2022年9月30日金曜日

バスケ

ホッと群馬で 八村塁の弟が 群馬のバスケチームに加入した ってニュースやってて、 そういや、 大学でも やりたくもないのに バスケの授業やらされたなーって 思い出したわ。 体育の授業も ネットで予約するんだけど、 野球だのサッカーだのフットサルだの、 自分がやれそうな スポーツは、 だいたい 埋まってんだよね。 意味わかんねーよ。 なんで 体育の授業まで ネットで予約しなくちゃいけねーんだよ。 しかも、 レポートまであったし。 何をどうしたいんだ? バスケは、 サークルで本職のやつらに あーじゃねーこーじゃねー 指図されて、 知らんがな。 と思いつつ 走り回されて、 微塵も面白くなかった。 なんで 体育まで こんな いちいち ストレスを感じなきゃいけないのか。 あそこは オカシイ。 そんなに昔の記事じゃないけど、 ビリギャルの小林さやか氏が 池上さんだったかな?と 対談してたけど、 GDPの話になって、 出た、横文字! とかリアクションしてて、 記事の内容も、 とても 総合政策学部を卒業したとは思えない 薄っぺらなもので、 AOで入ると 成績を厳しくチェックされるはずなのに、 この人は 一体なにを勉強したんだろう? 何より、 経済の知識がこの程度で、 どうして 総合政策学部を卒業できたのか、 不思議で仕方がなかった。 あれは 紙媒体の記事だったら 到底世に出せないレベルの ショボいもんだったね。 あの環境で体育会と両立して プロスポーツ選手になれる人は、 自分からすると 超人としか思えない。 今では信じられない話だけど、 自分が受験した頃の SFCって、 武蔵でも 東大と併願するくらいの ブランド力があった。 もう、 上から目線で 慶応であって慶応ではない、 くらいの レベル。 今じゃ 逆の意味だけど。 武蔵から 悲劇的にも SFC来ちゃった人は、 チャラく適応してる人もいれば、 高校のときの覇気に充ちたオーラが 嘘のように、 ショボーンってしてる人もいた。 自分より一回り上の世代の SFC出身者と言えば、 テレ朝の松尾由美子アナとか、 日テレの藤井貴彦アナとかかな? あとは一青窈さんか。 あー、あとはKABAちゃんもいたね。 あの人達は、 SFCへの期待値が完全にバブル起こしてた頃の卒業生だから、 そらもう もとの頭が とんでもなく優秀よ。 あの世代じゃないけど、 水嶋ヒロもいたな。 あれ、今なんか凄いイケメンいたな。 と思ったけど、 存在感はそんなに感じなかった。 言いたかないけどさ、 措置入院くらって、 実質1年半で また 元の環境に戻るってことが どれほど 凄いことか、もうちょっと評価してくれてもいいんじゃないのか? しかも、 復学して下手に単位取ったから、 辞めるにやめられない っていう この無理ゲー何なんだよ?! 下手に カネがあるとロクなことにならない。 それでも ちゃんと両親の面倒みるって、 我ながらデキた息子だと思うけどね!

You will never walk alone.

最近、 爆笑問題の 太田光が 尖った 発言してるけど、 応援するわ。 心から。 あんな デカイ口利きながら、 内心どれだけの 恐怖感と闘っているか、 僭越ながら 共感するよ。 大学のときの俺が あんな感じだった。 これも僭越ながら、だけど。 世の中の 紳士淑女ぶった サディストどものために、 命を絶つようなことだけはしないで欲しい。 それと、どんなに絶望しても、 お前が見てる世界がすべてじゃないってことも、 忘れないで欲しい。 つまり、お笑い業界でどんなに尖った発言したって、 そんなことに全然興味ない人間が いくらでもいるってことを。 https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202209280000312.html

メモ

そうか、 俺が苦しいのは、 どっかで、 というか、 モロに 母親がおじさんから 相続した 財産を アテにしてるからなんだな。 そりゃあ、 金銭稼得能力の著しく低い俺が 母親の財産をアテにせざるを得ないのは 仕方ないとは思うけど、 それで かえって 苦しくなるんだな。 ここ 数日、 そのことで 姉夫婦と メールでやりとりして、 どうも 向こう、というか姉は、 相続税を確保することに 血眼になっていて、 俺と母親の生活は 父親が遺してくれた 財産を食いつぶして 成り立っています、 あと 数年でそれが 尽きますけど あなたどうするんですか? って テンションで来られたけど、 なんか 複雑に考えすぎじゃないか? おじさんの遺産は 母親が一身に相続して、 100% 母親の財産で、 管理も 亡くなったおじさんの お友達の士業の方たちが 幸いにも 手続きしてくれてるのに、 なぜ 窓口役でしかない お前が 全部仕切ってるかのような ノリに なってんだろう。 専門家に任せておけばいいだけなのに。 変に 母親の万一の場合の 相続税を確保しようと 躍起になってるから 話がおかしなことになってるけど、 お前が いつものごとく 小手先で こねくり回したところで どうこうなるもんじゃねーだろ。 子供もいるんだし、 義理の兄が働いてくれてるんだから、 無駄遣いしないで 普通に暮せばいいだけの話じゃないか? そんなこんなで、 ここ数日 やりとりして、 心底疲れた。 もう関わりたくない。 無理。 一方で相続税の確保に 血道をあげてるのに、 片一方では 母親の寿命を縮めるようなこと やってんだから、 相変わらずバカだなー、としか思わないけど。 義理の兄がすばらしく いい人なだけに、 申し訳ないわ。

利他主義者じゃないけど

ボランティア活動も、献血すらも 一回もしたことない人間だけど、 自分の利益のためだけに 頑張るって、 限界あるよね。 40年生きるだけでも こんだけ 疲れるのに、 自分の 生命維持・生活維持 のためだけに 頑張るって、 地獄でしかねえ。

命日

明日10月1日は、 父親が亡くなって、 ちょうど 1年。 最後は本当に辛かっただろうと 思うけど、 ちょっと あれ以上は寿命的に 無理だっただろうな。 糖尿病と高血圧の合併症を考えれば。 さいご 夜間採尿してた頃は、 手がお饅頭みたいに膨らんでたし、 片足が浮腫んでたり、 もう明らかに腎臓だめになってたからね。 それでも 長く生きたほうだと思うよ。 もっと10年くらい早く 逝ってても全然おかしくなかった。 それこそ、 一番羽振りが良いときが、こっちからすれば一番怖いくらいだった。 いま父親が亡くなったら、 自分はどうやって生きたらいいんだろう?って。 下手に生活水準が高くなりすぎると、 逆に 恐怖心が湧いてくる。 なにせ、 その生活はすべて父親のおかげなんだから。 振り返ると、 父親は意外とミーハーで、 常にマジョリティーに居たくて、 しかも その中で 何事も最低でも平均以上に居ないと 気が済まないって人だった。 晩年は 株に取り憑かれてたけど、 日経平均をつねに気にしてて、 「平均」に勝ったか負けたかに めちゃくちゃこだわってた。 だから、 大損した時に、 「口惜しい!口惜しい!」って 叫んだ時は、 この人 一生株やめられないだろうな、 と思ったよ。 こっちからすれば、 かなり ハラハラものだったけど。 金融リテラシーがまったく アップデートされてないのに、 俺がやれば間違いないんだ、 っていう、 根拠のない自信に充ちてたんだから。 四季報すらまったく読まなかった。 (かくいう俺も読み方全然わかんないけど。) だからこそ、 損すると余計に口惜しいわけだけど。 それで 資産のうちのかなりの部分を 株につぎ込んでたから、 こっちとしては マジで怖かった。 今から振り返れば、 去年の1月に 資産がピークをちょっと過ぎた時に、 俺が「売れ!」ってマジギレしたけど、 とぼけて シカトしてた。 ポカーン?て。 最終的には 一応 自分と母親が 数年間は 生きていける 資産を遺してくれたけど。 それは 感謝。 言うまでもなく、 俺の莫大な 教育費を出し続けてくれたことにもね。

熱帯魚

自分が   高校生の頃は、 熱帯魚飼う ってのも、 そんなに 珍しいことじゃ なかったよね。 アロワナとかディスカスとか。 いまは ブームじゃないとはいえ、 経済的な意味で 隔世の感がありますね。 うちらの親世代ってのは、 日本が有史開闢以来 一番経済的に 豊かだった時代に 働いてた世代だからね。 自分もだいぶ恩恵享けてるよ。

王朝

ヨーロッパの王朝って、 なんで こんなにしょっちゅう 交替するんだろう? って 昔は思ってたけど、 早い話、 宗教だよね。 キリスト教社会では、 建前でも 一夫一婦制だからね。 だからこそ、 王妃に飽きちゃった 国王が 新しい后とデキて、 前の王妃に 残虐な仕打ちをした話 なんかが残るわけだけど。 ひるがえって、 アジアはハーレムだからね。 中国なんか特徴的だけど。 まあね、 日本史ほとんどわかんないけど、 万世一系ってことになってて、 それはそれとして、 それを 維持するために なにが必要か っていうね。

2022年9月29日木曜日

もうここらでよか。

精神は健康だけど、 もう疲れた。 力尽きました。 人生に絶望したわけでもないし、 むしろ さあ、これからだ! と思ってたくらいだけど、 ここまでやれば、 もういいだろ。 いいのよ。いいのよ。 心配してくれなくて。 よして、よしてよ 慰めなんか。 全然平気。 大丈夫。 すーさいどなんかしないから。 ただ ちょっと疲れたの。 https://www.youtube.com/watch?v=tAGnKpE4NCI

脂肪肝

ちょっと 肝臓の値が 悪い、 つってもそんな大したことないけど、 薬のせいなのか、 それとも 脂肪肝なのか、 エコーで 検査してもらったところ、 脂肪肝でした。 薬のせいと、 脂肪肝のせい、 どっちがいやかなー? なんて 思ったけど、 薬は一生飲み続けなけりゃならないから、 やっぱ 脂肪肝で良かった。 (良くもないけど。) 脂肪肝なら摂生すればどうにかなる。

ありがとう平沼

https://news.yahoo.co.jp/articles/c81e78c97415170cdf4e9e9937f08a65c238bd47 https://www.youtube.com/watch?v=XBaPakSgkvg 推しが活躍すると、テンションあがる。 なんだ、今シーズン初本塁打、 しかも プロ通算2号かよ、 と 思うかもしれないが、 2015年に 敦賀気比のエースとして センバツを制覇して、 ドラフト4位で日ハムに内野手として 入団。 トレードで西武に来て、 内野手としての動きを ゼロから始めて、 今季も 6月の広島戦で 4安打2盗塁?と 活躍しつつも、 また2軍暮し。 だが、 打撃も 上達し、 シーズン終盤になって、 レギュラーの地位を固めつつある。 センバツの時から いい選手だな、 と思って ひそかに 推してきたけど、 こういう風に 活躍してくれるってのは、 やっぱり嬉しい。 何しろ、 守備も打撃も、 ほぼゼロから 築き上げて、 ようやく 花を咲かせたわけだからね。 その 根性、野球センス、人格、努力。 すべてにおいて光るものがある。 その築き上げたプロセスそのものが、 野球ファンにとっては醍醐味なわけですよ。 そら 大谷翔平は凄いけど、 あれは ガチ天才だから。 そら、 努力もしてるけど、 そういう選手ばかりを 見るだけが 野球じゃない。 野球は人生だ。 艱難辛苦を乗り越えた 人生ドラマこそが、 野球ファンの醍醐味でもある。 こういう選手がいると、 チームの雰囲気も良くなるし、 もっと言えば、 将来の西武ライオンズの 精神的支柱にまで なっていくと思う。

2022年9月28日水曜日

マイナンバーカード

市役所行って、もらって来ました。 ナナコにポイント 貯められるってことで、 2万円ぶん 使えるようです。 特定の企業への 利益誘導じゃねーのか? と、思いましたが、 やっぱ セブンイレブンは 先見の明があるな、 と 感心せざるを得ませんでした。 これって、 市役所が持ってるデータが 企業に売られてるってこと ないのかな? マイナンバーカード作った 見返りに 2万円ぶんもらってるわけだし。 ほんと、今の時代は 個人情報はカネのなる木ですわ。 (以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93

大機小機

今日のコラムは、 企業が海外直接投資で 稼いだ カネは、 再び 海外での投資に向けられる。 そうして得られた利益 その残高(昨年末時点)が 46兆円。 一応 経常収支(のうちの第一次所得収支)には計上されるが、 国内に還流することはない 張り子の虎、 とのことでした。 コラムでは、 その カネを国内に還流させれば、 株高ぐらいは 演出できるし、 円安の歯止めにも 一役買うのでは、 という苦しい理屈でした。

疲れた。

民法勉強して、 行政書士とか 狙えるかな? なんて 思ったけど、 自分とこの いざこざ でさえ こんだけ 疲れるのに、 他人の 揉め事に 首突っ込む なんて、 俺には 無理だ。

2022年9月27日火曜日

円買い介入

ただでさえ 財政が火の車なのに、 貴重な 外貨資金を 放出するような ことしやがって。 日銀の黒田総裁は 今すぐ 辞任しろ。 来年の4月まで やらせる必要はどこにもない。

安倍の国葬にことよせて(再掲)ー負債観念の刷り込み

「負債」の観念を抱かせることが、社会全体を構成し、安定的に維持するための手段であるわけで、交換とか経済的利益は副次的な意味しかないわけです。先ほどお話ししたように、儀式に際して各自の欲望機械を一点集中的に活性化させますが、この強烈な体験を「負債」と記憶させて、大地に縛り付けることが社会の維持に必要なわけです。現代社会にも通過儀礼のようなものがありますし、教育の一環として意味の分からない、理不尽に感じることさえある躾を受けることがありますが、それは、この「負債」の刻印と同根だということのようです。「負債」の刻印が本質だとすると、むしろ下手に合理的な理由をつけずに、感覚が強制的に動員される、残酷劇の方がいい、ということになりそうですね。 <アンチ・オイディプス>入門講義 仲正昌樹 作品社 p.255

いかにも自民党らしい姑息なやり方

今日は安倍の国葬だけど、 旅行支援プランを 同時に ぶち上げることで、 マスコミの報道を 分散させ、 報道が 国葬一色にならないように 企んでるのが見え見え。 セコいわー あら、やっぱり自民党を推しておけば いいことあるかも、 って思わせてるよね。 旅行支援は遠慮なく使わせてもらうけどね。 こういうところが いかにも安倍的なんだよ。

2022年9月26日月曜日

台風のおかげ?

雨が大量に降ったせいか、 水道水が美味い。 もちろん 簡単な 浄水器はつけてるんだけど、 うまうま と思って飲みすぎて、 あやうく 水中毒になるところだった。

2022年9月25日日曜日

祝!ヤクルトスワローズ セ・リーグ連覇!

ちょっともう 他の球団とは レベチだね。 とはいえ、 今日は 締まった いいゲームだったよ。 やっぱり、 故野村監督が ヤクルトに 根付かせた 勝てる チームの クセ みたいなのを 感じたね。 もちろん、 高津監督も素晴らしい!

2022年9月24日土曜日

常識で考えようよ。

国の借金が 国民一人当たり に換算すると 1000万円を越した、 というニュースに反応して、 国の借金は国民の財産だから どーのこーの っていう、 三橋貴明に洗脳されたアホが 湧いてるんだけど、 確かに、 正確に言えば 国民が 国に対して 一人あたりに換算して 1000万円以上の 債権を保有している、 というのは正しいけど、 ちょっと考えて欲しいのは、 あなたが 銀行なり生保に預けたお金で、 銀行なり生保なりが、 日本国債買ってます。 もし 日本国債の価値が暴落したらどうなりますか? って話よ。 あなたは 単純に 銀行にお金預けたり、 生保に加入しただけのつもりでも、 彼らは、 それを元手にして 日本国債買ってるんですよ? それが パーになったら、 あなた方の財産も 一人当たり1000万円ぶん パーになるって、 理屈、いい加減わかりませんか? この期に及んで まだ 三橋に騙されてるって、 イタイから。 いい加減 目を覚ませ! 三橋みたいなペテン師を 党の公認候補として 選挙に出す 自民党にも責任がある。

2022年9月22日木曜日

神なき時代の連帯? (再掲)

一つの簡単な答えは、ヘーゲル的な意味での統治は不可能だということです。その代替案は複数ありえますし、フーコーはその一つでしょう(ただし、「知と権力」の共犯関係がいかなる統治を具体化するのかは、わたしには理解しがたい難しさがあるように思えます)。  最もわかりやすい代替案が新自由主義の統治だといえます。もしもこれを拒絶するとすれば、問題は、何らかの形でのヘーゲル的な統治への回帰か、神無き時代の連帯の可能性の追求となります。現代のリベラルな政治理論はだいたい後者のさまざまなバリエーションですが、密かに神が導入されている可能性があるのものが多いので、フーコーのような議論が流行るのだと思われます。  鴎外については、わたしにはコメントする能力はありません。ただ、そのような苦悩があるとすれば、それは鴎外がいかにヨーロッパ(ドイツ)文明に拘束されていたのかを示すことになるでしょう。ただし、そのような苦悩をまったく抱かない(ないしは、そのような苦悩の可能性に思い至らない)日本人よりは、はるかにましな精神性をもっていると思いますが。  明治日本は、ある意味では、神無しでヘーゲル的な全体性を国家は維持できるのか、という問いをいち早く突きつけられていたともいえます。この問いへの回答の一つは、現在でも、「新たな神の創造」ですが、そのような回答が、必然的に政治的に悲惨なものになることは、我々が歴史から学んだことだといえます。キリスト教文化圏では、たとえ神が死んだ時代でも、この危険性がよく知られていますが、はたして日本ではどうでしょうか。考えてみてください。

思想史講義【大正編】 ちくま新書

天皇機関説事件だけど、 穂積・上杉説 にしても、 美濃部説、 ひいては 現在の憲法学のように、 国家の実存を感じられないような 漠然とした理論よりも、 「国体」なんていう概念的なものじゃなくて、 みんなで天皇をワッショイワッショイして、 まるでお祭りのように、 日本という国が、 まさに ここにあるじゃないか! という「実感」を 伴った理論のほうが、 パンピーにはウケる、 というのも、 現在の日本人に照らしても、 わかりやすい。 この「実感」を 伴った国家観は、 ヘーゲル主義とも親和的に感じられる。 美濃部説と親和性の強い 現在の憲法学では、 日本という国家を実態として 感じる、ということはないだろう。 アリストテレスの「善き市民として生きる」という 発想にしても、 それは 古代ギリシャ都市としての国家観であり、 現代の日本人は、 やはり なんとなく ハッキリしない もやもやした 日常の中を生きる以外ないのだろう。 その中で、 勝ち組だの負け組だの、 社会化された人間の、 原始的な欲求を日々満たしながら、 人生を送らざるを得ないのかも知れない。

