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9月, 2022の投稿を表示しています

バスケ

ホッと群馬で 八村塁の弟が 群馬のバスケチームに加入した ってニュースやってて、 そういや、 大学でも やりたくもないのに バスケの授業やらされたなーって 思い出したわ。 体育の授業も ネットで予約するんだけど、 野球だのサッカーだのフットサルだの、 自分がやれそうな スポーツは、 だいたい 埋まってんだよね。 意味わかんねーよ。 なんで 体育の授業まで ネットで予約しなくちゃいけねーんだよ。 しかも、 レポートまであったし。 何をどうしたいんだ? バスケは、 サークルで本職のやつらに あーじゃねーこーじゃねー 指図されて、 知らんがな。 と思いつつ 走り回されて、 微塵も面白くなかった。 なんで 体育まで こんな いちいち ストレスを感じなきゃいけないのか。 あそこは オカシイ。 そんなに昔の記事じゃないけど、 ビリギャルの小林さやか氏が 池上さんだったかな?と 対談してたけど、 GDPの話になって、 出た、横文字! とかリアクションしてて、 記事の内容も、 とても 総合政策学部を卒業したとは思えない 薄っぺらなもので、 AOで入ると 成績を厳しくチェックされるはずなのに、 この人は 一体なにを勉強したんだろう? 何より、 経済の知識がこの程度で、 どうして 総合政策学部を卒業できたのか、 不思議で仕方がなかった。 あれは 紙媒体の記事だったら 到底世に出せないレベルの ショボいもんだったね。 あの環境で体育会と両立して プロスポーツ選手になれる人は、 自分からすると 超人としか思えない。 今では信じられない話だけど、 自分が受験した頃の SFCって、 武蔵でも 東大と併願するくらいの ブランド力があった。 もう、 上から目線で 慶応であって慶応ではない、 くらいの レベル。 今じゃ 逆の意味だけど。 武蔵から 悲劇的にも SFC来ちゃった人は、 チャラく適応してる人もいれば、 高校のときの覇気に充ちたオーラが 嘘のように、 ショボーンってしてる人もいた。 自分より一回り上の世代の SFC出身者と言えば、 テレ朝の松尾由美子アナとか、 日テレの藤井貴彦アナとかかな? あとは一青窈さんか。...

You will never walk alone.

最近、 爆笑問題の 太田光が 尖った 発言してるけど、 応援するわ。 心から。 あんな デカイ口利きながら、 内心どれだけの 恐怖感と闘っているか、 僭越ながら 共感するよ。 大学のときの俺が あんな感じだった。 これも僭越ながら、だけど。 世の中の 紳士淑女ぶった サディストどものために、 命を絶つようなことだけはしないで欲しい。 それと、どんなに絶望しても、 お前が見てる世界がすべてじゃないってことも、 忘れないで欲しい。 つまり、お笑い業界でどんなに尖った発言したって、 そんなことに全然興味ない人間が いくらでもいるってことを。 https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202209280000312.html

メモ

そうか、 俺が苦しいのは、 どっかで、 というか、 モロに 母親がおじさんから 相続した 財産を アテにしてるからなんだな。 そりゃあ、 金銭稼得能力の著しく低い俺が 母親の財産をアテにせざるを得ないのは 仕方ないとは思うけど、 それで かえって 苦しくなるんだな。 ここ 数日、 そのことで 姉夫婦と メールでやりとりして、 どうも 向こう、というか姉は、 相続税を確保することに 血眼になっていて、 俺と母親の生活は 父親が遺してくれた 財産を食いつぶして 成り立っています、 あと 数年でそれが 尽きますけど あなたどうするんですか? って テンションで来られたけど、 なんか 複雑に考えすぎじゃないか? おじさんの遺産は 母親が一身に相続して、 100% 母親の財産で、 管理も 亡くなったおじさんの お友達の士業の方たちが 幸いにも 手続きしてくれてるのに、 なぜ 窓口役でしかない お前が 全部仕切ってるかのような ノリに なってんだろう。 専門家に任せておけばいいだけなのに。 変に 母親の万一の場合の 相続税を確保しようと 躍起になってるから 話がおかしなことになってるけど、 お前が いつものごとく 小手先で こねくり回したところで どうこうなるもんじゃねーだろ。 子供もいるんだし、 義理の兄が働いてくれてるんだから、 無駄遣いしないで 普通に暮せばいいだけの話じゃないか? そんなこんなで、 ここ数日 やりとりして、 心底疲れた。 もう関わりたくない。 無理。 一方で相続税の確保に 血道をあげてるのに、 片一方では 母親の寿命を縮めるようなこと やってんだから、 相変わらずバカだなー、としか思わないけど。 義理の兄がすばらしく いい人なだけに、 申し訳ないわ。

利他主義者じゃないけど

ボランティア活動も、献血すらも 一回もしたことない人間だけど、 自分の利益のためだけに 頑張るって、 限界あるよね。 40年生きるだけでも こんだけ 疲れるのに、 自分の 生命維持・生活維持 のためだけに 頑張るって、 地獄でしかねえ。

命日

明日10月1日は、 父親が亡くなって、 ちょうど 1年。 最後は本当に辛かっただろうと 思うけど、 ちょっと あれ以上は寿命的に 無理だっただろうな。 糖尿病と高血圧の合併症を考えれば。 さいご 夜間採尿してた頃は、 手がお饅頭みたいに膨らんでたし、 片足が浮腫んでたり、 もう明らかに腎臓だめになってたからね。 それでも 長く生きたほうだと思うよ。 もっと10年くらい早く 逝ってても全然おかしくなかった。 それこそ、 一番羽振りが良いときが、こっちからすれば一番怖いくらいだった。 いま父親が亡くなったら、 自分はどうやって生きたらいいんだろう?って。 下手に生活水準が高くなりすぎると、 逆に 恐怖心が湧いてくる。 なにせ、 その生活はすべて父親のおかげなんだから。 振り返ると、 父親は意外とミーハーで、 常にマジョリティーに居たくて、 しかも その中で 何事も最低でも平均以上に居ないと 気が済まないって人だった。 晩年は 株に取り憑かれてたけど、 日経平均をつねに気にしてて、 「平均」に勝ったか負けたかに めちゃくちゃこだわってた。 だから、 大損した時に、 「口惜しい!口惜しい!」って 叫んだ時は、 この人 一生株やめられないだろうな、 と思ったよ。 こっちからすれば、 かなり ハラハラものだったけど。 金融リテラシーがまったく アップデートされてないのに、 俺がやれば間違いないんだ、 っていう、 根拠のない自信に充ちてたんだから。 四季報すらまったく読まなかった。 (かくいう俺も読み方全然わかんないけど。) だからこそ、 損すると余計に口惜しいわけだけど。 それで 資産のうちのかなりの部分を 株につぎ込んでたから、 こっちとしては マジで怖かった。 今から振り返れば、 去年の1月に 資産がピークをちょっと過ぎた時に、 俺が「売れ!」ってマジギレしたけど、 とぼけて シカトしてた。 ポカーン?て。 最終的には 一応 自分と母親が 数年間は 生きていける 資産を遺してくれたけど。 それは 感謝。 言うまでもなく、 俺の莫大な 教育費を出し続けてくれたことにもね。

熱帯魚

自分が   高校生の頃は、 熱帯魚飼う ってのも、 そんなに 珍しいことじゃ なかったよね。 アロワナとかディスカスとか。 いまは ブームじゃないとはいえ、 経済的な意味で 隔世の感がありますね。 うちらの親世代ってのは、 日本が有史開闢以来 一番経済的に 豊かだった時代に 働いてた世代だからね。 自分もだいぶ恩恵享けてるよ。

王朝

ヨーロッパの王朝って、 なんで こんなにしょっちゅう 交替するんだろう? って 昔は思ってたけど、 早い話、 宗教だよね。 キリスト教社会では、 建前でも 一夫一婦制だからね。 だからこそ、 王妃に飽きちゃった 国王が 新しい后とデキて、 前の王妃に 残虐な仕打ちをした話 なんかが残るわけだけど。 ひるがえって、 アジアはハーレムだからね。 中国なんか特徴的だけど。 まあね、 日本史ほとんどわかんないけど、 万世一系ってことになってて、 それはそれとして、 それを 維持するために なにが必要か っていうね。

もうここらでよか。

精神は健康だけど、 もう疲れた。 力尽きました。 人生に絶望したわけでもないし、 むしろ さあ、これからだ! と思ってたくらいだけど、 ここまでやれば、 もういいだろ。 いいのよ。いいのよ。 心配してくれなくて。 よして、よしてよ 慰めなんか。 全然平気。 大丈夫。 すーさいどなんかしないから。 ただ ちょっと疲れたの。 https://www.youtube.com/watch?v=tAGnKpE4NCI

脂肪肝

ちょっと 肝臓の値が 悪い、 つってもそんな大したことないけど、 薬のせいなのか、 それとも 脂肪肝なのか、 エコーで 検査してもらったところ、 脂肪肝でした。 薬のせいと、 脂肪肝のせい、 どっちがいやかなー? なんて 思ったけど、 薬は一生飲み続けなけりゃならないから、 やっぱ 脂肪肝で良かった。 (良くもないけど。) 脂肪肝なら摂生すればどうにかなる。

ありがとう平沼

https://news.yahoo.co.jp/articles/c81e78c97415170cdf4e9e9937f08a65c238bd47 https://www.youtube.com/watch?v=XBaPakSgkvg 推しが活躍すると、テンションあがる。 なんだ、今シーズン初本塁打、 しかも プロ通算2号かよ、 と 思うかもしれないが、 2015年に 敦賀気比のエースとして センバツを制覇して、 ドラフト4位で日ハムに内野手として 入団。 トレードで西武に来て、 内野手としての動きを ゼロから始めて、 今季も 6月の広島戦で 4安打2盗塁?と 活躍しつつも、 また2軍暮し。 だが、 打撃も 上達し、 シーズン終盤になって、 レギュラーの地位を固めつつある。 センバツの時から いい選手だな、 と思って ひそかに 推してきたけど、 こういう風に 活躍してくれるってのは、 やっぱり嬉しい。 何しろ、 守備も打撃も、 ほぼゼロから 築き上げて、 ようやく 花を咲かせたわけだからね。 その 根性、野球センス、人格、努力。 すべてにおいて光るものがある。 その築き上げたプロセスそのものが、 野球ファンにとっては醍醐味なわけですよ。 そら 大谷翔平は凄いけど、 あれは ガチ天才だから。 そら、 努力もしてるけど、 そういう選手ばかりを 見るだけが 野球じゃない。 野球は人生だ。 艱難辛苦を乗り越えた 人生ドラマこそが、 野球ファンの醍醐味でもある。 こういう選手がいると、 チームの雰囲気も良くなるし、 もっと言えば、 将来の西武ライオンズの 精神的支柱にまで なっていくと思う。

マイナンバーカード

市役所行って、もらって来ました。 ナナコにポイント 貯められるってことで、 2万円ぶん 使えるようです。 特定の企業への 利益誘導じゃねーのか? と、思いましたが、 やっぱ セブンイレブンは 先見の明があるな、 と 感心せざるを得ませんでした。 これって、 市役所が持ってるデータが 企業に売られてるってこと ないのかな? マイナンバーカード作った 見返りに 2万円ぶんもらってるわけだし。 ほんと、今の時代は 個人情報はカネのなる木ですわ。 (以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客...

