったのか・・・と思っていたが、案外そうでもないっぽい。 むしろ、日本語と英語は文の構造が全く違うので、Deepl翻訳を使うときでも、日本語をそのままDeepl翻訳につっこめば、自然な英語が自動的に出てくる、ということは、むしろ少ない。 もとの日本語を人間がいじってやる必要がある。 著者が主張するのは、AIが得意なこと、人間が得意なこと、をしっかり理解して、共存共栄を期することのようだ。 いいじゃないか! 新井紀子さんの著書とあわせて読むと、より納得がいく。 お二人とも多分同僚だから。 よく、研究者が、複数の自動車を模した模型たちが、自律的に動き回っているのを見せて、 はい、現実の世界もいずれこうなります、みたいなデモンストレーションを行ったりするが、 モデル化された実験室の中と、現実に自動車が行き交う世界というのは、少なくともAIにとっては次元の違う話らしい。 それが可能だと思えるのは、むしろ人間が、生育する中で、自然と身につける、自覚すらしない「常識」を身につけているが、 AIはそういう「常識」がまったく欠けていて、プログラマーがいちいちプログラミングしないと、 AIはそういう当たり前の常識がまったくわからない、ということのようだ。 この話を聞いて、 自分はもしAIが自動運転する自動車が開発されたとしても、怖くて乗れないと思った。 アマゾンの物流倉庫で、 商品を積んだ輸送マシーンが自由自在に動き回っている映像を見る機会が増えてきたが、 それは、 AIの特性をよく理解している、ということではないか。 日本のように、むやみやたらになんでもAIに任せようとして失敗している、ということは、ザラにあるらしい。 AIに職を奪われることを過剰に怖れるのではなく、 AIの特性、人間の特性を認識し、棲み分け、共存共栄を目指すことが、両者にとっていわゆるWin-Winなのだろう。 AIにすべてを丸投げすることの危険性は、AIがAIを騙す、という側面があるからとのこと。 顔認証にしても、空港における危険物探知にしても、人間だったら騙されないような実に些細なことで、AIがAIを騙せてしまうらしい。 したがって、AIに丸投げ、というのは、実はとても危険なことでもあるようだ。 著者は、AIは基本的に未来に起きる想定外の事態に対応できない、と書いているが、 新井紀子さんの言を敷衍すると、 AIは、数理論理学、確率、統計学の3つを駆使して動いている、ということだから、 全く未来を予測できない、ということはないだろう。 しかし、それは飽くまで過去のデータの蓄積から、予測する性質のものだが。 そう考えると、AIならば未来を完全に予測できる、 というのは、やはり決定論のワナに嵌まっているように感じられる。 また、著者によれば、AIは価値評価が出来ない、ということだが、 具体的には、「良さ」「悪さ」を判断出来ない、ということらしい。 例えば、音楽でいうポップスは、 メロディーや歌詞が出尽くしているので、 実際に、サンプリングといって、 作曲すらせずに、断片的に音を拾ってきて、適当につなぎ合わせることで曲が作れてしまうらしい。 それをAIにやらせることは、た易いことだが、 そうやってAIが作った曲の、良し悪しは、やはり人間でないと出来ないらしい。

遊びの社会学 (再掲)

以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93

美人投票 (再掲)