井沢元彦氏の主張の一部

①天智天皇と天武天皇の関係 天智とは殷の紂王が 抱えて死んだと言われる 天智玉に由来する。 (これは森鴎外も「帝諡考」で仄めかしている) 天武は、 殷を滅ぼし 周を築いた武王に由来する。 つまり、 天武天皇は、 そこで 皇統の系譜があらたまったことを主張している。 (だが、桓武天皇の時に、天智天皇系に再び代わった。) 自分の統治の正当性を主張するために、 「日本書紀」を編纂した。 ②浅野内匠頭は統合失調症だった。 これも、 同じ病気の人間としては頷ける。 いくらムカついたからって、 藩が取り潰しになるのに 襲撃するとか、アホすぎる。 しかも、 吉良上野介を殺せなかった。 ちなみに、乃木希典は、俺だったら刺す、と言ったらしい。

2022年9月21日水曜日

大機小機 (再掲)

日本は「衰退途上国」になった、と書いてあったね。 アメリカや東南アジアなどは、 激しいインフレに見舞われているが、 賃金の伸びがそれを上回るので、 結果的に 経済成長する。 ところが、 日本は、インフレは 政府によって抑制されているものの、 反面、賃金は上がらない。 したがって、経済成長もしない。 他の国並みのインフレを許容すれば、 中小企業は潰れる、 付加価値の6割が人件費である以上、 賃上げをすれば インフレで庶民の生活が成り立たない。 ・・・そうやって、 経済成長を犠牲にしながら、 都合の悪いことを見て見ぬ振りをして、 ダラダラと他の国においてけぼりにされていく。 もしかしたら、 そんな状態が長く続くのかも知れない。 日本人のメンタリティからすれば、そんなものかも知れない。 下手に頑張って 体力を使い果たすより、 ひたすら 安全パイを選び続け、 挑戦もせず、 身の丈に合った暮らしを選択し続ける。 そうやって、 陽だまりの樹のように、 ゆっくりゆっくり朽ち果てていき、 もうどうにもならなくなって、爆発する。 そんなものかも知れない。

人間不信と金融 (再掲)

「華麗なる一族」は本当に勉強になる。 まだ途中だけど、 万俵鉄平は可哀想だな。 特殊鋼業界初の高炉建設の夢をたぎらせながら、 一本気な技術者として邁進しているのに、 父親が頭取である 阪神銀行からの融資を渋られたり、 たぶん陰で嫌がらせされている。 それは、一重に、  鉄平が自分の実の子ではなく、 父親が妊ませた子なのではないか、 という不信感から来る。 人間、なんで他人にカネを貸すか?って言ったら、 相手が利子付けて還してくれるのはもちろんのこと、 根本的には、 カネを貸す相手を信用するからだよね。 カネを貸した瞬間に還って来るわけではない以上、 そこに不確定な時間上のズレが生じざるを得ない。 そこには当然、リスクが生まれる。 そのリスクが金利という形で現れるわけだが、 貸したカネが還ってくる可能性が低いほど、 金利が高くなる、 また、返済までの時間上のズレが長くなるほど、 金利が高くなる、 というのが道理だろう。 カネを借りるほうは借りるほうで、 あらん限りの知恵を絞って、綿密に事業計画を立て、返済計画を立てるだろう。 しかし、 どんなに良心的な借り手が、あらん限りの精緻さで事業計画を立てたところで、 未来の事象には、本来的に不確定性がつき纏う。 その分だけ、 リスク・プレミアムとして更に金利が高くもなるだろう。 しかし、 未来とは本来的に不確定なのだ。 直近の事例にしたって、 まさか安倍氏が突然あんな最期を遂げると誰が予測し得ただろうか? 日銀がいくら超金融緩和を継続し、 イールド・カーブ・コントロール政策を強行して、 金利の上で未来の不確定性のリスクを低くしたところで、 未来とはやはり不確定なのだ。 では、終極的になぜ人は他人にカネを貸すか?といえば、 結局は、 騙されてもいいからちょっとやらせてみるか。 という発想だろう。 それこそ井上俊が言ったように、 「詐欺が成り立ち得ないところでは、社会もまた成り立ち得ない」 のである。 人が騙されるということは、裏を返せば人を信じる能力があるということの証左である。 これも、井上俊が言ったことだ。 ちょっと、 今の日本の空気は、1億総人間不信なのではないか? 社会全体が他人に対して不信感で凝り固まっていたら、 日銀がいくら頑張ったところで、限界があるのは自明のことだ。 ちょっと騙されたな、ま、しょうがないか!というくらいの心積もりがなければ、 景気なんか良くなるはずがない。 https://www.sankeibiz.jp/business/news/190726/bse1907260650001-n1.htm

ホッと一安心ー今朝の日経8面

物価上昇でも現預金志向 円安とインフレで、 日本円を持っていても 損だということで、 海外への 資産フライトが 起きるんじゃないかと 危惧されていたが、 「日本人は節約志向が強いので、物価が上がりそうだから早めにお金を使うという考えにはなりづらい」 らしい。 日本人に 根深く染み付いた デフレマインドが、 今回は プラスの方向に 働いた、ということか。 でも、それって、 日本人のリスク許容度の低さの裏返し でもあるよな。 そら 景気なんか良くならないよ。

日笠先生より(再掲)

メールありがとうございます。  議院内閣制は、議会と政府の共同活動を前提としています。しかし、政府・内閣が暴走する場合には、議会のコントロールに服するという「責任本質説」に基づき、内閣は連帯して議会に責任を負い、議会下院は内閣に不信任の決議をすることができます。  とはいえ、議会多数派である与党議員が、政府・内閣の意向に承認ないしは追従する限り、政府・内閣は、多数議員に体現される民意に基づき、政治をリードすることになります。政府・内閣が暴走しているとして政府・内閣を抑止することができるのは、主権者である国民であり、選挙という手続きに基づき行われます。  日常的には、テレビ・新聞などのマスメディア、世論調査、SNSなどによる言論表現活動において、政府・内閣の暴走を批判することができます。しかし、政府の意見は、「政府言論」として政府の自制がない限り、たとえアジテーションであっても広く国民に広がるのが現実です。  ここまでは、ご質問の前提です。では、アメリカとイギリス、そして日本の立ち位置について考えてみます。  日本国憲法は、確かに、GHQの考え方すなわちアメリカ法思想を前提にしていますが、マッカーサーは、日本が戦前も議院内閣制の政治制度を採用したことを前提に、新日本国憲法の構想にあたっても議院内閣制の採用をすすめており、憲法改正のための帝国議会でも、違和感なく採用されています。  では、ご質問にあるように、議院内閣制において、現実的な政府の暴走は阻止できないのかという点を考えてみたいと思います。イギリスやアメリカにおける民主主義の前提は、二大政党制であると思います。対立する野党が政府与党を抑制するシステムは、現実的には、「政権交代」が国民の選挙によって起きるという事実だと思います。政府与党が一番恐れるのは、政権からの陥落であり選挙における敗北です。イギリスやアメリカでは、現実に政権交代がありますので、政治は次の選挙に勝つためという戦略的な限界あるいは制約があります。これを意識することは、反対者へ配慮として、温和な政治展開を現実的に保障することになります。  もっとも、激しい感情の発露は、「民意」にあります。主権者たる国民の感情換言すれば投票行動は、刺激に敏感で現実的生活や嗜好に左右されがちです。「ポビュリズム」が、一般大衆の感情的表現として用いられ、ポビュリズムによる政治が危険視されるのは、そのことを指摘しています。国民の感情エネルギーである民意を理性的にコントロールしないと、政治自体が暴走します。この例として、イギリスやアメリがの現状を上げるのは妥当ではないかもしれませんが、イギリスがEUから離脱し、アメリカが自国第一主義へと進路をとったことは、国民の感情的エネルギーと言えるでしょう。  一方、日本は、国民の感情的エルネギーが、国民から主体的に発散されているというよりは、政治指導者の思想や政治的判断が、国民に提案され、国民がその政治提案をよく咀嚼する前に、現実的な体制づくりが民主主義という名の下で推し進められているという傾向がありのではないでしょうか。  今から反省するとすると、政権交代を行うために、政党本位・政策本位の選挙制度構築ビジョンのもと、中選挙区から小選挙区選挙へと移行したことが、現在の強すぎる政府与党を作り上げていると思います。日本国民は、表向きは権力を尊重し権力へおもねる傾向を持つ国民であり、他人と議論することは避け、人に同じことを考え行うことを通常の判断原則としているように見受けられます。そのよう傾向持つ国民が、二大政党制に本当に馴染むか、一時の情に流されることなく、考え続けるべきかもしれません。  というわけで、日本において、政府の暴走を阻止することは、政治部門関係では、非常に困難であって、議院内閣制の制度的構造的欠陥とはいえないと思います。要はいかなる制度であっても、使用方法が大切であるということだと思います。例えば包丁と同じで、本来の使用とは別に人を殺傷するときにも使用できます。議院内閣制に関する評価も、国民の使用方法に左右されることになります。  政治部門の抑止は、お話ししましたように、権力分立に基づき、裁判所の役割となります。違憲審査権を有する裁判所が、政治部門の判断ないし活動について、どのような憲法判断を行うか、これが重要な法的課題となります。しかし、現在はこの憲法を改正とようとしているわけですので、国民の叡智の真価を問われていると言える現状です。  ご満足のいく回答となっているかどうかわかりませんが、今の考え方を述べさせていただきました。 日笠完治

「現代の国際政治」第5回 まとめ (再掲)

あ〜あ、思い出せるだけ〜思い出して、あそびたぁぁぁぁい! てなわけで、 放送大学「現代の国際政治」第5回の放送授業内容を、出来る限り思い出しながら、要点をまとめてみたいと思います。 まず、第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。 ま、こんなとこかな。 地域間経済協定については割愛した。

グローバリゼーションとナショナリズム(再掲)

グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。 そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、理性による計量的画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 (以下引用)社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感じでしょうか。まるでオウム真理教のようですね。

日本経済再生策

1番手っ取り早い手段のひとつは、 移民に 選挙権を与えることではないだろうか。 さんざん搾取ばかりして、 地方自治体の選挙権すら 与えない、 というのでは、 もはや 日本が経済大国ではなくなった 現在においては、 自らの首を締めるだけではないだろうか。 どっちしろ 移民を受け入れずに ほったらかしにしておけば、 日本の人口は絶望的に 縮小していくのだから、 移民の目から見て、 日本に行っても、 搾取されるだけで、 なんの憧れもない、 というのでは、 どうやったって 移民なんか来てくれないだろう。 そうであれば、 いま日本に住んでいる 移民には、 最低限 地方自治体の選挙権ぐらい 与えて然るべきだと思われる。 日本人と結婚して 同化しなければ、 日本において政治に参画することすら許さない、 という態度では、 経済が弱体化する現在において、 日本は 全く魅力に欠ける国と言わざるを得ないだろう。 とにかく、 日本の教育は、 歴史的に、もちろん今現在も含めて、 「貧困」 という問題から目を背け続けている。 明治維新以来の 経済発展にしたって、 台湾、朝鮮半島を植民地化し、 どれほど 多くの 台湾人、朝鮮人を 半強制的に 過酷な低賃金労働で 搾取し続けて来たか、 ということが、 全く語られていない。 そのくせ ナショナリズムに煽られて 排外主義に走るのは、 ひとえに 教育の問題による無知が大きい。 もちろん、 日本人のうちでも、 「2級国民」とでも言うような、 目に見えない 搾取に虐げられる 人びとがいるのだが。 どうせ 「アイツら」に 選挙権を与えたところで 権利ばかり 主張して 財政負担が 増えるだけだ、 というなら、 結局 日本人も含めて 経済格差が拡がり、 貧困問題が 日本社会全体に しっぺ返しを 喰らわせるだけだろう。 経済が振るわないときほど ナショナリズムは高揚しやすいが、 冷静に考えれば、 むしろ 逆の発想をすることが必要だ。 グローバリゼーションによって 誰もが 貧困状態に陥る危険性がある社会だからこそ、 誰に対しても 社会への参画を 可能にするべきだ。 日本人の 「2級国民」は、 そもそも 貧困者のメンタリティーを 社会から 内面化させられ、 自主的に 政治に参画する意欲を奪われているのだ。 なぜなら、 「貧困」は、 社会によって 巧妙に 不可視化されており、 隠蔽され、 彼らは、 ”いない”ことに されており、 従って 日本に 貧困問題は あたかも存在しないかのように 認識されているからだ。 しかし、 繰り返せば、 グローバリゼーション下の現代社会においては、 誰もが 貧者に陥る危険性と 隣り合わせだということを 強調したい。

昭和史発掘ー貧困

松本清張の「昭和史発掘」の内容を 思い返すと、 昭和のテロに走った 青年将校とか、 それを先導した 思想家たちってのは、 邪悪な人たちでは 決してなく、 ある意味では 純粋すぎるほど純粋な 人たちだった、という印象が強い。 財閥が支配する 日本経済に対する憤怒 特に、 搾取され続ける 東北地方を始めとした 貧しい農家、 このような 社会の矛盾に対して それこそ 身を賭して 「悪」を成敗してやろう、 という純粋な人たちだった。 財閥は財閥で、 確かに えげつないこと 散々やってて、 なんなら 戦争を敢えて起こすことで 儲けよう、 なんて考えてる連中であったことも また事実なんだけど。 大正デモクラシーといえば、 明るくて自由な 思想が花開いた時期、 と一般に認識されているが、 拡大する貧富の格差は、 多様な思想の中に、 危険な国粋思想をも抱え込んでいた。 また、これは 日本に限った話ではなく、 ドイツにおいても、 ファシズムというのは、 共産主義に対抗する 選択肢の一つとして、 ポジティブに見られていた時期もあった。 このように、貧困というのは、 社会が無視しておくには あまりに 危険な問題なのだ。

2022年9月19日月曜日

貧困

貧困が真にヤバいのは、 それが結果的に政治的な「服従」を生み出す傾向があるということではないだろうか。 貧困は誰かのせい、あるいは、構造のせい、となれば、 それを排除したり、矯正したりする政治団体に、 盲目的と言えるほど、服従してしまう。 小泉も安倍もそうだった。 それが裏切られると、手のひらを返したように、やり玉に挙げられる。 貧困というのは、まさに政治学的な問題なのだ。 現代の日本社会のように、 成熟した社会を、 劇的に変えるような政策は、 どのようなものであれ、 やってはいけないと思われる。 アベノミクスもそのような外観を帯びていたが、 左翼がヤバいのは、 自分たちの正当性を 疑うことをせずに、 社会を 劇的に変えようとする 発想であり、行動力だ。

そろそろいいんじゃないか?

アベノミクスが実はまやかしだった ってことが明らかになってきたってのもあるし、 岸田さんの 国葬決定が だいぶ フライング気味だったってのもあるけど、 こんだけ 安倍の国葬で反対騒ぎが起こって、 そろそろ、 ま、いっか、って気にならないかな? そんないつまでも怒るもんかな? もちろん、 俺がこれを書いてるのは、 各種世論調査で 岸田政権の支持率が 軒並み過去最低を更新したってこともあるし、 岸田『内閣』の支持率だから、 旧統一教会がらみの 癒着が まだ 全部暴かれてないってのもあるだろうけど。 それにしても、 もうそろそろよくない? 少なくとも、 安倍の国葬は、 閣議決定で勝手に決めんなってのもあるけど、 そんなこと言ったら、 日米地位協定だって 行政協定で決められてるし、 確かに この国の政治において 国権の最高機関であるはずの 国会がないがしろにされ続けてるし、 それが アホな国会議員を生み出し続けてる 一因でもあると思うけど、 これ以上 死者に鞭打たなくても いいんじゃないか? もう十分 安倍は 世界に恥を晒しただろう。 まるで 不倫スキャンダルを暴露された 清純タレントを 叩くのと同じノリで、 いつまでも 安倍をディスったところで、 国益にはならんと思うがな。 二階さんが言うように、 とりあえず 黙ってあの世に送ってやればいいじゃん。 最近の傾向として感じるのは、 「正義か悪か」の 二元論で考えすぎじゃね? 正義だと思えば100%服従する、 悪だと断じれば、 骨の髄まで叩く。 これって、もうただの イジメだと思うんだけど。 ツイッターってのは、 えてして エコーチェンバーになりやすい。 ハッシュタグつけて、 バズれば、 そこに乗っかるだけで、 自分は 正しい側にいるかのように思える。 その、 隠蔽された 「正義=マジョリティー」 の図式が、 濁流となって一方向に暴力的に 流れる様は、 ちょっと 社会現象的にヤバい。 もちろん、 反体制のツールとして 重要な役割を演じることもあるが。 こういう、 世間総出で 誰かを叩く、 という使い方をすると、 そのうち とんでもないことになる危険性がある。 確か、「現代の国際政治」で 言ってた気がするけど、 外交においては、 相手を殲滅するよりも、 せいぜい6割ぐらい叩く程度で済ませたほうがいい、 そうしないと、 相手が 復讐に燃えるから。 みたいなこと言ってたな。 武田信玄だったかな? 戦国武将もそんなこと言ってた気がする。 そこらへんが政治の難しいところだけど、 勧善懲悪もののドラマじゃあるまいし、 政治に関することを、 あんまり 白黒ハッキリしすぎないほうがいいと思う。 結局、政治において 白黒ハッキリする、ということは、 カール・シュミットの友/敵 理論の 危うさと同じ危険性を孕んでいる。 もはや死者である 安倍を叩くことで、 モヤモヤを吹っ飛ばし、 社会の本質が現れた、 と感じるようなら、 なおさら危険だ。

2022年9月18日日曜日

人間にとって貧困とは何か (放送大学放送授業)

めちゃくちゃ面白いね。 まだ第一回の授業を聴いただけだけど。 自分は、金銭的には 貧困とは無縁の暮しをしているけれども、 もしかしたら 精神的には「貧困」な暮しを していた、あるいはしている、 のかも知れない。 社会と産業コース 人間と文化コース を卒業して、 消去法で 生活と福祉コース に再入学したけど、 はっきり言って、 生活と福祉コースをナメてた。 とてつもなく 大きな 未開拓地が広がっている。 特別な前提知識を必要とすることなく、 貧困のみならず、 公衆衛生や社会保障論など、 幅広い分野の知見を得られるようだ。 いやー 放送大学すげーな。 「地元最高!」 という漫画も、 地元最高、といいながら、 それは貧困の裏返しでもあり、 相互扶助、連帯、という、 一見聞こえの良い ワードが、 実は 束縛であり、不自由であり、さらには、 「呪縛」 でもある、という 極めて 現代的なテーマを如実に顕している。 https://www.youtube.com/watch?v=V6Dfo4zDduI

アドセンス削除

記事の信用性を 保障してくれるからと思って 広告載っけてたけど、 マジで微塵もカネにならないし、 鬱陶しいだけなんで、 削除しました。

アンチ・オイディプス

確かに、 仲正先生が書いているように、 核家族で育った 子供っていうのは、 知らず知らずのうちに、 親の生き方を模倣してるようなところはあるかもね。 ブルジョワの子供はブルジョワ的な ライフスタイルを生きる感覚に囚われて成長するし、 もっと バクチな生き方をする親の子供は、 やっぱり 山っ気のある生き方を選びがちだろう。 それは、 あたかも鮭が生まれた川に遡上するように、 人間が進化の過程で 身につけたものかも知れない。 もちろん、 親の生き方を反面教師として、 アンチ親的な生き方をすることは あり得るが、 それも、ある意味では 親の生き方に 囚われている、と言えるだろう。 やはり、 人間の発想というのは、 何かしら ロールモデルを必要とし、 その呪縛から 完全に 逃れることは出来ないのだろう。 資本主義と家族、というテーマで言えば、 そうやって 親の生き方に囚われていることが、 「去勢」 なのだろう。

ビミョー

社会勉強だと思って、 「地元最高!」 て漫画を キンドルで 買ったんだけど、 絵がボケてて 読みにくい。 それ以前に、 絵が素人に毛が生えたレベル。 (知ってて買った俺が悪い。) これも ツイッター発らしいんだが、 ちゃんと 読めば面白いのかも知んないけど、 こんなもんが 1000円超える 値段で 売られていることが 理解しがたい。 麻布競馬場にしても。 なんか、 ツイッターで話題になったもんを、 スマホのニュースに流して、 買わせようとしてない? ちょっと 安易すぎるなー。 こんな商売やってると、 日本で手に入るものの クオリティーが どんどん 低下してくと 思うんだけど。

2022年9月17日土曜日

素晴らしい!!!