大機小機

今日のコラムは、 企業が海外直接投資で 稼いだ カネは、 再び 海外での投資に向けられる。 そうして得られた利益 その残高(昨年末時点)が 46兆円。 一応 経常収支(のうちの第一次所得収支)には計上されるが、 国内に還流することはない 張り子の虎、 とのことでした。 コラムでは、 その カネを国内に還流させれば、 株高ぐらいは 演出できるし、 円安の歯止めにも 一役買うのでは、 という苦しい理屈でした。

疲れた。

民法勉強して、 行政書士とか 狙えるかな? なんて 思ったけど、 自分とこの いざこざ でさえ こんだけ 疲れるのに、 他人の 揉め事に 首突っ込む なんて、 俺には 無理だ。

円買い介入

ただでさえ 財政が火の車なのに、 貴重な 外貨資金を 放出するような ことしやがって。 日銀の黒田総裁は 今すぐ 辞任しろ。 来年の4月まで やらせる必要はどこにもない。

安倍の国葬にことよせて(再掲)ー負債観念の刷り込み

「負債」の観念を抱かせることが、社会全体を構成し、安定的に維持するための手段であるわけで、交換とか経済的利益は副次的な意味しかないわけです。先ほどお話ししたように、儀式に際して各自の欲望機械を一点集中的に活性化させますが、この強烈な体験を「負債」と記憶させて、大地に縛り付けることが社会の維持に必要なわけです。現代社会にも通過儀礼のようなものがありますし、教育の一環として意味の分からない、理不尽に感じることさえある躾を受けることがありますが、それは、この「負債」の刻印と同根だということのようです。「負債」の刻印が本質だとすると、むしろ下手に合理的な理由をつけずに、感覚が強制的に動員される、残酷劇の方がいい、ということになりそうですね。 <アンチ・オイディプス>入門講義 仲正昌樹 作品社 p.255

いかにも自民党らしい姑息なやり方

今日は安倍の国葬だけど、 旅行支援プランを 同時に ぶち上げることで、 マスコミの報道を 分散させ、 報道が 国葬一色にならないように 企んでるのが見え見え。 セコいわー あら、やっぱり自民党を推しておけば いいことあるかも、 って思わせてるよね。 旅行支援は遠慮なく使わせてもらうけどね。 こういうところが いかにも安倍的なんだよ。

常識で考えようよ。

国の借金が 国民一人当たり に換算すると 1000万円を越した、 というニュースに反応して、 国の借金は国民の財産だから どーのこーの っていう、 三橋貴明に洗脳されたアホが 湧いてるんだけど、 確かに、 正確に言えば 国民が 国に対して 一人あたりに換算して 1000万円以上の 債権を保有している、 というのは正しいけど、 ちょっと考えて欲しいのは、 あなたが 銀行なり生保に預けたお金で、 銀行なり生保なりが、 日本国債買ってます。 もし 日本国債の価値が暴落したらどうなりますか? って話よ。 あなたは 単純に 銀行にお金預けたり、 生保に加入しただけのつもりでも、 彼らは、 それを元手にして 日本国債買ってるんですよ? それが パーになったら、 あなた方の財産も 一人当たり1000万円ぶん パーになるって、 理屈、いい加減わかりませんか? この期に及んで まだ 三橋に騙されてるって、 イタイから。 いい加減 目を覚ませ! 三橋みたいなペテン師を 党の公認候補として 選挙に出す 自民党にも責任がある。

神なき時代の連帯? (再掲)

一つの簡単な答えは、ヘーゲル的な意味での統治は不可能だということです。その代替案は複数ありえますし、フーコーはその一つでしょう(ただし、「知と権力」の共犯関係がいかなる統治を具体化するのかは、わたしには理解しがたい難しさがあるように思えます)。  最もわかりやすい代替案が新自由主義の統治だといえます。もしもこれを拒絶するとすれば、問題は、何らかの形でのヘーゲル的な統治への回帰か、神無き時代の連帯の可能性の追求となります。現代のリベラルな政治理論はだいたい後者のさまざまなバリエーションですが、密かに神が導入されている可能性があるのものが多いので、フーコーのような議論が流行るのだと思われます。  鴎外については、わたしにはコメントする能力はありません。ただ、そのような苦悩があるとすれば、それは鴎外がいかにヨーロッパ(ドイツ)文明に拘束されていたのかを示すことになるでしょう。ただし、そのような苦悩をまったく抱かない(ないしは、そのような苦悩の可能性に思い至らない)日本人よりは、はるかにましな精神性をもっていると思いますが。  明治日本は、ある意味では、神無しでヘーゲル的な全体性を国家は維持できるのか、という問いをいち早く突きつけられていたともいえます。この問いへの回答の一つは、現在でも、「新たな神の創造」ですが、そのような回答が、必然的に政治的に悲惨なものになることは、我々が歴史から学んだことだといえます。キリスト教文化圏では、たとえ神が死んだ時代でも、この危険性がよく知られていますが、はたして日本ではどうでしょうか。考えてみてください。

思想史講義【大正編】 ちくま新書

天皇機関説事件だけど、 穂積・上杉説 にしても、 美濃部説、 ひいては 現在の憲法学のように、 国家の実存を感じられないような 漠然とした理論よりも、 「国体」なんていう概念的なものじゃなくて、 みんなで天皇をワッショイワッショイして、 まるでお祭りのように、 日本という国が、 まさに ここにあるじゃないか! という「実感」を 伴った理論のほうが、 パンピーにはウケる、 というのも、 現在の日本人に照らしても、 わかりやすい。 この「実感」を 伴った国家観は、 ヘーゲル主義とも親和的に感じられる。 美濃部説と親和性の強い 現在の憲法学では、 日本という国家を実態として 感じる、ということはないだろう。 アリストテレスの「善き市民として生きる」という 発想にしても、 それは 古代ギリシャ都市としての国家観であり、 現代の日本人は、 やはり なんとなく ハッキリしない もやもやした 日常の中を生きる以外ないのだろう。 その中で、 勝ち組だの負け組だの、 社会化された人間の、 原始的な欲求を日々満たしながら、 人生を送らざるを得ないのかも知れない。

井沢元彦氏の主張の一部

①天智天皇と天武天皇の関係 天智とは殷の紂王が 抱えて死んだと言われる 天智玉に由来する。 (これは森鴎外も「帝諡考」で仄めかしている) 天武は、 殷を滅ぼし 周を築いた武王に由来する。 つまり、 天武天皇は、 そこで 皇統の系譜があらたまったことを主張している。 (だが、桓武天皇の時に、天智天皇系に再び代わった。) 自分の統治の正当性を主張するために、 「日本書紀」を編纂した。 ②浅野内匠頭は統合失調症だった。 これも、 同じ病気の人間としては頷ける。 いくらムカついたからって、 藩が取り潰しになるのに 襲撃するとか、アホすぎる。 しかも、 吉良上野介を殺せなかった。 ちなみに、乃木希典は、俺だったら刺す、と言ったらしい。

大機小機 (再掲)

日本は「衰退途上国」になった、と書いてあったね。 アメリカや東南アジアなどは、 激しいインフレに見舞われているが、 賃金の伸びがそれを上回るので、 結果的に 経済成長する。 ところが、 日本は、インフレは 政府によって抑制されているものの、 反面、賃金は上がらない。 したがって、経済成長もしない。 他の国並みのインフレを許容すれば、 中小企業は潰れる、 付加価値の6割が人件費である以上、 賃上げをすれば インフレで庶民の生活が成り立たない。 ・・・そうやって、 経済成長を犠牲にしながら、 都合の悪いことを見て見ぬ振りをして、 ダラダラと他の国においてけぼりにされていく。 もしかしたら、 そんな状態が長く続くのかも知れない。 日本人のメンタリティからすれば、そんなものかも知れない。 下手に頑張って 体力を使い果たすより、 ひたすら 安全パイを選び続け、 挑戦もせず、 身の丈に合った暮らしを選択し続ける。 そうやって、 陽だまりの樹のように、 ゆっくりゆっくり朽ち果てていき、 もうどうにもならなくなって、爆発する。 そんなものかも知れない。

人間不信と金融 (再掲)

「華麗なる一族」は本当に勉強になる。 まだ途中だけど、 万俵鉄平は可哀想だな。 特殊鋼業界初の高炉建設の夢をたぎらせながら、 一本気な技術者として邁進しているのに、 父親が頭取である 阪神銀行からの融資を渋られたり、 たぶん陰で嫌がらせされている。 それは、一重に、  鉄平が自分の実の子ではなく、 父親が妊ませた子なのではないか、 という不信感から来る。 人間、なんで他人にカネを貸すか?って言ったら、 相手が利子付けて還してくれるのはもちろんのこと、 根本的には、 カネを貸す相手を信用するからだよね。 カネを貸した瞬間に還って来るわけではない以上、 そこに不確定な時間上のズレが生じざるを得ない。 そこには当然、リスクが生まれる。 そのリスクが金利という形で現れるわけだが、 貸したカネが還ってくる可能性が低いほど、 金利が高くなる、 また、返済までの時間上のズレが長くなるほど、 金利が高くなる、 というのが道理だろう。 カネを借りるほうは借りるほうで、 あらん限りの知恵を絞って、綿密に事業計画を立て、返済計画を立てるだろう。 しかし、 どんなに良心的な借り手が、あらん限りの精緻さで事業計画を立てたところで、 未来の事象には、本来的に不確定性がつき纏う。 その分だけ、 リスク・プレミアムとして更に金利が高くもなるだろう。 しかし、 未来とは本来的に不確定なのだ。 直近の事例にしたって、 まさか安倍氏が突然あんな最期を遂げると誰が予測し得ただろうか? 日銀がいくら超金融緩和を継続し、 イールド・カーブ・コントロール政策を強行して、 金利の上で未来の不確定性のリスクを低くしたところで、 未来とはやはり不確定なのだ。 では、終極的になぜ人は他人にカネを貸すか?といえば、 結局は、 騙されてもいいからちょっとやらせてみるか。 という発想だろう。 それこそ井上俊が言ったように、 「詐欺が成り立ち得ないところでは、社会もまた成り立ち得ない」 のである。 人が騙されるということは、裏を返せば人を信じる能力があるということの証左である。 これも、井上俊が言ったことだ。 ちょっと、 今の日本の空気は、1億総人間不信なのではないか? 社会全体が他人に対して不信感で凝り固まっていたら、 日銀がいくら頑張ったところで、限界があるのは自明のことだ。 ちょっと騙されたな、ま、しょうがないか!という...