https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=61511?site=nli なかなか含蓄が深い。 これも、単純に選択肢の中からチョイスをする、ということが、 モノの選択である以上に、コトの選択である、 つまり、価値判断の表明である好例だろう。 当然、美人投票の例においては、「美人」の基準が個人の価値判断に基づいており、多様だからだ。 しかも、単に美人投票をするだけでなく、 投票をする人どうしが、そもそも「美人」とはどういう性質のものであるか、議論をし始めたら、 もっとややこしい話になるだろう。 こんなパラドックスを考えついたケインズはやはり偉人だ。 しかも、リンクの中では、近似解を得るために、 投票の対象を「美人」ではなく、数字に置き換えてしまっているが、 これは、ケインズの意図を換骨奪胎してしまっている。 牽強付会だが、ふたたび新日本風土記の話に引き寄せると、 無料紹介所のお兄さんと客は、実はとんでもなく複雑なゲームをしている、ということになりはしないだろうか? 昔の人が偉いな、と思うのは、実は数理的にめちゃくちゃ複雑なことでも、 普通のひとにわかるように言葉で説明してたことだよね。 昨今の日本の風潮だと、わからないのはお前の頭が悪いせいだ、と言わんばかりだからね。 研究者が数理モデルを使うのは当然だが、 社会科学者って、複雑な数理モデルがわかんない人にも、自分の主張をわかってもらえるように、言葉で説明する必要があると思うんだよね。 それをしないで、俺の考えてることは複雑過ぎてお前にはわからない、というのは、社会科学をやる人間としては傲慢でしかない。

ベンヤミン (再掲)

ベンヤミンは、「手」にもとづく認識の成果としての技術の巨大な発展が全く新しい貧困状態をもたらしたと指摘している。 「技術の巨大な発展とともに、まったく新しい貧困が人類に襲いかかってきたのである。」(「貧困と経験」『著作集』第1巻) 技術は不断の発明・発見によって次々に新しいものを作り出しては古いものを破壊していく「創造的破壊」(creative destruction)(シュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』)をもたらす。 機械は急速に進化していき、不断に「倫理的摩滅」にさらされている。(『資本論』第1巻、P.528参照)それとともに人間の生活を支えている周囲の事物はことごとく変化してしまうならば、人間はもはや自らの過去の経験を頼りにすることができず、つねに最初から新たにやり直すしかなくなってしまう。 「まだ鉄道馬車で学校へかよったことのあるひとつの世代が、いま、青空に浮かぶ雲のほかは何もかも変貌してしまった風景のなかに立っていた。破壊的な力と力がぶつかりあい、爆発をつづけているただなかに、ちっぽけなよわよわしい人間が立っていた。・・・これはそのまま、一種の新しい野蛮状態を意味する。野蛮?そのとおりである。・・・経験の貧困に直面した野蛮人には、最初からやりなおしをするほかはない。あらたにはじめるのである。」(「経験と貧困」)これは、1933年の「経験」状況である。 ベンヤミンは、人生における経験がゆっくりと時間をかけてつくられていくような「完成する時間」に対して、「永劫回帰」する時間を対置する。「・・・完成する時間・・・は、着手したものを完成することを許されないひとびとが住む地獄の時間と対をなしている。」(「ボードレールのいくつかのモチーフについて」『著作集』第6巻)

徳倫理学への回帰と社会的選択 (再掲)

https://www.chuo-u.ac.jp/research/institutes/science/center/ 自分としては、情報技術でも代替できないような人間の生存可能領域の条件を確保したいのに、こんな研究されたらたまらんな。 価値判断は人工知能にはできない、と書いたが、価値判断ができないで、ただただマジョリティーに追随しているだけの人間も少なからずいるだろう。 とはいえ、それもある種の価値判断だというパラドックスもあるだろうが。 あるいは、人間の価値判断のモデルを人工知能にパターン学習させて、人間っぽく価値判断をしてるフリをさせることも出来るだろう。 それでは、人間の人間たる理由はなんなのか? それは、”善さ(good)”とは何か?ということだろう。 以前、あるニュースで、人工知能に”善さ(good)”とは何か?と繰り返し聞いたら、人工知能が怒り出した、という。 昨今、公共哲学界隈では、古代ギリシャに遡る徳倫理学が復権しつつあるそうだが、上述したような状況も無関係ではないだろう。 徳倫理学の代表選手はアリストテレスだが、日本人に馴染みのあるのは、その祖先と言ってもいい、ソクラテスを想像すればいいだろう。 モノの消費とコトの消費の対比でも考えたが、単純に選択肢の中から何かを選ぶ、ということと、それがどういう思想信条の表明であるか、というのは、次元の違う話なのではないか? つまり、単純にどういう結果を選択したか、というより、その結果を選択した根拠が再び問われる事態が起こっていると言ってよいだろう。 しかし、単に選択肢の中からチョイスをするということが、その人の思想信条の表明と全く無関係ということがあり得るだろうか? (以下森本先生からのフィードバックより) 〈私が選ぶ〉という行為は、私の志向と他者の志向を突き合わせ、つまりはコミットしようとする対話性を内包している、ということですね。 小林くんのご論のマクラに、モノ的発想とコト的発想の対比もありましたが、まさに人はパンのみにて生くるものにあらずーー他者との関係性の上に展開するストーリー(人生の物語)抜きに生きるということはあり得ない…。 ふと気付いたが、森本先生のコメントにある、〈私が選ぶ〉という行為は、私の志向と他者の志向を突き合わせ、つまりはコミットしようとする対話性を内包しているという考え方は、まさにハンナ・アーレントが<活動>として定式化した概念ではないだろうか。