放送大学の 民法の授業で、 慶応大学法学部の 武川幸嗣先生の 講義を聞いて、 なんとなく 民法の 概観が掴めて来たところで、 ステップアップしたいなと思い、 アマゾンで 武川先生の本を検索して、 「プラスアルファ 基本民法」(日本評論社) をKindleで購入して 読み始めましたが、 素晴らしい内容です。 Kindleなので 全体の分量がよく分かりませんが、 基本の基本が出来たところで、 一歩ステップアップしたい 初心者にとっては、 願ってもない 素晴らしい内容です。 これで3000円を切るのがまた素晴らしい! 中央大学法学部の通信教育を5年やって 英語以外の単位が ひとつも取れなかった自分でも、 民法が わかる 気がして来ました。 まさに、 Where there is a will, there is a way. ですね。 それにしても、 俺ほんとに スローラーナーだな。 何を勉強するにも、 ほんとに 時間と手間がかかる。

2022年9月16日金曜日

はぁ?ぱーどぅん?

積極財政で、 安倍の後継者を 自認したいんだろうが、 額ありきで ブチあげられてもね。 誰もついてこないよ。 萩生田はしばらく引っ込んでろ。 https://news.yahoo.co.jp/articles/3f0723c21380e6af13c5b7dda0e89c1819053402/comments

すげーなー

母親と自分の 介護保険と傷害保険で ヘルパーさん 来てくれるけど、 よーまー 他人のために ここまで やってくれるよなー。 どっから そのモチベーションが湧いてくるのか。

危機の二十年 岩波文庫 (再掲)

「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」 E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より

為替介入と開放経済のトリレンマ

開放経済のトリレンマは、 経済的小国を前提にしている。 今まで 日本が 自律的な金融政策と、 資本移動の自由と、 安定的な為替レートの維持、 という 本来同時には達成しえないはずの トリレンマを達成出来ていたのは、 取りも直さず 経済大国だったから。 それが、 いま為替介入に踏み切ろうとしているのは、 もはや 日本が経済大国 ではなくなった、という証拠。 たとえば、 アメリカが仮に 財政赤字と経常赤字の 双子の赤字 でも 潰れないのは、 海外からの資本を必要としても、 結局ドルで決済されるから。 これが いわゆる基軸通貨国の特権。 日本も似たようなもんだったけど、 あまりに 円の実力が弱くなりすぎて、 もはや 国際取引(貿易決済など)での 円の需要そのものが低下している。 つまり、 以前のように 円でドルを調達できない。 言い換えれば、 外貨を調達する実力が著しく低下している。 まさに、「衰退途上国」。 通貨の実力が弱い 発展途上国が往々にしてそうであるように、 通貨の実力が弱い国は、 外国資本を呼び込むために、 金利が高くなる傾向が強い。 日本みたいに、 通貨の実力が弱くなり続けている国が、 無理矢理 長期金利を低く抑え込む政策(イールドカーブ・コントロール) を続けていれば、 いつかは爆発するのは 当たり前。 自業自得。 https://news.tv-asahi.co.jp/news_economy/articles/000254626.html

2022年9月15日木曜日

危険な政治家だった、安倍晋三(再掲)

https://bunshun.jp/articles/-/57150 https://news.yahoo.co.jp/articles/bb67c8dcf9f9cb44e5beb634a5bae2f680b622c5 台湾有事をテコにして 総理3選を目指してたのか。 恐ろしい野郎だな。 完全に独裁者の発想じゃねーか。 そら、 台湾有事は 中国の一存だから論理がおかしい、 と言われそうだが、 日本が ”ファイティングポーズ” を取ること自体が、 中国に対するメッセージに なる、ということを考えれば、 安倍が生きていたら、 ほんとに大変なことになっていたかも知れない。 最近、中国の景気減速もあってか、 中国脅威論が少し弱くなった気がするが、 中国の軍事行動なんて、 ほとんど政府が情報握ってんだから、 マスコミが騒ぐも騒がないも、 政府次第って側面はあるだろう。 それに、 国内の景気が振るわずに、 人々のマインドが沈んでいる時ほど、 為政者は 対外強硬路線に走るのは、 歴史の法則と言っても過言ではない。 それは、 カール・シュミットの友/敵 理論によれば、 公敵を設定することで、 国家の本質が明らかになり、 人びとが一致団結するからだ。 為政者がそういう状態を望むのは当然のことだ。 奇しくも、 英国のエリザベス女王が逝去されたところ、 欧米各国首脳の対応が 安倍の国葬に対する対応と、 どのような対比を浮き彫りにするのか、 注目せざるを得ない。 それによって 世論がどう動くかも 目が離せない。 ほとんど予測不能だろうが、 岸田政権に ポジティブに働くシナリオは 想像しづらい。

おまけ(再掲)

現代のグローバル資本主義の構造的問題は、世界的なカネ余り状態である。まず、1960年代に、企業の海外進出に伴い、銀行が国際展開を急激に拡大したことにより、どこからも規制を受けない「ユーロ市場」が登場した。次に、1970年代に、オイル・ショックによるオイルマネーの流入と金融技術革新により、米国の銀行による「ユーロ・バンキング」が活発化する。 変動相場制への移行により、銀行はアセット・ライアビリティ・マネジメント(ALM)を導入。これは、ドル建ての資産とドル建ての負債を同額保有することにより為替リスクを相殺する方法である。たとえば、ドル建て資産を1万ドル保有していた場合、円高ドル安になれば資産は減価し、円安ドル高になれば資産は増価する。逆に、ドル建て負債を1万ドル保有していた場合、円高ドル安になれば負債は減価し、円安ドル高になれば負債は増価する。こうして為替リスクを相殺する。1970年代のオイルマネーの増大と、インフラ投資額の高騰により、特定の一つだけの銀行だけでは融資の実行が困難になり、シンジケート・ローンが発展した。シンジケート・ローンとは、幹事引受銀行がローンを組成し、参加銀行に分売することで、複数の銀行による信用リスクの分散化を図るものである。しかし、シンジケート・ローンにより、信用リスクは分散したが、信用リスクそのものが低下したわけではない。この後の資産の証券化の流れのなかで、ALMの発展によりリスク管理手段が多様化し、デリバティブが登場し、急速に拡大した。

旬報社(再掲)

1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。 大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。 しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。 そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。 また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。 1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より つまり、日本の内需の縮小と労働市場の貧困化は、企業の海外進出と表裏一体であり、その見返りとしての、海外からの利子・配当などの、いわゆる第一次所得収支の恩恵として現れる。 https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX

「現代の国際政治」第5回 まとめ (再掲)

あ〜あ、思い出せるだけ〜思い出して、あそびたぁぁぁぁい! てなわけで、 放送大学「現代の国際政治」第5回の放送授業内容を、出来る限り思い出しながら、要点をまとめてみたいと思います。 まず、第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。 ま、こんなとこかな。 地域間経済協定については割愛した。

アドルノはまだ生きている(再掲)

グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。 そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか。 自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感じでしょうか。 まるでオウム真理教のようですね。

丸山眞男(再掲)

丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。 しかしながら天皇制が近代日本の思想的「機軸」として負った役割は単にいわゆる國體観念の教化と浸透という面に尽くされるのではない。それは政治構造としても、また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。(・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、それが制度自体と制度にたいする人々の考え方をどのように規定しているか、という、いわば日本国家の認識論的構造にある。 これに関し、仲正昌樹は「日本の思想講義」(作品社)において、つぎのように述べている。 「國體」が融通無碍だという言い方をすると、観念的なもののように聞こえるが、そうではなく、その観念に対応するように、「経済・交通・教育・文化」の各領域における「制度」も徐々に形成されていった。「國體」観念をはっきり教義化しないので、制度との対応関係も最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、目に見える効果をあげるようになった。ということだ。 後期のフーコー(1926-84)に、「統治性」という概念がある。統治のための機構や制度が、人々に具体的行動を取るよう指示したり、禁止したりするだけでなく、そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、それを当たり前のことにしていく作用を意味する。人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用)

天皇機関説(再掲)

昭和史発掘第4巻の天皇機関説事件のところ読んでるけど、めちゃくちゃ面白い! 単なる学者どうしの争いとかいう次元の話じゃなかったんだ! 論理自体は美濃部が一分の隙もないほど勝ってるのに、美濃部の理論が邪魔くさい政治家、実業界が、力ずくで、美濃部を排撃する。 現実の世界は、正しい理屈が勝つってもんでもないんだな。

現代の天皇機関説事件(再掲)

矢野財務事務次官の言ってることを、全部読んだわけじゃないが、極めて当たり前のことを言っただけなんだろう。 昭和の天皇機関説も、美濃部達吉が言ってることは、理論的に何一つ間違った点はなかったのに、戦争したくてしょうがない政財界の連中が、むりやり天皇崇拝学説に軍配を上げて、捻じ曲げた。そもそも昭和天皇ご自身が、天皇機関説で問題ないとおっしゃっていたのに。 翻って、現代は、財務官僚が当たり前のことを言っただけで、政界のみならず、国民が、都合が悪い事実は耳に入れず、MMTだの種々の屁理屈を信じて、現実から目をそむけている。 こんな国の行く末がどうなるかは、昭和の時代と大して変わらないだろう。

どーしょもなくつまんない

暇だから 麻布競馬場の 第2話 頑張って 読んでみようと 思ったけど、 耐え難いレベルで つまんなかった。 中途半端に下ネタ 散りばめてるけど、 下ネタの過激さでは、 ミシェル・ウェルベックのほうが 遥かに上なのに、 (ウェルベックの場合、これ、まともな出版社でこんなこと書いていいのか?というレベル) なぜか 麻布競馬場は ウェルベックと比べて 深みが全然ない。 そもそも、 比べること自体がおかしいんだが。 とにかくつまんなかった。

自民党は嘘つき政党

保守だの なんだの 自称しながら、 日本の富を 韓国に 横流ししてた。 自分たちが 選挙に 受かりたいから。 これが 自民党の 正体じゃないか。 親玉である安倍からしてが、 反朝鮮半島の頭目 を自認しながら、 裏では 統一教会と 三代にわたって ズブズブ。 一度 解党的出直しを したほうがいいね。 国葬も、 いまさら止められないだろうけど、 やったらやったで、 国民の反感 買うだけだよ。

2022年9月14日水曜日

主権者は国民なんだよ!裁判所じゃねえ。勘違いすんな!

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE128EF0S2A910C2000000/ 安倍の国葬 撤回の訴えを、 東京地裁まで 門前払いしやがった。 この国の司法はなんなんだ? 国民ナメてんだろ? やられっぱなしでいいのか?! ちなみに、 ドイツの裁判官ってのは、 転勤しないらしい。 日本の場合は 転勤するのが慣例になっているが。 ドイツの場合は、 裁判官が 地域住民から信頼されているから、 転勤する必要がないからだとか。 翻って日本は・・・

権力の腐敗ってこわいわ

https://bunshun.jp/articles/-/57255 誰かが逮捕されるもされないも、 政治家の一存なのね。 俺はお人好しだった。 まさか、 司直まで 権力者に操られていたとは。 この国は腐っている。 道理で、 安倍が死んだと思ったら、 オリンピック関連の 汚職が急に 表沙汰になるのは不思議だと思ってたよ。 なんでこんなヤツのために国葬なんかしないといけないんだろう? そら、 黒川の案件で ツイッターデモが起きるのも頷ける。

2022年9月13日火曜日

フィッシャー効果(再掲)ー実質金利とはなにか

物価上昇の予想が金利を上昇させるという効果で、フィッシャーが最初にそれを指摘したところからフィッシャー効果と呼ばれる。 ある率で物価の上昇が予想されるようになると、貸手が貸金に生じる購買力目減りの補償を求める結果として、資金貸借で成立する名目金利は物価上昇の予想がなかったときの金利(=実質金利)より、その予想物価上昇率分だけ高まる。(以下略) 有斐閣経済辞典第5版 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html

なぜインフレが必要なのか?(再掲)

Q:名目金利が年8%でインフレ率(CPI)が年5%のとき、実質金利は3%か? ex. 100円の債券投資→1年後:108円 100円の消費財の組み合わせ→1年後:105円 のとき 1年後の108円の購買力=108/105=1.02857 (この投資の収益率:2.857%) ☆実質金利と名目金利、インフレ率(CPI)の関係 1+実質金利=(1+名目金利)/(1+インフレ率) ex.参照せよ 式変形して、すなわち ★実質金利=(名目金利-インフレ率)/(1+インフレ率) つまり、デフレはマイナスのインフレ率なので、実質金利を上げてしまう。 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html

貨幣数量説(再掲)ーなぜ貨幣供給量を増やすと物価が上がるのか?

完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は古典派経済学の発想なので、完全雇用は常に達成されていると想定されているので、物価は貨幣量と貨幣の流通速度で決まる。 従って、貨幣量を増加させれば、物価は上がる。 「貨幣の所得流通速度が一定不変で,かつ伸縮的な価格メカニズムの作用により実質産出量(実質国民所得)の水準が長期の均衡値に一致するならば,貨幣数量の変化は国民所得の大きさや構成にはなんら影響を与えず,ただ物価水準を比例的に変化させると主張する説。」有斐閣経済辞典第4版

当てはまりにくい「貨幣数量説」ーいつぞやの日経切り抜きより 大阪大学教授 敦賀貴之先生

経済活動の量が変わらなければ、 貨幣量を増加させれば 物価だけが増えると予測できます。 つまり、経済に流通する貨幣量を 機械的に増やすと、 増えた貨幣はそのまま 経済に流通し、 経済取引の総額が増えます。 しかし、 経済にお金が回っても 需要が高まるだけで、 供給は増えず、 貨幣量と同じスピードで 物価だけが上昇します。 このように、 貨幣の数量で物価が 決まるという考え方が 貨幣数量説です。 日銀は20年近くにわたり、 貨幣量を大幅に増やしましたが、 物価の上昇は期待ほどではありません。 多くの経済学者は、 短期的には 貨幣量の変化は生産量の変化につながると考えます。 さらに データ上は、 流通速度は趨勢的に 低下傾向を示し、 日本ではこの30年で 流通速度が半分に低下しました。 貨幣量が増えれば 物価は上がるという 単純な理屈は 当てはまりにくいのです。

シュレーバー控訴院長は尻の中に太陽光線をきらめかせる。これは太陽肛門である。

《슈뢰버 항소원장은 엉덩이 속에 태양광선을 반짝인다》이것은 태양 항문이다.<그것>이 기능하는 것은 확신해도 좋다.슈뢰버 항소원장은 무언가를 느끼고 무언가를 생산하고 이에 대한 이론을 만들 수 있다.뭔가가 생산되다.이 무엇인가는 기계가 가져오는 결과이지 단순한 은유가 아니다.》

2022年9月12日月曜日

平沼翔太サードスタメン

BS1で ソフトバンク対西武 の首位攻防戦 やってるから 見てるけど、 平沼を見たいってのも あるけど、 それ以上に 思ったのは、 西武の先発エンス、 別に 凄い球投げるわけでもないし、 球数も使いまくってんだけど、 なんだかんだ 試合作ってる。 リードはされてるけど。 外国人ピッチャーにしては、 というと偏見かも知れないけど、 打たれ強いっていうか、 打ち込まれても、 へこたれない。 イラついた素振りも見せないし、 すげえ我慢強いなーと思うわ。 流石に2桁勝ってるだけのことはある。 ガイジンがベンチでピリピリしてると、 ベンチもムード悪くなるしね。 球自体は凄くても、 ちょっと打たれると すぐに 乱れる ガラスのハート みたいな ピッチャーもいるからね。 エンス投手は、 観客を魅了するような ピッチングとは 程遠いんだけど、 メンタル強い。 平沼のいいところも見れたし、 良かった。 なんだかんだで 首位攻防に相応しい 接戦になってるし。

これが現実

https://bunshun.jp/articles/-/57242 「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」 E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より

失敗した

Kindleで 麻布競馬場の 本 買ったけど、 つまんなかった。 最初の 話は、 ウェブでアップ されてるやつだったから 飛ばしたけど、 2話目は、 最初の2、3ページで もう なんかツマンナイ。 中高と女子学院で、 塾でオトコ作るのはダサい、 そもそも、モテることに価値を置くことがダサい、 という校風で育ったとか言いながら、 東大落ちて 慶応入ったら さっそく オトコつくってるし、 ヤッてるし。 しかも、 明らかに手慣れてる。 そこでもう なんか リアリティーを感じられなくなった。 40でどーてーの俺からすれば、 なんか、 大学生になったら ヤルのが当たり前っていう 空気感が もうキモい。 それがそもそも 固定観念としか思えない。 そういう、 もろもろの固定観念に囚われてるくせに、 その固定観念から抜け出そうとして、 抜け出せないことに 半ば 絶望してるっていうのが、 ショボい。 口ほどにもねえ。

資本主義と家族(再掲)

家族が、資本主義化された社会野全体の部分集合になっていて、社会的な諸人物のイメージが「父―母―子」の三角形に還元される、ということですね。「還元(縮小)される se rabattre」という所がミソです。資本主義社会全体が三者関係によって表象されるわけではなく、その一部だけが家族の中で二次的表象を作り出すわけです。家族は、資本主義機械によって植民地化されているわけで、「父」や「母」は資本主義機械の一部を代理して、「私」を躾け、飼いならすわけです。  「父―母」を「消費する consommer」というのは、家族の中で父や母によって子供としての私の欲望が充足される、ということでしょう。恐らく、社会機械と繋がっている人間の欲望の発展の方向性は元来かなり多様なはずなのだけど、核家族の中で育てられると、それはかなり限定的なものになっていく、ということでしょう。小さい私はもっぱらパパやママから与えられるものを消費する受動的な存在にすぎません。大人になって、「社長―指導者―神父・・・」等の職に就いたら、消費するだけでなくて、自らも生産活動に携わるようになるので、社会体に対して能動的に働きかけ、自己の欲望の回路を拡大できるようになるかと言えば、そうはいかない。子供の時に教えられたように消費しようとする。それが、エディプス三角形の中での「去勢」でしょう。 ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義 p.300~301 作品社 仲正昌樹

2022年9月11日日曜日

ふおおおおおお!!!!