ホッと一安心ー今朝の日経8面

物価上昇でも現預金志向 円安とインフレで、 日本円を持っていても 損だということで、 海外への 資産フライトが 起きるんじゃないかと 危惧されていたが、 「日本人は節約志向が強いので、物価が上がりそうだから早めにお金を使うという考えにはなりづらい」 らしい。 日本人に 根深く染み付いた デフレマインドが、 今回は プラスの方向に 働いた、ということか。 でも、それって、 日本人のリスク許容度の低さの裏返し でもあるよな。 そら 景気なんか良くならないよ。

日笠先生より(再掲)

メールありがとうございます。  議院内閣制は、議会と政府の共同活動を前提としています。しかし、政府・内閣が暴走する場合には、議会のコントロールに服するという「責任本質説」に基づき、内閣は連帯して議会に責任を負い、議会下院は内閣に不信任の決議をすることができます。  とはいえ、議会多数派である与党議員が、政府・内閣の意向に承認ないしは追従する限り、政府・内閣は、多数議員に体現される民意に基づき、政治をリードすることになります。政府・内閣が暴走しているとして政府・内閣を抑止することができるのは、主権者である国民であり、選挙という手続きに基づき行われます。  日常的には、テレビ・新聞などのマスメディア、世論調査、SNSなどによる言論表現活動において、政府・内閣の暴走を批判することができます。しかし、政府の意見は、「政府言論」として政府の自制がない限り、たとえアジテーションであっても広く国民に広がるのが現実です。  ここまでは、ご質問の前提です。では、アメリカとイギリス、そして日本の立ち位置について考えてみます。  日本国憲法は、確かに、GHQの考え方すなわちアメリカ法思想を前提にしていますが、マッカーサーは、日本が戦前も議院内閣制の政治制度を採用したことを前提に、新日本国憲法の構想にあたっても議院内閣制の採用をすすめており、憲法改正のための帝国議会でも、違和感なく採用されています。  では、ご質問にあるように、議院内閣制において、現実的な政府の暴走は阻止できないのかという点を考えてみたいと思います。イギリスやアメリカにおける民主主義の前提は、二大政党制であると思います。対立する野党が政府与党を抑制するシステムは、現実的には、「政権交代」が国民の選挙によって起きるという事実だと思います。政府与党が一番恐れるのは、政権からの陥落であり選挙における敗北です。イギリスやアメリカでは、現実に政権交代がありますので、政治は次の選挙に勝つためという戦略的な限界あるいは制約があります。これを意識することは、反対者へ配慮として、温和な政治展開を現実的に保障することになります。  もっとも、激しい感情の発露は、「民意」にあります。主権者たる国民の感情換言すれば投票行動は、刺激に敏感で現実的生活や嗜好に左右されがちです。「ポビュリズム」が、一般大衆の感情的表現として用いられ、ポビュリズムによる...

「現代の国際政治」第5回 まとめ (再掲)

あ〜あ、思い出せるだけ〜思い出して、あそびたぁぁぁぁい! てなわけで、 放送大学「現代の国際政治」第5回の放送授業内容を、出来る限り思い出しながら、要点をまとめてみたいと思います。 まず、第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた...

グローバリゼーションとナショナリズム(再掲)

グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。 そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、理性による計量的画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 (以下引用) 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ペ...

日本経済再生策

1番手っ取り早い手段のひとつは、 移民に 選挙権を与えることではないだろうか。 さんざん搾取ばかりして、 地方自治体の選挙権すら 与えない、 というのでは、 もはや 日本が経済大国ではなくなった 現在においては、 自らの首を締めるだけではないだろうか。 どっちしろ 移民を受け入れずに ほったらかしにしておけば、 日本の人口は絶望的に 縮小していくのだから、 移民の目から見て、 日本に行っても、 搾取されるだけで、 なんの憧れもない、 というのでは、 どうやったって 移民なんか来てくれないだろう。 そうであれば、 いま日本に住んでいる 移民には、 最低限 地方自治体の選挙権ぐらい 与えて然るべきだと思われる。 日本人と結婚して 同化しなければ、 日本において政治に参画することすら許さない、 という態度では、 経済が弱体化する現在において、 日本は 全く魅力に欠ける国と言わざるを得ないだろう。 とにかく、 日本の教育は、 歴史的に、もちろん今現在も含めて、 「貧困」 という問題から目を背け続けている。 明治維新以来の 経済発展にしたって、 台湾、朝鮮半島を植民地化し、 どれほど 多くの 台湾人、朝鮮人を 半強制的に 過酷な低賃金労働で 搾取し続けて来たか、 ということが、 全く語られていない。 そのくせ ナショナリズムに煽られて 排外主義に走るのは、 ひとえに 教育の問題による無知が大きい。 もちろん、 日本人のうちでも、 「2級国民」とでも言うような、 目に見えない 搾取に虐げられる 人びとがいるのだが。 どうせ 「アイツら」に 選挙権を与えたところで 権利ばかり 主張して 財政負担が 増えるだけだ、 というなら、 結局 日本人も含めて 経済格差が拡がり、 貧困問題が 日本社会全体に しっぺ返しを 喰らわせるだけだろう。 経済が振るわないときほど ナショナリズムは高揚しやすいが、 冷静に考えれば、 むしろ 逆の発想をすることが必要だ。 グローバリゼーションによって 誰もが 貧困状態に陥る危険性がある社会だからこそ、 誰に対しても 社会への参画を 可能にするべきだ。 日本人の 「2級国民」は、...

昭和史発掘ー貧困

松本清張の「昭和史発掘」の内容を 思い返すと、 昭和のテロに走った 青年将校とか、 それを先導した 思想家たちってのは、 邪悪な人たちでは 決してなく、 ある意味では 純粋すぎるほど純粋な 人たちだった、という印象が強い。 財閥が支配する 日本経済に対する憤怒 特に、 搾取され続ける 東北地方を始めとした 貧しい農家、 このような 社会の矛盾に対して それこそ 身を賭して 「悪」を成敗してやろう、 という純粋な人たちだった。 財閥は財閥で、 確かに えげつないこと 散々やってて、 なんなら 戦争を敢えて起こすことで 儲けよう、 なんて考えてる連中であったことも また事実なんだけど。 大正デモクラシーといえば、 明るくて自由な 思想が花開いた時期、 と一般に認識されているが、 拡大する貧富の格差は、 多様な思想の中に、 危険な国粋思想をも抱え込んでいた。 また、これは 日本に限った話ではなく、 ドイツにおいても、 ファシズムというのは、 共産主義に対抗する 選択肢の一つとして、 ポジティブに見られていた時期もあった。 このように、貧困というのは、 社会が無視しておくには あまりに 危険な問題なのだ。

貧困

貧困が真にヤバいのは、 それが結果的に政治的な「服従」を生み出す傾向があるということではないだろうか。 貧困は誰かのせい、あるいは、構造のせい、となれば、 それを排除したり、矯正したりする政治団体に、 盲目的と言えるほど、服従してしまう。 小泉も安倍もそうだった。 それが裏切られると、手のひらを返したように、やり玉に挙げられる。 貧困というのは、まさに政治学的な問題なのだ。 現代の日本社会のように、 成熟した社会を、 劇的に変えるような政策は、 どのようなものであれ、 やってはいけないと思われる。 アベノミクスもそのような外観を帯びていたが、 左翼がヤバいのは、 自分たちの正当性を 疑うことをせずに、 社会を 劇的に変えようとする 発想であり、行動力だ。

そろそろいいんじゃないか?

アベノミクスが実はまやかしだった ってことが明らかになってきたってのもあるし、 岸田さんの 国葬決定が だいぶ フライング気味だったってのもあるけど、 こんだけ 安倍の国葬で反対騒ぎが起こって、 そろそろ、 ま、いっか、って気にならないかな? そんないつまでも怒るもんかな? もちろん、 俺がこれを書いてるのは、 各種世論調査で 岸田政権の支持率が 軒並み過去最低を更新したってこともあるし、 岸田『内閣』の支持率だから、 旧統一教会がらみの 癒着が まだ 全部暴かれてないってのもあるだろうけど。 それにしても、 もうそろそろよくない? 少なくとも、 安倍の国葬は、 閣議決定で勝手に決めんなってのもあるけど、 そんなこと言ったら、 日米地位協定だって 行政協定で決められてるし、 確かに この国の政治において 国権の最高機関であるはずの 国会がないがしろにされ続けてるし、 それが アホな国会議員を生み出し続けてる 一因でもあると思うけど、 これ以上 死者に鞭打たなくても いいんじゃないか? もう十分 安倍は 世界に恥を晒しただろう。 まるで 不倫スキャンダルを暴露された 清純タレントを 叩くのと同じノリで、 いつまでも 安倍をディスったところで、 国益にはならんと思うがな。 二階さんが言うように、 とりあえず 黙ってあの世に送ってやればいいじゃん。 最近の傾向として感じるのは、 「正義か悪か」の 二元論で考えすぎじゃね? 正義だと思えば100%服従する、 悪だと断じれば、 骨の髄まで叩く。 これって、もうただの イジメだと思うんだけど。 ツイッターってのは、 えてして エコーチェンバーになりやすい。 ハッシュタグつけて、 バズれば、 そこに乗っかるだけで、 自分は 正しい側にいるかのように思える。 その、 隠蔽された 「正義=マジョリティー」 の図式が、 濁流となって一方向に暴力的に 流れる様は、 ちょっと 社会現象的にヤバい。 もちろん、 反体制のツールとして 重要な役割を演じることもあるが。 こういう、 世間総出で 誰かを叩く、 という使い方をすると、 そのうち とんでもないことになる危険性がある。 ...