ジョン・デューイの政治思想 (再掲)

貨幣文化の出現は伝統的な個人主義が人々の行動のエトスとして機能しえなくなっていることを意味した。「かつて諸個人をとらえ、彼らに人生観の支え、方向、そして統一を与えた忠誠心がまったく消失した。その結果、諸個人は混乱し、当惑している」。デューイはこのように個人が「かつて是認されていた社会的諸価値から切り離されることによって、自己を喪失している」状態を「個性の喪失」と呼び、そこに貨幣文化の深刻な問題を見出した。個性は金儲けの競争において勝ち抜く能力に引きつけられて考えられるようになり、「物質主義、そして拝金主義や享楽主義」の価値体系と行動様式が瀰漫してきた。その結果、個性の本来的なあり方が歪められるようになったのである。 「個性の安定と統合は明確な社会的諸関係や公然と是認された機能遂行によって作り出される」。しかし、貨幣文化は個性の本来的なあり方に含まれるこのような他者との交流や連帯、あるいは社会との繋がりの側面を希薄させる。というのは人々が金儲けのため他人との競争に駆り立てられるからである。その結果彼らは内面的にバラバラの孤立感、そして焦燥感や空虚感に陥る傾向が生じてくる。だが、外面的には、その心理的な不安感の代償を求めるかのように生活様式における画一化、量化、機械化の傾向が顕著になる。利潤獲得をめざす大企業体制による大量生産と大量流通がこれらを刺激し、支えるという客観的条件も存在する。個性の喪失とはこのような二つの側面を併せ持っており、そこには人々の多様な生活がそれぞれに固有の意味や質を持っているとする考え方が後退してゆく傾向が見いだされるのである。かくしてデューイは、「信念の確固たる対象がなく、行動の是認された目標が見失われている時代は歴史上これまでなかったと言えるであろう」と述べて、貨幣文化における意味喪失状況の深刻さを指摘している。(「ジョン・デューイの政治思想」小西中和著 北樹出版

ちびまる子ちゃん (再掲)

どういうわけか 最近 母親が ちびまる子ちゃんの 再放送を見てるんだが、 昨日の放送だと、 ノグチさん?とかいう、 見た瞬間に 陰キャと判定できる、 しかもひねくれた女の子が、 お菓子目当てで、 他の いつもの連中と ちびまる子ちゃんの家に集まってるんだけど、 そこに、 ちびまる子ちゃんの母親はもちろん、 おじいさん、 (もしかしたらおばあさんも?) まで 集まって、 そのノグチさん?の 繰り出す 卑屈なクイズに付き合ってあげてるんだよね。 ちびまる子ちゃんって、 他にも 玉ねぎ頭のナガサワくん?だっけ? みたいな ほぼつねに ひねくれてる キャラが出てくるけど、 そういう日陰者にも、 漫画の中でとは言え、 居場所があったんだな、と思うわ。 もしかしたら、 現代の日本は、 効率性の美名のもとに、 そういう日陰者に対して、 お前は陰キャだ! ひねくれ者だ! そして それはお前のせいだ! 自己責任だ! と、 ネガティブな心性を内面化させ、 社会から居場所を排除した社会なのかも知れない。