広告収入が 60円!!! 俺の駄文がカネになった!!!

ボードレール 「フーコー・コレクション6」ちくま学芸文庫 より

ボードレールにとって、現代的な人間とは、自己自身の発見、自らの秘密および自らの隠された真理の発見へと向かう人間ではない。 現代的な人間とは、自分自身を自ら創出する人間のことなのだ。 現代性は、「人間をその固有の存在へと解き放つことはない」。 現代性は、人間を、自分自身を作り上げるという使命に縛り付けるのである。 (379ページ) (中略) <現在>のこうしたアイロニカルな英雄化、現実的なものを 変容させるために現実的なものと取り結ぶ自由の戯れ、 自己の禁欲的な練り上げ、 ボードレールはそれらが社会自体のなかで、 あるいは政治体のなかで 成立しうる、 とは考えていない。 それは、他の場所でしか起こりえないのであり、 その場所こそ、 ボードレールが 芸術と呼ぶものなのである。 (380ページ)

2022年9月10日土曜日

麻布競馬場「3年4組のみんなへ」を読んだ感想ーーー「戦後社会」の彼方へ

愛という感情が日本の歴史上にも古くから存在していたことは、源氏物語にも書かれていることで、わかる。 しかし、日本の宗教観念には、愛を裏打ちするものがない。 曾根崎心中は、男が女郎をカネで身受けしようとするが、心中する、という悲劇である。 物語上で彼らが悲劇的な最期を遂げざるを得ないのは、男が、女郎を身受けすれば、男は商人として大阪から追放される運命にあったからでもある。 貴穀賎金という言葉があるように、江戸時代の日本では、カネは汚いものという観念があった。 見方によっては、曾根崎心中において示されたのは、カネと愛は両立しえない、もし純愛を遂げようとすれば、命を犠牲にせざるを得ない、という当時の観念を表現していたとも言える。 六部殺しの伝承のように、カネには罪に穢されているいる、という感覚もあるだろう。 曾根崎心中は、むしろ、カネという原罪を担保に、愛を成就させようとする文学的効果があると言えるかもしれない。 尾崎豊の歌に「僕が僕であるために」という楽曲があるが、現代日本においては、男は、曾根崎心中の男のように、社会に抗いながらも、純愛を遂げられない。 「僕が僕であるために、勝ち続けなければならない」のに、女に対しては、非自発的に別れを告げなければならない。 夏目漱石の「それから」の代助が百合の香りにむせぶシーンのように、純愛を遂げようとすれば、それは理性を放擲せざるを得ないような、不可能な冒険なのだ。 それは、漱石という作家の文脈では、日本人はイエを存続させるために、純粋な異性愛を犠牲にしなければならない、という明白な義務と、近代の西洋的ラヴという観念が、齟齬をきたしているのである。 「こころ」においては、「先生」は、妻をめぐって、非自発的に友人を殺してしまった、という原罪を設定することで、純粋な異性愛に漸近しようと試みる。 しかし、その試みは、「先生」は、その友人の死という残虐劇を、明治という時代に殉死する、というように、国家への忠誠心にすり替えてしまう。 現代日本という社会においては、愛は成就しないものなのだろうか? 尾崎以降、ありとあらゆる純愛の歌が唄われてきたが、結局むき出しの愛は破綻せざるを得ないことを、社会そのものが証明しているのではないだろうか? 尾崎が愛を謳いながらも、成就できないのは、現代日本社会の特質なのだろうか? その姿は、社会の中での生存場所を犠牲にする代わりに、自らの命を犠牲にした曾根崎心中の男と似てはいるが、そこに純愛は成就されない。 なぜなら、「僕が僕であるために、勝ち続けなけれならない」からである。 たとえ異性愛に殉死しても、それは社会に敗北しているからである。 曾根崎心中の男女のように、純愛に殉死することで、社会に勝っていない。 その意味で、江戸時代と現代日本は、やはり異なる社会ということになるだろう。 「三島は紛うことなく戦後社会の外部に立とうとした。だが、戦後社会は自分の外部があることを許容しない。この拒否は生の哲学という全面的な肯定の所作において行われているためほとんど意識されない。どんな精神のかたちにせよ、それが生命の形式であるかぎりー体制派も、全共闘運動もふくめてー戦後的な生の哲学はそれを是認しうるのである。三島は死に遅れたものとして、戦後社会とのそのような共犯性、あるいは戦後社会の総体性にたいして潔癖ともいえる反発の意思を隠そうとしなかった。三島の精神による抵抗に意味があるとすれば、それが生の哲学の軌跡に回収されないことであり、死を如実にはらんでいる限りにおいてであった。三島は自分の精神を思想的な形象でみたしたが、そうした彩りはただ死の線分に接続する限りにおいてのみ精神の形象でありえたにすぎなかった。」(395ページ) 国土論 内田隆三 筑摩書房 上皇上皇后ご夫妻の結婚が体現した、愛の成就のカタチは、性愛に基づく核家族という生のあり方を提示したが、それは、三島のように自らの命を死の線分に接続し続けることによってしか、社会の外部に立てないことをも呈示した。 尾崎豊もまた、悲劇的な死という形象によってのみ、社会に「勝った」のである。

日経新聞文化面(再掲)

<このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう> 三島由紀夫は1970年11月25日に自裁する約4ヶ月前、「果たし得ていない約束」と題する文章を新聞に寄せた。 (中略) (宮台真司氏によれば)「三島が捉えた日本の本質と彼が主張する天皇主義を理解する上でこの文章はとても重要」と考えている。 日本人にとって天皇の存在は必要不可欠であると三島が考えたのは、さもなくば日本社会が空虚なものになるという危機感があったからだ。

拙い論考(再掲)

ところで、現実の問題として、自立した個人から成る世界がすぐに出現するわけではない。他者は、他者を認知する者にとって異質な存在である。これは他者を「差異」であるということが同定された限りにおいてである。差異は同一性の下でしか正当性を持ちえない。同一性に吸収されない差異=他者は、排除される。それを可能にしていたのが、祖先の存在であり、また神であった。たとえ、異なる地位にあって、通常は口を聞くことも、顔を見ることさえ許されなくとも、共通の神を持っているという認識の下に、異なる地位にある者同士が共同体を維持する。地位を与えるのは神であり、それに対してほとんどの者は疑問さえ抱かなかったのである。(p.177~178) (中略) カースト制は、総体として、閉鎖的で完結的な世界を築く。そこでは、ウェーバーが「デミウルギー」と呼んだ、手工業者が村に定住し、無報酬で奉仕する代わりに、土地や収穫の分け前を受け取る制度が敷かれている。このような制度では、商品経済が発達する可能性はほとんどない。したがって、他者としての商人が、共同体内によそものとして現れる可能性は低い。 これに対して、市場論理が浸透した世界では、他者が他者として認知される。それは、複数の世界に属することを可能にする包含の論理によって律せられている世界である。このような世界が可能であるためには、共同体の外部に位置する他者の明確なイメージが築かれる。その推進者となるのが、商人であり、貨幣である。 それでは、なぜ貨幣が推進者となるのか。それは、貨幣を通じて、共同体の外部に存在するモノを手に入れ、みずから生産するモノを売却することが可能になるからである。共同体の外部が忌避すべき闇の空間でしかない状態から、共同体の内と外に明確な境界が引かれ、ある特定の共同体に属しながらも、その外部にも同時に存在することを可能にするのが、貨幣なのである。他者が、貨幣と交換可能なモノ、つまり商品を売買したいという希望を掲げていれば、それによって他者のイメージは固定され、他者の不透明性を払拭できる。こうして、貨幣は、共同体外部への関心を誘発していく。そして、カースト制のような閉鎖的な社会とは大きく異なり、ふたつの異なる世界において、同一性を築こうとするのである。 もちろん、誰もが商人になるこのような世界がすぐに出現するわけではない。そのためには、まず貨幣が複数の共同体のあいだで認知されなければならない。そして、マルクスが注視したように、多くの者が賃金労働者として「労働力」を売るような状況が必要である。そして、そうした状況が実際に現れてくるのが、マルクス自身が観察した通り、一九世紀のイギリスなのである。単独の世界に帰属することも、複数の世界に関わることも認める世界は、労働が労働力として商品になり、賃労働が普及する資本主義の世界においてである。(p.180~181) 「零度の社会」荻野昌弘著 世界思想社 共同体主義というのは、ある種の神を設定せずには、存続できないものなのだろうか? 吉本隆明が「共同幻想論」で説いていたことをなんとなく思い出すと、様々な神々と結びついたタブーや、物語が、ムラを支配する規範として働いていた。 ユダヤ民族が唯一神から、託宣を受けたのは、生存環境があまりにも過酷だったからだろうか? 少し具体的な話では、昭和史発掘を読んでいると、昭和天皇をご本人の意志を無視して、神として祭り上げていくムーヴメントが克明に描かれている。 簡単に言えば、国家があって天皇がある、というのではなく、万世一系の天皇がいて、国家がある、という考え方だ。 戦争をするには、そのほうが便利だということもあるだろう。 丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。 しかしながら天皇制が近代日本の思想的「機軸」として負った役割は単にいわゆる國體観念の教化と浸透という面に尽くされるのではない。それは政治構造としても、また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。(・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、それが制度自体と制度にたいする人々の考え方をどのように規定しているか、という、いわば日本国家の認識論的構造にある。 これに関し、仲正昌樹は「日本の思想講義」(作品社)において、つぎのように述べている。 「國體」が融通無碍だという言い方をすると、観念的なもののように聞こえるが、そうではなく、その観念に対応するように、「経済・交通・教育・文化」の各領域における「制度」も徐々に形成されていった。「國體」観念をはっきり教義化しないので、制度との対応関係も最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、目に見える効果をあげるようになった。ということだ。 後期のフーコー(1926-84)に、「統治性」という概念がある。統治のための機構や制度が、人々に具体的行動を取るよう指示したり、禁止したりするだけでなく、そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、それを当たり前のことにしていく作用を意味する。人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用) エーリッヒ・フロムによれば、第一次的絆の喪失と、プロテスタンティズムのマゾ的心性と、ナチズムのサド的心性が、あたかもSMのような相互依存関係に陥ったことを問題視していたことを考えると、現代の日本社会でも、ある種の共同体主義は必要とされるんだろう。 漱石の一連の小説が、近代的個人の誕生と、concomitantに起こる旧いイエ制度の緩やかな崩壊を描いていることは、石原千秋が指摘するところでもある。 日本が、天皇を頂点とした想像的な父権社会という、全体主義の変奏曲を演じたのも、フロムの、第一次的絆の喪失という側面もあっただろう。 つまり、共同体主義と、全体主義との根本的な違いを明らかにすることが要請される。 ひとつ考えられるのは、共同体主義においては、自生的秩序や、コンベンションといった、保守的自由主義の効用が重視されるだろう。そこには、包摂できる範囲というものが、自と限界がある。 それに対して、全体主義は、メガロマニアックな神話が、exponentialyにメンバーを呑み込んでいく。 むしろ、明治という時代に人々を日本という「大地」に縛り付けたものはなんなのか? 「負債」の観念を抱かせることが、社会全体を構成し、安定的に維持するための手段であるわけで、交換とか経済的利益は副次的な意味しかないわけです。先ほどお話ししたように、儀式に際して各自の欲望機械を一点集中的に活性化させますが、この強烈な体験を「負債」と記憶させて、大地に縛り付けることが社会の維持に必要なわけです。現代社会にも通過儀礼のようなものがありますし、教育の一環として意味の分からない、理不尽に感じることさえある躾を受けることがありますが、それは、この「負債」の刻印と同根だということのようです。「負債」の刻印が本質だとすると、むしろ下手に合理的な理由をつけずに、感覚が強制的に動員される、残酷劇の方がいい、ということになりそうですね。 <アンチ・オイディプス>入門講義 仲正昌樹 作品社 p.255 特に象徴的なのは、「こころ」において、『先生』がKの頭を持ち上げようとした時に感じた、重さ、そして絶望。その、原罪と言っても過言ではないほどの負債観念が、明治という時代に殉死する、という言葉とともに、読者を明治以降の日本人とともに、日本という大地に縛りつける役割を果たしたと言っても過言ではないだろう。 ヘーゲルもある種の共同体主義者なのかも知れないが、現代において、もはや国家を単位とした共同体主義を目指すことは不可能だろう。 そうであれば、グローバル化した現代社会においてviableな共同体主義とはいかなるものなのか、を考える必要がある。 しかし、共同体主義を強調し過ぎると、アーミッシュのような生活をしろという話になりかねない。 期せずして書いたように、政府という肥大化した「代理人」に対して、ジョン・ロックが市民の抵抗権を認めたように、現代社会においても、現代社会のあらゆる構図において見られるプリンシパル=エージェント関係の中での、自主的抵抗を自覚することが可能性として考えられる。 アブラハムに対して、我が子イサクを殺すように命じた神のように、その計量可能性を超越した呵責のなさが、逆に共同体を構成する「絆」としての負債観念として刻印される、ということはあるかもしれない。

国土論(再掲)

「敗戦にいたるまで国土に固有の曲率を与えていたのは天皇の存在であった。だが、天皇が『われ 神にあらず』と表明したときから、天皇の像は国土に曲率を与える重力の中心からゆっくりと落下していく。重い力は天皇から無言の死者たちに移動する。聖なるものはむしろ死者たちであり、天皇もこの死者たちの前に額ずかねばならない。この死者たちはその痛ましいまなざしによってしか力をもたないとしてもである。それゆえ戦後社会が天皇とともに超越的なものを失ってしまったというのは正しくない。そこには報われぬ死者たちというひそかな超越があり、天皇は皇祖神を祀るだけでなく、この無名の超越者を慰霊する司祭として、ゆるやかな超越性を帯びるからである。」137ページ 国土論 内田隆三 筑摩書房

ご回答(再掲)

一つの簡単な答えは、ヘーゲル的な意味での統治は不可能だということです。その代替案は複数ありえますし、フーコーはその一つでしょう(ただし、「知と権力」の共犯関係がいかなる統治を具体化するのかは、わたしには理解しがたい難しさがあるように思えます)。  最もわかりやすい代替案が新自由主義の統治だといえます。もしもこれを拒絶するとすれば、問題は、何らかの形でのヘーゲル的な統治への回帰か、神無き時代の連帯の可能性の追求となります。現代のリベラルな政治理論はだいたい後者のさまざまなバリエーションですが、密かに神が導入されている可能性があるのものが多いので、フーコーのような議論が流行るのだと思われます。  鴎外については、わたしにはコメントする能力はありません。ただ、そのような苦悩があるとすれば、それは鴎外がいかにヨーロッパ(ドイツ)文明に拘束されていたのかを示すことになるでしょう。ただし、そのような苦悩をまったく抱かない(ないしは、そのような苦悩の可能性に思い至らない)日本人よりは、はるかにましな精神性をもっていると思いますが。  明治日本は、ある意味では、神無しでヘーゲル的な全体性を国家は維持できるのか、という問いをいち早く突きつけられていたともいえます。この問いへの回答の一つは、現在でも、「新たな神の創造」ですが、そのような回答が、必然的に政治的に悲惨なものになることは、我々が歴史から学んだことだといえます。キリスト教文化圏では、たとえ神が死んだ時代でも、この危険性がよく知られていますが、はたして日本ではどうでしょうか。考えてみてください。