人間にとって貧困とは何か (放送大学放送授業)

めちゃくちゃ面白いね。 まだ第一回の授業を聴いただけだけど。 自分は、金銭的には 貧困とは無縁の暮しをしているけれども、 もしかしたら 精神的には「貧困」な暮しを していた、あるいはしている、 のかも知れない。 社会と産業コース 人間と文化コース を卒業して、 消去法で 生活と福祉コース に再入学したけど、 はっきり言って、 生活と福祉コースをナメてた。 とてつもなく 大きな 未開拓地が広がっている。 特別な前提知識を必要とすることなく、 貧困のみならず、 公衆衛生や社会保障論など、 幅広い分野の知見を得られるようだ。 いやー 放送大学すげーな。 「地元最高!」 という漫画も、 地元最高、といいながら、 それは貧困の裏返しでもあり、 相互扶助、連帯、という、 一見聞こえの良い ワードが、 実は 束縛であり、不自由であり、さらには、 「呪縛」 でもある、という 極めて 現代的なテーマを如実に顕している。 https://www.youtube.com/watch?v=V6Dfo4zDduI

アンチ・オイディプス

確かに、 仲正先生が書いているように、 核家族で育った 子供っていうのは、 知らず知らずのうちに、 親の生き方を模倣してるようなところはあるかもね。 ブルジョワの子供はブルジョワ的な ライフスタイルを生きる感覚に囚われて成長するし、 もっと バクチな生き方をする親の子供は、 やっぱり 山っ気のある生き方を選びがちだろう。 それは、 あたかも鮭が生まれた川に遡上するように、 人間が進化の過程で 身につけたものかも知れない。 もちろん、 親の生き方を反面教師として、 アンチ親的な生き方をすることは あり得るが、 それも、ある意味では 親の生き方に 囚われている、と言えるだろう。 やはり、 人間の発想というのは、 何かしら ロールモデルを必要とし、 その呪縛から 完全に 逃れることは出来ないのだろう。 資本主義と家族、というテーマで言えば、 そうやって 親の生き方に囚われていることが、 「去勢」 なのだろう。

ビミョー

社会勉強だと思って、 「地元最高!」 て漫画を キンドルで 買ったんだけど、 絵がボケてて 読みにくい。 それ以前に、 絵が素人に毛が生えたレベル。 (知ってて買った俺が悪い。) これも ツイッター発らしいんだが、 ちゃんと 読めば面白いのかも知んないけど、 こんなもんが 1000円超える 値段で 売られていることが 理解しがたい。 麻布競馬場にしても。 なんか、 ツイッターで話題になったもんを、 スマホのニュースに流して、 買わせようとしてない? ちょっと 安易すぎるなー。 こんな商売やってると、 日本で手に入るものの クオリティーが どんどん 低下してくと 思うんだけど。

素晴らしい!!!

放送大学の 民法の授業で、 慶応大学法学部の 武川幸嗣先生の 講義を聞いて、 なんとなく 民法の 概観が掴めて来たところで、 ステップアップしたいなと思い、 アマゾンで 武川先生の本を検索して、 「プラスアルファ 基本民法」(日本評論社) をKindleで購入して 読み始めましたが、 素晴らしい内容です。 Kindleなので 全体の分量がよく分かりませんが、 基本の基本が出来たところで、 一歩ステップアップしたい 初心者にとっては、 願ってもない 素晴らしい内容です。 これで3000円を切るのがまた素晴らしい! 中央大学法学部の通信教育を5年やって 英語以外の単位が ひとつも取れなかった自分でも、 民法が わかる 気がして来ました。 まさに、 Where there is a will, there is a way. ですね。 それにしても、 俺ほんとに スローラーナーだな。 何を勉強するにも、 ほんとに 時間と手間がかかる。

はぁ?ぱーどぅん?

積極財政で、 安倍の後継者を 自認したいんだろうが、 額ありきで ブチあげられてもね。 誰もついてこないよ。 萩生田はしばらく引っ込んでろ。 https://news.yahoo.co.jp/articles/3f0723c21380e6af13c5b7dda0e89c1819053402/comments

すげーなー

母親と自分の 介護保険と傷害保険で ヘルパーさん 来てくれるけど、 よーまー 他人のために ここまで やってくれるよなー。 どっから そのモチベーションが湧いてくるのか。

危機の二十年 岩波文庫 (再掲)

「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」 E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より

為替介入と開放経済のトリレンマ

開放経済のトリレンマは、 経済的小国を前提にしている。 今まで 日本が 自律的な金融政策と、 資本移動の自由と、 安定的な為替レートの維持、 という 本来同時には達成しえないはずの トリレンマを達成出来ていたのは、 取りも直さず 経済大国だったから。 それが、 いま為替介入に踏み切ろうとしているのは、 もはや 日本が経済大国 ではなくなった、という証拠。 たとえば、 アメリカが仮に 財政赤字と経常赤字の 双子の赤字 でも 潰れないのは、 海外からの資本を必要としても、 結局ドルで決済されるから。 これが いわゆる基軸通貨国の特権。 日本も似たようなもんだったけど、 あまりに 円の実力が弱くなりすぎて、 もはや 国際取引(貿易決済など)での 円の需要そのものが低下している。 つまり、 以前のように 円でドルを調達できない。 言い換えれば、 外貨を調達する実力が著しく低下している。 まさに、「衰退途上国」。 通貨の実力が弱い 発展途上国が往々にしてそうであるように、 通貨の実力が弱い国は、 外国資本を呼び込むために、 金利が高くなる傾向が強い。 日本みたいに、 通貨の実力が弱くなり続けている国が、 無理矢理 長期金利を低く抑え込む政策(イールドカーブ・コントロール) を続けていれば、 いつかは爆発するのは 当たり前。 自業自得。 https://news.tv-asahi.co.jp/news_economy/articles/000254626.html

危険な政治家だった、安倍晋三(再掲)

https://bunshun.jp/articles/-/57150 https://news.yahoo.co.jp/articles/bb67c8dcf9f9cb44e5beb634a5bae2f680b622c5 台湾有事をテコにして 総理3選を目指してたのか。 恐ろしい野郎だな。 完全に独裁者の発想じゃねーか。 そら、 台湾有事は 中国の一存だから論理がおかしい、 と言われそうだが、 日本が ”ファイティングポーズ” を取ること自体が、 中国に対するメッセージに なる、ということを考えれば、 安倍が生きていたら、 ほんとに大変なことになっていたかも知れない。 最近、中国の景気減速もあってか、 中国脅威論が少し弱くなった気がするが、 中国の軍事行動なんて、 ほとんど政府が情報握ってんだから、 マスコミが騒ぐも騒がないも、 政府次第って側面はあるだろう。 それに、 国内の景気が振るわずに、 人々のマインドが沈んでいる時ほど、 為政者は 対外強硬路線に走るのは、 歴史の法則と言っても過言ではない。 それは、 カール・シュミットの友/敵 理論によれば、 公敵を設定することで、 国家の本質が明らかになり、 人びとが一致団結するからだ。 為政者がそういう状態を望むのは当然のことだ。 奇しくも、 英国のエリザベス女王が逝去されたところ、 欧米各国首脳の対応が 安倍の国葬に対する対応と、 どのような対比を浮き彫りにするのか、 注目せざるを得ない。 それによって 世論がどう動くかも 目が離せない。 ほとんど予測不能だろうが、 岸田政権に ポジティブに働くシナリオは 想像しづらい。

おまけ(再掲)

現代のグローバル資本主義の構造的問題は、世界的なカネ余り状態である。まず、1960年代に、企業の海外進出に伴い、銀行が国際展開を急激に拡大したことにより、どこからも規制を受けない「ユーロ市場」が登場した。次に、1970年代に、オイル・ショックによるオイルマネーの流入と金融技術革新により、米国の銀行による「ユーロ・バンキング」が活発化する。 変動相場制への移行により、銀行はアセット・ライアビリティ・マネジメント(ALM)を導入。これは、ドル建ての資産とドル建ての負債を同額保有することにより為替リスクを相殺する方法である。たとえば、ドル建て資産を1万ドル保有していた場合、円高ドル安になれば資産は減価し、円安ドル高になれば資産は増価する。逆に、ドル建て負債を1万ドル保有していた場合、円高ドル安になれば負債は減価し、円安ドル高になれば負債は増価する。こうして為替リスクを相殺する。1970年代のオイルマネーの増大と、インフラ投資額の高騰により、特定の一つだけの銀行だけでは融資の実行が困難になり、シンジケート・ローンが発展した。シンジケート・ローンとは、幹事引受銀行がローンを組成し、参加銀行に分売することで、複数の銀行による信用リスクの分散化を図るものである。しかし、シンジケート・ローンにより、信用リスクは分散したが、信用リスクそのものが低下したわけではない。この後の資産の証券化の流れのなかで、ALMの発展によりリスク管理手段が多様化し、デリバティブが登場し、急速に拡大した。

旬報社(再掲)

1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。 大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。 しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。 そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。 また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。 1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より つまり、日本の内需の縮小と労働市場の貧困化は、企業の海外進出と表裏一体であり、その見返りとしての、海外からの利子・配当などの、いわゆる第一次所得収支の恩恵として現れる。 https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX

「現代の国際政治」第5回 まとめ (再掲)

あ〜あ、思い出せるだけ〜思い出して、あそびたぁぁぁぁい! てなわけで、 放送大学「現代の国際政治」第5回の放送授業内容を、出来る限り思い出しながら、要点をまとめてみたいと思います。 まず、第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた...

アドルノはまだ生きている(再掲)

グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。 そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 「それだ...

