2022年5月2日月曜日

道徳感情論(アダム・スミス)

うちのねーちゃんは、基本的に自分が損してないかどうかに過敏だけど、つねに自分が損したくないだけ戦略を、他人に見透かされたら、世間からどんな扱いを受けるか、というのは想像に難くないですよね。だから、色んなコミュニティに入ってはみるものの、いつも本性を見抜かれて、結局は排除される。こう考えると、世間と関わるには、独善的な姿勢だけでは上手くいかないことが見て取れる。仮に本心ではなくとも、利他的な行動を取ることも必要だし、世間から愛されたいと思われれば、それなりの自己犠牲だって必要だ。アダム・スミスは、確かに人々が自分の利益を追求することが、社会全体の富を増大させるとは書いているが、むしろ強調しているのは、社会で成功しようと思うならば、他人から憎まれることを避け、愛されることを望むことが必要と説いている。そういう感情、心性が、健全な社会を発展させると説いたのだ。そうであるならば、なぜ経済のグローバル化は、人間の疎外を生み出したのであろうか?人間は、地縁や血縁で結ばれていた社会には、お互いの信用度合いを肌感覚で知っていた。あいつは信用できる、信用できない、等。しかし、経済規模が拡大するにつれ、お互いの信用度合いを肌感覚で知ることは不可能になり、社会的地位や肩書で、信用度合いを判断するようになる。この傾向が更に進むと、人間の信用度合いを、複雑な数理モデルに基づいて数値化するようになる。(井上俊)そこにはもはや肌感覚の信用度合いというものは存在しない。現代の市場型間接金融においては、人間の信用度合いをスコア化して、地球規模の資本市場へアクセスする機会を提供している。そこでは、もはや社会的地位や肩書すらも、信用に足るものではない。単純に、マネーゲームに勝てるかどうかだけが、その人の価値の判断基準となる。これは、世界恐慌直前の戦間期に、ジョン・デューイが、「貨幣文化」と名付け、個性の喪失を嘆いた状況と軌を一にする。なぜなら、この段階ではもはや、その人が社会において愛されるべき存在であるかどうかなど、関係がなくなっているからだ。

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