青空文庫ー「かのように」 森鴎外

かのように 森鴎外  朝小間使の雪が火鉢ひばちに火を入れに来た時、奥さんが不安らしい顔をして、「秀麿ひでまろの部屋にはゆうべも又電気が附いていたね」と云った。 「おや。さようでございましたか。先さっき瓦斯煖炉ガスだんろに火を附けにまいりました時は、明りはお消しになって、お床の中で煙草たばこを召し上がっていらっしゃいました。」  雪はこの返事をしながら、戸を開けて自分が這入はいった時、大きい葉巻の火が、暗い部屋の、しんとしている中で、ぼうっと明るくなっては、又微かすかになっていた事を思い出して、折々あることではあるが、今朝もはっと思って、「おや」と口に出そうであったのを呑のみ込んだ、その瞬間の事を思い浮べていた。 「そうかい」と云って、奥さんは雪が火を活いけて、大きい枠わく火鉢の中の、真っ白い灰を綺麗きれいに、盛り上げたようにして置いて、起たって行くのを、やはり不安な顔をして、見送っていた。邸やしきでは瓦斯が勝手にまで使ってあるのに、奥さんは逆上のぼせると云って、炭火に当っているのである。  電燈は邸やしきではどの寝間にも夜どおし附いている。しかし秀麿は寝る時必ず消して寝る習慣を持っているので、それが附いていれば、又徹夜して本を読んでいたと云うことが分かる。それで奥さんは手水ちょうずに起きる度たびに、廊下から見て、秀麿のいる洋室の窓の隙すきから、火の光の漏れるのを気にしているのである。      ――――――――――――――――  秀麿は学習院から文科大学に這入って、歴史科で立派に卒業した。卒業論文には、国史は自分が畢生ひっせいの事業として研究する積りでいるのだから、苛いやしくも筆を著つけたくないと云って、古代印度インド史の中から、「迦膩色迦王かにしかおうと仏典結集ぶってんけつじゅう」と云う題を選んだ。これは阿輸迦王あそかおうの事はこれまで問題になっていて、この王の事がまだ研究してなかったからである。しかしこれまで特別にそう云う方面の研究をしていたのでないから、秀麿は一歩一歩非常な困難に撞著どうちゃくして、どうしてもこれはサンスクリットをまるで知らないでは、正確な判断は下されないと考えて、急に高楠博士たかくすはくしの所へ駈かけ附けて、梵語ぼんご研究の手ほどきをして貰った。しかしこう云う学問はなかなか急拵きゅうごしらえに出来る筈はずのものでないから、少しずつ分かって来れば来る程、困難を増すばかりであった。それでも屈せずに、選んだ問題だけは、どうにかこうにか解決を附けた。自分ではひどく不満足に思っているが、率直な、一切の修飾を却しりぞけた秀麿の記述は、これまでの卒業論文には余り類がないと云うことであった。  丁度この卒業論文問題の起った頃からである。秀麿は別に病気はないのに、元気がなくなって、顔色が蒼あおく、目が異様に赫かがやいて、これまでも多く人に交際をしない男が、一層社交に遠ざかって来た。五条家では、奥さんを始として、ひどく心配して、医者に見せようとしたが、「わたくしは病気なんぞはありません」と云って、どうしても聴かない。奥さんは内証ないしょうで青山博士が来た時尋ねてみた。青山博士は意外な事を問われたと云うような顔をしてこう云った。 「秀麿さんですか。診察しなくちゃ、なんとも云われませんね。ふん。そうですか。病気はないから、医者には見せないと云うのでしたっけ。そうかも知れません。わたくしなんぞは学生を大勢見ているのですが、少し物の出来る奴が卒業する前後には、皆あんな顔をしていますよ。毎年卒業式の時、側そばで見ていますが、お時計を頂戴ちょうだいしに出て来る優等生は、大抵秀麿さんのような顔をしていて、卒倒でもしなければ好いと思う位です。も少しで神経衰弱になると云うところで、ならずに済んでいるのです。卒業さえしてしまえば直ります。」  奥さんもなる程そうかと思って、強しいて心配を押さえ附けて、今に直るだろう、今に直るだろうと、自分で自分に暗示を与えるように努めていた。秀麿が目の前にいない時は、青山博士の言った事を、一句一句繰り返して味ってみて、「なる程そうだ、なんの秀麿に病気があるものか、大丈夫だ、今に直る」と思ってみる。そこへ秀麿が蒼い顔をして出て来て、何か上うわの空そらで言って、跡は黙り込んでしまう。こっちから何か話し掛けると、実みの入いっていないような、責せめを塞ふさぐような返事を、詞ことばの調子だけ優しくしてする。なんだか、こっちの詞は、子供が銅像に吹矢を射掛けたように、皮膚から弾はじき戻されてしまうような心持がする。それを見ると、切角青山博士の詞を基礎にして築き上げた楼閣ろうかくが、覚束おぼつかなくぐらついて来るので、奥さんは又心配をし出すのであった。      ――――――――――――――――  秀麿は卒業後直ただちに洋行した。秀麿と大した点数の懸隔もなくて、優等生として銀時計を頂戴した同科の新学士は、文部省から派遣せられる筈だのに、現にヨオロッパにいる一人が帰らなくては、経費が出ないので、それを待っているうちに、秀麿の方は当主の五条子爵が先へ立たせてしまった。子爵は財政が割合に豊かなので、嫡子ちゃくしに外国で学生並の生活をさせる位の事には、さ程困難を感ぜないからである。  洋行すると云うことになってから、余程元気附いて来た秀麿が、途中からよこした手紙も、ベルリンに著ついてからのも、総すべての周囲の物に興味を持っていて書いたものらしく見えた。印度インドの港で魚うおのように波の底に潜くぐって、銀銭を拾う黒ん坊の子供の事や、ポルトセエドで上陸して見たと云う、ステレオチイプな笑顔の女芸人が種々の楽器を奏する国際的団体の事や、マルセイユで始て西洋の町を散歩して、嘘と云うものを衝つかぬ店で、掛値と云うもののない品物を買って、それを持って帰ろうとして、紳士がそんな物をぶら下げてお歩きにならなくても、こちらからお宿へ届けると云われ、頼んで置いて帰ってみると、品物が先へ届いていた事や、それからパリイに滞在していて、或る同族の若殿に案内せられてオペラを見に行った時、フォアイエエで立派な貴夫人が来て何なんか云うと、若殿がつっけんどんに、わたし共はフランス語は話しませんと云って置いて、自分が呆あきれた顔をしたのを見て女に聞えたかと思う程大きい声をして、「Toutツウ ceシヨ quiキイ brilleブリユ, n'estネエ pas orパアゾオル」と云ったので、始てなる程と悟った事や、それからベルリンに著いた当時の印象を瑣細ささいな事まで書いてあって、子爵夫婦を面白がらせた。子爵は奥さんに三省堂の世界地図を一枚買って渡して、電報や手紙が来る度に、鉛筆で点を打ったり線を引いたりして、秀麿はここに著いたのだ、ここを通っているのだと言って聞かせた。  ヨオロッパではベルリンに三年いた。その三年目がエエリヒ・シュミット総長の下もとに、大学の三百年祭をする年に当ったので、秀麿も鍔つばの嵌はまった松明たいまつを手に持って、松明行列の仲間に這入って、ベルリンの町を練って歩いた。大学にいる間、秀麿はこの期にはこれこれの講義を聴くと云うことを、精くわしく子爵の所へ知らせてよこしたが、その中にはイタリア復興時代だとか、宗教革新の起原だとか云うような、歴史その物の講義と、史的研究の原理と云うような、抽象的な史学の講義とがあるかと思うと、民族心理学やら神話成立やらがある。プラグマチスムスの哲学史上の地位と云うのがある。或る助教授の受け持っているフリイドリヒ・ヘッベルと云う文芸史方面のものがある。ずっと飛び離れて、神学科の寺院史や教義史がある。学期ごとにこんな風で、専門の学問に手を出した事のない子爵には、どんな物だか見当の附かぬ学科さえあるが、とにかく随分雑駁ざっぱくな学問のしようをしているらしいと云う事だけは判断が出来た。しかし子爵はそれを苦にもしない。息子を大学に入れたり、洋行をさせたりしたのは、何も専門の職業がさせたいからの事ではない。追って家督相続をさせた後に、恐多いが皇室の藩屏はんぺいになって、身分相応な働きをして行くのに、基礎になる見識があってくれれば好い。その為ために普通教育より一段上の教育を受けさせて置こうとした。だから本人の気の向く学科を、勝手に選んでさせて置いて好いと思っているのであった。  ベルリンにいる間、秀麿が学者の噂うわさをしてよこした中に、エエリヒ・シュミットの文才や弁説も度々褒ほめてあったが、それよりも神学者アドルフ・ハルナックの事業や勢力がどんなものだと云うことを、繰り返してお父うさんに書いてよこしたのが、どうも特別な意味のある事らしく、帰って顔を見て、土産話みやげばなしにするのが待ち遠いので、手紙でお父うさんに飲み込ませたいとでも云うような熱心が文章の間に見えていた。殊ことに大学の三百年祭の事を知らせてよこした時なんぞは、秀麿はハルナックをこの目覚ましい祭の中心人物として書いて、ウィルヘルム第二世とハルナックとの君臣の間柄は、人主が学者を信用し、学者が献身的態度を以もって学術界に貢献しながら、同時に君国の用をなすと云う方面から見ると、模範的だと云って、ハルナックが事業の根柢こんていをはっきりさせる為めに、とうとう父テオドジウスの事にまで溯さかのぼって、精くわしく新教神学発展の跡を辿たどって述べていた。自分の専門だと云っている歴史の事に就いても、こんなに力を入れて書いてよこしたことはないのに、どうしてハルナックの事ばかりを、特別に言ってよこすのだろうと子爵は不審に思って、この手紙だけ念を入れて、度々読み返して見た。そしてその手紙の要点を掴つかまえようと努力した。手紙の内容を約つづめて見れば、こうである。政治は多数を相手にした為事しごとである。それだから政治をするには、今でも多数を動かしている宗教に重きを置かなくてはならない。ドイツは内治の上では、全く宗教を異ことにしている北と南とを擣つきくるめて、人心の帰嚮きこうを繰あやつって行かなくてはならないし、外交の上でも、いかに勢力を失墜しているとは云え、まだ深い根柢を持っているロオマ法王を計算の外に置くことは出来ない。それだからドイツの政治は、旧教の南ドイツを逆さからわないように抑おさえていて、北ドイツの新教の精神で、文化の進歩を謀はかって行かなくてはならない。それには君主が宗教上の、しっかりした基礎を持っていなくてはならない。その基礎が新教神学に置いてある。その新教神学を現に代表している学者はハルナックである。そう云う意味のある地位に置かれたハルナックが、少しでも政治の都合の好いように、神学上の意見を曲げているかと云うに、そんな事はしていない。君主もそんな事をさせようとはしていない。そこにドイツの強みがある。それでドイツは世界に羽をのして、息張いばっていることが出来る。それで今のような、社会民政党の跋扈ばっこしている時代になっても、ウィルヘルム第二世は護衛兵も連れずに、侍従武官と自動車に相乗をして、ぷっぷと喇叭らっぱを吹かせてベルリン中を駈け歩いて、出し抜に展覧会を見物しに行ったり、店へ買物をしに行ったりすることが出来るのである。ロシアとでも比べて見るが好い。グレシア正教の寺院を沈滞のままに委まかせて、上辺うわべを真綿にくるむようにして、そっとして置いて、黔首けんしゅを愚ぐにするとでも云いたい政治をしている。その愚にせられた黔首が少しでも目を醒さますと、極端な無政府主義者になる。だからツアアルは平服を著きた警察官が垣を結ったように立っている間でなくては歩かれないのである。一体宗教を信ずるには神学はいらない。ドイツでも、神学を修めるのは、牧師になる為めで、ちょっと思うと、宗教界に籍を置かないものには神学は不用なように見える。しかし学問なぞをしない、智力の発展していない多数に不用なのである。学問をしたものには、それが有用になって来る。原来がんらい学問をしたものには、宗教家の謂いう「信仰」は無い。そう云う人、即すなわち教育があって、信仰のない人に、単に神を尊敬しろ、福音ふくいんを尊敬しろと云っても、それは出来ない。そこで信仰しないと同時に、宗教の必要をも認めなくなる。そう云う人は危険思想家である。中には実際は危険思想家になっていながら、信仰のないのに信仰のある真似をしたり、宗教の必要を認めないのに、認めている真似をしている。実際この真似をしている人は随分多い。そこでドイツの新教神学のような、教義や寺院の歴史をしっかり調べたものが出来ていると、教育のあるものは、志さえあれば、専門家の綺麗に洗い上げた、滓かすのこびり付いていない教義をも覗のぞいて見ることが出来る。それを覗いて見ると、信仰はしないまでも、宗教の必要だけは認めるようになる。そこで穏健な思想家が出来る。ドイツにはこう云う立脚地を有している人の数がなかなか多い。ドイツの強みが神学に基づいていると云うのは、ここにある。秀麿はこう云う意味で、ハルナックの人物を称讃しょうさんしている。子爵にも手紙の趣意はおおよそ呑のみ込めた。  西洋事情や輿地誌略よちしりゃくの盛んに行われていた時代に人となって、翻訳書で当用を弁ずることが出来、華族仲間で口が利かれる程度に、自分を養成しただけの子爵は、精神上の事には、朱子しゅしの註ちゅうに拠よって論語を講釈するのを聞いたより外、なんの智識もないのだが、頭の好い人なので、これを読んだ後に内々ないない自ら省かえりみて見た。倅せがれの手紙にある宗教と云うのはクリスト教で、神と云うのはクリスト教の神である。そんな物は自分とは全く没交渉である。自分の家には昔から菩提所ぼだいしょに定さだまっている寺があった。それを維新の時、先代が殆ど縁を切ったようにして、家の葬祭を神官に任せてしまった。それからは仏と云うものとも、全く没交渉になって、今は祖先の神霊と云うものより外、認めていない。現に邸内ていないにも祖先を祭った神社だけはあって、鄭重ていちょうな祭をしている。ところが、その祖先の神霊が存在していると、自分は信じているだろうか。祭をする度に、祭るに在いますが如くすと云う論語の句が頭に浮ぶ。しかしそれは祖先が存在していられるように思って、お祭をしなくてはならないと云う意味で、自分を顧みて見るに、実際存在していられると思うのではないらしい。いられるように思うのでもないかも知れない。いられるように思おうと努力するに過ぎない位ではあるまいか。そうして見ると、倅の謂いう、信仰がなくて、宗教の必要だけを認めると云う人の部類に、自分は這入っているものと見える。いやいや。そうではない。倅の謂うのは、神学でも覗いて見て、これだけの教義は、信仰しないまでも、必要を認めなくてはならぬと、理性で判断した上で認めることである。自分は神道の書物なぞを覗いて見たことはない。又自分の覗いて見られるような書物があるか、どうだか、それさえ知らずにいる。そんならと云って、教育のない、信仰のある人が、直覚的に神霊の存在を信じて、その間になんの疑をも挿さしはさまないのとも違うから、自分の祭をしているのは形式だけで、内容がない。よしや、在いますが如く思おうと努力していても、それは空虚な努力である。いやいや。空虚な努力と云うものはありようがない。そんな事は不可能である。そうして見ると、教育のない人の信仰が遺伝して、微かすかに残っているとでも思わなくてはなるまい。しかしこれは倅の考えるように、教育が信仰を破壊すると云うことを認めた上の話である。果してそうであろうか。どうもそうかも知れない。今の教育を受けて神話と歴史とを一つにして考えていることは出来まい。世界がどうして出来て、どうして発展したか、人類がどうして出来て、どうして発展したかと云うことを、学問に手を出せば、どんな浅い学問の為方しかたをしても、何かの端々はしはしで考えさせられる。そしてその考える事は、神話を事実として見させては置かない。神話と歴史とをはっきり考え分けると同時に、先祖その外ほかの神霊の存在は疑問になって来るのである。そうなった前途には恐ろしい危険が横よこたわっていはすまいか。一体世間の人はこんな問題をどう考えているだろう。昔の人が真実だと思っていた、神霊の存在を、今の人が嘘だと思っているのを、世間の人は当り前だとして、平気でいるのではあるまいか。随したがってあらゆる祭やなんぞが皆内容のない形式になってしまっているのも、同じく当り前だとしているのではあるまいか。又子供に神話を歴史として教えるのも、同じく当り前だとしているのではあるまいか。そして誰たれも誰も、自分は神話と歴史とをはっきり別にして考えていながら、それをわざと擣つき交まぜて子供に教えて、怪まずにいるのではあるまいか。自分は神霊の存在なんぞは少しも信仰せずに、唯俗に従って聊復爾いささかまたしかり位の考で糊塗ことして遣やっていて、その風俗、即ち昔神霊の存在を信じた世に出来て、今神霊の存在を信ぜない世に残っている風俗が、いつまで現状を維持していようが、いつになったら滅亡してしまおうが、そんな事には頓著とんちゃくしないのではあるまいか。自分が信ぜない事を、信じているらしく行って、虚偽だと思って疚やましがりもせず、それを子供に教えて、子供の心理状態がどうなろうと云うことさえ考えてもみないのではあるまいか。倅は信仰はなくても、宗教の必要を認めると云うことを言っている。その必要を認めなくてはならないと云うこと、その必要を認める必要を、世間の人は思っても見ないから、どうしたら神話を歴史だと思わず、神霊の存在を信ぜずに、宗教の必要が現在に於おいて認めていられるか、未来に於いて認めて行かれるかと云うことなんぞを思って見ようもなく、一切無頓著でいるのではあるまいか。どうも世間の教育を受けた人の多数は、こんな物ではないかと推察せられる。無論この多数の外に立って、現今の頽勢たいせいを挽回ばんかいしようとしている人はある。そう云う人は、倅の謂う、単に神を信仰しろ、福音を信仰しろと云う類たぐいである。又それに雷同している人はある。それは倅の謂う、真似をしている人である。これが頼みになろうか。更に反対の方面を見ると、信仰もなくしてしまい、宗教の必要をも認めなくなってしまって、それを正直に告白している人のあることも、或る種類の人の言論に徴ちょうして知ることが出来る。倅はそう云う人は危険思想家だと云っているが、危険思想家を嗅かぎ出すことに骨を折っている人も、こっちでは存外そこまでは気が附いていないらしい。実際こっちでは、治安妨害とか、風俗壊乱とか云う名目みょうもくの下もとに、そんな人を羅致らちした実例を見たことがない。しかしこう云うことを洗立あらいだてをして見た所が、確しかとした結果を得ることはむずかしくはあるまいか。それは人間の力の及ばぬ事ではあるまいか。若もしそうだと、その洗立をするのが、世間の無頓著よりは危険ではあるまいか。倅もその危険な事に頭を衝つっ込んでいるのではあるまいか。倅は専門の学問をしているうちに、ふとそう云う問題に触れて、自分も不安になったので、己に手紙をよこしたかも知れぬ。それともこの問題にひどく重きを置いているのだろうか。  五条子爵は秀麿の手紙を読んでから、自己を反省したり、世間を見渡したりして、ざっとこれだけの事を考えた。しかしそれに就いて倅と往復を重ねた所で、自分の満足するだけの解決が出来そうにもなく、倅の帰って来る時期も近づいているので、それまで待っても好いと思って、返信は別に宗教問題なんぞに立ち入らずに、只委細承知した、どうぞなるべく穏健な思想を養って、国家の用に立つ人物になって帰ってくれとしか云って遣らなかった。そこで秀麿の方でも、お父うさんにどれだけ自分の言った事が分かったか知らずにいた。  秀麿は平生丁度その時思っている事を、人に話して見たり、手紙で言って遣って見たりするが、それをその人に是非十分飲み込ませようともせず、人を自説に転ぜさせよう、服させようともしない。それよりは話す間、手紙を書く間に、自分で自分の思想をはっきりさせて見て、そこに満足を感ずる。そして自分の思想は、又新しい刺戟しげきを受けて、別な方面へ移って行く。だからあの時子爵が精しい返事を遣ったところで、秀麿はもう同じ問題の上で、お父うさんの満足するような事を言ってはよこさなかったかも知れない。      ――――――――――――――――  洋行をさせる時健康を気遣った秀麿が、旅に出ると元気になったらしく、筆まめに書いてよこす手紙にも生々した様子が見え、ドイツで秀麿と親しくしたと云って、帰ってから尋ねて来る同族の人も、秀麿は随分勉強をしているが、玉も衝けば氷滑こおりすべりもすると云う風で、上流の人を相手にして開いている、某夫人のパンジオナアトでは、若い男女の寄宿人が、芝居の初興行をでも見に行くとき、ヴィコント五条が一しょでなくては面白くないと云う程だと話して聞せるので、子爵夫婦は喜んで、早く丈夫な男になって帰って来るのを見たいと思っていた。  秀麿は去年の暮に、書物をむやみに沢山持って、帰って来た。洋行前にはまだどこやら少年らしい所のあったのが、三年の間にすっかり男らしくなって、血色も好くなり、肉も少し附いている。しかし待ち構えていた奥さんが気を附けて様子を見ると、どうも物の言振いいぶりが面白くないように思われた。それは大学を卒業した頃から、西洋へ立つ時までの、何か物を案じていて、好い加減に人に応対していると云うような、沈黙勝な会話振が、定めてすっかり直って帰ったことと思っていたのに、帰った今もやはり立つ前と同じように思われたのである。  新橋へ著ついた日の事であった。出迎をした親類や心安い人の中うちには、邸まで附いて来たのもあって、五条家ではそう云う人達に、一寸ちょっとした肴さかなで酒を出した。それが済んだ跡で、子爵と秀麿との間に、こんな対話があった。  子爵は袴はかまを着けて据わって、刻煙草きざみたばこを煙管きせるで飲んでいたが、痩やせた顔の目の縁に、皺しわを沢山寄せて、嬉しげに息子をじっと見て、只一言「どうだ」と云った。 「はい」と父の顔を見返しながら秀麿は云ったが、傍そばで見ている奥さんには、その立派な洋服姿が、どうも先さっき客の前で勤めていた時と変らないように、少しも寛くつろいだ様子がないように思われて、それが気に掛かった。  子爵は息子がまだ何か云うだろうと思って、暫しばらく黙っていたが、それきりなんとも云わないので、詞ことばを続ついだ。「書物を沢山持って帰ったそうだね。」 「こっちで為事しごとをするのに差支えないようにと思って、中には読んで見る方の本でない、物を捜し出す方の本も買って帰ったものですから、嵩かさが大きくなりました。」 「ふん。早く為事に掛かりたかろうなあ。」  秀麿は少し返事に躊躇ちゅうちょするらしく見えた。「それは舟の中でも色々考えてみましたが、どうも当分手が著つけられそうもないのです。」こう云って、何か考えるような顔をしている。 「急ぐ事はない。お前のは売らなくてはならんと云うのでもなし、学位が欲しいと云うのでもないからな。」一旦いったんこうは云ったが、子爵は更に、「学位は貰っても悪くはないが」と言い足して笑った。  ここまで傍聴していた奥さんが、待ち兼ねたように、いろいろな話をし掛けると、秀麿は優しく受答をしていた。この時奥さんは、どうも秀麿の話は気乗がしていない、附合つきあいに物を言っているようだと云う第一印象を受けたのであった。  それで秀麿が座を立った跡で、奥さんが子爵に言った。「体は大層好くなりましたが、なんだかこう控え目に、考え考え物を言うようではございませんか。」 「それは大人おとなになったからだ。男と云うものは、奥さんのように口から出任せに物を言ってはいけないのだ。」 「まあ。」奥さんは目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった。四十代が半分過ぎているのに、まだぱっちりした、可哀かわいらしい目をしている女である。 「おこってはいけない。」 「おこりなんかしませんわ。」と云って、奥さんはちょいと笑ったが、秀麿の返事より、この笑の方が附合らしかった。      ――――――――――――――――  その時からもう一年近く立っている。久し振の新年も迎えた。秀麿は位階があるので、お父う様程忙しくはないが、幾分か儀式らしい事もしなくてはならない。新調させた礼服を著て、不精らしい顔をせずに、それを済ませた。「西洋のお正月はどんなだったえ」とお母あ様が問うと、秀麿は愛想好く笑う。「一向駄目ですね。学生は料理屋へ大晦日おおみそかの晩から行っていまして、ボオレと云って、シャンパンに葡萄酒ぶどうしゅに砂糖に炭酸水と云うように、いろいろ交ぜて温めて、レモンを輪切にして入れた酒を拵こしらえて夜なかになるのを待っています。そして十二時の時計が鳴り始めると同時に、さあ新年だと云うので、その酒を注ついだ杯さかずきをてんでんに持って、こつこつ打ち附けて、プロジット・ノイヤアルと大声で呼んで飲むのです。それからふざけながら町を歩いて帰ると、元日には寝ていて、午ひるまで起きはしません。町でも家うちは大抵戸を締めて、ひっそりしています。まあ、クリスマスにお祭らしい事はしてしまって、新年の方はお留守になっているようなわけです」と云う。「でもお上かみのお儀式はあるだろうね。」「それはございますそうです。拝賀が午後二時だとか云うことでした。」こんな風に、何事につけても人が問えば、ヨオロッパの話もするが、自分から進んで話すことはない。  二三月の一番寒い頃も過ぎた。お母あ様が「向うはこんな事ではあるまいね」と尋ねて見た。「それはグラットアイスと云って、寒い盛りに一寸ちょっと温かい晩があって、積った雪が上融うわどけをして、それが朝氷っていることがあります。木の枝は硝子ガラスで包んだようになっています。ベルリンのウンテル・デン・リンデンと云う大通りの人道が、少し凸凹でこぼこのある鏡のようになっていて、滑って歩くことが出来ないので、人足が沙すなを入れた籠かごを腋わきに抱えて、蒔まいて歩いています。そう云う時が一番寒いのですが、それでもロシアのように、町を歩いていて鼻が腐るような事はありません。煖炉のない家もないし、毛皮を著ない人もない位ですから、寒さが体には徹こたえません。こちらでは夏座敷に住んで、夏の支度をして、寒がっているようなものですね。」秀麿はこんな話をした。  桜の咲く春も過ぎた。お母あ様に桜の事を問われて、秀麿は云った。「ドイツのような寒い国では、春が一どきに来て、どの花も一しょに咲きます。美しい五月と云う詞があります。桜の花もないことはありませんが、あっちの人は桜と云う木は桜ん坊のなる木だとばかり思っていますから、花見はいたしません。ベルリンから半道はんみちばかりの、ストララウと云う村に、スプレエ川の岸で、桜の沢山植えてある所があります。そこへ日本から行っている学生が揃そろって、花見に行ったことがありましたよ。絨緞じゅうたんを織る工場の女工なんぞが通り掛かって、あの人達は木の下で何をしているのだろうと云って、驚いて見ていました。」  暑い夏も過ぎた。秀麿はお母あ様に、「ベルリンではこんな日にどうしているの」と問われて、暫く頭を傾けていたが、とうとう笑いながら、こう云った。「一番つまらない季節ですね。誰も彼も旅行してしまいます。若い娘なんぞがスウィッツルに行って、高い山に登ります。跡に残っている人は為方しかたがないので、公園内の飲食店で催す演奏会へでも往いって、夜なかまで涼みます。だいぶ北極が近くなっている国ですから、そんなにして遊んで帰って、夜なかを過ぎて寝ようとすると、もう窓が明るくなり掛かっています。」  かれこれするうちに秋になった。「ヨオロッパでは寒さが早く来ますから、こんな秋日和あきびよりの味は味うことが出来ませんね」と、秀麿は云って、お母あ様に対して、ちょっと愉快げな笑顔をして見せる。大抵こんな話をするのは食事の時位で、その外の時間には、秀麿は自分の居間になっている洋室に籠こもっている。西洋から持って来た書物が多いので、本箱なんぞでは間に合わなくなって、この一間だけ壁に悉ことごとく棚たなを取り附けさせて、それへ一ぱい書物を詰め込んだ。棚の前には薄い緑色の幕を引かせたので、一種の装飾にはなったが、壁がこれまでの倍以上の厚さになったと同じわけだから、室内が余程暗くなって、それと同時に、一間が外より物音の聞えない、しんとした所になってしまった。小春の空が快く晴れて、誰も彼も出歩く頃になっても、秀麿はこのしんとした所に籠って、卓テエブルの傍を離れずに本を読んでいる。窓の明りが左手から斜ななめに差し込んで、緑の羅紗らしゃの張ってある上を半分明るくしている卓である。      ――――――――――――――――  この秋は暖い暖いと云っているうちに、稀まれに降る雨がいつか時雨しぐれめいて来て、もう二三日前から、秀麿の部屋のフウベン形の瓦斯煖炉ガスだんろにも、小間使の雪が来て点火することになっている。  