丸山眞男(再掲)

丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。 しかしながら天皇制が近代日本の思想的「機軸」として負った役割は単にいわゆる國體観念の教化と浸透という面に尽くされるのではない。それは政治構造としても、また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。(・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、それが制度自体と制度にたいする人々の考え方をどのように規定しているか、という、いわば日本国家の認識論的構造にある。 これに関し、仲正昌樹は「日本の思想講義」(作品社)において、つぎのように述べている。 「國體」が融通無碍だという言い方をすると、観念的なもののように聞こえるが、そうではなく、その観念に対応するように、「経済・交通・教育・文化」の各領域における「制度」も徐々に形成されていった。「國體」観念をはっきり教義化しないので、制度との対応関係も最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、目に見える効果をあげるようになった。ということだ。 後期のフーコー(1926-84)に、「統治性」という概念がある。統治のための機構や制度が、人々に具体的行動を取るよう指示したり、禁止したりするだけでなく、そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、それを当たり前のことにしていく作用を意味する。人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用)

天皇機関説(再掲)

昭和史発掘第4巻の天皇機関説事件のところ読んでるけど、めちゃくちゃ面白い! 単なる学者どうしの争いとかいう次元の話じゃなかったんだ! 論理自体は美濃部が一分の隙もないほど勝ってるのに、美濃部の理論が邪魔くさい政治家、実業界が、力ずくで、美濃部を排撃する。 現実の世界は、正しい理屈が勝つってもんでもないんだな。

現代の天皇機関説事件(再掲)

矢野財務事務次官の言ってることを、全部読んだわけじゃないが、極めて当たり前のことを言っただけなんだろう。 昭和の天皇機関説も、美濃部達吉が言ってることは、理論的に何一つ間違った点はなかったのに、戦争したくてしょうがない政財界の連中が、むりやり天皇崇拝学説に軍配を上げて、捻じ曲げた。そもそも昭和天皇ご自身が、天皇機関説で問題ないとおっしゃっていたのに。 翻って、現代は、財務官僚が当たり前のことを言っただけで、政界のみならず、国民が、都合が悪い事実は耳に入れず、MMTだの種々の屁理屈を信じて、現実から目をそむけている。 こんな国の行く末がどうなるかは、昭和の時代と大して変わらないだろう。

どーしょもなくつまんない

暇だから 麻布競馬場の 第2話 頑張って 読んでみようと 思ったけど、 耐え難いレベルで つまんなかった。 中途半端に下ネタ 散りばめてるけど、 下ネタの過激さでは、 ミシェル・ウェルベックのほうが 遥かに上なのに、 (ウェルベックの場合、これ、まともな出版社でこんなこと書いていいのか?というレベル) なぜか 麻布競馬場は ウェルベックと比べて 深みが全然ない。 そもそも、 比べること自体がおかしいんだが。 とにかくつまんなかった。

自民党は嘘つき政党

保守だの なんだの 自称しながら、 日本の富を 韓国に 横流ししてた。 自分たちが 選挙に 受かりたいから。 これが 自民党の 正体じゃないか。 親玉である安倍からしてが、 反朝鮮半島の頭目 を自認しながら、 裏では 統一教会と 三代にわたって ズブズブ。 一度 解党的出直しを したほうがいいね。 国葬も、 いまさら止められないだろうけど、 やったらやったで、 国民の反感 買うだけだよ。

主権者は国民なんだよ!裁判所じゃねえ。勘違いすんな!

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE128EF0S2A910C2000000/ 安倍の国葬 撤回の訴えを、 東京地裁まで 門前払いしやがった。 この国の司法はなんなんだ? 国民ナメてんだろ? やられっぱなしでいいのか?! ちなみに、 ドイツの裁判官ってのは、 転勤しないらしい。 日本の場合は 転勤するのが慣例になっているが。 ドイツの場合は、 裁判官が 地域住民から信頼されているから、 転勤する必要がないからだとか。 翻って日本は・・・

権力の腐敗ってこわいわ

https://bunshun.jp/articles/-/57255 誰かが逮捕されるもされないも、 政治家の一存なのね。 俺はお人好しだった。 まさか、 司直まで 権力者に操られていたとは。 この国は腐っている。 道理で、 安倍が死んだと思ったら、 オリンピック関連の 汚職が急に 表沙汰になるのは不思議だと思ってたよ。 なんでこんなヤツのために国葬なんかしないといけないんだろう? そら、 黒川の案件で ツイッターデモが起きるのも頷ける。

フィッシャー効果(再掲)ー実質金利とはなにか

物価上昇の予想が金利を上昇させるという効果で、フィッシャーが最初にそれを指摘したところからフィッシャー効果と呼ばれる。 ある率で物価の上昇が予想されるようになると、貸手が貸金に生じる購買力目減りの補償を求める結果として、資金貸借で成立する名目金利は物価上昇の予想がなかったときの金利(=実質金利)より、その予想物価上昇率分だけ高まる。(以下略) 有斐閣経済辞典第5版 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html

なぜインフレが必要なのか?(再掲)

Q:名目金利が年8%でインフレ率(CPI)が年5%のとき、実質金利は3%か? ex. 100円の債券投資→1年後:108円 100円の消費財の組み合わせ→1年後:105円 のとき 1年後の108円の購買力=108/105=1.02857 (この投資の収益率:2.857%) ☆実質金利と名目金利、インフレ率(CPI)の関係 1+実質金利=(1+名目金利)/(1+インフレ率) ex.参照せよ 式変形して、すなわち ★実質金利=(名目金利-インフレ率)/(1+インフレ率) つまり、デフレはマイナスのインフレ率なので、実質金利を上げてしまう。 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html

貨幣数量説(再掲)ーなぜ貨幣供給量を増やすと物価が上がるのか?

完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は古典派経済学の発想なので、完全雇用は常に達成されていると想定されているので、物価は貨幣量と貨幣の流通速度で決まる。 従って、貨幣量を増加させれば、物価は上がる。 「貨幣の所得流通速度が一定不変で,かつ伸縮的な価格メカニズムの作用により実質産出量(実質国民所得)の水準が長期の均衡値に一致するならば,貨幣数量の変化は国民所得の大きさや構成にはなんら影響を与えず,ただ物価水準を比例的に変化させると主張する説。」有斐閣経済辞典第4版

当てはまりにくい「貨幣数量説」ーいつぞやの日経切り抜きより 大阪大学教授 敦賀貴之先生

経済活動の量が変わらなければ、 貨幣量を増加させれば 物価だけが増えると予測できます。 つまり、経済に流通する貨幣量を 機械的に増やすと、 増えた貨幣はそのまま 経済に流通し、 経済取引の総額が増えます。 しかし、 経済にお金が回っても 需要が高まるだけで、 供給は増えず、 貨幣量と同じスピードで 物価だけが上昇します。 このように、 貨幣の数量で物価が 決まるという考え方が 貨幣数量説です。 日銀は20年近くにわたり、 貨幣量を大幅に増やしましたが、 物価の上昇は期待ほどではありません。 多くの経済学者は、 短期的には 貨幣量の変化は生産量の変化につながると考えます。 さらに データ上は、 流通速度は趨勢的に 低下傾向を示し、 日本ではこの30年で 流通速度が半分に低下しました。 貨幣量が増えれば 物価は上がるという 単純な理屈は 当てはまりにくいのです。

シュレーバー控訴院長は尻の中に太陽光線をきらめかせる。これは太陽肛門である。

《슈뢰버 항소원장은 엉덩이 속에 태양광선을 반짝인다》이것은 태양 항문이다. 이 기능하는 것은 확신해도 좋다.슈뢰버 항소원장은 무언가를 느끼고 무언가를 생산하고 이에 대한 이론을 만들 수 있다.뭔가가 생산되다.이 무엇인가는 기계가 가져오는 결과이지 단순한 은유가 아니다.》

平沼翔太サードスタメン

BS1で ソフトバンク対西武 の首位攻防戦 やってるから 見てるけど、 平沼を見たいってのも あるけど、 それ以上に 思ったのは、 西武の先発エンス、 別に 凄い球投げるわけでもないし、 球数も使いまくってんだけど、 なんだかんだ 試合作ってる。 リードはされてるけど。 外国人ピッチャーにしては、 というと偏見かも知れないけど、 打たれ強いっていうか、 打ち込まれても、 へこたれない。 イラついた素振りも見せないし、 すげえ我慢強いなーと思うわ。 流石に2桁勝ってるだけのことはある。 ガイジンがベンチでピリピリしてると、 ベンチもムード悪くなるしね。 球自体は凄くても、 ちょっと打たれると すぐに 乱れる ガラスのハート みたいな ピッチャーもいるからね。 エンス投手は、 観客を魅了するような ピッチングとは 程遠いんだけど、 メンタル強い。 平沼のいいところも見れたし、 良かった。 なんだかんだで 首位攻防に相応しい 接戦になってるし。

これが現実

https://bunshun.jp/articles/-/57242 「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」 E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より

失敗した

Kindleで 麻布競馬場の 本 買ったけど、 つまんなかった。 最初の 話は、 ウェブでアップ されてるやつだったから 飛ばしたけど、 2話目は、 最初の2、3ページで もう なんかツマンナイ。 中高と女子学院で、 塾でオトコ作るのはダサい、 そもそも、モテることに価値を置くことがダサい、 という校風で育ったとか言いながら、 東大落ちて 慶応入ったら さっそく オトコつくってるし、 ヤッてるし。 しかも、 明らかに手慣れてる。 そこでもう なんか リアリティーを感じられなくなった。 40でどーてーの俺からすれば、 なんか、 大学生になったら ヤルのが当たり前っていう 空気感が もうキモい。 それがそもそも 固定観念としか思えない。 そういう、 もろもろの固定観念に囚われてるくせに、 その固定観念から抜け出そうとして、 抜け出せないことに 半ば 絶望してるっていうのが、 ショボい。 口ほどにもねえ。

資本主義と家族(再掲)

家族が、資本主義化された社会野全体の部分集合になっていて、社会的な諸人物のイメージが「父―母―子」の三角形に還元される、ということですね。「還元(縮小)される se rabattre」という所がミソです。資本主義社会全体が三者関係によって表象されるわけではなく、その一部だけが家族の中で二次的表象を作り出すわけです。家族は、資本主義機械によって植民地化されているわけで、「父」や「母」は資本主義機械の一部を代理して、「私」を躾け、飼いならすわけです。  「父―母」を「消費する consommer」というのは、家族の中で父や母によって子供としての私の欲望が充足される、ということでしょう。恐らく、社会機械と繋がっている人間の欲望の発展の方向性は元来かなり多様なはずなのだけど、核家族の中で育てられると、それはかなり限定的なものになっていく、ということでしょう。小さい私はもっぱらパパやママから与えられるものを消費する受動的な存在にすぎません。大人になって、「社長―指導者―神父・・・」等の職に就いたら、消費するだけでなくて、自らも生産活動に携わるようになるので、社会体に対して能動的に働きかけ、自己の欲望の回路を拡大できるようになるかと言えば、そうはいかない。子供の時に教えられたように消費しようとする。それが、エディプス三角形の中での「去勢」でしょう。 ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義 p.300~301 作品社 仲正昌樹