反・決定論 (再掲)

私はここまで、決定論という見方は過去の確定性・決定性を全時間へと誤って適用してしまった一種の錯覚だ、論じてきた。しかるに実は、この「過去の確定性」という出発点をなす捉え方自体、厳密には申し立て難いのである。「過去」という概念自体に関わる、超一級の哲学的困難が存在するからである。ほかでもない、「過去」は過ぎ去っており、いまはないので、本当に確定しているかどうか確かめようがなく、不確実であって、よって過去それ自体もまた偶然性によって浸潤されてゆくという、このことである。 「確率と曖昧性の哲学」p.114 一ノ瀬正樹 岩波書店 私は、そもそも「決定論」という概念それ自体、字義通りに受け取った場合、意味をなさないナンセンスな主張だと考えている。私が決定論を斥ける根拠ははっきりしている。決定論とは、平均的に言って、「すべては因果的に決定されている」とする考え方であると言ってよいであろう。しかるに、「すべては」という以上、未来に生じる事象も含めて丸ごと「決定されている」と言いたいはずである。しかし、生身の身体を持つ私たち人間が、一体どんな資格で、未来の事象すべてについて、そのありようを断言できるというのか。私には、そのように断言できると述べる人たちの心境が到底理解できない。こうした理解不能の断定を含意する限り、「決定論」を受け入れることは哲学的良心に反する、と私は思うのである。ここにはおそらく、過去の事象がすでに「確定/決定されてしまった」という過去理解(これは、おおむねは健全だと言える)から、すべてが「決定されている」という無時制的な主張へと、不注意かつ無自覚的にジャンプしてしまうという事態が潜んでいるのではなかろうか。 「確率と曖昧性の哲学」p.257~258 一ノ瀬正樹 岩波書店

ボードレール 「フーコー・コレクション6」 ちくま学芸文庫 より (再掲)

ボードレールにとって、現代的な人間とは、自己自身の発見、自らの秘密および自らの隠された真理の発見へと向かう人間ではない。 現代的な人間とは、自分自身を自ら創出する人間のことなのだ。 現代性は、「人間をその固有の存在へと解き放つことはない」。 現代性は、人間を、自分自身を作り上げるという使命に縛り付けるのである。 (379ページ) (中略) <現在>のこうしたアイロニカルな英雄化、現実的なものを 変容させるために現実的なものと取り結ぶ自由の戯れ、 自己の禁欲的な練り上げ、 ボードレールはそれらが社会自体のなかで、 あるいは政治体のなかで 成立しうる、 とは考えていない。 それは、他の場所でしか起こりえないのであり、 その場所こそ、 ボードレールが 芸術と呼ぶものなのである。 (380ページ)

メガロマニアック?

今朝の日経7面の記事だけど、 サムスンが 超微細な 回路線幅を持つ 半導体で、 ゆくゆくは データセンターや、 人工知能、 量子コンピュータなど、 人知の及ばない 「シンギュラリティー」 の世界に到達する、 みたいなことが書いてあったんだけど、 ちょっと 技術経営の面からだけの 青写真で 未来を予測するには、 抵抗を感じざるを得ない。 特に、 この20年、 後世から見れば 間違いなく 歴史的な 20年と呼べるほどの 情報革命を 体験してきた 世代から言えば、 情報技術が発展したからと言って、 それで 人間社会が ハッピーになる、 というのは 楽観的すぎる としか思えない。 夢があるのはわかるが。 そのような、 情報技術ですべてが 管理された世界では、 人間の行動はどうなるだろうか? モラルハザード、 無責任、 怠情、 ありとあらゆる 人間の性悪なところが 極致に達するのではないか。 そういう、 自分が何かをやってもやらなくても、 すべてが決定されている、 という 決定論 は、 パンドラの箱を 開けてしまうのと 同じ危険性を孕んでいると思われる。

仮定法のキモー和文英訳十二講 p.166~167 洛陽社 より

例文:あの列車に乗れたのなら、もう今時分は着く頃だが。 考え方:過去の事柄に関する仮想だから If he had caught the train と過去完了形を使い、それに合わせて he would have arrived here by now とするのはどうか。 そうまで固苦しくしなくても he is not here as yet を he would be here by now に換えさえすればいい。 If he had caught the train, he would be here by now.