朝起きて、庭の方へ築つき出してある小さいヴェランダへ出て見ると、庭には一面に、大きい黄いろい梧桐ごとうの葉と、小さい赤い山もみじの葉とが散らばって、ヴェランダから庭へ降りる石段の上まで、殆ど隙間もなく彩いろどっている。石垣に沿うて、露に濡ぬれた、老緑ろうりょくの広葉を茂らせている八角全盛やつでが、所々に白い茎を、枝のある燭台しょくだいのように抽ぬき出して、白い花を咲かせている上に、薄曇の空から日光が少し漏れて、雀すずめが二三羽鳴きながら飛び交わしている。  秀麿は暫く眺めていて、両手を力なく垂れたままで、背を反そらせて伸びをして、深い息を衝いた。それから部屋に這入はいって、洗面卓たくの傍そばへ行って、雪が取って置いた湯を使って、背広の服を引っ掛けた。洋行して帰ってからは、いつも洋服を著きているのである。  そこへお母あ様が這入って来た。「きょうは日曜だから、お父う様は少しゆっくりしていらっしゃるのだが、わたしはもう御飯を戴いただくから、お前もおいででないか。」こう云って、息子の顔を横から覗のぞくように見て、詞を続けた。「ゆうべも大層遅くまで起きていましたね。いつも同じ事を言うようですが、西洋から帰ってお出いでの時は、あんなに体が好かったのに、余り勉強ばかりして、段々顔色を悪くしておしまいなのね。」 「なに。体はどうもありません。外へ出ないでいるから、日に焼けないのでしょう。」笑いながら云って、一しょに洋室を出た。  しかし奥さんにはその笑声が胸を刺すように感ぜられた。秀麿が心からでなく、人に目潰めつぶしに何か投げ附けるように笑声をあびせ掛ける習癖を、自分も意識せずに、いつの間にか養成しているのを、奥さんは本能的に知っているのである。  食事をしまって帰った時は、明方に薄曇のしていた空がすっかり晴れて、日光が色々に邪魔をする物のある秀麿の室へやを、物見高い心から、依怙地えこじに覗こうとするように、窓帷まどかけのへりや書棚のふちを彩って、卓テエブルの上に幅の広い、明るい帯をなして、インク壺つぼを光らせたり、床に敷いてある絨氈じゅうたんの空想的な花模様に、刹那せつなの性命を与えたりしている。そんな風に、日光の差し込んでいる処ところの空気は、黄いろに染まり掛かった青葉のような色をして、その中には細かい塵ちりが躍っている。  室内の温度の余り高いのを喜ばない秀麿は、煖炉のコックを三分一程閉じて、葉巻を銜くわえて、運動椅子に身を投げ掛けた。  秀麿の心理状態を簡単に説明すれば、無聊ぶりょうに苦んでいると云うより外はない。それも何事もすることの出来ない、低い刺戟に饑うえている人の感ずる退屈とは違う。内に眠っている事業に圧迫せられるような心持である。潜勢力の苦痛である。三国時代の英雄は髀ひに肉を生じたのを見て歎たんじた。それと同じように、余所目よそめには痩せて血色の悪い秀麿が、自己の力を知覚していて、脳髄が医者の謂いう無動作性萎縮いしゅくに陥いらねば好いがと憂えている。そして思量の体操をする積りで、哲学の本なんぞを読み耽ふけっているのである。お母あ様程には、秀麿の健康状態に就いて悲観していない父の子爵が、いつだったか食事の時息子を顧みて、「一肚皮いちとひ時宜じぎに合わずかな」と云って、意味ありげに笑った。秀麿は例の笑を顔に湛たたえて、「僕は不平家ではありません」と答えた。どうもお父う様はこっちが極端な自由思想をでも持っていはしないかと疑っているらしい。それは誤解である。しかしさすが男親だけにお母あ様よりは、切実に少くもこっちの心理状態の一面を解していてくれるようだと、秀麿は思った。  秀麿は父の詞ことばを一つ思い出したのが機縁になって、今一つの父の詞を思い出した。それは又或る日食事をしている時の事で「どうも人間が猿から出来たなんぞと思っていられては困るからな」と云った。秀麿はぎくりとした。秀麿だって、ヘッケルのアントロポゲニイに連署して、それを自分の告白にしても好いとは思っていない。しかしお父う様のこの詞の奥には、こっちの思想と相容あいいれない何物かが潜んでいるらしい。まさかお父う様だって、草昧そうまいの世に一国民の造った神話を、そのまま歴史だと信じてはいられまいが、うかと神話が歴史でないと云うことを言明しては、人生の重大な物の一角が崩れ始めて、船底の穴から水の這入るように物質的思想が這入って来て、船を沈没させずには置かないと思っていられるのではあるまいか。そう思って知らず識しらず、頑冥がんめいな人物や、仮面を被かむった思想家と同じ穴に陥いっていられるのではあるまいかと、秀麿は思った。  こう思うので、秀麿は父の誤解を打ち破ろうとして進むことを躊躇している。秀麿が為めには、神話が歴史でないと云うことを言明することは、良心の命ずるところである。それを言明しても、果物が堅実な核さねを蔵しているように、神話の包んでいる人生の重要な物は、保護して行かれると思っている。彼を承認して置いて、此これを維持して行くのが、学者の務つとめだと云うばかりではなく、人間の務だと思っている。  そこで秀麿は父と自分との間に、狭くて深い谷があるように感ずる。それと同時に、父が自分と話をする時、危険な物の這入っている疑のある箱の蓋ふたを、そっと開けて見ようとしては、その手を又引っ込めてしまうような態度に出るのを見て、歯痒はがゆいようにも思い、又気の毒だから、いたわって、手を出させずに置かなくてはならないようにも思う。父が箱の蓋を取って見て、白昼に鬼を見て、毒でもなんでもない物を毒だと思って怖おそれるよりは、箱の内容を疑わせて置くのが、まだしもの事かと思う。  秀麿のこう思うのも無理は無い。明敏な父の子爵は秀麿がハルナックの事を書いた手紙を見て、それに対する返信を控えて置いた後に、寝られぬ夜よなどには度々宗教問題を頭の中で繰り返して見た。そして思えば思う程、この問題は手の附けられぬものだと云う意見に傾いて、随したがってそれに手を著けるのを危険だとみるようになった。そこでとにかく倅せがれにそんな問題に深入をさせたくない。なろう事なら、倅の思想が他の方面に向くようにしたい。そう思うので、自分からは宗教問題の事などは決して言い出さない。そしてこの問題が倅の頭にどれだけの根を卸しているかとあやぶんで、窃ひそかに様子を覗うかがうようにしているのである。  秀麿と父との対話が、ヨオロッパから帰って、もう一年にもなるのに、とかく対陣している両軍が、双方から斥候せっこうを出して、その斥候が敵の影を認める度に、遠方から射撃して還かえるように、はかばかしい衝突もせぬ代りに、平和に打ち明けることもなくているのは、こう云うわけである。  秀麿の銜くわえている葉巻の白い灰が、だいぶ長くなって持っていたのが、とうとう折れて、運動椅子に倚より掛かっている秀麿のチョッキの上に、細い鱗うろこのような破片を留とめて、絨緞じゅうたんの上に落ちて砕けた。今のように何もせずにいると、秀麿はいつも内には事業の圧迫と云うような物を受け、外には家庭の空気の或る緊張を覚えて、不快である。  秀麿は「又本を読むかな」と思った。兼ねて生涯の事業にしようと企てた本国の歴史を書くことは、どうも神話と歴史との限界をはっきりさせずには手が著けられない。寧むしろ先まず神話の結成を学問上に綺麗に洗い上げて、それに伴う信仰を、教義史体にはっきり書き、その信仰を司祭的に取り扱った機関を寺院史体にはっきり書く方が好さそうだ。そうしたってプロテスタント教がその教義史と寺院史とで毀損きそんせられないと同じ事で、祖先崇拝の教義や機関も、特にそのために危害を受ける筈はずはない。これだけの事を完成するのは、極きわめて容易だと思うと、もうその平明な、小ざっぱりした記載を目の前に見るような気がする。それが済んだら、安心して歴史に取り掛られるだろう。しかしそれを敢あえてする事、その目に見えている物を手に取る事を、どうしても周囲の事情が許しそうにないと云う認識は、ベルリンでそろそろ故郷へ帰る支度に手を著け始めた頃から、段々に、或る液体の中に浮んだ一点の塵ちりを中心にして、結晶が出来て、それが大きくなるように、秀麿の意識の上に形づくられた。これが秀麿の脳髄の中に蟠結はんけつしている暗黒な塊で、秀麿の企てている事業は、この塊に礙さまたげられて、どうしても発展させるわけにいかないのである。それで秀麿は製作的方面の脈管を総て塞ふさいで、思量の体操として本だけ読んでいる。本を読み出すと、秀麿は不思議に精神をそこに集注することが出来て、事業の圧迫を感ぜず、家庭の空気の緊張をも感ぜないでいる。それで本ばかり読んでいることになるのである。 「又本を読むかな」と秀麿は思った。そして運動椅子から身を起した。  丁度その時こつこつと戸を叩いて、秀麿の返事をするのを待って、雪が這入って来た。小さい顔に、くりくりした、漆のように黒い目を光らして、小さくて鋭く高い鼻が少し仰向あおむいているのが、ひどく可哀らしい。秀麿が帰った当座、雪はまだ西洋室で用をしたことがなかったので、開けた戸を、内からしゃがんで締めて、絨緞の上に手を衝いて物を言った。秀麿は驚いて、笑顔をして西洋室での行儀を教えて遣った。なんでも一度言って聞せると、しっかり覚えて、その次の度たびからは慣れたもののようにするのである。  煖炉を背にして立って、戸口を這入った雪を見た秀麿の顔は晴やかになった。エロチックの方面の生活のまるで瞑ねむっている秀麿が、平和ではあっても陰気なこの家で、心から爽快そうかいを覚えるのは、この小さい小間使を見る時ばかりだと云っても好い位である。 「綾小路あやこうじさんがいらっしゃいました」と、雪は籠かごの中の小鳥が人を見るように、くりくりした目の瞳ひとみを秀麿の顔に向けて云った。雪は若檀那わかだんな様に物を言う機会が生ずる度に、胸の中で凱歌がいかの声が起る程、無意味に、何の欲望もなく、秀麿を崇拝しているのである。  この時雪の締めて置いた戸を、廊下の方からあらあらしく開けて、茶の天鵞絨びろうどの服を着た、秀麿と同年位の男が、駆け込むように這入って来て、いきなり雪の肩を、太った赤い手で押えた。「おい、雪。若檀那の顔ばかり見ていて、取次をするのを忘れては困るじゃないか。」  雪の顔は真っ赤になった。そして逃げるように、黙って部屋を出て行った。綾小路の方は振り返ってもみなかったのである。  秀麿の眉間みけんには、注意して見なくては見えない程の皺しわが寄ったが、それが又注意して見ても見えない程早く消えて、顔の表情は極真面目ごくまじめになっている。「君つまらない笑談じょうだんは、僕の所でだけはよしてくれ給え。」 「劈頭へきとう第一に小言を食わせるなんぞは驚いたね。気持の好い天気だぜ。君の内の親玉なんぞは、秋晴しゅうせいとかなんとか云うのだろう。尤もっともセゾンはもう冬かも知れないが、過渡時代には、冬の日になったり、秋の日になったりするのだ。きょうはまだ秋だとして置くね。どこか底の方に、ぴりっとした冬の分子が潜んでいて、夕日が沈み掛かって、かっと照るような、悲哀を帯びて爽快な処がある。まあ、年増としまの美人のようなものだね。こんな日に※(「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1-94-84)鼠もぐらもちのようになって、内に引っ込んで、本を読んでいるのは、世界は広いが、先ず君位なものだろう。それでも机の上に俯ふさっていなかっただけを、僕は褒ほめて置くね。」  秀麿は真面目ではあるが、厭いやがりもしないらしい顔をして、盛んに饒舌しゃべり立てている綾小路の様子を見ている。簡単に言えば、この男には餓鬼がき大将と云う表情がある。額際ひたいぎわから顱頂ろちょうへ掛けて、少し長めに刈った髪を真っ直に背後うしろへ向けて掻かき上げたのが、日本画にかく野猪いのししの毛のように逆立っている。細い目のちょいと下がった目尻めじりに、嘲笑ちょうしょう的な微笑を湛えて、幅広く広げた口を囲むように、左右の頬に大きい括弧かっこに似た、深い皺を寄せている。  綾小路はまだ饒舌る。「そんなに僕の顔ばかし見給うな。心中大いに僕を軽侮しているのだろう。好いじゃないか。君がロアで、僕がブッフォンか。ドイツ語でホオフナルと云うのだ。陛下の倡優しょうゆうを以もって遇する所か。」  秀麿は覚えず噴き出した。「僕がそんな侮辱的な考をするものか。」 「そんなら頭からけんつくなんぞを食わせないが好い。」 「うん。僕が悪かった。」秀麿は葉巻の箱の蓋を開けて勧めながら、独語ひとりごとのようにつぶやいた。「僕は人の空想に毒を注つぎ込むように感じるものだから。」 「それがサンチマンタルなのだよ」と云いながら、綾小路は葉巻を取った。秀麿はマッチを摩すった。 「メルシイ」と云って綾小路が吸い附けた。 「暖かい所が好かろう」と云って、秀麿は椅子を一つ煖炉の前に押し遣った。  綾小路は椅背きはいに手を掛けたが、すぐに据わらずに、あたりを見廻して、卓テエブルの上にゆうべから開けたままになっている、厚い、仮綴かりとじの洋書に目を着けた。傍かたわらには幅の広い篦へらのような形をした、鼈甲べっこうの紙切小刀かみきりこがたなが置いてある。「又何か大きな物にかじり附いているね。」こう云って秀麿の顔を見ながら、腰を卸した。      ――――――――――――――――  綾小路は学習院を秀麿と同期で通過した男である。秀麿は大学に行くのに、綾小路は画かきになると云って、溜池ためいけの洋画研究所へ通い始めた。それから秀麿がまだ文科にいるうちに、綾小路は先へ洋行して、パリイにいた。秀麿がマルセイユから上陸して、ベルリンへ行く途中で、二三日パリイに滞在していた時には、親切に世話を焼いて、シャン・ゼリゼェの散歩やら、テアアトル・フランセェとジムナアズ・ドラマチックとの芝居見物やら、時間を吝おしまずに案内をして歩いて、ベルリンへ行ってから著きる服まで誂あつらえさせてくれた。  綾小路は目と耳とばかりで生活しているような男で、芸術をさえ余り真面目には取り扱っていないが、明敏な頭脳がいつも何物にか饑うえている。それで故郷へ帰って以来引き籠り勝にしている秀麿の方からは、尋ねても行かぬのに、折々遊びに来て、秀麿の読んでいる本の話を、口ではちゃかしながら、真面目に聞いて考えても見るのである。  綾小路は卓の所へ歩いて行って、開けてある本の表紙を引っ繰り返して見た。「ジイ・フィロゾフィイ・デス・アルス・オップか。妙な標題だなあ。」  そこへ雪が橢円形だえんけいのニッケル盆に香茶こうちゃの道具を載せて持って来た。そして小さい卓を煖炉の前へ運んで、その上に盆を置いて、綾小路の方を見ぬようにしてちょいと見て、そっと部屋を出て行った。何か言われはしないだろうか。言えば又恥かしいような事を言うだろう。どんな事を言うだろう。言わせて聞いても見たいと云うような心持で雪はいたが、こん度は綾小路が黙っていた。  秀麿は伏せてあるタッスを起して茶を注いだ。そして「牛乳を入れるのだろうな」と云って、綾小路を顧みた。 「こないだのように沢山入れないでくれ給え。一体アルス・オップとはなんだい。」こう云いながら、綾小路は煖炉の前の椅子に掛けた。 「コム・シィさ。かのようにとでも云ったら好いのだろう。妙な所を押さえて、考を押し広めて行ったものだが、不思議に僕の立場そのままを説明してくれるようで、愉快でたまらないから、とうとうゆうべは三時まで読んでいた。」 「三時まで。」綾小路は目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった。「どうして、どこが君の立場そのままなのだ。」 「そう」と云って、秀麿は暫く考えていた。千ペエジ近い本を六七分通り読んだのだから、どんな風に要点を撮つまんで話したものかと考えたのである。「先ず本当だと云う詞ことばからして考えて掛からなくてはならないね。裁判所で証拠立てをして拵こしらえた判決文を事実だと云って、それを本当だとするのが、普通の意味の本当だろう。ところが、そう云う意味の事実と云うものは存在しない。事実だと云っても、人間の写象を通過した以上は、物質論者のランゲの謂いう湊合そうごうが加わっている。意識せずに詩にしている。嘘になっている。そこで今一つの意味の本当と云うものを立てなくてはならなくなる。小説は事実を本当とする意味に於おいては嘘だ。しかしこれは最初から事実がらないで、嘘と意識して作って、通用させている。そしてその中うちに性命がある。価値がある。尊い神話も同じように出来て、通用して来たのだが、あれは最初事実がっただけ違う。君のかく画も、どれ程写生したところで、実物ではない。嘘の積りでかいている。人生の性命あり、価値あるものは、皆この意識した嘘だ。第二の意味の本当はこれより外には求められない。こう云う風に本当を二つに見ることは、カントが元祖で、近頃プラグマチスムなんぞで、余程卑俗にして繰り返しているのも同じ事だ。これだけの事は一寸ちょっと云って置かなくては、話が出来ないのだがね。」 「宜よろしい。詞はどうでも好い。その位な事は僕にも分かっている。僕のかく画だって、実物ではないが、今年も展覧会で一枚売れたから、慥たしかに多少の価値がある。だから僕の画を本当だとするには、異議はない。そこでコム・シィはどうなるのだ。」 「まあ待ち給え。そこで人間のあらゆる智識、あらゆる学問の根本を調べてみるのだね。一番正確だとしてある数学方面で、点だの線だのと云うものがある。どんなに細かくぽつんと打ったって点にはならない。どんなに細くすうっと引いたって線にはならない。どんなに好く削った板の縁ふちも線にはなっていない。角かども点にはなっていない。点と線は存在しない。例の意識した嘘だ。しかし点と線があるかのように考えなくては、幾何学は成り立たない。あるかのようにだね。コム・シィだね。自然科学はどうだ。物質と云うものでからが存在はしない。物質が元子から組み立てられていると云う。その元子も存在はしない。しかし物質があって、元子から組み立ててあるかのように考えなくては、元子量の勘定が出来ないから、化学は成り立たない。精神学の方面はどうだ。自由だの、霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。その無いものを有るかのように考えなくては、倫理は成り立たない。理想と云っているものはそれだ。法律の自由意志と云うものの存在しないのも、疾とっくに分かっている。しかし自由意志があるかのように考えなくては、刑法が全部無意味になる。どんな哲学者も、近世になっては大低世界を相待そうたいに見て、絶待ぜったいの存在しないことを認めてはいるが、それでも絶待があるかのように考えている。宗教でも、もうだいぶ古くシュライエルマッヘルが神を父であるかのように考えると云っている。孔子こうしもずっと古く祭るに在いますが如くすと云っている。先祖の霊があるかのように祭るのだ。そうして見ると、人間の智識、学問はさて置き、宗教でもなんでも、その根本を調べて見ると、事実として証拠立てられない或る物を建立こんりゅうしている。即ちかのようにが土台に横よこたわっているのだね。」 「まあ一寸待ってくれ給え。君は僕の事を饒舌しゃべる饒舌ると云うが、君が饒舌り出して来ると、駆足になるから、附いて行かれない。その、かのようにと云う怪物の正体も、少し見え掛っては来たが、まあ、茶でももう一杯飲んで考えて見なくては、はっきりしないね。」 「もうぬるくなっただろう。」 「なに。好いよ。雪と云う、証拠立てられる事実が間へ這入はいって来ると、考えがこんがらかって来るからね。そうすると、つまり事実と事実がごろごろ転がっていてもしようがない。それを結び附けて考えようとすると、厭いやでも或る物を土台にしなくてはならない。その土台が例のかのようにだと云うのだね。宜しい。ところが、僕はそんな怪物の事は考えずに置く。考えても言わずに置く。」綾小路は生温なまぬるい香茶をぐっと飲んで、決然と言い放った。  秀麿は顔を蹙しかめた。「それは僕も言わずにいる。しかし君は画だけかいて、言わずにいられようが、僕は言う為めに学問をしたのだ。考えずには無論いられない。考えてそれを真直ぐに言わずにいるには、黙ってしまうか、別に嘘を拵こしらえて言わなくてはならない。それでは僕の立場がなくなってしまうのだ。」 「しかしね、君、その君が言う為めに学問したと云うのは、歴史を書くことだろう。僕が画をかくように、怪物が土台になっていても好いから、構わずにずんずん書けば好いじゃないか。」 「そうはいかないよ。書き始めるには、どうしても神話を別にしなくてはならないのだ。別にすると、なぜ別にする、なぜごちゃごちゃにして置かないかと云う疑問が起る。どうしても歴史は、画のように一刹那を捉とらえて遣っているわけにはいかないのだ。」 「それでは僕のかく画には怪物が隠れているから好い。君の書く歴史には怪物が現れて来るからいけないと云うのだね。」 「まあ、そうだ。」 「意気地がないねえ。現れたら、どうなるのだ。」 「危険思想だと云われる。それも世間がかれこれ云うだけなら、奮闘もしよう。第一父が承知しないだろうと思うのだ。」 「いよいよ意気地がないねえ。そんな葛藤かっとうなら、僕はもう疾とっくに解決してしまっている。僕は画かきになる時、親爺おやじが見限ってしまって、現に高等遊民として取扱っているのだ。君は歴史家になると云うのをお父うさんが喜んで承知した。そこで大学も卒業した。洋行も僕のように無理をしないで、気楽にした。君は今まで葛藤の繰延くりのべをしていたのだ。僕の五六年前に解決した事を、君は今解決して、好きなように歴史を書くが好いじゃないか。已やむを得んじゃないか。」 「しかし僕はそんな葛藤を起さずに遣っていかれる筈だと思っている。平和な解決がつい目の前に見えている。手に取られるように見えている。それを下手へたに手に取ろうとして失敗をすることなんぞは、避けたいと思っている。それでぐずぐずしていて、君にまで意気地がないと云われるのだ。」秀麿は溜息ためいきを衝いた。 「ふん、どうしてお父うさんを納得させようと云うのだ。」 「僕の思想が危険思想でもなんでもないと云うことを言って聞せさえすれば好いのだが。」 「どう言って聞せるね。僕がお父うさんだと思って、そこで一つ言って見給え。」 「困るなあ」と云って、秀麿は立って、室内をあちこち歩き出した。  ※(「日/(「咎」の「人」に代えて「卜」)」、第3水準1-85-32)ひかげはもうヴェランダの檐のきを越して、屋根の上に移ってしまった。真まっ蒼さおに澄み切った、まだ秋らしい空の色がヴェランダの硝子戸を青玉せいぎょくのように染めたのが、窓越しに少し翳かすんで見えている。山の手の日曜日の寂しさが、だいぶ広いこの邸やしきの庭に、田舎の別荘めいた感じを与える。突然自動車が一台煉瓦塀れんがべいの外をけたたましく過ぎて、跡は又元の寂しさに戻った。  秀麿は語を続ついだ。「まあ、こうだ。君がさっきから怪物々々と云っている、その、かのようにだがね。あれは決して怪物ではない。かのようにがなくては、学問もなければ、芸術もない、宗教もない。人生のあらゆる価値のあるものは、かのようにを中心にしている。昔の人が人格のある単数の神や、複数の神の存在を信じて、その前に頭を屈かがめたように、僕はかのようにの前に敬虔けいけんに頭を屈める。その尊敬の情は熱烈ではないが、澄み切った、純潔な感情なのだ。道徳だってそうだ。義務が事実として証拠立てられるものでないと云うことだけ分かって、怪物扱い、幽霊扱いにするイブセンの芝居なんぞを見る度に、僕は憤懣ふんまんに堪えない。破壊は免るべからざる破壊かも知れない。しかしその跡には果してなんにもないのか。手に取られない、微かすかなような外観のものではあるが、底にはかのようにが儼乎げんことして存立している。人間は飽くまでも義務があるかのように行わなくてはならない。僕はそう行って行く積りだ。人間が猿から出来たと云うのは、あれは事実問題で、事実として証明しようと掛かっているのだから、ヒポテジスであって、かのようにではないが、進化の根本思想はやはりかのようにだ。生類は進化するかのようにしか考えられない。僕は人間の前途に光明を見て進んで行く。祖先の霊があるかのように背後うしろを顧みて、祖先崇拝をして、義務があるかのように、徳義の道を踏んで、前途に光明を見て進んで行く。そうして見れば、僕は事実上極蒙昧ごくもうまいなな、極従順な、山の中の百姓と、なんの択えらぶ所もない。只頭がぼんやりしていないだけだ。極頑固な、極篤実な、敬神家や道学先生と、なんの択ぶところもない。只頭がごつごつしていないだけだ。ねえ、君、この位安全な、危険でない思想はないじゃないか。神が事実でない。義務が事実でない。これはどうしても今日になって認めずにはいられないが、それを認めたのを手柄にして、神を涜けがす。義務を蹂躙じゅうりんする。そこに危険は始て生じる。行為は勿論もちろん、思想まで、そう云う危険な事は十分撲滅しようとするが好い。しかしそんな奴の出て来たのを見て、天国を信ずる昔に戻そう、地球が動かずにいて、太陽が巡回していると思う昔に戻そうとしたって、それは不可能だ。そうするには大学も何も潰つぶしてしまって、世間をくら闇にしなくてはならない。黔首けんしゅを愚ぐにしなくてはならない。それは不可能だ。どうしても、かのようにを尊敬する、僕の立場より外に、立場はない。」  これまで例の口の端はたの括弧かっこを二重三重ふたえみえにして、妙な微笑を顔に湛たたえて、葉巻の烟けむりを吹きながら聞いていた綾小路は、煙草の灰を灰皿に叩き落して、身を起しながら、「駄目だ」と、簡単に一言云って、煖炉を背にして立った。そしてめまぐろしく歩き廻りながら饒舌っている秀麿を、冷やかに見ている。  秀麿は綾小路の正面に立ち止まって相手の顔を見詰めた。蒼い顔の目の縁がぽっと赤くなって、その目の奥にはファナチスムの火に似た、一種の光がある。「なぜ。なぜ駄目だ。」 「なぜって知れているじゃないか。人に君のような考になれと云ったって、誰がなるものか。百姓はシの字を書いた三角の物を額へ当てて、先祖の幽霊が盆にのこのこ歩いて来ると思っている。道学先生は義務の発電所のようなものが、天の上かどこかにあって、自分の教おすわった師匠がその電気を取り続ついで、自分に掛けてくれて、そのお蔭かげで自分が生涯ぴりぴりと動いているように思っている。みんな手応てごたえのあるものを向うに見ているから、崇拝も出来れば、遵奉じゅんぽうも出来るのだ。人に僕のかいた裸体画を一枚遣って、女房を持たずにいろ、けしからん所へ往いかずにいろ、これを生きた女であるかのように思えと云ったって、聴くものか。君のかのようにはそれだ。」 「そんなら君はどうしている。幽霊がのこのこ歩いて来ると思うのか。電気を掛けられていると思うのか。」 「そんな事はない。」 「そんならどう思う。」 「どうも思わずにいる。」 「思わずにいられるか。」 「そうさね。まるで思わない事もない。しかしなるたけ思わないようにしている。極きめずに置く。画をかくには極めなくても好いからね。」 「そんなら君が仮に僕の地位に立って、歴史を書かなくてはならないとなったら、どうする。」 「僕は歴史を書かなくてはならないような地位には立たない。御免を蒙こうむる。」綾小路の顔からは微笑の影がいつか消えて、平気な、殆ほとんど不愛想な表情になっている。  秀麿は気抜けがしたように、両手を力なく垂れて、こん度は自分が寂しく微笑ほほえんだ。「そうだね。てんでに自分の職業を遣って、そんな問題はそっとして置くのだろう。僕は職業の選びようが悪かった。ぼんやりして遣ったり、嘘を衝いてやれば造做ぞうさはないが、正直に、真面目に遣ろうとすると、八方塞ふさがりになる職業を、僕は不幸にして選んだのだ。」  綾小路の目は一刹那せつな鋼鉄の様に光った。「八方塞がりになったら、突貫して行く積りで、なぜ遣らない。」  秀麿は又目の縁を赤くした。そして殆ど大人の前に出た子供のような口吻こうふんで、声低く云った。「所詮しょせん父と妥協して遣る望はあるまいかね。」 「駄目、駄目」と綾小路は云った。  綾小路は背をあぶるように、煖炉に太った体を近づけて、両手を腰のうしろに廻して、少し前屈みになって立ち、秀麿はその二三歩前に、痩せた、しなやかな体を、まだこれから延びようとする今年竹ことしだけのように、真っ直にして立ち、二人は目と目を見合わせて、良やや久しく黙っている。山の手の日曜日の寂しさが、二人の周囲を依然支配している。 底本:「阿部一族・舞姫」新潮文庫、新潮社    1968(昭和43)年4月20日発行    1985(昭和60)年5月20日36刷改版 入力:高橋真也 校正:湯地光弘 1999年9月23日公開 2006年4月27日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。