ボードレール 「フーコー・コレクション6」ちくま学芸文庫 より

ボードレールにとって、現代的な人間とは、自己自身の発見、自らの秘密および自らの隠された真理の発見へと向かう人間ではない。 現代的な人間とは、自分自身を自ら創出する人間のことなのだ。 現代性は、「人間をその固有の存在へと解き放つことはない」。 現代性は、人間を、自分自身を作り上げるという使命に縛り付けるのである。 (379ページ) (中略) <現在>のこうしたアイロニカルな英雄化、現実的なものを 変容させるために現実的なものと取り結ぶ自由の戯れ、 自己の禁欲的な練り上げ、 ボードレールはそれらが社会自体のなかで、 あるいは政治体のなかで 成立しうる、 とは考えていない。 それは、他の場所でしか起こりえないのであり、 その場所こそ、 ボードレールが 芸術と呼ぶものなのである。 (380ページ)

麻布競馬場「3年4組のみんなへ」を読んだ感想ーーー「戦後社会」の彼方へ

愛という感情が日本の歴史上にも古くから存在していたことは、源氏物語にも書かれていることで、わかる。 しかし、日本の宗教観念には、愛を裏打ちするものがない。 曾根崎心中は、男が女郎をカネで身受けしようとするが、心中する、という悲劇である。 物語上で彼らが悲劇的な最期を遂げざるを得ないのは、男が、女郎を身受けすれば、男は商人として大阪から追放される運命にあったからでもある。 貴穀賎金という言葉があるように、江戸時代の日本では、カネは汚いものという観念があった。 見方によっては、曾根崎心中において示されたのは、カネと愛は両立しえない、もし純愛を遂げようとすれば、命を犠牲にせざるを得ない、という当時の観念を表現していたとも言える。 六部殺しの伝承のように、カネには罪に穢されているいる、という感覚もあるだろう。 曾根崎心中は、むしろ、カネという原罪を担保に、愛を成就させようとする文学的効果があると言えるかもしれない。 尾崎豊の歌に「僕が僕であるために」という楽曲があるが、現代日本においては、男は、曾根崎心中の男のように、社会に抗いながらも、純愛を遂げられない。 「僕が僕であるために、勝ち続けなければならない」のに、女に対しては、非自発的に別れを告げなければならない。 夏目漱石の「それから」の代助が百合の香りにむせぶシーンのように、純愛を遂げようとすれば、それは理性を放擲せざるを得ないような、不可能な冒険なのだ。 それは、漱石という作家の文脈では、日本人はイエを存続させるために、純粋な異性愛を犠牲にしなければならない、という明白な義務と、近代の西洋的ラヴという観念が、齟齬をきたしているのである。 「こころ」においては、「先生」は、妻をめぐって、非自発的に友人を殺してしまった、という原罪を設定することで、純粋な異性愛に漸近しようと試みる。 しかし、その試みは、「先生」は、その友人の死という残虐劇を、明治という時代に殉死する、というように、国家への忠誠心にすり替えてしまう。 現代日本という社会においては、愛は成就しないものなのだろうか? 尾崎以降、ありとあらゆる純愛の歌が唄われてきたが、結局むき出しの愛は破綻せざるを得ないことを、社会そのものが証明しているのではないだろうか? 尾崎が愛を謳いながらも、成就できないのは、現代日本社会の特質なのだろうか? その姿は、社会の中での生存場所...

日経新聞文化面(再掲)

三島由紀夫は1970年11月25日に自裁する約4ヶ月前、「果たし得ていない約束」と題する文章を新聞に寄せた。 (中略) (宮台真司氏によれば)「三島が捉えた日本の本質と彼が主張する天皇主義を理解する上でこの文章はとても重要」と考えている。 日本人にとって天皇の存在は必要不可欠であると三島が考えたのは、さもなくば日本社会が空虚なものになるという危機感があったからだ。

拙い論考(再掲)

ところで、現実の問題として、自立した個人から成る世界がすぐに出現するわけではない。他者は、他者を認知する者にとって異質な存在である。これは他者を「差異」であるということが同定された限りにおいてである。差異は同一性の下でしか正当性を持ちえない。同一性に吸収されない差異=他者は、排除される。それを可能にしていたのが、祖先の存在であり、また神であった。たとえ、異なる地位にあって、通常は口を聞くことも、顔を見ることさえ許されなくとも、共通の神を持っているという認識の下に、異なる地位にある者同士が共同体を維持する。地位を与えるのは神であり、それに対してほとんどの者は疑問さえ抱かなかったのである。(p.177~178) (中略) カースト制は、総体として、閉鎖的で完結的な世界を築く。そこでは、ウェーバーが「デミウルギー」と呼んだ、手工業者が村に定住し、無報酬で奉仕する代わりに、土地や収穫の分け前を受け取る制度が敷かれている。このような制度では、商品経済が発達する可能性はほとんどない。したがって、他者としての商人が、共同体内によそものとして現れる可能性は低い。 これに対して、市場論理が浸透した世界では、他者が他者として認知される。それは、複数の世界に属することを可能にする包含の論理によって律せられている世界である。このような世界が可能であるためには、共同体の外部に位置する他者の明確なイメージが築かれる。その推進者となるのが、商人であり、貨幣である。 それでは、なぜ貨幣が推進者となるのか。それは、貨幣を通じて、共同体の外部に存在するモノを手に入れ、みずから生産するモノを売却することが可能になるからである。共同体の外部が忌避すべき闇の空間でしかない状態から、共同体の内と外に明確な境界が引かれ、ある特定の共同体に属しながらも、その外部にも同時に存在することを可能にするのが、貨幣なのである。他者が、貨幣と交換可能なモノ、つまり商品を売買したいという希望を掲げていれば、それによって他者のイメージは固定され、他者の不透明性を払拭できる。こうして、貨幣は、共同体外部への関心を誘発していく。そして、カースト制のような閉鎖的な社会とは大きく異なり、ふたつの異なる世界において、同一性を築こうとするのである。 もちろん、誰もが商人になるこのような世界がすぐに出現するわけではない。そのためには、まず貨幣...

国土論(再掲)

「敗戦にいたるまで国土に固有の曲率を与えていたのは天皇の存在であった。だが、天皇が『われ 神にあらず』と表明したときから、天皇の像は国土に曲率を与える重力の中心からゆっくりと落下していく。重い力は天皇から無言の死者たちに移動する。聖なるものはむしろ死者たちであり、天皇もこの死者たちの前に額ずかねばならない。この死者たちはその痛ましいまなざしによってしか力をもたないとしてもである。それゆえ戦後社会が天皇とともに超越的なものを失ってしまったというのは正しくない。そこには報われぬ死者たちというひそかな超越があり、天皇は皇祖神を祀るだけでなく、この無名の超越者を慰霊する司祭として、ゆるやかな超越性を帯びるからである。」137ページ 国土論 内田隆三 筑摩書房

ご回答(再掲)

一つの簡単な答えは、ヘーゲル的な意味での統治は不可能だということです。その代替案は複数ありえますし、フーコーはその一つでしょう(ただし、「知と権力」の共犯関係がいかなる統治を具体化するのかは、わたしには理解しがたい難しさがあるように思えます)。  最もわかりやすい代替案が新自由主義の統治だといえます。もしもこれを拒絶するとすれば、問題は、何らかの形でのヘーゲル的な統治への回帰か、神無き時代の連帯の可能性の追求となります。現代のリベラルな政治理論はだいたい後者のさまざまなバリエーションですが、密かに神が導入されている可能性があるのものが多いので、フーコーのような議論が流行るのだと思われます。  鴎外については、わたしにはコメントする能力はありません。ただ、そのような苦悩があるとすれば、それは鴎外がいかにヨーロッパ(ドイツ)文明に拘束されていたのかを示すことになるでしょう。ただし、そのような苦悩をまったく抱かない(ないしは、そのような苦悩の可能性に思い至らない)日本人よりは、はるかにましな精神性をもっていると思いますが。  明治日本は、ある意味では、神無しでヘーゲル的な全体性を国家は維持できるのか、という問いをいち早く突きつけられていたともいえます。この問いへの回答の一つは、現在でも、「新たな神の創造」ですが、そのような回答が、必然的に政治的に悲惨なものになることは、我々が歴史から学んだことだといえます。キリスト教文化圏では、たとえ神が死んだ時代でも、この危険性がよく知られていますが、はたして日本ではどうでしょうか。考えてみてください。

青空文庫ー「かのように」 森鴎外

かのように 森鴎外  朝小間使の雪が火鉢ひばちに火を入れに来た時、奥さんが不安らしい顔をして、「秀麿ひでまろの部屋にはゆうべも又電気が附いていたね」と云った。 「おや。さようでございましたか。先さっき瓦斯煖炉ガスだんろに火を附けにまいりました時は、明りはお消しになって、お床の中で煙草たばこを召し上がっていらっしゃいました。」  雪はこの返事をしながら、戸を開けて自分が這入はいった時、大きい葉巻の火が、暗い部屋の、しんとしている中で、ぼうっと明るくなっては、又微かすかになっていた事を思い出して、折々あることではあるが、今朝もはっと思って、「おや」と口に出そうであったのを呑のみ込んだ、その瞬間の事を思い浮べていた。 「そうかい」と云って、奥さんは雪が火を活いけて、大きい枠わく火鉢の中の、真っ白い灰を綺麗きれいに、盛り上げたようにして置いて、起たって行くのを、やはり不安な顔をして、見送っていた。邸やしきでは瓦斯が勝手にまで使ってあるのに、奥さんは逆上のぼせると云って、炭火に当っているのである。  電燈は邸やしきではどの寝間にも夜どおし附いている。しかし秀麿は寝る時必ず消して寝る習慣を持っているので、それが附いていれば、又徹夜して本を読んでいたと云うことが分かる。それで奥さんは手水ちょうずに起きる度たびに、廊下から見て、秀麿のいる洋室の窓の隙すきから、火の光の漏れるのを気にしているのである。      ――――――――――――――――  秀麿は学習院から文科大学に這入って、歴史科で立派に卒業した。卒業論文には、国史は自分が畢生ひっせいの事業として研究する積りでいるのだから、苛いやしくも筆を著つけたくないと云って、古代印度インド史の中から、「迦膩色迦王かにしかおうと仏典結集ぶってんけつじゅう」と云う題を選んだ。これは阿輸迦王あそかおうの事はこれまで問題になっていて、この王の事がまだ研究してなかったからである。しかしこれまで特別にそう云う方面の研究をしていたのでないから、秀麿は一歩一歩非常な困難に撞著どうちゃくして、どうしてもこれはサンスクリットをまるで知らないでは、正確な判断は下されないと考えて、急に高楠博士たかくすはくしの所へ駈かけ附けて、梵語ぼんご研究の手ほどきをして貰った。しかしこう云う学問はなかなか急拵きゅうごしらえに出来る筈はずのものでないから、少しずつ分...

