2022年3月6日日曜日
断想の為の補論
アドルノは、理性の暴力性が、主体性の原史に既に刻印されている、と見るわけだけど、カントは、議論を、空間と時間から始める時に、この二つは現存在が感じられる限りのものとして、ア・プリオリに感じるものだ、としている。むしろ、人間の理性が、感性と悟性で認識できる、その裏側のいわば現代風に言えばデフォルトとしての「物自体」、つまり神には、人間は手出しをできないはずだ、という論法を採っている。
アドルノは、主体性を放棄することの危険性を繰り返し論じるわけだが、同時に理性は主体性に最初から刻印されていると見るわけだけだから、結局は、理性とは主体性の問題ということになる。
カントは、時間と空間は、人間が現存在としてある意味無条件に感じられるもので、人間が悟性を働かせることで超越論的に理性的統一、つまり超越論的統覚に至ると論じる上で、むしろその裏側のデフォルトな部分を論じるところにキモがある。
しかし、カントにしても、理性は当然に主体性と不可分のものとして論じられていることは、論をまたない。
カントは、主体性としての理性は当然のものとして論じているわけだが、アドルノは、むしろ、現代人は下手をすると理性の主体としての主体性それ自体を放棄してしまうことがあることの危険性に対して、警鐘を鳴らしている。
アドルノは、理性の裏側のいわばデフォルトな部分はタッチしてなくて、理性が暴力的にあらゆるものを計量的に測定可能な対象へと解消してしまうことを論じている。
漱石の「それから」における代助は、百合の香りの中に自己を全的に放擲し、理性そのものから逃れようと試みた時点で、やはりアドルノの圏域にいると見ていいだろう。
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