2022年11月2日水曜日

宣言

障害者枠での 市役所受験は 諦めた。 頭がおかしくなる。 https://www.youtube.com/watch?v=tlO3lZhDukU いやー、やっぱ ONEは沁みるねー。

気の毒にね

岸田さんも、 「新しい」かどうかは 別として、 色々 試行錯誤してるのは 感じるんだけどね。 海外直接投資してる 企業の 収益に課税しようとしたりとか、 原発を新規に開発しようとしたりとか、 まあ 色々頑張ってるとは 思うけど、 世論に理解されないね。 もっと 安倍なみにとは言わないが、 ずうずうしく 俺はこんだけ やってます、 ってアピールするには 常識人すぎるしね。 まあ、 可哀想だな、と思うよ。

2022年11月1日火曜日

「金融と社会」質問と回答その5

質問 日経新聞朝刊2022/9/21の記事8面に、物価上昇でも現預金志向、と題して、米国では高インフレで預金から他の金融機関にマネーを移す動きがある。日本も株式投資や外貨預金を始める人が増えているが、多くは円預金や現金として滞留している。物価上昇が長引いたとしても、SMBC日興証券の丸山義正チーフマーケットエコノミストは「日本人は節約志向が強いので、物価が上がりそうだから早めに使うという考えにはなりづらい」と指摘しています。 ここで、私は以下のように考えました。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。                             以上の見立ては、間違っているでしょうか? 回答 日銀が名目金利を抑えている点、にもかかわらず日本の家計が株や海外投資に向かわず預貯金へ、という点はそうだと思います。

近代日本の炭鉱夫と国策@茨城大学 レポート (再掲)

茨城大学強いわ。ここんとこ毎学期茨城大学行ってるけど、今回もめちゃくちゃ面白かった。面白いという言葉では言い表せない。アタマをバットで殴られるくらいの衝撃を感じた。 石炭産業を語らずに近代日本の経済発展は語れないと言って間違いない。 にもかかわらず、おおっぴらに語られることはほとんどない。 あたかも繊維産業が花形で日本経済の繁栄をほとんどすべて牽引したかのように語られている。 裏を返せば、それほどまでに、石炭産業を語るということは、現在に至るまで日本の暗部を映し出すことになるのかも知れない。 (以下レポート) 今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。   ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。   日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。   しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考えると、グローバリゼーションに対応しながら国民的自己決定を達成するには、国をまさに富国強兵のスローガンの下で一致団結させる必要があり、そこでは多様な民意というものを反映することは困難であり、したがって表現の自由が抑圧され、民主主義は達成できない、と考えられます。   戦前の日本に照らして考えると、前近代の村社会が国家組織の末端に組み入れられ、その中で炭鉱夫が生きるための最後の手段として究極のブラック職業として見なされていたこと、それでも西欧へ肩を並べなければならない、という官民一体の国家的意識のなかで、脅迫的に近代化へ歩みを進めざるを得なかった状況では、社会の底辺としての炭鉱夫には、およそ政治参加、すなわち民主主義の恩恵に浴することは出来なかった。それはとりもなおさず炭鉱業というものが本来的に暴力的であり、同時に「国策」としての帝国主義的性格を多分に内包していたことと平仄を合わせています。   中国のウイグル人の抑圧と戦前日本の坑夫を重ねて考えると、そのような構図が透けて見えてきます。

妄想卒論その7 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」 を 合言葉に 米国で 反格差のデモが広がったのは 2011年。 怒りが新興国に伝播し、 米国では 富の集中がさらに進んだ。 米国の 所得10%の人々が得た 所得は 21年に全体の46%に達した。 40年で11ポイント高まり、 ...