アーレントとカール・シュミット(再掲)

アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。

セブンイレブンで売ってるコーヒー

結論から言えば、 タリーズの缶コーヒーが 一番まとも。 美味しいではなく、まとも というところが微妙だけど、 セブンイレブンの紙パックの プライベートブランドのコーヒーとかも 飲んだけど、 ちょっと カフェインがエグい。 他のメーカーのも 似たり寄ったり。 味は悪くなくても、 カフェインがエグい。 その点から見ると、 タリーズの缶コーヒーは それほど 美味いとも思わないし、 若干高いけど、 カフェインがエグくない。 やっぱり値段が張るだけのことはある。 まえは、 COSTAの無糖ブラック売ってたけど、 なぜか消えた。 アマゾンで買おうかと思ったけど、 あまりに 高くてやめた。 おーいお茶ならまだ買えるが、 コーヒーは 総じて 割高感が否めない。

愚かな

黒田総裁は 来年4月の任期満了まで 持たないだろうね。 このまま 円安が加速すれば、 中小企業が 潰れ始めて、 世論が黙ってない。 海外勢も 国債の先物売りを強めてるらしいし、 それを 指し値オペで 抑え続けるのも、 限界がある。 1年かそこらのうちに、 日本経済はとんでもない危機に 見舞われる可能性がある。 https://news.yahoo.co.jp/articles/e5b3dd429883e2ae4a6042bb7f5c25e513e98b03?page=2

クグプチャ プルロッソヨ。

ちょっとこの二ヶ月ばかり 根を詰めすぎたせいか、 頭がクラクラして、 両親ともに 脳疾患を患ってるから、 一応救急車を呼んで、 MRI撮ってもらいました。 どこも異常がなく、 ホッと安堵。 高崎は 医療が充実していて、助かる。 医者も、 神経だろうと仰ってました。

カール・シュミットの政治理論(再掲)

人間は人間を赦し得る、と言いながら、カール・シュミットの友・敵理論を紹介するのは矛盾するように見えるけど、山岡先生が強調するのは、カール・シュミットにおいては、結合の強度の問題で、それは敵の存在によって強くはなるものの、問題はどこまでも(結合の)強度の問題で、敵のことを嫌いだとか好きだとか、経済的な利害関係の問題ではない、と仰っていました。 それどころか、カール・シュミットは、私仇と公敵を区別し、公敵は尊敬さえもしなければならない、と論じているそうです。 その含意は、世界から完全に敵対関係が無くなることはあり得ない、むしろ、無理に無くそうとすれば、新たな暴力を生む、ということでした。

カール・シュミットと「例外状態」(再掲)

カール・シュミットは、かなりラディカルな理論家で、ワイマール共和国に対する痛烈な批判という形で理論を構築したんだけど、現代の日本人が想像するような「政治」というのは、政治ではないと論じる。 端的に、戦争という「例外状態」において、民主主義の本質が現れる、と論じた。 と、まあ後はマカマサ先生の本でも読んでいただくとして、でも、原理的にそういう側面は確かにあるよね、と思いつつ、現実の政治は多元的な政治団体の利害調整の場だったり、まずは当選しないことには話にならない政治家としての宿命が産み出した利権構造だったりってのも、無視できないよね、てのはある。 ただ、国家と社会が互いに浸透しあって、国家の本質が見えずらくなってるのも、現代日本社会の特質とも言えるだろう。 そういう時に、カール・シュミットの、友・敵理論、つまり、政治的(あるいは文化的)多元主義なんていう生ぬるい観念はかなぐり棄てて、国家が生きるか死ぬかのある種の限界状態においてこそ、国家、あるいは民主主義の本質が現れる、という理屈は、閉塞感ただよう現代日本において、響くものがある。

経済教室ー歴史に学ぶ(再掲)

8月5日のデール・コープランド、バージニア大学教授の寄稿と、今日8月15日の牧野邦昭慶応大学教授の寄稿をざっくりまとめてみると、現在の中国は、貿易依存度が高いという点で、1930年代の日本に似ており、下手に貿易面での過度の制裁を加えると、戦前の日本のように暴走する可能性があるので、中国を追い詰めすぎるのは得策ではないこと、中国が台湾侵攻を自重しているのは、もしそれをすればアメリカを中心とした経済圏から締め付けを喰らうことを意識しているからだ、とのこと。 寄稿とは別の話だけど、アメリカからすれば、日本と韓国が協働して対中国で結束してくれないと困るって発想だったらしいけど、どうも無理っぽいよね。 最近のアメリカの台湾への接近を見ると、もう、日韓はアテにしてらんねーってことなんかな?

あぶないあぶない

https://bunshun.jp/articles/-/57150 https://news.yahoo.co.jp/articles/bb67c8dcf9f9cb44e5beb634a5bae2f680b622c5 台湾有事をテコにして 総理3選を目指してたのか。 恐ろしい野郎だな。 完全に独裁者の発想じゃねーか。 そら、 台湾有事は 中国の一存だから論理がおかしい、 と言われそうだが、 日本が ”ファイティングポーズ” を取ること自体が、 中国に対するメッセージに なる、ということを考えれば、 安倍が生きていたら、 ほんとに大変なことになっていたかも知れない。 最近、中国の景気減速もあってか、 中国脅威論が少し弱くなった気がするが、 中国の軍事行動なんて、 ほとんど政府が情報握ってんだから、 マスコミが騒ぐも騒がないも、 政府次第って側面はあるだろう。 それに、 国内の景気が振るわずに、 人々のマインドが沈んでいる時ほど、 為政者は 対外強硬路線に走るのは、 歴史の法則と言っても過言ではない。 それは、 カール・シュミットの友/敵 理論によれば、 公敵を設定することで、 国家の本質が明らかになり、 人びとが一致団結するからだ。 為政者がそういう状態を望むのは当然のことだ。 奇しくも、 英国のエリザベス女王が逝去されたところ、 欧米各国首脳の対応が 安倍の国葬に対する対応と、 どのような対比を浮き彫りにするのか、 注目せざるを得ない。 それによって 世論がどう動くかも 目が離せない。 ほとんど予測不能だろうが、 岸田政権に ポジティブに働くシナリオは 想像しづらい。

期待しとるでー

https://www.joqr.co.jp/qr/article/64480/ 辻「きのうは呉念庭がやりましたけど、平沼も(一軍に)来てね。平沼も下に落ちるまでは非常に活躍していて。それから足を痛めましたけど、成長してきているのでね。楽しみにしています、状況に応じての起用ではありますけど」

ちょっと待て。

確かに、自分の今の暮らし様 を見れば、 いいわね、王侯貴族のような生活してて、 と言いたくなるのはわかる。 だが、 結論から言えば、 人間そんな簡単に 精神病んだりしねえよ。 しかも 障害年金もらえるレベルで。 人生の大半を どれだけ ヘドロまみれの ぐっちゃぐちゃで ドロドロした 世界で、 コイが水面をアップアップするようにしながら 生きてきたと思ってんだ。 言いたかないけど。 かといって、 そんなこと強調したって、 みじめでみっともないだけだろ。 だから言わないだけだ。 もう一度言うが、 人間そんな簡単に 精神病んだりしねえ。 ちょっとは想像力を働かせろ。

そこからっすか?!

今日、高崎市の サポートセンターの方に来ていただいて、 必要な書類に サインとハンコしたんだけど、 障害者の就労移行支援事業所なるものを紹介されて、 たまたま近くだったから、 面談が終わってから、 さっそく そこに行って、話をうかがってきたんだけど、 2年が期限で、 基本的にその期間が終了したら、 働くことが大前提らしい。 で、 基本的に 障害者雇用ってことらしい。 まあ、 働くとっかかりを築くのは大事だし、 サポートセンターの方は そういう支援をするのが仕事だから、 文句を言うつもりはないんだが、 正直、 ここまで頑張って、 そっからっすか?! という感は拭えない。 また1から振り出しは 正直シンドイ。

経常収支よもやま話(再掲)

ただでさえ安い円が、さらに安くなる可能性があるとのこと。 日本の経常収支は、かつては貿易黒字と第一次所得収支の黒字が双璧だったが、いまは第一次所得収支のみが頼り。 しかも、その第一次所得収支も、海外展開した企業が利子や配当として得た資金(ドルなど)は、統計上円に換算されるため、一見日本に富が還元されているように見えるが、実際には円には替えず、外貨で保有したままなので、実需の円買いにはならないため、円安是正には寄与しない。 しかも、海外展開した企業は、海外で得た資金を、日本には還流せず、再び海外市場へ投入するため、実需の円買いには繋がらない。 統計上は、第一次所得収支は経常収支に計上されるってことになってるけど、実質民間の貯蓄になってないなら、日本政府の赤字は、どうやってファイナンスしてるんだろう? 経常収支が黒字であればこそ、政府の赤字を国内の資金で補えるが、それが見かけだけのものならば、理屈でいえば海外からの資金に国債発行の原資をアテにしなければならないはず。 財政赤字に加え、経常収支まで赤字になったら、海外からの資金を呼び込むために、金利を上げる必要があるはずだが。 国際収支統計では、経常収支、資本収支、外貨準備増減の和はゼロとなるため、外貨準備増減を捨象して考えれば、経常収支が赤字となると資本収支が黒字となる。これは、 経常収支が赤字の状況では、財政や民間投資等の資金需要を確保するためには、海外からの資金が流入超過になることを意味している。 民間部門の貯蓄の黒字幅が縮小する一方、政府部門の赤字幅は縮小しない場合、その赤字のファイナンスを海外の資金に頼る必要が出てくるということである。 (リンクの内閣府のペーパーより) https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html

円安は是か非か(再掲)

質問:2022年6月28日付け日経新聞朝刊に、 「家計資産、脱『預金』の兆し」と題して、 末尾に、 「いくら運用手段を充実させても、 企業の競争力が海外より劣っていれば家計の資金が海外に逃避する『キャピタルフライト』を招いて国力低下につながる。 (以下略)」 としてありましたが、 このような家計部門の海外への移転は、 経常収支の統計上どのように現れるのでしょうか? 回答:国連にあわせて、2014年に国際収支関連統計の大幅改訂がありましたので、統計上の扱いが大きく変わりました。 それ以前は、海外の国債や株式を買うと、日本のお金が出ていくから資本収支赤字とされ、お金が逃げていく「キャピタルフライト」のイメージでした。 でも、海外の国債や株式を買うのは、今後利子配当が期待できる金融資産が増えたことを意味しますので、いまは金融収支で「黒字」とされています。 海外での資産運用は、キャピタルフライトではなく、今後の収入を保証してくれる金融収支黒字要素と扱われています。 成長する海外企業に投資するのは良いことです。 https://news.goo.ne.jp/article/tbs/business/tbs-146609.html https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220908/k10013808631000.html

チャンス到来

https://news.yahoo.co.jp/articles/6662fb60a3b0ad2a23b10d8b80d3223e9df290db 平沼が4番エースとしてセンバツを制したのが 2015年。 俺が放送大学 始めたのも、 確か 2015年。 シーズン終盤の大事な大事な一戦。 光るものを見せて欲しい! 辻監督 ぜったい 平沼好きだから、 チャンスを生かして 来期は 年齢的にも レギュラーを獲得して欲しい!