アーレントとカール・シュミット(再掲)

アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。

セブンイレブンで売ってるコーヒー

結論から言えば、 タリーズの缶コーヒーが 一番まとも。 美味しいではなく、まとも というところが微妙だけど、 セブンイレブンの紙パックの プライベートブランドのコーヒーとかも 飲んだけど、 ちょっと カフェインがエグい。 他のメーカーのも 似たり寄ったり。 味は悪くなくても、 カフェインがエグい。 その点から見ると、 タリーズの缶コーヒーは それほど 美味いとも思わないし、 若干高いけど、 カフェインがエグくない。 やっぱり値段が張るだけのことはある。 まえは、 COSTAの無糖ブラック売ってたけど、 なぜか消えた。 アマゾンで買おうかと思ったけど、 あまりに 高くてやめた。 おーいお茶ならまだ買えるが、 コーヒーは 総じて 割高感が否めない。

愚かな

黒田総裁は 来年4月の任期満了まで 持たないだろうね。 このまま 円安が加速すれば、 中小企業が 潰れ始めて、 世論が黙ってない。 海外勢も 国債の先物売りを強めてるらしいし、 それを 指し値オペで 抑え続けるのも、 限界がある。 1年かそこらのうちに、 日本経済はとんでもない危機に 見舞われる可能性がある。 https://news.yahoo.co.jp/articles/e5b3dd429883e2ae4a6042bb7f5c25e513e98b03?page=2

クグプチャ プルロッソヨ。

ちょっとこの二ヶ月ばかり 根を詰めすぎたせいか、 頭がクラクラして、 両親ともに 脳疾患を患ってるから、 一応救急車を呼んで、 MRI撮ってもらいました。 どこも異常がなく、 ホッと安堵。 高崎は 医療が充実していて、助かる。 医者も、 神経だろうと仰ってました。

2022年9月9日金曜日

カール・シュミットの政治理論(再掲)

人間は人間を赦し得る、と言いながら、カール・シュミットの友・敵理論を紹介するのは矛盾するように見えるけど、山岡先生が強調するのは、カール・シュミットにおいては、結合の強度の問題で、それは敵の存在によって強くはなるものの、問題はどこまでも(結合の)強度の問題で、敵のことを嫌いだとか好きだとか、経済的な利害関係の問題ではない、と仰っていました。 それどころか、カール・シュミットは、私仇と公敵を区別し、公敵は尊敬さえもしなければならない、と論じているそうです。 その含意は、世界から完全に敵対関係が無くなることはあり得ない、むしろ、無理に無くそうとすれば、新たな暴力を生む、ということでした。

カール・シュミットと「例外状態」(再掲)

カール・シュミットは、かなりラディカルな理論家で、ワイマール共和国に対する痛烈な批判という形で理論を構築したんだけど、現代の日本人が想像するような「政治」というのは、政治ではないと論じる。 端的に、戦争という「例外状態」において、民主主義の本質が現れる、と論じた。 と、まあ後はマカマサ先生の本でも読んでいただくとして、でも、原理的にそういう側面は確かにあるよね、と思いつつ、現実の政治は多元的な政治団体の利害調整の場だったり、まずは当選しないことには話にならない政治家としての宿命が産み出した利権構造だったりってのも、無視できないよね、てのはある。 ただ、国家と社会が互いに浸透しあって、国家の本質が見えずらくなってるのも、現代日本社会の特質とも言えるだろう。 そういう時に、カール・シュミットの、友・敵理論、つまり、政治的(あるいは文化的)多元主義なんていう生ぬるい観念はかなぐり棄てて、国家が生きるか死ぬかのある種の限界状態においてこそ、国家、あるいは民主主義の本質が現れる、という理屈は、閉塞感ただよう現代日本において、響くものがある。

拒否的抑止(再掲)

こういう考え方があるということは知っておこう。 https://www.nikkei4946.com/knowledgebank/today/detail.aspx?value=3621 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA2916Q0Z21C21A1000000/

経済教室ー歴史に学ぶ(再掲)

8月5日のデール・コープランド、バージニア大学教授の寄稿と、今日8月15日の牧野邦昭慶応大学教授の寄稿をざっくりまとめてみると、現在の中国は、貿易依存度が高いという点で、1930年代の日本に似ており、下手に貿易面での過度の制裁を加えると、戦前の日本のように暴走する可能性があるので、中国を追い詰めすぎるのは得策ではないこと、中国が台湾侵攻を自重しているのは、もしそれをすればアメリカを中心とした経済圏から締め付けを喰らうことを意識しているからだ、とのこと。 寄稿とは別の話だけど、アメリカからすれば、日本と韓国が協働して対中国で結束してくれないと困るって発想だったらしいけど、どうも無理っぽいよね。 最近のアメリカの台湾への接近を見ると、もう、日韓はアテにしてらんねーってことなんかな?