「先生、どうか皆の前でほめないで下さい。ーいい子症候群の若者たち」東洋経済新報社

金間大介さんという方の本で、 スマホいじってると、 たまに 内容の一部が紹介されたりしていて、 文章がこなれてるし、 暇だったから、 ちょっくら読んでみるか、 てことで、 Kindleで買って 読んでます。 6割読んだ。 学術書とまでは言えないが、 説得力はある。 そうか、要するに、 今どきの若者は、 横並びで居たいのか。 納得。 そら、 いまの若い大学生が 議論なんかするはずねーわな。 SFCに限った話ではない。 そこそこ有益な情報(あるいは見方)を得られたし、 暇つぶしにはなった。 ただ、Kindleでも 1500円近くするのは、 ちょっと高いかな。 ・・・全部読んだ。 文章も軽妙だし、 特に読んでいてつまんない、 ということはなかった。 著者はもともと 理系なので、 データに基づいて分析する のが得意のようで、 その限りでの語り は説得力があるし、 ありがちな 「オジサンのため息感」 とは距離を置いていると言っていい。 しかし、 社会学的に あと1歩2歩 深堀り出来る余地もあるような気がした。 それだったら、 1500円も決して高くないし、 古典として読みつがれるだろう。 とにかく、 総じて内容は 読みやすく、肩もこらず、 暇つぶしには最適の本だった。 補足になるが、 執筆者のことを知らなくても、 出版社で買うかどうか決める ってパターンもあるよね。 今回は、 出版元が 東洋経済新報社ということで、 買う気になった、 と言っても過言ではない。 実際、仮に著者が同じでも、 出版元が違えば、 内容はだいぶ変わってくる。 それは、編集者のクオリティー、あるいは嗜好が変わってくるからだ。

歯科医院

母親の通院の付き添いがてら、 自分も月イチで 歯科医院行くんだけど、 毎回毎回 なんか チクチク いちゃもんつけられると、 ボティーブローのように 神経にこたえるね。 今日は、 舌は 上の口蓋にくっついてるのが 正しい、 俺の舌はずっと垂れ下がっているから、 肥大して上の口蓋のなかに収まらない、 と言われて、 知らねーよそんなん・・・ て感じでした。 なんか 今までの人生をちょっとずつ 否定されてるようで、 だんだん 疲れてくるね。

意味わかんない

安倍ちゃんの国葬が 16億かかるってのも 意味わかんないけど、 (どうせ、後から実はもっとかかってましたってのがオチだろ?) トランプに 買わされた 中古の戦闘機、 1兆円!!!!!! あれ、 どっからカネ出したわけ??? マジ意味わかんないんだけど。 それと、 イバンカにもポーンと 50億ぐらい あげてたよね? ほんと国民から搾り取った 血税をなんだと思ってんの?

旧日本軍といっしょ

2年でベースマネー2倍にして、 期待インフレ率2% を達成させる、 と息巻いた 黒田日銀総裁だったが、 いまや その姿は 勝てないとわかっていながら、 短期決戦で 和平交渉 に持ち込む算段 だった 旧日本軍と重なって見える。 大規模な金融緩和が、 実は 日銀を政府の打ち出の小槌にする政策であることに 漬け込まれて、 漫然と国債発行残高を増嵩させ、 安倍が死んだ後でも、 YCCを止めると宣言することも出来ない 元エリート官僚特有の フニャチンぶり。 これはもう国民性の問題だな。

M・C

元ナントカ坂の 平手さんとやら、 早く中二病なおせ! てめーだけが 正義だと思ってんじゃねえ。 周りが持ち上げてくれるうちはいいが、 トシくって 誰も相手にしてくれないのに、 独りでキレてる オバサンなんか、 どれほど みっともなくて 惨めか、 想像してみろ。 早く中二病なおさないと、 ロクな 人生待ってないぞ。 男は理論武装して、 サークルの マイ・コメヂアンになれるが、 芸能界くずれの コジラセ女は せいぜい 場末のスナックの チーママぐらいにしかなれないぞ。 それが世の中ってもんだ。 M・Cといえば、 マイ・コメヂアンもそうだが、 奇遇にもMr. ChildrenもM・Cだな。 あれは 太宰治も真っ青の ぶっ飛んだ 理論武装をして、 信じがたいほどの信者数を誇る サークル (と、いうか教団)の M・Cだな。 地の塩 世の光 って言葉があるだろ? 社会的アイコンだけが 世の中動かしてるんじゃねえんだよ。 勘違いするな! https://www.youtube.com/watch?v=Gr_X-WccMnc

うぃすきー いん ざ じゃうあー

水割りうめえ。 https://www.youtube.com/watch?v=boanuwUMNNQ

メモ(再掲)ーアーレントとカール・シュミット

アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。

デモクラシーとリベラリズム(再掲)

では、なぜシュミットはナチスの御用学者という隘路に陥ってしまったかというと、民族の同一性にこだわり過ぎたからだと。 同一性を強調するのがデモクラシーだが、差異を重視するのが、リベラリズムだそうです。 政治的、文化的多元主義というのは語義上リベラリズムだが、それは決められない政治にも繋がる。 しかし、少なくとも民主主義社会において決断をするには、国民からの支持が必要だが、それは同一性を強要し、多様な差異を隠蔽することにも繋がる。

カール・シュミットの政治理論(再掲)

人間は人間を赦し得る、と言いながら、カール・シュミットの友・敵理論を紹介するのは矛盾するように見えるけど、山岡先生が強調するのは、カール・シュミットにおいては、結合の強度の問題で、それは敵の存在によって強くはなるものの、問題はどこまでも(結合の)強度の問題で、敵のことを嫌いだとか好きだとか、経済的な利害関係の問題ではない、と仰っていました。 それどころか、カール・シュミットは、私仇と公敵を区別し、公敵は尊敬さえもしなければならない、と論じているそうです。 その含意は、世界から完全に敵対関係が無くなることはあり得ない、むしろ、無理に無くそうとすれば、新たな暴力を生む、ということでした。

カール・シュミットと「例外状態」(再掲)

カール・シュミットは、かなりラディカルな理論家で、ワイマール共和国に対する痛烈な批判という形で理論を構築したんだけど、現代の日本人が想像するような「政治」というのは、政治ではないと論じる。 端的に、戦争という「例外状態」において、民主主義の本質が現れる、と論じた。 と、まあ後はマカマサ先生の本でも読んでいただくとして、でも、原理的にそういう側面は確かにあるよね、と思いつつ、現実の政治は多元的な政治団体の利害調整の場だったり、まずは当選しないことには話にならない政治家としての宿命が産み出した利権構造だったりってのも、無視できないよね、てのはある。 ただ、国家と社会が互いに浸透しあって、国家の本質が見えずらくなってるのも、現代日本社会の特質とも言えるだろう。 そういう時に、カール・シュミットの、友・敵理論、つまり、政治的(あるいは文化的)多元主義なんていう生ぬるい観念はかなぐり棄てて、国家が生きるか死ぬかのある種の限界状態においてこそ、国家、あるいは民主主義の本質が現れる、という理屈は、閉塞感ただよう現代日本において、響くものがある。

アメリカの芸術と文化

一度すべて視聴していたのですが、 「現代の国際政治」を 科目登録するにあたり、 戦後の世界を理解するのに 資するのではないか、 と思い、 あらためて科目登録しました。 いま第一回の授業を視聴しましたが、 狙い通りです。 「現代の国際政治」を すべて視聴したあとで、 この「アメリカの芸術と文化」の 放送授業をあらためて視聴すると、 国際政治学という骨組みに、 文化という面からの 肉付けができるように思います。 いやー、放送大学すばらしい! https://i0.wp.com/jojo-fan.com/wp-content/uploads/2014/04/2b5cdf3db923205e3d064f0fcda5c72a.jpg?ssl=1

大満足

「現代の国際政治」全15回 2日で すべて 視聴しました。 1学期の単位認定試験を 受けて、 あらためて 自分は戦後のことについて 何も知らないな、 と 思って 科目登録したんですが、 すべて 視聴して、 質・量ともに 申し分ない 素晴らしい内容でした。 そうか、こうやって見ればいいのか! と、 気づきがたくさん得られました。 不透明な時代だからこそ、 一人でも 多くの人に この科目を視聴して欲しい、 と思いました。

旬報社(再掲)ーポスト黒田の金融政策

もし、日銀が目的としている2%の物価上昇が実現した場合、国債の発行金利が2%以上になるか、利回りが最低でも2%以上になるまで市場価格が下がります。なぜなら、実質金利(名目利子率-期待インフレ率)がマイナスの(つまり保有していると損をする)金融商品を買う投資家はいないからです。国債(10年物)の利回りは0.1%程度(2018年11月現在)ですが、それが2.1%に上昇した場合、何が起こるでしょうか。政府の国債発行コストが跳ね上がるのはもちろんですが、より重要なことは、国債価格が暴落し、国債を大量に保有している銀行に莫大な評価損が出ることです。 経済の論点 旬報社 72ページより

危機の二十年(再掲)ー安倍なき後の政治経済

「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」 E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より https://news.yahoo.co.jp/articles/905808946c7b77a63d0dbc95aab94d61d613509d?page=1 https://news.yahoo.co.jp/articles/d66f0ad551e89bd3dbfa502f9d0f6c82d12ee28c?page=1