あぶないあぶない

https://bunshun.jp/articles/-/57150 https://news.yahoo.co.jp/articles/bb67c8dcf9f9cb44e5beb634a5bae2f680b622c5 台湾有事をテコにして 総理3選を目指してたのか。 恐ろしい野郎だな。 完全に独裁者の発想じゃねーか。 そら、 台湾有事は 中国の一存だから論理がおかしい、 と言われそうだが、 日本が ”ファイティングポーズ” を取ること自体が、 中国に対するメッセージに なる、ということを考えれば、 安倍が生きていたら、 ほんとに大変なことになっていたかも知れない。 最近、中国の景気減速もあってか、 中国脅威論が少し弱くなった気がするが、 中国の軍事行動なんて、 ほとんど政府が情報握ってんだから、 マスコミが騒ぐも騒がないも、 政府次第って側面はあるだろう。 それに、 国内の景気が振るわずに、 人々のマインドが沈んでいる時ほど、 為政者は 対外強硬路線に走るのは、 歴史の法則と言っても過言ではない。 それは、 カール・シュミットの友/敵 理論によれば、 公敵を設定することで、 国家の本質が明らかになり、 人びとが一致団結するからだ。 為政者がそういう状態を望むのは当然のことだ。 奇しくも、 英国のエリザベス女王が逝去されたところ、 欧米各国首脳の対応が 安倍の国葬に対する対応と、 どのような対比を浮き彫りにするのか、 注目せざるを得ない。 それによって 世論がどう動くかも 目が離せない。 ほとんど予測不能だろうが、 岸田政権に ポジティブに働くシナリオは 想像しづらい。

期待しとるでー

https://www.joqr.co.jp/qr/article/64480/ 辻「きのうは呉念庭がやりましたけど、平沼も(一軍に)来てね。平沼も下に落ちるまでは非常に活躍していて。それから足を痛めましたけど、成長してきているのでね。楽しみにしています、状況に応じての起用ではありますけど」

ちょっと待て。

確かに、自分の今の暮らし様 を見れば、 いいわね、王侯貴族のような生活してて、 と言いたくなるのはわかる。 だが、 結論から言えば、 人間そんな簡単に 精神病んだりしねえよ。 しかも 障害年金もらえるレベルで。 人生の大半を どれだけ ヘドロまみれの ぐっちゃぐちゃで ドロドロした 世界で、 コイが水面をアップアップするようにしながら 生きてきたと思ってんだ。 言いたかないけど。 かといって、 そんなこと強調したって、 みじめでみっともないだけだろ。 だから言わないだけだ。 もう一度言うが、 人間そんな簡単に 精神病んだりしねえ。 ちょっとは想像力を働かせろ。

2022年9月8日木曜日

そこからっすか?!

今日、高崎市の サポートセンターの方に来ていただいて、 必要な書類に サインとハンコしたんだけど、 障害者の就労移行支援事業所なるものを紹介されて、 たまたま近くだったから、 面談が終わってから、 さっそく そこに行って、話をうかがってきたんだけど、 2年が期限で、 基本的にその期間が終了したら、 働くことが大前提らしい。 で、 基本的に 障害者雇用ってことらしい。 まあ、 働くとっかかりを築くのは大事だし、 サポートセンターの方は そういう支援をするのが仕事だから、 文句を言うつもりはないんだが、 正直、 ここまで頑張って、 そっからっすか?! という感は拭えない。 また1から振り出しは 正直シンドイ。

経常収支よもやま話(再掲)

ただでさえ安い円が、さらに安くなる可能性があるとのこと。 日本の経常収支は、かつては貿易黒字と第一次所得収支の黒字が双璧だったが、いまは第一次所得収支のみが頼り。 しかも、その第一次所得収支も、海外展開した企業が利子や配当として得た資金(ドルなど)は、統計上円に換算されるため、一見日本に富が還元されているように見えるが、実際には円には替えず、外貨で保有したままなので、実需の円買いにはならないため、円安是正には寄与しない。 しかも、海外展開した企業は、海外で得た資金を、日本には還流せず、再び海外市場へ投入するため、実需の円買いには繋がらない。 統計上は、第一次所得収支は経常収支に計上されるってことになってるけど、実質民間の貯蓄になってないなら、日本政府の赤字は、どうやってファイナンスしてるんだろう? 経常収支が黒字であればこそ、政府の赤字を国内の資金で補えるが、それが見かけだけのものならば、理屈でいえば海外からの資金に国債発行の原資をアテにしなければならないはず。 財政赤字に加え、経常収支まで赤字になったら、海外からの資金を呼び込むために、金利を上げる必要があるはずだが。 国際収支統計では、経常収支、資本収支、外貨準備増減の和はゼロとなるため、外貨準備増減を捨象して考えれば、経常収支が赤字となると資本収支が黒字となる。これは、経常収支が赤字の状況では、財政や民間投資等の資金需要を確保するためには、海外からの資金が流入超過になることを意味している。民間部門の貯蓄の黒字幅が縮小する一方、政府部門の赤字幅は縮小しない場合、その赤字のファイナンスを海外の資金に頼る必要が出てくるということである。 (リンクの内閣府のペーパーより) https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html

円安は是か非か(再掲)

質問:2022年6月28日付け日経新聞朝刊に、 「家計資産、脱『預金』の兆し」と題して、 末尾に、 「いくら運用手段を充実させても、 企業の競争力が海外より劣っていれば家計の資金が海外に逃避する『キャピタルフライト』を招いて国力低下につながる。 (以下略)」 としてありましたが、 このような家計部門の海外への移転は、 経常収支の統計上どのように現れるのでしょうか? 回答:国連にあわせて、2014年に国際収支関連統計の大幅改訂がありましたので、統計上の扱いが大きく変わりました。 それ以前は、海外の国債や株式を買うと、日本のお金が出ていくから資本収支赤字とされ、お金が逃げていく「キャピタルフライト」のイメージでした。 でも、海外の国債や株式を買うのは、今後利子配当が期待できる金融資産が増えたことを意味しますので、いまは金融収支で「黒字」とされています。 海外での資産運用は、キャピタルフライトではなく、今後の収入を保証してくれる金融収支黒字要素と扱われています。 成長する海外企業に投資するのは良いことです。 https://news.goo.ne.jp/article/tbs/business/tbs-146609.html https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220908/k10013808631000.html

おっしゃー!いただきやまー!!!

申し込んだ面接授業、6個中優先順位上位5個当選したー!!!

2022年9月7日水曜日

チャンス到来

https://news.yahoo.co.jp/articles/6662fb60a3b0ad2a23b10d8b80d3223e9df290db 平沼が4番エースとしてセンバツを制したのが 2015年。 俺が放送大学 始めたのも、 確か 2015年。 シーズン終盤の大事な大事な一戦。 光るものを見せて欲しい! 辻監督 ぜったい 平沼好きだから、 チャンスを生かして 来期は 年齢的にも レギュラーを獲得して欲しい!

アドセンス削除した

信用性があるサイトだという 証拠になるから、と思って 広告載っけてたけど、 鬱陶しいから消した。 カネにもならないし。 ガチ0円。

2022年9月6日火曜日

「先生、どうか皆の前でほめないで下さい。ーいい子症候群の若者たち」東洋経済新報社

金間大介さんという方の本で、 スマホいじってると、 たまに 内容の一部が紹介されたりしていて、 文章がこなれてるし、 暇だったから、 ちょっくら読んでみるか、 てことで、 Kindleで買って 読んでます。 6割読んだ。 学術書とまでは言えないが、 説得力はある。 そうか、要するに、 今どきの若者は、 横並びで居たいのか。 納得。 そら、 いまの若い大学生が 議論なんかするはずねーわな。 SFCに限った話ではない。 そこそこ有益な情報(あるいは見方)を得られたし、 暇つぶしにはなった。 ただ、Kindleでも 1500円近くするのは、 ちょっと高いかな。 ・・・全部読んだ。 文章も軽妙だし、 特に読んでいてつまんない、 ということはなかった。 著者はもともと 理系なので、 データに基づいて分析する のが得意のようで、 その限りでの語り は説得力があるし、 ありがちな 「オジサンのため息感」 とは距離を置いていると言っていい。 しかし、 社会学的に あと1歩2歩 深堀り出来る余地もあるような気がした。 それだったら、 1500円も決して高くないし、 古典として読みつがれるだろう。 とにかく、 総じて内容は 読みやすく、肩もこらず、 暇つぶしには最適の本だった。 補足になるが、 執筆者のことを知らなくても、 出版社で買うかどうか決める ってパターンもあるよね。 今回は、 出版元が 東洋経済新報社ということで、 買う気になった、 と言っても過言ではない。 実際、仮に著者が同じでも、 出版元が違えば、 内容はだいぶ変わってくる。 それは、編集者のクオリティー、あるいは嗜好が変わってくるからだ。

歯科医院

母親の通院の付き添いがてら、 自分も月イチで 歯科医院行くんだけど、 毎回毎回 なんか チクチク いちゃもんつけられると、 ボティーブローのように 神経にこたえるね。 今日は、 舌は 上の口蓋にくっついてるのが 正しい、 俺の舌はずっと垂れ下がっているから、 肥大して上の口蓋のなかに収まらない、 と言われて、 知らねーよそんなん・・・ て感じでした。 なんか 今までの人生をちょっとずつ 否定されてるようで、 だんだん 疲れてくるね。

意味わかんない

安倍ちゃんの国葬が 16億かかるってのも 意味わかんないけど、 (どうせ、後から実はもっとかかってましたってのがオチだろ?) トランプに 買わされた 中古の戦闘機、 1兆円!!!!!! あれ、 どっからカネ出したわけ??? マジ意味わかんないんだけど。 それと、 イバンカにもポーンと 50億ぐらい あげてたよね? ほんと国民から搾り取った 血税をなんだと思ってんの?

2022年9月5日月曜日

旧日本軍といっしょ

2年でベースマネー2倍にして、 期待インフレ率2% を達成させる、 と息巻いた 黒田日銀総裁だったが、 いまや その姿は 勝てないとわかっていながら、 短期決戦で 和平交渉 に持ち込む算段 だった 旧日本軍と重なって見える。 大規模な金融緩和が、 実は 日銀を政府の打ち出の小槌にする政策であることに 漬け込まれて、 漫然と国債発行残高を増嵩させ、 安倍が死んだ後でも、 YCCを止めると宣言することも出来ない 元エリート官僚特有の フニャチンぶり。 これはもう国民性の問題だな。

M・C

元ナントカ坂の 平手さんとやら、 早く中二病なおせ! てめーだけが 正義だと思ってんじゃねえ。 周りが持ち上げてくれるうちはいいが、 トシくって 誰も相手にしてくれないのに、 独りでキレてる オバサンなんか、 どれほど みっともなくて 惨めか、 想像してみろ。 早く中二病なおさないと、 ロクな 人生待ってないぞ。 男は理論武装して、 サークルの マイ・コメヂアンになれるが、 芸能界くずれの コジラセ女は せいぜい 場末のスナックの チーママぐらいにしかなれないぞ。 それが世の中ってもんだ。 M・Cといえば、 マイ・コメヂアンもそうだが、 奇遇にもMr. ChildrenもM・Cだな。 あれは 太宰治も真っ青の ぶっ飛んだ 理論武装をして、 信じがたいほどの信者数を誇る サークル (と、いうか教団)の M・Cだな。 地の塩 世の光 って言葉があるだろ? 社会的アイコンだけが 世の中動かしてるんじゃねえんだよ。 勘違いするな! https://www.youtube.com/watch?v=Gr_X-WccMnc

うぃすきー いん ざ じゃうあー

水割りうめえ。
https://www.youtube.com/watch?v=boanuwUMNNQ

2022年9月4日日曜日

メモ(再掲)ーアーレントとカール・シュミット

アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。

デモクラシーとリベラリズム(再掲)

では、なぜシュミットはナチスの御用学者という隘路に陥ってしまったかというと、民族の同一性にこだわり過ぎたからだと。 同一性を強調するのがデモクラシーだが、差異を重視するのが、リベラリズムだそうです。 政治的、文化的多元主義というのは語義上リベラリズムだが、それは決められない政治にも繋がる。 しかし、少なくとも民主主義社会において決断をするには、国民からの支持が必要だが、それは同一性を強要し、多様な差異を隠蔽することにも繋がる。

カール・シュミットの政治理論(再掲)

人間は人間を赦し得る、と言いながら、カール・シュミットの友・敵理論を紹介するのは矛盾するように見えるけど、山岡先生が強調するのは、カール・シュミットにおいては、結合の強度の問題で、それは敵の存在によって強くはなるものの、問題はどこまでも(結合の)強度の問題で、敵のことを嫌いだとか好きだとか、経済的な利害関係の問題ではない、と仰っていました。 それどころか、カール・シュミットは、私仇と公敵を区別し、公敵は尊敬さえもしなければならない、と論じているそうです。 その含意は、世界から完全に敵対関係が無くなることはあり得ない、むしろ、無理に無くそうとすれば、新たな暴力を生む、ということでした。

カール・シュミットと「例外状態」(再掲)

カール・シュミットは、かなりラディカルな理論家で、ワイマール共和国に対する痛烈な批判という形で理論を構築したんだけど、現代の日本人が想像するような「政治」というのは、政治ではないと論じる。 端的に、戦争という「例外状態」において、民主主義の本質が現れる、と論じた。 と、まあ後はマカマサ先生の本でも読んでいただくとして、でも、原理的にそういう側面は確かにあるよね、と思いつつ、現実の政治は多元的な政治団体の利害調整の場だったり、まずは当選しないことには話にならない政治家としての宿命が産み出した利権構造だったりってのも、無視できないよね、てのはある。 ただ、国家と社会が互いに浸透しあって、国家の本質が見えずらくなってるのも、現代日本社会の特質とも言えるだろう。 そういう時に、カール・シュミットの、友・敵理論、つまり、政治的(あるいは文化的)多元主義なんていう生ぬるい観念はかなぐり棄てて、国家が生きるか死ぬかのある種の限界状態においてこそ、国家、あるいは民主主義の本質が現れる、という理屈は、閉塞感ただよう現代日本において、響くものがある。

2022年9月2日金曜日

アメリカの芸術と文化

一度すべて視聴していたのですが、 「現代の国際政治」を 科目登録するにあたり、 戦後の世界を理解するのに 資するのではないか、 と思い、 あらためて科目登録しました。 いま第一回の授業を視聴しましたが、 狙い通りです。 「現代の国際政治」を すべて視聴したあとで、 この「アメリカの芸術と文化」の 放送授業をあらためて視聴すると、 国際政治学という骨組みに、 文化という面からの 肉付けができるように思います。 いやー、放送大学すばらしい! https://i0.wp.com/jojo-fan.com/wp-content/uploads/2014/04/2b5cdf3db923205e3d064f0fcda5c72a.jpg?ssl=1

拒否的抑止

こういう考え方があるということは知っておこう。 https://www.nikkei4946.com/knowledgebank/today/detail.aspx?value=3621 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA2916Q0Z21C21A1000000/

解放感

https://www.youtube.com/watch?v=UuUTGvXNKJg

大満足

「現代の国際政治」全15回 2日で すべて 視聴しました。 1学期の単位認定試験を 受けて、 あらためて 自分は戦後のことについて 何も知らないな、 と 思って 科目登録したんですが、 すべて 視聴して、 質・量ともに 申し分ない 素晴らしい内容でした。 そうか、こうやって見ればいいのか! と、 気づきがたくさん得られました。 不透明な時代だからこそ、 一人でも 多くの人に この科目を視聴して欲しい、 と思いました。

2022年9月1日木曜日

旬報社(再掲)ーポスト黒田の金融政策

もし、日銀が目的としている2%の物価上昇が実現した場合、国債の発行金利が2%以上になるか、利回りが最低でも2%以上になるまで市場価格が下がります。なぜなら、実質金利(名目利子率-期待インフレ率)がマイナスの(つまり保有していると損をする)金融商品を買う投資家はいないからです。国債(10年物)の利回りは0.1%程度(2018年11月現在)ですが、それが2.1%に上昇した場合、何が起こるでしょうか。政府の国債発行コストが跳ね上がるのはもちろんですが、より重要なことは、国債価格が暴落し、国債を大量に保有している銀行に莫大な評価損が出ることです。 経済の論点 旬報社 72ページより

危機の二十年(再掲)ー安倍なき後の政治経済

「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」 E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より https://news.yahoo.co.jp/articles/905808946c7b77a63d0dbc95aab94d61d613509d?page=1 https://news.yahoo.co.jp/articles/d66f0ad551e89bd3dbfa502f9d0f6c82d12ee28c?page=1

妄想卒論その7 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」 を 合言葉に 米国で 反格差のデモが広がったのは 2011年。 怒りが新興国に伝播し、 米国では 富の集中がさらに進んだ。 米国の 所得10%の人々が得た 所得は 21年に全体の46%に達した。 40年で11ポイント高まり、 ...